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鶴下絵三十六歌仙和歌巻(光悦書・宗達画)」周辺(その二十七) [光悦・宗達・素庵]

(その二十七)「鶴下絵和歌巻」M図(2-5紀友則)

鶴下絵和歌巻M図.jpg

僧正遍照 末の露本の滴や世の中の 遅れ先立つためしなるらむ(「撰」「俊」)
2-5紀友則  東路の小夜の中山なかなかに 何しか人を思ひ初めけむ(「俊」)
(釈文)東路濃左や乃な可山那可々々尓何し可人をおも日曽め劒
https://www.kyohaku.go.jp/jp/syuzou/meihin/kinsei/item02.html

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/tomonori.html

東路(あづまぢ)のさやの中山なかなかに何しか人を思ひそめけむ(古今594)

【通釈】東海道にある小夜の中山ではないが、なまなかに、どうして人を恋し始めてしまったのであろう。
【語釈】◇東路 東海道。あるいは東国。◇さやの中山 遠江国の歌枕。静岡県掛川市日坂と金谷町菊川の間、急崚な坂にはさまれた尾根づたいの峠で、街道の難所の一つ。「なかなかに」を導く。◇なかなかに なまじっか。中途半端に。どうせ思いを遂げられはしないのに…といった気持を含む。
【補記】初二句は同音の繰り返しから「なかなかに」を導く序。同時代に全く同じ序詞を用いた歌が他にもあり(【参考歌】)、流行句となっていたことが窺われる。「さやの中山」は街道の難所として知られていたため、初二句は恋路の苦しさの暗喩ともなっている。

紀友則一.jpg

紀友則/青蓮院宮尊純親王:狩野探幽/慶安元年(1648) 金刀比羅宮宝物館蔵
http://www.konpira.or.jp/museum/houmotsu/treasure_house_2015.html

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/tomonori.html

夕されば蛍よりけに燃ゆれどもひかり見ねばや人のつれなき(古今562)

【通釈】夕方になると、私の思いは蛍よりひどく燃えるけれども、蛍と違って光は見えないので、恋人は冷淡な態度をとるのだろうか。
【補記】当時の常識からすると、夕方に男の訪れを待つ女の立場で詠んだ歌ということになる。心は蛍に劣らず燃えているのに、光を発するわけではないので、人にはこの思いが伝わらない。そのことを悲しむ心が余情になっている。

紀友則二.jpg

『三十六歌仙』(紀友則)本阿弥光悦書(国立国会図書館デジタルコレクション)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1288424

夕されば蛍よりけに燃ゆれどもひかり見ねばや人のつれなき(古今562)

(追記)「光悦書宗達下絵和歌巻」周辺(「メモ」その五)

鹿下絵和歌巻・藤原定家.jpg

「鹿下絵新古今集和歌巻断簡」(画)俵屋宗達(書)本阿弥光悦(個人蔵)

(「藤原定家」周辺メモ)

西行法師すすめて、百首歌よませ侍りけるに
2 見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮(新古363)

【通釈】あたりを見渡してみると、花も紅葉もないのだった。海辺の苫屋があるばかりの秋の夕暮よ。
【語釈】◇花も紅葉も 美しい色彩の代表として列挙する。◇苫屋(とまや) 菅や萱などの草で編んだ薦で葺いた小屋。ここは漁師小屋。
【補記】文治二年(1186)、西行勧進の「二見浦百首」。今ここには現前しないもの(花と紅葉)を言うことで、今ここにあるもの(浦の苫屋の秋の夕暮)の趣意を深めるといった作歌法はしばしば定家の試みたところで、同じ頃の作では「み吉野も花見し春のけしきかは時雨るる秋の夕暮の空」(閑居百首)などがある。新古今集秋に「秋の夕暮」の結句が共通する寂蓮の「さびしさはその色としも…」、西行の「心なき身にもあはれは…」と並べられ、合せて「三夕の歌」と称する。

(「鹿下絵新古今集和歌巻」周辺メモ )

【「闇を暗示する銀泥」 「鶴下絵和歌巻」において雲や霞はもっぱら金泥で表されていたが、この和歌巻では銀泥が主要な役割を果たすようになっている。これは夕闇を暗示するものなるべく、中間の明るく金泥のみの部分を月光と解えるならば、夕暮から夜の景と見なすとも充分可能であろう。なぜなら、有名な崗本天皇の一首「夕されば小倉の山に鳴く鹿は今宵は鳴かずいねにけらしも」(『万葉集』巻八)に象徴されるように、鹿は夕暮から夜に妻を求めて鳴くものとされていたからである。朝から夕暮までの一日の情景とみることも可能だが、私は鹿の伝統的なシンボリズムを尊重したいのだ。 】(『日本の美術№460 光悦と本阿弥流の人々(河野元昭著)』)

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/jomei.html

   崗本天皇の御製歌一首
夕されば小倉の山に鳴く鹿はこよひは鳴かず寝(い)ねにけらしも(万8-1511)

【通釈】夕方になると、いつも小倉山で鳴く鹿が、今夜は鳴かないぞ。もう寝てしまったらしいなあ。
【語釈】◇小倉の山 不詳。奈良県桜井市あたりの山かと言う。平安期以後の歌枕小倉山(京都市右京区)とは別。雄略御製とする巻九巻頭歌では原文「小椋山」。◇寝(い)ねにけらしも 原文は「寐宿家良思母」。「寐(い)」は睡眠を意味する名詞。これに下二段動詞「寝」をつけたのが「いね」である。
【補記】「崗本天皇」は飛鳥の崗本宮に即位した天皇を意味し、舒明天皇(高市崗本天皇)・斉明天皇(後崗本天皇)いずれかを指す。万葉集巻九に小異歌が載り、題詞は「泊瀬朝倉宮御宇大泊瀬幼武天皇御製歌一首」すなわち雄略天皇の作とし、第三句「臥鹿之(ふすしかは)」とある。
【他出】古今和歌六帖、五代集歌枕、古来風躰抄、雲葉集、続古今集、夫木和歌抄
【参考歌】雄略天皇「万葉集」巻九
夕されば小椋の山に臥す鹿は今夜は鳴かず寝ねにけらしも
【主な派生歌】
夕づく夜をぐらの山に鳴く鹿のこゑの内にや秋は暮るらむ(*紀貫之[古今])
鹿のねは近くすれども山田守おどろかさぬはいねにけらしも(藤原行家)
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鶴下絵三十六歌仙和歌巻(光悦書・宗達画)」周辺(その二十六) [光悦・宗達・素庵]

(その二十六)「鶴下絵和歌巻」M図(2-4僧正遍照)

鶴下絵和歌巻M図.jpg

2-4僧正遍照 末の露本の滴や世の中の 遅れ先立つためしなるらむ(「撰」「俊」)
(釈文)須衛濃露もと能し徒くや世中乃を久禮さ幾多徒ためし成ら牟
紀友則  東路の小夜の中山なかなかに 何しか人を思ひ初めけむ(「俊」)
https://www.kyohaku.go.jp/jp/syuzou/meihin/kinsei/item02.html

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/henjou.html

  題しらず
すゑの露もとのしづくや世の中のおくれさきだつためしなるらむ(新古757)

【通釈】葉末に留まっている露と、根もとに落ちた雫と――人に後れたり、人に先立って亡くなる、この世の無常の例なのだろう。
【補記】「すゑの露」は辛うじて留まっている命の比喩であり、「もとのしづく」(根もとの雫)は「末の露」に先んじて消えた命の比喩。いずれ消えることに変わりはなく、わずかな遅速の差にすぎない、ということ。公任の『前十五番歌合』『三十六人撰』『深窓秘抄』といった秀歌撰に採られながら、新古今集に至るまで勅撰集入集に漏れ続けた作。新古今哀傷歌の巻頭。『遍昭集』には「世のはかなさの思ひ知られはべりしかば」との詞書がある。

僧正遍照一.jpg

僧正遍昭/滋野井大納言季吉:狩野探幽/慶安元年(1648)  金刀比羅宮宝物館蔵
http://www.konpira.or.jp/museum/houmotsu/treasure_house_2015.html

すゑの露もとのしづくや世の中のおくれさきだつためしなるらむ(新古757)

僧正遍照二.jpg

『三十六歌仙』(僧正遍照)本阿弥光悦書(国立国会図書館デジタルコレクション)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1288424

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/henjou.html

   大和の布留(ふる)の山をまかるとて
いそのかみ布留の山べの桜花うゑけむ時をしる人ぞなき(後撰49)

【通釈】古い由緒を持つ布留の山の桜花、これらの木々を植えたのはいつのことか、その時代を知る人はいないのだ。
【語釈】◇いそのかみ 奈良県天理市、石上神宮周辺の土地の古称。「ふる」の枕詞でもある。◇布留の山べ 石上神宮が鎮座する山。「山べ」は「山辺」でなく単に「山」と言うのと同じ。
【補記】石上神宮は崇神天皇の創始と伝わるほどに古い由緒を持ち、大神神社とともに日本最古の神社とも言われている。だからこそ「古」との掛詞は言葉の遊戯を超えた重みを持つことになる。因みに布留の近辺には遍昭の母の家があり、また遍昭は石上神宮の神主の家の出である布留今道(ふるのいまみち)と親交があった。布留は作者にとっても古馴染みの土地だったのである。

(追記)「光悦書宗達下絵和歌巻」周辺(「メモ」その四)

鹿下絵和歌巻・西行.jpg

「鹿下絵新古今集和歌巻断簡」(画)俵屋宗達(書)本阿弥光悦(山種美術館蔵)
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/215347

(「西行法師」周辺メモ)

1 西行法師:こころなき身にもあはしられけりしぎたつ沢の秋の夕ぐれ(山種美術館蔵)

(釈文)
西行法師
こ々路那幾身尓も哀盤しら禮介利
鴫多徒澤濃秋乃夕暮

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/saigyo.html

   秋 ものへまかりける道にて
心なき身にもあはれは知られけり鴫(しぎ)たつ沢の秋の夕暮(山家集470)[新古362]

【通釈】心なき我が身にも、哀れ深い趣は知られるのだった。鴫が飛び立つ沢の秋の夕暮――。
語釈】◇心なき身 種々の解釈があるが、「物の情趣を解さない身」「煩悩を去った無心の身」の二通りの解釈に大別できよう。前者と解すれば出家の身にかかわりなく謙辞の意が強くなる。下に掲げた【鑑賞】は、後者の解に立った中世歌学者による評釈である。◇鴫たつ沢 鴫が飛び立つ沢。鴫はチドリ目シギ科に分類される鳥。多種あるが、多くは秋に渡来し、沼沢や海浜などに棲む。非繁殖期には単独で行動することが多く、掲出歌の「鴫」も唯一羽である。飛び立つ時にあげる鳴き声や羽音は趣深いものとされた。例、「暁になりにけらしな我が門のかり田の鴫も鳴きて立つなり」(堀河百首、隆源)、「をしねほす伏見のくろにたつ鴫の羽音さびしき朝霜の空」(後鳥羽院)
【補記】秋の夕暮の沢、その静寂を一瞬破って飛び立つ鴫。『西行物語』では東国旅行の際、相模国で詠まれた歌としているが、制作年も精しい制作事情なども不明である。『御裳濯河歌合』で前掲の「おほかたの露にはなにの」と合わされ、判者俊成は「鴫立つ沢のといへる、心幽玄にすがたおよびがたし」と賞賛しつつも負を付けた。また俊成は千載集にこの歌を採らず、そのことを人づてに聞いた西行はいたく失望したという(『今物語』)。『西行法師家集』は題「鴫」、新古今集は「題しらず」。

(「鹿下絵新古今集和歌巻」周辺メモ )

【「鹿下絵新古今集和歌巻」は戦後小刀を入れて諸家に分藏されることになったが、もちろん本来は一巻の巻物であった。しかも全長二〇mを超える大巻であったらしい。この下絵も鹿という単一のモチーフで構成されている。鹿はたたずみ、群れる。雌雄でじゃれ合い、戯れる。跳びはね、走る。そして山の端に姿を消していく。鹿の視線や動きのベクトルは、画面内でさまざまに変化する。先に指摘した「鶴下絵和歌巻」の特異な構成は、この和歌巻と比較することによって一層はっきりするであろう。】(『日本の美術№460 光悦と本阿弥流の人々(河野元昭著)』)

【「西行への傾倒」 光悦が選んだのは『新古今和歌集』巻四「秋歌 上」、岩波文庫版でいえば三六二番から三八九番までにあたる。つまり西行法師の「こころなき身にもあはしられけりしぎたつ沢の秋の夕ぐれ」から藤原家隆の「鳰のうみや月のひかりにうつろへば浪の花にも秋は見えけり」まで連続する二八首である。西行法師の前後には、寂連法師の「さびしさはその色としもなかりけりまき立つ山の秋の夕暮」と藤原定家の「見わたせば花も紅葉もなかりけり浦のとまやの秋の夕ぐれ」がある。有名な三夕の和歌、これをもって秋歌の和歌巻を始めようとするのはだれでも思いつく着想であろう。
 しかし光悦は寂連をカットし、いきなり西行から書きだした。それは光悦が西行を高く評価し、西行に対する特別の感情をもっていたからである。『本阿弥行状記』には西行に関することが数条見出されるが、とくに「心なき」の一首は一七二条に取り上げられている。この一首にならって、飛鳥井雅章は「あはれさは秋ならねどもしられけり鴫立沢のあとを尋ねて」と詠んだ。ところがこの鴫立沢というのは、西行の和歌によって後人が作り出した名所であったので、このような詠吟は不埒であると勅勘を蒙ったという話である。雅章の恥となるような逸話を持ち出しつつ、西行の素晴らしさを際立たせたわけである。それにしても、並の書家であれば三夕の和歌の一つをカットすることなど、絶対にしなかったであろう。 】(『日本の美術№460 光悦と本阿弥流の人々(河野元昭著)』)

【『本阿弥行状記』一七二段
  心なき身にも哀れは知られけり鴫立沢の秋の夕暮 西行法師
 これを秀吟は西行東国行脚の時なり。その旧跡、相模国に鴫立沢と申て庵なども有之候由。然るに飛鳥井雅章卿
  あはれさは秋ならねともしられけり鴫立沢のあとを尋ねて
と申歌を詠給ふ事、右鴫立沢と申は後人の拵へし所なるを、かく詠吟の事不埒也と勅勘を蒙り給ひしとぞ。道を大切になし給ふ事難有御事也。 】(『本阿弥行状記と光悦(正木篤三著)』)
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鶴下絵三十六歌仙和歌巻(光悦書・宗達画)」周辺(その二十五) [光悦・宗達・素庵]

(その二十五)「鶴下絵和歌巻」L図(2-3山部赤人)

鶴下絵和歌巻L図.jpg

伊勢 三輪の山いかに待ち見む年経とも 尋ぬる人もあらじと思へば(「撰」「俊」)
2-3山部赤人 明日からは若菜摘まむと占めし野に 昨日も今日も雪は降りつつ(「撰」「俊」)
(釈文)安須可ら盤若菜徒ま牟としめし野尓昨日も今日も雪ハふ利徒々
https://www.kyohaku.go.jp/jp/syuzou/meihin/kinsei/item02.html

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/akahito2.html

明日よりは春菜摘まむと標(し)めし野に昨日も今日も雪は降りつつ(「万葉集」8-1427)
(「新古今集」1-11)

【通釈】明日からは春の若菜を摘もうと標縄を張っていた野に、昨日も今日も雪が降ってばかりで…。
【補記】初春の行事としての若菜摘みは若い女性の仕事とされたので、この歌も少女の立場で詠まれたものであろう。
【他出】赤人集、新撰和歌、古今和歌六帖、和漢朗詠集、三十六人撰、古来風躰抄、俊成三十六人歌合、新古今集、定家八代抄、秀歌大躰、時代不同歌合、歌枕名寄、夫木和歌抄、桐火桶、和歌口伝抄、冷泉家和歌秘々口伝
(初二句を「明日からは若菜つまむと」とする本が多い。)

山部赤人一.jpg

山部赤人/青蓮院宮尊純親王:狩野探幽/慶安元年(1648) 金刀比羅宮宝物館蔵
http://www.konpira.or.jp/museum/houmotsu/treasure_house_2015.html

明日からは春菜摘まむと標(し)めし野に昨日も今日も雪は降りつつ(「新古今集」1-11)

山部赤人二.jpg

『三十六歌仙』(山部赤人)本阿弥光悦書(国立国会図書館デジタルコレクション)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1288424

若の浦に潮満ち来れば潟を無み葦辺(あしへ)をさして鶴(たづ)鳴き渡る(『万葉集』6-919)
(『新古今集』仮名序)

【通釈】和歌の浦に潮が満ちて来ると、干潟が無くなるので、葦の生える岸辺を目指して鶴が鳴き渡ってゆく。
【語釈】◇若の浦 原文は「若浦」。和歌山市の旧和歌浦。
【他出】[反歌二] 赤人集、古今和歌六帖、前十五番歌合、三十六人撰、金玉集、深窓秘抄、和歌体十種(古歌体)、奥義抄、五代集歌枕、袖中抄、和歌十体(古体)、古来風躰抄、俊成三十六人歌合、時代不動歌合、色葉和難集、続古今集、歌枕名寄、夫木和歌抄、桐火桶、井蛙抄、秘蔵抄
【補記】反歌第二首は古今集仮名序の古注に赤人の例歌として挙られるなど、古来赤人の代表作とされた。

(追記)「光悦書宗達下絵和歌巻」周辺(「メモ」その三)

鹿下絵和歌巻・藤原雅経.jpg

「鹿下絵新古今集和歌巻断簡」(画)俵屋宗達(書)本阿弥光悦(サントリー美術館蔵)
紙本金銀泥画・墨書/一幅 江戸時代初期・17世紀  縦33.7cm 横122.5cm

https://www.suntory.co.jp/sma/collection/gallery/detail?id=704

 もとは『新古今和歌集』巻四・秋歌上より抜き出した二十八首を散らし書きにした、全長二十メートルにも及ぶ長巻だったが、戦後に裁断されて諸家に分蔵されたものの一つ。全巻を通して地面や霞に刷かれた金銀泥によって、秋の一日の早朝から夕暮までの時間経過が叙情的に表されている。前半部分にあたる本作では、鹿がうずくまって右上から左下へと列をなす様子が描かれ、光悦は鹿を包み込み、空間と調和するようにゆったりと和歌を記している。(『サントリー美術館プレミアム・セレクション 新たなる美を求めて』サントリー美術館、2018年)

(周辺メモ・釈文など)

五十首哥た天ま徒里し時      → 五十首歌たてまつりし時
ふぢハらの雅経          → 藤原雅経(飛鳥井雅経)
た遍天や盤おも日安里共如何何勢無 → たへてやは思ひありともいかがせむ
む久ら濃宿濃阿支能夕暮      → 葎(むぐら)の宿の秋の夕ぐれ

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/masatune.html

  五十首歌たてまつりし時
たへてやは思ひありともいかがせむ葎(むぐら)の宿の秋の夕ぐれ(新古364)

【通釈】耐えられるものですか。恋しい思いがあるとしても、どうにもならないわ。こんな、葎の生えた侘び住居の秋の夕暮――とてもあなたの思いを受け入れることなどできない。
【語釈】◇たへてやは 耐えていられるだろうか、いやできない。◇思ひありとも 下記本歌を踏まえて言う。
【本歌】「伊勢物語」第三段
思ひあらば葎の宿に寝もしなむひじきものには袖をしつつも
【補記】老若五十首歌合。伊勢物語の本歌は、男が懸想した女に「ひじき藻」を贈る時に「恋の思いがあるならば、葎の宿でもかまうものか。一緒に寝ましょう。敷きものには袖があれば十分ではありませんか」と言いやったもの。雅経の歌は、女が男に応答する形をとって、「いや、葎の宿であるばかりか、今は秋という季節なのだから、思いがあっても、侘しさには耐えられないだろう」と男の申し出を拒絶している。恋の思いを「秋思」によって否定しているのである。この歌が老若歌合でも新古今集でも恋歌でなく秋歌とされているのは、そのためであろう。

藤原雅経(飛鳥井雅経) 嘉応二年~承久三(1170-1221)
関白師実の玄孫。刑部卿頼輔の孫。従四位下刑部卿頼経の二男。母は権大納言源顕雅の娘。刑部卿宗長の弟。子に教雅・教定ほかがいる。飛鳥井雅有・雅縁・雅世・雅親ほか、子孫は歌道家を継いで繁栄した。飛鳥井と号し、同流蹴鞠の祖。
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鶴下絵三十六歌仙和歌巻(光悦書・宗達画)」周辺(その二十四) [光悦・宗達・素庵]

(その二十四)「鶴下絵和歌巻」L図(2-2伊勢)

鶴下絵和歌巻L図.jpg

2-2伊勢 三輪の山いかに待ち見む年経とも 尋ぬる人もあらじと思へば(「撰」「俊」)
(釈文)三輪濃山如何尓待見舞としふともたづぬる人もあらじ登於もへ半

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/ise.html

  仲平の朝臣あひしりて侍りけるを、離(か)れがたになりにければ、
父が大和の守に侍りけるもとへまかるとて、よみてつかはしける
2-2 みわの山いかに待ち見む年ふともたづぬる人もあらじと思へば(古今780)

【通釈】三輪山で、どのように待って、あなたに逢えるというのだろうか。たとえ何年経とうとも、訪ねてくれる人などあるまいと思うので。
【語釈】◇みわの山 奈良県桜井市の三輪山。円錐形の美しい山容をもつ。日本最古の神社とも言われる三輪神社(大神神社)があり大物主神を祀る。◇たづぬる人 仲平を指す。
【補記】傷心のすえ、大和守であった父のもとに移り住もうと決心した時、仲平に書き送った歌。大和国府は三輪山麓にあった。しかもこの山は、古歌に「恋しくはとぶらひ来ませ」と詠まれ、大和国のシンボル的な山でもあるから、歌い起しに用いるには恰好であった。「いかに待ち見む」には、男の訪問へのかすかな期待に縋る心情と、どのように待ち暮らそうとも結局虚しいだろう、との諦念がせめぎあって哀れ深い。

伊勢一.jpg

伊勢/青蓮院宮尊純親王:狩野探幽/慶安元年(1648) 金刀比羅宮宝物館蔵
http://www.konpira.or.jp/museum/houmotsu/treasure_house_2015.html

みわの山いかに待ち見む年ふともたづぬる人もあらじと思へば(古今780)

伊勢二.jpg

『三十六歌仙』(伊勢)本阿弥光悦書(国立国会図書館デジタルコレクション)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1288424

みわの山いかに待ち見む年ふともたづぬる人もあらじと思へば(古今780)

(追記)「光悦書宗達下絵和歌巻」周辺(「メモ」その二)

鹿下絵和歌巻・宮内卿.jpg

「鹿下絵新古今集和歌巻断簡」(画)俵屋宗達(書)本阿弥光悦 (五島美術館蔵)
紙本金銀泥画・墨書/一幅 江戸時代初期・17世紀  縦34.0cm 横87.7cm 

https://www.gotoh-museum.or.jp/collection/col_03/08074_001.html

 絵師俵屋宗達(?~1640頃)が描いたと伝える金銀泥の鹿の下絵に、『新古今和歌集』より選んだ28首の秋の和歌を本阿弥光悦(1558~1637)が書写した、もとは約22メートルに及ぶ一巻の巻物(益田鈍翁〈どんのう〉旧蔵)。現在は断簡となり、前半部は静岡・MOA美術館、東京・山種美術館他、諸家が分蔵、後半部分はアメリカ・シアトル美術館が所蔵する。本品は、雄鹿とそれを振り返る雌鹿を描いた料紙に、宮内卿の和歌(巻第四「秋歌上」365番)を書いた部分。

(周辺メモ・釈文など)

秋濃哥と天よ見ハべ利介る   → 秋の歌とてよみ侍りける
宮内卿            → 後鳥羽院宮内卿
おもふ事左し亭曽禮とハな支物を→ 思ふことさしてそれとはなきものを
秋濃ゆふべを心尓曽ととふ   → 秋の夕べを心にぞ問ふ

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/kunaikyo.html

  秋の歌とてよみ侍りける
思ふことさしてそれとはなきものを秋の夕べを心にぞとふ(新古365)

【通釈】思い悩むことはこれと言ってないのに…。なぜ秋の夕べは何とはなしに物思いがされるのか、我が心に問うてみるのだ。
(宮内卿)
後鳥羽院宮内卿とも。右京権大夫源師光の娘。泰光・具親の妹。母は後白河院女房安藝。父方の祖父は歌人としても名高い大納言師頼。母方の祖父巨勢宗茂は絵師であった。後鳥羽院に歌才を見出されて出仕し、正治二年(1200)、院二度百首(正治後度百首)に詠進。建仁元年(1201)の「老若五十首歌合」「通親亭影供歌合」「撰歌合」「仙洞句題五十首」「千五百番歌合」、同二年(1202)の「仙洞影供歌合」「水無瀬恋十五首歌合」など、院主催の歌会・歌合を中心に活躍した。
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鶴下絵三十六歌仙和歌巻(光悦書・宗達画)」周辺(その二十三) [光悦・宗達・素庵]

(その二十三)「鶴下絵和歌巻」K図(2-1紀貫之)

鶴下絵和歌巻K-O図.jpg

「鶴下絵和歌巻」K図~O図
https://www.kyohaku.go.jp/jp/syuzou/meihin/kinsei/item02.html

(「鶴下絵三十六歌仙和歌巻(上巻=左方)」)

1柿本人丸(人麻呂) ほのぼのと明石の浦の朝霧に 島隠れ行く舟をしぞ思ふ(「撰」)
(釈文)保濃々々登明石能浦乃朝霧尓しま可久禮行ふ年をし曽思ふ
2凡河内躬恒   いづくとも春の光は分かなくに まだみ吉野の山は雪降る(「俊」
(釈文)以徒久とも春能日可里盤王可那久尓ま多見よし野濃山盤雪ふ流
3大伴家持 かささぎの渡せる橋に置く霜の 白きを見れば夜ぞ更けにける(「俊」)
(釈文)閑左々支能王多勢るハし尓を久霜濃し路支越見連盤夜曽更耳介類
4在原業平 月やあらぬ春や昔の春ならぬ 我が身一つは元の身にして(「俊」)
(釈文)徒支や安ら怒ハるや无可し濃春ならぬ我身日と徒盤もと能見尓し天
5猿丸太夫 をちこちのたづきも知らぬ山中に おぼつかなくも呼子鳥かな(「撰」「俊」)
(釈文)を知こ地濃た徒支もしらぬ山中尓お保徒可那久もよぶこと里可那
6素性法師 今来むと言ひしばかりに長月の 有明の月を待ち出つるかな(「撰」「俊」)
(釈文)今来無と以日しハ可利尓な可徒支濃有明(の)月を待出づる哉
7藤原兼輔 みかの原分きて流るる泉川 いつ見きとてか恋しかるらむ(「俊」)
(釈文)見可濃ハら王起天流る々以づ見可ハ以徒見支と天可日し可るら無
8藤原敦忠  身にしみて思ふ心の年経(ふ)れば 遂に色にも出でぬべきかな(「俊」)
(釈文)身尓し見(て)思心濃としふ連盤終尓色尓も出ぬべき可那
9源公忠  行きやらで山路暮らしつほととぎす 今一声の聞かまほしさに(「撰」「俊」)
(釈文)行屋らで山路暮し徒ほと〻幾須今一聲濃き可満保し左尓
10斎宮女御  寝(ね)る夢に現(うつつ)の憂さを忘られて 思ひ慰む程ぞかなしき(「俊」)
(釈文)ぬる夢尓う徒々濃う左も王須ら禮天おもひなぐ左むほど曽ハ可那支
11藤原敏行 秋来ぬと目にはさやかに見えねども 風の音にぞ驚かれぬる(「撰」「俊」)
(釈文)秋来ぬと目尓ハ左や可尓見え年共風濃をと尓曽驚可連ぬる
12源宗于 常盤なる松の緑も春来れば今一入(ひとしほ)の色増さりけり(「撰」「俊」)
(釈文)常盤なる松濃見ど利も春久れ盤以ま日とし保濃色ま左利介利
13藤原清正 子の日しに占めつる野辺の姫小松引かでや千代の蔭を待たまし(「撰」「俊」)
(釈文)年濃日し尓しめ徒流野邊乃日めこまつ日可天や千代濃蔭をま多まし
14藤原興風 誰をかも知る人にせむ高砂の松も昔の友ならなくに(「撰」「俊」)
(釈文)誰を可もし流人尓世無高砂濃ま徒も無可し濃友那らな久に
15坂上是則 み吉野の山の白雪積もるらし古里寒くなり増さるなり(「撰」「俊」)
(釈文)三芳野濃山乃しら雪徒もるらし舊里寒久成ま左流也
16小大君 岩橋の夜の契りも絶えぬべし明くる侘びしき葛城の神(「撰」「俊」)
(釈文)以者々し能よる濃ち支利も多えぬべし安久類王日し幾葛城濃神
17大中臣能宣 御垣守り衛士のたく火の夜は燃え昼は消えつつ物をこそ思へ(「俊」)
(釈文)見可きも里衛士濃焼火濃よる盤もえ晝ハきえ徒々物をこ曾於もへ
18 平兼盛 暮れて行く秋の形見に置くものは我が元結の霜にぞありける(「撰」「俊」)
(釈文)暮て行秋濃形見尓を久も乃ハ我も登遊日濃しも尓曾有介類

(「鶴下絵三十六歌仙和歌巻(下巻=右方)」)

鶴下絵和歌巻・K図.jpg

(大中臣能宣)御垣守り衛士のたく火の夜は燃え昼は消えつつ物をこそ思へ(「俊」)
(平兼盛)暮れて行く秋の形見に置くものは我が元結の霜にぞありける(「撰」「俊」)
2-1紀貫之 白露の時雨もいたくもる山の 下葉残らず色づきにけり(「俊」)
(釈文)しら露も時雨も以多久もる山盤した葉乃こら須色づ支尓介利
https://www.kyohaku.go.jp/jp/syuzou/meihin/kinsei/item02.html

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/turayuki.html

     もる山のほとりにてよめる
2-1 白露も時雨もいたくもる山は下葉のこらず色づきにけり(古今260)

【通釈】白露も時雨もひどく漏るという名の守(もる)山は、木立の下葉がすっかり色づいたのであった。
【語釈】◇時雨(しぐれ) ぱらぱらと降ってはやむ、晩秋から初冬にかけての通り雨。◇もる山 守山。近江国志賀郡。今の滋賀県守山(もりやま)市。東山道の宿場。但し『五代集歌枕』など遠江国の歌枕とする書もある。◇下葉 木立の下の方の葉。和歌では特に萩の下葉がいちはやく紅葉するものとして詠まれた(「白露は上より置くをいかなれば萩の下葉のまづもみづらむ」藤原伊衡、拾遺集)。
【補記】白露は初秋からの、時雨は晩秋からの風物。露や雨に濡れることで葉は色づくものとされたので、「もる山」の名に掛け、雨露が梢から「漏る」ゆえ上葉でなく下葉が紅葉したという洒落である。季節の風物と歌枕を巧みに織り交ぜ、しかも調べが優美なためであろう、中世にかけて極めて高い評価を得た一首。

紀貫之一.jpg

紀貫之/青蓮院宮尊純親王:狩野探幽/慶安元年(1648) 金刀比羅宮宝物館蔵
http://www.konpira.or.jp/museum/houmotsu/treasure_house_2015.html

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/turayuki.html

  志賀の山越えにて、石井(いしゐ)のもとにて物いひける人の別れける折によめる
むすぶ手のしづくににごる山の井のあかでも人に別れぬるかな(古今404)

【通釈】掬い取る手のひらから落ちた雫に濁る、山清水――その閼伽(あか)とする清水ではないが、飽かずに人と別れてしまったことよ。
【語釈】◇志賀の山越え 京都の北白川から比叡山・如意が岳の間を通り、志賀(大津市北部)へ抜ける道。主として、天智天皇創建になる崇福寺を参詣する人々が往来した。◇山の井 山中の湧き水。古来の歌枕書は山城国あるいは近江国の地名としている。
【補記】近江へと志賀の山越えをしていた時、水汲み場のもとで人と会話を交わし、その人と別れる折に詠んだという歌。第三句「山の井の」までは、清らかな山清水を閼伽(仏にお供えする水)とすることから、「あかで」を導く序。しかし詞書に「石井のもとにて」とあることから、眼前の景を詠み込んでいることにもなる。山道で出逢った人との、語り尽くすこともないまま別れる名残惜しさが、あたかも山清水の波紋のように心に広がる。
【鑑賞】「此の歌『むすぶ手の』とおけるより、『しづくににごる山の井の』といひて、『あかでも』などいへる、大方すべて、言葉、ことのつゞき、すがた、心、かぎりなく侍るなるべし。歌の本體はたゞ此の歌なるべし」(藤原俊成『古来風躰抄』)。

紀貫之二.jpg

『三十六歌仙』(紀貫之)本阿弥光悦書(国立国会図書館デジタルコレクション)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1288424

むすぶ手のしづくににごる山の井のあかでも人に別れぬるかな(古今404)

(追記)「光悦書宗達下絵和歌巻」周辺(「メモ」その一)

鹿和歌巻・藤原基俊.jpg

「鹿下絵新古今集和歌巻断簡」(画)俵屋宗達(書)本阿弥光悦 (MOA美術館蔵)

http://www.moaart.or.jp/?collections=047

作者 (画)俵屋宗達 (書)本阿弥光悦  時代 桃山~江戸時代(17世紀)
素材・技法 紙本金銀泥下絵・墨書 一幅  サイズ  34.1×75.5㎝
解説
 さまざまな姿態や動作を見せる鹿の群像を俵屋宗達が金銀泥で描いた料紙に、本阿弥光悦(1558~1638)が『新古今和歌集』の和歌二十八首を選んで書いた「鹿下絵和歌巻」の断簡である。もとは一巻の巻子本で、第二次大戦後二巻と数幅に分割された。鹿のみの単一な題材をフルに生かした表現法には宗達ならではの技量が感じられる。下絵に見事に調和した光悦の装飾的な書の趣致には、他の追随を許さない斬新さが窺える。現在、シアトル美術館に所蔵されている後半部の一巻の巻末に「徳友斎光悦」の款記と「伊年」の朱文円印が見られる。「徳友斎」の号は、光悦が鷹峯に移る以前に主として使用していたものと考えられている。

(周辺メモ・釈文など)

法性寺入道前関白太政大臣家の哥合尓 野風 → 藤原忠道家の歌合に 野風(題)
婦知ハら能基俊              → 藤原基俊
た可まど能々知濃し乃ハら須ゑ左ハ幾 → 高円の野路の篠原末騒ぎ
曾々や木枯けふ吹ぬ也        → そそや木枯らし今日吹きぬ也

https://open.mixi.jp/user/17423779/diary/1966017010

高円(たかまと)の野路のしのはら末さわぎそそやこがらしけふ吹きぬなり
 藤原基俊
 法性寺入道前関白太政大臣家の歌合に、野風
 新古今和歌集 巻第三 秋歌上 373

「高円の野をゆけば路傍の篠原は葉末が鳴り、あれ、木枯が今日吹きはじめたよ。」『新日本古典文学大系 11』p.120

保安二年(1121)九月十二日、関白内大臣忠通歌合、四句「そそや秋風」。
法性寺入道前関白太政大臣 藤原忠通 1097-1164。
高円の野 春日山の南に続く高円山の麓。
そそや 驚くさま。「物を聞き驚く詞なり」(顕昭・詞花集注)。そよそよと吹く風の擬声辞でもある。
こがらし 八雲御抄三[やくもみしょう 順徳天皇 1197-1242 による歌論書]「秋冬風、木枯なり」。
吹きぬなり 音を聞いての感動。
参考「荻の葉にそそや秋風吹きぬなりこぼれやしぬる露の白玉」(大江嘉言 詞花 秋)。
「秋風」の歌。

藤原基俊(ふじわらのもととし1060-1142)平安時代後期の公家・歌人。道長の曾孫。
金葉集初出。千載集では源俊頼・藤原俊成に次ぐ入集歌数第三位。新古今七首。勅撰入集百五首。 隠岐での後鳥羽院による『時代不同歌合』では恵慶法師と番えられている。
小倉百人一首 75 「契りおきしさせもが露を命にてあはれ今年の秋もいぬめり」
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鶴下絵三十六歌仙和歌巻(光悦書・宗達画)」周辺(その二十二) [光悦・宗達・素庵]

(その二十二)K図『鶴下絵和歌巻』(18平兼盛)

鶴下絵和歌巻・K図.jpg

(大中臣能宣・J図の続き)
  御垣守り衛士(ゑじ)のたく火の夜は燃え 昼は消えつつ物をこそ思へ(「俊」)
18 平兼盛 暮れて行く秋の形見に置くものは 我が元結の霜にぞありける(「撰」「俊」)
(釈文)暮て行秋濃形見尓を久も乃ハ我も登遊日濃しも尓曾有介類
紀貫之 白露の時雨もいたくもる山の 下葉残らず色づきにけり(「俊」)
https://www.kyohaku.go.jp/jp/syuzou/meihin/kinsei/item02.html

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/kanemori.html

  暮の秋、重之が消息(せうそこ)して侍りける返り事に
暮れてゆく秋の形見におくものは我が元結の霜にぞありける(拾遺214)

【通釈】暮れて去る秋が形見に残して行ったものは、私の元結についた霜――いや白髪であったよ。
【語釈】◇元結(もとゆひ) 髻(もとどり)を結い束ねる緒。◇霜 白髪を喩える。
【補記】拾遺集秋巻末。友人であった源重之の便りに答えた歌。この歌も『古来風躰抄』に引かれ「これこそあはれによめる歌に侍るめれ」と称されている。

平兼盛一.jpg

平兼盛/滋野井大納言季吉:狩野尚信/慶安元年(1648)
http://www.konpira.or.jp/museum/houmotsu/treasure_house_2015.html

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/kanemori.html

  斎院の御屏風に、十二月つごもりの夜
かぞふればわが身につもる年月を送り迎ふとなにいそぐらむ(拾遺261)

【通釈】数えれば、またひと月、また一年と、我が身に積もる年月なのに、それを送り迎えると言って、人は何をこう急いでいるのだろうか。
【補記】大晦日の夜を主題とした斎院の屏風に添えた歌。斎院は誰を指すか不詳。

平兼盛二.jpg

『三十六歌仙』(平兼盛)本阿弥光悦書(国立国会図書館デジタルコレクション)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1288424

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/kanemori.html

  天暦御時歌合
忍ぶれど色にいでにけりわが恋は物や思ふと人のとふまで(拾遺622)

【通釈】知られまいと秘め隠していたが、顔色に出てしまったのだなあ、私の恋心は。思い悩んでいるのかと、人から尋ねられるまでに。
【語釈】◇色にいでにけり 「色」は視覚的に認識可能なもの。ここでは顔色・表情などの意。◇物や思ふと 心配ごと・悩みごとでもあるのかと。「物」は漠然とした対象を指す。◇人のとふまで 「人」は人一般、世間の人、周囲の人。
【補記】天徳四年(960)三月三十日、村上天皇の内裏で開催された歌合、二十番右勝。左は壬生忠見の「恋すてふわが名はまだき立ちにけり人しれずこそ思ひそめしか」。判者藤原実頼は優劣を決めかねたが、天皇より判を下すよう命ぜられ、困惑して補佐役の源高明に判を譲った。しかし高明も答えようとせず、天皇のご様子を窺うと、ひそかに兼盛の「しのぶれど…」を口遊まれた。そこで右の勝と決したという。この負けを苦にした忠見が病に罹りそのまま亡くなったとの話は名高いが、後世流布された虚事らしい(『沙石集』など)。

(追記) 宗達の「養源院障壁画」関連周辺(メモ)

松図戸襖一.jpg

俵屋宗達筆「松図戸襖」十二面のうち四面(東側) 京都・養源院 重要文化財
(『日本の美術№31 宗達(千沢楨治著・至文堂)』)

 現存する宗達画で、最も大きな画面の大作は、松と岩を題材とした養源院の襖絵である。
本堂の南側の廊下に面する中央の間には、正面の仏壇側に八枚(この部分は失われて現在は伝わらない)、その左右、東西に相対して各四枚の襖絵(計八面)があり、さらに南側の入口の左右に二面ずつの戸襖(計四面)がある。
 上図は、その十二面のうちの四面(東側)で、その入口の二面(南側)は、下記の上段の、右の二面の図である。
 この六面に相対して、四面(西側)とそれに隣接しての二面(南側)の図が、下記の下段の図となる。

松図戸襖二.jpg

上段は、東側の四面とそれに隣接した入口の二面(南側)の、計六面の図
下段は、西側の四面とそれに隣接した入口の二面(南側)の、計六面の図
(『宗達(村重寧著・三彩社)』)

養源院襖配置図.jpg

養源院襖絵配置平面図(『日本の美術№31 宗達(千沢楨治著・至文堂)』)
上段の東側の四面と入口の二面(南側)の計六面→右から「1・2・3・4・5・6」
下段の西側の四面と入口の二面(南側)の計六面→右から「7・8・9・10・11・12」
☆現在消失の「正面の仏壇側の八面」(北側)は「6と7との間の襖八面(敷居の溝)」
下記の「白象図」→上記平面図の5・6
下記の「唐獅子図」(東側)→上記平面図の7・8
下記の「麒麟図又は水犀図」→上記平面図の3・4
下記の「唐獅子図」(西側)→上記の平面図1・2

白象図.jpg

伝宗達筆「白象図」 杉戸二面 板地着色 各182×125cm(上記平面図5・6)重要文化財

唐獅子一.jpg

伝宗達筆「唐獅子図」(東側) 杉戸二面 板地着色 各182×125cm(上記平面図7・8)
重要文化財

麒麟図.jpg

伝宗達筆「麒麟図」又は「水犀図」 杉戸二面 板地着色 各182×125cm(上記平面図3・4)
重要文化財

唐獅子二.jpg

伝宗達筆「唐獅子図」(西側) 杉戸二面 板地着色 各182×125cm(上記平面図1・2)
重要文化財

(周辺メモ)

一 養源院と浅井三姉妹(淀・お初・お江)

https://www.travel.co.jp/guide/article/6764/

(抜粋)

 養源院とは、淀殿が1594年、父・浅井長政の供養のため21回忌に建てたお寺です(養源院とは長政の院号)。淀殿と言えば、浅井三姉妹の長女。浅井三姉妹とは、浅井長政と、戦国一の美女と謳われた織田信長の妹・お市の間に生まれた子供たちのこと。また淀殿は、秀吉の側室としても有名です。

 お江は秀吉の政略結婚に利用され、徳川家へと嫁ぎました。その後1615年、大阪の陣で淀殿(豊臣方)VSお江(徳川方)と敵対同士になった両姉妹。ここで淀殿は戦に負け、豊臣秀頼と共に自害したのです。淀殿享年47歳

 姉の淀を失ったお江は翌年の1616年、養源院にて戦没者の供養を営みました。養源院はその後1619年に落雷による火事で焼失し、1621年にお江が再興。その際、伏見城の遺構の一部を移築してきたことが、養源院の目玉ともなり次の項に出てくる「血天井」なのです。

 お江はいくつかの変遷をへて、豊臣秀頼に嫁ぐ千姫をはじめ二男五女をもうけます。その中、五女として生まれた和子が、次期天皇を生むことになり、お江は大きな影響力を持つことに。その後1626年、江戸城西の丸にて死去。お江享年54歳でした。

 浅井三姉妹の中では最長命となるお初は、夫の京極高次を亡くして以降出家。その後姉と妹が敵同士となった際、両家の和解に奔走します。常高院と名乗り、晩年は京極家の江戸屋敷で静かに息を引き取りました。享年64歳。

二 養源院の再興とその血天井

https://www.travel.co.jp/guide/article/6764/

(抜粋)

 養源院は一度消失し、お江が再興させます。その際、落城した伏見城を建材に使用しました。伏見城「中の御殿」から移築されたものが、養源院の本堂。そこで、上を見上げてください!黒々とした不気味な模様が、見て取れるはず。これがかの有名な養源院の「血天井」です。実は、伏見城落城の際、自刃した武将たちの血のりと脂の浸みた板。これが天井に使用されたのでした。

 1600年、石田三成と激しく争っていた徳川家康は、会津の上杉討伐に向かうため、伏見城を鳥居元忠に守らせました。留守の伏見城を守らせるというのは、石田三成をおびき寄せる作戦でもあったのです。大阪にいる三成が、家康の伏見城留守を聞けば、まず襲ってくるに違いありません。最小のリスクで三成側の足を止め、なおかつ 敵兵を少しでも減らしたい。この捨て駒役として、元忠は抜擢されたのです。

 「上杉家は強敵なれば、一兵でも多く召し具してゆきなされ。伏見城はわれひとりで事足りまする」と言って、元忠はたった1800名の兵で伏見城を死守。総勢約4万の兵が城を取り囲み、元忠も8月1日遂に力尽きます。380名以上が討死に、または自刃。しかも遺骸は関ヶ原の戦いが終わる約2ヶ月もの間、伏見城に放置されていました。そのおびただしい血痕や脂によって顔や鎧の跡が染み付き、いくら拭いても落ちなかったといいます。足で踏むなど忍びないと思ったのでしょう。家康は彼らの魂を成仏させるために、あえて養源院の天井にこの板を使用しました。

三 養源院の「菊の御紋・三つ葉葵・桐」

https://www.travel.co.jp/guide/article/6764/

(抜粋)

 養源院は浅井家一族の供養として始まり、建てたのが秀吉の側室淀殿。その意志を継ぎ、徳川家に嫁いだお江が、豊臣家の供養も行ないます。徳川家に嫁いだお江は後に、後水尾天皇の中宮として入内することになる和子(まさこ)を生みましたから、天皇家ともかかわりを持つことになるのです。

 養源院の本堂に目を移してみましょう。そこには秀忠とお江の位牌が安置されています。さらに兄の将軍・家光の位牌も安置。こうして和子は、本堂を将軍家の位牌所として定めました。今も、徳川3代~14代将軍までの位牌が安置されています。そして秀忠とお江の位牌をよく見てみると、「菊」「桐」「葵」の3つの紋が刻まれています。菊は天皇家の御紋、桐は豊臣家の御紋、葵は徳川家の御紋。相容れない3家の御紋が刻まれた位牌を見られるのは、ここ養源院だけなのです。

 和子の入内後、紫衣事件が勃発。これにより夫である後水尾天皇(天皇家)と兄である家光(幕府側)の間に摩擦が生じてしまいます。母・お江のように、また自分も時代に翻弄されることとなるのです。3つの御紋を位牌に刻んだのは、敵となり味方となりながらも、養源院を支えてきた人たちへの、畏敬の念があったから。さらに身分や家柄に関係なく手を取り合える時代の到来。和子の中にこれを、心から望む気持ちがあったのではないでしょうか?

四 「烏丸光広筆二条城行幸和歌懐紙」

光広和歌懐紙.jpg
 
烏丸光広筆二条城行幸和歌懐紙

http://ccf.or.jp/jp/04collection/item_view.cfm?P_no=1814

(釈文) 

詠竹契遐年和歌
      左大臣源秀忠
呉竹のよろづ代までとちぎるかな
 あふぐにあかぬ君がみゆきを
        右大臣源家光
御幸するわが大きみは千代ふべき
 ちひろの竹をためしとぞおもふ
      御製
もろこしの鳥もすむべき呉竹の
 すぐなる代こそかぎり知られね

(解説文)

 後水尾天皇〈ごみずのおてんのう・1596-1680〉の二条城行幸は、寛永3年〈1626〉9月6日より5日間、執り行なわれた。その華麗な行粧と、舞楽・和歌・管弦・能楽などの盛大な催しの様子は、『寛永行幸記』『徳川実紀』などに詳述されている。この懐紙は、二条城行幸の時の徳川秀忠〈とくがわひでただ・1579-1632〉・家光〈いえみつ・1604-51〉・後水尾天皇の詠歌を、烏丸光広〈からすまるみつひろ・1579-1638〉が書き留めたもの。光広はこのとき48歳、和歌会の講師を務めた。   「「竹、遐年を契る」ということを詠める和歌/左大臣源秀忠/呉竹のよろづ代までとちぎるかなあふぐにあかぬ君がみゆきを/右大臣源家光/御幸するわが大きみは千代ふべき ちひろの竹をためしとぞおもふ/御製/もろこしの鳥もすむべき呉竹のすぐなる代こそかぎり知られね」

(再掲) 烏丸光広の歌と書(周辺メモ)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-04-02

天(あめ)が下常盤の陰になびかせて君が千代(ちよ)ませ宿のくれ竹(黄葉集一四八〇)

歌意は、「天下を常緑の木陰に従わせて、君のお治めになる千年の間生えていてください。この宿のくれ竹よ。」

【 寛永三年(一六二六)秋、前将軍徳川秀忠と三代将軍家光父子が江戸から上洛し二条城に滞在した。九月六日から十日の間二条城に、後水尾天皇と中宮和子(徳川秀忠の娘)、中和門院(天皇の母)、女一宮(天皇と和子の間の長女。後の明正天皇)を迎えて寛永行幸があり、さまざまなもてなしが行われた。
 七日には舞楽が、八日には歌会が、十日には猿楽(能)が天皇への接待として行われた。八日の歌会は、徳川御三家を含めた将軍家一門と、関白・太閤以下宮廷の重臣が合せて二十名、歌会の部屋の畳の上に列席し、部屋の外にも公家が詰めて行われた。この歌会に歌を出した者は総勢で七十八名にもなる。歌はすでに作られた懐紙に書かれて用意されていて、歌会では、それを披講といって皆の前で歌い上げる儀式を行うのである。読み上げ順序に懐紙をそろえる読師の役は内大臣二条康道がつとめ、講師といって始めに歌を読み上げる役は冷泉中将為頼が行った。最後に天皇の歌を披講するとき、役を交替して、読師を関白左大臣近衛信尋が、講師を大納言烏丸光広がつとめた。大変に晴れがましいことであった。
 題は「竹遐年ヲ契ル」。常緑の竹が長寿を約束するという意味で、祝の題として鎌倉時代からよまれてきた。光広の「歌」の「君」は表面上は天皇を指すが、将軍の意味も含むように感じられる。双方をうまくもり立ててよみこんだ巧妙な歌であろう。
 光広は徳川家とは縁が深く、慶長十三年には徳川家康と側室お万の方の仲人により、家康次男の未亡人を妻とし、翌年後陽成天皇の勅勘を受けた時には、駿府の家康のもとにすがって流刑を免れている。 】(『松永貞徳と烏山光広・高梨素子著』)

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鶴下絵三十六歌仙和歌巻(光悦書・宗達画)」周辺(その二十一) [光悦・宗達・素庵]

(その二十一)K図『鶴下絵和歌巻』(17大中臣能宣)

鶴下絵和歌巻J図.jpg

J図(15坂上是則・16三条院女蔵人(小大君)・17大中臣能宣)
K図(17大中臣能宣・18平兼盛・19紀貫之)

鶴下絵和歌巻・K図.jpg

17(大中臣能宣・J図の続き)
  御垣守り衛士(ゑじ)のたく火の夜は燃え 昼は消えつつ物をこそ思へ(「俊」)
(釈文)見可きも里衛士濃焼火濃よる盤もえ晝ハきえ徒々物をこ曾於もへ
平兼盛 暮れて行く秋の形見に置くものは 我が元結の霜にぞありける(「撰」「俊」)
紀貫之 白露の時雨もいたくもる山の 下葉残らず色づきにけり(「俊」)

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/yosinobu.html

  題しらず
みかきもり衛士のたく火の夜はもえ昼はきえつつ物をこそ思へ(詞花225)

【通釈】皇居の門を護る衛士(えじ)の焚く篝火、その炎が夜は燃え盛り、昼は消え尽きているように、私もまた、夜は恋心を燃やし、昼は消え入るばかりに過ごしているのだ。
【語釈】◇みかきもり 御垣守。宮廷の諸門を警固する者。「みかきもる」とする本もある。◇衛士(ゑじ)のたく火 衛門府の兵士が焚く篝火。「衛士」は諸国の軍団から毎年交替で上京し、宮城の諸門などを守った兵士。◇夜はもえ昼はきえつつ 恋情を焚火の炎に喩える。「きえつつ」は消え入りそうな思いで過ごすこと。

大中臣能宣.jpg

大中臣能宣朝臣/滋野井大納言季吉:狩野尚信/慶安元年(1648) 金刀比羅宮宝物館蔵
http://www.konpira.or.jp/museum/houmotsu/treasure_house_2015.html

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/yosinobu.html

  入道式部卿のみこの子日(ねのひ)し侍りける所に
千とせまでかぎれる松もけふよりは君にひかれて万代(よろづよ)やへむ(拾遺24)

【通釈】千年までと寿命が限られる松も、今日からは、あなたに引かれて万年の命を保つでしょう。
【補記】「入道式部卿のみこ」は宇多天皇皇子敦実親王。正月初子(はつね)の日、小松を引いて遊ぶ行事にお供した際、その場で詠んだ作。これも長寿を予祝する賀意を籠めた歌である。「君にひかれて」は「君にあやかって」の意を兼ねるめでたい掛け詞。爽やかな調べが賀歌としての格調を与え、追従の卑屈さなど全く無縁である。公任の『三十六人撰』を始め多くの秀歌撰に選ばれて、中世まで秀歌の名を恣(ほしいまま)にした。

滋野井季吉(しげのいすえよし)
江戸初期の公卿。滋野井公古の養子。五辻之中の子。初名は冬隆、一字名は土。中絶した滋野井家を相続、再興をはたす。権大納言正二位。連歌を能くした。明暦元年(1655)歿、70才。

大中臣能宣二.jpg

『三十六歌仙』(大中臣能宣)本阿弥光悦書(国立国会図書館デジタルコレクション)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1288424

みかきもり衛士のたく火の夜はもえ昼はきえつつ物をこそ思へ(詞花225)

(追記)「風神雷神図屏風」(俵屋宗達筆)の「雷神図」周辺メモ

風神雷神図一.jpg

俵屋宗達筆「風神雷神図屏風」紙本金地著色 各 154.5×169.8 cm
江戸時代(17世紀) 京都 建仁寺 国宝
https://www.kyohaku.go.jp/jp/syuzou/meihin/kinsei/item10.html
【 款記も印章もそなわらないこの屏風が、俵屋宗達(生没年不詳)であることを疑う人はいない。尾形光琳も、さらにそのあとの酒井抱一も、これを模倣した作品を制作しているのは、彼らもまた、この屏風が宗達筆であることを微塵も疑っていなかったからである。
ここに貼りつめられた金箔は、描かれる物象の形を際立たせ、金自体が本然的にもっている装飾的効果として働いている。そればかりではなく、この屏風においては、金箔の部分は無限の奥行をもつある濃密な空間に変質しているのである。つまり、この金箔は、単なる装飾であることを越えて、無限空間のただなかに現れた鬼神を描くという表現意識を裏打ちするものとして、明確な存在理由をもっている。傑作と呼ばれるゆえんがここにある。 】

雷神図一.jpg

俵屋宗達筆「「風神雷神図屏風」左隻「雷神図」 → メモ(雷神→白鬼)

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「伊勢物語色紙」(伝俵屋宗達画)第六段(雷神)→ メモ(雷神→赤鬼)

雷神図二.jpg

「雷神図」(「扇面張交屏風」の内の扇面図)伊年印(宗達派作品) 八曲一双 紙本着色
 一一一・五×三七六・〇㎝  宮内庁蔵  メモ(雷神→白鬼)
【 八曲一双の金地屏風の各扇に三面ずつ、計四十八面の扇面をさまざまな形に散らして貼付する。各屏風の端に「伊年」の円印が捺されるが、扇面を現在の形に貼り交ぜた際の後捺と思われる。扇絵の画題は保元物語二十面、平治物語十六面、伊勢物語四面、西行物語一面、それに草木五面で、古典的な物語絵が大半を占める。四十八面中、屏風に貼り交ぜた際に新たに加えたもの一枚(左隻右から第三扇の中央の扇面)と、他と作風が異り時期の下る草花図四面などが混入するが、大方は宗達一派の扇面画の特徴をよく備えている。それらは扇面特有の湾曲した画面に巧みにモチーフを配し、動きのある構図を構成している。扇面中、「伊年」円印と「太藤」と読める小円印と捺すもの各数面確認され、宗達工房の実態を考える上で重要である。 】(『琳派五 総合(紫紅社)』所収「13扇面貼付屏風(村重寧稿)」)

(周辺メモ)

 この「雷神図」(「扇面張交屏風」の内の扇面図)は、楼門が添えられており、下記の「北野天神縁起絵巻(弘安本)」の「雷神図」(菅原道真の怨霊によって清涼殿に落ちた雷神図)に示唆を受けたものとされている(『日本の美術№31 宗達(千沢梯治著)』)。

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「北野天神縁起絵巻(弘安本)」 1巻 縦30.6 全長155.1 鎌倉時代
13世紀 重文 A22 東京国立博物館蔵  メモ(雷神→赤鬼)
https://www.tnm.jp/modules/r_collection/index.php?controller=dtl&colid=A227
【讒言によって配所で死んだ菅原道真(845-903年)の霊を天神として祀る北野天満宮の草創の由来と,その霊験譚を集めた「北野天神縁起絵巻」は,社寺縁起絵巻の中でも,最も流布したもので,遺品も多い。この作品は,「弘安本」と呼ばれる一本で,北野天満宮所蔵の3巻から流出した絵が,現在当館及び大東急記念文庫,米国・シアトル美術館などに分蔵される。北野天満宮蔵の下巻の詞書の末尾に「弘安元年」とあり,画風からもその頃の制作と思われる。】

 『宗達絵画の解釈学(林進著・敬文舎)』のサブタイトルは「『風神雷神図屏風』の雷神はなぜ白いのか」というもので、これは、その序章の「『風神雷神図屏風』の造形的表現」と第七章の「『風神雷神図屏風』の深意」の中で詳細に論じられている。
 そこで、その謎解きの「手がかり」(コンテクスト=文脈・脈絡・背景など)と下記の五項目を例示している。

① 雷神と風神の特異な形姿 → 典拠、弘安本系『北野天神縁起絵巻』
② 雷神を向かって左、風神を向かって右に配置する構成 → 根拠「清水寺本堂内々陣、本尊千手観音二十八部衆に付随する雷神と風神の配置」
③ 雷神が額に鉢巻を巻くこと。雷神が黒雲に乗ること → 典拠、謡曲『雷電』
④ 儀軌では雷神の肌は赤色だが、本図の雷神の肌は「白色」であること → 根拠「白い肌になる癩は、当時、白癩と呼ばれた」
⑤ 屏風中央二扇の「金地空間」の意味 → 根拠「菅原道真に対する崇敬の念」および「清水寺千手観音に対する信仰」

そして、結論的に、「『風神雷神図屏風』は、寛永九年(一六三二)六月二二日に、白色
の肌(白癩)で亡くなった友人素庵を菅丞相の分身『雷神』(弘安本系『北野天神縁起絵巻』の雷神のイメージを借用する)に見立て、扇を扱って世に知られた宗達自身を「風神」に擬して、素庵の魂を鎮めるため、また、自分自身のために二人の永かった友誼の供養とした作品である」としている。

 ここでは、これらの是非については触れない。しかし、『日本の美術№31 宗達(千沢楨治著・至文堂)』の「宗達芸術の特色と基盤」の次のことなどを付記して置きたい。

一 宗達画とその作風のものはほとんどすべてにわたって祖形を古画に求めている。宗達は画面の構想にあたって、あたかも舞台演出家が舞台上での配役や演技・小道具を手持の駒の中から決めるように画面の中に持駒を自由且つ適切に配置している。
二 技法上から追及してゆくと、構図のとり方のほかに、賦彩上でも即興的な傾向が顕著である。扇面画を描くときなど源氏の大将の白旗を赤く塗り代えることなどは平気である。また、大和絵の描写の伝統でもあるが、殺伐な生々しいリアルな描写は全く縁のないことである。いわば香り高い武者絵である。動きをとどまらせないようにすることでは、地平線の不安定な扇面画はもってこいの画面形式であった。
三 没骨・たらし込みの技法も、絵模様的な型への偏重から逃れて変化を求めるために必然的に生まれたものといえる。又それは工房的な量産表現に適しやすい技法である。
四 宗達はとくに金と銀の用法に長じていた。藤原時代末の平家納経の補修に宗達が参与したことを説く論もここにある。扇屋工房の性格を広く解釈すればなおのことこのような傾向のものの補修や修理に工房の職人があたったことは当然であろう。宗達も参加した一人と考えることも不思議はない。
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鶴下絵三十六歌仙和歌巻(光悦書・宗達画)」周辺(その二十) [光悦・宗達・素庵]

その二十)J図『鶴下絵和歌巻』(16小大君)

鶴下絵和歌巻J図.jpg

坂上是則 み吉野の山の白雪積もるらし 古里寒くなり増さるなり(「撰」「俊」)
16 三条院女蔵人(小大君)
     岩橋の夜の契りも絶えぬべし 明くる侘びしき葛城の神(「撰」「俊」)
(釈文)以者々し能よる濃ち支利も多えぬべし安久類王日し幾葛城濃神
https://www.kyohaku.go.jp/jp/syuzou/meihin/kinsei/item02.html

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/kodai.html

大納言朝光、下らうに侍りける時、女のもとにしのびてまかりて、暁にかへらじといひければ
16 岩橋の夜の契りもたえぬべし明くるわびしき葛城の神(拾遺1201)

【通釈】久米路の石橋の工事が中途で終わったように、あなたとの仲も途絶えてしまいそうです。夜が明けるのがつらいことです、葛城の一言主の神のように見目を恥じる私は。
【語釈】◇朝光 藤原兼通の四男。正二位大納言。◇岩橋(いはばし) 大和国葛城の久米路の石橋。役行者が橋を架けようとしたが、一言主の神は容貌を恥じて夜しか働かず、行者の怒りを買って谷底へ落とされ、工事は中断されたという。この説話ゆえ「絶え」の縁語となる。◇明くるわびしき 夜が明けるのが心苦しい。これも一言主の説話に基づく。朝日に曝された顔を見て欲しくないという女心。

小大君一.jpg

小大君/妙法院宮堯然親王:狩野尚信/慶安元年(1648) 金刀比羅宮宝物館蔵
http://www.konpira.or.jp/museum/houmotsu/treasure_house_2015.html

岩橋の夜の契りもたえぬべし明くるわびしき葛城の神(拾遺1201)

小大君二.jpg

『三十六歌仙』(小大君)本阿弥光悦書(国立国会図書館デジタルコレクション)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1288424

大井川杣山風の寒ければ立つ岩波を雪かとぞ見る(『俊成三十六人歌合』)

『王朝秀歌選(樋口芳麻呂校注・岩波文庫)』の校注では、「平兼盛の大井の家で詠める歌。大井川=京都市西京区嵐山付近の桂川の別名、杣山風の寒ければ=材木を切り出す山を吹く風が寒いので、立つ岩波=岩にぶつかって立つ波のしぶき」とある。

(別記)「伊勢物語図色紙(伝俵屋宗達画)」周辺メモ

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「伊勢物語色紙」(伝俵屋宗達画)第六段(芥川)
「女のえうましかりけるを/としをへてよはひ/わたりけるを/
からうして/ぬすみいてて/いと/くらきに/来けり」→下記(第六段)の※

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「伊勢物語色紙」(伝俵屋宗達画)第六段(雷神)
「神さへいといみじう鳴り」→下記(第六段)の※※

【むかし、をとこありけり。※女のえうまじかりけるを、年を経てよばひわたりけるを、からうじて盗み出でゝ、いと暗きに来けり。芥川といふ河をゐていきければ、草の上にをきたりける露を、かれはなにぞとなむをとこに問ひける。ゆくさき多く、夜もふけにければ、鬼ある所とも知らで、※※神さへいといみじう鳴り、雨もいたう降りければ、あばらなる蔵に、女をば奥におし入れて、をとこ、弓やなぐひを負ひて、戸口にをり。はや夜も明けなむと思ツゝゐたりけるに、鬼はや一口に食ひけり。あなやといひけれど、神なるさはぎにえ聞かざりけり。やうやう夜も明けゆくに、見ればゐてこし女もなし。足ずりをして泣けどもかひなし。
  白玉かなにぞと人の問ひし時つゆとこたへて消えなましものを
これは、二条の后のいとこの女御の御もとに、仕うまつるやうにてゐたまへりけるを、かたちのいとめでたくおはしければ、盗みて負ひていでたりけるを、御兄人堀河の大臣、太郎國経の大納言、まだ下らふにて内へまゐり給ふに、いみじう泣く人あるをきゝつけて、とゞめてとりかへし給うてけり。それをかく鬼とはいふなり。まだいと若うて、后のたゞにおはしましける時とや。 】(『伊勢物語・大津有一校注・岩波文庫』第六段)

(周辺メモ)

 『伊勢物語』(第六段)は「芥川」と題される段で、「伊勢物語図色紙(伝俵屋宗達画)」の三十六図(益田家本)の中では、この第六段中の「芥川」の図は夙に知られている。
 これを第六段の全文に照らすと(上記の※)、「をとこ(若い男=業平)と女(愛する尊い女性=後の二条の后)」とが「駆け落ち」する場面で、これは、宗達自身の肉筆画というよりも、宗達工房(宗達が主宰する工房)の一般受けする、いわゆる「宗達工房ブランド」の絵図と解したい。
 そして、次の「雷神」図なのであるが、この「雷神」図は、宗達画の代表的な作品の「風神雷神図屏風」(建仁寺蔵・国宝)の、その「雷神」図の原型のようで、これこそ、「伊勢物語図色紙」の三十六図(益田家本)中の、宗達自身の肉筆画のように解したい。
 それにしても、この「雷神」図の詞書の「か見(神)さへ/いと/伊(い)ミし(じ)う/奈(な)り」は、どうにも謎めいているような感じで、『伊勢物語』の原文と照らすと、「神→雷神→鬼→(駆け落ちした女の「兄」)」という図式となり、その結末は、「鬼はや一口に食ひけり」、即ち、「女を連れ戻したり」ということで、何とも、他愛いない、これこそ、滑稽(俳諧)の極みという感じでなくもない。
 しかし、『宗達絵画の解釈学(林進著・敬文社)』の口絵(『伊勢物語図色紙』第六段「雷神図」)の紹介は次のとおりで、何と角倉素庵の追善画というものである。

【 宗達は、癩(ハンセン病)で亡くなった角倉素庵を追善するために『伊勢物語図色紙』三六図を描き、素庵の知友、親王・門跡・公家・大名・連歌師らも、詞書をその上に書き入れ、表立ってはおこなえぬ法要に替えて供養した。素庵も雷神となって色紙のなかに登場し、生前の知己たちの間をとび回り、出来映えをたのしんでいるようだ。 】(『宗達絵画の解釈学(林進著・敬文社)』)

 その「友人素庵を追善する『伊勢物語図色紙』」(第六章)では、その制作年代を寛永十一年(一六三四)十一月二十八日、二十二歳の若さで亡くなった、後陽成天皇の第十二皇子の「道周法親王」(「益田家本」第八八段の詞書染筆者、同染筆者の「近衛信尋・高松宮好仁親王・聖衛院道晃法親王の弟宮)の染筆以前の頃としている。
 ちなみに、その「益田家本『伊勢物語図色紙』詞書揮毫者一覧」の主だった段とその揮毫者などは次のとおりである。

第六段   芥川    里村昌程(二二歳)    連歌師・里村昌琢庄の継嗣(子)
同上    雷神    同上
第九段   宇津の山  曼殊院良尚法親王(一二歳) 親王(後水尾天皇の猶子)
同上    富士の山  烏丸資慶(一二歳)     公家・大納言光広の継嗣(孫)
同上    隅田川   板倉重郷(一八歳)     京都所司代重宗の継嗣(子)
第三九段  女車の蛍  高松宮好仁親王(三一歳) 親王(後陽成天皇の第七皇子)
第四九段  若草の妹  近衛信尋(三五歳)  親王(後陽成天皇の第四皇子)        
第五六段  臥して思ひ 聖衛院道晃法親王(二二歳)親王後陽成天皇の第一一皇子?) 
第五八段  田刈らむ  烏丸光広(五五歳)    公家(大納言)

 これらの「詞書揮毫者一覧」を見ていくと、『伊勢物語図色紙』」は角倉素庵追善というよりも、第九段(東下り)の詞書揮毫者の「曼殊院良尚法親王(一二歳)・烏丸資慶(一二歳)」などの「初冠(ういこうぶり)」(元服=十一歳から十七歳の間におこなわれる成人儀礼)関連のお祝いものという見方も成り立つであろう。
 ちなみに、烏丸光広(五五歳)の後継子(光広嫡子・光賢の長子)、烏丸資慶(一二歳)は、寛永八年(一六三一)、十歳の時に、後水尾上皇の御所で催された若年のための稽古歌会に出席を許され、その時の探題(「連夜照射」)の歌、「つらしとも知らでや鹿の照射さす端山によらぬ一夜だになき」が記録に遺されている(『松永貞徳と烏丸光広(高梨素子著)』)。
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鶴下絵三十六歌仙和歌巻(光悦書・宗達画)」周辺(その十九) [光悦・宗達・素庵]

(その十九)J図『鶴下絵和歌巻』(15坂上是則)

鶴下絵和歌巻J図.jpg

15坂上是則 み吉野の山の白雪積もるらし 古里寒くなり増さるなり(「撰」「俊」)
(釈文)三芳野濃山乃しら雪徒もるらし舊里寒久成ま左流也
三条院女蔵人(小大君)
     岩橋の夜の契りも絶えぬべし 明くる侘びしき葛城の神(「撰」「俊」)
https://www.kyohaku.go.jp/jp/syuzou/meihin/kinsei/item02.html

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/korenori.html

    奈良の京にまかれりける時に、やどれりける所にてよめる
15 み吉野の山の白雪つもるらし古里さむくなりまさるなり(古今325)

【通釈】吉野の山では雪が積もっているに違いない。奈良の古京ではますます寒さが厳しくなってゆくのを感じる。
【語釈】◇み吉野 奈良県の吉野地方。山深く、雪深い土地として歌に詠まれた。◇つもるらし 積もっているらしい。助動詞「らし」は客観的な事実を受け入れての推定判断をあらわす。掲出歌の場合、「古里さむくなりまさる」という事実を承けて、吉野山のありさまを推し量っている。◇ふるさと (1)荒れた里、(2)古い由緒のある里、(3)昔なじみの土地、など様々なニュアンスで用いられる語。ここは詞書にある「奈良の京」を指し、まず(2)の意であると共に、作者是則にとっては坂上氏の本拠地として(3)の意味ももったであろう。◇さむくなりまさるなり 「なり」はいわゆる伝聞推定の助動詞。視覚以外の感覚による判断をあらわし、掲出歌では皮膚感覚によって「さむくなりまさる」と判断していることをあらわす。

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坂上是則/竹屋参議光長:狩野尚信/慶安元年(1648)  金刀比羅宮宝物館蔵
http://www.konpira.or.jp/museum/houmotsu/treasure_house_2015.html

み吉野の山の白雪つもるらし古里さむくなりまさるなり(古今325)

(周辺メモ)

竹屋家(たけやけ)は、藤原北家日野氏流広橋氏流の公家である。家格は名家。室町時代の権大納言広橋仲光の子・右衛門督兼俊を祖とする。兼俊の後、冬俊(初名冬光)、治光、光継と続くが光継が出家後、中絶する。江戸時代になり、権大納言広橋総光の次男・権中納言光長によって中興された。(『ウィキペディア(Wikipedia)』)

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『三十六歌仙』(坂上是則)本阿弥光悦書(国立国会図書館デジタルコレクション)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1288424

み吉野の山の白雪つもるらし古里さむくなりまさるなり(古今325)

(追記)烏丸光広の歌と書(周辺メモ)

天(あめ)が下常盤の陰になびかせて君が千代(ちよ)ませ宿のくれ竹(黄葉集一四八〇)

歌意は、「天下を常緑の木陰に従わせて、君のお治めになる千年の間生えていてください。この宿のくれ竹よ。」

【 寛永三年(一六二六)秋、前将軍徳川秀忠と三代将軍家光父子が江戸から上洛し二条城に滞在した。九月六日から十日の間二条城に、後水尾天皇と中宮和子(徳川秀忠の娘)、中和門院(天皇の母)、女一宮(天皇と和子の間の長女。後の明正天皇)を迎えて寛永行幸があり、さまざまなもてなしが行われた。
 七日には舞楽が、八日には歌会が、十日には猿楽(能)が天皇への接待として行われた。八日の歌会は、徳川御三家を含めた将軍家一門と、関白・太閤以下宮廷の重臣が合せて二十名、歌会の部屋の畳の上に列席し、部屋の外にも公家が詰めて行われた。この歌会に歌を出した者は総勢で七十八名にもなる。歌はすでに作られた懐紙に書かれて用意されていて、歌会では、それを披講といって皆の前で歌い上げる儀式を行うのである。読み上げ順序に懐紙をそろえる読師の役は内大臣二条康道がつとめ、講師といって始めに歌を読み上げる役は冷泉中将為頼が行った。最後に天皇の歌を披講するとき、役を交替して、読師を関白左大臣近衛信尋が、講師を大納言烏丸光広がつとめた。大変に晴れがましいことであった。
 題は「竹遐年ヲ契ル」。常緑の竹が長寿を約束するという意味で、祝の題として鎌倉時代からよまれてきた。光広の「歌」の「君」は表面上は天皇を指すが、将軍の意味も含むように感じられる。双方をうまくもり立ててよみこんだ巧妙な歌であろう。
 光広は徳川家とは縁が深く、慶長十三年には徳川家康と側室お万の方の仲人により、家康次男の未亡人を妻とし、翌年後陽成天皇の勅勘を受けた時には、駿府の家康のもとにすがって流刑を免れている。 】(『松永貞徳と烏山光広・高梨素子著』)

光広・むさしのの月.jpg

詠草「むさしのゝ月」 烏丸光広筆 江戸時代・17世紀 (東京国立博物館蔵)
和歌懐紙 紙本 三五・五×四七・五cm
https://www.tnm.jp/modules/r_exhibition/index.php?controller=item&id=5899
【 光広は、いわゆる寛延の三筆に比肩して、江戸初期を代表する能書のひとりであった。その書の特色は、運筆が比較的速いこと、側筆を好んで用いること、線は浅いが軽妙洒脱な味わいを持つこと、一字一字の形を整えることよりは全体の流れの美に重点が置かれていること、などであろう。
 そして、その書風は本阿弥光悦の影響が濃厚にうかがわれる。光広は、その和歌の弟子であった古筆了佐(1582-1662)とともに、上代様の研究、鑑定に深く、現存古筆切中の烏丸切はその遺愛品であり、また、古筆切の箱書なども遺しているほどである。したがって、その書は、単なる光悦の模倣に終るのではなくて、上代様の基礎の上に立つ独自の面目を示すものである。この詠草などもかれの書の特色を十分に発揮している。
  むさしのゝ月
       光広
  さぞなみむ
   山のはしらぬ
    むさし野に
  秋はも中の
     有明の月   】
(『書道全集第二三巻 日本・江戸一(平凡社)』所収「図版解説・釈文26」)

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