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「光琳・乾山そして蕪村」周辺覚書(その十九) [光琳・乾山・蕪村]

その十九 乾山の「秋萩和歌扇面」

乾山絶吟.jpg

尾形乾山「秋萩和歌扇面」 一幅 紙本墨書 寛保二年(一七四二)作
MIHO MUSEUM蔵 三八・〇×五三・七㎝
「たち残す 錦いくむら 秋萩の 花におくある 宮きのゝ原 紫翠深省 八十歳」

【晩年、乾山は多くの絵画や書を残しています。屏風のような大作も多いことから、老齢にしてはあまりに多く、また、大きい作例に真偽のほどを疑う向きもありますが、七十歳からの十年ほどの間に実に精力的に描き残したといえます。乾山の書画は、むしろ小幅の掛軸に味のあるものが多く見られるのではないでしょうか。瀟洒な花鳥画はじめ、禅機溢れる水墨画まで、中には扇に絵を描いたり書を認めたりした作品も見られます。これは扇の地紙に和歌を認めたものを軸装した作品です。江戸下向以降の乾山の動向は不明な部分が多いのは事実ですが、残された作品や書状などから、その様子はわずかながら見えてくる気もします。求めに応じて書いたものか、自らの手慰みに認めたものかはわかりませんが、末広がりの扇に託して認めた和歌の字間から、最晩年の齢(よわい)八十歳、達観した乾山の優しい心持ちが伝わってくるかのようです。この和歌は三条西実隆が詠んで、『雪玉集』に収められています。】(『乾山 琳派からモダンまで(求龍堂刊)』)

(メモ)

一 これもまた、三条西実隆『雪玉集』の一首、「たち残す/錦いくむら/秋萩の/花におくある/宮きのゝ原」、そして、落款は、「紫翠深省 八十歳」と、亡くなる一年前のものである。

二 上記の解説文の、「求めに応じて書いたものか、自らの手慰みに認めたものかはわかりませんが、末広がりの扇に託して認めた和歌の字間から、最晩年の齢(よわい)八十歳、達観した乾山の優しい心持ちが伝わってくるかのようです」の、これは、「自らの手慰みに認めたもの」ではなく、これは、まさしく、「求めに応じて書いたもの」で、この落款「紫翠深省 八十歳」と、その「印章」からして、これは、乾山最晩年の「絶筆」に近いものと解したい。

三 乾山の最期については、いずれの年譜関係も、「寛保三年(一七四三)六月二日、乾山没(享年八十一)」程度で、詳しいことは分からない。これらの年譜の基になっているのは、次の寛永寺の坊官日記の「上野奥御用人中寛保度御日記」(寛保三年六月二日の項)に因っている。

【 乾山深省事先頃より相煩ひ候処 養生相叶はず今朝(六月二日)死亡の旨 進藤周防守方へ兼而心安く致候に付 深省懇意の医師罷越物語申候 無縁の者にて 取仕廻等の儀仕遣はし候者もこれ無く 深省まかり在候 地主次郎兵衛と申者世話致し遣はし候得共 軽きものにつき難儀いたし候由 就而者何卒取仕廻まかりなり候程の 御了簡なされ遣され下され候様に仕つり度由 周防守より左衛門へ申聞候に付 坊官中迄申入候処 何れも相談これあり 御先代御不便にも思召候者の儀不便の事にも候間 仕廻ひ入用金一両下され然るべく候無縁の者の儀に候間 幸ひ周防守世話これあり候につき 周防守より次郎兵衛へ右之段申聞く 尤も吃度御上より下され候とこれ無く、役人中了簡をもつて下され候間 相応に取仕廻ひ遣はし候様に申聞様 周防守へ坊官中申聞られ 金子相渡し 深省事当地に寺もこれ無く候につき 坂本善養寺へ相頼み葬り候由 無縁の者の儀不便の事に候間 右の趣き善養寺へ申談じ 過去帳に記置 同忘年忌回向致し遣はし候様申聞 金一両相渡し是にて右回向これ有る様に取計ひ遺し候様申達し、然るべく旨何れも申談じ 当善養寺は左衛門懇意につきも同人方より申遣し然べく旨申入置候  】
(『乾山 都わすれの記(住友慎一著)』・『尾形乾山第三巻研究研究編(リチャード・ウィルソン、小笠原左江子著)』)

(注など)
1 進藤周防守は、輪王寺宮の側近で、乾山とは知己の間柄のように解せられる。しかし、
乾山がお相手役を仰せつかっていた、輪王寺宮・公寛親王は、元文三年(一七三八)に四十三歳亡くなっており、乾山が没した寛保三年(一七四三)の頃には、輪王寺との関係は疎遠になっていたのであろう。
2 光琳・乾山の江戸での支援者であった深川の材木商・冬木家の当主・冬木都高も、公寛親王と同じ年(元文三年)に亡くなっており、冬木家との関係も、これまた疎遠になっていたのであろう。
3 上記の「深省懇意の医師」というのは、光琳三世を継ぐ「立林何帛」(前加賀藩医官・白井宗謙)のようにも思われるが、その医師が「何帛」としても、乾山の葬儀を取り仕切るような関係でなかったようにも思われる(何帛が乾山より「光琳模写宗達の扇面図」を贈られたのも元文三年で、乾山が没する頃は、やはり交誼は希薄になっていたのかも知れない)。
4 冬木家の関係で交遊関係が出来た、筑島屋(坂本米舟)や俳人・長谷川馬光との関係も、元文二年(一七三七)二月から翌年の三月までの一年有余の、佐野の長逗留などで、やはり、乾山が没する頃は、その交遊関係の密度は以前よりは希薄になっていたのかも知れない。
5 その上で、上記の晩年の乾山を看取った「地主次郎兵衛」というのは、寛永寺近くの、乾山の入谷窯のあった、その「地主・次郎兵衛」で、乾山亡き後、江戸の「二代・乾山」を襲名することとなる、その人と解したい。そして、この「次郎兵衛」は、乾山の佐野逗留時代の鋳物奉行・大川顕道(号・川声)などと交誼のある、天明鋳物型造り師の「次郎兵衛」その人なのかも知れない(『乾山 都わすれの記(住友慎一著)』)。
6 いずれにしろ、乾山が、寛保三年(一七四三)、六月二日(光琳の命日)に、その八十一年の生涯を閉じた時には、その六十九年の生涯を送った「京都時代」、そして、それ以降の、「光琳二世・絵師且つ乾山一世・陶工、尾形深省(乾山)」十二年の「江戸・佐野時代」を通して、その最期を看取ったものは、上記の、寛永寺の坊官日記の「上野奥御用人中寛保度御日記」の通り、乾山の縁故者は皆無で、乾山が開窯した「入谷窯」(「地主次郎兵衛」他)関係者などのみの寂しいものであったのであろう。

四 この乾山の最期を看取った「地主・次郎兵衛」(「二代乾山・次郎兵衛」)の、「三代乾山・宮崎富之助」宛ての「二代乾山ヨリ三代乾山ヘ譲状」などが、次のアドレスにより紹介されている。

http://www.ab.cyberhome.ne.jp/~tosnaka/201107/kyouyaki_iroe_kenzan.html

【 右正伝末期に是を相写、ならびに乾山申銘、末々に相成、陶器に相記可焼事、今相伝者也、尤末に至、横合より違乱申者無之者也。深省儀致病死と 早速武江東叡山准后様御納戸へ我等遂伺公、病死之趣申上庄屋方にて奉願候処、則金子壱両被下置、其方如何共取置候様に被仰付、寺も御末寺被下、医王山  寺へ罷出、右取置可申様被仰付候、尤三日に至、日牌料御付被下置候事。
于時寛保三癸亥歳六月二日
右之通、我等へ末期に相送候処紛無之者也、依之貴方儀、右流れ懇望に付、右逸々相譲者也、為後証添書加へ候処仍如件。
明和三年戌三月 日 二代目也 乾山
弟子宮崎富之助殿          】

五 ここで、「たち残す 錦いくむら 秋萩の 花におくある 宮きのゝ原 紫翠深省 八十歳」の、この、三条西実隆の、この歌意などに触れて置きたい。

 この「宮きのゝ原」は、次のアドレスのものなどが詳しい。

http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000213518

「いま宮城野又は宮城野原と呼んでいるのは,榴が岡の東,木の下の北に続く十町に六町ほどの平原で,もとの練兵場即ち現在の各種運動競技場と国立仙台病院並に仙台中央卸売市場などのある所をさしているが,古の宮城野とは遠く海岸地帯まで打ち続いた広漠たる原野であったらしい。かの『東鑑』に見る源頼朝が奥州征伐に向った文治年間頃(一一八五-八九)の国分原は大体この原を指したものと見られている。また,『古今集』に「宮城野の本荒の小萩露をおもみ風をまつごと君をこそ待て」とある本荒(もとあら)の里もこの原のうちであると見れば,相当広い原野であったことが想像される。それが時代の推移につれ,畑となり田となり,また,人の住む所となって次第に草原は減り,地域は狭められて僅かに一角の宮城野原となったのである。(後略)」

 この「花におくある」というのは、咲き始める「春の花」でなく、咲き終わる「秋の花(秋の花野)」の、その「花のおく(奥)ある)」、「花野の、その先に」、それが、上記の、生まれ故郷の京の都から遠く離れた東国の「宮きのゝ原」(宮城野原)、そして、その「奥」は、すなわち、「黄泉(よみ)の国」という暗示なのであろう。

ここまで来れば、この実隆の歌の出だしの、「たち残す/錦いくむら/秋萩の/」の,この「たち残す」は、「断ち残す」と「発ち残す」、と「断つ」と「発つ」が掛けられており、「錦いくむら/秋萩の/」は、「光悦・宗達、そして、光琳・乾山」が目指した、いわゆる、「琳派の雅(みやび)の世界(創作の世界)」ということになろう。

六 さらに続けるならば、この三条西実隆の、「花におくある 宮きのゝ原」は、蕪村の師の夜半亭一世・早野巴人の、次の絶吟に繋がっている。

 こしらへて有りとは知らず西の奧 (夜半亭一世・早野巴人の絶吟)

 そして、夜半亭一世・早野巴人が瞑目した、寛保二年(一七四に)六月六日、その絶吟を記録した内弟子の蕪村(当時の号「宰鳥」又は「宰町)の、その時の様子を、宝暦五年(一七五五)に刊行された、宋阿(巴人)十三回忌追善俳諧遺句集『夜半亭発句帖(雁宕ら編)』に寄せての、その「跋」(蕪村)」に次のように記している。

【阿師没する後、しばらくかの空室に坐し、遺稿を探て一羽烏といふ文作らんとせしもいたづらにして歴行十年の后、飄々として西に去んとする時、雁宕が離別の辞に曰、再会興宴の月に芋を喰事を期せず、倶に乾坤を吸べきと。(以下略)」(訳「師の夜半亭宋阿(巴人)が亡くなった時、その夜半亭の空屋で、師の遺稿をまとめて一羽烏という遺稿集を作ろうとしたが、何もすることが出来ずに、ついつい関東・東北を歴行すること十年の後に、あてどなく西帰の上洛をしようとした際の、兄事する雁宕の離別の言葉は、「今度再開して宴を共にする時には、月を見て芋を喰らうような風雅のことではなく、お互いに、天地を賭しての勝負をしたことなどを話題にしたい」ということでした。)】
 
 ここからが、蕪村のスタートなのである。その夜半亭一世・早野巴人が瞑目した、寛保二年(一七四に)六月六日の、その一年後の、六月二日(光琳の命日)に、乾山は、その八十一年の生涯を閉じたのである。

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