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源氏物語画帖(その十八・松風」(光吉筆:京博本)周辺 [源氏物語画帖]

18 松風(光吉筆) =(詞)竹内良恕(一五七三~一六四三)    源氏31歳秋

光吉・松風.jpg

源氏物語絵色紙帖 松風 画土佐光吉
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/587089/2

詞曼殊院良恕・松風.jpg

源氏物語絵色紙帖 松風 詞 曼殊院(竹内)良恕 
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/587089/2

https://matuyonosuke.hatenablog.com/entry/2019/03/19/%E6%9D%BE%E9%A2%A8_%E3%81%BE%E3%81%A4%E3%81%8B%E3%81%9C%E3%80%90%E6%BA%90%E6%B0%8F%E7%89%A9%E8%AA%9E_%E7%AC%AC%E5%8D%81%E5%85%AB%E5%B8%96%E3%80%91

(「竹内(曼殊院)書の「詞」)

大御酒あまたたび順流れて、川のわたり危ふげなれば、酔ひに紛れておはしまし暮らしつ。
(第三章 明石の物語 桂院での饗宴 第二段 桂院に到着、饗宴始まる)

3.2.7 (野に泊りぬる君達、小鳥しるしばかりひき付けさせたる荻の枝など、苞(つと)にして参れり。)大御酒(おほみき)あまたたび順流れて、川のわたり危ふげなれば、酔ひに紛れておはしまし暮らしつ。
(訳:野原に夜明かしした公達(殿上役人)は、小鳥を体裁ばかり(しるしだけ)に付けた荻の枝など、土産にして参上した。お杯が何度も廻って、川の近くなので危なっかしいので、酔いに紛れて一日お過ごしになった。)

(周辺メモ)

http://www.genji-monogatari.net/

第十八帖 松風
 第一章 明石の物語 上洛と老夫婦の別れの秋
  第一段 二条東院の完成、明石に上洛を促す
  第二段 明石方、大堰の山荘を修理
  第三段 惟光を大堰に派遣
  第四段 腹心の家来を明石に派遣
  第五段 老夫婦、父娘の別れの歌
  第六段 明石入道の別離の詞
  第七段 明石一行の上洛
 第二章 明石の物語 上洛後、源氏との再会
  第一段 大堰山荘での生活始まる
  第二段 大堰山荘訪問の暇乞い
  第三段 源氏と明石の再会
  第四段 源氏、大堰山荘で寛ぐ
  第五段 嵯峨御堂に出向き大堰山荘に宿泊
 第三章 明石の物語 桂院での饗宴
  第一段 大堰山荘を出て桂院に向かう
  第二段 桂院に到着、饗宴始まる
(「竹内(曼殊院)書の「詞」)→ 3.2.7 
  第三段 饗宴の最中に勅使来訪
 第四章 紫の君の物語 嫉妬と姫君への関心
  第一段 二条院に帰邸
  第二段 源氏、紫の君に姫君を養女とする件を相談

http://e-trans.d2.r-cms.jp/topics_detail31/id=2874

源氏物語と「松風」(川本清夫稿)

【光源氏は「賢木」の帖で朧月夜との密会を政敵に発見され、勅勘の身となり都を離れたが、「明石」の帖で明石入道から歓待され、明石上を紹介され娘(後の明石中宮)をもうけた。孫娘の立身出世を願う入道は、都へ帰って権勢を取り戻した光源氏のもとに、妻の尼君、明石上と共に移住させることにした。ここで明石入道は明石上に、花嫁の父らしい別離の挨拶を述べる。近衛中将だったが受領階級である播磨守になり下がったことをひがむ節もある長文の台詞なので、主要部を大島本原文、渋谷栄一の現代語訳、ウェイリーとサイデンステッカーの英訳の順に見てみよう。

(大島本原文)
「世の中を捨てはじめしに、かかる人の国に思ひ下りはべりしことども、ただ君の御ためと、思ふやうに明け暮れの御かしづきも心にかなふやうもやと、思ひたまへ立ちしかど、身のつたなかりける際の思ひ知らるること多かりしかば、さらに、都に帰りて、古受領の沈めるたぐひにて、貧しき家の蓬葎、元のありさま改むることもなきものから、…君のやうやう大人びたまひ、もの思ほし知るべきに添へては、など、かう口惜しき世界にて錦を隠しきこゆらむと、心の闇晴れ間なく嘆きわたりはべりしままに、…思ひ寄りがたくて、うれしきことどもを見たてまつりそめても、なかなか身のほどを、とざまかうざまに悲しう嘆きはべりつれど、若君のかう出でおはしましたる御宿世の頼もしさに、かかる渚に月日を過ぐしたまはむも、いとかたじけなう、契りことにおぼえたまへば、見たてまつらざらむ心惑ひは、静めがたけれど、この身は長く世を捨てし心はべり。」

(渋谷現代語訳)
「世の中を捨てた当初に、このような見知らぬ国に決意して下って来ましたことども、ただあなたの御ためにと、思いどおりに朝晩のお世話も満足にできようかと、決心致したのですが、わが身の不運な身分が思い知らされることが多かったので、絶対に、都に帰って古受領の落ちぶれた類となって、貧しい家の蓬や葎の様子が、元の状態に改まることもないものから、…あなたがだんだんご成長なさり、物ごとが分かってくるようになると、どうして、こんなつまらない田舎に錦をお隠し申しておくのかと、親の心の闇の晴れる間もなくずっと嘆いておりましたが、…思いがけなく、嬉しいことを拝見しましてこのかたも、かえって身の程を、あれこれと悲しく嘆いていましたが、若君がこのようにお生まれになったご因縁の頼もしさに、このような海辺で月日を送っていらっしゃるのも、たいそうもったいなく、宿縁も格別に存じられますので、お目にかかれない悲しさは、鎮めがたい気がするが、わが身は永遠に世を捨てた覚悟がございます。」

(ウェイリー英訳)
“When I first put worldly ambitions aside,” said the old man, “and contented myself with a mere provincial post, I made up my mind that, come what might, you, my dear daughter, should not suffer from my having sacrificed my own prospects; and how best, despite the remoteness of our home, to fit you for the station of life to which you properly belonged became my one thought and care. But my experience as Governor taught me much; I realized my incapacity for public affairs, and knew that if I returned to the City it would only be to play the wretched part of ex-Governor. My resources were much diminished and were I to set up house again at the Capital it would be on a very different scale from before… But you were now growing up and your future had to be thought of. How could I allow you to waste your beauty in this far corner of the earth like a brocade that is never taken from the drawer?... And what indeed could have been more utterly unforeseen than the circumstances which at last brought so distinguished a guest to our home? In this I could not but see the hand of Heaven, and my only anxiety was lest too great an inequality of rank should divide you. But since the birth of this child, that fear has not so much troubled me, for I feel that your union is fated to be a lasting one. A child of Royal Blood cannot, we must allow, pass all its days in a village by the sea, and though this parting costs me dear I am determined never again to tamper with the world that I have renounced.”

(サイデンステッカー英訳)
”When I gave up the world and settled into this life, it was my chief hope that I might see to your needs as you deserved. Aware that I had not been born under the best of stars, I knew that going back to the city as another defeated provincial governor I would not have the means to put my hut in order and clear the weeds from my garden… But then you grew up and began to see what was going on around you, and in the darkness that is the father’s heart I was not for one moment free from a painful question: why was I hiding my most precious brocade in a wild corner of the provinces?... Then came that happy and unexpected event, which had the perverse effect of emphasizing our low place in life. Determined to believe in the bond of which our little one here is evidence, I could see too well what a waste it would be to have you spend your days on this seacoast. The fact that she seems meant for remarkable things makes all the more painful the need to send her away. No, enough, I have left it all. “

 ウェイリー訳は説明調で冗長で、サイデンステッカー訳は要領を得てこなれており口語調である。明石上を意味する「錦」は両訳ともbrocadeと訳している。「若君」は孫娘のことで、ウェイリーはthis child、a child of Royal Blood、サイデンステッカーはour little oneと訳している。「御宿世」をウェイリーはthe hand of Heaven、サイデンステッカーはthe bondと訳している。
 光源氏は明石上一行との再会を喜び、孫娘を貴婦人にするべく、その養育を紫上にまかせ、紫上は快諾するのである。 】

(「三藐院ファンタジー」その九)

 「源氏物語画帖(源氏物語絵色紙帖)」の「詞書」の筆者は、後陽成天皇を中心とした皇族、それに朝廷の主だった公卿・能筆家などの二十三人が名を連ねるが、その下記の皇族のうち、「興意法親王(誠仁親王の第五皇子・一五七六~一六二〇)」だけ、「詞書」を書いていない。

※後陽成院周仁(誠仁親王の第一皇子・一五七一~一六一七) →(桐壺・箒木・空蝉)
※大覚寺空性法親王(誠仁親王の第二皇子・一五七三~一六五〇) →(紅葉賀・花宴)
※曼殊院良恕法親王(誠仁親王の第三皇子・一五七三~一六四三) →(関屋・絵合・松風)
興意法親王(誠仁親王の第五皇子・一五七六~一六二〇)→方広寺大仏鐘銘事件(蟄居?)
※八条宮智仁親王(誠仁親王の第六皇子・一五七九~一六二九) →(葵・賢木・花散里) 
※妙法院常胤法親王(誠仁親王の弟・一五四八~一六二一)  →(初音・胡蝶)
※青蓮院尊純(常胤法親王の子・一五九一~一六五三)→(篝火・野分・夕顔・若紫・末摘花)
※近衛信尋→(後陽成天皇の子・後水尾天皇の弟・信尹の養子・太郎君の夫?・一五九九~一六四九)→(須磨・蓬生)
※近衛信尹→(信尹の養父・太郎君の父・一五六五~一六一四)→(澪標・乙女・玉鬘・蓬生)
※近衛太郎(君)→(近衛信尹息女・慶長三年(一五九八)誕生?)・ 信尋の正室?)→(花散里・賢木)

 この「興意法親王」について、「朝日日本歴史人物事典」では、次のとおり解説されている。

http://kotobank.jp/word/%E8%88%88%E6%84%8F%E6%B3%95%E8%A6%AA%E7%8E%8B

【興意法親王(こういほっしんのう)
生年:天正4.10.12(1576.11.2)
没年:元和6.10.7(1620.11.1)
安土桃山・江戸前期の皇族。誠仁親王の第5王子,母は新上東門院晴子(勧修寺晴右の娘)。初め円満院へ入るが,天正19(1591)年1月聖護院へ入り,道勝と名乗る。慶長13(1608)年12月興意と改名する。同15年3月三井寺長吏となり,同18年11月二品に叙せられる。同19年8月豊臣氏が建立した方広寺大仏殿の棟札銘文に,書くべき大工頭の名を入れなかったという江戸幕府の嫌疑を受け蟄居した。元和2(1616)年聖護院寺務および三井寺長吏を退いた。嫌疑が晴れたのち白川に照高院を移し,ここへ入った。同6年9月江戸へ下向,滞在中急死した。(藤田恒春) 】

興意法親王は、近衛信尹の『三藐院記」などでは、「聖護院殿」とかで出て来るが、近衛家では、殊に、信尹の父(前久)の弟の「道澄(1544- 1608)」(京都聖護院門跡。関白太政大臣近衛稙家の子。照高院、浄満寺宮と号した)と関係の深い人物である。

http://shinden.boo.jp/wiki/%E7%85%A7%E9%AB%98%E9%99%A2%E5%AE%AE%E5%AE%B6%E3%81%AE%E7%A5%AD%E7%A5%80

【(照高院)
1道澄(1544-1608):近衛稙家の子。聖護院門跡。園城寺長吏。熊野三山検校。方広寺住職。
2興意法親王(道勝法親王)(1576-1620):誠仁親王(陽光院)の第5王子。聖護院門跡。園城寺長吏。江戸で客死。興意親王墓(東京都港区)。聖護院宮地蔵谷墓地に塔。 】

初代の「照高院(宮)」が「道澄」(近衛信尹の叔父)で、二代が「興意法親王」である。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%96%E8%AD%B7%E9%99%A2

【(聖護院門跡)
31 道澄(1544-1608)(近衛稙家子)
32 義観(足利義教子)
33 興意法親王(1576-1620)(誠仁親王皇子 ) 】

三十一代の「聖護院門跡」が「道澄」(近衛信尹の叔父)で、三十三代が「興意法親王」である。

 この「道澄」と「興意法親王」(「道勝」)との「笑話」が、陽明文庫所蔵の三藐院近衛信尹筆「笑話書留」の一つとして、今に残っている。

【⑪ 一、三井寺ニ浄光院トいうものあり、それが、聖護院殿の源氏ノ外題かき給ふ、そのなかに、きりつぼ(線で墨滅している箇所)、はゝき木(線で墨滅している箇所)、ほたる、とこなつ、かゞり火などのあたりをみて、「うたひの本の外題か」と尋申ければ、道澄准后、「よく心をしづめて見よ」と仰ありければ、「げにもそこつを申たり。古今にて候ものを」といへりけるとなむ。 】(「国語国文 第八十三巻第十号―九六二号―」所収「三藐院近衛信尹筆『笑話書留』について―近世初期堂上歌壇と笑話―(大谷俊太稿)」p2-p3)

ここに出てくる「聖護院殿」が「興意法親王」で、「道澄准后」が「道澄」である。

【⑪話は、聖護院殿道勝(興意法親王)が、おそらくは寄合書き(数人が合作で一つの書画をかくこと。また、その書画)の『源氏物語』の外題五十四帖分を頼まれて、書いた題簽の墨を乾かすのに並べていた。そこにやってきた三井寺の浄光院が見て、謡本の外題かと尋ねる。同座していた道澄が「よく落ち着いて見よ」と忠告したところ、浄光院は、こともあろうか、「私としたことがうっかりしていました。古今集でした」と答え、源氏物語はもちろん、謡曲も、古今集すらも知らないことが露顕してしまったという話。浄光院なる者が墓穴を掘った話である。 】(「国語国文 第八十三巻第十号―九六二号―」所収「三藐院近衛信尹筆『笑話書留』について―近世初期堂上歌壇と笑話―(大谷俊太稿)」p7-p8)

この信尹の「笑話」は、いろいろなことを暗示し、示唆を与えてくれる。

一 「信尹」と「興意法親王=道勝=聖護院(33世)=照高院(1世)」と「道澄准后=道澄=聖護院(31世)=照高院(2世)」とは、親しい仲で、この「笑話」では実名で出てくる(もう一人の「浄光院」は、フィクション上の「捩りの人物」である)。

二 「興意法親王」は、「源氏ノ外題かき給ふ」と、『源氏物語』などに精通し、この種の
「寄合書き」(数人が合作で一つの書画をかくこと。また、その書画)の常連の一人なのである。その「興意法親王」が、何故に、親交の深い「信尹」が深く関与するとされている『源氏物語画帖』に、「後陽成天皇」の生存する兄弟の親王(空性法親王・良恕法親王・智仁親王)が皆参画しているのに、唯一、その名が見られないということは、どうしたことなのであろうか。

三 その理由は、「慶長19年8月豊臣氏が建立した方広寺大仏殿の棟札銘文に,書くべき大工頭の名を入れなかったという江戸幕府の嫌疑を受け蟄居した。元和2(1616)年聖護院寺務および三井寺長吏を退いた」(上記の「朝日日本歴史人物事典」)と深く関わっているのではなかろうか。

四 そもそも、この「方広寺鐘銘事件」の「方広寺」の初代の住職は、「道澄」(照高院1世)で、「道澄」が、慶長十三年(一六〇八)に亡くなり、その後を継いだのが「道勝」(照高院2世=興意法親王)なのである。

五 ここで、大事なことは、「方広寺鐘銘事件」というのは、「慶長19年8月豊臣氏が建立した方広寺大仏殿の棟札銘文」に起因するもので、この慶長十九年(一六一四)十一月十四日に、「源氏物語画帖」の企画者とも目されている「近衛信尹」は、その五十年の生涯を閉じている。

六 すなわち、「信尹」は、養子(近衛家の「婿」)の「信尋」(後陽成天皇の「皇子」)と愛娘「太郎(君)」とに関わる「吉事」の、この「源氏物語画帖」の制作に、その「吉事」の「源氏物語画帖」に汚点を残すことも思料される、勃発している「方広寺鐘銘事件」(豊臣家滅亡となる「大阪冬の陣・夏の陣」の切っ掛けとなる事件)の、その「方広寺」のトップの位置にある「興意法親王=道勝=聖護院(33世)=照高院(1世)」の名は、どういう形にしろ、留められるべき環境下ではなかったのであろう。

七 その「興意法親王」は、元和二年(一六一六)に「聖護院寺務および三井寺長吏」も退き、嫌疑が晴れて、洛東白川村に「照高院」を再興(幕府より所領千石が付与)できたのは、元和五年(一六一九)、そして、その翌年(元和六年九月)その再興の御礼に「江戸へ下向し、その滞在中に客死する(享年四十五)」という、後陽成天皇の兄弟中では、その後半生は多難の生涯であったことであろう(別記一)。

八 そもそも、「道澄」(照高院1世)、そして、「道勝」(照高院2世=興意法親王)が門跡となった「方広寺」は、「豊臣秀吉の創建だが、慶長元年(一五九六)の畿内を襲った大地震で倒壊、それを秀頼がブロンズ製で再建に着手したが、工事中の火災などでの曲折を経て、慶長十九年(一六一四)に完成。後は開眼供養と堂供養を待つだけとなったが、有名な『方広寺鐘銘事件』が起き、落慶は中止。その後も、寛文二年(一六六二)に再び震災で倒壊、そして、寛政十年(一七九八)七月一日に、落雷により焼失してしまう」(別記二)という、誠に、「豊臣家の滅亡」を象徴するような数奇な背景を漂わせている。この「方広寺」は、「道勝」(興意法親王)の後、その叔父の「妙法院常胤法親王」の管轄下の寺院となり、今に続いている。この「妙法院常胤法親王」(一五四八~一六二一)は、「源氏物語画帖」の「初音・胡蝶」の「詞書」を書いている。

九 ここで、「源氏物語画帖」の「詞書の執筆時期」について、「慶長十九年以前より始まった詞書の作成は、元和三年頃になってようやく一応の完成を見ることとなり、その時点でまず最初の執筆者目録が作られた。以後も詞書は作り続けられ、最終的にそれが完成を見たのは元和五年頃ではなかったか」(『源氏物語画帖 土佐光吉画 後陽成天皇他書 京都国立博物館所蔵 (勉誠社)』所収「源氏物語画帖の詞書(下坂守稿)」)と、大筋一致するように思われてくる(別記三)。

十 最後に、この「第十八帖 松風」と八条宮智仁親王が元和元年(一六一五)の頃に造営を着手したとされる「桂離宮」などとの関連、そして、この「源氏物語画帖」の「信尹・信尋・太郎(君)」の「詞書」の書との関連などについては、下記のアドレスで触れている(その一部も、下記の「追記四」に再掲をして置きたい。)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-03-20

(追記一)

https://www2.city.kyoto.lg.jp/somu/rekishi/fm/ishibumi/html/sa044.html

【 照高院宮址
照高院は,豊臣秀吉(1536~98)の信任厚い天台僧道澄が開基した寺で,もと東山妙法院にあったが,方広寺鐘銘事件(1614)に関連して廃された。元和5(1619)年後陽成天皇の弟興意法親王(1576~1620)が,伏見城の建物を譲り受け,現北白川外山町付近に再建した。その後,聖護院門主の退隠所となる。明治に入り門主智成法親王(1856~72)は還俗して北白川宮と称し,宮家の東京移転に伴い堂舎は取り壊された。この石標は照高院宮を記念するものである。

碑 文
[甲碑西]
三品智成親王書
事君不忠非孝也
[甲碑東]
明治四十二年五月建之
旧臣近藤親正建之
[乙碑西]
照高院宮址
[乙碑東]
照高院宮者本居御門跡之一文禄之初豊太閤秀吉創建堂宇
于洛東大仏乃迎准三宮聖護院道澄大僧正為法主焉寺領一
万石此為照高院起源慶長三年法主嘆恐三井寺将垂断滅頒
附領地四千三百二十七石餘以再興之及元和元年適有大仏
梵鐘之変事連照高院因被褫寺領壊堂宇後五年当法主興意
法親王時更請幕府卜寺域于洛東白川邨幕府聴附寺領一千
石堂宇諸殿復新建設属天台宗用菊章雪輪焉爾来経道周道
晃道尊忠誉四法主法親王至明和七年為聖護院御門跡兼帯
寺於是寺領其他一切為聖門所支配従此殆一百年間不復置
法主明治元年以聖護院宮御法弟智成親王為照高院主同時
復飾三年改称北白川宮五年親王薨御実兄能久親王為嗣尋
移于東京而堂宇諸殿為撤壊実係八年乙亥夏事云
明治三十五年六月 正八位巌本範治撰 合川澄水書
[乙碑南]
距此東南本村字宮山字丸山間凡若干坪是為旧宮地域其外
郭石垣及古池今尚存焉
元照高院宮坊官北白川宮旧臣士族近藤親正謹建之
彫工 吉村市郎兵衛
(照高院宮址 碑文の大意(乙碑))
 照高院宮はもとは御門跡の一家であった。文禄年間(1592~96)の初め,豊臣秀吉によって洛東に創建され,聖護院道澄大僧正を迎えて門跡住職とした。寺の所領は一万石。これが照高院の起源である。
 慶長3(1598)年,法主は三井寺がまさに断絶しようとしたのを心配し,領地4,327石餘を分け与え再興させた。元和元(1615)年,照高院宮は方広寺鐘銘事件に連座し,寺領を取り上げられ堂舎は破壊された。5年後,法主興意法親王の時に幕府に再興を陳情し許され,洛東白川村に再興し所領1,000石が付与された。
 再興以来,道周・道晃,道尊,忠誉の四法主法親王を経て,明和7(1770)年には聖護院御門跡兼帯寺となった。これより寺領その他一切は聖護院門跡の支配にゆだねられた。これから百年の間は法主が置かれなかった。明治元(1868)年,聖護院宮御法弟智成親王を照高院主に任じ復飾させた。明治3年に北白川宮と改称した。5年に親王は薨去。御実兄能久親王があとを嗣いだ。その後東京へ移られ,照高院の堂宇は撤去された。明治8年夏のことである。
 この碑の場所から東南へ,白川村字宮山と字丸山間の土地が照高院の旧地である。外まわりの石垣と古池は今なお残っている。    】


(追記二)

芦雪・炎上.jpg

芦雪筆「大仏殿炎上図」紙本淡彩 一幅(個人蔵)
一二〇・五×五六・二cm
寛政十年(一七九八)作

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2017-09-11

【 大仏殿炎上

 「大仏殿」というと、奈良東大寺のそれが思い起こされるが、芦雪が描く「大仏殿炎上図」(個人蔵)は、京都・東山の方広寺の金堂(大仏殿)である。この方広寺の大仏は、豊臣家の滅亡の歴史を象徴するかのような、数奇な運命を辿る。
 豊臣秀吉の創建だが、慶長元年(一五九六)の畿内を襲った大地震で倒壊、それを秀頼がブロンズ製で再建に着手したが、工事中の火災などでの曲折を経て、慶長十九年(一六一四)に完成。後は開眼供養と堂供養を待つだけとなったが、有名な「方広寺鐘銘事件」が起き、落慶は中止。その後も、寛文二年(一六六二)に再び震災で倒壊、そして、寛政十年(一七九八)七月一日に、落雷により焼失してしまうのである。
 この時の炎上の様子を描いたのが、下記の「大仏殿炎上図」である。落款に「即席漫写
芦雪 印」があり、芦雪は眼前で燃え盛る大仏殿を実際に見ながら、「即席」で「漫写」(一気呵成の自在な筆遣いで写す)したのであろう。
 空高く噴き上げる紅蓮の炎と煙に「畳目」が写っている。さらに、この落款は「墨と朱とを使い分け、あたかもこれらの文字が、大仏殿から立ちのぼる炎に照らし出されていいるかのようにも見え」、「神技とでもいうべきか。毘首羯磨(ビシュカツマ=帝釈天の眷属、細工物、建築をつかさどる天神)もかくや、と思わせる筆の冴えである」(『江戸の絵を楽しむ(榊原悟著)』)と称賛されているのである。
 この作品は、芦雪が亡くなる一年前の、四十六歳の時のものである。「白象黒牛図屏風」(六曲一双)が「屏風画」とすると、こちらは「掛幅画(掛軸)」ということになる。
『江戸の絵を楽しむ(榊原悟著)』では、「縦に『ひらく』演出」と題して、この作品を取り上げ、そこで、「掛緒を掛けて軸を回転させながら下方へ下げていくことで」、「変化のドラマ」が生じ、「画面を『ひらく』にしたがって、一瞬、人魂とも、焚き火の煙とも見えたものが、じつは巨大な火の粉であり」、その最下部の二層の甍(小さく描かれた『大仏殿』と「楼門」)の炎上が、「同じ『かたち』でありながら、それが表す(意味)を劇的に変化」させているというのである。
 そして、これらを、「見事な『造形の魔術』」として、それを成し遂げた芦雪を、上述の「毘首羯磨(ビシュカツマ=帝釈天の眷属、細工物、建築をつかさどる天神)」との称賛に繋げているのである。 】

(追記三)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-04-20

【「土佐光吉・長次郎筆「源氏物語画帖」(京都国立博物館蔵)」周辺
(出典:『源氏物語画帖 土佐光吉画 後陽成天皇他書 京都国立博物館所蔵 (勉誠社)』所収「京博本『源氏物語画帖』の画家について(狩野博幸稿)」「源氏物語画帖の詞書(下坂守稿)」『京博本『源氏物語画帖』覚書(今西祐一郎稿)』 )・『ウィキペディア(Wikipedia)』)

1 桐壺(光吉筆)=(詞)後陽成院周仁(一五七一~一六一七) 源氏誕生-12歳
2 帚木(光吉筆)=(詞)後陽成院周仁(一五七一~一六一七) 源氏17歳夏
3 空蝉(光吉筆)=(詞)後陽成院周仁(一五七一~一六一七) 源氏17歳夏 
4 夕顔(光吉筆)=(詞)飛鳥井雅胤(一五八六~一六五一) 源氏17歳秋-冬
   (長次郎筆)=(詞)青蓮院尊純(一五九一~一六五三) (長次郎墨書)
5 若紫(光吉筆)=(詞)西洞院時直(一五八四~一六三六) 源氏18歳
   (長次郎筆)=(詞)青蓮院尊純(一五九一~一六五三) (長次郎墨書)
6 末摘花(光吉筆)=(詞)西洞院時直(一五八四~一六三六)源氏18歳春-19歳春
   (長次郎筆)=(詞)西蓮院尊純(一五九一~一六五三) (長次郎墨書) 
7 紅葉賀(光吉筆)=(詞)大覚寺空性 (一五七三~一六五〇)源氏18歳秋-19歳秋
8 花宴((光吉筆)=(詞)大覚寺空性(一五七三~一六五〇)源氏20歳春
9 葵(光吉筆)=(詞)八条宮智仁(一五七九~一六二九) 源氏22歳-23歳春
10 賢木(光吉筆)=(詞) 八条宮智仁(一五七九~一六二九)源氏23歳秋-25歳夏
   (長次郎筆)=(詞)近衛信尹息女(?~?) (長次郎墨書)
11 花散里(光吉筆)=(詞)近衛信尹息女(?~?) 源氏25歳夏 
(長次郎筆)=(詞)八条宮智仁(一五七九~一六二九) (長次郎墨書)
12 須磨(光吉筆)=(詞)近衛信尋(一五九九~一六四九) 源氏26歳春-27歳春
13 明石(光吉筆)=(詞)飛鳥井雅胤(一五八六~一六五一) 源氏27歳春-28歳秋
14 澪標(光吉筆)=(詞)近衛信尹(一五六五~一六一四) 源氏28歳冬-29歳
15 蓬生(光吉筆)=(詞)近衛信尋(一五九九~一六四九) 源氏28歳-29歳
(長次郎筆)=(詞)近衛信尹(一五六五~一六一四) (長次郎墨書)
16 関屋(光吉筆)=(詞)竹内良恕(一五七三~一六四三) 源氏29歳秋
17 絵合(光吉筆) =(詞)竹内良恕(一五七三~一六四三) 源氏31歳春
18 松風(光吉筆) =(詞)竹内良恕(一五七三~一六四三) 源氏31歳秋
19 薄雲(光吉筆)=(詞)烏丸光賢(一六〇〇~一六三八) 源氏31歳冬-32歳秋
20 朝顔(槿)(光吉筆) =(詞)烏丸光賢(一六〇〇~一六三八) 源氏32歳秋-冬
21 少女(光吉筆)=(詞)近衛信尹(一五六五~一六一四) 源氏33歳-35歳
22 玉鬘(光吉筆)=(詞)近衛信尹(一五六五~一六一四) 源氏35歳
23 初音(光吉筆)=(詞)妙法院常胤(一五四八~一六二一) 源氏36歳正月
24 胡蝶(光吉筆) =(詞)妙法院常胤(一五四八~一六二一) 源氏36歳春-夏
25 蛍(光吉筆) =(詞)烏丸光広(一五七九~一六三八) 源氏36歳夏
26 常夏(光吉筆) =(詞)烏丸光広(一五七九~一六三八) 源氏36歳夏
27 篝火(光吉筆) =(詞)青蓮院尊純(一五九一~一六五三)  源氏36歳秋
28 野分(光吉筆) =(詞)青蓮院尊純(一五九一~一六五三) 源氏36歳秋 
29 行幸(光吉筆)=(詞)阿部実顕(一五八一~一六四五) 源氏36歳冬-37歳春 
30 藤袴(蘭)(光吉筆) =(詞)阿部実顕(一五八一~一六四五) 源氏37歳秋 
31 真木柱(光吉筆)=(詞)日野資勝(一五七七~一六三九) 源氏37歳冬-38歳冬 
32 梅枝(光吉筆) =(詞)日野資勝(一五七七~一六三九)  源氏39歳春
33 藤裏葉(光吉筆)=(詞)菊亭季宣(一五九四~一六五二)  源氏39歳春-冬
34 若菜(上・下) (光吉筆) =(詞)菊亭季宣(一五九四~一六五二) 源氏39歳冬-41歳春 
             =(詞)中村通村(一五八七~一六五三) 源氏41歳春-47歳冬 
35 柏木(長次郎筆) =(詞)中村通村(一五八七~一六五三)  源氏48歳正月-秋
36 横笛(長次郎筆)=(詞)西園寺実晴(一六〇〇~一六七三) 源氏49歳
37 鈴虫(長次郎筆)=(詞)西園寺実晴(一六〇〇~一六七三) 源氏50歳夏-秋
38 夕霧(長次郎筆)=(詞)花山院定煕(一五五八~一六三九) 源氏50歳秋-冬
39 御法(長次郎筆)=(詞)西園寺実晴(一六〇〇~一六三四) 源氏51歳
40 幻(長次郎筆)=(詞)冷泉為頼(一五九二~一六二七)  源氏52歳の一年間
41 雲隠  (本文なし。光源氏の死を暗示)
42 匂宮(長次郎筆) =(詞)花山院定煕(一五五八~一六三九)  薫14歳-20歳
43 紅梅(長次郎筆) =(詞)花山院定煕(一五五八~一六三九) 薫24歳春
44 竹河(長次郎筆)=(詞)四辻季継(一五八一~一六三九)  薫14,5歳-23歳
45 橋姫(長次郎筆) =(詞)四辻季継(一五八一~一六三九) 薫20歳-22歳
46 椎本(長次郎筆)=(詞)久我敦通(一五六五~?)    薫23歳春-24歳夏
47 総角(長次郎筆) =(詞)久我通前(一五九一~一六三四) 薫24歳秋-冬
48早蕨(長次郎筆) =(詞)冷泉為頼(一五九二~一六二七)薫25歳春        】

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-04-27

【「後陽成天皇・後水尾天皇」関係略系図(周辺)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-03-20

正親町天皇→陽光院 →     ※後陽成天皇   → 後水尾天皇
    ↓※妙法院常胤法親王 ↓※大覚寺空性法親王 ↓※近衛信尋(養父・※近衛信尹)    
     ※青蓮院尊純法親王  ↓※曼殊院良恕法親王 ↓高松宮好仁親王
                ↓※八条宮智仁親王  ↓一条昭良
                         ↓良純法親王 他

 「源氏物語画帖(源氏物語絵色紙帖)」の「詞書」の筆者は、後陽成天皇を中心とした皇族、それに朝廷の主だった公卿・能筆家などの二十三人が名を連ねている。その「後陽成天皇・後水尾天皇」関係略系図は、上記のとおりで、※印の方が「詞書」の筆者となっている。その筆者別の画題をまとめると次のとおりとなる。

※後陽成天皇(桐壺・箒木・空蝉)
※大覚寺空性法親王(紅葉賀・花宴)
※曼殊院良恕法親王(関屋・絵合・松風)
※八条宮智仁親王(葵・賢木・花散里) 
※妙法院常胤法親王(初音・胡蝶)
※青蓮院尊純法親王(篝火・野分・夕顔・若紫・末摘花)
※近衛信尋(須磨・蓬生)
※近衛信尹(澪標・乙女・玉鬘・蓬生)

① 筆者のなかで最も早く死亡しているのは、近衛信尹(一五六五~一六一四)で、その死亡する慶長十九年(一六一四)以前に、その大半は完成していたと解せられている。因みに、土佐光吉は、その一年前の、慶長十八年(一六一三)五月五日に、その七十五年の生涯を閉じている。
② 筆者のなかで最も若い者は、烏丸光広(一五七九~一六三八)の嫡子・烏丸光賢(一六〇〇~一六三八)で、慶長十九年(一六一四)当時、十五歳、それに続く、近衛信尋(一五九九~一六四九)は、十六歳ということになる。なお、烏丸光賢の裏書注記は、「烏丸右中弁藤原光賢」で、その職にあったのは、元和元年(一六一五)十二月から元和五年(一六一九)の間ということになる。また、近衛信尋の裏書注記の「近衛右大臣左大将信尋」の職にあったのは、慶長一九年(一六一四)から元和六年(一六二〇)に掛けてで、両者の詞書は、後水尾天皇が即位した元和元年(一六一五)から元和五年(一六一九)に掛けての頃と推定される。
③ この近衛信尋(一五九九~一六四九)の実父は「後陽成天皇(一五七一~一六一七)」で、その養父が「近衛信尹(一五六五~一六一四)」、そして「後水尾天皇」(一五九六)~一六八〇)の実弟ということになる。この「近衛信尋」と「近衛信尹息女太郎君(?~?)」の二人だけが、上記の詞書のなかに「署名」がしてあり、本画帖の制作依頼者は「近衛信尹・近衛信尋・近衛信尹息女太郎(君)」周辺に求め得る可能性が指摘されている。(「源氏物語画帖の詞書(下坂守稿)」)      】

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-04-11

【 https://researchmap.jp/read0099340/published_papers/15977062

《五月十一日、今日御学問所にて和歌御当座あり。御製二首、智仁親王二、貞清親王二、三宮(聖護院御児宮)、良恕法親王二、一条兼遐、三条公広二、中御門資胤二、烏丸光広二、広橋総光一、三条実有一、通村二、白川雅朝、水無瀬氏成二、西洞院時直、滋野井季吉、白川顕成、飛鳥井雅胤、冷泉為頼、阿野公福、五辻奉仲各一。出題雅胤。申下刻了。番衆所にて小膳あり。宮々は御学問所にて、季吉、公福など陪膳。短冊を硯蓋に置き入御。読み上げなし。内々番衆所にて雅胤取り重ねしむ。入御の後、各退散(『通村日記』)。

※御製=後水尾天皇(二十二歳)=智仁親王より「古今伝授」相伝
※智仁親王=八条宮智仁親王(三十九歳)=後陽成院の弟=細川幽斎より「古今伝授」継受
※貞清親王=伏見宮貞清親王(二十二歳)
※三宮(聖護院御児宮)=聖護院門跡?=後陽成院の弟?
※良恕法親王=曼珠院門跡=後陽成院の弟
※※一条兼遐=一条昭良=後陽成院の第九皇子=明正天皇・後光明天皇の摂政
※三条公広=三条家十九代当主=権大納言
※中御門資胤=中御門家十三代当主=権大納言
※※烏丸光広(三十九歳)=権大納言=細川幽斎より「古今伝授」継受
※広橋総光=広橋家十九代当主=母は烏丸光広の娘
※三条実有=正親町三条実有=権大納言
※※通村(三十歳)=中院通村=権中・大納言から内大臣=細川幽斎より「古今伝授」継受
※白川雅朝=白川家十九代当主=神祇伯在任中は雅英王
※水無瀬氏成=水無瀬家十四代当主
※西洞院時直=西洞院家二十七代当主
※滋野井季吉=滋野井家再興=後に権大納言
※白川顕成=白川家二十代当主=神祇伯在任中は雅成王
※飛鳥井雅胤=飛鳥井家十四代当主
※冷泉為頼=上冷泉家十代当主=俊成・定家に連なる冷泉流歌道を伝承
※阿野公福=阿野家十七代当主
※五辻奉仲=滋野井季吉(滋野井家)の弟 》  】

(追記四)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-03-20

源氏物語図屏風・桂離宮.jpg

「桂離宮」配置図 1.表門、2.御幸門、3.御幸道、4.外腰掛、5.蘇鉄山、6.延段、7.洲浜、8.天橋立、9.四ツ腰掛(卍亭)、10.石橋、11.流れ手水、12.松琴亭、13.賞花亭、14.園林堂、15.笑意軒、16.月波楼、17.中門、18.桂垣、19.穂垣、A.古書院、B.中書院、C.楽器の間、D.新御殿
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A1%82%E9%9B%A2%E5%AE%AE#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Katsura-Plan.jpg

【 この「A.古書院」の二の間の東側、広縁のさらに先に月見台、その北側の茶室「16.月波楼」は、観月の名所として知られている「桂の地」に相応しい観月のための仕掛けが施され、月影を水面に映すために、中央に池面を大きくとっている。

【 『源氏物語』第十八帖「松風」第三章「明石の物語・桂院での饗宴」第三段「饗宴の最中に勅使来訪」

http://www.genji-monogatari.net/html/Genji/combined18.3.html#paragraph3.3

3.3.6  月のすむ川のをちなる里なれば/ 桂の影はのどけかるらむ (帝=冷泉帝)
(月が澄んで見える桂川の向こうの里なので、月の光をゆっくりと眺められることであろう)

3.3.12 久方の光に近き名のみして/ 朝夕霧も晴れぬ山里(大臣=光源氏)
(桂の里といえば月に近いように思われますが、それは名ばかりで朝夕霧も晴れない山里です)

3.3.14 めぐり来て手に取るばかりさやけきや/ 淡路の島のあはと見し月(大臣=光源氏)
(都に帰って来て手に取るばかり近くに見える月は、あの淡路島を臨んで遥か遠くに眺めた月と同じ月なのだろうか)

3.3.16  浮雲にしばしまがひし月影の/ すみはつる夜ぞのどけかるべき(頭中将)
(浮雲に少しの間隠れていた月の光も、今は澄みきっているようにいつまでものどかでありましょう)

3.3.18 雲の上のすみかを捨てて夜半の月/ いづれの谷にかげ隠しけむ(左大弁→右大弁)
(まだまだご健在であるはずの故院はどこの谷間に、お姿をお隠しあそばしてしまわれたのだろう)   

※「16.月波楼」=夏・(秋)向きの茶室、後水尾天皇筆か霊元天皇筆の「歌月」の額。
※「12.松琴亭」=冬・(春)向きの茶室、後陽成天皇筆の「松琴」の額。
※「13.賞花亭」=茶室、曼殊院良尚法親王(智仁親王の子)筆「賞花亭」の額。
※「15.笑意軒」=茶室・曼殊院良恕法親王(智仁親王の兄)筆「「笑意軒」の額。
※「14.園林堂」=持仏堂、楊柳観音画像と細川幽斎(智仁親王の和歌の師)の画像。
((「茶室」には、それぞれ「舟着き場」がある。)
※「9.四ツ腰掛(卍亭)」=「12.松琴亭」の「待合」。
※「4.外腰掛」=「12.松琴亭」の「待合」。
※「7.洲浜」=青黒い賀茂川石を並べて海岸に見立てたもの。
※「8.天橋立」=小島二つを石橋で結び、松を植えで丹後の天橋立に見立てたもの。
※「5.蘇鉄山」=薩摩島津家の寄進という蘇鉄、外腰掛の向いの小山。
(桂離宮の池は大小五つの島があり、入江や浜が複雑に入り組んでいる。中でも松琴亭がある池の北東部は洲浜、滝、石組、石燈籠、石橋などを用いて景色が演出されており、松琴亭に属する茶庭(露地)として整備されている。)
※「1.表門」=庭園の北端に開く行幸用の正門で、御成門ともいう。通用門は南西側にある。
※「2.御幸門」=門の手前脇にある方形の切石は「御輿石」と称し、天皇の輿を下す場所。
※「3.御幸道」=道の石敷は「霰こぼし」と称し、青黒い賀茂川石の小石を長さ四四メートルにわたって敷き並べ、粘土で固めたものである。突き当りの土橋を渡って古書院に至る。
※「17.中門」=古書院の御輿寄(玄関)前の壺庭への入口となる、切妻造茅葺の門である。
※※「A.古書院」=古書院の間取りは、大小八室からなる。南東隅に主室の「一の間」があり、その北に「二の間」「縁座敷」と続く。「縁座敷」の西は前述の「御輿寄」で、その南に「鑓の間」「囲炉裏の間」があり、「鑓の間」の西は「膳組の間」、「囲炉裏の間」の西は「御役席」である。
※※「B.中書院」=間取りは、田の字形で南西に主室の「一の間」があり、その東(建物の南東側)に「二の間」、その北(建物の北東側)に「三の間」と続く。建物の北西側には「納戸」がある。「一の間」の「山水図」が狩野探幽、「二の間」の「竹林七賢図」が狩野尚信、「三の間」の「雪中禽鳥図」が狩野安信である
※※「C.楽器の間」=中書院と新御殿の取り合い部に位置する小建物で、伝承では前述の床に琵琶、琴などの楽器を置いたともいわれている。
※※「D.新御殿」=内部は九室に分かれる。南東に主室の「一の間」があり、その北に「二の間」、その北(建物の北東側)に「水屋の間」と続く。建物の西側は、北列が「長六畳」と「御納戸」、中列が「御寝の間」と「御衣紋の間」、南列が「御化粧の間」と「御手水の間」である。一の間・二の間の東から南にかけて「折曲り入側縁」をめぐらす。建物南西の突出部に「御厠」「御湯殿」「御上り場」がある。(『ウィキペディア(Wikipedia)』『新編名宝日本の美術22桂離宮』など)】

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