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「光琳・乾山そして蕪村」周辺覚書(その八) [光琳・乾山・蕪村]

その八 乾山の「角皿二」(「定家詠十二ケ月和歌花鳥図角皿」)

乾山皿二.jpg

(表)「定家詠十二ケ月和歌花鳥図角皿」の「十二月」(フーリア美術館蔵)

乾山皿二の一.jpg

(裏)「定家詠十二ケ月和歌花鳥図角皿」の「十二月」(フーリア美術館蔵)
Square dish with design after Fujiwara Teika, Poems of the Twelve Months, twelfth month
Type Square dish (kakuzara)
Maker(s) Artist: Ogata Kenzan (1663-1743), Narutaki workshop (active 1699 - 1712)
Historical period(s) Edo period, 1699-1712
Medium Buff clay; enamels, white slip, and iron pigment under transparent lead glaze
Dimension(s) H x W: 2.4 x 16.9 cm (15/16 x 6 5/8 in)

(メモ)

一  上記の『裏面』の読みは次のとおり。

十二月 早うめ  
色うつ(づ)むかきねの
雪の花なか(が)ら年のこ
なたに匂ふ梅が枝(※え)
水鳥 なか(が)めする池の
氷にふる雪のかさ
なる年を鴛(をし)の毛衣

二 先に紹介した下記の「新佐野乾山」の「黒地白梅流水八寸皿」の賛「ちるはなをいとめてみたし水のうえ」)の「みずのうえ」は、この「梅が枝(え)」と同じような用例なのであろうか(?)

佐野乾山二.jpg

(新佐野乾山「黒地白梅流水八寸皿」の賛「ちるはなをいとめてみたし水のうえ」)

三 この「定家詠十二ケ月和歌花鳥図角皿」は、「MOA美術館蔵」の十二枚一組の作品の、その「十二月」の裏面に、下記のとおり「元禄十五年《一七〇二》」の落款が施されており、
乾山が、四十歳の頃の作品ということが分かる。すなわち、乾山が鳴滝に開窯した頃の初期の作品で、当時の人気作品ということになる。この種のものは、「表」面の図柄も、「裏面」の和歌の散らし書きも、そのシリーズもので、それぞれ微妙に異なっている。

乾山皿二の二.jpg

「定家詠十二ケ月和歌花鳥図角皿」(MOA美術館蔵)の「十二月」の裏面

四 「乾山窯」(乾山工房)における乾山の役割は、「プロデューサ(製作者)兼ディレクター(監督)兼クリエイター(創作者)」というゼネラリストととしてのそれで、例えば、光琳は「クリエーター」(「絵付け」のスペシャリスト)ということになる。そして、この「定家詠十二ケ月和歌花鳥図角皿」での乾山の役割は、この「角皿」の全体の枠組みを考案し、さらに、その「陶法」(白絵具の技法・応用など)を編み出し、それを作陶者(陶工者)や絵付師に指示し・監督し、製品を作り上げるということになろう。そして、この角皿では、「裏面」の和歌を散らし書きしなどを、担当したということになろう。

五 この「定家詠十二ケ月和歌花鳥図角皿」は、狩野探幽の「定家詠十二ケ月和歌花鳥図画帖」をモデルにして、乾山が考案したものなのであろう。
http://www.nagoya-boston.or.jp/exhibition/past/vessels-201102/point.html


乾山皿二の三.jpg

六 ちなみに、この『定家詠十二カ月』は、藤原定家の自撰歌集『拾遺愚草』の中の「後仁和寺宮花鳥」として収められる、次の月次(つきなみ)の二十四首である。

●一月(正月): 柳竹に鶯
うちなびき春くるかぜの色なれや日をへてそむる青柳の糸
春きてはいく世もすぎぬ朝戸いでに鶯なきゐる里の群竹

●二月(如月): 桜に雉

かざし折るみちゆき人のたもとまで桜に匂うきさらぎの空
かり人の霞にたどる春の日をつまどふ雉のこゑにたつらん

●三月(弥生): 菫に雲雀

ゆく春のかたみとやさく藤の花そをだに後の色のゆかりに
すみれさくひばりの床にやどかりて野をなつかしみくらす春かな

●四月(卯月): 卯花に郭公

白妙の衣ほすてふ夏のきてかきねもたわにさける卯花
郭公しのぶの里にさとなれよまだ卯の花のさ月待つ比

●五月(皐月): 橘に水鶏

ほととぎすなくや五月のやどがほにかならず匂う軒の橘
まきの戸をたたくくひなのあけぼのに人やあやめの軒のうつり香

●六月(水無月): 撫子に鵜飼

大かたの日影にいとふ水無月の空さえをしきとこなつの花
みじか夜のう河にのぼるかがり火のはやくすぎ行くみな月の空

●七月(文月): 女郎花に鵲
 
秋ならでたれにあひみぬをみなえし契りやおきし星合の空
ながき夜にはねをならぶる契とて秋待ちたえる鵲のはし

●八月(葉月): 萩に雁
 
秋たけぬいかなる色と吹く風にやがてうつろふもとあらの萩
ながめやる秋の半もすぎの戸にまつほどしきる初かりのこゑ

●九月(長月): 尾花に鶉

花すすき草のたもとの露けさをすてて暮ゆく秋のつれなさ
人目さへいとど深草かれぬとや冬まつ霜に鶉なくらん
 
●十月(神無月): 残菊に鶴(たづ)

神無月しも夜の菊のにほはずは秋のかたみになにをおかまし
夕日影むれたつたづは射しながら時雨の雲ぞ山めぐりする

●十一月(霜月): 枇杷に千鳥

冬の日は木草のこさぬ霜の色を葉がへぬ枝の花ぞまがふる
千鳥なく賀茂の河せのよはの月ひとつにみがく山あゐの袖

●十二月(師走): 早梅に鴛鴦

色うづむかきねの雪の花ながら年のこなたに匂ふ梅がえ
ながめする池の氷にふる雪のかさなる年ををしの毛ごろも
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「光琳・乾山そして蕪村」周辺覚書(その七) [光琳・乾山・蕪村]

その七 乾山の「角皿一」(「銹絵観鴎図角皿」)

銹絵観鴎図角皿(さびえかんおうずかくざら)
1口 陶器 尾形光琳・深省合作(おがたこうりん・しんせい) 高2.9 縦横22.1 江戸時代 18世紀 重文  東京国立博物館蔵
尾形光琳の弟尾形深省は元禄12年に京都の鳴滝に窯を開き,作品には「乾山」の銘款を付けた。乾山焼の中でも兄光琳が絵付をした兄弟合作の作品は特に名高く,この角皿もその代表作である。中国宋代の詩人黄山谷が鴎を眺めている図を光琳が軽妙な筆致で描き,裏面には深省が見事な筆で銘款を記している。

http://www.tnm.jp/modules/r_collection/index.php?controller=dtl&colid=G32


乾山皿一.jpg

(「寂明光琳畫」)

乾山皿一の一.jpg

(「大日本国陶者雍州乾山陶隠深省製于所屋※尚古亝※(斎)」)

乾山皿一の二.jpg



www.emuseum.jp/detail/100517/000/000?mode=simple&d_lang=ja&s_lang=ja&word=%E5%85%89%E7%90%B3&class=&title=&c_e=®ion=&era=¢ury=&cptype=&owner=&pos=1&num=7

尾形光琳の弟深省は、元禄12年(1699)に京都近郊鳴滝の地に陶窯を開き、以来陶工として生きた。そしてその地が都の乾(いぬい)(北西)の方角にあたることから陶号を乾山(けんざん)と称し、作品に乾山の銘を書したので、世上乾山焼と呼ばれた。
そうした乾山焼のなかに、兄光琳が下絵付けした兄弟合作品があり、光琳の絵画としても優れた作品があることから声価が高く、それらは主として宝永6年(1709)から正徳6年(1716)の間に焼造されたことが近年明らかになってきた。
この作品は、そうした兄弟合作品の一つで、型造り方形の白化粧下地楽焼質の皿の見込みに、宋代の詩人黄山谷観鷗の図を光琳が鉄呉須(てつごす)で下絵付けし、裏面には乾山が「大日本国陶者雍州乾山陶隠深省製于所※(居)尚古※(斎)」の銘文を同じく釉下に書しており、立ち上がった縁の外側には雲唐草、内側には枠取りした牡丹文と雲唐草が描かれている。光琳の絵には「寂明光琳(花押<かおう>)」の署名があり、その署名や花押から宝永6年から正徳2年の間の作と推定されている。
この種の兄弟合作銘角皿は20点ほど知られているが、なかにあって光琳の軽妙な筆致もさることながら、裏面に大書された乾山の銘文の見事さと併せて、合作品中の代表作として名高い。明治11年(1878)に当館が購入したもので、昭和59年度に重要文化財に指定された。

別称「墨絵黄山谷観鷗図」(『原色日本美術14 宗達と光琳(山根有三著)』の「作品解説115」) 
光琳筆 乾山作 東京国立博物館蔵 角皿 寂明光琳画 乾山銘 縦二二・〇cm 横二二・一cm 高三・〇cm
【 この角皿はもっぱら絵付のために乾山が考案したと思われるもの。絵は「寂明光琳畫」の落款から明らかなように光琳の筆で裏面に「大日本国陶者雍州乾山陶隠深省製于所※(屋)尚古亝(※斎)」という長い乾山の銘がある。絵は水墨画で好まれた画題で、中国宋時代の有名な詩人、黄山谷(こうざんこく)が鷗(かもめ)をみて詩を作るところ描く。観る者の目は光琳の落款から黄山谷へ、そして、鷗へと動く。また、黄山谷から鷗や落款へと動くといってもよい。まことに気のきいた構図で、筆致も簡略ながら巧みに、人物の表情や姿態をとらえ、しっとりとした味わいがある。乾山がその『陶法伝書』で、「最初の絵は皆々光琳自筆」と書いているのと、光琳の落款が「法橋光琳」となっていないので、元禄十二年(一六九九)末に鳴滝窯を始めてまもなく、光琳が法橋になる元禄十四年以前の作とされてきた。しかし当時の光琳の絵はこれほど情趣的ではない。裏の乾山の堂々とした書風も宝永末(一七一〇)のものに近いから、そのころ江戸から上京した光琳が窮地に陥っていた乾山焼を助けるために描いたと考える。光琳が「寂明」の号を用いたのもその頃である。裏面の長い乾山銘には、かれの衒学(げんがく)的な臭味も感じられるが、得意な書を楽しんだものとみたい。乾山焼は光琳の絵付と乾山の書のある陶器ということで評判を得ていたのであろう。 】 (注) ※=異体字

(メモ)

一 「光琳・乾山合作」ものの、重要文化財指定のものである。上記のとおり、この作品を東京国立博物館が購入したのは、明治十一年(一八七八)のことという。この前年に西南戦争があり、この年に大久保利通が暗殺された年で、フェノロサが来日した年である。
後に、フェノロサは、日本の重要美術品の海外流失などに関し毀誉褒貶の評価を受けるが、この頃から、そういう風潮が根差していたのかも知れない。

二 「光琳・乾山合作」ものは、元禄十二年(一六九九)に乾山が鳴滝に開窯してから、宝永元年(一七〇四)に光琳が江戸へ下向する、鳴滝時代の「鳴滝乾山」(鳴滝自窯)と、宝永六年(一七〇九)に光琳が帰京してから没する享保元年(一七一六)までの、二条(丁子屋町)時代の「二条乾山」(清水・粟田口借窯)とがある。

三 そして、この作品は、上記の「作品解説115」のとおり、「元禄十二年(一六九九)末に鳴滝窯を始めてまもなく、光琳が法橋になる元禄十四年以前の作」の「鳴滝乾山」時代のものとされてきたが、「裏の乾山の堂々とした書風も宝永末(一七一〇)のものに近いから、そのころ江戸から上京した光琳が窮地に陥っていた乾山焼を助けるために描いたと考える。光琳が「寂明」の号を用いたのもその頃である」とする「二条乾山」時代のものとする説が有力になっている。

四 先に紹介した「近世日本陶磁器類の系譜」所収「京焼色絵再考―乾山」では、「鳴滝時代」のものとし、その「鳴滝時代」を次のような三区分により解説をしている。

http://www.ab.cyberhome.ne.jp/~tosnaka/201107/kyouyaki_iroe_kenzan.html



乾山皿.jpg

① 低下度焼成の釉下色絵や銹絵の作品
これらは錦窯と呼ばれる低下度専門(800度位)のかなり小さな窯で焼かれたものです。おそらく乾山が押小路窯の技法を発展させ、さらに独自の形態に創造昇華させたものと考えられます。(上記が例示として掲載されている。)

② 本焼き焼成(高火度焼成)の作品
この技術は御室焼(仁清)から導入し、当時主流をなしていた織部焼や唐津焼などを積極的に写しました。これも乾山風に意匠された作品を多く産出しています。(例示省略)

③国焼意匠の作品
御室焼の特徴でもある国焼意匠も積極的に取り入れ、御室焼を踏襲しながら乾山焼を完成させていきました。
下の百合型向付では、仁清は最初から土をこねて作ったと思われる百合の花びらの先にかすかに銹の色付けがあるだけなのに対し、乾山は型取りされた白地の向付けに、単純化された百合の花を描いたと思われます。(例示省略)

五 いずれにしろ、「光琳・乾山合作」ものは、乾山窯の名を不動のものにし、さらに、華麗な琳派意匠による色絵型物の量産化などは、「二条乾山工房」(乾山を中心とする陶器工房)の乾山焼が、当時の山城国(京都)土産に取り上げられるほどに、その評価は高かったのであろう(正徳三年刊の『和漢三才図絵』)。

六 上記掲載の「中段・左側」のものは、「色絵石垣文角皿」(乾山作・五客)は、鳴滝時代の初期の作品で、「乾山に私淑していた近代陶芸の巨匠、富本憲吉の旧蔵品である」(『別冊 太陽 尾形光琳 琳派の立役者』)。現在は、「京都国立博物館蔵」で、その裏面(中段・右側)の銘は、「日本元禄年製乾山陶隠(花押?)」で、この「花押(?)」は、乾山の号の一つの「尚古」を合成したもののように思われる(「巾着型」の花押)。ちなみに、富本憲吉も、川端康成と同じく「新佐野乾山」の「否定派」である。

七 上記掲載の「下段」のものは、「色絵定家詠十二ケ月和歌花鳥図角皿」(出光美術館蔵)で、乾山窯の代表的な作品とされている。「白化粧をほどこした角皿に、狩野派や土佐派を学んだ絵師の手によって粉本を写した花鳥画が描かれ、裏面には、能書家であった乾山が銹絵具を用いて和歌を散らし書きしている」(『別冊 太陽 尾形光琳 琳派の立役者』)。
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光琳・乾山そして蕪村」周辺覚書(その六) [光琳・乾山・蕪村]

その六 乾山の「絵画三」(「四季花鳥図屏風」)

乾山絵三.jpg

尾形乾山「四季花鳥図屏風」(左隻)江戸時代・寛保3(1743)年 大東急記念文庫蔵

(メモ)

一 上記は、次のアドレスのものである。

https://serai.jp/hobby/71115

尾形光琳(おがたこうりん)の弟、尾形乾山(おがたけんざん)が81歳で描いた「四季花鳥図屏風」も、華やかで目を惹きます。柳、桔梗、萩や菊、雪の枯れ芦など、四季の草花に白鷺を絶妙な構図で配した屏風です。
乾山といえば、絵付けをほどこした焼き物で知られていますが、じつはこういった絵画にも才能を発揮しているのです。
五島美術館・大東急記念文庫学芸部さんによると、「五島慶太が亡くなる3ヵ月前に購入した作品で、川端康成が所有していたことでも知られている」とのことです。

二 この乾山ものの旧所蔵者の、ノーベル賞作家・川端康成が、「佐野乾山に関する真贋論争」の「贋作派(否定派)」の急先鋒なのである。

 次のアドレスの「川端康成の否定意見」は、次のとおりである。

http://kaysan.net/sano/ronsou.htm

「ニセモノと見る私の印象は、きわめて簡単明白である。絵が悪い。書が悪い。騒々しくて品格が卑しい。器の形も悪い。ここで悪いというのは、乾山のものとはちがう、乾山のニセモノであるという意味よりも強い。乾山であるかないかより、それ以前の否定である。つまり、誰の作であろうと芸術品として「悪い」のである。(略) 乾山ほどの人には、こんな劣弱粗雑な絵はできるはずがないのである。」

四 この「川端康成」評に対する反論ではなく、「新発見『佐野乾山』展」を見たままの「芸術は爆発だ」とかで知られている「岡本太郎の肯定意見」は次のとおりである。(同上アドレスによる)

「2つ3つと見るにつれ、なかなかイイジャナイカ。色が鮮やかなハーモニイで浮かび上がっている。筆捌きも見事だ。(略)気取りやポーズ、とかくやきものに見られる枯れた渋み、いわゆる日本調みたいなものが無い。(略)たとえニセモノだって、これだけ豊かなファンテジーの盛り上がりがあれば、本ものよりさらに本ものだ。」

五 川端康成の「新佐野乾山」ものに関する否定論というのは、例えば、冒頭の、自分が所蔵していた「四季花鳥図屏風」などを基準として、「乾山ほどの人には、こんな劣弱粗雑な絵はできるはずがないのである」という見方なのであろう。

六 それに対して、岡本太郎は、「これだけ豊かなファンテジーの盛り上がりがあれば、本ものよりさらに本ものだ」と、その基準を「新佐野乾山」そのものに置き、例えば、小林秀雄の「ギブツの臭いなんかしないじゃないの」の印象評価を一歩進めている。そして、このお二人は、下記の「参考」論考の中にも、その名があるとおり、こと「真贋」関連については、一家言を有している方々なのである。。

七 これは、何処まで行っても、両者の見方は、相互に交叉することはなく、平行線のままに終わるような、そういう領域内のものということと、その上で、「新佐野乾山」ものに関連しては、次のような問題があることを付記して置きたい。

1 「佐野乾山」ものは、次の『初代乾山(尾形乾山)』から、「京都派」と「江戸派」に引き継がれて、少なくとも、「京都派」は三代、そして、江戸派は六代にわたり、その制作が続けられていたこと。

     ( 京都 )   ( 江戸 )
初代      尾形乾山
二代    猪八     次郎兵衛
三代    清吾     宮崎富之助
(三代)  宮田呉介
四代           抱一上人
五代           西村藐庵
(六代)          玄々斎
(六代)          三浦乾也
六代           浦野繁吉

2 「手控え」ものの「偽書」関連で、「近世日本陶磁器の系譜」→「京焼色絵再考―乾山記載中の「乾山は81歳で亡くなる前、病床で次郎兵衛に「江戸伝書」や「佐野伝書」には記されていない陶技のコツを口述筆記させました」の『口述筆記』などは重要な点になって来る。すなわち、「乾山自筆手控え」と「乾山口述手控え」と「転記」の問題の検討などである。また、「言葉使いに現代仮名遣いがあり、万葉仮名が殆ど使われておらず、バビブベボには半数例以上濁点が付けられている」(小森松菴氏)などの指摘は、致命傷になりかねないものを内包しているであろう。

3 「佐那具(さなぐ)乾山」(「陸軍特務機関」)、「湖東乾山」(『真贋尾形乾山の見極め(渡辺達也著)』所収「序」「第十二章佐野乾山を贋作とした要因」)関連となると、「真佐野乾山」とか「新佐野乾山」とかとを問わず、例えば、下記参考のうちの、次のような観点からの「古美術真贋」総ざらいということが、その前提となって来よう。

無署名「陶磁—1—染付(古美術真贋ガイド—1—)」、『芸術新潮』、第28巻1号、新潮社、1977年、153—160頁
無署名「陶磁—2—美濃(古美術真贋ガイド—2—)」、『芸術新潮』、第28巻2号、新潮社、1977年、155—162頁
無署名「陶磁—3—信楽 伊賀(古美術真贋ガイド—3—)」、『芸術新潮』、第28巻3号、新潮社、1977年、151—158頁
無署名「陶磁—4—備前 丹波(古美術真贋ガイド—4—)」、『芸術新潮』、第28巻5号、新潮社、1977年、163—170頁
無署名「陶磁—5—越前 珠州(古美術真贋ガイド—5—)」、『芸術新潮』、第28巻6号、新潮社、1977年、151—158頁
無署名「陶磁—6—常滑 渥美(古美術真贋ガイド—6—)」、『芸術新潮』、第28巻7号、新潮社、1977年、147—154頁
無署名「陶磁—7—瀬戸 猿投(古美術真贋ガイド—7—)」、『芸術新潮』、第28巻8号、新潮社、1977年、151—158頁
無署名「陶磁—8—中世の陶器(古美術真贋ガイド—8—)」、『芸術新潮』、第28巻9号、新潮社、1977年、149—156頁
無署名「陶磁—9—青磁(古美術真贋ガイド—9—)」、『芸術新潮』、第28巻11号、新潮社、1977年、145—152頁
無署名「陶磁—10—白磁 青白磁(古美術真贋ガイド—10—)」、『芸術新潮』、第29巻12号、新潮社、1977年、151—158頁
無署名「陶磁—11—三彩 緑釉(古美術真贋ガイド—11—)」、『芸術新潮』、第29巻1号、新潮社、1978年、157—164頁
無署名「陶磁—12—唐津(古美術真贋ガイド—12—)」、『芸術新潮』、第29巻2号、新潮社、1978年、147—154頁
無署名「陶磁—13—天目 黒釉(古美術真贋ガイド—13—)」、『芸術新潮』、第29巻4号、新潮社、1978年、161—168頁
無署名「陶磁—14—仁清 乾山ほか(古美術真贋ガイド—14—)」、『芸術新潮』、第29巻5号、新潮社、1978年、149—156頁
無署名「陶磁—15—長次郎 光悦/萩(古美術真贋ガイド—15—)」、『芸術新潮』、第29巻6号、新潮社、1978年、161—168頁
無署名「陶磁—16—朝鮮の古陶磁(古美術真贋ガイド—16—)」、『芸術新潮』、第29巻7号、新潮社、1978年、149—156頁
無署名「陶磁—17—中国の古陶磁(古美術真贋ガイド—17—)」、『芸術新潮』、第29巻8号、新潮社、1978年、127—134頁
無署名「陶磁—18—近世の陶磁——茶陶/民窯(古美術真贋ガイド—18—)」、『芸術新潮』、第29巻9号、新潮社、1978年、123—130頁
無署名「陶磁—19—伊万里 鍋島 柿右衛門(古美術真贋ガイド—19—)」、『芸術新潮』、第29巻10号、新潮社、1978年、135—142頁
無署名「肉筆北斎の真贋—里帰り展を機に(アート・ニューズ 話題)」、『芸術新潮』、第29巻10号、新潮社、1978年、13—16頁
無署名「陶磁—20—色絵(古美術真贋ガイド—20—)」、『芸術新潮』、第29巻11号、新潮社、1978年、115—122頁
無署名「陶磁—21完—(古美術真贋ガイド—21—)」、『芸術新潮』、第29巻12号、新潮社、1978年、123—130頁

(参考)

http://umdb.um.u-tokyo.ac.jp/DPastExh/Publish_db/2001Hazama/07/7400.html

■贋作(注・「真贋」の見極め関連の論考など)

城戸勘太郎「鉄斎作品の贋物について」、『三彩』、第38巻、1950年、美術出版社、55—56頁
小林秀雄『眞贋』、新潮社、1951年
岡本太郎「(本ものと偽ものと)鉄斎をめぐって」、『芸術新潮』、10号、1953年
河北倫明「鉄斎の贋作」、『図書』、1955年、7—8頁
大西芳雄「偽物作りの実態—『鉄斎画帖』などをめぐって」、『ミュージアム』、第83巻、東京国立博物館、1958年、21—23頁
小高根太郎「鉄斎のニセモノ」、『現代の眼』、第60巻、1959年、6頁
田中一松「にせもの礼賛」、『現代の眼』、第60巻、国立近代美術館、1959年、2—3頁
隈元謙次郎「真贋の話」、『現代の眼』、第60巻、国立近代美術館、1959年、4—5頁
千沢禎治「彫刻の真贋について」、『現代の眼』、第60巻、国立近代美術館、1959年、7頁
野間清六『にせもの 本もの』、朝日新聞社、1961年
ゼップ・シュラー『贋作者 商人 専門家』、関楠男訳、河出書房新社、1961年
多田道太郎『複製芸術論』、勁草書房、1962年
土方定一『画家と画商と収集家』、岩波新書、1963年
鈴木進「三つの『十便十宜』(真贋—1—)」」、『芸術新潮』、第15巻1号、新潮社、1964年、92—98頁
瀬木慎一「マルスカート偽作事件(真贋—2—)」、『芸術新潮』、第15巻2号、新潮社、1964年、112—119頁
水尾比呂志「永徳と伝永徳(真贋—3—)」、『芸術新潮』、第15巻3号、新潮社、1964年、116—122頁
大島辰雄「ファンメーヘレン事件(真贋—4—)」、『芸術新潮』、第15巻4号、新潮社、1964年、98—106頁
白崎秀雄「藤田嗣治の世界(真贋—5—)」、『芸術新潮』、第15巻5号、新潮社、1964年、118—125頁
久保貞次郎「滝川製ヨーロッパ絵画(真贋—6—)」、『芸術新潮』、第15巻6号、新潮社、1964年、102—111頁
白崎秀雄「魯山人の贋作(真贋—7—)」、『芸術新潮』、第15巻7号、新潮社、1964年、110—118頁
柳生不二雄「円空の贋作(真贋—8—)」、『芸術新潮』、第15巻8号、新潮社、1964年、120—127頁
竹田道太郎「鉄斎に保証なし (真贋—9—)」、『芸術新潮』、第15巻9号、新潮社、1964年、116—122頁
瀬木慎一「クライスラー家の偽作事件(真贋—10—)」、『芸術新潮』、第15巻10号、新潮社、1964年、106—113頁
小野忠重「写楽の謎(真贋—11—)」、『芸術新潮』、第15巻11号、新潮社、1964年、92—99頁
久保貞次郎「先達狩野享吉の鑑定(真贋—12—)」、『芸術新潮』、第15巻12号、新潮社、1964年、134—141頁
ヴァルター・ベンヤミン『複製技術時代の芸術』、川村2郎他訳、紀伊国屋書店、1965年
道上寿一「私のレンブラント(真贋—13—)」、『芸術新潮』、第16巻1号、新潮社、1965年、102—109頁
白崎秀雄「肉筆浮世絵の怪(真贋—14—)」、『芸術新潮』、第16巻2号、新潮社、1965年、120—128頁
徳大寺公英「西洋絵画の鑑定への疑問(真贋—15—)」、『芸術新潮』、第16巻3号、新潮社、1965年、100—105頁
宗左近「複製だったピカソ陶器(真贋—16—)」、『芸術新潮』、第16巻4号、新潮社、1965年、70—77頁
深井晋司「オリエントのにせもの(真贋—17—)」、『芸術新潮』、第16巻5号、新潮社、1965年、132—138頁
白崎秀雄「天平の地宝論争(真贋—18—)」、『芸術新潮』、第16巻6号、新潮社、1965年、84—91頁
神代雄一郎「遠州の庭(真贋—19—)」、『芸術新潮』、第16巻7号、新潮社、1965年、50—61頁
佐々木剛三「南画のにせもの(真贋—20—)」、『芸術新潮』、第16巻8号、新潮社、1965年、138—145頁
久保貞次郎「ドガのパステル事件(真贋—21—)」、『芸術新潮』、第16巻9号、新潮社、1965年、96—104頁
針生一郎「雪舟5点説(真贋—22—)」、『芸術新潮』、第16巻10号、新潮社、1965年、102—110頁
無署名「原子炉で調べた藤田の『猫』(真贋—23—)」、『芸術新潮』、第16巻11号、新潮社、1965年、132—140頁
竹内健「黒田清輝の補修をめぐる怪談(真贋—24—)」、『芸術新潮』、第16巻12号、新潮社、1965年、94—100頁
白崎秀雄『真贋: 美と欲望の11章』、講談社、1965年
坂本光聰『世界の鉄斎』、浪速社、1965年
村木明「ルーヴルのスキャンダル(真贋—25—)」、『芸術新潮』、第17巻1号、新潮社、1966年、92—98頁
ハリー・パッカード「新発見の写楽(真贋—26—)」、『芸術新潮』、第17巻2号、新潮社、1966年、108—117頁
山中蘭径「大雅の魚目(真贋—27—)」、『芸術新潮』、第16巻3号、新潮社、1966年、152—158頁
無署名「国会でケチをつけられた名画—西洋美術館のドランとデュフィ(真贋—28—)」、『芸術新潮』、第17巻4号、新潮社、1966年、134—143頁
瀬木慎一「ルネッサンス彫刻の偽作事件(真贋—29—)」、『芸術新潮』、第17巻5号、新潮社、1966年、116—124頁
矢田三千男「生きている春峯庵(真贋—30—)」、『芸術新潮』、第17巻6号、新潮社、1966年、146—152頁
瀬木慎一「ゴッホのにせもの(真贋—31—)」、『芸術新潮』、第17巻7号、新潮社、1966年、100—108頁
重森完途「雪舟の庭(真贋—32—)」、『芸術新潮』、第17巻8号、新潮社、1966年、56—65頁
瀬木慎一「グラフィック・デザイン盗作史(真贋—33—)」、『芸術新潮』、第17巻9号、新潮社、1966年、142—147頁
富山秀男「岸田劉生謎の二点(真贋—34—)」、『芸術新潮』、第17巻10号、新潮社、1966年、114—121頁
桑原住雄「ロダンの贋作事件(真贋—35—)」、『芸術新潮』、第17巻11号、新潮社、1966年、134—141頁
小川正隆「ルソーの人物画(真贋—36—)」、『芸術新潮』、第17巻12号、新潮社、1966年、94—101頁
小高根太郎「鉄斎の偽物と戦う」、『芸術新潮』、第18巻6号、新潮社、1967年、88—91頁
クリフォード・アーヴィング『贋作』、関口英男訳、早川書房、1967年
白崎秀雄「茶入『猿若』の謎(真贋—37—)」、『芸術新潮』、第18巻1号、新潮社、1967年、118—125頁
海上雅臣「棟方板画のにせもの事件(真贋—38—)」、『芸術新潮』、第18巻2号、新潮社、1967年、128—132頁
嘉門安雄「新発見のリューベンス(真贋—39—)」、『芸術新潮』、第18巻3号、新潮社、1967年、88—95頁
瀬木慎一「ピカソの贋作(真贋—40—)」、『芸術新潮』、第18巻4号、新潮社、1967年、106—112頁
内藤昌「まぼろしの伏見城(真贋—41—)」、『芸術新潮』、第18巻5号、新潮社、1967年、86—94頁
大島辰雄「パリの国際贋作組織X(真贋—42—)」、『芸術新潮』、第18巻6号、新潮社、1967年、152—158頁
瀬木慎一「これも写楽か(真贋—43—)」、『芸術新潮』、第18巻7号、新潮社、1967年、140—148頁
無署名「現代絵画の贋作(真贋—44—)」、『芸術新潮』、第18巻8号、新潮社、1967年、128—135頁
村木明「ルーブル美術館の科学調査(真贋—45—)」、『芸術新潮』、第18巻9号、新潮社、1967年、142—147頁
安藤更生「国宝修理綺譚(真贋—46—)」、『芸術新潮』、第18巻10号、新潮社、1967年、80—87頁
白崎秀雄「『国華』掲載の陳謝文(真贋—47—)」、『芸術新潮』、第18巻11号、新潮社、1967年、110—115頁
森洋子「権威の座を揺るがされたギリシャ彫刻の至宝(真贋—48—)」、『芸術新潮』、第18巻12号、新潮社、1967年、106—114頁
瀬木慎一「北斎の油絵(真贋—49—)」、『芸術新潮』、第19巻1号、新潮社、1968年、132—140頁
無署名「罷りとおる『光琳・乾山展』(真贋—50—)」、『芸術新潮』、第19巻2号、新潮社、1968年、94—99頁
山田智三郎「メトロポリタンの『馬』(真贋—51—)」、『芸術新潮』、第19巻3号、新潮社、1968年、156—160頁
江原順「その後のルグロ事件(真贋—52—)」、『芸術新潮』、第19巻4号、新潮社、1968年、129—134頁
無署名「ある竹田贋作ものがたり(真贋—53—)」、『芸術新潮』、第19巻5号、新潮社、1968年、96—100頁
J・R・カスティル「ニューヨークを騒がせたD.スタイン(真贋—54—)」、『芸術新潮』、第19巻6号、新潮社、1968年、106—110頁
瀬木慎一「市民が告発した贋作美術館(真贋—56—)」、『芸術新潮』、第19巻8号、新潮社、1968年、120—126頁
内藤昌「虚構のデザイナー・小堀遠州(真贋—57—)」、『芸術新潮』、第19巻9号、新潮社、1968年、116—124頁
中村渓男「古画を切った利休(真贋—58—)」、『芸術新潮』、第19巻10号、新潮社、1968年、122—128頁
瀬木慎一「雪舟の『山水長巻』は二本あった…(真贋—59—)」、『芸術新潮』、第19巻11号、新潮社、1968年、122—130頁
朝日晃「佐伯祐三をめぐる謎(真贋—60—)」、『芸術新潮』、第19巻12号、新潮社、1968年、106—114頁
辻成史「レンブラントとセーヘルス(真贋—61—)」、『芸術新潮』、第20巻1号、新潮社、1969年、138—145頁
上村達雄訳・編「トルコの出土品密売事件の謎(The Dorak affair Kenneth Pearson and Patricia Connor)(真贋—62—)」、『芸術新潮』、第20巻2号、新潮社、1969年、104—109頁
中島健一郎「田舎町をさわがせた北斎(真贋—63—)」、『芸術新潮』、第20巻3号、新潮社、1969年、124—129頁
陳舜臣「殷周青銅器の贋作者たち(真贋—64—)」、『芸術新潮』、第20巻4号、新潮社、1969年、72—77頁
無署名「作られた天平の『緑釉薬壷』(真贋—65—)」、『芸術新潮』、第20巻5号、新潮社、1969年、128—136頁
久保尋二「レオナルドの彫刻『フローラ像』の謎(真贋—66—)」、『芸術新潮』、第20巻6号、新潮社、1969年、126—131頁
小潟昭夫「名画の運命—新発見のコレジオの二作品をめぐって—(真贋—67—)」、『芸術新潮』、第20巻7号、新潮社、1969年、86—93頁
青柳瑞穂「わが光琳と乾山(真贋—68—)」、『芸術新潮』、第20巻8号、新潮社、1969年、134—141頁
下村寅太郎「『モナ・リサ』はモナ・リサであるか(真贋—69—)」、『芸術新潮』、第20巻9号、新潮社、1969年、144—149頁
陳舜臣「名画への挑戦—中国画家趙万氏の秘密—(真贋—70—)」、『芸術新潮』、第20巻10号、新潮社、1969年、112—117頁
江原順「新発見の『ボッシュ』への疑問(真贋—71—)」、『芸術新潮』、第20巻11号、新潮社、1969年、124—132頁
無署名「ボッテイチェルリ騒動の1ヶ月(真贋—72—)」、『芸術新潮』、第20巻12号、新潮社、1969年、76—83頁
鈴木八司「エジプト美術の裏(真贋—73—)」、『芸術新潮』、第21巻1号、新潮社、1970年、128—133頁
瀬木慎一「鑑定家ベレンソン(真贋—74—)」、『芸術新潮』、第21巻2号、新潮社、1970年、106—111頁
菅原明郎「東大寺2月堂の謎(真贋—75—)」、『芸術新潮』、第21巻3号、新潮社、1970年、100—105頁
馬杉宗夫「サン・ドンの彫刻(真贋—76—)」、『芸術新潮』、第21巻4号、新潮社、1970年、130—137頁
嘉門安雄「レンブラントの大作『ジュノー』への疑問(真贋—77—)」、『芸術新潮』、第21巻5号、新潮社、1970年、90—95頁
佐々木静一「ルグロ事件・贋作者の告白—アーヴィング著『贋作者』による—(真贋—78—)」、『芸術新潮』、第21巻6号、新潮社、1970年、96—104頁
瀬木慎一「古今書画鑑定秘話(真贋—79—)」、『芸術新潮』、第21巻7号、新潮社、1970年、110—105頁
辻成史「『ヨシュア画巻』—自己欺瞞の芸術(真贋—80—)」、『芸術新潮』、第21巻8号、新潮社、1970年、106—111頁
小川熙「新発見?ミケランジェロのタブロー(真贋—81—)」、『芸術新潮』、第21巻9号、新潮社、1970年、92—99頁
無署名「永遠の秘仏・善光寺如来(真贋—82—)」、『芸術新潮』、第21巻10号、新潮社、1970年、128—133頁
北村由雄「二つのラファエルロ事件(真贋—83—)」、『芸術新潮』、第21巻11号、新潮社、1970年、132—138頁
安東次男「蕪村の俳仙図(真贋—84—)」、『芸術新潮』、第21巻12号、新潮社、1970年、134—140頁
ル・マール編『複製時代の思想』、富士ゼロックス、1971年
瀬木慎一「ゴッホ研究の総決算(真贋—85—)」、『芸術新潮』、第22巻1号、新潮社、1971年、108—115頁
桑原住雄「オリジナルと複製の価値転倒—脱芸術状況の仮相の真相(真贋—86—)」、『芸術新潮』、第22巻2号、新潮社、1971年、96—100頁
神吉敬三「もしベラスケスが本物ならば(真贋—87—)」、『芸術新潮』、第22巻3号、新潮社、1971年、120—127頁
邦光史郎「似せ絵をかいたお城絵師—絵金—(真贋—88—)」、『芸術新潮』、第22巻4号、新潮社、1971年、100—107頁
朝日晃「佐伯祐三の虚と実(真贋—89—)」、『芸術新潮』、第22巻5号、新潮社、1971年、108—113頁
長谷川仁「画商四十五年のあれこれ(真贋—90—)」、『芸術新潮』、第22巻6号、新潮社、1971年、120—125頁
澤野久雄「崋山の『冨岳風雨』をめぐって(真贋—91—)」、『芸術新潮』、第22巻7号、新潮社、1971年、108—113頁
瀬木慎一「フェルメールへの科学的挑戦(真贋—92—)」、『芸術新潮』、第22巻8号、新潮社、1971年、128—133頁
佐々木剛三「竜安寺石庭の謎(真贋—93—)」、『芸術新潮』、第22巻9号、新潮社、1971年、122—127頁
田中英道「『夜の画家』(ジョルジョ・ドゥ・ラ・トゥール)影の男(真贋—94—)」、『芸術新潮』、第22巻10号、新潮社、1971年、108—115頁
村重寧「法橋以前の宗達作への疑問(真贋—95—)」、『芸術新潮』、第20巻11号、新潮社、1969年、132—137頁
無署名「再燃する古伊万里の謎(真贋—96—)」、『芸術新潮』、第22巻12号、新潮社、1971年、106—112頁
由水常雄「古代ガラスの怪(真贋—97—)」、『芸術新潮』、第23巻1号、新潮社、1972年、136—141頁
辻茂「ルーヴルの『田舎の合奏』はジョルジョーネか(真贋—98—)」、『芸術新潮』、第23巻2号、新潮社、1972年、130—135頁
徳永弘道「周文に真蹟はあるのか(真贋—99—)」、『芸術新潮』、第23巻3号、新潮社、1972年、148—153頁
森洋子「二人の若手研究者に否定された八十余点のブリューゲル(真贋—100—)」、『芸術新潮』、第23巻4号、新潮社、1972年、128—135頁
神吉敬三「須磨コレクションの『大いなる幻影』(真贋—101—)」、『芸術新潮』、第23巻5号、新潮社、1972年、108—116頁
江坂輝弥「縄文土偶・岩偶偽物考(真贋—102—)」、『芸術新潮』、第23巻6号、新潮社、1972年、116—123頁
中山正実「『幻の名画』を追って十年—ムリリョ『帯の聖母』—(真贋—103—)」、『芸術新潮』、第23巻7号、新潮社、1972年、104—111頁
江原順「ピカソ・エルンストの贋作を描いた画家(オスカール・ドミンゲス)(真贋—104—)」、『芸術新潮』、第23巻8号、新潮社、1972年、98—103頁
瀬木慎一「ワシントンで開かれた『ロダンの真贋展』(真贋—105—)」、『芸術新潮』、第23巻9号、新潮社、1972年、148—153頁
飯田喜四郎「パリのノートル・ダムの偽りの部分(真贋—106—)」、『芸術新潮』、第23巻10号、新潮社、1972年、120—128頁
友部直「迷宮の中の虚構(真贋—107—)」、『芸術新潮』、第23巻11号、新潮社、1972年、168—173頁
加瀬藤圃「経裏に描かれた円空絵画への疑問(真贋—108—)」、『芸術新潮』、第23巻12号、新潮社、1972年、144—149頁
ル・マール編『続・複製時代の思想』、富士ゼロックス、1973年
鈴木友也編『日本の美術 茶湯釜』、第89号、至文堂、1973年
小川熙「贋作と格闘するデ・キリコ(真贋—109—)」、『芸術新潮』、第24巻1号、新潮社、1973年、126—132頁
瀬木慎一「新発見 北斎絵馬をめぐって(真贋—110—)」、『芸術新潮』、第24巻2号、新潮社、1973年、140—147頁
川添登「元伊勢をさぐる(真贋—111—)」、『芸術新潮』、第24巻3号、新潮社、1973年、164—170頁
大川達雄「鉄斎展異聞 新発見の『北の大茶湯図』(真贋—112—)」、『芸術新潮』、第24巻4号、新潮社、1973年、128—135頁
仁科又亮「新発見広重の『絵日記』(真贋—113—)」、『芸術新潮』、第24巻5号、新潮社、1973年、148—155頁
宗左近「幽夢譚—私の大雅と鉄斎(真贋—114—)」、『芸術新潮』、第24巻6号、新潮社、1973年、134—140頁
嘉門安雄「鑑定・世評の価値へのはね返りかた(真贋—115—)」、『芸術新潮』、第24巻7号、新潮社、1973年、134—140頁
伊藤和男「隠者・白幽子考(真贋—116—)」、『芸術新潮』、第24巻8号、新潮社、1973年、148—155頁
仁科又亮「アメリカにもある春峯庵の浮世絵(真贋—117—)」、『芸術新潮』、第24巻9号、新潮社、1973年、154—159頁
五来重「円空仏の謎を解く(真贋—118—)」、『芸術新潮』、第24巻10号、新潮社、1973年、104—109頁
由水常雄「正倉院の怪(真贋—119—)」、『芸術新潮』、第24巻11号、新潮社、1973年、126—131頁
佐藤昭夫「東京国立博物館の『飛鳥仏』(真贋—120—)」、『芸術新潮』、第24巻12号、新潮社、1973年、132—136頁
富岡益太郎「鉄斎画の鑑定」、『現代日本美術全集』、第1巻、集英社、1973年、1—4頁
小川熙「エトルスクの贋作工房(真贋—121—)」、『芸術新潮』、第25巻1号、新潮社、1974年、132—141頁
鈴木史楼「書聖・王義之『蘭亭序』偽作説(真贋—122—)」、『芸術新潮』、第25巻2号、新潮社、1974年、146—151頁
都城範和「ルーヴルの『写し、にせもの…』展(真贋—123—)」、『芸術新潮』、第25巻3号、新潮社、1974年、102—107頁
加瀬藤圃「白昼夢・徽宗の『白鷹』図(真贋—124—)」、『芸術新潮』、第25巻4号、新潮社、1974年、118—125頁
大川達雄「鉄斎鑑定会控え(真贋—125—)」、『芸術新潮』、第25巻5号、新潮社、1974年、104—109頁
吉田小五郎「キリシタン美術私見(真贋—126—)」、『芸術新潮』、第25巻6号、新潮社、1974年、161—166頁
宗左近「鑑定所見聞録(真贋—127—)」、『芸術新潮』、第25巻7号、新潮社、1974年、171—176頁
瀬木慎一「北斎晩年の謎を解く手紙(真贋—128—)」、『芸術新潮』、第25巻8号、新潮社、1974年、195—200頁
加瀬藤圃「佐野乾山に決着を…(真贋—129—)」、『芸術新潮』、第25巻9号、新潮社、1974年、176—182頁
朝日晃「電柱円空始末記(真贋—130—)」、『芸術新潮』、第25巻10号、新潮社、1974年、205—210頁
無署名「『劉生の会』が発見した劉生(真贋—131—)」、『芸術新潮』、第25巻11号、新潮社、1974年、160—166頁
由水常雄「西洋骨董買い手鑑(真贋—132—)」、『芸術新潮』、第25巻12号、新潮社、1974年、160—164頁
草野守立「画家・贋作者・滝川太郎(真贋—137—)」、『芸術新潮』、第26巻5号、新潮社、1975年、168—173頁
岡田利兵衛「芭蕉筆蹟のほんものとにせもの(真贋—143—)」、『芸術新潮』、第26巻11号、新潮社、1975年、201—206頁
荻久保泰幸「ある偽作家の生涯『特集 井上靖—歴史とロマン—井上靖・作品』」、『国文学 解釈と教材の研究』、第20巻3号、学灯社、1975年、95—98頁
塩野七生「にせもの作りの告白」、『思想』、第609巻、岩波書店、1975年、435—422頁
那須頼雅「"The Mysterious Stranger"—その偽作から真作へ」、『同志社アメリカ研究』、第11巻、同志社アメリカ研究会、1975年、35—43頁
藤枝静男「偽仏真仏(真贋—133—)」、『芸術新潮』、第26巻1号、新潮社、1975年、189—194頁
加瀬藤圃「光琳『紅白梅』の謎(真贋—134—)」、『芸術新潮』、第26巻2号、新潮社、1975年、128—133頁
江原順「ルーブルに入ったフラゴナールはコピーか?—崩壊した『ロイユ』誌の告発(真贋—135—)」、『芸術新潮』、第26巻3号、新潮社、1975年、177—182頁
森洋子「小ピーテル・ブリューゲルの『量産』(真贋—136—)」、『芸術新潮』、第26巻4号、新潮社、1975年、140—147頁
草野守立「画家・贋作者・滝川太郎(真贋—137—)」、『芸術新潮』、第26巻5号、新潮社、1975年、168—173頁
渡辺利馗「留学生とエトルスク(真贋—138—)」、『芸術新潮』、第26巻6号、新潮社、1975年、100—103頁
水上勉「私版『偽仏真仏』(真贋—139—)」、『芸術新潮』、第26巻7号、新潮社、1975年、150—154頁
加瀬藤圃「『国華』掲載の乾山『花鳥図』屏風への疑問(真贋—140—)」、『芸術新潮』、第26巻8号、新潮社、1975年、132—137頁
中島純司「『雪舟』という不倒翁—1—(真贋—141—)」、『芸術新潮』、第26巻9号、新潮社、1975年、125—131頁
中島純司「『雪舟』という不倒翁—2—(真贋—142—)」、『芸術新潮』、第26巻10号、新潮社、1975年、132—138頁
岡田利兵衛「芭蕉筆蹟のほんものとにせもの(真贋—143—)」、『芸術新潮』、第26巻11号、新潮社、1975年、201—206頁
脇坂淳「新発見『等伯』の価値(真贋—144—)」、『芸術新潮』、第26巻12号、新潮社、1975年、162—167頁
滝口進「イギリスを震撼させたパーマー贋作事件(ルポルタージュ)」、『芸術新潮』、第27巻11号、新潮社、1976年、170—177頁
五味康祐「贋作モーツァルト(西方の音)」、『芸術新潮』、第27巻12号、新潮社、1976年、128—130頁
臼井吉見『物言わぬ壷の話』、筑摩書房、1976年
新藤武弘「学会を騒がせた石涛の手紙(真贋—145—)」、『芸術新潮』、第27巻1号、新潮社、1976年、193—198頁
ポール渡部「不況の中の版画大安売り(真贋—146—)」、『芸術新潮』、第27巻2号、新潮社、1976年、184—188頁
宮沢四郎「青山二郎の『眼』—信州の一陶芸家との対話(真贋—147—)」、『芸術新潮』、第27巻3号、新潮社、1976年、180—184頁
宗左近「『大雅』と大雅の弟子と(真贋—148—)」、『芸術新潮』、第27巻4号、新潮社、1976年、140—147頁
中原良三「骨董50年(真贋—149—)」、『芸術新潮』、第27巻5号、新潮社、1976年、189—194頁
海上雅臣「棟方志功贋作事件(真贋—150—)」、『芸術新潮』、第27巻6号、新潮社、1976年、100—107頁
江原順「パリの偽作者たち(真贋—151—)」、『芸術新潮』、第27巻7号、新潮社、1976年、196—204頁
細見古香庵「欺し欺される話(真贋—152—)」、『芸術新潮』、第27巻8号、新潮社、1976年、126—130頁
岸田勉「宮本二天に大作なし(真贋—153—)」、『芸術新潮』、第27巻9号、新潮社、1976年、128—132頁
由水常雄「『明治ガラス』いまむかし(真贋—154—)」、『芸術新潮』、第27巻10号、新潮社、1976年、156—162頁
安藤実「贋作横行・美濃の古陶に御用心(真贋—155—)」、『芸術新潮』、第2711号、新潮社、1976年、204—208頁
無署名「素人コレクション開帳録—ルポルタージュ(真贋—156—)」、『芸術新潮』、第27巻12号、新潮社、1976年、166—172頁
瀬木慎一『真贋の世界』、新潮社、1977年
富岡益太郎「偽筆再考」、『NHK日曜美術館 第2集』、学習研究社、1977年
種村季弘「制服犯罪者の喜劇—追放された詐欺師はやがて芸術化や道化として返り咲く『特集 ロッキード社会の内的系譜』」、『朝日ジャーナル』、第19巻1号、1977年、28—32頁
今泉元佑「再検討すべき重文の柿右衛門(真贋—157—)」、『芸術新潮』、第28巻1号、新潮社、1977年、166—169頁
吉田幸三郎「速水御舟の鑑定(真贋—158—)」、『芸術新潮』、第28巻2号、新潮社、1977年、112—121頁
無署名「陶磁—1—染付(古美術真贋ガイド—1—)」、『芸術新潮』、第28巻1号、新潮社、1977年、153—160頁
無署名「陶磁—2—美濃(古美術真贋ガイド—2—)」、『芸術新潮』、第28巻2号、新潮社、1977年、155—162頁
無署名「陶磁—3—信楽 伊賀(古美術真贋ガイド—3—)」、『芸術新潮』、第28巻3号、新潮社、1977年、151—158頁
無署名「陶磁—4—備前 丹波(古美術真贋ガイド—4—)」、『芸術新潮』、第28巻5号、新潮社、1977年、163—170頁
無署名「陶磁—5—越前 珠州(古美術真贋ガイド—5—)」、『芸術新潮』、第28巻6号、新潮社、1977年、151—158頁
無署名「陶磁—6—常滑 渥美(古美術真贋ガイド—6—)」、『芸術新潮』、第28巻7号、新潮社、1977年、147—154頁
無署名「陶磁—7—瀬戸 猿投(古美術真贋ガイド—7—)」、『芸術新潮』、第28巻8号、新潮社、1977年、151—158頁
無署名「陶磁—8—中世の陶器(古美術真贋ガイド—8—)」、『芸術新潮』、第28巻9号、新潮社、1977年、149—156頁
無署名「陶磁—9—青磁(古美術真贋ガイド—9—)」、『芸術新潮』、第28巻11号、新潮社、1977年、145—152頁
無署名「陶磁—10—白磁 青白磁(古美術真贋ガイド—10—)」、『芸術新潮』、第29巻12号、新潮社、1977年、151—158頁
宮沢四郎「『小布施北斎』の虚像をはぐ(真贋)」、『芸術新潮』、第28巻11号、新潮社、1977年、118—125頁
仁智栄坊「贋作西東三鬼伝—あるいは四月馬鹿の話—続—」、『俳句研究』、第45巻1号、富士見書房、1978年、132—145頁
仁智栄坊「贋作西東三鬼伝—あるいは四月馬鹿の話—続—」、『俳句研究』、第45巻2号、富士見書房、1978年、134—142頁
滝口進「贋作者トム・キーティング会見記」、『芸術新潮』、第29巻8号、新潮社、1978年、8—11頁
瀬木慎一「戦後の贋作事件〔年表〕」、『芸術新潮』、第29巻8号、新潮社、1978年、20—21頁
ギー・イスナール『真贋』、田中梓訳、美術公論社、1978年
ジェラルディン・フランク・ノーマン『贋作者』、滝口進訳、新潮社、1978年
無署名「陶磁—11—三彩 緑釉(古美術真贋ガイド—11—)」、『芸術新潮』、第29巻1号、新潮社、1978年、157—164頁
無署名「陶磁—12—唐津(古美術真贋ガイド—12—)」、『芸術新潮』、第29巻2号、新潮社、1978年、147—154頁
無署名「陶磁—13—天目 黒釉(古美術真贋ガイド—13—)」、『芸術新潮』、第29巻4号、新潮社、1978年、161—168頁
無署名「陶磁—14—仁清 乾山ほか(古美術真贋ガイド—14—)」、『芸術新潮』、第29巻5号、新潮社、1978年、149—156頁
無署名「陶磁—15—長次郎 光悦/萩(古美術真贋ガイド—15—)」、『芸術新潮』、第29巻6号、新潮社、1978年、161—168頁
無署名「陶磁—16—朝鮮の古陶磁(古美術真贋ガイド—16—)」、『芸術新潮』、第29巻7号、新潮社、1978年、149—156頁
無署名「陶磁—17—中国の古陶磁(古美術真贋ガイド—17—)」、『芸術新潮』、第29巻8号、新潮社、1978年、127—134頁
無署名「陶磁—18—近世の陶磁——茶陶/民窯(古美術真贋ガイド—18—)」、『芸術新潮』、第29巻9号、新潮社、1978年、123—130頁
無署名「陶磁—19—伊万里 鍋島 柿右衛門(古美術真贋ガイド—19—)」、『芸術新潮』、第29巻10号、新潮社、1978年、135—142頁
無署名「肉筆北斎の真贋—里帰り展を機に(アート・ニューズ 話題)」、『芸術新潮』、第29巻10号、新潮社、1978年、13—16頁
無署名「陶磁—20—色絵(古美術真贋ガイド—20—)」、『芸術新潮』、第29巻11号、新潮社、1978年、115—122頁
無署名「陶磁—21完—(古美術真贋ガイド—21—)」、『芸術新潮』、第29巻12号、新潮社、1978年、123—130頁
勝又浩「懸命に生き抜いた生涯——トム・キーティング他著滝口進訳『贋作者』」、『潮』、第239巻、潮出版社、1979年、206—209頁
白州正子「日本のたくみ—8—贋物作り—横石順吉」、『芸術新潮』、第30巻8号、新潮社、1979年、93—97頁
三山進「近世の贋物作りたち(緑陰随筆号)」、『陶説』、第317巻、日本陶磁協会、1979年、14—17頁
大岡信「秋から春へ・贋作吉岡実習作展『特集 吉岡実』」、『現代詩手帖』、第23巻10号、思想社、1980年、50—56頁
阿川弘之「『落首九十九』讃歌——贋作落首七つ『特集 谷川俊太郎—私は言葉を休ませない』」、『国文学 解釈と教材の研究』、第25巻12号、学灯社、1980年、87—90頁
富岡益太郎—聞き手編集部「贋作は新作の五倍から十倍—鉄斎美術館館長 富岡益太郎氏に聞く—『特集 鉄斎その魅力—高まる市場性と鑑定の現状』」、『月刊美術』、実業之日本社、1980年、50—52頁
S・J・フレミング『美術品の真贋 その科学的鑑定』、妹尾学・安部裕子訳、共立出版、1980年
伊野部重一郎「古事記と同序文の偽作説について—粕谷氏及び大和氏の所論にふれて」、『神道学』、第106巻、神道学会、1980年、40—61頁
大川栄二「絵の値段とほんもの・にせもの—サラリーマンコレクターへの戒め」、『芸術新潮』、第32巻3号、新潮社、1981年、90—92頁
峰恭介「ハーフ・ミラー—10—私は贋作者—日本の『真贋の森』を嗤う」、『みづゑ』、第919巻、春鳥会、1981年、108—109頁
室伏哲郎「政治家の贋作は版画界と同質—政治家の巻(現代ニセモノ大博覧会『特集』)」、『現代の眼』、第23巻12号、現代評論社、1982年、50—55頁
鈴木八司「メトロポリタンの倉庫にもあった贋作」、『芸術新潮』、第33巻9号、新潮社、1982年、54—55頁
ペーター・エーレブラッハト「エジプト贋作ひとすじの『巨匠』たち(ルポルタージュ)」、オリオンプレス訳、『芸術新潮』、第33巻9号、新潮社、1982年、56—59頁
石黒孝次郎「贋作の掃き溜めになるか?日本」、『芸術新潮』、第33巻9号、新潮社、1982年、60—61頁
田辺勝美「古代イラン美術の展開」、『芸術新潮』、第33巻10号、新潮社、1982年、19—46頁
深井晋司「『ペルシア秘宝展』所感」、『芸術新潮』、第33巻10号、新潮社、1982年、47頁
杉山二郎「『ペルシア秘宝展』の教える真贋問題」、『芸術新潮』、第33巻10号、新潮社、1982年、48頁
石黒幸次郎「再び—贋作の掃き溜めになるか?日本」、『芸術新潮』、第33巻10号、新潮社、1982年、49頁
吉田秀和「かいえ・どぅ・くりちっく—92—もう一つの『真贋』」、『音楽芸術』、第40巻1号、音楽の友社、1982年、20—25頁
黒岩徹「ヒトラー日記贋作事件四つの謎」、『中央公論』、第98巻7号、中央公論社、1983年、163—171頁
徳岡孝夫「世紀の贋作『ヒトラー日記』騒動」、『諸君』、第15巻7号、文芸春秋、1983年、196—216頁
田中穣「贋作の思想(松本清張・脱領域の眼—松本清張・体験と創造)」、『国文学 解釈と教材の研究』、第28巻12号、学灯社、1983年、12—17頁
瀬木慎一「肉筆浮世絵の贋作『春峯庵事件』」、『芸術新潮』、第34巻7号、新潮社、1983年、46—49頁
田中穣「泰西名画展を飾った『滝川製』マチスなど」、『芸術新潮』、第34巻7号、新潮社、1983年、50—53頁
出川直樹「未だに謎をはらむ『佐野幹山事件』」、『芸術新潮』、第34巻7号、新潮社、1983年、54—57頁
出川直樹「重文指定を取り消された『永仁の壷』」、『芸術新潮』、第34巻7号、新潮社、1983年、58—60頁
安井収蔵「国立西洋美術館を直撃した『ルグロ事件』」、『芸術新潮』、第34巻7号、新潮社、1983年、61—64頁
田中英道「稀代の贋作者による『フェルメール事件』」、『芸術新潮』、第34巻7号、新潮社、1983年、65—67頁
生尾慶太郎「贋作意欲をそそるかフジタ、棟方の贋作」、『芸術新潮』、第34巻7号、新潮社、1983年、68—70頁
瀬木慎一「体験的『耳鑑』論」、『芸術新潮』、第34巻7号、新潮社、1983年、71—72頁
田中英道「鑑定の現場から」、『芸術新潮』、第34巻7号、新潮社、1983年、73—74頁
池田瓢阿「私の見た贋作工房(投稿)」、『芸術新潮』、第34巻10号、新潮社、1983年、130—132頁
出川直樹監修・芸術新潮編集部編『やきもの鑑定入門』、新潮社、1983年
諸井誠「音楽裏拍子—3—レコードの真贋」、『芸術新潮』、第34巻3号、新潮社、1983年、86—87頁
匠秀夫・岸信夫「ウルトラ難度の劉生真贋問題(アート・ニューズ)」、『芸術新潮』、第34巻6号、新潮社、1983年、16—18頁
原章二「本物(オリジナル)・贋物(コピー)・紛い物(シミュラクル)—小林秀雄の『真贋』をめぐって(南英耕教授定年退職記念号)」、『教養諸学研究』、、1983年、71—73頁
久保貞次郎『美術の世界11 絵画の真贋』、叢文社、1984年
陳舜臣編『欺視欺され美の真贋』、日本経済新聞社、1984年
上島有「篠村の高氏願文偽作説に対する疑問」、『日本歴史』、第433巻、日本歴史社、1984年、1—16頁
赤羽学「芭蕉の『割』の訓み方を論じて狐屋本『野晒紀行』偽作説を駁す」、『俳文芸』、第23巻、俳文芸研究会、1984年、1—12頁
無署名「アムステルダム大学が開いた『真贋展』(アート・ニューズ)」、『芸術新潮』、第35巻2号、新潮社、1984年、48—51頁
日月山人「東山焼の真贋(東山焼と播磨のやきもの)」、『陶説』、第373巻、日本陶磁協会、1984年、48—49頁
多田道太郎『複製芸術論』、講談社、1985年
種村季弘「オットー・ヴァッカー——あるいはゴッホという幻想(贋作者列伝—1—)」、『ユリイカ』、第17巻1号、青土社、1985年、254—267頁
種村季弘「ファイVSロータール・マルスカート——またはブロマイドから生まれたマリア(贋作者列伝—2—)」、『ユリイカ』、第17巻2号、青土社、1985年、258—269頁
種村季弘「イスラエル・ルコモフスキー——またはサイタフェルネス王の王冠(贋作者列伝—3—)」、『ユリイカ』、第17巻3号、青土社、1985年、225—237頁
種村季弘「アルチェオ・ドッセナ—映画化された贋作過程(贋作者列伝—4—)」、『ユリイカ』、第17巻4号、青土社、1985年、260—272頁
種村季弘「ベッピ・リフェッサー—贋作を作らなかった贋作者(贋作者列伝—5—)」、『ユリイカ』、第17巻5号、青土社、1985年、234—243頁
種村季弘「無署名のデューラーたち(贋作者列伝—6—)」、『ユリイカ』、第17巻6号、青土社、1985年、236—247頁
種村季弘「ジョヴァンニ・バスティアニーニ——胴着を着た哲学詩人の胸像(贋作者列伝—7—)」、『ユリイカ』第17巻7号、青土社、1985年、257—267頁
種村季弘「ハン・ファン・メーヘレン—1—愛国者か贋作者か(贋作者列伝—8—)」、『ユリイカ』、第17巻9号、青土社、1985年、250—261頁
種村季弘「ハン・ファン・メーヘレン—2—画家VS批評家(贋作者列伝—9—)」、『ユリイカ』、第17巻11号、青土社、1985年、266—279頁
種村季弘「ハン・ファン・メーヘレン—3—コレクターVS批評家(贋作者列伝—10完—)」、『ユリイカ』、第17巻11号、青土社、1985年、258—273頁
ジャン・ファブリス「パリ発ユトリロ贋作事情(ユトリロの栄光と無惨)(特集)」、越川倫明訳、『芸術新潮』、第36巻11号、新潮社、1985年、37—45頁
樋口隆一「現代のバッハ研究—9—バッハの真作と偽作」、『音楽芸術』、第43巻11号、日本音楽雑誌、1985年、76—83頁
岸本良彦「呂氏春秋十2紀偽作説とその批評」、『明治薬科大学研究紀要 人文科学・社会科学』、明治薬科大学、1985年、1—27頁
島弘之「ショーレム以前以後—ユダヤ神秘主義の『真贋問題』(ユダヤのノマドたち—極限のアジア極限のヨーロッパ)」、『ユリイカ』、第17巻8号、青土社、1985年、172—179頁
木村重圭「講座『古画の真贋について』を実地して」、『博物館研究』、第20巻6号、日本博物館協会、1985年、4—8頁
種村季弘『贋作者列伝』、青土社、1986年(増補新判、1992年)
樋口穣「司馬江漢『春信偽作』鈴木春信」、『文化史学』、第42巻、文化史学会、1986年、22—41頁
山尾悠子「ラブクラフトとその偽作集団(偽書渉猟—20—)」、『ユリイカ』、第19巻9号、青土社、1987年、8—11頁
清水展「『石器時代人』タサダイ族の真贋をめぐって」、『東南アジア歴史と文化』、第16巻、山川出版社、1987年、113—121頁
石川透「山岸文庫蔵『落窪の草子』奥書の真偽—『阿漕の草子』から多田義俊偽作説に及ぶ」、『芸文研究』、第52巻、慶應義塾大学芸文研究会、1988年、28—53頁
細江光「谷崎の作品ではなかった 偽作『誘惑女神』をめぐって」、『国文学 解釈と教材の研究』、第33巻8号、学灯社、1988年、134—137頁
山口文憲「真贋1如のユートピア—東京質屋協同組合書画骨董美術品特別大会見聞録(天下のにせもの—実態調査・近代日本画編)」、『芸術新潮』、第39巻12号、新潮社、1988年、44—49頁
町田甲一「ガンダーラ菩薩像真贋騒動—『鑑定家の失敗は自惚れから来る』児島喜久雄」、『日本歴史』、第476巻、吉川弘文館、1988年、51—54頁
瀬木慎一『迷宮の美術—真贋のゆくえ』、芸術新聞社、1989年
無署名「『ギリシアの壷真贋事件』の真実」、『芸術新潮』、第40巻5号、新潮社、1989年、85—87頁
屋山太郎「激突書簡経営者・真藤恒の真贋」、『文芸春秋』、第67巻6号、文芸春秋、1989年、122—131頁
石光輝子「現実の真贋—ヒルデスハイマ—の『マーボット』について」、『ドイツ文学』、第82巻、日本独文学界、1989年、120—129頁 
町田甲一「宙に迷ったままのガンダーラ菩薩像真贋問題」、『日本歴史』、第488巻、吉川弘文館、1989年、33—35頁
野村義博「国際美術市場を席捲するジャパンマネー『贋作天国』の不思議な投資感覚」、『世界週報』、第71巻23号、1990年、41—45頁
荒俣宏『帯をとくフクスケ: 複製・偽物図像解読術』、中央公論社、1990年
荒俣宏「贋作世界史(万国贋作博覧会「特集」)」、『芸術新潮』、第41巻7号、新潮社、1990年、57—69頁
杉山二郎『真贋往来 文化論的視点から』、瑠璃書房・六興出版、1990年
市川浩他編『コピー』、岩波書店、1990年
三上直光「ラームカムヘン王碑文の文字表記—偽作の可能性をめぐって」、『慶應義塾大学言語文化研究所紀要』、第22巻、慶應義塾大学言語文化研究所、1990年、199—213頁
沢田瑞穂「南宋真贋列伝—3人の天1坊と2人のアナスタシア皇女」、『2松学舎大学人文論叢』、第43巻、二松学舎大学人文学界、1990年、138—147頁
藤原かすみ「消え去る『レンブラント作品』—真贋の科学判定を探る」、『科学朝日』、第50巻6号、1990年、30—34頁
矢田三千男「幻の肉筆浮世絵『春峯庵』贋作1家、長兄の告白—春峯庵事件の真相を明かす」、『芸術新潮』、第42巻11号、新潮社、1991年、37—44頁
小川煕「エトルスクの贋作工房(抜粋)(真贋—121—74年1月号)」、『芸術新潮』、第42巻11号、新潮社、1991年、48—51頁
藤枝静男「偽仏真仏(抜粋)(真贋—133—75年1月号)」、『芸術新潮』、42巻11号、新潮社、1991年、51—54頁
鈴木八司「エジプトには髭のあるミイラがある?『エジプト美術の裏』より抜粋(真贋—73—70年1月号)」、『芸術新潮』、第42巻11号、新潮社、1991年、55—57頁
白州正子「悲運の『古伊万里』名人『にほんのたくみ八贋物づくり—横石順吉』(79年8月号)」、『芸術新潮』、第42巻11号、新潮社、1991年、58—60頁
陳舜臣「鑑定人Yさんと青銅器『殷周銅器の贋作者たち』より抜粋(真贋—64—69年4月号)」、『芸術新潮』、第42巻11号、新潮社、1991年、61—63頁
玉利勲『墓盗人と贋物作り—日本考古学外史』、平凡社、1992年
宮本三郎「もう一人の『宮本三郎』—にせもの受難記(抄)」、『芸術新潮』、第42巻9号、新潮社、1991年、80—82頁
野村茂男「『古文尚書』の偽作についての若干の考察—『帝王世紀』との関連を中心に」、『日本中国学会会報』、第43巻、日本中国学会、1991年、61—75頁
高宮利行「西洋書物学事始—9—歴史をもてあそんだ男—18世紀イギリスの偽作者チャールズ・バートラム」、『ユリイカ』、第23巻12号、青土社、1991年、8—15頁
養老孟司「モーツァルトの頭骨の真贋は?(科学で解読『モーツァルト』)」、『科学朝日』、第51巻10号、朝日新聞社、1991年、13—15頁
竹西寛子「耳目抄—113—贋物の話」、『ユリイカ』、第23巻12号、青土社、1991年、36—39頁
丹尾安典「贋作の汚名挽回か!?滝川製セザンヌ」、『芸術新潮』、第43巻2号、新潮社、1992年、75—80頁
野田秀樹『贋作・桜の森の満開の下』、新潮社、1992年
種村季弘『贋作者列伝』、 青土社、1992年
村上幸造「押韻から見た蘭亭詩—蘭亭叙の偽作に関連して」、『大阪工業大学紀要 人文社会篇』、第37巻1号、大阪工業大学、1992年、17—29頁
福富太郎「福富太郎のアート・キャバレー—19—贋作の山の果てに入手したこれこそ我が家宝 司馬江漢」、『芸術新潮』、第42巻12号、新潮社、1993年、116—119頁
平山三郎「百鬼園の本—続—(3)『贋作猫』から『日没閉門』まで」、『日本古書通信』、第58巻3号、1993年、4—6頁
レアル・ルサール『贋作への情熱 ルグロ事件の真相』、鎌田眞由美訳、中央公論社、1994年
高橋健三「李文田、郭沫若の『蘭亭』偽作説をめぐる—小論—書体の変遷を追って」、『桜美林大学中国文学論叢』、第19巻、櫻美林学園、1994年、155—168年
佐々木三味・大澤晋之輔校訂『骨董にせもの雑学ノート』、 ダイヤモンド社、1995年
大場建治『シェイクスピアの贋作』、岩波書店、1995年
平兼虎「贋作汚染列島日本を斬る」、『中央公論』、第110巻8号、中央公論社、1995年、228—238頁
平兼虎「贋作汚染列島日本を斬る—続—」、『中央公論』、第110巻9号、中央公論社、1995年、242—250頁
三杉隆敏『真贋物語』、岩波新書、1996年
長谷川公之「長谷川公之の『東西贋作犯科帳』—7—発掘で甦った『古代の秘宝』」、『月刊美術』、第22巻7号、実業之日本社、1996年、100—106頁
長谷川公之「長谷川公之の『東西贋作犯科帳』—8—学者VS商人『佐野乾山』論争」、『月刊美術』、第22巻8号、実業之日本社、1996年、116—134頁
長谷川公之「長谷川公之の『東西贋作犯科帳』—9—『花の女神』の微笑の陰に」、『月刊美術』、第22巻9号、実業之日本社、1996年、100—106頁
長谷川公之「長谷川公之の『東西贋作犯科帳』—10—振子のように揺れたゴッホの真贋」、『月刊美術』、第22巻10号、実業之日本社、1996年、91—98頁
長谷川公之「長谷川公之の『東西贋作犯科帳』—11—書画・陶磁『贋作北大路魯山人』」、『月刊美術』、第22巻11号、実業之日本社、1996年、95—103頁
長谷川公之「長谷川公之の『東西贋作犯科帳』—12—貧しかった『贋作者の中の貴族』」、『月刊美術』、第22巻12号、実業之日本社、1996年、100—101頁
安次富哲雄「特定の者の作として美術品を販売のために陳列している百貨店が右美術品につき贋作の疑いがあるとの週刊誌の記事により名誉又は信用が毀損されたとしてその公刊者に対してする損害賠償又は民法723条所定の処分の請求と右美術品の真贋に対する立証責任(東京高裁判決平成6・9・22)」、『判例時報』、第1549巻、判例時報社、1996年、189—193頁
白州正子「真贋のあいだ(特集加藤唐九郎—桃山に挑んだ陶芸家)」、『太陽』、第34巻12号、平凡社、1996年、6—7頁
無署名「こんな佐伯があるものか—吉薗コレクション真贋レポート(特集佐伯祐三の真実)」、『芸術新潮』、第47巻4号、新潮社、1996年、70—74頁
ナンシー・K・シールズ『安部工房の劇場(原題: Fake fish: the theatre of Kobo Abe)』、安保大有訳、新潮社、1997年
野崎六助『超・真・贋』、講談社、1997年
無署名「イタリア美術紙の指摘に安田火災は困惑—58億円ゴッホ『ひまわり』は贋作!?」、『週刊文春』、第39巻23号、文芸春秋、1997年、167—169頁
長谷川公之「長谷川公之の『東西贋作犯科帳』—14—ナーンチャって《古伊万里》譚」、『月刊美術』、第23巻2号、実業之日本社、1997年、124—138頁
長谷川公之「長谷川公之の『東西贋作犯科帳』—15—フェルメール・贋作者の復讐と打算」、『月刊美術』、第23巻3号、実業之日本社、1997年、93—108頁
長谷川公之「長谷川公之の『東西贋作犯科帳』—16—もし聖母子像が栃材(カスタニエン)の木彫ならば」、『月刊美術』、第23巻4号、実業之日本社、1997年、104—110頁
長谷川公之「長谷川公之の『東西贋作犯科帳』—17—偽鑑定証付きもあった贋作棟方志功『前編』」、『月刊美術』、第23巻6号、実業之日本社、1997年、139—145頁
長谷川公之「長谷川公之の『東西贋作犯科帳』—18—偽鑑定証付きもあった贋作棟方志功『後編』」、『月刊美術』、第23巻7号、実業之日本社、1997年、115—125頁
長谷川公之「長谷川公之の『東西贋作犯科帳』—19—もうひとつの贋作ゴッホ事件」、『月刊美術』、第23巻7号、実業之日本社、1997年、115—125頁
長谷川公之「長谷川公之の『東西贋作犯科帳』—20—『キリコ』を巡るキリコの謎」、『月刊美術』、第23巻8号、実業之日本社、1997年、116—125頁
長谷川公之「長谷川公之の『東西贋作犯科帳』—20—『あんな絵なら誰だって描ける』」、『月刊美術』、第23巻10号、実業之日本社、1997年、99—105頁
長谷川公之「長谷川公之の『東西贋作犯科帳』—22—『ロダン「最後の弟子」は悪質な贋作者だった』」、『月刊美術』、第23巻11号、実業之日本社、1997年、115—123頁
山田和「贋作の面白さ」、『本』、第22巻12号、講談社、1997年、18—20頁
木内宏「NHKの犯罪 盗まれた追分節(第4回)贋作」、『金曜日』、第5巻16号、金曜日、1997年、50—53頁
岩根圀和『贋作ドン・キホーテ ラ・マンチャの男の偽物騒動』、中公新書、1997年
青木茂「よろず手控え帖(5)『にせものほんもの』考」、『近代画説』、第6巻、明治美術学会、1997年、113—117頁
長谷川公之「長谷川公之の『東西贋作犯科帳』—22—『盗難ルノアールと二百点の泰西名画』—前編—」、『月刊美術』、第24巻8号、実業之日本社、1998年、112—121頁
長谷川公之「長谷川公之の『東西贋作犯科帳』—24完—『盗難ルノア—ルと二百点の泰西名画』—後編—」、『月刊美術』、第24巻2号、実業之日本社、1998年、116—126頁
長谷川公之「拾遺贋作犯科帳—手掛けた巨匠は50人 稀代の贋作者キ—ティング」、『月刊美術』、第24巻8号、実業之日本社、1998年、112—121頁
無署名「贋作にもいろいろあるという物語 真作への命がけの挑戦も」、『選択』、第24巻2号、選択出版、1998年、120—123頁
シルビアコクセー「オークションハウスの出来事(4)贋作を見破る7つの方法」、『日経アート』、第11巻8号、日経BP社、1998年、86—89頁
松浦潤『真贋・考』、ふたばらいふ新書、1998年
青山二郎『骨董鑑定眼』、角川春樹事務所、1998年
長浜功『真説 北大路魯山人 歪められた巨像』、新泉社、1998年
鈴木正士「閉じられるテキスト『ドン・キホーテ』—『贋作ドン・キホーテ続編』の導入を中心にして」、『Hispanica』、第42巻、日本イスパニヤ学会、1998年、49—60頁
平尾良光・山岸良二編『石器・土器・装飾品を探る(文化財を探る科学の眼2)』、国土社、1998年
仲畑貴志「この骨董が、アナタです。(3)真贋」、『本』、第23巻3号、講談社、1998年、30—32頁
川島幸希「古書歴訪(11)署名本の真贋(その1)」、『日本古書通信』、第63巻11号、日本古書通信社、1998年、14—16頁
川島幸希「古書歴訪(12)署名本の真贋(その2)」、『日本古書通信』、第63巻12号、日本古書通信社、1998年、16—17頁
黒岩徹「ワールド・ナウ 欧州美術界を震憾させる贋作事件」、『世界週報』、第80巻3号、時事通信社、1999年、60—6頁
無署名「基礎知識2 さらば『贋作』—ニセモノをつかまないためのコレクター心得帳(「特集」絵画購入バイブル99)」、『日経アート』、第12巻3号、日経BP社、1999年、38—40頁
中村啓信「事件推理『古事記』贋作事件の顛末『特集ワイド 徹底比較「古事記」「日本書紀」と古代史料』」、『歴史読本』、第44巻4号、新人物往来社、1999年、167—172頁
古谷可由「あのデッサンが贋作?話題の著書『ゴッホの遺言』をめぐるエピソード(「特集」3つのエピソード)」、『ミュージアム・マガジン・ドーム』、第47巻、日本文教出版株式会社・日本文教出版企画開発部、1999年、4—11頁
山崎真臣「『コラム』贋作・『永仁の壷』顛末記(「特集」偽書の日本史)」、『歴史民俗学』、第15巻、歴史民俗学研究会批評社、1999年、80—83頁
木下長宏編・訳『ゴッホ 自画像の告白』、二玄社、1999年
エリック・へボーン『お騒がせ絵師 自伝—わが芸術と人生』、朝日新聞社、1999年
黒川博行『文福茶釜』、文藝春秋、1999年
トマス・ホーヴィング『にせもの美術史 鑑定家はいかにして贋作を見破ったか』、雨沢泰訳、朝日新聞社、1999年 無署名「気鋭の美術評論家が告発—巨匠アンディ・ウォーホル1億3000万円『名品』に贋作疑惑」、『週刊文春』、第41巻19号、文芸春秋、1999年、34—37頁
飯尾恭之「偽物・本物の判定学序論—特集号にあたっての考古学的視点からの提言(「特集」偽書の日本史)」、『歴史民俗学』、第15巻、歴史民俗学研究会批評社、1999年、28—32頁
水野和彦「『コラム』にせものの価値(「特集」偽書の日本史)」、『歴史民俗学』、第15巻、歴史民俗学研究会批評社、1999年、68—70頁 
落合莞爾「秘録公開/日本近代史の暗部『佐伯祐三・真贋論争』の核心に迫る—陸軍特務吉薗周蔵の手記(38)」、『ニューリーダー』、第12巻5号、はあと出版株式会社/はあと出版、1999年、82—89頁
落合莞爾「秘録公開/日本近代史の暗部『佐伯祐三・真贋論争』の核心に迫る—陸軍特務吉薗周蔵の手記(39)」、『ニューリーダー』、第12巻6号、はあと出版株式会社/はあと出版、1999年、80—86頁
落合莞爾「秘録公開/日本近代史の暗部『佐伯祐三・真贋論争』の核心に迫る—陸軍特務吉薗周蔵の手記(40)」、『ニューリーダー』、第12巻7号、はあと出版株式会社/はあと出版、1999年、94—98頁
落合莞爾「秘録公開/日本近代史の暗部『佐伯祐三・真贋論争』の核心に迫る—陸軍特務吉薗周蔵の手記(41)」、『ニューリーダー』、第12巻8号、はあと出版株式会社/はあと出版、1999年、82—86頁
落合莞爾「秘録公開/日本近代史の暗部『佐伯祐三・真贋論争』の核心に迫る—陸軍特務吉薗周蔵の手記(42)」、『ニューリーダー』、第12巻9号、はあと出版株式会社/はあと出版、1999年、84—88頁
落合莞爾「秘録公開/日本近代史の暗部『佐伯祐三・真贋論争』の核心に迫る—陸軍特務吉薗周蔵の手記(43)」、『ニューリーダー』、第12巻10号、はあと出版株式会社/はあと出版、1999年、72—78頁
落合莞爾「秘録公開/日本近代史の暗部『佐伯祐三・真贋論争』の核心に迫る—陸軍特務吉薗周蔵の手記(44)」、『ニューリーダー』、第12巻11号、はあと出版株式会社/はあと出版、1999年、82—87頁
落合莞爾「秘録公開/日本近代史の暗部『佐伯祐三・真贋論争』の核心に迫る—陸軍特務吉薗周蔵の手記(45)」、『ニューリーダー』、第12巻12号、はあと出版株式会社/はあと出版、1999年、74—79頁
光谷拓美「年輪年代法による年代判定と真贋判定(美術を科学する)」、『日本の美術』、第400巻、至文堂、1999年、80—85頁
長友恒人・横田勝・外山潔「范の熱ルミネッセンス真贋判定とX線回析法による成分分析」、『泉屋博古館紀要』、第16巻、泉屋博古館、1999年、32—48頁
長谷川公之『贋作 汚れた美の記録』、アートダイジェスト、2000年
長谷川公之「現代贋作版画事情」、『月刊美術』、第26巻2号、実業之日本社、2000年、77—85頁 
大谷満「贋作を国宝とする愚かしさ」、『正論』、第329巻、サンケイ新聞社、2000年、56—59頁 
落合莞爾「『佐伯公開作』と『吉薗佐伯』の真実——米子夫人加筆画は贋作ではない『緊急検証 陸軍特務吉薗周蔵の手記(番外編)』」、『ニュ—リ—ダー』、第13巻、はあと出版株式会社・はあと出版、2000年、40—45頁
妹尾浩也「本物よりも本物らしい偽物の行方『特集 写真—世界を写す装置—写真撮影の現場から: 世界をいかに見せるか?—写真の今』」、『国際交流』、第22巻4号、国際交流基金、2000年、26—29頁 
松村喜秀「偽造鑑定人マル秘調査ファイル—偽物がまかり通る日本社会に警鐘」、『世界週報』、第81巻48号、時事通信社、2000年、68頁
今栄蔵「芭蕉の関防印『山昨木』の本物と偽物」、『連歌俳諧研究』、第99巻、俳文学會、2000年、7—19頁
福富太郎「巻頭エッセイ学術的視点と真贋」、『近代画説』、第9巻、明治美術学会、2000年、7—9頁
落合莞爾「秘録公開/日本近代史の暗部『佐伯祐三・真贋論争』の核心に迫る—陸軍特務吉薗周蔵の手記(46)」、『ニューリーダー』、第13巻1号、はあと出版株式会社/はあと出版、2000年、76—80頁
落合莞爾「秘録公開/日本近代史の暗部『佐伯祐三・真贋論争』の核心に迫る—陸軍特務吉薗周蔵の手記(47)」、『ニューリーダー』、第13巻3号、はあと出版株式会社/はあと出版、2000年、46—51頁
落合莞爾「秘録公開/日本近代史の暗部『佐伯祐三・真贋論争』の核心に迫る—陸軍特務吉薗周蔵の手記(48)」、『ニューリーダー』、第13巻4号、はあと出版株式会社/はあと出版、2000年、64—69頁
落合莞爾「秘録公開/日本近代史の暗部『佐伯祐三・真贋論争』の核心に迫る—陸軍特務吉薗周蔵の手記(49)」、『ニューリーダー』、第13巻5号、はあと出版株式会社/はあと出版、2000年、68—73頁
落合莞爾「秘録公開/日本近代史の暗部『佐伯祐三・真贋論争』の核心に迫る—陸軍特務吉薗周蔵の手記(50)」、『ニューリーダー』、第13巻6号、はあと出版株式会社/はあと出版、2000年、66—71頁
落合莞爾「秘録公開/日本近代史の暗部『佐伯祐三・真贋論争』の核心に迫る—陸軍特務吉薗周蔵の手記(51)」、『ニューリーダー』、第13巻7号、はあと出版株式会社/はあと出版、2000年、70—76頁
落合莞爾「秘録公開/日本近代史の暗部『佐伯祐三・真贋論争』の核心に迫る—陸軍特務吉薗周蔵の手記(52)」、『ニューリーダー』、第13巻8号、はあと出版株式会社/はあと出版、2000年、70—75頁
落合莞爾「秘録公開/日本近代史の暗部『佐伯祐三・真贋論争』の核心に迫る—陸軍特務吉薗周蔵の手記(53)」、『ニューリーダー』、第13巻9号、はあと出版株式会社/はあと出版、2000年、72—77頁
落合莞爾「秘録公開/日本近代史の暗部『佐伯祐三・真贋論争』の核心に迫る—陸軍特務吉薗周蔵の手記(54)」、『ニューリーダー』、第13巻10号、はあと出版株式会社/はあと出版、2000年、66—71頁
落合莞爾「秘録公開/日本近代史の暗部『佐伯祐三・真贋論争』の核心に迫る—陸軍特務吉薗周蔵の手記(55)」、『ニューリーダー』、第13巻11号、はあと出版株式会社/はあと出版、2000年、70—76頁
落合莞爾「秘録公開/日本近代史の暗部『佐伯祐三・真贋論争』の核心に迫る—陸軍特務吉薗周蔵の手記(56)」、『ニューリーダー』、第13巻12号、はあと出版株式会社/はあと出版、2000年、44—50頁
榎本隆司「『贋物』(特集葛西善蔵・嘉村礒多の世界—葛西善蔵作品の世界)」、『国文学解釈と鑑賞』、第65巻4号、、2000年、96—100頁
落合莞爾「秘録公開/日本近代史の暗部『佐伯祐三・真贋論争』の核心に迫る—陸軍特務吉薗周蔵の手記(57)」、『ニューリーダー』、第14巻1号、はあと出版株式会社/はあと出版、2001年、72—77頁
落合莞爾「秘録公開/日本近代史の暗部『佐伯祐三・真贋論争』の核心に迫る—陸軍特務吉薗周蔵の手記(58)」、『ニューリーダー』、第14巻2号、はあと出版株式会社/はあと出版、2001年、42—48頁
落合莞爾「秘録公開/日本近代史の暗部『佐伯祐三・真贋論争』の核心に迫る—陸軍特務吉薗周蔵の手記(59)」、『ニューリーダー』、第14巻3号、はあと出版株式会社/はあと出版、2001年、66—72頁
落合莞爾「秘録公開/日本近代史の暗部『佐伯祐三・真贋論争』の核心に迫る—陸軍特務吉薗周蔵の手記(60)」、『ニューリーダー』、第14巻4号、はあと出版株式会社/はあと出版、2001年、46—52頁
松浦潤「古美術界の真贋事情(特集秘宝・名宝の日本史—天皇・戦国武将・伝説の「宝」—特集検証名器・名宝の虚実)」、『歴史読本』、第46巻5号、、2001年、142—149頁
立花隆『立花隆・サイエンスレポート なになにそれは? 緊急取材・立花隆「旧石器ねつ造」事件を追う』、朝日新聞社、2001年


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「光琳・乾山そして蕪村」周辺覚書(その五) [光琳・乾山・蕪村]

その五  乾山の「絵画二」(花籠図)

乾山絵二.jpg

尾形乾山筆「花籠図」一幅 四九・二×一一二・五cm 重要文化財 福岡市美術館蔵(旧松永美術館蔵)

『乾山遺墨』(酒井抱一刊)によれば、十二枚屏風絵の一つと考えられ、現在その屏風絵は分散して残るものは少ない。この図はとくに優れ、乾山の画才が非凡で、卓越したことを証明する作品である。図上の歌に「花といへば千種ながらにあだならぬ色香にうつる野辺の露かな」 (『創立百年記念特別展 琳派(東京国立博物館)』 )

(メモ)

一 「花といへは千種なからにあたならぬ色香にうつる野辺の露かな」は、「三条西実隆」の歌である。

二 この歌の表記で「花といへは」の「へ」は平仮名の「へ」の表記である。「新佐野乾山」もので、「黒地白梅流水八寸皿」(『新発見「佐野乾山」展(「芸術新潮」主催」』頁8・昭和三十七年=一九六二 )に、「ちるはなをいとめてみたし水のうえ」(乾山発句)の賛がある(乾山筆)。この「うえ」の「え」の表記は、乾山の表記として、『創立百年記念特別展 琳派(東京国立博物館)』が開催された、昭和四十七年(一九七二)の頃から何となく気にかかっていたものの一つである。「へ」と「え」と「ゑ」の表記は、「俳諧(連句)・俳句」の世界では、非常に意を払う人が多い。

佐野乾山二.jpg


http://www.ab.cyberhome.ne.jp/~tosnaka/201107/kyouyaki_iroe_kenzan.html

「近世日本陶磁器の系譜」→「京焼色絵再考―乾山」

「『新発見「佐野乾山」展(「芸術新潮」主催」』頁8)では、上記の左の「黒地白梅流水八寸皿」は、モノクロであったが、上記のアドレスもので、カラーのものを目にすることが出来た。

二〇一八年五月二十六日(土)

これまで、主として連句・俳句の表記は、「水の上」は、「上」か「うへ」のものばかりで、
この時代(江戸中期)の発句の表記で、「うえ」は珍しい感じを受ける。また、上記の「花籠図」は、その落款から、乾山が江戸下向する六十九歳以降の作品とされている(下記五)。
そして、上記の「佐野乾山」もの(「黒地白梅流水八寸皿」)は、元文二年(一七三七・七十五歳)二月から翌年の三月にかけて一年二ヶ月の間で、両方とも、ほぼ、同年代(晩成期)のものなのである。
「花籠図」は、国の重要文化財に指定されているもので、こちらを「乾山の真蹟」とすると、この「黒地白梅流水八寸皿」のものは、やや異質という印象は付き纏う。

三 しかし、『西鶴新新攷』の著書を有する元禄文学(「西鶴・光琳・乾山の時代」)の権威者・野間光辰先達は、「新佐野乾山」肯定派のようで、何らかの別な観点からの見方があるのかも知れない。

四 たまたま、『西鶴新新攷(野間光辰著)p318』の中で、次の発句に遭遇した。(これは直接の参考にはならないが、何かしらの参考情報になるのかも知れない。)

(前書き) 形見嵐残置経本来之一(かたみにあらしのこしおくきやうほんらいのいち)
(発句)   きえてゆく身も月の名よ草の霜  


五 『原色日本美術14 宗達と光琳(山根有三著)』の「作品解説114」は次のとおり。

花籠図 尾形乾山筆 神奈川松永記念館 掛幅 紙本着色 京兆逸民紫翠深省 霊海印
 乾山は陶芸・書・顔で知られているけれども、かれが終生もっとも愛着と自信をもっていたのは書であった。書は人なりというように、内面的なもの、教養や人となりを直接に現わすので、古来の文人高士は諸芸のうちでもとくに書を重視していた。内省的で読書を好んだ乾山が書を重んじたのは当然であろう。早くも三十歳のころには、家風の光悦流を離れて本格的に中国の書を学び、みずみずしい一家の風をなした。乾山が陶器にも絵にも好んで書筆をとった大きな理由もそこにある。
 この図は乾山が自ら、《花といへは千種(ちぐさ)なからにあたならぬ色香にうつる野辺の露かな》と記すところから、『源氏物語』の「野分」の段より取材したと考え、三つの花籠は王朝女性の濃艶な姿を象徴するとみる説がある。それはともかく、この籠や草花の描写には艶冶(えんや)なうちに野趣があり、ひそやかになにごとかを語りかけてくるのは確かである。「京兆逸民」という落款からみても、乾山が江戸に下った六十九歳以後の作品となる。

六 この「京兆逸民」というのは、「京都からの隠棲者」というようことを意味するのかも知れないが、次のような「蕪村の出郷」と重なる。

「蕪村は父祖の家産を破敗(ははい)し、身を洒々落洛(しゃしゃらくらく)の域に置きて、神仏聖賢の教えに遠ざかり、名を沽(う)りて俗を引く逸民なり」(『嗚呼俟草(おこたりぐさ)・田宮仲宣著』)

七 蕪村が西国(大阪・京都)から江戸へと出郷したのは、享保二十年(一七三五)、二十歳の頃であるが、乾山が江戸へ下向したのは、享保十六年(一七三一)、六十九歳の時で、この時の乾山の心境は、まさに、落剝たる「京兆逸民」という思いであったであろう。

八 乾山の江戸下向は、表向きは、「輪王寺宮公寛法親王随い江戸下向」(『東洋美術選書 乾山(佐藤雅彦著)』)とあるが、その実態は、「兄(次兄)の光琳も没し、そして、長兄が継ぎ、光琳が引き継いだ隆盛を誇った『雁金屋』も破敗(ははい)し、『雁金屋』一族は、それぞれが身を洒々落洛(しゃしゃらくらく)の域に置き、いわゆる、「一家(一族)離散」というようなことが、陰に陽に何らかの糸が引いているような感じで無くもない。

九 ここで、蕪村は、元文二年(一七三七・二十二歳)に日本橋本石町の夜半亭(一世)宋阿(早野巴人)の内弟子になるが(実態は、宋阿と蕪村とは京都での出逢いがあり、その縁でのものと思われる)。この年、乾山(七十五歳)は、その近くの、上野の入谷で、陶・・画の制作を続けていたのであろう。

十 そして、この江戸下向、そして、江戸(入谷)・佐野時代には、乾山の養子となる「猪八」(仁清の妾腹の子)も同行していて、殊に、製陶関係については、乾山のスタッフとなっていたような記述もある(参考『東洋美術選書 乾山(佐藤雅彦著)』他)。

十一 先の「近世日本陶磁器の系譜」→「京焼色絵再考―乾山」に、次のような貴重な情報の紹介がなされている。

江戸時代

享保16年(1731年)69歳の時、輪王寺宮(注4)公寛法親王(東山天皇第三皇子)が江戸に下向する際に、法親王の孤独な趣味生活のお相手として同行して江戸に移りました。「小西家文書」によると、乾山は「王城の地を、自からのなせる不首尾のままに去りつる事、この上もなき、不屈者に候こと重々肝に命じ候」と、京都での生活をさびしくあきらめて、公寛法親王の仰せもあり、お供して江戸に下向することとなったようです。「自からのなせる不首尾」というのが何なのか明確にはわかりませんが、とにかく京都に居れないような重大な事件があったと想像されます。

江戸に着いた乾山は、兄の尾形光琳が江戸に居た時の寄寓先でもあった深川木場の材木商冬木屋に寄寓し、また、寛永寺領入谷(注5)に窯を築いて焼物を焼きました。乾山は、この数年後下野の佐野に一年余り逗留して作陶しましたが、公寛法親王の病気の知らせを聞いて佐野から急ぎ江戸に戻りました。佐野逗留を挟んだ江戸入谷における作品を「入谷乾山」と呼びます。

法親王は元文3年(1738年)3月に亡くなり、その後乾山は再び焼物を焼いたり絵を描いたりしていましたが、寛保3年(1743年)81歳で亡くなりました。『上野奥御用人中寛保度御日記』には「乾山は無縁の者で死後の世話をする者もなく、地主次郎兵衛なる者が葬式などの世話をし、上野宮より一両を費用として下された」と記してあったということです。
この次郎兵衛が江戸の二代乾山を襲名しました。乾山は81歳で亡くなる前、病床で次郎兵衛に「江戸伝書」や「佐野伝書」には記されていない陶技のコツを口述筆記させました(注6)。この伝書は代々の乾山に受け継がれましたが、六代三浦乾也の没後一時大槻如電が保管していましたが、その後行方不明になっています。

十二 上記の、「『上野奥御用人中寛保度御日記』には『乾山は無縁の者で死後の世話をする者もなく、地主次郎兵衛なる者が葬式などの世話をし、上野宮より一両を費用として下された』と記してあった」というのは、これが、今に轟く、江戸三大陶工の一人、「京兆逸民紫翠深省」こと、尾形乾山の「最期の実像」であったのであろう。

十三 「江戸三大陶工」は、乾山の他に、「野々村仁清・青木木米(もくべい)」で、この三人とも、京都の代表的な陶工である。そして、この青木木米は、蕪村の流れの文人画(日本南画)の傑出した画人の一人である。

(追記)先の「近世日本陶磁器の系譜」→「京焼色絵再考―乾山」掲載の「歴代乾山」は次のとおり。これからすると、乾山が江戸下向する時に、「猪八」は京都に残り、乾山と一緒の江戸下向は無いと解すべきなのであろう。

(参考)歴代乾山

初代乾山が江戸に下向して作陶したため、二代からは京都と江戸に分かれました。
初代乾山が著した「陶工必用」「陶磁製法」「乾山楽焼秘書」などが伝書として伝えられました。乾山はそれぞれの伝書の中で「他見無用」と秘伝であることを強調していたにも拘わらず、乾山の弟子や歴代の乾山から各地の陶器にその秘伝は伝えられました。猪八の弟子清吾から伊勢萬古焼の沼波弄山へ、6代三浦乾也から仙台堤焼の乾馬(庄司義忠)へ、4代抱一上人から江戸の隅田川焼、隅田川焼の佐原(梅屋)菊塢から京都の尾形周平(仁阿弥道八の弟)を介して摂津の桜井焼、播磨の東山焼、淡路の淡路焼などに乾山焼の伝統が伝えられたことは、むしろ喜ぶべきことでした。

      京都    江戸
初代 尾形乾山
二代 猪八(注7)   次郎兵衛(注8)
三代 清吾(注15)   宮崎富之助(注8)
(三代) 宮田呉介(注16)
四代       抱一上人(注9)
五代       西村藐庵(注10)
(六代)       玄々斎(注11)
(六代)      三浦乾也(注12)
六代       浦野繁吉(注13)
(七代)       バーナード・リーチ(注14)

(注7)猪八は乾山の養子で、鳴滝窯を手伝った二代仁清の息子(初代仁清の孫)です。聖護院窯を構えて乾山焼を続けました。

(注8)次郎兵衛と宮崎富之助は入谷の住人。初代乾山にはもう一人宮田彌兵という弟子がいました。

(注9)酒井抱一のこと。抱一は姫路藩主酒井忠仰の次男。尾形光琳に私淑して、琳派の雅な画風に俳味を取り入れた詩情ある洒脱な画風を作り上げ、江戸琳派の祖となりました。37歳で西本願寺の法主文如に随って出家しました。「陶法伝書」は宮崎富之助の妻はるから受け継ぎました。

(注10)西村藐庵(みゃくあん)は吉原江戸町二丁目の名主で、近衛三藐院(このえ-さんみゃくいん)流の書にすぐれ、茶・俳諧・陶芸などにも長じていました。

(注11)玄々斎は西村藐庵(みゃくあん)の次男で、一時六世乾山を襲名していたことが天保十三年(1842年)の『広益諸家人名録』の記述からわかります(書 陶工 乾山。名乾山号玄々斎。緒方深省六世。同所西院乾山藐庵次男)。
しかし、三浦乾也が六代乾山を襲名することになったため、弘化2年(1845年)頃藐庵と同業の吉原江戸町一丁目の名主竹島二左衛門の養子となりました。
藐庵が五代乾山を襲名したのが文政7年(1824年)でしたので、文政年間の後半から天保年間にかけては、玄々斎が六代乾山であったと推測されます。

(注12)三浦乾也は江戸の銀座で徳川家御家人の長男として生まれました。3歳の時父の姉夫婦である井田吉六・タケに引き取られましたが、吉六は江戸焼物を代表する陶工で、将軍家斉(第11代)の前で席焼を行うような名工でした。乾也はその吉六から製陶の手ほどきを受けました。
15歳の時西村藐庵と出会い乾山流陶法を学びました。弘化2年(1845年)24歳で六代乾山を襲名しますが、嘉永6年(1853)浦賀に入港したペリー率いる黒船を見て造艦の必要性を幕府はじめ諸藩に説きました。その後幕末の動乱に巻き込まれて波乱の人生となります。安政元年(1854年)には幕府から命じられ、勝安房(海舟)と共に長崎に行き、オランダ人に洋船製造技術を学びました。更に、安政3年(1856年)には仙台藩に造艦棟梁として招かれ、我が国初の洋式軍艦『開成丸』の建造にあたりました。明治になってからは東京に住んで陶工としてその名を馳せましたが、六代乾山を名乗ることを許されていたにも拘わらず、恐れ多いと生涯乾山の名を用いなかったそうです。

(注13)三浦乾也の弟子の浦野繁吉は、師匠の乾也さえ称えなかった六代乾山を弟子の自分が名乗るのはおこがましいと再三辞退しました。しかし、尾形家(尾形圭助)の養子となっていたので、乾山流陶法の保存の意味で六代乾山を継いだそうです。圭助は乾山の後裔で、東京都町田市の円福寺の過去帳には乾山以来数代の記載があるそうですが、歴史上は乾山は生涯独身だったと考えられています。なお、繁吉は元今戸焼の陶工でした。

(注14)イギリス人の陶芸家バーナード・リーチは浦野繁吉に師事しましたが、繁吉亡き後(大正12年没)昭和44年に娘の尾形奈美(乾女:画家で陶芸家)や乾山顕彰会と計らって、乾山の号は第六代を以て完結することとしたため、リーチは正式には七代目乾山とは名乗っていません。

(注15)清吾は猪八の弟子で、猪八から自筆の陶法伝書を授けられたと言われています。後に桑名の商人沼浪弄山と懇意になり、弄山に猪八の伝書を伝え、これをもとに弄山は伊勢萬古焼を創始しました。

(注16)宮田呉介(弥兵衛)は、文化・文政・天保年間に京都で作陶しました。猪八とは時代的に隔たりがあり、一説によると「勝手に三代乾山を名乗っていた(自称)」ということです。天保年間に京都で乾山の100回忌を開き、かつて乾山が窯を開いた鳴滝の土を用いて追福の香合を百個作陶しました。

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「光琳・乾山そして蕪村」周辺覚書(その四) [光琳・乾山・蕪村]

その四 乾山の「絵画一」(フリーア美術館蔵)

乾山絵一.jpg

Flowers on a hillside   → 「丘野辺花図」屏風
Type Screen (four-panel) → 四曲一隻
Maker(s) Artist: Attributed to Ogata Kenzan (1663-1743) → 尾形乾山筆
Historical period(s) Edo period, dated 1741
Medium Color, ink, gold, gold leaf and silver on paper → 紙本金箔・金銀泥・着色
Dimension(s) H x W: 175.7 x 374.2 cm (69 3/16 x 147 5/16 in)

(メモ) 

一 画人としての尾形乾山は、兄の尾形光琳が没した後、その琳派絵画の継承者として、特に、江戸(入谷)にて、絵画作品を遺している。この大作も、江戸(入谷)・佐野時代(「1731=享保16=69歳」~ )の、乾山の晩成期の作品の一つなのかも知れない。

二 上記の第一扇(拡大図) → 落款(詳細不明)

乾山絵一の一.jpg

 上記の第一扇に落款が施されているが、詳細は読み取れない。しかし、その出だしは「七十六」か「七十八」の感じである。乾山の七十六歳は、元文三年(一七三八)に当たり、その前年の九月に、野州(栃木県)佐野に赴き、いわゆる、「佐野乾山」と称せられる、多くの陶芸作品(「新・真」とを問わず)を遺している。

三 乾山の、江戸(入谷)・佐野時代(「1731=享保16=69歳」~ )については、例えば、『東洋美術選書 乾山(佐藤雅彦著)』で、「最後に一言だけ断っておきたいのは、近年世を騒がせた新佐野乾山なる陶器群は、筆者(佐藤雅彦)の乾山観と相容れないので、ここでは採らないことである」と、どうにも、この江戸(入谷)・佐野時代の十二年間が空白になっている。

四 しかし、これほどおかしいことはない。いわゆる「新佐野乾山の真贋論争」(昭和三十年代)という、一種の「佐野乾山タブー」という亡霊が未だに跋扈していて、肝心かなめの「尾形乾山生涯」のその晩成期にあたる十二年間が、全く闇に葬り去られているのである。

五 この「『光琳・乾山そして蕪村』周辺覚書」のスタートは、いわゆる「新佐野乾山の真贋論争」の、その「真贋」ということを見定めることではなく、そのゴール地点は、その「尾形乾山生涯」のその晩成期にあたる、その十二年間を見定めたいという、ただ、その一点にある。
(追記)

上記の落款を拡大すると次のとおり(七十九翁紫翠深省画)。即ち、寛保元年(一七四一)、七十九歳の時のもので、亡くなる一年前に、この大作を制作しているということは驚きである。

乾山落款.jpg
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「光琳・乾山そして蕪村」周辺覚書(その三) [光琳・乾山・蕪村]

その三 乾山の「御室から鳴滝へ」

乾山遺物.jpg

「鳴滝窯跡出土遺物」(法蔵寺蔵)
隠棲生活に浸っていた乾山は、三十七歳になって洛西鳴滝泉谷の山中で、やきものつくりの道を開いた。鳴滝山は、刀剣の研磨に用いる砥石の産地であったという。光悦の孫・空中斎光甫や楽一入、押小路焼の孫兵衛、仁清などに学んだ乾山の作陶は、嵯峨本や染織意匠、歌意図や物語絵、山水図、また外国陶磁器の文様など時代の好みを大胆に採り入れて、幅広い作品を生み出していた。(『別冊 太陽 尾形光琳 琳派の立役者』)

(メモ)

一 空中斎光甫=本阿弥光甫(ほんあみこうほ)

「没年:天和2.7.24(1682.8.26)  生年:慶長6(1601)
江戸前期の芸術家。本阿弥光悦の養子光瑳の子。光伝の父。空中斎と号した。家業である刀の磨礪,浄拭,鑑定の三業を行うかたわら、祖父光悦にならって茶の湯、作陶、絵画など多才な芸術活動を行った。作陶では手捏ね内窯の楽焼を行い、空中信楽とも呼ばれる信楽風の作品も多く、楽茶碗には「寒月」「侘人」、信楽写しの茶碗には「不二」「武蔵野」などがあり、また信楽写しの桐文水指などが代表作。尾形光琳・乾山(深省)の生家、雁金屋とは姻戚関係にあり、光悦より伝わった楽焼の陶法伝書を尾形権平(深省)に授けたとの伝えもある(佐原鞠塢『梅屋日記』)。光悦の生涯を中心とする本阿弥家の家記『本阿弥行状記』3巻本の内,光悦について記した上巻は光甫の作とされる。法橋となり,寛永18(1641)年には法眼に叙せられた。生年を慶長7(1602)年とする説もある。 (伊藤嘉章) 」出典 朝日日本歴史人物事典

二 楽一入(らくいちにゅう)

「没年:元禄9.1.22(1696.2.24) 生年:寛永17(1640)
江戸中期の陶工。楽家4代。幼名を左兵衛,明暦2(1656)年吉左衛門を襲名。元禄4(1691)年養子宗入に家督を譲り一入と改める。茶碗の器形には3代道入(のんこう)の影響はあまりみられず、むしろ長次郎の作を倣っており、高台などに一入らしさがあるが古格がある。釉技は道入の技を受け継ぎ、赤楽は道入の砂釉に近いものを用いながら、黒楽では道入に稀にみられる黒釉のなかに赤い斑文の現れる朱釉を完成させ、赤楽、黒楽ともに古格の造形にあった落ち着きのある釉調に仕上げている。印は道入の自楽印に似るが「自」の部分が「白」となり、やや小振りで高台内や胴裾から高台脇に捺している。玉水焼初代一元は一入の庶子である。(伊藤嘉章) 」 出典 朝日日本歴史人物事典

三 仁清=野々村仁清=ののむらにんせい 

「生没年未詳。江戸初期(17世紀後半)の京焼の名工。丹波(たんば)国(京都府)野々村の出身と伝えられ、本名は清右衛門(せいえもん)。早くから京都粟田口(あわたぐち)で修業し、ついで瀬戸に赴き茶陶を学んだ。帰洛(きらく)後、茶人金森宗和(かなもりそうわ)の推挙で洛西の御室(おむろ)仁和寺(にんなじ)門前に開窯。門跡から仁和寺の仁と清右衛門の清をとった仁清の号を賜り、以後これを銘印とした。
 仁清の名は慶安(けいあん)2年(1649)の文献に初出する。作品のほとんどが茶器や懐石道具で、当時すでに時流は、従来の「わびさび」から「きれいさび」にかなう華美な茶風に移行し始めていたため、みごとにこの傾向をとらえ、すでに京で試みられていた色絵上絵付(うわえつけ)法を習得し、新様式の頂点にたつ陶工として絶大な声価を得た。その指導者として宗和の存在は大きく、もっぱら宗和好みの「きれいさび」の美意識に基づく茶陶が焼かれた。1656年(明暦2)宗和が没するまでには色絵法を大成し、以後1660年代~70年代が全盛期と推測される。仁清の作陶を代表する色絵陶磁の多くはこの時期の焼造とみられ、梅月・藤(ふじ)・吉野山・若松・芥子(けし)などの茶壺(つぼ)、梅・牡丹(ぼたん)・菊水などの水指(みずさし)、雉子(きじ)や法螺貝(ほらがい)の香炉などが著名で、国宝、重要文化財の指定も多い。茶人や宮方の需要にちなんで形や文様に堂上趣味の意匠の著しいのも仁清作品の特色といえる。
 1694年(元禄7)までには2代清右衛門が家督を継いでいるが、その力量は初代にはるか及ばず、御室焼とも称された仁清窯も一挙に凋落(ちょうらく)したと考えられる。したがって遺品には2代目の作品もあるはずであるが、その弁別は不詳。作品は量産品と一品制作とを区別したものと思われ、現存する「仁清」の捺印(なついん)のある遺品のほとんどは一品制作であり、類型的なものの大半が消失していることが、窯址(ようし)出土の陶片と伝世品との比較から判じられる。[矢部良明]」出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
『河原正彦編『日本陶磁全集 27 仁清』(1976・中央公論社) ▽満岡忠成編『世界陶磁全集 6 江戸(1)』(1975・小学館)』  

四 押小路焼の孫兵衛(まごべえ)

「?-? 江戸時代前期の陶工。京都の人。寛永12年(1635)伝蔵らとともに伊勢津藩主藤堂高次にまねかれ,伊賀(三重県)阿拝郡(あえぐん)丸柱で伊賀焼の茶器などをつくった。」出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plus

「【尾形乾山】より
…近くにあった御室焼の陶工野々村仁清から本格的な陶法を学び,99年仁清の嫡男清右衛門から仁清の陶法伝書を受け、旧二条家山屋敷を拝領して鳴滝泉谷に乾山窯を興して陶工としての生活をはじめた。開窯当初より兄光琳が絵付けや意匠面で協力し、成形,施釉などは押小路(おしこうじ)焼の陶工孫兵衛が担当した。乾山は仁清窯の陶法に押小路焼の交趾(こうち)釉法などを加え〈乾山一流の法〉を案出した。… 」出典|株式会社平凡社世界大百科事典 第2版

五 尾形乾山(おがたけんざん)

「没年:寛保3.6.2(1743.7.22) 生年:寛文3(1663)
野々村仁清と並ぶ江戸中期の京焼の代表的名工、画家。江戸大奥や東福門院などの御用を勤めた京都第一流の呉服商雁金屋尾形宗謙の3男。次兄には尾形光琳がいる。曾祖父道柏の妻は本阿弥光悦の姉で,祖父宗柏が鷹ケ峯の光悦村に居を構えていたように、光悦との繋がりも強い。初名は権平、のちに深省と改名、諱は惟允、扶陸とも称し、習静堂、尚古斎、陶隠、霊海、逃禅、紫翠、伝陸などと号した。乾山はもと京都鳴滝泉谷に開いた窯名であるがのちに号としても用いた。本阿弥光甫から光悦以来の楽焼の陶技を伝授されたとの伝えもあるが(佐原鞠塢『梅屋日記』)、元禄2(1689)年、洛北御室仁和寺の門前双ケ岡の麓に居を構え習静堂と号し、このころから御室窯にいた野々村仁清のもとで陶技を学んだ。元禄12年8月に2代仁清から正式に陶法を伝授され、二条家から拝領した鳴滝泉谷に居を移し尚古斎と号し、仁和寺からの許可を得て窯を開き、この地が京都の西北、乾の方角に位置するところから作品に「乾山」の銘を記した。 乾山窯には押小路焼の陶工孫兵衛が細工人として参加しており、押小路焼の交趾釉法と仁清伝授の釉法とを合わせながら、白化粧と釉下色絵などに代表される乾山窯独特の釉法が確立されていった。作品は「最初之絵ハ皆々光琳自筆」(『陶磁製方』)とあるように兄光琳が絵付し、乾山が作陶と画賛をする合作が主体で、この時代の作品が鳴滝乾山と呼ばれる。正徳2(1712)年洛中の二条丁字屋町に移り、窯は共同窯を使い、独自の意匠による食器類を作り出し、乾山焼の名は広く知られるようになった。享保年間(1716~36)のなかごろには江戸へ下向し、輪王寺宮公寛法親王の知遇を得て入谷に住み作陶を行い、この時期の作品は入谷乾山と呼ばれる。元文2(1737)年には下野国(栃木県)佐野に招かれて作陶を行い、この時期の作品は佐野乾山と呼ばれる。関東時代には絵画制作にも力を注ぎ,また,元文2年,江戸で『陶工必用』,佐野で『陶磁製方』というふたつの陶法伝書を著している。<参考文献>小林太市郎『乾山』,五島美術館『乾山の陶芸 図録編』 (伊藤嘉章) 」出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版

六 陶磁器のかけらは情報の宝庫

www.pref.tottori.lg.jp/195730.htm

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「光琳・乾山そして蕪村」周辺覚書(その二) [光琳・乾山・蕪村]

その二 乾山の花押・年譜など

乾山一の一.jpg

乾山一の二.jpg

尾形乾山「鉄絵染付大根文茶碗」(てつえそめつけだいこんもんちゃわん)江戸時代中期
高8.2cm 口径11.4cm 高台径5.9cm  徴古館蔵 掲載図録=「鍋島家伝来陶磁器名品展」(平成25年)
胴と見込み一面に大根模様を描く。まず大根を白の硝土で描き、呉須で輪郭を取る。葉は呉須絵の部分と錆絵の部分とがある。最後に透明釉をかける。高台脇に落款「乾山(花押)」。花押によると鳴滝時代(1699-1712)のもので、乾山としては早い時代のもの。

www.nabeshima.or.jp/collection/index.php?mode=display_itemdetail&id=260#sub_unit_a

(メモ)

一 「乾山」という号は、「1699=元禄12=37歳」時に、京都の郊外「鳴滝泉谷」に窯場を開き、その窯場が、都の北西(乾)の方角あたることから「乾山」と号した。また、「乾山窯」の名称でもある。

二 この花押は、本名の「権平」の「平」を図案化したものともいわれている(『乾山(佐藤雅彦著)』)。なお、乾山の印章の一つの「尚古」の「古」の図案化のようにも取れる。

三 乾山の「陶工・絵師」としての大雑把な時代区分は次のとおり。

御室時代(「1689=元禄2=27歳」~ ) → 学習期(初代野々村仁清門)
 鳴滝時代(「1699=元禄12=37歳」~ )  → 模索期(二代任清などが細工人)
二条時代(「1712=正徳2=50歳」~ )  → 完成期(「光琳・乾山合作」など)
 江戸・佐野時代(「1731=享保16=69歳」~ ) → 晩成期(「佐野乾山」など)

四 次の花押は、間違いなく、本名「権平」の「平」の花押化である。

乾山一の三.jpg

http://worksshare.seesaa.net/article/58031765.html

五 「乾山年譜」は次のとおり

●乾山関係年表 (参考=法蔵禅寺HOMEPAGE ※=光琳追加 ※※=蕪村追加 )

http://hozo-ji.sakura.ne.jp/

1663=寛文3=1歳   尾形乾山生まれる        ※光琳六歳
1671=寛文11=9歳   祖母一樹院没。妹没(小西家文書)
1672=寛文12=10歳  石川丈山没(90)
1676=延宝4=14歳   母かつ(慈勝院)没。妹二人没(小西家文書
1678=延宝6=16歳   東福門院和子没(72)     ※光琳二一歳
1679=延宝7=17歳   妹二人没。(小西家文書)
1682=天和2=20歳   本阿弥光甫没(82)
1683=天和3=21歳   権平、新三郎と共に伊藤仁斎宅へ年頭挨拶。尾形藤三郎、勘当を解かれ家督を相続。(仁斎日記)
1684=貞享元=22歳   市之丞宛宗謙遺産譲状(小西家文書) ※光琳二七歳
1687=貞享4=25歳   尾形宗謙没(67歳)。印月江墨跡・書簡一式等権平分遺産請書(小西家文書)「深省」と改名。(同年から元禄元年の間)山本素軒、法橋となる。
1689=元禄2=27歳 「習静堂」を建つ。「御門前尾形深省」仁和寺宮寛隆法親王に初御目見得『御室御記』 市之丞と共に二条綱平家へ挨拶『二条家日次記』 市之丞、「浩臨」と改名。
1690=元禄3=28歳  深省、独照および月潭を習静堂へ招待 「霊海」の道号受理(『直指独照禅師後録』)
1692=元禄5=30歳 詩仙堂に遊び、『過凹凸カ記』(出光美術館)を認める。独照、再度習静堂を訪問する(『後録』)市之丞「光琳」と改名か(『内々御番日次記』)※光琳三五歳
1693=元禄6=31歳  二条綱平深省宅御成『二条家日次記』
1694=元禄7=32歳  鳴滝泉谷二条家山屋敷拝領『法蔵禅寺文書』直指庵独照性円寂(78)
1696=元禄9=34歳  光琳宛返金催促書簡『小西家文書』 楽一入没(57)
1699=元禄12=37歳  3月「御門前緒方深省」泉谷築窯並焼物家業許可 「焼物之銘乾山と付申候而焼物商売仕候」 『御室御記』『京都御役所向大概覚書』『陶工必用』 7月薪拝領許可『御室御記』 8月13日仁清陶法伝授『陶工必用』 9月築窯完成『御室御記』 11月20日初窯  仁和寺宮に「緒方深省手作茶碗始而献上之号乾山焼」12月7日「鳴滝村深省近日焼物仕」『御室御記』 ※光琳四二歳
1700=元禄13=38歳  3月「自焼御香炉」二条家へ献上『二条家日次記』 ※光琳四三歳=この頃から乾山焼の絵付を助けるようになる。
1701=元禄14=39歳  2月27日 光琳=法橋(44)
1702=元禄15=40歳  色絵藤原定家十二ヶ月和歌組物①、②、③、④(MOA)
1703=元禄16=41歳  二条家年始御祝焼物皿献上『二条家日次記』色絵石垣皿「日本元禄年製」
1704=宝永元=42歳   8月二条家へ茶碗献上『二条家日次記』 光琳江戸下向 光琳筆「中村内蔵助像」 ※光琳=四七歳=江戸に下向
1705=宝永2=43歳   銹絵山水図四方鉢「宝永乙酉」
1706=宝永3=44歳   銹絵山水図四方鉢 銹絵牡丹唐草文鉢
1708=宝永5=46歳   二条家年頭御礼茶碗献上『二条家日次記』
1710=宝永7=48歳   8月朔二条家へ茶碗献上『二条家日次記』 銹絵松鶴図六角皿「宝永庚寅歳」 ※光琳五三歳=前年に京都に戻る
1711=正徳元=49歳   正月二条家へ御礼火入献上『二条家日次記』 銹絵六歌仙額皿「宝永辛卯」 銹絵梅図角皿「宝永辛卯歳三月五日造」(根津美術館) 銹絵松図角皿「宝永辛卯春」 銹絵柳文重香合「乾山尚古斎 正徳年製」(大和文華館) 色絵唐子図筆筒「宝永年製」
1712=正徳2=50歳 鳴滝泉谷屋敷桑原空洞へ譲渡廃窯 「二条通寺町西入ル北側」に移居 「焼物商売仕」「三条粟田口五条坂辺」て借窯 『京都御役所向大概覚書』『法蔵禅寺文書』
1713=正徳3=51歳 『倭漢三才図会』山城国土産瓷器の中に乾山の名所見 月潭道澄寂
1714=正徳4=52歳 2月公寛法親王、江戸へ下向
1715=正徳5=53歳 正月二条家年始花筒茶碗献上『二条家日次記』 「錦手乾山音羽焼」(近松『生玉心中』) 台獅子香炉「正徳五年」(スタンフォード大学)
1716=享保元=54歳 6月光琳没(59)『小西家文書』 ※※蕪村生まれる=一歳
1717=享保2=55歳  3月光琳後家尚貞(多代)売主の家屋敷売券状に「売請人二条通丁字屋町尾形深省」『小西家文書』
1718=享保3=56歳  5月公寛法親王上洛
1725=享保10=63歳  「乾山焼ノ皿」『槐記』
1728=享保13=66歳  独楽園記大鉢「享保年製」
1731=享保16=69歳  10月公寛法親王に隨行。江戸下向か『佐野伝書』 4月公寛法親王上洛 百拙和尚鳴滝泉谷に幽棲か
1732=享保17年=70歳  瀧図 2月二条綱平薨(61)
1733=享保18年=71歳  乾山焼所見『近代世事談』 4月百拙和尚法蔵禅寺寺籍を鳴滝泉谷に移す ※※蕪村の江戸下向は享保二〇(二十歳)の頃か
1737=元文2=75歳  江戸伝書『陶工必用』(大和文華館) 9月野洲佐野に遊ぶ 佐野伝書『陶磁製法』 「愚息猪八京聖護院宮様御門境にて本焼内焼共に相勤罷在」『陶磁製法』
1738=元文3=76歳  公寛法親王薨(42)
1739=元文4=77歳  春柳画(大和文華館)、人参図 法蔵禅寺堂宇落成
1740=元文5=78歳  雪松画(MOA)、松梅図、蝶・菊図、楓図、「輪王寺宮追善歌」
1741=寛保元=79歳  桔梗図(MOA)、燕子花図屏風、雪竹図、百合紫陽花図、竹図扇面、梅図(根津美術館)、雪松図(根津)、松・燕子花図屏風
1742=寛保2=80歳  朝妻船歌賛、呉竹画賛、春草図扇面
1743=寛保3=81歳  6月2日没(辞世和歌並偈)『上野寛保度御日記』 柳図(福岡市美術館)、十二ヶ月和歌花鳥図、波図、竹図、雪松図(五島美術館)、四季花鳥図屏風(五島) 蛇籠薄絵乱盆(大和文華館) 短冊皿「乾山八十一歳写」(湯木美術館) ※※この翌年(寛保四=延享元年=二九歳)蕪村、宇都宮で「歳旦帖」を刊行、号を蕪村に改める 

六 蕪村の花押関係は、次のアドレスなど。

http://yahan.blog.so-net.ne.jp/search/?keyword=%E8%95%AA%E6%9D%91%E3%81%AE%E8%8A%B1%E6%8A%BC
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「光琳・乾山そして蕪村」周辺覚書(その一) [光琳・乾山・蕪村]

その一 光琳書状(「光琳」の基本的姿勢)

書状一.jpg

(尾形光琳書状) 宝永五年八月四日付 上嶋源丞宛書状 大和文華館蔵

※ 上記書状の下段の「読みと意味の要約」は次のとおり。(参考文献『別冊太陽 尾形光琳』など)

有増ノ貌手足ノ
しるし斗して其余ハ
中にてぐわさ(ぐわさ)と
御書ならひ可被成候
雪舟之絵毎日
五七幅つヽ見申候 随分
写申候 とかくねぶり付
たる様ニ書申候ハ絵ニて
なく候 とかく我か物ニ
成やうニ御心へ何とそ(何とそ)
上手に御成可被成候
(以下略)

(要約) 顔とか手足は細かく描かず、「がさがさ」と大胆に描くようにしなさい。雪舟の絵を、毎日五・七幅を写しているとは、相当なものですが、「粘っこく」描くと、絵にはなりません。感ずるままに自分の心を満たすことを第一に、何とぞ頑張ってください。

 この文面の前に、次のような文面がある。

とかく常ノ消息を
相認候心ニ絵も書
候ハねば絵よくハ無之候
焼筆などもあまり
とくとあてぬがよく候

(要約) 日常の手紙を書くような心で絵も描かなければ絵はよくなりません。(下書きに用いる)焼筆などもあまりじっくりあてない方がいいのです。

(メモ) 

一 宝永五年(一七〇八、光琳・五十一歳)、光琳は江戸に居た。この前年に、「酒井家より十人扶持を受け、一時帰京したが、妻(多代)を伴って再下向している(この年に、富士山の噴火があった)。

二 この書状は、江戸(光琳)から京都(上嶋源丞宛)へのものである(上嶋源丞は、京都の町衆の光琳門の一人なのであろう)。

三 この書状に、光琳の「基本的な姿勢」が窺える。

「とかくねぶり付たる様に書申候ハ絵ニテなく候」(要約=粘っこい重たい線で作り込んだものは、絵にはならない。(伸びやかに大胆に生きた線で描くことが何よりも大切だ。)

四 この書状は、光琳の「基本姿勢。書体」などの基本となるとともに、「乾山」等の「基本姿勢・時代背景・書体」などの、その前提になるものとして、すべからく、ここからスタートとすることとしたい。

五 「光琳書状」などは極めて少ないが、「乾山書状・手控えもの」などは、いわゆる、「佐野乾山真贋論争」などに関して、極めて多く、その「肯定・否定」とは問わず、その意味でも、この書状を基本に据えたい。

六 そして、「光琳・乾山」と「蕪村」とのかかわりは、次のとおり。

1 享保元年(一七一六)、光琳が没した年(享年・五十九、この時、乾山、五十四歳)に、与謝蕪村(一歳)は誕生した。

2 元文二年(一七三七)、乾山(七十五歳、江戸へは六十九歳の時)、この九月に東国の「野州路(佐野)」を遊行していた。この頃、蕪村(二十二歳)は、西国(大阪・京都)から東国(江戸)へと移住している。

3 寛保三年(一七四三)、乾山は八十一歳の生涯を東国(江戸)にて閉じた。

4 寛保四年(延享元年=一七四四、蕪村、二十九歳)、東国(宇都宮)にて、『歳旦帖』を刊行して、ここで、終生の号となる、「蕪村」を名乗ることとなる。

5 すなわち、蕪村は、光琳が没した時に誕生し、そり光琳の後継者の乾山が没した時に、その終生の号の「蕪村」を得ることとなる。

6 「佐野乾山窯」の背景は、蕪村の東国出遊時代と重なる。しかし、あくまでも、この「覚書」の主たる狙いは、「乾山」その人にある。
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江戸絵画(「金」と「銀」と「墨」)の空間(その一) [金と銀と墨の空間]

(その一)池田孤邨の「表・紅葉に流水図屏風」と「裏・山水図屏風」

池田孤邨一.jpg

池田孤邨「紅葉に流水図屏風」 六曲一双(表) 紙本金地着色 安政三年(一八五六)

池田孤邨二.jpg

池田孤邨「山水図屏風」 六曲一双(裏) 紙本墨画 安政五年(一八五八)
各一六六・〇×三四三・〇cm フリーア美術館蔵
【 色鮮やかな紅葉が流水の上に浮き沈みし、水辺には秋草が咲き乱れる。『光琳百図』に掲載されるような光琳の楓図屏風に影響を受けながら、抱一の「夏秋草図屏風」のモチーフも取り入れている。孤邨は「雨風にちれる花紅葉露霜にをれ伏す秋芒」が雅で哀れ深い我が国の心である、と述べており(『抱一上人真蹟鏡』序文)、まさに彼の信念を謳いあげた晩年の大作。対照的に裏面は水墨山水となっており、批判しつつも「もろこしの画」に造詣の深かった孤邨の両面をみることのできる作品である。 】
(『別冊太陽 江戸琳派の美(監修=岡野智子)所収「池田孤邨(岡野智子稿)」)

Pair of six-panel screens: Maple leaves on a stream (front); mountain views (reverse) → 屏風表・「紅葉に流水図屏風」、屏風裏・「山水図屏風」
Type Screens (six-panel) → 六曲一双
Maker(s) Artist: Ikeda Koson 池田孤村 (1801 - 1866)
Historical period(s) Edo period, 1856-1858
Medium Ink and color on gilded paper; ink on paper
Dimension(s) H x W (image, each screen): 166.3 × 343.2 cm (65 1/2 × 135 1/8 in)

 これまでの「風神雷神図幻想」そして「江戸の金と銀との空間」などの、そのゴール地点に位置するものとして、単純に「琳派(装飾画)」と「文人画(水墨画)」とを両睨みしている、江戸琳派の創始者・酒井抱一の高弟・池田孤邨(孤村)の、上記の「表・『紅葉に流水図屏風』」と、その「裏・『山水図屏風』」とを、その筆頭に挙げることも面白いであろう。

 この「表・『紅葉に流水図屏風』」は、まさしく、光琳そして抱一の後継者の一人である池田孤邨の真骨頂の作品と解して差し支えなかろう。

 そして、その「裏・『山水図屏風』」は、例えば、孤邨が師筋としている「宗達→光琳→抱一」の「琳派(公的空間)」に比して、そのアンチの「文人派(私的空間)」を象徴するところの「山水図」(「漢画」の私的投影的「山水図」)と、これまた解して差し支えなかろう。

 そして、それは、これまでの「金(ゴールド)」と「銀(シルバー)」の対比の世界ではなく、「表・『紅葉に流水図屏風』」が、公的な「晴(ハレ)」の空間(琳派的「公的空間」)とすると、「裏・『山水図屏風』は、私的な「褻(ケ)」の空間(文人派的「私的空間)」ということになる。
 と同時に、「金(ゴールド)」と「銀(シルバー)」とは、どちらも、「着飾った」空間を醸し出すということに対して、「水墨(水と墨)」の世界は、「着飾らない・地そのもの」の空間を醸し出すということに他ならない。
 また、「琳派(装飾画)」と「文人画(水墨画)」とを両睨みしているということは、たまたま、上記の「表・『紅葉に流水図屏風』」と「裏・『山水図屏風』」とに関してのものであって、池田孤邨その人に関してのものではないということは、やはり、特記しておく必要があろう。

(再掲) http://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-05-14

【  池田孤邨(孤村)   没年:慶応2.2.13(1866.3.29) 生年:享和1(1801)
江戸後期の画家。名は三信、字は周二、号は蓮菴、煉心窟、旧松道人など。越後(新潟県)に生まれ、若いころに江戸に出て酒井抱一の弟子となる。画風は琳派にとどまらず広範なものを学んで変化に富む。元治1(1864)年に抱一の『光琳百図』にならって『光琳新撰百図』を、慶応1(1865)年に抱一を顕彰した『抱一上人真蹟鏡』を刊行する。琳派の伝統をやや繊弱に受け継いだマンネリ化した作品もあるが、代表作「檜林図屏風」(バークコレクション)には近代日本画を予告する新鮮な内容がみられる。<参考文献>村重寧・小林忠編『琳派』 (仲町啓子稿) 】『朝日日本歴史人物事典』

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江戸の「金」と「銀」の空間(その十一) [金と銀の空間]

江戸の「金」と「銀」の空間(その十一)

(その十一)光琳の「金と銀(縮図)」(『光琳新撰百図下』所収「松島図屏風」)

新撰百図㈠.jpg

(『光琳新撰百図下』所収「松島図屏風」29/38)

新撰百図二.jpg

(『光琳新撰百図下』所収「松島図屏風」30/38)

 上記は、抱一が編んだ『光琳百図』ではなく、抱一の高弟・池田孤邨が編んだ『光琳新撰百図』所収「松島図屏風」のものである。
 この池田孤邨のプロフィールは次の通りである。

【  池田孤邨(孤村)   没年:慶応2.2.13(1866.3.29) 生年:享和1(1801)
江戸後期の画家。名は三信、字は周二、号は蓮菴、煉心窟、旧松道人など。越後(新潟県)に生まれ、若いころに江戸に出て酒井抱一の弟子となる。画風は琳派にとどまらず広範なものを学んで変化に富む。元治1(1864)年に抱一の『光琳百図』にならって『光琳新撰百図』を、慶応1(1865)年に抱一を顕彰した『抱一上人真蹟鏡』を刊行する。琳派の伝統をやや繊弱に受け継いだマンネリ化した作品もあるが、代表作「檜林図屏風」(バークコレクション)には近代日本画を予告する新鮮な内容がみられる。<参考文献>村重寧・小林忠編『琳派』
(仲町啓子稿) 】『朝日日本歴史人物事典』

 上記の作者紹介中の「檜林図屏風」(バークコレクション)は、下記のものである。

水墨画㈠.gif

池田孤邨「檜図屏風」紙本墨画 二曲一隻 ㈠五〇・六×㈠六〇・二cm
メトロポリタン美術館蔵 バークコレクション
【 紙の素地に水墨のみで檜の樹林が描かれる。墨の濃淡で檜の幹、細やかな葉を表わし、静寂な世界が広がっている。檜の樹林は宗達以来の琳派の画題で、光琳画にもあったことが『光琳百図』後編・上からも知られる。其一がこれを大胆にアレンジした「三十六歌仙・檜図屏風」や「夏秋渓流図屏風」があるが、孤邨は全く異なる情趣的な捉え方を試みている。 】 (『江戸琳派の美 抱一・其一とその系脈(岡野昌子監修)』所収「作品解説(岡野昌子稿)」)

 江戸琳派の創始者・酒井抱一が、文政十一年(㈠八二八)没した後、「江戸琳派」には、抱一の名跡を守る「雨華庵(うげあん)」(二代「鶯蒲(おうほ)」・三代「鶯㈠(おういつ)・四代道一(どういつ ))の流れ、抱一の一番弟子の「其一(きいつ)」の流れ、そして、その他の「池田孤邨他の抱一門の流れ」の、三つの支流に分かれて行くこととなる。
 そういう三つの流れの中で、抱一が編んだ『光琳百図』に続く、(『光琳新撰百図』を編んだ、抱一の一番弟子の其一と並び称せられる「池田孤邨」という存在は、単に、「江戸琳派」という関連だけではなく、上記の「檜図屏風」の如く、江戸後期の「水墨画」の名手として、「装飾画(金・銀・濃彩)」と「水墨画(水・墨・淡彩)」との、その止揚を試みた画人という観点でも、異彩を放っている。
 そして、「金(ゴールド)」「銀(シルバー)」の世界が、公的な「晴(ハレ)」の空間(「客間的」空間)とすると、「水墨(モノクロ)の世界」は、私的な「褻(ケ)」の空間(「居間的」空間)」という印象を深くする。
 ここで、これまでの「江戸の『金』と『銀』の空間」を、「江戸絵画(『金』と『銀』と『墨』)の空間」とネーミングを変更し、また、これまで「江戸時代(前期・中期・後期)」を中心としてきたが、長谷川等伯らの「桃山時代」まで、範囲を広げて行くこととする。

『光琳新撰百図下』所収「松島図屏風」

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/850483
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江戸の「金」と「銀」の空間(その十) [金と銀の空間]

(その十)光琳の「金と銀」(「白楽天屏風図」)

白楽天図屏風一.jpg

尾形光琳筆「白楽天図屏風」 紙本金地着色 六曲一隻 個人蔵
一四八・〇×三六一・〇cm → A図
【 白楽天と住吉明神が問答する謡曲「白楽天」を題材とする。向かって右の唐船に乗る のが白楽天。左の小舟上の老人が住吉明神。室町時代の大和絵屏風に出てきそうな古風な山の造形と、唐船の大胆な構図とのバランスが面白い。同工異曲の作品が他にもう一点ある。 】(『もっと知りたい尾形光琳(仲町啓子著)』)

 この「作品解説」の「同工異曲の作品が他にもう一点ある」というのは、次の「根津美術館蔵」作品(B図)のことであろう。

白楽天図屏風二.jpg

尾形光琳筆「白楽天図屏風」 紙本金地着色 六曲一双 根津美術館蔵
一五四・〇×三六二・〇cm  → B図

 ここで、上記の「個人蔵」作品(A図)と「根津美術館蔵」作品(B図)との、「浪」などに関する表現の違いについて触れて置きたい。

一 「個人蔵」作品(A図)の波は、「浪」というよりも「山」という感じで、本来のものは、「根津美術館蔵」作品(B図)の「浪」のように、「銀泥・胡粉・群青」などが施されていて、その「銀泥」などは、酸化して「黒変」しているような印象を受ける。
 この「銀(泥)」の酸化による「黒変」は、「松島図屏風」(大英博物館蔵)の「白い波濤」の「黒変」と酷似している(「その九」の「C図」)。

二 「根津美術館蔵」作品(B図)の波は、上部の金箔・金砂子の「金雲」、左辺の緑青の「土坡」と調和して、墨線・胡粉(白)・銀泥・群青などで「波」を表現し、特段に、この「波」の異様さは見られない。しかし、波の背の銀(泥)などは、制作時のものに比すると酸化(黒変化)は免れないのであろう。

 なお、下記のアドレスで、光琳の波濤図関連のものは、北斎の「神奈川沖浪裏」(横大判錦絵)などに大きな影響を与えているのだろうということについて触れたが、今回の「白楽天図屏風」との関連で、その「船」の傾きなども、やはり、光琳の影響というものが垣間見えてくる。

http://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-04-30

神奈川沖浪裏.jpg
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江戸の「金」と「銀」の空間(その九) [金と銀の空間]

(その九)宗達と光琳の「金と銀」(「松島図屏風」)

松島一.jpg

俵屋宗達筆「松島図屏風」(右隻) 紙本金地着色 六曲一双 各一五ニ・〇×三五五・七cm フリーア美術館蔵 → A-1図

松島二.jpg

俵屋宗達筆「松島図屏風」(左隻) 紙本金地着色 六曲一双 各一五ニ・〇×三五五・七cm フリーア美術館蔵 → A-2図
【 六曲一双の長大な画面を使い、右隻に海中に屹立する二つの岩、左隻には磯の浜松と波に洗われる小島を添える。左右の画面は砂浜と波によって連携する。松島は古来名所絵として描かれたが、このような大画面に展開、壮観な装飾画として成功させた宗達の手腕はみごとというべきか。千変万化の波の描写が素晴らしく、海潮音が聞こえてくるようだ。 】
(『もっと知りたい 俵屋宗達 村重寧著』)
(特記事項)「松島」と題されているが、名所松島の風景ではなく、依頼主である豪商谷正安が堺に祥雲寺を建てた記念に自分の道号「海岸」のイメージを絵画化させたものである、という仲町啓子氏の研究がある。(『俵屋宗達 琳派の祖の真実(古田亮著)』)

松島図屏風一.jpg

尾形光琳筆「松島図屏風」六曲一隻 一五〇・二×三六七・八cm ボストン美術館蔵
→ B図
【光琳は宗達の松島図屏風に倣った作品を何点か残している。本屏風はその一つで、宗達作品の右隻を基としている。岩山の緑青などに補彩が多いのが惜しまれるが、宗達作品と比べると、三つの岩山の安定感が増し、左斜め奥へと向かう位置関係が明瞭となり、うねりや波頭が大きくなり、波の動きがより強調されている点が特徴として挙げられる。 】
(『別冊太陽 尾形光琳 琳派の立役者』所収「作品解説」(宮崎もも稿)」)

 上記の「作品解説」のとおり、光琳の「松島図屏風」は何点かある。その代表的なものが、上記のボストン美術館蔵(六曲一隻・B図)もので、宗達作品の右隻(A-1図)を基としている。
その他に、大英博物館蔵(二曲一隻・C図)のものが知られているが、それは、宗達作品の右隻(A-1図)の一扇、上記の光琳作品(B図)の一・二扇に基づいている。
 現在では、これらの宗達作品(A-1図・A-2図)も光琳作品(B図・C図)も、「松島図屏風」の名で知られているが、これらは、日本三景の松島を描いた作品ではなく、かつては「荒磯屏風」と呼ばれていて、宗達作品は、堺の豪商・谷正安が作成を依頼し、堺の祥雲寺に寄贈されたもののようである(上記「特記事項」など)。
 そして、この「荒磯屏風」から「松島図屏風」の、このネーミングの改変には、どうやら、尾形光琳の後継者を自負して、その百回忌をも主催した「江戸琳派の創始者」たる「酒井抱一」が絡んでいねようなのである。
 ここで、決定的なことは、「江戸琳派の創始者」たる「酒井抱一」は、その元祖を「尾形光琳」に置き、その光琳が目標として「俵屋宗達」は、さほどの重きを置かなかったということに他ならない。
 抱一にとって、宗達が描いたとされる西国の堺周辺の「荒磯屏風」は、それを模した光琳の「荒磯屏風」を通して、「海(波)に浮かぶ『松・島(屏風)図』」として、西行・芭蕉に通ずる『東国』の『奥の細道』を象徴する『松島』」などは、思いも浮かばなかったのであろう。

松島図屏風二.jpg

尾形光琳筆「松島図屏風」 紙本金地着色 二曲一隻 一四六・四×一三一・四cm 大英博物館蔵 → (C図)
【宗達の「松島図屏風」(米・フリーアギャラリー)の右隻二扇分に元に基づいた作品。光琳には同工異曲の作品を描いている。海中からそそり立つ岩には、蓬莱山にも通ずる寿福のイメージがあった。白い波濤を銀色(酸化して黒変)にし、岩や波の形も変えて、正面性の強い構図にしている。】(『もっと知りたい尾形光琳(仲町啓子著)』)。

 この解説文の、「白い波濤を銀色(酸化して黒変)にし、岩や波の形も変えて、正面性の強い構図にしている」に注目したい。この「白い波濤」は、「金(ゴールド)」に比する「銀(シルバー)」の世界だったのである。
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