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フリーア美術館逍遥(その三) [フリーア美術館]

(その三)宗達「松島図屏風」

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宗達「松島図屏風」(右隻) 紙本金地着色 六曲一双 各一五ニ・〇×三五五・七cm

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宗達「松島図屏風」(左隻) 紙本金地着色 六曲一双 各一五ニ・〇×三五五・七cm

【 六曲一双の長大な画面を使い、右隻に海中に屹立する二つの岩、左隻には磯の浜松と波に洗われる小島を添える。左右の画面は砂浜と波によって連携する。松島は古来名所絵として描かれたが、このような大画面に展開、壮観な装飾画として成功させた宗達の手腕はみごとというべきか。千変万化の波の描写が素晴らしく、海潮音が聞こえてくるようだ。 】
(『もっと知りたい 俵屋宗達 村重寧著』)

(特記事項)「松島」と題されているが、名所松島の風景ではなく、依頼主である豪商谷正安が堺に祥雲寺を建てた記念に自分の道号「海岸」のイメージを絵画化させたものである、という仲町啓子氏の研究がある。(『俵屋宗達 琳派の祖の真実(古田亮著)』)

Waves at Matsushima 松島図屏風
Type Screens (six-panel)
Maker(s) Artist: Tawaraya Sōtatsu 俵屋宗達 (fl. ca. 1600-1643)
Historical period(s) Edo period, 17th century
Medium Ink, color, gold, and silver on paper
Dimension(s) H x W (overall [each]): 166 x 369.9 cm (65 3/8 x 145 5/8 in)

http://archive.asia.si.edu/sotatsu/about-jp.asp

Sōtatsu: Making Waves

俵屋宗達と雅の系譜
会期 2015年10月24日-2016年1月31日
開催場 アーサー M. サックラー美術館
(English version)
日本絵画とデザインに強烈なインパクトをあたえた江戸時代初期の天才絵師・俵屋宗達(1570年頃-1640年頃)。日本国外では初めてとなる大規模な宗達の展覧会が、米国首都ワシントンDCで2015年10月24日-2016年1月31日に開催されます。
世界最大の博物館群として知られるスミソニアンの一部で、アジア美術を専門とするフリーア美術館。国宝級の「松島図屏風」「雲龍図屏風」など、宗達の傑作品を所蔵しています。隣接のサックラー美術館を会場として、世界各国より70点以上の作品を集めて展示し、京都を中心に活躍した宗達の雅な世界を蘇らせます。
きらびやかな金銀泥と極色彩を用い、大胆に抽象化された絵画空間をみせる宗達作品は、日本美術史の中でも際立った存在です。しかし、宗達の生涯は生没年の記録もないほど未だ多くの謎に包まれています。京都の町衆階層の出身であり市井の紙屋の主人であった宗達が、どのような過程を経て上層貴族階級にネットワーク・交流を持ちその洗練されたセンスを取り入れ数多くの斬新なデザインを生み出すに至ったのか、まだ不明な点が多く残されています。
本展覧会では、日本を始めアメリカ・ヨーロッパの著名なコレクションより70点以上の作品を一堂に会し、屏風、扇面、色紙、和歌巻き、掛け軸などの展示を通して宗達を検証します。宗達の作風を追随した江戸時代中後期の作品も含まれ長期に渡る宗達芸術の継承が示唆されます。さらに明治時代以降の画家たちの作品も併せて展示され、時代を超える宗達スタイル伝播の理解においても画期的な企画といえます。
最大の見所である「松島図屏風」と「雲龍図屏風」は、19世紀末にフリーア美術館の創立者チャールズ・L・フリーア(1854-1919)により蒐集されました。先見あるコレクターであったフリーアは、俵屋宗達及び宗達と書画の合作を行った本阿弥光悦 (1558-1637)の名を、海外に知らしめたとされています。フリーアの遺言により所蔵品が館外貸出は禁じられました。本展覧会は門外不出となった宗達代表作品と各国に分散する宗達筆及び宗達派作品が一度に堪能できる絶好の機会です。
本展覧会はスミソニアン研究機構フリーア/サックラー美術館と国際交流基金 (Japan Foundation)の共催により開催されます。2015年秋には展覧会のフル・カラー図録出版が予定されており、執筆者は下記の通りです。
仲町啓子(実践女子大学)奥平俊六(大阪大学)古田亮(東京藝術大学美術館)
野口剛(根津美術館)大田彩(宮内庁三の丸尚三館)
ユキオ・リピット(ハーバード大学)ジェームス・ユーラック(フリーア美術館)

宗達の重要性

17世紀初頭、宗達は扇面や料紙などを手がける京中で話題の紙屋を営んでいましたが、その時期日本の社会は大きな変貌を遂げようとしていました。権力の中心が宮廷・公卿から幕府・武士階級へと移り、彼らは文化エリートの仲間入りをすべく装飾画を求めました。広がる受容層に答え、宗達は独創的な画面構成に実験的な技法を駆使し憧憬の王朝美に新しい時代の息を吹き込みました。
革新的ともいえる宗達のデザインに後世代の画業が加わり、やがて造形芸術における一つの流れとして「琳派」と呼ばれるようになりました。江戸時代後期の画家・尾形光琳(1658-1716)の名の一字に由来していますが、実は光琳よりも以前に宗達および光悦が確立した流れなのです。実際、琳派様式の要である「たらし込み」は、宗達が創案したものです。まだ水気残る地に墨や顔料を再度含ませ、にじみによる偶然の効果をねらった技法です。例えば花びらや水流などのデリケートな描写に予期せぬニュアンスをもたらします。
宗達が日本美術にもたらした影響は過小評価できません。17世紀に宗達を祖とした「琳派」は19世紀末に美術流派として定着し20世紀初頭まで引き継がれ、西洋ではある意味においては日本文化の粋そのものと認識されるようになりました。1913年に東京で初めて宗達を紹介する展覧会が開かれましたが、それは美術界に大きな波紋を投げ新世代の画家たちを深く感化しました。宗達のデザインはまたアール・デコ派、クリムトやマチスなどの西洋の巨匠らの作品にも呼応し、現代の眼にも近世的に映ります。
1615年に本阿弥光悦が徳川家康より京都洛北の鷹峰の土地を拝領し、そこに芸術村を作ったのを琳派発祥の年とすると、2015年は琳派が誕生してから四世紀ということになり、只今日本では文化人たちの間で「琳派400年記念祭」が呼びかけられています。数多くの琳派関連のイベント・シンポジウムなどが企画される中、国際的なコラボレーションにより可能となった本展覧会は、一つのハイライトとなることが期待されます。
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フリーア美術館逍遥(その二) [フリーア美術館]

(その二)宗達「勅撰和歌集『古今集』 花鳥下絵和歌巻」

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Imperial Anthology, Kokinshu 花鳥下絵和歌巻
Type Handscroll
Maker(s) Artist: Tawaraya Sōtatsu 俵屋宗達 (fl. ca. 1600-1643)
Calligrapher: Hon'ami Kōetsu 本阿弥光悦 (1558-1637)
Historical period(s) Momoyama period, early 1600s
Medium Handscroll; ink, gold, silver, and mica on paper
Dimension(s) H x W (image): 33 x 968.3 cm (13 x 381 1/4 in)

(参考)

www.sotatsukoza.com/menu/sotatsukoza_shiryo4.pdf


【金銀泥鶴下絵三十六歌仙和歌巻について】  

陶芸家、故荒川豊蔵(1894~1985)は、昭和35年(1960)頃、愛知県の旧家で本作品を見出し、購入した。その和歌巻は、うぶな状態であった。しばらくして京都国立博物館に寄託され、のち文化庁の所有を経て、京都国立博物館に配置換えされた。その間、重要文化財に指定された。最初の 図版掲載は、林屋辰三郎ほか編『光悦』(第一法規出版、1964年)においてである。モノクロ図版で、 全図が紹介された。
本紙は厚口の間似合紙(雁皮紙)で、両面には厚く白色具引きが施されている。法量は、幅30・1 糎、長さ1356・0糎。見た目から想像できないほど、重量感がある。下絵は、金銀泥(金や銀の箔を細かく磨り潰し、膠水と練り合わせたもの)を用い、此岸から対 岸へ、海上高く、《鶴鳴き渡る》光景(挿絵・赤人の歌「若の浦に」)が長大に描かれている。
巻首の 金泥を刷いた洲浜は左方に長く伸び、全体の三分の一を占める。この洲浜の内に入る干潟は、鶴の餌場であり、餌を漁っていた鶴たちは、沖から寄せ来る満ち潮の波と音に気づく。数羽の鶴は洲浜 の上空を舞い飛び、やがて鶴は群れとなり、金泥と銀泥を刷いた雲の下へ、やがて雲の上を飛翔し、 海を越え、対岸にたどり着く。
幅三十糎の空間、視点を上下に、近く遠くに移動させ、鶴の躍動感 をみごとに表す。金銀泥の没骨描で鶴の形態を的確に捉え、生命感に溢れる。絵師は、失敗が許 されない、あしらい難い金銀泥を巧みに用い、凄まじいほどの素描力の持ち主である。金銀泥の豊 かなグラデーションの魅力は、白色具引き地から生まれる。  
三十六歌仙の和歌は、鶴の飛翔に添って、揮毫されている。散らし書きは奔放、自在である。和 歌本文の後に「光悦」黒文方印が捺されているが、古歌染筆では慣例として染筆者の署名捺印を 記すことはない。「光悦」印は後に押印されたものであろう。紙背には銀泥で胡蝶文が描かれ、紙継 ぎには「紙師宗二」金泥長方印が捺されている。

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フリーア美術館逍遥(その一) [フリーア美術館]

(その一)宗達「雲竜図屏風」

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Dragons and Clouds
Type Screen (six-panel)
Maker(s) Artist: Tawaraya Sōtatsu 俵屋宗達 (fl. ca. 1600-1643)
Historical period(s) Momoyama or Edo period, 1590-1640
Medium Ink and pink tint on paper
Dimension(s) H x W: 171.5 x 374.6 cm (67 1/2 x 147 1/2 in)

【「雲竜図屏風」俵屋宗達 六曲一双 紙本墨画淡彩 各H x W: 171.5 x 374.6 cm
六曲一双の大画面に波間から姿を現し、対峙する二頭の龍を雄渾な筆致で描く。二頭に反転したような姿態でにらみ合う。龍は周りを黒雲で囲み、塗り残しの白さで表す。左右に躍る二組の波濤の形態は、のちに光琳や抱一の「波図屏風」にそのまま受け継がれている。龍のいかめしい顔にも、どこかゆとりがあってユーモアを覚える。 】(『もっと知りたい 俵屋宗達 村重寧著』)

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「風神雷神図」幻想(その十三) [風神雷神]

(その十三)光琳の「風神雷神図屏風」

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尾形光琳「風神雷神図屛風」二曲一双 紙本金地着色 江戸時代(18世紀)各一六六・〇×一八三・〇㎝  重文  東京国立博物館蔵

 俵屋宗達に比すると、尾形光琳については、その全体像が鮮明に浮かび上がって来る。
光琳は、万治元年(一六五八)〜享保元年(一七一六)の、光琳が没した年(享保元年=一七一六)に、その光琳の次の時代(江戸中期)を背負う、伊藤若冲と与謝蕪村とが誕生している。
 すなわち、「江戸時代の三代改革」(享保の改革・寛政の改革・天保の改革)の、そのトップに位置する「享保の改革」が断行された年に、光琳は没している。それは、江戸前期と後期との分岐点でもあり、光琳が活躍した時代は、いわゆる、「徳川の平和(パクス・トクガワーナ)」の右肩上がりの時代でもあった。
 その意味で、宗達と光琳とは、その年代差は、十七世紀(宗達))と十八世紀(光琳)との開きもあるが、共に、「江戸前期」の「京都」を中心にして、「徳川の平和(パクス・トクガワーナ)」の輝かしい時代の画人と位置付けることは可能であろう。
 その二人の関係を象徴するかのように、光琳は、上記のとおり、宗達の「風神雷神図屏風」を模写して、宗達の世界を自家薬籠中のものにして、日本画壇の中枢を占めていた「狩野派」に匹敵する、新しい日本画壇の息吹たる「琳派(宗達・光琳派)」という流れをスタートさせたのである。
 ここで、宗達と光琳の「風神雷神図屏風」の細部の比較などをすると次のとおりである(『俵屋宗達 琳派の祖の真実(古田亮著)』を参考としている。但し、サイズの大きさやその他同著の指摘と異なる表現も多い)。

一 共に、二曲一双の金屏風だが、サイズは、宗達画(各一五四・五 × 一六九・八 cm)に比し、光琳画(各一六六・〇×一八三・〇㎝)の方が、やや大きい。

二 宗達画では、雷神の連鼓や、風神のショールが画面からはみ出でているが、光琳画では画面内に収めている(光琳画のサイズが大きいのは、このことと関係しているようである)。

三 光琳画は、宗達画をトレース(敷き写し)したもので、シルエットなどは宗達画に一致する。故に、光琳画の描線は、そのトレースしている輪郭線という印象に比して、宗達画の線は墨の濃淡など、その描線を異にしている。

四 このことは、色彩についても、光琳画は均一にムラなく塗っている印象に比して、宗達画では着色の濃淡や粒子の粗密など微妙なニュアンスの相違点が出て来る。

五 一見して、宗達画の「二神の足元の雲」は、何色かの絵具(顔料)が複雑に絡み合い、そして、塗るというよりも「たらし込み」の技法で、濃淡の空間の深みのような表現に比して、光琳画は墨一色の黒さが目立ち、両者の相違点を際立たせている。

六 これらのことから、この両者の「風神雷神図屏風」に限ってするならば、宗達画が「絵画的」(「ぼかし」などの抑揚豊かな感性的世界の表現)な世界とすると、光琳画は、より「デザイン的」(「線描主義的な画面構成」と「装飾的な色彩対比」の重視)な世界という印象を抱かせる。

七 上記のことは、光琳画が、宗達画をトレース(敷き写し)し、模写するという、そういうことから派生する指摘事項で、「光琳画の創意点」という視点からすると、次のようなことも指摘出来よう。

七の(一) 風神と雷神を画面の中に収めて対峙させ、黒雲を背景に両神の姿を浮き上がらせ、その黒雲の形状も、風神の乗る雲は△形、雷神の乗る雲は○形にまとめて対照させている。画面には、宗達作品の空間の広がりに代わって、高い緊張感が生じている。
(『別冊太陽 尾形光琳 「琳派」の立役者(監修=河野元昭)』所収「作品解説・中部義隆稿」、なお、光琳画のサイズは、同著に因っている。)

七の(二) この光琳の「黒い雲」に着目すると、北斎の「雷神図」の、「黒い闇」と「赤いレザービームの雷光」が思い起こされて来る。

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北斎筆「雷神図」(一部・拡大)フリーア美術館蔵(「オープンF|S」)
署名「八十八老卍筆」 印章「百」 弘化四年(一八四七)

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「風神雷神図」幻想(その十二) [風神雷神]

(その十二)国芳の「流光雷づくし」

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歌川国芳「流光雷づくし」大判 天保十三年(一八四二)

 北斎は、宝暦十年(一七六〇)生まれ、国芳は、寛政九年(一七九八)生まれ、北斎を江戸中期とすると、国芳は江戸後期の画人ということになる。
 宗達は、生没年は未詳であるが、「風神雷神図屏風」は、寛永年間(十七世紀前半)の作とされ、織豊時代から江戸初期にかけての画人ということになろう。
 北斎と国芳とは、共に、江戸(東京)を本拠地としての浮世絵師として、年代差はあるが、両者は、知己の間柄と解しても差し支えなかろう。それに比して、宗達となると、京都を本拠地とし、尾形光琳共々「琳派」の祖として、北斎や国芳との世界とは異質の世界の画人ということになろう。
 そういうことを前提として、この三者の「風神雷神」図関係を、大雑把に見てみると次のようなことが指摘できる。

一 宗達「風神雷神図屏風」→ 「屏風絵」「装飾画」「金地着色画」
二 北斎「風神図」「雷神図」→ 「掛幅絵」「肉筆画」「紙本着色画」
三 国芳「流光雷づくし」→  「(大判)錦絵」「浮世絵(版画)」「多色摺木版画」

 宗達の「風神雷神図屏風」というのは、「徳川の平和(パクス・トクガワーナ)」の夜明けを告げるような絵で、戦国時代の怒り狂う「風神雷神」図が、戦乱の無い太平の世を謳歌する「風神雷神」図に様変わりしている。その象徴が、この宗達の「風神」・「雷神」で、共に「口を開けて笑っている」という図柄のように思えるのである。

 それに比して、北斎の「風神」は、北斎と国芳の継承者のような暁斎が描く「貧乏神」のように、悩める「マントヒヒ」のような風姿で口を堅く閉ざしている。「雷神」もまた、「阿吽」の呼吸で、口を開けていたものを閉じ、力強く太鼓を連打している一瞬の図柄なのである。北斎の時代は、「寛政の改革」の時代で、北斎の知己の、版元・蔦屋重三郎や戯作者・浮世絵師の山東京伝(画号・北尾政演)等が処刑された時代で、その重苦しい世相の一端が滲み出ているように思われる。

 そして、国芳になると、「天保の改革」の時代で、国芳自身、何度も奉行所に呼び出されたり、尋問を受けたり、罰金を取られたりしながら、禁令の網をかいくぐり、時の幕藩体制への鋭い風刺を、その浮世絵版画に託し続けたのである。この「流光雷づくし」も、その「流光」は「雷の光の『流光』」で、当時の「流行」とを掛けている用例で、ここに出て来る「雷神」は、ここまで来ると、「諷刺」というよりも「悪乗りの駄洒落・ギャグの親分」という印象が強くなって来る。
 ちなみに、上記の図柄は、次のとおりである。
上段(右から)
○稲妻研ぎ→  稲妻の手入れ。
○大夕立の準備 → 夕立の諸道具の手入れ。
中段(右から)
○豊年おどり→ 稲が良く育つように豊年踊り。
○神鳴り干し → 干瓢を日に干している。
○きょくうち →太鼓のバチを放り上げる曲打ち。
下段(右から)
○雲のさいしき(彩色)→雲に色を染めている。
○うす引き雷 → 石臼を回し、鉢でこねり、雷鳴の手入れ。
○雷きらい→ 擂り粉木の雷鳴に、耳を塞いでいる。

 この「流光雷づくし」では、「風神」は出て来ないが。中段(中央)の「曲打ちの緑の鬼」を、宗達の「風神」とし、その中段(右)の「豊年踊りの赤鬼・白鬼」を、宗達の「雷神」と見立てても面白いであろう。

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「風神雷神図」幻想(その十一) [風神雷神]

(その十一)宗達の「風神雷神図屏風」

宗達 風神雷神図.jpg

俵屋宗達「風神雷神図屏風」二曲一双 紙本金地着色 建仁寺蔵(京都国立博物館に寄託)
寛永年間頃(十七世紀前半)作 各一五四・五 × 一六九・八 cm

 北斎の「雷神図」そして「風神図」を見て、しかる後、この「風神雷神図」で最も高名な宗達の、この「風神雷神図屏風(国宝)」に接すると、北斎の「風神図」・「雷神図」の、言葉を拒否するような「凄み」が、この宗達の「風神図」・「雷神図」では、その欠片も見出せないということを思い知る。

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北斎「風神図」

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宗達「風神図」

 上記の「北斎」の内へと志向する「孤愁」の「風神図」に比して、「宗達」の外へと志向する、例えば、「舞え舞え蝸牛、舞はぬものならば、馬の子や牛の子に蹴させてん」(『梁塵秘抄』)と囃し立てているような、そんな「遊び」の「風神図」という印象が浮かんで来る。

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北斎「雷神図」

 この「北斎」の「暗夜」のうちに「悶え狂い、乱打する雷神図」に比して、次の宗達の「雷神図」は、これまた、「遊びをせんとや生れけむ、戯れせんとや生れけん」『梁塵秘抄』)と、そんな囃し立てているような、そんな「遊び」の「雷神図」という印象が、どうして拭えないのである。
 と同時に、しみじみと、宗達の時代(「十七世紀前半」)と、北斎の時代(「十八世紀後半)との、その異同とを実感するのである。

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宗達「雷神図」


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「風神雷神図」幻想(その十) [風神雷神]

(その十)北斎の「風神図」・「雷神図」

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北斎「風神図」(落款「八十五老卍筆」 印章「冨士型」) 弘化元年(一八四四) 個人蔵

【よく知られてる俵屋宗達筆「風神雷神図屏風」では、風神は風をはらんだ布を手にしているが、本図ではまるで風呂敷包みを肩にかけているようである。雲の上に浮かび、風に頭髪を吹かれて鑑賞者をうかがうように見つめる表情は、どこか寂しげである。威勢を放つ「雷神図」(注・フリーア美術館蔵)とは、また別な魅力に溢れている。天空を自在に駆け巡る神というよりも、多分に人間臭くて親しみを感じるさせる佳品である。 】
(『北斎肉筆画の世界(宝島社=内藤正人監修)』所収「作品解説(樋口一貴稿)」)

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北斎筆「雷神図」(一部・拡大)フリーア美術館蔵(「オープンF|S」)
署名「八十八老卍筆」 印章「百」 弘化四年(一八四七)

【 墨のぼかしを利かせた暗雲の中から赤黒い体躯、牙を見せた雷神が現れる。撥を振り、太鼓を連打して、稲妻を轟かせているのであろうが、恐ろしさや神々しさは感じられない。その姿が北斎の絵手本でよく見かける、踊り稽古などの人物描写ほ彷彿とさせるせいであろうか。天衣の翻りと相まって、天空を軽やかに舞うかのように見える。すべての描写を仕上げ後、最後の最後に墨の飛沫と、赤いレザービームの雷光を走らせたようである。こうした狂いのない大胆さが北斎ならではある。 】
(『北斎肉筆画の世界(宝島社=内藤正人監修)』所収「作品解説(加藤陽介稿)」)

 この「雷神図」(フリーア美術館蔵)に比して、冒頭の「風神図」(個人蔵)は、鬼というよりも苦悩の表情の、前に紹介した暁斎の「貧乏神」が連想されて来る。

http://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-03-26
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暁斎「貧乏神図」一幅 紙本着色 明治十九年(一八八六) 福富太郎コレクション資料室蔵 一〇二・五×二九・七cm 

 しかし、ここで改めて、「雷神図」と「風神図」とを見て行くと、これは、いわゆる、「阿吽(あうん)」の「阿」は「口を開いて」の「雷神図」、そして、「吽」は「口を閉じて」の「風神図」という、そもそも「風神雷神図」の意味するところものを、北斎は描いているという思いが増大して来る。
 そして、この「阿」の動的な「雷神図」というのは、古来、様々な「雷神図」があるが、この「吽」の静的な「風神図」というのは、「鬼ではなく人間そのものである」という、この「風神図」の凄さに、今更ながらに、北斎の一面を思い知るのである。
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「風神雷神図」幻想(その九) [風神雷神]

(その九)暁斎「風神雷神図」(「惺々狂斎戯画帖」)

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暁斎「風神雷神図」(『河鍋暁斎戯画集(岩波文庫)』所収「惺々狂斎戯画帖」)

 「惺々狂斎戯画帖(全四十八図)』は、「オランダ、デン・ハーグ某夫人蔵」ということで、日本には存在しないようである(『河鍋暁斎戯画集(岩波文庫)』)。その中の一図に、上記の「風神雷神図」がある。
「風神」は、いかにも、狩野派の暁斎のそれという風姿なのだが、「雷神」は「行水」をしていると。何ともユーモア溢れる図柄で、これも暁斎の一面なのであろう。
 どのようなルートで、「オランダ、デン・ハーグ某夫人蔵」になったのかは定かではないが、次のような示唆に富んだ記述がある。

【 暁斎は生存中から外国の美術愛好家に注目されていた。パリにギメ美術館を作ることになるエミール・ギメが、友人の画家フェリックス・レガメーを伴って暁斎を訪問したのは明治九年九月である。お雇い外国人医師ウィリアム・アンダソンは暁斎に大量の作品を注文した。やはり建築家のジョサイア・コンダ―は、みずから暁斎に弟子入りし、暁英を名のった。暁斎に注目していた外国人は他にも沢山いた。イタリアの銅版画家エドアルド・キオソーネ、アメリカ人生物学者エドワード・モース、そして暁斎の死を看取ったドイツ人医師エルヴィン・フォン・ベルツ。
彼らが大量の作品を持ち去った結果、暁斎は正当な評価を受けぬまま、近世美術史と近代美術史のはざまに置き去りにされて来たことは事実である。しかしロンドンの大英博物館、ヴィクトリア・アルバート美術館、パリのギメ美術館、シュツットガルト・リンデン美術館のベルツ・コレクション、ライデンの国立民族博物館、アメリカのメトロポリタン美術館、ボストン美術館、フリーア・ギャラリー等、世界各地の美術館に一千点を越す暁斎の本画、下絵、版画、版本が収蔵されて来たために、大震災も第二次大戦の空襲を免れることができ、今日なおその全貌を知ることが可能なのである。
文明開化や絵画の近代化というフィルターを通さずに、幕末、明治の民衆的エネルギーをみずからの中に持ち、人々の日常生活の中に生きる絵画を描き続けた絵師、それが暁斎である。そして、そういう絵画こそ、絵画本来の姿ではなかっただろうか。】
(『河鍋暁斎戯画集(岩波文庫)』所収「(解説)叛骨の絵師河鍋暁斎とその戯画(及川茂・山口静一稿)」)

 この末尾の指摘の、「幕末、明治の民衆的エネルギーをみずからの中に持ち、人々の日常生活の中に生きる絵画を描き続けた絵師、それが暁斎である」、その暁斎は、今に、「過去一〇〇〇年で最も偉大業績を残した世界の一〇〇人」(アメリカの「Life」誌・1999年)の内の、その「八十六位」を占めた、唯一人の日本人・葛飾北斎(画狂人・北斎)の、その「狂と斎」とを画号とした「狂斎=暁斎」ということに相成る。

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(大津絵「鬼の行水」)

 北斎には、風神雷神図」も、例えば、上記の、大津絵の「鬼の行水」などをモチーフしたものは余り目にしない。それに比して、北斎の次の時代の暁斎には、この大津絵などの、いわゆる、民芸的な「民衆的エネルギー」を取り入れた、ポピュラー的なものを題材したものを、多く目にするという、「北斎と暁斎」との分岐点を目の当たりにする。
 すなわち、その分岐点というのは、「江戸から明治(東京)」への、その分岐点という思いを深くする。それは、同時に、「江戸(末期)」時代の「北斎」と、「江戸(末期)から東京(開明)」時代の「暁斎」との変遷ということになろう。
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「風神雷神図」幻想(その八) [風神雷神]

(その八)暁斎「風神雷神図(下絵)」フリーア美術館蔵(「オープンF|S」)

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Folio from an album of miscellaneous drawings and notes
Type Album leaf
Maker(s) Artist: Kawanabe Kyōsai 河鍋暁斎 (1831-1889)
Historical period(s) Edo period or Meiji era, 1615-1912
Medium Ink and color on paper
Dimension(s) H x W (page): 26.7 x 38 cm (10 1/2 x 14 15/16 in)
Geography Japan

 暁斎の「風神雷神図」の下絵のものである。「雷神」が右、「風神」が左で、宗達風ではなく狩野派(探幽風)の構図を取っている。下記の「風神雷神図」(虎屋蔵)関連の下絵なのかも知れない。

風神雷神図二.jpg

河鍋暁斎筆「風神雷神図」 明治四年(一八七一)以降 双幅 絹本墨画 虎屋蔵 各一〇五・三×二八・八cm

 この「風神雷神図」(虎屋蔵)の特徴は、「風神図」が、烏天狗のような「迦楼羅(かるら)」のような風貌であることとその下の「柳の老樹の洞と葉」などの背景の描写などにあるが、上記の下絵(フリーア美術館蔵)では、それらの特徴はない。
 しかし、この下絵のような「風神雷神図」のスケッチが、暁斎の「風神雷神図」の基礎にあることは、間違いなかろう。


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「風神雷神図」幻想(その七) [風神雷神]

『北斎漫画(三編)』の風神雷神図」と肉筆画の「雷神図」(その二)

2008年10月7日(火)~11月30日(日)、東京都江戸東京博物館に於いて、「ボストン美術館 浮世絵名品展」が開催された。その図録中の、「ボストン美術館の浮世絵」と題するものの中に、次のような興味あることが記されていた。

【 富田(注・幸次郎)は「吉備大臣入唐絵巻」のような重要な作品を国外に流出させたことで、日本国内では非難の嵐を浴びた。しかし、「吉備大臣入唐絵巻」を購入するために売却されたボストン美術館の肉筆の多くは日本にもたらされることになり、1893年のボストン美術館の北斎展で展示された作品のいくつかは、現在は、太田美術館や出光美術館のような日本の美術館に収蔵されている。つまり、間接的な美術品の交換がこの時に行われたことになる。 】

 ボストン美術館には、「5万点にのぼる浮世絵版画、700点以上の肉筆画、数千点の版本が所蔵されている」(同上『図録』所収「あいさつ」)とあり、上記のように、日本に里帰りをしたものを含めると、その全貌というのは、未だ、ベールに閉ざされているという言葉が適切なのかも知れない。
 そして、それらのコレクションの中心になったのは、「モース、フェノロサ、ビゲロー」の三人で、これら三人と他のコレクターなどを介して、例えば、フリーア美術館などの他の美術館所蔵となっているものも多いようである。
 中でも、フリーア美術館所蔵の「日本の美術」関係作品については、ボストン美術館以上に、深いベールに閉ざされているという言葉が適切なのかも知れない。
 ところが、このフリーア美術館は、ベールを閉ざしているどころか、そののデジタル画像を、同館のウェブサイトから、フリーでダウンロードできる「オープンF|S」を開始しているのである。

https://archive.asia.si.edu/collections/edan/default.cfm

 この「オープンF|S」で、「HOKUSAI」を検索すると、491点が収録されているのである。

https://archive.asia.si.edu/collections/edan/default.cfm?searchTerm=hokusai&btnG.x=38&btnG.y=17&btnG=Search

 どれも、北斎の名品ばかりと印象だが、その内の一点「雷神図(Thunder god)」は、次のとおりである(その拡大図を掲げて置きたい)。

https://archive.asia.si.edu/collections/edan/object.php?q=fsg_F1900.47

北斎・雷神図一.jpg

北斎筆「雷神図」(一部・拡大)フリーア美術館蔵(「オープンF|S」)
署名「八十八老卍筆」 印章「百」 弘化四年(一八四七)
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