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最晩年の光悦書画巻(その十六) [光悦・宗達・素庵]

(その十六)芥子下絵新古今和歌巻(その十六・亭子院御歌)

ケシ下絵・亭子院.jpg

芥子下絵新古今和歌巻(巻頭) 光悦書 東京国立博物館蔵 江戸時代・寛永10年(1633)
彩箋墨書 1巻

https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0057939

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/306816


 芥子下絵新古今和歌巻(「光悦書」)は、この亭子院の御歌からスタートする。前の六行目までが、「亭子院」で、七行目からは、次の「謙徳公」の詞書である。「亭子院」の一首は、次のとおりである。

1019 大空をわたる春日の影なれやよそにのみしてのどけかるらん(亭子院御歌「新古今」)
(お前は、大空を渡る春の光であるので、よそにばかりいて、のどかに過ごしているのであろうか。)

 これは、平安時代中期の和歌説話集『大和物語』(四十五段)に由来のある一首である。

https://mukei-r.net/kobun-yamato/yamato-05.htm

【 前の帝[宇多天皇か清和天皇か定まらず]の時、刑部の君(ぎょうぶのきみ)と呼ばれていた更衣(こうい)[天皇の妻のうち、女御より下]が、里に下がられたまま、長らく参上しないので、天皇が遣わした和歌。

大空を
  わたる春日の 影なれや
    よそにのみして のどけかるらむ
          宇多天皇 or 清和天皇 (新古今集)

[大空を
   わたる春の日の太陽なのだろうか
  余所から眺めるばかりで
    のどかそうにしているようですね]  】 (『大和物語(四十五段)』)

 「亭子院(ていじいん、ていじのいん)」とは、第五十九代の天皇 (在位 887~897) 「宇多天皇」の院号である。「宇多上皇の院号。また、その御所。左京七条坊門南、西洞院の西(西本願寺の東辺)にあった。」(「大辞林 第三版」)

亭子院歌合.jpg

亭子院歌合〈延喜十三年三月十三日/〉
福岡県 平安 1巻 福岡県太宰府市石坂4-7-2
重文指定年月日:19410703  国宝指定年月日: 登録年月日:
国(文化庁) 国宝・重要文化財(美術品)

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/185082

https://blog.goo.ne.jp/taketorinooyaji/e/bae305c33a8b0012d981dbddc62bc58f

【 延喜十三年三月十三日亭子院歌合

 ひたりのとう(左頭)をんな(女)ろくのみや(六宮)、かた(方)のみこ、おほんせうと(御兄人)のなかのまつりこと(中務)のし(四)のみこ(親王)、たんしよう(弾正)のこ(五)のみこ(親王)、なかのものまうすつかさ(中納言)ふちはらのさたかた(藤原定方)朝臣、さゑもんのかみ(左衛門督)なかみつ(有実)朝臣、うたよみ、ふちはらのおきかせ(藤原興風)、おふしかうちのみつね(凡河内躬恒)、かたうと(方人)、むねゆき(致行)、よしかせ(好風)らなむ。
 みきのとう(右頭)をんな(女)ななのみや(七宮)、かた(方)のみこ(親王)、おほんせうと(御兄人)のこうつけ(上野)のはちのみや(八宮)、せいはのさたかす(清和貞数)のはちのみや(八宮)、なかのものまうすつかさ(中納言)みなもとののほる(源昇)朝臣、うゑもんのかみ(右衛門督)きよつら(清貫)朝臣、うた(歌)よみ、これのり(是則)、つらゆき(貫之)、かたうと(方人)、かねみ(兼覧)のおほきみ(王)、きよみちの朝臣。
 みかと(帝)のおほむしようふそく(御装束)、ひはたいろ(檜皮色)のおほんそ(御衣)にしようわいろ(承和色)のおほんはかま(御袴)。をとこをむな(男女)、ひたり(左)はあかいろにさくらかさね、みき(右)はあをいろにやなきかさね。ひたり(左)はうたよみ、かすさしのわらは(童)、れいのあかいろにうすすはう(薄蘇芳)あや(綾)のうへのはかま、みき(右)にはあをいろにもえき(萌葱)のあや(綾)のうへのはかま。かたかたのみこ(方方親王)、あをいろあかいろみなたてまつれり。
 かくて、ひたり(左)のそふ(奏)はみのとき(巳時)にたてまつる。かた(方)のみや(宮)たちみなしようそく(装束)めでたくして、すはま(州浜)たてまつる。まふちきみ(大夫)よたり(四人)かけり。かく(楽)はわうしきてう(黄鍾調)にていせのうみ(伊勢海)といふうたをあそふ。みき(右)のすはま(州浜)はうまのとき(午時)にたてまつる。おほきなるわらは(童)よたり(四人)、みつら(美豆良)ゆひ、しかいは(四海波)きてかけり。かく(楽)はそうてう(双調)にてたけかは(竹河)といふうたをいとしつやかにあそひて、かたみや(方宮)たちもてはやしてまゐりたまふ。ひたりのそふ(左奏)はさくらのえたにつけて、なかのものまうすつかさ(中務)のみこ(親王)もたまへり。みき(右)はやなきにつけて、かうつけ(上野)のみこ(親王)もたまへり。うた(歌)は、したん(紫檀)のはこちひさくて、おなしこといれたり。かんたちめ(上達部)、はしのひたりみき(左右)にみなあかれ(上かれ)てさふらひたまふ。によくらふと(女蔵人)よたり(四人)つつひたりみき(左右)にさふらはせたまふ。うた(歌)のかんし(講師)は、をんな(女)なむつかまつりける。みす(御簾)いちしやくこすん(一尺五寸)はかりまきあけて、うた(歌)よまむとするに、うへ(上)のおほせたまふ。このうたをたれかはききはやしてことわらむとする。たたふさ(忠房)やさふらふとおほせたまふ。さふらはすとまうしたまへは、さうさうしからせたまふ。
 みき(右)はかちたれとも、うち(内)のおほんうた(御歌)ふたつをかちにておきたれは、みき(右)ひとつ(一)まけたり。されと、ほとときすのはうのはなにつけたり。よ(夜)のうたは、うふね(浮舟)してかかり(篝)にいれてもたせたり。ひたりのかた(左方)のみや(宮)に、みき(右)のかたのたてまつりたまひける、しろかねのつほのおほきなるふたつに、しん(沈)あはせたきもの(薫物)いれたりけり。かた(方)のをんな、ひとひと(人々)にみなそうそく(装束)たま(給)ひけり。
 たい(題)はきさらき(二月)やよひ(三月)うつき(四月)なり。

春 二月 十首

二月一番
左  伊勢
歌番号〇一 
原歌 あをやきの えたにかかれる はるさめは いともてぬける たまかとそみる
解釈 青柳の 枝にかかれる 春雨は 糸もてぬける 玉かとぞ見る
右  坂上是則
歌番号〇二 
原歌 あさみとり そめてみたるる あをやきの いとをははるの かせやよるらむ
解釈 浅緑 そめて乱れる 青柳の 糸をばはるの 風や縒るらむ

二月二番
左  凡河内躬恒
歌番号〇三 
原歌 さかさらむ ものならなくに さくらはな おもかけにのみ またきみゆらむ
解釈 咲かざれむ ものならなくに 桜花 面影にのみ まだき見ゆらむ
右  紀貫之
歌番号〇四 
原歌 やまさくら さきぬるときは つねよりも みねのしらくも たちまさりけり
解釈 山桜 咲きむるときは つねよりも 峰の白雲 たちまさりけり

二月三番
左  凡河内躬恒
歌番号〇五 
原歌 きつつのみ なくうくひすの ふるさとは ちりにしうめの はなにさりける
解釈 来つつのみ 鳴く鶯の 故里は 散りにし梅の 花にざりける
右  坂上是則
歌番号〇六 
原歌 みちよへて なるてふももは ことしより はなさくはるに あひそしにける
解釈 三千代経て なるてふ桃は 今年より 花咲く春に あひぞしにける
(以下、略)    】(『日本古典文学全集7 古今和歌集(校注・訳:小沢正夫)』所収「延喜十三年亭子院歌合」

 「亭子院歌合」のトップは、古今和歌集では小野小町と双璧なす女流歌人の「伊勢」の一首である。「伊勢」は宇多天皇の寵愛を得て、「更衣」(女御に次ぐ令外の后妃)として一子をもうけ、夭逝した。
 この「芥子下絵新古今和歌巻」の巻頭の一首は、「宇多天皇」(亭子院)の「更衣」の一人に寄せた歌で、「伊勢」の面影が無くもない。そして、その「巻末」の句は、時代は下って「千載集」「新古今」時代の、「伊勢」の面影もどことなく宿している「和泉式部」の一首である。
 そして、「芥子下絵新古今和歌巻」と同時の頃の作「草木摺絵新古今集和歌巻」の巻末の三首は、「伊勢・和泉式部・馬内侍」の、次のアドレスで紹介したものであった。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-09-08  (再掲)

(伊勢)
    忍びたる人と二人臥して
夢とても人に語るな知るといへば手枕ならぬ枕だにせず(伊勢「新古1159」)
(夢の中のこととしてでも、人にお語りなさいますな。枕は共寝の秘密を知るといいますから、手枕でない枕さえもしていないのです。)

(和泉式部)
    題しらず
枕だに知らねば言はじ見しままに君語るなよ春の夜の夢(和泉式部「新古1160」)
(枕さえ知らないのですから、告げ口はしないでしょう。ですからあなた、見たままに人に語ったりしないで下さい、私たちの春の夜の夢を。)

(馬内侍)
   人にもの言ひはじめて
忘れても人に語るなうたた寝の夢見てのちも長からじ世の(馬内侍「新古1161」)
(忘れてもけっして人にお語りなさいますな。うたた寝の夢を見るようなあなたとの儚い一夜を過ごしてのちも、長くはあるまいと思われる命なのだから。)

 そして、そこで、「華麗な恋愛遍歴に彩られた王朝女流歌人の三羽烏」の「伊勢・和泉式部・馬内侍」の三首が、何とも、光悦の最晩年の華やぎ」を見るような思いがして来る」との、「草木摺絵新古今集和歌巻」にかんする総括的な感慨の一端を記したのだが、今回の、「芥子下絵新古今和歌巻」の、巻頭(亭子院)と巻末(和泉式部)の二首に接しただけでも、同じような感慨を抱くのである。
 まして、この「芥子下絵新古今和歌巻」の下絵が、胡粉と雲母で描いた「雛罌粟」の「芥子坊主(芥子の果実)」だけのものを見ると、その印象はさらに強まって来る。

(追記メモ一)  「亭子院歌合の人物構成について」(小林あづみ稿)

https://www.jstage.jst.go.jp/article/nbukiyout/26/0/26_KJ00000183103/_pdf

(追記メモ二)  光悦筆・宗達下絵「和歌巻」と「色紙」の「月」図(四態様)など(その二)

ベルリン国立アジア美術館光悦月・.jpg

光悦筆・宗達下絵「四季草花下絵新古今和歌色紙」より「月図(弦月図)」(藤原家隆「歌」) ベルリン国立アジア美術館蔵 紙本金銀泥絵・墨書 18.3cm×16.2cm (第十九図)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-09-11

【 白地に金泥をうすく刷き、下半をはすかいに区切った―恐らく山の端に見立てた―土坡には、濃い金泥を塗り、その上に銀泥の十日あまりの月を大きく、月の上端は画面をはずれるほど大きく、えがく。桃山時代は月を描けば、このふくよかな十日月である。柳橋水車図の月がそうであり、団家本の光悦歌巻の月もそうである。それはまた光悦のたっぷりした量感の表現と軌を一にするものである。この第十九枚目からは、屏風としては、左隻に移って、秋に入るのであるが、右隻の第一葉が、春のはじめとして日輪であったのに対し、ここは弦月をもって対照させている。歌は新古今集巻四秋歌である。 】(『光悦色紙帖(ドイツベルリン国立博物館蔵)・光琳社出版株式会社』所収「ベルリン博物館の光悦色紙帖(源豊宗稿)」)

ベルリン・藤原良経.jpg

光悦筆・宗達下絵「四季草花下絵新古今和歌色紙」より「日輪図か満月図」(藤原家隆「歌」) ベルリン国立アジア美術館蔵 紙本金銀泥絵・墨書 18.3cm×16.2cm (第一図)

【 下絵は、今しがた松林の上に姿をあらわした日輪。胡粉地にうすく金泥を刷き、色紙の上端に接して幅一ぱいの直径をもつ大きな日輪を描く。日輪は先づ濃い金泥を塗り、その上に更に銀泥をむらむらにかけている。総じて銀泥はほとんど黒く錆びてしまっているが、最初は金地に加えられた白銀光が燦として日輪の輝きを発揮していたであろう。日輪の下すれすれに金泥のつけたてで、簡略に描かれた低いはるすな松林が、この日輪を一層大きく感じさせる。日輪は満月と見られなくはないが、もと一双の屏風であった左隻の第一葉(第十九図)の上弦の月に対し、右隻第一葉のこの図としては、当時の日月四季屏風の方式に即して、やはり日輪と解すべきであろう。 】(『光悦色紙帖(ドイツベルリン国立博物館蔵)・光琳社出版株式会社』所収「ベルリン博物館の光悦色紙帖(源豊宗稿)」)

 「ベルリン博物館の光悦色紙帖」(三十六枚)は、この第一図からスタートとする。ここに揮毫されている歌は、次の「新古今和歌集」の巻頭の一首である。

     春立つ心をよみ侍りける
1  み吉野は山もかすみて白雪のふりにし里に春は来にけり(摂政太政大臣=藤原良経「新古今・巻一春歌上)
(吉野は、山までもかすんで、昨日までの冬には白雪の降り積もっていた里、これは、遠い昔、離宮のあった里だが、この里には、春き来たことだ。)

 この色紙には、詞書も作者名もない。そして、釈文は「三芳野は山も霞て白雪濃ふりにし里に春は来に介梨」の感じである。
 これは、六曲一双屏風の、右隻(十八枚)の第一扇(三枚)の、そのトップの図が、この第一図のものなのである。
そして、左隻(十八枚)の第一扇(三枚)の、そのトップの図は、冒頭の第十九図なのである。

    百首歌よみ侍りける中に
289 昨日だに訪(と)はんと思ひし津の国の生田の森に秋は来にけり(藤原家隆「新古今・巻四・秋歌上」)
(夏であった昨日でさえ尋ねようと思った津の国の生田の森に、今日は、秋は来たことだ。)

 ここで、右隻第一扇のトップの図が、立春(藤原良経作)の一首で、その左隻第一扇のトップの図が、立秋(藤原家隆作)の一首というのは、この絶妙な好対照の発見は、この下絵(図)を描いた宗達(または宗達工房の画家)ではなく、紛れもなくなく、この二首を揮毫した、光悦その人ということになろう。
 
 ここで、この右隻第一扇のトップの図(第一図)について、「日輪は満月と見られなくはないが、もと一双の屏風であった左隻の第一葉(第十九図)の上弦の月に対し、右隻第一葉のこの図としては、当時の日月四季屏風の方式に即して、やはり日輪と解すべきであろう」(『光悦色紙帖(ドイツベルリン国立博物館蔵)・光琳社出版株式会社』所収「ベルリン博物館の光悦色紙帖(源豊宗稿)」)については、やはり、これは、「日輪」ではなく「満月」と解したい。
 そして、いわゆる、「光悦謡本(うたいぼん)」(「角蔵(倉)本ト云ウ。或ハ光悦ノ謡本トモ云ウ」=『弁疑書目録(中村富平著)』)の「雲英摺(きらずり)模様」の中に、この第一図の原型ともいうべき「松山満月模様」(松山の端に上る満月の図)のものがある。

当麻一.jpg

光悦謡本(上製本),当麻,法政大学鴻山文庫蔵(表表紙)
https://nohken.ws.hosei.ac.jp/nohken_material/htmls/index/pages/y14/01-034.html

当麻に.jpg

光悦謡本(上製本),当麻,法政大学鴻山文庫蔵(裏表紙)
https://nohken.ws.hosei.ac.jp/nohken_material/htmls/index/pages/y14/01-034.html

 これらの「光悦謡本」、そして、角倉素庵の「嵯峨本」と、光悦・宗達(又は宗達工房)の「和歌巻」や「色紙・短冊」のコラボ(「共同・共作・共演」)的な世界とは密接不可分の関係にあるのであろう。
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