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「光琳・乾山そして蕪村」周辺覚書(その十三) [光琳・乾山・蕪村]

その十三 乾山の「絵画六」(「紅葉図」)

乾山紅葉図.jpg

尾形乾山筆「紅葉図」 紙本着色 一幅 三〇・五四×四三・一cm
「紫翠深省・『霊海』朱文方印」 MIHO MUSEUM蔵
【『新古今和歌集』源信明の「ほのほのと有明の月のつきかけに紅葉吹おろす山おろしの風」を散らし書きし、その歌意と同じように月夜に山の紅葉が舞い落ちている。光琳波模様の川面に散った紅葉の様子は錦を折ったようで、乾山の意匠の豊かさをいかんなく発揮している。歌と絵が渾然一体となり、文人乾山の雅味あふれる一作である。】(『尾形乾山開窯三〇〇年・京焼の系譜「乾山と京のやきもの」展』)

光琳躑躅図.jpg

尾形光琳筆「躑躅図」 一幅 絹本着色 三九・三×六〇・七cm 
畠山美術館蔵 重要文化財

https://www.ebara.co.jp/csr/hatakeyama/colle008.html

【「たらし込み」で描かれた土坡と流水のほとりに、鮮やかな紅色の躑躅が空に向かって枝を伸ばす。その手前に、白い躑躅がひっそりと咲く姿が、また対照的で美しい。流水を挟んで左右に大小の土坡も配しており、本図は小品ながらも、このような形や色彩の対比が見事に計算されている。まるで箱庭でもみるかのようにすべてが縮小された作品には、洗練された意匠感覚が反映されている。作者の尾形光琳(1658~1716)は江戸時代中期に絵師として活躍した。】

 この光琳の「躑躅図」について、「この大胆なタッチは、雪舟筆と伝える発墨山水画によくみうけるもの。宝永五年(一七〇八)の光琳書状によると、毎日雪舟の絵を模写しているとあるから、光琳が雪舟風発墨山水画から学んだのは確かであろう」(『原色日本美術14 宗達と光琳(山根有三著)』の「作品解説87」)と、光琳の小品中の傑作画として、夙に知られているものの一つである。
 冒頭の乾山の「紅葉図」は、この光琳の「躑躅図」を念頭に置いてのものであろう。そして、光琳の「躑躅図」は、宗達の「たらし込み」を意識してのものとも思われる。その宗達の「たらし込み」は、次の「犬図」などで、夙に知られているものである。

宗達犬図.jpg 

俵屋宗達筆「犬図」 一幅 紙本墨画 九〇・二四×四四・六cm
個人蔵 (宗達法橋 対青軒印)

 この宗達の「たらし込み」の犬は、光琳・乾山の次の時代の京都画壇の立役者・円山応挙に、即興的に引き継がれて行く。下記は、その応挙の「たらし込み」の犬で、その応挙の画に、「己か身の闇より吼て夜半の秋 蕪村」と賛をしたのは、与謝蕪村その人である。

犬図.jpg

蕪村賛・応挙画「己が身の・黒犬図」 紙本墨画 一幅
一九・六×二六・八cm 個人蔵

 ここに来て、冒頭の乾山の「紅葉図」の書画一体の世界は、「光琳と乾山」のコラボレーション(共同)の世界であり、そして、その背後には、「宗達と光悦」との、そのコラボレーションの世界が横たわっていることを思い知る。
 そして、その、一時代を画した、「宗達・光悦」、そして、「光琳・乾山」のコラボレーションの世界は、江戸中期の京都画壇に燦然と輝いた、写生派の巨匠・応挙と文人画の樹立者・蕪村、さらには、その時代に共に切磋琢磨した、「若冲・大雅・蕭白・芦雪・呉春」等々の、コラボレーションの世界でもある。
 さらに、特記して置きたいことは、冒頭の文人・乾山の、この書画一体の世界は、画(絵画)・俳(詩)二道を究めた、次の時代の郷愁の詩人・与謝蕪村の、その世界とすこぶる近い世界のものということを付け加えて置きたい。
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「光琳・乾山そして蕪村」周辺覚書(その十二) [光琳・乾山・蕪村]

その十二 乾山の「絵画五」(「八ツ橋図」)

八橋一.jpg

http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/127144

尾形乾山筆「八ツ橋図」 一幅 紙本着色 国(文化庁) 重要文化財(美術品)
縦二八・六cm 横三六・六cm 紫翠深省写之 習静堂・深省印 

本作品は、『伊勢物語』という歌物語(全125段)の第九段を典拠とするものである。『伊勢物語』は、ある貴族の一生を和歌と短い文章によって表したもので、遅くとも11世紀初めには成立していたと考えられている。第九段は、都から追い出された主人公の一行が、八橋という土地に咲いた杜若を見て都に残してきた妻を思いだす和歌を詠み、皆で涙するという内容である。画面には、土地を暗示する橋と場面の重要なモチーフとなる杜若が描かれ、その余白に、第九段の和歌と文章の一部が書きつけられる。
 作者は、我が国陶芸史上に偉大な足跡を残した尾形乾山(1663~1743)である。乾山は、江戸時代を代表する画家の一人尾形光琳の弟で、絵画性と意匠性に富んだ、従来にない陶器を制作したことで知られる。その才能は陶器制作に留まらず、兄光琳の画風を慕いながら、陶器の絵付けを思わせる独特の趣を持つ絵画作品も残した。本作はその乾山の資質がいかんなく発揮された作例で、杜若と橋を描く筆致はのびのびとして律動感があり、線描の単純さは絵でありながら書のような味わいを持つ。書は絵の余白を満たして水紋のように感じられ、白い紙地に広がる絵と書が渾然一体となり、独自の境地を作り出している。乾山の絵画の中でも定評があり、詩歌を愛した乾山らしさの横溢する極めて貴重な作例である。
 なお、款記には「紫翠深省寫之」とあり、白文「習静堂」印と白文「深省」印を伴う。

(メモ)

一 この図の上段には、『伊勢物語』(第九段・東下り)の「かきつばた」の五文字を句の上に据えた一首が記載されている。

  から衣 (唐衣)
  き (着) つつなれ (慣れ) にし
  つま (妻) しあれば
  はるばる来ぬる
  たび (旅) をしぞ思ふ

二 その下段には、その一首の前の、次の文章が記載されている。

  その沢にかきつばた
  いとおもしろく咲きたる
  それを見てある人のいはく
  かきつばたと
  いふ五文字を
  句の上にすへて
  旅の心をよめと
  いひければ
  よめる

三 上記の解説文にあるとおり、「書は絵の余白を満たして水紋のように感じられ、白い紙地に広がる絵と書が渾然一体となり、独自の境地を作り出している」と、書画一体の乾山の世界の代表的な作品に数えられている。

四 白文方印の「習静堂」は、三十歳前の、乾山が京都御室の仁和寺前に建てた別荘の名で、それに因んで乾山の若書きとする説もあるが、「書風や落款の『深省』の『深』字が古字で書かれている(享保五年・一七二〇、五十八歳ごろから用いた)ことから、この図は六十歳以後の晩年作と考えられる」】(『原色日本美術14 宗達と光琳(山根有三著)』の「作品解説113」)。

五 『伊勢物語』(第九段・東下り)は、上記の解説文の、「都から追い出された主人公の一行が、八橋という土地に咲いた杜若を見て都に残してきた妻を思いだす和歌を詠み、皆で涙するという」というもので、そして、その主人公の在原業平と同じく、都落ちし、江戸下向を享受した、尾形光琳・乾山兄弟にとっては、それぞれの節目を物語るような、忘れ得ざる画題ということになろう。光琳には、その名を不動のものにした、次のような作品群を遺している。

(A図 「燕子花図屏風」・国宝・根津美術館蔵)

八橋二.jpg

(B図 「八橋図屏風」・メトロポリタン美術館蔵)

八ツ橋図三.jpg


(C図 「八橋蒔絵螺鈿硯箱」・国宝・東京国立博物館蔵)

八橋三.jpg

(D図 「伊勢物語八橋図」・東京国立博物館蔵・掛幅)

八橋図四.jpg

(E図 「燕子花図」・大阪市立博物館蔵・掛幅)

八橋五.jpg

六 これらの「八橋図」などの原型は、「伊勢物語図色紙」にあり、その全体については、下記アドレスで見ることが出来る。

file:///C:/Windows/SystemApps/Microsoft.MicrosoftEdge_8wekyb3d8bbwe/Assets/WebNotes/WebNotesContent.htm

その「八橋図」は、「第9段-1 八橋」で、大きさは色紙大「縦30.8×横24.4(図縦23.4×横17.0)」、そして、その全体は、「五十葉」(紙本着色)から成る。

七 これらには、何種類かのものがあり、中でも、「伝宗達」の「出光美術館蔵」や「泉屋博古館所蔵」のものは、冒頭の乾山の「八ツ橋図」のように、書画が一体となっており、それらは、「画=俵屋宗達、書=本阿弥光悦」の、その伝統を踏まえてのものなのであろう。

www.museum.or.jp/modules/im_event/?controller=event_dtl&input[id]=38368

八 これらのことを踏まえて、冒頭の乾山の、この「八ツ橋図」を隈なく見ていくと、次のようなことが、思い浮かんで来る。

1 乾山の、この「八ツ橋図」は、「縦二八・六cm 横三六・六cm」の、まことに色紙大の、片々たる小品の世界のものであるが、しかし、それは、見事に、家兄たる光琳の広大無辺な多種多様な世界(A図~E図)と対峙して、決して一歩も退けを取るものではない。

2 そして、その根底には、家兄たる光琳が樹立した「琳派」の世界の、その祖に当たる、
「宗達=画、光悦=書」の根元一体となった「書画」の世界の、光琳が、ともすると、「画=宗達」に傾け過ぎたとするならば、それを補完するように、「書=光悦」の世界を、見事に再現したということに他ならない。

3 すなわち、この「八ツ橋図」は、すべからく、乾山その人の「画」であり、その「書」
であるが、ここには、すべからく、「宗達=画、光悦=書」の伝統を引く、「光琳=画、乾山=書」の、次のステップの、すなわち、最晩年の、「乾山=画、乾山=書」の世界であることに、思い知るのである。
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「光琳・乾山そして蕪村」周辺覚書(その十一) [光琳・乾山・蕪村]

その十一 乾山の「皿二」(「銹絵染付短冊皿」)

乾山和歌皿一.jpg

乾山作「銹絵十体和歌短冊皿」5客① : 裏 高2.3-2.5_長径23.5-23.7_短径6.7-7.0
(東京国立博物館蔵) → 図A(皿の内側)

乾山和歌皿二.jpg

乾山作「銹絵十体和歌短冊皿」5客① : 表 高2.3-2.5_長径23.5-23.7_短径6.7-7.0
(東京国立博物館蔵) → 図B(皿の裏面)

http://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0050564

(注・下記の箱書きの順序に、上記のアドレスの掲載順序を入れ替えしている。)

乾山和歌皿三.jpg

乾山作「銹絵十体和歌短冊皿」5客② : 裏 高2.3-2.5_長径23.5-23.7_短径6.7-7.0
(東京国立博物館蔵) → 図C(皿の内側)

乾山和歌皿四.jpg

乾山作「銹絵十体和歌短冊皿」5客② : 表 高2.3-2.5_長径23.5-23.7_短径6.7-7.0
(東京国立博物館蔵) → 図D(皿の裏面)

http://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0050564

(注・下記の箱書きの順序に、上記のアドレスの掲載順序を入れ替えしている。)


(メモ)

乾山和歌皿五.jpg

一 上記は、「銹絵染付短冊皿」の箱書きの一つである。この順序に、和歌が十首(図A・図C)と、その裏面にそれぞれの和歌に対応する「和歌十体(定家十体)と署名」(図B・図D)が、乾山の自筆で書かれている(上記のアドレスのものは、「和歌」と「和歌十体」とが対応していないので、この箱書きの順序に一部入れ替えをしている)。

二 上記の「和歌十体」(図B・図D)とそれに対応する和歌(図A・図C))は、次のようなものなのかも知れない。

廻雪体(※幽玄様=ゆうげんよう)  
思ひ入るふかき心のたよりまでみしはそれともなき山路かな 藤原秀能 新古今1317
【他出】自讃歌、定家十体(幽玄様)、如願法師集、三五記、東野州聞書、心敬私語、題林抄

高山体(※長高様=ちょうこうよう)
 吹き払ふ嵐の後の高根より木の葉曇らで月や出づらむ  宣秋門院丹後 新古今593
【他出】定家十体(長高様・見様)、三十六人歌合(元暦)、三五記、三百六十首和歌、六華集、題林愚抄

至極体(※有心様=うしんよう)
 日暮るれば逢ふ人もなしまさき散る峰の嵐の音ばかりして 源俊頼  新古今557
【他出】散木和歌集、和歌一字抄、定家十体(有心様)、詠歌一体、三五記、愚秘抄、愚見抄、桐火桶、六華集、落書露顕、東野州聞書、題林愚抄

美麗体(※麗様=れいよう)
 うづら鳴く真野の入江の浜風に尾花なみよる秋の夕暮   源俊頼  金葉239
【他出】散木奇歌集、中古六歌仙、古来風躰抄、無名抄、定家十体(麗様)、定家八代抄、後鳥羽院御口伝、近代秀歌、西行上人談抄、詠歌一体、歌枕名寄、夫木和歌抄、三五記、桐火桶、井蛙抄、落書露顕

秀逸体(※事可然様=ことしかるべきよう)
 武蔵野やゆけども秋の果てぞなきいかなる風か末に吹くらむ 源通光 新古今378
【他出】自讃歌、定家十体(事可然様)、新三十六人撰、撰集抄、歌枕名寄、三五記

景曲体(※面白様=おもしろよう)
 見せばやな志賀の辛崎麓なる長柄の山の春のけしきを   慈円 新古今1469

濃体(※濃様=のうよう)
 ながめわび秋よりほかの宿もがな野にも山にも月やすむらん 式子内親王 (新古今380)
他出】正治初度百首、式子内親王集、三百六十番歌合、自讃歌、定家十体(濃様)、定家八代抄、時代不同歌合、新三十六人撰、三五記、六華集、題林愚抄

見様体(※見様=けんよう)
 村雨の露もまだひぬ槙の葉に露たちのぼる秋の夕暮    寂蓮法師 (新古今491)
【他出】寂蓮法師集、自讃歌、定家十体(見様)、定家八代抄、百人一首、三五記

有一節体(※有一節様=ひとふしあるよう)
 君いなば月まつとでもながめやらむあづまの方の夕ぐれのそら 西行 (新古今885)
【他出】西行家集、自讃歌、定家十体(有一節様)、歌枕名寄、西行物語、心敬私語

強力体(※拉鬼様=きらつよう)
 閨の上にかた枝さしおほひ外面なる葉ひろかしはに霰ふるなり 能因法師 (新古今655)

(注)
1 ※印は、「定家十体」の用例である。

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/kagaku/t10t.html

2 「誹諧埋木」の「十体」(「十体」と「三十体」)の関連と用例を参考としている。

http://haikai.jp/guide/saho/saho2_umo.html#10tai

三 この「銹絵十体和歌短冊皿」(十客一組)も、寛保三年(一七四三)、八十一歳の、乾山絶筆の一つと数えて差し支えなかろう。すなわち、乾山の絶筆と目せられるものは、先に紹介した、「十二カ月和歌花鳥図」(十二枚一組の色紙を改装した掛幅)と「武蔵野隅田川図乱箱」(桐の乱箱に描いた「蛇籠図」と「薄図)、そして、この「銹絵十体和歌短冊皿」が、乾山の絶筆三部作ということになろう。

四 その上で、「十二カ月和歌花鳥図」も何種類かの遺作があるように、この「銹絵十体和歌短冊皿」も、何種類かの遺作があるようである。その一つは、下記のアドレスの「湯木美術館蔵」のものである。

www.yuki-museum.or.jp/exhibition/archives/2011_autumn.html

 こちらも十客一組ものであるが、そこに記載されている和歌十首は、上記の「東京国立博物館蔵」のものとは、同一ではないようである。
 また、下記のアドレスの「静嘉堂文庫美術館蔵」のもので、こちらは、三客一組のようである。

http://blossom-soon.seesaa.net/article/38297156.html

五 上記に詳しく紹介した「東京国立博物館蔵」のものは、下記のアドレスのとおり、「本館 13室 2018年5月22日(火) ~ 2018年6月24日(日)」で、展示されているようである。

http://www.tnm.jp/modules/r_exhibition/index.php?controller=item&id=5621

六 また、次のアドレスのとおり、「本館 2室 2018年6月5日(火) ~ 2018年7月8日(日)」で、「国宝 和歌体十種」(壬生忠岑十体)が展示されているようである。

http://www.tnm.jp/modules/r_exhibition/index.php?controller=item&id=5366
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「光琳・乾山そして蕪村」周辺覚書(その十) [光琳・乾山・蕪村]

その十 乾山の「乱箱一」(「武蔵野隅田川図乱箱」)

乱箱㈠.jpg

乾山筆「武蔵野隅田川図乱箱」(別称・「薄図・蛇籠図」) 大和文華館蔵
上図=箱の内側=「蛇籠図」 下図=箱の裏面=「薄図」
桐材 縦 二七・四cm  横 二七・四cm  高 五・八cm


http://www.kintetsu-g-hd.co.jp/culture/yamato/shuppan/binotayori/pdf/119/1997_119_3.pdf


箱の裏面=「薄図」

乾山絵・薄図.jpg

落款=華洛紫翠深省八十一歳画 逃禅印

【 箱の内側には桐材の素地に直接「蛇籠に千鳥図」を描き、裏面に「薄図」を描いている。「薄図」に「華洛紫翠深省八十一歳画」という落款があるので、乾山が没する寛保三年(一七四三)の作とわかる。図様にいずれも宗達が金銀泥下絵で試みて以来この流派の愛好した意匠だが、乾山はそれを様式化した線で図案風に描いた。図案風といっても、墨と金泥と緑青の入り乱れた薄の葉の間に、白と赤の尾花が散見する「薄図」は、老乾山の堂々とした落款をことほぐとともに、来世を待つ老乾山の夢を象徴して美しく寂しく揺れている。乾山の霊魂は「蛇籠に千鳥図」の千鳥のように、現世の荒波から身をさけて、はるか彼岸へ飛んでゆくのであろう。この図はそのような想像を抱かせるだけのものをもっている。 】(『原色日本美術14 宗達と光琳(山根有三著)』の「作品解説117・118」) 

(メモ)

一 上記のアドレスの大和文華館の「美のたより」(1997夏№119)では、「薄の原に囲まれた水鳥の遊ぶ河」の風景(意匠)で、『伊勢物語』第九段、在原業平の「東下りの隅田川」場面が背景にあるとしている。すなわち、「名にし負はばいざこと問はむ都鳥/わが思ふ人はありやなしやと」の、乾山の望郷への思いが込められているというのである。それが故に、「武蔵野隅田川図乱箱」というネーミングを呈しているのであろう。

二 さらに、続けて、この裏面の「薄の原」と「落款」の関係について、「乾山は、薄の原を描きながら、途中で、『華洛紫翠深省八十一歳画』の落款を署名し、その後で、また、薄の原を描き足して、その落款の上に、緑青の薄の茎と葉、金泥や墨・朱で薄の葉を被せ、丁度、『落款を薄の原に埋め込んだ』というのである。その上で、最後に、「逃禅」(朱文小長方印)を押印したというのであろう。

三 続けて、「ここにおいて、絵と書とが渾然一体となって融合し、乾山特有の画面空間が表われ、そして、この落款は、「京を遠く離れ、武蔵野に一人立つ乾山自身の姿のようである」と記述している。「まことに、宜(むべ)なるかな」という思いがする。

四 これが、乾山の「八十一歳画」の、その最期の絶筆と、そんな雰囲気を漂わせている。それは、その生涯をかけた「陶磁器」などの世界でもなく、また、日本絵画史上一大の「琳派」の立役者の、実兄たる「尾形光琳」その人の「絵画」の世界でもなく、何と意表を突く、「桐の上箱のない乱れ箱」、そして、それはまことに小さい、縦横、三十センチ(高さ六センチ足らず)の、この木製(桐)に託した小宇宙こそ、「華洛紫翠深省」こと、「輝ける紫翠豊かなる京都の町衆の一人・尾形深省こと乾山」の、その異郷(江戸)に居ての最期の姿と解したい。

(追記)

次のアドレスの、「近世日本陶磁器類の系譜」所収「京焼色絵再考―乾山」は、最もスタンダードのものであるが、只一つ、この「武蔵野隅田川図乱箱」(別称・「薄図・蛇籠図」)が、陶器ではなく、木製の桐の箱に絵付けがされていることなど、その周辺のことを、是非とも追加して、その「京焼色絵再考―乾山」の、その「乾山の全体像」を鮮明にして欲しい。

www.ab.cyberhome.ne.jp/~tosnaka/201107/kyouyaki_iroe_kenzan.html
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「光琳・乾山そして蕪村」周辺覚書(その九) [光琳・乾山・蕪村]

その九 乾山の「絵画四」(「十二カ月和歌花鳥図」)4

乾山十二月.jpg

尾形乾山筆「十二ケ月和歌花鳥図」 掛幅 一六・〇×二三・〇cm 個人蔵
紫翠深省八十一歳写 逃禅印 → 上記の作品は「十二月」(和歌賛=色うづむ垣根の雪の花ながら年のこなたに匂ふ梅が枝(え)/ながめする池の氷にふる雪のかさなる年ををしの毛衣)

【 もと十二枚一組の色紙を改装したもの。掲載した十二月の図に「紫翠深省八十一歳写との落款があるので、前図(注・二月=下記)と同じく寛保三年(一七四三)の作とわかる。ほかにも、没年、八十一歳作の秀れた作品があるから、乾山の芸術、ことに絵画は最晩年に美しい花をさかせたといえよう。
この図は、藤原定家(一一六二~一二四一)が詠じた十二ケ月花鳥の和歌から取材したもので、図上に例によって乾山がその和歌を散らし書きにしている。定家のこの和歌はもともと「月次(つきなみ)花鳥図」への和歌賛として作られたが、江戸初期に好画題として喜ばれ、乾山の父の宗謙や光琳の師とそれる山本素軒なども描いていた。ことに元禄四年(一六九一)刊行の『鴫の羽掻(はねかき)』に挿図が掲載されてからは広く普及した。
乾山焼の絵皿には、その挿図を原本とした作品が、元禄十五年(一七〇二)の年紀のあるものを含めて三種遺っている。それらは絵がいずれも平凡で、果たして乾山が描いたかどうか不明だが、本図は、書・画・作陶に文人的風格を投影させた乾山芸術の棹尾を飾るにふさわしい、愛すべき小品といってよい。乾山の本領はこのような小画面における書画一体の抒情世界にあったのである。 】(『原色日本美術14 宗達と光琳(山根有三著)』の「作品解説119・120」) 

(メモ)

一 この落款の「紫翠深省八十一歳写」というのは万感の重みがある。寛保三年(一七四三)六月二日に、乾山は江戸上野の入谷で瞑目する。すなわち、その瞑目する遺作ともいうべき作品である。

二 上記の解説のとおり、もともとは、十二枚一組の色紙に描かれたもので、現在は掛幅に改装されている。そして、その十二枚が、それぞれバラバラになって、所蔵者を異にしているようである。上記の「十二月」と、上記の解説にある「前図(二月)」は、同一所蔵者のようで、その「二月」の作品は次のとおりである」

乾山二月.jpg

乾山筆「十二ケ月和歌花鳥図」 → 「二月」(和歌賛=かざし折る道行き人のたもとまで桜に匂うきさらぎの空(そら)/狩人の霞にたどる春の日を妻(つま)どふ雉(きじ)の声(こゑ)にたつらん)

三 「四月」と「六月」は、次のアドレスで見ることが出来る。

http://pt.wahooart.com/@/OgataKenzan

「四月」(和歌賛=白妙の衣ほすてふ夏のきてかきねもたわにさける卯花/ほととぎすしのぶの里にさとなれよまだ卯の花のさ月待つころ(比))

「六月」(和歌賛=大かたの日かげにいとふみなづき(水無月)のそら(空)さへをしきとこなつの花/みじか夜の鵜川にのぼるかがり火のはやくすぎ行くみな月のそら(空))

乾山四月.jpg

乾山筆「十二ケ月和歌花鳥図」 → 「四月」

乾山六月.jpg

乾山筆「十二ケ月和歌花鳥図」 → 「六月」

四 「九月」(根津美術館蔵)は次のとおりである。

乾山九月.jpg

乾山筆「十二ケ月和歌花鳥図」 → 「九月」
九月(和歌賛=花すすき草のたもとの露けさをすててくれ(暮)ゆく秋のつれなさ/人め(目)さへいとどふかくさ(深草)かれぬとや冬まつ霜にうづら(鶉)なくらん)

http://web-japan.org/niponica/niponica19/ja/feature/feature02.html

五 ここで、途轍もない労の多い作業となって来るが、次のような地道な作業が必須となってくる。

1 乾山の「絵画四」(「十二カ月和歌花鳥図」)と、乾山の「角皿二」(「定家詠十二ケ月和
歌花鳥図角皿」)との相互検討

2 そして、その上で、『尾形乾山手控集成 下野佐野滞留期記録(住友慎一・渡邉達也編)』
などの膨大な資料(翻刻文あり)との相互検討が必須となって来る。

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