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最晩年の光悦書画巻(その十七) [光悦・宗達・素庵]

(その十七)芥子下絵新古今和歌巻(その十七・謙徳公)

ケシ下絵・謙徳公.jpg

芥子下絵新古今和歌巻(巻頭) 光悦書 東京国立博物館蔵 江戸時代・寛永10年(1633)
彩箋墨書 1巻

https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0057939

 ここに記されている歌は、次の一首である。

      正月(むつき)、雨降り風吹きける日、女に遣はしける
1020 春風の吹くにもまさる涙かなわが水上も氷解くらし(謙徳公「新古今」)
(春風の吹くにつけてもくわわるる涙であることよ。水上の氷が解けるように。わが身の心も解けて、もの思いが増すらしい。)

 この歌の釈文(揮毫上の書体)は、「ハる可勢野ふく尓も満さ類奈ミ多可奈王可ミ奈可ミもこほりとくらし」の感じである。
 そして、続く左端の二行は、次の歌の詞書の「たびたび返事(かへりごと)せぬ女」の前半部分のようである。そして、その次の歌は、「水の上に浮きたる鳥の跡もなくおぼつかなさを思ふころかな」(謙徳公)である。

 この「謙徳公」は、下記のアドレスなどで触れている。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-07-25

(再掲)

藤原氏諡号.jpg

 藤原伊尹(ふじわらのこれまさ(-これただ)) 延長二~天禄三(924-972) 通称:一条摂政 諡号:謙徳公右大臣師輔の長男。母は贈正一位藤原盛子(藤原経邦女)。兼通・兼家・為光・公季(いずれも太政大臣)は弟。恵子女王を室とし、懐子(冷泉院女御)・義孝・義懐らをもうける。書家として名高い行成は孫。
 天慶四年(941)二月、従五位下に叙せられ、同年四月、昇殿を許される。同五年十二月、侍従。その後右兵衛佐を経て、天暦二年(948)正月、左近少将となり、同年二月には蔵人に補せられる。同九年、中将。同十年、蔵人頭に任ぜられたが、この地位を争った藤原朝成(あさひら。定方の子)に恨まれ、子孫にまで祟られたと言う(『大鏡』)。天徳四年(960)八月、参議に就任し、三十七歳にして台閣に列した。康保四年(967)正月、中納言・従三位。同年十二月、さらに権大納言となる。安和二年(969)、むすめ懐子所生の師貞親王(のちの花山天皇)が皇太子になると、以後は急速に昇進。同年大納言、天禄元年(970)右大臣と進み、同年五月には摂政に就いた。同二年十一月、太政大臣正二位となったが、翌年の天禄三年十一月一日、薨じた。四十九歳。贈一位、参河国に封ぜられ、謙徳公の諡を賜わる。
 天暦五年(951)、梨壺に設けられた撰和歌所の別当に任ぜられ、『後撰集』の編纂に深く関与した。架空の人物「大蔵史生倉橋豊蔭」に仮託した歌物語的な部分を含む家集『一条摂政御集』がある。『大鏡』にもこの家集の名が見え、歌才が賞讃されている。後撰集初出。勅撰入集三十七首。小倉百人一首にも歌を採られている。

 謙徳公は、藤原伊尹の「諡号(しごう)」で、その諡号と共に「三河公」も賜ったが、この「三河国」は、慶長期以後の本阿弥光悦と関係を深める「徳川家」(家康、そして、三代将軍・家光)の本拠地の「三河国」(現在の愛知県東半部)であることも、何かしらの縁という感じで無くもない。
 この謙徳公の歌が二首続くのだが、その二首目以降の画像(東京国立博物館「画像検索」)は、目にすることが出来ない。
 その紹介されていない箇所は、次のような箇所である。

     たびたび返事(かへりごと)せぬ女に
1021 水の上に浮きたる鳥の跡もなくおぼつかなさを思ふころかな(謙徳公「新古今」)
(水の上に浮いている水鳥の足跡もないように、返事の手紙もなく、気がかりに思うこのごろであるよ。)

     題知らず
1022 片岡の雪間に根ざす若草のほのかに見てし人ぞ恋しき(曾祢好忠「新古今」)
(片岡の雪間に根ざして生え出てくる若草の先のように、ちらっと見ていただけの人が恋しくてたまらないことだ。)

 そして、これに続く、巻末の、次の和泉式部の画像は紹介されている。

(再掲)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-09-11

ケシ下絵・和泉式部.jpg

芥子下絵新古今和歌巻(巻末) 光悦書 東京国立博物館蔵 江戸時代・寛永10年(1633)
彩箋墨書 1巻

 この和泉式部の一首の詞書も、前図(画像)に掲載されていて、上図には出て来ない。

     返事せぬ女のもとに遣はさんとて、人のよませ侍りければ、
二月ばかりによみ侍りける
1023 跡をだに草のはつかに見てしがな結ぶばかりのほどならずとも 和泉式部
(あなたの筆跡をだけでも、わずかでいいから見たいものだ。契りを結ぶというほどではなくても。)

 ここで、「鷹峯隠士大虚庵齢七十六」の署名のある、この最晩年の「芥子下絵新古今和歌巻」は、その和歌巻に書かれている「亭子院→謙徳公(二首)→曾祢好忠→和泉式部」の「歌の流れ」(「新古今集」に寄せる眼差し)に比して、その、晩年の「書風」は、「肉細く筆鋒の鋭さに加え、筆の運びも遅く枯淡の味」(『別冊太陽№167本阿弥光悦』「光悦の書と下絵(伊藤敏子稿))」と「晩年の光悦書に特徴的な『震え』」(『もっと知りたい本阿弥光悦―生涯と作品―(玉蟲敏子他著)』)と併せ、その下絵の芥子坊主(胡粉と雲母で描く)は、その署名の「鷹峯隠士大虚庵」の、その「隠士」風と「大虚庵」の「大(太)虚」(「円カナルコト太虚ニ同ジ=一切皆空ノ理=『信心銘』)風とがイメージ化されてくる。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-05-22

(再掲)

花鳥巻夏一拡大.jpg

酒井抱一筆『四季花鳥図巻(上=春夏・下=秋冬)』「夏(一)」東京国立博物館蔵
https://image.tnm.jp/image/1024/C0035817.jpg

 これは、酒井抱一の「芥子図」である。真っ赤な芥子の花の脇の、ひょろりしたのは「芥子坊主」ではなく「芥子の蕾」であろうか。

歌麿・蜻蛉・蝶.jpg

喜多川歌麿//筆、宿屋飯盛<石川雅望>//撰『画本虫ゑらみ』国立国会図書館蔵
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1288345

 これは、喜多川歌麿の「芥子図」である。この右の芥子の花と蜻蛉の頭と尾のところのものが「芥子坊主」であろう。
 これらの「芥子の花」と「芥子坊主」の「絵画」的な空間に比すると、晩年の光悦の「芥子下絵新古今和歌巻」の下絵「芥子坊主」の世界は、その独自性を発揮するものではなく、いわゆる、「詩(和歌)・書・画」一如の世界の、その細やかな一翼を担っているに過ぎないということになろう。

(追記メモ) 宗達(そして「宗達工房)の「芥子図屏風」

宗達・芥子図屏風.jpg

https://media.thisisgallery.com/works/sotatsu_02
俵屋宗達(「伊年」印)「芥子図屏風」(京都国立博物館蔵)  紙本金地着色

【『芥子図屏風』は俵屋宗達によって描かれた芥子(ケシ)を描いた8曲1双からなる図屏風です。画面左下には「伊年」の印が捺されているのですが、これは宗達を始祖とする俵屋派のブランドマークにあたります。そのため宗達以外にも「伊年」印が確認されるものがあります。俵屋宗達は知名度の高さと後世への影響の大きさに比べ、本人についての詳しい資料は見つかっておらず現在も不明な点が多いままです。例えば作品を製作した詳しい年月日などはわかりません。京都で「俵屋」という当時絵屋と呼ばれた絵画工房を率い、扇絵を中心とした屏風絵や料紙の下絵などを大規模に製作したことはわかっています。『芥子図屏風』は金箔の下地に芥子(ケシ)がバランスよく並び、安定した構図の作品になっています。 】

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