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江戸の「金」と「銀」の空間(その八) [金と銀の空間]

(その八)光琳の「金と銀」(「紅白梅図屏風」)

紅白梅図屏風.jpg

尾形光琳筆「紅白梅図屏風」二曲一双 各一五六・〇×一七二・二cm MOA美術館蔵

一 主題 → 「暗香疎影(あんこうそえい)」 → 「どこからともなく漂う花の香りと、月光に照らされた木々の影の情景。または、梅のこと。「暗香」はどこからか漂う良い香りのこと。「疎影」はまばらに広がる木々の影のこと。」 

林和靖(りんなせい)「山園小梅」

「衆芳揺落独嬋妍  衆芳 揺落して 独(ひとり)嬋妍たり
占尽風情向小園  小園にて 風情を占め尽くす
疎影横斜水清浅  疎影 横斜して 水 清浅
暗香浮動月黄昏  暗香 浮動して 月 黄昏
霜禽欲下先偸眼  霜禽 下らんと欲して 先ず眼を偸む
粉蝶如知合断魂  粉蝶 如(もし)知らば 合(まさ)に魂を断つべし
幸有微吟可相狎  幸に微吟の相い狎なるべき有り
不須檀板共金樽  須(すべからず)もちいず 檀板と金樽とを 」

二 描写技法

1 没骨法(もつこつほう)→筆線でていねいに物象の輪郭をとらえる鉤勒法(こうろくほう)に対し、輪郭線を引かずに、水墨や彩色の広がりある面によって形体づける技法。中国では唐代中期からみられるが、宋代に確立、山水・花鳥・人物画に用いられ、とくに花鳥画では北宋初期の徐崇嗣(じょすうし)の系統を受けた、いわゆる徐氏体を特徴づける手法であった。これに対し鉤勒法は黄氏体(こうしたい)に特徴的である。広い意味では、わが国の俵屋宗達や尾形光琳に代表される琳派の画法や、円山・四条派の付立法(つけたてほう)なども没骨法の一種である。

2 たらし込み → 色を塗ってまだ乾かないうちに他の色をたらし、そのにじみによって独特の色彩効果を出すもの。自覚的に用いたのは宗達が初めで、以後、琳派がさかんに用いた。

3 点苔(てんたい) → 岩石・枝幹などの苔を点によって表現するもの。群がり生えている草木,遠くの樹木などを描くのにも用いる。また,画面の調子を整えるための,重要な技法ともされる。

三 使用されている色

 紅と白(梅の花)、緑(苔)の三色、その他は、禽・銀と水墨だけである。

四 特殊な金箔

 箔足(金箔を貼った境目)があるが、金箔としても最も薄いもので、「強い光沢ではなく、やわらかな金色を求めていた」ことが窺える(『もっと知りたい尾形光琳(仲町啓子著)』)。

五 流水の妙

 意匠的な流水の紋様は、宗達の伊勢物語絵のものをモデルとしている。銀箔が使用されているという説もあるが(『別冊太陽 尾形光琳 琳派の立役者』所収「紅白梅図屏風(中部義隆稿)」)、「二〇〇三~〇四の調査で銀の使用はみられないことが確認された」(『もっと知りたい尾形光琳(仲町啓子著)』)。
 しかし、この流水には、銀が浮かび上がっている感じで、何かしらの細工が施されているのであろう。

六 水くぐりの枝

 左隻には、白梅の枝と水流が重なったところがある。墨倍図などに伝統的にみられる「水くぐりの枝」をイメージしている。

七 その他

 この作品は、明治時代には津軽伯爵家に伝えられたもので、「婚礼の儀式を飾るにふさわしい。紅梅を描く右隻の前に新婦、白梅を描く左隻の前に新郎が座れば、人物の背景になることで、画面の奥行きはより自然に感じられ、左右の隻の対照的な表現も際立つ。この作品に用いられた色彩は、梅の花の紅白と苔の緑にすぎない。その他は、金銀と水墨である。光を受けて輝く様子はさぞかし華やかであっただろう」(『別冊太陽 尾形光琳 琳派の立役者』所収「紅白梅図屏風」(中部義隆稿)」)。  

(追記)

 「『紅白梅図』の金地ともなれば、もうほとんど金の輝きは失われているといってもよいであろう。そもそもこの屏風は夜のシーンなのだ。このような金地における宗達から光琳の変質の先に、抱一が愛した銀地の絵画世界が広がっている。金地が陽光だとすれば、銀地は月光のイメージを内包しているのだ」(『別冊太陽 尾形光琳 琳派の立役者』所収「光琳の金地表現」(河野元昭稿)」)。



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江戸の「金」と「銀」の空間(その七) [金と銀の空間]

(その七)探幽の「金」(雪中梅竹遊禽図襖)と応挙の「金」「雪松図屏風)

雪中梅竹図襖.jpg

狩野探幽筆「雪中梅竹遊禽図襖」四面 紙本淡彩金泥引 各191.3cm×135.7cm 名古屋城蔵  → 図21

雪松図屏風二.jpg

応挙筆「雪松図屏風」 六曲一双 紙本淡彩 三井記念美術館蔵
各一五五・七×三六一・二cm → 図22

 上記の、「雪中梅竹遊禽図襖」(探幽筆)と「雪松図屏風」(応挙筆)とについては、次のアドレスで触れている。そこでの要点を以下に抜粋して置きたい。

http://yahan.blog.so-net.ne.jp/2017-04-07

(抜粋)

 名古屋城上洛殿の「雪中梅竹遊禽図襖」(図21)は、寛永十一年(一六三四)、探幽、三十三歳の時のもので、安土桃山時代の狩野永徳の「豪華壮麗」の世界を、探幽様式の「瀟洒淡泊」の世界へと一変させた作品として、夙に知られているものである。
 この「瀟洒淡泊」の探幽様式は、その後の江戸狩野派を規定するばかりではなく、江戸絵画の母体を規定する時代様式になったとまで評さられている(『別冊太陽 江戸絵画入門(河野元昭監修)』)。

 この探幽様式は、「水墨技法の初発性」(雪舟水墨画技法の帰傾・筆墨飄逸)、「豊穣な余白」
(減筆体と相まって無限の空間を創出する「余白の美」)とが、その大きな特色とされている
(『日本の美術№194狩野探幽(河野元昭編))。

具体的に、その「水墨画の初発性」というのは、この二等辺三角形(右隻一・二面と左隻
一面)の中に描かれている老梅の墨の濃淡や筆割れや掠れは、先に触れた、画体の「真行
草・省」体の意識的な混交が見られ、緩急自在に「付立」(下絵などに頼らずじかに一筆の運びで表現する)や「片ぼかし・外隈」(雪を表現する時によく用いられ、枝の片側に墨を施し、その外側空間の部分にも墨を掃いて積雪を表現する)を多用している。

 それにも増して、この襖四面の、金泥引きに胡粉の白を刷毛掃きしたような「余白の美」
は、これこそが「瀟洒淡泊」のネーミングの底流を流れているものであろう。雪・梅・竹
・遊禽(雀・尾長・雉など)が「言葉のある空間」とすると、この余白は「言葉のない空間」
という雰囲気で無くもない。

 この探幽の「瀟洒淡泊」は、「江戸文化を象徴する粋(いき)という言葉には、軽みが付随
する」(『別冊太陽 江戸絵画入門(河野元昭監修)』と関連し、その「粋」と「軽み」は「秘
すれば花/秘せずは花なるべからず」(『花伝書(世阿弥著)』)に通じているのであろう。

 さて、次に「雪松図屏風」(図22)なのであるが、一見すると、先の探幽の作品(図22)が
姉とするならば、この応挙の作品は妹の、姉妹関係にあるようにも思われる。しかし、両
者を仔細に見ていくと、一見、同じような志向で、同じような技法とで為されていると見
えるものが、実は、この応挙の作品は、この探幽の作品の、その真逆に近いいものを意図してのものということが察知される。

[「雪松図屏風」は、近くで観察すると筆の省略が見られるなど、いわゆる精密な写生図ではない。しかし「遠見の絵」として鑑賞されるとき、画面の向こうに広がる雪世界にあたかも実際に松が生えているかのような印象を与える。この「本物らしさ」こそ、応挙が目指した新画風である。本図の地には金泥が引かれているが、これは単なる装飾ではない。応挙が描いたのは、陽光によって金色に照り輝き、身を引き締めるほどに冴えわたった大気なのである。また、松の樹下に光る金砂子とて、伝統的・工芸的な装飾技法ではありえない。朝の光を祝福して踊るかのように燦めく雪の結晶なのである。(略) 牧谿をはじめとする中国の水墨画が、日本で規範として受容され、独自の変容をとげ、日本の水墨画となっていった。円山応挙「雪松図屏風」の光り輝く大気が充溢する空間は、日本水墨画史の系譜上に位置している。 ] (「聚美《2011・1》特集円山応挙と呉春」所収「雪松図屏風の空間と形式の成立―円山応挙の大画面構成について―(樋口一貴稿)」)。

 ここで、両者の顕著なる異同やその感想などについて触れておきたい。

一 探幽の「余白」は、「言葉のない空間」(語らない空間)に比して、応挙のそれは「言葉のある空間」(上掲の引用ですると、「陽光によって金色に照り輝き、身を引き締めるほどに冴えわたった大気なのである」「朝の光を祝福して踊るかのように燦めく雪の結晶なのである」と「語っている空間」)ということになる。

二 探幽の「省筆」(減筆体)は、上記の「余白」の「言葉のない空間」と一体を為しているものとすると、応挙のそれは、まさしく、「言葉のある空間」と一体を為していて、それぞれ意味のある「省筆」(減筆体)なのである。それは、「何も描かない」(省筆=減筆体)で「雪」そのものを写生(実)しているのである。

三 探幽の「写実」(写生)は、後に「探幽縮図」として膨大な遺産を遺すほどに、いわゆる「本絵」を描くための「下絵」的な従たる世界のものに比して、応挙のそれは「写生=写実=『実体らしきもの』の描写=究極的世界」と、それこそが、主たる世界のものとして、その創作活動の基本に据えて、隅々まで、その「写実」(写生)を徹底させている。

四 探幽の「空間」が平面的な空間とすると、応挙のそれは立体的な空間で、「中央に余白を設け、右隻では右上方奥から左下方手前へ、左隻では左下方手前から右上方手前へという大きな動きが看守される。(略) 全体として時計回りの立体的循環が生じ、余白が立体的空間として把握されるようになる」(「樋口一貴前掲稿」)。応挙は若年時玩具商に奉公し、「眼鏡絵」制作に携わった経験があり、そこで得た「遠近法的画面構成法」が、応挙の立体的空間作りの源となっている。

五 探幽の絵が「近見の絵」(近くで鑑賞する細密描写に気を配ったもの)とすると、応挙のそれは「遠見の絵」(遠くから見て真価を発揮するもの)ということになる。
探幽の「雪中梅遊禽図襖」の右隻一面に、老梅にたむろしている雀の上に一羽の雀が空中に飛んでいる。そして、左隻の二面に、空中に飛んでいる尾長が、左隻一面の老梅の細い枝の先端を振り返って見ている。中央の右隻二面に、枝に留まっている雉か尾長の尻尾が描かれている。その胴体が失われているが(完成後、損傷し修復したのかどうか不明)、その胴体が空間の中に隠れている感じすら受ける。右隻一面の老梅の枝先に、三本の若梅の枝が垂直に空間の上に伸びきっている。その下方に雪を被った竹の枝と葉が描かれている。この全体の、詩情性豊かな軽やかな、余白空間には圧倒される。

六 応挙の「雪松図屏風」については、「樋口一貴前掲稿」の中で、次のように細かく描写の記述の後に、「遠見の絵」であることを述べられている。
「松は輪郭線を用いない没骨法を描かれおり、枝には付立の技法も使用され、モチーフの立体感を表現している。樹皮には筆を幾重にも重ねることでごつごつとした質感を表現し、松葉はその一条に張った様子が描き込まれている。右扇には直線的で力強い松が唯一本あるばかりで、一方左隻には曲線的で柔らかい二本の若木が配される。雪のハイライトが眩しい松叢の描写も、左隻では直線的、右隻では曲線的と、樹幹の形態と対応している。雪の部分は、紙の地そのままを生かして効果的に表現されている」。続けて、「『雪松図屏風』は、近寄ってみると松葉が存外粗い筆遣いで描かれているのだが、十分に間を取って見た場合には雪原の中に松樹が立体的に浮かび上がってくる。まさに『遠見の絵』である」としている。
 これを先に触れた探幽様式の、「水墨技法の初発性」(雪舟水墨画技法の帰傾・筆墨飄逸)、と「豊穣な余白」(減筆体と相まって無限の空間を創出する「余白の美」)(『日本の美術№194狩野探幽(河野元昭編))とで比較検討すると、両者の相違点が浮き彫りになってくる。
 すなわち、探幽が「水墨画の初発性」という偶発性の厭わないのに比して、応挙のそれは、それを回避するように「筆を幾重にも重ねることでごつごつとした質感を表現し、松葉はその一条に張った様子が描き込まれている」と、全て「写生(実)」の、その「実体らしきもの」を描出するための、あたかも実験的且つ作為的な技法を露出そのものなのである。これは、探幽と同じ視点の「近見の絵」として鑑賞すると、どうにも「重い」という印象は拭えない。

七 同じように、探幽の「豊穣な空間」に比すると、応挙のそれは、これまた、「光」とか「大気」とかの、その「実体らしきもの」を描出するための、すなわち、実験的な試行錯誤の末の作為に作為を重ねている、「人為の極の空間」という印象を深くするのである。
 それは、この屏風一扇一扇は、それぞれ一枚の紙に描かれていて、画面に紙の継ぎ手のないものを使用していることや、その紙の地肌の真っ白さを利用して塗り残して表現していること、さらに、墨の滲みを抑える紙を使用し、墨の濃淡であたかも紙に墨が滲んでいるような印象を与える描法を取っていることなど、「人為の極の空間・紙の選択・描法」等を駆使していることからも裏付けられるものであろう。

八 この「雪松図屏風」に使われている紙の大きさや滲まないものは、当時の日本製の和紙ではなく、中国南部からの輸入紙であったろうとされている(「聚美《2011・1》特集円山応挙と呉春」所収「紙の万華鏡(増田勝彦稿)」)。
 そもそも、「雪松図屏風」のような大画面を描く場合に、「遠見の絵」を目指したというのは、応挙の言葉が多数抄録されている、応挙の支援者であった、三井寺円満院の祐常門主の『萬志』に書き留められているものであって、それは、応挙の創出した画法の一つと理解すべきなのであろう。

九 「真物を臨写して新図を編述するにあらずんば、画図と称するに足らんや」(『仙斎円山先生伝(奥文鳴著)』)、この「真物臨写」が、応挙が目指した「写生」とされているが、応挙が編み出した「写生」は、「(真物)らしきもの」の飽くなき追及で、それはまた、若き日に身に着けた「眼鏡絵」の「からくり絵」的描写を根底に有するように思えるのである。

十 いずれにしろ、三代将軍徳川家光が上洛する折の名古屋城上洛殿の一角を飾った「雪中梅竹遊禽図襖」を有する探幽と、今に続く三井財閥の惣領家・北三井家(京都の豪商)の宮参りや正月などの祝いの席を飾ったとされている「雪中梅竹遊禽図襖」を有する探幽とが、前者は、膨大な「探幽縮図」を、そして、後者は、懐帖形式の「写生帖」や浄写形式の「草花禽獣写生帖」等を今に遺し、この両者は、無類の「模写・臨写・写生・写実」のテクニシャンであったということは、単に、この「雪中梅竹遊禽図襖」と「雪中梅竹遊禽図襖」との二点を見ただけでも察知出来るであろう。

十一 最後に、この大画面構成たる「雪中梅竹遊禽図襖」と「雪中梅竹遊禽図襖」とを、付かず離れず見て行くと、これは、名古屋城とか三井記念美術館とかの「晴れの場」には相応しいかも知れないが、日常手元に置いて、普段の日常生活の「褻の場」には、どうにもしっくり来ないということは、どうにも拭えないのである。

(追記)

一 探幽様式の「瀟洒淡泊」の世界というのは、安土桃山時代の狩野永徳らの「豪華壮麗」の世界との対比において、浮き彫りされる。それらの「豪華壮麗」というのは「金碧・濃彩」を基本としている。

1 「檜図屏風」(狩野永徳筆) → 紙本金地着色 八曲一隻
2 「唐獅子図屏風」(狩野永徳筆) → 紙本金地着色 六曲一隻
3 「四季花木図襖」(狩野光信筆) → 紙本金地着色 八面
4 「牡丹図襖」(狩野山楽筆) → 紙本金地着色 十六面
5 「老梅図襖」(狩野山雪筆) → 紙本金地着色 四面
6 「牡丹図襖」(狩野孝信筆) → 紙本金地着色 四面
7 「楓図壁貼付」(長谷川等伯筆) → 紙本金地着色 四面
8 「桜図壁貼付」(長谷川久蔵筆) → 紙本金地着色 四面
9 「松図襖」(俵屋宗達筆) → 紙本金地着色 十二面
10 「松島図屏風」(俵屋宗達筆) →  紙本金地着色 六曲一双

二 探幽の「瀟洒淡泊」の世界の萌芽は、次の「長谷川等伯・海北友松」などに見られる。

1 「松林図屏風」(長谷川等伯筆) → 紙本墨画 六曲一双
2 「枯木猿猴図」(長谷川等伯筆) → 紙本墨画 二幅
3 「花鳥図襖」(海北友松筆) → 紙本墨画淡彩 四面
4 「松竹梅図襖」(海北友松筆) → 紙本墨画 十二面

三 「狩野探幽」を中心にしての年譜(主要画人との関連年譜)

天正十八年(一五九〇)     狩野永徳没(一五四三~)
慶長七年(一六〇二)   一歳 狩野探幽出生(~一六七四)
同 八年(一六〇三)      江戸開府
同十五年(一六一〇)      長谷川等伯没(一五三九~)
元和元年(一六一五)      海北友松没 (一五三三~)  
寛永三年(一六二六)      この頃俵屋宗達「風神雷神図屏風」を描く
寛永十二年(一六三五) 三十四歳 江戸にて江月宗玩より「探幽斎」の号を与えられる。
同 十五年(一六三八) 三十七歳 剃髪して「法眼」となる。
同 十七年(一六四〇) 三十九歳 日光「東照宮縁起絵巻」完成。
同 十八年(一六四一) 四十歳  大徳寺本坊方丈に「山水図」襖絵を描く。
万治元年(一六五八)      尾形光琳出生(~一七一六)
正保四年(一六四七)  四十六歳 江戸城本丸・西の丸・黒書院などに障壁画を描く。
明暦三年(一六五七)  五十六歳 西本願寺黒書院の障壁画などを描く。
寛文二年(一六六二)  六十一歳 後水尾院の尊影を描き「筆峰大居士」の画印を賜る。また「法印」に叙せられる。
同 四年(一六六四)  六十三歳 河内国に知行二百石を拝領。
同 七年(一六六七)  六十六歳 安信ら画『四時幽賞』刊。『富士山図』を描く。
同 十年(一六七〇)  六十九歳 痛風を病む。翌年本復する。『波濤群燕図』を描く。
延宝二年(一六七四)  七十三歳 十月没、池上本門寺に葬られる。
享保元年(一七一六)      尾形光琳没(一六五八~) 
同(正徳六年)         伊藤若冲出生(~一八〇〇)
同               与謝蕪村出生(~一七八三)
享保十八年(一七三三)     円山応挙出生(~一七九五)
宝暦二年(一七五二)       松村月渓(呉春)出生(~一八一一)
宝暦十年(一七六〇〉       葛飾北斎出生(~一八四九〉
宝暦十一年(一七六一)      酒井抱一出生(~一八二九)
寛政七年(一七九五)      鈴木其一出生(~一八五八)
タグ:探幽
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江戸の「金」と「銀」の空間(その六) [金と銀の空間]

(その六) 呉春の「銀(浅黄地絹本)」(白梅図屏風)と蕪村・応挙の影

白梅図一.jpg

 呉春筆「白梅図屏風」六曲一双 浅黄地絹本淡彩 (右隻)
 各隻 一七五・五×三七四・〇cm 落款 各隻「呉春写」 印章 二顆(印文不明)
 逸翁美術館蔵

白梅図二.jpg

呉春筆「白梅図屏風」六曲一双 浅黄地絹本淡彩 (左隻)
 各隻 一七五・五×三七四・〇cm 落款 各隻「呉春写」 印章 二顆(印文不明)
 逸翁美術館蔵
【 梅林で梅の木をよく眺めた上で、この屏風を見ると、よくもこれだけに描いたものと驚くほかはない。青い布を貼って描かれたこの梅は薄暮に、幹は黒ずんでゆき白い花だけが浮き出して来ることを作者は充分計算に入れて描いたものと思われる。馥郁たる匂いをただよわせる白梅がやがて夜の闇に閉ざされてゆく現実の梅林に立つ思いがする。 】
(『呉春 財団法人逸翁美術館』)

 俳人・夜半亭二世蕪村(夜半亭一世=夜半亭宋阿=早野巴人)の後継者は、高井几董(夜半亭三世)で、画人・与謝蕪村の後継者は、上記の「白梅図屏風」の作者、呉春(松村月渓)その人ということになろう。

 「蕪村と呉春そして応挙」については、下記のアドレスなどで、陰に陽に触れている。

http://yahan.blog.so-net.ne.jp/archive/c2306120300-1

 ここでは、それらの三者関係については、末尾に、上記のアドレスものの「抜粋」などを記述することにして、それらを省略し、上記の「白梅図屏風」関連に絞って、これらの三者の関係について、以下、記述して行くこととする。

 この呉春「白梅図屏風」が、前回の蕪村筆「白梅紅梅図」(四曲一隻屏風=襖四枚改装)を念頭に置いたということは、画人・蕪村の後継者としての所業として、一点の疑問を挟む余地もなかろう。
 ここに付け加えることとしたら、蕪村が絶命するときの、その臨終の三句のうちの一句「白梅の吟」を書き留めたのは、まさしく、呉春その人なのである。

 しら梅に明くる夜ばかりとなりにけり  (蕪村の絶吟)

 とすると、これは、上記の「白梅図屏風」の解説の、「青い布を貼って描かれたこの梅は薄暮に、幹は黒ずんでゆき白い花だけが浮き出して来ることを作者は充分計算に入れて描いたものと思われる。馥郁たる匂いをただよわせる白梅がやがて夜の闇に閉ざされてゆく現実の梅林に立つ思いがする」の、「薄暮の白梅」ではなく、「夜明けの白梅」と解すべきであろう。

 さらに、この「白梅図屏風」は、銀箔などの「銀地」ではなく、「青い布地」(浅葱色の粗い紬裂(つむぎぎれ)を貼り合わせたもの)に描かれており、これも「薄暮の白梅」や「月下の白梅」ではなく、薄っすらと浅葱色に変化して行く「夜明けの白梅」をイメージしてのものと思われる。
 その上で、この呉春の「白梅図屏風」は、蕪村の「金」(ゴールド)を背景とした傑作「紅白梅図屏風」(四曲一隻)に対して、それを「銀」(シルバー)に近い「浅葱色」をもって反転させ、蕪村に捧げたオマージュ(追慕)的作品と解したい。

 ここで、この呉春の「白梅図屏風」は、呉春の、もう一人の師である円山応挙の傑作「雪松図屏風」を念頭においての作品であるとする説を紹介して置きたい。

【 この画面構成(注・呉春の「白梅図屏風」)は明らかに応挙の「雪松図屏風」に倣っている。すなわち左右端中程下方から中央に斜めに土坡(どは)を配し、その向かって右隻に画面いっぱいに大木の白梅を一本写し、左隻には同じく画面いっぱいにやや小ぶりの二本の白梅を描いている。そして、その背景には紬地の浅葱色である。この画面構成の原本になった応挙の「雪松図屏風」は、その右隻の画面いっぱいに一本の雪松を配し、左隻には二本の雪松を描写し、さらにその背景には金泥や金砂子を活用した金色の濃淡の輝としている。両者は土坡の構成にいたるまでその画面構成が近似しているのである。 】(「聚楽2011№1円山応挙と呉春」所収「呉春の生涯と芸術(冷泉為人稿))

雪松図屏風.jpg

応挙筆「雪松図屏風」国宝 六曲一双 紙本淡彩 三井記念美術館蔵
各一五五・七×三六一・二cm

 それよりも、応挙には、「老梅図襖」(東京国立博物館蔵)、「松竹梅図障壁画(東本願寺・桜下亭)・「白梅図襖(梅之間・北面)」そして「雪梅図襖・壁貼付」(草堂寺蔵)などの「梅図」関連の傑作障壁画が目白押しなのである。

雪梅図襖.jpg

応挙筆「雪梅図襖・壁貼付(部分画)」(草堂寺蔵) 

 上記は、下記のアドレスの、「芦雪指頭画」で触れた、草堂寺(南紀白浜・富田)の応挙の障壁画であるが、これなども、年代的に、呉春は、いわゆる、円山応挙工房で、これらの制作過程などを実見する機会は多々あったことであろう。

http://yahan.blog.so-net.ne.jp/2017-09-17

 こうしたことからすると、「この『白梅図屏風』を蕪村の方から見ると、蕪村との決別を表象する作品と考えられ、応挙の側から見ると応挙画風への変容宣言ともとれるのである」
(「聚楽2011№1円山応挙と呉春」所収「呉春の生涯と芸術(冷泉為人稿)ということも、やはり、肯定的に解すべきものなのかも知れない。

(抜粋)

http://yahan.blog.so-net.ne.jp/archive/c2306120300-1

 月渓が呉春と改号した翌年、天明三年(一七八三)十二月二十五日に蕪村が没する(呉春、三十二歳)。蕪村没後の夜半亭社中は、俳諧は几董、そして、画道は呉春が引き継ぐという方向で、呉春も、漢画・俳画の蕪村の師風を堅持している。
 天明六年(一七八六)に、呉春の良き支援者であった雨森章迪が没し、その翌年の天明七年(一七八七)に、呉春は応挙を訪うなど、応挙の円山派への関心が深くなって来る。
 その翌年、天明八年正月二十九日、京都の大火で呉春の京都の家(当時の本拠地は摂津池田)が焼失し、偶然にも避難所の五条喜雲院で応挙と邂逅し、暫く応挙の世話で二人は同居の生活をする。
 この時、応挙が呉春に「御所方や御門跡に出入りを希望するなら、狩野派や写生の画に精通する必要がある」ということを諭したということが伝えられている(『古画備考』)。
 これらが一つの契機となっているのだろうか、明けて寛政元年(一七八九)五月、池田を引き払い、京都四条を本拠地としている。そして、その十二月、俳諧の方の夜半亭を引き継いだ、呉春の兄貴分の盟友几董が、四十九歳の若さで急逝してしまう。
 ここで、呉春は画業に専念し、応挙の門人たらんとするが、応挙は「共に学び、共に励むのみ」(『扶桑画人伝』)と、師というよりも同胞として呉春を迎え入れる。その応挙は、寛政七年(一七九五)に、その六十三年の生涯を閉じる。この応挙の死以後、呉春は四条派を樹立し、以後、応挙の円山派と併せ、円山・四条派として、京都画壇をリードしていくことになる。
 呉春が亡くなったのは、文化八年(一八一一、享年六十)で、城南大通寺に葬られたが、後に、大通寺が荒廃し、明治二十二年(一八八九)四条派の画人達によって、蕪村が眠る金福寺に改葬され、蕪村と呉春とは、時を隔てて、その金福寺で師弟関係を戻したかのように一緒に眠っている。
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江戸の「金」と「銀」の空間(その五) [金と銀の空間]

(その五) 抱一の「銀」(紅白梅図屏風)と蕪村の影

紅白梅図屏風.jpg

酒井抱一「紅白梅図屏風」六曲一双 紙本銀地着色 各一五二・五×三一九・六cm
出光美術館蔵
【『光琳百図』に掲載された金地『紅白梅図屏風』を参考にしているが、白梅の瀟洒な造形などには抱一の生き生きとした解釈があふれている。屏風は折り畳むと互いに接触し、長い時を経るとその接触面に顔料痕跡がつく。本図の顔料痕は通常とは逆の面にあるため、当初は裏絵として今とは逆に折り畳まれていたようだ。表絵は光琳の金地の作品だったのだろうか。】
(『別冊太陽 酒井抱一 江戸琳派の粋人』所収「抱一と銀(宗像晋作稿)」)

 上記の解説文の「当初は裏絵として今とは逆に折り畳まれていたようだ。表絵は光琳の金地の作品だったのだろうか」と、ここにも、抱一は、「金」の「表絵」に対して、「銀」の「裏絵」を以て、丁度、俳諧(連句)用語ですると、「反転」(「反転法」による「反転」)させているということになろう。
 この「反転の法」というのは、抱一が追慕する蕉門筆頭格の俳人、「江戸座の創始者・宝井其角」が、その『句兄弟』で編み出したところのもので、これを多用した俳人の筆頭こそ、「芭蕉に帰れ」の「中興俳諧」の祖の一人になっている、「与謝蕪村」その人である。
 そもそも、抱一は、俳号を「白鳧(フ)・濤花、後に杜陵(綾)」と称し、宝井其角を祖とする江戸座(馬場存義門)の俳人で、文化九年(一八一二)には自撰句集『屠龍之技』を刊行している。
 また、文化三年(一八〇六)には、抱一は追慕する宝井其角の百回忌にあたって、其角の肖像(百幅)を描き、そこに其角の句を付け知人に配っているのである。これが一つの契機になって、まもなく迎える光琳の百回忌を大々的に興行することと結びついて行くこととなる。
 これらのことについては、次のアドレスで触れている。

http://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-01-22

 そこで、下記のとおり、画・俳二道を究めた「与謝蕪村」と「江戸琳派の創始者・酒井抱一」とは、「画」の面においては「南画」と「琳派」と違いはあるが、「俳」の世界においては、「宝井其角」に通ずる「江戸座」の俳人として、同一門の俳人ということになろう。

【 抱一の「略年譜」(『別冊太陽 酒井抱一 江戸琳派の粋人』所収)の「安永六年(一七七七)十七歳」に、「六月一日、抱一元服、この頃、馬場存義に入門し俳諧をはじめる。九月十八日、忠以の長男忠道が出生し、抱一の仮養子願いが取り下げられる」とあり、浮世絵と共に、抱一は、早い時期から、俳諧の世界に足を踏み入れていたということになる。
 この略年譜に出て来る馬場存義(一七〇三~一七八二)は、蕉門の筆頭格・宝井其角の江戸座の流れを継承する代表的な宗匠で、恐らく、俳号・銀鵝(ぎんが)、茶号・宗雅(しゅうが)を有する、第二代姫路藩主、第十六代雅楽頭、抱一の兄の酒井家の嫡男・忠以(ただざね)との縁に繋がる、謂わば、酒井家サロン・サークル・グループの一人であったのであろう。
 この抱一と関係の深い存義(初号=康里、別号=李井庵・古来庵・有無庵等)は、蕪村の師の夜半亭一世(夜半亭宋阿)・早野巴人と深い関係にあり、両者は、其角門で、巴人は存義の、其角門の兄弟子という関係にある。
 それだけではなく、この蕪村の師の巴人が没した後の「夜半亭俳諧」というのは、実質的に、この其角門の弟弟子にあたる存義が引き継いでいるという関係にある。】
抱一の「略年譜」(『別冊太陽 酒井抱一 江戸琳派の粋人』所収)の「安永六年(一七七七)十七歳」に、「六月一日、抱一元服、この頃、馬場存義に入門し俳諧をはじめる。九月十八日、忠以の長男忠道が出生し、抱一の仮養子願いが取り下げられる」とあり、浮世絵と共に、抱一は、早い時期から、俳諧の世界に足を踏み入れていたということになる。
 この略年譜に出て来る馬場存義(一七〇三~一七八二)は、蕉門の筆頭格・宝井其角の江戸座の流れを継承する代表的な宗匠で、恐らく、俳号・銀鵝(ぎんが)、茶号・宗雅(しゅうが)を有する、第二代姫路藩主、第十六代雅楽頭、抱一の兄の酒井家の嫡男・忠以(ただざね)との縁に繋がる、謂わば、酒井家サロン・サークル・グループの一人であったのであろう。
 この抱一と関係の深い存義(初号=康里、別号=李井庵・古来庵・有無庵等)は、蕪村の師の夜半亭一世(夜半亭宋阿)・早野巴人と深い関係にあり、両者は、其角門で、巴人は存義の、其角門の兄弟子という関係にある。
 それだけではなく、この蕪村の師の巴人が没した後の「夜半亭俳諧」というのは、実質的に、この其角門の弟弟子にあたる存義が引き継いでいるという関係にある。 】

 さて、与謝蕪村の、俳人としてのスタートとは、寛保四年(延享元年=一七四四、二十九歳、)の『宇都宮歳旦帖』に於いてであるが、画人としてのスタートは、それに前後しての、次の「結城・弘経寺」での、「梅花図(墨梅図)」などが挙げられよう。

墨梅図.jpg

蕪村筆「梅花図(墨花図)」紙本墨画淡彩(元襖絵四面=捲り画四枚) 各一三七・五×七一・五cm  弘経寺蔵

 上記の、二十歳代の「梅花図(墨梅図)」以来、どれほどの、このような画題を、蕪村が制作したものなのかどうか、もはや、例えば、『蕪村全集第六巻 絵画・遺墨(尾形仂・佐々木丞平)・岡田彰子編)』を丹念に見ただけでも、想像を絶するものがある。
 そして、その頂点が、次の、安永七年(一七七八、六十三歳)以降の作とされている晩年の「白梅紅梅図」ということになろう。
 そして、これは、蕪村にしては珍しく、「金(ゴールド)」の「紅白梅図」で、この蕪村の、「金(ゴールド)」に対峙出来る、「銀(シルバー)」のものは、冒頭の抱一の「「紅白梅図屏風」以外には見出し難いであろう。

城梅紅梅図.jpg

与謝蕪村「白梅紅梅図」四曲一隻屏風(襖四枚改装) 一六七・五×二八六・〇cm
款「夜半翁写於京華楼上」 印「謝春星」(白文方印) 「謝長庚」(白文方印)
角屋保存会蔵
 ↑
http://archive.fo/3etH5#selection-229.0-564.1
 ↓
美の巨人たち 与謝蕪村『紅白梅図屏風』 2014.04.26

角屋さんはこの建物そのものが重要文化財。
一歩中へ入れば意匠をこらし贅の限りを尽くした設え。
扇の間には天井一面に見事な扇絵が貼りめぐらされています。
この角屋さんに謎めいた作品があるのです。
作者は与謝蕪村。
江戸中期に京都で活躍した文人画の巨人です。
それがこちら。
黄金を背景に怪しげな幹がうねるように伸びています。
あっ梅が咲いている。
江戸寛永年間よりこの地で店を構えていた角屋は粋な旦那衆が集まるサロンのような場所でした。
では今日の作品が描かれた230年ほど前にタイムスリップした気分でご覧いただきましょう。
縦167センチ横286センチ。
4曲の屏風です。
これもまた…。
金箔地に描かれているのは4本の梅の木。
隣同士の木々が重なり合い複雑な構図になっています。
根元から四方に分かれた幹は朦朧としてまるで影絵のよう。
対照的にそこから伸びる枝は鋭く確かな筆致で描かれています。
その枝先で咲き誇る可憐な白梅。
一輪一輪おしべやめしべ赤褐色の萼まで丁寧に描きこまれているのです。
金地に映える白梅の白。
とその傍らにまだつぼみの紅梅が1本だけ。
白と赤の絶妙なバランス。
その幻想的な描写のなかにほのかな梅の薫り。
与謝蕪村の住居跡があります。
彼が生きた18世紀の京都はまさにルネサンスのような時代でした。
強烈な個性を持った絵師たちが同じ時代同じ街で腕を競い合っていたのです。
ですからこんな人がいたかもしれませんよ。
はぁ…またやられてもうた。
わては絵師の先生方に御用を聞いて回る商人なんです。
もともとは岩絵具をお売りしてたんですがやれ筆を持ってこい!紙を持ってこい!といつの間にか…。
絵師の先生方を相手の商売っちゅうんはホンマ大変ですわ。
曾我蕭白先生のお宅にお代をいただきにうかがったんですがもぬけの殻。
いつもの放浪癖ですわ。
また踏み倒されてしまいました。
ほな行ってくるわ。
今日は蕪村先生のところへ御用を伺いに行きます。
蕪村先生は小さな長屋に奥様とかわいいお嬢さんと慎ましく暮らしてはります。
お人柄はいいんですがものすごいこだわりがおありで筆や刷毛そして紙や墨にもこだわりはります。
どの紙にどの筆を使ってどういうふうに描いたらいいのか。
まるで何かの実験をしてはるみたいですわ。
でも先生の絵には不思議な魅力がありますな。
近所にお住まいの円山応挙先生の絵はまるで本物というかそれ以上に迫力があります。
蕪村先生の絵は簡単に描いてはるように見えますがちゃんと雰囲気を掴んではってそれでいて絵に温かみがあるっちゅうか心の奥のほうがほんわかしますのや。
だからわて蕪村先生のお宅に伺うのがいつも楽しみなんですわ。
旦那様!はいはい!大変です!どないしたんや?七之助!若冲様が久しぶりに鶏が描きたいとおっしゃられてもういつもムチャばっかりおっしゃるんやから。
こないなところにおるかいな!ほらほら!鶏や鶏や!与謝蕪村は絵の世界を遊ぶように旅した人です。
心のおもむくままに新しい画風を追い求めました。
最後までこだわったのは質感と光。
今日の作品にもそれが色濃く反映されています。
ところが謎も多いのです。
なぜ金箔を選んだのか?なぜ梅だったのか?なぜ幹がぼんやりとしていて枝はくっきりと描かれているのか。
白梅は満開なのになぜ紅梅はつぼみなのか。
その一つひとつを検証していくと蕪村の恐るべき狙いが見えてきたのです。
それはいったい何か?与謝蕪村の代表作『夜色楼台図』は日本美術史上初めて描かれた都市の夜景です。
夜の雪の中窓にほんのり差された朱色は行灯の光です。
微細な光が織り成す人々の営みの寂寥とぬくもり。
そう今日の作品にも巧みな光の表現が隠されているのです。
与謝蕪村は松尾芭蕉小林一茶と並ぶ江戸時代を代表する俳人です。
絵師の道を志したのは旅の僧として長い漂泊の日々を送っていた20代後半の頃だといわれています。
蕪村には絵の師匠はいません。
やまと絵や中国画古今東西の名画を模倣し独学で自らの画風を築き上げていきます。
そのなかでとりわけ強く興味を引かれたのが多様な筆致の表現でした。
擦れた筆のままスーッと描くとそれは厳しく険しい山肌となり。
輪郭を描かずただ墨の点を重ねていくと幽玄な山の佇まいに。
下敷きを敷かずに畳の上で直接描くと浮かび上がった畳目はゴツゴツとした岩肌へと変貌を遂げます。
蕪村は…。
蕪村にとって不自由さこそが新たな世界の発見でした。
40歳を過ぎた頃蕪村は京に移り妻をめとりささやかな家庭を持ったのです。
先生のこだわりは半端じゃありません。
以前こんな話を聞いたことがあります。
あるとき先生が突然富くじを買ってきたことがあったそうです。
不思議に思ったお弟子さんが当たったら何に使うのかと尋ねたところ先生はどうしても絖張りで屏風を描きたいからそれを買いたいとおっしゃったそうです。
絖というのは独特な光沢のある絹糸で織られた生地でとても高価なんですわ。
不憫に思ったんかそれ以来お弟子さんたちがお金を出し合って高価な画材を先生に提供するようになったそうです。
蕪村は描く紙や生地がもつ光沢や質感までも自分の表現に取り込んでいきます。
そんななか出会ったのです。
魅力的で不自由な素材に。
旦那様大変です!どないしたんや?蕪村様が金箔が欲しいっておっしゃってます。
蕪村様が金箔を?今日の作品…。
金箔地に4本の梅の木が描かれています。
幹は朦朧としていてまるで影絵のよう。
対照的に枝はくっきりと墨で描かれています。
これには理由があるのですがそれはまたのちほど。
白梅の花びらには胡粉を。
紅梅には臙脂が使われています。
金箔と墨は決して相性はよくありません。
そのまま描くと表面の油分が墨を弾いてしまうからです。
蕪村はこの不自由な金箔のどこに惹かれたのか?っていうところに蕪村のこだわりがあると思われるんですけれども1つには…。
1つにはそこに白梅を描いたということも。
白い梅の花を白い紙に描くと墨で輪郭線をとっていくだけになるんですけれども…。
まるで梅林にいるような雰囲気がかもし出されるんですね。
蕪村は白梅の優美ではかなげな白をより生かすために不自由な金箔を選んだのかもしれません。
与謝蕪村は60歳を過ぎてなお独自の画風を突き詰めていきます。
風雨に立ち向かう鳶と降りしきる雪に耐え忍ぶ2羽の烏。
雪は塗り残しという技法で描かれています。
ひと粒ひと粒の不規則な形が舞い落ちる動き反射する光の揺らめきまでも感じさせます。
これは冬の富士を描いた作品。
視線を右から左へ動かしていくとなぜか左端の松林だけが薄く描かれています。
実はこれ時雨です。
蕪村は濃淡を使って突如降り出した通り雨を表現したのです。
見逃してしまいそうな繊細な光。
まるで西洋の印象派のように蕪村は光を自在に描こうとしたのです。
金箔の注文をいただいてしばらくしたある晩。
わて蕪村先生のお宅に伺ったんです。
そしたら…。
暗い部屋の中に白い梅の花が
230年ほど前の夜は今よりもっと深いものだったでしょう。
描かれた当時の光のもとではどう見えるのか?そうこの絵はわずかな光のなかで向き合ってこそ本当の意図がわかるのです。
果たして蕪村の狙いとは何か?京都にある北野天満宮は梅の名所です。
見頃の時期には境内に植えられた1,500本もの梅が咲き乱れます。
俳人でもあった蕪村は多くの梅の句を詠んでいます。
今日の作品もまた梅です。
与謝蕪村はこの絵にどんな思いを込めたのか。
さてこんな実験をしてみました。
作品が描かれた当時の夜の灯りで照らすと果たしてこの絵はどう見えるのか?江戸時代の灯りといえば当然ロウソクですが残念ながら重要文化財の建物内では火気厳禁。
そこでなるべく照明を離し可能なかぎり光量を落として撮影しました。
光源を離し光量を落としていくと…。
どうですわかりますか?サイズを変えてもう一度。
ほら白梅の花が浮かび上がってきました。
2つを並べてみるとその違いは歴然。
おそらく鮮やかな白梅の白を強調するために紅梅はつぼみでなければならなかったのでしょう。
その幻想的な画面からはほのかな梅の香り。
幹のもやもやっとした感じ…。
それに対して非常に鋭い枝。
下からの光に照らされてるような感覚じゃないかと思うんですよね。
提灯の灯りで夜の梅を見れば枝と花に光が当たり幹の部分はぼんやりと見えたのでしょう。
ほんのりと灯りに照らされた夜の梅。
その艶やかさと儚さ。
与謝蕪村光の集大成。
絵師の先生いうんは皆さん生き方も描きはる絵もさまざまですな。
応挙先生はほとんど画風は変えはりまへん。
それに対して蕪村先生はいろいろな絵を描きはります。
なんか頭の中で旅してはるみたいや。
花に例えたら応挙先生の絵は桜やな。
華やかでっしゃろ。
蕪村先生はやっぱ梅やな。
渋いっちゅうんかどこか哀愁がありますな。
旦那様大変です!応挙様が今度は幽霊を描きたいって。
どこにいるんでしょう?もう知らんがな!旦那様!応挙様がお待ちですって…。
旦那様!今日の作品を描いた3年後の冬蕪村はこの世を去りました。
辞世の句もまた梅。
春の訪れを告げるように鮮やかに咲き誇っています。
金箔に映える白梅の花。
その傍らにはまだつぼみの紅梅。
光の中で漂う梅のほのかな香り。
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