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鶴下絵三十六歌仙和歌巻(光悦書・宗達画)」周辺(その三十九) [光悦・宗達・素庵]

(その三十九)「鶴下絵和歌巻」R・S図(2-18)

(R図)
鶴下絵和歌巻R 図.jpg
(S図)
鶴下絵和歌巻S図.jpg
2-18 中務  秋風の吹くにつけても訪(と)はぬかな 萩の葉ならば音はしてまし(「俊」)
(釈文)秋可世濃吹尓徒気天も問怒可那お支濃葉なら半を登盤し傳まし
https://www.kyohaku.go.jp/jp/syuzou/meihin/kinsei/item02.html

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/nakatuka.html

   平かねきがやうやう離(か)れがたになりにければ、つかはしける
秋風の吹くにつけてもとはぬかな荻の葉ならば音はしてまし(後撰846)

【通釈】私に「飽き」たというのか。秋風が吹くにつけても、あなたは気配さえ見せない。荻の葉ならば音を立てるだろうに。
【語釈】◇平かねき 不詳。中納言平時望の子で大宰大弐となった真材(さねき)の誤かという(後撰和歌集標註)。◇秋風 「飽き」を掛ける。◇荻(をぎ)の葉 荻はイネ科の多年草。夏から秋にかけて上葉を高く伸ばし、秋風にいちはやく反応する葉擦れの音は、秋の到来を告げる風物とされた。◇音はしてまし 音くらいは立てるだろう。「音」は訪問や消息を暗示している。

中務一.jpg
中務/小川坊城中納言俊完:狩野安信/慶安元年(1648)  金刀比羅宮宝物館蔵
http://www.konpira.or.jp/museum/houmotsu/treasure_house_2015.html

秋風の吹くにつけてもとはぬかな荻の葉ならば音はしてまし(後撰846)

中務二.jpg
『三十六歌仙』(中務)本阿弥光悦書(国立国会図書館デジタルコレクション)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1288424

秋風の吹くにつけてもとはぬかな荻の葉ならば音はしてまし(後撰846)

(追記一)「鹿下絵和歌巻断簡」の「シアトル美術館蔵」周辺(その十四・その十五)

鹿下絵和歌巻・シアトル十四.jpg
「鹿下絵新古今集和歌巻断簡」(シアトル美術館蔵その十四)
下絵和歌巻・シアトル十五.jpg
「鹿下絵新古今集和歌巻断簡」(シアトル美術館蔵その十五)
http://art.seattleartmuseum.org/objects/14261/poem-scroll-with-deer?ctx=947bccb0-1f22-40c6-acef-ab7c81a74c67&idx=1

 上記の絵図の和歌(「その十四」の「三行目」から「その十五」の「三行目まで」は次の一首である。

389  藤原家隆朝臣 [詞書]和哥所哥合に湖辺月といふことを
にほのうみや月の光のうつろへはなみの花にも秋はみえけり
(釈文)和哥所哥合尓湖辺濃月という事を
尓保濃海や月乃光濃う徒ろへ盤波濃華尓も秋盤見え介利

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/ietaka_t.html

   和歌所歌合に、湖辺月といふことを
にほの海や月の光のうつろへば波の花にも秋は見えけり(新古389)

【通釈】琵琶湖の水面に月の光が映れば、秋は無縁と言われた波の花にも、秋の気色は見えるのだった。
【語釈】◇にほの海 琵琶湖の古称。◇波の花 白い波頭を花に見立てた。下記本歌を踏まえる。
【補記】「波の花にぞ秋なかりける」と詠んだ本歌(下記参照)を承けて、月の光によって「波の花」にも秋らしい色は見えると応じた。建永元年(1206)七月十三日和歌所当座歌合(散佚)。
【本歌】文屋康秀「古今集」
草も木も色かはれどもわたつ海の波の花にぞ秋なかりける

(追記二)「鶴下絵和歌巻」と「鹿下絵和歌巻」周辺(メモ)

 「鶴下絵和歌巻」の巻末には、「光悦」の方印が捺されている。そして、「鹿下絵和歌巻」の巻末には、「徳友斎光悦」の署名と花押があり、さらに、「伊年」の円印が捺されている。
 この「伊年」については、下記のアドレスのものを再掲して置きたい。

https://www.kyohaku.go.jp/jp/dictio/kaiga/163.html

(再掲)

【「俵屋」は、高級ブランドとして、当時たいへんな人気を集め、やがて、お寺や朝廷からも注文がくるようになります。その俵屋製とみられる金箔地に草花を描いた襖絵や屏風絵が何点かのこされています。そのなかで最も古く、すぐれた作品として昔から定評(ていひょう)があるのがこの絵。宗達のすぐれた弟子のひとりによって描かれたとみられています。右端の下に、「伊年」と読めるハンコが捺(お)されていますね。これは、俵屋ブランドのマークなのです。】

 この「伊年」(「シアトル美術館蔵その十四」の左端)は、「俵屋ブランド」(「俵屋工房」宗達が主宰とする「俵屋工房」)のマーク、そして、「俵屋」の工房印ということになる。
 この「伊年」は、「イネ」=「稲」の意で「俵屋」の「俵」に通じるとの説もあるようである。また、「俵屋」は、「絵屋」(絵画的作品の制作販売を業とする)の一つで、「金銀泥下絵をはじめ、扇絵や貝絵、灯籠絵や染色下絵、さらに工芸品や建築の彩色など」幅広く生活美術全般を手掛けていたのであろう(『日本の美術№460 光悦と本阿弥流の人々(河野元昭著)』)。
 ここで、光悦(書)と宗達(そして「宗達工房」)(画)とのコラボ(共同制作・協業合作)的な「金銀泥下絵和歌巻」の代表的作品は、次の五点ということになる。

一 四季草花下絵古今集和歌巻(畠山記念館蔵)
「光悦」墨文方印 「伊年」朱文方印 「紙師宗二」長方印
二 鶴下絵三十六歌仙和歌巻(京都国立博物館蔵)
「光悦」墨印方印 「紙師宗二」長方印
三 鹿下絵新古今集和歌巻(「シアトル美術館」他「諸家分藏」)
「徳友斎光悦」(花押) 「伊年」朱文円印
四 蓮下絵百人一首和歌巻(「東京国立博物館」他「諸家分藏」)
「太虚庵光悦」(花押)
五 四季草花千載集和歌巻(「畠山記念館蔵」他「諸家分藏」)
「太虚庵光悦」(花押) 伊年」朱文円印 紙師宗二」長方印

 これらの、「光悦(書)と宗達(そして『宗達工房』)(画)とのコラボ(共同制作・協業合作)的な『「金銀泥下絵和歌巻」の代表的作品(上記『五作品』)」を仲介する者の一人として.「紙師宗二」が浮き彫りとなって来る。
 この「紙師宗二」については、『嵯峨野明月記(辻邦生著)』は「経師屋宗二」でしばしば登場する。

「ある日、同じ町内の経師屋宗二が、放心して歩いているおれ(宗達)に声をかけ、おれが咄嗟に宗二が誰だかわからず「お前、誰/だっけ」と訊ねたことがある。」(「第一の五、扇屋繁昌のこと・・・」)

「経師屋の宗二もその一人で、先代から、扇絵の貼りつけや、屏風の仕上げはすべて宗二の家が引きうけていたので、おれも宗二とは子供の頃から野っ原で遊びもし、御殿の庭に忍びこみをしたものだ。いま憶いだしてみると、すでに子供の頃にそうした癖があったように思うが、宗二は何かを見分けようとするとき、紙でも木ぎれでも、かならず舌先でなめてみるのである。まるでその味を吟味してでもいるように、眼をつぶり、しばらくなめてから、これはどこそこの紙だとか、この木ぎれは何の木だとか言いあてるのだった。そしてそれが不思議によくあたった。のちに、宗二が経師の職をついで、備中や伯耆、美作あたりの紙を扱うようになると、紙を舌先にあてただけで、それがどこの、誰の手ですかれたものか、ぴたりと言いあてるようになり、おれの店にくる紙商人などは『宗二殿の舌にかかると、夏にすいたか、冬にすいたかまでわかるんですからね。かないませんな』と言っていたほどだ。」(「第二の一、京の繁昌の事・・・」)

「宗二の家に色紙を取りにいってもらったことがある。しかし妻が持ちかえ/ってきたのは、私(光悦)が当時好んで用いていた金砂の無地の料紙ではなく、梅や蔦や四季草花をあしらった金泥摺りの料紙だった。それは筆を染めるには、料紙の絵が少しくどく目立ちすぎるような気がした。」(「第二の三、光悦が妻に関する事・・・」)

「角倉与一(素庵)はおれ(宗達)が直接筆をおろした金銀泥の料紙を幾つか欲しいと言った。『いずれそのうち俵屋でつくる料紙全部を買わしていただくことになると思いますが、それはまた宗二(紙師宗二)殿と相談して、話しあっていただくことにします』角倉は鄭重にそう言うと、与三次郎(俵屋の絵師)に送られて出ていった。」(「第二の三、光悦が妻に関する事・・・」)

「本阿弥(光悦)は角倉与一(素庵)からおれ(宗達)の四季花木の料紙を贈られ、和歌集からえらんだ歌をそれに揮毫していて、それが公家や富裕な町衆のあいだで大そうな評判をとったことは、すでにおれ(宗達)のところにも聞こえていた。たしかに宗二(紙師宗二)が本阿弥に呼ばれて、本阿弥好みの意匠をあれこれと聞かされ、それをおれ(宗達)に相談することがよくあった。それはたとえば秋草と半月、叢菊、胡蝶、蜻蛉と流水など本阿弥がのちまで好んだ図柄であって、そういった思いつきの面白さにひかれて、おれもそうした図柄の下絵を何度となく描いてみた。だが、おれがその頃驚かされたのは本阿弥が好みの色紙に筆をおろすと、下絵のなかに漠然と漂っていた優艶な趣が、不思議と、それだけが引きだされたように、くっきりとした輪郭をとって現れてくることだった。」(「第二の三、光悦が妻に関する事・・・」)


 この宗二(経師屋)は、元和元年(一六一五)に、光悦(五十八歳)が徳川家康より洛北鷹が峰の土地を与えられ、以後、そこを本阿弥家の拠点とした時に、宗二もまた、光悦と行動を共にしている。
 これらのことについては、下記のアドレスで触れている。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-03-23

 この光悦の「鷹が峰『芸術・信仰(法華宗))』の里」の開村には、光悦と親交の深い、尾形宗伯(尾形光琳、乾山の祖父)・茶屋四郎次郎などの有力町衆を始め、蒔絵師・土田宗澤、筆屋(筆師)・妙喜、そして、紙屋(紙師・経師)・宗二などの、漆工・陶工・金工・織工などの名工たちが参集し、村の中央に構えた光悦の屋敷を中心に、五十軒以上の家並みが軒を揃えたのである。
 ここには、素庵(角倉家)の名も、宗達(俵屋)の名もない。しかし、光悦の「鷹が峰『芸術・信仰(法華宗))』の里」の開村以後においても、この三者の関係が疎遠になったとか、全く途切れたということではない。
 この光悦村開村の翌年の元和二年(一五一六)、素庵(角倉家)は幕命によって「淀川転運使」(京都の宿次過書奉行の支配下にある淀川の 貨客輸送にあたる事業者)に取り組んでいるが、素庵の依頼により光悦が陰ながら支援している書状(「素庵宛て光悦の消息」)などが今に遺っている(『角倉素庵(林屋辰三郎著)』)。
 さらに、光悦と交友関係にある中院通村(和歌,書道にひいでた「武家伝奏・権大納言」の要職を歴任した公卿)の「中院通村日記」(元和二年三月十三日の条)に、宗達の名が「宮廷人の好みにかなった絵師」として、今にその名を遺している(『日本の美術№31 宗達(千沢楨治著)』)。
 ここで、光悦の「鷹が峰『芸術・信仰(法華宗))』の里」の一画に、紙屋(紙師・経師)・宗二の名があることは、宗二は、宗達・素庵に近い人物というよりは、光悦や本阿弥一族と深い関係にある、謂わ.ば、光悦配下の一人と理解をしたい。
そして、「光悦・宗達・素庵」の三者の関係にあっては、光悦のメッセンジャー(使者・仲介人)のような役割と共に、光悦(書)と宗達(そして「宗達工房」)(画)とのコラボ(共同制作・協業合作)的な「金銀泥下絵和歌巻」の制作にあたっては、コーディネーター(全体の進行・調整役)・光悦のサブ・コーディネーター(副進行・調整役)のような役割を担っていたように理解をしたい。
 嘗て、下記のアドレスで、次のようなイメージ(周辺メモ・仮説)を提示していた。

https://yahantei.blog.ss-blog.jp/2020-02-06

(周辺メモ・仮説・素案) → 『嵯峨野名月記(辻邦生著)』など

プロデューサー(producer) → 本阿弥光悦・角倉素庵
ディレクター(director) →  本阿弥光悦
クリエイター(creator) →  (書)本阿弥光悦・角倉素庵
              (画)俵屋宗達ほか

 これを、修正して、コーディネーター(coordinator)を加え、それを「主(main)・副(sub)」に分け、「紙屋宗二」を加えていきたい。

(周辺メモ・仮説・修正案) → 「金銀泥下絵和歌巻」制作システム(修正素案)

プロデューサー(producer) →(主)本阿弥光悦・(副)角倉素庵
コーディネーター(coordinator)→(主)本阿弥光悦・(副)紙屋宗二
ディレクター(director) →  本阿弥光悦
クリエイター(creator) →  (書)本阿弥光悦・角倉素庵
               (画)俵屋宗達ほか
              (装幀)紙屋宗二ほか

 その上で、「金銀泥下絵和歌巻」の代表的な下記の作品(再掲)の制作は、「徳友斎光悦」時代(「慶長年間」時代→「一・二・三」)と「太虚庵光悦」時代(「元和元年以降」時代→「四・五)との二区分ということになる。

一 四季草花下絵古今集和歌巻(畠山記念館蔵)
「光悦」墨文方印 「伊年」朱文方印 「紙師宗二」長方印
二 鶴下絵三十六歌仙和歌巻(京都国立博物館蔵)
「光悦」墨印方印 「紙師宗二」長方印
三 鹿下絵新古今集和歌巻(「シアトル美術館」他「諸家分藏」)
「徳友斎光悦」(花押) 「伊年」朱文円印
四 蓮下絵百人一首和歌巻(「東京国-立博物館」他「諸家分藏」)
「太虚庵光悦」(花押)
五 四季草花千載集和歌巻(「畠山記念館蔵」他「諸家分藏」)
「太虚庵光悦」(花押) 伊年」朱文円印 紙師宗二」長方印

(参考)「慶長年間の光悦・宗達・素庵・光広・黒雪」関連年譜

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-03-30

慶長三年(一五九八)豊臣秀吉没 ★光広(20)細川幽斎に師事(「烏山光広略年譜」))。 光悦(41)、宗達(31?)、素庵(28)、黒雪(32)。
同五年(一六〇〇)光悦(43)このころ嵯峨本「月の歌和歌巻」書くか。関が原戦い。
☆素庵(30)光悦との親交深まる(「角倉素庵年譜」)。
同六年(一六〇一)光悦(44)このころ「鹿下絵和歌巻」書くか。
同七年(一六〇二)宗達(35?)「平家納経」補修、見返し絵を描くか。
同八年(一六〇三)★光広(25)細川幽斎から古今伝授を受ける。徳川家康征夷大将軍となる。
同九年(一六〇四)☆素庵(34)、林蘿山と出会い、惺窩に紹介する。嵯峨本の刊行始まる(「角倉素庵年譜」)。
同十年(一六〇五)宗達「隆達節小歌巻」描くか。黒雪(39?)後藤net庄三郎に謡本を送る。
徳川秀忠将軍となる。
同十一年(一六〇六)光悦(49)「光悦色紙」(11月11日署名あり)。
同十三年(一六〇八)光悦(51)「嵯峨本・伊勢物語」刊行。
同十四年(一六〇九)光悦(52)「嵯峨本・伊勢物語肖聞抄」刊行。★光広(31)勅勘を蒙る(猪熊事件)(「烏山光広略年譜」)。
同十五年(一六一〇)光悦(53)「嵯峨本・方丈記」刊行。
同十七年(一六一二)光悦(55)☆光悦、軽い中風を患うか(「光悦略年譜」)。
同十九年(一六一四)近衛信尹没(50)、角倉了以没(61) 大阪冬の陣。
元和元年(一六一五)光悦(58)家康より洛北鷹が峰の地を与えられ以後に光悦町を営む。古田織部自刃(62)、海北友松没(83)。大阪夏の陣。宗達(48?)、素庵(45)、黒雪(49)、光広(37)。

☆「光悦略年譜」=『光悦 琳派の創始者(河野元昭編)』。「角倉素庵年譜」=『角倉素庵(林屋辰三郎著)』。★「烏山光広略年譜」=(『松永貞徳と烏山光広・略年譜・高梨素子著』)

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