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最晩年の光悦書画巻(その十七) [光悦・宗達・素庵]

(その十七)芥子下絵新古今和歌巻(その十七・謙徳公)

ケシ下絵・謙徳公.jpg

芥子下絵新古今和歌巻(巻頭) 光悦書 東京国立博物館蔵 江戸時代・寛永10年(1633)
彩箋墨書 1巻

https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0057939

 ここに記されている歌は、次の一首である。

      正月(むつき)、雨降り風吹きける日、女に遣はしける
1020 春風の吹くにもまさる涙かなわが水上も氷解くらし(謙徳公「新古今」)
(春風の吹くにつけてもくわわるる涙であることよ。水上の氷が解けるように。わが身の心も解けて、もの思いが増すらしい。)

 この歌の釈文(揮毫上の書体)は、「ハる可勢野ふく尓も満さ類奈ミ多可奈王可ミ奈可ミもこほりとくらし」の感じである。
 そして、続く左端の二行は、次の歌の詞書の「たびたび返事(かへりごと)せぬ女」の前半部分のようである。そして、その次の歌は、「水の上に浮きたる鳥の跡もなくおぼつかなさを思ふころかな」(謙徳公)である。

 この「謙徳公」は、下記のアドレスなどで触れている。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-07-25

(再掲)

藤原氏諡号.jpg

 藤原伊尹(ふじわらのこれまさ(-これただ)) 延長二~天禄三(924-972) 通称:一条摂政 諡号:謙徳公右大臣師輔の長男。母は贈正一位藤原盛子(藤原経邦女)。兼通・兼家・為光・公季(いずれも太政大臣)は弟。恵子女王を室とし、懐子(冷泉院女御)・義孝・義懐らをもうける。書家として名高い行成は孫。
 天慶四年(941)二月、従五位下に叙せられ、同年四月、昇殿を許される。同五年十二月、侍従。その後右兵衛佐を経て、天暦二年(948)正月、左近少将となり、同年二月には蔵人に補せられる。同九年、中将。同十年、蔵人頭に任ぜられたが、この地位を争った藤原朝成(あさひら。定方の子)に恨まれ、子孫にまで祟られたと言う(『大鏡』)。天徳四年(960)八月、参議に就任し、三十七歳にして台閣に列した。康保四年(967)正月、中納言・従三位。同年十二月、さらに権大納言となる。安和二年(969)、むすめ懐子所生の師貞親王(のちの花山天皇)が皇太子になると、以後は急速に昇進。同年大納言、天禄元年(970)右大臣と進み、同年五月には摂政に就いた。同二年十一月、太政大臣正二位となったが、翌年の天禄三年十一月一日、薨じた。四十九歳。贈一位、参河国に封ぜられ、謙徳公の諡を賜わる。
 天暦五年(951)、梨壺に設けられた撰和歌所の別当に任ぜられ、『後撰集』の編纂に深く関与した。架空の人物「大蔵史生倉橋豊蔭」に仮託した歌物語的な部分を含む家集『一条摂政御集』がある。『大鏡』にもこの家集の名が見え、歌才が賞讃されている。後撰集初出。勅撰入集三十七首。小倉百人一首にも歌を採られている。

 謙徳公は、藤原伊尹の「諡号(しごう)」で、その諡号と共に「三河公」も賜ったが、この「三河国」は、慶長期以後の本阿弥光悦と関係を深める「徳川家」(家康、そして、三代将軍・家光)の本拠地の「三河国」(現在の愛知県東半部)であることも、何かしらの縁という感じで無くもない。
 この謙徳公の歌が二首続くのだが、その二首目以降の画像(東京国立博物館「画像検索」)は、目にすることが出来ない。
 その紹介されていない箇所は、次のような箇所である。

     たびたび返事(かへりごと)せぬ女に
1021 水の上に浮きたる鳥の跡もなくおぼつかなさを思ふころかな(謙徳公「新古今」)
(水の上に浮いている水鳥の足跡もないように、返事の手紙もなく、気がかりに思うこのごろであるよ。)

     題知らず
1022 片岡の雪間に根ざす若草のほのかに見てし人ぞ恋しき(曾祢好忠「新古今」)
(片岡の雪間に根ざして生え出てくる若草の先のように、ちらっと見ていただけの人が恋しくてたまらないことだ。)

 そして、これに続く、巻末の、次の和泉式部の画像は紹介されている。

(再掲)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-09-11

ケシ下絵・和泉式部.jpg

芥子下絵新古今和歌巻(巻末) 光悦書 東京国立博物館蔵 江戸時代・寛永10年(1633)
彩箋墨書 1巻

 この和泉式部の一首の詞書も、前図(画像)に掲載されていて、上図には出て来ない。

     返事せぬ女のもとに遣はさんとて、人のよませ侍りければ、
二月ばかりによみ侍りける
1023 跡をだに草のはつかに見てしがな結ぶばかりのほどならずとも 和泉式部
(あなたの筆跡をだけでも、わずかでいいから見たいものだ。契りを結ぶというほどではなくても。)

 ここで、「鷹峯隠士大虚庵齢七十六」の署名のある、この最晩年の「芥子下絵新古今和歌巻」は、その和歌巻に書かれている「亭子院→謙徳公(二首)→曾祢好忠→和泉式部」の「歌の流れ」(「新古今集」に寄せる眼差し)に比して、その、晩年の「書風」は、「肉細く筆鋒の鋭さに加え、筆の運びも遅く枯淡の味」(『別冊太陽№167本阿弥光悦』「光悦の書と下絵(伊藤敏子稿))」と「晩年の光悦書に特徴的な『震え』」(『もっと知りたい本阿弥光悦―生涯と作品―(玉蟲敏子他著)』)と併せ、その下絵の芥子坊主(胡粉と雲母で描く)は、その署名の「鷹峯隠士大虚庵」の、その「隠士」風と「大虚庵」の「大(太)虚」(「円カナルコト太虚ニ同ジ=一切皆空ノ理=『信心銘』)風とがイメージ化されてくる。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-05-22

(再掲)

花鳥巻夏一拡大.jpg

酒井抱一筆『四季花鳥図巻(上=春夏・下=秋冬)』「夏(一)」東京国立博物館蔵
https://image.tnm.jp/image/1024/C0035817.jpg

 これは、酒井抱一の「芥子図」である。真っ赤な芥子の花の脇の、ひょろりしたのは「芥子坊主」ではなく「芥子の蕾」であろうか。

歌麿・蜻蛉・蝶.jpg

喜多川歌麿//筆、宿屋飯盛<石川雅望>//撰『画本虫ゑらみ』国立国会図書館蔵
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1288345

 これは、喜多川歌麿の「芥子図」である。この右の芥子の花と蜻蛉の頭と尾のところのものが「芥子坊主」であろう。
 これらの「芥子の花」と「芥子坊主」の「絵画」的な空間に比すると、晩年の光悦の「芥子下絵新古今和歌巻」の下絵「芥子坊主」の世界は、その独自性を発揮するものではなく、いわゆる、「詩(和歌)・書・画」一如の世界の、その細やかな一翼を担っているに過ぎないということになろう。

(追記メモ) 宗達(そして「宗達工房)の「芥子図屏風」

宗達・芥子図屏風.jpg

https://media.thisisgallery.com/works/sotatsu_02
俵屋宗達(「伊年」印)「芥子図屏風」(京都国立博物館蔵)  紙本金地着色

【『芥子図屏風』は俵屋宗達によって描かれた芥子(ケシ)を描いた8曲1双からなる図屏風です。画面左下には「伊年」の印が捺されているのですが、これは宗達を始祖とする俵屋派のブランドマークにあたります。そのため宗達以外にも「伊年」印が確認されるものがあります。俵屋宗達は知名度の高さと後世への影響の大きさに比べ、本人についての詳しい資料は見つかっておらず現在も不明な点が多いままです。例えば作品を製作した詳しい年月日などはわかりません。京都で「俵屋」という当時絵屋と呼ばれた絵画工房を率い、扇絵を中心とした屏風絵や料紙の下絵などを大規模に製作したことはわかっています。『芥子図屏風』は金箔の下地に芥子(ケシ)がバランスよく並び、安定した構図の作品になっています。 】

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最晩年の光悦書画巻(その十六) [光悦・宗達・素庵]

(その十六)芥子下絵新古今和歌巻(その十六・亭子院御歌)

ケシ下絵・亭子院.jpg

芥子下絵新古今和歌巻(巻頭) 光悦書 東京国立博物館蔵 江戸時代・寛永10年(1633)
彩箋墨書 1巻

https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0057939

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/306816


 芥子下絵新古今和歌巻(「光悦書」)は、この亭子院の御歌からスタートする。前の六行目までが、「亭子院」で、七行目からは、次の「謙徳公」の詞書である。「亭子院」の一首は、次のとおりである。

1019 大空をわたる春日の影なれやよそにのみしてのどけかるらん(亭子院御歌「新古今」)
(お前は、大空を渡る春の光であるので、よそにばかりいて、のどかに過ごしているのであろうか。)

 これは、平安時代中期の和歌説話集『大和物語』(四十五段)に由来のある一首である。

https://mukei-r.net/kobun-yamato/yamato-05.htm

【 前の帝[宇多天皇か清和天皇か定まらず]の時、刑部の君(ぎょうぶのきみ)と呼ばれていた更衣(こうい)[天皇の妻のうち、女御より下]が、里に下がられたまま、長らく参上しないので、天皇が遣わした和歌。

大空を
  わたる春日の 影なれや
    よそにのみして のどけかるらむ
          宇多天皇 or 清和天皇 (新古今集)

[大空を
   わたる春の日の太陽なのだろうか
  余所から眺めるばかりで
    のどかそうにしているようですね]  】 (『大和物語(四十五段)』)

 「亭子院(ていじいん、ていじのいん)」とは、第五十九代の天皇 (在位 887~897) 「宇多天皇」の院号である。「宇多上皇の院号。また、その御所。左京七条坊門南、西洞院の西(西本願寺の東辺)にあった。」(「大辞林 第三版」)

亭子院歌合.jpg

亭子院歌合〈延喜十三年三月十三日/〉
福岡県 平安 1巻 福岡県太宰府市石坂4-7-2
重文指定年月日:19410703  国宝指定年月日: 登録年月日:
国(文化庁) 国宝・重要文化財(美術品)

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/185082

https://blog.goo.ne.jp/taketorinooyaji/e/bae305c33a8b0012d981dbddc62bc58f

【 延喜十三年三月十三日亭子院歌合

 ひたりのとう(左頭)をんな(女)ろくのみや(六宮)、かた(方)のみこ、おほんせうと(御兄人)のなかのまつりこと(中務)のし(四)のみこ(親王)、たんしよう(弾正)のこ(五)のみこ(親王)、なかのものまうすつかさ(中納言)ふちはらのさたかた(藤原定方)朝臣、さゑもんのかみ(左衛門督)なかみつ(有実)朝臣、うたよみ、ふちはらのおきかせ(藤原興風)、おふしかうちのみつね(凡河内躬恒)、かたうと(方人)、むねゆき(致行)、よしかせ(好風)らなむ。
 みきのとう(右頭)をんな(女)ななのみや(七宮)、かた(方)のみこ(親王)、おほんせうと(御兄人)のこうつけ(上野)のはちのみや(八宮)、せいはのさたかす(清和貞数)のはちのみや(八宮)、なかのものまうすつかさ(中納言)みなもとののほる(源昇)朝臣、うゑもんのかみ(右衛門督)きよつら(清貫)朝臣、うた(歌)よみ、これのり(是則)、つらゆき(貫之)、かたうと(方人)、かねみ(兼覧)のおほきみ(王)、きよみちの朝臣。
 みかと(帝)のおほむしようふそく(御装束)、ひはたいろ(檜皮色)のおほんそ(御衣)にしようわいろ(承和色)のおほんはかま(御袴)。をとこをむな(男女)、ひたり(左)はあかいろにさくらかさね、みき(右)はあをいろにやなきかさね。ひたり(左)はうたよみ、かすさしのわらは(童)、れいのあかいろにうすすはう(薄蘇芳)あや(綾)のうへのはかま、みき(右)にはあをいろにもえき(萌葱)のあや(綾)のうへのはかま。かたかたのみこ(方方親王)、あをいろあかいろみなたてまつれり。
 かくて、ひたり(左)のそふ(奏)はみのとき(巳時)にたてまつる。かた(方)のみや(宮)たちみなしようそく(装束)めでたくして、すはま(州浜)たてまつる。まふちきみ(大夫)よたり(四人)かけり。かく(楽)はわうしきてう(黄鍾調)にていせのうみ(伊勢海)といふうたをあそふ。みき(右)のすはま(州浜)はうまのとき(午時)にたてまつる。おほきなるわらは(童)よたり(四人)、みつら(美豆良)ゆひ、しかいは(四海波)きてかけり。かく(楽)はそうてう(双調)にてたけかは(竹河)といふうたをいとしつやかにあそひて、かたみや(方宮)たちもてはやしてまゐりたまふ。ひたりのそふ(左奏)はさくらのえたにつけて、なかのものまうすつかさ(中務)のみこ(親王)もたまへり。みき(右)はやなきにつけて、かうつけ(上野)のみこ(親王)もたまへり。うた(歌)は、したん(紫檀)のはこちひさくて、おなしこといれたり。かんたちめ(上達部)、はしのひたりみき(左右)にみなあかれ(上かれ)てさふらひたまふ。によくらふと(女蔵人)よたり(四人)つつひたりみき(左右)にさふらはせたまふ。うた(歌)のかんし(講師)は、をんな(女)なむつかまつりける。みす(御簾)いちしやくこすん(一尺五寸)はかりまきあけて、うた(歌)よまむとするに、うへ(上)のおほせたまふ。このうたをたれかはききはやしてことわらむとする。たたふさ(忠房)やさふらふとおほせたまふ。さふらはすとまうしたまへは、さうさうしからせたまふ。
 みき(右)はかちたれとも、うち(内)のおほんうた(御歌)ふたつをかちにておきたれは、みき(右)ひとつ(一)まけたり。されと、ほとときすのはうのはなにつけたり。よ(夜)のうたは、うふね(浮舟)してかかり(篝)にいれてもたせたり。ひたりのかた(左方)のみや(宮)に、みき(右)のかたのたてまつりたまひける、しろかねのつほのおほきなるふたつに、しん(沈)あはせたきもの(薫物)いれたりけり。かた(方)のをんな、ひとひと(人々)にみなそうそく(装束)たま(給)ひけり。
 たい(題)はきさらき(二月)やよひ(三月)うつき(四月)なり。

春 二月 十首

二月一番
左  伊勢
歌番号〇一 
原歌 あをやきの えたにかかれる はるさめは いともてぬける たまかとそみる
解釈 青柳の 枝にかかれる 春雨は 糸もてぬける 玉かとぞ見る
右  坂上是則
歌番号〇二 
原歌 あさみとり そめてみたるる あをやきの いとをははるの かせやよるらむ
解釈 浅緑 そめて乱れる 青柳の 糸をばはるの 風や縒るらむ

二月二番
左  凡河内躬恒
歌番号〇三 
原歌 さかさらむ ものならなくに さくらはな おもかけにのみ またきみゆらむ
解釈 咲かざれむ ものならなくに 桜花 面影にのみ まだき見ゆらむ
右  紀貫之
歌番号〇四 
原歌 やまさくら さきぬるときは つねよりも みねのしらくも たちまさりけり
解釈 山桜 咲きむるときは つねよりも 峰の白雲 たちまさりけり

二月三番
左  凡河内躬恒
歌番号〇五 
原歌 きつつのみ なくうくひすの ふるさとは ちりにしうめの はなにさりける
解釈 来つつのみ 鳴く鶯の 故里は 散りにし梅の 花にざりける
右  坂上是則
歌番号〇六 
原歌 みちよへて なるてふももは ことしより はなさくはるに あひそしにける
解釈 三千代経て なるてふ桃は 今年より 花咲く春に あひぞしにける
(以下、略)    】(『日本古典文学全集7 古今和歌集(校注・訳:小沢正夫)』所収「延喜十三年亭子院歌合」

 「亭子院歌合」のトップは、古今和歌集では小野小町と双璧なす女流歌人の「伊勢」の一首である。「伊勢」は宇多天皇の寵愛を得て、「更衣」(女御に次ぐ令外の后妃)として一子をもうけ、夭逝した。
 この「芥子下絵新古今和歌巻」の巻頭の一首は、「宇多天皇」(亭子院)の「更衣」の一人に寄せた歌で、「伊勢」の面影が無くもない。そして、その「巻末」の句は、時代は下って「千載集」「新古今」時代の、「伊勢」の面影もどことなく宿している「和泉式部」の一首である。
 そして、「芥子下絵新古今和歌巻」と同時の頃の作「草木摺絵新古今集和歌巻」の巻末の三首は、「伊勢・和泉式部・馬内侍」の、次のアドレスで紹介したものであった。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-09-08  (再掲)

(伊勢)
    忍びたる人と二人臥して
夢とても人に語るな知るといへば手枕ならぬ枕だにせず(伊勢「新古1159」)
(夢の中のこととしてでも、人にお語りなさいますな。枕は共寝の秘密を知るといいますから、手枕でない枕さえもしていないのです。)

(和泉式部)
    題しらず
枕だに知らねば言はじ見しままに君語るなよ春の夜の夢(和泉式部「新古1160」)
(枕さえ知らないのですから、告げ口はしないでしょう。ですからあなた、見たままに人に語ったりしないで下さい、私たちの春の夜の夢を。)

(馬内侍)
   人にもの言ひはじめて
忘れても人に語るなうたた寝の夢見てのちも長からじ世の(馬内侍「新古1161」)
(忘れてもけっして人にお語りなさいますな。うたた寝の夢を見るようなあなたとの儚い一夜を過ごしてのちも、長くはあるまいと思われる命なのだから。)

 そして、そこで、「華麗な恋愛遍歴に彩られた王朝女流歌人の三羽烏」の「伊勢・和泉式部・馬内侍」の三首が、何とも、光悦の最晩年の華やぎ」を見るような思いがして来る」との、「草木摺絵新古今集和歌巻」にかんする総括的な感慨の一端を記したのだが、今回の、「芥子下絵新古今和歌巻」の、巻頭(亭子院)と巻末(和泉式部)の二首に接しただけでも、同じような感慨を抱くのである。
 まして、この「芥子下絵新古今和歌巻」の下絵が、胡粉と雲母で描いた「雛罌粟」の「芥子坊主(芥子の果実)」だけのものを見ると、その印象はさらに強まって来る。

(追記メモ一)  「亭子院歌合の人物構成について」(小林あづみ稿)

https://www.jstage.jst.go.jp/article/nbukiyout/26/0/26_KJ00000183103/_pdf

(追記メモ二)  光悦筆・宗達下絵「和歌巻」と「色紙」の「月」図(四態様)など(その二)

ベルリン国立アジア美術館光悦月・.jpg

光悦筆・宗達下絵「四季草花下絵新古今和歌色紙」より「月図(弦月図)」(藤原家隆「歌」) ベルリン国立アジア美術館蔵 紙本金銀泥絵・墨書 18.3cm×16.2cm (第十九図)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-09-11

【 白地に金泥をうすく刷き、下半をはすかいに区切った―恐らく山の端に見立てた―土坡には、濃い金泥を塗り、その上に銀泥の十日あまりの月を大きく、月の上端は画面をはずれるほど大きく、えがく。桃山時代は月を描けば、このふくよかな十日月である。柳橋水車図の月がそうであり、団家本の光悦歌巻の月もそうである。それはまた光悦のたっぷりした量感の表現と軌を一にするものである。この第十九枚目からは、屏風としては、左隻に移って、秋に入るのであるが、右隻の第一葉が、春のはじめとして日輪であったのに対し、ここは弦月をもって対照させている。歌は新古今集巻四秋歌である。 】(『光悦色紙帖(ドイツベルリン国立博物館蔵)・光琳社出版株式会社』所収「ベルリン博物館の光悦色紙帖(源豊宗稿)」)

ベルリン・藤原良経.jpg

光悦筆・宗達下絵「四季草花下絵新古今和歌色紙」より「日輪図か満月図」(藤原家隆「歌」) ベルリン国立アジア美術館蔵 紙本金銀泥絵・墨書 18.3cm×16.2cm (第一図)

【 下絵は、今しがた松林の上に姿をあらわした日輪。胡粉地にうすく金泥を刷き、色紙の上端に接して幅一ぱいの直径をもつ大きな日輪を描く。日輪は先づ濃い金泥を塗り、その上に更に銀泥をむらむらにかけている。総じて銀泥はほとんど黒く錆びてしまっているが、最初は金地に加えられた白銀光が燦として日輪の輝きを発揮していたであろう。日輪の下すれすれに金泥のつけたてで、簡略に描かれた低いはるすな松林が、この日輪を一層大きく感じさせる。日輪は満月と見られなくはないが、もと一双の屏風であった左隻の第一葉(第十九図)の上弦の月に対し、右隻第一葉のこの図としては、当時の日月四季屏風の方式に即して、やはり日輪と解すべきであろう。 】(『光悦色紙帖(ドイツベルリン国立博物館蔵)・光琳社出版株式会社』所収「ベルリン博物館の光悦色紙帖(源豊宗稿)」)

 「ベルリン博物館の光悦色紙帖」(三十六枚)は、この第一図からスタートとする。ここに揮毫されている歌は、次の「新古今和歌集」の巻頭の一首である。

     春立つ心をよみ侍りける
1  み吉野は山もかすみて白雪のふりにし里に春は来にけり(摂政太政大臣=藤原良経「新古今・巻一春歌上)
(吉野は、山までもかすんで、昨日までの冬には白雪の降り積もっていた里、これは、遠い昔、離宮のあった里だが、この里には、春き来たことだ。)

 この色紙には、詞書も作者名もない。そして、釈文は「三芳野は山も霞て白雪濃ふりにし里に春は来に介梨」の感じである。
 これは、六曲一双屏風の、右隻(十八枚)の第一扇(三枚)の、そのトップの図が、この第一図のものなのである。
そして、左隻(十八枚)の第一扇(三枚)の、そのトップの図は、冒頭の第十九図なのである。

    百首歌よみ侍りける中に
289 昨日だに訪(と)はんと思ひし津の国の生田の森に秋は来にけり(藤原家隆「新古今・巻四・秋歌上」)
(夏であった昨日でさえ尋ねようと思った津の国の生田の森に、今日は、秋は来たことだ。)

 ここで、右隻第一扇のトップの図が、立春(藤原良経作)の一首で、その左隻第一扇のトップの図が、立秋(藤原家隆作)の一首というのは、この絶妙な好対照の発見は、この下絵(図)を描いた宗達(または宗達工房の画家)ではなく、紛れもなくなく、この二首を揮毫した、光悦その人ということになろう。
 
 ここで、この右隻第一扇のトップの図(第一図)について、「日輪は満月と見られなくはないが、もと一双の屏風であった左隻の第一葉(第十九図)の上弦の月に対し、右隻第一葉のこの図としては、当時の日月四季屏風の方式に即して、やはり日輪と解すべきであろう」(『光悦色紙帖(ドイツベルリン国立博物館蔵)・光琳社出版株式会社』所収「ベルリン博物館の光悦色紙帖(源豊宗稿)」)については、やはり、これは、「日輪」ではなく「満月」と解したい。
 そして、いわゆる、「光悦謡本(うたいぼん)」(「角蔵(倉)本ト云ウ。或ハ光悦ノ謡本トモ云ウ」=『弁疑書目録(中村富平著)』)の「雲英摺(きらずり)模様」の中に、この第一図の原型ともいうべき「松山満月模様」(松山の端に上る満月の図)のものがある。

当麻一.jpg

光悦謡本(上製本),当麻,法政大学鴻山文庫蔵(表表紙)
https://nohken.ws.hosei.ac.jp/nohken_material/htmls/index/pages/y14/01-034.html

当麻に.jpg

光悦謡本(上製本),当麻,法政大学鴻山文庫蔵(裏表紙)
https://nohken.ws.hosei.ac.jp/nohken_material/htmls/index/pages/y14/01-034.html

 これらの「光悦謡本」、そして、角倉素庵の「嵯峨本」と、光悦・宗達(又は宗達工房)の「和歌巻」や「色紙・短冊」のコラボ(「共同・共作・共演」)的な世界とは密接不可分の関係にあるのであろう。
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最晩年の光悦書画巻(その十五) [光悦・宗達・素庵]

(その十五)芥子下絵新古今和歌巻(その十五・和泉式部)

ケシ下絵・和泉式部.jpg

芥子下絵新古今和歌巻(巻末) 光悦書 東京国立博物館蔵 江戸時代・寛永10年(1633)
彩箋墨書 1巻

https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0057939

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/306816



 下絵に芥子坊主(芥子の果実)を胡粉と雲母で描き、『新古今和歌集』巻第11の詞書と和歌を散らし書きする。晩年の筆と推測され、筆線に震えが散見される。料紙および下絵のさまざまな白が、墨が内包する多様な黒を対比的に引き立てている。

 この「芥子下絵新古今和歌巻(巻末)」の年紀は「寛永十年十月五日」で、次の「草木摺絵新古今集和歌巻(巻末)」の年紀は「寛永十年十月二十七日」の、二十二日後に制作されたということになる。

鷹峯隠士・拡大氏.jpg

【 草木摺絵新古今集和歌巻(巻末) 寛永10年(1633)10月27日 静嘉堂文庫蔵
紙本墨書 金泥摺絵 一巻 縦35.8㎝ 長957.2㎝
四季順に、躑躅(つつじ)、藤、立松、忍草、蔦(つた)、雌日芝(めひしば)の木版模様を並べ、金泥や金砂子をほどこした下絵に、巻十二恋歌二の終わり二首、巻十三恋歌三の巻頭から十三首を選んで記す。巻末には「鷹峯隠士大虚庵齢七十有六」の署名と「光悦」の黒印がある。震えを帯びた細い線が所々に見出され、年紀どおり最晩年の書風を示している。(『もっと知りたい本阿弥光悦―生涯と作品―(玉蟲敏子他著)』) 】

 「芥子下絵新古今和歌巻(巻末)」の署名も、「草木摺絵新古今集和歌巻(巻末)」の署名「鷹峯隠士大虚庵齢七十有六」の「有」の文字がないだけで、同じ字配りのようである。
 ここで書かれている和歌は『新古今集和歌』の「巻十位置・恋歌一」の次の一首である。

1023 跡をだに草のはつかに見てしがな結ぶばかりのほどならずとも 和泉式部
(あなたの筆跡をだけでも、わずかでいいから見たいものだ。契りを結ぶというほどではなくても。)

 この歌意は、『日本古典文学全集26新古今集和歌集(峯村文人校注・訳)』に因っているが、この歌には、「返事(かへりごと)せぬ女のもとに遣はさんとて、人のよませ侍りければ、二月(きさらぎ)ばかりによみ侍りける」との詞書がある。
 この図では、この詞書は出て来ないが、この図の冒頭の「和泉式部」の前に、この詞書が書かれているものと思われる(上記のアドレスでは、「巻頭」「部分」「巻末」の三葉だけで、その詞書が書かれている「部分図」は紹介されていない)。
 この詞書の「人のよませ侍り」とは、「男が和泉式部に代作を頼んで、和泉式部が男に代わって詠んだ歌」(和泉式部の「男歌」)なのである。さらに、この歌は、「春日野の雪間を分けて生ひ出でくる草のはつかに見えし君かは」(壬生忠岑「古今・恋」)の本歌取りの一首である。
 この歌の「釈文」(読み難い筆跡を読み易い字体に直したもの)は、この図だけでは判読し難いが、「安登を多耳草乃ハ徒可尓見てし可那無須不ハ可利乃本となら寸斗も」の感じである。これは『書道芸術第十八巻 本阿弥光悦(中田勇次郎編集)』の「釈文・解題(中田勇次郎・木下正雄)」に因っているが、次のアドレスの「変体仮名 五十音順一覧」も参考になる。

http://www.book-seishindo.jp/kana/onjun_3.html

 その『書道芸術第十八巻 本阿弥光悦(中田勇次郎編集)』で、光悦の和歌巻について、次のように指摘している。

【 光悦の和歌巻を通じて言いうることは、その書体にはほぼ一定のものがあり、いわゆる平がな体のものよりも、変体がなのものに特色があり、その用例も変体のものの方が多いことである。(「桜下絵新古今和歌巻(中田勇次郎)」)

 この下絵の考案者を、他の同類の和歌巻の下絵についてすでに研究家によって立てられている説とおなじように、これを宗達と見ることも考えられよう。しかし、下絵が考案され、えがかれて、その上に光悦が新古今からさくらの歌をえらんで書いたというには、あまりにも下絵と和歌とが融合しすぎている。これはどうしても下絵の考案についても光悦の意図があったもので、光悦の考案の方が先行するのではないかとおもう。それには、陶器、蒔絵、茶器、作庭などにあらわれる光悦のとくに創作にすぐれ、才気のみなぎった作品から考えても、和歌巻の場合においても、かならず光悦の意図が先立つものとして出されていたと考えるべきであろう。(「桜下絵新古今和歌巻(中田勇次郎)」)

 光悦は室名を徳友斎と号したが、鷹峯に移ってからは大虚庵を号したという。林羅残の鷹峯記に「嘗て数百弓の地を占めて以て小字をここに構え、自ら太虚庵と号す」とあり、深草元政上人の大虚庵にも、「翁、遂に居をその間に築き、太虚庵を以て扁(扁額をかかげること) とあるのによって知られる。元和五年に書いた立正安国論および始聞仏乗義にも、いずれも署名の上に大虚庵と書いている。これは元和になってこの号を用いていたことを示している。あるいはもっと早くにこの号があったかも知れないが、まだその実例は見あたらない。(「四季花卉下絵千載和歌巻(中田勇次郎)」)  】(『書道芸術第十八巻 本阿弥光悦(中田勇次郎編集)』)

 本阿弥光悦は、「江戸時代初期の書家、陶芸家、蒔絵師、芸術家、茶人」(『ウィキペディア(Wikipedia)』)で、画家ではない。そして、光悦の本業は、刀剣に関する仕事(「研ぎ」「拭い」「目利き」)で、「書家、陶芸家、蒔絵師、芸術家、茶人」は、「手遊び・余技」の分野のものである。
 この「手遊び・余技」の分野の「書家、陶芸家、蒔絵師、芸術家、茶人」の中で、唯一、「寛永の三筆」(本阿弥光悦・近衛信尹・松花堂昭乗)の筆頭と自負しているほどに(『今古雅談』)、専門的な「書家」として、それを本業と見做すことも出来よう。
 その本業の一つと見做すことも出来る「書家」の分野で、光悦が最も本格的に取り組んだものとして金銀泥などの絵模様を散らした下絵に揮毫する「和歌巻」が挙げられる。
 この光悦書の「和歌巻」は、凡そ、次の三期に分けられる。

一 慶長期(光悦四十代・五十代)→「書(光悦)・画(宗達他)」協奏の時代

① 四季草花下絵古今集和歌巻(畠山記念美術館蔵)→「光悦」墨文方印 「伊年」朱文方印
「紙師宗二」長方印
② 鶴下絵三十六歌仙和歌巻(京都国立博物館蔵)→「光悦」墨印方印 「紙師宗二」長方印
③ 鹿下絵新古今集和歌巻(諸家分蔵)→「徳友斎光悦(花押)」 「伊年」朱文方印

二 元和期(光悦六十代)→「書(光悦) 画(宗達他)」同源の時代

④ 四季草花千載集和歌巻(個人蔵)→「太虚庵光悦(花翁)」 「伊年」朱文円印 「紙師宗二」長方印
➄ 蓮下絵百人百人一首和歌巻」(諸家分蔵)→「太虚庵光悦(花翁)」

三 寛永期(光悦七十代)→「詩(和歌)・書画(光悦書ほか)」一如の時代

⑥ 草木摺絵新古今集和歌巻(静嘉堂文庫蔵)→「鷹峯隠士大虚庵齢七十有六」の署名 「光悦」墨印方印 
⑦ 芥子下絵新古今和歌巻(東京国立博物館蔵)→「鷹峯隠士大虚庵齢七十六」の署名 「光悦」墨印方印  

(注:『日本の美術№460 光悦と本阿弥流の人々(河野元昭編)』では「太虚庵」、『もっと知りたい本阿弥光悦(玉蟲敏子他著)』では「大虚庵」、『書道芸術第十八巻 本阿弥光悦(中田勇次郎編集)』では「大と太」とを使い分けている。また、『日本の美術№460 光悦と本阿弥流の人々(河野元昭編)』では「墨印方印」と「墨文方印」とを使い分けている。)

 この、「一 慶長期(光悦四十代・五十代)→『書(光悦)・画(宗達他)』協奏の時代」とは、
「光悦の書と宗達(そして宗達工房)の下絵とが相互に響きあって協奏の世界を創出している」世界を意味し、いわゆる、「光悦書・宗達画和歌巻」として、「光悦和歌巻」の代名詞にもなっている世界である。
 そして、「二 元和期(光悦六十代)→『書(光悦) 画(宗達他)』同源の時代」については、「書画同源」(張彦遠・『歴代名画記』の「書と画とは同体異名であり、そもそも文字の起源は象形、つまり画であった」と由来する)ですると、「一の『書画協奏』」ではなく、さらに、「二の『書画同源』」の、「光悦書(そして光悦書画)が主で、宗達画(そして宗達工房の画)は、その従たる伴奏のような世界」を意味している。
 その上で、この「三 寛永期(光悦七十代)→『詩(和歌)・書画(光悦書ほか)』」一如の時代」というのは、いわゆる、造形的な世界(「書画の世界」)の、その「書画同然」の次の世界の、「書画(造形的な「形」の世界)と詩歌(非造形的な「情」の世界)」との、その「詩書画三絶(詩書画一如・詩書画一致)の世界」のような雰囲気を漂わせている。

【 本阿弥光悦は慶長年間の人、以書海内に鳴る。画又一風を為す。宗達光琳の祖とするところなり。尤古土佐の風によりて細筆の歌仙など世に残決あり。草画金銀にて絵き、淡彩も稀に有り。「光悦」印 (酒井抱一編『尾形流略印譜』異本)  】(『もっと知りたい本阿弥光悦(玉蟲敏子他著)』では「句読点なし」)

 琳派の継承者、江戸琳派の総帥・酒井抱一の「本阿弥光悦」像である。
そこでは、「本阿弥光悦は慶長年間の人」と、上記の「一 慶長期(光悦四十代・五十代)→『書(光悦)・画(宗達他)』協奏の時代」を念頭に置いている。
 そして、次に、その「書は海内(天下)に鳴る(知れ渡っている)。」同時に「画又一風を為す。宗達光琳の祖とするところなり。」と、抱一は、画家としても「宗達・光琳の祖」と仰ぎ、その画は、「古土佐の風の細筆の歌仙など」(大和絵の様式で描かれた歌仙図など)と「草画金銀にて絵(えが)き」(「金銀泥で描かれた和歌巻」=上記の「①②③」の和歌巻など)と「淡彩も稀にあり」としている。
 この抱一の光悦像で、光悦が「以書(書は)海内に鳴る」というのは、今日でも動かない評であるが、こと、「画又一風を為す」については、「近代以降の光悦研究では、和歌巻類の金銀泥絵は、宗達、ないしは、その工房の作品と考えられるようになり、本書もその立場に拠っているが、当時は書画ともに光悦筆として認識されていたようである」(『玉蟲・前掲書』)が、一般的な見方のようである。
 そういう、一般的見方も考慮しても、冒頭の「芥子下絵新古今和歌巻」の、この「下絵に芥子坊主(芥子の果実)を胡粉と雲母で描き」の、その描いた人は、この書の揮毫者の最晩年の、本阿弥光悦その人と解したい。

(追記)  光悦筆・宗達下絵「和歌巻」と「色紙」の「月」図(四態様)など

(「上弦の月」→ 旧暦二十三日頃、弦が直線)

千載・上弦月.jpg

https://weathernews.jp/s/topics/201802/220075/

光悦筆・宗達下絵「「四季草花下絵千載集和歌巻」(部分図)  個人蔵 紙本墨書 金銀泥下絵 一巻 縦三四・〇㎝ 横九二二・二㎝

【 末尾に「伊年」印のある和歌巻のうち、浅黄、白、薄茶などの色紙をつなげ、四季の草花や景物を描いた優美な様式もの。書は作者や詞書を省略し、春の歌二十五首を選んで闊達に執筆する。慶長末期から元和初めに推定される筆跡は、掲出の月に秋草の場面からもわかるように、漢字まじりの大字を象徴的にあつかい、小字の仮名は虫のごとく、叢(くさむら)に潜めるように配置する。薄や末尾の松林などは「平家納経」補修箇所と一致し、その展開であることが示唆される。「大虚庵光悦(花押)の署名がある。 】(『もっと知りたい本阿弥光悦(玉蟲敏子他著)』)

    花留客(客を留めん)といへる心をよみ侍りける
90 ちりかかる花のにしきは来たれどもかへらむ事ぞわすられにける(右近大将実房「千載集巻二・春下」)

 この一首の前の次の歌の結句が、右の二行である。

    花の歌とてよみ侍りける
89 さくら咲く比良の山風ふくまゝに花になりゆく志賀のうら浪

(「更待月」→陰暦二十日頃、もう少し弦が丸みを帯びると「寝待月」)

月色紙・五島美術館蔵.jpg

光悦筆・伝宗達下絵「金銀泥下絵和歌色紙『月図』」五島美術館蔵 [本紙一紙]縦18.1cm 横16.8cm
【紙本著色・墨書/一帖 江戸時代初期・17世紀
[本紙一紙]縦18.1cm 横16.8cm [台紙一紙]縦28.8cm 横23.0cm 五島美術館蔵
本阿弥光悦(1558~1637)が、『新古今和歌集』36首(巻第五「秋歌下」504~521番、巻第十「羇旅歌」954~967番、巻第十一「恋歌」1034~1037番)を1首ずつ書写した色紙36枚を、アルバム状に仕立てた作品。下絵は、俵屋宗達(?~1640頃)が描いたと伝え、36枚のうち34枚が2枚1組として同主題の四季草花図を描く。金銀泥を主体に文様化した花や草木、鳥、波等の一定のパターンを用いているところから、数人の職人絵師による工房制作だろうか。 】

https://www.gotoh-museum.or.jp/collection/col_03/08072_001.html

     旅寝とて
967 さらぬだに秋の旅寝は悲しきに松に吹くなりとこの山風(藤原秀能「新古今」)

(「上弦の月」か「更待月」→弦はほぼ直線の感じ)

光悦色紙・月に萩.jpg

光悦筆・伝宗達下絵「花卉下絵新古今和歌巻」より「月に萩図」
【 慶長十一年(一六〇六)十一月十一日年紀 北村美術館蔵 紙本墨書 金銀泥下絵 一枚 縦二〇・三㎝ 横一七・六㎝
 十一尽くしの特別な年紀をしるした色紙は十数枚が残されているが、その一枚で画面をはみ出さんばかりの上弦の月とばつばさに描かれた薄(すすき)・萩などの秋草の大胆な下絵は見事である。法性寺入道関白太政大臣作の和歌の書もまた画面いっぱいに力強く、「慶長十一年十一月十一日光悦書 かせ吹は玉ちる萩の下露にはかなくやとる野辺の月哉」としるす。朱文の「光悦」が捺される。 】(『もっと知りたい本阿弥光悦(玉蟲敏子他著)』)

386 風吹けば玉散る萩の下露にはかなく宿る野べの月かな(法性寺入道関白太政大臣「新古今」)

 この「法性寺入道関白太政大臣」は、藤原忠道である。

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/tadamiti.html

【藤原忠通 ふじわらのただみち 承徳元~長寛二(1097-1164) 号:法性寺関白
道長の直系。関白太政大臣忠実の息子。母は右大臣源顕房のむすめ、従一位師子。左大臣頼長・高陽院泰子の兄。基実・基房・兼実・兼房・慈円・覚忠・崇徳院后聖子(皇嘉門院)・二条天皇后育子・近衛天皇后呈子(九条院)らの父。藤原忠良・良経らの祖父。
堀河天皇の嘉承二年(1107)四月、元服して正五位下に叙され、昇殿・禁色を許され、侍従に任ぜられる。鳥羽天皇代、右少将・右中将を経て、天永元年(1110)、正三位。同二年、権中納言に就任し、従二位に昇る。同三年、正二位。永久三年(1115)正月、権大納言。同年四月、内大臣。保安二年(1121)三月、白河院の不興を買った父忠実に代わって関白となり、氏長者となる。同三年、左大臣・従一位。崇徳天皇の大治三年(1128)十二月、太政大臣。
近衛天皇代にも摂政・関白をつとめたが、大治四年(1129)の白河院崩後、政界に復帰した父と対立を深め、久安六年(1150)には義絶されて氏長者職を弟の頼長に奪われた。以後美福門院に接近し、久寿二年(1155)の後白河天皇即位に伴い忠実・頼長が失脚した結果、氏長者に返り咲いた。保元三年(1158)、関白を長子基実に譲り、応保二年(1162)、出家。法名は円観。
永久から保安(1113-1124)にかけて自邸に歌会・歌合を開催し、自らを中心とする歌壇を形成した。詩にもすぐれ、漢詩集「法性寺関白集」がある。また当代一の能書家で、法性寺流の祖。日記『法性寺関白記』、家集『田多民治(ただみち)集』がある。金葉集初出。勅撰入集は五十九首(金葉集は二度本で数えた場合)。 】

この「十一尽くしの特別な年紀」は、日蓮宗の聖日の「小松原法難」との関連など幾つの説があるが、「三十一字」(みそひともじ)」の、光悦の洒落の雰囲気で無くもない。

https://kotobank.jp/word/%E4%B8%89%E5%8D%81%E4%B8%80%E6%96%87%E5%AD%97-513664

(「十日夜の月」→陰暦十日頃、「弦」さらに丸みを帯びると「十三夜月」)

ベルリン国立アジア美術館光悦月・.jpg

光悦筆・宗達下絵「四季草花下絵新古今和歌色紙」より「月図」(藤原家隆「歌」) ベルリン国立アジア美術館蔵 紙本金銀泥絵・墨書 18.3cm×16.2cm
(『もっと知りたい本阿弥光悦(玉蟲敏子他著)』)では、「稲田図」(鴨長明の歌)が紹介されている。この「月図」は、次の藤原家隆の歌である。

    百首歌よみ侍りける中に
289 昨日だに訪(と)はんと思ひし津の国の生田の森に秋は来にけり(藤原家隆「新古今・巻四・秋歌上」)
(夏であった昨日でさえ尋ねようと思った津の国の生田の森に、今日は、秋は来たことだ。)

 「生田の森」は、今の兵庫県神戸市生田区にあった森。「君住まば訪(と)はましものを津の国の生田の森の秋の初風」(僧都清胤「詞葉・秋」)。歌意・校注は、『日本古典文学全集26 新古今和歌巻集(峯村文人:校注・訳)』に因っている。

【 白地に金泥をうすく刷き、下半をはすかいに区切った―恐らく山の端に見立てた―土坡には、濃い金泥を塗り、その上に銀泥の十日あまりの月を大きく、月の上端は画面をはずれるほど大きく、えがく。桃山時代は月を描けば、このふくよかな十日月である。柳橋水車図の月がそうであり、団家本の光悦歌巻の月もそうである。それはまた光悦のたっぷりした量感の表現と軌を一にするものである。この第十九枚目からは、屏風としては、左隻に移って、秋に入るのであるが、右隻の第一葉が、春のはじめとして日輪であったのに対し、ここは弦月をもって対照させている。歌は新古今集巻四秋歌である。 】(『光悦色紙帖(ドイツベルリン国立博物館蔵蔵)・光琳社出版株式会社』所収「ベルリン博物館の光悦色紙帖(源豊宗稿)」)

(参考)

https://core.ac.uk/download/pdf/228663408.pdf

 源豊宗の「秋草の美学」論―中国絵画との比較研究を踏まえて―(関西大学大学院東アジア文化研究科 施 燕)

「ベルリン博物館蔵光悦色紙帖研究」(1966)、

(抜粋)
【 源の琳派研究は、1950 年「扇屋俵屋宗達」に始まり、『本阿弥光悦』(1954)、『宗達の芸術』(1954)、『光琳の生涯』(1954)、『光琳の芸術』(1959)、『宗達の墨絵』(1961)、『光琳と乾山の美術史上の位置』(1962)、「ベルリン博物館蔵光悦色紙帖研究」(1966)、『光悦短冊帖について』(1969)、(共編)『琳派工芸選集』(1968)、『宗達と水墨画』(1970)、『宗達の様式』(1972)、『光悦の書風とその展開』(一-三)(1973)、『宗達とその周辺』(1974)、
『俵屋宗達』(日本美術絵画全集)(1976)、『五島本光悦筆「新古今色紙帖」』(解説)(1976)、
「平家納経と宗達」(対談)(1976)、「光悦の芸術」(畠山本宗達下絵光悦筆四季草花和歌巻)
(1977)、「初期の光悦」(1977)、「日本の美術工芸と光琳」(1982)、「鷹峰以前の光悦」(1985)、
「本阿弥光悦の芸術」(1990)といった多数の研究にわたっている。それらの論考は実証
的手法に基づきながら、様式の展開とそこに反映される民族的精神を追求するという研究
姿勢に貫かれている。一方、数からいえば、宗達と光琳が主な研究対象であって、その中、
光琳よりも明らかに宗達に偏重していることが明らかである。】
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最晩年の光悦書画巻(その十四) [光悦・宗達・素庵]

(その十四)草木摺絵新古集和歌巻(その十四・馬内侍)

馬内侍.jpg

草木摺絵新古今集和歌巻(巻末)
寛永10年(1633)10月27日 静嘉堂文庫蔵
絹本墨書 金泥摺絵 一巻 縦35.8㎝ 長957.2㎝
(拡大図)

鷹峯隠士・拡大氏.jpg

巻末には「鷹峯隠士大虚庵齢七十有六」の署名と「光悦」の黒印がある。

1161 忘れても人に語るなうたた寝の夢見てのちも長からじ世の(馬内侍「新古今」)
(忘れてもけっして人にお語りなさいますな。うたた寝の夢を見るようなあなたとの儚い一夜を過ごしてのちも、長くはあるまいと思われる命なのだから。)

 この歌には、「人にもの言ひはじめて」(「人に言葉をかはじめて」=「その人と情を通わせはじめて」)との詞書と「馬内侍」との作者名も書かれている。
 これが「花卉摺下絵新古今集和歌巻」(MOA美術館蔵)では、詞書も作者名も省かれている。

花卉六.jpg

「花卉摺下絵新古今集和歌巻」(MOA美術館蔵) 巻末の「和泉式部」(部分図)

 「花卉摺下絵新古今集和歌巻」は「紙本金銀泥摺絵墨書和歌巻」で、「草木摺絵新古今集和歌巻」、「絹本金銀泥摺絵墨書和歌巻」で、両者は「紙本」と「絹本」との違いはあるが、共に、「金銀泥摺り木版画を施したものに和歌を墨書した巻物」ということになる。
 そして、「花卉摺下絵新古今集和歌巻」は、「梅、藤、竹、芍薬、蔦」の金銀泥摺り絵の模様で、「草木摺絵新古今集和歌巻」は、「躑躅、藤、立松、忍草、蔦、雌日芝(めひしば)」
の絵の模様で、上記の「花卉摺下絵新古今集和歌巻」の巻末のものは、「蔦」の絵(模様)で、
「草木摺絵新古今集和歌巻」の巻末のものは、「雌日芝(めひしば)」の絵(模様)で、こちらには、金砂子や金銀泥の刷毛などが仕上げ用に施されている。
 そして、この「巻物」に書かれている「墨書」は、『新古今和歌集』の「巻十二(「恋歌二)」から「巻十三(恋歌三)」に掛けての歌が、「花卉摺下絵新古今集和歌巻」では二十一首(「詞書」と「作者名」は省略)、「草木摺絵新古今集和歌巻」では十三首(「詞書」と「作者名」有り)が書かれている。
 「花卉摺下絵新古今集和歌巻」は「縦三四、一㎝×長九〇七、四㎝」、「草木摺絵新古今集和歌巻」は「縦三五、八㎝×長九五七、二㎝」で、共に、九メートル以上の長大な巻物であるが、そこに書かれている歌数(前者=二十一首、後者=十三首)の違いは、後者では、「歌」のほかに「詞書と作者名」とが書かれ、前者では「歌」のみが書かれていることに因る。
 この「花卉摺下絵新古今集和歌巻」の巻頭と巻尾の歌は次のものである。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-07-16

(巻頭)
1139 袖の上にたれゆゑ月は宿るぞとよそになしても人問へかし(藤原秀能「新古今」)
(巻末)
1160 枕だに知らねばいはじ見しままに君語るなよ春の夜の夢(和泉式部「新古今」)

 そして、その十番目に書かれている歌は、次の西行の一首である。

1147 なにとなくさすがに惜しき命かなあり経(へ)ば人や思ひ知るとて(西行「新古今」)

 これは、慶長十年(一六〇五)、光悦の四十八歳前後の作品なのであるが、これが、光悦の最晩年の寛永十年(一六三三)、七十六歳時の「草木摺絵新古今集和歌巻」の巻頭の一首に、
この十番目の西行の一首が登場するのである。その巻尾の一首は、上記の和泉式部の歌の次に配列されている馬内侍(うまのないし)の一首なのである。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-07-15

(巻頭)
1147 なにとなくさすがに惜しき命かなあり経(へ)ば人や思ひ知るとて(西行「新古今」)
(巻末)
1161 忘れても人に語るなうたた寝の夢見てのちも長からじ世の(馬内侍)

 この「馬内侍」については、次のアドレスのものを掲載して置きたい。

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/umanaisi.html

馬内侍(うまのないし)生没年未詳(949頃-1011頃) 別称:中宮内侍

文徳源氏。源能有の玄孫。左馬権頭(または右馬頭)源時明の娘(尊卑分脈・中古三十六歌仙伝)。実父は時明の兄致明という。
はじめ斎宮女御徽子女王に仕え、円融天皇代、堀河中宮(藤原兼通女)に仕えたらしい。のち、選子内親王・東三条院詮子に仕え、一条院后定子の立后の際、掌侍となる。伊尹・道隆・実方・道長・公任など、多くの貴公子と交渉を持った。晩年、出家して宇治院に住む。中古三十六歌仙。女房三十六歌仙。梨壺の五歌仙。拾遺集初出。勅撰入集三十八首。家集『馬内侍集』がある。『大斎院前の御集』(『馬内侍歌日記』とも呼ばれた)にも多くの歌を載せる。

 この馬内侍のプロフィールにある「伊尹・道隆・実方・道長・公任など、多くの貴公子と交渉を持った」とあるとおり、「藤原伊尹」(藤原北家、右大臣・藤原師輔の長男、後に、摂政・太政大臣となる)、「藤原道隆」(藤原北家、摂政関白太政大臣・藤原兼家の長男。官位は正二位・摂政・関白・内大臣)、「藤原実方」(左大臣・藤原師尹の孫、侍従・藤原定時の子。官位は正四位下・左近衛中将)、「藤原道長」(藤原北家 、 摂政 関白 太政大臣 ・ 藤原兼家 の五男(または四男)。 後一条天皇 ・ 後朱雀天皇 ・ 後冷泉天皇 の 外祖父 にあたる)、そして、「藤原公任」(藤原北家小野宮流、関白太政大臣・藤原頼忠の長男。官位は正二位・権大納言。小倉百人一首では大納言公任。『和漢朗詠集』の撰者としても知られる)と、いわゆる、摂関政治の黄金時代を彩るエリート公家・歌人と渡り合った、これまた、エリート女房・歌人の一人ということになる。
 そして、この「馬内侍」の前に配列されている「伊勢」と「和泉式部」と、この三人の「伊勢・和泉式部・馬内侍」とを並列されると、さながら、「王朝女流歌人の三羽烏」、そして、藤原道長が和泉式部に戯れに呈した「浮かれ女」を冠すると、「華麗な恋愛遍歴に彩られた王朝女流歌人の三羽烏」ということになる。
 それにしても、『新古今和歌集』の、この「巻第十三、恋歌三」の、この「伊勢・和泉式部・馬内侍」の三首続きは圧巻である。

(伊勢)
    忍びたる人と二人臥して
夢とても人に語るな知るといへば手枕ならぬ枕だにせず(伊勢「新古1159」)
(夢の中のこととしてでも、人にお語りなさいますな。枕は共寝の秘密を知るといいますから、手枕でない枕さえもしていないのです。)

(和泉式部)
    題しらず
枕だに知らねば言はじ見しままに君語るなよ春の夜の夢(和泉式部「新古1160」)
(枕さえ知らないのですから、告げ口はしないでしょう。ですからあなた、見たままに人に語ったりしないで下さい、私たちの春の夜の夢を。)

(馬内侍)
   人にもの言ひはじめて
忘れても人に語るなうたた寝の夢見てのちも長からじ世の(馬内侍「新古1161」)
(忘れてもけっして人にお語りなさいますな。うたた寝の夢を見るようなあなたとの儚い一夜を過ごしてのちも、長くはあるまいと思われる命なのだから。)

 そして、四十代に挑戦した、同じ、「新古今和歌集」の『新古今和歌集』の「巻十二(「恋歌二)」から「巻十三(恋歌三)」に掛けての歌が、七十代には、晩年の光悦書に特徴的な「震え」のある書風の「肉細く筆鋒の鋭さを加えた、筆の運びもおそく枯淡の味を深めてゆく」、その「書画一致の美の世界」は、まさに、光悦が最晩年の世界と言えるであろう。
 そして、そこに、「華麗な恋愛遍歴に彩られた王朝女流歌人の三羽烏」の「伊勢・和泉式部・馬内侍」の三首が、何とも、光悦の最晩年の華やぎ」を見るような思いがして来る。
 ここで、晩年の光悦の「寛永期以降の光悦書画巻」の総括的な記述を掲載して置きたい。

【 鷹峯の大虚庵に居住し、書の揮毫に明け暮れたと伝えられている晩年の光悦は、寛永三年(一六二六)から寛永十三年(一六三六)にいたるまで、寛永の年紀をもつ約二十点余りの書画巻を残している。ここに巻頭と巻末を紹介した「草木摺絵新古今集和歌巻」のように、これらはおおむね絹本の上に金泥のみの摺絵を施し、晩年の光悦書に特徴的な「震え」のある書風を見せている。摺絵模様は、慶長期の金銀泥摺絵のものと異なり、いわゆる「光悦本」の雲母摺下絵に見出されることでも注目される。たとえば、雌日芝が表章(おもてあきら)の分類による特製本(川瀬分類では第一種)や上製本(同第三・四種)に見られ、藤、躑躅などの図様は、表の分類の色替わり本(同第二種)や袋綴別製普通本(同第九種)などの一部に見出されるのである。書画巻と謡本が同版を共有している可能性が高く、年紀のある寛永期の書画巻は、多くの版種をもつ「光悦謡本」の出版時期やその制作背景の研究にも約立つのではなかろう。】
(『もっと知りたい本阿弥光悦(玉蟲敏子他著)』)

                                             
(追記一) 「四季草花下絵新古今集和歌色紙」(藤原俊成和歌・ベルリン国立アジア美術館蔵)メモ

俊成・ベルリン.jpg

https://www.nikkei.com/article/DGKKZO31813030V10C18A6BC8000/

【 下絵は金泥の林から滝が右上から左にかけて弧を描いて垂下し、飛沫や波を立てて流れていくダイナミックな自然景である。対する書は、上の句を滝のカーブや盛り上がる波頭に合わせて、中央を斜めに「聞人そ涙ハ/落帰雁(おつるかえるかり)/」と漢字を多く用いて豪快にしるし、下の句の「鳴て行/くな/る/曙」を右下の流水に散らし、残りの「濃(の)/空」の二字を上部の滝の向こう側に配する。これなどを見ていると、つくづく力ある下絵に反応し、その方向性を、書の力によっていっそう高めようとする光悦の意欲に圧倒される思いがする。そして、力強い色紙の出現と重なるようにして、巻物という新しい形式が現れていくのである。】(『日本美術のことばと絵・玉蟲敏子著・角川選書』) 

(追記二) 江戸絵画(「金」と「銀」と「墨」)の空間(メモ)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-07-13


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最晩年の光悦書画巻(その十三) [光悦・宗達・素庵]

(その十三)草木摺絵新古集和歌巻(その十三・和泉式部)

花卉六.jpg

花卉摺下絵新古今集和歌巻(部分) 本阿弥光悦筆 (6)(和泉式部)
MOA美術館蔵 紙本墨画 金銀泥摺絵 一巻 縦34.1㎝ 長907.0㎝

枕だに知らねば言はじ見しままに君語るなよ春の夜の夢(新古1160)

(釈文)満久らだ尓しら年ハ以ハじ見しま々尓君可多るなよ春濃能夢

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/izumi.html

    題しらず
枕だに知らねば言はじ見しままに君語るなよ春の夜の夢(新古1160)
【通釈】枕さえ知らないのですから、告げ口はしないでしょう。ですからあなた、見たままに人に語ったりしないで下さい、私たちの春の夜の夢を。
【語釈】◇枕だに… 古歌より「人は知らなくても枕は情事を知る」という観念があったため、枕さえせずに寝たのである。だから枕も告げ口のしようがない(下記本歌・参考歌参照)。◇春の夜の夢 情事を喩える。
【補記】『和泉式部続集』では「おもひがけずはかりて、ものいひたる人に」の詞書に続く三首の第二首で、第四句は「君にかたるな」とする。
【本歌】伊勢「伊勢集」「新古今集」
夢とても人にかたるなしるといへば手枕ならぬ枕だにせず
【参考歌】
よみ人しらず「古今集」
わが恋を人しるらめや敷妙の枕のみこそしらばしるらめ    
伊勢「古今集」
知るといへば枕だにせで寝しものを塵ならぬ名の空にたつらむ

和泉式部(いずみしきぶ)生没年不詳

生年は天延二年(974)、貞元元年(976)など諸説ある。父は越前守大江雅致(まさむね)、母は越中守平保衡(たいらのやすひら)女。父の官名から「式部」、また夫橘道貞の任国和泉から「和泉式部」と呼ばれた。
母が仕えていた昌子内親王(冷泉天皇皇后)の宮で育ち、橘道貞と結婚して小式部内侍をもうける。やがて道貞のもとを離れ、弾正宮為尊(ためたか)親王(冷泉第三皇子。母は兼家女、超子)と関係を結ぶが、親王は長保四年(1002)六月、二十六歳で夭折。翌年、故宮の同母弟で「帥宮(そちのみや)」と呼ばれた敦道親王との恋に落ちた。この頃から式部が親王邸に入るまでの経緯を綴ったのが『和泉式部日記』である。親王との間にもうけた一子は、のち法師となって永覚を名のったという。
しかし敦道親王も寛弘四年(1007)に二十七歳の若さで亡くなり、服喪の後、寛弘六年頃から一条天皇の中宮藤原彰子のもとに出仕を始めた。彰子周辺にはこの頃紫式部・伊勢大輔・赤染衛門などがいた。その後、宮仕えが機縁となって、藤原道長の家司藤原保昌と再婚。寛仁四年(1020)~治安三年(1023)頃、丹後守となった夫とともに任国に下った。帰京後の万寿二年(1025)、娘の小式部内侍が死去。小式部内侍が藤原教通とのあいだに残した子は、のちの権僧正静円である。
中古三十六歌仙の一人。家集は数種伝わり、『和泉式部集』(正集)、『和泉式部続集』のほか、「宸翰本」「松井本」などと呼ばれる略本(秀歌集)がある。また『和泉式部日記』も式部の自作とするのが通説である。勅撰二十一代集に二百四十五首を入集(金葉集は二度本で数える)。名実共に王朝時代随一の女流歌人である。


「花卉摺下絵新古今集和歌巻」では、この歌が末尾で、この後に、「光悦」の黒印が押印してある。この「花卉摺下絵新古今集和歌巻」は、慶長十年(一六〇五)前後の作品とされ(『玉蟲他・前掲書』)、光悦の四十八歳前後に制作されたものということになる。
これらについては、下記のアドレスで触れてある。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-07-16

(再掲)

【  花卉摺下絵新古今集和歌巻(部分) 本阿弥光悦筆 (3-1)
17世紀初め、MOA美術館蔵 紙本墨画 金銀泥摺絵 一巻 縦34.1㎝ 長907.0㎝
具引き、すなわち胡粉を塗って整えた料紙に、梅、藤、竹、芍薬、蔦などの四季の花卉を金銀泥で摺り、「新古今集和歌集」巻十二、十三から選んだ恋歌21首を書写する。起筆の文字を大きく濃くしるし、高低、大小の変化をつけた散らし書きのリズムが心地よい。末尾に署名はなく「光悦」の黒印のみを捺している。背面は松葉文様を摺り、紙継ぎに「紙師宗二」印を記す。(『もっと知りたい本阿弥光悦―生涯と作品―(玉蟲敏子他著)』) 】

 そして、光悦は、その最晩年の、寛永十年(一六三三)に、「鷹峯隠士大虚庵齢七十有六」の署名と「光悦」の黒印のある、次のアドレスの「草木摺絵新古今集和歌巻」を仕上げる。
しかし、この末尾の歌は、上記の、和泉式部の歌(「新古1160」)ではなく、次の(「(新古1161)」)の「忘れても人に語るなうたた寝の夢見てのちも長からじ世の(馬内侍)」のものである。
 
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-07-15

馬内侍.jpg

(再掲)

【 草木摺絵新古今集和歌巻(部分) 寛永10年(1633)10月27日 静嘉堂文庫蔵
紙本墨書 金泥摺絵 一巻 縦35.8㎝ 長957.2㎝
四季順に、躑躅(つつじ)、藤、立松、忍草、蔦(つた)、雌日芝(めひしば)の木版模様を並べ、金泥や金砂子をほどこした下絵に、巻十二恋歌二の終わり二首、巻十三恋歌三の巻頭から十三首を選んで記す。巻末には「鷹峯隠士大虚庵齢七十有六」の署名と「光悦」の黒印がある。震えを帯びた細い線が所々に見出され、年紀どおり最晩年の書風を示している。(『もっと知りたい本阿弥光悦―生涯と作品―(玉蟲敏子他著)』) 】


 「伊勢・和泉式部・馬内侍」の関連などは、次の「馬内侍」で触れることにして、ここでは、『菟玖波集(上)』所収の「和泉式部」の連歌などについて触れて置きたい。

    清水寺に通夜し侍りけるに瀧の音を聞きて
  よる音すなり瀧の白絲            和泉式部
    と申してまどろみ侍りけるに、御帳の中より
    けだかき御声して
623 大悲じやの千千の手ごとにくりかけて
    これは観音の付けさせ給ひけるとぞ。

   みるめはなくて恋をするかな
    と侍るに
624 あふみなるいかごの海のいかなれば
    此句は保元の頃、近江に在廰成りけるもの、
    国中にならびなき美女をあひぐしたりける
    を、国司聞きて彼女を恋ひけるになげき申
    しければ、国司思ふ様ありて、みるめはな
    くてといふ連歌をして箱に入れて封を付け
    て、此連歌を見ずして付けたらんに、こと
    わとかなひたれば、汝がなげき申す旨をゆ
    るすべしと云いけるに、此男此道の行衛を
    知らねば、おもふばかりなくて、石山寺に
    こもりてさまざま祈り申しけるに、七日過
    ぎて泣く泣く下向しける時、大門より一町
    ばかり行きて下女一人行き逢ひて此句を詠
    じける程に、佛の教にこそと思ひて、国司
    のもとへ行きて申しければ、ことわり叶ひ
    たりとて、其女をゆるしてけり。是は観音
    の御連歌となん申し伝へたる。

 この「623」の校注(福井久蔵校注)に、「白絲の瀧の夜落ちる音を現実に聞いたことを前句にあげたので、白絲の詞により、大慈大悲の観音の手毎にその絲を繰りかけてと詞の縁にすがつて寄合をなした。夜に縒るをかけ、手に繰(く)るを寄合とした。また清水寺の本尊が千手観音佛でおはすことはいふまでもない。」とある。
  また、「624」の校注は、「みるめは海藻の一種、海松(みる)に見るをいひかけ、噂だけで、目のあたり見ないのになぜ恋ひしいのか、の意。今昔物語には『みるめもなきに人の恋ひしき』とある。」と「前句に対して、それはいかなるわけか知らぬといふべきであるのを、いかがといふのに序として用ゐる伊香胡の崎を出し、それは近江国にあるので、さらに近江なると加えた。」とある。

 この詞書(「前書き」と「後書き」)によると、この「付句」は、「観音」の「お告げ」に因るものということになる。

   よる音すなり瀧の白絲            和泉式部
623 大悲じやの千千の手ごとにくりかけて     (観音)

   みるめはなくて恋をするかな         国司
24 あふみなるいかごの海のいかなれば       (観音)

 ここで、連歌(「短連歌」と「長連歌」)というのは、大雑把に、「二人以上の作者が、一つの歌を作ることで、上の句(五七五句)と下の句(七七句)、又は、下の句と上の句とを作ることを、「短連歌」と言い、それを、繰り返し続けることを「長連歌」と言う」と定義することも出来よう。
 そして、二人で創作することを「両吟」、三人でする場合は「三吟」とかと呼ばれる。ここで、一人で創作する場合は「独吟」(片吟)と呼ばれるが、原則は、二人以上の共同(協同)創作ということになろう。
 その「独吟」の場合も、単純に、「上の句」と「下の句」とを創作するのではなく、それぞれが、「上の句」は「上の句」、「下の句」は「下の句」として、別人が創作したように独立していているように作ることが原則となって来る。
 
 大悲じやの千千の手ごとにくりかけて     (観音)
  よる音すなり瀧の白絲           和泉式部
 あふみなるいかごの海のいかなれば      (観音)
  みるめはなくて恋をするかな        国司

 上記のように表記すると「観音・和泉式部・国司」の「三吟」の四句ということになる。
「大悲じやの千千の手ごとにくりかけて」(前句)に対して「よる音すなり瀧の白絲」(付句)は、「校注」の場面ですると、京都の清水寺の御本尊、大慈大悲の「十一面千手観世音菩薩」
の前句に対して、その音羽山の「音羽の瀧」の付句である。
 続く、「よる音すなり瀧の白絲」(前句)の「京都の音羽の瀧」に対する「あふみなるいかごの海のいかなれば」(付句)は、場面を「近江の伊香胡(余呉湖)へと「転じ」ている。
 さらに、「あふみなるいかごの海のいかなれば」(前句)の「近江と相見」の「掛詞」に対して、「みるめはなくて恋をするかな」(付句)も「海松(みる)と見る」との「掛詞」で応酬   
している(この「掛詞」を「賦物」として読み取り「掛詞」で応じている)。
 この和泉式部の連歌は、南北朝時代の連歌の大成者、二条良基の『菟玖波集』に収載されているものだが、二条良基には、別に、連歌論書として、『筑波問答』『応安新式』『連理秘抄』などがある。
 その「筑波問答」に、「後鳥羽院建保の比より、白黒又は色々の賦物の獨(ひとり)連歌を、定家・家隆卿などに召され侍りしより、百韻などにも侍るにや」とあり、「伊勢・和泉式部」時代、そして、次の「後鳥羽院・定家・家隆」時代には、「賦物連歌」(追記一・追記二)で「獨連歌」(独吟)が主体であったことが了知される。
 しかし、この「後鳥羽院・定家・家隆」時代には、連歌式目(ルール)というのは確立しておらず、その萌芽は、後鳥羽院の第三皇子・順徳天皇の『八雲御抄』(追記三)あたりで、二条良基の『連理秘抄』では、「八雲の御抄にも、末代(同書巻一・正義部に見える)ことに存知すべしとて、式目など少々しるさるゝにや」と記されている。
 そして、これらの「短連歌」から「長連歌」、そして、「独(ひとり)連歌」(独吟)から「連歌」(両吟以上の連歌)への移行を知る上で、上記の『菟玖波集』所収の和泉式部の連歌は、多くの示唆を含んでいる。

【和泉式部といふ人こそ、おもしろう書き交しける。されど和泉はけしからぬかたこそあれ、うちとけて文走り書きたるに、そのかたの才ある人、はかない言葉のにほひも見えはべるなり。歌はいとをかしきこと。ものおぼえ、歌のことわり、まことの歌詠みざまにこそはべらざめれ、口にまかせたることどもに、かならずをかしき一ふしの、目にとまる詠み添へはべり。それだに、人の詠みたらむ歌、難じことわりゐたらんは、いでや、さまで心は得じ、口にいと歌の詠まるるなめり、とぞ見えたる筋に侍るかし。はづかしげの歌詠みや、とは覚えはべらず。】(『紫式部日記』の「和泉式部」評)

 この紫式部の「和泉式部」評で、「口にまかせたることどもに、かならずをかしき一ふしの、目にとまる詠み添へはべり」(口にまかせて詠んだ歌には、かならずこれはと、一ふし目にとまるおもしろいことを詠み添えております)と「口にいと歌の詠まるるなめり、とぞ見えたる筋に侍るかし」(口にすらすらと歌が詠み出されてくるといったたちの才能なのでしょうよ)とが、いわゆる、「連歌」(「短連歌」と「長連歌」)の本質の「当意即妙」「臨機応変」「挨拶と即興」などに「長けている歌人」であるという評なのであろう(この引用文の和訳は『王朝女流歌人抄(清水好子著)』に因っている)。


(追記一) 「賦物」(連歌におけることば遊び、「賦物(ふしもの)」)

https://japanknowledge.com/articles/asobi/06.html

(追記二) 「物名」(隠し題)

https://japanknowledge.com/articles/asobi/05.html

(追記)三 『八雲抄』巻第1-6 / [順徳天皇] [撰]

https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/bunko20/bunko20_00288/index.html
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最晩年の光悦書画巻(その十二) [光悦・宗達・素庵]

(その十二)草木摺絵新古集和歌巻(その十二・伊勢)

花卉六.jpg

花卉摺下絵新古今集和歌巻(部分) 本阿弥光悦筆 (6)(伊勢)
MOA美術館蔵 紙本墨画 金銀泥摺絵 一巻 縦34.1㎝ 長907.0㎝

夢とても人に語るな知るといへば手枕ならぬ枕だにせず(「新古1159)

(釈文)ゆめと天も人尓語なしると以へバたま久ら怒枕多尓勢須

   忍びたる人と二人臥して
夢とても人に語るな知るといへば手枕ならぬ枕だにせず(「新古1159」)
(夢の中のこととしてでも、人にお語りなさいますな。枕は共寝の秘密を知るといいますから、手枕でない枕さえもしていないのです。)

 この「歌意」は『日本古典文学全集26 新古今和歌集(校注・訳:峯村文人)』に因っている。その「校注」で、この歌の参考歌として、「676 知るといへば枕だにせで寝しものをちりならぬ名の空に立つらむ」(伊勢「古今・恋三」)を挙げている。この参考歌と共に鑑賞すると、この「新古今」所収の歌がより一層鮮明に伝わって来る。
 この歌は、その詞書の「忍びたる人と二人臥して」、そのものずばりの「忍ぶ恋仲の二人の共寝」の歌なのである。参考歌は、「どうして、塵でもない恋仲の評判が立っているのであろうか」というもので、この掲出歌は、「手枕にこと寄せて、共寝の秘密を絶対に漏らさないで下さい」という、何とも優婉な恋歌である。
 伊勢は、下記のアドレスのとおり、「若くして宇多天皇の后藤原温子に仕え、温子の弟仲平と恋に落ちたが、やがてこの恋は破綻する。一度は父のいる大和に帰るが、再び温子のもとに出仕した後、仲平の兄時平や平貞文らの求愛を受ける。その後、宇多天皇の寵を得、皇子を産むが、その皇子は夭逝する。宇多天皇の出家後、同天皇の皇子、敦慶(あつよし)親王と結ばれ、中務(三十六歌仙・女房三十六歌仙の一人)を産む。このような華麗な遍歴の後、宇多天皇の没後に摂津国嶋上郡(大阪府)に庵を結んで隠棲した。作者の生没年が確認されていない」と、王朝女流歌人の典型的な華麗且つ悲哀の生涯を辿る。
 この「伊勢」(『古今和歌集目録』には更衣となったとある)を、『源氏物語』の発端の第一帖「桐壺」の、「桐壺更衣」そして、その「桐壺帝」は「宇多天皇」、そして、『源氏物語』の主人公「光源氏」は、その二人の間に生まれた夭逝した皇子、そして、その形見のような「宇陀天皇の『皇子・敦慶親王』(その「敦慶親王」と「伊勢」との間に自分の分身のような「中務」が生まれる)と見立てることも、歌人にして希代のストーリーテラーの「紫式部」の脳裏の片隅にあったことは、『源氏物語』(桐壺)の、次の一節の中に、「宇多天皇(亭子院)」と「伊勢」の名が出ていることが、それを示唆しているように思われる。

【命婦は、『まだ大殿籠もらせ給はざりける』と、あはれに見奉る。御前の壺前栽(せんざい)のいとおもしろき盛りなるを、御覧ずるやうにて、忍びやかに、心にくき限りの女房四五人さぶらはせ給ひて、御物語せさせ給ふなりけり。このごろ、明け暮れ御覧ずる長恨歌(ちょうごんか)の御絵、亭子院(ていしいん)の描かせ給ひて、伊勢、貫之に詠ませ給へる、大和言の葉をも、唐土(もろこし)の詩(うた)をも、ただその筋をぞ、枕言にせさせ給ふ。】(「桐壺」・「九 命婦帰参、さらに亭の哀傷深まる」)

 ここに、登場する「長恨歌」の「玄宗皇帝(桐壺帝=宇多天皇)と楊貴妃(桐壺更衣=伊勢御息所)」が、『源氏物語』の「桐壺」の背景に横たわっていることは周知のところであり、それを示唆するように、「亭子院(宇多上皇の御所)」と「伊勢、貫之」の「伊勢」が実名で登場している。

 この「亭子院のみかどの描かせた長恨歌」関連の、伊勢の歌がある。

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/ise.html

長恨歌の屏風を、亭子院のみかど描かせたまひて、
  その所々詠ませたまひける、みかどの御になして(二首)
もみぢ葉に色みえわかずちる物はもの思ふ秋の涙なりけり(伊勢集)
【通釈】紅葉した葉と色が区別できずに散るものは、物思いに耽る私の秋の涙であったよ。

かくばかりおつる涙のつつまれば雲のたよりに見せましものを(伊勢集)
【通釈】このほどまで流れ落ちる涙が包めるものなら、雲の上への便りに贈って見せるだろうに。

 ここで、あらためて女流歌人・伊勢に焦点を絞ると、「古今和歌集」には二十二首、「後撰和歌集」には六十五首、そして、「拾遺和歌集」には二十五首採録されていて、所謂、三大集随一の女流歌人ということになる。
 「新古今和歌集」に採録されている数は十五首とそれほど多くないが、「新古今和歌集」の編纂の方針が、すでに勅撰和歌集に採録されている和歌は選ばない方針であることに影響しているのであろう。


       寛平御時后宮の歌合歌
65   水のおもにあやおりみだる春雨や山のみどりをなべて染むらん
       題しらず
107  山桜ちりてみ雪にまがひなばいづれか花と春に問はなむ
       七條の妃の宮の五十賀屏風に
714   住江(すみのえ)の浜の真砂を踏むたづは久しき跡をとむるなりけり
       題知らず
721   山風は吹かねどしら波の寄する岩根は久しかりけり 
       題しらず
858  忘れなむ世にもこしぢの帰へる山いつはた人に逢はむとすらむ
       題しらず (二首)
1048  みくまのの浦よりをちに漕ぐ舟の我をばよそにへだてつるかな
1049  難波潟短かき蘆のふしのまも逢はでこの世をすぐしてよとや
       題しらず
1064  わが恋は荒磯(ありそ)の海の風をいたみしきりによする波の間もなし
忍びたる人と二人臥して
1159※  夢とても人に語るな知るといへば手枕ならぬ枕だにせず
1168 逢ふことの明けぬ夜ながら明けぬればわれこそ帰れ心やはゆく
       題知らず
1241 言(こと)の葉のうつろふだにもあるものをいとど時雨の降りまさるらん
       題知らず 
1257 更級(さらしな)や姨捨山の有明のつきずもものを思ふころかな
1381 春の夜の夢にありつと見えつれば思ひ絶えにし人ぞ待たるる
       題しらず
1408   思ひいづや美濃のを山のひとつ松ちぎりしことはいつも忘れず
       亭子院下りゐ給はんとしける秋よみ侍りける
1720 白露は置きて替れどももしきのうつろふ秋はものぞ悲しき

 これは「新古今和歌集」入集の伊勢の十五首である。小野小町の入集数六首に比して、それを凌駕している。因みに、「古今和歌集」の入集数は、伊勢、二十二首、小町、十八首で、両者は拮抗している。
 伊勢も小町も、恋歌の名手として知られているが、上記の「新古今和歌集」所収の句は、恋歌のみならず、オールラウンドの「女貫之」(紀貫之に匹敵する女流歌人)という雰囲気でなくもない。
 上記の十五首は、その殆どが「題知らず」なのだが、これが私家集の『伊勢集』になると、長文の詞書が付してある。その第一部を占める最初の歌群は三十二首から成り、その冒頭の詞書は、次のようなものである。

【 いづれの御時にかありけむ、大御息所(おほみやすんどころ)ときこゆる御局に、大和に親ありける人さぶらひけり。親いと愛(かな)しうして、男などもあはせざりけるを、
御息所の御せうと、年ごろ言ひわたりたまふを、しばしはさらに聞かざりけるに、いかがありけむ、親いかが言はむと嘆きたりけるを、年頃へにければ聞きつけてけり。されど縮世(すくせ)こそはありけめとて、ことに言はざりけり。……  】
 (『王朝女流歌人抄・清水好子著・新潮社』「伊勢」)

 これは、紛れもなく、『源氏物語』の冒頭の書き出し部分と一致して来る。

【 いづれの御時にか、女御、更衣あまたさぶらひたまひける中に、いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて 時めきたまふありけり。はじめより我はと思ひあがりたまへる御方方、めざましきものにおとしめねたみたまふ。同じほど、それより下臈の更衣たちはましてやすからず。朝夕の宮仕につけても、人の心をのみ動かし、恨みを負ふつもりにやありけむ、いとあつしくなりゆき、もの心細げに里がちなるを、いよいよ あかずあはれなるものに思ほして、人のそしりをもえ憚らせたまはず、世のためしにもなりぬべき御もてなしなり。…… 】 (『新編日本古典文学全集20 源氏物語①』)

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/ise.html

伊勢(いせ) 生没年未詳

伊勢の御、伊勢の御息所(みやすどころ)とも称される。藤原北家、内麻呂の裔。伊勢守従五位上藤原継蔭の娘。歌人の中務の母。生年は貞観十六年(874)、同十四年(872)説などがある。没年は天慶元年(938)以後。
若くして宇多天皇の后藤原温子に仕える。父の任国から、伊勢の通称で呼ばれた。この頃、温子の弟仲平と恋に落ちたが、やがてこの恋は破綻し、一度は父のいる大和に帰る。再び温子のもとに出仕した後、仲平の兄時平や平貞文らの求愛を受けたようであるが、やがて宇多天皇の寵を得、皇子を産む(『古今和歌集目録』には更衣となったとある)。しかしその皇子は五歳(八歳とする本もある)で夭折。宇多天皇の出家後、同天皇の皇子、敦慶(あつよし)親王と結ばれ、中務を産む。
延喜七年(907)、永く仕えた温子が崩御。哀悼の長歌をなす。天慶元年(938)十一月、醍醐天皇の皇女勤子内親王が薨じ、こののち詠んだ哀傷歌があり、この頃までの生存が確認できる。
歌人としては、寛平五年(893)の后宮歌合に出詠したのを初め、若い頃から歌合や屏風歌など晴の舞台で活躍した。古今集二十三首、後撰集七十二首、拾遺集二十五首入集は、いずれも女性歌人として集中最多。勅撰入集歌は計百八十五首に及ぶ。家集『伊勢集』がある。特に冒頭部分は自伝性の濃い物語風の叙述がみえ、『和泉式部日記』など後の女流日記文学の先駆的作品として注目されている。三十六歌仙の一人。


(追記) 「 伊勢日記私注(一)・松原輝美稿」(高松短期大学紀要第十七号)

https://www.takamatsu-u.ac.jp/wp-content/uploads/2018/12/17_II_01-20_matsubara.pdf

「 伊勢日記私注(二)・松原輝美稿」(高松短期大学紀要第十七号)

file:///C:/Users/yahan/Downloads/AN00138796_17_21_37%20(2).pdf

伊勢系譜図.jpg


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最晩年の光悦書画巻(その十一) [光悦・宗達・素庵]

(その十一)草木摺絵新古集和歌巻(その十一・藤原実方朝臣)

花卉五.jpg

花卉摺下絵新古今集和歌巻(部分) 本阿弥光悦筆 (4-5)(藤原実方朝臣)
MOA美術館蔵 紙本墨画 金銀泥摺絵 一巻 縦34.1㎝ 長907.0㎝

 上記の左側が、藤原実方の次の一首である。

中々に物思ひそめて寝ぬる夜ははかなき夢もえやは見えける(新古1158)

(釈文)中々尓物思曽め天年多る夜ハハ可那幾遊免もえやハ見え介る

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/sanekata.html

    題しらず
中々に物思ひそめて寝ぬる夜ははかなき夢もえやは見えける(新古1158)
【通釈】中途半端に恋心を抱き始めた頃は、夜寝ても、はかない夢での逢瀬さえ見ることができようか。
【語釈】◇中々に なまじっか。かえって。◇はかなき夢もえやは見えける はかない夢での逢瀬さえ、かなわない。あれこれ悩んで眠ることが出来ず、夢も見られない、ということ。

藤原実方(ふじわらのさねかた) 生年未詳~長徳四(998)

小一条左大臣師尹の孫。侍従定時の子。母は左大臣源雅信女。子には朝元(従四位下陸奥守)ほか。父が早世したため、叔父藤原済時の養子となる。左近将監・侍従・右兵衛佐・左近少将・右馬頭などを経て、正暦二年(991)、右近中将。同四年、従四位上。同五年、左近中将。長徳元年(995)、陸奥守に任ぜられ、三年後の長徳四年、任地で没した。四十歳前後であったと見られる。
実方の陸奥下向には様々な伝説がつきまとい、『古事談』『十訓抄』などは、侮蔑的な発言をした藤原行成に対し殿上で狼藉をはたらき、一条天皇より「歌枕見て参れ」との命を下されたとする。またその死について『源平盛衰記』などは、出羽国の阿古耶(あこや)の松を訪ねての帰り道、名取郡の笠島道祖神の前を騎馬で通過しようとして落馬し、その傷がもとで亡くなった、とする。
寛和二年(986)六月の内裏歌合に出詠するなど、若くして歌才をあらわし、円融・花山両院の寵を受けた。当代の風流才子として名を馳せ、恋愛遍歴も華ばなしく、清少納言・小大君らとの恋歌の贈答がある。また源宣方・藤原道信・道綱・公任らと親交があった。
拾遺集初出。勅撰入集六十七首。家集『実方朝臣集』がある(以下「実方集」と略)。中古三十六歌仙。


 『菟玖波集(下・巻十四)』に、藤原公任(前大納言公任)と藤原実方(実方朝臣)との短連歌(二句掛合・唱和)が収載されている。

      殿上のをの子ども桂川に逍遥し侍るけるに、
     夜に入りて帰るとて、川を渡り侍るに、星
     の影の水にうつりて見えければ、
 水底にうつれる星の影見れば         前大納言公任
     と侍るに
1387 天の戸わたる心地こそすれ          実方朝臣

 「桂川」は、「嵐山周辺および上流域では『大堰(おおい)川』または『大井川』」(大堰と大井は同義)、嵐山下流域以南では「桂川」または「葛河(かつらがわ)」と称されるようになった。嵐山の「渡月橋からほんのわずか下流に桂の里があって、桂離宮がり、桂のひとびとは古来、桂川とよんできた」ことに由来がある。
 「殿上のをの子(男子)」は、「『公卿〔くぎょう〕・殿上人〔てんじょうびと〕・地下〔じげ〕・庶人〔しょにん〕』」の「殿上人」(昇殿を許された五位以上の人)と「蔵人」(位階に関係なく天皇の側周りの用を勤める蔵人など)の意であろう。
 この「校注」(福井久蔵校注)に、「星と天の戸寄合。実方集、公任集には所見なく、小大君集に載っている」とある。
 この「寄合」は、「連歌・俳諧の付合(つけあい)で、前句の中の言葉や物に縁のあるもの。例えば、松に鶴、梅に鶯など」の用例で、ここでは、「前句・付句にある言葉の関連性のある用語」として、の縁語」(修辞法の一つで、一つの言葉に意味上縁のある言葉を使って表現に面白みを出すこと)の例として「星と天の戸」が「寄合語(掛合語)」になっているということであろう。
 「天の戸」は、「天の岩戸」(「万葉集・四四六五)、「日月の渡る空の道。大空」」(「古今集・秋上」)、「天の川の川門(かわと)」(「後撰集・秋上)」の意などあるが、ここは「天の川の川門」の意であろう。そして、前句の「星」と付句の「天の川」とが「掛合語」「「寄合語」「縁語」で、この「掛合」(付合)は「星合」(陰暦 七月 七日 の夜、 牽牛・織女 の 二つ の星が 出合う)の二句(「連歌」の前句と付句、「短歌」の「上の句」と「下の句」)ということになろう。
 「新古今和歌集巻第四秋歌上」の「星合」の歌の、次のとおりである。

「新古今和歌集巻第四秋歌上」の「星合」の歌

313 大空をわれもながめて彦星の妻待つ夜さへひとりかも寝む (紀貫之)
314 この夕べ降りつる雨は彦星のと渡る舟の櫂のしづくか   (山辺赤人)
315 年をへてすむべき宿の池水は星合の影も面なれやせむ   (権大納言長家)
316 袖ひちてわが手にむすぶ水の面に天つ星合の空を見るかな (藤原長能)
317 雲間より星合の空を見わたせばしづ心なき天の川波    (祭主輔親)
318 七夕の天の羽衣うち重ね寝る夜涼しき秋風ぞ吹く     (太宰大弐高遠)
319 七夕の衣のつまは心して吹きな返しそ秋の初風      (小弁)
320※ 七夕のと渡る舟の梶の葉に幾秋書きつ露の玉章     (皇太后宮大夫俊成)
321 ながむれば衣手涼し久方の天の河原の秋の夕暮れ     (式子内親王)
322 いかばかり身にしみぬらむ七夕のつま待つ宵の天の川風  (藤原兼実)
323※ 星合の夕べ涼しき天の川もみぢの橋を渡る秋風     (権中納言公経)
324 七夕の逢ふ瀬絶えせぬ天の川いかなる秋か渡りそめけむ  (待賢門院堀河)
325 わくらばに天の川波よるながら明くる空には任せずもがな (女御徽子女王)
326 いとどしく思ひけぬべし七夕の別れの袖における白露   (大中臣能宣朝臣)
327 七夕は今や別るる天の川川霧たちて千鳥鳴くなり     (紀貫之)

 特に、※の、「320※」(藤原俊成)と「323※」(藤原公経)の歌は、上記の公任と実方の短連歌の「本歌・派生歌」のような「参考歌」ということになろう。
 なお、下記のアドレスで、実方の「殿上のをのこども、花見むとて東山におはしたりけるに」の詞書のある「撰集抄」(鎌倉時代の仏教説話)に収載されている歌も紹介されている。

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/sanekata.html

【 昔、殿上のをのこども、花見むとて東山におはしたりけるに、俄に心なき雨ふりて、人々げにさわぎ給へりけるに、実方の中将、いとさわがず、木の本に立ち寄りて、
桜がり雨はふりきぬおなじくは濡るとも花のかげにやどらむ(撰集抄)
  と詠みて、かくれ給はざりければ、花よりもりくだる雨に、さながらぬれて、装束しぼりかね侍り。此の事、興有ることに人々おもひあはれけり。
【通釈】桜狩しているうち、雨は降ってきた。同じことなら、濡れるにしても、花の陰に宿ろう。
【補記】「桜がり」は桜の花を求めて野山を逍遥すること。この歌は拾遺集に読人知らずの歌として載り(第五句「かげに隠れむ」)、実方の作とは思えないが、彼の風流士ぶりを伝える有名な歌であるので、参考として掲げておく。 】

 また、実方と清少納言との関係を匂わせている次の二首も紹介されている。

【  清少納言、人には知らせで絶えぬ中にて侍りけるに、
   久しう訪れ侍らざりければ、よそよそにて物など言
   ひ侍りけり、女さしよりて、忘れにけりなど言ひ侍
   りければ、よめる
忘れずよまた忘れずよ瓦屋の下たくけぶり下むせびつつ(後拾遺707)
【通釈】忘れないよ、返す返すも忘れることなどないよ。瓦を焼く小屋の下で煙に咽ぶように、ひそかな思いに咽び泣きをしながら、あなたのことを変わらず恋しく思っているよ。
【語釈】◇忘れにけり あなたは私をお忘れになったのね。◇瓦屋(かはらや) 瓦を焼く窯。「変はらず」を掛ける。◇下むせびつつ ひそかにむせび泣きをしながら。「むせび」は煙の縁語で、喉がつまる意もある。
【補記】清少納言とのひそかな仲が絶え、長く訪問することがなかった後、よそよそしく会話を交わす機会があったが、その時清少納言に「あなたは私を忘れたのね」と言われて詠んだ歌。清少納言の返しは「葦の屋の下たく煙つれなくて絶えざりけるも何によりてぞ」。

    元輔が婿になりて、あしたに
時のまも心は空になるものをいかで過ぐしし昔なるらむ(拾遺850)
【通釈】しばし別れている間も、これ程心はうわの空になるというのに、あなたと結ばれる以前、滅多に逢えなかった頃は、一体どんなふうに過ごしていたというのだろう。
【語釈】◇元輔 清原元輔か。だとすれば実方は清少納言と結婚したことになる。但し、この「元輔」を藤原元輔とみる説もある。 】

(追記メモ) 「公任と実方の短連歌(星合)」と「小大君集」など

      殿上のをの子ども桂川に逍遥し侍るけるに、
    夜に入りて帰るとて、川を渡り侍るに、星
    の影の水にうつりて見えければ、
 水底にうつれる星の影見れば         前大納言公任
     と侍るに
1387 天の戸わたる心地こそすれ          実方朝臣

 「菟玖波集」所収のこの短連歌(付合)が、『実方集』や『公任集』ではなく『子大君集』に搭載されているということは(『菟玖波集』の「福井久蔵校注」)、次のアドレスなどのものが参考となる。

https://opac.tenri-u.ac.jp/opac/repository/metadata/3984/YMN005401.pdf

「実方集と私家集(三)・仁尾雅信稿」

https://core.ac.uk/download/pdf/268267875.pdf

「王朝歌人と陸奥守(久下裕利稿)」
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最晩年の光悦書画巻(その十) [光悦・宗達・素庵]

(その十)草木摺絵新古集和歌巻(その十・三条院女蔵人左近=小大君)

(4-5)

花卉五.jpg

花卉摺下絵新古今集和歌巻(部分) 本阿弥光悦筆 (4-5)(三条院女蔵人左近=小大君)
MOA美術館蔵 紙本墨画 金銀泥摺絵 一巻 縦34.1㎝ 長907.0㎝

 この右側の歌が、三条院女蔵人左近(小大君)の、次の一首である。

人ごころうす花ぞめのかり衣さてだにあらで色やかはらむ(新古1156・小大君)

(釈文)人心う須華曽免乃か里衣左天多尓安ら天色や可ハら無(『書道芸術第十八巻 本阿弥光悦』)

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/kodai.html

    題しらず
人ごころうす花ぞめのかり衣さてだにあらで色やかはらむ(新古1156)
【通釈】人の心は薄花染めの狩衣――その薄い色さえ保てず、たちまち褪せてしまうのでしょうか。
【補記】「花染め」は露草の花で縹(はなだ)色に染めること。もともと色落ちしやすい。
【本歌】よみ人しらず「古今集」
世の中の人の心は花ぞめのうつろひやすき色にぞありける

 西行の「逢ふまでの命もがなと思ひしはくやしかりけるわが心かな」から、この小大君の「人ごころうす花ぞめのかり衣さてだにあらで色やかはらむ」の流れは、西行の一首の「わが心」と、小大君の一首の「人ごころ」とが相通ずるという配慮からなのかも知れない。西行と小大君の接点というのはない。時代史的にも、小大君が平安中期の歌人とすると、西行は平安末期から鎌倉初期の歌人ということになる。
 前回の西行に関しても、「『美福門院加賀と待賢門院加賀』・『待賢門院とその女房たち』そして『上西門院と堀川の局・兵衛の局』」(追記メモ三)で、西行を巡る女房歌人たちの一端に触れてきたが、この小大君も、「三条院女蔵人左近」時代に、「藤原朝光・平兼盛・藤原実方・藤原公任」等々の、その当時の錚々たる男性歌人たちとの贈答歌が今に遺されている。
 しかし、その晩年の頃には、次のような、寂昭上人(大江定基)が亡くなったときの「釈教歌」も遺されている。

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/kodai.html

    わづらひ侍りける比、寂昭上人にあひて戒うけけるに、
    ほどなくかへりければ
ながき夜の闇にまどへる我をおきて雲がくれぬる空の月かな(続後拾遺1298)

【通釈】無明長夜に惑う私を置いて、去ってしまわれた上人様よ。
【補記】釈教歌。「寂昭上人」は俗名大江定基。三河入道とも。長保五年(1003)、入宋。『小大君集』では第二句「やみにまよへる」、第五句「夜半の月かな

 小大君の歌の詞書にある「寂照上人」(大江定基)は、『宇治拾遺物語・第五九話』の「三川入道遁世之間事」や『今昔物語集・巻第一九』の「参河守大江定基出家語第二」などで知られている、平安時代中期の和歌に秀で図書頭・三河守を歴任した文人の筆頭格の人物である。
 これらの「寂照上人」(大江定基)に関しては、下記アドレスの「寂照説話の視点から(薗部幹夫稿)」が参考となる。

http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/17520/ktk034-03.pdf

 ここでは、平安時代の「女房文学」と「隠者文学」という観点(「女房文学から隠者文学へ(折口信夫稿)」)で、「女房歌人・三条院女蔵人左近」と「隠者出家僧文人・寂照上人」との、その交流の一端が見えて来る。
 こういう「女房歌人」と「隠者出家僧歌人」との交流の一端は、次の「待賢門院堀河と西行」との、次のよう贈答歌も見られる。

    西行法師を呼び侍りけるに、まかるべきよし
    は申しながら、まうで来(こ)で、月の明かり
    けるに、門の前を通ると聞きて、よみて遣は
    しける
1976 西へゆくしるべと思ふ月影の空頼めこそかひなかりけれ(待賢門院堀河「新古今」)
(西方極楽浄土へ行く案内者だと思っていた貴方の空約束は、まことに甲斐の無いことでし
た。)
返し
1977 立ち入らで雲間を分けし月影は待たぬけしきや空に見えけん(西行法師「新古今」
(門内に立ち入らないで雲間を分けて過ぎた月の光は、待っていない様子が空に見えたから
でしょうか。)

(追記メモ一)

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/kodai.html

小大君(こおおきみ) 生没年未詳 別称:三条院女蔵人左近

出自未詳。三条天皇(在位1011-1016)の皇太子時代、女蔵人として仕える。藤原朝光・源頼光・藤原実方等と交渉があった。通称は「左近」。「小大君」は「こだいのきみ」と訓む説もある(本居宣長)が、「こおほきみ」「小おほきみ」などと作者名表記した古写本があるので、「こおほきみ」が正しいようである。
家集『小大君集』がある。同集には『小町集』と重複する歌があり、また『小町集』の別の二首は『栄花物語』に小大君の作として載り、小町と小大君の間で歌の伝承に混乱があったとみられる。拾遺集初出。勅撰入集二十一首。三十六歌仙・女房三十六歌仙。

(追記メモ二)平安・鎌倉(※)時代の女流歌人(「女房三十六歌仙」=1~36)

(三十六歌仙)(中古三十六歌仙)(百人一首)(新三十六歌仙)
1 小野小町   〇           〇 9     
2 伊勢     〇           〇19
3 中務     〇
4 斎宮女御   〇
5 小大君    〇
(三条院女蔵人左近)
6 右大将道綱母        〇    〇53
7 馬内侍           〇
8 赤染衛門          〇    〇59
9 和泉式部          〇    〇56
10 紫式部           〇    〇57
11 伊勢大輔             〇    〇61
12 清少納言          〇    〇62
13 相模              〇     〇65
14 右近                 〇38 
15式子内親王              〇89     〇
16周防内侍               〇67
17待賢門院堀河             〇80
18二条院讃岐              〇92
19祐猶子内親王             〇72
20殷富門院大輔             〇90     〇
21大弐三位(藤原賢子)            〇58
22高内侍(儀同三司母)        〇54
23小式部内侍                  〇60
24宮内卿※                      〇
25俊成卿女※                     〇
26宜秋門院丹後
27嘉陽門院越前※
28小侍従※
29後鳥羽院下野※
30弁内侍※
31少将内侍※
32土御門院小宰相※
33八条院高倉※ 〇
34後嵯峨院中納言典侍(典侍藤原親子)※
35式乾門院御匣※
36藻璧門院少将※                   〇

(追記メモ三)鶴下絵三十六歌仙和歌巻(光悦書・宗達画)」周辺(その二十)
(その二十)『鶴下絵和歌巻』(16小大君)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-04-03

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最晩年の光悦書画巻(その九) [光悦・宗達・素庵]

(その九)草木摺絵新古集和歌巻(その九・西行)

(4-2)

花卉四の二.jpg
花卉摺下絵新古今集和歌巻(部分) 本阿弥光悦筆 (4-2) (源正清朝臣)
MOA美術館蔵 紙本墨画 金銀泥摺絵 一巻 縦34.1㎝ 長907.0㎝

(4-3)

花卉四-三.jpg

花卉摺下絵新古今集和歌巻(部分図) 本阿弥光悦筆 (4-3) (西行)

 上記の上の図(4-2)の左側の三行が西行の歌である。それを拡大して、西行の歌の全体が見られるものが、上記の下の図(4-3)である。

 逢ふまでの命もがなと思ひしはくやしかりけるわが心かな(西行『新古今1155』)

(釈文)あふま天濃い乃知も可なとおも日しハ久やし可利介る我心可那(『書道芸術第十八巻 本阿弥光悦』)

『新古今和歌集』では、次の詞書のある一首である。

  題知らず
逢ふまでの命もがなと思ひしはくやしかりけるわが心かな(西行法師『新古今1155』)
(逢うまでの命がほしいものだと思ったのは、まことにくやしかったわたしの心であることよ。)

 この西行の一首は、『山家集』・「恋歌」の部の「恋歌百十首」に、「あふまでの命もがな
と思ひしは悔しかりける我がこころかな」の歌形で収載されている。この『山家集』には西行の連歌は収載されていない。
 西行の数少ない連歌が収載されているのは、「聞書集」と「聞書残集」(『岩波文庫山家集』収載「聞書集」「残集」)とである。
 その「聞書集」に、「藤原俊成」宅に「西行・西住・寂然(藤原頼業)」等が集い、次のような「俊成と西行」との連歌(付け合い)を遺している。

【    五条の三位入道、そのかみ大宮の家に住まれける折、
     寂然・西住なんどまかりあひて、後世の物語申しける
     ついでに、向花念浄世と申すことを詠みけるに
心をぞやがてはちすに咲かせつる今見る花の散るにたぐへて (西行)
     かくて物語中しつつ連歌しけるに、扇に桜をおきて、
     さしやりたりけるを見て         家主 顕広(俊成)
梓弓はるのまとゐに花ぞ見る              (俊成)
     とりわき附くべき由ありければ
やさししことに猶ひかれつつ              (西行)      】
                       (「聞書集」(『岩波文庫山家集』)

 上記の記述中の「五条の三位入道」は、「藤原俊成のこと。五条は五条東京極に住んでいたことに因る。三位は最終の官位を指している」。「家主 顕広」も俊成のことで、「仁安二年(一一六七)十二月二十四日に顕広という名を俊成と改めているので(時に俊成五十四歳、西行五十歳、それ以前の作)ということになる。
 この仁安二年(一一六七)というのは、西行にとって大きな節目の年で、「平清盛が太政大臣となった」年である。その三年前に、西行の『山家集』にしばしば登場する「新院」こと「崇徳上皇」が讃岐で崩御し、西行は、その慰霊のため、仁安三年(一一六八)に、「中国・四国への旅、崇徳院慰霊、善通寺庵居」を決行する。
 すなわち、釈阿(俊成)と西行(円位)とは、保元元年(一一五六)の「保元の乱」(崇徳上皇讃岐に配流)、そして、「平治の乱」(京都に勃発した内乱。後白河上皇の近臣間の暗闘が源平武士団の対立に結びつき、藤原信頼・源義朝による上皇幽閉、藤原通憲(信西)殺害という事件に発展した。しかし、平清盛の計略によって上皇は脱出し、激しい合戦のすえ源氏方は敗北した。以後、平氏の政権が成立した。)という、大動乱時代に、その絆を深め合った「真の同志」(歌友)だったのである。

ここで、これらの「聞書残集」(『岩波文庫山家集』の連歌)を理解するためには、次の
アドレスの、「西行の連歌(窪田章一郎稿)」が、その足掛かりとなってくれる。

file:///C:/Users/yahan/Downloads/KokubungakuKenkyu_9-10_Kubota%20(6).pdf

 そこで、「顕広(俊成)の句(「梓弓はるのまとゐに花ぞ見る」)は眼前に即して作った、唱和をもとめる短連歌で、それを西行に名ざしで求めたのである。長連歌の発句にもなりうるもので、穏やかな、明るい、整った句である。寂然、西住たちも同座している楽しげな席であったから、二句のみに終らずに長く連らねられたことも想像されるが、これも何ともいえない」としている。
 さらに、「西行の附句は、『やさししこと』は、矢を挿して負う意で、前句の『梓弓』『まと』と縁を持ち、また『ひかれつつ』は弓を可く意で縁を持っているのは、連歌の常道である。もう一つ『やさししこと』」、語として無理であるが、優しいことの意をもっていると採っていいだろう。この方が一句の意としては表立っている。諸友とともに春のたのしい集いに花を見て、出家の身ではあるが在俗のころとかわらずに風雅の境地に猶心ひかれているという意になろう」と続けている。
 また、「俊成と西行との交際は御裳濯川歌合に俊成によって記されたように『天承の頃ほひ西行(十四歳)より同じ道にたづさはり、仙洞の花下、雲井の月に見なれし友)であったので、西行の附句は俊成の胸にひびいてゆくものをもっていた筈で、二人のみに交流する個人的な感情のあったことがわかる」と記している。

大原三寂・御子左家系図.jpg

「大原三寂・御子左家系図」(『岩波新書西行(高橋貞夫著)』)

 『古今著聞集(巻十五、宿執第二十三)』に、「西行法師、出家よりさきは、徳大寺左大臣の家人にて侍る」と記されている。西行の出家は、保延六年(一一四一)、二十三歳のときであるが、それ以前は「徳大寺家の家人」で、鳥羽院の北面武士として奉仕していたことも記録に遺されている。
 この徳大寺家と俊成の「御子左家は、上記の系図のように近い姻族関係にあり、そして、この御子左家と「常盤三寂(大原三寂)」(「寂念・寂然・寂超」の三兄弟)で知られている「常盤家」と、寂超(藤原為経)の出家で離縁した妻の「美福門院加賀」が俊成の後妻に入り、「藤原定家」の生母となっているという、これまた、両家は因縁浅からぬ関係にある。
 さらに、この美福門院加賀と寂超の子が「藤原隆信」(歌人で「肖像画=「似せ絵」の名手)なのである。この美福門院加賀は、天才歌人・藤原定家と天才画人・藤原隆信の生母で、御子左家の継嗣・定家は、隆信の異父弟ということになる。
 上記の「大原三寂・御子左家系図」の左端の「徳大寺家」の「実能(さねよし)」に、西行は、佐藤義清時代は仕え、この実能の同母妹が「待賢門院璋子(しょうし)」(鳥羽天皇の皇后(中宮)、崇徳・後白河両天皇の母)なのである。
 この待賢門院は、幼女の頃から白河上皇の鍾愛の下に育てられ、鳥羽天皇の中宮になって生まれた子の「崇徳天皇」は、鳥羽天皇に「叔父子(祖父の白河上皇の子)として忌避されていた。大治四年(一一二九)に、「治天の君」として院政を敷いた白河上皇が崩御すると、待賢門院は立場は弱くなり、鳥羽天皇は、長承二年(一一三三)に、藤原長実(六条藤家の顕季の長子)の女「美福門院得子(とくし)」を後宮に迎え入れ、西行が出家した翌々年(永治二年=一一四二)に、待賢門院は出家する。
 待賢門院は、西行より十七歳も年長であり、西行の出家の一つの「悲恋(高貴なる女人)」
説の相手方と目する見方もあるが、それは「西行伝説」の域内に留めるべきものなのかも知れない。しかし、西行が、「美福門院派、近衛天皇(美福門院の子・夭折)・後白河院(待賢門院)派」ではなく、「待賢門院派、崇徳院派」であることは、それは動かし難い事実に属することであろう。
 そして、上記の系図の右端の「常盤家」の為忠は、白河院の側近の一人であり、その子の「常盤(大原)三寂」の「寂念・寂然=唯心房・寂超」の三兄弟も、西行と同じく、「待賢門院派、崇徳院派」と解するのが自然であろう。
 同様に、上記の「御子左家」の俊成も、「六条藤家」出の「美福門院」派よりも「待賢門院」派と解するのが、これまた自然であろう。
 ここで、先の「聞書残集」(『岩波文庫山家集』)の「俊成と西行」との連歌(付け合い)に戻って、「寂然・西住なんどまかりあひて」の「西住(さいじゅう)法師」は、俗名は「
源季正(すえまさ)」という武士で、これまた、西行の出家前からの友人なのである。西行は、その『山家集』では「同行(どうぎょう)に侍りける上人」と「同行」(いっしょに修行する人)という詞書を呈している。この西住については、次のアドレスに詳しい。

http://www.eonet.ne.jp/~yammu/saiju.html

【 為忠が常磐に為業侍りけるに、西住・寂然侍りて、
  太秦に籠りたりけるに、かくと申したりければ、
  罷りたりけり。有明と申す題を詠みけるに
今宵こそ心の隈は知られぬれ入らで明けぬる月を眺めて (西行)

  かくて静空・寂昭なんど侍りければ、物語り申しつつ、
  連歌しけり。秋のことにて肌寒かりければ、
  寂然まで来て背中を合せてゐて連歌しにけり。
思ふにも後合せになりにけり             (寂然)                  
  この連歌異人つくべからずと申しければ
裏返りたる人の心は                 (西行)

  後の世の物語おのおの申しけるに、人なみなみに
  その道には入りながら、思ふやうならぬ由申して
人まねの熊野詣でのわが身かな             静空

  と申しけるに
そりといはるる名ばかりはして            (西行)

  雨の降りければ、檜笠、蓑を着てまで来たりけるを、
  高欄に掛けたりけるを見て                
檜笠着る身のありさまぞあはれなる           西住

  むごに人つけざりければ、興なく覚えて
雨しづくとも泣きぬばかりに             (西行)        
   
  さて明けにければ各々山寺へ帰りけるに、
  後会いつとしらずと申す題、寂然いだして詠みけるに
帰りゆくもとどまる人も思ふらむ又逢ふことのさだめなの世や(西行)  】
 (「聞書残集」(『岩波文庫山家集』)

 この「西行・西住・寂然らの連句」は、『聞書残集』に収載されているものである。この「為忠が常磐に為業侍りけるに」の「為忠が常盤に」は、「藤原為忠の太秦の常盤邸に」の意で、「為業侍りけるに」の「為業」は「常盤(大原)三寂」の「二男・為業=寂念」で、まだ、出家前のことを意味するのであろう。そして、「西住・寂然」の「西住・寂然(四男・頼業)」は、「西行の刎頸の親友」ということになる。
 この「静空」については、「静空は誰れともわからぬが、尾山氏(尾山篤二郎氏)は為忠の長男為盛かといっている。出家後の西行の文学のグループのおもだった人々がこの日は集っている」と、「西行の連歌」(窪田章一郎稿)では、記述されている。
 また、そこで、この「西行・西住・寂然らの連句」について、「この日の西行は心の深さよりはユーモラスな軽妙な味わいを中心として居る。『そり』は剃りで剃髪した僧形のことをいっていると思われ、言葉そのものに無理のあることが興趣を呼んでいるといえよう。西住の句は『身の』に蓑を詠みこんで居り、勾欄にかけられている檜笠と蓑からしたたる雨の雫を、人間化して泣く涙としているところにューモアがある。『あはれなる』を『泣きぬばかり』と受けとめて人間の姿にしたのは、超俗の人がこの一時だけ俗界にかえって心を遊ばせていることが思いあわされて、ユーモアも軽くないものとして味わわれる。夜が明けて別れぎわに『帰りゆくもとどまる人も』と詠んだ時は、ふたたび山寺の生活気分にたちもどっていたのである」との、この評の一端を示されている。


(追記メモ一) 『菟玖波集』における「西行の連歌」関連

「西行の連歌」(窪田章一郎稿)では、「西行の連歌は菟玖波集にも一句も採りいれられず、従来の連歌研究もいまだ扱っていない」というのである。

file:///C:/Users/yahan/Downloads/KokubungakuKenkyu_9-10_Kubota%20(6).pdf
 ↓
 しかし、これは、戦前の昭和五年(一九三〇)の「校本つくば集新釈上巻」(福井久蔵著・早稲田大学出版)当時に基づく論孜なのかも知れない。
 戦後の昭和二十六年(一九五一)に刊行された『日本古典全集 筑波集(上・下)・校注福井久蔵・朝日新聞刊』の、その下巻の「巻十二」と「巻十九」に、次のような、西行の連歌が収載されている。

   空にぞ冬の月は澄みける
    と侍るに
1187 舎(やど)るぺき水は氷にとぢらへて  西行法師 (『菟玖波集・下・巻十二』)
(月が映えるべき水は氷ってしまったので、冬月は空に澄わたっていると前後して見る句)
   (『日本古典全集 筑波集(下)・校注福井久蔵・朝日新聞刊』所収「巻十二」)

  ひろき空にすばる星かな
1948 深き海にかがまる蝦(えび)の有るからに 西行法師 (『菟玖波集・下・巻十九』)
(深い海に身体を十分伸ばしてよいのに、海老はなぜあのように腰をかがめるかと禅の問答のような付けである。参考: 「すばる星」=昴(すばる)=統(す)ばる=集まって一つになる。すまる=すぼまる=窄まる=すぼむ→すばる星。 「深き海」と「広い空」、「すばる星」と「すぼむ蝦」との対比。)
    (『日本古典全集 筑波集(下)・校注福井久蔵・朝日新聞刊』所収「巻十九」)

菟玖波集.jpg

https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/he05/he05_02110/he05_02110_0007/he05_02110_0007_p0027.jpg

     修行し侍るりけるに、奈良路をゆくとて、
     尾もなき山のまろきを見て
   世の中にまんまろにこそ見えにけれ  西住法師
     と侍るとて
1956 あそこもここもすみもつかねば    西行法師 (『菟玖波集・下・巻十九』)
(奈良路の山の形がまんまるなのを見て、円に対して四角のものはないということを利かせようとして設けた付合。参考: 「まんまろ」→まんまろ頭→坊主頭→僧=西住法師と西行法師。西行の別号の「円位法師」を掛けているか。「まんまろ」と「四角の四隅」→融通無碍と四角四面との対比。 )
    (『日本古典全集 筑波集(下)・校注福井久蔵・朝日新聞刊』所収「巻十九」)


(追記メモ二)『千載和歌集』の「西住・寂然」の歌(『新日本古典文学大系10 千載集』)

(西住法師)

    行路ノ雪といへる心をよめる
463 駒のあとはかつふる雪にうづもれてをくるヽ人やみちまどふらん
(駒の足跡は次から次へと降る雪に埋もれて、後から遅れて来る人は、道に迷うのではなかろうか。)

     夏のころ越の国へまかりける人の、秋はかならず
     上りなん、待てといひけれど、冬になるまで上り
     まうでこざりければ、つかはしける
493 待てといひて頼めし秋もすぎぬればかへる山路の名ぞかひもなき
(待っていて下さいと、私をあてにさせた約束の秋も過ぎてしまったので、帰って来る山路という帰山の名もそのかいがありませんよ。)

     乍臥無実恋といへる心をよめる
753 手枕のうゑに乱るゝ朝寝髪したに解けずと人は知らじな
(私の手枕の上に乱れている恋人の朝寝髪、それなのに実は打ち解けていないということを他人は知らないだろうな。参考: 乍臥無実恋=臥シ乍ラ実ノ無キ恋=共に臥しながら男女の関係に至らなかった恋。)

1140 まどろみてさてもやみなばいかゞせむ寝覚めぞあらぬ命なりける
(睡眠中にそのまま死を迎えたらどうしたらよかろう。寝覚めというものにこそ無いはずの命なのであったよ。)

(寂然法師)

230 秋はきぬ年もなかばにすぎぬとや荻吹く風のおどろかすらむ
(秋が来た。一年も半ばまで過ぎたと言ってであろうか。荻に吹く風が目を覚まさせるようだ。)

     西住法師みまかりける時、終り正念なりけるよしを聞きて、
     円位(西行)法師のもとへつかはしける
604 乱れずと終りを聞くこそうれしけれさても別れはなぐさまねども
(乱れるところがなかった、とその臨終の様を聞けるのは嬉しいことです。そうとはいっても、死別の悲しみは慰められないのですが。)

664 みちのくの信夫もぢずり忍びつヽ色には出でじ乱れもぞする。
(みちのくの信夫もじずりではないが、忍び忍びしてわが恋心を表にあらわすまい。)

      世を背(そむ)きて又の年の春、花を見てよめる
1068  この春ぞ思ひはかへすさくら花空(むな)しき色に染めし心を
(この春にこそ、桜花の空しい色に染めて執着していた心を翻して、色即是空と悟ることだ。参考: 思ひかへす悟りや今日はなからまし花にそめおく色なかりせば/西行)

      題不知
1069  世の中を常なきものと思はずはいかでか花の散るに堪へまし
(この世を無常と思わなかったら、どうして花の散ることに堪えられるだろうか。無常の認識に立つからこそ散華のあわれに堪えられるのだ。)

      火盛久不燃
1251  煙(けぶり)だにしばしたなびけ鳥辺山たち別れにし形見とも見ん
(荼毘の煙だけでもしばらくの間たなびいていて欲しい。鳥辺山よ、せめてそれを死別したあの人の形見と見ようと思うから。参考: 「火盛久不燃」=罪業応報経の偈の一節。栄枯盛衰の無常をいう。)

(追記メモ三) 「美福門院加賀と待賢門院加賀」・「待賢門院とその女房たち」そして「上西門院と堀川の局・兵衛の局」

(美福門院加賀)

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/kaga_b.html

1232 よしさらばのちの世とだにたのめおけつらさにたへぬ身ともこそなれ(『新古今・藤原俊成』)
       返し
1233 たのめおかむたださばかりを契りにて憂き世の中を夢になしてよ(『新古今・藤原定家朝臣母=美福門院加賀)

(待賢門院加賀)→ 大宮の女房加賀

https://sakuramitih31.blog.fc2.com/blog-entry-4412.html?sp

799 かねてより思ひし事ぞ伏柴のこるばかりなる歎きせむとは(『千載集・待賢門院加賀)

(待賢門院とそのの女房たち)

http://sanka11.sakura.ne.jp/sankasyu3/42.html

〇中納言の局
〇堀川の局
〇兵衛の局
堀川の局の妹。待賢門院のあとに上西門院に仕えています。西行との贈答歌が山家集の中に三首あります。
〇帥の局
〇加賀の局→大宮の加賀 
西行より13歳の年長ということです。母は新肥前と言うことですが、詳しくは不明です。千載集に一首採録されています。この人は待賢門院の後に近衛院の皇后だった藤原多子に仕えて、大宮の女房加賀となります。有馬温泉での贈答歌が135Pに二首あります。ただし、  西行の歌は他の人の代作としてのものです。寂超長門入道の妻、藤原俊成の妻、藤原隆信や藤原定家の母も加賀の局と言いますが、年齢的にみて、この美福門院加賀とは別人とみられています。 ○紀伊の局
〇安芸の局
〇尾張の局
〇新少将
源俊頼の娘。新古今集・新拾遺集に作品があります。

(上西門院と堀川の局・兵衛の局)

http://sanka11.sakura.ne.jp/sankasyu3/42.html

〇上西門院
〇堀川の局・兵衛の局
二人ともに生没年不詳です。村上源氏の流れをくむ神祇伯、源顕仲の娘といわれています。姉が堀河、妹が兵衛です。二人の年齢差は不明ですが、ともに待賢門院璋子(鳥羽天皇皇后)に仕えました。堀川はそれ以前に、白河天皇の令子内親王に仕えて、前斎院六条と称していました。1145年に待賢門院が死亡すると、堀川は落飾出家、一年間の喪に服したあとに、仁和寺などで過ごしていた事が山家集からも分かります。兵衛は待賢門院のあとに上西門院に仕えてました。1160年、上西門院の落飾に伴い出家したという説があります。それから20年以上は生存していたと考えられています。上西門院は1189年の死亡ですが、兵衛はそれより数年早く亡くなったようです。
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最晩年の光悦書画巻(その八) [光悦・宗達・素庵]

(その八)草木摺絵新古集和歌巻(その八・源正清朝臣)

花卉四の二.jpg

花卉摺下絵新古今集和歌巻(部分) 本阿弥光悦筆 (4-2) (源正清朝臣)
MOA美術館蔵 紙本墨画 金銀泥摺絵 一巻 縦34.1㎝ 長907.0㎝

 この図(4-2)の中央部の歌は、次の源正清の一首である。

恋しさに今日ぞ尋ぬる奧山のひかげの露に袖は濡れつつ(源正清朝臣「新古今」1154)

(釈文)恋し左尓介ふ曽た徒ぬ累お具山乃日可介濃露尓袖ぬらし徒々(『書道芸術第十八巻 本阿弥光悦』)

 『新古今和歌集』では、次の詞書のある一首である。

    頭中将に侍りける時、五節所の童女にもの申し
    初めて後、尋ねて遣はしける
恋しさに今日ぞ尋ぬる奧山のひかげの露に袖は濡れつつ(源正清朝臣「新古今」1154)
(恋しさで今日という日に尋ねることです。奧山の日陰に生えるひかげのかずらの露に袖は濡れながら。)

 「頭中将」とは、「蔵人所(殿上の諸事を切り回す役所)の頭(長官)」で、「中将」(四等官制の次官)を兼ねていること。「五節」は、「嘗祭(だいじょうさい)・新嘗祭( にいなめさい)に行われた五節の舞を中心とする宮中行事」のことで、「五節の舞姫」(五節の舞をまう舞姫)の、その「童」(舞姫の付き添いの幼い女性)ということになる。
 この作者の「源正清」は、『新古今和歌集』の入集数は、この一句だけで特に名の知れた歌人ということでもない。そして、前の歌の作者・式子内親王が、後白河天皇に連なる皇族とすると、この源正清は、醍醐天皇に連なる皇族の一人で(追記メモ一)、年代的にも、式子内親王の大先達で、この『新古今和歌集』 の「式子内親王→源正清朝臣→西行」という流れは、その作者名の流れからすると、「式子内親王(皇族)→源正清朝臣(皇族から臣籍の源の姓)→西行(北面の武士から出家僧)」という流れなのかも知れない。
 しかし、この「式子内親王→源正清朝臣」の流れは、その「作者間」の事情を配慮したというものではなく、次のとおり、「前歌(前の歌)と後歌(後の歌)」との、その両歌の「外(表面的な歌形など)と内(内面的な歌心など)」とに着目してのように思われる。

前歌(前の歌)
逢ふことを今日松が枝の手向草幾よしをるる袖とかは知る(式子内親王「新古今」1153)

後歌(後の歌)
恋しさに今日ぞ尋ぬる奧山のひかげの露に袖は濡れつつ(源正清朝臣「新古今」1154)

 この両歌で、「今日松が枝の」(前歌)と「今日ぞ尋ぬる」(後歌)、そして、「袖とかは知る」(前歌)と「袖は濡れつつ」(後歌)などの、この両歌の、同種の詞(文言)による「連歌(連ね歌)」、そして、それは「連歌・連句」の「付合(付け合い)」)の基礎に通ずる要領で為されているように解せられる。

【 後鳥羽院建保の比(ころ)より、白黒又色々の賦物(ふしもの)の獨(ひとり)連歌を定家・家隆卿などに召され侍りしより、百韻なども侍るにや。又、様々の懸物(かけもの)など出(い)だされて、おびたヾしき御会ども侍りき。よき連歌をば柿本の衆となづけられ、わろきをば栗本の衆とて、別座に着きてぞし侍りし。 有心(うしん)無心(むしん)にて、うるはしき連歌と狂句とを、まぜまぜにせられし事も常に侍り。 】(『筑波問答(二条良基著)』)

 この『筑波問答』の著者、二条良基(元応二年(一三二〇)~嘉慶二年(一三八八))は、南北朝時代、北朝方として関白、太政大臣、摂政を歴任した大政治家で、『菟玖波集』(連歌作品集)、『連理秘抄』・『筑波問答』(連歌論集)、『応安新式(連歌新式)』(連歌式目集)などを著し、連歌中興の祖として仰がれている。
 その『筑波問答』の中の上記の記述の、「後鳥羽院建保の比(ころ)より、白黒又色々の賦物(ふしもの)の獨(ひとり)連歌を定家・家隆卿などに召され侍りしより、百韻なども侍るにや。」というのは、後鳥羽院は、単に、歌人であるだけでなく、連歌人でもあり、藤原定家や藤原家隆等々と、「おびたヾしき御会(連歌会)」を催し、「白黒(「白と黒を詠み込む)・賦物(賦していた物を詠み込む)の獨連歌(独吟の連歌)」で、その「百韻」(百句続ける連歌)などに興じているということである。

  後鳥羽院御時白黒賦物の連歌召されけるに
  乙女子がかつらぎ山を春かけて
11 かすめどいまだ峯の白雪           従二位家隆(『菟玖波集』)

 この「連歌(「前句=長句=五七五句」に対する「付句=短句=七七句)」」の作者は、従二位の藤原家隆の作である。家隆が、従二位になったのは、亡くなる二年前の嘉禎元年(一二三五)で、この時には、承久の乱に敗れた後鳥羽院は隠岐にあって、二度と帰京することは叶わないということを悟っていた、亡くなる四年前の最晩年の官職名である。
 そして、この「後鳥羽院御時白黒賦物の連歌召されけるに」には、承久の乱以前の、後鳥羽院の院政時代の頃で、その「白黒賦物の連歌」というのは、連歌の各句(長句と短句)に「賦物の『黒と白』とを詠み込む連歌」ということを意味する。

 乙女子がかつらぎ山を春かけて(前句=長句=五七五句)

 この句の「かつらぎ山」は、「葛城山」と「かつら(仮髪=黒髪)山」とを掛けている。

 かすめどいまだ峯の白雪(付句=短句=七七句)

 この句の「峯の白雪」の「白」が、前句の「黒」に和しての「白」ということになる。

 しかし、こういう「賦し物連歌」の「賦し物」というのは、『古今和歌集』の「巻十 物名(ぶつめい・もののな)」、そして「連歌」は、『金葉集』の「巻十 雑下 連歌」で、その萌芽が収載されており、後鳥羽院の、この種の「賦し物連歌」というのは、それらを一段と発展させたものと言えよう。
 しかし、後鳥羽院が、『金葉集』時代の連歌の「一句づつ言ひ捨てるばかり」のものではなく、「百韻なども侍るにや」と、五十韻(五十句続ける連歌)・百韻(百句続ける)の連句形式を作り上げていった、その筆頭人物ということになろう。
 さらに、後鳥羽院は、それらの連歌会で、「よき連歌をば柿本の衆となづけられ、わろきをば栗本の衆」と名づけ、「有心(うしん)無心(むしん)にて、うるはしき連歌と狂句とを、まぜまぜにせられし事も常に侍り」と、その後の「連歌=よき(優美な)連歌=柿本衆=有心連歌」と「俳諧(連句)=わろき(滑稽)連歌=栗本衆=無心連歌」との峻別を示唆した筆頭人物であるのかも知れない。
 そして、これらの背景として、「わろき(滑稽)歌」というのは、『古今和歌集』の「巻十九 雑躰・誹諧歌」と連なっており、後鳥羽院は、それまでの勅撰集(『古今和歌集』から『千載和歌集』)を総決算して『新古今和歌集』を編纂し、さらに、それらの編纂作業を基礎として、それ以降の「和歌・連歌・俳諧(連句)・短歌・狂歌・俳句・川柳(狂句)」の世界の礎を偶発的に試行していたということも意味するのかも知れない。

後鳥羽院御時、三字中略、四字上下略の連歌に
   むすぶ契のさきの世のふし
268 夕顔の花なき宿の露のまに         前中納言定家(『菟玖波集』)

 この「連歌(「短句=七七句)に対する「長句=五七五句」」」の作者は、前中納言の藤原定家の作である。この「前中納言」の「中納言」は定家の罷官時の官職名で、罷官したのは寛喜四年(一二三二)であるが、この作は「後鳥羽院御時」の、承久の乱以前の後鳥羽院の院政時代の頃の作ということになる。
「三字中略、四字上下略の連歌」の「三字中略」というのは、上記の「短句」の「むすぶ契のさきの世のふし」の「契(ちぎり)」の「三字」の「中略」で「ちり(塵)」が賦せられている。同様に、長句の「夕顔の花なき宿の露のまに」の「夕顔(ゆふかを)」の「四字」の「上下略」の「ふか(鱶=フカ)が賦せられている。
 しかし、これは『古今和歌集』の「物名」(和歌の詠法の一種)の一種で、相互に「歌の意味内容とは関わりなく事物名を詠みこむ、遊戯性の高い知的技巧を利かせた、二重の意味は利かしていない、単なる言葉の形のみを借りている」の「連歌」(「長句」と「短句」の二句)ということになる。

後鳥羽院の御時百韻連歌に召されけるに
  御祓川ふち瀬に秋や立ちぬらん
271 風も流るる麻のゆふしで          従二位家隆(『菟玖波集』)

 この「連歌(「長句=五七五句)に対する「短句=七七句」」」の作者は、従二位の藤原家隆の作である。この「後鳥羽院の御時百韻連歌に召されけるに」の「後鳥羽院の御時」で、後鳥羽院の院政時代に、そして、「百韻連歌」(百句続きの連歌)を実施されたときの作ということになる。それが、特殊且つ技巧を凝らした「『三字中略・四字上下略の連歌』や『白黒賦物の連歌』」ではなく、通常の「百韻」(百句続ける形式)の、その「長句と短句」と解したい。
 この長句の「御祓(みそぎ)」は、六月晦日に行う朝廷行事で白木綿や藁の形代の人形を流す儀式、そして、その「御祓川」は、その儀式を行う「賀茂川」や洛西の「紙屋川」を指している。
ここで、この「連歌(長句の作者=?、短句の作者=家隆)」に接すると、次の藤原家隆の「百人一首」を想起することであろう。

98 風そよぐならの小川の夕暮れはみそぎぞ夏のしるしなりける(『百人一首 98』『新勅撰集・夏・192』)

 この一首は第九勅撰集『新勅撰集』に、「寛喜元年(一二二九)女御(藤原道家の娘・藤原竴子)入内(中宮=皇后に入内)屏風(その嫁入り家具の一つ)に」との詞書が付してある。
 この寛喜元年(一二二九)には、後鳥羽院は隠岐に配流されている。そして『新勅撰集』の成立は嘉禎元年(一二三五)で、その二年後に家隆が没し、家隆没後の二年後に後鳥羽院が亡くなる。定家が没するのは仁治二年(一二四一)で、後鳥羽院が崩御した二年後のことである。
 この家隆の歌と先の家隆の連歌との関係を見て行くと、連歌の方は後鳥羽院の院政時代の承久の乱(承久三年=一二二一)以前の作で、この家隆の連歌を基礎にして、家隆は『新勅撰集』『百人一首』の入集歌を作歌したと解して差し支えなかろう。
 そして、この家隆の連歌の作と『新勅撰集』『百人一首』の一首とを同時に鑑賞して行くと様々なことが明瞭になって来る。

   御祓川ふち瀬に秋や立ちぬらん
271 風も流るる麻のゆふしで  (『菟玖波集・夏』)

98 風そよぐならの小川の夕暮れはみそぎぞ夏のしるしなりける(『百人一首・98』『新勅撰集・夏』)

まず、連歌の長句の「御祓川ふち瀬に秋や立ちぬらん」は、「秋立つ・立秋」で、秋(旧暦=七・八・九月、新暦=八・九・十月)の、旧暦では七月一日、新暦では八月七日の頃の句ということになる。そして、この「御祓川」は季語ではないけれども、六月三十日の「六月祓(みなづきばらえ)」の行事を行う川(賀茂川など)で、その「六月祓」は夏の季語なのである。すなわち、「連歌・俳諧」の式目(ルール)からする「秋立つ」の初秋の句のような雰囲気なのであるが、「秋になったのであろうか、いや、秋にはなっていない」という句の、「六月祓(みなづきばらえ)」の夏の句のようである。
同様に、この短句の「風も流るる麻のゆふしで(白木綿の幣)」は、明瞭な季語はないけれども、この「風」は前句の「秋立つ」を受けて「秋風」(三秋)の「立秋のころ吹く初秋の秋の訪れを知らせる風」の風情であるが、前句が「六月祓」の夏の句とすると、同季の晩夏の句として鑑賞することになろう。
 そして、家隆の代表歌の一つとされている「風そよぐならの小川の夕暮れはみそぎぞ夏のしるしなりける」の一首は、「夏のしるしなりける」で、夏の歌であることを明瞭にし、そのことを受けて、当然のように『新勅撰集・夏』の部に収載されている。この歌の鑑賞も、「風そよぐならの小川の夕暮れは」の秋の夕暮れの御祓川というよりも、「みそぎぞ夏のしるしなりける」の「六月祓」の儀式にウエートを置いて鑑賞することになろう。
 これらの種明かしは、実は、これらの歌は、『古今和歌集・夏・168』の凡河内躬恒の、次の歌の「本歌取り」の一首なのである。これらを制作順に並列して列記すると次のとおりとなる。

    みな月のつごもりの日よめる
  夏と秋と行きかふ空のかよひぢはかたへすずしき風やふくらむ
                  (凡河内躬恒『古今・夏・168)』)

御祓川ふち瀬に秋や立ちぬらん
風も流るる麻のゆふしで   (藤原家隆『菟玖波集・夏・271』)

  風そよぐならの小川の夕暮れはみそぎぞ夏のしるしなりける
           (藤原家隆『百人一首・98』『新勅撰集・夏・192』)

 これらの歌は並列して、一番のポイントは、凡河内躬恒の歌の詞書(「みな月のつごもりの日」=「六月祓(みなづきばらえ)」)の「六月晦日と七月立秋」の「夏と秋と行きかふ空(夏から秋への時の流れ・その接点)」ということになる。

 ここで、改めて、二条良基が編んだ『菟玖波集』の部立を見ると、「春(巻一・二)、夏(巻三)、秋(巻四・五)、冬(巻六)、神祇(巻七)、釈教(巻八)、恋(巻九・十)」の「十巻・七部立」で、これは、後鳥羽院が中心になって編んだ『新古今和歌集』のそれの「春(巻一・二)、夏(巻三)、秋(巻四・五)、冬(巻六)、神祇(巻十九)、釈教(巻二十)、恋(巻十一・十二・十三・十四・十五)」と「賀(巻七)、哀傷(巻八)、離別(巻九)、羇旅(巻十)、雑(巻十六・十七・十八)」との「二十巻・十二部立」などの簡素化されたものと解することが出来よう。
 そして、『新古今和歌集』(「和歌集」)から『菟玖波集』(「連歌集」)への変遷の流れは、
勅撰和歌集の『古今和歌集』から『新続古今和歌集』の、いわゆる「二十一代集」の変遷
の流れと軌を一にするものであって、それらは、全く、別の世界のものではなく、例えば、「百首歌」(和歌を「百首」まとめて詠むこと)から、「百韻」(和歌を「長句=五七五句」と短句(七七句)と分けて、それら「百句」続けて詠むこと)との、内容によるものではなく、単なる形式上に大きく起因しているように思われる。


(追記メモ一)(『ウィキペディア(Wikipedia)』)

源正清(みなもとのまさきよ) 承平元年(931年) - 没年不詳

 平安時代中期の貴族。醍醐天皇の孫で、大宰帥・有明親王の次男。官位は正四位下・摂津守。円融朝の天禄4年(973年)左近衛中将に任ぜられる。天延2年(974年)円融天皇の中宮・藤原媓子の中宮権亮を兼ねると、貞元2年(977年)には蔵人頭に任ぜられるが、永観2年(984年)円融天皇の譲位に伴って蔵人頭を辞任する。寛和2年(986年)一条天皇の即位に伴って、居貞親王(のち三条天皇)が春宮に立てられると春宮亮を兼ねる。永祚2年(990年)17年に亘って務めた左近衛中将を解かれ、摂津守に転じた。

(追記二)『菟玖波集. 上』(二条良基, 救済 撰[他])( 国立国会図書館デジタルコレクション)

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/977295/52

(追記三)「鎌倉初期の連歌」(木藤才三稿)

https://www.jstage.jst.go.jp/article/haibun1951/1957/14/1957_14_1/_pdf

(追記四)有心衆・無心衆について(岩下紀之稿)

https://aska-r.repo.nii.ac.jp/?action=repository_oaipmh&...

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最晩年の光悦書画巻(その七) [光悦・宗達・素庵]

(その七)草木摺絵新古集和歌巻(その七・式子内親王)

(4-1)

花卉四の一.jpg

花卉摺下絵新古今集和歌巻(部分) 本阿弥光悦筆 (4-1) (式子内親王)
MOA美術館蔵 紙本墨画 金銀泥摺絵 一巻 縦34.1㎝ 長907.0㎝

逢ふことを今日松が枝の手向草幾よしをるる袖とかは知る(式子内親王「新古今」1153)

(釈文)逢事を介ふまつ可え濃手向草いくよし保る々袖と可ハしる(『書道芸術第十八巻 本阿弥光悦』)

この歌は、『新古今和歌集』には、次のような詞書が付してある。

    百首歌に
逢ふことを今日松が枝の手向草幾よしをるる袖とかは知る(式子内親王「新古今」1153)
(逢うことを待ちつづけて、今日逢えることになったが、せつない願いで、長く、幾夜を涙で濡れしおれていた袖だと知ることか、それは知らないであろう。)

 式子内親王は、『新古今和歌集』に、女流歌人としては最多の四十九首が入集され、その中の十一首が「恋歌」である(下記のとおり)。『新古今和歌集』の部立は、『古今和歌集』に倣い二十巻で、その中の五巻が「恋歌」で、その配列も、恋愛の初期の歌から末期の歌まで、その心理的過程に合わせて分けられ採られている。
 式子内親王の「恋歌」は、「巻第十一・恋歌一」(人を恋い初めたころの「初恋」)が四首、
「巻第十二・恋歌二」(「秘めた恋歌」)が一首、「巻第十三・恋歌三」(「逢う恋」)が二首、
「巻第十四・恋歌四」(「恨みの恋」)が三首、そして、「巻第十四・恋歌五」(「別れの恋」)
が一首となっている(下記のとおり)。

 式子内親王は、三十四年の長きに亘り「院政」を敷き、「治天の君」との名を欲しい侭にした「後白河天皇・上皇・法王」の第三皇女で、十一歳から十年間、賀茂斎院として奉仕し、病により退下の後は、俊成門の女流歌人として精進し、晩年には出家(法名承如法)するなど、その生涯は「歌合を主催したり、歌壇の一員となるような華やかな活動は一切封じていた」、俊成門の高貴なる出の女流歌人の一人に過ぎないという名に甘んじていたということになろう。
 従って、『新古今和歌集』の女流歌人として、三番手(式子内親王=四十九首、俊成女=二十九首に次いで三番手の二十首)の「和泉式部」に比して、和泉式部が「女性・妻・母」の、その生き様のような赤裸々(実生涯に根ざした「恋歌」)の「恋歌」とすると、式子内親王のそれは、「生涯独り身を過ごした女性」としての、その一断面(架空の「恋歌」)としての、『技巧主義の藝術』(萩原朔太郎『戀愛名歌集』)上の「恋歌」ということになろう。
 
    百首歌の中に、忍恋を(三首)
①玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば忍ぶることのよわりもぞする(新古1034)
(『新古今巻第十一』・「恋歌一」=人を恋い初めたころの「初恋」。「忍ぶ恋」)
                    (後鳥羽院・有家・定家・家隆・雅経)

②忘れてはうちなげかるる夕べかな我のみ知りて過ぐる月日を(新古1035)
(『新古今巻第十一』・「恋歌一」=人を恋初めたころの「初恋」。「秘めた恋」)
                      (後鳥羽院・家隆)

③わが恋はしる人もなしせく床の涙もらすなつげのを枕(新古1036)
(『新古今巻第十一』・「恋歌一」=人を恋初めたころの「初恋」。「秘めた恋」)が二首、
                      (後鳥羽院・有家・定家・家隆・雅経)

    題しらず
④しるべせよ跡なき波にこぐ舟の行くへもしらぬ八重のしほ風(新古1074)
(『新古今巻第十一』・「恋歌一」=人を恋初めたころの「初恋」。「跡なき波」=「恋路」、「舟」=自身の投影、「秘めた恋」)
                       (後鳥羽院・有家・定家・家隆)

    百首歌の中に
⑤夢にても見ゆらむものを歎きつつうちぬる宵の袖の気色は(新古1124)
(『新古今巻第十二』・「恋歌二」=「秘めた恋」。「恨みの恋」)
                    (後鳥羽院・有家・定家・家隆・雅経)
    百首歌に
⑥逢ふことをけふ松が枝の手向草いくよしほるる袖とかは知る(新古1153)
(『新古今巻第十三』・「恋歌三」=「逢う恋」。「白波の浜松が枝の手向草幾世までにか年の経るぬらん(万葉一・川島皇子)」の本歌取り)
                        (後鳥羽院・有家・定家・家隆)
     待つ恋といへる心を
⑦君待つと閨へも入らぬ槙の戸にいたくな更けそ山の端の月(新古1204)
(『新古今巻第十三』・「恋歌三」=「逢う恋」。「待つ恋」)
                        (後鳥羽院・有家・定家・家隆)
    題知らず
⑧今はただ心のほかに聞くものを知らずがほなる荻の上風(新古1309)
(『新古今巻第十四』・「恋歌四」=「恨みの恋」。「諦めの恋」)
                        (後鳥羽院・有家・定家・家隆)

   百首歌の中に
⑨さりともと待ちし月日ぞ移りゆく心の花の色にまかせて(新古1328)
(『新古今巻第十四』・「恋歌四」=「恨みの恋」。「嘆きの恋」)
                         (後鳥羽院・定家)

⑩生きてよも明日まで人もつらからじこの夕暮をとはばとへかし(新古1329)
(『新古今巻第十四』・「恋歌四」=「恨みの恋」。「嘆きの恋」)
                         (後鳥羽院・有家・家隆・雅経)

⑪はかなくぞ知らぬ命を嘆き来(こ)しわがかねごとのかかりける世に(新古1391)
(『新古今巻第十五』・「恋歌五」=「別れの恋」。「儚き恋」)
                         (後鳥羽院・家隆)

 上記の「式子内親王は」の「恋歌」十一首の、撰歌者は、例えば、①の歌ですると、「(後鳥羽院・有家・定家・家隆・雅経)」は、「(後鳥羽院・藤原有家・藤原定家・藤原家隆・藤原雅経)」の撰を意味し、『新古今和歌集』の実質的な撰者(他に、源通具は除く)の五名で、満票の撰歌ということになる(『岩波文庫 新訂新古今和歌集 佐々木信綱校訂』)。
 そして、この「式子内親王」の「恋歌」十一首の全てが、「後鳥羽院」撰ということが明瞭となって来る。
 後鳥羽院が『新古今和歌和歌集』の選定作業に深く携わったことは、その「仮名序」の「みずから定め、手づからみがける(歌を選定し、磨き整えた)」という文言を引くまでもなく、この勅撰集の一大特色となっている。
 また、その「切り継ぎ作業」(改訂加除)は、元久二年(一二〇五)の、撰集事業の終了した宴としての「竟宴(きょうえん)」時の第一次本以降、建保四年(一二一六)の第四次本(源家長の詳しい識語を添えた本)に至るまで、数度にわたり行われている。
 さらに、承久三年(一二二一)の「承久の乱」により隠岐に配流された後も、後鳥羽院は、この「切り継ぎ作業」を行い、いわゆる、「隠岐本」(約千六百首)を作成されている。
 その「隠岐本」の中で、この「隠岐本」が「正統な『新古今和歌集』である」(「隠岐本識語)」と記している。そして、その「隠岐本」の全体像は、『岩波文庫 新訂新古今和歌集 佐々木信綱校訂』)では、撰歌者(後鳥羽院=〇印・藤原有家・藤原定家・藤原家隆・藤原雅経)の、「後鳥羽院=〇印」で付記している。それらを、上記の撰歌者で付記したが、上記の式子内親王の十一首は、その最終の「隠岐本」にも収載されているものとして、後鳥羽院が、式子内親王を、当代有数の女流歌人の一人として目していたことは明瞭となって来る。
 後鳥羽院は、治承四年(一一八〇)の生れ、式子内親王は、仁平三年(一一五三)頃の生れで、その年齢差は、二十七歳前後の開きがあるが、式子内親王は、後白河院の皇女、後鳥羽院は、後白河天皇の孫、そして、後鳥羽院と式子内親王は、共に、藤原俊成門として、後鳥羽院が、この式子内親王に深い親近感を抱いていたことは、『新古今和歌集』の、その入集歌の配列順などからして、十分に窺える。
 そして、「草木摺絵新古集和歌巻」そして「花卉摺下絵新古今集和歌巻」の作者(揮毫者)、本阿弥光悦は、この後鳥羽院に深い関心を抱いていたことは、その『本阿弥行状記』の中の記述(中巻一二五「菊一文字は後鳥羽院勅作」など)からして、これまた、十分に窺えるのである。
 こういう観点からの、これらの「草木摺絵新古集和歌巻」や「花卉摺下絵新古今集和歌巻」を観賞していくことも、これまた、一つの逸してはならない視点であろう。

(追記メモ一)

『連歌至宝抄』(里村紹巴著)

http://mcm-www.jwu.ac.jp/~nichibun/thesis/kokubun-mejiro/KOME_54_06.pdf

「恋」には、「聞く恋・見る恋・待つ恋・忍ぶ恋・逢ふ恋・別るる恋・恨むる恋、その外さまざま御入り候」

「先聞恋とはまだみぬ人を風のたよりにきゝて、おきふし物おもひとなり、あらぬ伝をたのみ、一ふでをもつたへまほしくおもふこゝろなり。
又みる恋とは思はざる道行ふりに輿車の下すだれのひまより見物、又はさる家の蔀木丁のかげよりほのかにみし其面影忘れずして、いかなる中だちもがなとおもふ心、。是見恋也。
待恋とは年比、ちぎり置くても何かとさはりありてうち過、又いつの夕必とたのめ、、をき文の返しなど見侍ては心もあくがれ、昨日今日の日をも暮しかね、一日のうちにちとせをふる心ちしてまちわぶるおりふし荻の葉、をとづれ花すゝきのまねくをも君が来かと思ひ夕ぐれになればさらぬかほにて門のほとりにたちやすらひ、よのつねのきぬの袖にも空だきなどして夜の更行くを、かなしみ待宵の鐘の音はあかぬ別の鳥の聲はものゝ数にあらずとよみ侍るも是也。
仭忍恋とは故有人にいひよりて、およそそのぬしも心とけく或はよの聞えを憚、夜な夜な
行通ても人にあやしめられて立かへるふぜい又は一筆の玉章もうき名やもれんとおもふ心是忍恋也。
又逢恋は年月思ひの末をとげ、こよひはあたりの人をしづめ灯火ほそぼそとかかげおき、閨のうちをもよしあるようにつくろひなし、待折しも月のほのかなるに、ちいさきわらはを先にたて妻戸のわきに立やすらへるきぬの袖を引又ねやの内へいざなひ入てもまだ打つけなれば互に恥かはし古器などもとりあへず打ふすさむしろのうへに枕をならべながら、また下ひもゝつれなかりしをとやかくといひよりてやゝこゝろも打ちとくるまゝに、さゝめごとなどあさからぬ情おもひやるべし
別恋(省略)
恨恋(省略) 」

(追記メモ二)

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/syokusi.html

式子内親王 久安五~建仁一(1149~1201)  御所に因み、萱斎院(かやのさいいん)・大炊御門(おおいのみかど)斎院などと称された。

後白河天皇の皇女。母は藤原季成のむすめ成子(しげこ)。亮子内親王(殷富門院)は同母姉、守覚法親王・以仁王は同母弟。高倉天皇は異母兄。生涯独身を通した。
平治元年(1159)、賀茂斎院に卜定され、賀茂神社に奉仕。嘉応元年(1169)、病のため退下(『兵範記』断簡によれば、この時二十一歳)。治承元年(1177)、母が死去。同四年には弟の以仁王が平氏打倒の兵を挙げて敗死した。元暦二年(1185)、准三后の宣下を受ける。建久元年(1190)頃、出家。法名は承如法。同三年(1192)、父後白河院崩御。この後、橘兼仲の妻の妖言事件に捲き込まれ、一時は洛外追放を受けるが、その後処分は沙汰やみになった。
建久七年(1196)、失脚した九条兼実より明け渡された大炊殿に移る。正治二年(1200)、春宮守成親王(のちの順徳天皇)を猶子に迎える話が持ち上がったが、この頃すでに病に冒されており、翌年正月二十五日、薨去した。五十三歳。
藤原俊成を和歌の師とし、俊成の歌論書『古来風躰抄』は内親王に捧げられたものという。その息子定家とも親しく、養和元年(1181)以後、たびたび御所に出入りさせている。正治二年(1200)の後鳥羽院主催初度百首の作者となったが、それ以外に歌会・歌合などの歌壇的活動は見られない。他撰の家集『式子内親王集』があり、三種の百首歌を伝える(日本古典文学大系八〇・私家集大成三・新編国歌大観四・和歌文学大系二三・私家集全釈叢書二八などに所収)。千載集初出。勅撰入集百五十七首。

「彼女の歌の特色は、上に才氣溌剌たる理知を研いて、下に火のやうな情熱を燃燒させ、あらゆる技巧の巧緻を盡して、内に盛りあがる詩情を包んでゐることである。即ち一言にして言へば式子の歌風は、定家の技巧主義に萬葉歌人の情熱を混じた者で、これが本當に正しい意味で言はれる『技巧主義の藝術』である。そしてこの故に彼女の歌は、正に新古今歌風を代表する者と言ふべきである」(萩原朔太郎『戀愛名歌集』)
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最晩年の光悦書画巻(その六) [光悦・宗達・素庵]


(その六)草木摺絵新古集和歌巻(その六・廉義公)

(3-3)

花卉三の三.jpg

花卉摺下絵新古今集和歌巻(部分) 本阿弥光悦筆 (3-3)
MOA美術館蔵 紙本墨画 金銀泥摺絵 一巻 縦34.1㎝ 長907.0㎝

 この図(3-3)の中央部分からの歌は、次の一首である。

昨日まで逢ふにしかばと思ひしを今日は命の惜しくもあるかな(廉義公「新古今」1152)

(釈文)
昨日ま天安ふ尓し可へバと思ひしを今日ハ命濃惜久も有哉(『書道芸術第十八巻 本阿弥光悦』)

 この歌は、『新古今和歌集』には、次のような詞書が付してある。

    人のもとにまかり初めて、朝に遣はしける
昨日まで逢ふにしかばと思ひしを今日は命の惜しくもあるかな(廉義公「新古今」1152)
(昨日まで、逢うこととひきかえに、できるならば、命はどのようになってもかまわないと思っていたのですが、今日は、その命が惜しく思われることです。)

 この歌の作者、廉義公とは、「26忠平(貞信公)→実頼→頼忠(廉義公)→55公任→84定頼」(番号=「百人一首」歌番号)の、忠平直系(小野宮流)の関白・太政大臣を歴任した藤原頼忠の諡号(しごう)である。
 この頼忠は、晩年には、従兄弟の藤原兼家(九条流)との政争に敗れて、一条天皇の即位と共に関白を辞し、失意のうちに薨御した。
 この「諡号」は、右大臣在任中に没した藤原不比等(文忠公・淡海公)が嚆矢で、後の摂関期には、摂関・太政大臣を務めて在俗のまま没した者に限っての、下記のとおりの九例を数えるだけである。

臣下の諡号と国公(『ウィキペディア(Wikipedia)』)

藤原氏諡号.jpg

 ここで、「藤原伊尹(謙徳公)」と「藤原兼通(忠義公)とは「九条流藤原家」の「長男」
と「次男」で、その三男が「藤原兼家」なのである。そして、「伊尹(謙徳公)」の摂政・関白の後継を巡って、「兼通(忠義公)」と「兼家」との兄弟喧嘩となり。当時官職が上であった三男の「兼家」が年齢順で関白職となり、更に、この「兼通(忠義公)」の後継の関白に、実弟の「兼家」ではなく、「小野宮流藤原家」の「実頼(清慎公)」の嫡子「頼忠(廉義公)」に指名し、ここで、「九条流藤原家」は、「兼通(忠義公)」と「兼家」との両家に分裂し、以後、「兼家」が、初めて「前職大臣身分(大臣と兼官しない)の摂政」の地位を獲得し、「藤氏長者」(藤原氏一族全体の氏長者)の名を欲しい侭にすることになる。
 この「藤氏長者」の「九条流藤原家」の全盛者の頂点を極めたのが「藤原道長」であり、
そして、もう一方の「小野宮流藤原家」の「頼忠(廉義公)」の嫡子が、「藤原公任」なのである。この「藤原公任」は、簡略に記述すると、次のとおりとなる。


【藤原公任(966~1041)
平安中期の歌人・歌学者。通称、四条大納言。四納言の一人。実頼の孫。正二位権大納言。故実に明るく、諸芸に秀で、名筆家としても知られる。「和漢朗詠集」「拾遺抄」「三十六人撰」の撰者。著「新撰髄脳」「和歌九品」「北山抄」、家集「前大納言公任卿集」 】(「{大辞林 第三版」)

これに対して、「藤原道長」の簡略な記述は次のとおりである。

【藤原道長(966~1027)
平安中期の廷臣。摂政。兼家の子。道隆・道兼の弟。法名、行観・行覚。通称を御堂関白というが、内覧の宣旨を得たのみで正式ではない。娘三人(彰子・姸子・威子)を立后させて三代の天皇の外戚となり摂政として政権を独占、藤原氏の全盛時代を現出した。1019年出家、法成寺を建立。日記「御堂関白記」がある。 】(「{大辞林 第三版」)

 ここでは、この「藤原公任と藤原道長」が共に、「康保三年生れ(九六六)」で、一言ですると、「藤原公任」は「平安中期の歌人・歌学者(文人)」、「藤原道長は「平安中期の廷臣。摂政(政治家)」ということになる。
しかし、『新古今和歌集』の入集数を見ると、「藤原公任」は六首、「藤原道長」(法成寺入道前摂政太政大臣」)は五首と、絶妙なバランスが覗えるのである。
 ともすると、「藤原道長」は、「この世をば我が世とぞ思ふ望月のかけたることもなしと思へば」で象徴するように、権力の絶頂を極めた政治家として面が強調されているが、「三舟の才」(「漢詩・和歌・管弦の三舟の才」)の故事を遺している「藤原公任」に負けず劣らず、その漢詩は『本朝麗藻(ほんちょうれいそう)』に多数収められて、和歌の方も『後拾遺集』以下の勅撰集に三十三首採られているほどの大文人の一人であった。
中でも、道長の娘の中宮彰子の側近に、当時の才媛を呼び集め、そのサロンから、『源氏物語』作者の紫式部、王朝有数の歌人として知られる和泉式部、歌人で『栄花物語』正編の作者と伝えられる赤染衛門などの女流作家が巣立ち、その競い合いから『枕草紙』の清少納言などの、いわゆる「女流文学の隆盛」を導いた背後の人物として、「藤原道長」の貢献というのは、やはり特筆して置く必要があろう。
ここでは、『大鏡』(「第五巻)13 若き日の道長の心意気と,その剛胆ぶり」の「兼家・公任・道長」などに関する、次の事項について付記して置きたい。

(付記)

【四条の大納言(藤原公任)のかく何事もすぐれ、めでたくおはしますを、大入道殿(藤原兼家)、「いかでか、かからむ。うらやましくもあるかな。わが子どもの、影だに踏むべくもあらぬこそ、くちをしけれ。」と申させ給ひければ、中関白殿(藤原道隆)、粟田殿(藤原道兼)などは、げにさもとや思すらむと、恥づかしげなる御気色にて、ものものたまはぬに、この入道殿(藤原道長)は、いと若くおはします御身にて、「影をば踏まで、面をやは踏まぬ。」(「影はともかくとしても、面を踏まずにおくものか」)とこそ仰せられけれ。まことにこそさおはしますめれ。内大臣殿(藤原教通)をだに、近くてえ見たてまつり給はぬよ。】(『大鏡』(「第五巻)13 若き日の道長の心意気と,その剛胆ぶり」)

https://sites.google.com/site/iwanamigakujutu/top/gakujutu/0400-0599/0491

|第5巻 太政大臣道長 上
|1 世継の翁の語り口が改まる,これこそ今を時めく入道殿下よ
|2 好運児道長,政敵などいっせいに病没
|3 道長の正室倫子のはなばなしい子女たち
|4 いまさらのように,倫子の羽ぶりを讃嘆する
|5 高松殿明子,選ばれて道長の側室となる
|6 明子が生んだ多彩な子女たち
|7 顕信,突然の出家,乳母の身もだえしての嘆き,周囲の人々の思惑
|8 顕信出家に対する道長の心境,受戒に際しての手厚い処置,顕信の悟りの姿
|9 道長の二人の室倫子・明子の礼讃,そして二人とも源氏の出であることの指摘
|10 道長,突如として出家,后の宮々の動揺
|11 満六十歳の道長に,輝かしき姫の三人の后の宮
|12 道長,事によせてすぐれた歌才を発揮
|13 若き日の道長の心意気と,その剛胆ぶり
|14 飯室の権僧正の伴僧,道長の人相を絶讃する
|15 賀茂の行幸で示した道長の容姿のすばらしさ
|16 不遇時の道長,競射で政敵伊周を圧倒する
|17 女院の石山詣でに,道長,伊周に強引に振舞う
|18 上巳の御禊の日の河原遊びに,道長の車副が,伊周を圧迫する
|19 女院詮子の道長への愛情と,道長の運勢の強さ|藤原氏の物語
|20 世継の翁は,ここで話題を改めて,藤原氏の始祖鎌足から語りだす
|21 鎌足の息子不比等から子女へと話題は展開,藤原四家の起こりを語る
|22 北家十三代の系譜,興福寺の唯摩会
|23 冬嗣,南円堂を建立,丈六の不空羂索観音を安置する
|24 頼道の若君の七夜に道長の贈歌,藤原北家の栄え
|25 藤原氏の氏神の由来,そして大原野・吉田神社の創始
|26 鎌足の氏寺東武峯,不比等の山階寺,そして「山階道理」の由来
|27 皇后の御父,天皇の御外祖父について
|28 道長の無量寿院の建立,それにまつわる浄妙寺の建立
|29 基経の極楽寺の建立と,その発願の動機
|30 法性寺の建立,楞厳院の由来,そして道長の絶大な運勢の礼讃
|31 二人の翁が,深い共感をもって,道長の治世のすばらしさ,たのもしさを語る
|32 法成寺金堂供養の翌日の道長の一族の宮たちの参詣姿の美々しさ
|33 盛儀をのぞき見する三人の乳母を,叱りもせず,のろける道長
|34 金堂供養の盛儀を拝観して,河内の聖人が道心を深める
|35 彰子受戒の噂が立ち,それを踏まえての世継夫妻のユーモラスな会話
|36 嬉子の懐妊と寛子の病気,それにつけての翁たちの回想
|37 世継の翁,禎子に関しての夢想を語る
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最晩年の光悦書画巻(その五)- [光悦・宗達・素庵]

(その五)草木摺絵新古集和歌巻(その五・業平朝臣)

(3-3)

花卉三の三.jpg

花卉摺下絵新古今集和歌巻(部分) 本阿弥光悦筆 (3-3)
MOA美術館蔵 紙本墨画 金銀泥摺絵 一巻 縦34.1㎝ 長907.0㎝

花卉三の三の一.jpg

花卉摺下絵新古今集和歌巻(部分) 本阿弥光悦筆 (3-3-1)

 ここは、「花卉摺下絵新古今集和歌巻」の次の歌が揮毫されている。

(思ふには忍ぶることぞ)まけにける逢ふにしかへばさもあらばあれ

釈文
(おも婦尓ハ忍流事曽)ま気尓介る逢尓し可へバ左も安ら半安連(『書道芸術第十八巻 本阿弥光悦』)

この前半部分の(おも婦尓ハ忍流事曽)は、前の「限りなく結び置きつる草枕いつこのたびを思ひ忘れん」(謙徳公)の後に書かれていて、この「3-3-1図」には出てこない。

    題知らず  
思ふには忍ぶることぞ負けにける逢ふにしかへばさもあらばあれ(業平朝臣「新古今」1151)
(あなたを思う心には、秘めて耐えていることのほうが負けてしまいました。今は逢うこととひきかえに、できるならば、命はどのようになってもかまいません。)

 この「花卉摺下絵新古今集和歌巻」では、詞書(題知らず)と作者名(業平朝臣)は書かれていないが、最晩年の「草木摺絵新古集和歌巻」では、それらも書かれている。
 この歌は、『伊勢物語』(六五段)に出てくるものである。

http://ise-monogatari.hix05.com/4/ise-065.arihara.html

【むかし、おほやけおぼして使う給ふ女の、色ゆるされたるありけり。大御息所とていますがりけるいとこなりけり。殿上にさぶらひける在原なりける男の、まだいと若かりけるを、この女あひしりたりけり。男、女方ゆるされたりければ、女のある所に来てむかひをりければ、女、いとかたはなり、身も亡びなむ、かくなせそ、といひければ、
  思ふにはしのぶることぞ負けにける逢ふにしかへばさもあらばあれ
といひて曹司におり給へれば、例の、この御曹司には、人の見るをも知らでのぼりゐければ、この女、思ひわびて里へゆく。
(昔、天皇が御寵愛になって召しつかわれた女で、禁色を許された者があった。大御息所としておいでになられたお方の従妹であった。殿上に仕えていた在原という男で、まだたいそう若かった者を、この女は愛人にしていた。男は、宮殿内の女房の詰所に出入りを許されていたので、女のところに来て向かい合って座っていたところ、女が、とてもみっともない、身の破滅になりますから、そんなことはやめなさい、と言ったので、男は
  あなたを思う心に忍ぶ心が負けてしまいました、あなたに会える喜びにかえられれば、どうなってもよいのです
と読んだ。(そして女が)曹司に下ると、例の男は、この曹司に、人目を憚らずについて来たので、この女は、困り果てて実家に帰ったのだった。)  】『伊勢物語』(六五段)

 『本阿弥行状記』(中巻・一三八段)にも、次のような記述がある。

【 『本阿弥行状記』(中巻・一三八段)   

本朝物語の類

 源氏物語 伊勢物語(作者不詳) つれつれ艸(兼好) 枕草紙(清少納言) かけろふ
 日記(道綱母) 栄花物語(赤染衛門) さころも 三鏡 世継

凡おのおの才ある女の作にて、中々やはらかに文法の據なきもの也。然るに我朝の物語は淫楽の謀となりて、見るも物うしとて毎度学者の申さるゝ所可笑。孔子の撰みたまふ詩経にも、面々の風儀淫楽の事おほくのせあり。かなか、真字かのかはりめにて、勧善懲悪のいましめならずや。和文は見る所幽玄に、廻り遠きが如し。漢文は漢字にて義理とけ易し。此かはりめを学者のわけざる不届なる。 】(『本阿弥行状記と光悦(正木篤三著)』)

 ここに出てくる「和文は見る所幽玄に」の「幽玄」は、俊成の歌論の「幽玄」そして「もののあわれ」を踏まえてのものであろう。光悦は、日本の古典の、「和歌」そして「本朝物語」について精通していたことと、「仮名文字」そして「真名文字」などに関して、書家として一家言を有していたこととが、これらのことからも十分に覗える。

(追記メモ)


在原業平(ありわらのなりひら) 天長二~元慶四(825-880) 通称:在五中将

平城天皇の孫。阿保親王の第五子。母は桓武天皇の皇女伊都内親王。兄に仲平・行平・守平などがいる。紀有常女(惟喬親王の従妹)を妻とする。子の棟梁・滋春、孫の元方も勅撰集に歌を収める歌人である。妻の妹を娶った藤原敏行と親交があった。系図
阿保親王が左遷先の大宰府から帰京した翌年の天長二年(835)に生れる。同三年(826)、兄たちは臣籍に下り、在原姓を賜わる。仁明天皇の承和八年(841)、右近衛将監となる。同十二年、左近衛将監。同十四年(847)頃、蔵人となる。嘉祥二年(849)、従五位下に叙される。しかし仁明天皇が崩じ、文徳天皇代になると昇進は停まり、以後十三年間にわたり叙位に与らなかった。清和天皇の貞観四年(862)、ようやく従五位上に進み、以後、左兵衛権佐・左兵衛佐・右馬頭・右近衛権中将などを経て、元慶三年(879)頃、蔵人頭の重職に就任する(背後には二条后藤原高子(たかいこ)の引き立てがあったと推測される)が、翌年五月二十八日、卒去した。五十六歳。最終官位は従四位上。
文徳天皇の皇子惟喬親王に仕える。同親王や、高子のサロンで詠んだ歌がある。また貞観十七年(875)、藤原基経の四十賀に歌を奉った。
『三代実録』には「体貌閑麗、放縦不拘、略無才覚、善作倭歌」とある。『伊勢物語』の主人公は業平その人であると古くから信じられた。ことに高子や伊勢斎宮との恋を描く段、東下りの段などは名高い。家集『在原業平集』(『在中将集』)があり、これは古今集・後撰集・伊勢物語・大和物語から業平関係の歌を抜き出して編集したものと考えられている(成立は西暦11世紀初め頃か)。六歌仙・三十六歌仙。古今集の三十首を始め勅撰入集は八十六首。

勅撰集より四十八首、『業平集』より一首、『定家八代抄』より一首、計五十首を選び出した。歌本文は新編国歌大観に拠り、表記もなるべく底本に従うようにしたが、読みやすさを考慮して仮名を漢字に改めた場合がある(特に詞書についてはその例が多い)。

    題しらず
思ふには忍ぶることぞ負けにける逢ふにしかへばさもあらばあれ(新古1151)
【通釈】あなたを慕う気持には、人目を憚る気遣いが負けてしまった。逢うことと引き換えにするのなら、どうなろうと構うものか。
【補記】新古今集では「逢ふ恋」の歌群に置かれ、逢瀬に身の破滅さえ賭けて惜しまぬ心情の歌となる。新古今集がこれを業平作としたのは、伊勢物語に主人公の歌として出て来るからで、実際には古今集よみ人しらず歌(下記参考歌)の改作転用であることが明らかである。伊勢物語六十五段、二条后との痛切な後日譚。

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最晩年の光悦書画巻(その四)- [光悦・宗達・素庵]

(その四)草木摺絵新古集和歌巻(その四・謙徳公)

(3-2)

西行・花卉3-2.jpg

花卉摺下絵新古今集和歌巻(部分) 本阿弥光悦筆 (3-2)
MOA美術館蔵 紙本墨画 金銀泥摺絵 一巻 縦34.1㎝ 長907.0㎝

(3-2-1)

花卉3-2-1.jpg

花卉摺下絵新古今集和歌巻(部分) 本阿弥光悦筆 (3-2-1)

「花卉摺下絵新古今集和歌巻」(3-2図)は「儀同三司母と謙徳公」の二首が揮毫されていた、その後半の部分図(3-2-1図)が、「謙徳公」の歌である。

   忍びたる女をかりそめなる所に率(ゐ)てまかりて、
   朝に遣はしける
限りなく結び置きつる草枕いつこのたびを思ひ忘れん(謙徳公「新古今」1149)
(いつまでもと約束して置いてきた旅寝の枕よ。いつ今度の旅を忘れようか。)

(釈文)
可幾里なく無須日を幾徒流草枕い津こ乃多日を思忘連牟(『書道芸術第十八巻 本阿弥光悦』)

 謙徳公(藤原伊尹:924-972)は、貞信公(藤原忠平:880-949)の孫である。そして、謙徳公の三男が、藤原義孝(954-974)で、この三人は、「百人一首」にその名を列ねている。

026 小倉山峰の紅葉は心あらば今ひとたびのみゆ待たなむ(貞信公「百人一首」)

045 あはれともいふべき人は思ほえで 身のいたづらになりぬべきかな(謙徳公「百人一首」)

050 君がため惜しからざりし命さへ長くもがなと思ひけるかな(藤原義孝「百人一首」)


百人一首歌人系図(藤原氏)
http://kitagawa.la.coocan.jp/data/100keizu02.html

藤原道長系図.jpg

 この貞信公(藤原忠平:880-949)の直系が、摂関政治の中枢であると同時に「百人一首」の主流でもある。

051 かくとだにえやは伊吹のさしも草 さしも知らじな燃ゆる思ひを(藤原実方「百人一首」)

052 明けぬれば暮るるものとは知りながら なほ恨めしきあさぼらけかな(藤原道信「百人一首」)

055 滝の音は絶えて久しくなりぬれど 名こそ流れてなほ聞こえけれ(大納言公任「百人一首」)

064 朝ぼらけ宇治の川霧たえだえにあらはれわたる瀬々の網代木(権中納言定頼「百人一首」)

 光悦の「和歌に関する鋭い感覚、深い鑑賞能力は、古今伝授家など足元に及ばない」(『日本の美術№460 光悦と本阿弥流の人々(河野元昭編集・執筆)』「鼎談 江戸文化をコーディネートした光悦」の「河野元昭」発言)と、光悦自身「自分は和歌は下手だ」と言っているニュアンス(『本阿弥行状記』)と関連させて、言及している。
 これらのことに関しての『本阿弥行状記』(中巻・一三六段)に、次のように記述されている。

【 『本阿弥行状記・中巻・一三六段』
和歌は本朝よの始りて今に絶せず。下々までも取扱ふことなり。我は歌を詠ずる事はしらずといへども、地下の歌詠達の申さるゝは、新古今は花が実に過て手本にならず。それより前の古今集、千載集などこそ手本にはなる、と申さるゝにつきて、しらぬながら心をとめて、古今集を始め、二十一代集を凡に見侍りしに、しひて新古今集ばかり花が実に過候と申は愚眼にはとまらず。能々考るに、新古今は詩にて申さば、晩唐の風儀にも叶い申べきか、中々今時の浮薄の人の手本にしたりとも、詠ることにも存ぜられず、しかれども頓阿、逍遥院殿の歌集を見候へば、甚だ新古今の詠かたに能似候やうに被存候。此新古今は撰者五人ありといへども、専ら後鳥羽院の思召にで御撰のもの故、五人の撰者そこそこの集故、自然と花実に過候と申計り、誰いふとなく世に申侍りし思はれ候か。また後代の歌仙良経公、俊成卿、西行、家隆卿、慈鎮、定家卿この人々末代の人丸と被存。此衆のある故に、今に歌相応地下までも詠ることかとぞんじられ候。 】(『本阿弥行状記と光悦(正木篤三著)』)

  これらのことからしても、光悦の、この「花卉摺下絵新古今集和歌巻」と「草木摺絵新古集和歌巻」の背景になっている『新古今和歌集』の「巻十二と巻十三(恋歌)」の流れと、「百人一首」の「貞信公(026)→謙信公(045)→藤原義孝(050)」、そして、それに続く、「藤原実方(051)→藤原道信(052)→大納言公任(055)→権中納言定頼(064)」の流れについては、これらを揮毫する光悦の脳裏にあったと解することは、これは、これまた、自然の流れのように思われる。

(追記メモ一)

https://www.ogurasansou.co.jp/site/hyakunin/045.html

謙徳公(けんとくこう。924~972)

生前の名前を藤原伊尹(ふじわらのこれただ)といい、右大臣師輔(もろすけ)の長男です。娘が冷泉天皇の女御となり、花山天皇の母となったため、晩年は摂政・太政大臣にまで昇進しました。自邸が一条にあったので「一条摂政」と呼ばれます。和歌所の別当として、当時の和歌の名手を集めた梨壺の五人(清原元輔・紀時文・大中臣能宣・源順・坂上望城)を率いて、後撰集の選定に関わりました。才色兼備の貴公子だったようです。建徳公はおくり名です。

「拾遺集」の詞書には「もの言ひはべりける女の、つれなくはべりて、さらに逢はずはべりけれ」とあり、言い寄った女性がだんだん冷たくなって逢ってもくれなくなったから詠んだんだそうです。言い寄った女性に嫌われたから、誰も私を可哀想だと言ってくれない、ああ、このままむなしく死んでしまうのだよ、と嘆いているようですね。失恋の痛手に嘆く優男の風情で、ひょっとしたら母性本能をくすぐられる男なのかもしれません。

実はこの歌の作者、謙徳公は才色兼備の相当な風流貴公子だったようです。この人が「ああ、このまま嘆き悲しんで私は死んでしまうのだろうか」なんて言ったら、周りの女性が「ああ、なんてことでしょう」とわっと騒ぎたてたことでしょう。母性本能をかき立てるどころか、美男特有のパフォーマンスだったのかもしれませんね。でも今の世の中、本当にちょっとしたことで世の中に絶望して犯罪に走るとか、閉じこもってしまうことも多いですね。確かにストレスの多い世の中ですが、男性も女性も一度くらいの失恋でくよくよせずに、独り身のイイ男イイ女はいっぱい世の中に余っているのですから。明るくいきましょう。

(追記メモ二)

http://www.asahi-net.or.jp/~SG2H-YMST/yamatouta/sennin/koremasa.html

藤原伊尹(ふじわらのこれまさ(-これただ)) 延長二~天禄三(924-972) 通称:一条摂政 諡号:謙徳公

右大臣師輔の長男。母は贈正一位藤原盛子(藤原経邦女)。兼通・兼家・為光・公季(いずれも太政大臣)は弟。恵子女王を室とし、懐子(冷泉院女御)・義孝・義懐らをもうける。書家として名高い行成は孫。
天慶四年(941)二月、従五位下に叙せられ、同年四月、昇殿を許される。同五年十二月、侍従。その後右兵衛佐を経て、天暦二年(948)正月、左近少将となり、同年二月には蔵人に補せられる。同九年、中将。同十年、蔵人頭に任ぜられたが、この地位を争った藤原朝成(あさひら。定方の子)に恨まれ、子孫にまで祟られたと言う(『大鏡』)。天徳四年(960)八月、参議に就任し、三十七歳にして台閣に列した。康保四年(967)正月、中納言・従三位。同年十二月、さらに権大納言となる。安和二年(969)、むすめ懐子所生の師貞親王(のちの花山天皇)が皇太子になると、以後は急速に昇進。同年大納言、天禄元年(970)右大臣と進み、同年五月には摂政に就いた。同二年十一月、太政大臣正二位となったが、翌年の天禄三年十一月一日、薨じた。四十九歳。贈一位、参河国に封ぜられ、謙徳公の諡を賜わる。
天暦五年(951)、梨壺に設けられた撰和歌所の別当に任ぜられ、『後撰集』の編纂に深く関与した。架空の人物「大蔵史生倉橋豊蔭」に仮託した歌物語的な部分を含む家集『一条摂政御集』がある。『大鏡』にもこの家集の名が見え、歌才が賞讃されている。後撰集初出。勅撰入集三十七首。小倉百人一首にも歌を採られている。
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最晩年の光悦書画巻(その三) [光悦・宗達・素庵]

(その三)草木摺絵新古集和歌巻(その三・儀同三司母)

(3-2)

西行・花卉3-2.jpg

花卉摺下絵新古今集和歌巻(部分) 本阿弥光悦筆 (3-2)
MOA美術館蔵 紙本墨画 金銀泥摺絵 一巻 縦34.1㎝ 長907.0㎝

 これは、「草木摺絵新古集和歌巻」のものではなく、「花卉摺下絵新古今集和歌巻」の「儀同三司母と謙徳公」の二首である。
 この一首目(儀同三司母)の歌は、次のものである。

     中関白通ひ初め侍りけるころ
1149 忘れじのゆく末まではかたければ今日を限りの命ともがな(儀同三司母「新古今」)
(忘れまいといわれる将来までは頼みにすることはむずかしいことだから、逢いえた今日を最後とする命であってほしいものだ。)

(釈文)わ須禮じ濃行須衛ま天ハ難介連ハ今日を限濃以乃知とも可那(『書道芸術第十八巻 本阿弥光悦』)

 この儀同三司母の歌が、「草木摺絵新古集和歌巻」の巻頭の西行の二首(3-1図)に続くものである。そこでは、「詞書と作家名」も書かれている。
 西行の二首は、『新古今和歌集』の「巻第十二」「恋歌二」の巻尾の二首で、この「巻第十二」は、「ひとり心に秘めて人を恋いつづける思いの苦しさを詠んだ作を収めている」の比して、この儀同三司母の一首が巻頭になっている「巻第十三」は、「恋人と契を結んだころの、心の新しいせつなさの歌からはじめて、逢ったことを秘めようとする歌、逢う夜を待つ苦しみの歌、後朝の別れをする嘆き歌、相手の冷淡さへの恨みの歌などを配し、流れとしては、契って知った恋の苦しみのしだいに深まり、複雑微妙になっていく過程を基調としている」(『日本古典文学全集26 新古今和歌集(峯村文人校注・訳)』)と、同じ、「恋歌」でも、微妙に異なっている世界を詠出しているのが、この西行の歌から儀同三司母の歌への流れの背景にあるということが、一つのポイントになって来るであろう。
 それよりも、この儀同三司母の一首は、「小倉百人一首」(藤原定家撰)にも採られていることは特記して置く必要があろう。

054  忘れじの行く末(ゆくすゑ)までは難(かた)ければ 今日(けふ)を限りの命ともがなわ(儀同三司母「百人一首」)

(追記メモ一) 

https://www.ogurasansou.co.jp/site/hyakunin/054.html

 それにしても、この歌は技巧を好んだ新古今集の中には珍しいほど技巧をこらさず、素直に自分の想いを描いた歌です。後世の歌人たちは、この歌を「くれぐれ優しき歌の体(ほんとうに優しい歌だ)」と評価しました。愛される幸福の中に、将来へのかすかな不安を感じとる。それがこの歌のストレートなメッセージを深いものにしているようです。

 この歌の作者・儀同三司母は清少納言らが仕え、女性文芸サロンとして有名な中宮定子の母親です。さぞや華やかな幸せに包まれていたでしょう。しかし夫の死後、息子の伊周が恋した女性の家に夜な夜な通う男を不審に思い、兄弟で待ち伏せして矢を射たところ、それは先の天皇・花山院でした。花山院は女性の妹のもとに通っていたのです。この事件は時の権力者・藤原道長によって謀反の嫌疑を掛けられます。この事件で一族は失脚し、彼女の晩年も不遇でした。栄華を極めた貴族の没落ですが、ある意味歌の不安は当たったのかもしれません。

(追記メモ二)

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/kisi_t.html

高階貴子(たかしなのきし(-たかこ)) 生年未詳~長徳二(996) 通称:儀同三司母(ぎどうさんしのはは) 高内侍(こうのないし)

 高階氏は長屋王の末裔と伝わる。式部大輔従三位高階成忠の娘。兄弟に左中弁明順(あきのぶ)・弾正少弼積善(もりよし。すぐれた漢詩人で『本朝麗藻』の編者)がいる。中関白藤原道隆の妻。伊周(これちか)・隆家・定子らの母。伊周の号「儀同三司」から、儀同三司母(ぎどうさんしのはは)と称される。
 円融天皇の内侍となり、高内侍(こうのないし)と呼ばれる。その後、藤原道隆の妻となる。正暦三年(990)、正三位。長徳元年(995)に夫が死去し、同二年伊周・隆家が左遷されるに及び、中関白家は没落。同年十月、失意の内に没した。
 漢詩を能くしたという。勅撰集入集は5首(拾遺集との重出歌を載せる金葉集三奏本の1首を除く)。女房三十六歌仙。小倉百人一首にも歌をとられている。

    中関白かよひそめ侍りけるころ
忘れじの行末まではかたければ今日をかぎりの命ともがな(新古1149)
【通釈】あなたは「いつまでもおまえを忘れまい」と言うけれど、先々まではそれも難しいので、いっそ、この上なく幸せな今日を限りの命であったらよい。
【語釈】◇中関白(なかのかんぱく) 作者の夫、藤原道隆(953-995)。兼家の子で、道長の兄。正暦元年(990)、関白となる。◇忘れじの 私を忘れまいとのあなたの約束が。「忘る」は恋歌では「気にかけなくなる」「捨てる」といった意味で用いられる。◇かたければ (約束が守られることは)難しいので。◇今日をかぎりの 今日を最後とする。◇命ともがな 命であってほしい。「もがな」は願望をあらわす助辞。奈良時代「もがも」であったのが、「もがな」に変じ、「も・がな」という二語として意識されるようになった。
【補記】この歌は藤原公任の「前十五番歌合」や編者不詳の「麗花集」に採られるなど早くから高い評価を受けていたが、平安期の勅撰集には採られず、新古今集に至って初めて入撰した。新古今では巻十三(恋歌三)の巻頭を飾っている。
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最晩年の光悦書画巻(その二) [光悦・宗達・素庵]

(その二)草木摺絵新古集和歌巻(その二・西行法師)

(1-2)

新古今2-1 (2).jpg

草木摺絵新古今集和歌巻(部分) 静嘉堂文庫蔵

(2-1)

新古今2-1.jpg

草木摺絵新古今集和歌巻(部分) 静嘉堂文庫蔵  本阿弥光悦筆
(『もっと知りたい本阿弥光悦―生涯と作品―(玉蟲敏子他著)』)
(以下の「歌の表記・歌意などは『日本古典文学全集26 新古今和歌集(峯村文人校注・訳)』に因る)

1147 なにとなくさすがに惜しき命かなあり経(へ)ば人や思ひ知るとて(西行「新古今」)
(惜しくはないと思うものの、なんとなく、やはり惜しく思われる命であることよ。生きて過ごしているならば、人もわたしの心がわかってくれるかと思って)

1148 思ひ知る人ありあけの世なりせばつきせず身をば恨みざらまし(西行「新古今」)
(わたしの心がわかってくれる人のある世で、この有明け月のある夜であるとしたならば、月に、このようにつきないで身も恨むことはないであろうに。)

この「草木摺絵新古今集和歌巻」は、その巻末の、「寛永十年」(一六三三)」の年紀と「鷹峯隠士大虚庵齢七十有六」の署名から、光悦が亡くなる(没年時の年齢=八十歳)四年前の、最晩年の作品ということが分かる。
 この作品の料紙は、「紙本の上に金泥のみの摺絵をほどこし、晩年の光悦書に特徴的な「震え」のある書風を見せている(『玉蟲他・前掲書』)。
 また、この摺絵模様(「躑躅、藤、立松、忍草、蔦、雌日芝」の木版模様)は、「慶長期の金銀泥摺絵のものと異なり、いわゆる『光悦謡本』の雲英摺(きらずり)下絵に見出されることでも注目される」(『玉蟲他・前掲書』)と、例えば、下記の「花卉摺下絵新古今集和歌巻」
(MOA美術館蔵)とは、明らかに異なっている。

(3-1)

西行・花卉一 .jpg

花卉摺下絵新古今集和歌巻(部分) 本阿弥光悦筆 (3-1)
17世紀初め、MOA美術館蔵 紙本墨画 金銀泥摺絵 一巻 縦34.1㎝ 長907.0㎝
具引き、すなわち胡粉を塗って整えた料紙に、梅、藤、竹、芍薬、蔦などの四季の花卉を金銀泥で摺り、「新古今集和歌集」巻十二、十三から選んだ恋歌21首を書写する。起筆の文字を大きく濃くしるし、高低、大小の変化をつけた散らし書きのリズムが心地よい。末尾に署名はなく「光悦」の黒印のみを捺している。背面は松葉文様を摺り、紙継ぎに「紙師宗二」印を記す。(『もっと知りたい本阿弥光悦―生涯と作品―(玉蟲敏子他著)』)

 この「花卉摺下絵新古今集和歌巻」は、慶長十年(一六〇五)前後の作品とされ(『玉蟲他・前掲書』)、光悦の四十八歳前後に制作されたものということになる。そして、この和歌巻の巻頭と巻尾、そして、上記の西行の歌は、次のものである。

(巻頭)
1139 袖の上にたれゆゑ月は宿るぞとよそになしても人問へかし(藤原秀能「新古今」)
(十番目)
1147 なにとなくさすがに惜しき命かなあり経(へ)ば人や思ひ知るとて(西行「新古今」)
(巻尾)
1160 枕だに知らねばいはじ見しままに君語るなよ春の夜の夢(和泉式部「新古今」)

 すなわち、この「花卉摺下絵新古今集和歌巻」の十番目に書かれている西行の歌(3-1図)と、冒頭の「草木摺絵新古今集和歌巻」の巻頭に書かれている西行の歌(2-1図)とは、同一の歌、すなわち、「1147 なにとなくさすがに惜しき命かなあり経(へ)ば人や思ひ知るとて」の一首なのである。
 しかし、同一の歌を揮毫しているのだが、この「花卉摺下絵新古今集和歌巻」では、歌の作家名と詞書とは省略されていて、冒頭の「草木摺絵新古今集和歌巻」では、作家名と詞書まで書かれているという相違がある。
 ここで、「花卉摺下絵新古今集和歌巻」(光悦の四十八歳前後の作品)と「草木摺絵新古今集和歌巻」(光悦の七十六歳時の作品)とを、『玉蟲他・前掲書』により比較すると、次のようなことになる。

一 「花卉摺下絵新古今集和歌巻」では、「『新古今集和歌集』巻十二、十三から選んだ恋歌21首を書写する」のに対して、「草木摺絵新古今集和歌巻」では、「巻十二恋歌二の終わり二首、巻十三恋歌三の巻頭から十三首を選んで記す」の十五首で、六首少ないのだが、前者が「縦34.1㎝ 長907.0㎝」に比し、後者は「縦35.8㎝ 長957.2㎝」で、長さがやや長いということになる。これは、後者が「作歌名と詞書」まで書いていることに因るものと解せられる。

二 「花卉摺下絵新古今集和歌巻」の書風は、「起筆の文字を大きく濃くしるし、高低、大小の変化をつけた散らし書きのリズムが心地よい」に対して、「草木摺絵新古今集和歌巻」では、「震えを帯びた細い線が所々に見出され、年紀どおり最晩年の書風を示している」と、好対照をなしている。

三 「花卉摺下絵新古今集和歌巻」の、「具引き、すなわち胡粉を塗って整えた料紙に、梅、藤、竹、芍薬、蔦などの四季の花卉を金銀泥で摺り」に対して、「草木摺絵新古今集和歌巻」では、「四季順に、躑躅(つつじ)、藤、立松、忍草、蔦(つた)、雌日芝(めひしば)の木版模様を並べ、金泥や金砂子をほどこした」のとおり、「木版模様」の違いと、前者が「金銀泥で摺り」に比して、後者は「金泥や金砂子」を施しており、より肉筆画風の装いをしている。

四 「花卉摺下絵新古今集和歌巻」では、「署名はなく『光悦』の黒印のみを捺している」に比して、「草木摺絵新古今集和歌巻」では、「巻末には『鷹峯隠士大虚庵齢七十有六』の署名と『光悦』の黒印がある」とのとおり、やはり、後者は「齢七十有六」という光悦の感慨が伝わってくる。

五、この「『齢七十有六』という光悦の感慨」は、この「草木摺絵新古今集和歌巻」の、巻頭の西行の二首からも伝わってくる。

1147 なにとなくさすがに惜しき命かなあり経(へ)ば人や思ひ知るとて(西行「新古今」)
1148 思ひ知る人ありあけの世なりせばつきせず身をば恨みざらまし(西行「新古今」)

(追記メモ)

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/saigyo.html

西行 元永元~建久元(1118~1190) 俗名:佐藤義清 法号:円位

藤原北家魚名流と伝わる俵藤太(たわらのとうた)秀郷(ひでさと)の末裔。紀伊国那賀郡に広大な荘園を有し、都では代々左衛門尉(さえもんのじょう)・検非違使(けびいし)を勤めた佐藤一族の出。父は左衛門尉佐藤康清、母は源清経女。俗名は佐藤義清(のりきよ)。弟に仲清がいる。
年少にして徳大寺家の家人となり、実能(公実の子。待賢門院璋子の兄)とその子公能に仕える。保延元年(1135)、十八歳で兵衛尉に任ぜられ、その後、鳥羽院北面の武士として安楽寿院御幸に随うなどするが、保延六年、二十三歳で出家した。法名は円位。鞍馬・嵯峨など京周辺に庵を結ぶ。出家以前から親しんでいた和歌に一層打ち込み、陸奥・出羽を旅して各地の歌枕を訪ねた。久安五年(1149)、真言宗の総本山高野山に入り、以後三十年にわたり同山を本拠とする。仁平元年(1151)藤原顕輔が崇徳院に奏上した詞花集に一首採られるが、僧としての身分は低く、歌人としても無名だったため「よみびと知らず」としての入集であった。五十歳になる仁安二年(1167)から三年頃、中国・四国を旅し、讃岐で崇徳院を慰霊する。治承四年(1180)頃、源平争乱のさなか、高野山を出て伊勢に移住、二見浦の山中に庵居する。文治二年(1186)、東大寺再建をめざす重源より砂金勧進を依頼され、再び東国へ旅立つ。途中、鎌倉で源頼朝に謁した。
七十歳になる文治三年(1187)、自歌合『御裳濯河歌合』を完成、判詞を年来の友藤原俊成に依頼し、伊勢内宮に奉納する。同じく『宮河歌合』を編み、こちらは藤原定家に判詞を依頼した(文治五年に完成、外宮に奉納される)。文治四年(1188)俊成が撰し後白河院に奏覧した『千載集』には円位法師の名で入集、十八首を採られた。最晩年は河内の弘川寺に草庵を結び、まもなく病を得て、建久元年(1190)二月十六日、同寺にて入寂した。七十三歳。かつて「願はくは花の下にて春死なんその如月の望月の頃」と詠んだ願望をそのまま実現するかの如き大往生であった。
生涯を通じて歌壇とは距離を置き、当時盛行した歌合に参席した記録は皆無である。大原三寂と呼ばれた寂念・寂超・寂然とは若年の頃より交流があり、のち藤原俊成や慈円とも個人的に親交を持った。また、待賢門院堀河を始め待賢門院周辺の女房たちと親しく歌をやりとりしている。家集には自撰と見られる『山家集』、同集からさらに精撰した『山家心中集』、最晩年の成立と見られる小家集『聞書集(ききがきしゅう)』及び『残集(ざんしゅう)』がある。また『異本山家集』『西行上人集』『西行法師家集』などの名で呼ばれる別系統の家集も伝存する(以下「西行家集」と総称)。勅撰集は詞花集に初出、新古今集では九十五首の最多入集歌人。二十一代集に計二百六十七首を選ばれている。歌論書に弟子の蓮阿の筆録になる『西行上人談抄』があり、また西行にまつわる伝説を集めた説話集として『撰集抄』『西行物語』などがある。

「西行はおもしろくて、しかも心もことに深くてあはれなる、有難く出来がたき方も共に相兼ねて見ゆ。生得の歌人と覚ゆ。これによりておぼろげの人のまねびなんどすべき歌にあらず、不可説の上手なり」(『後鳥羽院御口伝』)。

「和歌はうるはしく詠むべきなり。古今集の風体を本として詠むべし。中にも雑の部を常に見るべし。但し古今にも受けられぬ体の歌少々あり。古今の歌なればとてその体をば詠ずべからず。心にも付けて優におぼえん其の風体の風理を詠むべし」
「大方は、歌は数寄の深(ふかき)なり。心のすきて詠むべきなり」(「深」を「源」とする本もある)
「和歌はつねに心澄むゆゑに悪念なくて、後世(ごせ)を思ふもその心をすすむるなり」(『西行上人談抄』)。
 
「西行法師常に来りて物語して云はく、『我歌を詠むは、遥かに尋常に異なり。花・ほととぎす・月・雪、すべて万物の興に向ひても、凡そ所有相皆是虚妄なること、眼に遮り耳に満てり。又詠み出すところの言句は、皆是真言にあらずや。花を詠めども実(げ)に花と思ふことなく、月を詠ずれども実に月と思はず。只此の如くして縁に随ひ興に随ひ詠み置くところなり。(中略)此の歌即ち是如来の真の形体なり。されば一首詠み出でては一体の仏像を造る思ひをなし、一句を思ひ続けては秘密の真言を唱ふるに同じ。我此の歌によりて法を得ることあり。もしここに至らずして妄(みだ)りに人此の道を学ばば、邪路に入るべし』と云々」(『明恵上人伝記』)。
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最晩年の光悦書画巻(その一) [光悦・宗達・素庵]

(その一)草木摺絵新古集和歌巻(その一・序)

(1-1)

新古今1-1.jpg

草木摺絵新古今集和歌巻(部分)
寛永10年(1633)10月27日 静嘉堂文庫蔵
紙本墨書 金泥摺絵 一巻 縦35.8㎝ 長957.2㎝
四季順に、躑躅(つつじ)、藤、立松、忍草、蔦(つた)、雌日芝(めひしば)の木版模様を並べ、金泥や金砂子をほどこした下絵に、巻十二恋歌二の終わり二首、巻十三恋歌三の巻頭から十三首を選んで記す。巻末には「鷹峯隠士大虚庵齢七十有六」の署名と「光悦」の黒印がある。震えを帯びた細い線が所々に見出され、年紀どおり最晩年の書風を示している。
(『もっと知りたい本阿弥光悦―生涯と作品―(玉蟲敏子他著)』)

 この「草木摺絵新古今集和歌巻」の巻頭は、右の図の「西行法師」の一首で、その巻末(左の図)は、「馬内侍(うまのないし)」の一首のようである。

「草木摺絵新古今集和歌巻」の巻頭の一首(上記の「右図」)

1147 なにとなくさすがに惜しき命かなあり経ば人や思ひ知るとて(西行「新古今」)

「草木摺絵新古今集和歌巻」の巻軸の一首(上記の「左図」)

1161 忘れても人に語るなうたた寝の夢見てのちも長からじ世の(馬内侍)

 ここで、『もっと知りたい本阿弥光悦―生涯と作品―(玉蟲敏子他著)』で触れられている、「光悦書画巻」に関する基本的なデータを整理して置きたい・

紙本墨書

書・画・文書(もんじょ)などの紙に書かれたもの。「本」には「質」(材質)の意味があり、たとえば「紙本墨書」といえば、紙に墨で書かれた書あるいは文書、「紙本着色」は、紙に描かれた着彩画であることを示す。ほかに、紙本淡彩、紙本金地着色、紙本版画など、技法を表すことばと組み合わせて、おもに美術作品や歴史資料の材質を示すのに用いられることが多い。紙本に対して、絹に書かれたものを絹本(けんぽん)という。また、同じ絹でも繻子(しゅす)織の一種で、光沢のある絖(ぬめ)に書いたものを、とくに絖本(こうほん)とよんでいる。[松原 茂](「日本大百科全書(ニッポニカ)」)

金泥と砂子

砂子(すなご)は粗密各種類の網を張った竹筒に切廻し箔を入れ粒状にした後,再び竹筒に入れ棒などで竹筒をたたいて画面に落としてゆく技法で,装飾効果を高めるためのものである。泥(でい)は箔をつくる際に出る切廻し箔などを練り合わせたもので,金泥は膠で練り,火の上で焼きつけては溶きかえすという作業をくり返しながら使うと美しい発色が得られる。また金泥を塗った後,貝殻や動物の牙などで上面をこすり,輝きを増したりもする。
(「世界大百科事典 第2版」)

摺絵

白地の布に染料をすりつけて模様を出すこと。また、その模様や絵。染草ですり出した布の絵模様もいう。(「精選版 日本国語大辞典」)

巻物・巻頭・巻軸(巻末・巻尾)(「精選版 日本国語大辞典」)

巻物(巻子本)=書画や文章などを書いた横に長い紙を表装して、軸に巻いたもの。巻軸。横巻。巻子本。巻文。

巻頭
① 巻き物、書物、雑誌などのはじめの部分。巻首。
② 歌会、歌集などで最初の歌。また、連歌、俳諧で最初の発句。普通千句の第一番目の百韻の発句。
③ 巻中で、最も優れた詩歌や句。

巻軸
① 文書や書画などを巻き物にしたもの。また、その文書や絵。巻子(かんす)本。まきもの。
② 巻き物の、軸に近い終わりの部分。書物などの終わりの部分。巻尾。
③ 巻き物や書物の中の、すぐれた詩歌や句。一巻の中での、秀逸な文句。すぐれた部分。

料紙

書きものをするための紙。平安時代に上流社会で多くの紙が消費されるようになると、料紙は詩歌を美しく書くため、さらに紙質が重んじられるようになり、美意識の対象となった。なかでも奈良時代からの染め紙は色紙(しきし)として形式化され、美しくしかも薄く漉(す)ける流し漉きの技法と染色技術が組み合わさって、打曇(うちぐもり)(内曇)、飛雲(とびくも)、羅文紙(らもんし)などの漉き模様紙や、金、銀の砂子(すなご)、切箔(きりはく)、野毛(のげ)などによる加工紙、また墨流(すみなが)し、切り継(つ)ぎ、破り継ぎ、重ね継ぎなどの技法による継ぎ紙など、多種多様の料紙が工芸美術として発達した。これらは書道の発展とも関連して、現在までに多くの傑作が残されている。[町田誠之](「日本大百科全書(ニッポニカ)」)

新古今和歌集(抜粋)

歌数約2000首。仮名序藤原良経作、真名序藤原親経(ちかつね)作(ただしいずれも後鳥羽院の立場で執筆)。春、夏、秋、冬、賀、哀傷、離別、羇旅(きりょ)、恋1~5、雑(ぞう)上中下、神祇(じんぎ)、釈教の部立(ぶだて)よりなる。八代集中、秋歌が春歌に対して著しく多いのも特色であり、また『千載集(せんざいしゅう)』以後『新続(しんしょく)古今集』を除き、神祇、釈教両部は先後の別こそあれ連続して配されているが、最後の巻20が釈教部となるのは『新古今集』のみであり、後の承久(じょうきゅう)の悲運もこの配列のゆえとまでいわれた。作者は、拾遺群歌人と千載群歌人とに大別され(風巻(かざまき)景次郎による)、歌群の交替と歌人群の交替との巧みな組合せ、各歌群内における配列美により、一首一首の美とともに配列の美による歌境が展開される。作者としては、数のうえからは、撰集時代もしくはやや前の時代の歌人が重んぜられており、西行(さいぎょう)94、慈円92、良経79、俊成(しゅんぜい)72、式子(しょくし)内親王49、定家46、家隆43、寂蓮35、後鳥羽院33、俊成卿女(しゅんぜいきょうのむすめ)29、雅経22、有家19、通具17等がみられ、古い時代の歌人では、貫之(つらゆき)32、和泉式部(いずみしきぶ)25、人麻呂(ひとまろ)23等がみられる。[後藤重郎] (「日本大百科全書(ニッポニカ)」)

本阿弥光悦(抜粋)

https://nenpyou-mania.com/n/jinbutsu/10303/%E6%9C%AC%E9%98%BF%E5%BC%A5%E5%85%89%E6%82%A6

本阿弥 光悦(ほんあみ こうえつ、永禄元年(1558年) - 寛永14年2月3日(1637年2月27日))は、江戸時代初期の書家、陶芸家、芸術家である。書は寛永の三筆の一人と称され、その書流は光悦流の祖と仰がれる。また、陶芸、漆芸、出版、茶の湯などにも携わったマルチアーティストとしてその名を残す。

(「画像」は、上のアドレスの通り。)

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「鹿下絵新古今集和歌巻」逍遥(その二十九) [光悦・宗達・素庵]

その二十九 最終章(徳有斎光悦、そして「新古今和歌集」に連なる歌人たち)

鹿下絵十二.JPG
「鹿下絵新古今和歌巻(全体図の十四「藤原家隆・徳有斎光悦」(『書道芸術第十八巻本阿弥光悦(中田勇次郎責任編集)』)

シアトル・徳有斎光悦.jpg
「鹿下絵新古今集和歌巻断簡(「徳有斎光悦(花押)」(シアトル美術館蔵))

28 藤原家隆朝臣:にほの海や月の光のうつろへば波の華にも秋は見えけり
(釈文)和哥所乃哥合尓、湖邊濃月といふ事を ふ地ハら乃家隆朝臣
尓保濃海や月乃光濃う徒ろへ盤波濃華尓も秋盤見え介利
                      徳有斎光悦(光悦)

淡海の海夕波千鳥汝(な)が鳴けば心もしのにいにしへ思ほゆ(柿本人麻呂『万葉集』)
にほてるや凪ぎたる朝に見わたせばこぎ行く跡の浪だにもなし(西行『拾玉集』)
ほのぼのとあふみの海を漕ぐ舟の跡なきかたにゆく心かな(慈円『拾玉集』)
鳰の海や月のひかりのうつろへば浪の花にも秋は見えけり(藤原家隆『新古今集』)
鳰のうみやけふより春にあふさかの山もかすみて浦風ぞ吹く(藤原定家「堀河院題百首」)
比良の山やま風さむきからさきのにほのみづうみ月ぞこほれる(源実朝『金槐和歌集』)
鳰の海や霞のうちにこぐ船のまほにも春のけしきなるかな(式子内親王『新勅撰集』)
鳰の海や秋の夜わたるあまを船月にのりてや浦つたふらん(俊成卿女(『玉葉集』)
四方より花吹(ふき)入(いれ)てにほの波(芭蕉「洒落堂記」)
行(ゆく)春を近江の人と惜しみけり(芭蕉『猿蓑』)
先づ頼む椎の木も有り夏木立(芭蕉『猿蓑』「幻住庵記」)
病(やむ)雁の夜寒に落ちて旅寝かな(芭蕉『猿蓑』)
海士(あま)の屋は小海老にまじるいとゞ哉(芭蕉『猿蓑』)
辛崎の松は花より朧にて(芭蕉『野ざらし紀行』)

 「鹿下絵新古今集和歌巻」の揮毫者・本阿弥光悦が、『千載和歌集』の撰者・藤原俊成に関心を寄せていたことは、「四季草花下絵千載集和歌巻」(畠山記念館蔵)や「千載和歌集序」(MIHO MUSEUM蔵)など、さらに、から、『本阿弥光悦行状記』の「三七五段 歌道の伝来は紀貫之基俊成と」などから、その一端が察知される。
 西行については、『本阿弥光悦行状記』の中に、「一三三段 西行法師行脚のとき」「三〇一段 西行法師江口の里に休らひ」「「三三二段 西行撰集抄長明発心集つれづれ草」などがあり、法華宗の信徒であると同時に、京都の王朝文化に深い関わり合いを持つ光悦にとって、浄土宗・真言密教の出家僧でもある北面武士上がりの西行は、俊成以上に親近感がある人物であったように思われる。 
 その上で、この「鹿下絵新古今集和歌巻」のスタートが、所謂「三夕の歌」(寂蓮法師=「361寂しさは―」・西行法師=「362心なき―」・定家=「363見渡せば―」)の、その二番手の西行の「362心なき―」を、巻頭に持ってきたということは、これは一に掛かって、本阿弥光悦の、『新古今和歌集』のこの西行の歌に、一入の思い入れの深かったことを示唆しているであろう。

362 心なき身にもあはれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮(西行「新古今」)

そして、そのゴールの巻軸の歌は、「後鳥羽院・俊成・定家」などの西行に匹敵する名の歌人の一首ではなく、定家が若手の一番手とすると二番手・藤原家隆の、この「389 にほの海や―」なのである。 

389 にほの海や月の光のうつろへば波の花にも秋は見えけり(家隆「新古389」)

 この家隆の一首の初句の「にほの海や」とくると、ここは、最晩年の西行と若き日の慈円との比叡山無動寺(大乗院)での「贈答歌」の、西行の「にほてるや―」の歌が想起されてくる。即ち、この「鹿下絵新古今集和歌巻」は、西行の「三夕の歌」の一首で始まり、そして、西行の最晩年の「にほの海」(近江・琵琶湖)の一首を背景とする家隆の歌をもってゴールとしているということになる。

(『拾玉集(慈円著)の「西行と慈円の「贈答歌」)

   円位上人(西行)無動寺へ登りて大乗院の
   放出(はなちいで)に湖を見やりて
にほてるやなぎたる朝に見わたせば漕ぎゆく跡の浪だにもなし
   帰りなんとて、朝のことにてほどありしに、
  「今は歌と申すことは思ひ絶えたれど、結句
   をばこれにてこそつかうまつるべかりけれ」
   とてよみたりしかば、ただに過ぎがたくて
   和しに侍りし
ほのぼのとあふみの海を漕ぐ舟の跡なきかたにゆく心かな

 「にほの海」(鳰の海・淡海の海・琵琶湖)を代表する歌は、まぎれもなく、次の人麻呂の歌ということになる。この歌の「派生歌」は多い。

淡海の海夕波千鳥汝(な)が鳴けば心もしのにいにしへ思ほゆ(柿本人麻呂『万葉集』)

(派生歌)

風はやみとしまが崎を漕ぎゆけば夕なみ千鳥立ちゐ鳴くなり (源顕仲『金葉集』)
近江路や野嶋が崎の浜風に夕波千鳥立ちさわぐなり (藤原顕輔『風雅集』)
遠ざかる潮干のかたの浦風に夕波たかく千鳥鳴くなり (藤原為経『新後撰集』)
難波潟夕浪たかく風立ちて浦半の千鳥跡も定めず (西園寺実衡『続千載集』)
風さむみ夕波高きあら磯にむれて千鳥の浦つたふ也 (北条政村『続後拾遺集』)
和歌の浦の夕波千鳥立ちかへり心をよせしかたに鳴くなり (賢俊『新千載集』)
塩風に夕波たかく声たててみなとはるかに千鳥鳴く也 (藤原隆教『新千載集』)
鳴海潟夕波千鳥立ちかへり友よひつきの浜に鳴く也 (厳阿『新後拾遺』)

 柿本人麻呂は、「六条藤家」の「人麿影供」の儀式化の如く「歌聖(歌の神)」として崇められている。そして、「和歌→連歌→俳諧」と時代は下って、徳川幕藩体制下の「元禄時代」(江戸中期)に「俳聖・芭蕉」の時代が現出した。
 この俳聖・芭蕉は、「歌聖(歌の神)・人麻呂」ではなく、「歌の聖(ひじり)・西行」の崇拝者であった。

「西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休の茶における、其(その)貫道する物は一(いつ)なり。」(『笈の小文』)

 「西行・宗祇・雪舟・利休」は、「中世の諸芸道の聖(ひじり)」である。この「貫道する物」とは、芭蕉にとって、俊成の「幽玄」に通ずる「わび」「さび」の世界であった。
 芭蕉は、これらの「中世の諸芸道の聖(ひじり)」の辿った道、中でも、放浪の歌人・西行たちの足跡(歌枕)を生涯に亘って踏査し続けた。

(辛崎=近江八景→「唐崎夜雨」)

辛崎の松は花より朧にて(芭蕉『野ざらし紀行』)
唐崎の浜のまさごの尽くるまで春の名残は久しからなむ(清原元輔「新勅撰集」)
辛崎やにほてる沖にくも消えて月の氷に秋風ぞ吹く(九条=藤原良経「続後撰集」)

(堅田=近江八景→堅田落雁)

病(やむ)雁の夜寒に落ちて旅寝かな(芭蕉『猿蓑』)
海士(あま)の屋は小海老にまじるいとゞ哉(芭蕉『猿蓑』)
終(つい)にまた憂き名や立たん逢ふ事はさても堅田の浦のあだ波(高階宗成「続拾遺」)

(「大津・膳所・義仲寺」、義仲寺=木曽義仲と芭蕉の墓がある。幻住庵=曲翠の庵)

先づ頼む椎の木も有り夏木立(芭蕉『猿蓑』「幻住庵記」)
とゞこほる時もあらじな近江なる陪膳(おもの)の浜の海士のひつぎは(平兼盛「拾遺集)

(「琵琶湖=淡海(近江)の海=鳰の海=志賀の湖、「志賀の都」=「近江京・近江大津宮」
が嘗て在った所)

四方より花吹(ふき)入(いれ)てにほの波(芭蕉「洒落堂記」)
行(ゆく)春を近江の人と惜しみけり(芭蕉『猿蓑』)
淡海の海夕波千鳥汝(な)が鳴けば心もしのにいにしへ思ほゆ(柿本人麻呂『万葉集』)
にほてるや凪ぎたる朝に見わたせばこぎ行く跡の浪だにもなし(西行『拾玉集』)
ほのぼのとあふみの海を漕ぐ舟の跡なきかたにゆく心かな(慈円『拾玉集』)
鳰の海や月のひかりのうつろへば浪の花にも秋は見えけり(藤原家隆『新古今集』)
鳰のうみやけふより春にあふさかの山もかすみて浦風ぞ吹く(藤原定家「堀河院題百首」)
比良の山やま風さむきからさきのにほのみづうみ月ぞこほれる(源実朝『金槐和歌集』)
鳰の海や霞のうちにこぐ船のまほにも春のけしきなるかな(式子内親王『新勅撰集』)
鳰の海や秋の夜わたるあまを船月にのりてや浦つたふらん(俊成卿女(『玉葉集』)
※さゞざ波や志賀の都は荒れにしを昔ながらの山桜かな(よみ人知らず=平忠度『千載集』)

 この末尾に添えた「さゞざ波や―」の一首は、平忠盛の六男で清盛の腹違いの末弟・平忠度の歌である。この歌は、寿永二年(一一八三)に木曽義仲に追い立てられた平家一門が都落ちする時に、忠度が歌の師の俊成に今生の別れを告げる、その時の一首である(『平家物語』)。
 この平忠度の歌は、文部省唱歌の「青葉の笛(参考)」(一番=「平敦盛」、二番=「平忠度」)の、その「二番=平忠度」に、「わが師(俊成)に託せし言の葉(和歌)あわれ」と歌われている。
 ここで、「志賀の都」(今の滋賀県大津市に置かれた天智天皇の都)を介して、「人麿→西行→俊成→忠度→家隆→定家→木曽義仲→芭蕉」が一線上に連なってくる。
そして、この「保元の乱→平治の乱→以仁王の乱→義仲恭兵・入京・敗死→一の谷・屋島・壇ノ浦の戦い→平氏滅亡→鎌倉幕府と源氏の抬頭」の時代と、光悦の時代の「織田信長の入京(光悦=十一歳)→本能寺の変(光悦=二十五歳)→豊臣秀吉没(光悦=四十一歳)→関ヶ原の戦い(光悦=四十三歳)→徳川家康征夷大将軍(光悦=四十六歳)→古田織部自決と光悦鷹が峰移住(光悦=五十八歳)→徳川家康没(光悦=五十九歳)→徳川秀忠・・角倉素庵没(光悦=七十五歳)→島原の乱・光悦没(光悦=八十歳)」とは、日本の歴史の大きな変革の時代であった。
それが故に、光悦筆の数ある和歌巻の中で、一際、「新古今和歌集」と「千載和歌集」との和歌巻が目立つのは、光悦の好尚に因るものだけではなく、より光悦をして、それらを制作せしめた必然的な時代史的な背景が横たわっていることを実感する。そして、同時に、この「鹿下絵新古今和歌和歌巻」こそ、それらの最も中枢に位置するもと解したい。

(参考)

文部省唱歌「青葉の笛」(作詞:大和田建樹、作曲:田村虎蔵)

1 一の谷の軍(いくさ)破れ
  討たれし平家の公達(きんだち)あわれ → 熊谷次郎直実に討たれた「平敦盛」
  暁寒き須磨(すま)の嵐に
  聞こえしはこれか 青葉の笛
2 更くる夜半に門(かど)を敲(たた)き
  わが師に託せし言(こと)の葉あわれ →「わが師」=「わが=忠度」「師=俊成」
  今わの際(きわ)まで持ちし箙(えびら)に
  残れるは「花や今宵」の歌 →「行き暮れて木の下蔭を宿とせば花や今宵の主(あるじ)ならまし」→『平家物語(巻第九)』「忠度最期」→平忠度の「辞世の歌」

(追記一)西行が死にゆく義仲に捧げた歌四首

http://www.st.rim.or.jp/~success/kisoY_ye.html

【西行の聞書集の中に、「地獄絵を見て」という一連の歌が並んでいる。どこまでが「地獄絵を見て」なのかは、不明だが、この続きに死んでゆく木曾義仲に捧げたと見られる歌が四首並んでいる。(以下、「詞書」等=略。「聞書集」は定家が西行の歌を聞き書きしたもので、西行の連歌など貴重な情報が満載している。)

1 歌  朝日にやむすぶ氷の苦はとけむ六つの輪を聞くあかつきの空
(歌意:朝日が昇ってきた。これで氷結した氷のような苦しみも氷解してゆくのだろうか。暁の空に錫杖の音がどこからともなく聞こえて来る。)

2 歌 死出の山越ゆるたえまはあらじかしなくなるひとのかずつづきつつ
(歌意:戦によって死出の山路を越えて行く人がなくなるということはないのであろうか。今日もまたそこかしこで戦で人が死んだという話を聞くにつけて。)

3 歌 しずむなる死出の山がわみなぎりて馬筏もやかなわざるらむ
(歌意:人が沈んでゆく。川が死出の山となって濁流に武者たちが次々と呑まれてゆくのだよ。馬筏もこの流れには敵わないと見えて。)

4 歌 木曾人は海のいかりをしずめかねて死出の山にも入りにけるかな
(歌意:木曾に育った武者はついに大海の怒りを静めることができず、死出の山路を越えることになったのだろうか。) 】

(追記二)光悦の庵号「大虚庵」と「徳有斎」の一つの覚書き

  世にあらじと思ひける頃、東山にて、
人々霞によせて思ひをべるけりに
そらになる心は春の霞にて世にあらじとも思ひたつかな(西行『山家集』「春歌」)

http://sanka11.sakura.ne.jp/sankasyu3/26.html

【「(そら)は空・虚の字に当たる。「世にあらじ」と遁世を思い立つ心は、霞のように茫漠として焦点の定まらない心理状態で表現されている。それは 佐藤一族の棟梁としての苦悩であり、荘園問題の重圧に疲れた虚脱状態だろう。」 (高橋庄次「西行の心月輪」より抜粋) 】

 本阿弥光悦を継承する孫の「本阿弥光甫」のの姓号は「空中(くうちゅう)軒」である。これからすると、「大虚庵(たいきょあん)=大空庵(たいくうあん)」と解して、「虚(そら)=空(くう)」が呼応してくるであろう。
 その「大虚庵」に対する「徳有斎」については、「大虚庵」が、光悦の五十八歳時の「鷹が峰移住・芸術村の経営」以後の晩年の「庵号」とすると、「徳有斎」は、それ以前の「上京区小川今出川・本阿弥辻子」の「斎(とき=斎食=精進料理)号」のようにも解せられる。
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「鹿下絵新古今集和歌巻」逍遥(その二十八) [光悦・宗達・素庵]

その二十八 藤原家隆朝臣

鹿下絵十一の二.jpg
「鹿下絵新古今和歌巻(全体図の十三「源頼政・藤原重家・藤原家隆」(『書道芸術第十八巻本阿弥光悦(中田勇次郎責任編集)』)

鹿下絵・シアトル十四.jpg
「鹿下絵新古今集和歌巻断簡(「藤原家隆」(シアトル美術館蔵))

28 藤原家隆朝臣:にほの海や月の光のうつろへば波の華にも秋は見えけり(シアトル)
(釈文)和哥所乃哥合尓、湖邊濃月といふ事を ふ地ハら乃家隆朝臣
尓保濃海や月乃光濃う徒ろへ盤波濃華尓も秋盤見え介利

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/ietaka_t.html

    和歌所歌合に、湖辺月といふことを
にほの海や月の光のうつろへば波の花にも秋は見えけり(新古389)
【通釈】琵琶湖の水面に月の光が映れば、秋は無縁と言われた波の花にも、秋の気色は見えるのだった。
【語釈】◇にほの海 琵琶湖の古称。◇波の花 白い波頭を花に見立てた。下記本歌を踏まえる。


藤原家隆  保元三~嘉禎三(1158-1237)

良門流正二位権中納言清隆(白河院の近臣)の孫。正二位権中納言光隆の息子。兼輔の末裔であり、紫式部の祖父雅正の八代孫にあたる。母は太皇太后宮亮藤原実兼女(公卿補任)。但し尊卑分脈は母を参議藤原信通女とする。兄に雅隆がいる。子の隆祐・土御門院小宰相も著名歌人。寂蓮の聟となり、共に俊成の門弟になったという(井蛙抄)。
安元元年(1175)、叙爵。同二年、侍従。阿波介・越中守を兼任したのち、建久四年(1193)正月、侍従を辞し、正五位下に叙される。同九年正月、上総介に遷る。正治三年(1201)正月、従四位下に昇り、元久二年(1205)正月、さらに従四位上に進む。同三年正月、宮内卿に任ぜられる。建保四年(1216)正月、従三位。承久二年(1220)三月、宮内卿を止め、正三位。嘉禎元年(1235)九月、従二位。同二年十二月二十三日、病により出家。法号は仏性。出家後は摂津四天王寺に入る。翌年四月九日、四天王寺別院で薨去。八十歳。
文治二年(1186)、西行勧進の「二見浦百首」、同三年「殷富門院大輔百首」「閑居百首」を詠む。同四年の千載集には四首の歌が入集した。建久二年(1191)頃の『玄玉和歌集』には二十一首が撰入されている。建久四年(1193)の「六百番歌合」、同六年の「経房卿家歌合」、同八年の「堀河題百首」、同九年頃の「守覚法親王家五十首」などに出詠した後、後鳥羽院歌壇に迎えられ、正治二年(1200)の「後鳥羽院初度百首」「仙洞十人歌合」、建仁元年(1201)の「老若五十首歌合」「新宮撰歌合」などに出詠した。同年七月、新古今集撰修のための和歌所が設置されると寄人となり、同年十一月には撰者に任ぜられる。同二年、「三体和歌」「水無瀬恋十五首歌合」「千五百番歌合」などに出詠。元久元年(1204)の「春日社歌合」「北野宮歌合」、同二年の「元久詩歌合」、建永二年(1207)の「卿相侍臣歌合」「最勝四天王院障子和歌」を詠む。建暦二年(1212)、順徳院主催の「内裏詩歌合」、同年の「五人百首」、建保二年(1214)の「秋十五首乱歌合」、同三年の「内大臣道家家百首」「内裏名所百首」、承久元年(1219)の「内裏百番歌合」、同二年の「道助法親王家五十首歌合」に出詠。承久三年(1221)の承久の変後も後鳥羽院との間で音信を絶やさず、嘉禄二年(1226)には「家隆後鳥羽院撰歌合」の判者を務めた。寛喜元年(1229)の「女御入内屏風和歌」「為家卿家百首」を詠む。貞永元年(1232)、「光明峯寺摂政家歌合」「洞院摂政家百首」「九条前関白内大臣家百首」を詠む。嘉禎二年(1236)、隠岐の後鳥羽院主催「遠島御歌合」に詠進した。
藤原俊成を師とし、藤原定家と並び称された。後鳥羽院は「秀哥ども詠み集めたる多さ、誰にもすぐまさりたり」と賞讃し(御口伝)、九条良経は「末代の人丸」と称揚したと伝わる(古今著聞集)。千載集初出。新勅撰集では最多入集歌人。勅撰入集計二百八十四首。自撰の『家隆卿百番自歌合』、他撰の家集『壬二集』(『玉吟集』とも)がある。新三十六歌仙。百人一首にも歌を採られている。『京極中納言相語』などに歌論が断片的に窺える。また『古今著聞集』などに多くの逸話が伝わる。

「家隆卿は、若かりし折はきこえざりしが、建久のころほひより、殊に名誉もいできたりき。哥になりかへりたるさまに、かひがひしく、秀哥ども詠み集めたる多さ、誰にもすぐまさりたり。たけもあり、心もめづらしく見ゆ」(後鳥羽院御口伝)。
「かの卿(引用者注:家隆のこと)、非重代の身なれども、よみくち、世のおぼえ人にすぐれて、新古今の撰者に加はり、重代の達者定家卿につがひてその名をのこせる、いみじき事なり。まことにや、後鳥羽院はじめて歌の道御沙汰ありける比、後京極殿(引用者注:九条良経を指す)に申し合せまゐらせられける時、かの殿奏せさせ給ひけるは、『家隆は末代の人丸にて候ふなり。彼が歌をまなばせ給ふべし』と申させ給ひける」(古今著聞集)。

「鹿下絵新古今集和歌巻」逍遥ノート(その二十六)

 第八勅撰集『新古今和歌集』の二大歌人は、「今」=「当代」を代表する歌人として「藤原定家と藤原家隆」、「古」=「当代以前」を代表する歌人として「西行と藤原俊成(釈阿)」が挙げられるであろう。
 『新古今和歌集』の入集数ですると、「定家=四十六首」「家隆=四十三首」、そして、「西業=九十四首」「俊成(釈阿)=七十二首」で、「寄人(和歌所職員)」「撰者」として「俊成・定家・家隆」が、その名を列ねている。
 これが、第七勅撰集『千載和歌集』になると、撰者は「藤原俊成」一人、その入集数の多い順から記すと、「俊頼=五十二首、俊成=三十六首、基俊=二十六首、崇徳院=二十三首、俊恵=二十二首、和泉式部=二十一首、道因・清輔=二十首、円位(西行)=十八首」となり、「定家と家隆」は、「定家=八首」「家隆=四首」と一桁台となってくる。
 その「家隆=四首について、下記に列挙して置きたい。

350 さえわたるひかりを霜にまがえて月にうつろふ白菊の花(家隆「千載」)
(冴え冴えと遍満する光を霜に見間違えたか、月光に色変をしてゆく白菊の花よ。)

536 旅寝する須磨の浦路のさ夜千鳥声こそ袖の波はかけけれ(家隆「千載」)
(須磨の海辺の道に旅寝をすると、夜中に鳴く千鳥の声は、私の袖に波をかけることだよ。)

749 暮にとも契りてたれか帰るらん思ひ絶えたるあけぼの空(家隆「千載」)
(暮にまた逢おうと契って帰るのは一体誰だろうか。自分はすっかり思いあきらめてしまった、憂きかぎりのこのこの曙の空だよ。)

1005 いかにせむさらで憂き世はなぐさまずたのめし月も涙落ちけり(家隆「千載」)
(一体どうしたらよかろう。そうでなくてもこの憂き世は慰められない。慰められるかと期待した月も涙が落ちるばかりだ。)

 この家隆の四首目の前の歌は、定家の次の一首である。

1004 山深き松のあらしを身にしめてたれか寝覚めに月を見る覧(らん)
(深山の松に吹く烈風を、その身に深く浸み通らせて、誰かが今、寝覚めして月を見ていることか。)

『千載和歌集』が成ったのは、文治三年(一一八七)で、この時には、定家、二十五歳、そして、家隆、二十九歳の頃であった。定家を後継者として目している『千載和歌集』の撰者・俊成は、この若き二人に、次の時代を託していたのであろう。
 そして、それは、元久二年(一二〇五)の、『新古今和歌集』の「竟宴」(勅撰集の撰進が終わったあとで催される披露宴=天皇親撰の証)で、この二人が、この親撰の立役者・太上天皇(後鳥羽院)の両翼となって結実することになる。
 この太上天皇(後鳥羽院)が巻軸の歌となって、「俊成・西行・長明・家隆・定家」などが連なっている歌群が「巻十 羇旅歌」に収載されている。

976 世の中は憂きふししげし篠原や旅にしあれば妹(いも)夢に見ゆ(俊成「新古今」)
(世の中は辛いことがらが多い。篠原で寝る旅にいるので、妻が夢に見える。)

978 世の中をいとふまでこそ難(かた)からめ仮の宿をも惜しむ君かな(西行「新古今」)
(悩み多い世の中を嫌って出家するというまでは難しいであろうが、かりそめの宿を貸すことさえも惜しむ君であることよ。)

980 袖に吹けさぞな旅寝の夢も見じ思ふ方より通ふ浦風(定家「新古今」)
(わたしの袖を吹いてくれ。さだめし旅寝の夢を見ないであろうから。恋しく思う人の方から吹き通ってくる浦風よ。)

981 旅寝する夢路はゆるせ宇津の山関とは聞かず守(も)る人もなし(家隆「新古今」)
(旅寝して見る夢の通い路は許してくれ。宇津の山よ。ここが関だとは聞いていないし、関守もいないのだ。)

983 袖にしも月かかれとは契り置かず涙は知るや宇津の山越え(長明「新古今」)
(袖にこのように月が映れとは、月に約束していない。そのことを、涙は知っているのか。宇津の山越えよ。)

987 年たけてまた越ゆべしと思ひきや命なりけりさやの中山(西行「新古今」)
(年老いて再び越えることができると思ったろうか。思いはしなかった。命があったからなのだ。佐夜の中山よ。))

988 思ひ置く人の心にしたはれて露分(わ)くる袖のかへりぬるかな(西行「新古今」)
(故郷に思いを残して来ている人が心に恋しく思われ、野の露を分けていく旅衣も、色あせ、ひるがえっては、故郷を慕い、帰る風情を見せていることよ。)

989 見るままに山嵐荒くしぐるめり都も今は夜寒なるらん(太上天皇「新古今」)
(見ているうちに、山嵐が荒くなって、しぐれてくるようだ。都も、今は、夜寒となっているのであろう。)

ここで、冒頭の家隆の「にほの海や」の一首に戻りたい。

にほの海や月の光のうつろへば波の花にも秋は見えけり(家隆「新古389」)

 『新古今和歌集』には、「にほの海」(琵琶湖)を初句とする歌は、この一首だけである。
そして、この家隆の一首は、西行の最晩年の歌境を示したと認められる、慈円の『拾玉集』の、西行と慈円との、比叡山無動寺で琵琶湖を見ながら詠んだ、次の「贈答歌」と呼応していることを、この家隆の歌の鑑賞の一端に記して置きたい。

   円位上人(西行)無動寺へ登りて大乗院の
   放出(はなちいで)に湖を見やりて
にほてるやなぎたる朝に見わたせば漕ぎゆく跡の浪だにもなし
   帰りなんとて、朝のことにてほどありしに、
  「今は歌と申すことは思ひ絶えたれど、結句
   をばこれにてこそつかうまつるべかりけれ」
   とてよみたりしかば、ただに過ぎがたくて
   和しに侍りし
ほのぼのとあふみの海を漕ぐ舟の跡なきかたにゆく心かな

「風の凪いた朝、山から鳰の海を老若二人の僧が見はるかにしている。漕ぎ去ってゆく舟の航路も見えない。浪もない。西行はたしかに「無」を見ている。がしかしそれは、風景として明鏡止水である以上に、心境として欣求浄土の浄土そのものではないか。西行の内なる『心』はふかく揺るがされている。『無』が『浄土』と一致していることに感動している。西行は慈円に言った。
―『歌というものを詠むことは今は思い絶っているのですが、わが生涯の結びの歌はここでこそ詠むべきだと感じました。これがその一首です』―
 それを受けた慈円は大先輩西行に向かって詠みかける。
―『ほのぼのと明るみかけた近江の湖(うみ)を漕ぎ去ってゆく、その舟跡は消えてなくなった方へとあなたの心は向かうのですね』― 」
                      (『岩波新書 西行(高橋秀夫著)』))

 この老若二人の僧(西行と慈円)の贈答歌は、そっくり、老若二人の歌人(西行と家隆)の次の贈答歌という雰囲気を漂わせている。

にほてるやなぎたる朝に見わたせば漕ぎゆく跡の浪だにもなし(西行「拾玉集」)
  かへし
にほの海や月の光のうつろへば波の花にも秋は見えけり(家隆「新古389」)
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「鹿下絵新古今集和歌巻」逍遥(その二十七) [光悦・宗達・素庵]

その二十七 大宰大弐重家

鹿下絵十一の二.jpg
「鹿下絵新古今和歌巻(全体図の十三「源頼政・藤原重家・藤原家隆」(『書道芸術第十八巻本阿弥光悦(中田勇次郎責任編集)』)

鹿下絵・シアトル十三.jpg
「鹿下絵新古今集和歌巻断簡(「藤原重家」(シアトル美術館蔵))

27 大宰大弐重家:月みればおもひぞあへぬ山高みいずれの年の雪にか有乱
(釈文)法性寺入道前関白太政大臣家尓、月哥安ま多よ見侍介る尓
月見禮半おも日曽安へぬ山高三い徒禮能年濃雪尓可有乱

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/sigeie.html

   法性寺入道前関白太政大臣家に、月の歌あまたよみ侍りけるに
月見れば思ひぞあへぬ山たかみいづれの年の雪にかあるらむ(新古388)
【通釈】山に射す月の光を見れば、どうしてもそれとは思えない。高い山にあって、万年雪が積もっているので、いつの年に降った雪かと思うのだ。
【語釈】◇思ひぞあへぬ 月光だと思おうとしても、思うことができない。◇いづれの年の雪 和漢朗詠集の「天山不便何年雪 画っぽ王命給費珠」(天山は便へ図何れの年の雪ぞ。合浦には迷ひぬべし旧日の珠)を踏まえる。白じらと冴える月光を雪に見立てている。

藤原重家  大治三~治承四(1128-1180)

 もとの名は光輔。六条藤家顕輔の子。清輔の弟。季経の兄。経家・有家・保季らの父。
諸国の守・刑部卿・中宮亮などを歴任し、従三位大宰大弐に至る。安元二年(1176)、出家。法名蓮寂(または蓮家)。治承四年十二月二十一日没。五十三歳。
 左京大夫顕輔歌合・右衛門督家成歌合・太皇太后宮大進清輔歌合・太皇太后宮亮経盛歌合・左衛門督実国歌合・建春門院滋子北面歌合・広田社歌合・九条兼実家百首などに出詠。また自邸でも歌合を主催した。兼実家の歌合では判者もつとめている。兄清輔より人麿影像を譲り受けて六条藤家の歌道を継ぎ、子の経家に伝えた。詩文・管弦にも事蹟があった。
『歌仙落書』に歌仙として歌を採られる。自撰家集『大宰大弐重家集』がある。千載集初出。

「鹿下絵新古今集和歌巻」逍遥ノート(その二十五)

 「従三位頼政」に続き、「従三位大宰大弐重家」の、しかも「法性寺入道前関白太政大臣家」での一首(詞書)を採っているのも、編纂者・撰者などの趣向なのであろう。そして、この「大宰大弐」の役職は、「律令制において西海道の九国二島を管轄し、九州における外交・防衛の責任者で、実権はこの次官の大宰権帥及び大宰大弐に移っている」という、引く手あまたの重要ポストの一つである。
『新古今和歌集』の入集数は、頼政の三首に対して重家は四首であるが、この重家は、「歌の家」の「御子左家」(「俊成・定家」一門)に対する「六条藤家」(「顕季→顕輔→清輔→重家」一門)の四代目の当主である。

(「六条藤家」系図)

六条藤家.jpg

 「六条藤家」は、「六条源家」(「経信→俊頼→俊恵」一門)に対するもので、ここで、「六条源家」・「六条藤家」・「御子左家」の代表的歌人の『新古今和歌集』の入集数などを見てみると次のとおりである。

「六条源家」(俊頼は「御子左家」の俊成の師 「革新派=新風」)
源経信    正二位大納言太宰権帥 十九首
源俊頼(経信の子)従四位上木工権頭 十一首『金葉和歌集』撰者(白河院「下命」)
俊恵(俊頼の子) 東大寺の僧    十二首(「歌林苑」結成)

「六条藤家」(「御子左家(革新派=新風)」に対する「伝統派=古風」=「人麻呂影供」)
藤原顕季      正三位修理大夫    一首
藤原顕輔(顕季の子)正三位左京大夫    六首『詞花和歌集』撰者(崇徳院「下命」)
藤原清輔(顕輔の子)正四位下太皇太后宮大進十二首『続詞華集』撰者(二条院「下命」)
藤原重家(顕輔の子)従三位大宰大弐     四首
顕昭(顕輔の猶子) 法橋          二首(「御子左家」と論争)
藤原有家(重家の子)従三位大蔵卿  十九首『新古今集』撰者(後鳥羽院「下命」)

「御子左家」(「六条藤家(伝統派=旧派)」に対する「革新派=新風」)
藤原俊成  正三位皇太后宮太夫   七十二首『千載集』撰者(後白河院「下命」)
藤原定家(俊成の子)正二位権中納言 四十六首『新古今集』撰者(後鳥羽院「下命」)
寂蓮(俊成の猶子) 和歌所寄人   三十五首『新古今集』撰者(後鳥羽院「下命」)
俊成卿女(俊成の孫)後鳥羽院女房  二十九首

 「六条源家」の歌風などについては、源俊頼が白河院の下命により撰者となった第五勅撰集『金葉和歌集』の成立の背景や評価などを見て行くと参考になる。そして、何よりも、その下命者が、「治天の君」の白河院で、三度目の奏覧を経ても白河院の意向を充たすものではなかったようである。
 六条藤家の藤原清輔の歌論書『袋草紙』では、「ひじつきあるじ」(まがい物の歌集)と揶揄されているようであるが、それは単に、撰者の俊頼の評だけではなく、和歌に関しても一家言を有していた白河院に対するニュアンスも含まれているもののように解せられる。
 白河院は、この『金葉和歌集』の前の第四勅撰集『後拾遺和歌集』(藤原通俊撰)の勅宣者であるが、この時には、俊頼の父の経信が通俊の先輩格の歌人で、この第五勅撰集の撰者を経信の子の俊頼にしたのも、その背景は複雑のようである。
 俊頼の歌論書は『俊頼髄脳』(俊頼口伝)で、これは、第三勅撰集の撰者ともされている藤原公任の『新撰髄脳』を発展させたように解せられる。
そのポイントは、「おほかた、歌の良しといふは、心をさきとして、珍しき節をもとめ、詞をかざり詠むべきなり(=およそ歌がよいと評価されるのは、まず詠む対象に対する感動が第一であり、その感動を表現するときは、どこかに新しい趣向を凝らし、しかも華やかに表現すべきである)」と、「歌の言葉と趣向の働き」ということに力点を置いていることで、これが俊頼の「新しみ」ということになろう。
 この「六条源家」の俊頼の『俊頼髄脳』に対して、「六条藤家」の清輔の歌論書『袋草紙』(四巻・遺編一巻)は、「対内的には作歌上の心得を教示するだけでなく、藤原隆経・藤原顕季・藤原顕輔・藤原清輔にわたる重代の歌人の心構えを説き、対外的には重代の家としての厳しさを強調し、その厳しさに絶えた矜持を誇示することにあった」(「『袋草紙』著述意図に関する一考察・蘆田耕一稿」)との論稿がある(下記のアドレスのとおり)。

https://ir.lib.shimane-u.ac.jp/ja/5390

 この論稿の「藤原隆経・藤原顕季・藤原顕輔・藤原清輔にわたる重代の歌人の心構え」というのは、「六条藤家」の「重代歌人の心構え」として、「人麿影供」(歌聖柿本人麿を神格化し、その肖像を掲げ、その「人麿影供」に和歌を献じることを「歌会=歌の道」の基本とする流儀)の、その「六条藤家」の歌道継承の「人麿影供伝授」のような一家相伝のようなものを内容としている。従って、当然に、「人麿崇拝」は「万葉集崇拝」が、その基調となってくる。
 これは、「人麿影供」の創始者とされている「六条藤家」初代の顕季の子、二代目・顕輔が撰者となった第六勅撰和歌集の『詞華和歌集』(崇徳院下命)、それに続く、三代目・清輔が撰者となった幻の勅撰集(実質は「私撰集」)の『続詞華和歌集』(二条天皇下命、二条天皇崩御)には、「六条源家」そして「御子左家」を「革新派=新風」(「白河院」・「後白河院」風)とするならば、「六条藤家」(「崇徳院」・「二条天皇」風)の、「伝統派=古風」という雰囲気を漂わせている。
 さて、「御子左家」については、その『新古今和歌集』の入集数が、俊成(七十二首)、定家(四十六首)、寂蓮(三十五首)、そして、俊成卿女(二十九首)と、「六条藤家」の歌人群に比して、断トツ群れを抜いている。
 これは、偏に、『新古今和歌集』の勅命の下命者が、俊成門の「後鳥羽院」の意向と見做すのも間違いではなかろうが、それ以上に、例えば、「六条藤家」の顕輔が撰者となった『詞華和歌集』の勅撰の下命者の「崇徳院」も、続く、清輔が撰者となった『続詞華和歌集』の勅撰の下命者「二条天皇」も、若くして「配流」そして「崩御」と「六条藤家」を支えるバックグランドが希薄になってしまったということが、その背景の真相であろう。
 それに引き換えて、「御子左家」の創始者・俊成は、その「六条藤家」の「顕輔・清輔」の『詞華和歌集』・『続詞華和歌集』に続き、「後白河院」の勅撰の命により、第七勅撰集『千載和歌集』の撰者となって、それが雪崩を打って、次の、「後鳥羽院」の第八勅撰集『新古今和歌集』として結実したということになろう。
 この俊成の『千載和歌集』は、俊成の継承者・定家が、その助手を務め、その最多入集歌人は『金葉和歌集』撰者の源俊頼(五十二首)で、俊成自身(三十六首)がそれに次ぎ、続いて、「保元の乱」の敗者である、藤原基俊(二十六首)・崇徳院(二十三首)が続くのである。
 この「源俊頼・藤原基俊」は、俊成の師筋の二人で、その俊頼を筆頭に置いたのは、『千載和歌集』、そして、俊成を祖とする「御子左家」の歌風の基本は、「六条源家」の俊頼の「革新派=新風」を礎にするものということであろう。それ以上に、配流された「崇徳院(二十三首)」は、俊成の、その「鎮魂」の意を込めての勅撰集ということも意味しよう。

(『千載和歌集』1162 崇徳院御製=長歌=『千載集』は『古今集』に倣い「短歌」の表示)
しきしま(敷島)や やまと(大和)のうた(歌)の 
つた(伝)はりを き(聞)けばはるかに 
ひさかた(久方)の あまつかみ(天津神)よ(世)に はじ(始)しまりて
みそもじ(三十文字)あまり ひともじ(一文字)は いづも(出雲)のみや(宮)の
やくも(八雲)より お(を)こりけりとぞ しるすなる
それよりのちは ももくさ(百草)の こと(言)のは(葉)しげく ちりぢりの 
かぜ(風)につけつつ き(聞)こゆれど
ちか(近)きためしに ほりかは(堀河)の なが(流)れをくみて 
さざなみの よ(寄)りくるひと(人)に あつらへて
つたなきこと(事)は はまちどり(浜千鳥) あと(跡)をすゑまで 
とどめじと おも(思)ひなからも
つ(津)のくにの なには(難波)のうら(浦)の なに(何)となく
ふね(舟)のさすがに このこと(事)を しの(忍)びならひし 
なごり(名残)にて よ(世)のひと(人)きき(聞)は はづかしの 
もりもやせむと おも(思)へども こころ(心)にもあらず かき(書)つらねつる

(『千載和歌集』77 白河院御製)
咲きしよりちるまで見れば木(こ)の本に花も日かずもつもりぬるかな
(花が咲きはじめてから散るまでの間眺めていると、木の下にも花も落ち積もり、日数も重なってしまったなあ。)

(『千載和歌集』78 院御製=後白河院御製)
池(いけ)水にみぎはのさくらちりしきて波の花こそさかりなりけれ
(池の水に池畔の桜が一面に散り敷いて、波の花は今がさかりだよ。)

(『千載和歌集』121 二条院御製)
我もまた春とともにやかへらましあすばかりをばこゝにくらして
(弥生尽に一日のこす今日白河殿に来たが、明日もう一日だけここに暮らして、春とともに私もまた去って行くことにしよう。)

(『千載和歌集』122 崇徳院御製)
花は根に鳥はふるすに返(かへる)なり春のとまりを知る人ぞなき
(春が終われば、花は根に、鳥は古巣に帰ると聞いているが、春の行き着く泊りを知っている人はいないことだ。)

(『千載和歌集』124 式子内親王=後白河院皇女)
ながむれば思ひやるべきかたぞなき春のかぎりのゆふぐれの空
(物思いつつ夕空をみつめていると、春の逝かんとするこの名残り惜しい思いをどこに晴らすべきかそのあてもないことだよ。)

(『千載和歌集』178 藤原基俊=俊成の師)
いとゞしくしづの庵のいぶせきに卯花(うのはな)くたしさみだれぞする
(ただでさえ鬱陶しい賎の庵が一層気づまりなのに、垣根の卯の花を腐らして五月雨が降り続くことだ。)

(『千載和歌集』179 源俊頼朝臣=俊成の師、「六条源家」、『金葉集』撰者=第五勅撰集)
おぼつかないつか晴(は)るべきわび人の思ふ心やさみだれの空
(はっきりしないことだ。いつになったら晴れるのだろうか。世を侘びて住む私の心が重苦しい五月雨の空になっていることだ。)

(『千載和歌集』181 左京大夫顕輔=顕輔、「六条藤家」、『詞華集』撰者=第六勅撰集)
さみだれの日かずへぬれば刈りつみししづ屋の小菅くちやしぬらん
(五月雨の降り続く日数が積もり重なって、刈り積んで置いた「賎屋の小菅」も朽ちてしまっただろうか。)

(『千載和歌集』183 皇太后大夫俊成=俊成、「御子左家」、『千載集』撰者=第七勅撰集)
さみだれはたく藻のけぶりうちしめりしほたれまさる須磨の浦人
(五月雨は藻塩を焚く煙まで湿らせて晴れぬ思いをつのらせるよ。日頃より一層しとどに涙の流れてやまぬ須磨の浦の侘び人よ。)

(『千載和歌集』184 藤原清輔朝臣、「六条藤家」、『続詞華集』撰者=私撰集)
ときしもあれ水のみこも刈りあげて干さでくたしつさみだれの空
(時もあろうに、水漬いた水菰を刈りあげたが、五月雨続きの空の下、干す折りもなく腐らせてしまったよ。)

(『千載和歌集』212 俊恵法師、「六条源家」、俊頼の息子)
岩間もる清水をやどにせきとめてほかより夏をすぐしつる哉
(岩間をしたたり落ちる清水を我が宿せ堰きとめて、お陰で暑さ知らずの夏を過ごしたことであった。)

(『千載和歌集』213 顕昭法師、「六条藤家」、顕輔の猶子)
さらぬだにひかり涼しき夏の夜の月を清水にやどりして見る
(それでなくてさえ光の涼しく澄んだ夏の夜の月を清水に映して賞美することだ。)

(『千載和歌集』760 二条院讃岐、源三位頼政の息女)
我が袖は潮干に見えぬ沖の石の人こそ知らぬ乾く間ぞなき
(私の袖は、引き潮の時にも見えない沖の石のように、思う人は知らないでしょうが涙に濡れて乾く間とてありませんよ。)

(『千載和歌集』762 太宰大弐重家=藤原重家、「六条藤家」、顕輔の息子)
恋ひ死なむことぞはかなき渡り河逢ふ瀬ありとは聞かぬものゆへ
(恋い死にをして何の甲斐もないことだ。三途の川には恋人との逢う瀬があるとは聞いていないから。)

(『千載和歌集』765 寂蓮法師、「御子左家」、俊成の猶子)
思ひ寝の夢だに見えて明けぬれば逢はでも鳥の音(ね)こそつらけれ
(恋しい人を思いながら寝ると夢で逢えるというが、その夢にさえ見えないで夜が明けてしまったので、恋人に逢えなくても暁の鳥の声は本当につらいものだよ。)

(『千載和歌集』1004 藤原定家、「御子左家」、俊成の息子、『新古今』撰者=第八勅撰集)
いかにせむさらで憂き世はなぐさまずたのめし月も涙落ちけり
(一体どうしたらよかろう。そうでなくてもこの憂き世は慰められない。慰められるかと期待した月も涙が落ちるばかりだ。)

(『千載和歌集』1005 藤原家隆、『新古今』撰者=第八勅撰集)
山深き松のあらしを身にしめてたれか寝覚めに月を見る覧(らん)
(深山の松に吹く烈風を、その身に深く浸み通らせて、誰かが今、寝覚めして月を見ていることか。)

(『千載和歌集』1150 円位法師=西行)
いずくにか身を隠(かく)さまし厭(いと)出(い)でゝ憂き世に深き山なかりせば
(どこに一体身を隠したらよいのだろう。憂き世を厭離しても深い山がなかったとしたらば。深山があってこそ身を隠すことができるのだ。)

(『千載和歌集』1151 皇太后大夫俊成=釋阿、「御子左家」、『新古今』撰者=第八勅撰集)
世の中よ道こそなけれ思ひ入る山の奥にね鹿ぞ鳴くなる
(世の中よ、ここには憂さから遁れ出る道は無いのだな。深く思いつめて入った山の奥にも、鹿の悲しげな鳴き声が聞こえる。)

(『千載和歌集』1154 藤原有家、「六条藤家」、重家の息子、『新古今』撰者=第八勅撰集)
初瀬山いりあひの鐘を聞くたびに昔の遠くなるぞ悲しき
(初瀬山で入相の鐘を耳にするたびに、父と過ごした昔の遠くなっていくのが悲しい。)

(追記) 『千載和歌集』における俊成の「幽玄」

 俊成が師事した藤原基俊は、その歌合の判詞において「言凡流をへだてて幽玄に入れり。まことに上科とすべし」「詞は古質の体に擬すと雖も、義は幽玄の境に通うに似たり」(「長承三年九月十三日の中宮亮顯輔家歌合」など)を今に残している。
 この基俊の「幽玄論」については、下記のアドレスの「藤原基俊の歌論の意義― 特に俊成の幽玄論成立過程における(稲田繁夫稿)」などが詳しい。

http://naosite.lb.nagasaki-u.ac.jp/dspace/bitstream/10069/31885/1/kyoikuJK00_06_05.pdf

 そこで、「基俊において意識されてみた歌心は『さびしさ』『「あはれさ」であり、『姿さび』『心細し』の境地である、それは公任以来の伝統的なる美意識の深化であり、俊成的幽玄の構造の一半をなすものとして意義があった」としている。
 また、「俊成の幽玄の基調が『もののあはれ』の美意識の深化である静寂美にあったとすると、それは経信、俊頼の系列よりも基俊などの保守派の系譜の上に醸成されて来たやうである」と指摘している。           
 さらに、「中世歌論の本道は俊頼、基俊の二支流から総合化されていったが、その 理念的なものは多く基俊の流れからであり、伝統的な歌境の上に、俊頼の「珍らしき節」ある意匠、興趣が点火された構造機構として成立したものと見ることができうるであらう。俊成の幽玄美が、静寂な、ひそやかな、哀れな情趣が象徴され、 どことなく淋しさや哀れさのこもったほのかな美しさを湛へてゐるのは基俊的なものの発展である」と続けている。
 この論稿のニュアンスからすると、俊成が判詞などで多用する「姿既に幽玄の境に入る」「幽玄にこそ聞え侍れ」「幽玄の体なり」「心幽玄」「風体は幽玄」などの、この「幽玄」のイメージは、『精選版 日本国語大辞典』の、次の記述などが、最も分かり易いように思われる。

【⑥ 日本の文学論・歌論の理念の一つ。①の深遠ではかり知れない意を転用したもので、特に、中古から中世にかけて、詩歌や連歌などの表現に求められた美的理念を表わす語。「もののあわれ」の理念を発展させたもので、はじめは、詩歌の余情のあり方の一つとして考えられ、世俗をはなれた神秘的な奥深さを言外に感じさせるような静寂な美しさをさしたものと思われる。その後、一つの芸術理念として、また、和歌の批評用語として種々の解釈を生み、優艷を基調とした、情趣の象徴的な美しさを意味したり、「艷」や「優美」「あわれ」などの種々の美を調和させた美しさをさすと考えられたりした。また、艷を去った、静寂で枯淡な美しさをさすとする考えもあり、能楽などを経て、江戸時代の芭蕉の理念である「さび」へと展開していった。 】

いとゞしくしづの庵のいぶせきに卯花くたしさみだれぞする(基俊「千載」178)
(この「基俊」の歌は、芭蕉の「髪はえて容顔蒼し五月雨」=「続虚栗」=「さび・わび」に近い。)

おぼつかないつか晴(は)るべきわび人の思ふ心やさみだれの空(俊頼「千載」179)
(この「俊頼」の歌は、芭蕉の「五月雨や桶の輪切(きる)る夜の声」=「一字幽蘭集」=「わび・あだ」に近い。)

さみだれの日かずへぬれば刈りつみししづ屋の小菅くちやしぬらん(顕輔「千載」181)
(この「顕輔」の歌は、芭蕉の「五月雨や蠶(かいこ)煩ふ桑の畑」=「続猿蓑」=「さび・しほり」に近い。)

さみだれはたく藻のけぶりうちしめりしほたれまさる須磨の浦人(俊成「千載」183)
(この「俊成」の歌は、芭蕉の「五月雨の降残してや光堂」=「奥の細道」=「さび・もののび」に近い。)

ときしもあれ水のみこも刈りあげて干さでくたしつさみだれの空(「千載」184)
(この「清輔」の歌は、芭蕉の「さみだれの空吹おとせ大井川」=「真蹟懐紙」=「さび・かるみ」に近い。)
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