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「津田青楓」管見(その三)  [東洋城・豊隆・青楓]

(その三)「ブルジョア議会と民衆の生活(青楓画)」・「疾風怒涛(青楓画)」・「犠牲者(青楓画)」周辺

ブルジョア議会と民衆の生活.jpg

「ブルジョア議会と民衆の生活」(昭和六年、第十八回二科展出品)
『老画家の一生(津田青楓著・中央公論美術出版)』所収「關東大震災と龜吉の身邊/p415」
https://dl.ndl.go.jp/pid/2500319/1/214

「ブルジョワ議会と民衆生活」(下絵).jpg

「ブルジョア議会と民衆の生活(下絵)」/1931年/125.8×80.3/東京国立近代美術館蔵
(『背く画家 津田青楓とあゆむ明治・大正・昭和/津田青楓 著/喜多孝臣 編・解説)』所収「作品163」)

[ 一九三一(昭和六)の第十八回二科会展出品作の下絵である。資料44は、出品作の絵葉書(※資料44の絵葉書は省略。その出品作は、上記の「モノクロ」のもの。本来は、この下絵のように「油彩・キャンバス」)。
 当時建設中であった国会議事堂と民衆の住むバラック建築を上下に対比的に描くことによって、「現在の空疎のブルジョア政治」を可視化し、公衆に広く伝え、問題提起するために描いたと青楓はいう。本画は出品時には、下図の上部にコラージュされたマルクスの『賃労働と資本』による一節が作品の下に張られていたが、警視庁から問題視され撤回。タイトルも「新議会」と改題を命じられた。
 しかし、「二科の広告看板」と称せられる新聞や雑誌に盛んに取り上げられることになり、青楓の狙い通り、多くの観衆を得、議論を巻き起こした。一九三三年に青楓が逮捕された折に、本画は官憲に押収され、現在は下絵しか残っていない。](『背く画家 津田青楓とあゆむ明治・大正・昭和/津田青楓 著/喜多孝臣 編・解説)』所収「作品163」解説)

背く画家 津田青楓とあゆむ明治・大正・昭和)一.jpg

(『背く画家 津田青楓とあゆむ明治・大正・昭和/津田青楓 著/喜多孝臣 編・解説)』所収「背く画家津田青風の一九〇三~一九三三(喜多孝臣)」の論稿中「挿図2『第十八回二科展会場風景』(「アトリエ・8巻10号)」)

※ 上図の『第十八回二科展会場風景』(「アトリエ・8巻10号)」の、青楓の出品作・「新議事堂」(改題前の「ブルジョア議会と民衆の生活」)を見ると、この作品の大きさと、そして、この作品が、当時の「二科の広告看板」として、話題作であったことがうかがえる。

疾風怒涛一.jpg

「疾風怒涛」(昭和七年、第十九回二科展出品)
『老画家の一生(津田青楓著・中央公論美術出版)』所収「關東大震災と龜吉の身邊/p415」
https://dl.ndl.go.jp/pid/2500319/1/215

疾風怒涛二.jpg

津田青楓画《疾風怒濤》(1932/201.0×353.0/笛吹市青楓美術館蔵)
https://bijutsutecho.com/magazine/review/21974

[ 一九三二年(昭和七)の第十九回二科展出品作。一九三一年十二月、京都丹後の奥海岸、「間人(たいざ)での写生をもとに描いた作品。冬の荒々しい波の様子をとらえた青楓の作品として最も大きな作品であり、当時の二科会のなかでも異例の大きさを誇った。
 左翼思想に対する弾圧が強化され、息苦しい世相に対する不平不満を表明したものとも見られ、美術批評家荒城季夫は「場中での力作」と評した。
 また、本作を出品した二科展では会期中に当時非合法であった共産党員となっていた河上肇を美術館玄関下から自動車にのせて麹町の隠れ家に送るという一幕があった。](『背く画家 津田青楓とあゆむ明治・大正・昭和/津田青楓 著/喜多孝臣 編・解説)』所収「作品164」解説)

津田青楓画《犠牲者》モノクロ.jpg

津田青楓画《犠牲者》(昭和八年=一九三三、第二十六回白日会出品/東京国立近代美術館蔵)
『老画家の一生(津田青楓著・中央公論美術出版)』所収「龜吉檢擧さる/p573」
https://dl.ndl.go.jp/pid/2500319/1/295

※ 上記の「昭和八年=一九三三」は制作年次で、この作品が公開された「第二十六回白日会出品」は、敗戦から五年後の、昭和二十五年(一九五〇)の「第二十六回白日会展」が初公開ということである。

(再掲)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-12-17

津田青楓画《犠牲者》公開作.jpg

津田青楓画《犠牲者》(1933、東京国立近代美術館蔵)
https://bunka.nii.ac.jp/db/heritages/detail/107539
[津田青楓 (1880-1978)/ツダ、セイフウ/昭和8年=1933/油彩・キャンバス・額・1面/193.0×95.4/第26回白日会展・東京都美術館・昭和25年=1950(犠牲者/The Victim/1933年/油彩・麻布 193.0×95.4㎝)
津田は、1933年7月19日、官憲による家宅捜査をうけたのち、一時拘留された。このとき制作中だったのが、この《犠牲者》である。31年第18回二科展に出品された《ブルジョア議会と民衆の生活》(出品時には、「新議会」と改題させられた。現在、この作品の習作が当館に所蔵されている。)は押収されたものの、この作品は幸い残すことができた。当時、官憲によるプロレタリア思想弾圧は、日増しに激しくなっていた。
とくに京都時代に知己となった河上肇は京都帝国大学教授を辞職した後、日本共産党に加入し地下に潜行していたが、この年1月に検挙された。津田の検挙も、かねてから上記の作品によって官憲の注目をあつめ、また河上の潜行をたすけたという容疑によるものであった。
この《犠牲者》は、同年2月の小説家小林多喜二の獄死に触発されて描かれたもので、津田自身は、「一見拷問の残忍性を物語る酸鼻に堪へないやうなもの」だが、「十字架のキリスト像にも匹敵するやうなものにしたいといふ希望を持つて、この作にとりかかつた」(『老画家の一生』)と後に記している。
 拷問をうけ、吊り下げられた男、そして左下の窓を通してかすかにみえる議事堂、この簡潔な構図に弾圧に対する告発がこめられていることは確かだ。ただし、津田とプロレタリア思想との関係は、社会的 な義憤と河上との親交による共感からのものであり、多分に同伴者的なものであった。
しかし、当時のプロレタリア美術が不毛であったなかで、直接的な社会性を持った作品として評価されている。](「文化遺産オンライン」)

「犠牲者」下部の拡大図.jpg

津田青楓画《犠牲者》(1933、東京国立近代美術館蔵)の下部(「窓」の部分)拡大図
https://artexhibition.jp/topics/news/20200228-AEJ184798/

※ この下部(「窓」の部分)拡大図に、昭和十一年(一九三六)に竣工された、「新議会(※新国会議事堂)の、その竣工前の屋根の部分が描かれている。

(補記一) 「津田青楓画《犠牲者(習作)》(笛吹市青楓美術館蔵)」周辺

津田青楓画《犠牲者(習作)》一.jpg

津田青楓画《犠牲者(習作)》(笛吹市青楓美術館蔵)(1933年/油彩・キャンバス/71.5×38.0)
https://note.com/azusa183/n/n54e3a4eefd3d

津田青楓画《犠牲者(習作)》二.jpg

「津田青楓画《犠牲者(習作)》(笛吹市青楓美術館蔵)」(下部の拡大図)
※ この下部の「窓」には、「新議会(※新国会議事堂)」は描かれていない。

(補記二) 津田青楓「犠牲者」と太平洋戦争開戦期の太宰治・・・小林多喜二を媒介として・・・(島村輝)周辺

シンポジウム「戦争と表現-文学、美術、漫画の交差」.jpg

シンポジウム「戦争と表現-文学、美術、漫画の交差」開催の報告とギャラリー・トーク開催報告(「栃木県立美術館」2015年12月2日)
https://www.facebook.com/photo/?fbid=1638254789773005&set=pcb.1638254883106329

【シンポジウム「戦争と表現-文学、美術、漫画の交差」 開催の報告とギャラリー・トーク開催報告】
「戦後70年:もうひとつの1940年代美術」展の関連企画として、シンポジウム「戦争と表現-文学、美術、漫画の交差」を11月29日(日)13:15-16:40の約3時間半にわたって開催しました。日本近現代史がご専門の小沢節子さんは「「もうひとつの歴史」への問いかけ-「抑圧」と「解放」のはざまで」というご発表で、今展の構成と出品作品を丁寧に分析されて、「もうひとつの歴史」はひとつではなく複数であること、アジア・太平洋という広がりの中で再考すべきことを指摘され、1940年代後半の美術研究が前後の時代に比べて取り残されていることも今後の課題として挙げられました。
 日本近現代文学研究がご専門の島村輝さんは、「津田青楓「犠牲者」と太平洋戦争開戦期の太宰治――小林多喜二を媒介として」と題して、太宰治の「待つ」と「花火」という1942年の短編を題材に、太宰の隣家にいた津田青楓の検挙と隠し果された絵画《犠牲者》、そして太宰の転向体験などを背景にして、太平洋戦争開始時の太宰の屈折した心情と戦争の行く末に向けた眼差しを読み解き、新しい太宰像を提示していただきました。
最後の伊藤遊さんは、京都国際マンガミュージアムで今夏「戦争とマンガ」展を企画開催された研究員ですが、本シンポでは「マンガは〈戦後〉文化か?」と題して、戦時中に確立された「学習マンガ」というジャンルが戦後も日本独特のものとして引き継がれたこと、手塚治虫によって「傷つく身体」というリアリティがマンガに導入されたこと、戦時中の慰問帳の作り方が「マンガの描き方本」として流行し、戦後にも受け継がれたことなど、戦争とマンガの関係をテーマからではなくマンガというジャンルの成り立ちから分析され、会場からも大きな反響を呼びました。
 休憩をはさんだ全体討議では、ディスカッサントの北原恵さんから個々のパネリストに対する質問と、いくつかの新たな問題提起がなされましたが、なかでも「前線/銃後」は明確に区分できるものなのか(空襲・防空の絵画は「銃後」にジャンル分けしてよいのか)、国家によって弔われ、補償されるのは誰か(日本軍兵士への手厚い補償と、空襲の犠牲者=女性化、ジェンダー化、他者化され、補償の枠外)など、鋭い指摘にその後の議論も盛り上がりました。多岐に渡った内容の濃い発表と討議が続いて、とても短い字数でまとめ切れるものではありませんが、とりあえずのご報告と致します。(司会・担当学芸員:小勝記)

※ この「シンポジウム『戦争と表現-文学、美術、漫画の交差』」は、[シンポジウム「戦争と表現-文学、美術、漫画の交差」報告書 : 「戦後70年: もうひとつの1940年代美術」展関連企画 1940年代美術に関する論文集]として、図書として公開されている。

https://ndlonline.ndl.go.jp/#!/detail/R300000001-I027237781-00

[内容細目
「もうひとつの歴史」への問いかけ 小沢節子 述
津田青楓 《犠牲者》 と太平洋戦争開戦期の太宰治 島村輝 述
マンガは <戦後> 文化か? 伊藤遊 述
コメント:「1940年代/北関東/女性画家」再考 北原恵 述
討議の総括と1940年代美術研究の今後の展望 小勝禮子 述
清水登之の終戦 杉村浩哉 著
戦争・美術・帝国芸術院 迫内祐司 著 ]

 このうちの、「津田青楓 《犠牲者》 と太平洋戦争開戦期の太宰治 島村輝 述」の骨子は、次のとおりである。

一 2015年…「戦後70年」に「戦争」を語る (略)
二 太平洋戦争の開戦と太宰治 (略)
三 「転向点」の太宰治と津田青楓 (略)
四 多喜二虐殺と津田青楓《犠牲者)》(要点抜粋)

 「津田青楓は河上肇をかくまったりしていて、当時二科の画家として左翼運動に近づいた画家である。1931年に二科展に出品した『ブルジョア議会と民衆の生活』は下絵のみが残っているが、本来完成作はもっと細かく書き込まれていたものらしい。しかし、それは彼が検挙されたときに官憲によって持ち去られてしまって、その後行方不明になってしまっている。現在、津田青楓美術館に展示されている『疾風怒涛』という作品は翌年の出品作で、これを抽象化された風景表現なので、弾圧を免れたものである。」

「『ブルジョア議会と民衆の生活』『疾風怒涛』はあまり大きくて場所ふさぎになるので、既に枠からとりはずして巻いたまま隅においてあった。それより心配したのは、目下制作中の『犠牲者(拷問)の画だった。そいつは余り生々しくて、警察の連中を刺激することは百パーセントという作品なんだ。ちょう度古ぼけた屏風の箱があった。蓋には塵埃がいっぱいたまっていた。「立花君、そいつを、あの屏風の箱へ入れよう」、そう云って、画架には静物の未完成のキャンバスを立てかけておいた。』(津田青楓の回想録『老画家の一生』)

「このとっさの機転によって、『犠牲者』は摘発、もち去りを免れ、青楓がずっと保存をし、戦後には展示されるようになったわけである。」

「さてその青楓だが、実はこの1933年に太宰の隣に住んでいたということが明らかになっている。1933年5月14日、飛島定城という人物、その家と共に杉並区天沼1丁目136番地に太宰は転居する。その隣が津田青楓の家だった。太宰の引っ越しが5月14日、津田青楓の検挙は7月19日である。津田青楓はプロレタリア作家同盟の大会に自分の居宅を貸したりしているようなプロレタリア文学運動、文化活動と非常に深い関係にあった画家であり、もちろん多喜二と津田青楓の間に様々な話し合いがあったことが想像される。また青楓が犠牲者の絵を描いていたことを、隣家に住み、交友のあった太宰は知っていたはずである。互いに左翼運動に関わっていたことを背景として、二人がともに同年2月20日の多喜二虐殺への深い思いをいだいていたことは疑いを容れない。」

五 「花火」と「待つ」をつないだもの(関連メモ)

「花火」(太宰治の1942年の作品)

https://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/264_20119.html

※ 主人公夫妻=「洋画家鶴見仙之助夫妻」→ モデルの一端は「津田青風」、しかし、内容の「息子殺人事件」は、「1935年11月の某医師の息子殺人事件」を背景にしている。

「待つ」(太宰治の1942年の作品)

https://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/2317_13904.html

※『待つ』は昭和十七年(1942)六月博文館刊の『女性』に発表された。それ以前に京都帝大新聞の依頼により書かれたが、結局掲載はされなかった。二十歳の女性が小さな駅で何かを待っている様子が女性の告白体で描かれた小説である。→ 「いったい、私は、誰を待っているのだろう。はっきりした形のものは何もない。ただ、もやもやしている。けれども、私は待っている。大戦争がはじまってからは、毎日、毎日、お買い物の帰りには駅に立ち寄り、この冷いベンチに腰をかけて、待っている。」

六 「帝国主義戦争」に対する「革命的」な態度(要点抜粋) 

「『待つ』の主人公はただひたすら何ものかを待つという行動をとるわけである。しかし、それが何ものであるあるか、何であるかということに対しては、作品中にははっきりとは書かれていない。これが大きな謎になっていることなのである。」

「そこで思い浮かぶのは、太平洋戦争の開始直前に発覚したゾルゲ事件とその企ての内容である。ゾルゲ事件には尾崎秀美というコミンテルンのエージェントが関わっていたわけだが、尾崎秀美はまた当時の総理大臣近衛文麿の側近でもあった。そして、日中戦争の開始当時、尾崎秀美は日中戦争の早期解決に反対した。なぜかといえば、帝国主義戦争を拡大することによって、その攻撃国、帝国主義国を解体させ、その解体から内乱、そして革命へとということを企てていたことが考えられるのである。」

七 「戦中の青楓、多喜二、太宰らの歩みと太宰再評価の軸」(要点抜粋)

「多喜二は1933年の2月20日、満州事変、上海事変、そして、日本の国際連盟脱退のころ築地警察署にて虐殺され、本格的な大戦争の時期には生きていなかった。」

「青楓は、1933年の7月に検挙されて、以降転向し、以後、政治的題材は手がけなかった。先に引用した『老画家の一生』の中では、『亀吉(※青楓)が左翼運動に出しゃ張ったり、共産主義者を隠したりしたのは、少しネヂがかかり過ぎた』という反省の弁を披露している。

「太宰治は、1932年から33年にかけて段階的転向を行ったが、しかし、その文学的根底には、左翼活動時代に浸み込んだコミンテルン以来の大胆な革命思想が残存し、さまざまにカムフラージュを施しながら、戦争中を表現者として生き抜いたのではないかと考えられる。」]


(補記三)『自撰年譜(津田青楓著)』所収「昭和八年(一九三三)・五十四歳」周辺

『自撰年譜(津田青楓著)』所収「昭和八年(一九三三)・五十四歳」一.jpg

『自撰年譜(津田青楓著)』所収「昭和八年(一九三三)・五十四歳」(その一)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1905748/1/48

『自撰年譜(津田青楓著)』所収「昭和八年(一九三三)・五十四歳」二.jpg

『自撰年譜(津田青楓著)』所収「昭和八年(一九三三)・五十四歳」(その二)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1905748/1/49

青楓の転向を報じる当時の新聞.jpg

「青楓の転向を報じる当時の新聞」
https://artexhibition.jp/topics/news/20200228-AEJ184798/

[ この年塾生の数、京都、名古屋、東京、合計、百数十名におよび、京都のみで五十余名を数えた。私生活を顧みる暇もなく、自らの洋画制作にうち込み、原稿を書き、日本画を描き、講演に招かれ、青年美術家の研究会や会合に連日のように出席した。この間、小林多喜二の獄死事件が起こり、画学生らの間に専らの話題となる。
 一月、河上肇検挙される。四月、万里子仏英和小学校入学、同月、ソ連大使トロヤノフスキーの肖像画を官邸にて描く。七月十六日朝、弟子の竹内操と立花一花や自分も苦しいモデルとなって「犠牲者」を製作中、杉並署へ連行される。
 自宅からの知らせで、刑事が踏み込む前に危い作品は急いで隠したが、大き過ぎてそのままにしてあった「新議会」は、この時持ち去られた。翌日、神楽坂署に留置。二十一日の或る新聞は四段抜きで、社会面トップに、…「二科展の重鎮、津田青楓氏留置」〈新議会〉の作者…という三行の大見出しで報じた。
 八月七日に起訴保留で釈放されると、集まった新聞記者の質問に次のように答えた。

『洋画がある程度の水準に達した今日、さらに発展させるにはマルキシズムの観点によって進まなければ進展が望めない。しかし、これを実行すると非合法活動になる。現状では、つまらぬことと思うので、昔描いた日本画には、東洋哲学に基づいて開拓すべき道があるから、西行や良寛のような立場から、今後は、日本画に精進したい』。
 
 八月十七日の日付で、「津田青楓先生、今回洋画制作ヲ廃シ専ラ日本画ニ精進スルコトヲ決意セラレタル付」という解散声明書を塾の名でハガキに印刷して発送した。熱心な引き止めもあったが二科会を脱会した。
 十一月、与謝野鉄幹・昌子夫妻に招かれ、一碧湖畔に一泊旅行。十二月、東京高島屋で第一回日本画展個展。心配したがよく売れた。同月、『書道と画道』小山書店から出版。 ]
(『津田青楓デッサン集(津田青楓著・小池唯則解説)』所収「津田青風九十六年のあゆみ(小池唯則)))


(補記四)『自撰年譜(津田青楓著)』所収「昭和八年(一九三三)・五十四歳」周辺(続き・「東洋城・寅彦・豊隆)

(再掲)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-12-04

その十七「昭和八年(一九三三)」

[東洋城・五十六歳。足利にて俳句大会。奈良、京都に遊ぶ。母の遺骨を宇和島に埋葬。「渋柿句集」春夏秋冬四巻・宝文館刊。]

松根東洋城・大洲旧居.jpg

「松根東洋城・大洲旧居」(大洲城二の丸金櫓跡に「俳人松根東洋城 大洲旧居」があった。)
http://urawa0328.babymilk.jp/ehime/oozujou.html

大洲城本丸.jpg

「大洲城本丸」
http://urawa0328.babymilk.jp/siroato/oozujou-4.jpg

[ 東洋城は本名を松根豊次郎といい、明治11年(1878年)2月25日、東京の築地に松根権六(宇和島藩城代家老松根図書の長男)を父に、敏子(宇和島藩主伊達宗城の次女)を母に長男として生まれた。
 明治23年(1890年)10月父権六が、大洲区裁判所判事として、大洲に赴任するに伴って東洋城も大洲尋常高等小学校に転校して来た。当時、この屋敷が裁判官判事の宿舎で、明治31年(1898年)10月、権六が退官するまで、約8年間、松根家の人々はここに居住した。
 東洋城は明治25年、大洲尋常小学校を卒業すると、松山の愛媛県尋常中学校(のちの松山中学校)に入学した。
 4年生の時、夏目漱石が英語教師として赴任し、ふたりの運命的出会いが、その後の東洋城の生き方に大きな影響を及ぼすことになった。
 俳人東洋城は俳誌『渋柿』を創刊(大正8年)、多くの同人を指導し、大洲にもしばしば訪れた。昭和8年(1933年)この「大洲旧居」にも立ち寄り「幼時を母を憶ふ」と次の句を詠んでいる。

淋しさや昔の家の古き春      東洋城
 また大洲の東洋城の句碑には、如法寺河原に
芋鍋の煮ゆるや秋の音しずか   東洋城
 がある。大洲史談会により平成5年(1993年)建立された。

 東洋城は戦後、虚子と共に芸術院会員となり昭和39年(1964年)10月28日東京で87歳で死去した。墓は宇和島市金剛山大隆寺にある。
 なお、ここの家屋(平屋建)は、明治2年(1869年)4月、大洲城二の丸金櫓跡に建てられたもので、江戸時代末期の武家屋敷の遺構が一部のこされている。]

 「亡母と西下 六十二句」中の十句

淋しさや昔の家の古き春(前書「大洲旧居(幼時を母を憶ふ)」)
柴門は三歩の春の蒲公英かな(前書「大洲にて」)
山(サ)ン川(セン)の何も明ろき木の芽かな(前書「庵主の吟『荘にして何か明るき時雨かな』に和す」)
如法寺を寝法師と呼ぶ霞かな
朧とや昔舟橋あのほとり
春愁や夜の蒲公英をまぼろしに(前書「大洲を出で立つとて」)
蓋とりて椀の蕨に別れかな(前書「大洲甲南庵留別」)
神代こゝに神南山(カンナンザン)の霰かな(前書「若宮平野にて」)
伊予富士の丸きあたまや春の雨(前書「今出の浜四句」のうち)
海を見てゐてうしろ田や春の雨(前書「今出の浜四句」のうち)

松根東洋城句碑(大隆寺)」.jpg

「松根東洋城句碑(宇和島市宇和津町・大隆寺)」
http://urawa0328.babymilk.jp/ehime/22/dairyuuji-3.jpg
[黛を濃うせよ/草は芳しき/東洋城(句意=黛は眉のこと。若草がいっせいに萌えだして芳しい春の天地の中、あなたの眉墨をも濃くおひきなさい。若草さながら芳しく。)/平成13年(2001年)2月25日、松根敦子建立。]


[寅彦(寅日子)・五十六歳。昭和八年(一九三三)。

1月12日、帝国学士院で“Distribution of Terrestrial Magnetic Elements and the Structure of Earth’s Crust in Japan”および“Kitakami River Plain and Its Geophysical Significance”を発表。1月17日、地震研究所談話会で「四国に於ける山崩の方向性」および「日本のゼオイドに就て」を発表。
4月11日、航空評議会臨時評議員になる。4月12日、帝国学士院で“Result of the Precise Levelling along the Pacific Coast from Koti to Kagosima, 1932”を発表。
5月16日、地震研究所談話会で「統計に因る地震予知の不確定度」を発表。5月25日、理化学研究所学術講演会で「墨汁皮膜の硬化に及ぼす電解質の影響」(内ヶ崎と共著)、「墨汁粒子の毛管電気現象」(山本と共著)および「藤の実の射出される物理的機構」(平田・内ヶ崎と共著)を発表。
6月12日、帝国学士院で“On a Measure of Uncertainty Regarding the Prediction of Earthquake Based on Statistics”を発表。
10月12日、帝国学士院で“Luminous Phenomena Accompanying Destructive Sea-Waves”を発表。
11月17日、理化学研究所学術講演会で「墨汁粒子の電気的諸性質(続報)」(山本・渡部と共著)を発表。11月21日、地震研究所談話会で「相模湾底の変化に就て」を発表。
12月11日、航空学談話会で「垂直に吊された糸を熱するときに生ずる上昇力と之に及ぼす周囲の瓦斯の影響」(竹内能忠と共著)を発表。


「鐘に釁る」、『応用物理』、1月。
「北氷洋の氷の破れる音」、『鉄塔』、1月。
「Image of Physical World in Cinematography」、『Scientia』、1月。
「重兵衛さんの一家」、『婦人公論』、1月。
「鉛をかじる虫」、『帝国大学新聞』、1月。
「鎖骨」、『工業大学蔵前新聞』、1月。
「ニュース映画と新聞記事」、『映画評論』、1月。
「書翰」、『アララギ』、1月。
「短歌の詩形」、『勁草』、1月。
「自然界の縞模様」、『科学』、2月。
「藤の実」、『鉄塔』、2月。
「銀座アルプス」、『中央公論』、2月。
「珈琲哲学序説」、『経済往来』、2月。
談話「不連続線と温度の注意で山火事を予防」、『報知新聞』、2月。
「空想日録」、『改造』、3月。
「地震と光り物——武者金吉著『地震に伴ふ発光現象の研究及び資料』紹介」、『東京朝日
新聞』、3月。
「映画雑感」、『帝国大学新聞』、3月。
「物質群として見た動物群」、『理学界』、4月。
「病院風景」、『文学青年』、4月。
「猿の顔」、『文芸意匠』、4月。
「「ラヂオ」随想」、日本放送協会『調査時報』、4月。
「Opera wo kiku」、『Romazi Zidai』、4月。
「測候瑣談」、『時事新報』、4月。
「ことばの不思議 二」、『鉄塔』、4月。
「津波と人間」、『鉄塔』、5月。
「耳と目」、『映画評論』、5月。
※『柿の種』、小山書店、6月。
「蒸発皿」、『中央公論』、6月。
「記録狂時代」、『東京朝日新聞』、6月。
「言葉の不思議(三)」、『鉄塔』、7月。
「感覚と科学」、『科学』、8月。
「涼味数題」、『週刊朝日』、8月。
「錯覚数題」、『中央公論』、8月。
「神話と地球物理学」、『文学』、8月。
「言葉の不思議(四)」、『鉄塔』、8月。
アンケート「最近読んだ日本の良書愚書」、『鉄塔』、8月。
「学問の自由」、『鉄塔』、9月。
「試験管」、『改造』、9月。
「軽井沢」、『経済往来』、9月。
「科学と文学」、岩波講座『世界文学』、9月。
アンケート「記・紀・万葉に於けるわが愛誦歌」、『文学』、9月。
『物質と言葉』、鉄塔書院、10月。
「科学者とあたま」、『鉄塔』、10月。
「浅間山麓より」、『週刊朝日』、10月。
「沓掛より」、『中央公論』、10月。
「二科展院展急行瞥見記」、『中央美術』、10月。
「KからQまで」、『文芸評論』、10月。
「科学的文学の一例——維納の殺人容疑者」、『東京朝日新聞』、10月。
「猿蟹合戦と桃太郎」、『文芸春秋』、11月。
「俳諧瑣談」、『渋柿』、11月。
「人魂の一つの場合」、『帝国大学新聞』、11月。
『地球物理学』、岩波書店、12月。
『蒸発皿』、岩波書店、12月。
「伊香保」、『中央公論』、12月。
「異質触媒作用」、『文芸』、12月。  ]

哲学も科学も寒き嚏(クサメ)哉(二月「渋柿」)
※清けさや色さまざまに露の玉(四月二十二日付け「松根豊次郎宛書簡」)
※薫風や玉を磨けばおのづから(同上)

※ 上記の四月二十二日付け「松根豊次郎宛書簡」は、次のとおり。

[四月二十二日 土 本郷区駒込曙町二四より牛込区余丁四一松根豊次郎氏への「はがき」
 昨日はとんだ失礼、朝出がけ迄に御端書も電話もなかつたが念の為に五時数分前にモナミへ行つて見廻したが御出なく,矢張未だ御帰京ないものと考へて銀座の方へ出てしまつたのでありました。
 「無題」の集録も本文の校正は出来たが、装幀などが中々手間がとれて進行せず、併し五日中位には出来る事になると存候
 ――――――――――――――――――――――――――――
 友人の葡萄の画に賛を頼まれて考案中「清けさや色さまざまに露の玉」などは如何や御斧正を乞ふ。
 又学士院受賞者に祝の色紙を頼まれ苦吟中「薫風や玉を磨けばおのづから」では何の事か分かるまじく候、御高見御洩らし被下度祈候 
 四月廿二日    ](『寺田寅彦全集 文学篇 第十七巻』)

※ 上記の書簡中の「『無題』の集録も本文の校正は出来たが、装幀などが中々手間がとれて進行せず、併し五日中位には出来る事になると存候」は、上記の年譜中の、「※『柿の種』、小山書店、6月。」で刊行されたもので、その初出のものは、「渋柿」の「巻頭言(寅彦の「無題」)」の、その集録が主体になっていることを意味している。
 この『柿の種』(「小山書店」刊=小山久二郎(「小山書店主」)はは安倍能成の甥で、岩波書店勤務を経て創業)には、小宮豊隆も深く関わっている。
 また、書簡中の「モナミへ行つて見廻したが御出なく」のその「モナミ」は、「帝都座の地下室のモナミ」(「新宿3丁目交差点にあった帝都座(現在の新宿マルイ本館)の地下」)の、「モナミ(大食堂)」で、ここが、東洋城と寅彦との連句の制作現場である。

新宿 モナミ大食堂.jpg

TEITOZA「新宿 モナミ大食堂」
https://tokyomatchbox.blogspot.com/2022/03/blog-post_06.html

[ 寺田君は午後四時頃航空研究所を出て小田急で新宿駅に下車し、すぐモナミへ来る。僕の方が後になる事が多い為君はいつも待合室の長椅子で夕刊か何か読んでゐる。夕刊を読んでしまふと欧文原稿の校正などをしてゐる。僕が側へ腰を掛けて少し話をすると、「行かうか」とか「飯食はうか」というて立上がる。例の古い外套だ。そして左脇に風呂敷(時に大きなカバン)をかかへ右手に蝙蝠傘を杖いてサツサと食堂の方へ行く。ボックスがあいていればボックス、あいてゐなければ柱の蔭か棕櫚の蔭かになるやうな一卓に陣取る。さうして、何か一品註文する。(中略) それからソロソロと仕事にとりかかる。両人が汚い手帖を取り出して前回の附けかけの各自受持ちのところを出す。僕が小さい季寄せを提袋から出すと君がポケットから剥ぎ取りのメモを出し二三枚ちぎつて僕に呉れる。附くと見せ合つて対手が承知すると両方の手帖に記入する、不承知だとダメを出して考へ直す。(以下、略)  ] (『東洋城全句集(下巻)』所収「寺田君と俳諧」)



[豊隆(蓬里雨)・五十歳。昭和八年(一九三三)。一月合著『新続芭蕉俳諧研究』出版。十月『芭蕉の研究』出版。]

※ 小宮豊隆が、東北帝大法文学部(独逸文学)の教授として仙台(仙台市北二番丁六八)に移住したのは、大正十四年(一九三五)の四月、その翌年に「芭蕉俳諧研究会」(阿部次郎・太田正雄(木下杢太郎)・山田孝雄・岡崎義恵・土井光知・小牧健夫・村岡典嗣など)が始まり、この会は、昭和二十一年(一九四六)に、豊隆が東京音楽学校校長として仙台を去るまで続いた。その間の、大正十五年(昭和元年・一九二六)から昭和八年(一九三三)にかけての豊隆の論考は、昭和八年九月九日の「序」を付しての『芭蕉の研究(岩波書店・十月初版)』として結実を遂げている。

(再掲)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-11-27

『芭蕉の研究』(小宮豊隆著・岩波書店)

https://dl.ndl.go.jp/pid/1213547/1/1

[目次
芭蕉/1         → 昭和七年十一月四日(論文)
不易流行説に就いて/56  → 昭和二年四月五日(論文)
さびしをりに就いて/107 → 昭和五年八月七日(論文)
芭蕉の戀の句/139    → 昭和七年五月二十日(論文)
發句飜譯の可能性/167  → 昭和八年六月五日(論文)
『冬の日』以前/175   → 昭和三年十二月七日(論文)
『貝おほひ』/199    → 昭和四年三月三日(論文)
芭蕉の南蠻紅毛趣味/231 → 昭和二年二月(論文) 
芭蕉の「けらし」/261  → 大正十五年七月(論文)
芭蕉の眞僞/290     → 昭和六年十月十五日(論文)
二題/296        → 昭和三年九月九日(「潁原退蔵君に」)
            → 昭和七年八月二十三日(「矢数俳諧」)
『おくのほそ道』/303  → 昭和七年一月十四日(論文)
立石寺の蟬/326     → 昭和四年八月二十日(「斎藤茂吉」との論争)
芭蕉の作と言はれる『栗木庵の記』に就いて/330 →昭和六年七月七日(論文)
『おくのほそ道』畫卷/375 → 昭和七年六月十九日(論文) 
芭蕉と蕪村/379      → 昭和四年十月(論文)
附錄
蕪村書簡考證/419     → 昭和三年六月二十八日(論文)
西山宗因に就いて/452   → 昭和七年九月二十日(論文)
宗因の『飛鳥川』に就いて/489 →昭和八年二月十二日(論文)  ](「国立国会図書館デジタルコレクション」)

 その「序」で、豊隆は、「考えて見ると、私は、少し芭蕉に狎(ナ)れすぎたやうな気がする。是は決して、研究にとつて、好ましい事ではないない」と記述している。
 この「序」の、「少し芭蕉に狎(ナ)れすぎた」という想いは、寅彦の「東洋城・寅日子・蓬里雨三吟の座」からの「蓬里雨破門」は、年長(六歳年上)の「兄事」する「漱石最側近」の「東洋城・寅日子」両人に対する「 狎(ナ)れすぎ」(「もたれすぎ」)という想いが、豊隆にとっては去来したことであろう。
 この寅彦の「東洋城・寅日子・蓬里雨三吟の座」からの「蓬里雨破門」は、その後の、この三者の交遊関係は、いささかも変わりなく、逆に、年少者の豊隆が、年長者の「東洋城・寅日子」を、陰に陽に支え続けていたということが、『寺田寅彦全集文学篇(第十五・十六・十七巻=書簡集一・二・三)・岩波書店』の、寅彦からの「豊隆・東洋城・安倍能成・津田青楓など」宛ての書簡から読み取れる。

[※ 歌仙(昭和十一年十一月「渋柿(未完の歌仙)」)

(八月十八日雲仙を下る)
霧雨に奈良漬食ふも別れ哉    蓬里雨
 馬追とまる額の字の上     青楓
ひとり鳴る鳴子に出れば月夜にて 寅日子    月
 けふは二度目の棒つかふ人   東洋城
ぼそぼそと人話しゐる辻堂に     雨
 煙るとも見れば時雨来にけり    子

皹(アカギレ)を業するうちは忘れゐて 城
 炭打くだく七輪の角        雨(一・一七)
胴(ドウ)の間に蚊帳透き見ゆる朝ぼらけ 子 (※茶の「胴炭」からの附け?) 恋
葭吹く風に廓の後朝(キヌギヌ)    城 恋
細帯に腰の形を落付けて        雨(六・四・一四) 恋
 簾の風に薫る掛香          子(八・二八) 恋
庭ながら深き林の夏の月       城(七・四・一三) 月  ](『寺田寅彦全集 文学篇 第七巻』)

※ この「四吟(蓬里雨・青楓・寅日子・東洋城)歌仙(未完)」は、当時の「東洋城・寅日子・蓬里雨・青楓」の、この四人を知る上で、格好の「歌仙(未完)」ということになる。
 この歌仙(未完)の、「表六句と裏一句」は、「昭和二年(一九二七)八月、小宮豊隆、松根東洋城、津田青楓と塩原温泉に行き、連句を実作する」(「寺田寅彦年譜」)の、その塩原温泉でのものと思われる。
 その塩原温泉(栃木県)での歌仙の、その発句に、「八月十八日雲仙を下る」の前書を付しての「霧雨に奈良漬食ふも別れ哉(蓬里雨)」の、この前書にある「雲仙(温泉)」(長崎県)が出て来るのはどういうことなのか(?) ――― 、この句の背景には、次のアドレスの「作家を求める読者、読者を求める作家――改造社主催講演旅行実地踏査――(杉山欣也稿)」(金沢大学学術情報リポトロジKURA)で記述されている「雲仙温泉」で開催された「改造社主催講演会」に、その講師として、小宮豊隆の名が出てくるのである。

file:///C:/Users/user/Downloads/CV_20231201_LE-PR-SUGIYAMA-K-203.pdf

[雲仙の温泉岳娯楽場を会場に、八月十七日~二十二日に開催された九州地区のそれは、やはり新聞各紙の広告によって宣伝が重ねられた。講師は、小宮豊隆・阿部次郎・木村毅・藤村成吉・笹川臨風に、課外講演として京大教授・川村多二(「動物界の道徳」というタイトル)が演壇に立った。「長崎新聞」の紙面から、ここも大盛況であったことが分かる。]

※この八月十七日の翌日(八月十八日)、雲仙温泉での講演を後にして、その帰途中に「東洋城・寅彦・青楓」と合流して、その折りの塩原温泉(四季の郷・明賀屋、近郊に、東洋城の「両面句碑」が建立されている)での一句のように解せられる。
 そして、裏の二句目の「炭打くだく七輪の角・雨(一・一七)」は、昭和六年(一九三一)一月十一日付けの、文音での、蓬里雨の付け句のように思われる。それに対して、「胴(ドウ)の間に蚊帳透き見ゆる朝ぼらけ・子」(寅日子・裏三句目)と「葭吹く風に廓の後朝(キヌギヌ)・城」と付け、同年の四月十四日に「細帯に腰の形を落付けて・雨」(蓬里雨・裏四句目)」、続く、同年の八月二十八日に「簾の風に薫る掛香・子」(寅日子・裏五句目)と付けて、その翌年の昭和七年(一九三二)四月十三日に「庭ながら深き林の夏の月・       城」(東洋城・裏六句目)」のところで打ち掛けとなっている。
 実に、昭和二年(一九二七)の八月にスタートした歌仙(連句)は、その五年後の、昭和七年(一九三二)の四月まで、未完のままに、そして、寅彦が亡くなった、翌年の、昭和十一年(一九三六)十一月「渋柿」(寺田寅彦追悼号)に公開されたということになる。

(以下、略)

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