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源氏物語画帖(その十六・関屋)」(光吉筆:京博本)周辺 [源氏物語画帖]

16 関屋(光吉筆)=(詞)竹内(曼殊院)良恕(一五七三~一六四三)     源氏29歳秋

光吉・関屋.jpg

源氏物語絵色紙帖 関屋  画・土佐光吉
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/536338/2

良恕・関屋.jpg

源氏物語絵色紙帖 関屋  詞・竹内(曼殊院)良恕
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/536338/1

(「竹内(曼殊院)書の「詞」)

ここかしこの杉の下に車どもかき下ろし、木隠れに居かしこまりて過ぐしたてまつる。
(第一章 空蝉の物語 逢坂関での再会の物語 第二段 源氏、石山寺参詣)

1.2.2 ここかしこの杉の下に車どもかき下ろし、 木隠れに居かしこまりて過ぐしたてまつる。 (あちらこちらの杉の木の下に幾台もの車の轅を下ろして、木蔭に座りかしこまってお通し申し上げる。)

(周辺メモ)

http://www.genji-monogatari.net/

第十六帖 関屋
 第一章 空蝉の物語 逢坂関での再会の物語
  第一段 空蝉、夫と常陸国下向
  第二段 源氏、石山寺参詣
(「竹内(曼殊院)書の「詞」) → 1.2.2
第三段 逢坂の関での再会
 第二章 空蝉の物語 手紙を贈る
  第一段 昔の小君と紀伊守
  第二段 空蝉へ手紙を贈る
 第三章 空蝉の物語 夫の死去後に出家
  第一段 夫常陸介死去
  第二段 空蝉、出家す

http://e-trans.d2.r-cms.jp/topics_detail31/id=2654

源氏物語と「関屋」(川村清夫稿)

【 大津にある石山寺には、紫式部が参籠した際に源氏物語の着想を得たという伝説がある。京都にあった彼女の自宅(現在の廬山寺)から石山寺までは、三条通から旧東海道を歩いて20キロほどの距離である。しかし現代では、旧東海道の後継道路である国道1号は山科で五条バイパスから五条通につながって大阪へ向かい、山科から三条通までは府道143号が通っている。旧東海道は府道143号とほぼ同じ経路の、狭い街道として現存する。多くの和歌の歌枕として有名な逢坂関は、大津の長安寺付近なのだが、遺跡は発見されていない。

 関屋の帖では、石山寺へ参詣に行く光源氏が、夫の国司任期が終わり都に戻る空蝉と逢坂関で出会う。光源氏は空蝉の弟の右衛門佐を通して空蝉と文通するのである。大島本原文、渋谷栄一の現代語訳、ウェイリーとサイデンステッカーの英訳の順に見てみよう。

(大島本原文)
「一日は、契り知られしを、さは思し知りけむや。
 わくらばに行き逢ふ道を頼みしも
なほかひなしや潮ならぬ海
関守の、さもうらやましく、めざましかりしかな」
とあり。

(渋谷現代語訳)
「先日は、ご縁の深さを知らされましたが、そのようにお思いになりませんか。
偶然に逢坂の関でお逢いしたことに期待を寄せていましたが
それも効ありませんね、やはり潮海でない淡海だから
関守が、さも羨ましく、忌ま忌ましく思われましたよ」
とある。

(ウェイリー英訳)
“Did not our meeting of the other day seem almost as though it had been arranged by Fate? Surely you too must have felt so.” With the letter was the acrostic poem: “Though on this lake-side Fate willed that we should meet, upon its tideless shore no love-shell can we hope to find.” How bitterly I envied the Guardian of the Pass,” he added.

(サイデンステッカー英訳)
“I wonder if it occurred to you the other day,” said Genji’s note, “how strong a bond there must be between us.
“By chance we met, beside the gate of meeting.
A pity its fresh waters should be so sterile.”
“How I envy the occupant of the gatehouse.”

 光源氏の手紙については、ウェイリー訳の初訳がこなれていないのに比べ、サイデンステッカー訳は簡潔でわかりやすい。また和歌に関しては、両訳共に下の句の「潮」と「海」の解釈をせずに、意訳している。

(大島本原文)
今は、ましていと恥ずかしう、よろづのこと、うひうひしき心地すれど、めづらしきにや、え忍ばれざりけむ。
「逢坂の関やいかなる関なれば
 しげき嘆きの仲を分くらむ
夢のやうになむ」
と聞こえたり。あはれもつらさも、忘れぬふしと思し置かれたる人なれば、折々は、なほ、のたまひ動かしけり。

(渋谷現代語訳)
今では更にたいそう恥ずかしく、すべての事柄、面映ゆい気がするが、久しぶりの気がして、堪えることができなかったのであろうか、
「逢坂の関は、いったいどのような関なのでしょうか
こんなに深い嘆きを起こさせ、人の仲を分けるのでしょう
夢のような心地がします」
と申し上げた。いとしさも恨めしさも、忘れられない人とお思い置かれている女なので、時々は、やはり、お便りなさって気持ちを揺するのであった。

(ウェイリー英訳)
She was still the same shy, inexperienced girl of years ago; her brother’s tone profoundly shocked her and she had no intention of carrying on a flirtation for his benefit. But naturally enough she did feel flattered at the reception of such a note and in the end consented to reply. With her letter was an acrostic poem in which she said that the Barrier of Osaka had been no barrier to her tears, nor the Hill of Osaka a true hill of meetings.
She was connected in his mind with the most delightful and also perhaps the most painful moment in his life. Hence his thoughts tended frequently to recur to her, and he continued to write to her from time to time.

(サイデンステッカー英訳)
The lady had become more reticent with the years, but she was unable to ignore so remarkable a message.
“The gate of meeting, atop the barrier rise,
Is shaded by impassable wailing groves.
“It is all like a dream.”
Touching things, annoying things, Genji could forget none of them. From time to time he got off notes to the lady which he hoped would interest and excite her.

 空蝉の手紙についてウェイリー訳は、和歌を区別せず不正確であるのに比べ。サイデンステッカー訳は丁寧で正確である。空蝉と光源氏の心理描写に関しては、ウェイリー訳は冗長で、サイデンステッカー訳は簡潔である。
この後空蝉は夫が亡くなり、継子からの誘惑を避けて出家するのである。    】

(「三藐院ファンタジー」その七)

 この「詞書」の筆者の、「竹内(曼殊院)良恕」は、陽光院(誠仁親王)の第三皇子で、兄が、後陽成天皇(誠仁親王の第一皇子)、大覚寺空性法親王(誠仁親王の第二皇子)、弟が、八条宮智仁親王(誠仁親王の第六皇子)である。 
 下記のアドレスで、「後陽成天皇・後水尾天皇」関係略系図(周辺)について紹介している。(そのアドレスでの誤記や、その後のデータなどを加味して、下記に再掲をして置きたい。)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-04-20

【 「後陽成天皇・後水尾天皇」関係略系図(周辺)
 「源氏物語画帖(源氏物語絵色紙帖)」の「詞書」の筆者は、後陽成天皇を中心とした皇族、それに朝廷の主だった公卿・能筆家などの二十三人が名を連ねている。その「後陽成天皇・後水尾天皇」関係略系図()周辺は、下記記のとおりで、※印の方が「詞書」の筆者となっている。その筆者別の画題をまとめると次のとおりとなる。

正親町天皇→陽光院(誠仁親王)→ ※後陽成天皇   → 後水尾天皇
    ↓※妙法院常胤法親王 ↓※大覚寺空性法親王 ↓※近衛信尋(養父・※近衛信尹)    
      ↓        ↓※曼殊院良恕法親王 ↓高松宮好仁親王
      ↓          ↓※八条宮智仁親王  ↓一条昭良(養父・一条内基)
      ↓        ↓興意法親王     ↓良純法親王 他
    ※青蓮院尊純法親王(常胤法親王の王子、良恕法親王より灌頂を受け親王宣下)
 
※後陽成院周仁(誠仁親王の第一皇子・一五七一~一六一七) →(桐壺・箒木・空蝉)
※大覚寺空性法親王(誠仁親王の第二皇子・一五七三~一六五〇) →(紅葉賀・花宴)
※曼殊院良恕法親王(誠仁親王の第三皇子・一五七三~一六四三) →(関屋・絵合・松風)
興意法親王(誠仁親王の第五皇子・一五七六~一六二〇)→方広寺大仏鐘銘事件(蟄居?)
※八条宮智仁親王(誠仁親王の第六皇子・一五七九~一六二九) →(葵・賢木・花散里) 
※妙法院常胤法親王(誠仁親王の弟・一五四八~一六二一)  →(初音・胡蝶)
※青蓮院尊純(常胤法親王の子・一五九一~一六五三)→(篝火・野分・夕顔・若紫・末摘花)
※近衛信尋→(後陽成天皇の子・後水尾天皇の弟・信尹の養子・太郎君の夫?・一五九九~一六四九)→(須磨・蓬生)
※近衛信尹→(信尹の養父・太郎君の父・一五六五~一六一四)→(澪標・乙女・玉鬘・蓬生)
※近衛太郎(君)→(近衛信尹息女・慶長三年(一五九八)誕生?)・ 信尋の正室?)→(花散里・賢木)    
    】

 さらに、下記のアドレスで、曼殊院良恕法親王(一五七四―一六四三)を、「本阿弥光悦そして『後陽成・後水尾文化サロン』」で紹介したが、それも再掲をして置きたい。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-10-08

【 ※曼殊院良恕法親王(一五七四―一六四三)

https://kotobank.jp/word/%E6%9B%BC%E6%AE%8A%E9%99%A2%E8%89%AF%E6%81%95%E6%B3%95%E8%A6%AA%E7%8E%8B-20985

 江戸初期の親王。曼殊院門跡。陽光院誠仁親王第三皇子。後陽成天皇の弟。初名勝輔、法名覚円のち良恕。幼称は三宮、号は忠桓。尊朝親王のもとで得度、伝法灌頂を受ける。第百七十代天台座主となり、二品に叙せられる。書画・和歌・連歌を能くした。著書に『厳島参詣記』がある。寛永20年(1643)薨去、70才。
 曼殊院良恕法親王(一五七四―一六四三)は、光悦(一五五八-一六三七)より十六歳程度年少で、第一〇七代天皇の後陽成天皇の実弟である。後陽成天皇の在位期間は、天正十四年(一五八六)から慶長十六年(一六一一)で、豊臣秀吉から徳川家康,秀忠父子の時代にあたり,皇室が久しい式微の状態から脱して一応尊厳を回復した時期であった。
 光悦の、この「四季草花下絵千載集和歌巻」の署名は「大虚庵 光悦(花押)」で、この「大虚庵」の庵号は、元和元年(一六一五)の鷹峯の地へ移住後で、後陽成天皇の時代の次の後水尾天皇(一五九六―一六八〇、在位期間=一六一一―一六二九)の時代である。
 この後水尾天皇は、歌道を「智仁親王(初代八条宮)・三条西実条・烏丸光広・中院通村」に師事し、寛永二年(一六二五)智仁親王から古今伝授を受けている。のちに宮廷歌壇の最高指導者として稽古会や古典講釈を催し、後継の親王や公卿に古今伝授を行い御所伝授による宮廷歌壇を確立したことで知られている。
 この、智仁親王(初代八条宮)は、「後陽成天皇(和仁親王(後陽成天皇)・空性法親王(天王寺別当)・良恕法親王(天台座主)・興意法親王(織田信長猶子))の末弟で、豊臣秀吉の猶子にもなっている。
 これらの「後陽成天皇・後水尾天皇」の「慶長・元和・寛永」の時代は、同時に、「後陽成天皇・後水尾天皇」周辺の「後陽成・後水尾院文化サロン」的な場を形成していていた。
それらは、「歌道」(「智仁親王(初代八条宮)・三条西実条・烏丸光広・中院通村」等の「古今伝授」継受者等を中心とする)」、「茶道」(「後水尾院・公家・宮家・門跡」等の「仙洞茶会」・「大納言日野資勝」等の「公家と町衆(光悦等)」の茶会、「町衆(光悦等)と武家・大名(古田織部・小堀遠州・前田利常・加藤嘉明等々)」との茶会・「千宗旦・近衛家等と町衆(光悦等)との茶会等々)、「華道」(「池坊専好」等)、「書道」(「「歌道」と密接不可分の世界)、「能・能楽」(「観世大夫身愛(黒雪)」等の世界)、「画(俵屋宗達等)・工芸(蒔絵師五十嵐家等、陶芸師楽家・紙師宗二等々)との世界)と、それらが輻輳した、その象徴的な世界が、「光悦と宗達等々」との「和歌巻」の世界であると解することも出来よう。
 それらの「後陽成・後水尾文化サロン」の「歌道」「書道」「茶道」「華道」「能・能楽」「画・工芸」の諸分野に精通し、それらの分野の第一人者(「歌道=烏丸光広等」「書道=松花堂昭乗等」「茶道=千宗旦等」「華道=池坊専好等」「能・能楽=観世黒雪等」「画=俵屋宗達等、蒔絵=五十嵐家等、陶芸=楽家等、嵯峨本=角倉素庵等、唐紙=宗二等)から、先達(先に立って案内する人)として仰がれていた人物こそ、本阿弥光悦と解したい。  】
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