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「風神雷神図」幻想(その六) [風神雷神]

『北斎漫画(三編)』の風神雷神図」と肉筆画の「雷神図」(その一)

 『北斎漫画(三編)』の「序」を起草したのは、「蜀山人」こと、当時の「戯作・狂歌・狂画」の中心に居した幕臣の「太田南畝」、その人である。
その「序」は、十一歳年上の、蜀山人の北斎への限りなき絶賛の言葉なのである。

「目にミえぬ鬼神ハゑがきやすく、まちかき人物ハゑがく事難し。たとへば古の燧(ひうち)ふくろ歟(か)ふくろも丸角ゑち川の新製に及ばず。七五三の式正ハ八百膳が食次冊にしかざるがごとし。こゝに葛飾の北斎翁、目に見、心に思ふところ、筆を下してかたちをなさゞる事なく、筆のいたる所、かたちと心を尽さゞる事なし。(以下、略)」

 そこに、北斎の「風神雷神図」が収載されている。

北斎漫画一.jpg

『北斎漫画三編』の「風神雷神図」

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/851648

国立国会図書館デジタルコレクション - 北斎漫画. 3編

この「風神雷神図」に続けて、「天狗(てんぐ)」「狒々(ひひ)」「幽呉(ゆうれい)」「山姥(やまうば)」「海市(かいし)」「船鬼(ふなゆうれい)」などが続くのである。

 『北斎漫画』の「初編」は、文化十一年(一八一四)、「二編」と「三編」は、その翌年の文化十二年(一八一五)に刊行された。「初編」の号は、「葛飾北斎」そして、「二編・三編」の号は、「北斎改葛飾戴斗」と、「北斎」から「戴斗」に改まっている。
 北斎の画号の変遷などは、概略、次のとおりである。

一  1779(安永8)年~94(寛政6)年 20~35歳
勝川春朗を名乗り、細版の役者絵、黄表紙の挿画に着手する。

二  1795(寛政7)年~98(寛政10)年 36~39歳
俵屋と称した琳派の巨匠が用いた画名を取り、百琳宗理、菱川宗理などを名乗る。狂歌絵本の挿画、摺物、肉筆画を手がける。

三  1798(寛政10)年~1810(文化7)年 39~51歳
北斎辰政(ときまさ)を名乗る。初めて北斎という号を使用。北辰とは北極星を指す。
1801(享和元)年~1808(文化5)年 42~49歳(画狂人北斎を名乗り、肉筆画、摺物に精を出す。)

四  1805(文化2)年~18(文政元)年 46~60歳
葛飾北斎、または葛飾戴斗(たいと)を名乗る。1814(文化11)年~19年(文政2)年、55~60歳の時、『北斎漫画』初編から10編までを描く。絵を描く人々や職人のための図案の手引書として森羅万象3000種のデッサンを網羅する。

五  1820(文政3)年~35(天保6)年 61~76歳
前北斎為一(いいつ)を名乗る。職人のための図案集である絵手本『今様櫛雛形』、風景画の傑作『冨嶽三十六景』などを描いた。

六  1834(天保5)年~49(嘉永2)年 75~90歳
画狂老人もしくは画狂老人卍を名乗る。絵本『冨嶽百景』などを制作する。

 上記の画号の変遷による「葛飾戴斗」、その「1814(文化11)年~19年(文政2)年、55~60歳の時、『北斎漫画』初編から10編までを描く」の、その『北斎漫画』時代が、いわゆる、前半生の「葛飾北斎」の頂点の時であったろう。
 
 ここで『北斎漫画』の「漫画」とは、「笑い(コミック)」を内容とした「戯画(カリカチュア)」ではない。それは、北斎の前半生の総決算ともいうべき、「浮世絵」の「絵師・彫師・塗師」の、その「絵師(「版下・原画を担当する絵師)」の、その総決算的な意味合いがあるものと解したい。
 そして、この『北斎漫画』を忠実にフォローしていた、当時の絵師の一人として、日本に西洋医学を伝えたドイツ人医師・シーボルトの側近の絵師・川原慶賀が居る。この川原慶賀については、以下のとおりである。

【天明6年長崎今下町生まれ。通称は登与助、字は種美。別号に聴月楼主人がある。のちに田口に改姓した。父の川原香山に画の手ほどきを受け、のちに石崎融思に学んだとされる。25歳頃には出島に自由に出入りできる権利を長崎奉行所から得て「出島出入絵師」として活動していたと思われる。文政6年に長崎にオランダ商館の医師として来日たシーボルトに画才を見出され、多くの写生画を描いた。文政11年のシーボルト事件の時にも連座していた。また、天保13年にその作品が国禁にふれ、長崎から追放された。その後再び同地に戻り、75歳まで生存していたことはわかっている。画法は大和絵に遠近法あるいは明暗法といった洋画法を巧みに取り知れたもので、父香山とともに眼鏡絵的な写実画法を持っていた。来日画家デ・フィレニューフェの影響も受けたとみられる。】

https://blog.goo.ne.jp/ma2bara/e/433eda67b8a4494aed83f88d08813179

 この川原源資が模写した、北斎の「風神雷神図」がある。

北斎 二.jpg


『幕末の“日本”を伝えるシーボルトの絵師 川原慶賀展』(西武美術館 1987)

http://froisdo.com/hpgen/HPB/entries/77.html

 この川原慶賀が模写した「風神雷神図」は、オランダの「ライデン国立民族学博物館」に収蔵されている。それらは、シーボルト(1796~1866)が寄贈したものの一部なのであろう。
シーボルトは、 ドイツの医者・博物学者。1823(文政六)年オランダ商館医官として来日。長崎の鳴滝塾で診療と教育を行い、多くの俊秀を集めた。28(文政十一)年離日の際、日本地図の海外持ち出しが発覚、国外追放となる(シーボルト事件)。59(安政六)年再来日。著「日本」「日本動物誌」「日本植物誌」などがある。
シーボルトと北斎との出会いは、1826(文政九)年に、シーボルトがオランダ商館長(カピタン)の江戸参府に随行し、時の将軍、徳川家斉に謁見した頃に当たるのであろう。この時、北斎は六十七歳の頃で、為一の画号時代ということになる。
この商館長の江戸参府は、四年毎に参府することが義務付けられていて、この1826(文政九)年の参府の折りなどに、北斎(北斎と門弟による「北斎工房」)に、江戸の風景や人々の日常風景などを題材にした浮世絵などを注文し、次の参府の際に完成した作品を引き取るといった流れで、為されていったようである。
シーボルトの場合は、単に、浮世絵などの蒐集の他に、文学的・民族学的コレクション、当時の日用品や工芸品、植物学、地理学など様々な分野から大量のコレクションを蒐集し、それらが、オランダの「ライデン国立民族学博物館」に収蔵されているということなのであろう。
このシーボルトのオランダの「ライデン国立民族学博物館」のルートの他に、「フランス国立図書館」ルートのものもあり、これらが一同に会して、2007年12月4日(火)~2008年1月27日(日)に江戸東京博物館に於いて「北斎 ヨーロッパを魅了した江戸の絵師」が公開されたのであった。

https://www.edo-tokyo-museum.or.jp/s-exhibition/special/1659/北斎%E3%80%80ヨーロッパを魅了した江戸の絵師/

 ここで、シーボルトのお抱え絵師の「川原慶賀」の作品と、シーボルトなどが特注した「北斎と北斎工房」の作品とは異質のものであるが、「北斎漫画」やその下絵に準拠している作品と解すると、広い意味での「北斎工房」の作品と解しても差し支えなかろう。
 
 とした上で、冒頭の『北斎漫画三編』の「風神雷神図」と、上記の『幕末の“日本”を伝えるシーボルトの絵師 川原慶賀展』(西武美術館 1987)とを、相互に比して行くと、まざまざと、「北斎」作品と「北斎工房(川原慶賀作を含めて)」作品とでは、「形(かたち)」は同じであっても、その「心(こころ・狙っているところのもの)」の、その落差が大きいことを実感する。それは、「北斎(その人)」と「北斎らしさ(北斎らしき人)」との、歴然とした相違点ということなのかも知れない。
 
 すなわち、オランダの「ライデン国立民族学博物館」に収蔵されている。『幕末の“日本”を伝えるシーボルトの絵師 川原慶賀展』(西武美術館 1987)の、その「風神雷神図」は、それは、紛れもなく、北斎を私淑する。「北斎派の一人」の、当時の鎖国下における長崎の「出島出入絵師・川原慶賀」の作品の一つと解すべきなのであろう。
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「風神雷神図」幻想(その五) [風神雷神]

暁斎の「貧乏神図」と北斎の「風神図」

 河鍋暁斎をして、「”デラシネ”の哀しみを生き抜いた画家」((『もっと知りたい 河鍋暁斎(狩野博幸著)』所収「はじめに(狩野博幸稿)」)と喝破したものに出会った。その「”デラシネ”」とは「故郷喪失者」(フランス語=déraciné)とのことであった。
 この「”デラシネ”」は、そもそもは「根無し草」の意で、「故郷喪失者」は、その派生語ということになろう。そして、暁斎は、この派生語の「故郷喪失者」よりも、その本来の意味の「根無し草」の方が、より適切なような印象を受けるのである。
 その「根無し草」に関連して、暁斎は、「駿河台狩野派の画家」と「歌川国芳派の浮世絵師」との、その二刀流での「根無し草」との観点で、大雑把に鑑賞されるのが定石なのだが、この大雑把の見方に、「画狂人・葛飾北斎の継承者」という一刀流を加え、暁斎は、「駿河台狩野派の画家」と「歌川国芳派の浮世絵師」と「画狂人・葛飾北斎の継承者」との、「”デラシネ”」の三刀流の使い手という視点で、その「暁斎の世界」を見て行きたいのである。

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暁斎「貧乏神図」一幅 紙本着色 明治十九年(一八八六) 福富太郎コレクション資料室蔵 一〇二・五×二九・七cm 
【暁斎の作品のなかで唯一点選べと言われたら、苦しみながらもこの絵を挙げるだろう。かかる絵を描く画家も画家なら、描かせる注文主も相当な人物なのではなかろうか。貧乏神のアイコンの渋団扇を背中に背負い、墨とわずかばかりの胡粉のみで描かれた貧乏神のすがたは、掛軸を下ろしてゆくときでさえ、その貧乏が汚染(うつ)るような気がするほどだ。だが、想起しよう。蕭白、芦雪、北斎、国芳の誰ひとりとしてこんな絵は描いていない。 】
 (『もっと知りたい 河鍋暁斎(狩野博幸著)』 

 この「作品解説」の「蕭白、芦雪、北斎、国芳の誰ひとりとしてこんな絵は描いていない」に。狩野探幽を加えて、逆説的に、「暁斎は、『探幽、蕭白、北斎、国芳』から『”デラシネ”』(根無し草)のように、多くのものを摂取した」と換言することも出来よう。
 この「貧乏神図」ですると、探幽から「筆力の冴え」を、蕭白から「破天荒な表現力」を、芦雪から「斬新な構図と機知力」を、北斎から「飽くなき追及力」を、国芳から「職人芸な巧みと諷刺力」を、この一図の中に、それこそ「”デラシネ”」(根無し草)のように、縦横無尽に取り入れているということになる。
 もっと、焦点を絞って具体的に指摘すると、この「貧乏神図」は、芦雪の「山姥」の世界を基調としている(その背中の「渋団扇」などは、「山姥」の背中の「破れ笠」そのものという感じである)。また、この衣などは、蕭白の「蝦蟇・鉄拐仙人図」などのアレンジの雰囲気で無くもない。そして、この人物のあばら骨などは、国芳の骸骨の「解剖図」を見る如しである。さらに、この人物の描線の正確無比さは、探幽の、その「探幽縮図」などが思い起こされて来る。そして、何よりも、この人物の表情などは、北斎の、十五編にわたる『北斎漫画』などの人物像を、自家薬籠中の物としている証左という印象を深くするのである。

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芦雪筆「山姥図」絹本着色 一五七・〇×八四cm 広島・厳島神社

 この芦雪の「山姥」と「金太郎」、そして、暁斎の「貧乏神」とを、根源一体化したような日本画に、未だにお目にかかったことはない。ただ一つ、ピカソの「青の時代」の「海辺の母子像」に、その余韻を感じるのは、これは「連想」というよりも、「幻想」ということなのかも知れない。


【パブロ・ピカソ 《海辺の母子像》 1902年 油彩/カンヴァス 81.7 x 59.8 cm

20歳のピカソが描いた「青の時代」(1901-1904年)の作品です。ピカソは、親友カサジェマスの死をきっかけに、生と死、貧困といった主題に打ち込み、絵画からは明るくあたたかな色彩が消え、しだいに青い闇に覆われていきました。ピカソの「青の時代」の絵画には、純粋さ、静けさ、あるいは憂鬱など、さまざまなイメージを喚起する「青=ブルー」が巧みにもちいられています。
この作品は、ピカソが家族の住むスペインのバルセロナに帰郷していた頃に描かれました。夜の海岸に、母親が幼子を胸に抱いてたたずんでいます。地中海をのぞむこの海岸は、ピカソが通った美術学校の目の前に広がる浜辺で、ピカソが親友カサジェマスと過ごした学生時代の思い出の場所です。母親がまとう衣は、スペイン人が熱心に信奉するキリスト教の、聖母マリアの青いマントを思わせます。蒼白い手を伸ばして赤い花を天へと捧げる姿には、亡き友人へのピカソの鎮魂の祈りが重ねられているのかもしれません。】

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ピカソ「海辺の母子像」1902年 油彩/カンヴァス 81.7 x 59.8 cm

www.polamuseum.or.jp/collection/highlights3/

 さて、冒頭の「貧乏神」に戻って、この「貧乏神」は、談林俳諧の大宗匠で浮世草子の元祖でもある井原西鶴の『日本永代蔵』に登場するようである(巻六「祈る印の神の折敷」)。
北斎の『北斎漫画』には、この西鶴は出て来ないが、西鶴と同時代の、談林俳諧ならず蕉風俳諧の創始者「芭蕉之像」が出て来る。
 それは『北斎漫画七編』で、この序文は、戯作者の式亭三馬で、北斎より十六歳年下の三馬は、『浮世風呂』や『浮世床』などの滑稽本で、当時の有名作家の一人である。この三馬などは、元禄時代の西鶴の流れを汲む作家ということになろう。
 元禄時代の西鶴と芭蕉とは、まるで正反対のお二人で、三馬が西鶴派とすれば、北斎も暁斎も、「侘び・寂び・幽玄閑寂・風雅の誠」等々の、芭蕉派ではなく、「新奇・奇抜・奇計・
諷刺・駄洒落・夢幻の戯言」等々の、西鶴派ということになろう。
 何故に、『北斎漫画七編』に「芭蕉之像」かというと、この七編は、「国々名所の地風雨霜雪のけいしよくをうつす」ということで、「国々を放浪している漂泊・乞食の詩人・芭蕉」に対する、一種のパロディ(揶揄・諷刺)なのであろう。

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『北斎漫画七編』の「扉絵」(「芭蕉之像」)

 この「芭蕉之像」の、「竹の杖」は、何処となく「貧乏神図」の、その貧乏神が持っている杖と一脈通じ合っている印象と、それよりも、その貧乏神の、細長い顔が、この芭蕉の細長い顔の「パロディ」(逆説的な見立て=宗匠頭巾を取って、無精ひげを生やし、目を藪睨みにする)という印象すら抱くのである。

 実は、『北斎漫画三編』に、北斎の「風神雷神図」があり、この「風神図」が、どうにも、暁斎の「貧乏神図」の「貧乏神」に、これまた、何処となく、相通じているような印象を抱くのである。
 
 ここで、これらの一連の暁斎と北斎とを辿って行くと、次のような「ドラマ」(幻想)をフォローしていたということになる。

一 芭蕉は、『北斎漫画七編』で、しばし、「老樹の松」の下で、旅の疲れを癒している。

二 そこで、夢を見たのは、『北斎漫画三編』の、「貧乏神」さながらの「風神」の風体をして、宇宙の果て放浪している、「彷徨える一匹の鬼」の姿影であった。

三 そして、夢から覚めると、そこには、暁斎の描く「貧乏神図」の、その「貧乏神」さながらに、「狭い土俵で、そこから一歩も踏み出せない、己の自画像」の、それであった。

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『北斎漫画三編』の「風神雷神図」中の「風神図(一部・拡大)」
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「風神雷神図」幻想(その四) [風神雷神]

暁斎の「鍾馗図」と「雷神図」

鍾馗一.jpg

暁斎「鬼碁打図(おにのごうちず)」絹本着色 明治十ニ年(一八二九)または十八年(一八八五)以降 一二八・八×五五・一cm 東京国立博物館蔵
【鬼たちが碁打ちに興じているくつろぎの場に、鍾馗が剣をかざし、今まさに乱入しようとしているところを描く。本来鍾馗は邪悪な鬼を退治してくれる正義の味方であるが、ここでは職権を乱用する明治政府の官憲に見立てられているかのようだ。煙管をくわえて相手の一手をじっと見つめる鬼の目は真剣で、観戦する鬼も対局に集中し、乱入しようとする鍾馗に全く気づいていない。本図を見た人は、鬼たち逃げろ、と鬼を応援したに違いない。】
『別冊太陽 河鍋暁斎 奇想の天才絵師(安村敏信監修)』所収「作品解説(安村敏信稿)」

 この「鬼たち逃げろ」の、「逃げ惑う鬼たち」の図もある。

鍾馗二.jpg

暁斎「鍾馗ニ鬼図」双幅 絹本着色 明治四年(一八七一)以降
各一七一・五×八四・七cm 板橋区立美術館蔵
【鍾馗は中国の故事に現われる神で、疫鬼を退け魔を除くという。日本では五月幟に描くほか、朱で描いたものは疱瘡除けになるとされる。暁斎も得意の画題として力強い鍾馗を度々描いているが、本図は縦が一七〇cm以上という大画面の傑作である。暁斎は、力強く肥痩の強い墨線や岸壁の皺法など、伝統的な狩野派の筆法を自在に用いている。とはいえ、本図の眼目は鍾馗ではなく、左幅の逃げ惑う鬼たちであろう。本図において、鍾馗は小鬼の生活を脅かす暴れ者でしかないようだ。 】
『別冊太陽 河鍋暁斎 奇想の天才絵師(安村敏信監修)』所収「作品解説(佐々木江里子稿)」

 ここでも、鍾馗は、邪悪な鬼を退治してくれる正義の味方ではなく、「小鬼の生活を脅かす暴れ者でしかない」というのである。この「暴れ者」は、「鬼碁打図」と同じく、「職権を乱用する明治政府の官憲に見立てられている」と、同じような視点ということになろう。
 この「縦が一七〇cm以上という大画面の傑作である」鍾馗に鬼図は、その制作年次が、
明治四年(一八七一)以降ということになると、明治三年(一八七〇・四十歳)時の「筆禍事件」による投獄と、その翌年の、「一月 笞(ち)五十の刑を受けて放免となり、師家の狩野家に引渡される。五~十月、修善寺温泉で静養。沼津の母を訪ねる」などが、その背景となっているのかも知れない。

鍾馗三.jpg

暁斎「崖から鬼を吊るす鍾馗」一幅 紙本淡彩 イスラエル・ゴールドマンコレクション蔵
明治四年(一八七一)以降 

 こうなると、この鍾馗は、正義の味方どころか、弱きものを弄る大魔王のような形相と化して来る。そして、この鬼は、駿河台狩野派に入門した頃、「画鬼、画鬼」と可愛がられて、爾来、そのあだ名の「画鬼」を生涯のあだ名にしている、「画鬼・狂斎(暁斎)」の分身のように思われて来る。
 同時に、やはり、これらの「鍾馗と鬼」図関連のものは、明治三年(一八七〇・四十歳)時の「筆禍事件」による投獄と、その翌年の、「笞(ち)五十の刑を受けた」ことなどが、その背景にあるような印象を深くする。
 この「崖から鬼を吊るす鍾馗」図の他に、「鬼を蹴り上げる鍾馗」図(一幅)もあるが、これらは、同時の頃の作と解したい。
 さて、この「崖から鬼を吊るす鍾馗」と、同一構図のような、次の「雷神図」(河鍋暁斎記念博物館蔵)がある。

雷神図一.jpg

暁斎「風神雷神図」(双幅)のうちの「雷神図」(右幅)絹本着色 河鍋暁斎記念博物館蔵
(他に「風神図(左幅)」) 右110.9×31.9  左111.0×31.9 

 これは、平成二十八年(2016)に、富山県水墨美術館(富山市五福)で開催された「鬼才-河鍋暁斎展 幕末と明治を生きた絵師」で、展示されたものの一つである。この「雷神図」について、次のとおり紹介されている。

【自然現象を神格化した図像は、世界各地で発見されている。風と雷を鬼神として表現した図像で最初期のものは、6世紀の中国・敦煌莫高窟(ばっこうくつ)で発見された。日本では、鎌倉時代から盛んに描かれている。最も有名なのは、江戸時代に俵屋宗達が作った国宝「風神雷神図屏風(びょうぶ)」だろう。
 宗達の屏風では、雷神を左、風神を右に配置しているが、暁斎が学んだ狩野派では逆。本作も左幅に風神、右幅に雷神を描く。
 この雷神は黒々とした暗雲が立ち込める中、海に落とした太鼓を引き上げようと網を下ろす。ユーモアあふれる姿は、民俗絵画の大津絵に影響を受けたとみられる。海の荒々しい波は、左幅の風神によって蹴り立てられたもの。
 風神の姿を見たい向きは会場でぜひ。 】

http://webun.jp/item/7295284

 また、この時に、展示された作品については、次のアドレスで見ることが出来る。

http://www.city.hekinan.aichi.jp/tatsukichimuseum/temporary/pdf/Kyosai-List.pdf

 この紹介記事の「海の荒々しい波は、左幅の風神によって蹴り立てられたもの」というのだが、この「荒々しい波」は、上記の「鍾馗ニ鬼図」の「左幅」の「逃げ惑う鬼」の足元の「波」と類似している。
 とすると、この左幅の「風神図」は、上記に紹介した「鬼」のどれかの風姿で、とにもかくにも、「波」を蹴り立て、宝道具の「風袋」を追うように天空に舞い上がろうとしている、そんな「風神」図なのかも知れない。

(追記)暁斎「風神雷神図」(双幅)のうちの「風神図」(左幅)

暁斎・風神図.jpg

『特別展覧会 没後一二〇年記念 絵画の冒険者 暁斎 近代へ架ける橋(京都国立博物館)』
所収「作品解説35」 暁斎「風神雷神図」(双幅)のうちの「風神図」(左幅)

この「風神」は、宗達画の「雷神のポーズ」で、その視線は、落下先に向けられ、雷神の失態をとがめる表情に描かれている。
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「風神雷神図」幻想(その三) [風神雷神]

河鍋暁斎の「風神雷神図」(三)

風神図.jpg

暁斎「鷹に追われる風神図」一幅 紙本墨画淡彩 明治十九年(一八八六)
一三四・五×四一・四cm イスラエル・ゴールドマンコレクション蔵
【日本絵画の傑作、俵屋宗達の「風神雷神図」(国宝、建仁寺)は、尾形光琳以降も酒井抱一、鈴木其一らによって模写されたし、あるいは、その「こころ」を受け継いだ作品にもなった。其一の娘を嫁にしたこともある暁斎である。「風神雷神」の作は結構描いているが、そのなかでも本図はすこぶる愉しい。暴風の神「風神」は突然現れて人を驚かすのだが、その風神が鷹に襲われて逃げまどうすがたで、まったく暁斎って画家は!? コンドル旧蔵。 】 (『もっと知りたい 河鍋暁斎(狩野博幸著)』 )

 「ゴールドマン コレクション これぞ暁斎! 世界が認めたその画力」展が、昨年(2017)、次の四会場で開催された。

2017年/2月/23日(木)~4月/16日(日) → Bunkamura ザ・ミュージアム
  2017年4月22日(土)~6月4日(日)  → 高知県立美術館
  2017年6月10日(土)~7月23日(日) →  美術館「えき」KYOTO
  2017年7月29日(土)~8月27日(日) →  石川県立美術館

 そこで、「イスラエル・ゴールドマンコレクション」について、次のとおり紹介している。

【ハーバード大学で美術史を学んだイスラエル・ゴールドマン氏は、浮世絵に興味を抱き、ロンドンで画商の道を歩み始めました。江戸時代の挿絵本、浮世絵の大家ジャック・ヒリアー氏の薫陶を受け、日本文化に対する深い知識を育みます。あるときゴールドマン氏はオークションで暁斎の「半身達磨」(第6章)を入手しました。その質の高さに驚愕した彼は、その後「暁斎」の署名の入った作品を意識的に集めるようになりました。「象とたぬき」の小品はもともと画帖であったものを、ニューヨークの画商がバラバラに市場に出したうちの一枚でした。ゴールドマン氏はそのうちの数点を入手し、ある顧客に転売してしまいました。しかし「象とたぬき」のことが忘れられず、後日その顧客に頼み込んで返してもらいます。今日では世界有数の質と量を誇るゴールドマン氏の暁斎コレクションは、ここから始まったのです。】

http://www.bunkamura.co.jp/museum/exhibition/17_kyosai/introduction.html

 また、この展覧会に携わった方が「学芸員のコラム」を寄せている。

http://www.bunkamura.co.jp/museum/exhibition/17_kyosai/column.html

【その一 伝統を探究し、伝統で遊ぶ絵師、河鍋暁斎(Bunkamuraザ ・ ミュージアム 学芸員 黒田和士)

狩野派と浮世絵のあいだで (略)

伝統を転回させた世界   (略)

国内そして海外での評判  (抜粋)
「狩野派の絵師でありながら戯画も描き、浮世絵師としても活躍した暁斎を当時の世間はどう見ていたのであろうか。本来、狩野派絵師が戯画や浮世絵などを描くことは、褒められたことではなかった。しかし浮世絵を描き始めたのちの安政6(1859)年にも、暁斎は芝増上寺の黒本尊院殿の修復に駿河台狩野派の一員として参加している。また明治3(1870)年には書画会で酔中に描いた絵が、居合わせた官吏の目に留まり投獄される羽目にもなっているが、明治9(1876)年にはフィラデルフィア万国博覧会に博物館事務局から出品を依頼されている。世間は暁斎の振る舞いに戸惑いつつも、その画力を認めざるを得なかったのである。そして明治14 (1881)年の第二回内国勧業博覧会では、出品作のうち枯木に佇む鴉を一気呵成に描き上げた《枯木寒鴉図》(榮太樓總本鋪蔵)が実質上の最高賞である妙技二等賞牌を得た。その賞状に記された「平生の戯画の風習を取り払ったこの作品の妙技は実に褒め称えるべきものである」という評は、暁斎に対する世間の印象を如実に物語っているといえよう。」

絵画的探究と遊び    

「晩年に出版された『暁斎画談』には、暁斎が絵画研究のために探し求めた先人たちの絵画の写しが多数掲載されている。そこには中世絵画に始まり、歴代の狩野派絵師、巨勢派、土佐派、円山派、浮世絵師のほか、中国絵画や西洋の解剖図まで、当時知り得たあらゆる様式の絵画が網羅されており、さながら美術史全集のようである。暁斎は伝統を研究して我がものとすることを求め、時代や文化の担い手を問わずあらゆる図様に精通した。ただし『暁斎画談』に示される絵師としての熱意は、戯画に表われるユーモアとも必ずしも矛盾しない。暁斎は類まれなる優れた仏画や動物画を描く一方で、自らが得た画力と知識を使って最大限に遊んだ。そしてまた、今日の我々にもその世界で遊ぶことを許してくれるのである。

その二 生き生きとした骸骨と伝説の遊女(Bunkamuraザ ・ ミュージアム 学芸員 黒田和士) (略)

その三 河鍋暁斎の席画と本画(Bunkamuraザ ・ ミュージアム 学芸員 黒田和士) (略) 】

 上記の「学芸員のコラム」で、興味深いことは、「本来、狩野派絵師が戯画や浮世絵などを描くことは、褒められたことではなかった」「《枯木寒鴉図》(榮太樓總本鋪蔵)が実質上の最高賞である妙技二等賞牌を得た。その賞状に記された「平生の戯画の風習を取り払ったこの作品の妙技は実に褒め称えるべきものである」という評は、暁斎に対する世間の印象を如実に物語っているといえよう」という点である。
 これらのことは、「狩野派の絵師は、戯画や浮世絵には手を染めない」ということと、暁斎が《枯木寒鴉図》(前回に紹介)で最高賞を得たのは、『「平生の戯画の風習を取り払った作品の妙技」にあり、すなわち、「戯画」ではなく、狩野派流の「本画」(この作品では「水墨寒鴉図」)として評価する』ということに他ならない。
 これらのことを、「狩野派=歌人」「浮世絵=俳人」「戯画=川柳人」ということで例えると、「歌人は、俳句や川柳には手を染めない」ということと、「《枯木寒鴉図》は、和歌の世界であり、俳句や川柳の臭さがない点を評価する」ということに換言することが出来よう。
 ここで、「戯画」の簡単な定義は、「たわむれに描いた絵。また、風刺や滑稽をねらって描いた絵。ざれ絵。風刺画。カリカチュア」、そして、「カリカチュア」とは、「事物を簡略な筆致で誇張し、また滑稽化して描いた絵。社会や風俗に対する風刺の要素を含む。漫画。戯画。風刺画」(『大辞林』)とでもして置きたい。
 そして、暁斎の「戯画」は、この定義の他に、上記の「学芸員のコラム」の「絵画的探究と遊び」の、この「遊び」の比重が大きく、そして、それらが、暁斎の飽くなき「絵画的探究」(「そこには中世絵画に始まり、歴代の狩野派絵師、巨勢派、土佐派、円山派、浮世絵師のほか、中国絵画や西洋の解剖図まで、当時知り得たあらゆる様式の絵画が網羅されており」)とが絶妙に調和・結合している点に、暁斎の「戯画」の特色がある。
 このような観点から、冒頭の「鷹に追われる風神図」は、暁斎の「戯画」の世界のもので、その「作品解説」にあるとおり、「すこぶる愉しい」風神図ということになる。しかし、それだけではなく、この「鷹」に、もう一つの趣向を、暁斎は隠しているようなのである。

花鳥図.jpg

暁斎「花鳥図」一幅 絹本着色 明治十四年(一八八一)
一〇ニ・四×七一・二cm 東京国立博物館蔵
【第二回内国勧業博覧会に例の「枯木寒鴉図」とともに「蛇雉子ヲ巻ク図」の題で出品された。実は雉子はこのあと羽根をいきなり開いて蛇を裂き、喰い殺すことは皆が知っている。だが、その雉子を鷹が狙っているのだ。その瞬間を子鷹が静かに待っているというのが、この絵の眼目である。花々の鮮やかな色彩の乱舞に眼を奪われては、画家の術中に陥るばかりであろう。 】 (『もっと知りたい 河鍋暁斎(狩野博幸著)』 )

 この若冲の「動植綵絵」を連想させるような、暁斎の「花鳥図」の、この父子の「鷹」に注目していただきたい。この父の「鷹」は、この「蛇」を食い殺す「雉子」を喰い殺すのである。そして、その喰い殺す様を、子の「鷹」に伝授するのである。
 とすると、冒頭の「作品解説」の、「本図はすこぶる愉しい。暴風の神「風神」は突然現れて人を驚かすのだが、その風神が鷹に襲われて逃げまどうすがたで、まったく暁斎って画家は!?」はの、その「すこぶる愉しい」図であることか、「瀧」の流れよりも速い、獰猛な「鷹」が襲い掛かるのを、「真っ青」になって、「逃げ惑う風神ならず獲物」の「必死の様」の図で、「生き物たちの過酷な闘い」と解すると、「冷酷無比」の図ということになる。
 ここにも、先に(「その一」で)見てきた、暁斎の「二重性の世界」の、「正統(体制派)と異端(反体制派)」「狩野派(本画派)と歌川派(浮世絵派)」「江戸(近世)と東京(近代)」
等々に加え、「喜劇と悲劇」との、その「二重性の世界」を垣間見る思いを深くするのである。
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「風神雷神図」幻想(その二) [風神雷神]

河鍋暁斎の「風神雷神図」(二)

 平成二十七年(二〇一五)に「東京芸術大学大学美術館」と「名古屋ボストン美術館」で開催された、「ダブル・インパクト 明治ニッポンの美」は、「江戸(近世)から東京(近代)」への激動期の日本の絵画の動向を知る上で画期的なものであった。 
 このネーミングの「ダブル・インパクト」の「ダブル」とは、「東京芸術大学」と「ボストン美術館」とを指し、その「インパクト」というのは、「相互交流」のようなことを意味してのものなのであろう。
 何故に、「東京芸術大学」と「ボストン美術館」なのかというと、それは、「東京芸術大学」の創設した原動力が、「岡倉天心とアーネスト・フェノロサ」の両人であり、そして、「ボストン美術館」の初代の「東洋部長」が、「アーネスト・フェノロサ」であり、その後を引き継いだのが「岡倉天心」であると、この両人を意図してのものなのであろう。
 このボストン美術館には、「フェノロサ」の知己の、大森貝塚の発見者の「モース」、そして、岡倉天心の「日本美術院」の創設に寄与した、医師の「ビゲロー」の、この三人が、日本の美術の蒐集に当たり、それらの、「フェノロサ=ウェルド・コレクション」や「ビゲロー・コレクション」が、ボストン美術館所蔵の日本関係の美術品(約十万点)の中心になっている。
 平成十一年(一九九九)には、このボストン美術館の姉妹館として「名古屋ボストン美術館」がオープンして、ボストン美術館所蔵の優れたコレクションを恒常的に紹介するまでに、ボストン美術館と日本との結びつきは深い。
 さて、ボストン美術館所蔵の日本美術品に多く関わったフェノロサとビゲローのお二人が、共同して購入したのが、先に紹介した、「風神雷神図」(ボストン美術館)である。ここで、それらを再掲して置きたい。

風神雷神一.jpg

河鍋暁斎筆「風神雷神図」 明治十四年(一八八一)以降 双幅 絹本着色 ボストン美術館蔵 各一一四・三×三五・五cm 

【 本図は虎屋本と風雷神の左右が逆で、琳派系の配置となっている。金泥まで使った彩色も施され、風神の輪郭線はことさら強調されている。風神の下方には強風に舞い散る紅葉が描かれ、雷神には金泥で小鼓が描かれ、稲妻も金泥や朱を取りまぜて描かれる。風神の体が青、雷神が赤という色は探幽本にならったもので、雷神の小鼓や稲妻に金泥を使うのも探幽本にみられる。両神の背景に渦巻く暗雲の表現は墨のにじみを効果的に使っている。 】 『別冊太陽 河鍋暁斎 奇想の天才絵師(安村敏信監修)』所収「作品解説(安村敏信稿)

 この「風神雷神図」が、フェノロサとビゲローとで、共同して購入したということについては、次のものに因っている。

【ボストン美術館】
 キュレーターの協力を得て収蔵室の戸棚を探したところ、フェノロサ旧蔵品から絹本彩色の風神図、ビゲロウ・コレクションから同じく雷神図が見つかった。本来双幅だったものを二人で購入したことが分かり、以来一緒に展示されるようになった。同館には他にビゲロウ寄贈の「猿」「鴉」「布袋」「花魁」の図がある。
『別冊太陽 河鍋暁斎 奇想の天才絵師(安村敏信監修)』所収「回想 暁斎作品海外探索記(山口静一稿)」

 ここで、暁斎の、明治十四年(一八八一)から明治十九年(一八八六)までの動向を追うと、次のとおりである。

【☆ 明治十四年(1881)
 ◯「絵本年表」(〔漆山年表〕は『日本木版挿絵本年代順目録』〔目録DB〕は「日本古典籍総合目録」)
 ◇絵本(明治十四年刊)
   河鍋暁斎画
   『暁斎漫画』初編一冊 画工河鍋洞郁 牧野吉兵衛板〔漆山年表〕
   『暁斎画譜』二帖   河鍋洞郁図  武田伝兵衛板〔漆山年表〕
 ◯ 第二回 内国勧業博覧会(三月開催・於上野公園)
  (『内国勧業博覧会美術出品目録』より)
   河鍋暁斎
    河鍋洞郁 本郷区湯島四丁目
     掛物地(三)絹 国姓爺南洋島城中放火ノ図 彩色画
     掛物地(一)絹 妲巳蠆盆刑ヲ看ル図    彩色画
     掛物地(二)絹 蛇雉子ヲ巻ク図      彩色画
    河鍋洞郁 枠張掛物地(四)絹 枯木ニ烏ノ図 墨画
 
☆ 明治十五年(1880)
  ◯「絵本年表」(〔漆山年表〕は『日本木版挿絵本年代順目録』)
  ◇絵本(明治十五年刊)
   河鍋暁斎画『暁斎酔画』三冊 河鍋洞郁画〔漆山年表〕
  ◯『【明治前期】戯作本書目』(日本書誌学大系10・山口武美著)
  ◇開化滑稽風刺(明治十五年刊)
   河鍋暁斎画『民権膝栗毛』初編二冊 暁斎画 蛮触舎蘇山著 二書房
 ◯ 内国絵画共進会(明治十五年十月開催 於上野公園)
  (『近代日本アート・カタログ・コレクション』「内国絵画共進会」第一巻 ゆまに書房 2001年5月刊)
  ◯第二区 狩野派
   河鍋洞郁 狩野派 号暁斎 風神・雷神
 
☆ 明治十六年(1883)
  ◯『【明治前期】戯作本書目』(日本書誌学大系10・山口武美著)
  ◇開化滑稽風刺(明治十五年刊)
   河鍋暁斎画『滑稽笑抱会議』三巻 暁斎画 井上久太郎著 北村孝二郎
 
☆ 明治十九年(1886)
 ◯『東洋絵画共進会論評』(清水市兵衛編・絵画堂刊・七月刊)
  (東洋絵画共進会 明治十九年四月開催・於上野公園))
「河鍋暁斎は開場後参観の序、諸子の請に応じ即座に筆を染め、咄嗟の間に五葉の疎密画を写せし由なれど、雷神女観音の如き筆勢飛動衣紋舞ふが如く、賦色精明他人十日の効力を用ゆるも此妙画を造る能はざるべし。腕力勁健、筆墨精熟に至ては東京の画家恐くは共に鋒を争ふものなしと云ふも過賞にあらざるべし。」】浮世絵文献資料館

http://www.ne.jp/asahi/kato/yoshio/kobetuesi/kyosai.html

 この暁斎の動向記事から、興味深いことを記して置きたい。

一 明治十四年(1881)「第二回 内国勧業博覧会(三月開催・於上野公園)」に「河鍋洞郁 枠張掛物地(四)絹 枯木ニ烏ノ図 墨画」を出品する。

 これが、次の「枯木寒鴉図(こぼくかんあず)」で、その作品解説は次のとおりである。

「明治十四年(1881)の第二回内国勧業博覧会に出品され、最高賞である妙技二等賞牌を受賞した作品。暁斎はこの作品に百円という破格な値段を付けた。あまりの法外な値段に非難されると、『これは烏の値段ではなく長年の苦学の価値の値である』と答えたという。それを江戸時代から続く菓子の老舗榮太樓二代目細田安兵衛が買い取ったため大きな話題となった。この烏の図がもとになって制作依頼が増えたため、暁斎は多くの烏の絵を描き、烏に『萬国飛』とある印章も誂えている。」
『別冊太陽 河鍋暁斎 奇想の天才絵師(安村敏信監修)』所収「作品解説(佐々木江里子稿)

寒鴉図.jpg

「枯木寒鴉図」一幅 絹本墨画 明治十四年(一八八一)個人蔵
一四八・二×四八・二cm

二  明治十五年(1880) 内国絵画共進会(明治十五年十月開催 於上野公園)に、「河鍋洞郁 狩野派 号暁斎 風神・雷神」を出品する。

 この「内国絵画共進会」に出品した「風神・雷神」が、何やら、上記に再掲した、ボストン美術館蔵の「風神雷神図」と、一脈通じあっているような印象を受けるのである。

三 明治十九年(1886)『東洋絵画共進会論評』の暁斎評は、当時の暁斎の風姿をよく伝えている。

「咄嗟の間に五葉の疎密画を写せし由なれど、雷神女観音の如き筆勢飛動衣紋舞ふが如く、賦色精明他人十日の効力を用ゆるも此妙画を造る能はざるべし。腕力勁健、筆墨精熟に至ては東京の画家恐くは共に鋒を争ふものなし」の、「雷神女観音の如き筆勢飛動衣紋舞ふが如く」にも注目したい。

 ここで、この「風神雷神図」に接しての連想や連想を飛躍しての幻想に近い感想などを記して置きたい。

一 この「風神雷神図」は、絹本着色というよりも、絹本墨画淡彩という、やはり水墨画の世界のものであろう。「風神の体が青、雷神が赤という色は探幽本にならったもの」というのも、そもそも、探幽本は、「六曲一双・屏風」(各一一四・〇×三四九・八cm)の大画面で、その大画面における雷神も風神も、比重的には小さく、それに比して、空間の「雲・風」などの、広大無限の宇宙を表現するような、いわゆる、探幽様式の「余白の美」を前面に出しているもので、探幽本の「風神=青、雷神=赤」と、この暁斎の「風神=青(群青と緑青系)、雷神=赤(岱赭と金茶系)」とは、異質のものという印象を受ける。

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「雷神図屏風(右)」(一一四・〇×三四九・八cm)

探幽・風神図.jpg

「風神図屏風(左)」(一一四・〇×三四九・八cm)

「風神雷神図屏風」(伝狩野探幽)六曲一双 紙本墨画淡彩 板橋区立美術館蔵

二 暁斎の「風神雷神図」の、その「雲・風」などの空間の、墨の濃淡による処理は、やはり、狩野探幽の「筆墨飄逸」「豊穣な余白」「端麗瀟洒」などの雰囲気なのであろう。そして、この暁斎の「風神雷神図」の見どころは、左の「雷神」の赤を受けて、右の「風神」の足元の下方に描かれている「風に吹かれて舞い上がる紅葉(もみじ)の葉」、そして、それに対応しての、左の「雷神」の稲光の、見事な相互の交響にある。

三 そして、右の「風神」の「青」を受けて、左の「雷神」の風に舞う衣の「青」、そして、右の「風神」の大きな白の「風袋」に対応するかのように、左の「雷神」の小鼓の吹きかけたような金泥などの対比、その見事な相互の交響には、上記、明治十九年(1886)の『東洋絵画共進会論評』の「筆勢飛動衣紋舞ふが如く、賦色精明」という感を大にする。

四 ここで、先の虎屋本・「風神雷神図」(その一)の「老樹の柳の葉」に比すると、このボストン美術館本の「風神雷神図」での風に舞う「紅葉(もみじ)の葉」がクローズアップされて来る。ここに着目すると、『風俗鳥獣画譜』の「木嵐の霊」が思い起こされてくる。

木嵐の霊.jpg

「木嵐の霊」(『風俗鳥獣画譜』十四図中の一帖)絹本著色 明治二・三年(一八六九、七〇)
個人蔵

五 暁斎の『風俗鳥獣画譜』は、「阿国歌舞伎の念仏踊」「三夕(さんせき)」「雷神」「前田犬千代」「鷹」「猫」「お多福」「敗荷白鷺」「髑髏と蜥蜴」などの十四帖からなる画帖である。この「三夕」が、どういうものかは未見であるが、「見立て三夕」(鈴木春信作)などが、連想されてくる。

新361「さびしさは その色としも なかりけり 真木立つ山の 秋の夕暮れ」(寂蓮)

新362「心なき 身にもあはれは 知られけり 鴫立つ沢の 秋の夕暮れ」(西行)

新363「見渡せば 花も紅葉も なかりけり 浦の苫屋の 秋の夕暮れ」(藤原定家)

 この「三夕の歌」は『新古今和歌集』の「秋上」に3首連続(361、362、363)で並んでいる。

春信 三夕.jpg

鈴木春信「見立三夕 定家 寂蓮 西行」大判(細判三丁掛)紅摺絵 宝暦(1751-64)末期 
ボストン美術館蔵

六 この「見立絵(みたてえ)」というのは、上記の「見立三夕 定家 寂蓮 西行」ですると、「三人の美女の、それぞれの、その背後の景を見て、それぞれの『三夕の歌』言い当てる」、そのようなことを内容としている絵ということになろう。

七 ここで、より正確に、「浮世絵と見立絵」についての記述は、次のとおりである。

【浮世絵とは、江戸時代の町人の日常生活を描いた絵のことです。「浮世」という語は、昔の仏教用語の一つで、「はかない世」、「苦界」、「無常の世」という意味でした。十七世紀末、「浮世」という語は、喜びと楽しみに満ちたこの世、現世のことを意味するようになりました。日本の版画、浮世絵は、十八世紀末に開花しました。浮世絵の主人公は、遊女、役者、相撲取り、戯曲の登場人物、歴史上の英雄、つまり第三身分の代表者たちでした。そして各々に、次のようなそれぞれのジャンルが生まれました。すなわち、「遊郭」の美女の像、役者の肖像や歌舞伎の舞台の場面、神話や文学が主題の絵、歴史上の英雄の絵、有名な侍たちが戦う合戦の場面、風景画、そして花鳥画などです。
「見立絵」は「たとえ」または「パロディ」と日本語から外国語に訳されることがしばしばです。その芸術的手法をより正確に述べるなら、文学や宗教上の、または歴史上の人物を現代の服装で描いたり、或いはその反対に、今の出来事を昔に移しかえたり、過去の時代設定で描いたりすることです。しばしば、そのような場面は娯楽に興じる美人たちの姿や、子供や動物が戯れる姿で描かれました。この手法の裏には、同時代または近い過去にあった政治的事件を描くのを権力が差し止めるのを避けるという目的がありました。そのまた一方で、絵の発注者や絵師にユーモアの要素を含んだ知的な遊びを作りたい、または版画の内容をぼかして、観る人が隠された内容や、古の詩人が詠んだ古典的な詩を暗号化したものを言い当てる、謎遊びや判じ物を作りたいという止みがたい気持ちもありました。見立絵の版画の題名には、「風流」とか、現代を意味する「今様(いまよう)」という語がしばしば含まれています。見立絵にかけては、鈴木晴信と喜多川歌麿の右に出る者はいません。】

www.japaneseprints.ru/reference/themes/mitate_e.php?lang=ja

プーシキン国立美術館の日本美術

八 さて、また、上記の「見立三夕 定家 寂蓮 西行」に戻って、この鈴木春信のものは、またしても、「ボストン美術館」蔵のものなのである。それだけでなく、この作品を含む「ボストン美術館浮世絵名品展 鈴木春信」が、「千葉市美術館」(2017年9月6日(水)~ 10月23日(月)「名古屋ボストン美術館」(2017年11月3日(金2)~2018年1月21日(日)で、日本で公開されていたのである。そして、これは、「あべのハルカス美術館」(2018年4月24日(火)− 6月24日(日))、「福岡市博物館」(2018年7月7日(土)− 8月26日(日)と続くようである。

http://harunobu.exhn.jp/

九 ここで、冒頭のボストン蔵の、暁斎の「風神雷神図」に戻って、何やら、連想の連想の、幻想に近い、春信の「見立三夕 定家 寂蓮 西行」に行き着いたのだが、この「風神雷神図」も、この「風神図」の足元の風に舞う「紅葉の葉」を添えると、これも一種の「見立絵」のように思われて来る。

十 その暁斎の「風神雷神図」を「見立絵」と解して、そのヒントとして、その暁斎の、その「風俗鳥獣戯画」の、その「木嵐の霊」の、その風に舞う「紅葉の葉」を見て来た。その「風俗鳥獣戯画」の、その一枚に、夙に知られている、「髑髏(しゃれこうべ)と蜥蜴(とかげ)」がある。

十一 これまでの連想(幻想)を辿ると、暁斎の「風神雷神図」の「風神の足元の風に舞う紅葉の葉」→この「風神雷神図」」は、暁斎が前に描いた『風俗鳥獣戯画』の、その一枚の「木嵐の霊」の、その「紅葉の葉」と同じ。→ その「紅葉の葉」は、「見立絵」の「三夕」と連なり、そこに、「三夕」のドラマが始まる。そして、そのドラマは、次の、「髑髏(ししゃれこうべ)と蜥蜴(とかげ)」に行き着くのである。

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「髑髏と蜥蜴」(『風俗鳥獣画譜』全十四図のうちの一帖) 個人蔵
 一九・一×一四・六cm

十二 この「髑髏(ししゃれこうべ)と蜥蜴(とかげ)」は何を意味するのか?
その答は、冒頭の暁斎の「風神雷神図」、そして、「見立絵」に関連して紹介した春信の「見立三夕 定家 寂蓮 西行」が、共に、ボストン美術館所蔵のものに鑑み、同美術館所蔵のもので、その答の方向を探って行きたい。

十三 またまた、冒頭の、平成二十七年(二〇一五)に「東京芸術大学大学美術館」と「名古屋ボストン美術館」で開催された、「ダブル・インパクト 明治ニッポンの美」に戻って、そこに、暁斎の「地獄大夫」が公開されていたのであった。
 これは、何と、ボストン美術館が、平成ニ十二年(二〇一〇)に購入したもので、ここにも、ボストン美術館所蔵の「風神雷神図」と何か呼応しているような印象を受けるのである。

十四 暁斎の「地獄大夫(と一休)」は、いろいろに趣向を変えて、何種類のものかを目にすることが出来る。

http://nangouan.blog.so-net.ne.jp/

 この「『地獄大夫』あれこれ」の中でも、この「ボストン美術館本」と「ゴールドマンコレクション本」とは、背景の一部が異なるだけで、全く、同一作品と見まちがうほどである。

十五、この種のものは、「肉筆浮世絵」の範疇に入るものだが、一枚の原画から多数の複製画を生み出す木版画(浮世絵)と違って、一人の画家が絵筆をとって描く、原則一点限りの作画である。しかし、この「ボストン美術館本」と「ゴールドマンコレクション本」のように、同一作品のようなものが誕生するのは、肉筆画の浮世絵師の工房には、通常、数人の徒弟がいて、師の与える手本を忠実に従って作画する方式がとられているからに他ならない。
 しかし、暁斎は、他の浮世絵師とは違って、席画を得意とする、何から何まで独りでやらないと気が済まない画人で、当時の通常の方式を以て判断するのは危険な点はあるが、この「地獄大夫」に関しては、要望の多い作品で、そのような方式も一部取り入れられているような印象を受けるのである。

十六 とした上で、「風神雷神図」→「木嵐の霊」(『風俗鳥獣画譜』)→「髑髏と蜥蜴」(『風俗鳥獣画譜』)の、この一連の流れを「見立絵」として、暁斎は、これらに、如何なる「謎」を潜ませているかという問い掛けに対して、その答の一つとして「地獄大夫」を提示しても、それは、「謎」に対して「謎」を以て答えている感じで、今一つ、何かすっきりしない感じで無くもない。

十七 ここで、「地獄大夫」の、次の辞世の歌を補充して置きたい。

「我死なば 焼くな埋むな 野に捨てて 飢えたる犬の 腹をこやせよ」(『諸国怪談奇談集成 江戸諸国百物語 西日本編』人文社編集部)

これは、小野小町の辞世の歌ともいわれているが、両者とも絶世の美女での、そこから来る伝承的なものと解すべきなのであろう。
 その上で、この辞世の歌をして、暁斎の「髑髏と蜥蜴」を鑑賞すると、「この髑髏は、野に捨てて、野犬が貪った後の、地獄大夫(小町)の髑髏である。その髑髏の眼の穴窪から、妖しい色をぎらつかせて、今まさに蜥蜴が這い出て来る。これは、地獄大夫(小町)の再生の化身なのであろう。
 こんなところが、「風神雷神図」→「木嵐の霊」(『風俗鳥獣画譜』)→「髑髏と蜥蜴」(『風俗鳥獣画譜』)の、この一連の流れの「見立絵」の、一つの標準的な解として置きたい。

十九 ここで、これまで、名古屋ボストン美術館が開催した、日本美術関係の展覧会をフォローしていて、次のとおり(第62回 ボストン美術館最終展)、今年度で、名古屋ボストン美術館は、閉館してしまうのである。

第2回 岡倉天心とボストン美術館 (1999年10月23日~2000年3月26日)
第3回 平治物語絵巻 (2000年4月11日~5月7日) 
第20回 肉筆浮世絵展ー江戸の誘惑 (2006年6月17日~8月27日)
第29回 日米修好通商条約150周年記念ーペリーとハリス~泰平の眠りを覚ました男たち (2008年10月18日~12月21日)
第37回 ボストン美術館浮世絵名品展ー錦絵の黄金時代~清長 歌麿 写楽 (2010年10月9日~2011年1月30日)
第43回 日本美術の至宝(前期) (2012年6月23日~9月17日)
第44回 日本美術の至宝(後期) (2012年9月29日~12月9日)
第49回 ボストン美術館浮世絵名品展 北斎 (2013年12月21日~2014年3月23日)
第52回 華麗なるジャポニスム-印象派を魅了した日本の美 (2015年1月2日~5月10日)
第53回 ダブル・インパクトー明治ニッポンの美 (2015年6月6日~8月30日)
第56回 俺たちの国芳 わたしの国貞 (2016年9月10日~12月11日)
第60回 ボストン美術館浮世絵名品展鈴木春信 (2017年11月3日~2018年1月21日)
第61回 ボストン美術館の至宝展ー東西名品、珠玉のコレクション (2018年2月18日~7月1日)
第62回 ボストン美術館最終展ーハピネス~明日の幸せを求めて~ (2018年7月24日~10月8日)

二十 その「名古屋ボストン美術館開館十周年記念」は、「30回 ゴーギャン展 (2009年4月18日~6月21日)」で、「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」が、日本初公開となった。

http://www.nagoya-boston.or.jp/gauguin/guide.html

 その紹介記事に、次のようなことが記されていた。

【横長の画面の上には、人間の生の様々な局面が、一連の物語のように展開する。画面右下には眠る幼児と三人の女性(上図A参照)。その左上に「それぞれの思索を語り合う」紫色の着物の二人の女性と、それを「驚いた様子で眺めている」不自然なほどに大きく描かれた後姿の人物(B参照)。中央には果物をつみ取る人がいて、その左には猫と子供と山羊、背後にはポリネシアの月の神ヒナの偶像が立ち、「彼岸を指し示しているように見える」(C参照)。その前にしゃがむ女性は顔を右に向けながらも視線は逆向きで、「偶像の言葉に耳を貸しているよう」であり、その左には「死に近い一人の老婆が、全てを受け容れ」、「物語を完結させている」。老婆の足もとにいる、トカゲをつかんだ白い鳥は「言葉の不毛さを表している」(D参照)。】
 このゴーギャンの「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」の左端に、「トカゲをつかんだ白い鳥」が居て、それは、『言葉の不毛さを表している』」いうのは、やはり、暁斎の「髑髏と蜥蜴」にも等しくあてはまることであろう。
 として、この暁斎の「髑髏と蜥蜴」の、上部の「月とその下の遠景」に、このゴーギャンの、「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」を、ゴーギャンの母国語の「D'où venons-nous ? Que sommes-nous ? Où allons-nous ?」を加味したら、まさに、「風神雷神図」→「木嵐の霊」(『風俗鳥獣画譜』)→「髑髏と蜥蜴」(『風俗鳥獣画譜』)の、この一連の流れの「見立絵」の最後に相応しい思いが去来しているのである。
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「風神雷神図」幻想(その一) [風神雷神]

河鍋暁斎の「風神雷神図」(一)

風神雷神一.jpg

河鍋暁斎筆「風神雷神図」 明治十四年(一八八一)以降 双幅 絹本着色 ボストン美術館蔵 各一一四・三×三五・五cm 

【 本図は虎屋本(次図)と風雷神の左右が逆で、琳派系の配置となっている。金泥まで使った彩色も施され、風神の輪郭線はことさら強調されている。風神の下方には強風に舞い散る紅葉が描かれ、雷神には金泥で小鼓が描かれ、稲妻も金泥や朱を取りまぜて描かれる。風神の体が青、雷神が赤という色は探幽本にならったもので、雷神の小鼓や稲妻に金泥を使うのも探幽本にみられる。両神の背景に渦巻く暗雲の表現は墨のにじみを効果的に使っている。 】 『別冊太陽 河鍋暁斎 奇想の天才絵師(安村敏信監修)』所収「作品解説(安村敏信稿)」

 これは、「ボストン美術館蔵」のもので、上記の「作品解説」にある「虎屋本」(虎屋文庫蔵)は、次図のものである。次図のものは、明治四年(一八七一)以降の制作で、上図のボストン美術館蔵よりも早い時期のものである。この明治四年(一七八一・四十一歳)の年譜
(『安村敏信監修・前掲書』所収)に、「一月 笞(ち)五十の刑を受けて放免となり、師家の狩野家に引渡される」とあり、これらの「風神雷神図」は、その前年の「書画会」で描いたものが、「貴顕を嘲弄する」としての「筆禍事件」と、何らかの関係があるような雰囲気を有している。

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河鍋暁斎筆「風神雷神図」 明治四年(一八七一)以降 双幅 絹本墨画 虎屋蔵 各一〇五・三×二八・八cm

【 風神雷神は古来より描かれてきたが、我が国で絵画化されたものとして有名なのは俵屋宗達による二曲屏風である。風神が向かって右に、雷神が左に描かれるが、狩野派では探幽以来、風神を向かって左に、雷神を右に配してきた。本図は風雷神の配置は狩野派のものだ。抑制された描線と墨のデリケートな濃淡によって異形神の出現の場の劇的雰囲気を作り上げている。風神の口元が迦楼羅(かるら)のようにとがっているのが珍しい。 】
『別冊太陽 河鍋暁斎 奇想の天才絵師(安村敏信監修)』所収「作品解説(安村敏信稿)」

 まず、この虎屋本のものから見て行くと、「風雷神の配置は狩野派のもの」(雷神=右、風神=左)ということに注目したい。
暁斎が、「筆禍事件」を引き起こしたのは、明治三年(一八七〇・四十歳)の時で、年譜には、「十月六日、俳諧師其角堂雨雀主催の書画会が、不忍弁天の境内にある長駝亭で開催され、暁斎(当時・狂斎)も出席。この席で酒に酔って描いた戯画が、貴顕を嘲笑するものとみなされて捕らえられ、大番屋へ入れられる。入牢中、酷い皮膚病にかかり、一時釈放されるが年末に再入牢。」とあり、この時の入牢中のことを、晩年(明治二十年=一八八七、五十七歳)になって、その『暁斎画談(瓜生政和編著)』に、その挿絵図を描いている。

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暁斎画談. 内,外篇 / 河鍋洞郁 画 ; 瓜生政和 編 (外編巻下)
早稲田大学図書館 (Waseda University Library)

 この『暁斎画談』の「河鍋洞郁 画」の「洞郁」とは、嘉永二年(一八四九、十九歳)時年譜の、「師洞白陳信から、『洞郁陳之(とういくのりゆき)』の号を与えられ、異例の若さで修業を終える」との、駿河台狩野派における、暁斎の画号なのである。
 そして、明治四年(一八七〇、四十一歳)の年譜に、「一月 笞(ち)五十の刑を受けて放免となり、師家の狩野家に引渡される。五~十月、修善寺温泉で静養。沼津の母を訪ねる。(中略)筆禍事件以降、号を『狂斎』から『暁斎(きょうさい)』に改める」と、入牢していた暁斎を引き取ったのは、駿河台狩野派(狩野洞栄、後に洞春)なのである。また、それまでの号「狂斎」を、以降、「暁斎」に改めているのである。

 これらの暁斎の年譜と、上記の虎屋蔵の「風神雷神図」を重ね合わせると、さまざまな、連想・幻想が沸き起こって来る。それらの一端を記すと、次のとおりである。

一 この水墨画の「風神雷神図」は、明治三年(一八七〇・四十歳)時の「筆禍事件」による投獄が背景にあり、その投獄の体験は、暁斎にとって強烈且つ過酷のものであり、これまでの前半生とこれからの行く末を決定づける大きな要因で、大きな節目の事件であった。

二 それは、自己の泥酔による一時の即興画(席画)が、これほどの事件になったことの、
痛恨なる自己否定と自己嫌悪の果てに、それを克服する唯一の方途として、その原点に位置する、暁斎が修業時代の全てをかけた、「駿河台狩野派」の画法を、以後の自分の道標とすることの決意表明こそ、この墨一色の「風神雷神図」であるという思いを深くする。

三 そして、それは、この「風雷神の配置」が、「雷神=右、風神=左」の、「狩野派伝来のもの」ということと、これまでの、「狂斎」という号を棄てて、新しく、「醒々(せいせい)暁斎(きょうさい)」と改号したところに、暁斎の、この「風神雷神図」に込めた意気込みというのが、その「抑制された描線と墨のデリケートな濃淡」によって、見事に表現されていることと軌を一にするということに他ならない。

四 翻って、狩野派というのは、その祖、狩野正信(初代)、古法眼元信(二代)以来、漢画(大和絵に対して中国風の画を指す)系の水墨画法を、その基礎に据えており、この暁斎の「風神雷神図」は、その狩野派の基礎中の基礎の、水墨画法を踏まえて、その基礎の上に、暁斎ならでの、「考え抜かれた構図」と「絶妙な墨の濃淡」に加えて、何らかの趣向を施しているところに、歴代江戸狩野派の絵師の中でも、群を抜いた異色の絵師として位置づけられる。

五 ずばり、この「風神雷神図」の、暁斎ならでは趣向とは、左図の「風神図」の「風神」が、異色の「迦楼羅(かるら)」(一切の悪を食い尽くす、天駆ける聖なる鳥の化身)の風姿であることと、その風神が、吹き飛ばそうとしている、「洞(ほら)のある老木の幹とその枝葉」が、「宗達→光琳→抱一→其一」等々の「風神図」とは、まるで異質の世界を構築しているという、この二点にある。

六、ここで、この老木は何の樹であろうか? → これは、その枝葉の風情から、ずばり「柳」
であろう。そして、暁斎は、この「風神図」に、「柳に風」(柳が風になびくように、逆らわない物は災いを受けないということ。 また、相手が強い調子であっても、さらりとかわして巧みにやり過ごすことのたとえ)の姿勢を託していると解したいのである。

七 そして、この老木の「洞(ほら)」は、暁斎の狩野派の師の、駿河台狩野派の亡き「洞白」とその後継者の「洞栄(後に洞春)」を示唆しているのであろう。すなわち、暁斎は、自分の後半生は、駿河台狩野派に腰を据えて、その「柳に風」の「柔軟性としなやかさ」を信条としたいとう決意表明と解したいのである。

八 と同時に、この老木の「洞(ほら)」は、その「筆禍事件」に絡ませば、これは「落とし穴」(姦計)のような意味合いも、暁斎の、意識、無意識のうちに、そういうものが、ここに込められているような、そんな感じを濃厚に受けるのである。

九 とすると、この「風神」の「迦楼羅(かるら)」は、時の明治政府の、その前世の江戸幕府以来の、「綱紀粛正(倹約令・風俗取締り・庶民の娯楽に制限・出版の規制)」等々の、
時の官憲の「文化統制」の象徴としての、「竜を食う獰猛な大怪鳥」そのものと化して来る。

十 ここで、右図の「雷神図」に焦点を当てると、それは、不動明王(大日如来の化身で、悪魔を退散させ、煩悩や因縁を断ち切って人々を救う仏様)の化身であると同時に、赤裸々な、時の明治政府の、身の毛もよだつような、「人権蹂躙」の、その鉄槌のような「鬼」の形相を呈して来るのである。

十一 暁斎は、狩野派流の肉筆画、浮世絵風の肉筆画、歌川国芳の流れを汲む錦絵(浮世絵版画)、縦横無尽の滑稽と諷刺に満ちた戯画・漫画、そして挿絵画の類、果ては、春画の類まで、その多方面のマルチアーティスト振りは、「とてつもない絵師」というネーミングが最も相応しい感じで無くもない。しかし、その中にあって、この「風神雷神図」のように、暁斎の最も中核に位置するものは、狩野派流の水墨画であるという思いを深くする。

十二 暁斎の世界は、しばしば、「二重性の世界」と呼ばれる場合があるが(『反骨の画家 河鍋暁斎(狩野博幸・河鍋楠美著)』所収「正統と異端を同時に生きた画家」)、それは、「正統(体制派)と異端(反体制派)」「狩野派(本画派)と歌川派(浮世絵派)」「江戸(近世)と東京(近代)」等々の、「二重性」を宿していることに他ならない。

十三 この「風神雷神図」で、その「二重性」に焦点をあてると、これは、全体として水墨画という「正統(体制派)」の世界ということになる。そして、この「正統(体制派)」の世界の中に、通常、鬼の風姿からなる「風神」を、異色の烏天狗のような「迦楼羅(かるら)」をもって来たところに、暁斎の「異端(反体制派)」の世界が垣間見えて来るということになる。

十四 そして、この「二重性」(あるいは「二律背反性」)を、一つの整序性のある造形の世界を現出している最大の要因として、暁斎の類まれなる「筆力」ということが、その根底を為している。すなわち、暁斎にとって、凡そ、「表現する」ということは、「言葉・文字」等より、より、「筆」による「絵(スケッチ)」でするという、これこそ、「とてつもない絵師」の正体なのである。

十五 暁斎の「日記」は、文字による日記ではなく、「絵日記」である。しかも、それは、「筆」一本で為されている。その「絵日記」の一端は、次のアドレス(国立国会図書館デジタルコレクション)で見ることが出来る。

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1288439?tocOpened=1

十六 また、暁斎の「画談」というのは、これまた、文字によるものは、他人に任せて、ひたすら「絵」で表現しようとしている。その「暁斎画談」の一端は、次のアドレス(国立国会図書館デジタルコレクション)で見ることが出来る。

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/850342

十七 ここで、「暁斎絵日記」に頻出して出て来る「鬼」(「稚鬼」「狂鬼」「乱鬼」「酒鬼」
等々)は、己の分身の自画像かと思いしや、どうやら、出入りの「経師屋・高須平吉、通称・鬼平」が一番多いらしい(『別冊太陽 河鍋暁斎 奇想の天才絵師(安村敏信監修)』所収「鬼・狂(暁)斎(北森鴻稿)」)。

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河鍋暁斎の1888年(明治21年)2月の絵日記

news.livedoor.com/article/detail/12666262/

 この上図の「鬼」は「平」との漢字が付されており、紛れもなく、「経師屋」の「鬼平」なのであろう。暁斎にとって、「鬼」は、決して「虚構」の大それたものではなく、極めて身近な「日常の現実」の自己・知己の分身ということになる。そして、ここにも、「虚」と「実」との「二重性」の世界が現出されて来る。

十八 そもそも、暁斎は、七歳の時に、反骨精神の旺盛な浮世絵の大家・歌川国芳門に入り、国芳から「奇童」と呼ばれ、その薫陶を受けた。さらに、十歳の時に、駿河台狩野派の前村洞和門に入り、洞和が病気になったため、洞和の師の、駿河台狩野洞白に入門する。そこで、洞白から、「餓鬼(がき)」ならず「画鬼(がき)」のあだ名を頂戴し、爾来、駿河台狩野派の絵師としての道を歩むことになる。

十九 とすると、この「風神雷神図」の、「迦楼羅」の形相の「風神」は、暁斎を「奇童」と呼んだ、浮世絵師の「国芳」、そして、狩野派最大の絵師といわれる狩野探幽の「雷神」の形相に因み、暁斎を「餓鬼」と呼んだ、探幽の養子の狩野洞雲に連なる、狩野派の絵師「洞
白」を、この「雷神」と見立てることも、一つの見方であろう。

二十 とにもかくにも、墨一色の、この水墨画「風神雷神図」は、「醒々狂斎」を返上して、「醒々暁斎」を名乗った、明治四年(一八七一・四十一歳)、不惑の年の頃の作品と解し、
暁斎の作品の中でも、極めて、キィーポイントとなる、傑作画の一つと解したい。
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町物(京都・江戸)と浮世絵(その二十二 月岡芳年「官女ステーション着車之図」など) [洛東遺芳館]

(その二十二) 月岡芳年「官女ステーション着車之図」など

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月岡芳年 「官女ステーション着車之図」 (洛東遺芳館蔵)

 『芳年(岩切友里子編著)』に、題名は同じなのだが、図柄は異なるものが掲載されている。その「作品解説」は次のとおりである。

【 大判三枚続 明治十年(一八七七)頃 御届六月十三日 津田源七版 彫工山室春吉 個人蔵
駅舎に到着した華やかな官女の一行。明治十年の天皇の奈良への行幸に際し、皇后は一足早く東京を発たれた。この行啓は、明治九年十二月御届の「明治小史年間記事 皇后宮西京行啓鉄道館発車之図」に扱われている。 】(『岩切友里子・同著』所収「図版解説276」)

 芳年には、明治四年(一七八一)作の「東京名所高輪 蒸気汽車鉄道之全図」(大判三枚続)がある。新橋・横浜間に鉄道が開通したのは、明治五年九月で、その一年前の作である。芳年は、実際には、蒸気機関車を見ていないで、想像で描いたものであろう。
 錦絵では、明治三年(一七八〇)に、歌川国輝(二代)の「東京高輪鉄道蒸気車走行之図」などが出版されており、それらを参考にしているのであろう。しかし、芳年作のものは、機関車の乗客や傍らの見物人が、みな西洋人で、「東京名所高輪」の風景というよりも、何処か、エキゾチックな風景だが、その蒸気機関車を上の橋の方から見ている見物人は、日本人で、メルヘン的な雰囲気を醸し出している。

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「東京名所高輪 蒸気汽車鉄道之全図」(大判三枚続)月岡芳年(港区立郷土資料館蔵)

 この種の錦絵(浮世絵版画)は、「横浜絵・開化絵」(補記一)といわれる。それは、江戸から東京の様代わり、すなわち、文明開化で変遷する世相の様代わりを象徴するものであった。そして、それは、「洋装・洋髪の日本人、お雇い外国人の設計・指導による洋風建築物、石橋や鉄橋に架け替えられた橋、汽車・鉄道馬車・蒸気船などの開化乗物」などが、その主たるテーマとして取り上げられた。
 また、上記の赤色を基調とする「官女ステーション着車之図」は、別称「赤絵」とも称せられた。それは、江戸末期の頃から、ベロ藍やアニリン(赤)、ムラコ(紫)といった人口顔料が輸入され、この輸入顔料により浮世絵の色合いはより鮮明になり、特に明治に入ると毒々しいまでの赤のアニリン染料が多用されことに由来する。
 「無残絵・血みどろ絵」が、その代名詞にもなっている「芳年」の「赤」は、染料に膠を入れて光らせるなど、様々な工夫が施されているようだが、この冒頭の「開化絵」では、
アニリン染料の「赤」が効果的なのであろう。
 しかし、これらの「浮世絵版画・錦絵・赤絵・横浜絵・開化絵」などは、明治四十年(一九〇七)代になると、「江戸名物の一に数へられし錦絵は近年見る影もなく衰微し(略)写真術行はれ、コロタイプ版起り殊に近来は絵葉書流行し錦絵の似顔絵は見る能はず昨今は書く者も無ければ彫る人もなし」(十月四日「朝日新聞」朝刊)と、その姿を消してしまうのである(補記一)。
 翻って、上記の「官女ステーション着車之図」が制作された頃の、明治十年(一八七七)には「西南戦争」があった年で、その西南戦争の錦絵が多数制作された、錦絵の華やかな時代であった。
 それは、次第に、木版印刷から、石版・活版による大量印刷の時代と変遷し、明治三十七年(一九〇四)に始まった日露戦争の頃には、平版による大量のカラー印刷が可能となり、完全に放逐されて行くということになる。
 暁斎が亡くなった明治二十二年(一八八九)の頃は石版の全盛時代、芳年が亡くなった明治二十五年(一八九二)の頃には、写真亜鉛版の製版法が実用化され、写真の印刷が前面に出て来るという時代史的な背景がある。
 すなわち、「浮世絵師」(版元・浮世絵師・彫師・塗師)時代は終焉を迎え、それと共に、
幕末期と明治の動乱期に名を馳せた「浮世絵師・月岡芳年」は、「最後の浮世絵師」の名を冠せられ、「狩野派絵師・浮世絵師、河鍋暁斎」は、「狩野派と浮世絵の最終地点にいる暁斎」と、狩野派すら、その終焉を迎えたと言っても過言ではなかろう。
 「近代化=西欧化=文明開化=鹿鳴館時代=西欧のものなら何でもよい」という時代の流れは、絵画の世界でも、「西洋画」が次第に力を増して、それに比して、それまでの「大和絵・漢画・文人画・水墨画・浮世絵」等々は、「西洋画」に対する「日本画」の中に埋没して、上記のとおり、その終焉を遂げたと解して差し支えなかろう。

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河鍋暁斎「鹿鳴館之図」(『漂流記奇譚西洋劇(河竹黙阿弥作)』の「パリス劇場表掛かり場」)
絹本着色 一面 六二・九×九〇・八cm 明治十ニ年(一八七九)作 
GAS MUSEUM がす資料館蔵

 暁斎が、「新富座妖怪引幕」を公衆の面前で揮毫したのは、明治十三年(一八八〇)で、その一年前に、新富座の夜芝居『漂流奇譚西洋劇』(河竹黙阿弥作)のための行燈絵の十六面(月岡芳年等との競作)制作され、上図は、その内の一面のものである。
長らく「鹿鳴館之図」と呼ばれ、作者が特定出来なかった作品なのだが、つい最近の、平成二年(一九九〇)に、河鍋暁斎記念博物館の下絵から、この作品は、暁斎の「『漂流記奇譚西洋劇(河竹黙阿弥作)』パリス劇場表掛かり場」のものということが判明した、いわくつきの作品なのである。
それらの下絵には、「守田勘彌座夜芝居行燈絵五枚之内」「明治十ニ年卯」との記述があり、暁斎は、他に四面の行燈絵を手掛けているのだが、その一つの『漂流記奇譚西洋劇(河竹黙阿弥作)』米国砂漠原野之図」(補記二)は、遠く、ドイツのビーティヒハイム=ビッシンゲン市立博物館に所蔵されている。
 このビーティヒハイム=ビッシンゲン市立博物館は、東京医学校(現・東京大学医学部)の教師として招聘されて、明治天皇の侍医(暁斎の主治医)でもあったベルツ博士の生地の博物館で、ベルツ博士が最後まで手元に置いていた暁斎の作品などが所蔵されているようである(補記三)。
 このベルツ博士(エルヴィン・フォン・ベルツ)が、当時の江戸から東京への大動乱期について、「日本国民は、十年にもならぬ前まで封建制度や教会、僧院、同業組合などの組織をもつわれわれの中世騎士時代の文化状態にあったのが、一気にわれわれヨーロッパの文化発展に要した五百年あまりの期間を飛び越えて、十九世紀の全ての成果を即座に、自分のものにしようとしている」(『ベルツの日記』)のとおり記している。
 続けて、「もし日本人が現在アメリカの新聞を読んでいて、しかもあちらの全てを真似ようというのであれば、その時は、日本よさようならである」と、当時の西洋文化崇拝・輸入に血眼となり、あまつさえ、「廃仏毀釈」の寺院の廃合、仏像・仏具の破壊などの風潮に対して警鐘をならしている。
 この「廃仏毀釈」の風潮の、その延長線上に、上述の、浮世絵を始め、日本固有の「公家もの・武家もの・町もの」の絵画等々を価値なきものとして排斥し、それらが結果的に、ベルツ博士らの西洋人によって、蒐集され、それぞれの母国で再生・復活を遂げているということなのであろう。
 暁斎が亡くなったのは、明治二十二年(一八八九・五十九歳)のことだが、その最期について、暁斎の主治医でもあったベルツ博士は、その「ベルツ日記」で、「現在の日本最大の画家である暁斎は、もう今日はもつまい、胃癌にかかっているのだ。かれの絵は戯画に近いが、構想が雄大で、構成の重厚な点では、他に匹敵するものがない」と、当時の日本人の誰よりも、暁斎を高く評価しているのである。
 このベルツ博士以上に、暁斎に親炙し、暁斎の門人となり、暁斎より「暁英」の画号を授かった、イギリス・ロンドン出身の建築家(「工部大学校(現・東京大学工学部建築学科)」教授)、ジョサイア・コンドルが居る。
 コンドルは、暁斎没後、『河鍋暁斎―本画と画稿』(“Paintings & Studies by Kawanabe Kyosai”)を出版し、暁斎の名を北斎や広重の名に匹敵する画人として、その名を高からしめた。
 その他に、フランス人の、エミール・ギメ(ギメ東洋美術館の創始者)と画家のフェリックス・レガメ、イタリー人の、エドアルド・キヨソーネ(印刷技術者)、イギリス人の、モティマー・メンピス(画家)、ウイリアム・アンダソン(医師)、フランシス・ブリンクリー(軍人・ジャーナリスト)等々、暁斎の『絵日記』に登場する西洋人は枚挙にいとまがないほどである(これらについては、「芸術新潮(2015/7)」所収「暁斎タイフーン世界を席巻中(及川茂稿)」「全貌を掴ませない絵師は、いかにして葬られ、復活を遂げたか(安村敏信稿)」に詳しい)。
 
さて、暁斎画塾の門人でもあるコンドルが設計した「鹿鳴館」(華族会館)は、戦前に取り壊され、現在は存在しない。しかし、その威容は、コンドルの絵画の師・暁斎によって、上記の「鹿鳴館之図」(「パリス劇場表掛かり場」)のとおり、暁斎画として蘇っている。
また、三菱の顧問となったコンドルが、教官時代の教え子の建築家・曾禰達蔵と共に手掛けた、丸の内の赤煉瓦街・三菱館の、その一角の「三菱美術館」(旧三菱一号館美術館)で、平成二十七年(二〇一五)に、「画鬼・暁斎―KYOSAI 幕末明治のスター絵師と弟子コンドル」展で、その再生・復活を遂げている。

 翻って、平成五年(一九九三)の大英博物館での「暁斎展」(Demon of Painting;The Art of Kawanabe Kyosai」、そして、平成二十年(二〇〇八)の、京都国立博物館での、「没後120年記念 絵画の冒険者 暁斎 Kyosai -近代へ架ける橋-」と、爾来、「暁斎タイフーン世界を席巻中」のネーミングさながらに、着実に、その再生・復活の途を歩み始めている(補記六)。

 ここで、冒頭の「洛東遺芳館」所蔵の芳年作「「官女ステーション着車之図」に戻って、この種の開化ものが、関西の、京都の、老舗中の老舗の一角の「洛東遺芳館」に、秘かに眠っていたということは、上記のとおり、暁斎が、着実に、その再生・復活の途を歩み始めていることと軌を一にして、芳年の、その再生・復活の途も、これまた、着実に、その歩を進めて行くことであろう。

補記一 明治の錦絵

www.ndl.go.jp/landmarks/column/5.html

補記二 【河鍋暁斎】・・・・・超絶技巧の魔術師

http://blog.livedoor.jp/tama173/archives/2008-11-08.html

補記三 江戸と明治の華──皇室侍医ベルツ博士の眼

http://artscape.jp/exhibition/pickup/1199313_1997.html

補記四 三菱の人ゆかりの人 ジョサイア・コンドル(上・下)

http://www.mitsubishi.com/j/history/series/man/man12.html

http://www.mitsubishi.com/j/history/series/man/man13.html

補記四 「画鬼・暁斎―KYOSAI 幕末明治のスター絵師と弟子コンドル」展

http://mimt.jp/exhibition/pdf/outline_kyosai.pdf

補記五 河鍋暁斎展 at 京都国立博物館☆ -KYOSAI Show!-

https://blogs.yahoo.co.jp/stream_blueearth/38623899.html

補記六 他館での展覧会 - 公益財団法人 河鍋暁斎記念美術館

http://kyosai-museum.jp/hp/tennrannkai.html


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町物(京都・江戸)と浮世絵(その二十一 河鍋暁斎「新富座妖怪引幕」など) [洛東遺芳館]

(その二十一) 河鍋暁斎「新富座妖怪引幕」など

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縦401.0×横1704.0㎝
幕末明治の戯作者仮名垣魯文(かながきろぶん)が、明治前期に東京を代表する劇場であった新富座に贈った引幕。明治13年(1880)6月30日に、魯文の友人である暁斎が、酒を楽しみつつ4時間で書き上げたという。当時の歌舞伎界を代表する9世市川団十郎、5世尾上菊五郎 をはじめとする人気役者たちをモデルとした妖怪が、葛籠からぞろぞろと飛び出して新富座の客席へと繰り出す趣向が描かれている。個性溢れる絵師暁斎の作品としても、引幕が保存された稀有な例としても、非常に興味深い。

https://www.waseda.jp/enpaku/collection/54/

早稲田大学演劇博物館「河鍋暁斎画 新富座妖怪引幕 (かわなべきょうさいが しんとみざようかいひきまく)」

新富座妖怪引幕
明治十三年(㈠八八〇)六月三〇日/㈠張/布墨画着色/縦401.0×横1704.0㎝/早稲田大学演劇博物館

幅十七m、高さ四mという歌舞伎舞台の引き幕である。いろは新聞の社長の仮名垣魯文が、開場二年目の新富座に贈ったもの。同年六月三十日午前十時頃、暁斎は門人一人を伴って京橋区銀座の二見写真館に現われ、まず二、三本の酒瓶を傾けたのち、おもむろに筆を執って一気呵成に描き上げたという。幕の天地は葛籠と、その蓋であり、そこから歌舞伎役者の似顔である妖怪たちが飛び出してくるという趣向。
『別冊太陽 河鍋暁斎 奇想の天才絵師(安村敏信監修)』所収「作品解説(佐々木英里子稿)

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新富座妖怪引幕(河鍋暁斎)その一(上記の右から、「地(下)=「葛籠」の一部省略)

一 「いろは新聞社長 歌舞伎新報補者」の肩書で、安政二年(一八五五=暁斎・二十五歳、魯文・二十七歳)の「安政の大地震」に係わる「安政見聞誌」(戯文=魯文、鯰絵=暁斎)以来のコンビの、「仮名垣魯文」(戯作者・報道記者)に依頼されて、明治十三年(一八八〇・暁斎=五十歳)に、河鍋暁斎が「一気呵成に描いた即興の大作、桁外れの席画」である。

二 上段(天)の「葛籠の蓋」に描かれた紋様は、右から、「市川左団次→中村仲蔵あるいは坂東家橘→市川小団次」で、右上の「奴凧」と右下の「化け猫」の中央に描かれている妖怪の「怪座頭(ばけざとう)」は、「三世中村仲三」である。
 その下の大盃を被っている妖怪(「般若湯大盃の鉢かつぎ)が、「三世河原崎国太郎」で、その左上の妖怪「蝦蟇/がま」は、「初世市川団右衛門」である。その下の妖怪(「難倫坊/なりんぼう」)が、「五世市川小団次」である。

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新富座妖怪引幕(河鍋暁斎)その二(上記の右から)

一 上段(天)の紋様は、右から「市川団右衛門→河原崎国太郎→中村宗十郎」である。右の鬼の妖怪(「鬼の念仏米」)は、「初世中村宗十郎」である。その左の妖怪(狐町/こまち)は、「八世岩井半四郎」である(「五世尾上菊五郎」という説もある)。
 その「狐町/こまち」の左側に、「惺々暁斎 於二見写真館 席画」と署名されている。この「二見写真館」は、下記(補記一)で見ることが出来る。

二 この暁斎の「席画」について、次のような記述がある。

【 真ん中に踊るような文字で記された「席画」という言葉は、この引幕が、二見朝隈が銀座に構えた写真館二階で、他人が見守る中で描いたことを意味している。しかも、その時、暁斎は酔っ払っていた。筆の代わりに棕櫚箒を揮った。幕の上には、歩き回った暁斎の足跡がぺたぺたと付いている。
 このすべてが、その後の画家たちには嫌われてゆく。画家はアトリエという名の密室、あるいは聖域に籠り、妖怪の代わりに生身のモデルを前にし、制作に十分な時間をかけ、しかし自らの姿を見せず、完成作のみを展覧会に出品する。観客はそれを黙って眺める。会場での会話、飲食は厳禁である。これが「美術鑑賞」と呼んで、われわれの身つけてきたいささか窮屈な態度である。
 そして、暁斎の絵の中にみなぎる力やスピード、笑いや楽しさ、パフォーマンス性や身体性を見失う結果となった。それらを美術の世界に取り戻すためには、もう一度、暁斎の絵の前に立ち、「誇張の弊」や「風調野鄙」に代わる暁斎を語る言葉を手に入れなければならない。 】『別冊太陽 河鍋暁斎 奇想の天才絵師(安村敏信監修)』所収「暁斎を語る言葉(木下順之稿)」  

引幕四.jpg

新富座妖怪引幕(河鍋暁斎)その三(上記の右から)

一 上段(天)の紋様は、右から「尾上菊五郎→中村鶴助→岩井小紫→中村鶴蔵」である。

二 右側の舌を出している妖怪(「大目玉のろくろ首」)は、「九世市川団十郎」である。その舌の先の中央の妖怪(「化け猫」)は、「五世尾上菊五郎」と言われている(八世岩井半四郎という説もある)。その後ろの小さな妖怪(老婆)は、「五世中村鶴助」で、一番左側の妖怪(「鼻美人」)が、「三世岩井小紫」である。

引幕五.jpg

新富座妖怪引幕(河鍋暁斎)その四(上記の右から、「地(下))=「葛籠」省略)

一 上段(天)の紋様は、右から「坂東家橘あるいは中村仲蔵→岩井半四郎→市川団十郎」である。

二 右側の妖怪(「天狗面の金毘羅業者」)は、初世市川左団次、中央の後ろの妖怪(「業平猿冠/なりひらさるかぶり」)は、初世坂東家橘、その手前の妖怪(「有材餓鬼/うざいがき」)は、二世中村鶴蔵である。そして、左端の蓮華の妖怪(「散蓮華の物の怪」)は、坂東喜知六とのことである。

(上記の記載は、『別冊太陽 河鍋暁斎 奇想の天才絵師(安村敏信監修)』所収「作品解説(佐々木英里子稿)」に因っている。)

恣意的な「コメント」(絵文字入りコメント)

一 上記の「席画」に関しての、「誇張の弊」や「風調野鄙」については、「ことさらに筆力を示すところ、誇張の幣に陥りて、風調野鄙に流れざるを得ず」(藤岡作太郎著『近世絵画史』)から来ている。また、岡倉天心(東京美術学校長)は、「(狩野派)の最後の変革者として、狩野芳崖と橋本雅邦を高く評価する一方、河鍋暁斎については、徳川時代の狩野派が世襲ゆえに『其の技大いに退歩するに至れり』と論じたあと、『彼の河鍋暁斎氏は其の門(駿河台狩野派)より出づ』と、たったひと言で片付けているとのことである(『別冊太陽 河鍋暁斎 奇想の天才絵師(安村敏信監修)』所収「暁斎を語る言葉(木下順之稿)」)。

要は、岡倉天心流の「狩野芳崖・橋本雅邦」、そして、それらに続く、「文部省美術展覧会」(「文展」「日展」)の出品画家・出品作品等を基準として、「絵画・造形芸術一般」が、その主流となり、それらに逸脱するものは枠外として、「誇張の幣」「風調野鄙」として、排斥され続けたということであろう(((;◔ᴗ◔;)))

これらは、俳諧(連句・俳句・川柳)の世界ですると、蕉風俳諧流の「高悟帰俗」「造化随順」「不易流行」「風雅の誠」などを基準として、それらに逸脱する、談林俳諧流の「夢幻の戯言(ざれごと)」(宗因)「無心所着(むしんしょじゃく)」(「心の到る所なく」、いわば「興のおもむくままによむ」ことの意。しかし、そこには、意外にことばの味が表われる)などは、見向きもされないということと、歩を一にするのであろう(((;◔ᴗ◔;)))

ここで思い起こされるのは、談林俳諧の雄である井原西鶴が、一昼夜の間に発句(俳句)をつくる数を競う「矢数俳諧」の創始を誇り、貞享元年(一六八四)に、摂津住吉の社前で一昼夜に、二万三千五百句の独吟し、以後、「二万翁」と自称しているという事実である。まさしく、暁斎の、この「新富座妖怪引幕」は、「幅十七m、高さ四m」という、巨大な画面で創作するという、西鶴の『西鶴大矢数』の二万三千五百句に匹敵するものであろう。また、西鶴の「一昼夜」に比して、暁斎のそれは「四時間」程度で仕上げたということになると、西鶴すら唖然とすることであろう。また、西鶴にしても暁斎にしても、これらの一大事の偉業を「公衆の面前」で壮行していることも、「アトリエ」や「句会」という、いわば、狭い温室でのみで創作作業する輩は、想像を絶して、発する言葉もなかろう。それが故に、暁斎のこの種のものに、「誇張の幣」や「風調野鄙」を高言する輩は、言わば、「負け犬」の遠吠えのようなものであろう☻☻♫•*¨*•.¸

二 この暁斎の「新富座妖怪引幕」を一瞥して、やはり、暁斎の師である、浮世絵の大家・歌川国芳の「武者絵・妖怪画」、さらには、暁斎を引き立てていた三代豊国(国貞)の「役者絵」などの影響が顕著であるということを痛感する☻☻♫•*¨*•.¸


引幕六.jpg

「源頼光公館土蜘蛛妖怪図(部分図)」(歌川国芳)ボストン美術館蔵

この国芳の「源頼光公館土蜘蛛妖怪図(部分図)」の右端の上が「土蜘蛛」の妖怪で、その下で眠っているのが「源頼光」である。この「土蜘蛛」と、冒頭の「新富座妖怪引幕(河鍋暁斎)その一」の「化座頭」とが、何やら似通っている。さらに、中央の「ろくろ首」の妖怪は、ずばり、「新富座妖怪引幕(河鍋暁斎)その一・その二・その三」の「大目玉のろくろ首」と繋がっている。さらに、「新富座妖怪引幕(河鍋暁斎)その三」の「化け猫」は、三代豊国(国貞)の「花野嵯峨猫魔稿‐化け猫‐」などが連想されてくる☻☻♫•*¨*•.¸

ともすれば、「妖怪画の暁斎」というのが独り歩きしているが、暁斎に取って、「妖怪画」というのは、ほんの一部であって、「美人画」「風俗・故事人物」「仏界・冥界」「戯画」等々、
「狩野派と浮世絵の最終地点いる暁斎」(『別冊太陽 河鍋暁斎 奇想の天才絵師(安村敏信監修)』所収(天明屋尚稿)」)というネーミングが、より相応しいであろう☻☻♫•*¨*•.¸

もう一点、上記の国芳の「源頼光公館土蜘蛛妖怪図」は、遠く、「ボストン美術館」にもあるようである(補記三)。「ボストン美術館」と言えば、先の芳年の「猫鼠合戦」も同美術館の所蔵であった。これは、どうやら、上記に出てくる岡倉天心の右腕でもあったフェノロサ(帰国後、ボストン美術館東洋美術部長に就任している)が、何らかの関与をしていることであろう。暁斎の作品では、「風神雷神図」「地獄太夫」(補記四)などを所蔵しているようである。岡倉天心や藤岡作太郎は、暁斎を「誇張の弊」や「風調野鄙」と低い評価であったが、フェノロサの方が、日本の先達よりも、より「目利き」であったということなのであろうか。このことに関連して、暁斎が亡くなる一年前の明治二十一年(一八八八)に、天心とフェノロサが河鍋家を訪ねて、東京美術学校(現東京芸術大学)の指導者として要請したとの記述も見られる。もし、これが実現していたとしたら、日本の美術界というのは、大きく様変わりをしていたことであろう☻☻♫•*¨*•.¸

ここまで来て気が付いたことだが、『別冊太陽 河鍋暁斎 奇想の天才絵師(安村敏信監修)』の、その掲載「作品リスト」は、「本画」「錦画・版画・版本など」「意匠」「伝記・絵日記など」の四分類で、「本画」(肉筆画)が圧倒的に多く、今更ながらに、妖怪画などの浮世絵師というよりも、本格的な、言わば、「最後の狩野派・肉筆画絵師 河鍋暁斎」という思いを深くする☻☻♫•*¨*•.¸


補記一 河鍋暁斎画 新富座妖怪引幕 (早稲田大学演劇博物館)

https://www.waseda.jp/enpaku/collection/54/

補記二 写真師・二見朝隈の写真館(二丁目)

https://jaa2100.org/entry/detail/037560.html

補記三  源頼光公館土蜘作妖怪図

(早稲田大学図書館)
www.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko10/b10_8285/

(ボストン美術館)
www.mfa.org/collections/object/the-earth-spider-generates-monsters-at-the-mansion-of-lord-minamoto-yorimitsu-minamoto-yorimitsu-raikô-kô-no-yakata-ni-tsuchigumo-yôkai-o-nasu-zu-464901

補記四 「ボストン美術館×東京藝術大学 ダブル・インパクト」展  東京藝術大学大学美術館

河鍋暁斎 「風神・雷神」 19世紀後半 明治時代 ボストン美術館
河鍋暁斎 「地獄太夫」 19世紀後半 明治時代 ボストン美術館

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