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町物(京都・江戸)と浮世絵(その二十 河鍋暁斎「風流蛙大合戦之図」など) [洛東遺芳館]

(その二十) 河鍋暁斎「風流蛙大合戦之図」など

蛙大合戦之図風流.jpg

河鍋暁斎「風流蛙大合戦之図」 大判三枚続 河鍋暁斎記念美術館蔵 元治元年(一八六四)作

 本図は暁斎が、蛙合戦に見立てて描いた幕府の長州征伐だといわれる。それは、右端の大鵬の車輪や陣幕には紀州徳川家の裏紋・六葉葵が、相手方の陣幕には毛利家の紋・沢瀉(おもだか)が描かれていることからわかる。水鉄砲に蒲の穂の槍と武器はユーモラスだが、細部には首を切られて血を流す蛙や突き刺す蛙もいる壮絶な合戦図だ。お咎めを恐れ版元は「スハヰ」、「暁斎」は「狂人」「狂者」と、それぞれ仮名を使っている。
『別冊太陽 河鍋暁斎 奇想の天才絵師(安村敏信監修)』所収「作品解説(加美山史子稿)

 月岡芳年が、「最後の浮世絵師」と冠せられるのに比すると、河鍋(かわなべ)暁斎(きょうさい)は「幕末の天才絵師」、あるいは、「奇想の天才絵師」と、「浮世絵師」よりも、より広い意味合いのある「絵師」(浮世絵師+日本画家)のネーミングが用いられるのが多い(『別冊太陽 河鍋暁斎―奇想の天才絵師 超絶技巧と爆笑戯画の名手―)・安村敏信監修』)。
 芳年(天保十年=一八三九~明治二十五年=一八九二)と暁斎(天保二年=一八三一~明治二十二年=一八八九)とは、暁斎が芳年よりも年長であるが、ほぼ、同時期(幕末の江戸期から明治期への大動乱時代)に活躍し、その同時期の人気を二分した双璧的な「浮世絵師・日本画家」と解して差し支えなかろう。
 そして、共に、歌川国芳門なのであるが、暁斎の国芳門(天保八年=一八三七=七歳~二年程度)の期間は短く、天保十一年(一八四〇=十歳)には、駿河台狩野派(前村洞和・狩野洞白)に入門し、嘉永二年(一八四九=十九歳)には、「洞郁陳之(とういくのりゆき)」の画号を得て、異例の若さで、狩野派の御用絵師の一角に、その名を記している。
 すなわち、暁斎は、浮世絵師・歌川国芳門というよりも、駿河台狩野派門の「本画」(「浮世絵」に対する「本画)の絵師というバックグラントを、終生、堅持し続けていることを、「河鍋暁斎」の、その全体像を把握するのには、ここからスタートとする必要がある。
 それに比して、芳年は、嘉永三年(一八五〇=十一歳)に、歌川国芳門に入門し、国芳没(文久元年=一八六一)後も、その国芳の「浮世絵」の世界を、これまた、終生、堅持し続けていることを、「月岡芳年」の、その全体像を把握するのには、やはり、ここからスタートする必要があろう。

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『暁斎画談. 外篇 巻之上』所収「暁斎幼時国芳ヘ入塾ノ図」(補記二)

 暁斎には、自らが挿絵を描いた伝記『暁斎画談』(瓜生政和著 河鍋洞郁画)がある。上記の図は、暁斎が七歳の時に、浮世絵師・歌川国芳門に入塾した折りの暁斎自身の挿絵である。中央の猫を抱いて、右手に筆をもって、子供の絵に手入れをしているのが、国芳である。そして、国芳の指導を受けているのが、幼少名・周三郎こと暁斎その人である。猫好きの国芳は猫を抱きながら、その文台の前にも猫が数匹居る。国芳は暁斎を「奇童」と呼び、可愛がったとの記述がある。
 幼少時の暁斎には、この猫好きの、そして、反骨精神の旺盛な国芳の影響が大きかったというのは、この挿絵からも強烈に伝わって来る。

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『暁斎画談. 外篇 巻之上』所収「駿河台狩野洞白氏邸宅ノ図」(補記二)

 上記の図は、国芳画塾を後にして、天保十一年(一八四〇・十歳)に狩野派の絵師・前村洞和門に入った後、洞和が病に倒れ、洞和の師筋の、駿河台狩野洞白に入門した天保十ニ年(一八四一・十一歳)以降の「駿河台狩野洞白氏邸宅ノ図」である。
 ここでも、洞和が、暁斎を「画鬼」と呼んで可愛がったとの記述があり、この図の右上にお茶をもって、客間の方に行く童子が、「画鬼」と呼ばれていた暁斎のようでもある。
この狩野派画塾で、狩野派の根幹である「臨写」は勿論、さまざまな「古画」の修得、さらには、大和絵、文人画など、あらゆるジャンルのものに食指を伸ばし、嘉永二年(一八四九・十九歳)に、狩野派絵師として独立し、安政二年(一八五五・二十五歳)の江戸大地震(安政大地震)の年、仮名垣魯文の戯文に「鯰絵」を描いて、一躍人気絵師の仲間入りをする。
この背景には、御用絵師の狩野派絵師だけでは成り立たない時代で、謂わば、浮世絵師としての戯画・風刺画、そして、挿絵画を手掛け、その傍流の画業のもとに、主流の注文画(本画)を続けるというのが、当時の絵師の日常であったのかも知れない。
そして、暁斎は、この二刀流(狩野派絵師+浮世絵師)の達人で、安政五年(一八五八・二十八歳)には、「惺々狂斎(せいせいきょうさい)」と号して、暁斎の「狂画」の世界における「狂斎」の時代がスタートとする。
その一方、その翌年の、安政六年(一八五九・二十九斎)には、駿河台狩野派絵師として、芝増上寺宝蔵院・黒本尊の院殿修復にも参加し、この狩野派の一員であることは、例えば、明治十七年(一八八四・五十四歳)の年譜に、「八月、狩野洞春秀信(前名洞栄)死亡。暁斎は洞春臨終に際して駿河台狩野派の画技遵守を依頼され、宗家である狩野永悳立信(えいとくたちのぶ)に再入門する」など、それは頑として堅持し続けている。

 さて、冒頭の「風流蛙大合戦之図」に戻って、これを制作した「元治元年(一八六四・三十四歳)」には、暁斎は、その年譜の「浮世絵の大家、三代歌川豊国(この年に没)に引き立てられ、狂斎、周麿の画号を用いて数々の錦絵を合筆とする」など、暁斎の最初の師の国芳よりも人気の高かかった三代豊国(国貞)と合筆するという、狩野派絵師「暁斎」よりも浮世絵師「(惺々)暁斎・狂斎」の画業が群れを抜いていた頃のものである。
 一方、「最後の浮世絵師」の名が冠せられる芳年は、この年(元治元年)、二十六歳の頃で、その翌年(慶應元年=一八六五=二十七歳)に、当時の『流行一覧歳盛記』(浮世絵師細見)で、その第十位に名を連ねている頃に当たる。
 そして、先に紹介した芳年の「猫鼠合戦」(安政五・六年=一八五八・五九)は、二十歳代の芳年のデビュー当時のもので、暁斎(狂斎)の、冒頭の「風流蛙大合戦之図」(元治元年=一八六四)とは、その背景は、幕末から明治に掛けての大動乱の時代のものであるが、相互に、無関係なものと解した方が無難のようである。
 しかし、両者に共通することは、「鎖国(保守=旧)派対開国(革新=新)派」(芳年の「猫鼠合戦」)と「幕府軍(攘夷穏健派=保守派=旧」対長州軍(過激攘夷派=革新派=新」(暁斎の「風流蛙大合戦之図」)との、新しい時代の幕開けの「旧派と新派」との混沌とした世相を見事に風刺化する、二人の共通の師である「歌川国芳」の「諧謔精神」を見事に引き継いでいる、すなわち、「国芳の継承者」であることは、断言しても差し支えなかろう。

「風流蛙大合戦之図」の「謎々」と恣意的な「コメント」(絵文字入りコメント)

一 この「大判錦絵(浮世絵版画)三枚続(三枚続きのパノラマ画図)」の版元「スハヰ」、そして、絵師の「暁斎・狂人・狂者」など、この画図が、お咎めを恐れてのアングラ版的な用例であることは、そうなのかも知れない(((;◔ᴗ◔;)))

二 この「三枚続」を、「右・中・左」の合成の、「風流蛙大合戦之図」と解して、全体として、「右」の画面の「六葉葵」(紀州徳川家の裏紋=幕府・長征軍)と左の画面の「沢瀉」(毛利家の紋=長州軍)の「青蛙」(幕府・長征軍)と「赤蛙」(長州軍)との合戦図(第一次長州征討)と解することも、そうなのかも知れない(((;◔ᴗ◔;)))

三 しかし、第一次長州征討は、この合戦図のように、両軍がぶつかり合うことはなく、「禁門の変」に関係した、長州藩の三家老(国司親相、益田親施、福原元僴)の切腹と四参謀(宍戸真澂、竹内正兵衛、中村九郎、佐久間左兵衛)の斬首、五卿(三条実美、三条西季知、四条隆謌、東久世通禧、壬生基修)の追放ということで、一応の決着がなされている。そして、その停戦の仲介役として大きな役割をしたのが、薩摩藩の西郷隆盛(幕府・長征軍の参謀)で、どうやら、右上の、大きな青蛙の上に乗って、何やら采配をふっている大きな赤蛙が、その西郷隆盛(吉之助)なのかも知れない(((;◔ᴗ◔;)))

暁斎三.jpg

(上記三の「大きな赤蛙」)

四 そして、この「風流蛙大合戦之図」のポイントなる「大砲」の如き玩具の「水鉄砲(大砲)」と「六葉葵」(紀州徳川家の裏紋=幕府・長征軍)は、その時の「停戦条件」(毛利藩に一方的な過酷な条件ではなく、言わば、「蛙に水」で、呑める条件の意があるのかも知れない)を示唆しているのかも知れない☻☻♫•*¨*•.¸

暁斎四.jpg

(上記四の「水鉄砲(大砲)」・「六葉葵」など)

五 そして、その「水鉄砲(大砲)」の前に、衝撃的且つ鮮明な「赤い血痕・血しぶき」と「斬首された蛙の首」などは、まさに、上記三の停戦条件(「参謀の斬首」)に合致するのである。また、この「六葉葵」の陣幕周辺は、上記の停戦条件の「家老の切腹」を示唆するのかも知れない。とすると、画面「中」の「大きな赤蛙」は、追放された「五卿」の一人、三条実美を示唆しているのかも知れない。まさに、この周辺の図は、「合戦」の図というよりは、海へ突き落している「追放」の図という雰囲気が相応しい☻☻♫•*¨*•.¸

六 第一次長州征討の「幕府・長征軍」は、次の五か所から、総勢約十五万の兵員を陸・海から包囲・進軍し、萩城のある萩ではなく、藩主父子が政務を司っている山口にとどめを刺すという遠大なものであった。「風流蛙大合戦之図」の「右」図は、その陸路、「中」図は、その陸路と海路、そして、「左」図は、長州の「山口」と「萩」の光景で、「水鉄砲(大砲)」の砲弾が命中し、爆破した所は、山口なのであろう。
そして、その背後で整然と見守っている長州軍は、日本海に面した「萩」城下であろうか。しかし、上記の「停戦条件」の成就のもとに、この図のような砲弾(らしきもの)が大爆破するようなことは無かったのである。しかし、この大爆破があって、空中に舞い上がっている「赤蛙」は、即時挙兵派の「高杉晋作」派と、「青蛙」は融和派の「赤禰武人」派と、これらの「赤蛙」「青蛙」が、次の、「元治の内乱」「第二次長州征討」の、それぞれの歴史の一コマに登場して来るのであろう。
 おそらく、暁斎は、ここに出て来る一匹、一匹の、その隅々まで、何らかの寓意や風刺を込めて、そして、それを自分の分身である「蛙」に語らせようとしていることは間違いない。
 さらに、慶應二年(一八六六)の「第二次長州征討」の翌年に、「放屁合戦絵巻(ほうひかっせんえまき)」(二巻)という長大(各28.2×897.0cm)な絵巻(鳥羽僧正覚猷筆のパロディ化)ものも手掛けているが、それとも連動しているように思われるのである☻☻♫•*¨*•.¸

① 芸州口・陸路、広島から岩国を経て山口へのルート
広島藩、松山藩、松代藩、福山藩、勝山藩、播州山崎藩、岡山藩、竜野藩など
② 石州口・陸路、石見国から萩を経て山口へのルート
鳥取藩、浜田藩、津和野藩、津山藩、松江藩、丸岡藩など
③ 周防大島口・海路、四国から徳山を経て山口へのルート
徳島藩、高松藩、宇和島藩、今治藩など
④ 小倉口・海路、下関から山口へのルート
肥後藩、小倉藩、中津藩、筑前藩、佐賀藩、唐津藩など
⑤ 萩口・海路、萩から山口へのルート
薩摩藩、島原藩、久留米藩、柳川藩など

補記一 これぞ暁斎!(ゴールドマンコレクション) 石川県立美術館

http://www.ishibi.pref.ishikawa.jp/exhibition/4441/

補記二 『暁斎画談. 外篇 巻之上』 (国立国会図書館デジタルコレクション)

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/850342
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町物(京都・江戸)と浮世絵(その十九 月岡芳年「猫鼠合戦」など) [洛東遺芳館]

(その十九) 月岡芳年「猫鼠合戦」など

岩見銀山.jpg
月岡芳年「鼠合戦」中判二丁掛(全六図)ボストン美術館蔵 (補記一・補記二)

 「最後の浮世絵師」の名を冠せられている「月岡(つきおか)芳年(よしとし)」については、下記(補記三)に紹介されている。そこで触れられていないようなことについて、活字情報(『別冊太陽 月岡芳年(岩切友里子監修)』など)で追加をして置きたい。

一 猫好きの芳年
 芳年の師匠の国芳は大の猫好きであったが、芳年もまた猫好きで、タマという名前のオスの白猫を飼っていた。その可愛がりようは尋常ではなかった。(中略) 芳年が懸命に描いた絵をタマが暴れて破いてしまっても、決して怒らず、「タマちゃん、いけないねえ」というくらいで済んだという。(本田嘯月『新小説(明治四十三年)』所収「大蘇芳年翁」)

二 『明治名人伝(初編・明治十五年)』の「月岡芳年」
 故一勇斎国芳の門下に名ある者寡(すくな)からざるが、中に出藍の誉(ほまれ)なるは此(この)人なり。通称を米次郎といひ、一魁斎、大蘇(たいそ)等の号あり。近年、菊池容斎が画風を慕ひて人物の動静神(しん)に入(いら)ざるはなし。殊に武者と芸妓を写すに妙を得たるは、故人も若(しか)ず。且(かつ)性質磊々楽々(らいらいらくらく)として、巨額の潤筆を得るとも、酒食に費(ついや)し、絃妓を聘(へい)して一時に散じ、孤独にして清貧を楽(たの)むは、実に画工中の一畸人といふべき者なり。

三 写真に収められた芳年(「補記三」で紹介されている「芳年肖像(写真)」)
 今でいふオールバックといったやうな髪の刈りかた、つぶら眼、それにふさはしい大きな眼鏡、厚い唇、背は高い方ではなかつたがや、太り肉(じし)のゆつたりしたものいひ、落ちついたものごし、いかにも芸ごとの一流を極めた人と、その頃の子供心にも一目にそれと見てとれる。大蘇(たいそ)芳年(よしとし)といふ名が自づから體(からだ)を現はす。それが今でも私の印象に残る芳年先生の俤である。(鏑木清方『浮世絵研究(昭和十六年)』所収「俤に残る芳年先生」)

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月岡芳年「菓子袋(上)」「岩見銀山(下)」(中判二丁掛)

「上: お菓子の紙袋をかぶった猫を割竹で叩こうというネズミたち」
「下 ,猫の押し立てている旗は、岩見銀山ねずみとりの行商人の旗で、この薬は『猫いらず』とも呼ばれた砒素系の殺鼠剤であった。ネズミたちも、これを持ち出されては敵わない。」 (『別冊太陽 月岡芳年(岩切友里子監修)』)

(絵文字入りコメント=恣意的コメント)

一 「菓子袋(上)」の、その「猫」は、お師匠さんの「一勇斎国芳」の、「其のまゝ地口猫飼好五十三疋 上中下」の、その「28袋井(ふくろい)=『袋(ふくろ)い(り)=猫が頭を袋の中に入れている』」と同じ。そして、それは、また、それは、お師匠の「たとゑ尽(づくし)の内」の、「13 (右下の猫)『猫に紙袋(菓子袋)』」と同じ。♬☻☻♫•*¨*•.¸

二 「中判二丁掛」(補記二)とは、『浮世絵の鑑賞基礎知識(小林忠・大久保純一著)』にも出てこない。「中判二枚縦続き」ものを「摺り」の二度手間を一度手間で仕上げるようなことか(((;◔ᴗ◔;)))  確かに、この「上」と「下」とは、別々の合戦場面である(((ʘ ʘ;)))

三 題名(「猫鼠合戦」)の枠は、鈴の付いた猫の首輪で、それぞれ「上」と「下」に描いてある。しかし、「上」は青い背景で、「下」は緑の背景で、それが、次の二枚目に移ると、「上」が緑の背景で、「下」が青い背景となる。その順序で、次の三枚目の「上」は青い
背景、「下」となり、これは、横に繋げる時の表示のようである(((;◔ᴗ◔;)))

四 それぞれの「画題(名)」の、「菓子袋」(上)と「岩見銀山」(下)は、別枠を取っての「文字」では表示せずに、「画面」上に取り込んで描いているような感じを受ける(((;◔ᴗ◔;)))

岩見銀山二.jpg

月岡芳年「またたび(上)」「盗み食い(下)」(中判二丁掛)

「上: ネズミたちは、またたびの香を焚いたようで、へろへろと吸い寄せられる猫たちを、ネズミたちは神棚の上から見物。」
「下: 藁を編んだ飯櫃入れにもたれて猫がうたたねする間に、ネズミたちは、アワビ貝に盛られた猫の飯を食べてしまう。」
(『別冊太陽 月岡芳年(岩切友里子監修)』)

(絵文字入りコメント=恣意的コメント)

一 この「上」と「下」との関連は、全く、別々なのかというと、何やら、「切れているようで、切れてはいない」(((ʘ ʘ;))) 「俳諧(連句・俳句)」の用語ですると、「切れ・間(マ)=空白」とかと、何やら連動しているように思われてくる(((༼•̫͡•༽)))

二 この「上」と「下」とを連動すると、「またたび」(上)を嗅いで「眠った猫」(下)を見て、それを仕掛けた「ネズミ」(上)が、まんまと、「猫の飯」(下)を平らげるということになる♬☻☻♫•*¨*•.¸

三 そして、一枚目(「菓子袋・岩見銀山」)が、外の合戦風景とすると、この二枚目(「またたび・盗み食い」)は、内(陣中)なる合戦風景ということになる。ここで、「俳諧(連句・俳句)」の用語ですると、「(前句との)付け・付け味」の妙味と連動しているように思われてくる(((༼•̫͡•༽)))

岩見銀山三.jpg
月岡芳年「犬張子(上)」「枡落とし(下)」(中判二丁掛)

「上: 犬張子にまたがって雄々しく采配を揮う白ネズミの大将の出現に、猫たちは大慌て
で腰を抜かさんばかりである。」
「下: 枡落としは、枡をふせた中に餌を入れて、つっかい棒で支えて、ネズミが入るようにしておき、ネズミが中に入ると、棒が倒れ、ネズミが出られなくなるという仕掛け。」
(『別冊太陽 月岡芳年(岩切友里子監修)』)

(絵文字入りコメント=恣意的コメント)

一 国芳の「大判二丁掛」ものに出会った。「流行道外(りゅうこうどうけ)こまづくし」というものである(『もっと知りたい 歌川国芳(悳俊彦)』)。その絵図は、補記四のとおり。悳俊彦著では、次のように解説している。
「 流行道外こまづくし
  こまの五郎時宗・こまやし朝日奈・ももんごまァ
  天保十四年(一八四三)頃 大判二丁掛
 当時、名人竹沢藤次の曲独楽が大流行。それを当て込み、独楽の擬人化による錦絵が多数出版された。説話や、当盛風俗、当時の見世物芸の演目なども取り入れたシリーズである。画面上のすべてのものが独楽で形づくられており、国芳のこだわりが感じられる。しかも自然で無理がない。紐と独楽でできた髑髏は特に印象が深い。(p62) 」 
 ここで、「大判二丁掛」というのは、「大判二枚続」と同じ大きさで、「大奉書」全体(約39×53cm)ということになる。この大きさのものは、「大倍判(オオバイバン)」と呼ばれ、北斎の鳥瞰図などが、この判型である。そして、国芳の「戯画」などでは、この判型のものは、まずはお目にかかれない。(補記五)
 どうやら、これは、「中判二丁掛」のようである。(補記四)(((;◔ᴗ◔;)))

二 さらに、国芳の「戯画」を続けると、当時、いわゆる、「天保の改革」で「役者絵の禁止」とかが罷り通っていたらしい(((ʘ ʘ;)))  それに対する国芳の反骨精神の現れが、国芳の「戯画」の背後に潜んでいるらしい(((ʘ ʘ;))) すなわち、国芳の「戯画」は「ふざけて描いた絵」ではなく(そういうものもあるが)、どちらかというと「風刺画」(直ぐにそのカラクリが分からないように、かなり高度な仕掛けが施されている)と理解すると、その真相が時に姿を現して来る(((;◔ᴗ◔;)))

三の一 さて、冒頭の、芳年の「猫鼠合戦」に戻って、上記の「犬張子」の左側の巨大な「犬張子」は、何やら、ギリシャ神話の「トロイの木馬」が思い起こされて来る。もとより、芳年は、「トロイの木馬」は知らないであろうが、この「猫鼠合戦」が出来たのは、安政六年(一八五九)、芳年が二十一歳の時である(『別冊太陽 月岡芳年(岩切友里子監修)』所収「月岡芳年年譜」)。
 この前後の、当時の世相は、嘉永六年(一八五三)、「ペリーの浦賀来航」、安政元年(一八五四)、「日米和親条約調印」、そして、安政五年(一八五八)は、「安政の大獄」があった年である。この翌年(安政六年=一九五九)に、この「猫鼠合戦」が制作され、その翌年(万延元年=一八六〇)が、「桜田門外の変。横浜開港」があった年である。その翌年(文久元年=一八六一)に、芳年の師匠の国芳が、その六十五年の生涯を閉じた年ということになる(((;◔ᴗ◔;)))

三の二 とすると、この「犬張子(上)」を、ペリーの「黒船」とすると、その黒船をバックとする「開国派(新勢力)」と、それを阻止せんとする「鎖国派(旧勢力)」との抗争が、この芳年の「猫鼠合戦」の背景ということになる♬☻☻♫•*¨*•.¸

四 とすると、上記の「枡落とし(下)」は、「鎖国派(旧勢力)=猫派」が、「ペリーの黒船に伴う薪・水・長期航海用の食料など」を、頑として応じない、その姿勢の絵図ということになる♬☻☻♫•*¨*•.¸

五 ということで、またまた、冒頭に戻って、「菓子袋(上)」は、「鎖国派(旧勢力)=猫派」が、「鎖国して、時世が読めない」ということを暗示しているということになる♬☻☻♫•*¨*•.¸

六 とすると、「岩見銀山(下)」は、その「鎖国派(旧勢力)=猫派」が、それではならじと、「鎖国遵守」の錦の御旗をもって、応戦するという図になる☻☻♫•*¨*•.¸

七 続く、「またたび(上)」は、「開国派(新勢力)=鼠派」が、何やら、「鎖国派(旧勢力)」に、「魅力的な開国条件の匂い」を嗅がせているという図になる☻☻♫•*¨*•.¸

八 とすれば、続く、「盗み食い(下)」は、「鎖国派(旧勢力)=猫派」が安心して惰眠している内に、「開国派(新勢力)=鼠派」が、その開国の甘い汁を謳歌しているという図になる☻☻♫•*¨*•.¸

九 ここで、「三の二」に戻って、この「犬張子(上)」は、「開国派=鼠派」が攻めに攻めているという図になる☻☻♫•*¨*•.¸

十 さて、さて、「十」というのは、一つの区切りで、この「枡落とし(下)」は、「鎖国派(旧勢力)=猫派」が、次なる「開国派(新勢力)=鼠派」に対する「巻き落とし」を狙っているという図になる☻☻♫•*¨*•.

十一 ここからは、番外編(余話)ということになるが、これらの芳年の「猫鼠合戦(安政六年=一八五九)」を始め、芳年の傑作画「桃太郎豆撒之図(安政六年=一八五九)」、「東叡山文殊楼焼討之図(明治七年=一七八四)」などが、日本の美術館(中央・地方を問わず)ではなく、遠く、米国の「ボストン美術館」に所蔵されているというのは、これは、まさしく、「猫鼠合戦(安政六年=一八五九)」における「開国派(新勢力)=鼠派」の、その一端を象徴するものなのであろうか(((༼•̫͡•༽)))

十二 「中判二丁掛」の「上」と「下」とは「切れていない」(裁断されていない)。そし
て、次の「中判二丁掛」(二枚目)とは、「切れている」(別用紙「大判」で、当然ながら裁断されている)。以下、三枚目の「中二丁掛」も、同じ要領となる。この「切れている」「切れていない」というのは、冒頭の、(「鼠合戦」中判二丁掛(全六図)ボストン美術館蔵)を見ると、明瞭になって来る。
そして、これは、「全六図」で終わるとはいうよりも、「俳諧(連句・俳句)」用語ですると、「歌仙(三十六句形式)」「半歌仙(十八句形式)」「五十韻」(五十句形式)「百韻」(百句形式)とかと深く関わっていて、ちなみに、「全六図」というのは、「歌仙形式」の「表」の六句(場面)ということになる。
そして、それ以上を続けるかどうかは、その時の「捌(さば)き」(進行者)の役割で、浮世絵版画ですると、「絵師」よりも「版元」が、その役割を担っているのであろう。そして、それを続けるか、打ち止めにするかは、一に、その作品(歌仙なり錦絵など)が、面白いかどうか(人気があるかどうか、売れるかどうか)ということが、その決め手になってくるのであろう。
 どうも、この作品(全六図)が、ボストン美術館蔵というのは、本家本元の日本では、それほど、当時の人の人気を呼ぶ作品ではなかったということなのかも知れない(((༼•̫͡•༽)))
 なお、芳年の、当時の世相風刺などを背景とする「大合戦」ものは、「追記一(台所大合戦)、そして、「追記二(和漢獣物大合戦之内)」があるが、これらは、「大判・三枚・続き」で、いわゆる、「パノラマ大画面」を相互に形成するものであって、これらには、いわゆる、「切れ」は無い。
 ここに、冒頭の「中判二丁掛」の「猫鼠合戦」と、その他の「三枚続」のものとの相違がクローズアップされて来る☻☻♫•*¨*•.

補記一  ボストン美術館 日本の美術

http://kunio.raindrop.jp/photo-usa-boston5.htm

補記二 中判二丁掛

https://www.adachi-hanga.com/staffblog/2014/08/

補記三 月岡芳年

https://ja.wikipedia.org/wiki/月岡芳年

補記四 補記四 国芳の「大判二丁掛」=「流行道外こまづくし」

https://ameblo.jp/giantlimited/entry-10975625723.html

補記四 図版解説 歌川国芳画「流行道外こまづくし」(浮世絵芸術データベース)

http://unno.nichibun.ac.jp/geijyutsu/ukiyoe-geijyutsu/lime/143_031.html

補記五 歌川国芳-奇と笑いの木版画 出品目録  府中市美術館

https://www.city.fuchu.tokyo.jp/art/kikakuten/kikakuitiran/kuniyoshi.files/kuniyoshi-mokuroku.pdf

補記六 『笑う浮世絵―戯画と国芳一門―』 太田記念美術館

www.ukiyoe-ota-muse.jp/exhibition/2013_warau-ukiyoe

追記一 台所大合戦

大判三枚続 安政六年(一八五九) 遠州屋彦兵衛版 千代田区教育委員会寄託三谷家資料

 右側、台所方の大将は「釜之冠者たき安」。兵卒は「鍋の九郎」「茶釜茶九郎」「水野組左ヱ門」「水瓶大右ヱ門」など。「こう神燈明斎は」が火の用心の旗を掲げて突撃している。左側、座敷方の大将は「箪笥之錠鍵盛(たんすのじょうかぎもり)。兵卒は「こたつの上猫八」「手習双四郎」「火鉢棒海尊」など。中国には、座敷方の「ごばんの忠信」が投げた碁石が散乱している。諸道具それぞれの名前や動きが面白い。
『芳年(岩切友里子編著)』所収「図版解説(4)」

画像 入間市博物館蔵

www.alit.city.iruma.saitama.jp/search/artifact/det.html?data_id=14302

追記二  和漢獣物大合戦之図

大判三枚続 万延元年(一八六〇九) 十月改印 亀屋岩吉版 埼玉県立文書館寄託小室家資料

 題名に「和漢」とあるが、日本と外国の獣の合戦であろう。日本側は黒熊が大将で、兵卒は、犬、猿、馬、猪、兎など。外国の大将は白象で、虎、豹、山羊のほか、狛犬のような兵卒がいる。 黒駒の陣羽織には源氏を表す笹竜胆が描かれている。この絵の出版された前年の安政六年に、神奈川、長崎、函館が開港して、外国との貿易が始まったが、これに伴い、江戸市中では物価が上昇して攘夷の機運を招き、万延元年三月には桜田門外で井伊大老が暗殺される事件も起きている。本図にも何らかの寓意が含まれるのではないかと見られるが、詳らかではない。
『芳年(岩切友里子編著)』所収「図版解説(5)」

画像  東京都立図書館デジタルアーカイブ TOKYOアーカイブ

http://archive.library.metro.tokyo.jp/da/detail?qf=&q=%E8%8A%B3%E5%B9%B4%E3%80%80%E5%92%8C%E6%BC%A2%E7%8D%A3%E7%89%A9%E5%A4%A7%E5%90%88%E6%88%A6%E4%B9%8B%E5%9B%B3&start=0&sort=%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%88%E3%83%AB_STRING+asc%2C+METADATA_ID+asc&dispStyle=list&tilcod=0000000003-00223082&mode=result&category=

追記三 猫鼠合戦

中判二丁掛 安政六年(一八五九) 九月改印 遠州屋彦兵衛版 個人蔵
「6 菓子袋・岩見銀山(上・下)」「7 犬張子・枡落とし(上・下)」「8 またたび・盗み食い(上・下)」(「図版解説」=上記の『別冊太陽 月岡芳年(岩切有里子監修)』所収の「解説」と同じ。   『芳年(岩切友里子編著)』所収「図版解説(6・7・8)」

※上記の『別冊太陽 月岡芳年(岩切有里子監修)・2012初版発行』所収の「解説」のものは、「ボストン美術館」所蔵のものであったが、『芳年(岩切友里子編著)・2014初版発行』所収「図版解説(6・7・8)」では、「個人」所蔵のもので、解説がなされている。この後者のものは、日本国内で所蔵されているものなのかも知れない。
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町物(京都・江戸)と浮世絵(その十八 歌川国芳「たとゑ尽の内」など) [洛東遺芳館]

(その十八) 歌川国芳「たとゑ尽(づくし)の内」など

たとゑ尽の内.jpg

歌川国芳「たとゑ尽の内(たとえづくしのうち)」大判三枚続(補記一)

これは、猫に関係する慣用句を絵にした3枚続きもの。実は一部が海外に流出していたため長らく3枚そろうことがなかった作品です。それが、2011年12月17日(土)~2012年2月12日(日)に「森アーツセンターギャラリー」で開催された「没後150年 歌川国芳展」で初めて3枚そろった状態で公開されました!さてさてどんな慣用句が描かれているかというと、たとえば右上は「猫にかつおぶし」「猫をかぶる」「猫に小判」「猫の尻へ才槌(寸法が合わず不釣合いなこと)」など。猫をかぶっている猫ちゃんのすました後姿がたまりません。

たとゑ尽の内右.jpg

(右) 右上から左へ、そして、下へ・・・
1 猫にかつおぶし → 油断大敵 → 食べられるぞ(((;◔ᴗ◔;)))
(国芳=「尻の二本の鰹節は、『其のまま地口 猫飼好五十三疋』の「日本橋=二本節(ぶし=ばし)」のスタート(発句)ということ。「鰹(かつお)」が「ヌケ」ているけど、この「ヌケ(省略)」は、談林俳諧の「ヌケ(俳諧の技法)」ですぞ。今回の、この「猫にかつおぶし」は、口元の「一本の鰹節」なんだ。この意味分かる♬☻☻♫•*¨*•.¸)
2 猫をかぶる → 上辺はおとなしい → 直ぐに噛みつくぞ (((;◔ᴗ◔;)))
3 猫に小判 → 猫に小判やる馬鹿がいるか(((;◔ᴗ◔;))) → 分からずやは放っとけ(((ʘ ʘ;)))
4 猫の尻へ才槌(木槌) →「猫は才槌使えないノヨ」→ どうにもナンセンス(((ʘ ʘ;))) (((ʘ ʘ;)))
(国芳=「絵文字」は、「猫(ねこ)ぽっいのにした」ぞ。これが(下記)=アドレス。アドレスがリンクしないのがあるけど、余り、「絵文字」も「パソコン」も、「縁が無いんだ」)☻☻♫•*¨*•.)

http://kaomoji-cafe.jp/tag/simple/

たとゑ尽の内中.jpg

(中)右上から左へ、そして、下へ・・・
5 猫舌 → 熱いものは駄目なんだ(((;ꏿöꏿ;))) → 冷めては美味くないよ(((༼•̫͡•༽)))
(国芳=この「図」は、湯気が出ていないぞ(((;◔ᴗ◔;))) こういう時には、「復刻版(補記二)を用いた方が、分かり易いよ( ꒪ͧ⌓꒪ͧ) )
6 猫背 → この図は、「首が前に出て背中が丸くなっていること」、即ち、「猫背だ」(((ʘ ʘ;))) → (国芳曰く)「これはネ(((;꒪ꈊ꒪;))) 前の「 2 猫をかぶる」と「対」になっているんだ(((ʘ ʘ;))) 「首輪をしていないだろ( ꒪ͧ⌓꒪ͧ) 『猫をかぶって、おとなしくしていて、猫ポーズ(猫背というより、これが地のポーズなのよ。そして、飼い主さん=佳い人・旦那・お大尽さんを探しているんですぞ(((;ꏿöꏿ;))))
7 猫顔 → 「猫顔、犬顔というけど、これぞ『猫顔』なのよ」( ꒪ͧ⌓꒪ͧ) 「黒毛でなく赤毛になっている(((;◔ᴗ◔;))) それはネ(((;꒪ꈊ꒪;))) 『茶髪(チャハツ)にしたんですぞ』♬☻☻♫•*¨*•.¸
8 有っても無くても猫の尻尾(シッポ)→ 「あってもなくてもいいもののこと」(((;◔ᴗ◔;)))
→ 誰かさんがほざいてたいた(((༼•̫͡•༽))) → 「尻尾のないヒトのひがみだ」と(((ʘ ʘ;))) 勝手に『有っても無くてもヨカンベーなんと、二度とほざくなよ』(((༼•̫͡•༽)))
9 猫叱るより猫を囲え→ 「猫に魚を取られて猫を叱るより、取られないように用心することが大切、問題が起きる前に予防策を講じよ、という意味。」(補記三)
(国芳)「この着物の柄は分かるかい」(((;◔ᴗ◔;))) ヒントは、『其のまま地口 猫飼好五十三疋』の「日本橋=二本節(ぶし=ばし)」の、「鰹節を縛っている藁縄」なんだ。そうよ、『お大尽(だいじん)』なんだぞ(((ʘ ʘ;))) 「吾が輩が『7猫顔=8お尻向けている猫』の、そうよ、その旦那さんということなんだ(((༼•̫͡•༽))) 『目が窪んで黒くなっているのは分かるかい』(((;◔ᴗ◔;))) ヒントは、『お大尽』の「尽(使い果たす)」ということかな( ꒪ͧ⌓꒪ͧ) 「意味が分かった、それはイイネ」♡⍢⃝♡

たとゑ尽の内左.jpg

(左)右上から左へ、そして、下へ・・・
10 (右上の三匹を一緒にして)「猫が顔(耳)を洗うと雨が降る」→「猫が手で耳の後ろから洗うような動作をすると、雨が降るということ。この成句、言い伝えは広く知られているが、猫の天気予報は日本に限らず、西洋にも伝えられている。猫が身繕いをしたり、草を食べると雨、水を飲むと雪、くしゃみをしても雪になるとか。」(補記三)
(国芳)この三匹のうち、上の赤猫は、「蝦蟇(雨を呼ぶ蝦蟇)」の真似をしている(((;◔ᴗ◔;)))
真ん中の猫は主役よ(((ʘ ʘ;))) その下の背中を向けている猫は、主役の猫がプロポーズしている♡⍢⃝♡ 「それで、耳でなく、前足なめているのか」(((;◔ᴗ◔;)))
11 (左上の猫)「猫も食わない」→「猫の魚辞退」「猫跨ぎ」(補記三)→「猫も食わないほど『不味い』ということ」(((ʘ ʘ;))) それとも、「内心食いたいのだが、遠慮している素振りを見せている」(((ʘ ʘ;)))
(国芳)「狂句・狂画ものに、正解はない。どうとっても結構ザンス」♬☻☻♫•*¨*•.¸
12(着物を着て鼠を見ている猫)「猫と庄屋に取らぬは無い」→「鼠を取らない猫がいないように、賄賂を取らない庄屋はいないということ。」(補記三)
(国芳)「この着物の柄は分かるかい」(((;◔ᴗ◔;))) ヒントは「猫に小判」の「小判」なんだが、「猫の鼻先に鼠を置くよう」とか「鼠捕る猫は爪を隠す」とか、その他イロイロアルヨ(((༼•̫͡•༽))) マア「庄屋さん」と解して結構・結構♬☻☻♫•*¨*•.¸ この「庄屋さん」は、「9お大尽さん」と同じ( ꒪ͧ⌓꒪ͧ) 「目が黒くない」(((ʘ ʘ;))) 「鼠の前では、目が黒くならない」(((ʘ ʘ;)))  「意味が分かった、それはイイネ」♬☻☻♫•*¨*•.¸
13 (右下の猫)「猫に紙袋(菓子袋)」→「猫の頭に紙袋を被せると前には行かず後へさがることから、後退りすることの例え。」(補記三)→「菓子袋に首を突っ込んで、取れなくなった図ジャナイノカナ」(((ʘ ʘ;))) 
(国芳)吾が輩の弟子の「月岡芳年」に「菓子袋・岩見銀山」という「猫鼠合戦」ものがあるんだ(((ʘ ʘ;))) そこに出て来るのは「菓子袋」なんだ(((ʘ ʘ;))) 「洛東遺芳館」には「月岡芳年」ものの佳いのがあるね(((༼•̫͡•༽))) 「もう疲れた」ฅ ̂⋒ิ ˑ̫ ⋒ิ ̂ฅ 「では、バイバイ」(ɔ ˘⌣˘)˘⌣˘ c)

補記一 幻の猫浮世絵

http://artnews.blog.so-net.ne.jp/upload/detail/E291AEE3819FE381A8E38291E5B0BDE381AEE38186E381A1.jpg.html


補記二 【新復刻完成コラム】 国芳の猫づくし~「たとゑ尽の内」編~

https://www.adachi-hanga.com/staffblog/000833/

補記三 ことわざに見る猫<日本>

http://www.necozanmai.com/zatsugaku/proverb-japan.html

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町物(京都・江戸)と浮世絵(その十七 歌川国芳「其のまま地口 猫飼好五十三疋」など) [洛東遺芳館]

(その十七) 歌川国芳「其のまま地口 猫飼好五十三疋」など

国芳 猫一.jpg
歌川国芳「其のまゝ地口猫飼好五十三疋 上中下」渡邊木版美術画舗蔵 (補記一)

 この「其のまゝ地口猫飼好五十三疋 上中下」の、「上中下」というのは、浮世絵版画(錦絵)の、標準的な「大判竪(たて)三枚続(つづき)」の「上・中・下」で、この右の一枚目には、「其(その)まま地口/猫飼好五十三疋/上」との表示がある。
 そして「上」の字の上方に、「版元印」と「検印」とかは不明だが、二つの印が捺されているようである(「中」「下」にも、左の下方に何か「印」が捺されているようである)。

 「大判三枚続」ものは、上記のように、「横に三枚続き」が標準スタイルなのだが、これは、一枚目が、「上」の表示、そして、二枚目に「中」、三枚目に「下」と表示している。
署名は、「一勇斎国芳戯画」で、一枚目(上)は、右の半ば、二枚目(中)と三枚目(下)は、右下に為されている。そして、三枚目(下)の左端(末尾)に、「版下」の名(伊場屋仙三郎)が書かれているようである。
 どうも、「上・中・下」と表示したのは、「横に三枚続き」(標準スタイル)ではなく、「竪(立て=縦)に三枚続き」を、作者(国芳)は意図しているように思われる。

猫上.jpg

(上)
『其のまま地口 猫飼好五十三疋』(そのままぢぐち・みゃうかいこう・ごじゅうさんびき)
=東海道五十三次の宿場町名を、地口(語呂合わせ)しで猫の仕草で描いている(「地口」というのは、両方を「平仮名」にして対比すると分かり易い)。
1 日本橋(にほんばし)=「二本(にほん)だし(「二本の鰹節を引っ張り出す」と「出汁」との掛け)」
2 品川(しながわ)=「白顔(しらがを)の猫」
3 川崎(かわさき)=「蒲焼(かばやき)を嗅いている」
4 神奈川(かながわ)=「(猫が)嗅ぐ皮(かぐかわ)」
5 程ヶ谷(ほどがや)=「喉かい(のどかい)=喉が痒い」
6 戸塚(とつか)=「はつか(二十日鼠)を睨んでいる猫」
7 藤沢(ふじさわ)=「ぶちさば(鯖を咥えたぶち猫)」
8 平塚(ひらつか)=(子猫が)「育(そだ)つか」
9 大磯(おおいそ)=「(獲物=蛸が)重(おも)いぞ」
10 小田原(おだわら)=「むだどら(鼠に逃げられて無駄走りのどら猫)」
11 箱根(はこね)=「へこね(鼠に餌を取られてへこ寝する)」
12 三島(みしま)=「三毛(みけ)ま(三毛猫の魔物=化け猫=猫又)」
13 沼津(ぬまづ)=「鯰(なまづ)を睨んでいる猫」 
14 原(はら)=「どら(猫)」
15 吉原(よしわら)=は「ぶち腹(はら)=(腹もぶちだ)」
16 蒲原(かんばら)=「てんぷら(を食おうとしている猫)」
17 由比(ゆい)=「鯛(たい)を口にしている猫」
18 興津(おきつ)=「(猫が)起(おき)ず」
19 江尻(えじり)=「(猫が)齧(かじ)る」

猫中.jpg

(中)
20 府中(ふちゅう)=「(猫が)夢中(むちゅう)」
21 鞠子(まりこ)=「張り子(はりこ)の猫」
22 岡部(おかべ)=「赤毛(あかげ)の猫」
23 藤枝(ふじえだ)=「ぶち下手(へた)=(ぶち猫は鼠取が下手だ)」
24 島田(しまだ)=「(魚が)生(なま)だ」
25 金谷(かなや)=「(猫の名前が)タマや」
26 日坂(にっさか)=「食(く)ったか」
27 掛川(かけがわ)=「(猫の)化(ば)け顔(がを)」
28 袋井(ふくろい)=「袋(ふくろ)い(り)=猫が頭を袋の中に入れている」
29 見付(みつけ)=「(猫の)ねつき(寝つき)」
30 浜松(はままつ)=「鼻熱(はなあつ)=猫の鼻が炭火で熱い」
31 舞坂(まいざか)=「(猫が)抱(だ)いたか」
32 新居(あらい)=「洗(あら)い=猫の顔洗い」
33 白須賀(しらすか)=「じゃらすか=子猫をじゃらすか」
34 二川(ふたがわ)=「当(あ)てがう=乳をあてがう」
35 吉田(よしだ)=「(猫が)起(お)きた」
36 御油(ごゆ)=二匹の猫の「恋(こい)」
37 赤坂(あかさか)=「(目指しの)頭(あたま)か」
38 藤川(ふじかわ)=「ぶち籠(かご)に居る猫」
39 岡崎(おかざき)=「尾(お)が裂(さ)け=尾が裂けて化け猫か」

猫下.jpg

(下)

40 池鯉鮒(ちりゅう)=「器量(きりょう)良しの猫」
41 鳴海(なるみ)=「軽身(かるみ)を見せる猫」
42 宮(みや)=「親(おや)猫」
43 桑名(くわな)=「(猫さん、それは)食(く)うな」
44 四日市(よっかいち)=「寄(よ)ったぶち=ぶち猫が寄り合っている」
45 石薬師(いしゃくし)=「(猫が)いちゃつき」
46 庄野(しょうの)=「(猫を)飼(か)うの」
47 亀山(かめやま)=「化(ば)け尼(あま)=猫が尼に化ける」
48 関(せき)=「牡蠣(かき)=猫が牡蠣の臭いを嗅いている」
49 坂下(さかのした)=「赤(あか)の舌(した)=猫の赤い舌」
50 土山(つちやま)=「ぶち邪魔(じゃま)=猫の恋を邪魔してる」
51 水口(みなぐち)=「皆(みな)ぶち(猫)」
52 石部(いしべ)=「みじめ(な猫)」
53 草津(くさつ)=「炬燵(こたつ)の上の猫」
54 大津(おおつ)=「上手(じょうず=鼠捕りが上手)」
55 京(きよう)=「ぎやう(猫に捕まった鼠の悲鳴)」。

補記一 国際浮世絵学会創立50周年記念「大浮世絵展」:中京テレビ

http://www2.ctv.co.jp/ukiyoe/2014/04/page/4/

補記二 猫飼好五十三疋

www.konekono-heya.com/ukiyoe/myoukaikou.html

補記三 其まま地口 猫飼好五十三疋

https://poohchan-cute.net/category/etc/etc-kuniyoshi-cats.html



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町物(京都・江戸)と浮世絵(その十六 歌川国芳「大物浦」など) [洛東遺芳館]

(その十六) 歌川国芳「大物浦」など

国芳.jpg
歌川国芳(うたがわくによし) 大物浦(だいもつのうら)

www.kuroeya.com/05rakutou/index-2013.html

 嘉永(かえい)三年(1850)前後、国芳(くによし)五十代中頃の作品です。平家(へいけ)を滅ぼした後、頼朝(よりとも)に追われる身となった義経(よしつね)が、西国(さいごく)に向かう途中、大物浦(だいもつのうら)(現在は陸地となっていて、尼崎市(あまがさきし)の一地区)で平家(へいけ)の亡霊に襲われる場面です。国芳の傑作のひとつですが、版によって亡霊の姿に少し違いがあります。この版は亡霊の目が黒く、真ん中あたりの亡霊の一体が雲英(きら)で刷ってあるのが特徴です。

 喜多川歌麿が亡くなったのは、文化三年(一八〇六)のことで、北斎は、四十七歳の時である。その翌年(文化四ねん)の頃から、読本『椿説弓張月(曲亭馬琴作・葛飾北斎画)』の刊行が開始される。北斎は、まさに、当時の浮世絵界の第一人者であった。
 この北斎と共に、浮世絵の花形である色摺りの錦絵版画の第一人者であったのが、歌川豊国(初代)で、その美人画・役者絵は北斎の人気を凌ぐものがあった。この豊国門には俊秀が集まった。二代豊国(豊重)、三代豊国(国貞)、国芳、等々である。
 広重も、十五歳の頃(文化八年=一八一一)、この豊国門の入門を希望したが、その弟弟子の豊広門の方に振り分けられている。この豊広が、名所絵版画の第一人者で、以降、「豊広→広重→二代広重(重宣)」と引き継がれて行く。
 冒頭の「大物浦」の作者・国芳(補記一)と広重は、共に、寛政九年(一七九七)の同年生まれで、共に、歌川派の創始者・豊春の孫弟子に当たり、ほぼ、活躍した時代は同じということになる。この国芳門から、「河鍋暁斎・月岡芳年」等が出て、この芳年門から、「水野芳方→鏑木清方→伊東深水・川瀬巴水」と引き継がれて行く。

細見.jpg
『当代全盛江戸高名細見(江戸寿那古細撰記)』嘉永六年(一八五三)
〈早稲田大学図書館「古典籍総合データベース」〉 (補記二)

 寛永六年(一八五三)というと、江戸時代の末の幕末期ということになるが、当時の浮世絵界のピッグスリーというのが、上記(補記二)のとおり、「豊国(三代目豊国・国貞)→国芳→広重」の順となる。その注にそれぞれ平仮名で、「豊国(にがほ=似顔)」、「国芳(むしゃ=武者)」、そして、「広重(めいしょ=名所)」とある。
 この「豊国(にがほ=似顔)」は、広重が亡くなった折に出版された訃報錦絵である「死絵」(補記三)を描いている。
 冒頭の「大物浦」(補記一)を描いた「国芳(むしゃ=武者)」は、文政十年(一八二七)の頃に発表した大判揃物『通俗水滸伝豪傑百八人』(補記四)の『水滸伝』シリーズで、一躍、人気絵師となり、「武者絵の国芳」と称せられるに至った。『東都名所』などの西洋の陰影表現を取り入れた名所絵(風景画)にも優れており、美人画や役者絵、狂画(戯画)にも多くの力作を残している。号は、「一勇斎国芳」(文政初年から万延元年)、「彩芳舎(国芳)」(文政中期)、「朝桜楼(国芳)」(天保初年から万延元年)などと変遷している。

 冒頭の「大判竪三枚続」の「大物浦平家の亡霊」(洛東遺芳館「大物浦」)は、国芳に関する様々なことを伝達して来る(補記五)。

 まず、それぞれの画面の右下に、「一勇斎国芳画」とあり、「一勇斎」の号で、嘉永年間(一~五年=一八四八~五二)の、五十歳代のものとされている。「版元」は「遠彦」(遠州屋彦兵衛)、さらに、「検印」(名主印)があるようである(ここでは、名主印=福島和十郎のようである)。

「大判竪三枚続」については、先に、「美濃紙」の「大判・大々判・細判」(初期浮世絵期)の例を引いたが、「美濃紙」ではなく、「大奉書」(「錦絵」の標準的なもの)の「大判」の、その「竪(立て=縦)三枚続(つづき)」(補記)ということである。

 さらに、右の一枚目の右上に、この「大物浦」のストリーの要点が書かれ、二枚目と三枚目との船中の人物については、それぞれ源氏の武将の名が記され、この三枚ものの背景には、「続き物」の共通としての、平家の武将の亡霊がシルエット的に描かれている。これらのことについて、「補記五」では、次のように記されている。

「西国に逃れようと船出した義経一行に、恨みを抱いた平家の亡霊が襲いかかる。飲み込もうとする大きな波に対抗するように船が進む、職人国芳のすごさは、舟に小さな白い浪を配したところである。これで舟が浪に揉まれて上下する動きが感じられる。背景は均一だがそこにシルエットの亡霊を濃淡で描き分け奥行きを出した。歌舞伎の舞台にすぐ使えるような構成である。東京国立博物館蔵」

 この解説(紹介文)に続けるとしたら、「浮世絵界の『青の時代』」の、「ペロ(ベロリン)藍」(ベルリンブルー)の、色鮮やかな、既存の「藍色」(インディゴブルー)とは異質の、一種の「色彩革命」の「新しい青」の、その「波」の現出であろう。
 この「新しい青」は、遠く、西欧のフェルメール・ブルー(ラピスラズリ)になぞらえて、広重の「ヒロシゲブルー」とも呼ばれるものの源流であって、それは、まぎれもなく、次の、北斎の最高傑作の一つとされている、「冨嶽三十六景」の、「神奈川沖浪裏」(補記七)の、この「ホクサイブルー」と、そして、その国芳がフォローした「ホクサイの『白い浪』」の紋様にあることであろう。

北斎・ブルー .jpg
葛飾北斎 冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏 (太田美術館) 補記七

補記一 歌川国芳 大判3枚続  (パブリックドメイン  浮世絵、 錦絵の世界)

www.bestweb-link.net/PD-Museum-of-Art/ukiyoe/html/1440_kuniyoshi.html

補記二 浮世絵文献資料館

www.ne.jp/asahi/kato/yoshio/ukiyoeyougo/u-yougo/yougo-ukiyoesi-banduke.html

補記三 豊国画「広重の死絵」 (江戸東京博物館象蔵)

http://digitalmuseum.rekibun.or.jp/edohaku/app/collection/detail?id=0183200121&sk=%89%CC%90%EC%8D%91%92%E5%28%8F%89%91%E3%29%2F%89%E6

補記四 国芳ヒーローズ~水滸伝豪傑勢揃 (太田記念美術館)

www.ukiyoe-ota-muse.jp/exhibition/kuniyoshi-heroes

補記五 ―歌川国芳の傑作武者絵 奇想三枚 悪狐、亡霊、鰐鮫―

http://www.photo-make.jp/hm_2/kuniyoshi_kisou_6.html

補記六  浮世絵版画のサイズ

http://nobuko.biz/ukiyoe/kubun-3.html

(抜粋)

丈長奉書(たけながぼうしょ)縦72-77cm×横52.5cm
大広奉書(おおびろぼうしょ)縦58cm×横44cm
大奉書(おおぼうしょ)縦39cm×横53.5cm
中奉書(ちゅうぼうしょ)縦36cm×横50cm
小奉書(こぼうしょ)縦33cm×横47cm

大判(おおばん) 大奉書の縦2つ切り。もっとも一般的なサイズ。縦39cm×横26.5cm
中判(ちゅうばん) 大奉書の4分の一。大判の横2つ切り。縦19.5cm×横26.5cm
小判(こばん) 大奉書の8分の一。大判の4分の一。縦19.5cm×横13cm

大短冊判(おおたんざくばん) 大奉書の縦3つ切り。縦39cm×横18cm
中短冊判(ちゅうたんざくばん) 大奉書の縦4つ切り。縦39cm×横13cm
小短冊判(しょうたんざくばん) 大奉書の縦6つ切り。縦39cm×横9cm
色紙判(しきしばん) 大奉書の6分の1。他の紙より厚手。縦20.5cm×横18.5cm
長判(ながばん) 大奉書の横2つ切り。縦19.5cm×横53.5cm

掛物絵(かけものえ) 大判の縦2枚つなぎ。縦78cm×横26.5cm

柱絵((はしらえ)
1.小奉書の縦3つ切り。縦72cm-77cm×横17cm
2.大長奉書の縦4つ切り。縦72cm-77m×横13cm

細判(ほそばん)
1.小奉書の縦3つ切り。縦33cm×横15cm
2.大長奉書の縦2つ切り。縦16cm×横47cm

続絵(つづきえ)
同じ大きさの紙を並べて大画面にしたもの。大判を横に3枚並べた大判3枚続が一般的だが、5枚続や6枚続もある。又、縦に2枚、3枚と繋いだり、まれに3米続を上下に並べて6枚にする場合もあった。続絵は1枚ずつが独立した画でありながら、つなぐことによって、さらにスケールの大きな作品にまとまるよう構成されている。それぞれの画は別々に摺られ、ばら売りされていたので、現在では一枚しか見つからないことも多い。

補記七 葛飾北斎 冨嶽三十六景 神奈川沖浪裏 (太田美術館)

www.ukiyoe-ota-muse.jp/collection/list17



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町物(京都・江戸)と浮世絵(その十五 歌川広重筆「富士三十六景・甲斐大月の原」など) [洛東遺芳館]

(その十五) 歌川広重筆「富士三十六景・甲斐大月の原」など

広重.jpg
歌川広重画「富士三十六景・甲斐大月の原」(大判)

www.kuroeya.com/05rakutou/index-2013.html

「広重最晩年の揃い物『富士三十六景』の中の一枚で、このシリーズの中で最も人気のある作品です。富士の裾を隠している山脈が、甲斐の風景らしくしていますが、この山脈がなければ、武蔵野図によく似ています。浮世絵版画の富士山図に大きな影響を与えた河村岷雪の『百富士』にも、この図とよく似た武蔵野図がありますが、広重のこの作品は秋草を大きく描いて、遠近感を強調しているのが特徴です。」

 歌川広重が生まれたのは、寛政九年(一七九しち)、この年に、喜多川歌麿、東洲斎写楽、そして、北尾政演(山東京伝)などの名プロデューサーとして知られている、版元(出版人)の蔦屋重三郎(初代)が、その四十六年の生涯を閉じた年である。
 「版元」というのは、「浮世絵界の采配者」でもあり、「版元が企画を立て、その企画に沿い、絵師が描き、彫師が彫り、摺師が摺り」、そして、その完成品(浮世絵版画)を「宣伝し、販売する」という、まさに、「采配者」で、その全てに対する責任と自負が、その「版元印」に込められている(『浮世絵の鑑賞基礎知識(小林忠・大久保純一著)』)。
 この蔦屋重三郎(初代)が、寛政三年(一七九一)、山東京伝(北尾政演)の洒落本・黄表紙『仕懸文庫』、『錦の裏』、『娼妓絹籭(きぬぶるい)』が、寛政の改革により摘発され、過料により財産の半分を没収、京伝は手鎖五十日という処罰を受けたことについては、先に触れた(その九「酒井抱一・その四)。
また、前回の「葛飾北斎画『潮来絶句』」に関連して、その初版(初代蔦屋重三郎=版元)の北斎画は、「宗理の時代」(寛政七年・三十六歳~寛政十年・三十九歳)に描いたものということと、その初版のものは、やはり、寛政の改革の検閲で発禁処分になり、享和二年(一八〇二)版」のものは、二代目蔦屋重三郎が関わっているということは、先に触れた(「その十四・葛飾北斎筆『潮来絶句』の追記一)。
 これらに、下記の「葛飾北斎と蔦屋重三郎そして山東京伝」(補記一)と「北斎・広重-浮世絵木版画出版から探る-」を加味すると、その全体像が浮き彫りになって来る。

 さて、上記の冒頭の作品解説中の、「広重最晩年の揃い物『富士三十六景』」については、下記(補記三)で全画(三十六景)が閲覧できる。その最初に、次のような記載がある。

「広重が9月に亡くなる直前の安政5年(1858)4月に版下の検閲が済んでいるが、刊行は広重の没後、翌年の6月である。蔦屋吉蔵より出版。竪大判、全36枚揃、別に目録あり。」

 この文中の「版下の検閲」というのは、上記に触れた「寛政の改革」に伴う「出版統制」のことである。その「出版統制」の内容は、時代の変遷はあれ、凡そ次のようなことである(『浮世絵の鑑賞基礎知識(小林忠・大久保純一著)』)。

一 幕府の体制維持に反する思想等についての出版を禁止する。
二 武家についての記述を制限する。
三 幕府政治への批判を禁止する。
四 贅沢を取り締まる意味から豪華な出版物の禁止。
五 風紀を乱す出版物の禁止。

 上記の第五が、蔦屋重三郎等が処分された違反内容の主なものなのであるが、これは出版物に限らず、徐々に、一枚絵(肉筆画など)まで拡充されて行くこととなる。

 さらに、この文中の、「蔦屋吉蔵より出版」の、その「蔦屋吉蔵」(蔦吉・紅英堂)と、「蔦屋重三郎」(蔦重・耕書堂)とは、それぞれ別家で、共に、大手の地本問屋(版元)ということになる。両者の関係は、「蔦重=老舗の版元」、「蔦吉=新興の版元」ということになろう(補記四)。

 続く、「竪大判、全36枚揃」の、「竪大判」というのは、通常の「浮世絵判型(横型)」の「美濃紙(約四六×三三cm)」を「竪(立て)」にしてのということで、次の「全36枚揃」というのは、それが、「一揃い=三十六枚もの」ということになる。

 そして、何よりも、その文中の、「刊行は広重の没後、翌年の6月である」と、広重は、自己の揃いものの総決算というべき、この「冨士三十六景」の、その刊行の全貌を見ずに亡くなっているということなのである。広重が亡くなったのは、安政五年(一八五八)、六十一歳であった。

 もとより、広重の、この「冨士三十六景」は、北斎の「富嶽三十六景」を念頭に置いてのものであろうが、北斎は、広重が瞑目した六十一歳の、その同じ年齢の時(文政六年・一八二〇=六十一歳)、「為一」(還暦で振り出しに戻るとの決意を秘めてのもの)と名乗り、その新ジャンルの「名所絵」たる「富嶽三十六景」を刊行したのは(版元は「永寿堂西村屋与八」)、文政十三年(一八三〇)、七十一歳の時である。
 すなわち、広重の「冨士三十六景」が、広重の六十一歳のゴール地点とすると、北斎の「富嶽三十六景」は、その六十一歳の新たなるスタート地点を意味するものであって、同じ、「冨士・富嶽の三十六景」でも、広重と北斎のそれとでは、その年輪の重みが違うのである。
 
 事実、北斎の「富嶽三十六景」は、その「三十六景」に止まらず、さらに、十枚が追加され、その追加された十枚は「裏冨士」として、その総体は「四十六景」ということになる。その「四十六景」の最後は、次の「諸人登山(もろびととざん)」で、そこには、「冨士山の『遠景・中景・近景』の姿影」は無い(補記五)。

緒人登山.jpg
葛飾北斎「諸人登山」(『富嶽三十六景』の十枚追加された「裏冨士(十景)の最後の画)」)
(補記五)

 この北斎の「諸人登山」(『富嶽三十六景』の十枚追加された「裏冨士(十景)の最後の画)」)を、北斎よりも三十七歳年下の広重が、目にしていないとしたら、それは眉唾ものということになろう。
 ずばり、この北斎の描く「諸人登山」の、その中央の「同行二人」の、その前を行く笠を背にして無帽の、その人は、「北斎」その人であり、その後を行く笠を被った人は、「広重」と解すると、ここで、始めて、広重が生前に見ることが出来なかった「冨士三十六景」と、そして、その一つの、冒頭の、「富士三十六景・甲斐大月の原」の、その何たるかが見えて来る。

補記一 葛飾北斎と蔦屋重三郎そして山東京伝

http://www.ten-f.com/hokusai-to-tutaya.html

補記二 北斎・広重-浮世絵木版画出版から探る- 江戸時代における知的財産戦略(小林  聡稿)

https://system.jpaa.or.jp/patents_files_old/200705/jpaapatent200705_041-048.pdf

補記三 歌川広重 冨士三十六景 (山梨県立美術館)

www.museum.pref.yamanashi.jp/3rd_fujisan_03fuji.htm

補記四 改元前の版元 (老舗の版元と新興の版元など) (たばこと塩の博物館)

https://www.jti.co.jp/Culture/museum/exhibition/2001/0109seip/hanmoto.html

補記五 葛飾北斎「諸人登山(もろびととざん)」 (山梨県立美術館)

http://www.museum.pref.yamanashi.jp/4th_fujisan/01fugaku/4th_fujisan_01fugaku36_46.htm



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町物(京都・江戸)と浮世絵(その十四 葛飾北斎筆「潮来絶句」など) [洛東遺芳館]

(その十四) 葛飾北斎筆「潮来絶句」など)

北斎.jpg
葛飾北斎画「潮来絶句」 洛東遺芳館蔵

http://www.kuroeya.com/05rakutou/index-2013.html

「潮来絶句(いたこぜっく)」は、江戸の吉原で流行っていた潮来節(いたこぶし)を、藤堂良道(とうどうよしみち)が漢詩に翻訳し、谷文晁(たにぶんちょう)の弟の東隄(とうてい)が書き、北斎(ほくさい)が絵を描いたものです。蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう)が出版しましたが、 発禁処分を受けていました。享和二年(1802)頃に、曲亭馬琴(きょくていばきん)の文章や馬琴門人の跋を付けて再版されました。展示した本には、馬琴たちの文章も跋もありません。」

「天才浮世絵師」「画狂人」「HOKUSAI」(「過去1000年で最も偉大な業績を残した100人」の86位にランクインした世界的画家」=「Life Millennium;1999」)と様々な異名を持つ葛飾北斎というのは、どうにも得体の知れない画人である。
 この「北斎の生涯と画業」について、「北斎館」(補記一)では、次の七区分で概括している。

● 幼少年時代 
1760(宝暦10)~1778(明和7)
●「春朗」の年代 
1779(安永8)~1794(寛政6)
●「宗理様式」の年代 
1795(寛政7)~1804(文化1)ころ
●「葛飾北斎」の年代 
1805(文化2)~1810(文化7)ころ
●「戴斗」の年代 
1810(文化7)~1820(文政3)
●「為一」の年代 
1820(文政3)~1833(天保4)
●「卍」の年代 
1834(天保5)~1849(嘉永2)

 上記の「『春朗』の年代」がスタートとする安永八年(一七七九)に、「日本のダ・ヴィンチ」の異名を有する平賀源内が、五十歳の若さで不慮の死を遂げる。源内は画家というよりも、静電気の「エレキテル」などの発明などの蘭学者・発明家として知られている。 
 アメリカ「Life」(1999)の「過去1000年で最も偉大な業績を残した100人」のトップは、アメリカの発明家の「トーマス・エジソン」である。そして、その第五位が、イタリアのルネッサンス期を代表する芸術家の「レオナルド・ダ・ヴィンチ」である。
 源内の静電気の「エレキテル」とエジソンの「白熱電球」、そして、「江戸の浮世絵師(町絵師)・北斎」と「イタリア・ルネッサンス期の世紀の天才画家、レオナルド・ダ・ヴィンチ」との取り合わせは、何か因縁めいたものすら抱かせる。
 この北斎の「春朗時代」は、役者絵界の大御所であった「勝川春章」の門人の一人として、その春章の様式に倣った役者絵や美人画、黄表紙の挿絵などを、ひたすら描いていた時代であった。デビュー作は、二十歳の時の『吉原細見』の挿絵などである。
 この時代は、喜多川歌麿が、『婦女人相十品』などの「美人大首絵」で人気絶頂の時で、
北斎こと春朗は、はるかに後塵を拝していた時代である。

 寛政七年(一七九五)正月、数えで三十六歳の時から、北斎こと春朗は、「宗理」に改号する。この「宗理」という号は、「江戸琳派の創始者・酒井抱一」に連なる京都の「宗達・光琳」の、その「俵屋宗達」に関係するもので、抱一とは別の琳派の「俵屋」派の「宗理」を襲名してのものなのかも知れない。
 「下谷の三幅対」の「亀田鵬斎・酒井抱一・谷文晁」との知己中の知己の大田南畝(蜀山人)が、その原撰した『浮世絵類考』で次のように記している。

「 古俵屋宗理ノ名ヲ続
二代目
宗理 寛政十年の比北斎と改む
三代目
宗理 北斎門人
これまた狂歌摺物の画に名高し浅草に住す
すへて摺物の絵は錦絵に似ざるを尊ぶそ  」(『浮世絵類考』=補記二―「P141」以降など)

 すなわち、寛政十年(一七九八)の、三十九歳の頃、北斎こと宗理は、それまでの「勝川春章」門の「春朗」でもなく、続く「俵屋宗理(初代)」を引き継いでの「宗理(二代目)」でもなく、完全に、独立しての「北斎」(「北極星」に因んでの号)を名乗るようになる。
この「北斎」に、画姓の「葛飾」を冠して、「葛飾北斎」と名乗るのは、文化二年(一七八〇五)、四十六歳の頃からで、この翌年に、喜多川歌麿が亡くなっている。
 そして、文化七年(一八一〇)、五十一歳の時な、「葛飾北斎戴斗画」と「戴斗(たいと)」の号を用いるようになる。この号は、文政二年(一八一九)までの役九年間にわたり用いられている。
 この「戴斗の時代」の、文化十一年(一八一四)に、西欧の芸術家たちに多大な影響を与え、その北斎を象徴する作品の一つと評せられている『北斎漫画』(ホクサイ・スケッチ)の、その初編が、名古屋の版元「永楽屋東四郎(東壁堂)」から刊行され、江戸での販売は奥付に名を連ねている「角丸屋甚助」であった(後に、もう二店の版元が参加している)。
そして、この『北斎漫画』のシリーズは、弘化四年(一八四七)に及ぶ大ロングセラーとなり、その完結編の十五編は、北斎没(嘉永二年=一八四九)後の、明治十一年(一八七八)のことだったという(『葛飾北斎の本懐(永田生慈著)』)。

北斎漫画初編.jpg
葛飾北斎画『北斎漫画』初編(山口県立萩美術館)の「巻末」(補記三)

 この『北斎漫画』初編の「巻末」に出て来る「大石真虎」は、北斎の門人(名古屋の浮世絵師)で、北斎は、これらの『北斎漫画』の下絵(三百余図)を、北斎の門人「月光亭墨仙」こと「牧墨僊」(名古屋の浮世絵師)宅で描き、その一端が、上記の初編として刊行されたのであろう。
 その初編の版元の跋(永楽屋東四郎)にある通り、この『北斎漫画』は、いわゆる「狂歌・狂句」に対応する「狂画」というのがその本態なのであろう。

『北斎漫画』初編・二編・三編
「興に乗じ心にまかせてさまざまの図(かたち)を写す篇を続(つい)て全部に充(ミでん)こと速(すみやか)也」
同四編
「草筆に加え席上の臨本にしからしむることを要す」(『葛飾北斎の本懐(永田生慈著)』)

 「漫画」というのは、「興に乗じ心にまかせて描く画」(「初編」等)というのが、その本態とされるが、それは、「草筆に席上の臨本にしからしむることを要す」(四編)と、いわゆる、蕪村等の「草画・席画」を加味しての世界のものなのであろう。そして、この蕪村の「草画」の代表的な世界の「俳画(俳諧・俳句と合体している画)」は、その「俳諧・俳句=狂句(俳句・川柳)」の世界で、それらは、まさしく、「狂歌・狂句」に対応する「狂画」というのが、最も相応しいであろう。
 この「戴斗の時代」に、例えば、文政元年(文化十五年・一八一八)の「東海道名所一覧」(補記四)のような「鳥観図」(バーズアイ・ビュー)を数多く手がけている。
 これらの北斎の、「北斎漫画」(ホクサイ・スケッチ)の「狂画」と「鳥観図」(バーズアイ・ビュー)は、北尾政美(鍬形蕙斎)から、「北斎はとかく人の真似をなす。何でも己が始めたることなし」と非難したとの逸話が残っている(斎藤月岑『武江年表』の「寛政年間の記事」)との背景となっている。

 次の「為一(いいつ)の時代」は、文政三年(一八二〇)、六十一歳の時からスタートとする。それは、還暦で振り出しに戻るという意を背景にしての「為一」の号で、この「為一期」こそ、北斎を象徴する時期ということになろう。

一 風景画 「富岳三十六景」(補記五)など
二 名所絵 「琉球八景」(補記六)など
三 古典画 「詩歌写真鏡」(補記七)など
四 花鳥画 「北斎花鳥画伝」(補記八)など
五 雑画ほか(怪談・幽霊画・玩具絵・団扇絵・その他) 「百物語」(補記九)など

 上記の分類などは、『葛飾北斎の本懐(永田生慈著)』を参考としているが、「浮世絵」の代名詞ともなっている「春画」については、触れられていない。上記に、「春画」の項目を追加して置きたい。

六 春画 「蛸と海女」(補記十)など

 北斎は、天保五年(一八三四)、七十五歳の時に、富士図を集大成した『富嶽百景』初編(補記十一)を刊行する。この『富嶽百景』初編の巻末に初めて、最後に用いた「画狂老人卍」の画号で「自跋」を載せている。その北斎の「自跋」は、次のようなものである。

「己(おのれ)六才より物の形状(かたち)を写(うつす)の癖(へき)ありて、半百の此(ころ)より、数々(しばしば)画図を顕(あらハ)すといへども、七十年前画(ゑが)く所は、実に取るに足るものなし。七十三歳にして、稍(やや)禽獣虫魚の骨格、草木(さうもく)の出生(しゅっしゃう)を悟(さと)し得たり。故に八十歳にしては、益々進み、九十歳にして、猶(なほ)其(その)奥意(あうい)を極め、一百歳にして正に神妙ならん歟(か)、百有(いう)十歳にしては、一点一格にして生(いけ)るがごとくならん、願くは長寿の君子、予(よ)が言(こと)の妄(まう)ならざるを見たまうべし。画狂老人卍述 」

画狂老人卍.jpg
『富嶽百景』巻末(補記十一)

 これが、北斎の「画狂老人卍期」のスタートである。そして、八十歳の中頃より、信濃国高井郡小布施の高井鴻山邸へと複数回訪ねている(小布施には、北斎の最晩年に描いた「冨士越龍図」を蔵する「北斎館」と妖怪画で名高い「高井鴻山美術館」とがある)。
 北斎が没したのは、嘉永二年(一八四九)四月十八日、江戸・浅草聖天町、遍照院境内の仮宅で、その九十年の生涯を閉じている。
辞世の句は、「人魂(ひとだま)で行く気散じや夏野原」、そして、北斎が最晩年の絶筆に近い「冨士越龍図」(補記十二)に、天に昇って行く「龍」(北斎の「人魂」)が描かれている。

補記一 北斎の生涯と画業 (北斎館)

https://www.book-navi.com/hokusai/life/life.html

補記二 『浮世絵類考』(大田南畝著) (国立国会図書館デジタルコレクション)

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1068946

補記三 葛飾北斎『北斎漫画』 初編 (山口県立萩美術館)

www.hum2.pref.yamaguchi.lg.jp/sk2/book/manga1.htm

補記四 「東海道名所一覧」 (すみだ北斎美術館)

http://hokusai-museum.jp/modules/Collection/collections/view/43

補記五 葛飾北斎 「富嶽三十六景」解説付き

http://fugaku36.net/

補記六 浦添市美術館、葛飾北斎の「琉球八景」 №1 №2

http://blog.goo.ne.jp/tako_888k/e/8cb4940e55988c8770b6dd85a9ec729f?fm=entry_awp_sleep

http://blog.goo.ne.jp/tako_888k/e/e70b89e9d2a8039310123c4fb1f7e119

補記七 「詩歌写真鏡」  Ritsumeikan University

https://ukiyo-e.org/image/ritsumei/Z0170-211

補記八 「北斎花鳥画伝」 国立国会図書館デジタルコレクション

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/851635

補記九 百物語 こはだ小平二  (すみだ北斎美術館)

http://hokusai-museum.jp/modules/Collection/collections/view/74

補記十 蛸と海女  (江戸ガイド)

https://edo-g.com/blog/2015/11/shunga.html

補記十一 『富嶽百景(初編)』  (ARC古典籍ポータルデータベース)

http://www.dh-jac.net/db1/books/results1024.php?f1=BM-JIB0214&f12=1&enter=portal&max=1&skip=0&enter=portal

補記十二 「冨士越龍図」

北斎先生の生涯③~北斎、天にのぼる編~
http://hokusai-kan.com/w/北斎新聞

大英博物館 国際共同プロジェクト― 北斎 ―富士を超えて―
https://www.artlogue.org/event/joint-international-project-with-the-british-museum-hokusai2017/

冨士越龍図.jpg
北斎筆「冨士越龍図」(「北斎館」蔵)


追記一 葛飾北斎画「潮来絶句」(洛東遺芳館蔵)について、

 冒頭の「潮来絶句」に関連して、その「作品解説」中の、「享和二年(1802)頃に、曲亭馬琴の文章や馬琴門人の跋を付けて再版されました」の、「享和二年版」のものは、「補記十」で、その全文(全画)が閲覧できる。
 また、この「作品解説中」の、「藤堂良道が漢詩に翻訳し、谷文晁の弟の東隄が書き、北斎が絵を描いたものです。蔦屋重三郎、 発禁処分を受けていました」に関連して、蔦屋重三郎(初代)は、寛政九年(一七九七)に四十八歳で没しており、「発禁処分を受けた」、その初版のものは、北斎の「宗理の時代」(寛政七年・三十六歳~寛政十年・三十九歳)に描いたものということになろう(ここに描かれて美人像は、まさしく、北斎こと宗理の描く抒情性を漂わせている細面のものが多い)。
 それが、「作品解説」中の、「展示した本には、馬琴たちの文章も跋もありません」の、発禁処分を受けた「初編」なのかどうかは、定かではない。
 なお、「享和二年版」の版元は、二代目の蔦屋重三郎で、北斎は、その「初代」と「二代目」の、両方の「蔦屋重三郎」と「版元と浮世絵師」との関係にあるのだろう。そして、その背後には、「曲亭馬琴」が居り、それらが、文化四年(一八〇七)の、曲亭馬琴作・葛飾北斎画の読本『鎮西弓張月』の刊行開始と連動してくるように思われる。
 ここで、発禁処分を受けた「初版」のものと、曲亭馬琴が前面に出て来る「再版」との、その時代史的背景、そして、この『潮来絶句』の、「藤堂良道、谷文晁の弟・東隄、北斎、蔦屋重三郎」との、この四者の関係というのは、「北斎」からの視点ではなく、「寛政年間の谷文晁」(補記十三)、「享和、文化年間の谷文晁.」(補記十四)、そして、トータル的に、「谷文晁」(補記十四・十五・十六)などに視点を当てると、その実像が見えてくるような、
そんな感じでなくもない。

補記十三 潮来絶句 / 富士唐麻呂著・葛飾北斎画 (早稲田大学図書館蔵)

http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/he07/he07_04653/index.html

補記十四 寛政年間の谷文晁― 福島大学附属図書館

www.lib.fukushima-u.ac.jp/repo/repository/fukuro/R000005035/16-165.pdf

補記十五 享和、文化年間の谷文晁. (磯崎康彦稿)

http://www.lib.fukushima-u.ac.jp/repo/repository/fukuro/R000005092/16-177.pdf

補記十六 ARC古典籍ポータルデータベース ― 谷文晁関係

http://www.dh-jac.net/db1/books/results.php?f7=%E8%B0%B7%E6%96%87%E6%99%81



追記二 『葛飾北斎の本懐(永田生慈著)』の著者逝去

訃報:永田生慈さん 66歳=浮世絵研究家、元太田記念美術館副館長
毎日新聞 · 14時間前

https://mainichi.jp/articles/20180207/ddm/041/060/206000c

永田生慈氏が死去 北斎研究の第一人者
日本経済新聞 · 22時間前

永田生慈氏死去=66歳、北斎研究の第一人者
時事通信 · 20時間前

葛飾北斎美術館の永田生慈館長が2月24日、ティエリー・ダナ駐日フランス大使により、芸術文化勲章オフィシエに叙されました。

https://jp.ambafrance.org/article9838
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町物(京都・江戸)と浮世絵(その十三 北尾政美筆「百富士・江戸三囲之図」など) [洛東遺芳館]

(その十三) 北尾政美筆「百富士・江戸三囲之図」など

政美・百冨士.jpg
北尾政美筆「百富士・江戸三囲之図」 洛東遺芳館蔵

http://www.kuroeya.com/05rakutou/index-2013.html

賛は大田南畝の狂詩と狂歌です。題には「百富士」とあって、百枚シリーズとして企画されたようですが、実際には、わずかしか作られなかったようです。吉田暎二の『浮世絵事典』には「七枚を知っている」とあります。当館も七枚所蔵しています。河村岷雪の『百富士』(明和4年)の影響を受けていますが、風景画としては、はるかに完成度が高く、特にこの作品では、鳥瞰図を得意にした政美の特徴がよく出ています。

 この「北尾政美」は、後の「鍬形蕙斎」その人である。先に、北尾政演(山東京伝)に関連して、同門(北尾重政門)・同年齢(宝暦十一年=一七六一)で紹介したが、政美は、明和元年(一七六四)の生まれで、三歳後輩のようである。
 また、酒井抱一に関連して、『江戸流行料理通大全』(栗山善四郎編著)の挿絵を掲載し、その登場人物の一人は、「酒井抱一」としているものもあるが、この挿絵の作者の「鍬形蕙斎」であるとしたものを紹介した(『別冊太陽 酒井抱一 江戸琳派の粋人』所収「江戸の文人交友録(武田庸二郎稿))。
 この「北尾政美」(鍬形蕙斎)も、「北尾政演」(山東京伝)に劣らず、狂歌名は「麦蕎雄魯智(麦野大蛇麿=おろち)」、戯作名は「気象天業=てんごう」など、マルチの多種・多芸・多才のスーパータレントの一人である。
 安永七年(一七七八)の咄本『小鍋立』(作者不明、一冊)が初筆とされ、巻末に「北尾重政門人三治郎十五歳画」と署名している。この「三治郎」は俗称で、父が畳職人であったことから、その俗称と併せ「畳屋の三公」が、そのあだ名である。
 その「畳屋の三公」が、寛政六年(一七九四)、三十一歳の時に、津山藩の御用絵師(大役人格、十人扶持、別に絵の具料三両支給)となり、破格の抜擢で、剃髪し、名も「鍬形(くわがた)蕙斎(けいさい)紹真(つぐざね)」を称するようになるのである。しかも、
御用絵師になった後も、主たる本拠地は江戸で、津山藩には、文化七年(一八一〇)、四十七歳当時、一年弱の赴任の程度なのである。

 大田南畝が深く関与している『増補浮世絵類考』では、「政美(鍬形蕙斎)は近世の上手なり。狩野派の筆意をも学びて一家をなす。又(ハ)光琳(尾形)或(イハ)芳中(中村)が筆意を慕い略画式の工夫行われし事世に知る所なり」と高く評している。
この政美(蕙斎)の「略画式」(補記一)や「鳥瞰的な一覧図」(補記二)は、同時代の葛飾北斎に、「北斎漫画」や「東海道名所一覧」「木曽名所一覧」といった形で真似されたとも伝えられ、政美(蕙斎)はこれを苦々しく思っていたらしく、「北斎はとかく人の真似をなす。何でも己が始めたることなし」と非難したとの逸話が残っている(斎藤月岑『武江年表』の「寛政年間の記事」)。

 平成十一年(一九九九)の、『ライフ』(アメリカの有力雑誌」)の企画の、「この1000年で最も重要な功績を残した世界の人物100人」(「Life's 100 most important people of the second millennium」)で、日本人として唯一ランクインしている「北斎」に比すると、その北斎が生きていた、日本の「江戸時代」では、「北斎嫌いの、蕙斎好き」という評が一般的であったほどの「蕙斎(政美))」は、今や、完全に北斎の後塵を拝して、影の薄い存在に追いやられているということは、どうにも致し方のない現実の一端なのであろう。

蕙斎一.jpg
鍬形蕙斎(北尾政美)筆『略画式大全』(冒頭画)→(「補記三」の内『略画式大全』の内)

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レオナルド・ダ・ヴィンチ筆「ウィトルウィウス的人体図」(補記四)

 上記の「この1000年で最も重要な功績を残した世界の人物100人」(「Life's 100 most important people of the second millennium」)では、日本で唯一ランクインされた「北斎」は、八十六番目だが、その五番目にランクされているのは、「レオナルド・ダ・ヴィンチ」 (イタリア)である。
そのダ・ヴィンチの、上記の「ウィトルウィウス的人体図」は、夙に知られている作品で、その「モナ・リザ」が、芸術的な傑作画(ペインティング)とすると、こちらは、科学的な医学の専門的な分野でも高く評価されている、ペインテイク(色彩画など)というよりも、理想的な人体図を意図してのドローイング(デッサン・素描など)の傑作画ということになろう。

 ここで、思い起こされて来るのは、杉田玄白の『解体新書』の表紙絵などを描いた、秋田蘭画の「小田野直武」と、その小野田直武を、杉田玄白に紹介・推薦をした、「日本のダ・ヴィンチ」との異名も有する「平賀源内」との二人である。
 この小田野直武が、この『解体新書』の作業に取り掛かったのは、安永三年(一七七四)、二十五歳、秋田の片田舎から江戸に出て来て、目を白黒している直武は、当時、四十一歳の玄白に、『ターヘル・アナトミア』を始め、全く「未聞・未見の洋書を五・六冊預けられて、一挙に世紀の大事業への直接参加を強いられる」(補記五)という、前代未聞の珍事ともいうべきことに遭遇するのである(補記五には、『解体新書』と『ターヘル・アナトミア』の表紙絵が併記して掲載されている)。
 この直武には、重要文化財に指定されている「東叡山不忍池図」(秋田県立近代美術館蔵)がある(補記六)。
 その画面前景(「芍薬の大輪」など)は、「立体を意識した陰影法・遠近法」、そして、中景から遠景(「不忍池」など)は、「遠くに淡色、近くに濃色を使った空気遠近法」が駆使され、日本画の中に西洋画の技法を応用したという、直武作品の傑作画とされている。
 この直武の「東叡山不忍池図」の前景の「芍薬の大輪」に、次の平賀源内の「西洋夫人図」を入れ替えると、これは、紛れもなく、ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」と鑑賞して差し支えなかろう。

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平賀源内筆「西洋婦人図」(神戸市立博物館蔵)

 その、もう一人の「日本のダ・ヴィンチ」の異名を有する平賀源内は、「本草学者・地質学者・蘭学者・医者・殖産事業家・戯作者・浄瑠璃作者・俳人・蘭画家・発明家」等々と、これはまさしく前代未聞の、多種・多芸・多才のマルチ・スーパータレントの元祖のような人物として、これまた、差し支えなかろう。

 この平賀源内は、安永八年(一七七九)に、五十歳で不慮の死を遂げる。そして、その不慮の死に関係するかのように、小田野直武も、その翌年に、その三十年の生涯を閉じている。
 そして、この平賀源内が没する一年前の、安永七年(一七七八)の咄本『小鍋立』(作者不明、一冊)に、当時、十五歳の、「北尾重政門人三治郎十五歳画」の、その「三治郎」こと、鍬形蕙斎(北尾政美)がデビューして来るのである。

 こうして見て来ると、「安永三年(一七七四)のフットボール時代」(杉田玄白→平賀源内→小田野直武)は、「蕪村(五十九歳)→大雅(五十二歳)→応挙(四十二歳)」等々の「京都画壇のフットボール時代」であった。
 これらの「江戸中期のフットボール時代」の流れが、次の「抱一(一七六〇生まれ)→北斎(一七六〇生まれ)→山東京伝(一七六一生まれ)→文晁(一七六三生まれ)→蕙斎(一七六四生まれ)」等々と、「江戸後期の江戸(東京)フットボール時代」へと変遷して行くということになる。
 この変遷の背景には、老中・松平定信が断行した「寛政の改革」がある。寛政三年(一七九一)の、山東京伝作洒落本三部作(版元・蔦重)の摘発などは、酒井抱一らに対する陰に陽にの圧力となって、それらが、「江戸後期の江戸(東京)のフットボール」の大きな陰となっているのは歪めない事実のことであろう。
 しかし、この白河候は、一方で、谷文晁や鍬形蕙斎の創作活動を重視し、それを積極的に、己が目指している「寛政の改革」に関する施策の実行に当たり、取り入れ、且つ、それらを活用しているのである。
 その一つの現れが、定信の近習として仕えた文晁の「公余探勝図」、また、その定信の命を受け、古文化財を調査しての図録集『集古十種』や『古画類聚』の編纂に繋がって来る。
 さらに、定信は、鍬形蕙斎の略画の絵手本『略画式』を高く評価し、それらに連なる技法を駆使して、蕙斎に、「近世職人尽絵詞」(東京国立博物館所蔵)(補記一)や「黒髪山縁起絵巻」(寛永寺所蔵)(補記七)などの作品を手がけさせている。その「鳥瞰的な一覧図」(補記二)なども、定信との何らかの関連があるものなのであろう。

 ここで、当時の幕藩体制の中心に位置する松平定信が、当時の、一介の画人の、谷文晁や鍬形蕙斎などを重視し、一方で、同じ画人でもある、山東京伝などに厳しい姿勢で臨んだ、その背景の一端には、その「風俗観・風俗施策」などと深く関わるものなのであろうが(補記八)、そういうことを抜きにして、ズバリ、現在の、「写真家、リポーター(現地・現場の情報収集者・報告者)」のような才能を、文晁や蕙斎に見出していたように思われる。

「いま画というものは、浮世絵なりといふは激論なり。されど唐の十八学士の図をみて、そのころの服をもしるぞかし。(中略)さればこのうき世絵のみぞ、いまの風体を後の世にものこし、真の山水をものちの証とはなすべし。」(『退閑雑記(巻一))』

 この「いま画というものは、浮世絵なり」というのが、当時の江戸中期から後期にかけての、 松平定信(楽翁)の名言なのだが、その「浮世絵」の中にあって、その「真の山水」の、この「真」こそ、定信が、谷文晁や鍬形蕙斎(北尾政美)に期待してものと、そんな思いを深くするのである。

補記一 近世職人尽絵巻(文化遺産オンライン)

http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/13984

(抜粋)鍬形蕙斎(1764-1824)は浮世絵師北尾重政の門人だが,津山藩松平家のお抱え絵師となった異色の経歴を持つ。本図巻は白河侯松平定信の需めにより描いたもので,江戸における多種多様な職業に従事する人々を,軽妙かつ生き生きとした筆致でとらえている。

補記二 江戸一目図屏風(文化遺産オンライン)

http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/86296

補記三 ARC古典籍ポータルデータベース

http://www.dh-jac.net/db1/books/results.php?-format=results-1.htm&f7=北尾政美(画)&-max=10&enter=portal

www.dh-jac.net/db1/books/results-thum.php?f1=Ebi0574&f12=1&-sortField1=f8&-max=30&enter=portal#

補記四 レオナルド・ダ・ヴィンチ 「ウィトルウィウス的人体図」

https://www.musey.net/48

補記五 秋田蘭画の不思議 ―小田野直武とその同時代世界―(芳賀徹 稿)

http://202.231.40.34/jpub/pdf/js/IN1402.pdf

補記六 絹本著色不忍池図〈小田野直武筆/〉文化遺産オンライン

http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/151921

補記六 平賀源内記念館

http://hiragagennai.com/hiragagennai/

補記七 銘石「黒髪山」 附、箱・紙本着色黒髪山縁起絵巻(鍬形蕙斎画)

www.city.taito.lg.jp/index/kurashi/gakushu/bunkazai/yuukeibunkazai/rekisisiryou/kurokamiyama.html

補記八 松平定信のジェンダー観 ―風俗政策の背景― (鬼頭 孝佳 稿)

http://www.lang.nagoya-u.ac.jp/bugai/kokugen/tagen/tagenbunka/vol11/07.pdf

補記九 『退閑雑記』(松平定信著)

http://www.dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/898547

補記十 退閑雑記. 巻之1-13 / 定信 [撰]

www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/he10/he10_05194/index.html


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