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四季草花下絵千載集和歌巻(その十四・十五) [光悦・宗達・素庵]

(その十四・十五) 和歌巻(その十四・十五)

和歌巻13・合成.jpg

「光悦筆 四季草花宗達下絵和歌巻」(日本古典文学会・貴重本刊行会・日野原家蔵一巻)

85 花のちる木のしたかげはをのづからそめぬさくらの衣をぞきる(藤原仲実朝臣)
(花が散る木陰にいると、花びらが身に添うて、おのずから染めない自然の桜襲(さくらかさね)の衣を着ることだよ。)

釈文(記号上の書体)=(「書道芸術第十八巻 本阿弥光悦」)
華濃知る(花のちる)こ乃した陰(木の下陰)ハ(は)を乃づ可ら(自づから)曾免ぬ(染めぬ)左久ら乃(桜の)衣を曾(そ)き流(着る)

※華濃知る(花のちる)=花の散る。
※こ乃した陰(木の下陰)ハ(は)=木の下陰は。
※を乃づ可ら(をのづから)=自づから。
※曾免ぬ(染めぬ)左久ら乃(桜の)=染めぬ桜の。染めない自然の桜襲(さくらかさね)の。春に着る桜襲の色目の衣。表は白、裏は赤花という。
※衣を曾(そ)き流(着る)=衣をぞ着る。

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/nakazane.html

【藤原仲実 (ふじわらのなかざね) 天喜五~元永元(1057-1118) 
藤原式家。越後守能成の息子。母は源則成女。蔵人・三河守・備中守・紀伊守・越前守を経て、正四位下中宮亮に至る。承暦二年(1078)内裏歌合、永保二年(1082)前出雲守経仲歌合、承暦四年(1080)及び永保三年(1083)の篤子内親王侍所歌合、康和二年(1100)宰相中将国信歌合、長治元年(1104)左近衛権中将俊忠歌合、天永元年(1110)帥時家歌合、永久四年(1116)の鳥羽殿北面歌合・六条宰相歌合・雲居寺結縁経後宴歌合などに出詠。「堀河百首」「永久百首」作者。堀河院歌壇の中心メンバーの一人として活躍した。『綺語抄』『古今和歌集目録』『類林抄』などの著がある。金葉集初出。勅撰入集二十三首。  】

86 春をへて花ちらましやをく山の風をさくらの心とおもはば(藤原基俊)
(奥山の風を桜の心と同じものと思うならば、春が過ぎても花の散ることはあるまいに、花は心ならずも風に散るのだよ。)

釈文(記号上の書体)=(「書道芸術第十八巻 本阿弥光悦」)
ハ(は)るをへ天(て)ハ(は)な知(ち)らしまや於久山濃(の)可勢(かぜ)を左久ら(さくら)濃(の)心とおもハ(は)々(ば)

※ハ(は)るをへ天(て)=春をへて。「春をへで」の読みもあり、この読みですると「春も終わらぬのに」の意になる。
※ハ(は)な知(ち)らしまや=花知らましや。花の散ることはあるまい。
※於久山濃(の)可勢(かぜ)=奥山の風。花を散らす奥山の風。
※左久ら(さくら)濃(の)心=桜の心。「奥山の風を桜の心と思うならば」。

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/mototosi.html

【 藤原基俊(ふじわらのもととし) 康平三~永治二(1060-1142) 
右大臣俊家の子。道長の曾孫にあたる。母は高階順業女。権大納言宗俊の弟、参議師兼・権大納言宗通の兄。名門の出身でありながら、官途には恵まれず、従五位上左衛門佐に終わった。永保二年(1082)三月以前にその職を辞し、以後は散官。長治元年(1104)成立の堀河百首の作者の一人。永久四年(1116)、雲居寺結縁経後宴歌合で判者を務める。この頃から藤原忠通に親近し、忠通主催の歌合に出詠したり判者を務めたりするようになる。源俊頼と共に院政期歌壇の重鎮とされ、好敵手と目された。保延四年(1138)、出家して法名覚俊を称した。また同年、当時二十五歳の藤原俊成を入門させている(『無名抄』)。家集『基俊集』がある。金葉集初出。千載集では俊頼・俊成に次ぎ入集歌数第三位。勅撰入集百五首。万葉集次点者の一人。古今集を尊重し、伝統的な詠風は、当時にあってむしろ異色の印象がある。漢詩にもすぐれ、『新撰朗詠集』を編纂し、『本朝無題詩』に作を残す。 】

(参考)  藤原基俊の「千載集」の歌など

   堀川院の御時、百首の歌奉りけるとき、春雨の心をよめる
春雨のふりそめしより片岡のすそ野の原ぞあさみどりなる(千載32)
【通釈】春雨が降り始めてから、片岡の山裾にひろがる野原は浅緑色になったのだ。
【語釈】◇片岡 奈良県北葛城郡王子町あたりの丘陵。聖徳太子が餓人の歌を詠んだ地。

   題しらず
風にちる花たちばなに袖しめて我がおもふ妹が手枕にせむ(千載172)
【通釈】風が吹き、橘の花が散る――その花の香りで袖を染み込ませて、恋しいあの子の手枕の代りにしよう。
【語釈】◇袖しめて (橘の香に)袖を浸透させて。

   堀川院の御時、百首の歌奉りける時、五月雨の歌とてよめる
いとどしく賤しづの庵のいぶせきに卯の花くたし五月雨ぞする(千載178)
【通釈】ただでさえ卑しい身分の我が家は鬱陶しいのに、この季節、卯の花を腐らして五月雨が降りつづき、いっそう気分がふさいでしまうよ。
【語釈】◇しづの庵(いほり) 卑しい身分の者が住む庵。ここでは官位に恵まれず不遇に過ごす自分の住居を卑下して言う。◇卯の花くたし 万葉集巻十に見える語句。卯の花を腐らせてしまうほど長く降り続ける雨を言う。

   題しらず
霜さえて枯れゆくを野の岡べなる楢の広葉(ひろは)に時雨ふるなり(千載401)
【通釈】草にひえびえと霜が置いて、枯れてゆく野――小高くなったあたりに楢の木が生えていて、その広葉に時雨が落ちてあたる。なんと寂しげな音が聞えてくることだ。
【語釈】◇を野の岡べ 「を野」はここでは普通名詞。「野」はふだん自然のままに放置された広がりのある土地、特に山裾の傾斜地などを言う。

   月前旅宿といへる心をよめる
あたら夜を伊勢の浜荻をりしきて妹恋しらに見つる月かな(千載500)
【通釈】もったいないような月夜なのに、私は伊勢の海辺で旅寝するために葦を折り敷いて寝床に作り、都の妻を恋しがりながら、こうして月を眺めることよ。
【語釈】◇伊勢の浜荻 伊勢の浜辺に生えている葦。「伊勢国には、葦を浜荻と云ふなり」(仙覚抄)。

   権中納言俊忠の家の歌合に、恋の歌とてよめる
みごもりにいはでふる屋の忍草しのぶとだにも知らせてしがな(千載655)
【通釈】思いを胸に秘め、口には出さずに過ごしてきた。俺はまるで陸奥の岩手の古屋に生える忍ぶ草だな。せめて、怺えているってことだけでも、あの人に知らせたいよ。
【語釈】◇みごもりに 水隠りに。水中に隠れて、の意から、心の中に秘めて外にあらわさないでいることを言う。◇いはで 「言はで」と地名「岩手」の掛詞。「いはて」「しのぶ」はともに陸奥の地名で縁語。◇ふる屋 「経る」「古屋」の掛詞。

   堀河院御時、百首歌たてまつりける時、述懐の心をよめる
唐国にしづみし人も我がごとく三代まであはぬ歎きをぞせし(千載1025)
【通釈】唐の国で不遇に沈んだ人、顔駟(がんし)も、私のように三代にわたって、取り立ててくれる天子に出逢えない嘆きをしたのだ。
【語釈】◇唐国にしづみし人 文選思玄賦注にみえる漢の顔駟。三代の皇帝のもと不遇に過ごした後、ようやく武帝に抜擢された。

契りおきしさせもが露を命にてあはれ今年の秋もいぬめり(千載1026)
【通釈】(詞書)律師光覚が維摩会の講師を請い願ったのに、たびたび人選に洩れたので、法性寺入道前太政大臣(藤原忠通)に不平を申したところ、「しめぢの原の(委せておきなさい、の意)」と返答があったけれども、その年もまた洩れてしまったので、(忠通に)詠んで贈った歌
(歌)「なほ頼めしめぢが原のさせも草」と、貴方はあれほどはっきりお約束してくださったのに。「させも草」に置く露のようにあてにならないではありませんか。それでも私はそのはかない露を、命の綱と頼むしかないのです。ああ、こんなふうにして、今年の秋もむなしく過ぎてゆくようです。
【語釈】◇律師光覚 基俊の子。◇維摩会 興福寺の維摩経講読の法会。毎年陰暦十月に催された。◇法性寺入道前太政大臣 藤原忠通。◇しめぢの原の 基俊の依頼に対し、忠通が「しめぢの原の」と答えたのである。清水観音の歌と伝わる「なほ頼めしめぢの原の…」(下記参考歌)を踏まえ、「まかせておきなさい」と請け合ったわけである。◇契りおきし あなたが約束しておいてくれた。作者が藤原忠通を通じ、息子を維摩会の講師にしてほしいと頼んだのに対し、忠通が請け負ってくれたことを指す。「おき」は「露」の縁語。◇させも させも草。ヨモギの別称という。「さしも」(あれほど)の意を掛ける。

   長月のつごもり頃、わづらふことありて、たのもしげなく
覚えければ、久しく問はぬ人につかはしける
秋はつる枯野の虫の声たえばありやなしやを人のとへかし(千載1093)
【通釈】秋も果てた頃、枯野の虫の声が絶えるように、私の消息が途絶えたら、生きているかどうかくらいは、尋ねて下さい。

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四季草花下絵千載集和歌巻(その十三) [光悦・宗達・素庵]

(その十三) 和歌巻(その十三)

和歌巻13.jpg

「光悦筆 四季草花宗達下絵和歌巻」(日本古典文学会・貴重本刊行会・日野原家蔵一巻)

      堀河院御時、百首歌たてまつりける時、桜
      をよめるひ
84 山ざくらちゞに心のくだくればちる花ごとにそふにやあるらむ(前中納言匡房)
(花の散るのを嘆き、千々に砕けたわが心は、山桜の一つ一つの花びらに寄り添って散ってゆくのであろうか。)

釈文(揮毫上の書体)=(『書道芸術第十八巻 本阿弥光悦』)
やま左久ら(ざくら)千々(ちぢ)尓(に)心濃(の)久多久(くだく)る盤(は)知累(ちる)ハ(は)なごと尓(に)曾(そ)ふ尓(に)や安(あ)るら舞(む)

※やま左久ら(ざくら)=山桜。
※千々(ちぢ)尓(に)=ちぢに。「山桜が千々(数多く)にくだける(散る)」と「心が千々(さまざま)にくだける(揺れ動く)」とを掛けている。
※知累(ちる)ハ(は)なごと尓(に)=散る一つ一つの花びらに。
※)曾(そ)ふ尓(に)や安(あ)るら舞(む)=寄り添ってゆくのであろうか。
※※堀河院=「藤原基経の邸。京都堀川の東にあった。のち、円融天皇・堀河天皇の里内裏として使われた」の意ではなく、『堀河院百首』『堀河院御時百首和歌』『堀河院初度百首』『堀河院太郎百首』『堀河百首』の「堀河天皇の御時」を指している。

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/masahusa.html

【大江匡房(おおえのまさふさ) 長久二~天永二(1041-1111) 号:江師(ごうのそち) 
匡衡・赤染衛門の曾孫。大学頭従四位上成衡の子。母は宮内大輔橘孝親女。
神童の誉れ高く、天喜四年(1056)、十六歳で文章得業生に補せられる。治暦三年(1067)、東宮学士として尊仁親王(即位して後三条天皇)に仕えたのを始め、貞仁親王(白河)、善仁親王(堀河)と三代にわたり東宮学士を勤めた。左大弁・式部大輔などを経て、寛治八年(1094)六月、権中納言に至り、同年十一月、従二位に進む。永長二年(1097)、大宰権帥を兼任し、翌年筑紫に下向。康和四年(1102)、正二位に至る。長治三年(1106)、権中納言を辞し、大宰権帥に再任されたが、病を理由に赴任しなかった。天永二年(1111)七月、大蔵卿に任ぜられ、同年十一月五日、薨じた。
平安時代有数の碩学で、その学才は時に菅原道真と比較された。稀有な博識と文才は、『江家次第』『狐媚記』『遊女記』『傀儡子記』『洛陽田楽記』『本朝神仙伝』『続本朝往生伝』など多数の著作を生み出した。談話を録した『江談抄』も残る。漢詩にもすぐれ、『本朝無題詩』などに作を収める。
歌人としては承暦二年(1078)の内裏歌合、嘉保元年(1094)の高陽院殿七番歌合などに参加し、自邸でも歌合を主催した。『堀河百首』に題を献じて作者に加わる。また万葉集の訓点研究にも功績を残した。後拾遺集初出。詞花集では好忠・和泉式部に次ぎ第三位の入集数。勅撰入集百二十。家集『江帥集』がある。 】

(参考) 大江匡房(前中納言匡房)の『千載和歌集』所収「堀河院百首和歌」など

   堀川院御時、百首の歌奉りけるとき、残雪をよめる
道絶ゆといとひしものを山里に消ゆるは惜しきこぞの雪かな(千載4)
【通釈】冬の間は道が途絶えて煩わしく思っていたのに、こうして山里にも春がおとずれてみると、消えてしまうのが惜しくなる、去年の雪であるよ。

   堀川院の御時、百首の歌のうち、霞の歌とてよめる
わぎも子が袖ふる山も春きてぞ霞の衣たちわたりける(千載9)
【通釈】「妻が袖をふる山」という布留(ふる)の山も、春になって、白い衣を纏うように霞が立ちこめたなあ。
【語釈】◇袖ふる山 「ふる」は地名をかけた掛詞。布留山は今の天理市布留あたりの山。石上神宮がある。「袖ふる」は「霞の衣」のイメージと響き合う。
【補記】袖・ふる・はる(春・張る)・きて(来て・着て)・衣・たち(立ち・裁ち)、と縁語を連ねている。

   堀川院御時、百首の歌奉りけるとき、梅の花の歌とてよめる
にほひもて分わかばぞ分わかむ梅の花それとも見えぬ春の夜の月(千載20)
【通釈】どの辺に咲いているか、匂いでもって区別しようと思えば出来るだろう。春夜の朧月の下、それと見わけがつかない梅の花だけれど。

   堀川院の御時、百首の歌奉りけるとき、春雨の心をよめる
よもの山に木の芽はる雨ふりぬればかぞいろはとや花のたのまむ(千載31)
【通釈】四方の山に春雨が降り、木の芽をふくらませるので、花は春雨を父母と頼りにするのだろうか。
【語釈】◇木の芽はる雨 「はる」は、(芽が)張る・春(雨)の掛詞。◇かぞいろは 父母、両親。日本書紀などに見える語。

   堀川院の御時、百首の歌奉りける時、桜をよめる
山桜ちぢに心のくだくるは散る花ごとにそふにやあるらむ(千載84)
【通釈】山桜を思って、心は千々に砕けてしまった。花びらの一枚一枚に、私の心のカケラが連れ添って散ってゆくとでもいうのか。

   堀川院の御時、百首の歌奉りける時、春の暮をよめる
つねよりもけふの暮るるを惜しむかな今いくたびの春と知らねば(千載134)
【通釈】三月晦日、いつにもまして今日の暮れるのが惜しまれるよ。このあと何度めぐり逢えるかわからない春だから。

  堀川院の御時、百首の歌奉りける時よめる
高砂のをのへの鐘の音すなり暁かけて霜やおくらむ(千載398)
【通釈】高砂の峰の上から鐘の音が聞えてくる。暁にかけて霜が降りたのだろう。
【語釈】◇高砂のをのへ 前出。ここでは播磨国の歌枕と考えてよいだろう。高砂には弘仁六年(816)弘法大師創建と伝わる十輪寺がある。◇霜や置くらむ 唐の豊山の鐘が霜に和して鳴るという故事に拠る。「豊嶺に九鐘有り、秋霜降れば則ち鐘鳴る」(山海経)。

   堀川院の御時、百首の歌奉りける時、別れの心をよみ侍りける
行末を待つべき身こそ老いにけれ別れは道の遠きのみかは(千載480)
【通釈】あなたといつか再びお逢いできるとしても、その将来を待つべき自分の身は年老いてしまった。別れは道が遠いだけではない。恐らく生と死を隔てることになるのだ。

(参考) 「堀河天皇」と「堀河院百首」周辺

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/horikawa.html

【 堀河天皇( ほりかわてんのう) 承暦三~嘉承二(1079-1107) 諱:善仁(たるひと)

白河院第二皇子。母は中宮賢子(藤原師実の養女。実父は源顕房)。鳥羽天皇の父。
応徳元年(1084)、母を亡くす。同二年、叔父の皇太子実仁親王が死去したため、翌三年(1086)十一月、立太子し、即日父帝の譲位を受けて即位した。時に八歳。寛治七年(1093)、篤子内親王を中宮とする。嘉保三年(1096)、重病に臥したがまもなく快復。康和元年(1099)、荘園整理令を発布。同五年、宗仁親王(のちの鳥羽天皇)が生れ、同年、皇太子にたてる。嘉承二年(1107)七月十九日、病により崩御。二十九歳。
幼くして漢詩を学び、成人後は和歌をきわめて好んだ。近臣の源国信・藤原仲実・藤原俊忠、および源俊頼らが中心メンバーとなって所謂堀河院歌壇を形成、活発な和歌活動が見られた。長治二年(1105)か翌年、最初の応製百首和歌とされる「堀河百首」(堀河院太郎百首・堀河院御時百首和歌などの異称がある)奏覧。同書は後世、百首和歌の典範として重んじられた。康和四年(1102)閏五月「堀河院艶書合」を主催、侍臣や女房に懸想文の歌を詠進させ、清涼殿で披講させた。なお永久四年(1116)十二月二十日成立の「堀河後度百首」(永久百首・堀河院次郎百首とも)は、堀河天皇と中宮篤子内親王の遺徳を偲び、旧臣仲実らが中心となって催した百首歌とされる。金葉集初出。勅撰入集九首。  】

   同じ御時后宮にて、花契遐年といへる心を、うへの男ども
   つかうまつりけるによませ給うける
千歳まで折りて見るべき桜花梢はるかに咲きそめにけり(堀河院御製「千載611」)
【通釈】梢の遥かな先端まで、花が咲き始めたよ。あなたが千年の将来にわたり手折っては賞美するだろう、桜の花が。
【語釈】◇同じ御時 堀河天皇代。永長元年(1096)三月十一日の中殿和歌管弦御会かという(岩波新古典大系本の注に拠る)。◇后宮 堀河天皇の皇后、篤子内親王(後三条天皇皇女)。◇花契遐年 花遐年ヲ契ル。桜の花が長久の年月を約束する、の意。

堀河百首(堀河院百首和歌)(類聚百首)(太郎百首)

一 (主催者) 主催:堀河天皇 題者:大江匡房 勧進:藤原公実
二 (時期)  長治2年5月29日〜同3年3月11日奏覧(1105–06年)
三 (部立・題等) 春 20題 夏 15題 秋 20題 冬 15題 恋 10題 雑 20題
四 (詠進歌人) 藤原朝臣公実 大江朝臣匡房 源朝臣国信 源朝臣師頼 
藤原朝臣顕季 源朝臣顕仲  藤原朝臣仲実 源朝臣俊頼 
源朝臣師時  藤原朝臣顕仲 藤原朝臣基俊 永縁  隆源    
肥後    紀伊 河内
五 (備考) 最初の応製(天皇や上皇の命により指名された歌人が詠進する)百首
最初の組題(細かい歌題が指定される)百首
最初の部類(勅撰集に準じた部立構成を持つ)百首
(「定数歌」 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)

※上記の「補足説明」(出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ))

平安後期、堀河天皇のとき、源俊頼(としより)、源国信(くにざね)らが中心に、当時の有力歌人に詠進させた百題による百首歌(組題百首)の集成。1105年(長治2)から1106年の間に成立か。当初、藤原公実(きんざね)、大江匡房(まさふさ)、源国信、源師頼(もろより)、藤原顕季(あきすえ)、藤原仲実(なかざね)、源俊頼、源師時(もろとき)、藤原顕仲(あきなか)、藤原基俊(もととし)、隆源(りゅうげん)、肥後、紀伊、河内(かわち)の14人、のちに源顕仲、永縁(えいえん)が加わり、題ごとに部類した。『堀河院御時百首和歌』『堀河院太郎百首』『堀河院初度百首』などの名称もある。和歌史上最初の大規模な組題百首の試みとして後代に規範とされ、題詠、習作の際に取り組む形式として尊重された。内容面でも、新しい歌題には堀河朝歌壇の新風が多様に反映して、時代色の断面をうかがわせている。[近藤潤一]
『橋本不美男・滝沢貞夫著『校本堀河院御時百首和歌とその研究 本文研究篇』(1976・笠間書院)』▽『橋本不美男・滝沢貞夫著『校本堀河院御時百首和歌とその研究 古注索引篇』(1977・笠間書院)』
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四季草花下絵千載集和歌巻(その十二) [光悦・宗達・素庵]

(その十二) 和歌巻(その十二)

和歌巻10.jpg

「光悦筆 四季草花宗達下絵和歌巻」(日本古典文学会・貴重本刊行会・日野原家蔵一巻)

      落花満山路(山路ニ満ツ)といへる心をよめる  
83 ふめばをしふまではゆかむかたもなし心づくしのやまざくらかな(上東門赤染衛門) 
(山路に散り敷く桜は、踏めば惜しいし、さりとて踏まずに進むこともかなわぬ。いろいろと物思いをさせる山桜だよ。)

釈文(揮毫上の書体)=(『書道芸術第十八巻 本阿弥光悦』)
踏(ふめ)ハ(ば)おしふま天(で)ハ(は)行無(ゆかむ)可多(かた)もなし心盡(こころづくし)濃(の)山桜哉(かな)

※ふま天(で)ハ(は=踏までは。
※)行無(ゆかむ)=行かむ。
※可多(かた)もなし=進み行く方も無し。
※心盡(こころづくし)=様々に物思いする。

http://www.asahi-net.or.jp/~SG2H-YMST/yamatouta/sennin//akazome.html

【赤染衛門(あかぞめえもん) 生没年未詳
生年は天徳四年(960)以前、没年は長久二年(1041)以後かという(『赤染衛門集全釈』解説による)。赤染時用(時望)の娘。『中古歌仙伝』『袋草紙』などによれば、実父は平兼盛。赤染衛門の母は兼盛の胤を宿して時用に再嫁したのだという。貞元元年(976)頃、のち学者・文人として名を馳せる大江匡衡(まさひら)の妻となり、挙周(たかちか)・江侍従を生む。権中納言匡房は曾孫。藤原道長の室、源倫子(源雅信女。上東門院彰子の母)に仕え、養父の姓と官職(衛門志)から赤染衛門と呼ばれた。『紫式部日記』には「匡衡衛門」の名で歌人としての評価が見える。夫の親族(一説に姪)であったらしい和泉式部とは何度か歌を贈答し、親しかったことが窺える。
長保三年(1001)と寛弘六年(1009)、二度にわたり尾張守に任ぜられた夫と共に任国に下る。長和元年(1012)、匡衡に先立たれ、多くの哀傷歌を詠んだ。長久二年(1041)の「弘徽殿女御生子歌合」に出詠したのを最後の記録とし、まもなく没したかと思われる。家集『赤染衛門集』がある。拾遺集初出。後拾遺集では和泉式部・相模に次ぎ第三位の入集数。二十一代の勅撰集入集歌は九十七首(金葉集三奏本を除く)。『栄花物語』正編の著者として有力視される。中古三十六歌仙。女房三十六歌仙。 】

(追記メモ) 「千載集」(巻第九)の「哀傷歌」など(その一)

http://www.asahi-net.or.jp/~SG2H-YMST/yamatouta/sennin//akazome.html

   上東門院にまゐりて侍りけるに、一条院の御事など思し
   出でたる御気色なりけるあしたに、たてまつりける
つねよりもまたぬれそひし袂かな昔をかけておちし涙に(赤染衛門「千載566」)
【通釈】常にもまして濡れまさった袂ですことよ。ご存命中の昔に思いをかけて溢れ落ちました涙に。
【語釈】◇上東門院 藤原彰子。◇一条院御事 一条天皇は寛弘八年(1011)六月、譲位の直後に崩じた。◇昔をかけて 一条院在世中の昔に想いをかけて。

   御返し
うつつとも思ひ分かれで過ぐるまに見し世の夢を何語りけん(上東門院「千載566」)
【通釈】昨夜あなたと夢うつつに昔話をして過ごす間に、見た夜の夢をどう語ったのだろう。
【補記】彰子のもとに参上し、亡き一条帝の思い出話に耽った赤染衛門から贈られた歌への返歌。

    後一条院かくれさせ給うての年、
    時鳥の鳴きけるに詠ませ給うける
ひと声も君に告げなむ時鳥この五月雨は闇にまどふと(上東門院「千載555」)
【通釈】一声だけでも、亡き我が君に告げてほしい。ほととぎすよ、私はこの五月雨(さみだれ)の夜、「子を思う闇」に惑っていると。
【補記】子の後一条天皇が崩御した長元九年(1036)の歌。時鳥は死出の山を越えると信じられたので、亡き子に言伝を頼んだのである。

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/syousi.html

【 藤原彰子(ふじわらのしょうし) 永延二~承保一(988-1074) 号:上東門院
藤原道長の娘。母は源雅信女、倫子。頼通の同母姉、頼宗・長家の異母姉。
長保元年(999)、一条天皇に入内し、翌年中宮となる。彰子のもとには紫式部・赤染衛門・伊勢大輔・和泉式部らが出仕した。寛弘五年(1008)、敦成親王(のちの後一条天皇)を、同六年に敦良親王(のちの後朱雀天皇)を出産。寛弘八年六月、一条天皇は譲位して間もなく崩御。万寿三年(1026)出家し、院号を賜わり、法名清浄覚を号す。長元五年(1032)、兄頼通の後見で菊合を催行した。承保元年(1074)十月三日、八十七歳で崩御。
後拾遺集初出。勅撰入集二十八首(金葉集は二度本で勘定)。『新時代不同歌合』歌仙。 】

(参考)『紫式部日記』の「和泉式部・赤染衛門・清少納言」評

http://from2ndfloor.qcweb.jp/classical_literature/izumitoseisho.html

(和泉式部)

(原文)
和泉式部といふ人こそ、おもしろう書き交はしける。されど和泉はけしからぬかたこそあれ、うちとけて文はしり書きたるに、そのかたの才ある人、はかない言葉のにほひも見えはべるめり。歌はいとをかしきこと。ものおぼえ、歌のことわりまことの歌詠みざまにこそはべらざめれ、口にまかせたることどもに、かならずをかしき一ふしの、目にとまる詠み添へはべり。
 それだに、人の詠みたらむ歌、難じことわりゐたらむは、いでやさまで心は得じ、口にいと歌の詠まるるなめりとぞ、見えたるすぢにはべるかし。恥づかしげの歌詠みやとはおぼえはべらず。
(現代語訳)
和泉式部という人とは、じつに趣深く文通をしたものだ。しかし和泉には感心しない面があるものの、気を許して手紙をさらっと書いたところ、その方面での才能がある人で、ちょっとした言葉遣いの中にも気品が見えるようです。和歌はたいそう趣深いことだ。古い和歌についての知識、和歌の理論については本当の歌詠みという様子ではないとはいえ、口にまかせて詠んだ歌などに、かならず魅力のある一節を、目にとまるように詠み添えています。
 そうであっても、他人の詠んだ歌について、非難して批評しているようであるのは、さて、それほどまでは(和歌のことを)わかってはいないでしょう。口先ですらすらと自然に歌が詠まれてしまうらしいと、(その方面について)見てすぐにわかる筋(の人々)にはわかってしまう。(こちらが)恥ずかしさを感じる(ほどすごいと思う)歌人だとは思いません。

(赤染衛門)

(原文)
丹波の守の正妻のことを、宮(=中宮彰子)や殿(=藤原道長)の近辺では、匡衡衛門と言っています。特に家柄が優れているというわけではないけれど、実に風格があり、歌人だからと言って何事に付けてもやたらと詠むようなことはないけれど、知っている限りでは、ちょっとした折節のことも、それこそこちらが恥ずかしくなる(ほど上手な)詠みぶりです。
 (赤染衛門ほどの力量のない人が)どうかすると、腰(和歌の第三句)が離れそうになるほど下手くそな歌を詠み上げて、言いようのない気取った言動をして、私はすごいぞと思っている人は、憎らしくもあり、また気の毒だと思うことです。
(現代語訳)
丹波の守の正妻のことを、宮(=中宮彰子)や殿(=藤原道長)の近辺では、匡衡衛門と言っています。特に家柄が優れているというわけではないけれど、実に風格があり、歌人だからと言って何事に付けてもやたらと詠むようなことはないけれど、知っている限りでは、ちょっとした折節のことも、それこそこちらが恥ずかしくなる(ほど上手な)詠みぶりです。
 (赤染衛門ほどの力量のない人が)どうかすると、腰(和歌の第三句)が離れそうになるほど下手くそな歌を詠み上げて、言いようのない気取った言動をして、私はすごいぞと思っている人は、憎らしくもあり、また気の毒だと思うことです。

(清少納言)

(原文)
清少納言こそ、したり顔にいみじうはべりける人。さばかりさかしだち、真名まな書き散らしてはべるほども、よく見れば、まだいと足らぬこと多かり。
 かく、人に異ならむと思ひ好める人は、かならず見劣りし、行末うたてのみはべれば、艶えんになりぬる人は、いとすごうすずろなる折も、もののあはれにすすみ、をかしきことも見過ぐさぬほどに、おのづからさるまじくあだなるさまにもなるにはべるべし。そのあだになりぬる人の果て、いかでかはよくはべらむ。
(現代語訳)
清少納言は、なんとも得意そうな顔でひどく偉そうにしていた人だ。あれほどお利口ぶって漢字を書き散らしています程度も、よくよく見てみると、まだ全然足りないことが多い。
 このように、人より優れていようと心がけて行動する人は、かならず見劣りして、行く末は悪くなっていくだけなのですから、風流ぶる癖が付いてしまった人は、とても寂しくなんということもないときでも、しみじみと趣があるように振る舞い、風流なことも見逃さないように自然と見当外れで浮ついた様子になってしまうのでしょう。そういったふうになった(浮ついた)人の行く先は、どうして良いことがありましょうか。(いや、良くはならないでしょう。)
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四季草花下絵千載集和歌巻(その十一) [光悦・宗達・素庵]

(その十一) 和歌巻(その十一)

和歌巻9.jpg

「光悦筆 四季草花宗達下絵和歌巻」(日本古典文学会・貴重本刊行会・日野原家蔵一巻)

      後朱雀院御時、うゑのをのこども東山の花見
      侍けるに、雨ふりにければ白河殿にとまりて、
      をのをの歌よみ侍けるによみ侍ける
82 春雨にちる花見ればかきくらしみぞれし空の心ちこそすれ(大納言長家)
(春雨に散る花を見ていると、一面にかき曇った空から雨まじりの雪が降ってくる心地がするよ。)

釈文(揮毫上の書体)=(『書道芸術第十八巻 本阿弥光悦』)
春雨尓(に)知る(散る)ハ那(はな)見連盤(見れば)可幾久らし(かき暗し)三曾禮(みぞれ)し空乃(の)心知(ここち)こ曾(そ)須連(すれ)

※知る(散る)ハ那(はな)見連盤(見れば)=散る花見れば。
※可幾久らし(かき暗し)=あたり一面を暗くする。
※三曾禮(みぞれ)し=霙(みぞれ)し。
※心知(ここち)こ曾(そ)須連(すれ)=心地こそすれ。
※※後朱雀院=一条天皇第三皇子。母は道長の女彰子。
※※うゑのをのこども=殿上の男ども。
※※白河殿=白河法皇の御所。南殿と北殿があり、現在の京都市左京区の岡崎公園付近にあった。もと藤原良房の山荘で、頼道の死後朝廷に献上され御所となる。のち、法勝(ほっしょう)寺が建立された。白河第(てい)。白河院。白河別業。

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/nagaie.html

【 藤原長家(ふじわらのながいえ) 寛弘二~康平七(1005-1064)  
関白道長の六男。母は源高明の娘高松殿明子(養父は盛明親王)。源雅信の娘倫子の養子となる。頼通・頼宗・彰子の弟。道家・忠家・祐家の父。御子左家の祖で、俊忠の祖父、俊成の曾祖父にあたる。
寛仁元年(1017)、元服し従五位上に叙される。侍従・右少将・右中将などを経て、治安二年(1022)、従三位。同三年、正三位権中納言。同四年、正二位。長元元年(1028)、権大納言。寛徳元年(1044)、民部卿を兼ねる。康平七年(1064)十月、病により出家し、同年十一月九日薨ず。六十歳。
長元八年(1035)、「関白左大臣頼通歌合」に出詠。自邸で歌合を主催するなど、歌壇の庇護者的存在であった。家集があったらしいが現存しない。後拾遺集初出。勅撰入集四十四首


(参考) 「保元の乱」当時の「高松殿」と「白河殿」周辺

https://kyotomichi.hatenablog.com/entry/2016/01/09/171821

白河殿.jpg

【保元の乱 1156年7月5~11日】
勝者:後白河天皇、藤原忠通、信西、平清盛、平重盛、源義朝、源頼政
敗者:崇徳上皇、藤原頼長、平忠正、平家広、源為義、源為朝

崇徳上皇らは、白河北殿に逃げ込み、敵襲を迎え打とうとした。一方後白河天皇側が高松殿へ集結。高松殿だけでは狭く、東三条殿にも集まった。そして、源義朝ら200騎、平清盛ら300騎、足利義康ら100騎他、白河北殿を急襲。崇徳上皇は配流、多くの武将は処刑される。
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四季草花下絵千載集和歌巻(その十) [光悦・宗達・素庵]

(その十) 和歌巻(その十)

和歌巻8.jpg

「光悦筆 四季草花宗達下絵和歌巻」(日本古典文学会・貴重本刊行会・日野原家蔵一巻)

      寛治八年さきのおほきおほいまうち君の高陽
      院の家の歌合に、桜をよめる
81 山ざくらをしむ心のいくたびかちる木のもとに雪かゝるらむ(内侍周防)
(山桜の花を惜しむ心が、このように幾度も花の散る木の下へ行こうとするのだろうか。)

釈文(揮毫上の書体)=(『書道芸術第十八巻 本阿弥光悦』)
屋ま左久ら(山ざくら)惜心(をしむこころ)の以久多び(幾たび)可(か)知る(散る)こ乃本(木のもと)尓(に)遊幾(ゆき)帰る(かへる)ら無(らむ)

※屋ま左久ら=山桜。
※惜心=惜しむ心。
※以久多び=幾たび。
※こ乃本(=木(こ)の下(もと)。
※遊幾(ゆき)=雪。
※帰る(かへる)ら無(らむ)=帰るらむ。『新日本古典文学大系 千載和歌集』で、「かゝるらむ」。
※※さきのおほきおほいまうち君=前太政大臣、藤原師実。

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/suounai.html

【 周防内侍(すおうのないし) 生没年未詳(1037頃-1109以後) 本名:平仲子 

父は和歌六人党の一人、従五位上周防守平棟仲。母は加賀守従五位下源正軄の娘で後冷泉院女房、小馬内侍と称された人だという(後拾遺集勘物)。金葉集に歌を残す比叡山僧忠快は兄。後冷泉天皇代に出仕を始め、治暦四年(1068)四月、天皇の崩御により退官したが、後三条天皇即位後、再出仕を請われた(後拾遺集雑一の詞書)。その後も白河・堀河朝にわたって宮仕えを続け、掌侍正五位下に至る。天仁二年(1109)頃、病のため出家し、ほどなく没したらしい。七十余歳か。
寛治七年(1093)の郁芳門院根合、嘉保元年(1094)の前関白師実家歌合、康和二年(1100)の備中守仲実女子根合、同四年の堀河院艶書合などに出詠。後拾遺集初出。勅撰入集三十六首。家集『周防内侍集』がある。女房三十六歌仙。小倉百人一首に歌を採られている。 】

   二月ばかり、月のあかき夜、二条院にて人々
   あまた居明かして物語などし侍りけるに、
   内侍周防、寄り臥して「枕もがな」としのび
   やかに言ふを聞きて、大納言忠家、「是を枕に」
   とて、かひなを御簾の下よりさし入れて侍り
   ければ、よみ侍りける
春の夜の夢ばかりなる手枕にかひなく立たむ名こそ惜しけれ(周防内侍「千載964」「百人一首67」)
【通釈】春の夜の夢みたいな、一時ばかりの手枕のせいで、甲斐もなく立ってしまう浮き名、それが惜しいのですよ。
【語釈】◇二条院 道長から二条関白教通に伝えられた邸。但し周防内侍が仕えていた後冷泉天皇の中宮章子内親王は「二条院」の院号を宣下されているので、その御所とも考えられる。章子内親王が「二条院」の院号を宣下されたのは、延久六年(1074)。◇大納言忠家 藤原氏。1033~1091。俊成の祖父にあたる。忠家が大納言に任命されたのは承暦四年(1080)。◇手枕(たまくら) 腕を枕にすること。共寝の際は手枕を交わすという慣わしがあったので、情交の象徴となるが、ここでは詞書に忠家が「是(これ)を枕に」と言ったことを受けての表現。◇かひなく 甲斐なく。「かひな」を隠す。
【補記】「枕」「立つ」は「夢」の縁語。
忠家の返しは、
 契りありて春の夜ふかき手枕をいかがかひなき夢になすべき
(大意:前世からの深い縁があってこの春の深夜に差し出した手枕なのに。それをどうして甲斐のない夢になさるのですか。)

(参考) 「保元の乱・平治の乱」の頃の「平安京」(大内裏周辺)

(A図) 「大内裏」の通用門

大内裏門.jpg

(B図) 平安京条坊図(大内裏周辺)

大内裏周辺.jpg

(A図) 「大内裏」の通用門(説明)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%86%85%E8%A3%8F

※待賢門(たいけんもん)は、平安京大内裏の外郭十二門のひとつである。左衛門府が警固を担当した。
  藤原璋子:「待賢門院」を号した平安時代の女院。
  阿野廉子:「新待賢門院」を号した南北朝時代の女院。
  正親町雅子:「新待賢門院」を号した江戸時代の女院。
  中御門天皇:「中御門」は待賢門の別称。
※美福門(びふくもん)は、平安京大内裏の外郭十二門のひとつである。左衛門府が警固を担当した。
  藤原得子:「美福門院」を号した平安時代の女院。
※殷富門(いんぷもん)は、平安京大内裏の外郭十二門のひとつである。右衛門府が警固を担当した。
  亮子内親王:「殷富門院」を号した平安時代末期の女院。
※皇嘉門(こうかもん)は、平安京大内裏の外郭十二門のひとつである。右衛門府が警固を担当した。
  藤原聖子:「皇嘉門院」を号した平安時代の女院。
  鷹司繋子:「新皇嘉門院」の女院号を追贈された
※上東門(じょうとうもん)は、平安京大内裏の外郭門のひとつである
  藤原彰子:「上東門院」を号した平安時代の女院。
※上西門(じょうさいもん)は、平安京大内裏の外郭門のひとつである。
  統子内親王:「上西門院」を号した平安時代の女院。
  鷹司房子:「新上西門院」を号した江戸時代の女院

(B図) 平安京条坊図(大内裏周辺)説明

http://gekkoushinjyu.kt.fc2.com/heian/kyou.html

①一条院(左京北辺二坊一町)
999年(長保元)の内裏焼失後、一条天皇が里内裏とした。『紫式部日記』に登場する「内裏」はこの一条院である。また『枕草子』にも「今内裏」として登場する。
②藤原倫寧(ともやす)邸(左京北辺三坊一町)
倫寧の娘は『蜻蛉日記』の作者として有名であり、現在藤原道綱母の名で知られている。彼女は幼少の道綱をこの邸宅で育てた。
③土御門殿(左京一条四坊十五・十六町)
藤原道長の邸宅。中宮彰子が、ここで敦成親王(のちの後一条天皇)を出産したという記述が『紫式部日記』にある。後に、一条天皇、後朱雀天皇、後冷泉天皇の里内裏にもなっている。現在の京都市上京区京都御苑(京都大宮御所北側部分)にあたる。
※花山院(左京一条四坊三町)
平安京左京一条四坊三町(現在の京都御苑敷地内)にあった邸宅。花山法皇の後院となった後に、花山院家の所有となり、明治維新による東京奠都まで存続した。当初は清和天皇皇子貞保親王の邸宅であったとされている。後に藤原忠平の邸宅となり、外曾孫の憲平親王(後の冷泉天皇)の立太子礼を執り行った。冷泉天皇の子・花山天皇は出家後にここを後院とした。1008年(寛弘5年)、ここで崩御したことにより、追号が「花山院」とされた。
※高陽院(かやのいん)(左京二条二坊十五町)
桓武天皇の第七皇子・賀陽親王の邸宅で、中御門南、堀川東にあった。保安元年(1021年)摂政 関白・藤原頼通は、この地を大いに気に入り、敷地を倍に広げて豪華な寝殿造の建物を造営した。後冷泉天皇以後5代の天皇がここに居住し「累代の皇居」と呼ばれた。鳥羽上皇の皇后となった藤原泰子(頼通の曾孫にあたる摂政関白・藤原忠実の長女)に「高陽院」の女院号が与えられたのも、ここに居住していたことに由来する。
※冷泉院(左京二条二坊、大宮大路の東・二条大路の北4町を占めた。現在の二条城の北東部分に該当。多くの殿舎を備えた寝殿造であったという。)
弘仁年間頃に離宮として成立、816年(弘仁7年)嵯峨天皇が行幸したことが記録上の初見である。天皇は譲位後ここを後院として、834年(承和元年)まで居住した。嵯峨上皇没後はその皇后橘嘉智子の御所となる。子の仁明天皇はたびたび行幸し、内裏修復の間はここを御所とした。次代の文徳天皇も居住。その後は陽成上皇が後院として活用し、917年(延喜17年)の冬に京中の井泉が枯渇した際には、上皇は東北の門を開き庶人に池水を汲ませている(『日本紀略』延喜17年12月19日条)。のちに村上天皇が仮御所とした他、冷泉上皇が後院とし、後冷泉天皇の里内裏にもなった。
④二条第・二条宮(左京三条三坊八町)
藤原伊周の二条第が北側、中宮定子の二条宮が南側にあった。『枕草子』にも二条宮の様子が描かれている。また、伊周・隆家兄弟失脚事件の舞台でもある。
⑤菅原孝標邸(左京三条三坊十五町)
『更級日記』の作者菅原孝標女が父とともに上総国から帰京した際に住んだ。
⑥竹三条宮(左京三条四坊二町)
中宮定子の里邸。『枕草子』に「大進生昌が家」とあるのが、この竹三条宮である。中宮定子はここで敦康親王らを生み、また、ここで亡くなった。
⑦紅梅殿(左京五条三坊二町)
菅原道真の邸宅。大宰府左遷後、この庭の梅を思って歌を詠んだ故事が有名。
⑧東五条院(左京五条四坊一町)
『伊勢物語』第四段・五段に登場する「東の五条」がここであり、在原業平と藤原高子の逸話の舞台とされている。
⑨樋口富小路(左京六条四坊)
安元の大火の火元と『方丈記』にある。
⑩河原院(左京六条四坊十一~十四町)
源融の邸宅。源 融は『源氏物語』の主人公光源氏のモデルの一人とされ、この河原院も光源氏が住む「六条院」のモデルとされている。源 融が死後この邸宅に化けて出た話が『今昔物語集』巻第二十七に納められている。
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四季草花下絵千載集和歌巻(その九) [光悦・宗達・素庵]

(その九) 和歌巻(その九)

和歌巻7.jpg

「光悦筆 四季草花宗達下絵和歌巻」(日本古典文学会・貴重本刊行会・日野原家蔵一巻)

      百首歌たてまつりける時、花うたとてよめる
80 吉野山花はなかばにちりにけりたえだえのこる峰のしら雲(藤原季通朝臣)
(吉野山の花もなかばは散ってしまったのだなあ。峰には白雲がきれぎれにかかって見えるよ。)

釈文(揮毫上の書体)=(『書道芸術第十八巻 本阿弥光悦』)
よし野や万(ま)ハ那ハ(花は)な可ハに(半ばに)地利尓介里(散りにけり)絶々(たえだえ)乃こる三年濃(峰の)しら雲

※よし野や万(ま)=吉野山。持統天皇をはじめ、歴代天皇の御幸の地としての吉野離宮、そして離宮をとりまく吉野川の風光明媚な景観。奈良県の中央部・吉野郡吉野町にある吉野川(紀の川)南岸から大峰山脈へと南北に続く約8キロメートルに及ぶ尾根続きの山稜の総称、または金峯山寺を中心とした社寺が点在する地域の広域地名である。

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/suemiti.html

【 藤原季通(ふじわらのすえみち) 生没年未詳  

正二位権大納言宗通の三男。母は修理大夫顕季の娘。太政大臣伊通の同母弟。大納言成通・同重通の同母兄。姉妹に藤原忠通の北政所で皇嘉門院の母、准后従一位宗子がいる。
備後守・肥後守・左少将などを歴任し、白河院の寵臣であったらしいが、官位は正四位下に止まった(藤原忠実の日記『殿暦』には待賢門院璋子が季通と密通したとの記事がある。この廉で白河院の怒りを買ったか)。琵琶・箏・笛など、音楽に稀な才能を持っていた。歌人としては永久四年(1116)の鳥羽殿北面歌合をはじめ、元永二年(1119)の内大臣忠通歌合、長承三年(1134)の中宮亮顕輔家歌合などに出詠。また崇徳院が召し、久安六年(1150)頃までに完成した「久安百首」の作者の一人に加わっている。
『季通朝臣集』と題する集が伝わるが、季通の久安百首詠を切り出したもの。詞花集初出。千載集では十五首入集と高い評価を受けた。勅撰入集は計十七首。 】

(追記メモ) 「保元・平治の乱」の頃の「近衛殿」(京都御所=土御門東洞院殿)周辺

近衛殿.jpg

「保元・平治の乱」の頃の「近衛殿」(京都御所=土御門東洞院殿)周辺

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/sutoku.html

   近衛殿にわたらせたまひてかへらせ給ひける日、
   遠尋山花といへる心をよませ給うける
尋ねつる花のあたりになりにけり匂ふにしるし春の山風(崇徳院御製『千載集』46)
【通釈】探し求めていた花のあたりまで来たのだった。漂う気きによって、はっきり分かる。春の山風は――。
【補記】題は「遠く山の花を尋ぬ」。桜の咲く山を遥かに見やりつつ尋ねて来て、とうとう花のあたりに辿り着いた喜びを詠う。関白藤原忠通の新邸での歌会で詠んだもので、新築の祝意をこめたか。

 この崇徳院の一首は、康治二年(一一四三)三月頃の、「保元の乱」の当事者(「後白河天皇・藤原忠通」対「崇徳院・『藤原忠実・頼長』親子)の、その「保元の乱」の勝者となる「藤原忠通」(現「近衛家の祖・藤原基実」の父)の新築「近衛第(殿)」の歌会でのものである。
 この「保元の乱」が勃発する前は、崇徳院と敵対する「藤原忠道」の娘(藤原聖子)は、崇徳天皇の皇后(中宮)、後に、近衛天皇の養母で、皇太后となり、院号は皇嘉門院(こうかもんいん)である。崇徳院が讃岐国へ配流された時には出家し、清浄恵(せいじょうえ)と号し、崇徳院が崩御す前年の長寛元年(一一六三)には髪をすべて剃る再出家をし、蓮覚(れんがく)と号している。
 上図の「近衛殿」の左端に「白峯神宮」がある。この「白峯神宮」は、四国・坂出の「白峰山陵」から崇徳天皇の御霊を迎えての鎮魂の神宮である。

http://shiraminejingu.or.jp/history/

   題しらず
瀬をはやみ岩にせかるる滝川のわれても末に逢はむとぞ思ふ(崇徳院「詞花集」229、「百人一首」77)

【通釈】瀬の流れが速いので、岩に塞がれている急流がその岩に当たって割れるように、たとえあなたと別れても、水の流れが下流で再び行き合うように、将来はきっと逢おうと思っているのだ。
【語釈】◇瀬をはやみ 瀬の流れが速いので。《われて》に懸かる。◇滝川の 「滝川」は滝のごとき奔流。「の」は《のように》といった意味の使い方。◇われてもすゑに 急流が岩に当たって割れるように、別れても、水がいずれ下流で再び行き合うように、将来は。
【補記】第三句「滝川の」までは「われて」を導く序詞であるが、情念のこもった暗喩ともなっている。障害に打ち当たって破局に至る、といった悲恋の経過を読みとることが可能だが、恋歌と呼ぶにはいささか詞が激しすぎはしないか。若くして宮廷の内紛に翻弄され、政争の犧牲として譲位せざるを得なかった院の無念と、なお将来に賭ける執念をこの歌に読み取るのは、決して牽強付会とは言えまい。
【補記2】久安百首では「ゆきなやみ岩にせかるる谷川のわれても末にあはむとぞ思ふ」とある。詞花集における改変を、香川景樹は撰者藤原顕輔によるとしたが、安東次男は撰集の宣を下した院自身による改作であろうという(『百首通見』)。

藤原定家撰の「小倉百人一首」にも採られている第七勅撰集『詞花和歌集』の崇徳院の一首である。この『詞花和歌集』の勅撰の院宣を下したのは、崇徳院その人である。この勅撰集が成ったのは、仁平元年(一一五一)で、その五年後の保元元年(一一五六)の「保元の乱」によって、崇徳院は讃岐に流刑される。
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四季草花下絵千載集和歌巻(その八) [光悦・宗達・素庵]

(その八) 和歌巻(その八)

和歌巻6-1.jpg

「光悦筆 四季草花宗達下絵和歌巻」(日本古典文学会・貴重本刊行会・日野原家蔵一巻)

      山花の心をよみ侍ける
79 白雲とみねには見えてさくら花ちればふもとの雪にぞありける(大宮前太政おほいまうち君)
(白雲と見えた峰の桜は、散れば麓の雪となることだよ。)

釈文(揮毫上の書体)=(『書道芸術第十八巻 本阿弥光悦』)

しら雲と見年尓(みねに)ハ(は)三エ天(みえて)桜華知禮盤(ちれば)婦(ふ)もと乃(の)雪尓(に)曾(ぞ)有介流(ありける)

※見年尓(みねに)=峰に。
※三エ天(みえて)=見えて。
※知禮盤(ちれば)=散れば。
※婦(ふ)もと=麓。

【 「大宮前太政おほいまうち君」=藤原伊通(ふじわらのこれみち) 生年:寛治7(1093)   没年:永万1.2.15(1165.3.28)

平安時代後期の公卿。太政大臣。大宮大相国,九条大相国ともいう。権大納言藤原宗通と藤原顕季の娘との子。保安3(1122)年正四位参議兼右兵衛督。大治5(1130)年の除目を不服として籠居するが,長承2(1133)年崇徳天皇の信任を得て権中納言に復帰。以後順調に昇進する。妹が関白藤原忠通に嫁し,娘呈子を忠通の養女として二条天皇に入内させる。保元1(1156)年内大臣。翌年左大臣。永暦1(1160)年太政大臣。永万1(1165)年病により辞し,出家。同年没。二条天皇に政治の意見書「大槐秘抄」を奉じる。激しい一面はあるが世相風刺に秀で,ウイットに富んだ性格が『今鏡』ほかに描かれる。(櫻井陽子) 】(「出典 朝日日本歴史人物事典」)


(追記メモ) 「平家一門の都落ち」(「山崎・関大明神社」と「水無瀬離宮」周辺)

故郷ノ花といへる心をよみ侍りける
さざ波や志賀の都は荒れにしを昔ながらの山桜かな(「読人しらず『千載集』66)

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/tadanori.html

【通釈】さざ波寄せる琵琶湖畔の志賀の旧都――都の跡はすっかり荒れ果ててしまったけれども、長等(ながら)山の桜は、昔のままに美しく咲いているよ。
【補記】この歌は千載集に「よみ人知らず」の作として載る。作者が忠度であることは周知の事実であったが、朝敵の身となったため、撰者の藤原俊成が配慮して名を隠したのである。『平家物語』巻七「忠度都落」にもその間の事情が述べられている。家集の詞書は「為業哥合に故郷花」。藤原為業(寂念)邸での歌合の作。

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『平家物語(巻七)』「忠度の都落ち」の全文(原文)

薩摩守忠度は、いづくよりや帰られたりけん、侍五騎、童一人、わが身ともに七騎取つて返し、五条三位俊成卿の宿所におはして見給へば、門戸を閉ぢて開かず。
「忠度。」
と名のり給へば、
「落人帰り来たり。」
とて、その内騒ぎ合へり。
薩摩守、馬より下り、みづから高らかにのたまひけるは、
「別の子細候はず。三位殿に申すべきことあつて、忠度が帰り参つて候ふ。門を開かれずとも、この際まで立ち寄らせ給へ。」
とのたまへば、俊成卿、
「さることあるらん。その人ならば苦しかるまじ。入れ申せ。」
とて、門を開けて対面あり。
事の体、何となうあはれなり。
薩摩守のたまひけるは、
「年ごろ申し承つてのち、おろかならぬ御事に思ひ参らせ候へども、この二、三年は、京都の騒ぎ、国々の乱れ、しかしながら当家の身の上のことに候ふ間、疎略を存ぜずといへども、常に参り寄ることも候はず。君すでに都を出でさせ給ひぬ。一門の運命はや尽き候ひぬ。
撰集のあるべき由(よし)承り候ひしかば、生涯の面目に、一首なりとも、御恩をかうぶらうど存じて候ひしに、やがて世の乱れ出できて、その沙汰なく候ふ条、ただ一身の嘆きと存ずる候ふ。
世静まり候ひなば、勅撰の御沙汰候はんずらん。これに候ふ巻き物のうちに、さりぬべきもの候はば、一首なりとも御恩をかうぶつて、草の陰にてもうれしと存じ候はば、遠き御守りでこそ候はんずれ。」
とて、日ごろ詠みおかれたる歌どもの中に、秀歌とおぼしきを百余首書き集められたる巻き物を、今はとてうつ立たれけるとき、これを取つて持たれたりしが、鎧の引き合はせより取り出でて、俊成卿に奉る。
三位これを開けて見て、
「かかる忘れ形見を賜はりおき候ひぬる上は、ゆめゆめ疎略を存ずまじう候ふ。御疑ひあるべからず。さてもただ今の御渡りこそ、情けもすぐれて深う、あはれもことに思ひ知られて、感涙おさへがたう候へ。」
とのたまへば、薩摩守喜んで、
「今は西海の波の底に沈まば沈め、山野にかばねをさらさばさらせ。浮き世に思ひおくこと候はず。さらばいとま申して。」
とて、馬にうち乗り甲の緒を締め、西をさいてぞ歩ませ給ふ。三位、後ろをはるかに見送つて立たれたれば、忠度の声とおぼしくて、
「前途ほど遠し、思ひを雁山の夕べの雲に馳す。」
と、高らかに口ずさみ給へば、俊成卿、いとど名残惜しうおぼえて、涙をおさへてぞ入り給ふ。
そののち、世静まつて『千載集』を撰ぜられけるに、忠度のありしありさま、言ひおきし言の葉、今さら思ひ出でてあはれなりければ、かの巻物のうちに、さりぬべき歌いくらもありけれども、勅勘の人なれば、名字をばあらはされず、「故郷の花」といふ題にて詠まれたりける歌一首ぞ、「よみ人知らず」と入れられける。

[さざなみや志賀の都はあれにしを 昔ながらの山桜かな]

その身、朝敵となりにし上は、子細に及ばずと言ひながら、うらめしかりしことどもなり。

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都落ち.jpg

「平家一門の都落ち(輿車に六歳の安徳天皇と母の建礼門院が乗っている)」

はかなしや主は雲井にわかるれば あとはけぶりと立ちのぼるかな(門脇宰相教盛「平家物語」)
(はかないことよ、家を捨てて雲もはるかな旅路をたどれば、家々を焼いた煙が空ゆく雲への彼方へと立ち上っていくことだなぁ。)

ふるさとを焼け野の原とかへり見て 末もけぶりの波路をぞゆく修理大夫経盛「平家物語」)
(住みなれた館を焼野の原としてその煙をふり返り見つつ、いつ帰るとも知れぬ煙にとざされた海の旅路を行くことであるよ。)

※この二首の「けぶり」は、平家一門が、「六波羅・池殿・小松殿・西八条」に火をかけて、「都落ち」する、その「けぶり」(黒煙)を指している。

山崎・水無瀬.jpg

「山城・攝津との国境・関戸院(現、関大明神社)周辺図

※ この「関大明神社」の近くに、都落ちして八歳で入水崩御した安徳天皇(第八十一代)の、
次の後鳥羽天皇(第八十二代)が、歌合・蹴鞠・狩猟などを楽しまれた「水無瀬離宮」(現、水無瀬神社)がある。

  郷春望(きょうノしゅんぼう)といふことを
見渡せば山もと霞む水無瀬川夕べは秋と何思ひけむ(太上天皇=後鳥羽院『新古今』36)
(見わたすと、山の麓が霞んで、そこを水無瀬川が流れている眺めは素晴らしい。夕べの眺めは秋が素晴らしいと、どうして思ったのであろうか。)
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四季草花下絵千載集和歌巻(その七) [光悦・宗達・素庵]

(その七) 和歌巻(その七)

和歌巻6.jpg

「光悦筆 四季草花宗達下絵和歌巻」(日本古典文学会・貴重本刊行会・日野原家蔵一巻)

      御子にをはしましける時、鳥羽殿にわたらせたま
      へけるころ池上花といへる心をよませたまうける
78 池水にみぎはのさくらちりしきて波の花こそさかりなりけれ(院御製)
(池の水に池畔の桜が一面に散り敷いて、波の花は今が盛りだよ。)

釈文(揮毫上の書体)=(『書道芸術第十八巻 本阿弥光悦』)

池水尓(いけみずに)見支ハ能(みぎはの)左具ら(さくら)知里(ちり)しき天(て)浪乃(なみの)ハな(花)こ曾(そ)佐可里成介禮(さかりなりけれ)

※見支ハ能(みぎはの)=水(み)際(ぎは)の=汀(みぎは)の。水ぎわの。水のほとりの。
※左具ら(さくら)=桜。
※知里(ちり)しき天(て=散り敷きて。
※浪乃(なみの)ハな=浪の花。池のおもて一面に散り敷く落花に、そよ風が吹いて小波が立ち、まさに「浪の花」の風情。前歌(白河院御歌)の「陸」より「水」への「転じ」。鳥羽殿の各御所は池辺に建てられていた。
※※「詞書」は、「千載集」撰集下命者の後白河院(鳥羽天皇第四皇子)への配慮からの、撰者(俊成)の創作したもの。この歌は、仁平・久寿の頃(一一五一~五六)、崇徳院主催の、鳥羽離宮(田中御所)での歌会の作。
※※池上花=「池ノ上ノ花」の題詠。

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【 後白河院(ごしらかわのいん) 大治二~建久三(1127-1192) 諱:雅仁 法諱:行真

鳥羽天皇第四皇子。母は待賢門院璋子(藤原公実女)。崇徳天皇の同母弟。覚性法親王の同母兄。近衛天皇の異母兄。守仁親王(二条天皇)・守覚法親王・以仁王・式子内親王・憲仁親王(高倉天皇)らの父。
久寿二年(1155)、近衛天皇の崩御により二十九歳で即位。崇徳院と対立し、翌年の保元元年(1156)、鳥羽院が崩御すると、源義朝・平清盛らを用いて崇徳院方を破った(保元の乱)。同三年(1158)、守仁親王(二条天皇)に譲位し、その後五代三十四年にわたり院政を布くことになる。
平治元年(1159)、院側近の信西を打倒しようとする藤原信頼・源義朝らに御所を奇襲されたが、再び清盛の力により乱を抑えた(平治の乱)。翌年、初めての熊野御幸に発つ。以後、同地への参詣は三十四回を数える。長寛二年(1164)には清盛に命じて蓮華王院(三十三間堂)を建立させた。
永万元年(1165)、二条天皇は子の六条天皇に譲位し、一カ月後に崩御。仁安三年(1168)、後白河院は子の高倉天皇(母は平清盛のむすめ滋子)を即位させた。嘉応元年(1169)、出家して法皇となる。法名は行真。
平氏の専横が強まるにつれ、清盛との関係も悪化し、安元三年(1177)、清盛排除を画策した鹿ヶ谷の陰謀が発覚、院政を止められ鳥羽殿に幽閉された。治承四年(1180)、安徳天皇(母は清盛女、徳子)践祚の直後、以仁王が平氏追討の令旨を発すると、各地で源氏が蜂起、ついに平氏は都落ちへと追いやられることになる。この間、高倉上皇が崩じたため、院政を再開する。寿永二年(1183)、孫の尊成(たかひら)親王を皇位に就けた(後鳥羽天皇)。
寿永三年(1184)、源頼朝と手を組んで木曽義仲を討つ。翌年、源義経の要請に応じて頼朝追討の宣旨を発したが、結果的に頼朝の要求を受け入れ、義経ら追討の院宣とともに、守護・地頭の設置を承認することとなった。但し頼朝による征夷大将軍任命の要請は、死に至るまで拒み続けた。
今様を愛好し、雑謡とあわせて集大成した『梁塵秘抄』、および『梁塵秘抄口伝集』を撰述した。晩年には和歌にも関心を寄せ、小規模ではあるが歌会を催したり、歌書の収集を行なったりした。寿永二年(1183)、藤原俊成に命じて『千載和歌集』を撰進させた(完成は五年後の文治四年)。千載集初出。


(追記メモ) 「保元・平治の乱」の頃の「鳥羽殿」(鳥羽離宮)周辺

https://blog.goo.ne.jp/mitsue172/e/cdb9011d528786d083eea6c3ba4818ea

鳥羽離宮.jpg


 「千載集(巻第二・春歌下)」の、この「白河院」と「後白河院」の二首続きは、撰者(藤原俊成)の最大限の配慮があるのであろう。

鳥羽殿にをはしましけるころ、常見花といへる心
      ををのこどもつかうまつりけるついでによませた
      まうける
77 咲きしよりちるまで見れば木の本に花も日かずもつもりぬるかな(白河院御製)

      御子にをはしましける時、鳥羽殿にわたらせたま
      へけるころ池上花といへる心をよませたまうける
78 池水にみぎはのさくらちりしきて波の花こそさかりなりけれ(院御製=後白河院御製)

 この二首の「詞書」にある「鳥羽殿」は、平安時代後期に洛南鳥羽の地に、白河・鳥羽両上皇が造営した譲位後の御所である。しかし、単なる離宮ではなく、「白河院・後白河院」の、その絶大な専制君主的「院政政治」の象徴的な拠点となった所である。
 そして、この二首には、保元元年(一一五六)に勃発した「保元の乱」(「崇徳上皇・藤原頼長」対「後白河天皇・藤原忠通」の争い)も、平治元年(一一五九)に起きた「平治の乱」(「後白河院政派・源義朝」対「二条親政派・平清盛」の争い)も、その影は微塵も感じさせない。
 しかし、この背後には、その敗者の「崇徳上皇・藤原頼長」派の面々、そして、それに続く「後白河院政派・源義朝」派の面々の、その怨念が無限に横たわっている。
そして、それは紛れもなく、この「千載集」撰集下命者の「後白河院(鳥羽天皇第四皇子)」の、その敗死に追いやった「崇徳院(鳥羽天皇第一皇子))」への鎮魂の勅撰集であることは、その入集数(二十三首)(「俊頼(五十二首)→俊成(三十六首)→基俊(二十六首)に次ぐ四番手の入集数)から見ても、それを肯定することには違和感はなかろう。

    鳥羽殿へ五六騎急ぐ野分かな(蕪村「蕪村句集」)

保元元年(一一五六)七月、鳥羽上皇は、鳥羽殿(鳥羽離宮)の「東殿」(安楽寿院)」で崩御する。この臨終の直前に、崇徳新院は父鳥羽上皇のもとを訪れるが、対面することを許されず、東殿の西側に位置する「田中殿」で七日程とどまってから、白河にある「白河」北殿(白河法皇の崩御後、鳥羽院の御所となり、その後は上西門院統子(崇徳院の同母妹)の御所、保元の乱では崇徳院方の本拠地となる)に移り、そこへ宇治から藤原頼長が駆けつけ、これが保元の乱の勃発である(『保元物語)。
 この「田中殿」(鳥羽上皇が皇女八条院の御所として建立)には、「保元の乱」後の「平治の乱」では、「保元の乱」の勝者の後白河院は、「保元の乱」の味方であった平清盛と争い、今度は敗者となり、治承三年(一一七七)の政変(「鹿ケ谷陰謀事件」)で、その政変の黒幕とされた後白河院は、平清盛によってここに幽閉されるということになる。
 この近傍の「城南寺」付近に、「西行寺址」があり、ここは、西行(佐藤義清)が鳥羽上皇の北面の武士であった頃の邸宅跡と伝えられている。

  伏見過ぎぬ岡屋になほとどまらじ日野まで行きて駒心見ん(西行「山家集」1438)

  これは、北面の武士であった西行が、鳥羽殿から、「岡屋(おかのや)」(宇治の北)、そして、「日野」(醍醐近辺)まで遠馬をしたことに関連する一首であろうか。この「岡屋(おかのや)」は、「日暮れなば岡屋こそ臥しみなめ明けて渡らん櫃河(ひつかわ)の橋」(梁塵秘抄)に由来する遊郭地のようである。若き日の北面の武士であった西行の一スナップのような一首なのかも知れない。
 この鳥羽殿の一角の「西行寺址」の付近に「馬場殿」があり、この城南寺の鎮守神として創祀されたと伝えられている「城南宮」は、競馬や流鏑馬(やぶさめ)の鎮守社である。そして、承久三年(一二二一)に,後鳥羽上皇が鎌倉幕府倒幕を宣言したのも、この「城南宮」の「流鏑馬汰へ」(やぶさめぞろえ)が、その発端と伝えられている。
 この「鳥羽殿」(鳥羽離宮)は、南北朝の動乱により、その大半が焼失し、現在では、安楽寿院、白河・鳥羽・近衛各天皇陵、城南宮、秋の山(築山)を残すのみとなってしまった。

夕されば野辺の秋風身にしみてうづらなくなり深草のさと(皇太后宮大夫俊成=藤原俊成「千載集」269)
(夕暮が迫ると、野面を渡ってくる風を身にしみて感じて、鶉が鳴いているのが聞こえる。この深草の里では。)

 この鴨長明の『無名抄(「深草の里」)』の中で、俊成自身が、「これをなん、身にとりてはおもて歌と思い給ふる」(これこそが、私にとっては代表歌という思いがする)とした、この一首は、俊成の臨終の地である、「鳥羽殿」(鳥羽離宮)から「伏見稲荷大社」へ行く手前の「深草」里の作である。

深草の里.jpg

(『都名所図会』(1780年)巻五「深艸・欣浄寺・四位少将古跡」)

  俊成の「おもての歌」(代表歌)とした、この深草の里の一首は、次の『伊勢物語』(第一二三段)の「本歌取り」の一首なのである。

【 むかし、男ありけり。深草に住みける女を、ようよう、あきがたにや思ひけむ、かかる歌をよみけり。
  年を経て住みこし里を出でていなば いとゞ深草野とやなりなむ
女、返し、
   野とならば鶉となりて鳴きをらむ 狩にだにやは君は来ざらむ   】
『伊勢物語』第一二三段)

 この『伊勢物語』(第一二三段)の、この俊成が「本歌取り」にした、その「本歌」の「鶉となりて鳴きをらむ」という、これこそが、俊成の「おもての歌」(代表歌)の「身にしみて」の思いで、それは、俊成和歌の神髄の「もののあはれ」(もののあわれ、物の哀れ=「平安時代の王朝文学を知る上で重要な文学的・美的理念の一つ。 折に触れ、目に見、耳に聞くものごとに触発されて生ずる、しみじみとした情趣や、無常観的な哀愁である」)なのであろう。

八代集.jpg

「八代集」(「勅撰和歌集」=『ウィキペディア(Wikipedia)』よりの抜粋)

 白河天皇(白河院)は、『後拾遺和歌集』と『金葉和歌集』と二度にわたって、勅撰集編纂の下命をしている。これに続く、『詞花和歌集』は、「保元の乱」で讃岐に流刑された崇徳院下命の勅撰集である。
 この『古今和歌集』から『詞花和歌集』までの六勅撰集は、とにもかくにも平安な都での天子の治世を賛美する、その象徴的なものとしての勅撰集に他ならないが、こと、この第七勅撰集の『千載和歌集』に限っては、その第六勅撰集『詞花集』の崇徳院時代を抹殺するような「保元の乱」、それに続く、武家政権が確立して行く「平治の乱」、さらに、その「平家政権」が樹立した「治承・寿永の乱」、その「平家政権」が「源氏政権(鎌倉幕府)」へと移行する「源平の戦い」と、それは、平安時代の末期の「院政時代」(「白河・後白河」の院政時代)の終末を告げるものであることが、この『千載和歌集』の「白河院」と「後白河院」の二首(「白河院=常見花=盛花」と「後白河院=池上花=落花」)からも、察知される。

      鳥羽殿にをはしましけるころ、常見花といへる心
      ををのこどもつかうまつりけるついでによませた
      まうける
77 咲きしよりちるまで見れば木の本に花も日かずもつもりぬるかな(白河院御製)

      御子にをはしましける時、鳥羽殿にわたらせたま
      へけるころ池上花といへる心をよませたまうける
78 池水にみぎはのさくらちりしきて波の花こそさかりなりけれ(院御製=後白河院御製)
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四季草花下絵千載集和歌巻(その六) [光悦・宗達・素庵]

(その六) 和歌巻(その六)

和歌巻5・6.jpg

「光悦筆 四季草花宗達下絵和歌巻」(日本古典文学会・貴重本刊行会・日野原家蔵一巻)

      鳥羽殿にをはしましけるころ、常見花といへる心
      ををのこどもつかうまつりけるついでによませた
      まうける
77 咲きしよりちるまで見れば木の本に花も日かずもつもりぬるかな(白河院御製)
(花が咲きはじめてから散るまでの間眺めていると、木の下に花も落ち積り、日数も重ねてしまったなあ。)

釈文(揮毫上の書体)=(『書道芸術第十八巻 本阿弥光悦』)

左幾(さき)しよ利(り)知(ち)るま天(で)三連ハ(見れば)木乃(の)本(もと)尓(に)ハな(花)も日数(ひかず)もつも利(り)ぬる哉(かな)

※左幾(さき)しよ利(り)=咲きしより。花が咲きしより。
※知(ち)るま天(で=散るまで。花が散るまで。
※三連ハ(見れば)=見れば。前歌(76の歌)の「三禮盤(みれば)=見れば」の表記とは異なっている。
※※詞書の「鳥羽殿」=白河院が造営した、南殿・北殿・泉殿・馬場殿の総称。京の南、鴨川と桂川の合流地点。鳥羽離宮。
※※常見花=「常ニ花ヲ見ル」の題詠。

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【 白河院(しらかわのいん) 永承八~大治四(1053-1129) 諱:貞仁

後三条天皇の第一皇子。母は贈皇太后藤原茂子(藤原公成女、藤原能信養女)。異母弟に実仁親王・輔仁親王、同母妹に聡子内親王ほか。中宮賢子(源顕房女。藤原師実の養女)との間に敦文親王・善仁親王(堀河天皇)・郁芳門院・令子内親王(鳥羽皇后)ほかを、典侍源経子との間に覚行法親王をもうけた。また崇徳院・平清盛の実父とする伝がある。
治暦元年(1065)元服し、同四年、親王となる。延久元年(1069)四月、立太子。同四年十二月、即位。第七十二代白河天皇。承保三年(1076)、大井川行幸。応徳三年(1086)十一月、善仁親王に譲位。以後、堀河・鳥羽・崇徳三代にわたって院政を執る。寛治四年(1090)、熊野に参詣し、初めて熊野三山検校を置いた。嘉保三年(1096)、落飾し法皇となる。法諱は融観。大治四年(1129)七月七日、崩御。七十七歳。
承暦二年(1078)、内裏歌合を挙行。応徳三年(1086)九月、藤原通俊に第四勅撰和歌集『後拾遺和歌集』を奏上させる。天治元年(1124)末か二年初め頃、源俊頼に第五勅撰和歌集『金葉和歌集』を上奏させる(初度本)が、返却し、天治二年四月頃、再奏させ(二度本)、さらに大治元年(1126)または翌年頃、再々奏させた(三奏本)。後拾遺集初出。勅撰入集二十九首。 】

(追記メモ) 白河院(第七十二代白河天皇)と後白河院(第七十七代後白河天皇)周辺関連

https://www.cool-susan.com/2016/02/28/%E4%BF%9D%E5%85%83-%E5%B9%B3%E6%B2%BB%E3%81%AE%E4%B9%B1/

鳥羽天皇系図.jpg

 白河院(1053-1129))は、後白河院(1127-1192)の曽祖父にあたり、白河院は、堀河・鳥羽・崇徳三代にわたっておよそ四十年間の院政を敷き「治天の君」として仰がれ、一方、後白河院も、二条・六条・高倉・安徳・後鳥羽天皇の五代、一時の中絶はあるが、およそ三十余年に及ぶ院政を行い、鎌倉幕府初代将軍の源頼朝より「「日本一乃大天狗」の異名を授かっている。
 上記の「天皇家略系図」は、第七十二代白河天皇から第七十八代二条天皇までのものであるが、この略系図は、「白河院-鳥羽天皇―崇徳天皇―後白河天皇」、そして、これらの天皇(院)を背景とする「保元の乱・平治の乱」を知る上で恰好のものである。
 同時に、これらの天皇(院)周辺と、千載集撰者の「藤原俊成」、さらには、俊成と並び称せられる歌人の「西行」などの関連を知る上でも便利なものである。
 平安時代末期の保元元年(一一五六)の「鳥羽法皇」崩御に伴い、その皇位継承問題や摂関家の内紛により、朝廷が「後白河天皇」方と「崇徳上皇」方に分裂し、双方の武力衝突に至った政変が「保元の乱」である。この「保元の乱」は、崇徳上皇方が敗北し、崇徳上皇は讃岐に配流され、以後、後白河天皇の時代となり、その政変に「源平」両氏の武士団が加わり、後の約七百年にわたる武家政権へと移行する導火線となった政変である。
 この「保元の乱」がどうして起こったのか、その元凶は「白河院」にある。上記の「鳥羽天皇」の白河院在世中の中宮は「待賢門院璋子(藤原璋子)」で、その第一皇子が「崇徳天皇」、その第二皇子が「後白河天皇」である。
 この崇徳天皇は、白河院の養女で、その白河院の子を宿したまま鳥羽天皇の中宮になったとされる(『古事談』)「待賢門院璋子」の、その夫の「鳥羽天皇」よりは、「叔父子(祖父の子)」と呼ばれて育った第一皇子なのである。
 その鳥羽天皇は「待賢門院璋子(藤原璋子)」の他に、白河院崩御後、待賢門院璋子(藤原璋子)」の次の皇后となる「美福門院得子(藤原得子)」の間に、崇徳天皇の次の天皇となる「近衛天皇」(崇徳天皇は譲位し「上皇」となる)の実母なのである。この近衛天皇が、久寿二年(一一五五)、十七歳で夭逝し、その後継天皇が、あろうことか、当時の崇徳上皇の弟の「後白河天皇」となり、ここで、完全に「白河院―待賢門院璋子(藤原璋子)-崇徳天皇(上皇)」の途は閉ざされ、以後、「鳥羽上皇―美福門院得子(藤原得子)=後白河院(鳥羽院と待賢門院璋子の実子)」の流れとなり、その後白河天皇の次が、その「二条天皇」ということになる。
 そして、この「待賢門院璋子(藤原璋子)」と「美福門院得子(藤原得子)」とが、それぞれ当時のエリート女官を擁し、それぞれ「待賢門院璋子(藤原璋子)」サロン、「美福門院得子(藤原得子)」サロンを形成していて、その代表的な女流歌人が、「待賢門院璋子(藤原璋子)」サロンでは「待賢門院堀河(堀川)」、「美福門院得子(藤原得子)」サロンでは「美福門院多賀」
(西行の友人の寂超の妻、寂超出家後、俊成の妻、定家の母)などが挙げられよう。
 さらに、この「待賢門院璋子(藤原璋子)」は、鳥羽院の北面武士として仕えていた西行(佐藤義清)の出家の動機の一つとされている「失恋説」の相手方とも目されている(『源平盛衰記』など)。
 一方の「美福門院得子(藤原得子)」側の北面の武士は、「保元の乱」そして「平治の乱」を通じて天下の覇者となる平清盛もその一人とされている。さらに、この「美福門院得子(藤原得子)」に仕えた「美福門院多賀」が、西行と俊成の共通の友人である「常盤(大原)三寂」の「寂念・寂然=唯心房・寂超」三兄弟の「寂超」の妻で、その「寂超」との間に「歌人で肖像画の名手・藤原隆信」、その「寂超」出家後、俊成の妻となり「俊成の後継者となる藤原定家」の実母となる、どうにも、一つの大きなドラマの一コマを形成する女性ということになる。
 これらのことについては、下記のアドレスなどで触れている。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-08-11

 このアドレスのもののほか、次のアドレスの「鹿下絵新古今集和歌巻」逍遥ノート(その十六)と『新々百人一首(丸谷才一著)』で、の「藤原忠通(良経の祖父)~藤原良経」関連のものを再掲して置きたい。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-06-06

(再掲)

「鹿下絵新古今集和歌巻」逍遥ノート(その十六)

久寿二年(1155)慈円誕生。摂政関白藤原忠通の子。兼実・兼房らの弟。良経らの叔父。
保元元年(1156)保元の乱(「崇徳上皇・藤原頼長」対「後白河天皇・藤原忠通」の争い)
平治元年(1159)平治の乱(「後白河院政派・源義朝」対「二条親政派・平清盛」の争い)
永万元年 (1165) 慈円、覚快法親王(鳥羽天皇の皇子)に入門、道快を名のる。十歳。
仁安二年(1167)平清盛 太政大臣就任。武家政権成立。
治承四年(1180)源頼朝挙兵し、鎌倉に入る。
文治元年(1185)壇ノ浦合戦、平氏滅亡。慈円、三十歳。
建久三年(1192)頼朝、征夷大将軍。慈円、天台座主に就任する。三十七歳。
建久七年 (1196) 建久七年の政変(兼実の失脚。慈円天台座主などの職位を辞す。)
建仁元年 (1201) 慈円は再び天台座主に補せられる(後鳥羽院院政)。
元久二年(1205)『新古今和歌集』成る。慈円、五十歳(「和歌所」寄人)。
建暦二年(1212)鴨長明『方丈記』成る。慈円、三たび天台座主に就く。五十七歳。
承久二年(1220)慈円『愚管抄』成る。六十五歳。
承久三年(1221)承久の乱。後鳥羽上皇ら配流。六十六歳。
嘉禄元年 (1225) 慈円入寂。七十歳。

(再掲)

 『新々百人一首(丸谷才一著)』で、「藤原忠通(良経の祖父)~藤原良経」までの歌を掲出して置きたい(配列番号=時代順番号)。

54 限りなくうれしと思ふことよりもおろかの恋ぞなほまさりける(忠通=兼実・慈円の父)
55 かざこしを夕越えくればほととぎす麓の雲のそこに鳴くなり(藤原清輔=六条藤家)
56 花すすき茂みがなかをわけゆかば袂をこえて鶉たつなり(俊恵=源俊頼の子、長明の師)
57 七夕のとわたる舟の梶の葉にいく秋かきつ露のたまづさ(俊成=御子左家、定家の父)
58 あらし吹く峯の木の葉にさそはれていづち浮かるる心なるらん(西行=俊成と双璧)
59 朝夕に花待つころは思ひ寝の夢のうちにぞ咲きはじめける(崇徳院=保元の乱時の上皇)
60 あふさかの関の杉むら霧こめて立ちども見えぬゆふかげの駒(侍賢門院堀河)
61 ますら男がさす幣(みてぐら)は苗代の水の水上まつるなるらん(源有房=俊恵歌壇)
62 舟出する比良のみなとのあさごほり棹にくだくる音のさやけさ(顕昭=六条藤家)
63 逢ふまでの思ひはことの数ならで別れぞ恋のはじめなりける(寂蓮、俊成の甥、養子)
64 なにはがた汀の蘆は霜がれてなだの捨舟あらはれにけり(二条院讃岐)
65 ゆく春のあかぬなごりを眺めてもなほ曙やおもがはりせぬ(藤原隆信=定家の異父兄)
66 ささなみや志賀の都は荒れ西にしを昔ながらの山桜かな(平忠度=清盛の末弟、俊成門)
67 難波江の春のなごりにたへぬかなあかぬ別れはいつもせしかど(祇寿=江口の妓・遊女)
68 桜咲くたかねに風やわたるらん雲たちさわぐ小初瀬の山(兼実=慈円の兄、良経の父)
69 山おろしに散るもみぢ葉つもるらん谷のかけひの音よわるなり(長明=『方丈記』作者)
70 旅の世にまた旅寝して草まくら夢のうちにも夢を見るかな(慈円=『愚管抄』の作者)
71 秋風に野原のすすき折り敷きて庵あり顔に月を見るかな(家隆=定家と双璧の歌人)
72 わが恋は知る人もなしせく床の泪もらすなつげの小枕(式子内親王=『新古』女流代表)
73 駒とめて袖うちはらふかげもなし佐野のわたりの雪の夕ぐれ(定家=『百人一首』撰者)
74 昔たれかかる桜の花を植ゑて吉野を春の山となしけん(良経=『新古』「序」の起草者)

(再掲)

54 限りなくうれしと思ふことよりもおろかの恋ぞなほまさりける(忠通=兼実・慈円の父)
68 桜咲くたかねに風やわたるらん雲たちさわぐ小初瀬の山(兼実=慈円の兄、良経の父)
70 旅の世にまた旅寝して草まくら夢のうちにも夢を見るかな(慈円=『愚管抄』の作者)
74 昔たれかかる桜の花を植ゑて吉野を春の山となしけん(良経=『新古』「序」の起草者)

 ここで、慈円と同年齢(共に久寿二年=一一五五の生れ)の鴨長明の『方丈記』と『愚管抄』とを紹介して置きたい。また、上記の主要な歌人などと「慈円・長明」との年齢の開きも付記して置きたい。

https://nenpyou-mania.com/n/jinbutsu/11260/慈円

「藤原忠通」   →五十八歳年上
「藤原俊成」   →四十一歳年上
「西行・平清盛」 →三十七歳年上
「崇徳天皇」   →三十五歳年上
「後白河天皇」  →二十七歳年上
「藤原隆信」    →十三歳年上
「藤原(九条)兼実」 →六歳年上
「藤原家隆」     →二歳年下
「藤原定家」     →六歳年下 
「藤原(九条)良経」→十三歳年下
「後鳥羽天皇」  →二十五歳年下
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四季草花下絵千載集和歌巻(その五) [光悦・宗達・素庵]

(その五) 和歌巻(その五)

和歌巻4.jpg

「光悦筆 四季草花宗達下絵和歌巻」(日本古典文学会・貴重本刊行会・日野原家蔵一巻)

      十首歌人によませ侍ける時、花のうたとてよめる
76 み吉野の花のさかりけふ見れば越(こし)の白根に春風ぞ吹く(皇太后大夫俊成)
(吉野山の花盛りを今日眺めると、白雲を頂いた越の白山に春風が吹いているようだよ。)

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/syunzei2.html

【 「皇太后大夫俊成」=「藤原俊成」(ふじわらのとしなり・しゅんぜい) 永久二年~元久元年(1114-1204) 法号:釈阿 通称:五条三位)

 藤原道長の系譜を引く御子左(みこひだり)家の出。権中納言俊忠の子。母は藤原敦家女。藤原親忠女(美福門院加賀)との間に成家・定家を、為忠女との間に後白河院京極局を、六条院宣旨との間に八条院坊門局をもうけた。歌人の寂蓮(実の甥)・俊成女(実の孫)は養子である。
 保安四年(1123)、十歳の時、父俊忠が死去し、この頃、義兄(姉の夫)にあたる権中納言藤原(葉室)顕頼の養子となる。これに伴い顕広と改名する。大治二年(1127)正月十九日、従五位下に叙され、美作守に任ぜられる。加賀守・遠江守を経て、久安元年(1145)十一月二十三日、三十二歳で従五位上に昇叙。同年三河守に遷り、のち丹後守を経て、久安六年(1150)正月六日、正五位下。同七年正月六日、従四位下。久寿二年(1155)十月二十三日、従四位上。保元二年(1157)十月二十二日、正四位下。仁安元年(1166)八月二十七日、従三位に叙せられ、五十三歳にして公卿の地位に就く。翌年正月二十八日、正三位。また同年、本流に復し、俊成と改名した。承安二年(1172)、皇太后宮大夫となり、姪にあたる後白河皇后忻子に仕える。安元二年(1176)、六十三歳の時、重病に臥し、出家して釈阿と号す。元久元年(1204)十一月三十日、病により薨去。九十一歳。
 長承二年(1133)前後、丹後守為忠朝臣家百首に出詠し、歌人としての活動を本格的に始める。保延年間(1135~41)には崇徳天皇に親近し、内裏歌壇の一員として歌会に参加した。保延四年、晩年の藤原基俊に入門。久安六年(1150)完成の『久安百首』に詠進し、また崇徳院に命ぜられて同百首和歌を部類に編集するなど、歌壇に確実な地歩を固めた。六条家の藤原清輔の勢力には圧倒されながらも、歌合判者の依頼を多く受けるようになる。治承元年(1177)、清輔が没すると、政界の実力者九条兼実に迎えられて、歌壇の重鎮としての地位を不動とする。寿永二年(1183)、後白河院の下命により七番目の勅撰和歌集『千載和歌集』の撰進に着手し、息子定家の助力も得て、文治四年(1188)に完成した。建久四年(1193)、『六百番歌合』判者。同八年、式子内親王の下命に応じ、歌論書『古来風躰抄』を献ずる。
 この頃歌壇は後鳥羽院の仙洞に中心を移すが、俊成は院からも厚遇され、建仁元年(1201)には『千五百番歌合』に詠進し、また判者を務めた。同三年、院より九十賀の宴を賜る。最晩年に至っても作歌活動は衰えなかった。詞花集に顕広の名で初入集、千載集には三十六首、新古今集には七十二首採られ、勅撰二十一代集には計四百二十二首を入集している。家集に自撰の『長秋詠藻』(子孫により増補)、『長秋草』(『俊成家集』とも。冷泉家に伝来した家集)、『保延のころほひ』、他撰の『続長秋詠藻』がある。歌論書には上述の『古来風躰抄』の外、『萬葉集時代考』『正治奏状』などがある。

「俊頼が後には、釈阿・西行なり。釈阿は、やさしく艶に、心も深く、あはれなるところもありき。殊に愚意に庶幾する姿なり」(後鳥羽院「後鳥羽院御口伝」)。

「ただ釈阿・西行の言葉のみ、かりそめに言ひ散らされしあだなるたはぶれごとも、あはれなるところ多し。後鳥羽上皇の書かせたまひしものにも『これらは歌にまことありて、しかも悲しびを添ふる』とのたまひはべりしとかや。されば、この御言葉を力として、その細き一筋をたどり失ふことなかれ」(芭蕉「許六別離の詞」)。 】

(参考)

和歌巻36.jpg

(『書道芸術第十八巻 本阿弥光悦』)

釈文(揮毫上の書体)=上図右側

三芳野濃(の)華の盛(さかり)を今日三禮盤(みれば)こし濃(の)しら年(ね)尓(に)ハる可瀬(かぜ)(ぞ)吹(ふく)

※三芳野=み吉野=吉野山。「み」は言葉の頭につける美称。
※華の盛=花の盛り。
※三禮盤(みれば)=見れば。
※こし濃(の)しら年(ね)=越の白根。加賀白山。石川・岐阜県境。四時雪の消えない山とされた。
※ハる可瀬(かぜ)=春風。

【 下絵に桜をはじめとしているのは、この巻が桜の和歌をえらんで書かれているのと相応するもののようである。この和歌巻は一に「桜和歌巻」とよばれているとおり、桜を主題としているものである。さきの桜下絵(「桜下絵新古今和歌巻」) に比べると桜の絵は描きかたがことなっている。この巻の桜の林立する幹や、丸い花の束のようになったすがたなど、よく意匠をこらしている。藤、躑躅、萩、薄、松原、千鳥など、嵯峨本の雲母紋様と通ずるものがあり、この巻の製作には嵯峨本との何らかの関連がありそうである。】(『書道芸術第十八巻 本阿弥光悦』)

※「鷹ケ峰芸術村」周辺

http://zuien238.sakura.ne.jp/newfolder1/wasi-history6.html#%E9%B7%B9%E3%82%B1%E5%B3%B0%E8%8A%B8%E8%A1%93%E6%9D%91

■鷹ケ峰芸術村

 から紙作りは、もともと都であった京が発祥の地であり、その技術も洗練されていった。 近世初期の、本阿弥(ほんあみ)光悦(こうえつ)の鷹ケ峰(たかがみね)芸術村では、「嵯峨本(さがほん)」などの料紙(りょうし)としてのから紙を制作し、京から紙の技術をさらに洗練させ、京の唐紙師がその伝統を継承していった。
 本阿弥光悦(1558ー1637)は、室町幕府の御用をつとめた刀剣の鑑別・研磨を業(なりわい)とした本阿弥家の、多賀宗春を祖とする分家に生まれ、本阿弥宗家の光心の養子となっている。本阿弥光悦の父である光二は、応仁(おうにん)の乱の当時、京都所司代として権勢を振るった多賀高忠の孫と伝えられている。室町幕府に出仕する武家と深い関係を有していた。本阿弥光悦は、このような出自から、刀剣の鑑別・研磨をはじめとして、さらに絵画・蒔絵(まきえ)・陶芸にも独創的な才能を発揮した。また書道でも寛永の三筆の一人といわれ、工芸に多彩な才能を発揮した。
 本阿弥光悦の晩年の元和(げんな)元年(1615)、徳川家康からその芸術の才能を愛され、洛北の鷹ケ峰に約9万坪という広大な敷地を与えられ各種の工芸家を集め、本阿弥光悦流の芸術精神で統一した芸術村を営むことになった。本阿弥光悦の芸術の重要なテーマは、王朝文化の復興であり、その一つとして王朝時代の詠草料紙の復活と「から紙」を作り、書道の料紙とするとともに、嵯峨本の料紙とすることであった。
 嵯峨本とは、別名角倉本(すみのくらほん)、光悦本ともいい、京の三長者に数えられる嵯峨の素封家角倉素庵が開版し、多くは本阿弥光悦の書体になる文字摺の国文学の出版であった。慶長(けいちよう)13年(1608)開版の嵯峨本『伊勢物語』は、挿し絵が版刻された最初のものであった。嵯峨本の影響を受けて、仮名草紙(そうし)(仮名書きの物語・日記・歌などの総称)、浄瑠璃(じょうるり)本、評判記なども版刻の挿し絵を採用するようになった。仮名草紙の普及で、のちに西鶴文学が生まれ、挿し絵と文字を組み合わせた印刷本が、庶民の要望に応えて量産されるようになった。
嵯峨本は、豪華さと典雅さを特徴とし、装丁・料紙・挿し絵のデザインのきわめて優れたものであった。
 料紙は王朝文化の伝統に、新しい装飾性を加えた図案を俵屋宗達が描いている。俵屋宗達は、慶長から寛永にかけて活躍した絵師で、光悦の芸術村に参加している。俵屋宗達の独特の表現と技術を凝らした画風が評判となり、のちに宮廷にも認められ、狩野派など一流画壇の絵師たちと並んで仕事を請け負うようになった。町の絵師の出身としては異例の「法橋(ほつきよう)」に叙任(じよにん)され、今日に残るふすま絵や屏風(びょうぶ)絵の名作を数多く描いている。
   (中略)
 この俵屋宗達の図案を版木に彫り、印刷してから料紙にする仕事を担当したのが紙師宗二である。紙師(かみし)宗二は、光悦の芸術村活動に参加した工芸家で、紙師(かみし)の文字は、紙を漉く工人を意味するのではなく、唐紙師の意で称されている。光悦の発想と宗達の意匠に、さらに宗二の加工技術が調和して、美しい「から紙」の料紙が生み出されたのである。芸術村で作られた「から紙」は、ほとんどが嵯峨本の出版用の料紙や詠草(えいそう)料紙(りょうし)であったが、近世の京唐紙師の一部にその技術が伝承され、京から紙の基礎を築いたともいえる。京からかみの紋様のなかに光悦桐や、宗達につながる琳派(りんぱ)の光琳(こうりん)松、光琳菊、光琳大波などのデザインがある。
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四季草花下絵千載集和歌巻(その三・四) [光悦・宗達・素庵]

(その三・四) 和歌巻(その三・四)

和歌巻3.jpg

「光悦筆 四季草花宗達下絵和歌巻」(日本古典文学会・貴重本刊行会・日野原家蔵一巻)

     歌合し侍ける時、花歌とてよめる
74 を初瀬の花のさかりを見わたせば霞にまがふみねの白雲(太宰大弐重家)
(初瀬山の花の盛りを遠く望むと、霞にまぎれて峰の桜は白雲と見分けがつかないよ。)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-07-05

【 藤原重家  大治三~治承四(1128-1180)
 もとの名は光輔。六条藤家顕輔の子。清輔の弟。季経の兄。経家・有家・保季らの父。
諸国の守・刑部卿・中宮亮などを歴任し、従三位大宰大弐に至る。安元二年(1176)、出家。法名蓮寂(または蓮家)。治承四年十二月二十一日没。五十三歳。
 左京大夫顕輔歌合・右衛門督家成歌合・太皇太后宮大進清輔歌合・太皇太后宮亮経盛歌合・左衛門督実国歌合・建春門院滋子北面歌合・広田社歌合・九条兼実家百首などに出詠。また自邸でも歌合を主催した。兼実家の歌合では判者もつとめている。兄清輔より人麿影像を譲り受けて六条藤家の歌道を継ぎ、子の経家に伝えた。詩文・管弦にも事蹟があった。
『歌仙落書』に歌仙として歌を採られる。自撰家集『大宰大弐重家集』がある。千載集初出。 】

75 さゞなみや長等(ながら)の山のみねつゞき見せばや人に花のさかりを(藤原範綱 本名雅清)
(さざ波の長等の山の峰から峰へと続く花の盛りを、心ある人にみせたいものだなあ。)

【 藤原範綱 生年未詳、治承三年(一一七九)十月以降没(道因没年と同年)
 本名、雅清または永綱、覚綱の父、従五位上右馬頭。永万元年(一一六五)出家、法名、西遊。「千載集二首入集(七五、一一四) 】(『新日本古典文学大系10 千載和歌集』)

(参考)

和歌巻34.jpg
(『書道芸術第十八巻 本阿弥光悦』)

釈文(揮毫上の書体)=上図右側

をハつ世乃(の)ハ那(はな)の盛(さかり)を三(み)わ多(た)勢(せ)ハ(ば)霞尓(に)ま可(が)ふ三年(みね)乃(の)しら雲

※をハつ世(せ)=を初瀬、初瀬山。大和国の枕詞。
※ハ那(はな)の盛(さかり)=花の盛り。
※三(み)わ多(た)勢(せ)ハ(ば)=見わたせば。
※三年(みね)乃(の)しら雲=峰の白雲。

釈文(揮毫上の書体)=上図左側

左々波(さざなみ)やな可(が)らの山濃(の)三年(みね)徒々幾(つづき)見勢ハ(みせば)や人尓(に)ハ那(はな)乃(の)左可里(さかり)を

※左々波(さざなみ)や=「さざなみ(楽浪)」は、琵琶湖南西岸の古名。「さざなみや」で志賀(滋賀)の枕詞。
※な可(が)らの山=長等(ながら)の山。滋賀県大津市中西部にある山。長柄山、長良山とも書き、志賀山(しがやま)ともいう。歌枕。
※三年(みね)徒々幾(つづき)=峰続き。
※見勢ハ(みせば)や=見せばや。
※ハ那(はな)=花。
※左可里(さかり)=盛り。

(参考)

【 本阿弥行状記(一一二)にも、「散る花、かたぶく月こそ見る所も深しと、つれづれに書き置かれし兼好法師の志こそありがたけれ」という。心のままにしげれる秋の野らは、置きあまる露にうづもれて、虫の音かごとがましく、と千草にすだく虫の音のもきこえるかのような野辺の情緒がわきおこってくる。この和歌巻に盛られている自然の景色は、王朝人のおりふしのうつりゆきのなかにあったあわれさから来たものであり、それが生きた洛外の風物のなかから生き生きとえがかれている。木版下絵は木版という技法のうちから雲母刷りによってあらわされる特殊な洒脱さをもっているが、この巻はまともに専門の画家の手に出たとおもわれる精密さがあり、調度品として、心をつくして作られた和歌巻であろう。】
(『書道芸術第十八巻 本阿弥光悦』)

※「紙師(唐紙師)宗二」周辺

http://nico-wisdom.com/newfolder1/newfolder1/wasi-history6.html

(再掲)

■経師からの分業
 鎌倉時代にはいって書院造りが普及し、「唐紙師(からかみし)」という唐紙の専門家があらわれ、表具師(布や紙を具地に貼る)は分業化され、その名を引き継いで経師(きようじ)ともいわれた。経師が唐紙の木版摺(す)も行ったようである。経師とは、本来は経巻の書写をする人のことであったが、経巻の表具も兼ねていた。 のちにその表具の技術を活かして、依頼されて唐紙を障子(襖)に張った。
しだいに襖の表具も兼ねるようになり、「からかみ」の国産化に伴って、木版を摺(す)る絵付けまで守備範囲が拡大したようである。むろん当時の「から紙障子」は公家や高家の貴族の邸宅に限られており、需要そのものが少なく、専門職を必要とはしていなかった。
 南北朝から室町初期に記された『庭訓往来(ていきんおうらい)』には、「城下に招き居えべき輩(やから)」として多くの商人、職人の名を列挙しており、襖障子に関係するものとして唐紙師、経師、紙漉、塗師、金銀細工師などを挙げており、襖建具が分業化された職人を必要とするほどに、しだいに武士階級に普及していたことがわかる。
 『庭訓往来』の作者は南北朝の僧玄恵とされ、室町初期前後の成立ながら、江戸初期に名古屋で代表的な書肆(しよし)(出版社兼書店)であった永楽屋東四郎が出版し、広く使用された手習いの教科書と言えるものである。往来物(往復の手紙)の形式をとり、寺子屋で習字や読本として使用された。手紙文の形で社会生活に必要なさまざまなことばを手習わせることを目的のひとつとした 。当時の風俗を知る手がかりとしての史料価値が高い。
■きらら
  「からかみ」は、紋様を彫った版木に雲母(うんも)または具(顔料)を塗り、地紙(じがみ)を乗せて手のひらでこすって摺(す)る。 雲母は、花崗岩(かこうがん)の薄片状の結晶の「うんも」で、古くは「きらら」、現在では「キラ」といい、白雲母の粉末にしたものを用いる。独特のパール状の光沢があり、どの顔料ともよく混ざり、大和絵の顔料として用いられてきた。
 具は、蛤(はまぐり)などの貝殻を焼いて粉末にした白色顔料の胡粉(こふん)に膠(にかわ)や腐糊(ふのり) と顔料を混ぜたものである。胡粉(こふん)は鎌倉時代までは鉛白(えんぱく)が使われ、白色顔料として使用された。胡粉(こふん)は顔料の発色が良くなり、また地紙の隠蔽性(いんぺいせい)を高める。このため地塗りとしても使用された。一般的には、顔料を混ぜた具で地塗りをし、雲母で白色の紋様を摺(す)る方法(地色が暗く、紋様を白く浮かせるネガティブ法)と、逆の雲母で地塗りし具で摺(す)る、具摺(す)り(地色が白く、紋様に色がつくポジティブ法)も行われた。
■絹篩(ふるい)
 これらを基本に各種の顔料や金銀泥(きんぎでい)を加えて紋様が摺(す)られるが、絵具を版木に移すときに絹篩(ふるい)いという用具を用いる。絹篩(ふるい)は、杉などの薄板を円形状に丸めた木枠に、目の粗い絹布か寒冷紗(かんれいしや)(粗くて硬い極めて薄い綿布)を張ったもので、これに絵具を刷毛で塗り、版木に軽く押しつけて顔料を移す。顔料の乗った版木の上に地紙をのせて、紙の裏を手のひらで柔らかくこする。 その動作が平泳ぎのような手の動きに似ている事から、「泳ぎ摺(す)り」ともいう。
 版画のように版木に直接絵具を刷毛(はけ)塗りをせず、から紙は絹篩(ふるい)を通して絵具を移し、手の平でこするのは、顔料の着量の調節が目的で、ふっくらとした風合いのある仕上がりを得るためである。木版摺(すり)には、この他に空(から)摺・利久摺(利休紙)・月影摺・蝋箋(ろうせん)などの技法も使用されていた。
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四季草花下絵千載集和歌巻(その二) [光悦・宗達・素庵]

(その二) 和歌巻(その二)

和歌巻2.jpg

「光悦筆 四季草花宗達下絵和歌巻」(日本古典文学会・貴重本刊行会・日野原家蔵一巻)

73 花の色にひかりさしそふ春の夜ぞ木のまの月は見るべかりける(上西門院兵衛「千載集」)
(美しい花の色に月が光を照り添える春の夜は、そのほのかに白い花の木の間から月は眺めるべきものであるよ。)

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/josai_hy.html

【上西門院兵衛 (生没年未詳 別称:待賢門院兵衛)
村上源氏。右大臣顕房の孫。父は神祇伯をつとめ歌人としても名高い顕仲。姉妹の待賢門院堀河・顕仲女(重通妾)・大夫典侍はいずれも勅撰歌人。
はじめ待賢門院璋子(鳥羽天皇中宮)に、のち斎院統子内親王(上西門院)に仕えた。上西門院の落飾に伴い出家。没年は寿永二、三年(1183~4)頃かという。
崇徳院主催の『久安百首』の作者の一人。金葉集初出。勅撰入集二十九首。   】

(参考)

和歌巻32a.jpg

「四季花卉下絵千載和歌巻」(「四季草花下絵千載集和歌巻」・「光悦筆 四季草花宗達下絵和歌巻」)その一・その二(『書道芸術第十八巻 本阿弥光悦』所収)

釈文(揮毫上の書体)=上図左側

華乃色尓(に)光左(さ)し曾(そ)ふ春濃(の)夜曾(ぞ)こ濃間(のま)能(の)月ハ(は)見るべ可里気流(かりける)

※華乃色=花の色
※春濃夜曾=春の夜ぞ
※こ濃間能月=木の間の月
※見るべ可里気流=見るべかりける

【 これが古く曼殊院宮に伝わっていたとすれば、あるいは曼殊院良恕法親王(一五七四―一六四三)に贈られたものではないか。良恕法親王は光悦と同じく青蓮院尊朝法親王に書を学び、入木道においてとくにすぐれ、そのかなは実に見事なものが伝えられている。光悦の和歌巻を所望されて献上したものがこれではないか。おそらくよくぞそのこのみにかなったのではなかろうか。 】(『書道芸術第十八巻 本阿弥光悦』)

(追記メモ)

※曼殊院良恕法親王(一五七四―一六四三)

https://kotobank.jp/word/%E6%9B%BC%E6%AE%8A%E9%99%A2%E8%89%AF%E6%81%95%E6%B3%95%E8%A6%AA%E7%8E%8B-20985

江戸初期の親王。曼殊院門跡。陽光院誠仁親王第三皇子。後陽成天皇の弟。初名勝輔、法名覚円のち良恕。幼称は三宮、号は忠桓。尊朝親王のもとで得度、伝法灌頂を受ける。第百七十代天台座主となり、二品に叙せられる。書画・和歌・連歌を能くした。著書に『厳島参詣記』がある。寛永20年(1643)薨去、70才。

良恕法親王古筆切.jpg

曼珠院門跡 良恕法親王・古筆切(右近少将教長。藤原実方朝臣 和歌二首)

※曼殊院

https://www.manshuinmonzeki.jp/

(追記メモ)

 曼殊院良恕法親王(一五七四―一六四三)は、光悦(一五五八-一六三七)より十六歳程度年少で、第一〇七代天皇の後陽成天皇の実弟である。後陽成天皇の在位期間は、天正十四年(一五八六)から慶長十六年(一六一一)で、豊臣秀吉から徳川家康,秀忠父子の時代にあたり,皇室が久しい式微の状態から脱して一応尊厳を回復した時期であった。
 光悦の、この「四季草花下絵千載集和歌巻」の署名は「大虚庵 光悦(花押)」で、この「大虚庵」の庵号は、元和元年(一六一五)の鷹峯の地へ移住後で、後陽成天皇の時代の次の後水尾天皇(一五九六―一六八〇、在位期間=一六一一―一六二九)の時代である。
 この後水尾天皇は、歌道を「智仁親王(初代八条宮)・三条西実条・烏丸光広・中院通村」に師事し、寛永二年(一六二五)智仁親王から古今伝授を受けている。のちに宮廷歌壇の最高指導者として稽古会や古典講釈を催し、後継の親王や公卿に古今伝授を行い御所伝授による宮廷歌壇を確立したことで知られている。
 この、智仁親王(初代八条宮)は、「後陽成天皇(和仁親王(後陽成天皇)・空性法親王(天王寺別当)・良恕法親王(天台座主)・興意法親王(織田信長猶子))の末弟で、豊臣秀吉の猶子にもなっている。
 これらの「後陽成天皇・後水尾天皇」の「慶長・元和・寛永」の時代は、同時に、「後陽成天皇・後水尾天皇」周辺の「後陽成・後水尾院文化サロン」的な場を形成していていた。
それらは、「歌道」(「智仁親王(初代八条宮)・三条西実条・烏丸光広・中院通村」等の「古今伝授」継受者等を中心とする)」、「茶道」(「後水尾院・公家・宮家・門跡」等の「仙洞茶会」・「大納言日野資勝」等の「公家と町衆(光悦等)」の茶会、「町衆(光悦等)と武家・大名(古田織部・小堀遠州・前田利常・加藤嘉明等々)」との茶会・「千宗旦・近衛家等と町衆(光悦等)との茶会等々)、「華道」(「池坊専好」等)、「書道」(「「歌道」と密接不可分の世界)、「能・能楽」(「観世大夫身愛(黒雪)」等の世界)、「画(俵屋宗達等)・工芸(蒔絵師五十嵐家等、陶芸師楽家・紙師宗二等々)との世界)と、それらが輻輳した、その象徴的な世界が、「光悦と宗達等々」との「和歌巻」の世界であると解することも出来よう。
それらの「後陽成・後水尾文化サロン」の「歌道」「書道」「茶道」「華道」「能・能楽」「画・工芸」の諸分野に精通し、それらの分野の第一人者(「歌道=烏丸光広等」「書道=松花堂昭乗等」「茶道=千宗旦等」「華道=池坊専好等」「能・能楽=観世黒雪等」「画=俵屋宗達等、蒔絵=五十嵐家等、陶芸=楽家等、嵯峨本=角倉素庵等、唐紙=宗二等)から、先達(先に立って案内する人)として仰がれていた人物こそ、本阿弥光悦と解したい。

※三条西実条(一五七五―一六四〇)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%9D%A1%E8%A5%BF%E5%AE%9F%E6%9D%A1

三条西家の家職は歌道であり、実条の高祖父で戦国時代前期の当主・三条西実隆は当代随一の歌人と評された。実隆・公条・実枝の三代はいずれも歌道に優れており、家職として歌道を継承した(古今伝授)。しかし実枝は子の公国が幼かったため、弟子の一人であった細川幽斎に中継ぎとして歌道を継承した。公国成人後、幽斎は歌道を継承しようとしたが、公国が32歳で死去したため、幽斎は改めて公国の子である実条に歌学伝授を行い、師・実枝との約束を果たした。

※烏丸光広(一五七九―一六三八)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%83%8F%E4%B8%B8%E5%85%89%E5%BA%83

後水尾上皇からの信任厚く、公武間の連絡上重要な人物として事あるごとに江戸に下り、公卿の中でも特に江戸幕府側に好意を寄せていた。また、自由闊達な性格で逸話にも富み、多才多芸な宮廷文化人として、和歌や書・茶道を得意とした。とりわけ歌道は慶長八年(一六〇三)に細川幽斎から古今伝授を受けて二条派歌学を究め、将軍・徳川家光の歌道指南役をも勤めている。書については、大変ユニークではあったが、寛永の三筆に決して劣らず、光広流と称される。本阿弥光悦や俵屋宗達など江戸の文化人と交流があり、また、清原宣賢に儒学を学び、沢庵宗彭・一糸文守(いっしもんじゅ)に帰依して禅をも修めた。

※中院通村

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E9%99%A2%E9%80%9A%E6%9D%91

三代将軍・徳川家光に古今伝授を所望されたが、これを断ったという硬骨漢である。
後水尾天皇の譲位を幕府に報告しなかった理由について、京都所司代の板倉重宗から問われた通村は「洩らすな」との勅命があったことを告白。これに対し重宗は「内々に知らせるべきであった」としたが、通村は「勅命に背いて君臣仁義を破り、人に内応する者がありましょうか。もしそなたが、関東から都の人に知らせるなと聞かれましたら、そなたも洩らしはなさるまい。我らは天子の臣でござる。関東の臣ではござらぬ」と答えた。これには重宗も言葉がなかったという。

※古今伝授(こきんでんじゅ)

https://kotobank.jp/word/%E5%8F%A4%E4%BB%8A%E4%BC%9D%E6%8E%88-63700

(再掲)

『古今和歌集』の解釈上の問題点を,師匠から弟子へ教授し,伝えていくこと。「三木三鳥」などと呼ばれる,同集所見の植物や鳥についての解釈を秘説として,これを短冊形の切り紙に書き,秘伝として特定の弟子に授ける,いわゆる切り紙伝授が特に有名。しかし,本来は同集全体についての講義を行い,証本を授与することもあったらしい。その萌芽は,藤原俊成が藤原基俊に入門し,『古今集』について教えを受けたことにある。俊成は息子の定家にこれを伝え,定家は『僻案抄』ほかを著わして,若干の弟子に教えている。伝授の形式は,基俊,俊成,定家以来の教えを伝えていると称する東常縁 (とうつねより) が,宗祇に伝授したときから整えられた。宗祇以後,御所伝授 (宗祇-三条西実隆-細川幽斎-智仁親王-後水尾院) ,堺伝授 (宗祇-肖柏-宗伯) ,奈良伝授 (肖柏-林宗二) などの各流が派生した。本来は純然たる古典研究であったが,中世神秘思想の影響を受けて,室町時代以降,空疎な内容,末梢的な事柄を秘事として尊信する形式主義に流れ,近世の国学者の批判を受けた。しかし文化史的意義は見逃せない。(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)

※入木道(じゅぼくどう)

(再掲)

https://kotobank.jp/word/%E5%85%A5%E6%9C%A8%E9%81%93-78221


書道の異称。書聖と仰がれる晋の王羲之の書の筆力が強く,木に書いた墨が3分もしみこんだという故事による。日本では平安時代以後,流儀書道の世尊寺流,青蓮院流,持明院流などで書道のことを入木道と称した。(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)

http://www.shodo.co.jp/blog/review/2013/04/1994.html

(再掲)

こうした「入木道」の伝授書は、公家社会の儀式における書の揮毫について、たとえば屏風や門額などをどのように書くか、またその心得などが記されていました。それが家の中で「秘伝」として伝えられてきたのです。14世紀の尊円親王による書論書『入木抄』はその代表格です。
著者が強調するのは、この時代における「書の日常性」ということです。つまり、「書」は現在の社会ではどちらかというと非日常的な行為としてありますが、この時代の公家社会にとっては「言語生活の基盤」であったということなのです。そのことの一つの現れとして、公家の日記から興味深いことが分かります。それによると、公家はだいたい六、七歳頃から手習いを始めるのですが、成人してからも、古典籍の書写が日常的に大きなウエートを占める習慣としてあり、毎日かなりの量の文献を書き写しています。この行為は古今和歌集や源氏物語をはじめとする書物をまずなにより読むため、そして書物として伝承する意味を持っています。三条西実隆は古今集約1100あまりの歌をだいたい5日間くらいで書き写したということです。ひるがえって、現在の私たちの言語生活の基盤は何でしょうか。
こうした中世の公家の「入木道」のありかたは、私たちがぼんやりと考えている「定型化した(つまらない)書」というイメージとは 大きく異なっています。むしろこの本に描かれる中世は、ひたすらに「書く」ことで成り立っていたのではないかと思わせ、「書くこと」が言語生活の基盤で あった社会とはどのようなものだろうと想像をかき立てられるのです。(「中世における「書」を考える──新井榮蔵『「書」の秘伝』)

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四季草花下絵千載集和歌巻(その一) [光悦・宗達・素庵]

(その一) 和歌巻(その一)

和歌巻1.jpg

「光悦筆 四季草花宗達下絵和歌巻」(日本古典文学会・貴重本刊行会・日野原家蔵一巻)

     百首歌たてまつりける時よめる
72 白雲とみねのさくらは見ゆれども月のひかりはへだてざりけり(待賢院堀河「千載集」)
(峰の桜は白雪とみまがうけれど、その花の雲は、月の光を遮らないよ。)

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/taiken_h.html

【待賢門院堀河(生没年未詳 別称:伯女・伯卿女・前斎院六条)
村上源氏。右大臣顕房の孫。父は神祇伯をつとめ歌人としても名高い顕仲。姉妹の顕仲女(重通妾)・大夫典侍・上西門院兵衛はいずれも勅撰歌人。
はじめ前斎院令子内親王(白河第三皇女。鳥羽院皇后)に仕え、六条と称される。のち待賢門院藤原璋子(鳥羽院中宮。崇徳院の母)に仕えて堀河と呼ばれた。この間、結婚し子をもうけたが、まもなく夫と死別し(家集)、まだ幼い子は父の顕仲の養子に出した(新千載集所載歌)。康治元年(1142)、待賢門院の落飾に従い出家し、仁和寺に住んだ(山家集)。この頃、西行との親交が知られる。
院政期の代表的女流歌人。大治元年(1126)の摂政左大臣忠通歌合、大治三年(1128)の西宮歌合などに出詠。また崇徳院が主催し久安六年(1150)に奏覧された『久安百首』の作者に名を列ねる。家集『待賢門院堀河集』(以下「堀河集」と略)がある。金葉集初出。勅撰入集六十七首。中古六歌仙。女房三十六歌仙。小倉百人一首に歌をとられている。  】

(参考)

千載・上弦月.jpg

(再掲)

https://weathernews.jp/s/topics/201802/220075/

光悦筆・宗達下絵「「四季草花下絵千載集和歌巻」(部分図)  個人蔵 紙本墨書 金銀泥下絵 一巻 縦三四・〇㎝ 横九二二・二㎝
【 末尾に「伊年」印のある和歌巻のうち、浅黄、白、薄茶などの色紙をつなげ、四季の草花や景物を描いた優美な様式もの。書は作者や詞書を省略し、春の歌二十五首を選んで闊達に執筆する。慶長末期から元和初めに推定される筆跡は、掲出の月に秋草の場面からもわかるように、漢字まじりの大字を象徴的にあつかい、小字の仮名は虫のごとく、叢(くさむら)に潜めるように配置する。薄や末尾の松林などは「平家納経」補修箇所と一致し、その展開であることが示唆される。「大虚庵光悦(花押)の署名がある。 】(『もっと知りたい本阿弥光悦(玉蟲敏子他著)』)

https://www.tobunken.go.jp/materials/glass/118105.html


(追記その一)

和歌巻32a.jpg

「四季花卉下絵千載和歌巻」(「四季草花下絵千載集和歌巻」・「光悦筆 四季草花宗達下絵和歌巻」)その一・その二(『書道芸術第十八巻 本阿弥光悦』所収)

釈文(揮毫上の書体)=上図右側

白雲と見年濃(みねの)桜盤(は)三遊連(みゆれ)共(ども)徒幾能(つきの)日可利(ひかり)ハ隔(へだて)左里介利(ざりけり)

(追記メモ)

 一口に、光悦仮名(光悦流など)、その一端の「変体仮名=異体仮名=異なり字体」も、これまた、杓子定規ではない。

峰(みね)の=見年濃(みねの)
見ゆれども=三遊連(みゆれ)共(ども)
月のひかり=徒幾能(つきの)日可利(ひかり)
ざりけり=左里介利(ざりけり)

【 この和歌巻はもと京都一乗寺の曼殊院宮に伝わってものという。その下絵の華麗なこと。書のうるわしいことからしても、調度品として高貴の人におくられたものに相違ない。下絵の用紙は二十五枚、白色、淡黄色、淡黄色などの色紙をもちいている。紙の色と金銀の彩色の調子のうつくしさは形容しがたい。紙背に蝶の紋様をとびちらし、紙縫の二箇所に「紙師宗二」の印がある。大正三年、団琢磨(狸庵)氏に帰し、大正五年一月十日の岸光影の団氏宛添状が附いている。昭和十五年、現所有者に移った。箱の標題には、「光悦筆桜歌巻物、宗達筆四季花卉」とある。大正七年一月、四季草花絵巻一巻として複製が出来ている。  】(『書道芸術第十八巻 本阿弥光悦』)

※紙師宗二

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-07-13

※団琢磨

https://www.mitsuipr.com/history/people/07/

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本阿弥光悦筆「千載集『序』和歌巻」その七 [光悦・宗達・素庵]

その七 「いにしへより……」
(桃山時代 17c 紙本雲母摺絵墨書 H-24.9 W-1459.7 所蔵 MIHO MUSEUM 猪原家旧蔵) (以下の※「校注」などは『新日本古典文学大系10 千載和歌集』などを参考)
http://www.miho.or.jp/booth/html/artcon/00002693.htm

7-1 (「書図」無し)

いにしへより勅をうけたまはりて集をえらぶこと
あるいはそのくらゐ(位)たか(高)く
あるいはそのしな(品)くだ(下)れるも
ひさ(久)しくこの道をまな(学)び
ふか(深)くそのこころ(心)をさと(悟)れるともがらは
つと(勤)めきたれるなか(中)に

※位高く=「拾遺集」の撰者の藤原公任を指す。
※品下れる=「古今集」の紀貫之、「後撰集」の藤原元輔を指す。

7-2

序7-2.jpg

松のとぼそに
のがれ
苔のたもと
しほれたるもの、
これをえらべる
あとなんなかり
けれど
宇治山の僧喜撰と
いひけるなむ
すべらぎのみこと
のりをうけたまはりて
やまと(大和)うた(歌)のしき(式)を
つくれりける

※松のとぼそに遁れ……=山家に隠遁し僧衣をまとった者。
※大和歌の式=倭歌作式(喜撰式)。喜撰に仮託した和歌作法書。

7-3 (「書図」無し)

式をつくり集を
えらぶこと
かのむかし(昔)の
あとによりいま(今)このなずらへあるがうへに
和歌のうら(浦)のみち(道)にたづさひては
ななそぢ(七十)のしほ(潮)にもすぎ
わがのり(法)のすべらぎにつかへたてまつりては
むそぢ(六十)になんあまりにければ
いへいへ(家々)のこと(事)のは(葉)
うらうら(浦々)のもしほ(藻塩)草かきあつめ
たてまつるべき
みことのりを
もうけたまはれるならし
この集、かくこのたびしる(記)しおかれぬれば
すみよし(住吉)のまつ(松)のかぜ(風)ひさ(久)しくつたはり
玉つしま(津島)の浪ながくしづかにして
ちぢ(千々)のはるあき(春秋)をおくり

※和歌の浦の道=歌道を和歌の浦という地名になぞられた。
※七十の潮にも過ぎ=俊成は文治三年(一一八七)七十四歳。
※法のすべらぎ=法皇。後白河法皇は嘉応元年(一一六九)出家、文治三年(一一八七)六十一歳。
※家々の事の葉=和歌の家々の多くの歌人たちの作品。
※浦々の藻塩草=それぞれの歌壇、歌会での詠草。「藻塩草」は詠草の比喩。
※住吉=摂津の国の枕詞。ここは住吉神社を指す。和歌及び航路の神。
※玉津島=紀伊の国の枕詞。ここは玉津島神社を指す。同じく和歌の神として住吉神社と対した。


7-4

序7-4.jpg

よよ(世々)の
ほししも(星雲)を
かさね
ざらめや
文治みつ(三)のとし(年)の
あき(秋)ながづき(長月)の
なか(中)のとをかに
えらび
たてまつりぬる
になんあり
ける
印(光悦)

※文治三の年の……=文治三年(一一八七)の秋、九月二十日。奏覧の日付。実際に奏覧したのは翌年四月以降(明月記、親宗卿記)。


(参考その一)

http://www2.dhii.jp/nijl_opendata/searchlist.php?md=thumbs&bib=200004592

序・正一.jpg

大和みことの歌は、ちはやぶる神代よりはじまりて、楢の葉の名におふ宮にひろまれり。玉敷き平の都にして、延喜のひじりの御世には古今集を撰ばれ、天暦のかしこき御時(おほむとき)には、後撰集を集めたまひき。白河の御世には後拾遺を勅せしめ、堀川の先帝は百千(ももち)の歌をたてまつらしめたまへり。おほよそこのことわざ我が世の風俗として、これをこのみもてあそ

べば名を世々にのこし、これを学びたづさはらざるは面を垣にしてたてらむがごとし。かかりければ、この世に生れと生れ、我が国に来たりと来る人は、高きも下れるもこの歌をよまざるは少なし。聖徳太子は片岡山の御言(みこと)をのべ、伝教大師は我がたつ杣の言葉をのこせり。よりて世々の御かどもこの道をば捨て給はざるをや。ただし又、集を撰び給ふあとは猶まれになんありける。我が君世をしろしめして、保ちはじめ給うふと名づけしと年より、ももしきの古きあとを(バ)

序・正二.jpg

(バ)紫の庭玉の台(うてな)千歳(ちとせ)久しかるべきみぎりとみがきおき給ひ、はこや(藐姑射)の山のしづかなるすみかをば、青き谷菊の水、よろづ代住むべき境としめ定めたまふ。かれこれおしあはせてみそぢ(三十)あまりみ(三)かえりのはるあきになんなりにける、あまねきおほん(御)うつくしみ秋津島のほかまでおよび、ひろきおほん(御)恵み春の園の花よりもかうばし。近くなれ仕うまつり、遠く聞きつたふるたぐひまで、事にふれ折にのぞみてむなしく過ぐさず情おほし。春の花のあした、秋の月のゆふべ、思ひをのべ、心を

うごかさずといふことなし。ある時には糸竹の声しらべをととのへ、ある時には大和もろこしの歌言葉をあらそふ。敷島の道もさかりにおこりて、言葉の泉いにしへよりも深く、言葉の林むかしよりも繁し。ここに今の世の道をこのむともがらの言葉をもきこしめし、昔の時の折につけたる人の心をも見そなはさんことによりて、かの後拾遺集に撰びのこされたる歌、かみ正暦のころほひよりしも文治の今にいたるまでの大和歌を撰びたてまつるべき仰せ言なんありける。かの御ときより、

序・正三.jpg

この方、年はふたもも(二百)ちあまりにおよび、世はと(十)つぎあまりななよ(七代)になんなりにける。過ぎにける方も年久しく、今行く先もはるかにとどまらむため、この集を名づけて千載和歌集といふ。かの後拾遺集ののち、同じく勅撰になずらへて撰べるところ、金葉、詞華の二つの集あり。しかれども部類ひろからず歌の数少なくして、残れる歌おほし。そのほか今の世までの歌をとり撰べるならし。
そもそもこの歌の道を学ぶる事をいふに、唐国に日の本のひろき文の道をも学びず、鹿の園わしの峰の深き御のり(法)をさ

とるにしもあらず、ただ仮名のよそぢ(四十)あまりななもじ(七文字)のうちをいでずして、心に思ふ事をこ言葉にまかせて言ひつらぬるならひなるがゆゑに、みそもじ(三十文字)あまりひともじ(一文字)をだによみつらねつるものは、出雲八雲のそこをしのぎ、敷島大和みこと(御言)のさかひに入りすぎにたりとのみ思へるなるべし。しかはあれども、まことにはきればいよいよ堅く、仰げばいよいよ高きものはこの大和歌の道になむありける。春の林の花、秋の山の木の葉、錦色いろに、玉声ごゑなりとのみ思へれど、山の中の古きなを

序・正四.jpg

からざる事おほく、難波江の蘆をかしき節ある事はかたくなんありけれど、かつは好む心ざしをあはれび、かつは道を絶やさざらんがために、瓦の窓、芝の庵の言の葉をも、見るによろしく聞くにさかへざるをばもらす事なし、勒して千歌(ちうた)二百(ふたももち)あまり、二十巻(はたまき)とせり。いにしへより、勅をうけたまはりて集を撰ぶこと、あるいはその位たかく、あるいはその品下れりれるも、久しくこの道を学び、深くその心を悟れるともがらは勤めきたれる中に、松のとぼそに遁れれ苔の袂にしをれたる者、これを撰べるあとなんなかりけれど、

宇治山の僧喜撰といひけるなむ、すべらぎのみことのりをうけたまはりて大和歌の式をつくれりける、式をつくり集を撰ぶこと、かの昔のあとにより今このなずらへあるがうへに、和歌の浦の道にたづさひては、七十の潮にもすぎ、我が法のすべらぎにつかへたてまつりては、六十になんあまりにければ、いへいへの事の葉、浦々の藻塩草かきあつめたてまつるべきみことのりをもうけたまはれるならし。この集、かくこのたびしるしおかれぬれば、すみよしのまつのかぜひさしくつたはり、玉つしまの浪ながくしづかにして、ちぢ(千々)の

序・正五.jpg

 春秋をおくり、世々の星霜をかさねざらめや、文治みつ(三)のとしの秋、長月の中のとをかに、撰びたてまつりぬるになんありける。


(参考その二)

https://www.jstage.jst.go.jp/article/gkokugokokubun/50/0/50_233/_pdf/-char/ja

「光悦流」資料に見られる仮名字体……「光悦和歌巻」の平仮名字体の分析を通じて……(宮本淳子稿)

(再掲)

光悦和歌巻.jpg

(表一)

光悦仮名一.jpg

(表三・四)

光悦仮名三.jpg

(表五)

光悦仮名五.jpg

(追記メモ) 「光悦」の「の」(濃・乃・能・の)と北園克衛の「の」

http://yahantei.blogspot.com/2009/02/blog-post.html

(再掲)

単調な空間(北園克衛)

白い四角
のなか
の白い四角
のなか
の黒い四角
のなか
の黒い四角
のなか
の黄色い四角
のなかの
黄色い四角
のなか
の白い四角
のなか
の白い四角


の中の白
の中の黒
の中の黒
の中の黄
の中の黄
の中の白
の中の白


の三角
の髭
のガラス


の三角
の馬
のパラソル


の三角
の煙

ビルディング


の三角
の星

ハンカチイフ

白い四角
のなか
の白い四角
のなか
の白い四角
のなか
の白い四角
のなか
の白い四角

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本阿弥光悦筆「千載集『序』和歌巻」その六 [光悦・宗達・素庵]

その六 「そもそもこの歌の道を……」

(桃山時代 17c 紙本雲母摺絵墨書 H-24.9 W-1459.7 所蔵 MIHO MUSEUM 猪原家旧蔵) (以下の※「校注」などは『新日本古典文学大系10 千載和歌集』などを参考)
http://www.miho.or.jp/booth/html/artcon/00002693.htm

6-1(5-8)

序5-8.jpg

(ひろからず
歌かずすくなくして、)
のこ(残)れる歌おほし、
そのほかいま(今)の世
までのうた(歌)をとりえら(撰)べるならし)
そもそもこの歌
のみち(道)をまな
ぶることをいふに、
からくに(唐国)日の
もと(本)のひろき
ふみ(文)のみち(道)
をもまな(学)びず

※唐国日の本のひろき文の道=中国や日本の広汎な文芸の道。

6-2

序6-2.jpg

(もとのひろき
ふみのみち
をもまなびず)
しか(鹿)のその(園)
わし(鷲)のみね(峰)

ふかき御(み)のり(法)を
さと(悟)る

しも
あらず
(ただかなのよそぢ)

※鹿の園=鹿野苑のこと(成道後の釈迦が初めて説法をした所)。
※鷲の峰=霊鷲山(りょうじゅせん)(釈迦仏が『無量寿経』や『法華経』を説いたとされる山として知られる)。

6-3 (「書図」無し)

ただかな(仮名)のよそぢ(四十)
あまりななもじ(七文字)の
うちをいでずして
こころ(心)に思ふことを
ことば(言葉)にまかせて
い(い)ひつらぬる
ならひなるがゆゑに、
みそもじ(三十文字)あまりひともじ(一文字)を

※ただかな(仮名)の……=漢詩などの複雑な文芸様式に比較して、和歌が簡単な形式であることを言う。

6-4

序6-4.jpg

(みそもじ(三十文字)あまりひともじ(一文字)を)
だによみつらねつる
ものは、いづ(出雲)もやく
も(八雲)のそこをし
のぎ、しき(敷(島)やま(山)とみこ(御)
こと(言)のさかひに
い(入)りすぎにたり
とのみおも(思)へる
なるべし、
(しかはあれども、)

※出雲八雲の……=日本神話においてスサノオが詠んだ「八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣作る その八重垣を」が日本初の和歌とされることから、和歌の別名ともされる。
※敷島山と……=『万葉集(三二四八)』の「磯城島(しきしま)の 大和の国に 人さはに 満ちてあれども 藤波の 思ひもとほり 若草の 思ひつきにし 君が目に 恋ひや明かさむ 長きこの夜(よ)を」と、「同(三二四九)の「磯城島(しきしま)の大和の国に人二人ありとし思(おも)はば何か嘆かむ」とを踏まえての「和歌の境地を深く理解しきっている」というようなこと。

6-5

序6-5.jpg

しかはあれども、
まことには
き(鑚)れば
いよいよかた(堅)く
あふげ(仰)ばいよいよ
たか(高)きものは
この
やまと(大和)うた(歌)の
道に
なむありける、

※き(鑚)れば……=『新撰万葉集・序(菅原道真)』の「所謂、仰彌高(イヤダカヲ仰ギ)、鑽(キワメ )ルニ、彌(イヤイヤ)堅キ者カ」を踏まえている。

6-6

序6-6.jpg

春のはやし(林)
のはな(花)
秋のやま(山)のこ(木)の
は(葉)にしき(錦)
いろいろ(色々)に
玉こゑ(声)ごゑなりとの
みおも(思)へれど、

6-7 (「書図」無し)

やま(山)のなか(中)のふるき(古木)なをからざることおほく、
なにはえ(難波江)のあし(蘆)をかしきふし(節)あることは
かたくなんありけれど、
かつはこの(好)むこころ(心)ざしをあはれび、
かつはみち(道)をたや(絶)さざらんがために、
かはら(瓦)のまど(窓)、しば(柴)のいほり(庵)のこと(言)のは(葉)をも、
み(見)るによろしくき(聞)くにさかへざるをばもらすことなし、
勒してちうた(千歌)ふたもも(二百)ちあまり、はたまき(二十巻)とせり。

※山の中の……=すぐれた作品ばかりとは限らい、の意。
※かたくなんありけれど=すぐれた趣向の歌はなかなかないが、の意。
※好む心ざし=歌の道に心を寄せる志。
※瓦の窓、柴の庵=貧者や隠者の粗末な住居、転じてその住人、隠遁者。
※聞くにさかえざる=耳ざわりでない作品。
※勒(ろく)して=ほどよくまとめて。

(参考) 「漢字・真仮名・万葉仮名・草仮名・変体仮名=異体仮名・平仮名・片仮名・男手・女手」など

“平仮名”はこうして生まれた

https://business.nikkei.com/atcl/report/15/280393/092100015/?P=4

極美な仮名と和様の書の世界

https://business.nikkei.com/atcl/report/15/280393/092100016/

型の尊重。新時代の気風を表現

https://business.nikkei.com/atcl/report/15/280393/092100017/?P=5

【(再掲)

 光悦は自分で日本風とか中国風という意識は無かったと思うんですが、南宋の張即之(ちょうそくし)の字を学んでいましたので、日中の書法が交じっているところがあります。

木下:その光悦ですが、「琳派」の創始と言われ、「風神雷神図屏風」の俵屋宗達とのコラボレーションした「鶴下絵三十六歌仙和歌巻(つるしたえさんじゅうろっかせんわかかん)」などは、単に書ということではなくて、まさに“作品”を創作するという意識が前提に立ったものですよね。(参照「本阿弥光悦 筆/紙本金銀泥鶴図下絵和歌巻 文化遺産データベース」)

 表現の可能性を求めて、書の在り方が少しずつ変わり始めたのかなと感じます。

 光悦と宗達の、あのような絵と書の気宇壮大なコラボレーションは、やっぱりこの時代において生まれたものなのでしょうか。

島谷:それ以前の時代に、あれだけ大きい下絵のものは無いですよね。だから光悦がそういうものを、宗達にダイナミックで大きい下絵をこんなイメージで書いてくれと、注文したんだと思います。

木下:光悦がやっていたようなことは、当時最先端の、まさに“現代アート”と言えるものですよね!

島谷:もう、当時の現代アートですよ。文学と絵と書、それらが一体となったものが光悦の「鶴図下絵和歌巻」で。総合芸術とも言えますよね。

 アーティスト同士のコラボレーションということで言えば、光悦と宗達、それから同じく安土桃山から江戸初期にかけての長谷川等伯と近衛信尹ですね。(参照「近衛信尹 筆/紙本墨画檜原図 文化遺産データベース」)

 それから三筆には入ってはいませんが、忘れてはならないのが、烏丸光広(からすまるみつひろ)の豪快で天衣無縫な書ですね。(参照「烏丸光広 筆/東行記 文化遺産データベース」) 】

⾒失われた書の本質を取り戻す為に

https://business.nikkei.com/atcl/report/15/280393/092200018/?P=5

先人に学ぶ「守破離」の極意

https://business.nikkei.com/atcl/report/15/280393/092200019/?P=1


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本阿弥光悦筆「千載集『序』和歌巻」その五 [光悦・宗達・素庵]

その五 「ここにいまの世のみちを……」

(桃山時代 17c 紙本雲母摺絵墨書 H-24.9 W-1459.7 所蔵 MIHO MUSEUM 猪原家旧蔵) (以下の※「校注」などは『新日本古典文学大系10 千載和歌集』などを参考)
http://www.miho.or.jp/booth/html/artcon/00002693.htm

5-1(4-6)

序4-6.jpg

(ことばのはやし
むかしよりもしげし。)
ここに
いま(今)の世のみち(道)を
このむ
ともがらの
ことのは(言葉)

5-2

序5-2.jpg

(ともがらの
ことのは)
をも)
きこしめし、
むかし(昔)の
とき(時)のをり(折)

つけたる人の
こころ(心)
をも
みそなはさんことに

5-3

序5-3.jpg

(みそなはさん
ことに
よりて)
かの後拾遺集に
えら(撰)びのこさ
れたる歌
かみ正暦のころ
ほひ
よりしも
文治の

※正暦=九九〇-九九四年。一条天皇の年号。
※文治=一一八五―一一九〇年。後鳥羽天皇在位、後白河法皇院政の時期の年号。

5-4

序5-4.jpg

(よりしも
文治の)
いま(今)にいたるまでの
やまとうた(大和歌)を
えら(撰)び
たてまつるべ

おほ(仰)せごと(言)なん
ありける、

5-5

序5-5.jpg

(ありける)
かの御とき(時)より
このかた(方)
とし(年)はふたももち(二百)
あまりにおよび、
世はと(十)つぎあまり
ななよ(七代)になん
なりにける

※とし(年)はふたももち(二百)あまりにおよび=一条天皇から後鳥羽天皇まで十七代。正暦元年より文治三年は一九八年目に当る。

5-6

序5-6.jpg

すぎ(過)にけるかた(方)も
とし(年)ひさ(久)しく、
いま(今)ゆ(行)くさき(先)も
はるかにとどまらむため、
この集を
なづけて
千載和歌集
といふ
かの後拾遺集
ののち、
(おなじく
勅撰になずらへて)

5-7

序5-7.jpg

おな(同)じく
勅撰になずらへて
えら(撰)べる
ところ
金葉、詩華のふたつ

集あり、
しかれども
部類
ひろからず
歌のかず(数)すく(少)なくして、

※金葉、詩華=金葉集、詞花集。

5-8

序5-8.jpg

(ひろからず
歌のかず(数)すく(少)なくして)
のこ(残)れる歌おほし
そのほかいま(今)の世
までのうた(歌)をとり
えら(撰)べるならし
(そもそもこの歌
のみちをまな
ぶることをいふに、
からくに日の
もとのひろき
ふみのみち
をもまなびず)


(参考一) 勅撰集(古今集・後拾遺集・千載集・新古今集)の構成など

https://kogani.com/text/classics/kimagurenikki_25.html


(参考二) 千載集(巻一から巻二十)

千載集(巻一から巻六)

https://mukei-r.net/waka-8a/8-3-senzai1.htm

千載集(巻七から巻二十)

https://mukei-r.net/waka-8a/8-3-senzai2.htm


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本阿弥光悦筆「千載集『序』和歌巻」(その四) [光悦・宗達・素庵]

その四 「わがきみ(我君)よ(世)をしろしめして……(その二)」

(桃山時代 17c 紙本雲母摺絵墨書 H-24.9 W-1459.7 所蔵 MIHO MUSEUM 猪原家旧蔵) (以下の※「校注」などは『新日本古典文学大系10 千載和歌集』などを参考)
http://www.miho.or.jp/booth/html/artcon/00002693.htm

4-1

序4-1.jpg

ちか(近)く
なれつか(仕)ふ
まつり
とほ(遠)く
きき
つたふるたぐひ
まで
こと(事)にふれ
をり(折)
にのぞみて
(むなしくすぐさずなさけおほし。)

4-2

序4-2.jpg

(のぞみて)
むなしく
す(過)ぐさずなさけ(情)
おほし。
はる(春)のはな(花)の
あした
(あきの月のゆふべ、)

※春の花のあした=「春の花の朝、秋の月の夜ごとに、侍ふ人々を召して事につけつつ歌を奉らしめ給ふ」(古今・仮名序)

4-3

序4-3.jpg

あき(秋)の月のゆふべ、
おも(思)ひをのべ
こころ(心)をうご
かさずと
いふことなし。
あるときには
いとたけ(糸竹)


※糸竹の声=管弦。音楽。

4-4

序4-4.jpg

(いとたけの)
こゑ(声)しらべを
ととのへ、
あるとき(時)には
やまと(大和)もろ
こしの
うた(歌)ことば(言葉)を
あらそふ。

※大和もろこしの歌……=歌会・詩会、歌合・詩歌合などの盛行をいう。

4-5

序4-5.jpg

(あらそふ)
しきしま(敷島)のみち(道)もさかりに
おこりて、
こころ(心)のいづみ(泉)
(いにしへよりも
ふかく、)

※敷島の道=和歌の道。

4-6(5-1)

序4-6.jpg

いにしへより

ふか(深)く、
ことば(言葉)のはや

むかしよりも
しげ(繁)し
(ここにいまの世のみちを
このむ
ともがらの
ことのは)

※言葉の林むかしよりも繁し=和歌の隆盛によって撰集の機運の高まってきたことを言う。


(「追記メモ」その四) 千載和歌集の概要

http://kul01.lib.kansai-u.ac.jp/library/etenji/hachidaisyu/senzai/index.html

(基本情報)

下命者:後白河上皇(1127―1192)
成立年次:1188年
選者:藤原俊成
収録数:約1300首
巻数:20巻
序文:仮名
収録された主な歌人:藤原俊頼、藤原俊成、藤原基俊、崇徳院、和泉式部など

(概要)

平氏都落ちの年に後白河上皇が宣下し、源平の争乱期を経て、1188年に成立。「金葉和歌集」、「詞花和歌集」と続いた10巻による構成から、「後拾遺和歌集」以前の20巻による構成に戻し、神祇、釈教を独立して1巻とした。また、僧侶の入選が増加し、全体の約19%(248首)を占め、これは勅撰和歌集では最高の比率である。
「詞花和歌集」の反古今的特徴や、同時代の歌人を軽視したことなど、「千載和歌集」の特色は、先の「詞花和歌集」への批判あるいは、正当な勅撰和歌集への復帰を目指した点にある。当代の歌人の比率も歌数では全体の50%に及んでいる。「詞花和歌集」の「をかしきさまのふり」(表現の奇抜さ)を批判的に包摂しつつ、古典的な叙情に立脚した歌風に特徴があり、中世和歌の世界が「新古今和歌集」で大成する予感を感じさせる。
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本阿弥光悦筆「千載集『序』和歌巻」その三 [光悦・宗達・素庵]

その三 「わがきみ(我君)よ(世)をしろしめして……(その一)」

(桃山時代 17c 紙本雲母摺絵墨書 H-24.9 W-1459.7 所蔵 MIHO MUSEUM 猪原家旧蔵) (以下の※「校注」などは『新日本古典文学大系10 千載和歌集』などを参考)
http://www.miho.or.jp/booth/html/artcon/00002693.htm

3-1

序3-1.jpg

わがきみ(我君)よ(世)をしろしめして、
たも(保)ちはじめたま(給)ふとな(名)づけしとし(年)より、
ももしきのふる(古)きあとをば、むらさき(紫)の庭たま(玉)のうてな(台)
(ちとせひさしかるべきみぎりとみがきおきたまひ、)

※我が君=後白河天皇
※たも(保)ちはじめたま(給)ふとな(名)づけしとし(年)=保元元年
※ももしき=皇居・宮中(大宮にかかる枕詞) 
※紫の玉の台=禁裏の美しい殿舎

3-2

序3-2.jpg

(庭)
たま(玉)のうてな(台)
ちとせ(千載)ひさ(久)しかるべき
みぎり(砌)とみがきおきたま(給)ひ、
はこや(藐姑射)の山のしづかなる
すみかをば、あを(青)きたに(谷)
きく(菊)の水、よろづ代す(住)む
べきさかひ(境)としめさだめ(定め)
たま(給)ふ。かれこれお(を)しあはせて
みそぢ(三十)あまりみ(三)かえりの
はるあき(春秋)になんなりに
ける。

※はこや(藐姑射)の山=《本来は、「はるかなる姑射(こや)の山」の意。「荘子」逍遥遊の例により、一つの山名のように用いられるようになった》1 中国で、仙人が住んでいるという想像上の山。姑射山(こやさん)。2 日本で、上皇の御所を祝っていう語。仙洞(せんとう)御所。仙洞。

※青き谷菊の水=中国河南省南部を流れる白河の支流。この川の崖上にある菊の露がしたたり落ち、これを飲んだ者はみな長生きしたという。菊の水。
※かれこれお(を)しあはせてみそぢ(三十)あまりみ(三)かえり=後白河院即位の久寿二年(一一五五)より千載集奏覧の文治三年(一一八九)まで、在位期と院政期とを合わせて三十三年になる。 

3-3

序3-3.jpg

(のはるあきになんなりに)
あまねきおほん(御)うつくしみ
あきつしま(秋津島)の
ほかまでを(お)よび、

※あきつしま(秋津島)=日本の国

3-4

序3-4.jpg

(をよび、)
ひろ(広)き
おほんめぐ(御恵)みはる(春)の
その(園)のはな(花)
よりも
かうばし。
(ちかく)

※ひろ(広)きおほんめぐ(御恵)み=「あまねき御うつくしみの浪 八州のほかまで流れ
ひろき御めぐみのかげ 筑波山の麓よりもしげくおはしまして」(「古今・仮名序)

(「追記メモ」その三)

(その三)釈文(読み下し文)

わ(我)がきみ(君)よ(世)をしろしめして、たも(保)ちはじめたま(給)ふとな(名)づけしとし(年)より、ももしきのふる(古)きあとをば、むらさき(紫)の庭たま(玉)のうてな(台)ちとせ(千載)ひさ(久)しかるべきみぎり(砌)とみがきおきたま(給)ひ、はこや(藐姑射)の山のしづかなるすみかをば、あを(青)きたにきく(谷菊)の水よろづ代す(住)むべきさかひ(境)としめさだ(定)めたま(給)ふ。
かれこれおしあはせて、みそぢ(三十)あまりみ(三)かえりのはるあき(春秋)になんなりにける。あまねきおほん(御)うつくしみあきつしま(秋津島)のほかまでおよび、ひろ(広)きおほんめぐみ御恵)はる(春)のその(園)のはな(花)よりもかうばし。

 定家が撰者となった第九勅撰集『新勅撰和歌集』(「巻第十七」雑二・一一九四)に、次の平行盛の歌が収載されている。

    寿永二年、大方の世情静かならず侍りしころ、
    詠み置きて侍りける歌を定家がもとに遣はす
    とて包紙に書きつけて侍りし
流れての名だにもとまれゆく水のあはれはかなき身は消えぬとも(平行盛「新勅撰」)

 この詞書にある寿永二年(一一八三)二月、頭中将平資盛が後白河院の勅撰集下命の院宣を俊成に届けたことが、『拾芥抄』(しゅうがいしょう)に記されている。この年は、四月になると、北陸の木曽義仲追討に出向いた大軍が翌月には大敗し、七月には都落ちに置い込まれるという大動乱の年で、その直前の僅かな平安の日に、この第七勅撰集『千載和歌集』は、スタートしたのであった。


   故郷ノ花といへる心をよみ侍ける
さゞ浪や志賀の都は荒れにしを昔ながらの山桜かな(よみ人知らず=平忠度「千載」66)

この平忠度の歌については、下記のアドレスで触れている。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-07-10

(再掲)

 この末尾に添えた「さゞざ波や―」の一首は、平忠盛の六男で清盛の腹違いの末弟・平忠度の歌である。この歌は、寿永二年(一一八三)に木曽義仲に追い立てられた平家一門が都落ちする時に、忠度が歌の師の俊成に今生の別れを告げる、その時の一首である(『平家物語』)。

(参考)

文部省唱歌「青葉の笛」(作詞:大和田建樹、作曲:田村虎蔵)

1 一の谷の軍(いくさ)破れ
  討たれし平家の公達(きんだち)あわれ → 熊谷次郎直実に討たれた「平敦盛」
  暁寒き須磨(すま)の嵐に
  聞こえしはこれか 青葉の笛
2 更くる夜半に門(かど)を敲(たた)き
  わが師に託せし言(こと)の葉あわれ →「わが師」=「わが=忠度」「師=俊成」
  今わの際(きわ)まで持ちし箙(えびら)に
  残れるは「花や今宵」の歌 →「行き暮れて木の下蔭を宿とせば花や今宵の主(あるじ)ならまし」→『平家物語(巻第九)』「忠度最期」→平忠度の「辞世の歌」

 ここに、もう一首、平経盛の歌を付け加えて置きたい。

    だいしらず
いかにせむ御垣(みかき)が原に摘む芹のねにのみ泣けど知る人のなき(よみ人不知=平経盛「千載」668)
(どうしょう、御垣が原に摘む芹の根のように、音(ね)に― 声にばかり出して泣いていても私の思いを知る人はいない。 )

 この歌は、恋歌なのである。そもそもは、「治承三十六人歌合」(平安時代に活躍した藤原清輔、藤原俊成、藤原教長、寂然ら男性の歌人36人の詠歌を集めたもので、左方には在家の歌人、右方には出家した歌人を配した歌合の形式で編集したものである)に出てくる一首である。
 しかし、『千載和歌集』の中に、「よみ人不知」の一首として収載されていると、先の「よみ人知らず=平忠度」のように、「平家物語」と関連させて鑑賞させることを、この撰者の俊成の脳裏にはあったことであろう。

 さて、この「(その三)釈文(読み下し文)」の文面は、「後白河院即位の久寿二年(一一五五)より千載集奏覧の文治三年(一一八九)まで、在位期と院政期とを合わせて三十三年」
の、「ひろ(広)きおほんめぐ(御恵)みはる(春)のその(園)のはな(花)よりもかうばし」というのだが、その三十三年間は、下記のとおり、叛乱盤上の、幾多の戦乱に明け暮れた年月でもあった。

https://ch-gender.jp/wp/?page_id=12049

※1156(保元元)  鳥羽上皇死去→保元の乱
○後白河天皇(弟)と崇徳上皇(兄)の争いに協力して、摂関藤原氏・平氏・源氏が親族間で分かれて争った。
○勝者=後白河天皇・関白忠通・平清盛・源義朝
○敗者=崇徳上皇(配流)・左大臣頼長(傷死)・平忠正(斬首)・源為義(斬首)・源為朝(配流)
※1159(平治元)  平治の乱
保元の乱の勝者間で恩賞等をめぐる対立が生じる。後白河上皇・二条天皇の近臣の地位を巡る主導権を争って平氏と源氏が戦い、平氏が勝利した。
1167 (仁安二) 平清盛、太政大臣となる。
1179(治承三) 平清盛、反平氏の公卿たちを宮中から追放し、後白河法皇を鳥羽殿に幽閉して院政を止めさせる。
1180(治承四) 安徳天皇即位。後白河上皇の第二皇子以仁王挙兵(敗死)。
1181(養和元) 平清盛没
※1183 (寿永二) 源義仲、砺波山で平維盛を破る。北陸道から京都に入る。平家一族西に遁れる。後白河上皇の命により鳥羽天皇即位。後白河法皇、義仲に平家追討を命ずる。その後、義仲、法王の御所を襲い、法王の近臣たちを免職する。
※1184(元暦元) 義仲、源範頼・義経らに攻められ、近江の粟津で戦死。範頼・義経、摂津の一の谷を奇襲して平氏を破る。頼朝、鎌倉に公文所などを設置する。
1185(文治元) 平氏滅亡。源頼朝守護地頭任命権獲得。義経、讃岐の屋島で平氏を破る。安徳天皇崩御。後白河天皇、義経に頼朝追討の命令を下す。義経、源行家と京都を遁れる。後白河法王、今度は義経・行家追捕の命令を下す。
1186(文治二) 頼朝、西行と会見。
1187(文治三) 義経、陸奥へ遁れる。藤原秀衡没。
1189(文治五) 藤原泰衡、義経を殺し、その首を鎌倉に送る。頼朝、奥州藤原氏を征伐。奥州藤原氏滅亡。
1190(建久元) 西行没。頼朝、上京し、後白河法皇・後鳥羽天皇に面会。
※1192(建久三) 後白河法皇没。源頼朝が征夷大将軍となり,鎌倉に幕府を開く

1196(建久七) 源頼朝没。源頼家(第二代将軍)=征夷大将軍となる。
1203(建仁三) 源実朝(第三代将軍)=征夷大将軍となる。頼家伊豆に幽閉。
1204(元久元) 頼家、修善寺で殺される。藤原俊成没。
1205(元久二) 『新古今和歌集』が成る。
1219(承久元)  源実朝殺され この後,北条政子(保元2年(1157年) – 嘉禄元年(1225年))が実質的に執政する。
1221(承久3)  承久の乱
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本阿弥光悦筆「千載集『序』和歌巻」その二 [光悦・宗達・素庵]

その二 「おほよそこのことわざ……」

(桃山時代 17c 紙本雲母摺絵墨書 H-24.9 W-1459.7 所蔵 MIHO MUSEUM 猪原家旧蔵) (以下の※「校注」などは『新日本古典文学大系10 千載和歌集』などを参考)
http://www.miho.or.jp/booth/html/artcon/00002693.htm

(2-1)

序2-1.jpg

(うたをたてまつらしめたまへり、)
おほよそこの
ことわざわ
(我)がよ(世)の風俗
として、
これを
このみ
もてあそべば
名を世々にのこし、

※このことわざ=和歌をさす。
※我が世の風俗=我が国の国風。

2-2

序2-2.jpg

これを
まな(学)び
たづさはらざるは、
おもて(面)をかき(垣)にして
たてらむがごとし、
かかりければ、
この世)にむま(生)れと
むま(生)れ、
わが国にきたりと
きたる人は、
(たか(高)きも
くだ(下)れるも、)

※おもて(面)をかき(垣)にして=『論語』の言=「何も周囲が見えず、身動きがとれない」こと。

2-3

序2-3.jpg

たか(高)きも
くだ(下)れるも、
このうた(歌)をよまざるはすく(少)なし、
このうた(歌)を
よまざるは
すくなし。
聖徳太子はかたをかやま(片岡山)の
みこと(御言)をのべ、
伝教大師は
わ(我)がたつそま(杣)の
ことばを
のこせり。

※片岡山の御言=日本書記・推古二十一年(しなてる片岡山に飯に飢て臥せる―)→「しなてるやかたをかやまにいひにうゑて ふせるたびびとあはれおやなし」(「拾遺・哀傷1350 聖徳太子」)
※我がたつ杣の言葉=和漢朗詠集・仏事(わが立つ杣に冥加あらせたまへ―)

2-4

序2-4.jpg

よりて
世々の
御かども
このみちをば
すてたまはざる
をや。
ただしまた(又)、集を
えらびたまふ
あとは
なほ(猶)まれになんあり
ける。
(わがきみ(我君)よ(世)をしろしめして、)

(「追記メモ」その二)

(その一)釈文(読み下し文)
大和みことの歌はちはやぶる神世よりはじまりて、楢の葉の名におふ宮にひろまれり。玉敷き平の都にしては、延喜のひじりの御世には古今集を撰ばれ、天暦のかしこき御時には後撰集をあつめたまひき。白河の御世には後拾遺を勅せしめ、堀川の先帝はも百千(ももち)の歌をたてまつらしめたまへり。

(その二)釈文(読み下し文)
おほよそこのことわざ我が世の風俗として、これをこのみもてあそべば名を世々にのこし、これを学びたづさはらざるは面を垣にしてたてらむがごとし。かかりければ、この世に生れと生れ、わが国にきたりときたる人は、高きも下れるも、この歌をよまざるは少なし。聖徳太子は片岡山の御言をのべ、伝教大師はわがたつ杣の言葉をのこせり。よりて世々の御かどもこの道をば捨てたまはざるをや。ただし又、集を撰びたまふあとは猶まれになんありける。

 この出だしは、俊成の歌道の師にあたる「源俊頼」の歌論書『俊頼髄脳』に類似している。
『千載和歌集』の入集数も、「源俊頼(五十二首)→藤原俊成(三十六首)→藤原基俊(二十六首)→崇徳院(二十六首)→俊恵(二十二首)」の順で、俊頼がトップで、この俊頼の世界を基本の一つに据えているのであろう。
 ちなみに、西行(円位)は十八首、定家(八首)、後白河院(七首)、家隆(四首)である。

http://neige7.pro.tok2.com/karon_shunrai.html

【やまと御言の歌は、わが秋津州の国のたはぶれあそびなれば、神代よりはじまりて、けふ今に絶ゆることなし。おほやまとの国に生れなむ人は、男にても女にても、貴きも卑しきも、好み習ふべけれども、情ある人はすすみ、情なきものはすすまざる事か。たとへば、水にすむ魚の鰭を失ひ、空をかける鳥の翼の生ひざらむがごとし。
(訳)
古くからの雅語でつづった和歌は、我が日の本の国の、抒情的な慰み事であるので、遠く神代から起って、今日現在にいたるまで、連綿として詠まれ続いている。この永い伝統をもつ日本の国に生を享けた者は、男女を問わず、身分の高下にも関係なく、この和歌の道を進んで習得すべきであろうが、どうしても”もののあはれ”を感ずる人は巧みになるし、この情のない人は、和歌を詠んでも上手にならないようだ。この情のない人とは、たとえてみると、水中にすまなければならない魚類でありながら、肝心な鰭がなかったり、空を飛ぶはずの鳥でありながら、翼が生えないようなものである。 】

 もう一つ、この「千載和歌集(序)」の背景となっているものに、「保元の乱」と崇徳院の讃岐配流後、長寛二年(一一四六)に四十六歳で没し、治承二年(一一七七)に鎮魂の意を込めての諡号(しごう)が追贈されたことなども挙げられるであろう。
 崇徳院の没後、俊成のもとに崇徳院の「長歌」が届けられ、それが『千載和歌集巻第十八』「雑歌下・雑体」に収載されている。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-07-05

(『千載和歌集』1162 崇徳院御製=長歌=『千載集』は『古今集』に倣い「短歌」の表示)

しきしま(敷島)や やまと(大和)のうた(歌)の 
つた(伝)はりを き(聞)けばはるかに 
ひさかた(久方)の あまつかみ(天津神)よ(世)に はじ(始)しまりて
みそもじ(三十文字)あまり ひともじ(一文字)は いづも(出雲)のみや(宮)の
やくも(八雲)より お(を)こりけりとぞ しるすなる
それよりのちは ももくさ(百草)の こと(言)のは(葉)しげく ちりぢりの 
かぜ(風)につけつつ き(聞)こゆれど
ちか(近)きためしに ほりかは(堀河)の なが(流)れをくみて 
さざなみの よ(寄)りくるひと(人)に あつらへて
つたなきこと(事)は はまちどり(浜千鳥) あと(跡)をすゑまで 
とどめじと おも(思)ひなからも
つ(津)のくにの なには(難波)のうら(浦)の なに(何)となく
ふね(舟)のさすがに このこと(事)を しの(忍)びならひし 
なごり(名残)にて よ(世)のひと(人)きき(聞)は はづかしの 
もりもやせむと おも(思)へども こころ(心)にもあらず かき(書)つらねつる
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本阿弥光悦筆「千載集『序』和歌巻」 [光悦・宗達・素庵]

その一 「大和とみこと(御言)の歌は―」

(桃山時代 17c 紙本雲母摺絵墨書 H-24.9 W-1459.7 所蔵 MIHO MUSEUM 猪原家旧蔵) (以下の※「校注」などは『新日本古典文学大系10 千載和歌集』などを参考)
http://www.miho.or.jp/booth/html/artcon/00002693.htm

その一 「大和とみこと(御言)の歌は……」

(1-1)

序1-1.jpg

やまと
みこと(御言)の
歌は、
ちはや
ぶる神代
より
はじまりて、
なら(楢)のは(葉)の
名にお(を)ふ
(みや(宮)にひろまれり、)

※大和とみこと(御言)の歌→やまと歌は→「やまとうたは、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける」(「古今・仮名序」)→「古来風躰抄」
※なら(楢)のは(葉)の名にお(を)ふみや(宮)=聖武天皇?→「古来風躰抄」

(1-2)

序1-2.jpg

(なら(楢)のは(葉)の名にお(を)ふみや(宮)にひろまれり、)
たましき(玉敷き)

たひら(平)の
みやこ(都)にし
ては、

※たましき(玉敷き)のたひら(平)のみやこ(都)=平安京

(1-3)

序1-3.jpg

延喜のひじり
の御世には
古今集を
えらばれ、
天暦のかし
こき
おほむとき(御時)には、
(後撰集をあつめたまひ、)

※延喜のひじり=醍醐天皇 
※天暦のかしこきおほむとき(御時)=村上天皇

(1-4)

序1-4.jpg

後撰集をあつ

たまひ、
白河のおほんよ(御世)には
後拾遺を
勅せしめ、
堀川の先帝は
ももち(百千)の
(うたをたてまつらしめたまへり。)

※白河のおほんよ(御世)=白河天皇  
※堀川の先帝=堀河天皇 
※ももち(百千)の(うた=百首和歌


(「追記メモ」その一)

一 本阿弥光悦愛蔵から「本阿弥切(ほんあみぎれ)」と呼ばれる「伝小野道風筆《古今集》断簡の古筆切〈本阿弥切〉」がある。

【小野道風が書写したと伝えられる『古今和歌集』の断簡で,平安古筆の一つ。本阿弥光悦が愛蔵したのでこの名がある。藍,白,枯れ葉色の唐紙 (からかみ) を用い,巻子または断簡として宮内庁三の丸尚蔵館,あるいは京都国立博物館その他諸家に分蔵。書は『寸松庵色紙』に類似し,円転自由のうちに骨力があり,高い品位をそなえる。】(ブリタニカ国際大百科事典)

二 三色紙と『寸松庵色紙』

https://www.syodou.net/column/kanamorekishi/

【「三色紙」とは、平安時代の古筆の中で、散らし書き、布置の見事さなどから、継色紙、寸松庵色紙、桝色紙を指しています。

継色紙(つぎしきし)
万葉集、古今和歌集、その他未評の集から四季、恋などの歌を抜粋し書写したものの断簡。
もとは粘葉装の冊子で、料紙二枚に継き書きしている為にこの名で呼ばれます。料紙は鳥の子の染紙。小野道風筆と伝えられ、十世紀後半の書写と推定されます。字形は古体で、女手に草を混用し、洗練度が高く古筆中の名作と言われます。

寸松庵色紙(すんしょうあんしきし)
古今和歌集の四季の部分の抄写。てもとは粘葉装の冊子本です。舶来の美麗な料紙(12~13センチ四方)を用い、十一世紀後半の書写とと思われます。散らし方は、行頭に高低変化のあるもの、一首を左右上下に分けたもの、終行を一字で収めたものなど、変化に富んでいます。茶人の佐久間将監真勝がこの色紙十二枚を愛玩し、茶室・寸松庵に秘蔵していたことにちなんで、一連の色紙がこの名で呼ばれています。

桝色紙(ますじきし)
清原深養文の家集を書写したもので、もとは冊子本、藤原行成筆と伝えられます。白・淡藍などの地に雲母をまいた高雅な料紙を用い、形が桝のような方形である為にこの名で呼ばれています。字形は豊円で、線の細太変化と墨色の濃淡が交錯して現れる明暗の美しさは、他に類を見ず、優艶・典雅な趣きがあります。 】

三 光悦の書(「光悦切」との関連)

【本阿弥光悦は鋭く細い線と太い直線とを交え,巧みな墨の配置によって個性的な書境を作り出している。光悦は初め青蓮院流を学んだが,漢字の書風からは中国元の張即之の鋭利な筆法がうかがわれ,仮名については〈本阿弥切〉と呼ぶ平安時代書写の〈古今集〉を所持していたと考えられ,それを習ったあとが見えている。そして,墨線の肥瘦の極端な変化を示すとともに,金銀の下絵料紙に散らし書とした色紙は,桃山時代の障壁画を連想させるきらびやかな意匠である。】(「世界大百科事典 第2版・平凡社」)

四 (その一)釈文(読み下し文)

やまとみことのうたはちはやぶる神代よりはじまりて、ならのはの名におふみやにひろまれり。たましきたひらのみやこにしては、延喜のひじりの御世には古今集をえらばれ、天暦のかしこきおほむときには後撰集をあつめたまひ、白河のおほんよには後拾遺を勅せしめ、堀川の先帝はももちのうたをたてまつらしめたまへり。
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