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本阿弥光悦筆「千載集『序』和歌巻」その二 [光悦・宗達・素庵]

その二 「おほよそこのことわざ……」

(桃山時代 17c 紙本雲母摺絵墨書 H-24.9 W-1459.7 所蔵 MIHO MUSEUM 猪原家旧蔵) (以下の※「校注」などは『新日本古典文学大系10 千載和歌集』などを参考)
http://www.miho.or.jp/booth/html/artcon/00002693.htm

(2-1)

序2-1.jpg

(うたをたてまつらしめたまへり、)
おほよそこの
ことわざわ
(我)がよ(世)の風俗
として、
これを
このみ
もてあそべば
名を世々にのこし、

※このことわざ=和歌をさす。
※我が世の風俗=我が国の国風。

2-2

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これを
まな(学)び
たづさはらざるは、
おもて(面)をかき(垣)にして
たてらむがごとし、
かかりければ、
この世)にむま(生)れと
むま(生)れ、
わが国にきたりと
きたる人は、
(たか(高)きも
くだ(下)れるも、)

※おもて(面)をかき(垣)にして=『論語』の言=「何も周囲が見えず、身動きがとれない」こと。

2-3

序2-3.jpg

たか(高)きも
くだ(下)れるも、
このうた(歌)をよまざるはすく(少)なし、
このうた(歌)を
よまざるは
すくなし。
聖徳太子はかたをかやま(片岡山)の
みこと(御言)をのべ、
伝教大師は
わ(我)がたつそま(杣)の
ことばを
のこせり。

※片岡山の御言=日本書記・推古二十一年(しなてる片岡山に飯に飢て臥せる―)→「しなてるやかたをかやまにいひにうゑて ふせるたびびとあはれおやなし」(「拾遺・哀傷1350 聖徳太子」)
※我がたつ杣の言葉=和漢朗詠集・仏事(わが立つ杣に冥加あらせたまへ―)

2-4

序2-4.jpg

よりて
世々の
御かども
このみちをば
すてたまはざる
をや。
ただしまた(又)、集を
えらびたまふ
あとは
なほ(猶)まれになんあり
ける。
(わがきみ(我君)よ(世)をしろしめして、)

(「追記メモ」その二)

(その一)釈文(読み下し文)
大和みことの歌はちはやぶる神世よりはじまりて、楢の葉の名におふ宮にひろまれり。玉敷き平の都にしては、延喜のひじりの御世には古今集を撰ばれ、天暦のかしこき御時には後撰集をあつめたまひき。白河の御世には後拾遺を勅せしめ、堀川の先帝はも百千(ももち)の歌をたてまつらしめたまへり。

(その二)釈文(読み下し文)
おほよそこのことわざ我が世の風俗として、これをこのみもてあそべば名を世々にのこし、これを学びたづさはらざるは面を垣にしてたてらむがごとし。かかりければ、この世に生れと生れ、わが国にきたりときたる人は、高きも下れるも、この歌をよまざるは少なし。聖徳太子は片岡山の御言をのべ、伝教大師はわがたつ杣の言葉をのこせり。よりて世々の御かどもこの道をば捨てたまはざるをや。ただし又、集を撰びたまふあとは猶まれになんありける。

 この出だしは、俊成の歌道の師にあたる「源俊頼」の歌論書『俊頼髄脳』に類似している。
『千載和歌集』の入集数も、「源俊頼(五十二首)→藤原俊成(三十六首)→藤原基俊(二十六首)→崇徳院(二十六首)→俊恵(二十二首)」の順で、俊頼がトップで、この俊頼の世界を基本の一つに据えているのであろう。
 ちなみに、西行(円位)は十八首、定家(八首)、後白河院(七首)、家隆(四首)である。

http://neige7.pro.tok2.com/karon_shunrai.html

【やまと御言の歌は、わが秋津州の国のたはぶれあそびなれば、神代よりはじまりて、けふ今に絶ゆることなし。おほやまとの国に生れなむ人は、男にても女にても、貴きも卑しきも、好み習ふべけれども、情ある人はすすみ、情なきものはすすまざる事か。たとへば、水にすむ魚の鰭を失ひ、空をかける鳥の翼の生ひざらむがごとし。
(訳)
古くからの雅語でつづった和歌は、我が日の本の国の、抒情的な慰み事であるので、遠く神代から起って、今日現在にいたるまで、連綿として詠まれ続いている。この永い伝統をもつ日本の国に生を享けた者は、男女を問わず、身分の高下にも関係なく、この和歌の道を進んで習得すべきであろうが、どうしても”もののあはれ”を感ずる人は巧みになるし、この情のない人は、和歌を詠んでも上手にならないようだ。この情のない人とは、たとえてみると、水中にすまなければならない魚類でありながら、肝心な鰭がなかったり、空を飛ぶはずの鳥でありながら、翼が生えないようなものである。 】

 もう一つ、この「千載和歌集(序)」の背景となっているものに、「保元の乱」と崇徳院の讃岐配流後、長寛二年(一一四六)に四十六歳で没し、治承二年(一一七七)に鎮魂の意を込めての諡号(しごう)が追贈されたことなども挙げられるであろう。
 崇徳院の没後、俊成のもとに崇徳院の「長歌」が届けられ、それが『千載和歌集巻第十八』「雑歌下・雑体」に収載されている。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-07-05

(『千載和歌集』1162 崇徳院御製=長歌=『千載集』は『古今集』に倣い「短歌」の表示)

しきしま(敷島)や やまと(大和)のうた(歌)の 
つた(伝)はりを き(聞)けばはるかに 
ひさかた(久方)の あまつかみ(天津神)よ(世)に はじ(始)しまりて
みそもじ(三十文字)あまり ひともじ(一文字)は いづも(出雲)のみや(宮)の
やくも(八雲)より お(を)こりけりとぞ しるすなる
それよりのちは ももくさ(百草)の こと(言)のは(葉)しげく ちりぢりの 
かぜ(風)につけつつ き(聞)こゆれど
ちか(近)きためしに ほりかは(堀河)の なが(流)れをくみて 
さざなみの よ(寄)りくるひと(人)に あつらへて
つたなきこと(事)は はまちどり(浜千鳥) あと(跡)をすゑまで 
とどめじと おも(思)ひなからも
つ(津)のくにの なには(難波)のうら(浦)の なに(何)となく
ふね(舟)のさすがに このこと(事)を しの(忍)びならひし 
なごり(名残)にて よ(世)のひと(人)きき(聞)は はづかしの 
もりもやせむと おも(思)へども こころ(心)にもあらず かき(書)つらねつる
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