SSブログ

鶴下絵三十六歌仙和歌巻(光悦書・宗達画)」周辺(その二十) [光悦・宗達・素庵]

その二十)J図『鶴下絵和歌巻』(16小大君)

鶴下絵和歌巻J図.jpg

坂上是則 み吉野の山の白雪積もるらし 古里寒くなり増さるなり(「撰」「俊」)
16 三条院女蔵人(小大君)
     岩橋の夜の契りも絶えぬべし 明くる侘びしき葛城の神(「撰」「俊」)
(釈文)以者々し能よる濃ち支利も多えぬべし安久類王日し幾葛城濃神
https://www.kyohaku.go.jp/jp/syuzou/meihin/kinsei/item02.html

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/kodai.html

大納言朝光、下らうに侍りける時、女のもとにしのびてまかりて、暁にかへらじといひければ
16 岩橋の夜の契りもたえぬべし明くるわびしき葛城の神(拾遺1201)

【通釈】久米路の石橋の工事が中途で終わったように、あなたとの仲も途絶えてしまいそうです。夜が明けるのがつらいことです、葛城の一言主の神のように見目を恥じる私は。
【語釈】◇朝光 藤原兼通の四男。正二位大納言。◇岩橋(いはばし) 大和国葛城の久米路の石橋。役行者が橋を架けようとしたが、一言主の神は容貌を恥じて夜しか働かず、行者の怒りを買って谷底へ落とされ、工事は中断されたという。この説話ゆえ「絶え」の縁語となる。◇明くるわびしき 夜が明けるのが心苦しい。これも一言主の説話に基づく。朝日に曝された顔を見て欲しくないという女心。

小大君一.jpg

小大君/妙法院宮堯然親王:狩野尚信/慶安元年(1648) 金刀比羅宮宝物館蔵
http://www.konpira.or.jp/museum/houmotsu/treasure_house_2015.html

岩橋の夜の契りもたえぬべし明くるわびしき葛城の神(拾遺1201)

小大君二.jpg

『三十六歌仙』(小大君)本阿弥光悦書(国立国会図書館デジタルコレクション)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1288424

大井川杣山風の寒ければ立つ岩波を雪かとぞ見る(『俊成三十六人歌合』)

『王朝秀歌選(樋口芳麻呂校注・岩波文庫)』の校注では、「平兼盛の大井の家で詠める歌。大井川=京都市西京区嵐山付近の桂川の別名、杣山風の寒ければ=材木を切り出す山を吹く風が寒いので、立つ岩波=岩にぶつかって立つ波のしぶき」とある。

(別記)「伊勢物語図色紙(伝俵屋宗達画)」周辺メモ

芥川.jpg

「伊勢物語色紙」(伝俵屋宗達画)第六段(芥川)
「女のえうましかりけるを/としをへてよはひ/わたりけるを/
からうして/ぬすみいてて/いと/くらきに/来けり」→下記(第六段)の※

雷神.jpg

「伊勢物語色紙」(伝俵屋宗達画)第六段(雷神)
「神さへいといみじう鳴り」→下記(第六段)の※※

【むかし、をとこありけり。※女のえうまじかりけるを、年を経てよばひわたりけるを、からうじて盗み出でゝ、いと暗きに来けり。芥川といふ河をゐていきければ、草の上にをきたりける露を、かれはなにぞとなむをとこに問ひける。ゆくさき多く、夜もふけにければ、鬼ある所とも知らで、※※神さへいといみじう鳴り、雨もいたう降りければ、あばらなる蔵に、女をば奥におし入れて、をとこ、弓やなぐひを負ひて、戸口にをり。はや夜も明けなむと思ツゝゐたりけるに、鬼はや一口に食ひけり。あなやといひけれど、神なるさはぎにえ聞かざりけり。やうやう夜も明けゆくに、見ればゐてこし女もなし。足ずりをして泣けどもかひなし。
  白玉かなにぞと人の問ひし時つゆとこたへて消えなましものを
これは、二条の后のいとこの女御の御もとに、仕うまつるやうにてゐたまへりけるを、かたちのいとめでたくおはしければ、盗みて負ひていでたりけるを、御兄人堀河の大臣、太郎國経の大納言、まだ下らふにて内へまゐり給ふに、いみじう泣く人あるをきゝつけて、とゞめてとりかへし給うてけり。それをかく鬼とはいふなり。まだいと若うて、后のたゞにおはしましける時とや。 】(『伊勢物語・大津有一校注・岩波文庫』第六段)

(周辺メモ)

 『伊勢物語』(第六段)は「芥川」と題される段で、「伊勢物語図色紙(伝俵屋宗達画)」の三十六図(益田家本)の中では、この第六段中の「芥川」の図は夙に知られている。
 これを第六段の全文に照らすと(上記の※)、「をとこ(若い男=業平)と女(愛する尊い女性=後の二条の后)」とが「駆け落ち」する場面で、これは、宗達自身の肉筆画というよりも、宗達工房(宗達が主宰する工房)の一般受けする、いわゆる「宗達工房ブランド」の絵図と解したい。
 そして、次の「雷神」図なのであるが、この「雷神」図は、宗達画の代表的な作品の「風神雷神図屏風」(建仁寺蔵・国宝)の、その「雷神」図の原型のようで、これこそ、「伊勢物語図色紙」の三十六図(益田家本)中の、宗達自身の肉筆画のように解したい。
 それにしても、この「雷神」図の詞書の「か見(神)さへ/いと/伊(い)ミし(じ)う/奈(な)り」は、どうにも謎めいているような感じで、『伊勢物語』の原文と照らすと、「神→雷神→鬼→(駆け落ちした女の「兄」)」という図式となり、その結末は、「鬼はや一口に食ひけり」、即ち、「女を連れ戻したり」ということで、何とも、他愛いない、これこそ、滑稽(俳諧)の極みという感じでなくもない。
 しかし、『宗達絵画の解釈学(林進著・敬文社)』の口絵(『伊勢物語図色紙』第六段「雷神図」)の紹介は次のとおりで、何と角倉素庵の追善画というものである。

【 宗達は、癩(ハンセン病)で亡くなった角倉素庵を追善するために『伊勢物語図色紙』三六図を描き、素庵の知友、親王・門跡・公家・大名・連歌師らも、詞書をその上に書き入れ、表立ってはおこなえぬ法要に替えて供養した。素庵も雷神となって色紙のなかに登場し、生前の知己たちの間をとび回り、出来映えをたのしんでいるようだ。 】(『宗達絵画の解釈学(林進著・敬文社)』)

 その「友人素庵を追善する『伊勢物語図色紙』」(第六章)では、その制作年代を寛永十一年(一六三四)十一月二十八日、二十二歳の若さで亡くなった、後陽成天皇の第十二皇子の「道周法親王」(「益田家本」第八八段の詞書染筆者、同染筆者の「近衛信尋・高松宮好仁親王・聖衛院道晃法親王の弟宮)の染筆以前の頃としている。
 ちなみに、その「益田家本『伊勢物語図色紙』詞書揮毫者一覧」の主だった段とその揮毫者などは次のとおりである。

第六段   芥川    里村昌程(二二歳)    連歌師・里村昌琢庄の継嗣(子)
同上    雷神    同上
第九段   宇津の山  曼殊院良尚法親王(一二歳) 親王(後水尾天皇の猶子)
同上    富士の山  烏丸資慶(一二歳)     公家・大納言光広の継嗣(孫)
同上    隅田川   板倉重郷(一八歳)     京都所司代重宗の継嗣(子)
第三九段  女車の蛍  高松宮好仁親王(三一歳) 親王(後陽成天皇の第七皇子)
第四九段  若草の妹  近衛信尋(三五歳)  親王(後陽成天皇の第四皇子)        
第五六段  臥して思ひ 聖衛院道晃法親王(二二歳)親王後陽成天皇の第一一皇子?) 
第五八段  田刈らむ  烏丸光広(五五歳)    公家(大納言)

 これらの「詞書揮毫者一覧」を見ていくと、『伊勢物語図色紙』」は角倉素庵追善というよりも、第九段(東下り)の詞書揮毫者の「曼殊院良尚法親王(一二歳)・烏丸資慶(一二歳)」などの「初冠(ういこうぶり)」(元服=十一歳から十七歳の間におこなわれる成人儀礼)関連のお祝いものという見方も成り立つであろう。
 ちなみに、烏丸光広(五五歳)の後継子(光広嫡子・光賢の長子)、烏丸資慶(一二歳)は、寛永八年(一六三一)、十歳の時に、後水尾上皇の御所で催された若年のための稽古歌会に出席を許され、その時の探題(「連夜照射」)の歌、「つらしとも知らでや鹿の照射さす端山によらぬ一夜だになき」が記録に遺されている(『松永貞徳と烏丸光広(高梨素子著)』)。
nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:アート