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「光琳・乾山そして蕪村」周辺覚書(その五) [光琳・乾山・蕪村]

その五  乾山の「絵画二」(花籠図)

乾山絵二.jpg

尾形乾山筆「花籠図」一幅 四九・二×一一二・五cm 重要文化財 福岡市美術館蔵(旧松永美術館蔵)

『乾山遺墨』(酒井抱一刊)によれば、十二枚屏風絵の一つと考えられ、現在その屏風絵は分散して残るものは少ない。この図はとくに優れ、乾山の画才が非凡で、卓越したことを証明する作品である。図上の歌に「花といへば千種ながらにあだならぬ色香にうつる野辺の露かな」 (『創立百年記念特別展 琳派(東京国立博物館)』 )

(メモ)

一 「花といへは千種なからにあたならぬ色香にうつる野辺の露かな」は、「三条西実隆」の歌である。

二 この歌の表記で「花といへは」の「へ」は平仮名の「へ」の表記である。「新佐野乾山」もので、「黒地白梅流水八寸皿」(『新発見「佐野乾山」展(「芸術新潮」主催」』頁8・昭和三十七年=一九六二 )に、「ちるはなをいとめてみたし水のうえ」(乾山発句)の賛がある(乾山筆)。この「うえ」の「え」の表記は、乾山の表記として、『創立百年記念特別展 琳派(東京国立博物館)』が開催された、昭和四十七年(一九七二)の頃から何となく気にかかっていたものの一つである。「へ」と「え」と「ゑ」の表記は、「俳諧(連句)・俳句」の世界では、非常に意を払う人が多い。

佐野乾山二.jpg


http://www.ab.cyberhome.ne.jp/~tosnaka/201107/kyouyaki_iroe_kenzan.html

「近世日本陶磁器の系譜」→「京焼色絵再考―乾山」

「『新発見「佐野乾山」展(「芸術新潮」主催」』頁8)では、上記の左の「黒地白梅流水八寸皿」は、モノクロであったが、上記のアドレスもので、カラーのものを目にすることが出来た。

二〇一八年五月二十六日(土)

これまで、主として連句・俳句の表記は、「水の上」は、「上」か「うへ」のものばかりで、
この時代(江戸中期)の発句の表記で、「うえ」は珍しい感じを受ける。また、上記の「花籠図」は、その落款から、乾山が江戸下向する六十九歳以降の作品とされている(下記五)。
そして、上記の「佐野乾山」もの(「黒地白梅流水八寸皿」)は、元文二年(一七三七・七十五歳)二月から翌年の三月にかけて一年二ヶ月の間で、両方とも、ほぼ、同年代(晩成期)のものなのである。
「花籠図」は、国の重要文化財に指定されているもので、こちらを「乾山の真蹟」とすると、この「黒地白梅流水八寸皿」のものは、やや異質という印象は付き纏う。

三 しかし、『西鶴新新攷』の著書を有する元禄文学(「西鶴・光琳・乾山の時代」)の権威者・野間光辰先達は、「新佐野乾山」肯定派のようで、何らかの別な観点からの見方があるのかも知れない。

四 たまたま、『西鶴新新攷(野間光辰著)p318』の中で、次の発句に遭遇した。(これは直接の参考にはならないが、何かしらの参考情報になるのかも知れない。)

(前書き) 形見嵐残置経本来之一(かたみにあらしのこしおくきやうほんらいのいち)
(発句)   きえてゆく身も月の名よ草の霜  


五 『原色日本美術14 宗達と光琳(山根有三著)』の「作品解説114」は次のとおり。

花籠図 尾形乾山筆 神奈川松永記念館 掛幅 紙本着色 京兆逸民紫翠深省 霊海印
 乾山は陶芸・書・顔で知られているけれども、かれが終生もっとも愛着と自信をもっていたのは書であった。書は人なりというように、内面的なもの、教養や人となりを直接に現わすので、古来の文人高士は諸芸のうちでもとくに書を重視していた。内省的で読書を好んだ乾山が書を重んじたのは当然であろう。早くも三十歳のころには、家風の光悦流を離れて本格的に中国の書を学び、みずみずしい一家の風をなした。乾山が陶器にも絵にも好んで書筆をとった大きな理由もそこにある。
 この図は乾山が自ら、《花といへは千種(ちぐさ)なからにあたならぬ色香にうつる野辺の露かな》と記すところから、『源氏物語』の「野分」の段より取材したと考え、三つの花籠は王朝女性の濃艶な姿を象徴するとみる説がある。それはともかく、この籠や草花の描写には艶冶(えんや)なうちに野趣があり、ひそやかになにごとかを語りかけてくるのは確かである。「京兆逸民」という落款からみても、乾山が江戸に下った六十九歳以後の作品となる。

六 この「京兆逸民」というのは、「京都からの隠棲者」というようことを意味するのかも知れないが、次のような「蕪村の出郷」と重なる。

「蕪村は父祖の家産を破敗(ははい)し、身を洒々落洛(しゃしゃらくらく)の域に置きて、神仏聖賢の教えに遠ざかり、名を沽(う)りて俗を引く逸民なり」(『嗚呼俟草(おこたりぐさ)・田宮仲宣著』)

七 蕪村が西国(大阪・京都)から江戸へと出郷したのは、享保二十年(一七三五)、二十歳の頃であるが、乾山が江戸へ下向したのは、享保十六年(一七三一)、六十九歳の時で、この時の乾山の心境は、まさに、落剝たる「京兆逸民」という思いであったであろう。

八 乾山の江戸下向は、表向きは、「輪王寺宮公寛法親王随い江戸下向」(『東洋美術選書 乾山(佐藤雅彦著)』)とあるが、その実態は、「兄(次兄)の光琳も没し、そして、長兄が継ぎ、光琳が引き継いだ隆盛を誇った『雁金屋』も破敗(ははい)し、『雁金屋』一族は、それぞれが身を洒々落洛(しゃしゃらくらく)の域に置き、いわゆる、「一家(一族)離散」というようなことが、陰に陽に何らかの糸が引いているような感じで無くもない。

九 ここで、蕪村は、元文二年(一七三七・二十二歳)に日本橋本石町の夜半亭(一世)宋阿(早野巴人)の内弟子になるが(実態は、宋阿と蕪村とは京都での出逢いがあり、その縁でのものと思われる)。この年、乾山(七十五歳)は、その近くの、上野の入谷で、陶・・画の制作を続けていたのであろう。

十 そして、この江戸下向、そして、江戸(入谷)・佐野時代には、乾山の養子となる「猪八」(仁清の妾腹の子)も同行していて、殊に、製陶関係については、乾山のスタッフとなっていたような記述もある(参考『東洋美術選書 乾山(佐藤雅彦著)』他)。

十一 先の「近世日本陶磁器の系譜」→「京焼色絵再考―乾山」に、次のような貴重な情報の紹介がなされている。

江戸時代

享保16年(1731年)69歳の時、輪王寺宮(注4)公寛法親王(東山天皇第三皇子)が江戸に下向する際に、法親王の孤独な趣味生活のお相手として同行して江戸に移りました。「小西家文書」によると、乾山は「王城の地を、自からのなせる不首尾のままに去りつる事、この上もなき、不屈者に候こと重々肝に命じ候」と、京都での生活をさびしくあきらめて、公寛法親王の仰せもあり、お供して江戸に下向することとなったようです。「自からのなせる不首尾」というのが何なのか明確にはわかりませんが、とにかく京都に居れないような重大な事件があったと想像されます。

江戸に着いた乾山は、兄の尾形光琳が江戸に居た時の寄寓先でもあった深川木場の材木商冬木屋に寄寓し、また、寛永寺領入谷(注5)に窯を築いて焼物を焼きました。乾山は、この数年後下野の佐野に一年余り逗留して作陶しましたが、公寛法親王の病気の知らせを聞いて佐野から急ぎ江戸に戻りました。佐野逗留を挟んだ江戸入谷における作品を「入谷乾山」と呼びます。

法親王は元文3年(1738年)3月に亡くなり、その後乾山は再び焼物を焼いたり絵を描いたりしていましたが、寛保3年(1743年)81歳で亡くなりました。『上野奥御用人中寛保度御日記』には「乾山は無縁の者で死後の世話をする者もなく、地主次郎兵衛なる者が葬式などの世話をし、上野宮より一両を費用として下された」と記してあったということです。
この次郎兵衛が江戸の二代乾山を襲名しました。乾山は81歳で亡くなる前、病床で次郎兵衛に「江戸伝書」や「佐野伝書」には記されていない陶技のコツを口述筆記させました(注6)。この伝書は代々の乾山に受け継がれましたが、六代三浦乾也の没後一時大槻如電が保管していましたが、その後行方不明になっています。

十二 上記の、「『上野奥御用人中寛保度御日記』には『乾山は無縁の者で死後の世話をする者もなく、地主次郎兵衛なる者が葬式などの世話をし、上野宮より一両を費用として下された』と記してあった」というのは、これが、今に轟く、江戸三大陶工の一人、「京兆逸民紫翠深省」こと、尾形乾山の「最期の実像」であったのであろう。

十三 「江戸三大陶工」は、乾山の他に、「野々村仁清・青木木米(もくべい)」で、この三人とも、京都の代表的な陶工である。そして、この青木木米は、蕪村の流れの文人画(日本南画)の傑出した画人の一人である。

(追記)先の「近世日本陶磁器の系譜」→「京焼色絵再考―乾山」掲載の「歴代乾山」は次のとおり。これからすると、乾山が江戸下向する時に、「猪八」は京都に残り、乾山と一緒の江戸下向は無いと解すべきなのであろう。

(参考)歴代乾山

初代乾山が江戸に下向して作陶したため、二代からは京都と江戸に分かれました。
初代乾山が著した「陶工必用」「陶磁製法」「乾山楽焼秘書」などが伝書として伝えられました。乾山はそれぞれの伝書の中で「他見無用」と秘伝であることを強調していたにも拘わらず、乾山の弟子や歴代の乾山から各地の陶器にその秘伝は伝えられました。猪八の弟子清吾から伊勢萬古焼の沼波弄山へ、6代三浦乾也から仙台堤焼の乾馬(庄司義忠)へ、4代抱一上人から江戸の隅田川焼、隅田川焼の佐原(梅屋)菊塢から京都の尾形周平(仁阿弥道八の弟)を介して摂津の桜井焼、播磨の東山焼、淡路の淡路焼などに乾山焼の伝統が伝えられたことは、むしろ喜ぶべきことでした。

      京都    江戸
初代 尾形乾山
二代 猪八(注7)   次郎兵衛(注8)
三代 清吾(注15)   宮崎富之助(注8)
(三代) 宮田呉介(注16)
四代       抱一上人(注9)
五代       西村藐庵(注10)
(六代)       玄々斎(注11)
(六代)      三浦乾也(注12)
六代       浦野繁吉(注13)
(七代)       バーナード・リーチ(注14)

(注7)猪八は乾山の養子で、鳴滝窯を手伝った二代仁清の息子(初代仁清の孫)です。聖護院窯を構えて乾山焼を続けました。

(注8)次郎兵衛と宮崎富之助は入谷の住人。初代乾山にはもう一人宮田彌兵という弟子がいました。

(注9)酒井抱一のこと。抱一は姫路藩主酒井忠仰の次男。尾形光琳に私淑して、琳派の雅な画風に俳味を取り入れた詩情ある洒脱な画風を作り上げ、江戸琳派の祖となりました。37歳で西本願寺の法主文如に随って出家しました。「陶法伝書」は宮崎富之助の妻はるから受け継ぎました。

(注10)西村藐庵(みゃくあん)は吉原江戸町二丁目の名主で、近衛三藐院(このえ-さんみゃくいん)流の書にすぐれ、茶・俳諧・陶芸などにも長じていました。

(注11)玄々斎は西村藐庵(みゃくあん)の次男で、一時六世乾山を襲名していたことが天保十三年(1842年)の『広益諸家人名録』の記述からわかります(書 陶工 乾山。名乾山号玄々斎。緒方深省六世。同所西院乾山藐庵次男)。
しかし、三浦乾也が六代乾山を襲名することになったため、弘化2年(1845年)頃藐庵と同業の吉原江戸町一丁目の名主竹島二左衛門の養子となりました。
藐庵が五代乾山を襲名したのが文政7年(1824年)でしたので、文政年間の後半から天保年間にかけては、玄々斎が六代乾山であったと推測されます。

(注12)三浦乾也は江戸の銀座で徳川家御家人の長男として生まれました。3歳の時父の姉夫婦である井田吉六・タケに引き取られましたが、吉六は江戸焼物を代表する陶工で、将軍家斉(第11代)の前で席焼を行うような名工でした。乾也はその吉六から製陶の手ほどきを受けました。
15歳の時西村藐庵と出会い乾山流陶法を学びました。弘化2年(1845年)24歳で六代乾山を襲名しますが、嘉永6年(1853)浦賀に入港したペリー率いる黒船を見て造艦の必要性を幕府はじめ諸藩に説きました。その後幕末の動乱に巻き込まれて波乱の人生となります。安政元年(1854年)には幕府から命じられ、勝安房(海舟)と共に長崎に行き、オランダ人に洋船製造技術を学びました。更に、安政3年(1856年)には仙台藩に造艦棟梁として招かれ、我が国初の洋式軍艦『開成丸』の建造にあたりました。明治になってからは東京に住んで陶工としてその名を馳せましたが、六代乾山を名乗ることを許されていたにも拘わらず、恐れ多いと生涯乾山の名を用いなかったそうです。

(注13)三浦乾也の弟子の浦野繁吉は、師匠の乾也さえ称えなかった六代乾山を弟子の自分が名乗るのはおこがましいと再三辞退しました。しかし、尾形家(尾形圭助)の養子となっていたので、乾山流陶法の保存の意味で六代乾山を継いだそうです。圭助は乾山の後裔で、東京都町田市の円福寺の過去帳には乾山以来数代の記載があるそうですが、歴史上は乾山は生涯独身だったと考えられています。なお、繁吉は元今戸焼の陶工でした。

(注14)イギリス人の陶芸家バーナード・リーチは浦野繁吉に師事しましたが、繁吉亡き後(大正12年没)昭和44年に娘の尾形奈美(乾女:画家で陶芸家)や乾山顕彰会と計らって、乾山の号は第六代を以て完結することとしたため、リーチは正式には七代目乾山とは名乗っていません。

(注15)清吾は猪八の弟子で、猪八から自筆の陶法伝書を授けられたと言われています。後に桑名の商人沼浪弄山と懇意になり、弄山に猪八の伝書を伝え、これをもとに弄山は伊勢萬古焼を創始しました。

(注16)宮田呉介(弥兵衛)は、文化・文政・天保年間に京都で作陶しました。猪八とは時代的に隔たりがあり、一説によると「勝手に三代乾山を名乗っていた(自称)」ということです。天保年間に京都で乾山の100回忌を開き、かつて乾山が窯を開いた鳴滝の土を用いて追福の香合を百個作陶しました。

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