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酒井抱一の「綺麗さび」の世界(二十五) [抱一の「綺麗さび」]

その二十五 抱一筆「夕顔に扇図」(挿絵)など

夕顔に扇図.jpg

酒井抱一挿絵『俳諧拾二歌僊行』所収「夕顔に扇図」 → A図

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 この抱一の挿絵(「夕顔に扇図」)は、『酒井抱一---俳諧と絵画の織りなす抒情(井田太郎著・岩波新書一七九八)』(以下、『井田・岩波新書』)所収「酒井抱一略年譜」で、抱一が亡くなる「文政十一年(一八二八)六十八歳」に「三月、『俳諧拾二歌僊行』に挿絵提供(抱一)、十一月、抱一没、築地本願寺に葬られる(等覚院文詮)」に出てくる、抱一の「最後の作品」(「第四章太平の『もののあわれ』「絶筆四句」)で紹介されているものである。
 この挿絵が収載されている『俳諧拾二歌僊行(はいかいじゅうにかせんこう)』については、上記のアドレスで、その全容を閲覧することが出来る。これは、大名茶人として名高い出雲国松江藩第七代藩主松平不昧(ふまい)の世嗣(第八代藩主)松平斉恒(なりつね・俳号=月潭)の七回忌追善の俳書である。
 大名俳人月潭(げったん)が亡くなったのは、文政五年(一八二二)、三十二歳の若さであった。この年、抱一、六十二歳で、抱一と月潭との年齢の開きは、三十歳も抱一が年長なのである。
 抱一の兄・忠以(ただざね、茶号=宗雅、俳号=銀鵞)は、抱一(忠因=ただなお)より六歳年長で、この忠以(宗雅)が、四歳年長の月潭の父・治郷(はるさと、茶号=不昧)と昵懇の間柄で、宗雅の茶道の師に当たり、この「不昧・宗雅」が、当時の代表的な茶人大名ということになる。
 この不昧の弟・桁親(のぶちか、俳号=雪川)は、宗雅より一歳年長だが、抱一は、この雪川と昵懇の間柄で、雪川と杜陵(抱一)は、米翁(べいおう、大和郡山藩隠居、柳沢信鴻=のぶとき)の俳諧ネットワークの有力メンバーなのである。
 さらに、抱一の兄・忠以(宗雅)亡き後を継いだ忠道(ただひろ・播磨姫路藩第三代藩主)の息女が、月潭(出雲国松江藩第八代藩主)の継室となっており、酒井家(宗雅・抱一・忠道)と松平家(不昧・雪川・月潭)とは二重にも三重にも深い関係にある間柄である。
 そして、実に、その月潭が亡くなった文政五年(一八二二)は、抱一の兄・忠以(宗雅)の、三十三回忌に当たるのである。さらに、この月潭の七回忌の追善俳書(上記の『俳諧拾二歌僊行』)に、抱一が、上記の「夕顔と扇面図」の挿絵を載せた(三月)、その文政十一年(一八二八)の十一月に、抱一は、その六十八年の生涯を閉じるのである(『井田・岩波新書』)所収「酒井抱一略年譜」)。
 その意味でも、上記の「夕顔と扇面図」(『俳諧拾二歌僊行』の抱一挿絵)は、「画・俳二道を究めた『酒井抱一』の生涯」の、その最期を燈明する極めて貴重なキィーポイントともいえるものであろう。
 さらに、ここに付記して置きたいことは、「画(絵画)と俳(俳諧)」の両道の世界だけではなく、それを「不昧・宗雅」の「茶道」の世界まで視点を広げると、「利休(侘び茶)→織部(武家茶)→遠州(「綺麗さび茶」)」に連なる「酒井家(宗雅・抱一・忠道・忠実)・松平家(不昧・雪川・月潭)・柳澤家(米翁・保光)の、その徳川譜代大名家の、それぞれの「徳川の平和(パクス・トクガワーナ)=平和=太平」の一端を形成している、その「綺麗さび」の世界の一端が垣間見えてくる。
 それは、戦乱もなく一見すると「太平」の世であるが、その太平下にあって、それぞれの格式に応じ「家」を安穏を守旧するための壮絶なドラマが展開されており、その陰に陽にの人間模様の「もののあはれ」(『石上私淑言(本居宣長)』の、「見る物聞く事なすわざにふれて情(ココロ)の深く感ずる事」)こそ、抱一の「綺麗さび」の世界の究極に在るもののように思われる。
 抱一の若き日の、太平の世の一つの象徴的な江戸の遊郭街・吉原で「粋人・道楽子弟の三公子」として名を馳せていた頃のことなどについては、下記のアドレスで紹介している。 

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-03-25

  御供してあらぶる神も御国入(いり)  抱一(『句藻』「春鶯囀」)

 この句には、「九月三日、雲州候月潭君へまかり、「翌(あす)は国に帰(かへる)首途(かどで)なり」として、そぞめきあへりける時」との前書きがある(『井田・岩波新書』「第四章太平の『もののあはれ』」)。
 この句が収載されているのは、文化十四年(一八一七)、抱一、五十七歳の時で、この年は、抱一にとって大きな節目の年であった。その年の二月、『鶯邨画譜』を刊行、五月、巣兆の『曽波可理』に「序」を寄せ、その六月に鈴木蠣潭が亡くなる(二十六歳の夭逝である)。その鈴木家を、其一が継ぎ、また、小鶯女史が剃髪し、妙華尼を称したのも、この頃である。
 そして、その十月に「雨華庵」の額(第四姫路酒井家藩主)を掲げ、これより、抱一の「雨華庵」時代がスタートする。掲出の句は、その一カ月前の作ということになる。
 句意は、「出雲では陰暦十月を神無月(かんなづき)と呼ばず、八百万(やおよろず)の神が蝟集することから神有月(かみありづき)と唱える。神有月近いころ、『あらぶる神』が出雲の藩主月潭の国入りの『御供』をするという一句である」(『井田・岩波新書』「第四章太平の『もののあはれ』」)。
 この年、出雲の藩主月潭は、二十七歳の颯爽としたる姿であったことであろう。そして、それから十一年後の、冒頭の抱一の「夕顔に扇面図」の挿絵が掲載された『俳諧拾二歌僊行』は、その月潭の七回忌の追善俳書の中に於いてなのである。
 とすれば、抱一の、この「夕顔に扇面図」の、この「夕顔」は、『源氏物語』第四条の佳人薄命の代名詞にもなっている「夕顔」に由来し、そこに三十ニ歳の若さで夭逝した出雲の藩主月潭を重ね合わせ、その「太平の『もののあはれ』」の、 そのファクターの一つの「はかなさ」を背景に託したものと解すべきなのであろう。

  見渡せば花も紅葉もなかりけり浦のとまやの秋の夕暮  藤原定家 

  I looked beyond; / Fiowers are not, / Nor tinted leaves./
On the sea beach / A solitary cottage stands /
In the waving light / Of an autumn eve. (岡倉天心・英訳)

 見渡したが / 花はない、/ 紅葉もない。/
   渚には / 淋しい小舎が一つ立っている、/ 
秋の夕べの / あせゆく光の中に。        (浅野晃・和訳)

 『茶の本 Ter Book of Tea (岡倉天心著 浅野晃訳 千宗室<序と跋>)』 で紹介されている藤原定家の一首(『新古今』)で、千利休の「侘び茶」の基本的な精神(和敬静寂)が込められているとされている。
 それに続いて、小堀遠州の「綺麗さび」の茶の精神を伝えているものとされている、次の一句が紹介されている。

   夕月夜海すこしある木の間かな (宗長作とも宗碩作とも伝えられている)

A cluster of summer trees,/
A bit of the sea,/
A pale evening moon. (岡倉天心・英訳)

  ひとむらの夏木立、
  いささかの海、
  蒼い夕月。 (浅野晃・和訳)

 抱一にも、次の一句がある。

   としせわし鶯動く木の間かな   抱一(『句藻』「春鶯囀」)

 この抱一の句は、先に紹介した月潭の「九月三日、雲州に御国入り」の際の「御供してあらぶる神も御国入(いり)」と同じ年(文化十四=一八一七)の「歳末」の一句である。
 この抱一、五十八歳時の、「雨華庵」時代がスタートした年の歳末吟の一句は、「不昧・宗雅・抱一」の、その茶の世界に通ずる、小堀遠州の「綺麗さび」の世界に通ずる一句と解したい。

(再掲)

扇面夕顔図.jpg

酒井抱一筆「扇面夕顔図」 一幅 四〇・八×五五・〇㎝ 個人蔵 → B図

【現在の箱に「拾弐幅之内」と記されるように、本来は横物ばかりの十二幅対であった。全図が『抱一上人真蹟鏡』に収載されており、本図は六月に当てられている。扇に夕顔を載せた意匠は、「源氏物語」の光源氏が夕顔に出会う場面に由来する。細い線で輪郭を括り精緻だが畏まった描きぶりは、この横物全般に通じる。模写的性質によるためか。「雨花抱一筆」と款し「抱弌」朱方印を押す。 】 (『酒井抱一と江戸琳派の全貌 求龍堂』所収「図版解説一三二(松尾知子稿)」)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-06-05

【 酒井抱一「扇面夕顔図」
『抱一上人真蹟鏡』に縮写される抱一の共箱には、表に「横物十二幅対」とあり、蓋裏に「雨花菴抱一誌」として、「円窓福禄寿」「浪に燕」「雀児 徐崇嗣之図」「色紙 ほととぎす画賛」「競馬」「扇夕顔」「盆をとり 尚信之図」「月夜狐」「伊勢物語 河内通ひ」「時雨のふし 松花堂うつし」「寒牡丹」「雪鷹狩 □の君」の各画題が記されている。『真蹟鏡』ではこれらに十二ケ月を当てて順に全図が写されている。和漢の古典に題材をとった十二幅であったようだ。松花堂写しの富士にはも、「叡麓隠士抱一図」と款記がある。 】(じょうき所収「作品解説一三二(松尾知子稿)」)

 上記の『抱一上人真蹟鏡』の縮図は、次のアドレスで見ることができる。

http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko06/bunko06_01266/bunko06_01266_0001/bunko06_01266_0001_p0010.jpg

六月・扇.jpg

『抱一上人真蹟鏡 上下』( 抱一上人 [画]・ 池田孤邨 [編])所収「上・六月」
早稲田大学図書館蔵(坪内逍遥旧蔵) → C図

 この縮図(D図)は、間違いなく、「扇面夕顔図」(B図)を模写したものに違いない。しかし、「夕顔に扇図」(A図)と「扇面夕顔図」(B図)とでは、明らかに図柄が違っている。この「夕顔に扇図」(A図)は、抱一が亡くなる八か月前に刊行された『俳諧拾二歌僊行』に収載されたもので、抱一の絶筆に近いものと解して差し支えなかろう。
 そして、図柄は違っていても、同じ主題の「A図」と「B図」とは、その制作時期は、ほぼ同じ頃のものと解したい。とすると、『抱一上人真蹟鏡 上』に収載されている「横物十二幅対」は、抱一の晩年の作を知る上で貴重な作品群ということになる。
 『酒井抱一と江戸琳派の全貌 求龍堂』の「作品解説一三二(松尾知子稿)」など基にして、そこに若干のメモ(抱一の「綺麗さび」の世界の一翼を担っているものなど)を併記して置きたい。

「横物十二幅対」(一月~十二月)(※※=上記の「B図」 ※=『酒井抱一と江戸琳派の全貌 求龍堂』に収載されているもの)

一月 → 「円窓福禄寿」→ ※抱一筆「寿老図」(個人蔵)→最晩年の作(?) 
二月 →「浪に燕」→光琳筆「波上飛燕図」(『琳派三風月・鳥獣』所収「作品一三一」)
※三月 →「雀児 徐崇嗣之図」(姫路市立美術館蔵)→「徐崇嗣」(宋初の花鳥画家)
四月 →「色紙 ほととぎす画賛」→蕪村筆「岩くらの狂女恋せよほととぎす」自画賛?
五月 →「競馬」→ 狩野昌運筆「競馬図」(?) 
※※六月 →「扇夕顔」(個人蔵)→『源氏物語』第四帖「夕顔」
七月 → 「盆をとり 尚信之図」→ 狩野尚信筆「盆踊り図」 
八月 → 「月夜狐」→ 円山応挙「白狐図」(?) 
九月 → 「伊勢物語 河内通ひ」→光琳筆「伊勢物語図 武蔵野・河内越」(?) 
十月 → 「時雨のふし 松花堂うつし」→ 抱一筆「松花堂昭乗」肖像画(?)
十一月 → 「寒牡丹」 → 宗達筆「牡丹図」(?)
十二月 → 「雪鷹狩 □の君」 → 狩野(清原)雪信筆「王昭君図」(?)

小堀遠州.jpg

抱一筆『集外三十六歌仙図画帖』所収「三五 小堀政一」(姫路市立美術館蔵)

https://jmapps.ne.jp/hmgsbj/det.html?data_id=1505

 抱一の『集外三十六歌仙図画帖』の中に、「綺麗さび」の世界を切り拓いた、茶人大名の「小堀遠州(小堀政一)」が収載されている。上記の肖像と歌がそれである。

歌題 河邊寒月
歌  かぜさへてよせくるなみのあともなし 氷る入江の夜の月

 ここに、前掲の「茶の本」(岡倉天心著)の、小堀遠州の愛唱句を再掲して置きたい。

(再掲)

夕月夜海すこしある木の間かな (宗長作又は宗碩作)

A cluster of summer trees,/
A bit of the sea,/
A pale evening moon. (岡倉天心・英訳)

  ひとむらの夏木立、
  いささかの海、
  蒼い夕月。 (浅野晃・和訳)

 そして、岡倉天心の、この句に寄せての感慨(和訳)を、ここに記して置きたい。

【彼(小堀遠州公)の意味するところは、推察するに難くない。彼は、過去の影のような夢のさ中になおまだ徘徊しつつも、やわらかな霊の光の甘美な無意識(無我)のなかに浴しつつ、漂渺たる彼方に横たわる自由にあこがれる—―そういった魂の新しい目ざめの相を、つくり出そうと欲したのである。 】(『茶の本 Ter Book of Tea (岡倉天心著 浅野晃訳 千宗室<序と跋>)』)

 ここに、抱一の「綺麗さび」の一端が集約されている。
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