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抱一筆『集外三十六歌仙図画帖』周辺(その一) [三十六歌仙]

その一 平常縁(東常縁)と宗祇

東常縁.jpg

抱一筆『集外三十六歌仙図画帖』所収「一 平常縁」(姫路市立美術館蔵)

https://jmapps.ne.jp/hmgsbj/det.html?data_id=1487
歌人(左方一)平常縁
歌題 嶺炭窯
和歌 たちのぼるけぶりならずば炭がまを そこともいさやみねのしら雪
歌人概要  東常縁(とうのつねより) 室町時代の歌人

宗祇.jpg

抱一筆『集外三十六歌仙図画帖』所収「一九 宗祇」(姫路市立美術館蔵)

https://jmapps.ne.jp/hmgsbj/det.html?data_id=1488
歌人(右方一九)宗祇
歌題 関月
和歌 清見がたまだ明けやらぬ関の戸を 誰がゆるせばか月のこゆらん
歌人概要  室町中期~戦国期の歌人・連歌作者

(画帖周辺その一)→ 『酒井抱一と江戸琳派の全容(求龍堂)』所収「酒井抱一筆『集外三十六歌仙図画帖』と『柳華帖』について(岡野智子稿)」

 抱一の「集外三十六歌仙図画帖」(二帖)は、「集外」(「二十一代集」の集外」)の歌人三十六人の肖像と和歌を描いた歌仙画帖で、もと一帖であったが、現在は改装されて二帖となっている。絹本の縦二十三・七センチ、横二十一・二センチの色紙に、水墨と金泥で三十六歌仙を描く。画面の右側に歌題と歌人名、上部に和歌を抱一が記している。

(画帖周辺メモ)

 この歌仙(三十六歌仙)画帖は、右方(歌人・十八名)と左方(歌人・十八名)とに分かれ、「歌合(うたあわせ)」(和歌の作者が左右に分れて出題された歌題を歌に詠み,これを合せ比べて優劣を競う文学遊戯の一つ)形式となっている。
 この画帖は、右方(一から十八)と左方(十九から三十六)とに分かれ、一枚一枚の抱一筆「集外三十六歌仙」の「肖像画」と「賛(歌題・和歌)」を観賞するには適しているが、この「歌合」の観点からすると難点がある(そこで、上記のとおり左右の相対する歌人を並列することにしている)。

(歌人周辺その一)→ 「集外三十六歌仙( 続々群書類従本による)」

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/ex36k.html

東常縁(とうのつねより) 生没年未詳 通称:東野州 法号:素伝

 桓武平氏。下総千葉氏の庶流。美濃国郡上郡篠脇を伝領する。父祖には源実朝以下の鎌倉将軍に仕えた胤行(素暹)をはじめ、勅撰歌人が少なくない。常縁の父は新続古今集に「素明法師」として歌を載せる下野守益之である。子に素純がいる。
 生年は応永八年(1401)、同十四年(1407)説がある。享徳三年(1454)、左近将監となり、従五位下に叙せられる。翌年の康正元年(1455)、下総で千葉氏の内乱が起こると、将軍足利義政に鎮圧を命ぜられて下向、各地を転戦して長く関東に留まった。
 この間、京で勃発した応仁の乱は地方へ波及し、篠脇の所領は守護代斎藤妙椿によって攻め取られてしまう。ところが常縁がこれを嘆いた歌「思ひやる心のかよふみちならで便もしらぬ古郷の空」等に心を動かされた妙椿は領地を常縁に返却したという(『常縁集』)。文明元年(1469)、帰京し、やがて美濃に帰国。同五年までに下野守となる。同十六年(1484)頃に没したと推定されている。
 上洛して宝徳二年(1450)、尭孝門に入り、二条派和歌の正統を継承する一方、異風の正徹にも学んだ。文明三年(1471)三月、伊豆三島の陣中で宗祇に古今集の講釈を行い、古今聞書の証明を授けた(「古今伝授」の初例とされる)。ほかにも新古今集・百人一首・伊勢物語など古典を講釈し、多くの歌書を書写した。歌学書に『東野州聞書』、注釈書に『新古今和歌集聞書』などがある。家集『常縁集』がある。勅撰集への入集はない。

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/sougi.html

宗祇(そうぎ) 応永二十八~文亀二(1421-1502) 別号:自然斎・種玉庵・見外斎

 出自未詳。姓は飯尾(いのお/いいお)とされ(一説に母の筋)、父は猿楽師であったとの伝がある。生国は紀伊と伝わるが、近年、近江説も提出された。
 前半生の事蹟はほとんど不明。一時京都五山の一つ相国寺で修行し、三十余歳にして連歌の道に進んだらしい。宗砌(そうぜい)・専順・心敬らに師事し、寛正六年(1465)頃から連歌界に頭角を表わす。文明三年(1471)、東常縁より古今聞書の証明を授かる(「古今伝授」の初例とされる)。同四年には奈良で一条兼良の連歌会に参席し、同八年(1476)には足利幕府恒例の連歌初めに参席するなど、連歌師として確乎たる地歩を占めた。
 同年、宗砌・専順・心敬らの句を集めて『竹林抄』を編集する。同十九年(1487)四月、三条西実隆に古今集を伝授する。長享二年(1488)正月二十二日、肖柏・宗長と『水無瀬三吟百韻』を巻く。同年三月には足利義尚の命により北野連歌会所奉行に就く栄誉を得たが、翌年の延徳元年(1489)にはこの任を辞した。明応二年(1493)、兼載と共に准勅撰連歌集『新撰菟玖波集』を撰進、有心連歌を大成した。
 この間、連歌指導・古典講釈のため全国各地を歴遊し、地方への文化普及に果たした役割も注目される。文亀二年(1502)七月三十日、箱根湯本の旅宿で客死。八十二歳。桃園(静岡県裾野市)の定輪寺に葬られた。
 飛鳥井雅親・一条兼良・三条西実隆らと親交。弟子には肖柏・宗長・宗碩・大内政弘ほかがいる。著書には上記のほかに源氏物語研究書『種玉編次抄』、歌学書『古今和歌集両度聞書』『百人一首抄』、連歌学書『老のすさみ』『吾妻問答』、紀行『筑紫道記』などがある。家集には延徳三年(1491)以後の自撰と推測される『宗祇法師集』があり、自撰句集には『萱草(わすれぐさ)』『老葉(わくらば)』『下草』『宇良葉(うらば)』がある。

(歌人周辺メモ)

 東常縁と宗祇とは、宗祇が「文明三年(1471)、東常縁より古今聞書の証明を授かる(「古今伝授」の初例とされる)」、すなわち、師(東常縁)弟(宗祇)間の関係にあり、その観点からの歌合せということになろう。

(参考)→(集外三十六歌仙 / 後水尾の上皇 [編]) → 早稲田図書館蔵(雲英文庫)

http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/bunko31/bunko31_e0028/index.html

常縁二.png

(平常縁)

宗祇二.jpg

(種玉庵宗祇)

(抱一周辺メモ)

抱一筆「三十六歌仙図屏風」(参考「光琳の『三十六歌仙図屏風』など)については、下記のアドレスで触れている。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-04-21

「三十六歌仙」(平安時代の三十六人の和歌の名人)

柿本人麻呂 山部赤人 大伴家持 猿丸大夫 僧正遍昭 在原業平 小野小町 藤原兼輔
紀貫之 凡河内躬恒 紀友則 壬生忠岑 伊勢 藤原興風 藤原敏行 源公忠 源宗于
素性法師 大中臣頼基 坂上是則 源重之 藤原朝忠 藤原敦忠 藤原元真 源信明 
※※斎宮女御 藤原清正 藤原高光 小大君 中務 藤原仲文 清原元輔 大中臣能宣
源順 壬生忠見 平兼盛

「集外三十六歌仙」(「室町時代から江戸初期に至る三十六人の歌人」「短歌一首ずつを選び、左右に配した、歌仙形式の秀歌撰」「地下(じげ)歌人より成り、公家方からは一人も選出されていない」「連歌師と武将歌人が殊に多い」「女性はただ一人、足利将軍義晴の母、浄通尼」)

左方
平常縁 津守国豊 浄通尼 柴屋宗長 月村斎宗碩 永閑 釈正徹 釈正広 耕閑斎兼載 太田持資 三好長慶 宗羪 伊達政宗 兼与 里見玄陳 佐川田昌俊 尚証 木下長嘯子
右方
種玉庵宗祇 心敬 基佐 牡丹花肖柏 蜷川親当 安達冬康 紹巴 宗牧 細川玄旨 心前 毛利元就 北条氏康 武田信玄 北条氏政 今川氏真 昌叱 小堀政一 松永貞徳
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