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抱一筆『集外三十六歌仙図画帖』周辺(その二) [三十六歌仙]

その二 津守国豊と心敬

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抱一筆『集外三十六歌仙図画帖』所収「二 津守国豊」(姫路市立美術館蔵)

https://jmapps.ne.jp/hmgsbj/det.html?data_id=1498
歌人(左方二) 津守国豊
歌題 残花
和歌 よしのやまところせきまでみしひとの 散々(ちりぢり)になるはなのふるさと
歌人概要  住吉大社社人

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抱一筆『集外三十六歌仙図画帖』所収「二〇 心敬」(姫路市立美術館蔵)→A図

https://jmapps.ne.jp/hmgsbj/det.html?data_id=1489
歌人(右方二〇) 心敬
歌題 月前述懐
和歌 こしかたも帰るところもしらぬ身を おもへばそらにみする月かな
歌人概要  室町中期の歌人・連歌師

(画帖周辺その二)→ 『酒井抱一と江戸琳派の全容(求龍堂)』所収「酒井抱一筆『集外三十六歌仙図画帖』と『柳華帖』について(岡野智子稿)」

 この画帖の巻末には、抱一自身の「添書」(下記のとおり)が貼付されている。

【 添書   
雨花庵抱一誌 「文詮」(朱文瓢印)
此集外三十六歌仙は、後水尾の天皇のおり居させ給ひし/時の御すさミにして/東福門院の御屏風の色帋にさせ玉へかし/なりとて武人各座にをさめしを写置ものなるへし  】 

 これによると、「後水尾天皇の撰により、東福門院の屏風の色紙に描かれたものを写した」となるが、この「集外三十六歌仙」は、寛政九年(一七九七)、抱一、三十七歳当時に、版本も刊行されており、それらの版本やら写本などを参考にして制作されたのではないかとされている(「岡野稿」)。
 その寛政九年刊の『集外三十六歌仙』が、先(その一)に「参考」で紹介した下記のアドレス(早稲田図書館蔵(雲英文庫))のものである。

http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/bunko31/bunko31_e0028/index.htm

 これによると、撰者(編集・著者)は「後水尾天皇」、そして、「原画:狩野蓮長 画:緑毛斎栄保典繁 書:芝江釣叟 序:安田貞雄 跋:稲梁軒風斎(寛政8年)」となるが、この「撰者」は、後水尾天皇の第八皇子「後西天皇」が「東福門院」の懇望により「撰」をし、「狩野蓮長」が描いたとする記録(国会図書館蔵『清水千清遺書』所収写本奥書)があり、「後西天皇」説もある(「岡野稿」)。

(歌人周辺その二)→ 「集外三十六歌仙( 続々群書類従本による)」

津守国豊 → 下記のアドレスには国豊に関する記載はない。

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/ex36k.html#02

心敬(しんけい) 応永十三~文明七(1406-1475) → 下記のアドレスの紹介は次のとおり。

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/sinkei.html

 紀伊国名草郡田井庄(現在の和歌山県和歌山市)に生まれ、三歳で上洛し、僧となる。はじめ蓮海(連海とも)を名のり、また心恵とも号した。比叡山で修行し、宝徳(1449~1452)頃、権律師の地位にあり、のち権大僧都に至る。
 永享初年頃より和歌を正徹に学ぶ。永享五年(1433)二月、将軍足利義教が開催した「北野社法楽一万句」に参加(名は連海)。以後、京洛の歌会・連歌会に出座し、五十歳頃には心敬を名のって連歌界の中心人物として活躍した。寛正三年(1462)、土一揆等で混乱する京を離れ、故郷の田井庄に下り、翌四年、百首和歌を詠じ、連歌論書『ささめごと』を著わす。のち帰洛し、寛正五年(1464)には洛東の音羽山麓十住心院に住んでいたことが知られる。
 いよいよ戦乱が激しさを増した応仁元年(1467)、伊勢参宮の後、関東の豪商鈴木長敏に招かれ、武蔵国品川に住む。文明三年(1471)夏、相模国大山の麓に隠棲。同六年、太田道灌邸の「武州江戸歌合」では判者を務めた。同七年四月十六日、帰洛の願いを果たせぬまま、大山に没す。七十歳。
 歌集に『権大僧都心敬集』(以下「心敬集」と略)や『心敬僧都十体和歌』(以下「十体和歌」と略)、句集に『心玉集』『吾妻辺云捨』等、論書に『ささめごと』『ひとりごと』『老のくりごと』等がある。門弟に宗祇・兼載・心前ほかがいる。

(歌人周辺メモ)

 津守国豊は、住吉大社の宮司の「津守家」の当主で、津守家の当主は歴代歌人としても名高く、当時の「神官」を代表する歌人と解して差し支えなかろう。
 一方の心敬は、連歌論集の『ささめごと』などで今に夙に知られているが、京都十住心院の住持となり、権大僧都、法印に叙せられた「沙門」代表する歌人と解して、これまた差し支えなかろう。

(心敬の一首)

 河月
月のみぞ形見にうかぶ紀の河や沈みし人の跡のしら浪(心敬集)

【通釈】今では月だけが、亡き人を思い出すよすがとして影を浮かべている、紀の川――その水底に沈んだ人の果敢ない痕跡を示すごとき白波よ。
【補記】寛正四年の百首歌。当時京は土一揆で混乱していたが、心敬の故国紀伊でも守護畠山氏の家督を巡る争乱が続いていた。自註には「此河にしづみ侍る人の数千八百人など申し侍る。そのうちに若とし見なれ侍りし人しづみうせ侍れば、たびたび此川の月を見侍る折、あはれなる事ども思ひいで侍れば」と制作時の心境を明かしている。

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/sinkei.html#WT

(参考)→(集外三十六歌仙 / 後水尾の上皇 [編]) → 早稲田図書館蔵(雲英文庫)

http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/bunko31/bunko31_e0028/index.html

津守国豊二.jpg

津守国豊(狩野蓮長 画)

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心敬(狩野蓮長 画) → B図

(抱一周辺メモ)

 抱一が描いた心敬(A図)と蓮長が描いた心敬(B図)との顔貌が全然違うのには驚かされる。そして、抱一の心敬(A図)は、文政七年(一八二四)、六十四歳時に、連日日課(三十三幅)の如く描いた「日課観音菩薩像」の顔貌を彷彿とさせる。

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抱一筆「日課観音菩薩像(六月朔日)」(部分図) 一幅 個人蔵
【文政七年五月、抱一は連日、同様の観音像三十三幅を描いており、現在数点が知られる。いずれも上部に「文政七年甲申五月日課三十三幅之一」の朱文重郭長方印があり、墨書きのみで簡潔に観音を描く。落款の下に、「五日」「廿日」「六月朔日」などの日付が記され、鎌倉寿福寺の釈迦像納入品で、北条政子筆と伝える日課観音像に依ると指摘されている。】
(『酒井抱一と江戸琳派の全容(求龍堂)』所収「図版解説一五二(岡野智子稿)」)
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