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江戸の「金」と「銀」の空間(その四) [金と銀の空間]

(その四) 抱一の「銀」(波図屏風)と宗達・光琳・北斎の影

抱一・波図屏風.jpg

酒井抱一筆「波図屏風」六曲一双 紙本銀地墨画着色 各一六九・八×三六九・〇cm
文化十二年(一八一五)頃 静嘉堂文庫美術館
【銀箔地に大きな筆で一気呵成に怒涛を描ききった力強さが抱一のイメージを一新させる大作である。光琳の「波一色の屏風」を見て「あまりに見事」だったので自分も写してみた「少々自慢心」の作であると、抱一の作品に対する肉声が伝わって貴重な手紙が付属して伝来している。宛先は姫路藩家老の本多大夫とされ、もともと草花絵の注文を受けていたらしい。光琳百回忌の目前に光琳画に出会い、本図の制作時期もその頃に位置づけうる。抱一の光琳が受容としても記念的意義のある作品である。 】
(『別冊太陽 酒井抱一 江戸琳派の粋人』所収「作品解説(松尾知子稿)」)

 この「作品解説」の「光琳の『波一色の屏風』」というのは、次の「波波濤図」(メトロポリタン美術館蔵)を指しているのであろう。

波濤図屏風.jpg

尾形光琳筆「波濤図屏風」二曲一隻 一四六・六×一六五・四cm メトロポリタン美術館蔵
【荒海の波濤を描く。波濤の形状や、波濤をかたどる二本の墨線の表現は、宗達風の「雲龍図屏風」(フーリア美術館蔵)に学んだものである。宗達作品は六曲一双屏風で、波が外へゆったりと広がり出るように表されるが、光琳は二曲一隻屏風に変更し、画面の中心へと波が引き込まれるような求心的な構図としている。「法橋光琳」の署名は、宝永二年(一七〇五)の「四季草花図巻」に近く、印章も同様に朱文円印「道崇」が押されており、江戸滞在時の制作とされる。意思をもって動くような波の表現には、光琳が江戸で勉強した雪村作品の影響も指摘される。退色のために重たく沈鬱な印象を受けるが、本来は金地に群青が映え、うねり立つ波を豪華に表した作品であったと思われる。 】
(『別冊太陽 尾形光琳 琳派の立役者』所収「作品解説(宮崎もも稿)」)

 上記の「宗達風の『雲龍図屏風』(フーリア美術館蔵)」(部分図)は、次のものである。

宗達・龍と波.jpg

宗達筆『雲龍図屏風』(フーリア美術館蔵)」(部分図)

 この、宗達筆『雲龍図屏風』(フーリア美術館蔵)」については、下記のアドレスで触れている。

http://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-04-15-1

 ここで、上記の「作品解説(宮崎もも稿)」中の、この光琳の作品は、「本来は金地に群青が映え、うねり立つ波を豪華に表した作品であったと思われる」の、この「群青」ということに注目したいのである。

 すなわち、尾形光琳筆「波濤図屏風」は、抱一の数々の「銀(シルバー)の波濤図」を誕生させ、同時に、抱一と同世代の北斎の、数々の「群青(ベルリン藍=ベロ藍)の波濤図」を生み出したと解したいのである。

神奈川沖浪裏.jpg

北斎筆「神奈川沖浪裏」 横大判錦絵 二六・四×三八・一cm メトロポリタン美術館蔵 
天保一~五(一八三〇~三四)
【房総から江戸に鮮魚を運ぶ船を押送船というが、それが荷を降ろしての帰り、神奈川沖にさしかかった時の情景と想起される。波頭の猛々しさと波の奏でる響きをこれほど見事に表現した作品を他に知らない。俗に「大波」また「浪裏」といわれている。】
(『別冊太陽 北斎 生誕二五〇年記念 決定版』所収「作品解説(浅野秀剛稿)」)
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江戸の「金」と「銀」の空間(その三) [金と銀の空間]

(その三) 抱一の「銀」(夏秋草図屏風)と「金」(下絵)

 かつて、下記のアドレスで、抱一の「夏秋草図屏風」について触れた。

http://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-01-26

夏秋草.jpg

酒井抱一筆「夏秋草図屏風」紙本銀地着色 二曲一双 各一六四・五×一八一・八cm
東京国立博物館蔵(重文) 文政四・五年(一八二一・二二)頃

「銀箔地の右隻は夕立にしなだれる夏草、左隻には風にたなびく秋草を描く。一八二一(文政四)年末頃。十一代将軍徳川家斉の実父、一橋治済(はるさだ)の注文で描かれたことが、下絵とともに出現した書付から判明した。もとは光琳の「風神雷神図屏風」の裏面に描かれていたが、現在は別々の屏風に仕立て直されている。機知に富む構成、曲線を多用した優美で卓越した描写など、抱一作品の最高峰を誇る。」(『別冊太陽 酒井抱一 江戸琳派の粋人』所収「江戸の風流を描く(岡野智子稿)」)

 この解説文の、「下絵とともに出現した書付から判明した。もとは光琳の『風神雷神図屏風』の裏面に描かれていたが、現在は別々の屏風に仕立て直されている」の、その下絵なるものの、「夏秋草図屏風草稿」は、次のものなのである。

夏秋草下絵.jpg

酒井抱一筆「夏秋草図屏風草稿」紙本着色 二曲一双 各一六二・〇×一八一・四cm
出光美術館蔵 文政四年(一八二一)

「一九九一年の発見当時、大きく話題になった『夏秋草図屏風』の本下絵。もとは折り畳まれて保管されていたようだが、現在屏風に改装されている。その屏風の裏に添付されている書付によると、この下絵は文政四年十一月九日に、抱一から注文主の一橋治斎に宛てた、伺下絵であった。この下絵から本絵への制作過程に、構図上の変更はほとんどない。」
(『別冊太陽 酒井抱一 江戸琳派の粋人』所収「江戸の風流を描く(岡野智子稿)」)

 ここで、「本絵(完成画)と下絵(「完成画」前の草稿画)」について確認をして置きたい。

【(下絵)→ 完成画(本絵(ほんえ))を描く前の準備段階で、構想をまとめるためにつくる図。初めに小さな画面に画想の大略を表して構図化するのが普通で、これを小下絵(こじたえ)とよぶ。次にこれを基に本絵の大きさに拡大し、細部まで整えて下絵(または下図)をこしらえる。日本画の場合はこの下絵に紙や絹を重ね、敷き写して本絵の構図を決めるが、敷き写しのできない壁画や板絵などでは念紙を用いる。また、先のとがったもので下絵の上から傷をつけて下に写す釘(くぎ)彫りや、重ねた紙に針で線をなぞって写し取り、上から白い粉をはたき点線で記す法もある。
 西洋画ではエチュード、エスキス、エボーシュ、デッサンなどの語をあててよぶが、本絵と同寸大の下絵にカルトン、フレスコではシノピアなど、用語も多様である。油絵の場合、スケッチを小下絵にしてカンバスに直接下絵を施し、その上に絵の具を塗り重ねて本絵をつくる。
 また染織の場合の下絵は、青花(ツユクサ)汁など、水染で脱色可能なもので描く方法が古くから用いられた。[村重 寧] 出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)  】

 抱一の代表作「夏秋草図屏風」(二曲一双・紙本銀地着色)は、抱一の「銀屏風」の頂点を極めたものと言われている(『別冊太陽 酒井抱一 江戸琳派の粋人』所収「抱一と銀(宗像晋作稿)」)。
 抱一には、何点かの「銀屏風」がある。

一 「波図屏風」 六曲一双 紙本銀地墨画着色 各一六九・八×三六九・〇 静嘉堂文庫美術館蔵 文化十二年(一八一五)頃
二 「紅白梅図屏風」 六曲一双 紙本銀地着色 各一五二・五×三一九・六 出光美術館蔵 文政四年(一八二一)頃
三 「四季花鳥図屏風」(裏「波濤図屏風」)八曲一双 紙本銀地着色(表「紙本金地着色」) 各二一・〇×七二・〇 出光美術館蔵 文政元年(一八一八)頃


 この「三」の「四季花鳥図屏風」は「表」の「金(ゴールド)」の世界で、その「裏」の「波濤図屏風」が、「銀(シルバー)」の世界ということになる。
 そして、冒頭に掲げた抱一の「夏秋草図屏風」(銀・シルバー)は、光琳の「風神雷神図屏風」(金・ゴールド)の「裏絵」ということになる。
 さらに、冒頭に掲げた抱一の「夏秋草図屏風草稿」(金・ゴールド)は、「夏秋草図屏風」(本絵・銀・シルバー)の「下絵」ということになる。
 これらの、「本絵と下絵」、そして、「表絵と裏絵」とが、「金(ゴールド)」と「銀(シルバー)」とで、それぞれ「反転」して制作しているところに、酒井抱一の、尾形光琳への、限りないオマージュ(追慕の情)と、相互の「光琳(金・ゴールド)・抱一(銀・シルバー)」とのメッセージ(交流の情)を垣間見る思いがする。
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江戸の「金」と「銀」の空間(その二) [金と銀の空間]

(その二) 蕪村の「銀地(蛮州)山水図屏風」の謎

銀地一.jpg

与謝蕪村「山水図屏風」(右隻) 六曲一双 紙本銀地墨画淡彩 
各一六六・九×三六三・七cm MIHO MUSEUM蔵

銀地二.jpg

与謝蕪村「山水図屏風」(左隻) 六曲一双 紙本銀地墨画淡彩 
天明二年(一七八二)作 各一六六・九×三六三・七cm MIHO MUSEUM蔵

【 蕪村晩年の傑作である。右隻の水面にはうっすらと藍が刷かれており、下地の銀の柔らかい輝きと相俟って、何とも涼やかな情調を溢れさせている。薄明の空間に櫓声が冴え渡るかのような、静粛な月夜が想起されてくる。各隻には、我国でも広く愛読された『聯珠詩格』(元時代、于済撰)という名詩集から、張籍の「蛮州」と周南峯の「閩浙の分水界」と題される七絶を書いている。】
(『別冊太陽 酒井抱一 江戸琳派の粋人』所収「抱一と銀(宗像晋作稿)」)。

 『与謝蕪村 翔けめぐる創意(おもい)(MIHO MUSEUM 編)』所収「作品解説144山水図屏風(河野元昭稿)」により、「右隻」と「左隻」の漢詩の全文と意訳などを次に記して置きたい。

(右隻) 署名「天明壬寅夏写於雪斎/謝寅」
印章「謝長庚」(白文方印)「謝春星」(白文方印)
章水蛮中入洞流  蛮州どこでも水悪く
人家住多竹棚頭  辺鄙な所(とこ)でも人が住む
青山海上無城郭  どこにも城壁なんかなく
只見松牌下象州  松の立て札立つばかり

(左隻) 署名「壬寅秋八月望前二日/東成謝寅製」
     印章「長庚」「春星」(朱白文連印) 
古駅頽垣不記春  古びた駅のくずれた土塀
隔籬鷄犬舊此郷  犬と鶏(とり)には垣根が邪魔だ
東家纔過西家去  東から西ちょっと歩けば
便是閩人訪浙人  浙江・福建お隣(となり)どうし

 この蕪村の晩年の傑作「山水図屏風」にも大きな謎が隠されているようなのである。

 その謎は、上記の、『別冊太陽 酒井抱一 江戸琳派の粋人』所収「抱一と銀(宗像晋作稿)」と『与謝蕪村 翔けめぐる創意(おもい)(MIHO MUSEUM 編)』所収「作品解説144山水図屏風(河野元昭稿)」で紹介されている「山水図屏風」と、『絵は語る13 酒井抱一筆 夏秋草図屏風―追憶の銀色(玉蟲敏子著)』で紹介されている「蛮州山水図屏風」とが、同じ主題を扱いながら、その元になる作品が微妙に相違していることに大きく起因している。
 そして、『絵は語る13 酒井抱一筆 夏秋草図屏風―追憶の銀色(玉蟲敏子著)』で紹介されている「蛮州山水図屏風」は、『蕪村全集第六巻 絵画・遺墨(尾形仂・佐々木丞平)・岡田彰子編)』では、「作品解説518山水図」で紹介されており、その要点は次のとおりである。

『絵は語る13 酒井抱一筆 夏秋草図屏風―追憶の銀色(玉蟲敏子著)』・『蕪村全集第六巻 絵画・遺墨(尾形仂・佐々木丞平)・岡田彰子編)』所収「作品解説518山水図」

518 山水図 紙本銀地淡彩 六曲屏風一双 各一五一・五×三三七・四cm
款 「天明壬寅夏写於雪斎/謝寅」(右隻)
印 「謝長庚」(白文方印)「謝春星」(白文方印)(右隻)
賛  章水蛮中入洞流  
人家住多竹棚頭  
青山海上無城郭  
只見松牌下象州 (張籍「蛮州」聯珠詩格巻一四)
天明二年(一七八二) 個人蔵

 どこが違うかというと、「作品解説518山水図」は、その大きさが「各一五一・五×三三七・四cm」で、こちらの方がやや小ぶりなのである。さらに、「右隻」の「漢詩」(賛)・「署名」・「印章」は同じなのだが、「左隻」には「漢詩」(賛)・「署名」・「印章」が存在しないのである。
 これらのことについて、『絵は語る13 酒井抱一筆 夏秋草図屏風―追憶の銀色(玉蟲敏子著)』では、「一方の隻(注・左隻)もまたこのような詩句が記されていたと見られるのだが、残念なことに切り取られてしまっている」と記している。

銀地山水図.jpg

『蕪村全集第六巻 絵画・遺墨(尾形仂・佐々木丞平)・岡田彰子編)』所収「作品解説518山水図」(上段=右隻の「賛」等はあるが、下段=左隻には「賛」等が切り取られている。)

 上記の蕪村の銀地の「(蛮州)山水図屏風」を「銀地山水図屏風」とすると、二つの「銀地山水図屏風」が存在するということになる。
 しかし、『蕪村全集第六巻 絵画・遺墨(尾形仂・佐々木丞平)・岡田彰子編)』を丹念に見て行くと、この「作品解説518山水図」に続いて、「作品解説519人家山水図」(二曲一双)・「作品解説520山水図」(一幅)・「作品解説521山水図」(六曲一双)にも、上記の「右隻」の漢詩(賛)と、その図柄が同じようなものが紹介されている。
 さらに、続く「作品解説523秋景山水図」(六曲一双)になると、何と、その「右隻」に、冒頭の「左隻」の、他の作品では消滅していた漢詩(「古駅頽垣不記春」以下)の「賛」がなされており、冒頭の「右隻」の漢詩(「章水蛮中入洞流」以下)の「賛」が、その「左隻」の「賛」に記されている。しかし、この「523秋景山水図」(六曲一双)は、「紙本墨画」で「銀地淡彩画」ではない。

 これらのことを整理すると、蕪村は、亡くなる一年前の天明二年(一七八二、六十七歳)に、「山水図屏風」(MIHO MUSEUM蔵・銀地墨画淡彩・六曲一双)、「(蛮州)山水図屏風」(個人蔵・銀地墨画淡彩・六曲一双)、そして、「秋景山水図屏風」(紙本墨画・六曲一双・『日本の文人画』)」と、同じ画題の大作ものを三本も完成させているということになる。
 さらに、年次不詳だが、「人家山水図屏風」(二曲一隻・淡彩・入札記録)、「山水図」(一幅・淡彩・入札記録)、「山水図屏風」(六曲一双・淡彩・入札記録)などで、同じ画題のものを制作しているということになる。

 ここで、その落款から制作時期が判明できるものを整理すると、次のとおりとなる。

天明壬寅夏(天明二年夏=六月?)→ 「銀地山水図屏風」(MIHO MUSEUM蔵)右隻と「銀地(蛮州)山水図屏風」(個人蔵)右隻

壬寅秋八月望前二日(天明二年八月十三日?)→「銀地山水図屏風」(MIHO MUSEUM蔵)左隻

 上記の制作時期の落款からすると、「銀地山水図屏風」(MIHO MUSEUM蔵)と「銀地(蛮州)山水図屏風」(個人蔵)とは、「本絵」と「下絵(草稿画)」との関係にあり、その落款からすると、「本絵」が、「銀地山水図屏風(右隻・左隻)」(MIHO MUSEUM蔵)、「下絵」が「銀地(蛮州)山水図屏風(右隻・左隻)」(個人蔵)と解したい。
そして、「「銀地(蛮州)山水図屏風(左隻)」の制作時期は、天明壬寅夏(天明二年夏=六月?)で、その後、その「賛」などの修正があったものと解したい。
 また、年次不詳の「二曲一双屏風」・「六曲一双屏風」・「掛福」ものは、「天明二年(一七八二)」以前に制作されたもので、それらの作品を通して、上記の「銀地山水図」の需要があったものと解したい。
 同様にして、「壬寅秋」の落款のある「秋景山水図」(『日本の文人画』)は、「壬寅秋八月望前二日」に制作されたものとの関連で、その前後に制作されたものと解して置きたい。

 いずれにしろ、これらの蕪村の作品は、亡くなる一年前の「天明二年(一七八二、六十七歳)」前後の作品で、しかも、「銀地山水図屏風」(MIHO MUSEUM蔵)と「銀地(蛮州)山水図屏風」(個人蔵)とは、「金(ゴールド)」に対する「銀(シルバー)」の世界であって、いかにも、「銀(シルバー)」の、その「月光」・「落日」・「斜日」・「デラシネ(故郷喪失)」の「蕪村」生涯の、その晩年を飾るものとして、その「本絵」・「下絵」にかかわらわず、まぎれもなく、両者とも、蕪村の最高傑作の部類に入るものなのであろう。

 ここで、これらの「賛」の漢詩などを再掲して置きたい。

(右隻) 署名「天明壬寅夏写於雪斎/謝寅」
印章「謝長庚」(白文方印)「謝春星」(白文方印)
章水蛮中入洞流  蛮州どこでも水悪く
人家住多竹棚頭  辺鄙な所(とこ)でも人が住む
青山海上無城郭  どこにも城壁なんかなく
只見松牌下象州  松の立て札立つばかり

(左隻) 署名「壬寅秋八月望前二日/東成謝寅製」
     印章「長庚」「春星」(朱白文連印) 
古駅頽垣不記春  古びた駅のくずれた土塀
隔籬鷄犬舊此郷  犬と鶏(とり)には垣根が邪魔だ
東家纔過西家去  東から西ちょっと歩けば
便是閩人訪浙人  浙江・福建お隣(となり)どうし

 上記の漢詩の「蛮州・象州」とは、蕪村の生涯からすると、若き日の放浪の旅を続けた、「武蔵(関東・東京)」「常陸・下野・上野の北関東」そして「奥の細道の『奥州各地』」ということになろう。
 そして、「閩人(福建)・浙人(浙江)」とは、生まれ故郷の「浪速(大阪)」と、その後半生を過ごした「山城(京都)」ということになろう。
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江戸の「金」と「銀」の空間(その一) [金と銀の空間]

(その一) 其一の「金」(白椿図)と「銀」(芒野図)

其一・白椿.jpg

Camellias (one of a pair with F1974.35) → 白椿(フリーア美術館蔵)
Type Screen (two-panel) → 二曲一双
Maker(s) Artist: Suzuki Kiitsu 鈴木其一 (1796-1858)
Historical period(s) Edo period, 19th century
School Rinpa School
Medium Ink, color, and gold on paper → 金地着色画
Dimension(s) H x W: 152 x 167.6 cm (59 13/16 x 66 in)

 上記の作品が、屏風の「表」の「金」(ゴールド)の世界とすると、その屏風の「裏」の「銀」(シルバー)の世界が、次のものである。

其一・芒野.jpg

Autumn Grass → 芒野(フリーア美術館蔵)
Type Screen (two-panel) → 二曲一双
Maker(s) Artist: Suzuki Kiitsu 鈴木其一 (1796-1858) → 鈴木其一
Historical period(s) Edo period, 19th century
Medium Ink and silver on paper → 銀地墨画 
Dimension(s) H x W: 152 x 167.6 cm (59 13/16 x 66 in)

 この「白椿図」と「芒野図」とは、現在は、二曲一双に改装されているが、もともとは、二曲一隻の「白椿に芒野図」として、屏風の「表」と「裏」に描かれていたものなのである。
 これは、光琳が描いた金地の「風神雷神図屏風」(東京国立博物館蔵)に対して、抱一が「裏絵」として描いた銀地の「夏秋草図屏風」(東京博物館蔵)との構成と同じ世界のものということになる。
 そして、実は、其一に、もう一つの、「銀」(シルバー)の、「芒野図屏風」(二曲一隻)が存在する。

其一・芒野二.jpg

鈴木其一「芒野図屏風」 二曲一隻 紙本銀地墨画 一四四・二×一六五cm
千葉市美術館蔵

 この「銀」(シルバー)の世界は、単独の、「表絵」の世界である。こういう、さまざまの試みを、江戸三百年の、その「前期・中期・後期の画人」たちは試みている。
 さらに、上記の「表絵」の「白椿図」は、光琳の「赤椿図」(団扇絵)を念頭に置いたものとも言われている(『別冊太陽 酒井抱一 江戸琳派の粋人』所収「抱一と銀(宗像晋作稿)」)。

赤椿図団扇.jpg

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「風神雷神図」幻想(その二十) [風神雷神]

(その二十) 光琳の「金」(風神雷神図)と抱一の「銀」(夏秋草図)、そして、其一の「金」(白椿図)と「銀」(芒野図)の世界

 一橋一位殿御頼認上
 二枚折屏風一隻下絵 銀地
       雷神  夏艸雨
 光琳筆 表    裏 
       風神  秋艸風
   文政四年辛巳十一月九日出来 差出

一 上記は抱一筆「夏秋草図屏風」の裏面に貼付されていた文書の内容である。
二 この文書により、抱一の「夏秋草屏風」は、一橋一位殿(一橋治済=はるさだ)の依頼により制作したことが分かる。また、光琳の「風神雷神図屏風」の、「雷神」の裏面に「夏草雨」が、そして、「風神」の裏面に「秋草風」が配して制作したと、抱一の趣向が記されている(現在は別々の屏風に仕立て直されている)。
三 この光琳の「風神雷神図」(表)と、抱一の「夏秋草図(裏)」とを、抱一の「夏秋草図」(裏)を前面にして、「表」と「裏」とを表示すると、次のとおりとなる。

夏秋草図屏風(風神雷神図との関連).jpg

上段(表) 尾形光琳筆「風神雷神図屏風」(二曲一双) 東京国立博物館蔵
下段(裏) 酒井抱一筆「夏秋草図屏風」(二曲一双)  東京国立博物館蔵

 抱一が、「光琳百回忌」の法要を営んだのは、文化十二年(一八一五、五十五歳)の時、それから六年後の文政四年(一八二一、六十一歳)の時に、上記の「夏秋草図屏風」(「下絵」と「本図」)が完成したということになる。
 十一代将軍徳川家斉の父にあたる一橋治斎は、この前年に、古希を迎え、朝廷から従一位に任ぜられ最高位に上り詰めた。また、その翌年には、家斉の息女喜代姫と、酒井家十八代忠実の子、注学との婚約が成立し、将軍家と姫路酒井家の婚儀が整ったという時代史的背景がある。
 さらに付け加えるならば、この年(文政四年)は旱魃に見舞われた年で、抱一が、この「夏秋草図屏風」を手掛けたのは、風神雷神に雨乞いの祈りを託したものという説もあるようである((『別冊太陽 酒井抱一 江戸の粋人(仲町啓子監修)所収「江戸風流を描く(岡野智子稿)」)。
 その上で、光琳の「風神雷神図屏風」が、一橋徳川家にあったものなのか、それとも、抱一が探し出したものなのかどうかは定かではない。確かに言えることは、光琳の「風神雷神図屏風」の裏面、確実に、抱一が、この「夏秋草屏風図」描いたということなのである。
 そして、光琳の「風神雷神図屏風」が、金(ゴールド)の世界に、抱一の「夏秋草図屏風」は、銀(シルバー)の世界をもって対峙させたということなのである。
 この抱一の、銀(シルバー)の世界は、光琳の、金(ゴールド)の世界への「挑戦」であると共に、光琳を敬慕する抱一の、限りない「オマージュ」(敬意を表しての作品)的「裏絵」(「表絵」に呼応する「裏絵」)という趣向を有するものなのであろう。
 そして、この抱一の、金(ゴールド)の「表絵」に呼応する、銀(シルバー)の「裏絵」の世界は、抱一の継承者の鈴木其一に、見事に引き継がれて行くのである。
 その象徴的な作品が、次の其一の、「金」(白椿図)と「銀」(芒野図)との世界ということになる。

其一・白椿.jpg

Camellias (one of a pair with F1974.35) → 白椿(フリーア美術館蔵)
Type Screen (two-panel) → 二曲一双
Maker(s) Artist: Suzuki Kiitsu 鈴木其一 (1796-1858)
Historical period(s) Edo period, 19th century
School Rinpa School
Medium Ink, color, and gold on paper
Dimension(s) H x W: 152 x 167.6 cm (59 13/16 x 66 in)

其一・芒野.jpg

Autumn Grass → 芒野(フリーア美術館蔵)
Type Screen (two-panel) → 二曲一双
Maker(s) Artist: Suzuki Kiitsu 鈴木其一 (1796-1858)
Historical period(s) Edo period, 19th century
Medium Ink and silver on paper
Dimension(s) H x W: 152 x 167.6 cm (59 13/16 x 66 in)
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「風神雷神図」幻想(その十九) [風神雷神]

(その十九) 三十三間堂の「怒れる雷神・風神」と北斎の「雷神風神」図

三十三間堂.jpg

「三十三間堂」=「雷神像(右)」「風神像(左)」

「三十三間堂」の中央に位置する「千手観音像」と「千体仏」を支える守護神が二十八部衆のようである。
 その「千手観音像」を四方に支える「四天王」(持国天・増長天・広目天・毘沙門天)
さらに「八部衆」(天衆・龍衆・夜叉衆・緊那羅(キンナラ)衆・乾闥婆(ケンダツバ)衆・迦楼羅(カルラ)衆・阿修羅衆・摩睺羅(マゴラ)衆)、そして、「金剛力士(仁王像)」(阿形像・吽形像)」などがよく知られている。
 その他に、「吉祥天・梵天・大自在天・鬼子母神・金毘羅王・金色孔雀王・金大王・満仙王・難陀(ナンダ)竜王・散脂(サンジ)大将・畢婆迦羅(ヒバカラ)王・摩醯首羅(マケイシュラ)王・婆藪(バス)仙人・摩和羅女」など、読み方もまちまちの守護神が取り巻いているようである。
 この「二十八部衆」(守護神)の眷属(従者・郎党)の「二神」が、「風神」「雷神」で、
「自然の脅威の悪神」と「二十八部衆の手助けをする善神」との、その両性を備えている「鬼神」というような位置づけなのかも知れない。

 ここで、今まで見てきた「風神雷神」図像のうちで、「自然の脅威の悪神」(「怒れる風神雷神)」という印象を漂わせているのは、北斎の「雷神図」と「風神図」とが群れを抜いている。

北斎・雷神図一.jpg

北斎筆「雷神図」(一部・拡大)フリーア美術館蔵(「オープンF|S」)
署名「八十八老卍筆」 印章「百」 弘化四年(一八四七)

 この北斎の「雷神図」は、まさに、「三十三間堂」の、上記の「怒れる雷神像」に匹敵する。
 そして、この上記の「三十三間堂」の、何処となく、上記の「八部衆」の、「迦楼羅(カルラ)衆」の雰囲気を漂わせている「怒れる風神像」に比しての、北斎の、次の「風神図」が、どうにもそぐわないのである。

風神.jpg

北斎「風神図」(落款「八十五老卍筆」 印章「冨士型」)
弘化元年(一八四四) 個人蔵

 これは、何処となく、上記の「二十八部衆」のうち、「婆藪(バス、バソ)仙人」の面影を宿しているように思えるのである。

婆藪像.jpg

「三十三間堂」の「「婆藪(バス・バソ)仙人」像

 そして、さらに、幻想を手繰らわして行くと、次の、北斎の晩年の杖を引いた自画像に行き当たるのである。

北斎自画像.jpg

Hokusai as an old man(フリーア美術館蔵)
Type Album leaf
Maker(s) Artist: Katsushika Hokusai 葛飾北斎 (1760 - 1849)
Historical period(s) Edo period, 1760-1849
Medium Woodblock print: ink on paper
Dimension(s) H x W: 54 x 25.5 cm (21 1/4 x 10 1/16 in

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「風神雷神図」幻想(その十八) [風神雷神]

(その十八) 抱一の「雷神風神図扇」

抱一・扇一.jpg

酒井抱一「風神雷神図扇」の「風神図扇」
紙本着色 二本 各三四・〇×五一・〇cm 太田美術館蔵

抱一・扇二.jpg

酒井抱一「風神雷神図扇」の「雷神図扇」
紙本着色 二本 各三四・〇×五一・〇cm 太田美術館蔵
【光琳画をもとにして扇に風神と雷神を描き分けた。『光琳百図後編』に掲載された縮図そのものに、二曲屏風の作例より小画面でかえって似ているところがある。また雲の表現や天衣の翻りなど鈴木其一による『風神雷神図襖』にも近い。すでに大作を仕上げていた身に付いた感じがあり、淡い色調が好ましくもある。 】
(『別冊太陽 酒井抱一 江戸の粋人(仲町啓子監修)所収「作品解説(松尾知子稿)」)

 そもそも、琳派の祖の俵屋宗達の「俵屋」は、京都の「絵扇」を中心とする「絵屋」ないし「扇屋」の屋号のようなものであろう。仮名草子『竹斎』に「扇は都たわらやがひかるげんじのゆうがほのまきえぐをあかせてかいたりけり・・・」と、「俵屋の扇」は京都の人気の的であったことが記されている。

宗達・扇面.jpg

伝俵屋宗達「扇面散貼付屏風」 二曲一双 紙本着色 重文 醍醐寺蔵
各 一五七・〇×一六八・〇cm 各扇 上弦 五五・〇~五七・五cm

光琳・扇.jpg

尾形光琳「鶴扇」17.9 x 49 cm フリーア美術館蔵
A crane
Type Fan
Maker(s) Artist: Style of Ogata Kōrin 尾形光琳 (1658-1716)
Historical period(s) Edo period, 19th century
School Rinpa School
Medium Ink and color on paper
Dimension(s) H x W (overall): 17.9 x 49 cm (7 1/16 x 19 5/16 in)

 宗達の「俵屋」が扇屋でとすると、光琳の「雁金屋」は呉服商で上層町衆の家柄である。この絵扇の署名は「法橋光琳」で、元禄十四年(一七〇一、四十四歳)に「法橋」に叙されているので、それ以降の作ということになろう。
 元禄八年(一六九五、三十八歳)の「年譜」に、「二条綱平、光琳の絵扇を女院に献上す」とあり、光琳の「絵扇」も、人気が高かったのであろう。
 宗達、そして、光琳の、その「琳派」を承継する、江戸琳派の創始者、酒井抱一もまた、「絵扇」の名手である。
 冒頭の「風神雷神図扇」は、『光琳百図後編』に掲載されている縮図を踏襲しており、それが刊行された文政九年(一八二六、六十六歳)前後の、晩年の作であろうか。こういう小画面のものになると、抱一の瀟洒な画技が実に見応えあるものとなって来る。
 この抱一と北斎とは、全く同時代の二人で、北斎が一歳年上、そして、北斎にも「扇面散図という名品がある。

北斎・扇.jpg

葛飾北斎「扇面散図」絹本着色一幅 五十一・五×七一・四cm 東京国立博物館蔵
署名「九十老人卍筆」 嘉永二年(一八四九)作

 抱一と北斎、抱一は大名家の生まれ、片や、北斎は、武蔵国葛飾の百姓の出、その出生などは雲泥の差がある。しかし、画人としてのスタートは、北斎が、浮世絵師、勝川華章門、そして、抱一もまた、浮世絵師、歌川豊春に師事し、洒落本や美人画などと、浮世絵の世界から出発している。
 爾来、北斎の九十年ら亘る生涯は、まさに、神羅万象、三万点を超える作品を発表し、世界に冠たる「日本最大の浮世絵師・北斎」の名を轟かしているが、抱一もまた、宗達、光琳の切り拓いた、日本画壇の一角を占めた「琳派」の後継者として、さらに、「江戸琳派」の創始者として、その六十八年の生涯は、決して、北斎に一歩も引けを取るものではなかろう。
 と同時に、北斎にしても抱一にしても、屏風絵や大画面の肉筆画に目が奪われがちであるが、こうした、絵扇や扇面画の小画面のものや細密画の世界に、大画面ものに匹敵する凄さというものを実感する。
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フリーア美術館逍遥(その五) [フリーア美術館]

(その五)抱一「三十六歌仙図屏風」(参考「光琳の『三十六歌仙図屏風』など)

抱一・三十六歌仙.jpg

酒井抱一「三十六歌仙図屏風」紙本金地着色 二曲一双 一五〇・九×一六三・〇cm
フリーア美術館蔵

Thirty-Six Poets
Type Screen (two-panel)
Maker(s) Artist: Sakai Hōitsu 酒井抱一 (1761-1828)
Frame maker: Hara Yoyusai (1772 - 1845)
Historical period(s) Edo period, early 19th century
Medium Ink, color, and gold on paper
Dimension(s) H x W (image): 150.3 × 162.4 cm (59 3/16 × 63 15/16 in)

(留書き)
上記の「Frame maker: Hara Yoyusai」は、この木枠(黒漆で松葉模様が施されている)の作者の「原羊遊斎」のことである。

(「朝日日本歴史人物事典」)

没年:弘化2.12.25(1846.1.22)
生年:明和6(1769)
江戸後期の蒔絵師。江戸神田に住み,通称は久米次郎,更山と号する。その詳しい事績は伝わっていないが,『蒔絵師伝』の記事などによれば,羊遊斎の立場は一個の蒔絵師というよりも工房の主催者に近いものであったらしく,常に権門勢家に出入りし,中山胡民をはじめとする多くの門人を擁して蒔絵作品の制作に当たったという。酒井抱一,鷹見泉石,谷文晁,大田蜀山人,7代目市川団十郎など,当時一流の文化人との交流も,その外向的な性格を物語るものといえよう。羊遊斎,あるいはその一派の作風は,琳派風の装飾性豊かな意匠を,薄肉高蒔絵を基調にした伝統的な蒔絵技法で描き出したもので,その精細かつ華やかな表現は,江戸後期の多彩な蒔絵のなかでも際だって目をひく存在となっている。なお,今日,羊遊斎作と称する作品は,酒井抱一が下絵を描いたとされるものも含めて数多く巷間に伝わっており,いずれも「羊」「羊遊斎」「羊遊斎作」などの銘が記されている。それらの真偽の程は決し難いが,「行年六十一歳/羊遊斎」の箱書を持つ「片輪車蒔絵大棗」(静嘉堂文庫蔵),覆紙の注記から文政4(1821)年の制作と推定される「蔓梅擬目白蒔絵軸盆」(江戸東京博物館蔵)などを一応の基準作とみることができよう。<参考文献>『工芸鏡』

※ この抱一の「三十六歌仙図屏風」(フリーア美術館蔵)は、次の尾形光琳の「三十六歌仙
図屏風」(メナード美術館蔵)を模したものなのである。ところが、抱一には、もう一枚の、「三十六歌仙図屏風」(ブライス・コレクション蔵)がある。

光琳・三十六歌仙.jpg

尾形光琳「三十六歌仙図屏風」紙本金地着色 二曲一双 一六五・五×一八四・〇cm
メナード美術館蔵

抱一・ブライス・コレクション.jpg

酒井抱一「三十六歌仙図屏風」紙本金地着色 二曲一双 一六四・五×一八〇・〇cm
ブライス・コレクション蔵
【光琳画の図様が抱一以降に継承された例として、もっとも遺品が多いのは実はこの三十六歌仙であり、重要な位置を占める。本図は光琳百回忌の展観に出品され、『光琳百図』に掲載されている光琳の二曲一双に基づくもの。歌仙図の長い歴史のなかでも傑出して表情豊かで楽しい群像とした光琳画を、細部までほとんど改変することなく再現した一例である。】(『別冊太陽 酒井抱一 江戸の粋人(仲町啓子監修)所収「作品解説(松尾知子稿)」)

※ 「フリーア美術館蔵」図も、「ブライス・コレクション蔵」図も、抱一個人の作というよ
りも「抱一工房(雨華庵)」の「抱一ブランド品」と解すべきものなのかも知れない。そして、それは、「宗達(号=伊年)と宗達工房(「伊」印)」などのように、絵師(主宰者)とスタッフ(門弟)との共同制作というのは、当時の一つのパターン化したものと理解すべきものなのかも知れない。
 特に、「抱一(絵師=下絵)と羊遊斎(蒔絵師=蒔絵制作)」との、「抱一・羊遊斎のブランド蒔絵」というのは、今に、超一級品としての折紙がつけられている。このことは、「光琳蒔絵」「光琳・乾山の陶器・高級什器」などにも均しく当てはまることなのであろう。

※ ところで、上記の絵図には、「三十六歌仙」(平安時代の三十六人の和歌の名人)と題し
ながら、三十五人しか描かれていないようなのである。実は、高貴なお方が一人居て、そのお方は、几帳(上方の部屋を仕切る幕)の後ろに控えているようなのである。

柿本人麻呂 山部赤人 大伴家持 猿丸大夫 僧正遍昭 在原業平 小野小町 藤原兼輔
紀貫之 凡河内躬恒 紀友則 壬生忠岑 伊勢 藤原興風 藤原敏行 源公忠 源宗于
素性法師 大中臣頼基 坂上是則 源重之 藤原朝忠 藤原敦忠 藤原元真 源信明 
※※斎宮女御 藤原清正 藤原高光 小大君 中務 藤原仲文 清原元輔 大中臣能宣
源順 壬生忠見 平兼盛


斎宮女御.jpg

佐竹本三十六歌仙絵巻の内(上記※※)
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フリーア美術館逍遥(その四) [フリーア美術館]

(その四)光琳「群鶴図屏風」(参考「抱一・其一の『群鶴図屏風』」)

光琳・群鶴図一.jpg

尾形光琳「群鶴図屏風」(六曲一双の内「右隻」) 各一六六・〇×三七一・〇㎝
フリーア美術館蔵

光琳・群鶴図二.jpg

尾形光琳「群鶴図屏風」(六曲一双の内「左隻」) 各一六六・〇×三七一・〇㎝
フリーア美術館蔵

Cranes
Type Screens (six-panel)
Maker(s) Artist: Ogata Kōrin 尾形光琳 (1658-1716)
Historical period(s) Edo period, late 17th-early 18th century
Medium Ink, color, gold, and silver on paper
Dimension(s) H x W (each): 166 x 371 cm (65 3/8 x 146 1/16 in)

(参考)

抱一・群鶴.jpg

酒井抱一「群鶴図屏風」(二曲一双)一四三・五×一四三・三㎝m
ウースター美術館蔵

其一・群鶴一.jpg

鈴木其一「群鶴図屏風」(六曲一双の内「右隻」) 各一六二・五×三五八・八㎝
ブライス・コレクション蔵

其一・群鶴二.jpg

鈴木其一「群鶴図屏風」(六曲一双の内「左隻」) 各一六二・五×三五八・八㎝
ブライス・コレクション蔵

(留書き)
光琳の「群鶴図屏風」(六曲一双)を、抱一が「二曲一双」ものに模して、さらに、其一は抱一のスタイル(「羽」などの「光琳の黒からのグラデ―ション化」を「抱一流の銀と褐色の塗り分け」)で、光琳の「六曲一双」を模している。

其一・群鶴三.jpg

鈴木其一「群鶴図屏風」(二曲一双)各一六四・八×一七五・〇cm
ファインバーグ・コレクション蔵

(留書き)
これは、其一の「二曲一双」ものの「群鶴図屏風」である。これは、画面に「引手跡」が残っていて、当初は「襖絵」であったのを、後に「屏風絵」に改装したもののようである(『鈴木其一 江戸琳派の旗手』所収「作品解説(石田佳也稿)」)
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「風神雷神図」幻想(その十六) [風神雷神]

(その十六)狩野派(「雷神(右)・風神(左)」)と琳派(「風神(右)・雷神(左))」)

探幽・雷神図.jpg

「雷神図屏風(右)」(一一四・〇×三四九・八cm)
「風神雷神図屏風」(伝狩野探幽)六曲一双 紙本墨画淡彩 板橋区立美術館蔵

探幽・風神図.jpg

「風神図屏風(左)」(一一四・〇×三四九・八cm)
「風神雷神図屏風」(伝狩野探幽)六曲一双 紙本墨画淡彩 板橋区立美術館蔵

 「狩野派」は、上記のとおり、「雷神(右)・風神(左)」となる。これまで見て来たもので、「北斎」・「国芳」(単独の「雷神図」主体など)・「暁斎」(基本的には「狩野派」に準じている)も、この「狩野派」の流れのものと解したい。
 この「雷神(右)・風神(左)」の、代表的なものが、「三十三間堂」の「雷神像(右)」「風神像(左)」の配置ということになる。

三十三間堂.jpg

「三十三間堂」=「雷神像(右)」「風神像(左)」

 これに比して、「琳派」の流れは、「宗達→光琳→抱一→其一」とも、すべからく、「風神(右)・雷神(左))」ということになる。
 ここで、あらためて、「風神雷神図」のイメージを今に元祖的に伝えている、その宗達の「風神(右)雷神(左)」を再掲して置きたい。

宗達 風神雷神図.jpg

俵屋宗達「風神雷神図屏風」二曲一双 紙本金地着色 建仁寺蔵(京都国立博物館に寄託)
寛永年間頃(十七世紀前半)作 各一五四・五 × 一六九・八 cm

 宗達の、この「風神雷神図」の世界と、例えば、「三十三間堂」のそれとは、似ても似つかないものということになろう。
 そして、この宗達画の「風神(右)雷神(左)図」は、やはり、例えば、遠く、敦煌莫高窟(ばくこうくつ)第二四九窟の壁画などに見られるもののようである。

敦煌.jpg

敦煌莫高窟第二四九窟の壁画(風神=右、雷神=左)

 この「風神=右、雷神=左右」は、「千手観音二十八部衆像」(静嘉堂文庫美術館蔵)などにも踏襲されている。しかし、「風神=緑青、雷神=朱」で、宗達図の「風神=緑青、雷神=白」とは異なる。
 また、風神と雷神の形姿自体は、「松崎天神縁起絵巻」や「北野天神縁起絵巻」などの古絵巻などの引用の方法がとられているとの指摘がなされている(『絵は語る (13) 夏秋草図屏風-酒井抱一筆 追憶の銀色(玉蟲敏子著)』)。
 いずれにしろ、「風神・雷神」というのは、「暴風雨をおこす恐るべき鬼神」(「三十三間堂」の「風神・雷神像」)というのが、基本的な形姿で、その形姿の背後に、「弘法大師や小野小町の祈雨に呼応する鬼神」という一面を有しているのであろう。

 名月や神泉苑の魚(うを)躍る 蕪村 (『蕪村句集』)

 この蕪村の句には、「雨のいのりのむかしをおもひて」の前書きが付してある。「神泉苑」とは、桓武天皇創設の御苑で、ここで、弘法大師や小野小町が「雨のいのり」をしたことで知られている。

 ほとゝぎすいかに鬼神(きじん)もたしかに聞(きけ) 宗因
  ましてやまぢかきゆふだちの雲           蕪村
 江を襟(えり)の山ふところに舟よせて        几董
  (以下略)

 『花鳥篇』(天明二年・蕪村編)所収の「ほとゝぎす」(歌仙)の冒頭の三句である。これは、宗因の句を発句として、蕪村が脇句を付け、そこからスタートする「脇起こし」歌仙である。宗因の発句は、「いかに鬼神もたしかに聞(きけ)」の「謡曲・田村」の「文句取り」の一句である。
 この「鬼神」が、「風神・雷神」の「鬼神」ということになろう。この句に対する蕪村の脇句も、「ましてや間近き鈴鹿山」(「謡曲・田村」)の「文句取り」の一句で応酬しているところがポイントとなる。意味するところのものは、「風神・雷神さんが夕立の雲に乗って、確かに、祈雨に応えてくれるであろう」というようなことになろう。
 几董の第三は、「天候急変に舟が避難している」という付けということになる。

 ここで、冒頭の「風神雷神図屏風」(伝狩野探幽)を見ると、これは「怒れる風神・雷神」図ではなく、「祈雨に応えている風神・雷神」図ということになろう。
 そして、「風神雷神図」のイメージを今に元祖的に伝えている、宗達の「風神・雷神」図も、決して、上記の「三十三間堂」の「怒れる風神・雷神」図ではなかろう。
 しかし、それはそれとして、決して、地上界の「祈雨に応えている風神・雷神」図というイメージでもなかろう。
 ずばり、六世紀初頭の、日本から遠く離れた敦煌の、その「敦煌莫高窟第二四九窟の壁画」に描かれた「風神・雷神」図の、その「彩色豊かな・動的にして且自由闊達な、その『風神・雷神』」を、見事に活写した、十七世紀の日本の、そして、京都の一介の絵師の、「俵屋宗達」の、その「風神雷神図屏風」は、まさに、「風神雷神図」のイメージの元祖としての位置を不動のものにするのであろう。
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「風神雷神図」幻想(その十五) [風神雷神]

(その十五)其一の「風神雷神図襖絵」

其一・風神.jpg

鈴木其一「風神雷神図襖」(右四面)
八面 絹本着色 各一六八・〇×一一五・・五cm 江戸時代後期
東京冨士美術館蔵

其一・雷神.jpg

鈴木其一「風神雷神図襖」(左四面)
八面 絹本着色 各一六八・〇×一一五・・五cm 江戸時代後期
東京冨士美術館蔵

【 宗達、光琳、抱一という琳派の先達たちによって受け継がれてきた風神雷神という画題を、其一は屏風ではなく襖の大画面に移し替えた。元は二曲一双の屏風から、それぞれ左右に余白を加えた襖八面に画面が拡張されている。制作された当初は風神と雷神が襖絵の表裏を成していたという。絹地の上に、滲みを利かせた黒雲を描くが、風神を載せる雲は下から勢いよく噴き上げる風を感じさせ、対する雷神は取り囲む黒雲は、いかにも稲光が走りそうな雨をはらんだ雲にみえる。風神雷神の姿や形を含め、抱一が編んだ『光琳百図』後編下冊の「風神雷神図」を明らかに下敷きにした構図といえるが、失敗をゆるされない墨の濃淡の滲みによって、爽快なまでにダイナミックな天空の描写が実現している。「祝琳斎其一」の署名と「噲々」(朱文円印)によって、其一の四十代前半頃の作と推定される。 】
(『鈴木其一 江戸琳派の旗手』所収「作品解説(石田佳也稿)」)

 ここで、抱一の「略年譜」(『別冊太陽 江戸琳派の粋人 酒井抱一(仲町啓子監修)』所収)により、「光琳百回忌」「光琳百図」関連などを抜粋して、若干の其一との関連や説明書き(※印)を施して置きたい。

文化三年(一八〇六) 抱一=四十六歳 二月二十九日、宝井其角百回忌に際し、其角の肖像百幅を制作。※其一=十一歳 ※抱一が「光琳百回忌」を発起する切っ掛けは、この其角百回忌と関連があるとされている。
文化十年(一八一三) 抱一=五十三歳 「緒方流略印譜」刊行。鈴木其一、抱一の内弟子となる。※其一=十八歳 
文化十二年(一八一五) 抱一=五十五歳 六月二日、光琳百回忌。大塚村で法要を営み、付近の寺で光琳遺墨展を開催。『緒方流略印譜』『光琳百図』を刊行(※「光琳遺墨展」記念配り本として刊行。『光琳百図』は前編二冊=上・下のみ)。※其一=二十歳
文政三年(一八二〇) 抱一=六十歳 光琳墓碑(妙願寺)の修築完成。其一、雨華庵の西隣に住む。※其一=二十五歳
文政四年(一八二一) 抱一=六十一歳 一橋治斎発注による「夏秋草図屏風」下絵または本図の制作に着手(※「夏秋草図屏風」は、光琳の「風神雷神図屏風」の裏面に描かれている)。※其一=二十六歳
文政九年(一八二六) 抱一=六十五歳 『光琳百図』後編(上・下)刊行。※其一=三十一歳(※抱一の「風神雷神図屏風」は、文化十二年=一八一五~文政九年=一八二六の頃の作か? また、其一の「風神雷神図襖絵」は、天保六年=一八三五=四十歳~天保十一年=一八三九=四十五歳の頃の作か?)。

 上記の「略年譜」の関連で、「宝井其角百回忌」については、次のアドレスで先に若干触れている。

http://yahan.blog.so-et.ne.jp/search/?keyword=%E5%85%B6%E8%A7%92%E7%99%BE%E5%9B%9E%E5%BF%8C

 また、抱一の「夏秋草図屏風」と光琳の「風神雷神図屏風」との関連についても、次のアドレスで先に若干触れている。

http://yahan.blog.so-net.ne.jp/search/?keyword=%E5%A4%8F%E7%A7%8B%E8%8D%89%E5%9B%B3%E5%B1%8F%E9%A2%A8

 ここで、確認をして置きたいことは、「宗達と光琳」とは、何らの師弟の関係は無い。また、「光琳と抱一」とも、これまた、何らの師弟の関係は無い。これらの関係は、「光琳は宗達の大ファン」、「抱一は光琳の大ファン」で、ある時期から「光琳は宗達を目標」とし、「抱一は光琳を目標」としていたと、単純に割り切った方が、それぞれの関係がすっきりして来るであろう。
 その上で、「抱一と其一」とは、師弟の関係にあり、文化十年(一八一三)、抱一=五十三歳、其一=十八歳の時に、其一が抱一の内弟子になって以来、文政十一年(一八二八)に抱一が没する(抱一=六十八歳、其一=三十三歳)迄、其一は、抱一の傍らに控えていて、その片腕になっていたということなのである。
 すなわち、上記の抱一の「略年譜」中の、「光琳百回忌」『光琳百図』前編(上・下二冊)、後編(上・下二冊)も、さらに、光琳の「風神雷神図屏風」の裏面に描いた、抱一の最高傑作の「夏秋草図屏風」も、その比重の差はあれ、何らかの意味で、抱一の愛弟子・其一が、老齢に近い抱一の手足となっていたことは、当時の、絵師の工房の実態からして、それほど違和感を抱くこともなかろう。
 すなわち、冒頭に掲げた、其一、四十歳代前半の作とされている、この「風神雷神図襖絵」(全八面・絹本着色)は、これまでの、「金地着色」の、金箔(ゴールド)の「宗達→光琳→抱一」の「風神雷神図屏風」に対する、アンチ「金(ゴールド)・屏風」、そして、抱一が、光琳の「風神雷神図屏風」の裏面に展開した、「銀(シルバー)・屏風」的世界を意図しての、襖地(白・鼠色の絹地)に水墨画(墨の滲みを利かせての黒雲)的世界のものと指摘することが出来よう。
 この其一の「風神雷神図襖絵」は、抱一が「夏秋草図屏風」で展開した、光琳の「金(ゴールド)」に比しての「銀(シルバー)、さらに、光琳の「風神」に「風に靡く秋草」、そして、「雷神」に「夕立にしなだれる夏草」を配したように、其一は、師・抱一の「風神」に「秋の風雲」、そして、師・抱一の「雷神」に、「夏の雨雲」を配していると解したいのである。

夏秋草図屏風(風神雷神図との関連).jpg 

上段(表) 尾形光琳筆「風神雷神図屏風」(二曲一双) 東京国立博物館蔵
下段(裏) 酒井抱一筆「夏秋草図屏風」(二曲一双)  東京国立博物館蔵



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「風神雷神図」幻想(その十四) [風神雷神]

(その十四)抱一の「風神雷神図屏風」

抱一・風神雷神図.jpg

酒井抱一「風神雷神図屏風」 紙本金地着色 二曲一双 各一七〇・七×一七〇・二cm  
出光美術館蔵 江戸時代(十九世紀)

【 風神雷神は千手観音二十八部衆像の上部に描かれる仏像の神であるが、抱一画には、江戸の身近なキャラクターとして剽軽な趣が加わっている。宗達、光琳、抱一と、琳派の図様継承がもっとも象徴的に受け止められて図様だが、敷き写しができたらしい光琳に比対して、抱一は宗達本は見ておらず、一橋徳川家が所有しており江戸にあった光琳本を縮図として記憶にとどめ、そこから描かれたと思しい。 】
(『別冊太陽 酒井抱一 「江戸琳派の粋人」(監修=仲町啓子)』所収「作品解説・松尾知子稿」)

 かって、次のアドレスで、「酒井抱一(その五)『抱一の代表作を巡るドラマ』」とのタイトルで、抱一と光琳の「風神雷神図」などの一端について触れた。

http://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-01-26



一 俵屋宗達筆「風神雷神図屛風」二曲一双 紙本金地着色 江戸時代(17世紀) 各154.5×169.8㎝ 国宝 建仁寺蔵(京都国立博物館に寄託)
二 尾形光琳筆「風神雷神図屛風」二曲一双 紙本金地着色 江戸時代(18世紀) 各166×183㎝ 重文 東京国立博物館蔵 
三 酒井抱一筆「風神雷神図屛風」二曲一双 紙本金地着色 江戸時代(19世紀) 各170.7×170.2㎝ 出光美術館蔵

 ここで、上記の「宗達・光琳・抱一」の「風神雷神図屏風」関連ついて概括すると、宗達画(寛永年間=一六二四~=十七世紀)から約百年後に、光琳画(光琳五十歳代=一七〇七~=十八世紀)、そして、光琳百回忌(一八一五=十九世紀)前後に、抱一画と、この三者の間には、それぞれ、約百年のスパンがあり、それを江戸時代(約三百年)の時代区分ですると、大雑把に、宗達画=江戸前期初頭、光琳画=江戸中期初頭、抱一画=江戸後期初頭ということになろう。
 さらに、宗達画と光琳画の比較などについては、前回(その十三)で触れた。

http://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-04-15

 その上で、抱一の、この「風神雷神図」について触れると、この抱一画は、宗達画を念頭に置いたものではなく、すべからく、光琳画を念頭に置いてのものということになろう。
 さらに、この抱一画は、光琳百回忌に因んで、抱一自身が編んだ記念図録集『光琳百図』中の、次の「風神雷神図」などと関連の深いものという印象を深くする。

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/850497

国立国会図書館デジタルコレクション - 光琳百図

抱一・風神.jpg

抱一・雷神.jpg
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