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「鹿下絵新古今和歌巻」逍遥(その十二) [光悦・宗達・素庵]

その十二 藤原基俊

鹿下絵六の三の一.jpg
「鹿下絵新古今和歌巻(全体図の六「曽根好忠・相模・藤原基俊」)」(『書道芸術第十八巻本阿弥光悦(中田勇次郎責任編集)』)

鹿和歌巻・藤原基俊.jpg
「鹿下絵新古今集和歌巻断簡(藤原基俊)」(画)俵屋宗達(書)本阿弥光悦 (MOA美術館蔵)
http://www.moaart.or.jp/?collections=047

【作者:(画)俵屋宗達 (書)本阿弥光悦  時代 桃山~江戸時代(17世紀) 素材・技法 紙本金銀泥下絵・墨書 一幅  サイズ  34.1×75.5㎝
さまざまな姿態や動作を見せる鹿の群像を俵屋宗達が金銀泥で描いた料紙に、本阿弥光悦(1558~1638)が『新古今和歌集』の和歌二十八首を選んで書いた「鹿下絵和歌巻」の断簡である。もとは一巻の巻子本で、第二次大戦後二巻と数幅に分割された。鹿のみの単一な題材をフルに生かした表現法には宗達ならではの技量が感じられる。下絵に見事に調和した光悦の装飾的な書の趣致には、他の追随を許さない斬新さが窺える。現在、シアトル美術館に所蔵されている後半部の一巻の巻末に「徳友斎光悦」の款記と「伊年」の朱文円印が見られる。「徳友斎」の号は、光悦が鷹峯に移る以前に主として使用していたものと考えられている。 】

12 藤原基俊:たかまどのゝぢのしのはらすゑさはぎそゝや木枯け吹きぬ也(MOA美術館蔵)

(周辺メモ・釈文など)

法性寺入道前関白太政大臣家の哥合尓 野風 → 藤原忠通家の歌合に 野風(題)
婦知ハら能基俊              → 藤原基俊
た可まど能々知濃し乃ハら須ゑ左ハ幾 → 高円の野路の篠原末騒ぎ
曾々や木枯けふ吹ぬ也        → そそや木枯らし今日吹きぬ也

https://open.mixi.jp/user/17423779/diary/1966017010

【高円(たかまと)の野路のしのはら末さわぎそそやこがらしけふ吹きぬなり
 藤原基俊
 法性寺入道前関白太政大臣家の歌合に、野風
 新古今和歌集 巻第三 秋歌上 373

「高円の野をゆけば路傍の篠原は葉末が鳴り、あれ、木枯が今日吹きはじめたよ。」『新日本古典文学大系 11』p.120

保安二年(1121)九月十二日、関白内大臣忠通歌合、四句「そそや秋風」。
法性寺入道前関白太政大臣 藤原忠通 1097-1164。
高円の野 春日山の南に続く高円山の麓。
そそや 驚くさま。「物を聞き驚く詞なり」(顕昭・詞花集注)。そよそよと吹く風の擬声辞でもある。
こがらし 八雲御抄三[やくもみしょう 順徳天皇 1197-1242 による歌論書]「秋冬風、木枯なり」。
吹きぬなり 音を聞いての感動。
参考「荻の葉にそそや秋風吹きぬなりこぼれやしぬる露の白玉」(大江嘉言 詞花 秋)。
「秋風」の歌。
(藤原基俊)(ふじわらのもととし1060-1142)平安時代後期の公家・歌人。道長の曾孫。
金葉集初出。千載集では源俊頼・藤原俊成に次ぐ入集歌数第三位。新古今七首。勅撰入集百五首。 隠岐での後鳥羽院による『時代不同歌合』では恵慶法師と番えられている。
小倉百人一首 75 「契りおきしさせもが露を命にてあはれ今年の秋もいぬめり   】

(追記)「光悦書宗達下絵和歌巻」周辺(「メモ」その一)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-04-08

「鹿下絵新古今集和歌巻」逍遥ノート(その十)

 この絵図の、一匹の雄鹿、そして、二匹の雌鹿(その一匹は、先の「式子内親王」の歌の際に登場する「白描の鹿」で、もう一匹は、雄鹿と同色の雌鹿)の、これらの鹿は、揮毫者(光悦)、そして下絵作者(宗達)は、それぞれ、どのようなイメージを託していたのであろうか。
 そういう詮索は、本来的に、この種の「下絵和歌巻」の鑑賞の場合に無用なのかも知れない。しかし、これらの「下絵和歌巻」に接しての、作者(和歌の揮毫者・下絵作者)とは別に、鑑賞者(この「下絵和歌巻」に魅かれた者)の、その魅かれたイメージ(「見立て」など)は、それは、どのようなものであれ、もはや、作者(和歌の揮毫者・下絵作者)の本来的なイメージを離れて、個々の鑑賞者(この「下絵和歌巻」に魅かれた者)に委ねられるものなのであろう。
 ここで、光悦の書の「法性寺入道前関白太政大臣(藤原忠通)」と「婦知ハら能基俊(藤原基俊)」とに接すると、次の「百人一首」の二首の作者を思い浮かべることは、極めて自然のことであろう。

75 契りおきしさせもが露を命にてあはれ今年の秋も去(い)ぬめり(基俊『千載集』雑・1023)
(歌意: お約束してくださいました、よもぎ草の露のようなありがたい言葉を頼みにしておりましたのに、ああ、今年の秋もむなしく過ぎていくようです。)

76 わたの原漕ぎ出でて見れば久かたの 雲ゐにまがふ沖つ白波(忠通『詞花集』雑下・382)
(歌意: 大海原に船で漕ぎ出し、ずっと遠くを眺めてみれば、かなたに雲と見間違うばかりに、沖の白波が立っていたよ。)

 この忠通の歌には、「新院、位におはしましし時海上遠望ということをよませ給ひけるによめる」(『詞花集』)との詞書がある。この詞書の「新院」は、「崇徳上皇」で、「位におはしましし時海上遠望」は、「崇徳天皇の在位中の題詠・海上遠望」の意であろう。
 この忠通と崇徳上皇とは、保元元年(一一五六)の鳥羽法皇崩御を切っ掛けとして勃発した「保元の乱」で壮絶な血肉の争いの中心人物となる。これは、皇室における崇徳上皇と後白河天皇の兄弟による実権争いと、藤原摂関家の総帥・藤原忠通とその弟・藤原頼長との兄弟による家督争いが、その背景にある。
 さらに、この「崇徳上皇・藤原頼長」側に、源氏の棟梁であった源為義やその息子の源為朝、平氏からも清盛の叔父である平忠正らが加わる。一方の「後白河天皇・藤原忠通」側には、為義の長男で為朝の兄である源義朝、そして当時もっとも実権を有していた平清盛が加わり、結果としては「崇徳上皇・藤原頼長」側が敗北し、崇徳上皇は讃岐に流罪となり、八年後に死亡。頼長も戦の最中に受けた傷が元で亡くなり、藤原摂関家の力も大きく削がれていくことになる。
 「百人一首」では、この「法性寺入道前関白太政大臣(藤原忠通)」の歌(76番)の後に、次の「崇徳院」の歌(77番)が続いている。

77 瀬を早み岩にせかるる滝川のわれても末に逢はむとぞ思ふ(崇徳院『詞花集』恋・229)
(歌意: 川の瀬の流れが速く、岩にせき止められた急流が二に分かれる。しかしまた一つになるように、愛しい人と今は分かれても、いつかはきっと再会したいと念じている。 )

 この歌の原形は、初句が「行きなやみ」、三句が「谷川」の恋歌であったが(『久安百句』)、『詞花集』では、初句が「瀬を早み」、三句が「滝川」に改変されている。こうなると、これは、もはや、恋歌というよりも、「保元の乱」を背景にしての崇徳院の哀傷歌のような雰囲気を漂わせている。

83 世の中よ道こそなけれ思ひ入る山の奥にも鹿ぞ鳴くなる(皇太后宮大夫俊成『千載集』1151)
(歌意: この世の中には、悲しみや辛さを逃れる方法などないものだ。思いつめたあまりに分け入ったこの山の中にさえ、哀しげに鳴く鹿の声が聞こえてくる。)

藤原俊成の青年期(二十代後半)の歌だが、俊成が出家して法名「釈阿」を名乗る前後の歌と解しても違和感がないほど、戦乱の激動期を生き抜いた俊成の全生涯を詠じている雰囲気を漂わせている。俊成は、在俗時代、役人としては不遇であったが、歌人としては、崇徳天皇に見出されて、後に、その崇徳院を放逐していった後白河院の院宣を受けて、第七勅撰集『千載和歌集』を撰進し、名実ともに歌壇の第一人者となっていく。「皇太后宮大夫」は、俊成の最後の官位で、この「皇太后」は、後白河院の皇太后・藤原忻子に仕えた官職ということになる。

86 嘆けとて月やはものを思はするかこち顔なるわが涙かな(西行法師『千載集』929)
(歌意::嘆けと言って、月が私を物思いにふけらせようとするのだろうか。いや、そうではない。それなのに、月のせいだとばかりに流れる私の涙であることよ。)

西行は、鳥羽天皇の北面の武士(天皇を護る近衛兵)というエリート職を捨て、二十三歳の若さで出家する。「保元の乱」は、その鳥羽天皇(鳥羽上皇)が崩御した時に勃発する。  
 この鳥羽天皇の第一皇子が崇徳天皇だが、崇徳天皇は白河院(鳥羽天皇の祖父)の子ではないかということで「叔父子」として、鳥羽天皇に忌避されていた。その鳥羽天皇は、上皇になる時に、崇徳天皇を退位させ、愛妾の美福門院との間の皇子・近衛天皇を即位させ、その近衛天皇が崩御するや、今度は崇徳院の弟の後白河天皇を後継者とするのである。
 崇徳院と後白河天皇・鳥羽上皇との骨肉の争いの「保元の乱」というのは、『新古今集』、そして『百人一首』に、陰に陽に複雑に絡み合っていることを目の当たりにする。

88 難波江の芦のかりねのひとよゆゑみをつくしてや恋ひわたるべき(皇嘉門院別当『千載集』807)
(歌意:難波の入り江の芦を刈った根っこ(刈り根)の一節(ひとよ)ではないが、たった一夜(ひとよ)だけの仮寝(かりね)のために、澪標(みおつくし)のように身を尽くして生涯をかけて恋いこがれ続けなくてはならないのでしょうか。)

この歌は、「皇嘉門院(藤原聖子)」の一首ではない。「皇嘉門院別当(女官)」の作(源俊隆の娘)である。この作者が仕えた「皇嘉門院」こそ、「保元の乱」に翻弄された悲劇の女性の一人であろう。「皇嘉門院」の実父は藤原忠通(76の作者)で、夫は崇徳院(77の作者)なのである。即ち、「保元の乱」で、実父と夫とが骨肉の争いをし、夫(崇徳院)は敗北し、讃岐に流される。
 板挟さみとなった聖子は同年出家し、清浄恵と号し、長寛元年(一一六三)、髪をすべて剃る再出家をし、蓮覚と号している。父(忠通)の没後は猶子としていた異母弟の九条兼実の後見を受け、兼実の嫡男・良通を猶子として、忠通伝来の最勝金剛院領などを相続させた。これが後世における九条家家領の源流となったといわれる。この九条兼実の継嗣(二男)が藤原(九条)良経(91の作者・「新古今集(仮名序)」の執筆者)なのである。

89 玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば忍ぶることのよわりもぞする(式子内親王『新古今集』1034)
(歌意: 我が命よ、絶えてしまうのなら絶えてしまえ。このまま生き長らえていると、堪え忍ぶ心が弱ってしまうと困るから。 )

 式子内親王は、後白河天皇の第三皇女である。生まれは久安五年(一一四九)で、「保元の乱」の後の「平治の乱」(平治元年=一一五九)の十歳前後のときに、賀茂斎院に叙せられ、以後、前斎院として、生涯独身を全うすることとなる。
 そして、式子内親王が経験した「保元の乱」・「平治の乱」は、藤原摂関家の「貴族時代」から、「源平二家」の「平家(平清盛)」の「武家時代」への移行期にあった。その生涯は、「保元の乱」の悲劇のヒロイン「皇嘉門院(藤原聖子)」と勝るとも劣らないであろう。

https://kotobank.jp/word/式子内親王-72610

【その間,伯父藤原公光の解官,同母兄以仁 (もちひと) 王の平家への謀反と戦死などの不幸を体験,建久2 (91) 年頃出家し,法然に帰依した。同7年橘兼仲夫妻の謀計に連座,都から追放されそうになるなど,その生涯は不幸であった。和歌を藤原俊成に学び,憂愁に満ち,情熱を内に秘めた気品の高い作品を残した。】

 ここで、この「和歌を藤原俊成に学び,憂愁に満ち,情熱を内に秘めた気品の高い作品を残した」に鑑み、翻って、冒頭の「鹿下絵新古今集和歌巻断簡(藤原基俊)」の、その一匹の雄鹿は、この「和歌を藤原俊成に学び」の、「藤原俊成」(釈阿)とし、真ん中の「白描」の雌鹿は、先(その七)の、月光の下の白鹿の「式子内親王」をイメージしたい。そして、もう一匹の雌鹿は、式子内親王と同じく、俊成門の二大女流歌人で、俊成の養女でもある「皇太后宮大夫俊成女」(藤原俊成女)をイメージして置きたい。
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