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洛中洛外図・舟木本(岩佐又兵衛作)」周辺探索(その十四) [岩佐又兵衛]

(その十四)「祇園林狂騒宴」は何を語っているのか?

祇園社.jpg

「祇園林の乱痴気騒ぎ・へべれけ野郎」(右隻第三扇上部) → A-2図

 前回(その十三)に続いて、この(A-2図)の祇園社の鳥居の扁額(竪額)は、下記のアドレスの「図絵」の「解説」には、「祇園社は下河原を南面とし、鳥居は石柱にして、感神院といふ竪額あり、照高院道晃親王筆なり」とある。

https://www.nichibun.ac.jp/meisyozue/kyoto/page7/km_01_186.html

 ここに出てくる「照高院道晃親王」は、この「洛中洛外図屏風・舟木本」が制作された頃の「方広寺鐘銘事件」(「大阪夏の陣」の勃発の契機となった事件)当事者の一人とされる「第二代照高院宮」(興意法親王、後陽成天皇の実弟)ではなく、「第四代照高院宮」(道晃法親王、後陽成天皇の皇子)で、やや時代は後ということになる。そして、その鳥居は、このA-2図の「木柱」ではなく、「石柱」に改められた後のものと解したい。
 それに関連して、歴代の「後陽成天皇の皇子と歴代の照高院宮」について、下記のアドレスのものを再掲して置きたい。

【 https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-01-19

第一皇子:覚深入道親王(良仁親王、1588-1648) - 仁和寺
第二皇子:承快法親王(1591-1609) - 仁和寺
第三皇子:政仁親王(後水尾天皇、1596-1680)
第四皇子:近衛信尋(1599-1649) - 近衛信尹養子
第五皇子:尊性法親王(毎敦親王、1602-1651)
第六皇子:尭然法親王(常嘉親王、1602-1661) - 妙法院、天台座主
第七皇子:高松宮好仁親王(1603-1638) - 初代高松宮
第八皇子:良純法親王(直輔親王、1603-1669) - 知恩院
第九皇子:一条昭良(1605-1672) - 一条内基養子
第十皇子:尊覚法親王(庶愛親王、1608-1661) - 一乗院
※第十一皇子:道晃法親王(1612-1679) - 聖護院、照高院
第十二皇子:道周法親王(1613-1634) - 照高院
第十三皇子:慈胤法親王(幸勝親王、1617-1699) - 天台座主
(『ウィキペディア(Wikipedia)』)        

http://shinden.boo.jp/wiki/%E7%85%A7%E9%AB%98%E9%99%A2%E5%AE%AE%E5%AE%B6%E3%81%AE%E7%A5%AD%E7%A5%80

照高院宮(歴代)

1道澄(1544-1608):近衛稙家の子。聖護院門跡。園城寺長吏。熊野三山検校。方広寺住職。
※※2興意法親王(道勝法親王)(1576-1620):誠仁親王(陽光院)の第5王子。聖護院門跡。園城寺長吏。江戸で客死。興意親王墓(東京都港区)。聖護院宮地蔵谷墓地に塔。
3道周法親王(1613-1634):後陽成天皇の皇子。聖護院宮地蔵谷墓地。
※4道晃法親王(1612-1679):後陽成天皇の皇子。聖護院門跡。園城寺長吏。熊野三山検校。聖護院宮地蔵谷墓地。
5道尊法親王(1675-1705):後西天皇皇子。園城寺長吏。聖護院門跡? 熊野三山検校。新熊野検校。聖護院宮地蔵谷墓地。忠誉法親王?     】

両脇を支えられた酔っ払い.jpg

「五条大橋で踊る貴女(老後家尼)一行のしんがり・へべれけ野郎」(右隻第四・五扇中部)→A-1図

五氶大橋の「ねね」・「左端・酔う男」.jpg

「五条大橋で踊る貴女(老後家尼)一行」(右隻第四・五扇中部)→A図

 この「五条大橋で踊る貴女(老後家尼)一行」(A図)、そして、「五条大橋で踊る貴女(老後家尼)一行のしんがり・へべれけ野郎」(A-1図)は、下記のアドレスなどで、「豊国廟で花見宴をしての帰りだ」『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』P208)ということについて触れてきた。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-09-21

祇園社の北政所.jpg

「祇園感神院の鳥居(扁額)の下を潜る一行(「高台院(北政所、秀吉の妻おね=ねね一行?)」→ A-3図

 ここで、冒頭の「祇園林の乱痴気騒ぎ・へべれけ野郎」(A-2図)の下に、このA-3図が描かれている。これは、明らかに、「祇園林の乱痴気騒ぎ」(A-2図)と「祇園感神院の鳥居(扁額)の下を潜る一行(「高台院(北政所、秀吉の妻おね=ねね一行?)」(A-3図)とは、「A-2図」は「乱痴気騒ぎ」、そして、「A-3図」は粛々と「祇園鳥居を潜る」一行であり、それぞれ別なグループ(集団)のものと解したい。

右四中・高台院アップ.jpg

「洛中・洛外図屏風・舟木本」の「右隻第四・五扇拡大図」(五条橋で踊る老後家尼)→B図

https://emuseum.nich.go.jp/detail?content_base_id=100318&content_part_id=001&content_pict_id=045&langId=ja&

 ここで、「祇園感神院の鳥居(扁額)の下を潜る一行(「高台院(北政所、秀吉の妻おね=ねね一行?)」(A-3図)と、「五条橋で踊る老後家尼」(B図、A図とA-1図)とは、同じグループ(集団)のものなのかにどうかついては、これまた、確たるものではないが、その蓋然性(可能性など)からすると、その「見方(見立て)」は肯定的な方向で解して置きたい。
 としても、冒頭の「五条大橋で踊る貴女(老後家尼)一行のしんがり・へべれけ野郎」(A-1図)は、これは、「祇園感神院の鳥居(扁額)の下を潜る一行(「高台院(北政所、秀吉の妻おね=ねね一行?)」(A-3図)とは、当初、別々なグループ(集団)で、この「五条大橋」で、「高台院」一行と、この「へべれけ野郎」(「木下勝俊(長嘯子)」?)一行とが合流したという見方もあり得るであろう。
 この見方からすると、「高台院」一行のル-トは、「院御所近くの高台院殿(屋敷)→祇園 社→豊国廟→五条大橋」、そして、「木下勝俊(長嘯子)?」は、「高台院殿(屋敷)→祇園 社→五条大橋」ル-トということになる。

長嘯子酒宴.jpg

「祇園林の乱痴気騒ぎ・へべれけ野郎周辺」(右隻第三扇上部) → A-4図
https://emuseum.nich.go.jp/detail?content_base_id=100318&content_part_id=001&content_pict_id=045&langId=ja&

 この下部に描かれている「へべれけ野郎」(「木下勝俊(長嘯子)」?)は、もう正体不明の酩酊状態に比して、他の一行は、祇園の遊女を侍らして、まさに「乱痴気騒ぎ」の頂点のような状態である。そして、左上の重箱を頭にして、料理を運んできたような「ふっくらとしたおっさん」風情の男が、先に(その二)触れた「『祇園会で神輿を担いでいる男』・『板倉勝重?』」と、何処となく、似ている雰囲気なのである。

板倉勝重?.jpg

「神輿を担ぐ男・板倉勝重・重箱を頭にした男」→ C図

 もとより、これらの人物(「神輿を担ぐ男・板倉勝重・重箱を頭にした男」)は、「何処となく似ている」というだけで、これらの人物が同一人とする根拠は、全く、確たる痕跡は見出し難い。
 しかし、これらが「板倉勝重」その人とすると、勝重が京都所司代(任命時は「京都町奉行」)に任じられたのは、「関ケ原の戦い」の後の慶長六年(一六〇一)、爾来、元和六年(一六二〇)に、長男・重宗にその職を譲るまで、その長きにわたり「京都の治安維持と朝廷の掌握、さらに大坂城の豊臣家の監視」という重責を全うした、その一端が浮かび上がってくる。
 勝重と高台院との直接的な接点は、高台院が、慶長十年(一六〇五)、実母(朝日)と秀吉の冥福を祈るために家康の後援のもと、京都東山に「高台寺」を建立した時の「普請奉行」が勝重で、爾来、この二人の名コンビが、激動の「豊臣時代」から「徳川時代」の移行をスムーズに成し遂げたという一面を有するものと、その両者の関係を肯定的に解して置きたい。
そして、勝重と高台院の甥の「木下勝俊(長嘯子)」との関係は、「家康の命による伏見城留守居役を放棄した『敵前逃亡者』」の汚名を一身に浴びている勝俊(長嘯子)を、高台院の身近な側近として、「小堀政一・伊達政宗・林羅山・春日局・藤原惺窩・冷泉為景(叔父・冷泉為将の養子)・松永貞徳・中院通勝」等々の幅広い人脈を活かし、後に、「後水尾天皇が勅撰したと伝えられる集外三十六歌仙にも名を連ねている」のも、この勝重と高台院との、この二人の名コンビに因るものと、この「高台院・勝重・勝俊(長嘯子)」との三者関係も肯定的に解して置きたい。 
 として、このA-2図の「祇園林の乱痴気騒ぎ・へべれけ野郎」(右隻第三扇上部)、そして、A-4図の「祇園林の乱痴気騒ぎ・へべれけ野郎周辺」(A-2図の拡大)の、この「祇園林の乱痴気騒ぎ」は、 慶長十年(一六〇五)の頃の、高台寺普請奉行・板倉勝重の、高台院恩顧の諸大名関係者への「振舞い饗宴」の一場面のように解したい。
 そして、この「へべれけ野郎」を「木下勝俊(長嘯子)」とすると、やはり、「関ケ原の戦い」での「敵前逃亡者」として 、武将失格の汚名を恥じての「面目もない」という、その姿勢の一端が読み取れる。この頃の、出家して「長嘯子」と号した頃の一首がある。

あらぬ世に身はふりはてて大空も袖よりくもる初しぐれかな(挙白集)

 この歌には、「慶長はじめつかた、世をのがれたまふ時の歌となん」との後書きが付してある。「あらぬ世=思っていたのとは異なる世」、「袖よりくもる=袖を濡らす涙から曇る」。
歌意は、「思いがけぬ世の中に我が身はすっかり過去の人となり、大空も我が袖から曇り始めるかと見える初時雨であることよ」。

 また、「木下勝俊(長嘯子)」の己の自画像とも思われる一首もある。

汝(なれ)よなれ汝はやせ僧時にあはず首うちなげて物欲しげなる(長嘯子集)

前書きに「かたぶきたる酒徳利に、痩せ僧と言ふ名をつけて」とある。「かたぶきたる酒徳利(さかとつくり)=直立せず斜めにかしいでいる酒徳利」、「首うちなげて=徳利が一方にかしいでいるさま」。歌意は、「おまえよおまえ、おまえの名は痩せ僧。時流に合わず、首を傾げて、物欲しそうであることよ」。

 「高台寺にまうでて、豊国明神の像を拝して」との前書きの歌もある。

亡き影にまた袖ぬれて仕へけん昔を今のしづのをだ巻(長嘯子集)

 「亡き影=秀吉の遺影」、「しづのをだ巻=倭文(しづ)を織るのに用いた苧環。次の本歌から借りた詞。『しづ』は「賤」と掛詞になって卑下の意を帯び、また苧環を繰ると言うことから『繰り返し』の意を呼び込む」。「本歌」=いにしへのしづのをだまき繰りかへし昔を今になすよしもがな(「伊勢物語」第三十二段)。歌意は、「遺影にまた私の袖は濡れて――仕えた昔を今になして、繰り返し亡き人を偲ぶことよ」。
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洛中洛外図・舟木本(岩佐又兵衛作)」周辺探索(その十三) [岩佐又兵衛]

(その十三)「五条大橋で踊る貴女(老後家尼)一行のしんがり・へべれけ野郎」」は何者か?

両脇を支えられた酔っ払い.jpg

「五条大橋で踊る貴女(老後家尼)一行のしんがり・へべれけ野郎」(右隻第四・五扇中部)→A-1図

 この「五条大橋で踊る貴女(老後家尼)一行のしんがり・へべれけ野郎」の正体は何者なのか? この男は、次の「祇園林の乱痴気騒ぎ」(右隻第三扇)にも登場して来る。

祇園社.jpg

「祇園林の乱痴気騒ぎ・へべれけ野郎」(右隻第三扇上部) → A-2図

 現在の八坂神社は、明治元年(一八六八)の神仏分離に際して改められた名称で、それ以前は「祇園神社」「祇園社」「祇園感神院」などと呼ばれていた。この「感神院」の扁額を掲げた鳥居は、「祇園感神院」(「祇園社」・「祇園神社」・「八坂神社」)の鳥居で、その松林(祇園林)のそこかしこで宴会(「乱痴気騒ぎの酒宴」)が行われている。
 その「感神院」の扁額の左上に、両脇を支えられた「へべれけ野郎」(A-2図)は、「五条大橋で踊る貴女(老後家尼)一行のしんがり・へべれけ野郎」(A-1図)であることは間違い無かろう。
 そして、この「感神院」の扁額の鳥居の下に、何やら、ここにも、「高台院(北政所、秀吉の妻おね=ねね)」一行の姿らしきものが描かれている。

祇園社の北政所.jpg

「祇園感神院」の鳥居(扁額)の下を潜る一行(「高台院(北政所、秀吉の妻おね=ねね一行?)」)(右隻第三扇中部) → A-3図

豊臣家家系図.jpg

「豊臣家系図」(「寧々(ねね)―おんな太閤記(2009年1月2日放映のテレビ東京開局45周年記念放映番組)」)  → B-1図
https://www.bs-tvtokyo.co.jp/nene/chart.html

 この「キャスト」は次のようなものであった。この「人物像」(キャスト)の中から、上記の「へべれけ野郎」を探すと、「※高台院(寧々)」の甥の「※※木下勝俊(長嘯子)」が、その候補の筆頭に挙がられるであろう。
 しかし、この「木下勝俊(長嘯子)」が、このような「へべれけ」(酔っぱらい)が常態であったのかというと、これは実弟の「※小早川秀秋」(「関ケ原」の戦いで「西軍」から「東軍」へと「寝返った」汚名のままに二十一歳で夭逝(酒毒死?)した「かぶき野郎?」)のイメージが、ここに投影されているものと解して置きたい。
 
【※寧々:仲間由紀恵
豊臣秀吉:市川亀治郎
織田信長:村上弘明
前田利家:原田泰造
豊臣秀長:福士誠治
明智光秀:西村和彦
石田三成:中村俊介
浅井長政:田中実
きい(あさひ):田畑智子
とも:横山めぐみ
まつ:中山忍
やや:星野真里
大蔵卿局:池上季実子
淀の方:吹石一恵
お市:高岡早紀
なか:十朱幸代
徳川家康:高橋英樹
柴田勝家:柴俊夫
孝蔵主:吉沢京子
本多正信:名高達男
本多忠勝:岸本裕二
板倉勝重:下元年世
中山又市:金田明夫
加藤清正:山田純大
小笹/茜:小沢真珠
小督:高橋かおり
大沢基康:本田博太郎
浅野又右衛門:渡辺哲
竹中半兵衛:山崎銀之丞
黒田官兵衛:黒神龍人
大野治長:海東健
豊臣秀次:濱田岳
加藤嘉明:杉山聡
蜂須賀小六:梨本謙次郎
茶々(幼少期):梅原真子→篠原愛実
小督(幼少期):前田里桜→野口真緒
お初:大出菜々子→重本未紗→小林涼子
はな:守田菜生
松の丸:美栞了
つる:樹もも
とら:岩倉沙織
ゆう:加藤千果
えん:白江美佳
摩阿姫:坂口あずさ
正栄尼:川崎あかね
二位局:桐川嘉奈子
こほ:小野晴子
三好吉房:吉見一豊
副田甚兵衛:蟹江一平
佐助:野田裕成→高杉瑞穂
すえ:仁平裕子
豪姫:西本利久
森蘭丸:河野朝哉
丹羽長秀:魁三太郎
佐久間信盛:西園寺章雄
※小早川秀秋:尾上松也
福島正則:樋口浩二
池田輝政:西村匡生
浅野長政:大柴隼人
浅野幸長:櫻井忍
※※木下勝俊(長嘯子):和田正人
こひ:志乃原良子
片桐且元:石井英明
徳川秀忠:浜田学
松平忠輝:鯨井康介
羽柴秀勝:和泉青那
毛利輝元:黒沼弘己
上杉景勝:竹内誠
安国寺恵瓊:窪田弘和
豊臣鶴松:伊賀亮
豊臣秀頼:中村壱太郎
織田信雄:井之上チャル
織田信孝:宮下直紀
鳥居元忠:谷口高史
本多正純:市瀬秀和
足利義昭:木下ほうか    】

寧々・木下家系図.jpg

「高台院(北政所、秀吉の妻おね=ねね)」の実家(「木下家」)略系図 → B-2図
https://katuo29.hatenablog.com/entry/hideyoshimusuko

 「高台院(北政所、秀吉の妻おね=ねね)」は、実子がいなかったせいもあり、一族の子女を可愛がり、特に兄・木下家定の子供(上記B-2図の「勝俊(長嘯子)・利房・延利・俊定・秀秋(小早川)」)らには溺愛と言っていいほどの愛情を注いでいる。
 家定没後、その所領を木下利房と木下勝俊(長嘯子)に分割相続させようとした家康の意向に反し、勝俊が単独相続できるように浅野長政を通じて徳川秀忠に願い出る画策をしたため、家康の逆鱗に触れ結局所領没収の事態を引き起こしている。
これらは、高台院と家康とが、必ずしも一般的に伝えられているような相互に親密な関係ではなかったことを証明することの一端なのかも知れない。
 それに引き換え、高台院と徳川秀忠との関係は、「平姓杉原氏御系図附言纂」によると、秀忠が十二歳の時に家康から秀吉に人質として送られた際、身柄を預かった「高台院と孝蔵主」が秀忠を手厚くもてなし(原文では「誠にご実子の如く慈しみ給う」)など、その恩義からか、高台院を手厚く保護しており、上洛するたびに高台院を訪ねているなど、家康との関係以上に、相互に親しい間柄であったことが伺える。
 ここで、「岩佐又兵衛」の実父といわれる、摂津国河辺郡伊丹(現在の兵庫県伊丹市伊丹)の有岡城主「荒木村重」関連について紹介して置きたい。

【荒木村重 没年:天正14.5.4(1586.6.20) 生年:天文4(1535)

 戦国時代の武将。丹波国多紀郡(兵庫県)波多野氏の一族の出自という説がある。高村(義村)の子。通称弥介。摂津守。法名道薫。父の代から摂津国人池田勝正に仕えたが、永禄11(1568)年10月、織田信長の来攻に支え切れず勝正に従って降伏。翌年1月、三好三人衆が足利義昭を攻めた本国寺の変では,勝正に従軍してこれを撃退した。その後池田氏が内訌で弱体化すると有力家臣として台頭。天正1(1573)年、茨木城主となって和田惟政を高槻城から追い、摂津東半国を勢力下に置く。同年7月、義昭の槙島城蜂起には織田方として参戦。その功により摂津一国の支配を委ねられた。
 天正2年勝正を高野山に放逐し、伊丹城の伊丹忠親を滅ぼし、同城を接収して有岡城と改名。以後山陽方面の軍事を担当し、翌3年播磨浦上氏を攻撃、さらにその翌年には尼崎の海上警備を務めて本願寺に備えた。同5年紀伊雑賀攻めに従軍,翌年羽柴(豊臣)秀吉らと共に播磨上月城主尼子勝久への援軍に加わり毛利氏に対峙した。しかし、同年10月従兄弟に当たる中川清秀の家人が本願寺へ米を売却したという密告により信長に疑われ、釈明しようとしたが果たさず、ついに反逆を決意したといわれる。
 こうして本願寺、毛利氏側に寝返って、清秀や高山右近らと共に反信長の兵を挙げたが、滝川一益、明智光秀らの攻撃を受け、籠城10カ月におよんだ。その後村重は、同7年9月、ひそかに有岡城の包囲を逃れて尼崎城に入ったが、有岡城は11月に陥落。信長は村重の妻をはじめ30人余を人質とした。村重の同族久左衛門が尼崎に赴いて降伏を説得したが聞き入れず、信長は妻女36人を京都に斬り、家臣およびその妻女600人余を礫刑、火刑に処した。村重は花隅城に逃れたが、翌年7月攻め落とされて毛利氏分国に逃亡。本能寺の変後は堺に居住、千利休に茶を学び、宗匠として秀吉に起用された。堺で死去。近世初期風俗画の名手、岩佐又兵衛はその遺子という。 (森田恭二) 】(出典 朝日日本歴史人物事典)

 この「荒木村重」は、「一族郎党を見殺しにし、『有岡城・尼崎城・花隈城』の居城を見捨てて、唯一人生き残り、晩年を茶人『道糞・道薫・道菫』として『利休七哲の一人』と目せられている『一代の数寄者・傾奇者』」として、毀誉褒貶の、その汚名を一身に浴びている」人物ということになる。

 もう一人、「木下勝俊(長嘯子)」も、「関ヶ原の戦いでは東軍に属して伏見城留守居の将とされたが、寄せ手の西軍に弟の秀秋が含まれていることから鳥居元忠に退去を迫られ、これに従った結果、『敵前逃亡』の汚名を一身に浴びて、以後、京の東山に隠棲し、文人(歌人)として、『長嘯子・西山樵翁』と号し、「地下歌人」の第一人者として近世初期における歌壇に新境地を開いた、これまた、『一代の数寄者・傾奇者』として、毀誉褒貶の真っ只中にある」人物ということになる。

 この「木下勝俊(長嘯子)」については、先に、下記のアドレスで触れている。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-11-20

木下長嘯子.jpg

抱一筆『集外三十六歌仙図画帖』所収「十八 木下長嘯子」(姫路市立美術館蔵)
https://jmapps.ne.jp/hmgsbj/det.html?data_id=1486

【 http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/tyousyou.html

木下長嘯子(きのしたちょうしょうし) 永禄十二~慶安二(1569~1649) 号:挙白堂・天哉翁・夢翁

 本名、勝俊。木下家定の嫡男(養子)。豊臣秀吉夫人高台院(北政所ねね)の甥。小早川秀秋の兄。秀吉の愛妾松の丸と先夫武田元明の間の子とする伝もある。歌人木下利玄は次弟利房の末裔。
幼少より秀吉に仕え、天正五年(1587)龍野城主に、文禄三年(1594)若狭小浜城主となる。秀吉没後の慶長五年(1600)、石田三成が挙兵した際には伏見城を守ったが、弟の小早川秀秋らが指揮する西軍に攻められて城を脱出。
 戦後、徳川家康に封地を没収され、剃髪して京都東山の霊山(りょうぜん)に隠居した。本居を挙白堂と名づけ、高台院の庇護のもと風雅を尽くした暮らしを送る。高台院没後は経済的な苦境に陥ったようで、寛永十六年(1639)頃には東山を去り、洛西小塩山の勝持寺の傍に移る。この寺は西行出家の寺である。慶安二年六月十五日、八十一歳で没。
 歌は細川幽斎を師としたが、冷泉流を学び、京極為兼・正徹などに私淑した。寛永以後の地下歌壇では松永貞徳と並称される。中院通勝・冷泉為景・藤原惺窩らと親交があった。門弟に山本春正・打它公軌(うつだきんのり)・岡本宗好などがいる。また下河辺長流ら長嘯子に私淑した歌人は少なくなく、芭蕉ら俳諧師に与えた影響も大きい。他撰の家集『若狭少将勝俊朝臣集』(『長嘯子集』とも)、山本春正ら編の歌文集『挙白集』(校註国歌大系十四・新編国歌大観九などに所収)がある。 】

この木下長嘯子の「辞世の歌」は、次のものであった。

【 http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/tyousyou.html#LV

 辞世
王公といへども、あさましく人間の煩をばまぬがれず何の益なし。すべて身の生まれ出でざらんには如かじ。まして卑しく貧しからんは言ふに足らず。されば死はめでたきものなり。ふたたびかの古郷にたちかへりて、はじめもなく、をはりもなき楽しびを得る。この楽しみをふかく悟らざる輩、かへりて痛み歎く。をろかならずや。

露の身の消えてもきえぬ置き所草葉のほかにまたもありけり(挙白集)

あとまくらも知らず病み臥せりて、口に出るをふと書きつくる。人わらふべきことなりかし。

《通釈》(文)王や大臣と言えども、浅ましくも人間の煩わしさを免れず、地位などは何の益もない。大体、生まれて来ないのに越したことはあるまい。まして私のように身分卑しく貧しい者は言うまでもない。だから死はめでたいものである。生まれ出た原郷に再び帰って、始まりもなく終りもない楽しみを得る。この楽しみを深く悟らないやからは、かえって嘆き悲しむ。愚かではないだろうか。

(歌)露のようにはかない身が消えても、消えずに残る置き所。草葉のほかにもまたあるのだった。我が袖に置いた涙の露よ。

(文)前後もなく病み臥せって、口をついて出たのをふと書き付けておく。お笑い種にちがいない。

《補記》『挙白集』最終巻(巻十)の巻末に収められた歌文。長嘯子はその後まもなく死去し、遺言に基づき一本の松のもとに葬られたという。

《本歌》 殷富門院大輔「時代不同歌合」「続古今集」
きえぬべき露の憂き身のおき所いづれの野辺の草葉なるらん       】

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洛中洛外図・舟木本(岩佐又兵衛作)」周辺探索(その十二) [岩佐又兵衛]

(その十二)「五条大橋で踊る貴女(老後家尼)」は何を語っているのか?

五氶大橋の「ねね」・「左端・酔う男」.jpg

「五条大橋で踊る貴女(老後家尼)一行」(右隻第四・五扇中部)→A図

 この図(A図)の左端の先頭を行く「貴女(老後家尼)に関連して、下記のアドレスで、次のとおり紹介した。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-08-02

【 (再掲) 

右四中・高台院アップ.jpg

「洛中・洛外図屏風・舟木本」の「右隻第四・五扇拡大図」(五条橋で踊る老後家尼)→B図
https://emuseum.nich.go.jp/detail?content_base_id=100318&content_part_id=001&content_pict_id=045&langId=ja&

《老後家尼》(『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』P204)

「この桜の枝を右手に持って肩に担ぎ、左足を高くあげて楽しげに踊っている、この老後家尼は、ただの老女ではありえない。又兵衛は、いったい誰を描いているのだろう。」

《花見帰りの一行の姿』((『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』)P204-205)

「この老後家尼の一行は、笠を被った男二人、それに続き、女たち十二人と男たち十人余りが踊っており、六本の傘が差しかけられている。乗掛馬に乗った武士二人と馬轡持ち二人、荷物を担いでいる男四人、そして、五人の男が振り返っている視線の先に、酔いつぶれた男が両脇から抱きかかえられ、その後ろには、宴の食器や道具を担いだ二人の男がいる。総勢四十五人以上の集団である。」

《傘の文様は?》(『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』P205-206)

「六本の傘を見ると、先頭の白い傘には日の丸(日輪)、次の赤い傘には桐紋、三本目の赤い傘は鶴と亀の文様である。四本目は不明、五本目は日・月の文様のようであり、六本目は花か南蛮の樹木の葉のようである。この先頭の日輪と二本目の桐紋が決定的に重要だ。このような後家尼の姿で描かれる人物は、秀吉の後家、高台院(北政所おね)以外にあり得ない。」

「ここで、拙著『豊国祭礼図を読む』の記述を想い起こしたい(二六六頁)。そこで、淀殿の乗物の脇にいて、慌てて飛び退いている老後家尼の高台院がかかれていると指摘しておいた。この高台院も、舟木屏風の老後家尼と同様の姿で描いている。つまり舟木屏風は、徳川美術館本豊国祭礼図屏風に先行して、高台院を五条橋の上で踊る老後家尼として描いていたのである。」《豊国祭礼図屏風の老後家尼》(『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』P206-207)

豊国祭礼図・秀頼周辺.jpg

『豊国祭礼図を読む(黒田日出男著・角川選書533)』カバー表紙図    】

 上記(C図)の「豊国祭礼図屏風」(右隻第六扇)の、淀殿が乗っているとされる「駕籠」の上で、「慌てて飛び退いている老後家尼」が「高台院」とする見方(見立て)も「さもありなん」とすると、確かに、上記(B図)の「洛中洛外屏風・舟木本」(右隻第五扇)の「五条で踊る老後家尼」は「高台院」とする見方(見立て)も、これまた「さもありなん」という思いがしてくる。
 そして、これらのことに関連して、岩佐又兵衛作とされている「豊国祭礼図屏風」と「洛中洛外屏風・舟木本」は、殆ど、同時期に制作された「姉妹編」と解すべきことには、いささかも矛盾を感じないが、上記の、「舟木屏風は、徳川美術館本豊国祭礼図屏風に先行して、高台院を五条橋の上で踊る老後家尼として描いていたのである」という見方には、やや否定的に解して置きたい。
 その上で、「豊国祭礼図屏風」の背景の主題は、「豊臣秀吉七回忌を記念して慶長九年(一六〇四)八月に行われた『豊国大明神臨時祭礼』」であり、この祭礼の中心的な人物は、「徳川家康」(形式的な挙行者)でも「豊臣秀頼・淀殿」(実質的な挙行者)でもなく、この両者を、一種の高い政治力をもって、その調整役の重責をこなしていた「高台院(北政所、秀吉の妻おね=ねね)」その人であるということにつては、前回に触れてきたところである。
 この前回までの指摘を前提として、では、「洛中洛外屏風・舟木本」の背景の主題は何かということについては、これまた、「高台院(北政所、秀吉の妻おね=ねね)」その人であるということを、例えば、その指摘の根拠の例示として、上記の「A図・B図」の「五条大橋で踊る貴女(老後家尼)」を挙げても、これまた、何らの違和感もない。
 これに付け加えることは、「豊国祭礼図屏風」の背景が、「豊臣秀吉七回忌の慶長九年(一六〇四)八月挙行の『豊国大明神臨時祭礼』」とすると、この「洛中洛外屏風・舟木本」の背景は、「秀吉十七回忌の慶長十九年(一六一四)の『豊国大明神祭礼』」(この時には「騎馬行列」も「風流踊」も実施されない)時のものと解して置きたい。
 そして、この慶長十九年(一六一四)には、「再建途上の『大仏殿』はほぼ完成するが、『方広寺鐘銘事件』」が起きて、『大仏開眼供養』は延期となり、さらに、それに続く『大阪夏の陣』が勃発した」年なのである。
 その一年後の「慶長二十・元和元年(一六一四)」には、「大阪夏の陣」で「豊臣家は滅亡」し、「徳川幕府」(「大御所家康、将軍秀忠」)は、豊国社・豊国廟の破却を命じ、大仏殿は妙法院の管轄となる」という、大変動が、この「洛中洛外屏風・舟木本」の背景に横たわっている。
 もはや、この時には、「豊臣秀吉七回忌の慶長九年(一六〇四)八月挙行の『豊国大明神臨時祭礼』」の「騎馬行列」に参加した、下記「の豊臣恩顧の大名衆」の、「高台院(北政所、秀吉の妻おね=ねね)」を支えた「大名衆」の主だった者は鬼籍の人となり、そして、その殆どは、「徳川幕府」(「大御所家康、将軍秀忠」)側となっている。

【〇騎馬を出した豊臣恩顧の大名衆(※「豊国大明神臨時祭礼記録」による)
※前田利長(羽柴肥前守)=三十疋、福島正則(羽柴侍従)=二十疋、加藤清正(賀藤肥後守)=十五疋、細川忠興(羽柴越中守)=十二疋、浅野長政(浅野紀伊守)=十疋、木下勝俊(若狭宰相)=六疋、京極高知(丹後侍従)=六疋、福嶋高晴(福嶋掃部)=壱疋
已上=百疋
※筒井定次(伊賀侍従)=弐疋、蜂須賀家政(蜂須賀阿波守)=六疋、中村一氏(中村伯耆守)=三疋、山内一豊(山内土佐守)=三疋、 生駒一正(生駒讃岐守)=五疋、鍋嶋勝重(鍋嶋信濃守)=十一疋、田中吉政(田中筑後守)=九疋、加藤嘉明(賀藤左馬助)=六疋、藤堂高虎(藤堂佐渡守)=六疋、有馬豊氏(有馬玄番頭)=弐疋、脇坂安治(脇坂淡路守)=壱疋、寺沢広高(寺沢志摩守)=三疋、加藤貞泰(賀藤左衛門尉)=壱疋、金森可重(金森出雲守)=弐疋、一柳直盛(一柳監物)=弐疋、徳永寿昌(徳永法印)=弐疋、冨田信高(冨田信濃守)=弐疋、九鬼守隆(九鬼長門守)=弐疋、古田重勝(古田兵部少)=弐疋、稲葉道通(稲葉蔵人)弐疋、関一政(関長門守)=壱疋、本田利朝(本田因幡守)=壱疋、前田茂勝(前田主膳正)=壱疋、亀井茲矩(亀井武蔵)=壱疋、高橋元種(高橋左近)=壱疋、伊藤祐慶(伊藤修理)=壱疋、秋月種長(秋月長門守)=壱疋、堀秀治(羽柴左門)=壱疋、木下重堅(羽柴因幡守)=壱疋、大野治長(大野修理)=壱疋、前田広定(前田権介)=壱疋、長谷川守知(長谷川右兵衛)=壱疋、杉原長房(杉原伯耆守)=壱疋、速水守久(速水甲斐守)=壱疋、伊藤長次(伊藤丹後守)=壱疋、堀田盛重(堀田図書)=壱疋、青木一重(青木民部少)=壱疋、竹中隆重(竹中伊豆守)=壱疋、毛利高政(毛利伊勢守)=壱疋、山崎家盛(山崎佐馬氶)=壱疋、柘植与一(柘植大炊介)=壱疋、片桐且元(片桐主膳正)=壱疋、野々村雅春(野々村次兵衛)=壱疋、真野助宗(真野蔵人)=壱疋、中嶋氏種(中嶋左兵衛)=壱疋、西尾光教(西尾豊後守)=壱疋。
已上=百疋 】

 ここで、こういう、激動の「慶長十九年(一六一四)、慶長二十・元和元年(一六一四)」に関連しては、次のアドレスの「豊国大明神の神権剥奪」が参考となる。

https://geolog.mydns.jp/www.geocities.jp/huckbeinboxer/sengoku-h09g.html

【 豊臣家滅亡の直後から豊国神社の破却は進められていた。

慶長二十年五月十八日、穢中により神龍院梵舜は豊国明神社の神事を略した。五月十九日、神龍院梵舜は豊臣家滅亡の余波が豊国神社に及ぶと考え、この日から徳川家康の側近に社領安堵を懇願する。

 慶長二十年六月十八日、本多正信は伏見城にて豊国神社破却を秀忠に進言。同日、豊国神社にて月例祭が再開されたが、行法祈念は略された。

 慶長二十年七月九日、徳川家康は二条城にて南光坊天海、金地院崇伝、板倉勝重と話し合い、豊国神社の破却を決めた。七月十日、神龍院梵舜らに豊国神社破却の沙汰が下される。神官の知行、および社領は没収。方広寺大仏殿住職照高院興意は職を解かれ、聖護院にて遷居。天台宗妙法院常胤が新たに方広寺大仏殿住職となり、寺領千石を加増された。神主萩原兼従は豊後にて千石を知行することが決まるが、正式に拝領したのは徳川家康の没後である。

豊臣秀吉の墓も移された。神号「豊国大明神」は廃止され、「国泰院俊山雲龍大居士」に改められた。京都所司代板倉勝重が豊国神社の破却を進めた。豊臣秀吉の長男棄丸(実は次男)の菩提寺祥雲寺は、智積院日誉に下げ渡された。祥雲寺住職海山は棄丸の遺骨を持って妙心寺に移ったと云う。七月十一日、豊国神社にて最後の神事が行われた。

 元和元年七月末、北政所は豊国神社の処遇を「崩れ次第」に任せるよう徳川家康に嘆願した。徳川家康はこれを受け入れ、徳川神社の一部の存続を許した。こうして豊国神社は風雨によって社殿が傷み、倒壊しようともそのまま放置されることとなった。北政所の嘆願は破却を免れるための、正に窮余の策であった。

 元和元年八月四日、徳川家康は駿府へと向かった。八月十八日、醍醐寺座主義演は徳川家に憚り、醍醐寺での豊国大明神の法要を中止した。そして、毎月十八日の法要も中止している。豊国神社では神事を略すも、神龍院梵舜ら十数名が参拝。片桐貞隆も参拝している。

 元和元年八月末、豊国神社はその大部分が破却された。豊臣秀吉の神廟、社殿は残された。また、神龍院梵舜が徳川家康から賜った神宮寺も残されている。十月一日、神龍院梵舜は豊国神社に洗米を献げた。以降、神龍院梵舜は毎月一日と十八日に参拝を続けた。

 元和元年十二月四日、徳川家康は隠居城建設のため伊豆泉頭を実検。年明けから建設工事を行うことにした。

元和元年十二月十八日、妙法院常胤が豊国神社の参道を塞いだ。このような嫌がらせを受けるほど、豊国神社の権威は失われていた。   】

 ここに出てくる「神龍院梵舜」については、先に(「その八」)、下記のアドレスで触れているが、この「神龍院梵舜」と「高台院」とは、姻戚関係(高台院の姪が梵舜の甥「萩原兼従」の正室)で深く結ばれている(『豊国祭礼図を読む(黒田日出男著)』P212)。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-09-06

 この「神龍院梵舜」が、豊臣家(高台院)の代理人とすれば、その相手方の「徳川幕府」(大御所家康・将軍秀忠)の代理人は、「京都所司代・板倉勝重」ということになる。
この「板倉勝重」と「高台院」との関係も、慶長十年(一六〇五)の、「高台院」が実母と秀吉の冥福を祈るために家康の後援のもと、京都東山に「高台寺」を建立した時の、普請奉行は「板倉勝重」で、この「板倉勝重」の卓越した「手綱捌き」(調整能力)が、とにもかくにも、この「激動の『慶長十九年(一六一四)、慶長二十・元和元年(一六一四)』」の「豊臣家滅亡」に伴う一連の終戦処理を軟着陸させたということになろう。

高台院と院御所.jpg

「洛中洛外図屏風・舟木本」(第四扇上部)の「院御所と高台院殿(屋敷)」→C図

 この右上の図は「高台院」とあり、現在の「京都御苑仙洞御所・大宮御所エリア」にあたる当時の「高台院殿(屋敷)」で、この図の左上は、当時の「後陽成院」の「院御所」との「名札」が付けられている。
 「北政所」が落飾したのは、慶長八年(一六〇三)、秀吉の遺言でもあった秀頼(十歳)と千姫(七歳)の婚儀を見届け、そして、この年は、徳川家康が征夷大将軍になった年である。朝廷(後陽成天皇)から院号(高台院)を賜り、はじめ高台院快陽心尼、のちに改め高台院湖月心尼と称した。
 この二年後の、慶長十年(一六〇五)に、京都東山に「高台寺」を建立し、その門前にも屋敷を構えている。
 上記の「院御所」(後陽成院)の脇に「高台院殿(屋敷)」が描かれていることは、「後水尾天皇」が即位した、慶長十六年(一六一一)三月二十七日以降の頃と解することが、図柄上は妥当なのかも知れない。
  そして、この手前の、右下の「騎馬の貴公子」を、先に(「その四」で)、「家康と共に参内する松平忠直」(左隻第四扇上部)としたのだが、この家康が参内した時は、慶長十六年(一六一一)のことであった。
 その前回のアドレスで、この場面のことを、次に再掲をして置きたい。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-08-26

【(再掲)

慶長十六年(一六一一)は、十七歳になった忠直にとって重大な出来事が次々に起こった。越前藩主としての忠直にとって大きな節目となった年である。第一に京都で叙位・任官があり、忠直は祖父家康に連れられて参内した。
 慶長十六年三月六日に駿府を出発した大御所家康は、同月十七日に京着して二条城に入った。同月二十日には、家康の子義利(義直)・頼将(頼宣)が右近衛権中将・参議に、鶴松(頼房)が従四位下右近衛少将に、そして、孫の松平忠直が従四位上左近衛少将に叙任された。その御礼のために、同月二十三日、家康は子の義利・頼将と孫の松平忠直を従えて参内したのである。
 のちに御三家となる徳川義利(尾張徳川家)と同頼将(紀伊徳川家)と共に参内した忠直は、天下人家康の孫として振る舞ったのである。忠直の人生にとって最初で最後の晴れやかな出来事であった。家康の孫、秀康の子であることを強烈に意識したことであろう。清和源氏新田氏の門葉(子孫)であることを自覚した機会でもあったに違いない。(『岩佐又兵衛と松平忠直―パトロンから迫る又兵衛絵巻の謎(黒田日出男著)』P116-117) 】

 「北政所」と「松平忠直」の父の「結城秀康」(松平秀康)との関係は、「養母・北政所、養子・結城秀康」という関係にあり、その関係からすれば、「北政所」は「松平忠直」の「養祖母」という関係になってくる。
 そして、『舜旧記』(慶長七年五月廿七日)に、結城秀康が「豊国社」へ参詣している記述が遺されている(「国立国会図書館デジタルコレクション」では、この巻は収録されていない。下記のアドレスによる)。

http://ari-eru.sblo.jp/article/185446070.html

【今日三河守殿(結城秀康)依社参、二位卿(梵舜の兄・吉田兼見)俄豊國へ越也、予(梵舜)脚気ニ足痛故不参、次三河守殿奉納、銀子五枚、二位殿ヲソクテ三河守殿早ク社参也、次當院下部屋ヨリ火事出来之処ニ、早ク見付打ケス也、誠神慮之加護、當院本尊神龍院(吉田兼倶)殿・唯神院(吉田兼右)殿加護也、有難云々、 】

 さらに、その四日前の「五月二十三日」に、「於大の方」(徳川家康の実母)が豊国社に詣でている。この時は、「於大の方」にとって初めての上洛で、「北政所」、そして、「後陽成天皇」にも拝謁している。

【 内府公(徳川家康)御母儀(於大の方)豊國へ社参、奉納九十貫(九百万?)、二位殿(吉田兼見)杉原二束・摺三巻、慶鶴丸(萩原兼従)同事、祝并予(梵舜)卅三貫(三百三十万?)、祢宜神官卅貫(三百万?)、巫女八人ニ生絹帷一人一充、社家ヨリ菓子折、熨斗、堅栗、四方ニスハル、是ヲ上也、次謡講於清水茶屋興行、予(梵舜)重衡(謡=能)稽古也、 】

「於大の方」(家康の実母)は、この上洛の途次の、八月十七日に、家康の滞在する現・京都府京都市伏見区の「山城伏見城」で、その七十五歳の生涯を閉じる。家康は、直ちに、京都の「智恩院」で葬儀をおこない、江戸(小石川)の「無量山・伝通院・寿経寺」に遺骸を送り、その法名は「伝通院殿蓉誉光岳智光大禅定尼」から「伝通院」と呼ばれるようになる。ここには、その後、千姫をはじめとした将軍家ゆかりの人たちが多く埋葬されている。

http://ari-eru.sblo.jp/article/176007043.html

【慶長十一年七月二日『言経卿記』→禁中御普請之縄引有之、板倉伊賀守被参、
七月十三日『同上』→禁中御作事テウノ始了、
九月『慶長日記』→禁裏仙洞境内狭シテ朝儀カタシト聞玉ヒ、宰相秀康ヲ惣奉行トシ、諸大名ニ仰テ公家ノ家宅ヲ移シ、  】

 この記述によって、上記の「院御所」の「総普請奉行」は、「結城秀康」その人ということを伝えている。しかし、「結城秀康」は、病によりこの仕事を全うすることがかなわず、『朝野舊聞裒稿(ほうこう)』・『松平津山家譜』では、慶長十二年三月一日に越前に帰国したとある。

【慶長十二年 閏四月十四日『義演准后日記』
 傳聞、去八日三河守(秀康)死去云々、将軍(家康)子息也、去三月五日ニハ、尾張國守下野守(松平忠吉)死去、相續凶事、珍事々々、三河守ハ越前一國ノ主也、

閏四月十三日『鹿苑日録』
 片主(片桐且元)越前へ、自秀頼公三州(秀康)御見廻被相越ト云、一説又三州早御遠行故、為弔慰被相越ト云、両説有之、不知其實、予相煩故不出門戸、不知虚實、
閏四月十五日『同上』
 片主(片桐且元)御出、昨日自越前帰宅ト云々、三州(秀康)遠行必定ト云々、御若衆其外御近所ニ伺候之衆、當座ニ三人戴腹シテ御伴、其外六七人モ有之ト云々、
六月五日
 東法印亦此三日上洛ト云々、大御所(家康)様御機嫌甚以難窺之、是亦無餘儀、両所(忠吉、秀康)迄捐館之上者、御愁嘆不及言語、下々至小身迄、無不愛其子、況於大人乎、…】

 そして、「結城秀康」は、慶長十二年(一六〇七)六月二日(閏四月八日)に病没(享年三十四)したことが、上記の関連記事で読みとれる。上記の記事の解説も付記して置きたい。

【『義演准后日記』は醍醐寺の僧侶義演の日記である。義演は秀吉の時代から大坂(豊臣)方と関係の深い僧侶であるが、家康の側室から子どもの病気平癒の祈祷も頼まれおり、豊臣・徳川双方とも関係がある。義演は日記に「傳聞」と前置きした上で、8日に秀康が死去したと記し、3月5日の松平忠吉(家康四男)死にも触れ、凶事が相次いでいると続ける。

『鹿苑日録』には閏4月13日に片桐且元が秀頼からの「見廻=見舞」もしくは「弔慰=弔問」のために越前へ向かったとある。15日にその且元が「昨日」越前から帰宅して相国寺を訪ねている。そこで西笑承兌(さいしょうしょうたい)は秀康の死去と3人もしくは6、7人が殉死したとの話を聞いている。8日に秀康が死去していることから、且元の越前行きは「弔問」のためだったろう。西笑承兌の書き方だと、京ー越前間を且元は13日に出立して14日に戻って来るという速さで移動しているように見えるが、恐らく出立は11or12日ではないだろうか。それでも2日もあれば越前からの情報は京や大坂に届くのだろう。京ー越前の間は交通網が比較的発達・充実している。

6月5日には家康は「御機嫌甚以難窺之」とあり、家康の機嫌が非常に悪いと推測している。西笑承兌は関ヶ原以前から家康と交流があり、秀吉没後は外交その他の顧問として家康の側近くにあった。家康の性情を知った上での推測であろう。「両所」とは家康の息子である松平忠吉(4男)と結城秀康(次男)の2人を意味しており、その2人の死去に対する家康の「愁嘆=嘆き」は言葉に表せない、と記してもいる。】

 上記の、「結城秀康」の死去の際の「殉死」関連については、下記の「家康・家忠」の書簡があり、「結城秀康」の「附家老・本多伊豆守(本多富正)」の「殉死」は「一切停止」の申し渡しがあり、「富正は剃髪するにとどまり、また幕府の直命により引き続き福井藩の執政、秀康の子の松平忠直の補佐を勤めることとなる。また、元和九年(一六二三)の、主君の忠直が幕府の命で、豊後国府内藩(現在の大分県大分市)へ配流処分になった時も、幕府より「そのまま残り、忠昌を補佐するように」との特命を受けている。

【閏四月『譜牒餘録』
 権現(家康)様   一御書 御黒印 閏四月廿四日
 中納言秀康卒去之砌、殉死一切停止可仕旨にて、家老共に被下置候、

 台徳院(秀忠)様   一御書 御黒印 後卯月十六日
 右同時、本多伊豆守(本多富正)殉死、停止可仕旨にて被下置、      】

参内する松平忠直.jpg

「家康と共に参内する松平忠直」(左隻第四扇上部) → D図

 上記の、先に(「その四」で)、「家康と共に参内する松平忠直」(D図)とした、その中央の「騎馬の貴公子」を、慶長十六年(一六一一)時、十七歳当時の「松永忠直」の英姿として、この左端の「騎馬の公家姿の武家」は、ここまで来ると、「結城秀康(松平秀康)・松平忠直・松平忠昌」の「三代に亘る越前松平家」の、それを見届けた「「附家老(そして、筆頭家老)・本多伊豆守(本多富正)」その人と解したい。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-08-26

 そして、この「越前松平家の附家老(そして、筆頭家老)・本多伊豆守(本多富正)」は、その主の「結城秀康」と「北政所」との「養子と養母」との関係を、謂わば、「結城秀康」の執事的な分身として、「北政所」と「本田富正」との関係は、相当に深い関係にあり、その関係は、「北政所」と「松平忠直」との時代にあっても、その「結城秀康」との時代と同じく、継続して変わらなかったということは想像するに難くない。
 それと同時に、「結城秀康」の未亡人「鶴姫」(江戸重通の娘、結城晴朝の養女、結城秀康の未亡人)が、「後陽成・後水尾」天皇の側近の公卿「烏丸光広」の正室に迎えられた後においては、「北政所」と「松平忠直と本田富正、そして、烏丸光広と鶴姫」との関係は、相互に親密な関係にあったことも、これまた、想像するに難くない。
 さらに、それらに付け加えることは、この、「「北政所=松平忠直と本田富正=烏丸光広と鶴姫」との、この三者関係の相乗的な関係から、相互に、「本阿弥光悦・俵屋宗達・角倉素庵・烏丸光広」、そして、謎を秘めた「岩佐又兵衛」との接点が、何やら、一筋の光明に照らし出されてくる。これらに関連することは、下記のアドレスで触れている。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-09-06

https://www.pref.fukui.lg.jp/doc/brandeigyou/brand/senngokuhiwa_d/fil/fukui_sengoku_45.pdf

両脇を支えられた酔っ払い.jpg

「五条大橋で踊る貴女(老後家尼)一行のしんがり・へべれけ野郎」(右隻第四・五扇中部)→A-2図

ここで冒頭の「五条大橋で踊る貴女(老後家尼)一行」(A図)に戻って、この「しんがり」の、この両脇をささえられた酔っ払いの「へべれけ野郎」(A-2図)は誰か?
 この「へべれけ野郎」を、五条大橋の欄干の脇に立って、口元を手で隠しながら観察している「怪しげな野郎」は、何やら、 先の(その八)、「豊国定舞台」で演じられている「烏帽子折」を、地べたに寝そべって見ている「怪しげな野郎」の一人のような雰囲気なのである。

豊国定舞台・横になっている男.jpg

「豊国定舞台を寝そべって見ている二人 」(右隻第一扇中部)→ A-3図

この「豊国定舞台を寝そべって見ている二人 」(A-3図)は、次の「豊国廟(桜の下)の地べたに坐っている二人」(A-4図)の感じで、

豊国廟の二人.jpg

「豊国廟(桜の下)の地べたに坐っている二人」 → A-4図

 これらの二人は、先に(その八)、次のアドレスで次のように記述した。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-09-06

【 さて、A-3図の「豊国定舞台」の「左折烏帽子」と「寝そべっての観客二人」に戻って、この「寝そべって、頬杖で見物している二人の男性」の、その右側の柄物の衣服をまとった男性は、蕪村の俳画に出てくる「花見又平=浮世又平=浮世又兵衛=岩佐又兵衛」その人のようなイメージを受けるのである。
 とすると、もう一人の、白衣のような着物の、何か怒っているような顔つきの男は、「又兵衛工房の謎の一番弟子」(「小栗判官絵巻」の「細長い顔かたちの人物像などを描いた有力な画家A」=『岩佐又兵衛―血と笑いとエロスの絵師(辻惟雄・山下裕二著)・とんぼの本・新潮社』P104-105)での「辻惟雄説」)ということになる。 】

 この「岩佐又兵衛と謎の一番弟子A」が現れると、その周辺の人物は「要注意」ということになる。さしずめ、この「豊国廟(桜の下)の地べたに坐っている二人」(A-4図)の傍らの、この二人の貴婦人のうちの一人は、「高台院(北政所)」を暗示しているのかも知れない。 
 として、冒頭の「五条橋で踊る老後家尼」(B図))の「赤の小袖」の女性が「高台院(北政所)」とすると、この二人の貴婦人(A-4図)のうちの、「後ろ向きの赤の小袖の女性」が、
「高台院(北政所)」ということになる。そして、一見する「貴人傘」の下の「高台院(北政所)」のような女性は、「目眩(くら)まし」ということになる。

豊国廟の枝垂れ桜.jpg

「豊国廟の枝垂れ桜」→ A-5図

 この左端の桜が、「豊国廟の枝垂れ桜」で、この「枝垂れ桜」が、次の図(A-2図)の、左から二番目の「若衆」が手に持っている「枝垂れ桜」で、「五条大橋で踊る貴女(老後家尼)一行」(A図)は、「豊国廟」で花見宴をしての帰りだというのである(『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』P208)。

両脇を支えられた酔っ払い.jpg

「五条大橋で踊る貴女(老後家尼)一行のしんがり・へべれけ野郎」(右隻第四・五扇中部)→A-2図

 こうなると、ますます、この「へべれけ野郎」が「何者なのか?」が気にかかってくる(以下、次号で探求したい)。

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洛中洛外図・舟木本(岩佐又兵衛作)」周辺探索(その十一) [岩佐又兵衛]

(その十一)「方広寺大仏殿」の数奇な運命は何を語るか?

豊国祭礼図屏風左隻.jpg

「豊国祭礼図屏風」左隻(第一~六扇)(徳川美術館蔵)各 縦166.7 横345.0 六曲一双→A図 
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/heritagebig/18957/1/2

【豊国祭礼は、豊臣秀吉七回忌を記念して慶長九年(一六〇四)八月に行われた祭典である。向かって右隻には豊国神社社頭における田楽猿楽の奉納、騎馬行列が、左隻には方広寺大仏殿を背景に、上京・下京の町衆が華美ないでたちで豊国踊に熱中するさまが描かれる。一双で千人近い人物が華麗な彩色と力強い筆致で、しかも細密に描きだされており、これらの群衆が織りなすうねるような狂躁や熱気は、見る者を圧倒する。本図は岩佐又兵衛筆と伝承されるが、確証はない。高野山光明院、蜂須賀家と伝来し、昭和八年徳川美術館の所蔵となった。】

 この図の中央の上部に「方広寺大仏殿」が描かれ、その左上部に、「豊国廟」が金雲の中に描かれている。この「左隻」の主題は、この「方広寺大仏殿」ではなく、その前で演じられている「上京・下京の町衆が華美ないでたちで踊っている豊国踊(風流踊)」にある。
 この「豊国踊(風流踊)」は、次のとおり説明される。

【華やかな衣装で着飾り、または仮装を身につけて、鉦(かね)や太鼓、笛などで囃し、歌い、おもに集団で踊る踊りである。のちには、華麗な山車の行列や、その周囲で踊った踊りを含めて「風流」と称した。疫神祭や、念仏、田楽などに起源をもつ芸能と考えられている。文明9年(1477年)まで続いた応仁・文明の乱以降とくにさかんになり、踊りを中心に広まった。歴史的には、『豊国祭図屏風』に描写された慶長9年(1604年)の豊臣秀吉七回忌における豊国神社の風流踊がよく知られている。 】(「ウィキペディア」)

 この「豊臣秀吉七回忌を記念して慶長九年(一六〇四)八月に行われた『豊国大明神臨時祭礼』」は、時の「豊国社神宮寺別当・神龍院梵舜」の日記『舜旧記』に、その準備の記事が、同年五月から詳細に記述されている。

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1367086

神竜院梵舜日記(国立国会図書館デジタルコレクション)

慶長九年五月二日(コマ番号 16/316)『豊国祭礼図を読む(黒田日出男著)』P105
同  五月十六日 『豊国祭礼図を読む(黒田日出男著)』P105
同  五月十九日 『豊国祭礼図を読む(黒田日出男著)』P105
同  五月二十日 『豊国祭礼図を読む(黒田日出男著)』P106
同 五月二十四日 『豊国祭礼図を読む(黒田日出男著)』P106
同 五月二十四日 『豊国祭礼図を読む(黒田日出男著)』P106 

同 八月十四日(コマ番号 26/316)『豊国祭礼図を読む(黒田日出男著)』P113 

舜旧記・豊国祭実施.jpg

「神竜院梵舜日記」(国立国会図書館デジタルコレクション)(コマ番号 26/316)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1367086

 『豊国祭礼図を読む(黒田日出男著)』の「Ⅳ 秀吉七回忌の豊国大明神臨時祭礼」(P104-132)の論理の展開を、その見出しだけて追うと次のとおりである。なお、大事なポイントは、要約して※印に記して置きたい。

〇梵舜日記「舜旧記」はかたる。
〇豊国臨時祭礼の準備のプロセス
〇臨時祭礼は十三日、一日で挙行の予定
〇臨時祭礼は天候次第
〇雨天順延と祭礼次第の変更
〇「仰せ」は家康、金主は秀頼
※十五日の梵舜の記述によると、費用は大阪の秀頼が出すけれども、臨時祭礼はあくまで家康の「仰せ」によって執り行われている。片桐且元の指示もあって、梵舜はしばしば伏見城の家康のもとに参上し、「御意」を得ていることなどが記されている。
〇十六日からは定例の豊国祭礼
※十六日は禁裏による神楽(勅使烏丸光広、役者藪藤園・持明院、地下十人斗)、十七日には大原巫女による湯立、十八日に、大阪から秀頼の名代として片桐且元、禁裏から神馬が立てられ、定例の祭りが執行される。その後で、諸大名参詣、十九日、舞楽(定例の四座演能は臨時祭礼で挙行され、舞楽のみ)執行。
〇演能の代わりに舞楽
〇豊国臨時祭礼の要点
〇桟敷の主人公は高台院、彼女が読解の焦点
※「天下人」徳川家康も、大阪の豊臣秀頼・淀殿も、豊国大明神臨時祭礼には出席していない。この秀吉七回忌に、豊臣家を代表して桟敷にいたのは高台院(北政所、秀吉の妻おね)のみである。
〇豪奢極まりない臨時祭礼(※「イエズス会宣教師報告」による)
〇太田牛一の「豊国大明神臨時祭礼記録」
〇騎馬を出した豊臣恩顧の大名衆(※「豊国大明神臨時祭礼記録」による)
※前田利長(羽柴肥前守)=三十疋、福島正則(羽柴侍従)=二十疋、加藤清正(賀藤肥後守)=十五疋、細川忠興(羽柴越中守)=十二疋、浅野長政(浅野紀伊守)=十疋、木下勝俊(若狭宰相)=六疋、京極高知(丹後侍従)=六疋、福嶋高晴(福嶋掃部)=壱疋
已上=百疋
※筒井定次(伊賀侍従)=弐疋、蜂須賀家政(蜂須賀阿波守)=六疋、中村一氏(中村伯耆守)=三疋、山内一豊(山内土佐守)=三疋、 生駒一正(生駒讃岐守)=五疋、鍋嶋勝重(鍋嶋信濃守)=十一疋、田中吉政(田中筑後守)=九疋、加藤嘉明(賀藤左馬助)=六疋、藤堂高虎(藤堂佐渡守)=六疋、有馬豊氏(有馬玄番頭)=弐疋、脇坂安治(脇坂淡路守)=壱疋、寺沢広高(寺沢志摩守)=三疋、加藤貞泰(賀藤左衛門尉)=壱疋、金森可重(金森出雲守)=弐疋、一柳直盛(一柳監物)=弐疋、徳永寿昌(徳永法印)=弐疋、冨田信高(冨田信濃守)=弐疋、九鬼守隆(九鬼長門守)=弐疋、古田重勝(古田兵部少)=弐疋、稲葉道通(稲葉蔵人)弐疋、関一政(関長門守)=壱疋、本田利朝(本田因幡守)=壱疋、前田茂勝(前田主膳正)=壱疋、亀井茲矩(亀井武蔵)=壱疋、高橋元種(高橋左近)=壱疋、伊藤祐慶(伊藤修理)=壱疋、秋月種長(秋月長門守)=壱疋、堀秀治(羽柴左門)=壱疋、木下重堅(羽柴因幡守)=壱疋、大野治長(大野修理)=壱疋、前田広定(前田権介)=壱疋、長谷川守知(長谷川右兵衛)=壱疋、杉原長房(杉原伯耆守)=壱疋、速水守久(速水甲斐守)=壱疋、伊藤長次(伊藤丹後守)=壱疋、堀田盛重(堀田図書)=壱疋、青木一重(青木民部少)=壱疋、竹中隆重(竹中伊豆守)=壱疋、毛利高政(毛利伊勢守)=壱疋、山崎家盛(山崎佐馬氶)=壱疋、柘植与一(柘植大炊介)=壱疋、片桐且元(片桐主膳正)=壱疋、野々村雅春(野々村次兵衛)=壱疋、真野助宗(真野蔵人)=壱疋、中嶋氏種(中嶋左兵衛)=壱疋、西尾光教(西尾豊後守)=壱疋。
已上=百疋
※徳川ゆかりの大名は一人も加わっていない。また、「関ケ原合戦」で敗れた「毛利輝元・上杉景勝」らも加わっていない。
〇臨時祭礼次第(※「豊国大明神臨時祭礼記録」による)
※「豊国踊」は、京都の上京から三組、下京から二組が出て、各組三百名構成、総計 千五百名の「京町衆」が参加し、各組ともそれぞれお揃いの⾐装を着て、⼯夫を凝らした造り物を出した。
〇「豊国大明神臨時祭礼記録」の信憑性と弱点
〇文献と絵画は同等に、相互比較しつつ読解されるべきだ
〇「豊国祭礼図屏風」から独自な歴史情報が読み取れる
〇「臨時祭礼の中心にいる
※「豊国祭礼図屏風」読解の核心となるだろう表現こそず、高台院の姿なのである。「豊国祭礼図屏風」においては、彼女の姿がどのように表現されているのかが、絵画史料読解のための要となる。

 上記のA図の「豊国祭礼図屏風」左隻(第一~六扇)は、「方広寺大仏殿」を背景として、「京都の上京から三組、下京から二組が出て、各組三百名構成、総計 千五百名の「京町衆」が参加した」と記録されている「豊国踊=風流踊」が、この図の主題となる。
 そして、下記のB図の「豊国祭礼図屏風」左隻(第四扇部分拡大図)は、その中心の一場面である。この「標識」のようなものに、「川東 上京 川西」とあり、「1571年(元亀2)の《上下京御膳方御月賄米寄帳》によると,上京の町組編成は,一条組4町,立売組14町と寄町分29町,中筋組12町,小川組10町,川ヨリ西町21町であり,下京は中組18町,牛寅組15町,川ヨリ西組17町である」(世界大百科事典 第2版「町組」の解説)などが参考になろう。

豊国踊.jpg

「豊国祭礼図屏風」左隻(第四扇部分拡大図)の「大仏殿前の豊国踊=風流踊」→B図
https://artsandculture.google.com/asset/festival-of-h%C5%8Dkoku-shrine-left-screen-iwasa-matabei/DQG2KSydiLG95A?hl=ja&ms=%7B%22x%22%3A0.5011565150346956%2C%22y%22%3A0.48255999999999993%2C%22z%22%3A10%2C%22size%22%3A%7B%22width%22%3A1.1711642251349268%2C%22height%22%3A1.2064%7D%7D

豊国祭礼図・右隻部分拡大図.jpg

「豊国祭礼図屏風」右隻(第二・三・四扇部分拡大図)の「豊国社前の『舞楽』と『騎馬行列』」→C図
https://artsandculture.google.com/asset/festival-of-h%C5%8Dkoku-shrine-right-screen-iwasa-matabei/2AFW7iv6tr1u3g?hl=ja

 このC図の「豊国社前の『舞楽』と『騎馬行列』」は、A図とB図の「豊国祭礼図屏風」左隻」の「右隻」の「第二・三・四扇部分拡大図」である。
 そして、この場面は、上記の梵舜日記「舜旧記」の次の記述と、それに続く、太田牛一の「豊国大明神臨時祭礼記録」の、次の記述のとおりとなる。

【〇十六日からは定例の豊国祭礼
※十六日は禁裏による神楽(勅使烏丸光広、役者藪藤園・持明院、地下十人斗)、十七日には大原巫女による湯立、十八日に、大阪から秀頼の名代として片桐且元、禁裏から神馬が立てられ、定例の祭りが執行される。その後で、諸大名参詣、十九日、舞楽(定例の四座演能は臨時祭礼で挙行され、舞楽のみ)執行。
〇演能の代わりに舞楽
(中略)
〇太田牛一の「豊国大明神臨時祭礼記録」
〇騎馬を出した豊臣恩顧の大名衆(※「豊国大明神臨時祭礼記録」による)
※前田利長(羽柴肥前守)=三十疋、福島正則(羽柴侍従)=二十疋、加藤清正(賀藤肥後
守)=十五疋、細川忠興(羽柴越中守)=十二疋、浅野長政(浅野紀伊守)=十疋、木下勝俊(若狭宰相)=六疋、京極高知(丹後侍従)=六疋、福嶋高晴(福嶋掃部)=壱疋
已上=百疋
※筒井定次(伊賀侍従)=弐疋、蜂須賀家政(蜂須賀阿波守)=六疋、(以下、略) 】

 「舜旧記」の十四日の条に、「騎馬二百騎(上記の豊臣恩顧の大名衆の二百疋)、豊国之神官六十二人、吉田(吉田神社)神人三十八人、合百騎、上賀茂神官八十五人、楽人十五人、合百騎、都合二百騎、建仁寺門前ヨリ二行立、馬乗也」とあり、合計四百騎の騎馬行列ということになる。
 上記(C図)の、豊国社の楼門の左右に桟敷席が設けられ、そこに、この「豊国大明神臨時御祭礼」の中心人物の「高台院(北政所、秀吉の妻おね)が、その何処かに描かれていることであろう。しかし、ここには、「天下人」の徳川家康も、大阪の豊臣秀頼・淀殿も参加していないというのである(上記の「舜旧記)。
 しかし、上記の「豊臣恩顧の大名衆」の主だった者は、「福島正則(羽柴侍従)、加藤清正(賀藤肥後守)、浅野長政(浅野紀伊守)、京極高知(丹後侍従)」など、その「舜旧記」の十四日の条に名を連ねている。
 しかし、この「豊国祭礼図屏風」(徳川美術館蔵)を、阿波・淡路の二か国を有する「蜂須賀家政(蓬庵)」が、「慶長十九年(一六一四)の秀吉十七回忌に、阿波小松島に建立した豊国社に奉納するために、岩佐又兵衛に、その制作依頼をし、それが出来上がったのは、元和元年(一六一五)、もしかすると同二年まで、かかったかもしれない。そして、それは、舟木本『洛中洛外図屏風』よりも少し後に制作されたのであろう」(『豊国祭礼図祭礼図を読む(黒田日出男著)』所収「エピローグ」P274などの要約)とする、その注文主の「蜂須賀家政(蓬庵)」は、この「豊国祭礼図屏風」(A図・C図)には、臨席していない(『黒田・前掲書』P247)。
 ところが、この『豊国祭礼図祭礼図を読む(黒田日出男著)』での見解を、次のアドレスの「徳川美術館蔵「豊国祭礼図」の注文主―桟敷に坐る武士の姿と蜂須賀家政の肖像画―(黒田日出男稿)」で、大きく軌道修正して、A図の「豊国祭礼図屏風」左隻」の「第四扇中部」に、「蜂須賀家政(蓬庵)」らしき人物を検証したという見解へと歩を一歩進めている(これらについては、末尾の「参考」で触れることにする。) 

https://www.tokugawa-art-museum.jp/academic/publications/kinshachi/items/%E9%87%91%E9%AF%B1%E

豊国大明神臨時祭礼記録.jpg

「豊国大明神臨時御祭礼記録」( 太田牛一著) (国立国会図書館デジタルコレクション)(コマ番号 23/28)
https://www.digital.archives.go.jp/DAS/meta/listPhoto?LANG=default&BID=F1000000000000040346&ID=&TYPE=

これは太田牛一の「豊国大明神臨時御祭礼記録」の「豊臣恩顧の大名衆」の「騎馬行列」に参加した数の、最初のページのものである。この筆頭の「羽柴肥前守(前田利長)」も、「舜旧記」には、当日、「前田利長」の名は記録されていない。「蜂須賀家政(蜂須賀阿波守)=六疋」も、このページの後に出てくるが、「舜旧記」では、当日、本人が臨席したのかどうかの記述は定かでない。
 とにもかくにも、慶長九年(一六〇四)八月の、秀吉七回忌の「豊国大明神臨時祭礼」は、その絶頂期のもので、これを挙行したのは、「徳川家康」(形式的な挙行者)でも「豊臣秀頼・淀殿」(実質的な挙行者)でもなく、この両者を、一種の高い政治力をもって、その調整役の重責をこなしていた「高台院(北政所、秀吉の妻おね=ねね)」ということになろう。
 そして、この岩佐又兵衛の「豊国祭礼図屏風」は、その絶頂期の頃の「方広寺大仏殿(大仏殿炎上=再建途上)・豊国社・豊国廟・豊国祭礼」を物語るものということが出来よう。

(再掲)

方広寺大仏殿・鐘楼図.jpg

「洛中洛外図屏風・舟木本」の「方広寺大仏殿・鐘楼・豊国社・豊国廟」(右隻第一・二扇) → D図

 この岩佐又兵衛の「洛中洛外図屏風・舟木本」の「方広寺大仏殿・鐘楼・豊国社・豊国廟」は、慶長十九年(一六一四)の、「方広寺鐘銘事件」、そして、それに続く、「大阪冬の陣」の、徳川家と豊臣家とが「風雲急を告げる」頃の英姿ということになる。

方広寺略年表.jpg

「方広寺跡発掘調査広報発表資料 2021 公益財団法人 京都市埋蔵文化財研究所」所収「方広寺関連略年表」(これは「改訂前」のもの)
https://www.kyoto-arc.or.jp/News/houdou/20210210.pdf

 この「方広寺関連略年表」を見ると、全てが見えてくる

慶長5年 1600 関ヶ原の戦い。この年に、豊臣秀頼は「方広寺大仏殿」の再建を開始する。
慶長7年 1602 鋳造中の大仏より出火。大仏殿炎上。
(慶長9年 1604 秀吉七回忌の「豊国大明神臨時祭礼」=岩佐又兵衛の「豊国祭礼図屏風」=A・B・C図 )
慶長13年 1608 秀頼、大仏殿再建工事を着工。
慶長19年 1614 大仏殿ほぼ完成するが、「方広寺鐘銘事件」が起きる。
(岩佐又兵衛の「洛中洛外図屏風・舟木本」の「方広寺大仏殿・鐘楼・豊国社・豊国廟」=D図)
慶長20年 1615 大坂夏の陣、豊臣氏滅亡。
寛文2年 1662 地震のために大仏破損、鋳潰され銅銭に。木像仏に作り替えられる。
寛政10年 1798 大仏殿落雷のため全焼。(芦雪筆「大仏殿炎上図」=下記のとおり)

芦雪・炎上.jpg

芦雪筆「大仏殿炎上図」紙本淡彩 一幅(個人蔵)
一二〇・五×五六・二cm 寛政十年(一七九八)作

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2017-09-11

【 「大仏殿」というと、奈良東大寺のそれが思い起こされるが、芦雪が描く「大仏殿炎上図」(個人蔵)は、京都・東山の方広寺の金堂(大仏殿)である。この方広寺の大仏は、豊臣家の滅亡の歴史を象徴するかのような、数奇な運命を辿る。
 豊臣秀吉の創建だが、慶長元年(一五九六)の畿内を襲った大地震で倒壊、それを秀頼がブロンズ製で再建に着手したが、工事中の火災などでの曲折を経て、慶長十九年(一六一四)に完成。後は開眼供養と堂供養を待つだけとなったが、有名な「方広寺鐘銘事件」が起き、落慶は中止。その後も、寛文二年(一六六二)に再び震災で倒壊、そして、寛政十年(一七九八)七月一日に、落雷により焼失してしまうのである。
 この時の炎上の様子を描いたのが、下記の「大仏殿炎上図」である。落款に「即席漫写
芦雪 印」があり、芦雪は眼前で燃え盛る大仏殿を実際に見ながら、「即席」で「漫写」(一気呵成の自在な筆遣いで写す)したのであろう。
 空高く噴き上げる紅蓮の炎と煙に「畳目」が写っている。さらに、この落款は「墨と朱とを使い分け、あたかもこれらの文字が、大仏殿から立ちのぼる炎に照らし出されていいるかのようにも見え」、「神技とでもいうべきか。毘首羯磨(ビシュカツマ=帝釈天の眷属、細工物、建築をつかさどる天神)もかくや、と思わせる筆の冴えである」(『江戸の絵を楽しむ(榊原悟著)』)と称賛されているのである。
 この作品は、芦雪が亡くなる一年前の、四十六歳の時のものである。「白象黒牛図屏風」(六曲一双)が「屏風画」とすると、こちらは「掛幅画(掛軸)」ということになる。
『江戸の絵を楽しむ(榊原悟著)』では、「縦に『ひらく』演出」と題して、この作品を取り上げ、そこで、「掛緒を掛けて軸を回転させながら下方へ下げていくことで」、「変化のドラマ」が生じ、「画面を『ひらく』にしたがって、一瞬、人魂とも、焚き火の煙とも見えたものが、じつは巨大な火の粉であり」、その最下部の二層の甍(小さく描かれた『大仏殿』と「楼門」)の炎上が、「同じ『かたち』でありながら、それが表す(意味)を劇的に変化」させているというのである。
 そして、これらを、「見事な『造形の魔術』」として、それを成し遂げた芦雪を、上述の「毘首羯磨(ビシュカツマ=帝釈天の眷属、細工物、建築をつかさどる天神)」との称賛に繋げているのである。】

 この《落款に「即席漫写芦雪 印」があり、芦雪は眼前で燃え盛る大仏殿を実際に見ながら、「即席」で「漫写」(一気呵成の自在な筆遣いで写す)した》の「即席漫《謾?》写」は、「即席傍写」で、「即興的に傍らの画仙紙に即写した」と、そして、この「畳目」は、「渇筆で、下敷きの畳目の縞を活かす表現手法は、それ以前の絵師にも、意図的に使われていた」を瞬時に、この一枚の作品に集約している、と、そう解することが、この時の「芦雪」の、この一枚の「作品」に込められて真意かと(先達の教示を得て)、ここに再掲をして置きたい。

(参考)「徳川美術館蔵「豊国祭礼図」の注文主―桟敷に坐る武士の姿と蜂須賀家政の肖像画―(黒田日出男稿)」

https://www.tokugawa-art-museum.jp/academic/publications/kinshachi/items/%E9%87%91%E9%AF%B1%E

(再掲)

豊国祭礼図屏風左隻(全体).jpg

「豊国祭礼図屏風」左隻(第一~六扇)→A図 
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/heritagebig/18957/1/2
豊国踊.jpg

「豊国祭礼図屏風」左隻(第四扇部分拡大図)の「大仏殿前の豊国踊=風流踊」→B図
https://artsandculture.google.com/asset/festival-of-h%C5%8Dkoku-shrine-left-screen-iwasa-matabei/DQG2KSydiLG95A?hl=ja&ms=%7B%22x%22%3A0.5011565150346956%2C%22y%22%3A0.48255999999999993%2C%22z%22%3A10%2C%22size%22%3A%7B%22width%22%3A1.1711642251349268%2C%22height%22%3A1.2064%7D%7D

桟敷席の蓬庵.jpg

「豊国祭礼図屏風(A図)」(左隻)の第四扇「大仏殿前の豊国踊(B図)」の中央「桟敷席の中年武士(蜂須賀家政)(E図)」

『豊国祭礼図祭礼図を読む(黒田日出男著)』(P247)では、蜂須賀家政(蓬庵)について、次のように記している。

【 慶長五年九月に剃髪して蓬庵と号し、徳島に隠居していた彼は、慶長九年に行われた豊国大明神臨時祭礼の場には臨席できなかった。慶長十五年の臨時祭礼についても同様であった。そこで、秀吉恩顧の豊臣系大名である家政は、慶長十九年の秀吉十七回忌に際して、自ら隠居屋敷にほど近い地に豊国社を創建したのであった。その時に、すでに聞き知っていた豊国本社と同様の「豊国祭礼図屏風」の制作を思い立ったのであろう。 】

 これが、「徳川美術館蔵「豊国祭礼図」の注文主―桟敷に坐る武士の姿と蜂須賀家政の肖像画―(黒田日出男稿)」では、次のとおり、「豊国祭礼図屏風」左隻(A図)第四扇「大仏殿前の豊国踊」(B図)の中央の「桟敷席の中年武士(蜂須賀家政)(E図)」は、この「豊国祭礼図屏風」の注文主の「蜂須賀家政(蓬庵)」であるということを検証している。

【 四 左隻の中心の桟敷とそこに坐っている武士の姿(要点を要約)

 この桟敷(E図)にいる大人は中年の武士一人だけである。あとは武士の前にいる童一人と、背後の小姓と思われる前髪姿の少年が二人いるだけである。
 この武士は、一体、何者として描かれているのだろうか。十数年前から調べ始めた。

挿図13 「太」(太閤)の標と竿頭の「卍」印 → 左隻第二扇下部

太と卍紋.jpg

挿図14 水引暖簾にびっしり描かれた「卍紋」→左隻第四扇中部→C図の上部の「水引暖簾

挿図15-1 旗の竿頭の〇のなかに描かれている「卍紋」→左隻第一扇中部(省略)

挿図16-1 旗の竿頭の〇のなかに描かれている「卍紋」→左隻第六扇下部(省略)

挿図17 「寶光」(豊公)の旗と竿頭の〇 → 左隻第六扇中部(省略)

挿図18 「卍紋」を結ぶ二本の直線 → 左隻20

挿図19 中年の武士の姿勢と左手の「かたち」→左隻第四扇中部(省略)  

挿図20 女主人公の姿勢と左手の「かたち」→左隻第四扇中部(省略)

挿図21 蜂須賀家政像トレース(トレースに替えて「下記「蜂須賀家政像」=「ウィキペディア」=左手の扇子の持ち方は相違) 

蜂須賀家政.jpg

 徳川美術館本は、「右隻」に「かぶき者」に見立てた豊臣秀頼を描き、左隻らは、注文主である蜂須賀家政(蓬庵)の姿を描いた屏風である。このような二つの重要な表現が描きこまれた徳川美術館本は、慶長十一年八月に、豊臣秀頼・淀殿によって京の豊国神社に奉納された豊国神社本にならったとかんがえる。豊国神社本と徳川美術館本、この二つの屏風があたかも親子のような表現関係なのは当然のことであった。
 徳川美術館本は、慶長十九年夏頃に蜂須賀家政が岩佐又兵衛に注文し、又兵衛は同二十(元和元)年夏頃にそれを完成させた。その後まもなく蜂須賀家政(蓬庵)は、この屏風を阿波の豊国社に奉納したのであろう。 】

 なお、豊国神社本は、下記のアドレスで見ることが出来る。

https://www.dnp.co.jp/news/detail/1190057_1587.html
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洛中洛外図・舟木本(岩佐又兵衛作)」周辺探索(その十) [岩佐又兵衛]

(その十)「方広寺大仏殿」の「鐘楼」は何を語っているのか?

方広寺鐘楼.jpg

「方広寺大仏殿・鐘楼」(右隻第一扇・中部) → A図
https://emuseum.nich.go.jp/detail?content_base_id=100318&content_part_id=001&content_pict_id=045&langId=ja&webView=null

 この「洛中洛外図屏風・舟木本」の「方広寺大仏殿・鐘楼」は、前回(その九)の「方広寺の前の喧嘩」図と連動しており、「大阪冬の陣」の勃発する「方広寺鐘銘事件」を示唆しているように思われる。
 「方広寺鐘銘事件」関連については、次のアドレスのものが参考となる。

https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=805

【方広寺鐘銘事件(ほうこうじしょうめいじけん)

 豊臣秀頼による方広寺大仏殿再興に際しひき起され、大坂冬の陣の原因の一つとなった事件。豊臣秀頼は、亡父秀吉追善供養のため、慶長七年(一六〇二)、方広寺大仏殿(東山大仏堂)の再建に着手したが、年末の失火で頓挫、あらためて片桐且元を奉行に七年後に事業を再開、同十五年六月十二日地鎮祭、八月二十二日立柱式にこぎつけた。大工事で出費も莫大なものであったが、最後に、慶長十九年四月十六日、高さ一丈七寸(三・二四メートル)、口径九尺五寸(二・八八メートル)、銅使用量一万七千貫(六三・七五トン)という巨鐘の鋳造をもって無事竣工した。
 五月二十一日、大仏開眼供養と堂供養とを併せて八月三日に行うことが決まり、駿府の徳川家康の了承も得て準備がすすめられた。ところが七月十八日に家康から開眼供養と堂供養の分離案が出され、ついで同二十六日、鐘銘と棟札の文章に疑義ありとして供養の延期を命ぜられた。特に、鐘銘の中の「国家安康」「君臣豊楽」の二句がヤリ玉にあげられ、安の一字で家康を分断した上、豊臣を君として楽しむとの底意が隠されていると難詰、銘文を草した禅僧文英清韓と且元が弁明のため八月十三日駿府へ赴いたが、全く耳をかさなかった。
 それのみか、大坂城への浪人雇用を責め、九月に入るとさらに豊臣氏に対し、国替えまたは淀殿か秀頼の江戸下向のいずれかに応ぜよと強要するに至り、ついには大坂冬の陣が勃発した。なお、この事件の原因となった巨大な梵鐘は、明治十七年(一八八四)建立の方広寺鐘楼に納められて現存している。→大坂の陣(おおさかのじん)
[参考文献]『大日本史料』一二ノ一三・一四、岡本良一『大坂冬の陣夏の陣』(『創元新書』一六) (渡辺 武)   】

方広寺大仏殿・鐘楼図.jpg

「方広寺大仏殿・鐘楼」周辺(右隻第一・二扇) → B図

 この図の右端の一番下の所に「三十三間堂」の一部が見える。その左上が「方広寺大仏殿・鐘楼」である。その上が大きく描かれた「方広寺大仏殿」である。その左上に、前回(その九)の「方広寺前の喧嘩」図が描かれている。「大仏殿」の右手の後ろ、そして、「方広寺」の後方に「妙法院」その右手に「豊国社と豊が、国廟参道」が描かれ、この図の右端の一番奥に「豊国廟」が描かれている。そして、「方広寺」の上が「清水寺」で、その「清水寺の舞台」の一部が、この図の左端の奥ということになる。前々回(その八)の「豊国定舞台」は、「大仏殿」の右後方に描かれている。
 
 これらの「三十三間堂→大仏殿・鐘楼→大仏殿→方広寺・妙法院→豊国社→豊国廟→清水寺」というル-トは、殆ど同時期に原本が成立しているとされる「仮名草子」の『竹斎』(「岩波文庫・黄258-1」)の冒頭では、「三条大橋→祇園林→清水寺→豊国社→豊国廟→大仏殿→三十三間堂」のル-トで出て来る。

竹斎物語・清水寺.jpg

『竹斎』(「国文学研究資料館・東京大学国文学研究室蔵」)
http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=0004-007001&IMG_SIZE=&PROC_TYPE=null&SHOMEI=%E3%80%90%E7%AB%B9%E6%96%8E%E3%80%91&REQUEST_MARK=null&OWNER=null&BID=null&IMG_NO=6

 この挿絵の中央は「清水寺」、「竹斎・にらみの介」の下に「大仏殿」、そして、右手は「豊国社→豊国廟」に続いている感じである。

「三条大橋うち渡り、ぎおん林にさしかゝりまづ清水へまいり……」(略)

竹斎物語・豊国社.jpg

『竹斎』(「国文学研究資料館・東京大学国文学研究室蔵」)
http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=0004-007001&IMG_SIZE=&PROC_TYPE=null&SHOMEI=%E3%80%90%E7%AB%B9%E6%96%8E%E3%80%91&REQUEST_MARK=null&OWNER=null&BID=null&IMG_NO=7

 この挿絵は、上の図が「豊国社」、そして、下の図が「三十三間堂」のようである。

「とよ国大明神に参て、さきの関白ひで吉公の御れいせきなり。(略) 大仏でんをふしおがみ、三十三げんにまいりつゝ(略) 扨てそれより誓願寺に参り」

 この「とよ国大明神」は、豊臣秀吉の神号の「豊臣大明神」であるが、慶長十九年(一六一四)、大阪冬の陣、その翌年の元和元年(一六一五)の、大阪夏の陣で、豊臣家が滅亡すると、「徳川家康の意向により後水尾天皇の勅許を得て豊国大明神の神号は剥奪され、秀吉の霊は『国泰院俊山雲龍大居士』と仏式の戒名を与えられることになる。神社も徳川幕府により廃絶され、秀吉の霊は方広寺大仏殿裏手南東に建てられた五輪石塔(現:馬塚、当時の史料では「墳墓」とされる)に遷される」(「ウィキペディア」)こととなる。
 あまつさえ、「豊臣秀頼」の遺児「国松」(側室「伊那」との遺児)は、「徳川方の捜索により、国松は京都所司代板倉勝重のもとに連行され、5月23日、市中車引き回しの後、六条河原で田中六郎左衛門、長宗我部盛親と共に斬首。享年8。田中六郎左衛門は京極家の者として死罪を免れ得たものの、自ら殉死を志願して同時に処刑されたという。戒名は漏世院雲山智西大童子。墓所は京都市中京区の誓願寺にあったが、1911年、東山区の豊国廟に移されている」(「ウィキペディア」)という、これが、「大阪冬の陣・夏の陣」の「徳川(家康)」方と「豊臣(秀吉)」方の、その終戦処理の象徴的な出来事として、その墓所となっているとされる「誓願寺」の逸話として伝えられている。
 これらに関連して、岩佐又兵衛が、寛永十四年(一六三七)に妻子を残して福井を離れ、京に立ち寄ってから江戸へ向かった折の旅日記『廻国道之記』が今に遺されているが、その四条河原での感慨を、次のように綴っている。

「四条河原に行(ゆ)ひて見れば、さまざまのあやつり、色々けだもの、世の常に替はりて生れ付たるもの共あり。美しい若衆踊り紛るる見物おゝかれむりし、僅かなる御足もうくるとて、捻りを骨折り汗水になりてとろめくをみれば、世の中をわたる程かなしきものはあらじと、あわれもふかくおもはれ、…… 」

 この後、建仁寺の前を通り、方広寺の大仏殿と三十三間堂へ足を運び、続いて、豊国神社を参拝し、そこで、華麗な社殿が朽ち荒れたままの有様を見て、「久しからぬ命のうちにさかへおとろへを見るこそあはれなりけれ」と感慨にふけっている。

 これが、岩佐又兵衛が、その「洛中洛外図屏風・舟木本」で、豊臣秀頼によって再建された最期の栄華を誇っていた頃の「方広寺大仏殿・豊国廟」周辺の、それから、凡そ二十年後の、現実の姿であったのであろう。
 この岩佐又兵衛の『廻国道之記』は、次のアドレスで、その前半部分(「研究資料 廻国道の記」)だけ見ることができる。

file:///C:/Users/User/Downloads/327_33_Suzuki_Redacted.pdf

 なお、「誓願寺」関連については、「2021年6月5日(土)〜2021年7月25日(日)」に、「京都文化博物館」で、「京都文化プロジェクト 誓願寺門前図屏風 修理完了記念 花ひらく町衆文化 ―近世京都のすがた」展が開催された。その関連の記事が、次のアドレスで見ることが出来る。

https://www.bunpaku.or.jp/exhi_special_post/machishubunka/

 そこで、「【花ひらく町衆文化展】誓願寺門前図屏風(修理ドキュメント)」と題して、二本の「動画」(「YouTube」)が紹介されている。

誓願寺前屏風.jpg

岩佐又兵衛筆 誓願寺門前図屏風 17世紀 江戸時代 (京都文化博物館蔵)
https://www.bunpaku.or.jp/exhi_special_post/machishubunka/

 この「二曲一隻屏風の」の左隻の下部に、次の「かぶき者の喧嘩」図が描かれている。

誓願寺前屏風・喧嘩図.jpg

「岩佐又兵衛筆 誓願寺門前図屏風」(左隻下部)の「後藤庄三郎邸前のかぶき者の喧嘩図」

 この「かぶき者の喧嘩図」に、前回の「『洛中洛外図屏風・舟木本(A図)』」と『豊国祭
礼図屏風(B図)』」との「方広寺前の喧嘩図」とを並列させると次のとおりとなる。

(再掲)

方広寺前の冬の陣・夏の陣.jpg

「『洛中洛外図屏風・舟木本(A図)』」と『豊国祭礼図屏風(B図)』」との「方広寺前のかぶき者の喧嘩図」
誓願寺前屏風・喧嘩図.jpg

『誓願寺門前図屏風(C図)』の「後藤庄三郎邸前のかぶき者の喧嘩図」

 ここで、「洛中洛外図屏風・舟木本(A図)」と「豊国祭礼図屏風(B図)」、そして、「誓願寺門前図屏風(C図)」との、この三者関係を、どのように解するかについては、この段階で触れるのには、どうにもデータ不足で如何ともし難いが、「ファンタジー」(幻想的・独断的な仮説)的な視点で、次のように解して置きたい。

《 「ファンタジー」(幻視想的=独断的な仮説)的視点「その一」

「洛中洛外図屏風・舟木本(A図)」と「豊国祭礼図屏風(B図)」との「かぶき者の喧嘩図」は、何れも、「方広寺・妙法院・大仏殿・大仏殿鐘楼・豊国社・豊国廟」の、その門前の喧嘩図で、これらの背後に、「大阪冬の陣・夏の陣」が潜んでいると解して、殆ど、同時期の作品と解したい。強いて、どちらが先かとすると、扱っている主題の、『豊国祭礼』(慶長九年八月に行われた秀吉七回忌の豊国大明神臨時祭礼)から、「豊国祭礼図屏風(B図)」が先行し、その後を、総括的に、「豊国祭礼図屏風(B図)」を描いたものと理解をして置きたい。
そして、「豊国祭礼図屏風(B図)」の注文主は、「蜂須賀家政・蓬庵」周辺(『豊国祭礼図を読む(黒田日出男著)』)の方向で、そして、もう一つの、「洛中洛外図屏風・舟木本(A図)」は、これまでの「松平忠直・一伯」周辺と解して置きたい。

「ファンタジー」(幻視的=独断的な仮説)的視点「その二」

 「誓願寺門前図屏風(C図)」の「後藤庄三郎邸前のかぶき者の喧嘩図」は、「『洛中洛外図屏風・舟木本(A図)』」と『豊国祭礼図屏風(B図)』」との「方広寺前のかぶき者の喧嘩図」に、先行する作品と解したい。そして、その注文主は、「豊国祭礼図屏風(B図)」の注文主は、「蜂須賀家政・蓬庵」(『豊国祭礼図を読む(黒田日出男著)』説)周辺や、「洛中洛外図屏風・舟木本(A図)」の注文主の「松平忠直・一伯」周辺の「武家有力大名」と解して、「誓願寺門前図屏風(C図)」は、「後藤庄三郎邸前の喧嘩図」の「後藤庄三郎」周辺の「京の有力町衆」と解したい。  》

(参考)「町衆」周辺

まちしゅう【町衆】
林屋辰三郎が1950年に〈町衆の成立〉と題する論文で使用した歴史概念。林屋説によると,応仁・文明の乱後,京都住民の日常生活の前面に出てきた地域共同体を〈町(まち)〉といい,〈まち〉は〈街路を挟む二つの頰(つら)〉を指し,そこで生活する住民を〈町衆(まちしゆう)〉という。林屋の町衆概念の要点は,(1)町衆は応仁・文明の乱後に成立してくる生活共同体である〈町〉の構成員であり,(2)〈町〉は〈街路を挟む二つの頰〉であること,(3)応仁・文明の乱後の史料に〈町衆〉の用語が頻出してくること,(4)町衆は自己の責任で自己の〈町〉を防衛すること,(5)町衆の中核は酒屋,土倉などの高利貸業者であり,(6)酒屋,土倉などの上層町衆は京都近郊農民を収奪し,土一揆と対立し,(7)〈町〉の連合組織である〈町組〉が結成され,その指導的位置を上層町衆が占める,などである。(世界大百科事典 第2版)

https://www.doshisha.ac.jp/attach/page/OFFICIAL-PAGE-JA-370/140491/file/75Machishu.pdf

「町衆について」(仲村研稿)

https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000090297

京都の三長者

江戸時代初期,角倉・茶屋・後藤を合わせて京の三長者といいました。三家とも,織豊~徳川の時代にかけて,政権との結びつきが強く,政商としての性格を強く持っていました。朱印船貿易では,角倉・茶屋両氏は船を出し,後藤庄三郎は朱印船の帰国後,家康に土産を献上する際に指図したといわれています。また,三家ともに法華宗との関わりを持っており,茶屋・後藤両家は大檀那で,天文法華の乱の際は,町衆方の大将分として活躍しました。角倉家は浄土宗ですが,法華宗の僧である日禛(にっしん)に私有地の小倉山を提供しています。

〈角倉家〉
医家。土倉。代官職を世襲。本姓は吉田。朱印船貿易では「角倉船」を出しました。通算航海数17回は,朱印船貿易家の中では最多です。了以・与一(素庵)親子は大堰川や高瀬川の開削など,河川土木事業で業績をあげました。

〈茶屋家〉
呉服商。将軍家呉服御用達。糸割符商人。京都町人頭。本姓は中島。代々「四郎次郎」を名乗る。朱印船貿易では「茶屋船」を出しました。初代四郎次郎清延は本能寺の変の際,家康の伊賀越えを先導し,命の恩人となりました。武人でもあり,家康に付き添って戦に出ること52回という猛者でした。

〈後藤家〉
金工。御金改役。分銅の製作,分銅改め。金座。小判の検定極印。代々四郎兵衛を通称とした「彫金(または大判座)後藤」と代々庄三郎を名乗る「金座(または小判座)後藤」とがあります。四郎兵衛家は庄三郎家の師家筋に当たります。彫金後藤は祐乗を祖とする,室町時代から続く彫金師の家系です。五代徳乗のとき,秀吉から関東下向の命が下った際,弟子の橋本(一説には山崎とも)庄三郎に後藤姓と光の一字を与えて名代として遣わせました。その後,庄三郎は家康に可愛がられ,外国人から「家康の財務長官」と呼ばれるほどになりました。
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洛中洛外図・舟木本(岩佐又兵衛作)」周辺探索(その九) [岩佐又兵衛]

(その九)「方広寺」前の「かぶき者」の喧嘩は何を意味するのか?

方広寺前の喧嘩.jpg

「方広寺前の喧嘩(右隻第一・二扇上・中部」 → A図

 「方広寺」の前で「かぶき者」の喧嘩が始まっている。その右側は「豊国社」(豊国神社)である。その「方広寺」と「豊国社」の後方に「妙法院」と「豊国廟」に至る参道が描かれ、
この「方広寺」と「豊国社」の門前に、「方広寺大仏殿」の屋根の一角見える。
この図の下方に「方広寺大仏殿」が大きく描かれ、その下に、「三十三間堂」が描かれて
いる。そして、その「方広寺大仏殿」の右手に「豊国定舞台」が描かれ、そこで「烏帽子折」
の「能」が演じられている(「その八」)。
 この「洛中洛外図屏風・舟木本」の「右隻第一・二扇」は、この「舟木本」が出来た「大阪冬の陣・夏の陣」の前後の、「豊臣家」滅亡の頃の、「慶長十九年(一六一四)・元和元年(一六一五)」を背景としたもので、当時の豊国神社は社領が一万石、境内の敷地は三十万坪の誇大な敷地を有した頃の遺影ともいうべきものであろう。
 この後、「豊臣宗家が滅亡すると、徳川家康の意向により後水尾天皇の勅許を得て豊国大明神の神号は剥奪され、秀吉の霊は『国泰院俊山雲龍大居士』と仏式の戒名を与えられることになる。神社も徳川幕府により廃絶され、秀吉の霊は方広寺大仏殿裏手南東に建てられた五輪石塔(現:馬塚、当時の史料では「墳墓」とされる)に遷された。
 そして、秀吉の室北政所のたっての願いで社殿は残されたものの、以後一切修理をすることは禁止され、慶応四年(一八六八)閏四月、明治天皇の御沙汰書により、秀吉の社壇が再興されるまで朽ち果てるままに放置され、明治八年(一八七五)、大明神号は復されて、方広寺大仏殿跡に、現在の豊国神社が再建されるという経過を踏んでいる。」(「ウィキペディア」)

 さて、この「洛中洛外図屏風・舟木本」の「方広寺前の喧嘩」が、この「洛中洛外図屏風・舟木本」より先に描かれたとされる、同じ、岩佐又兵衛作とされる「豊国祭礼図屏風(六曲一双)」(徳川美術館蔵)の右隻(第五・六扇上・中部)に、次のような図柄で描かれている。

豊国祭礼図屏風・方広寺前の喧嘩.jpg 

「豊国祭礼図屏風(六曲一双)」(徳川美術館蔵)の右隻(第五・六扇上・中部)「方広寺前の喧嘩」 → B図
https://artsandculture.google.com/asset/festival-of-h%C5%8Dkoku-shrine-right-screen-iwasa-matabei/2AFW7iv6tr1u3g?hl=ja&ms=%7B%22x%22%3A0.14614200500288632%2C%22y%22%3A0.38997394883895614%2C%22z%22%3A12%2C%22size%22%3A%7B%22width%22%3A0.2922840100057726%2C%22height%22%3A0.3016%7D%7D

 この図の右上が「方広寺」の入り口である。その入り口の木戸で、一人の僧が、その喧嘩の様子を窺がっている。その前を「金雲」で一部省略しているが、一団の集団が、右手から左手に向けて、今や、喧嘩が勃発する一瞬の状態である。

 これらの、A図の「洛中洛外図屏風・舟木本」の「方広寺前の喧嘩」と、B図の「豊国祭礼図屏風」の「方広寺前の喧嘩」に関しては、下記のアドレスなどで、幾度となく触れている。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-08-02

 ここで、改めて、この「A図の『洛中洛外図屏風・舟木本』の『方広寺前の喧嘩』」は、「大阪冬の陣」の見立てで、その「B図の『豊国祭礼図屏風』の『方広寺前の喧嘩』」は、「大阪夏の陣」の見立てであるということなのである。
 ということで、その「A図」と「B図」を合成すると、次のようになる。

方広寺前の冬の陣・夏の陣.jpg

「A図の『洛中洛外図屏風・舟木本』」と「B図の『豊国祭礼図屏風』」との「方広寺前の喧嘩」 → C図

 この「C図」(「方広寺前の喧嘩」)の元になっているものが、「洛中洛外図」(歴博D本)の、下記の「豊国社(耳塚)前の喧嘩」図である。

耳塚の前の喧嘩図.jpg

「洛中洛外図」(歴博D本)右隻(第一・二扇上部)の「「豊国社(耳塚)前の喧嘩」→D図
https://www.rekihaku.ac.jp/education_research/gallery/webgallery/rakuchu_d/rakuchu_d_r.html

 この(「D図」)の左上部に「耳塚(鼻塚)」(戦死者の耳や鼻を弔ったとされる塚。文禄・慶長の役の戦功の証として討取った朝鮮・明国兵の耳や鼻を削ぎ持ち帰ったものを葬った塚として知られている)があり、その前で「かぶき者」の喧嘩が始まっている。
このD図の喧嘩は、「大阪冬の陣・夏の陣」の見立てではない。というのは、これは「豊国社」の「耳塚」の前の喧嘩で、「豊国社」に隣接した「方広寺の前の喧嘩」(C図)ではない。
「大阪冬の陣・夏の陣」の端緒を切ったのは、「方広寺鐘銘事件」(慶長一九年(一六一四)豊臣秀頼が京都方広寺大仏再興に際して鋳造した鐘の銘文中、「国家安康」の文に対して、徳川家康の名前が分割されて使われていることから、家康の身首両断を意図したものとして、家康が秀頼を論難した事件。大坂冬の陣のきっかけとなった)に由来する。
 これらの「方広寺の前の喧嘩」(C図)が、「大阪冬の陣・夏の陣」の見立てて解することについては、下記のアドレスなどで触れているので、末尾に、その要点となるところを再掲して置きたい。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-08-02

 その前に、「洛中洛外図」(歴博D本)の中に、前回(その八)の「『豊国定舞台』」で演じられている『烏帽子折』を、「寝そべって、頬杖で見物している二人の男性は誰か?」の、元になっているよう図があるので、紹介をして置きたい。

清水寺の寝そべっている男.jpg

「洛中洛外図」(歴博D本)右隻(第二扇上部)の「清水寺の寝そべっている男」→E図
https://www.rekihaku.ac.jp/education_research/gallery/webgallery/rakuchu_d/rakuchu_d_r.html

 この図(「E図」)は、「清水寺の舞台」で、周りの景色を眺めている図。左端に、寝そべって眺めている男性が二人居る。これを、岩佐又兵衛は、その「洛中洛外図屏風・舟木本」のスタート地点の「豊国定舞台」で演じられている「烏帽子折」を、地面に横になって見物している男性二人(前回に「岩佐又兵衛と門弟一人」に見立てた男性二人)に応用して描いたように思われる。
 「岩佐又兵衛」は、この種の「剽窃」というよりも「応用・転用」して、「新たな世界」を産み出すという、そういうことを意識して多用している雰囲気が濃厚のように感じられる。
 例えば、この「清水寺の舞台で寝そべって見学している二人の男性」は、別の視点からすると、「清水寺の舞台から必死になって飛び降りるのを躊躇している二人の男性」と「穿った」(俳諧用語の「穿ち」)見方も許容されることであろう。
 その「穿った」眼を、「清水寺の舞台」に非ず「豊国定舞台」の、「景色」に非ず「牛若丸の金色の『烏帽子折』」を、「必死になって観能している『怒った顔』付きの男性(門弟)」と、「演じられている『烏帽子折』と同時にその周囲の観能している見物客を『胡散臭げに観察している顔』付きの男性(岩佐又兵衛)」と取ることも、これまた許容範囲のことであろう。

(再掲)

豊国定舞台・横になっている男.jpg

「豊国定舞台」の「左折烏帽子」と「寝そべっての観客二人」(右隻第一扇中部)
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-09-06

 ここで、冒頭の「A図」(「方広寺前の喧嘩(右隻第一・二扇上・中部」)に戻って、これは、「大阪冬の陣」を象徴する一場面と理解することが出来よう。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-08-02

【 (再掲)

舟木本・大阪冬の陣.jpg

「洛中・洛外図屏風・舟木本」(東京国立博物館本)の「右隻第二扇中部部分拡大図」
https://emuseum.nich.go.jp/detail?content_base_id=100318&content_part_id=001&content_pict_id=045&langId=ja&

徳川美術館蔵「豊国祭礼図」の注文主
―桟敷に坐る武士の姿と蜂須賀家政の肖像画―(黒田日出男稿)

https://www.tokugawa-art-museum.jp/academic/publications/kinshachi/items/%E9%87%91%E9%AF%B1%E

【《二年前に出した拙著『豊国祭礼図を読む』では、徳川美術館本の右隻第五・第六扇の喧嘩の場面に、「かぶき者」に見立てられた豊臣秀頼の姿を見出したというに、この舟木本の喧嘩の場面については、肝心のディテールを「見落とし」てしまったのである。家紋を見落としたのだ。》

《妙法院と照高院の門前で喧嘩が始まっている。双方六人ずつ、武器は鑓・薙刀と刀である。》

《この妙法院と照高院の門前の喧嘩は何を意味しているのか? それを物語るのが、右側の男の背中に描かれている家紋であったのだ。この男の茶色の短い羽織の背中には、「丸に卍紋」が大きく描かれている。この「丸に卍紋」は阿波の蜂須賀氏の家紋である。妙法院・照高院の門前に描かれているのは下郎ないし「かぶき者」の喧嘩であるが、この家紋は、それが大きな戦いの「見立て」であることを示唆している。》

《慶長十九年(一六一四)十月からの「大阪冬の陣」において、とくに目立った軍勢は阿波の蜂須賀家勢(蜂須賀隊)であった。十一月十九日、大阪方の木津川の砦を、蜂須賀至鎮・浅野長晟・池田忠雄の三者で攻めることになったが、蜂須賀至鎮は抜け駆して、砦を陥落させたのであった。次に蜂須賀勢が著しい成果を挙げたのは、同月二十九日の未明に、薄田隼人の守っていた博労ケ淵の砦を攻撃し、砦を奪取した。また逆に、十二月十六日の深更に、蜂須賀勢の陣地は、大阪方の塙団右衛門らによって夜襲をかけられてもいる。》

《すなわち、大阪冬の陣における蜂須賀勢の攻防・活躍はとくに顕著であり、世間によく知られたことであった。他方、「大阪夏の陣」での蜂須賀軍はどうだったか。蜂須賀軍は、荒れた海と紀伊の一揆のために、夏の陣の決戦には間に合わず、夜通し進軍して、五月八日(大阪城の落城は五月七日)に住吉に着陣し、茶臼山と岡山の陣営に行って家康と秀忠に拝謁したのであった。》

《したがって、「かぶき者」の背中に描かれた「丸に卍紋」は、大阪冬の陣における蜂須賀勢を意味する。この場面は、大阪冬の陣における戦いを「かぶき者」たちの喧嘩に見立てたものだったのである。以上のように読むと、舟木本の右隻第二扇の喧嘩は、徳川美術館本の右隻第五・六扇上部に描かれた「かぶき者」の喧嘩の場面と繋がってくる。》 】
(「一 舟木本「洛中洛外図屏風」読解の「補遺」」の要点要約)

 この「徳川美術館蔵「豊国祭礼図か」の注文主(黒田日出男稿)」の論稿は、平成三十年(二〇一八)の徳川美術館での講演用のものを改稿したもので、この種の読解は現在進行形の形で、その後の知見も集積されていることであろう。
 それらの中には、おそらく、この「大阪冬の陣に見立てた『かぶき者』の喧嘩」が、「何故、『妙法院・照高院』の門前で描かれているのか」にも触れられているのかも知れない。
 これは、大阪冬の陣の勃発の発端となった「方広寺鐘名事件」の震源地の「方広寺」の総括責任者が、当時の方広寺を所管していた「照高院・興意法親王」で、この「方広寺鐘名事件」で、一時「照高院」は廃絶され、興意法親王は「聖護院宮」に遷宮となり、方広寺は「妙法院・常胤法親王」の所管となり、その「方広寺鐘名事件」関連の終戦処理は、その「妙法院・常胤法親王」が担うことになる。この「方広寺鐘名事件」に関連する、「興意法親王」の書状が今に遺されている。

興意法親王書状.jpg

御書状 「立札通」(聖護院宮 興意法親王書 ・海の見える杜美術館蔵)
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/237671

《 慶長十年(一六〇五)徳川秀忠江戸下向の際、暇乞に信尹や常胤らと礼参(義演准后日記)するなど、時の為政者によく仕えていたが、慶長十九年(一六一四)の方広寺鐘銘事件では、大仏殿住職の職を解かれ、聖護院にて遷居となった。なお、常胤が大仏殿住職を継いだ。
 後陽成天皇の皇弟で、酒樽二つ贈られた礼状。宛名は「金□□」と見えるが、明らかにしない。「諸白」はよく精白した米を用いた麹によってつくられた酒である。江戸へ下向して将軍に会ったことを述べて、末尾にはお目に懸ってまた申しましょうとあるが、文末の決まり文句で「期面云々」「面上云々」などを結びとするのが通例である。(『名筆へのいざない―深遠なる書の世界―』海の見える杜美術館2012 解説より) 》      】

 さらに、冒頭の「B図」(「豊国祭礼図屏風(右隻第五・六扇上・中部」)の「方広寺前の喧嘩」)に戻って、これは、「大阪夏の陣」を象徴する一場面と理解することが出来よう。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-07-30#comments

【(再掲)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-05-26

豊国祭礼図・秀頼.jpg

「かぶき者けんか図」(岩佐又兵衛筆・「豊国祭礼図屏風・徳川美術館蔵」より)
http://jarsa.jp/wp/wp-content/uploads/2017/03/e7517-flyer.pdf

http://sengokudama.jugem.jp/?eid=4895

かぶき者の鞘の銘.jpg

「かぶき者けんか図」(岩佐又兵衛筆・「豊国祭礼図屏風・徳川美術館蔵」より)の「鞘の銘記文」

《「廿三」は秀頼の死没年齢》(『豊国祭礼図を読む(黒田日出男著・角川選書533)』P263-264)

「《いきすぎたるや廿三 八まん ひけはとるまい》は、 近世史家杉森哲也氏の見事な着眼による、《豊臣秀頼の死没年齢なのである。》 これまでの多くの論者は「かぶき者」大島一兵衛にだけ惹きつけられていて、豊臣秀頼と大阪夏の陣のことに思いもおよばなかったのである。すなわち、画家岩佐又兵衛は、大阪夏の陣を「かぶき者」たちの喧嘩に「見立て」て、このもろ肌脱ぎの「かぶき者」を「豊臣秀頼」に「見立て」ているのである。この「八まん ひけはとるまい」とは「戦(いくさ)」のこと、大阪夏の陣で、決死の覚悟で「徳川方」に挑んでいる、その決死の銘文なのである。」(メモ=「八まん」は、「戦の神様の『八幡太郎義家(源義家)』の「比喩」的用例と解したい。)

豊国祭礼図屏風・秀頼・淀・高台院.jpg

「かぶき者けんか図」(岩佐又兵衛筆・「豊国祭礼図屏風・徳川美術館蔵」より)
二の一 重文「豊国祭礼図屏風(右隻)」(岩佐又兵衛(伝)徳川美術館蔵)の「右隻第六扇・拡大図(その一)」
https://artsandculture.google.com/asset/festival-of-h%C5%8Dkoku-shrine-right-screen-iwasa-matabei/2AFW7iv6tr1u3g?hl=ja

 この図(「右隻第六扇・拡大図(その一)」)の左の下方が「かぶき者」に見立てた「豊臣秀頼」で、それに対する、この図の右の下方の「かぶき者」は「徳川秀忠」の「見立て」だというのである。

《卍紋・梅鉢紋・鷹羽紋は語る》(『豊国祭礼図を読む(黒田日出男著・角川選書533)』P264-265)

「左側の若者が秀頼であるならば、右側の武士たちは徳川側である。相手になろうとしているのは秀忠であろう(七十歳を超えていた大御所家康の姿ではない)。この秀忠の周りにいて喧嘩を止めようとしている男の衣服は卍紋と梅鉢紋である。卍紋は蜂須賀家であり、梅鉢紋は前田家である。秀忠の後で刀を抜こうとして男の衣服の紋は鷹羽紋で浅野家の紋である(こま図の右側に鷹羽紋の男が出てくる)。」
 
 この図の中央に、この秀頼と秀忠との喧嘩を止めようとしている僧侶がいるが、これは、大阪冬の事件の切っ掛けとなった「方広寺鐘銘事件」の、問題の「国家安康」(家康の身首両断を意図している呪文の文字)と「君臣豊楽」(豊臣家の繁栄を祈願している文字」とを撰した、東福寺の長老・文英清韓(ぶんえいせいかん)などの見立てなのであろう。

《倒れ掛かる乗物のなかの淀殿》(『豊国祭礼図を読む(黒田日出男著・角川選書533)』P265-266)

豊国祭礼図・秀頼周辺.jpg

『豊国祭礼図を読む(黒田日出男著・角川選書533)』カバー表紙図

「このもろ肌脱ぎの若者(秀頼)の上部に倒れかかった立派な乗物(駕籠)が描かれている。この乗物には、家紋が鏤められている。この乗物の紋尽くしの中心にあるのは、豊臣家の家紋で、この倒れかかった乗物から、にゅーと女性の手が出ている。この乗物には、大阪城で秀頼と運命をともにした淀殿が乗っていることを暗示している。」

《後家尼姿の高台院》(『豊国祭礼図を読む(黒田日出男著・角川選書533)』P265-266)

「この倒れかかった乗物の上部に、破れ傘を持ってあわてて飛び退いている後家尼の老女が描かれている。この老後家尼こそ、秀吉の妻おね(北政所)つまりは高台院の姿なのである。」

これらは、『豊国祭礼図を読む(黒田日出男著・角川選書533)』での著者の考察なのであるが、これらの考察は、次の論稿により、さらに、深化を深めて行く。


徳川美術館蔵「豊国祭礼図」の注文主
―桟敷に坐る武士の姿と蜂須賀家政の肖像画―(黒田日出男稿)

https://www.tokugawa-art-museum.jp/academic/publications/kinshachi/items/%E9%87%91%E9%AF%B1%E

「倒れ掛かった乗物(駕籠)から、女の手が突き出ている。この乗物に鏤められているさまざまな家紋の殆どは「目くらまし」であり、豊臣氏の「桐紋」がある。乗っているのは淀殿なのだ。そして、この乗物を担いでいる揃いの短衣を着た駕籠かき二人は、大野治長・治房兄弟であろう。
 乗物の向こう側、すぐ脇に後家尼の老女がいて、破れ傘をもったまま慌てて飛び退いている。後家尼の姿だから、これは高台院(秀吉の妻おね、北政所)である。背後の首に赤布を巻いている女は、高台院に仕えていた女性(孝蔵主?)などではあるまいか。
 さらに上の方には、侍女に傘をさしかけられた、被衣姿の貴女がいる。喧嘩の騒ぎを眺めているようだ。今のところ確かな論拠は示せないのだけれども、大阪城から脱出した千姫の姿が描かれているように思われる。
 こうして徳川美術館本の右隻の一角には、大阪夏の陣の豊臣秀頼と徳川秀忠の戦いが「かぶき者」たちの喧嘩に見立てて描かれていたのであった。それは、この屏風の注文主にとって必須(あるいは必要)な表現であり、しかも、徳川方の者が見ても気付かれにくい「見立て」の表現だったのである。」(「二 徳川美術館本の「かぶき者」の喧嘩と大阪夏の陣」の要点要約)

 ここまで来ると、上記の図・上部の「大阪城から脱出した千姫」と思われる貴女の、左後方の屋敷から、喧嘩の状況を見極めているような人物は、千姫を大阪城の落城の時に、家康の命により救出した「坂崎直盛(出羽守)」という「見立て」も可能であろう。
 さらに、この図の下部の「秀頼と秀忠との喧嘩を止めようとしている僧侶(三人?)
のうちの中央の身分の高い僧衣をまとった人物は、「方広寺鐘銘事件」が勃発した時の、方広寺門跡「興意法親王(誠仁親王の第五皇子・一五七六~一六二〇)」の「見立て」と解することも、これまた、許容されることであろう。
 そして、この後陽成天皇の弟にあたる興意法親王(照高院)の前の、家忠に懇願しているような僧が、「方広寺鐘銘事件」の、問題の「国家安康」(家康の身首両断を意図している呪文の文字)と「君臣豊楽」(豊臣家の繁栄を祈願している文字」とを撰した、禅僧の「文英清韓」という「見立て」になってくる。
 この「方広寺鐘銘事件」と「興意法親王(照高院)」との関連などについては、下記のアドレスで取り上げている。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-05-26

 ここで、先の(参考一)に、興意法親王(照高院)も入れて置きたい。

(参考)「源氏物語画帖」と「猪熊事件」そして「豊国祭礼図」「洛中洛外図・舟木本」との主要人物一覧

※※豊臣秀吉(1537-1598) → 「豊臣政権樹立・天下統一」「豊国祭礼図屏風」
※※土佐光吉(1539-1613) → 「源氏物語画帖」
※※徳川家康(1543-1616) →「徳川政権樹立・パクス・トクガワーナ(徳川の平和)」
花山院定煕(一五五八~一六三九)  →「夕霧」「匂宮」「紅梅」
※※高台院 (1561? - 1598) →  「豊国祭礼図屏風」
近衛信尹(一五六五~一六一四)   →「澪標」「乙女」「玉鬘」「蓬生」
久我敦通(一五六五~?)      →「椎本」
※※淀殿(1569?-1615) →  「豊国祭礼図屏風」「大阪冬の陣」「大阪夏の陣 」
後陽成院周仁(一五七一~一六一七) →「桐壺」「帚木」「空蝉」
日野資勝(一五七七~一六三九)   →「真木柱」「梅枝」
※※興意法親王(照高院)(一五七六~一六二〇) → 「方広寺鐘銘事件」
※大炊御門頼国(1577-1613) →「猪熊事件」

※※岩佐又兵衛(1578-1650)→「豊国祭礼図屏風」「洛中洛外図・舟木本」

※※徳川秀忠(1579-1632) →「豊国祭礼図屏風」「大阪冬の陣」「大阪夏の陣」
※烏丸光広(一五七九~一六三八) →「猪熊事件」→「蛍」「常夏」 
八条宮智仁(一五七九~一六二九) →「葵」「賢木」「花散里」
四辻季継(一五八一~一六三九)  →「竹河」「橋姫」

※織田左門頼長(道八)(1582-1620) →「猪熊事件」「大阪冬の陣」「大阪夏の陣」
※猪熊教利(1583-1609)      →「猪熊事件」
※徳大寺実久(1583-1617)     →「猪熊事件」

飛鳥井雅胤(一五八六~一六五一)   →「夕顔」「明石」
中村通村(一五八七~一六五三)    →「若菜下」「柏木」 
※花山院忠長(1588-1662) →「猪熊事件」
久我通前(一五九一~一六三四     →「総角」    
冷泉為頼(一五九二~一六二七)     → 「幻」「早蕨」
※※豊臣秀頼(1593-1615)  → 「豊国祭礼図屏風」「大阪冬の陣」「大阪夏の陣」
菊亭季宣(一五九四~一六五二)    →「藤裏葉」「若菜上」
近衛信尋(一五九九~一六四九)    →「須磨」「蓬生」
烏丸光賢(一六〇〇~一六三八)   →「薄雲」「槿」
西園寺実晴(一六〇〇~一六七三)   →「横笛」「鈴虫」「御法」
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洛中洛外図・舟木本(岩佐又兵衛作)」周辺探索(その八) [岩佐又兵衛]

(その八)「豊国定舞台」で演じられているものは何か?

豊国定舞台.jpg

「豊国定舞台(とよくにじょうぶたい)」(右隻第一扇中部)→ A図

 下記のアドレスの記事は、『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』の概要と、上記の図の「豊国定舞台」の一端を知るには、恰好のものである

https://bukkyo.userservices.exlibrisgroup.com/discovery/fulldisplay/alma991005210909706201/81BU_INST:Services

【 ひときわ目立つ若松図の空間はなにを表すか? 絵画史料論の極致を展開! 数多い洛中洛外図のなかでもの、国宝の上杉本、重要文化財の歴博甲本と並んで三大洛中洛外図屏風と称される東京国立博物館所蔵の舟木本。ほかの洛中洛外図と異なる大きな特徴は、岩佐又兵衛筆の躍動感溢れる人物群が織りなす絢爛豪華な画面構成である。
ところがこの屏風は長い間又兵衛の作品とはされてこなかった。この魅力ある近世初期風俗画をあくまで又兵衛の作と考える筆者は、ではこれがいつ、誰の注文により、制作されたかを、もっぱら屏風に描かれた表現や事柄を精査・検証し、歴史史料と突き合わせる絵画史料論の手法によって、さまざまな謎を解き明かすことで、核心に迫っていく。
 たとえば、その手がかりとして、描かれた六条柳町遊里の紺暖簾、方広寺豊国定舞台の能の演目、猪熊事件を思わせる若公家と上臈の姿、武家行列に視線を送る「かぶき者」の公家、二条城内での京都所司代板倉勝重の裁判、特徴的に描かれた9か所の若松図の空間、ひときわ目立つある人物表現の特異な筆致などの細部から読解を試みる。
 筆者はこの屏風が描く光景は慶長19年6月~9月、方広寺梵鐘の鋳造以降のこととする。それは豊国定舞台で演じられている能の演目は従来「松風」とされてきたが、じつは「烏帽子折」であり、『梵舜日記』の演能記録8月19日と一致することであるとか、画面中央を貫く京都の二条通の大名行列は京都所司代板倉勝重の三男重昌であり、二条城そばの所司代役所での行事記録によって7月のことと裏付けられることなどによる。
 当時有名であった官女密通事件を思わせる画像、五条大橋の上で踊る老婆は豊国社の桜を持つおね、右左隻のあちこちにみえる「宝」「光」の文字、ほかの洛中洛外図には描かれたことのない9か所にもおよぶ「若松」図に囲まれた空間、六条三筋町の遊里・享楽空間との親和性と注文主とのかかわりなど、画面に描かれた多くの謎解きから慶長19年のものとして記憶される京都の時空間を歴史事実と重ね合わせて描き出す。
 絵画の細部にまで注視し、史料による裏付けを行う著者ならではの、確信に満ちた初めての舟木本読解。 (『OpenBD』より)

目次

プロローグ 歴史のなかに舟木屏風を置く 1 舟木屏風の発見と美術史研究 2 紺暖簾と「吹上げ暖簾」―舟木屏風の表現技法 3 舟木屏風の視点・構図・描かれている事物―左隻と右隻 4 豊国定舞台の「烏帽子折」と桟敷―右隻の読解 5 猪熊事件・公家の放鷹禁止そして公家衆法度―左隻の読解 6 二条城へ向かう武家行列と五条橋上の乱舞―中心軸の読解 7 舟木屏風の注文主と岩佐又兵衛 エピローグ 京の町人と又兵衛が協作した舟木屏風 (『OpenBD』より)    】

一 「豊国定舞台」で演じられているものは何か?

 この問いには、上記の紹介記事によって、「『梵舜日記』の演能記録8月19日」に出てくる「烏帽子折」ということになる。「烏帽子折」の「あらすじ」は次のとおりである。

http://nohgaku.s27.xrea.com/tokushu/eboshiori-1.htm

【烏帽子折

◆あらすじ
◇配役 前シテ:烏帽子折
前ツレ:烏帽子折の妻
ワキ:三条吉次
ワキツレ:吉六
子方:牛若
後シテ:熊坂長範
後ツレ:立衆
アヒ:早打、宿の亭主、火振り

◇季節 秋9月
◇場所 前:近江国鏡宿
後:美濃国赤坂宿

 三条の吉次が、商売のために東方へ向かおうとしているところに、とある少年が一緒に連れて行ってくれるようにと頼む。
 この少年こそ、鞍馬寺を飛び出した(16歳になる)遮那王・牛若丸。
 本来ならば商人と主従となるなど考えられないことではあるけれども、何をおいても京都を離れなくてはならない状況の下、東へと進み、東山道は近江鏡の宿に到着した。
 ここは現在の滋賀県竜王町鏡。
 宿とした白木屋で、牛若丸は追っ手が来たことを知る。
 稚児の姿のままでは、すぐにみつかり捕らえられるであろうことを考え、追っ手の目を欺こうと元服して髪を切り烏帽子をつけることを思いつき、烏帽子屋を訪れる。
 烏帽子屋で何としても左折のものを所望する牛若丸。この平家一色のご時世に、源家の象徴の左折を望む若者を不審に思う烏帽子屋。左折の烏帽子について語り始め、そして程なく烏帽子が出来上がる。
 烏帽子を召す牛若。その姿はたいそう気高く立派である。そして烏帽子の代金に、持っていた刀を渡す。
 あまりに見事なものを賜り驚き、妻を呼び寄せる烏帽子屋。妻はそれを見て落涙する。
 この妻は実は、源義朝に仕えた鎌田正清の妹であり、その刀は自分が使者として牛若丸が生まれたときに渡したものであったのだ。
 妻はこの少年が牛若だと察し、牛若もこの女あこやの前を思い出す。
 再会を果たした二人であるが、夜明けとともに牛若は奥州へと発つ。

<前シテ・前ツレ中入り>

 牛若たち一行が赤坂宿に着いたことを聞きつけて、そのところの悪党熊坂長範たちが夜討にやってくるらしいということが知らされる。そこで吉次たちは早々に宿を発とうとするが、牛若は自分が斬り伏せると言ってとどまらせ、夜襲に備える。
 そこに熊坂の配下の小盗がやって来る。少々辺りを荒らし様子を伺っていると牛若を見つける。持って来た松明を投げ入れてみると、宙で切り落とされ、踏み消され、投げ返され・・・尻込みして帰ってしまう。
 とうとう熊坂と手下達がやって来た。松明の話を聞いて一度は引き返そうとするが、それも名折れと攻め入る。まずは手下達。牛若と戦ってはバタバタと切り倒される。そしてようやく熊坂の登場・・・しかし、やはり、切り倒されるのであった。  】

 これもまた、源義経の幼少期を題材とした「能」なのである。前回の「鞍馬天狗」と同じく、「能の牛若の物語を好み、源氏(新田氏)の後裔という強烈な自覚をもった注文主(とも思われる)、すなわち松平忠直」の好みの「語り」が、この舞台から伝わってくる。
 そして、この「烏帽子折」では、上記の「あらすじ」の、「烏帽子屋で何としても左折のものを所望する牛若丸。この平家一色のご時世に、源家の象徴の左折を望む若者を不審に思う烏帽子屋」の、その「左折の烏帽子」は金色なのである。

豊国定舞台・横になっている男.jpg

「豊国定舞台」の「左折烏帽子」と「寝そべっての観客二人」(右隻第一扇中部)→B図

 この「烏帽子折」の、牛若丸の頭上には、確かに、「金色の左折の風折烏帽子」が燦然と輝いている。この「金色の左折の風折烏帽子」は、次のアドレスの、「C図 山中常盤(山中常盤物語絵巻)」(重要文化財 全十二巻 各34.1×1239.0~1263.0 MOA美術館蔵 )の「山中常盤物語絵巻・第11巻(佐藤の館に戻った牛若は、三年三月の後、十万余騎をひきいて都へ上がる)」と、完全と繋がっているのである。 

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-08-26

【第一に、金色の烏帽子は能装束の冠り物であり、牛若・判官(義経)の姿に特徴的な記号表現であった。忠直と又兵衛は、この金色の烏帽子の記号表現を共有しており、クライマックスにおける主人公としたのである。(略)
第二に、主人公の金色の烏帽子姿の大半は、能の風折烏帽子ではなくて、梨子打烏帽子に鉢巻をした姿で描かれている。軍勢と戦闘の中心にいる主人公は鎧姿であるから、それにふさわして梨子打烏帽子とし、それを金色に表現したのであった。(略)
そして、第三に、金色の梨子打烏帽子という主人公の姿は、能の牛若の物語を好み、源氏(新田氏)の後裔という強烈な自覚をもった注文主、すなわち松平忠直にふさわしい記号表現だったのである。また、金色の梨子打烏帽子は、忠直が又兵衛ら画工集団とのコラボレーションによって「又兵衛風絵巻群」をつくっていたことを端的に物語っている。】(『岩佐又兵衛と松平忠直―パトロンから迫る又兵衛絵巻の謎(黒田日出男著)』P260-262)

 ここでは、この「豊国定舞台」の「金色の左折の風折烏帽子」と、「山中常盤物語絵巻・第11巻(佐藤の館に戻った牛若は、三年三月の後、十万余騎をひきいて都へ上がる)」の、その「金色の梨子打烏帽子」との関連については言及しない。
 それ以上に、この、「豊国定舞台」の「金色の左折の風折烏帽子」の「牛若丸」を、地面に「寝そべって、頬杖で見物している」、この二人に、照準を当てたいのである。

二 「豊国定舞台」で演じられて「烏帽子折」を、「寝そべって、頬杖で見物している二人の男性は誰か?」

蕪村「又兵」自画賛.jpg

「花見又平自画賛」(与謝蕪村筆・紙本墨画淡彩・一幅・103.3×26.3㎝ 逸翁美術館蔵)

【「みやこの花のちりかヽるは光信が胡粉の剥落したるさまなれ  又平に逢ふや御室の花ざかり 蕪村」
 句意は「(土佐)光信の絵のような格調正しい都の桜とちがって、ここ御室の花盛りに来てみたら、又平にそっくりの飄々たる親爺に逢った」(日本古典文学大系『蕪村集 一茶集』輝峻康隆校注)と解されている。飲みつくした瓢を前に、朱の頭巾を被り、片肌ぬいで、浮かれた足取りの男を見ていると、句の意味するところとは別に、ふりしきる落花、濃彩の光信の画、さらにまた落花のように剥落していく胡粉の白さ、御室の濃艶な八重桜という詞の放つイメージが重なりあって、酔うような暮春の空気が男のまわりに漂っているように思えてくる。賛が画を説明しているのではなく、本図のようにそれぞれ独立したものが一つになって別な世界をつくっていくところに、他の追随を許さない蕪村俳画の傑出した点があったのである。印章は「長庚・春星」の白朱文連印をおす。】(『日本美術絵画全集19 与謝蕪村』所収「作品解説44(星野鈴稿)」)

 この蕪村の俳画は、この一番下に描かれている「足元の瓢箪」に、蕪村の真意が隠されている。

「ただ浮世の波にただよふ一瓢(ひょう)の、うきにういたる心にまかせ」(「如儡子(にょらいし)」作『可笑記(序)』)、そして、それに続く、浅井了意の仮名草子『浮世物語』の
「皆面白く、一寸先は闇なり。なんの糸瓜(へちま)の皮、思ひ置きは腹の病、当座当座にやらして、月、雪、花、紅葉にうち向ひ、歌を歌ひ、酒飲み、浮きに浮いて慰み、手前の摺切(註・無一文のこと)も苦にならず、沈み入らぬ心立ての水に流るる瓢箪の如くなる。これを浮世と名づくなり(以下略)」の「浮世宣言」の、「浮世又平(又兵衛)」の「浮世=瓢箪=瓢」が、この「足元の瓢箪」なのである。

 そして、この俳画の賛の「光信が胡粉の剥落したるさまなれ」とは、蕪村は、「浮世又平(又兵衛)」が、「寛永拾七庚辰年(註・一六四〇)六月十七日 絵師土佐光信末流岩佐又兵衛尉勝以(かつもち)図」(明治十九=一八八六年に、川越仙波東照宮の宮司が、その拝殿の「三十六歌仙扁額」の裏に書かれた、この銘を発見する)の「岩佐又兵衛」ということ知っていたのかも知れない。
 おそらく、蕪村は、宝暦五年(一七〇八)に初演された近松門左衛門の「傾城反魂香」の吃りの大津絵描き「浮世又平重起(しげおき)」に実名で出てくる土佐光信をイメージしてのものと思われるが、又兵衛没後二十五年後の延宝三年(一六七五)の随筆『遠碧軒記(えんぺきけんき)』(黒川道裕著)の、次の記述を目にしていたのかも知れない。

【 狩野三甫は太閤時代の画工山楽が弟子にて、狩野をやるとなり、又浮世又兵衛と又後藤氏に佐兵衛と云うものあり。このころより少後、大阪陣の頃のもの、両派に画人あり。三甫は武者絵画かきなり。浮世又兵衛は荒木様別子(註・側室の子)にて之あり。越前一伯殿(註・松平忠直)御目にかけられ候て、江戸に住し候。 】(『遠碧軒記(えんぺきけんき)・黒川道裕著・東京国立博物館蔵四冊本による』)

 さて、B図の「豊国定舞台」の「左折烏帽子」と「寝そべっての観客二人」に戻って、この「寝そべって、頬杖で見物している二人の男性」の、その右側の柄物の衣服をまとった男性は、蕪村の俳画に出てくる「花見又平=浮世又平=浮世又兵衛=岩佐又兵衛」その人のようなイメージを受けるのである。
 とすると、もう一人の、白衣のような着物の、何か怒っているような顔つきの男は、「又兵衛工房の謎の一番弟子」(「小栗判官絵巻」の「細長い顔かたちの人物像などを描いた有力な画家A」=『岩佐又兵衛―血と笑いとエロスの絵師(辻惟雄・山下裕二著)・とんぼの本・新潮社』P104-105)での「辻惟雄説」)ということになる。
 とにもかくにも、この「寝そべって、頬杖で見物している二人の男性」が、この「洛中洛外図屏風・舟木本」を描いた「岩佐又兵衛」と、その「又兵衛工房の謎の一番弟子」と解することは、飛躍した「ファンタジー」(幻想)の世界のものと思われるかも知れない。
しかし、この「洛中洛外図屏風・舟木本」の六曲一双の世界は、上記の蕪村俳画の背景となっている『可笑記』や『浮世物語』の「浮世宣言」(「月、雪、花、紅葉にうち向ひ、歌を歌ひ、酒飲み、浮きに浮いて慰み、手前の摺切(註・無一文のこと)も苦にならず、沈み入らぬ心立ての水に流るる瓢箪の如くなる。これを浮世と名づくなり」の、この「刹那の遊び」の「現世を肯定した享楽的世間観」が横溢している世界であり、謂わば、「下京・東山『享楽・歓楽・遊楽』図屏風」というネーミングが相応しい世界であるということは、誰しもが認めるところのものであろう。
とするならば、この「洛中洛外図屏風・舟木本」の二千五百人とも二千七百人ともいわれている、この屏風に描かれた人物像の中で、この二人こそ、この「洛中洛外図屏風・舟木本」を描いた中心的な人物と見立てることも、何かしら、蕪村が描く「花見又平」に通ずるものがあり、これを容認することも、それほど抵抗感のあるものではないような思いがするのである。
 そして、この二人に、この「洛中洛外図屏風・舟木本」を描かせた注文主の「松平忠直」も、このA図の「豊国定舞台」の場面の何処かに潜んでいるような、そんな雰囲気を感ずるのである。
 そして、このA図の「豊国定舞台」の場面は、この「洛中洛外図屏風・舟木本」のスタート地点に位置する、「右隻第一扇中部」に描かれており、ここから、「洛中洛外図屏風・舟木本」の数々のドラマが展開して行くということになる。

三 「豊国定舞台」で演じられて「烏帽子折」を、「桟敷」席で見物している人物の中に、この「洛中洛外図屏風・舟木本」の注文主の「松平忠直」が描かれていないか?

豊国定舞台桟敷席.jpg

「豊国定舞台」での「桟敷席」(右隻第一扇中部) → C図

 『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)P137-138』では、この桟敷席の二列目の主要人物を、左から「神龍院梵舜・豊国社の社務萩原兼従・吉田社祠官吉田兼治」、そして、その前列の「前髪で裃姿」の少年を「吉田兼治の子息、成人前の幸鶴丸(のちの吉田兼英)」としている。
これらの「吉田家一族」の簡単なプロフィールは次のとおりである。

〇吉田兼治(よしだかねはる)=安土桃山時代から江戸時代初期にかけての貴族・神道家。左衛門督・吉田兼見の子。官位は正四位下・侍従、贈従二位。吉田家10代当主・卜部氏26代。生没年:1565-1616
〇萩原兼従(はぎわらかねより)=江戸時代前期の神道家。吉田兼治の子。母は細川藤孝(細川幽斎)の娘。室は高台院の姪。萩原家の祖。生没年:1588 -1660
 (上記「ウィキペディア」)
〇神龍院梵舜(しんりゅういんぼんしゅん)=戦国時代から江戸時代初期にかけての神道家。吉田兼右の子で吉田兼見の弟。別名を龍玄とも。豊国廟の社僧として有名。徳川家康の葬儀にも携わった。30歳から約半世紀を記した『梵舜日記』を遺したことでも知られる。生没年:1553-1632 
〇吉田兼英 → 生没年:1595-1671 父:左兵衛佐 吉田兼治 従五位下 右衛門佐
https://reichsarchiv.jp/%E5%AE%B6%E7%B3%BB%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88/%E5%90%89%E7%94%B0%E5%AE%B6%EF%BC%88%E5%8D%8A%E5%AE%B6%EF%BC%89

 この四人は、「神道」の「吉田家」(卜部氏の流れをくむ公家。家格は半家。歴代当主は神祇管領長上を称し、正二位神祇大副を極位極官とした。江戸時代の家禄は760石)の一族である。
 
 これらの、この桟敷席での主要な見物人が「吉田家一族」の者とする見方は、『梵舜日記』の「慶長十九年八月十九日」の条に「烏帽子折」が演じられ、「神龍院梵舜は終日観能していた」という記述を重視していることによるものなのであるが、この見方に関して、幾つかの疑問点が残る。

その一つは、この「吉田家一族」の、一番最長老になる「梵舜」が、何故、その一族の若手の「兼治・兼従・兼英」に、何やら、説明役のように描かれているのかという点である。

その二つ目は、この「吉田家一族」の取り巻きは、裃姿の武家姿の人物が多く、その他には、二人の僧と立烏帽子の男が一人(『黒田・前掲書』では神官としているが、武家か公家のようにも取れる)、そして、前列の「兼英」の両脇は、禿のような小袖姿の少年、そして、その脇は、裃姿の少年(武家のように思われる)が二人で、神官職の公家一族の観能というより、武家一族の観能に、神龍院梵舜が説明役をしているようなイメージを受けるのである。

 ここで、これまた「ファンタジー」的な見方と受け取られることを承知の上で、上記の「兼治・兼従・兼英」を、当時の「松平忠直」(「結城秀康」の遺族)の一族に、見立て替えをすると、次のプロフィールのようになる。 

〇吉田兼治→松平忠直(まつだいらただなお)=江戸時代前期の大名。越前国北ノ庄(福井)藩主。官位は従三位・参議、左近衛権中将、越前守。徳川家康の孫、徳川家光や徳川光圀などの従兄にあたる。結城秀康の長男。生没年:1595-1650
〇萩原兼従→松平忠昌(まつだいらただまさ)=江戸時代前期の大名。越前国福井藩(北ノ庄藩)3代藩主。官位は正四位下・参議、伊予守。結城秀康の次男。生没年:1598-1645
〇萩原兼従→松平直政(まつだいらなおまさ)=江戸時代前期の大名。上総国姉ヶ崎藩主、越前国大野藩主、信濃国松本藩主を経て出雲国松江藩初代藩主。官位は従四位上・左近衛権少将、贈従三位(1907年)。直政系越前松平家宗家初代。結城秀康の三男。生没年:1601-1666

 実は、この三人は、三人揃って「大阪夏の陣」に参戦し、当時の小唄に謡われた「掛レカヽレノ越前衆、タンダ掛レノ越前衆、命シラズノ爪クロノ旗」の、その「爪クロノ旗」越前軍団の中に、この三人の英姿が描かれているのである。
 これらのことについては、下記のアドレスの「その三」で取り上げている。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-08-24

 上記の図を再掲して置きたい。

(再掲)

夏の陣松平忠直・爪黒の旗.jpg

「大阪夏の陣の松平忠直」(「大坂夏の陣図屏風(大阪城天守閣蔵)」右隻・部分拡大図)→
F-2-1図

 この「大阪夏の陣」では、上図(F-2図)を「大阪夏の陣の松平忠直」としたが、「豊国定舞台」の「桟敷の主要三人衆」(C図)との関連ですると、「大阪夏の陣の松平忠直・忠昌・直政」ということになる。

越前軍団・大阪夏の陣.jpg

「大阪夏の陣の松平忠直・忠昌・直政」(「大坂夏の陣図屏風(大阪城天守閣蔵)」右隻・部分拡大図)→F-2-2図
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/1/18/The_Siege_of_Osaka_Castle.jpg

 この図(F-2-2図)に、一番若手の「松平直政」は、左から二番手と判別できるが、「松平忠直」が、その左側なのか、右側(三色旗寄り)なのかは判然としない。

忠直と幸村.jpg
「大阪夏の陣の松平忠直と真田信繁(幸村)」→F-2-3図
http://www.history.museum.city.fukui.fukui.jp/tenji/tenran/osakanojin2016.html

 この図(F-2-3図)の、左側が「松平忠直」とすると、大阪夏の陣の松平忠直・忠昌・直政」(F-2-2図)の、一番左側の武将が「松平忠直」で、ということになろう。
 そして、「その三」で取り上げた、「掛レカヽレノ越前衆、タンダ掛レノ越前衆、命シラズノ爪クロノ旗」の、その「爪クロノ旗」は、その林立する「吹流し」と共に、その源の、この「松平忠直」の「兜の二本の黒爪」に因るものと理解をしたい。そして、それは、この「真田信繁(幸村)」の「兜の二本の黒鹿の爪」を意識したものと理解をいたしたい。
 として、「松平直政」の右寄りの、「三色旗」(指揮官旗か?)脇の男は「越前松平家附家老・本多富正」、そして、その脇(この図の右端)が、「松平忠昌」のように思われる。
 この「松平忠直・忠昌・直政」三兄弟の「大阪夏の陣」の殊勲について、『美作津山松平家譜』(慶長二十年五月十日の二条城での場面)では、次のように記されている。

【 将軍(秀忠)、二条城ニ至リ、諸侯群参ス、大御所(家康)、之ヲ慰労シテ、今度天下一統ニ帰スルコト、諸将忠勤ノ戦功ニ因レリト賞賛セラル、公(忠直)ハ伏見邸ニテ士卒ヲ労シ、後レテ至ル、大御所(家康)殊ニ近ク召テ、上壇ヨリ一畳半計左ノ方ニ着座、国松丸(直正)ハ幼年故、左ノ方三尺計ニ近付ラレ、諸将ニ向テ、少将(忠直)カ七日ノ驍戦出群抜萃、実ニ吾秘蔵孫ナリ、国松(直正)モ幼弱ノ出陣ニ、生捕二人迄捕得ルハ奇功ト云ヘシト仰セケレハ、座中拝シテ万歳ヲ唱フ、時ニ忠昌末座ヨリ、伊予守(忠昌)茲ニ在リト高声に呼ハリケレハ、大御所(家康)、汝カ夫ニ候スルコト群参中ユヘ見失ヘリ、汝親シク身ヲ砕キ、人ニ勝レテ奮戦スルコト、感悦ノ至ナリト仰セラル、(以下略)   】(『岩佐又兵衛と松平忠直―パトロンから迫る又兵衛絵巻の謎(黒田日出男著)』P126)

 さて、A図の「豊国定舞台」で「烏帽子折」が演ぜられたのは、『梵舜日記』によると、「慶長十九(一六一四)年八月十九日」、そして、「大阪冬の陣」の火ぶたが切られたのは、 
十一月十九日(「木津川口の戦い」)、大阪城に籠城した豊臣方を徳川方が完全に包囲したのは、十二月二日、その翌、十二・三日の両日にまたがり、真田勢と越前松平勢とが激突し(「真田丸の戦い」)、この時は真田勢が越前松平勢を撃退させた。この時が、若干十四歳の「松平直政」の初陣である。
 この時に、「松平直政」は、敵の大将であった真田信繁(幸村)に若武者ぶりを讃えられて軍扇を投げ渡され、その軍扇は直政が初代藩主となった出雲松江藩の宝として残され、今も松江城天守閣の一角に展示されているという。
 この「大阪冬の陣」は、十二月十八日よりの「徳川方の京極忠高の陣において、家康側近の本多正純、阿茶局と、豊臣方の使者として派遣された淀殿の妹である常高院との間で行われ、十九日には講和条件が合意、二十日に誓書が交換され和平が成立し」、同日、家康・秀忠は諸将の砲撃を停止させている。
 明けて、慶長二十年(一六一五)三月十五日、大坂に浪人の乱暴・狼藉、堀や塀の復旧、京や伏見への放火の風聞といった不穏な動きがあるとする報が京都所司代・板倉勝重より駿府へ届くと、徳川方は浪人の解雇か豊臣家の移封を要求する。
この要求が入れられず、ここに「大阪夏の陣」が勃発し、「樫井の戦い」「道明寺・誉田合戦」「八尾・若江合戦」、そして、最終の「天王寺・岡山合戦」となり、ここで再び、「真田勢と越前松平勢」とが撃墜し、この戦いで、越前松平勢が真田勢を打ち破り、「大阪城へ一番乗り」を果たしたという展開になる。
 そして、上記の「F-2-1図」「F-2-2図」「F-2-3図」は、この「大阪夏の陣」のもので、その時の、「越前松平勢」の、「松平忠直・忠昌・直政」の「越前松平勢三兄弟」と、「越前松平家附家老・本多富正」との四人衆ということになろう。
 ここで、この「越前松平家附家老・本多富正」について、「大坂城一番乗りの名乗りを挙げたのち手勢を率いて志摩共々に本丸に突入し、千畳敷の屏風や懸物を分捕り、一番乗りの証拠と手柄とした。富正配下が大坂方の将・大谷吉治を討ち取るなど」(「ウィキペディア」)、
この「大阪夏の陣」の立役者の筆頭格の人物なのである。
 さらに、次のアドレスの情報は、この「本田富正」が、「烏丸光広、光広の正室鶴姫(江戸重通の娘、結城晴朝の養女、結城秀康の未亡人)、俵屋宗達」と交遊があったことを伝えている。

https://www.pref.fukui.lg.jp/doc/brandeigyou/brand/senngokuhiwa_d/fil/fukui_sengoku_45.pdf

 これらのことに関して、この「洛中洛外図屏風・舟木本」を描いた「岩佐又兵衛」が、この「大阪夏の陣」の直後(四十歳の頃)、「福井藩主・松平忠直に招かれて、あるいは後に岩佐家の菩提寺になる興宗寺第十世心願との出会いがきっかけで、北の庄(現福井市)に移住」し、その「忠直」配流後、「松平忠昌」(附家老・本多富正)の代になっても同地に留まり、二十年余もこの地ですごす」(「ウィキペディア」)のは、「松平忠直と岩佐又兵衛」との接点
は、この「本田富正」を避けては通れないような印象を深くする。
 ここで改めて、C図の「豊国定舞台」での「桟敷席」を見てみたい。

(再掲)

豊国定舞台桟敷席.jpg

「豊国定舞台」での「桟敷席」(右隻第一扇中部) → C図

 この一列目の裃姿の少年は「大阪冬の陣・夏の陣」に参陣する直前の、松平忠直の異母弟「松平直政」で、二列目の左端の僧は、時の「豊国社・豊国定舞台」の代表者格の「梵舜」、その右脇が、松平忠直の同母弟「松平忠昌」、その次が、この座の総大将「松平忠直」その人ということになる。
そして、その脇の立烏帽子の男は、「越前松平家附家老・本多富正」(「越前騒動・久世騒動」の「家老騒動(「本田富正」対「今村之信」)」の当事者でもある)ということになろう。
 そして、この「洛中洛外図屏風・舟木本」の注文主は、これまで「松平忠直」その人としてきたが、広義に、「大阪冬の陣・夏の陣」に関係する「松平忠直・忠昌・直政」と「越前松平家附家老・本多富正」周辺と解して置きたい。
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「洛中洛外図・舟木本(岩佐又兵衛作)」周辺探索(その七) [岩佐又兵衛]

(その七)四条河原の「遊女歌舞伎」の小屋から何が伝わってくるか?

四条河原の阿国歌舞伎.jpg
 
「四条河原の阿国歌舞伎」(右隻第六扇上部) → A図
https://emuseum.nich.go.jp/detail?content_base_id=100318&content_part_id=001&content_pict_id=045&langId=ja&webView=null

四条河原に、「人形浄瑠璃」の小屋が二つ。その一つは「山中常盤」(「その五」で紹介)、もう一つは「阿弥陀胸割」。その「阿弥陀胸割」は、下記のアドレスなどが参考となる。

https://gatabutsu.net/2013/03/17/%E4%BA%BA%E5%BD%A2%E6%B5%84%E7%91%A0%E7%92%83%E3%81%A7%E9%98%BF%E5%BC%A5%E9%99%80%E3%81%AE%E8%83%B8%E3%81%8B%E3%82%89%E8%A1%80%E3%81%8C%E6%B5%81%E3%82%8C%E3%81%9F.html

 前回(「その六」)は、「能」の小屋で、そこでは「鞍馬天狗」が演じられていた。さらに、「歌舞伎」の小屋が二つ描かれている。その一つが、この「鶴丸紋」の幕を張り巡らせた小屋である。
 右端の下部に、「ねずみ木戸」と呼ばれる「櫓に開けられた二つの穴(「ねずみ木戸の入り口)」から観客が出入りしている。その「ねずみ木戸」に貼り紙がしてある。

「此(この)うちにおいて、かぶき/御座候 御(お)のそミ(お望み)のかたがた/御見物なさるべく候」

 この入口を小さくするのは、治安対策上のことと、、この「くぐり戸」を抜けると日常とは違った別世界(「浮世」の世界=遊里や演劇といった享楽的欲望を満たしてくれる世界)が開けてくるという意味合いがあるのかも知れない。
 その入口を入ると、櫓上に「太鼓」と「三つ道具」(刺又=棹先が鋤形のもの、熊手・突棒=棹先のT字形のもの、槍棒・袖搦=棹先が棘状のもの)が立て掛けられている。これは、過度の迷惑行為は許さないというような威厳を誇示しているものなのかも知れない。
 さて、この左端上部の「蛭巻の派手な太刀を肩に掛けて立つ『かぶき者=歌舞伎者=傾(かぶ)き者』」が、慶長八年(一六〇三)に、出雲の巫女、阿国が演じた「歌舞伎踊り」の出し物の一つの、「茶屋遊び」の一場面なのだ。
 しかし、これは、阿国が演じている「歌舞伎踊り」ではなく、阿国に扮した「遊女」の一人が、「遊女歌舞伎」の出し物の一つとしての、「茶屋遊び」の場面なのである。その違いは、この舞台には、演者以外の女性(遊女)が上がっていることと、演者の「かぶき者」、そして「茶屋のかか」(「かぶき者」の相手役、このA図では、柱の側で袖で口元を隠している女性)も、全て、女性(遊女)が演じていることなどで、識別をすることが出来る。
 本来の、阿国の「歌舞伎踊り」は、「かぶき者=阿国の男姿」の女性で、その相手役の「茶屋のかか=女性」は男性が演じるという、その倒錯的な設定と演技とが評判を呼び、それが瞬く間に全国に波及していたということに他ならない。(これらの記述は、『洛中洛外図舟木本―町のにぎわいが聞こえてくる(奥平俊六著)』を参考としている。 )

阿国歌舞伎.jpg

「阿国のかぶき踊り」(「阿国歌舞伎図屏風」・東京国立博物館蔵) → B図
https://www2.ntj.jac.go.jp/dglib/modules/kabuki_dic/entry.php?entryid=1075

【1603年(慶長【けいちょう】8年)に出雲の阿国【いずものおくに】が、京都で踊ったという記録が残っています。かぶき者と呼ばれる派手な服を着たり大きな刀を持って街を歩いたりしていた若い男の格好をして、流行の茶屋遊び【ちゃやあそび】などの様子を踊ったといわれています。
 茶屋遊びやかぶき者の服装など、当時の流行を取り入れた阿国の踊りは庶民【しょみん】に大人気となりました。そのため、阿国をまねて男の姿で踊る女性の芸人がたくさん出たといわれています。】

 このB図では、「かぶき者」(男装での阿国)が女性、相手役の「茶屋のかか」(女装の男性)と道化役の「猿若」が男性で、後方の「囃子方」は男性で、ここには、「三味線」の弾き手は出て来ない。
 上記のA図でも、「囃子方」は男性で、B図と同じように、「三味線」の弾き手は出て来ない。

遊女歌舞伎.jpg

「四条河原の遊女歌舞伎」(右隻第六扇上部) → C図
https://emuseum.nich.go.jp/detail?content_base_id=100318&content_part_id=001&content_pict_id=045&langId=ja&webView=null

このC図は、A図(「四条河原の阿国歌舞伎」)の右脇の図である、A図の「歌舞伎」小屋の「三っ道具」((刺又=棹先が鋤形のもの、熊手・突棒=棹先のT字形のもの、槍棒・袖搦=棹先が棘状のもの)が見える。しかし、今度の「歌舞伎」小屋の舞台は、、A図の「かぶき踊り」(その代表的な「茶屋遊び」の男装姿の「遊女の踊り」)の場面に対して、今度は、椅子に座った「かぶき者(男装姿)」が三味線を手にして、その両脇にも、女装姿と男装姿の三味線を手にした「遊女」が控えている。
 この両脇に、男装の若衆姿の「遊女」が、右側に四人、左側に四人が、何やら、笛を床において、それを手にしている。後方の「囃子方」(太鼓方と鼓方)と、その脇の「道化役」は男性のようである。そして、その後ろに、男装と女装との「遊女と禿(遊女に使われる少女)」が控えている。

 ここで、「松平忠直」の父の、徳川二代目将軍「徳川秀忠」の兄に当たる、「結城秀康」の、次の逸話は、上記のA図(「四条河原の阿国歌舞伎」)よりも、 B図(「阿国のかぶき踊り」)に通ずるものであろう。

【 弟の秀忠が徳川将軍家を継いだとき、秀康は伏見城代を務めていた。出雲阿国一座を伏見城に招いて、阿国の歌舞伎を絶賛した後、「天下に幾千万の女あれども、一人の女を天下に呼ばれ候はこの女なり。我は天下一の男となることかなわず、あの女にさえ劣りたるは無念なり」と漏らしたと言う(『武家閑談』四)。 】(「ウィキペディア」)

 そして、「松平忠直」その人の、次の逸話は、このC図(「四条河原の遊女歌舞伎」)に関係するものであろう。

【 当地にては、皇帝に関する以外に消息なし。……先頃大阪にて二百人余、同地の人々を売買せし廉を以て死刑に処せられたり。乱鎮圧後、他の主なる兵士が都より一歌舞伎を盗みだし、発見されて苦悩に堪え兼ね、女の喉を(彼女の同意を得て)斬らんとして女を傷つけたれども、命に係わるものならざるが、彼は女に夫有りしことを知り、脇差を以て切腹したり。又先日、予に刀を与へし貴族三河守は都より歌舞伎を連去り、彼女の抱主に大判にて百貫目支払ひたり。予も其の金を得たものなり。 】(『慶元イギリス書翰』/黒田日出男『岩佐又兵衛と松平忠直 パトロンから迫る又兵衛絵巻の謎』)P133)

これに続いて、「こうして、忠直は、元和二年から遊女を身近に侍らせるようになった。そして、この頃から、忠直と勝子(「秀忠」の娘、「忠直」の正室)の不和が兆し始めたと言い得るのではあるまいか」としている。

 ここで、「遊女歌舞伎」関連について、その背景を知るのには、次のアドレスのものが、参考となる。

https://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_3498534_po_gaikoku43_11.pdf?contentNo=1&alternativeNo=

「遊女歌舞伎(七) 高野敏夫稿」

【 観客像の模索
徳川家康が征夷大将軍に任じられたのは関ヶ原の合戦の三年後、慶長八(一六〇三)年二月十二日である。同年四月、出雲の阿国が北野天満宮の境内で歌舞伎踊をおどって大人気を博した。それと前後して、おそらく五月頃、阿国の人気に便乗して始まったのが遊女歌舞伎である。
(略)
遊女歌舞伎の男客が男装姿の遊女に愛着を寄せたのは、活気に満ちた彼女たちの舞台姿 に新鮮な魅力を感じたからである。男装姿の遊女に江戸開幕当初の清新な空気を直感し、 同時代性を見出し、それに共感した。まちがいなく、彼らは守旧派ではなく、革新派に属し ていた。しかも、その彼らの数はあなどりがたく、社会的流行の原動力となるだけの数量を そなえていた。(略)

  観客の具体像
 徳川家の将来を見据え、矢継ぎ早に布石を打つ家康は、幕府の基盤整備に躍起になって いた。東軍の勝利で城持ち大名にとり立てられた諸大名は、城下町の建設に没頭していた 。 新時代を迎えて日本中がごった返していたとき、社会上層部の苦労や意図とは無縁の位置 で、庶民は能天気に自分たちの「遊び」の世界に没頭していた。何ともいいようのない無責 任さが庶民の身上である。庶民は上層部の意図など最初から無視し、かたくなに背を向け る。そして彼らが視線を向けた対象が、遊女歌舞伎だったのである。遊女歌舞伎は彼らの生きる姿勢の投影であり、反映であった。(略)

  四条河原図     (略)
四条河原の遊女歌舞伎(略)
江戸の遊女歌舞伎  (前略) 

慶長八(一六〇三)年  諸大名の普請役で江戸市街地を造成。
慶長十(一六〇五)年  家康、征夷大将軍を辞し、秀忠が代わって任命される。
慶長十二(一六〇七)年 阿国、江戸城で歌舞伎踊を演じる。諸大名の普請役で江戸城天
            守閣および石垣を修築する。出羽、院内銀山を開く。
慶長十七(一六一二)年 江戸の「かぶき者」を捕え、大鳥逸兵衛らを処刑。幕府、喫煙
            を禁じる。 慶長十九(一六一四)年 大坂冬の陣。
慶長二十、元和元(一六一五)年  
大坂夏の陣。幕府、再び喫煙、煙草の売買、栽培を禁じる。こ
            の頃、操り・浄瑠璃流行。
元和二(一六一六)年  家康、太政大臣となる。家康、没。
元和三(一六一七)年  幕府、吉原遊廓の開設を許す。
元和六(一六二〇)年  江戸城の外堀工事完成。
元和八(一六二二)年  この冬、有力諸大名の謀反の噂が江戸に広まる。
            この年、幕府、外様大名の妻子を江戸におかせる。
元和九(一六二三)年  家光、征夷大将軍。
            幕府、江戸の芝でキリシタンを多数処刑。
寛永元(一六二四)年  中村勘三郎、江戸に猿若座を建てる。 寛永二(一六二五)年  関白近衛信尋ら諸公家・僧侶、家光の将軍襲職を祝うため江戸
            に下る。
            上野寛永寺竣工。
寛永三(一六二六)年  上野東照社建立。
寛永六(一六二九)年  幕府、辻斬防止のため江戸に辻番をおく。
            武家諸法度を改定。幕府、女舞・女歌舞伎を禁止。
寛永九(一六三二)年  旗本の法度(諸士法度)を定める。

遊女歌舞伎の本質 (略)  】
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「洛中洛外図・舟木本(岩佐又兵衛作)」周辺探索(その六) [岩佐又兵衛]

(その六) 四条河原の「能」の小屋は何を演じているのか?

四条河原の「能」舞台.jpg

「四条河原の『能』の小屋」(右隻第五扇中部) → A図

 『洛中洛外図舟木本―町のにぎわいが聞こえてくる(奥平俊六著)』では、「舞台では『橋弁慶』が演じられている」とするが、『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著)では「鞍馬天狗」と軌道修正をしている。

「能」舞台・鞍馬天狗.jpg

「能・鞍馬天狗」
https://www.the-noh.com/jp/plays/data/program_025.html

【(あらすじ)
春の京都、鞍馬山。ひとりの山伏が、花見の宴のあることを聞きつけ、見物に行きます。稚児を伴った鞍馬寺の僧たちが、花見の宴を楽しんでいると、その場に先の山伏が居合わせていたことがわかります。場違いな者の同席を嫌がった僧たちは、ひとりの稚児を残して去ります。
 僧たちの狭量さを嘆く山伏に、その稚児が優しく声をかけてきました。華やかな稚児に恋心を抱いた山伏は、稚児が源義朝の子、沙那王[牛若丸]であると察します。ほかの稚児は皆、今を時めく平家一門で大事にされ、自分はないがしろにされているという牛若丸に、山伏は同情を禁じ得ません。近隣の花見の名所を見せるなどして、牛若丸を慰めます。その後、山伏は鞍馬山の大天狗であると正体を明かし、兵法を伝授するゆえ、驕る平家を滅ぼすよう勧め、再会を約束して、姿を消します。
 大天狗のもと武芸に励む牛若丸は、師匠の許しがないからと、木の葉天狗との立ち合いを思い留まります。そこに大天狗が威厳に満ちた堂々たる姿を現します。大天狗は、牛若丸の態度を褒め、同じように師匠に誠心誠意仕え、兵法の奥義を伝授された、漢の張良(ちょうりょう)の故事を語り聞かせます。そして兵法の秘伝を残りなく伝えると、牛若丸に別れを告げます。袂に縋る牛若丸に、将来の平家一門との戦いで必ず力になろうと約束し、大天狗は、夕闇の鞍馬山を翔け、飛び去ります。 】

 これもまた、源義経の幼少期を題材とした能で、他の同趣の能と同様『義経記』からの影響というよりも、「古浄瑠璃」(語り物)などと深く関わりのある演目の一つなのであろう。
 この「鞍馬天狗」でも、「能の牛若の物語を好み、源氏(新田氏)の後裔という強烈な自覚をもった注文主(とも思われる)、すなわち松平忠直」の好みの「語り」が、この舞台から伝わってくる。

【子方 「さん候誰今の稚児達は平家の一門。中にも安芸の守清盛が子供たるにより。
    一寺の賞鑑他山の覚え時乃花たり」
    みずからも同山には候へども。よろづ面目もなきことどもにて。
    月にも花にもすてらて候。
シテ 「あら痛はしや候。流石に和上﨟は。常磐腹には三男。毘沙門乃沙の字をかたどり。
    御名を紗那王とつけ申す。」
    あら痛はしや御身を知れば。所も鞍馬の木陰の月。」
(略)
地 上 「抑も武略の誉れの道。抑も武略の誉れの道。
     源平藤橘四家にも取り分き彼の家乃水上は清和天皇乃後胤として。
     あらあら時節を考え来たるに驕れる平家を西海におっくだし
     遠波滄波の浮雲に飛行の自在を受けて。
     敵を平らげ會稽を雪がん御身と守るべしこれまでなりや。
     お暇申して立ち帰れば牛若袂にすがり給えばげに名残あり。   
     西海四海乃合戦といふとも影身を離れず弓矢の力をそへ守るべし。
     頼めやたのめと夕影暗き。頼めやたのめと夕影暗き鞍馬の梢にかけって。
     失せにけり。   】

 『岩佐又兵衛と松平忠直―パトロンから迫る又兵衛絵巻の謎(黒田日出男著)』では、「四条河原の忠直」として、次のように記述している。

【 では、忠直は古浄瑠璃や浄瑠璃操りとどこで出会ったのであろうか。父秀康が阿国のかぶき踊りを見て、我が身の不運を嘆いたという有名な逸話があるように、不遇・不満のある武将たちは、かぶき踊りや「遊女歌舞伎」「浄瑠璃操り」などの諸芸能の見物で憂さを晴らしたのであろう。忠直も、次章で紹介するが、遊女歌舞伎の遊女を身請けしたぐらいだから、四条河原などの芸能空間に出掛けて、「遊女歌舞伎」などを熱心に観ていたことは間違いない。  】(『岩佐又兵衛と松平忠直―パトロンから迫る又兵衛絵巻の謎(黒田日出男著)』P96)

 これらのことは、これを描いた「岩佐又兵衛」にも、均しく当て嵌まることであろう。
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「洛中洛外図・舟木本(岩佐又兵衛作)」周辺探索(その五) [岩佐又兵衛]

(その五)四条河原の「山中常盤浄瑠璃」は何を語っているのか?

山中常盤操り.jpg

「四条河原の『山中常盤操り』」(右隻第五扇上部) → A図
https://emuseum.nich.go.jp/detail?content_base_id=100318&content_part_id=001&content_pict_id=045&langId=ja&webView=null

 右隻の第五・六扇の上部に、「四条河原のも諸芸能の見世物小屋」が描かれている。「かぶき小屋が二つ、人形あやつり小屋が二つ、そして、能の小屋が一つ」である。これは、その「人形あやつり小屋」の一つで、「山中常盤(物語)人形操り(浄瑠璃)」が演じられている。
 この左端の白い被衣(かずき。かつぎ=外出するときに頭からかぶった衣服)の女性が目を覆って泣いている。この演じられている右の二人の女性は、「常盤御前と侍従」、そして、左の三人は、六人の「盗賊」のうちの三人であろう。

山中常盤四.jpg

「山中常盤(山中常盤物語絵巻)」(重要文化財 全十二巻 各34.1×1239.0~1263.0 MOA美術館蔵)の「 美濃の国、山中の宿にたどり着いた常盤は、盗賊に襲われて刀で胸を突き刺される。侍従は常盤を抱き、さめざめと泣く(第四巻)」 → B図
http://www.moaart.or.jp/?event=matabe-2019-0831-0924

「舟木本」(A図)の「常盤御前と従者」は、「山中常盤(山中常盤物語絵巻)」(B図)では、盗賊に襲われ、辱めを受け、虐殺されるのである。

宿の老夫婦に看取られて常盤の死.jpg

「山中常盤(山中常盤物語絵巻)」(重要文化財 全十二巻 各34.1×1239.0~1263.0 MOA美術館蔵)の「常盤は宿の主人夫妻に自らの身分を明かし、牛若への形見を託す」(第五巻)→ C図

 この場面は夙に知られている。『岩佐又兵衛(辻惟雄・山下裕二著)・とんぼの本・新潮社』の表紙を飾り、その副題は「血と笑いとエロスの絵師」である。その内容は、次の二篇から構成されている(一部、要点記述)。

第一篇(人生篇)― その画家卑俗にして高貴なり (辻惟雄解説)
その一    乱世に生まれて 
その二    北の新天地で花ひらく
その三    江戸に死す
第二篇(作品篇)― 対談(辻惟雄+山下裕二 )
 その一 笑う又兵衛 ― 古典を茶化せ! 合戦も笑い飛ばせ!
 その二 妖しの又兵衛 ― 淫靡にして奇っ怪、流麗にしてデロリ、底知れぬカオス
 その三 秘密の又兵衛 ―「浮世又兵衛」(吃又兵衛=『傾城反魂香』)
 その四 その後の又兵衛― 又兵衛研究の総決算ここにあり!→『岩佐又兵衛―浮世絵
をつくった男の謎』(辻惟雄著・文春新書)→ 表紙=C図)

 これらに出てくる、「血と笑いとエロス」「淫靡にして奇っ怪、流麗にしてデロリ、底知れぬカオス」というネーミングを有する、これらの「岩佐又兵衛風古浄瑠璃絵巻群』(辻惟雄の命名)は、その作風を、次のように評されることになる(『岩佐又兵衛と松平忠直―パトロンから迫る又兵衛絵巻の謎(黒田日出男著)』P25-27「『又兵衛風絵巻群』についての辻仮説」要点記述)。

一 「荒々しいサディズムが横溢している。」
二 田中喜作によって「気うとい物凄さ」と評された一種の「妖気」も、「又兵衛風絵巻群」の「モノマニアックな表出性」にそのままつながる。
三 「又兵衛風絵巻群」の「派手な原色の濫用、表出的要素の誇張、人物の怪異な表情、非古典的な卑俗味といった要素」は、主として外的な諸要因によるものであり、それと又兵衛自身の特異な内的素質の相乗作用によって出来上がったものである。
 
 また、「又兵衛風絵巻群」の共通点として、次の七点が列挙される(『黒田・前掲書』P25-27「二冊の『岩佐又兵衛』」要点記述)

一 長大であること。
二 金銀泥や多様性の顔料を使った原色的色調による華やかな装飾性。
三 同じ場面の執拗な反復。
四 詞書の内容の細部にわたる忠実な絵画化。
五 劇的場面に見られる詞書の内容を越えたリアルでなまなましい表現性。
六 残虐場面の強調。
七 元和・寛永期の風俗画に共通する卑俗性。

 これらの「岩佐又兵衛画の作風」や「又兵衛風絵巻群の特徴」などに関しては、「美術」側(美術史研究家)の「辻惟雄シリーズ集」(そのライフワーク的諸研究)の要約の一端なのであるが、そこに「歴史」側(絵画史料研究家)の視点からのメス(「注文主を中心とした絵画資料読解」)を入れたのが、一連の「黒田日出男シリーズ集」と理解することが出来よう。

一 『江戸図屏風の謎を解く(黒田日出男著・角川選書471)』
二 『豊国祭礼図を読む(黒田日出男著・角川選書533)』
三 『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』

四  徳川美術館蔵「豊国祭礼図」の注文主(黒田日出男稿)
https://www.tokugawa-art-museum.jp/academic/publications/kinshachi/items/%E9%87%91%E9%AF%B1%E5%8F%A2%E6%9B%B846.pdf

五 『岩佐又兵衛と松平忠直(黒田日出男著・岩波現代全書1.03)』
六 『岩佐又兵衛風絵巻の謎を解く(黒田日出男著・角川選書637)』

 そして、上記の「美術」側(美術史研究家)の「岩佐又兵衛論」に、「歴史」側(絵画史料研究家)の、次の、新しい「岩佐又兵衛論」の一ページを加えようと試みていることになる((『岩佐又兵衛と松平忠直―パトロンから迫る又兵衛絵巻の謎(黒田日出男著)』P209-210、
以下、要点記述)。

【第一に、豊後(大分県)に配流された松平忠直は、寛永五年(一六二八)二月吉日に、母清涼院か弟忠昌を介して、「又兵衛風絵巻群」を描いた「岩佐又兵衛画工集団」に制作を依頼した「熊野権現縁起絵巻」(全十三巻)を「津守熊野神社」に奉納した。この「熊野権現縁起絵巻」の奥書(巻第十三)の「新田之門葉松平宰相源朝臣忠直、令寄進熊野権現之本地此十三之画軸当所之鎮守権現之社団者也、仍如件、于時寛永五年戊辰衣更着吉日 大分郡之神主 右衛門大夫」(P190-191)は、その他の記録(忠直の「祈念願書・寄進状」など)と照合して正しい。

第二に、「又兵衛風絵巻群」の棹尾に位置する津守本「熊野権現縁起絵巻」が寛永五年(一六二八)二月吉日に奉納されたことに鑑みて、その他の六作品群の絵巻は、それ以前の、又兵衛が越前下向した元和二年(一六一六)から、この寛永五年(一六二八)までに絞られ、この十二年の間に、集中的に制作された作品群である。さらに、この「熊野権現縁起絵巻」以外の作品群は、配流される元和九年(一六二三)までに作られたものと解せられる。

第三に、忠直は、豊後の配流地に「又兵衛風絵巻群」を持参した。それらの絵巻は元和九年から寛永四年十一月までは萩原の屋敷にあった。それ以降は津守の屋敷にあり、忠直が慶安三年(一六五〇)に亡くなるまで彼の書院に置かれ続けたのであろう。美術史的には「又兵衛風絵巻群」という命名でも構わないが、注文主忠直の趣味が色濃く表れていることや、それらの絵巻の制作を思い立った彼の意図を重視すると、「忠直絵巻群」と呼ぶのがふさわしい。越前藩主の忠直の将軍秀忠に対する反抗と表裏の関係をもって生み出された絵巻群として、近世初期の政治史にも位置づけられるべきであろう。「又兵衛風絵巻群」は、美術史と政治史にまたがる稀有な作品群だったのである。

(付記) 「又兵衛風絵巻群」(『岩佐又兵衛風古浄瑠璃絵巻群』)

一 残欠本「堀江物語絵巻」(香雪本上巻・香雪本中巻・三重県立美術館本・京都国立博物館本・香雪本下巻・長国寺本など) 
二 「山中常盤物語絵巻」(全十二巻)(重要文化財・MOA美術館蔵) 
三 「上瑠璃(浄瑠璃物語絵巻)」(全十二巻)(重要文化財・MOA美術館蔵) 
四 「をぐり(小栗判官絵巻)」(全十五巻)(宮内庁三の丸尚蔵館蔵・総長約三二四メートル)
五 「堀江巻双紙」(全十二巻)(MOA美術館蔵)
六 「村松物語(村松物語絵巻)」(全十八巻)(このうち、十二巻=海の見える美術館蔵、三巻=アイルランドのチェスター・ビーティ・ライブラリー蔵、三巻=所在不明)
七 「熊野権現縁起絵巻」(全十三巻)(津守熊野神社蔵、大分市歴史資料館寄託)  】
((『岩佐又兵衛と松平忠直―パトロンから迫る又兵衛絵巻の謎(黒田日出男著)』P209-210、
以下、P174-208 など)

これらの記述に接すると、この「洛中洛外図・舟木本」の一角に、「四条河原の『山中常盤操り』→ A図」(右隻第五扇上部)が描かれており、これは、「注文主忠直の趣味が色濃く」宿っていると解したい。

(参考)「注文主を中心とした絵画史料読解」

注文主を中心とした絵画史料読解.jpg

https://www.iwanami.co.jp/moreinfo/tachiyomi/0292030.pdf

(参考)特集展示「一伯公 松平忠直」

http://www.city.oita.oita.jp/o205/bunkasports/rekishi/documents/h28nennpou.pdf

特集展示「一伯公 松平忠直」
平成 28 年は、NHK 大河ドラマ「真田丸」が放送さ
れ、戦国武将ブームが再燃した年となった。この真
田丸の主人公・真田幸村(信繁)を討ち取った武将
として注目されることとなったのが、「一伯公」こ
と松平忠直である。
松平忠直は、徳川家康の孫として生まれ、越前福
井 68 万石の 2 代藩主として、大坂の夏の陣では幸
村を討ち取り、大坂城に一番乗りを果たすなど、大
変な活躍をみせた人物である。このような輝かしい
経歴をもちながら、幕府との軋轢から 29 歳の若さ
で藩主の地位を追われ大分(大分市萩原)へ移され
る。その後、大分市津守に移り、周辺の寺社を再建
するなど、地域の人たちに親しまれると同時に、自
らの生活や家族の安泰を第一に考えた余生をおくっ
たといわれる。
本展では、熊野神社に奉納された一伯公の遺品や
中根コレクションなどから生前の一伯公の勇姿や足
跡を紹介した。

展示品 熊野権現縁起絵巻[大分市指定有形文化
財]・熊野権現縁起絵巻見返紙・兜蓑・元和年中萩
原村絵図・松平忠直記念状(熊野神社)/本田忠勝書
「政」・大坂御陣図[大坂冬の陣図]・大坂陣図[大
坂夏の陣図](個人)/日根野時代府内藩領図(当館)
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「洛中洛外図・舟木本(岩佐又兵衛作)」周辺探索(その四) [岩佐又兵衛]

(その四) 御所に入る「牛車」には誰が乗っているのか?

家康が乗っている牛車.jpg

「牛車の参内行列(家康・義直・頼宣)」(左隻第四扇上部) → A図
https://emuseum.nich.go.jp/detail?content_base_id=100318&content_part_id=001&content_pict_id=044&langId=ja&webView=null

 この上図について、下記のアドレスで、次のように紹介した。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-08-16

【 この牛車には「三つ葉葵と桐紋」があり、「大御所家康か秀忠」が乗っているようだが、
その後ろに、二挺の「手輿(たごし)」が並んでおり、脇には被衣の二人の女と、赤傘をさしかけている侍女が描かれている。この「手輿」には、家康の幼い子息が乗っているようである。
 家康は、慶長十一年(一六〇六)八月十一日に、五郎太丸(七歳、後の尾張の徳川義直)と長福丸(五歳、後の紀伊の徳川義宣)を元服させて、その二人を伴って叙任の参内をしている。この参内行列は、その時のものであろうと、『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』では推測をしている。 】

 これが、『岩佐又兵衛と松平忠直―パトロンから迫る又兵衛絵巻の謎(黒田日出男著)』では、この時の、家康の参内には、「祖父家康に連れられて参内した忠直」と、松平忠直も、一緒に参内していると、『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』の記述を一歩進めている。

【 慶長十六年(一六一一)は、十七歳になった忠直にとって重大な出来事が次々に起こった。越前藩主としての忠直にとって大きな節目となった年である。第一に京都で叙位・任官があり、忠直は祖父家康に連れられて参内した。
 慶長十六年三月六日に駿府を出発した大御所家康は、同月十七日に京着して二条城に入った。同月二十日には、家康の子義利(義直)・頼将(頼宣)が右近衛権中将・参議に、鶴松(頼房)が従四位下右近衛少将に、そして、孫の松平忠直が従四位上左近衛少将に叙任された。その御礼のために、同月二十三日、家康は子の義利・頼将と孫の松平忠直を従えて参内したのである。
 のちに御三家となる徳川義利(尾張徳川家)と同頼将(紀伊徳川家)と共に参内した忠直は、天下人家康の孫として振る舞ったのである。忠直の人生にとって最初で最後の晴れやかな出来事であった。家康の孫、秀康の子であることを強烈に意識したことであろう。清和源氏新田氏の門葉(子孫)であることを自覚した機会でもあったに違いない。 】(『岩佐又兵衛と松平忠直―パトロンから迫る又兵衛絵巻の謎(黒田日出男著)』P116-117)

参内する松平忠直.jpg

「家康と共に参内する松平忠直」(左隻第四扇上部) → B図

この図(B図)は、「(A図)」の上部に描かれているものである。この「(B図)」の、『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』の記述は、次のものである。

【 これで行列は終わらない(註・「(A図)」の行列)。金雲の上には、二騎の騎馬を中心にして、二十人近い白丁(註・下級武士)が駆け出している。かれらは、おそらく牛車の後に付き従っている白丁なのだ。 】

 ここで、「(A図)」(「徳川家康・義直・頼宣」麾下の「白丁」の「静」なるに対し、この騎馬の若武者の「白丁」は、前回の「(A-4)図」(「三番目の母衣武者周辺」)の「取り巻き」と同じように「動」なる姿態で、そして、その太鼓の上部の「日の丸」の扇子を持った男性と同じように、この「(B図)」でも「扇子」を持った、「白丁」よりも身分の高いような男性が描かれている。
 これらのことからして、その「(A-4)図」(「三番目の母衣武者周辺」)の「母衣武者」を「松平忠直」と見立てたことと同じように、この騎馬の貴公子は、「松平忠直」その人と見立てることは、極めて自然であろう。

日の丸胴母衣武者周囲.jpg

「三番目の母衣武者周辺」(左隻第二扇上部) → A-4図

 ここまでのことを整理すると、『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』では、慶長十六年(一六一一)八月(これは三月が正しいか?)に、徳川家康は、「五郎太丸(七歳、後の尾張の徳川義直)と長福丸(五歳、後の紀伊の徳川義宣)」を元服させて、その二人を伴って叙任の参内をしている。」
 この時に、「(A図)」(「牛車の参内行列(家康・義直・頼宣)」)の「牛車」に「徳川家康」、そして、二挺の「手輿(たごし)」に、「五郎太丸(七歳、後の尾張の徳川義直)と長福丸(五歳、後の紀伊の徳川義宣)」が乗っている。
 さらに、『岩佐又兵衛と松平忠直―パトロンから迫る又兵衛絵巻の謎(黒田日出男著)』において、この参内の時には、十七歳の「松平忠直」(越前藩主)も、「祖父家康に連れられて
参内」しており、これは、「忠直の人生にとって最初で最後の晴れやかな出来事であった。家康の孫、秀康の子であることを強烈に意識したことであろう。清和源氏新田氏の門葉(子孫)であることを自覚した機会でもあったに違いない」ということになる(この書では、上記の抜粋の通り、慶長十六年(一六一一)三月になっており、それは、『大日本史料』第十二巻之七の記述が「三月」で、前書の「八月」は『大日本史料』第十二巻之四に因っており、その違いのようである)。
 そして、この時には、「(B図)」(「家康と共に参内する松平忠直」))の通り、松平忠直は「従四位上左近衛少将」の騎馬の英姿で描かれているということになる。
 
 これが、岩佐又兵衛が、越前藩主・松平忠直の招聘により、越前北ノ庄の真言寺院、興宗寺(本願寺派)の僧「心願」を介して、それまで住み慣れた京から越前へと移住し、その松平忠直から依頼された、所謂、「又兵衛絵巻群」の、その絵巻の中で、次のように変貌して結実してくることになる。

山中常盤物語絵巻.jpg

「山中常盤(山中常盤物語絵巻)」(重要文化財 全十二巻 各34.1×1239.0~1263.0 MOA美術館蔵 )の「山中常盤物語絵巻・第11巻(佐藤の館に戻った牛若は、三年三月の後、十万余騎をひきいて都へ上がる)」→ C図

http://www.moaart.or.jp/?event=matabe-2019-0831-0924

「山中常盤(山中常盤物語絵巻)」関連については、上記のアドレスで、その全貌を知ることが出来る。
 ここでは、この「義経(牛若)」の「従者」の恰好が、「(A-4)図」(「三番目の母衣武者周辺」)の、左端上方に描かれている」日の丸の扇子を持った男」に瓜二つのように似ているのである。同様に、「(B図)」「家康と共に参内する松平忠直」の左の「扇子を持った男」と、その仕草・恰好が瓜二つなのである。
 そして、この「義経(牛若)」の「金色の烏帽子」について、『岩佐又兵衛と松平忠直―パトロンから迫る又兵衛絵巻の謎(黒田日出男著)』では、次のように読み解くのである。

【第一に、金色の烏帽子は能装束の冠り物であり、牛若・判官(義経)の姿に特徴的な記号表現であった。忠直と又兵衛は、この金色の烏帽子の記号表現を共有しており、クライマックスにおける主人公としたのである。(略)
第二に、主人公の金色の烏帽子姿の大半は、能の風折烏帽子ではなくて、梨子打烏帽子に鉢巻をした姿で描かれている。軍勢と戦闘の中心にいる主人公は鎧姿であるから、それにふさわして梨子打烏帽子とし、それを金色に表現したのであった。(略)
そして、第三に、金色の梨子打烏帽子という主人公の姿は、能の牛若の物語を好み、源氏(新田氏)の後裔という強烈な自覚をもった注文主、すなわち松平忠直にふさわしい記号表現だったのである。また、金色の梨子打烏帽子は、忠直が又兵衛ら画工集団とのコラボレーションによって「又兵衛風絵巻群」をつくっていたことを端的に物語っている。】(『岩佐又兵衛と松平忠直―パトロンから迫る又兵衛絵巻の謎(黒田日出男著)』P260-262)

 ここで、「又兵衛風絵巻群」というのは、次の七種類のもので、『岩佐又兵衛風古浄瑠璃絵巻群』(辻惟雄の命名)の一群の絵巻を指す。「質量ともに物凄い絵巻群で、現存分を繋ぐと全長一・二キロメート近くになる」という(『黒田・前掲書)。

一 残欠本「堀江物語絵巻」(香雪本上巻・香雪本中巻・三重県立美術館本・京都国立博物館本・香雪本下巻・長国寺本など) 
二 「山中常盤物語絵巻」(全十二巻)(重要文化財・MOA美術館蔵) 
三 「上瑠璃(浄瑠璃物語絵巻)」(全十二巻)(重要文化財・MOA美術館蔵) 
四 「をぐり(小栗判官絵巻)」(全十五巻)(宮内庁三の丸尚蔵館蔵・総長約三二四メートル)
五 「堀江巻双紙」(全十二巻)(MOA美術館蔵)
六 「村松物語(村松物語絵巻)」(全十八巻)(このうち、十二巻=海の見える美術館蔵、三巻=アイルランドのチェスター・ビーティ・ライブラリー蔵、三巻=所在不明)
七 「熊野権現縁起絵巻」(全十三巻)(津守熊野神社蔵、大分市歴史資料館寄託)

 これらの「又兵衛風絵巻群」の全資料を読み解きながら、『岩佐又兵衛と松平忠直―パトロンから迫る又兵衛絵巻の謎(黒田日出男著)』では、次のような結論に達している。

【 「又兵衛風絵巻群」の注文主は、越前藩主の松平忠直であった。元和二年(一六一六)に、忠直は、岩佐又兵衛を中心とする画工(絵師)集団に命じて「又兵衛風絵巻群」つくらせ始めた。ところが、忠直は、同七・八年に参勤途中で関ケ原に滞留し、越前に引き返す行動を繰り返し、同九年二月に、将軍秀忠の命によって「隠居」とされ、豊後国に流されてしまう。絵巻の制作は、そこで一旦終わった。したがって「又兵衛風絵巻群」は、元和年間に集中的に制作された作品群であった。 】(『岩佐又兵衛と松平忠直―パトロンから迫る又兵衛絵巻の謎(黒田日出男著)』P242)

 これらの「洛中洛外図屏風・舟木本」そして「又兵衛風絵巻群」の、これらの謎解きの経過は、次の著書などにより明らかにされているのだが、未だに、「洛中洛外図屏風・舟木本」の「注文主」は、「越前藩主の松平忠直であった」とは、言明していない。それは、それなりに、何か、そう言明出来ない、何かしらの、納得し兼ねるものがあるのかも知れない。

一 『江戸図屏風の謎を解く(黒田日出男著・角川選書471)』
二 『豊国祭礼図を読む(黒田日出男著・角川選書533)』
三 『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』

四  徳川美術館蔵「豊国祭礼図」の注文主(黒田日出男稿)
https://www.tokugawa-art-museum.jp/academic/publications/kinshachi/items/%E9%87%91%E9%AF%B1%E5%8F%A2%E6%9B%B846.pdf

五 『岩佐又兵衛と松平忠直(黒田日出男著・岩波現代全書1.03)』
六 『岩佐又兵衛風絵巻の謎を解く(黒田日出男著・角川選書637)』
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「洛中洛外図・舟木本(岩佐又兵衛作)」周辺探索(その三) [岩佐又兵衛]

(その三) 「舟木本)」の「祇園会で神輿の前座の母衣武者は何を意味するのか?」

三人の母衣武者.jpg

「傘鉾・三人の母衣武者」(左隻第二扇上部) → A図

 祇園会の「神輿」集団の前に、この「傘鉾・三人の母衣武者」集団が描かれている。この先頭集団は、拡大すると次の図のとおりである。

三人の母衣武者の先頭集団.jpg

「傘鉾・三人の母衣武者」の先頭集団(左隻第二扇上部)→ B図

 「三条通り」から「寺町通り」を下って、横の「四条通り」を練り歩いている、この中央の「大きな朱傘」が、「傘(笠)鉾」である。
『洛中洛外図舟木本―町のにぎわいが聞こえる(奥平俊六著)』では、この場面を次のように解説している。

【 四条通りを行く傘鉾、大きな朱傘を押し立てて、鬼面の者が団扇を振り仰ぎ、赤熊(赤毛のかぶり物)の者が笛や太鼓で囃す。先頭で踊るのは棒振り。みな異形の出で立ち、激しく踊り、囃す。見物も興味津々と見ている。『御霊会細記』によるとスサオノミコトが巨旦(こたん)を退治したときに、鬼たちが北天竺まで送っていった姿という。鉾というと巨大な山鉾を思い浮かべるが、この傘ひとつが鉾である。もともと祭礼の作り物や出で立ちは、過差風流(かさふうりゅう)、すなわち、日常とかけ離れたほどに工夫し、飾り立てる趣向を競うものであった。この傘鉾には風流の伝統が横溢している。長く途絶えていたが近年復活した。ところで、祇園祭礼の山鉾巡行は、洛中洛外図の主要モティ-フであり、室町期の作例にも江戸期の作例にも必ず描かれるが、本図にはこの傘鉾以外描かれない。これはどうしてだろうか。洛中をクロ-ズアップした本図に大きな山鉾を描き込むと周りの人々も含めて尺度感が微妙にずれる。その代わりに傘鉾を描き、母衣武者をやや誇張気味に大きく描いている。画家の構図や尺度感に対する慎重な配慮に感嘆せざるを得ない。 】(『洛中洛外図舟木本―町のにぎわいが聞こえる(奥平俊六著)』所収「祭りは異形の風流にみちている」)

山鉾(住吉具慶).jpg

「祇園会の山鉾巡行(「寺町通り」と「四条通り」の交差点)」(「洛中洛外図」(歴博F本・右隻・拡大図)→C図
https://www.rekihaku.ac.jp/education_research/gallery/webgallery/rakuchu_f_ex/r

 この「洛中洛外図」(歴博F本)」に関しては、次のアドレスで紹介されている。

https://www.rekihaku.ac.jp/outline/publication/rekihaku/164/witness.html

【 「職人風俗絵巻」と「洛中洛外図屏風歴博F本」

●職人風俗絵巻 → (略)
●職人の種類  → (略) 
●路上の人物  → (略)
●洛中洛外図屏風「歴博F本」→ (略)
●住吉具慶との関係 
それがどんな工房だったかについては、実は「自己申告」がなされていて、歴博F本には、「法眼具慶筆」という落款がある。落款は後世に書き込まれることもあるが、F本とよく似た別の屏風にも、やはり「法眼具慶筆」の落款があるので、制作当初から書かれていたと見られる。
 「法眼具慶」は、住吉具慶(すみよしぐけい)(一六三一~一七〇五)のことで、江戸幕府の奥絵師となり、大和絵の一派をなした画家だが、本人の筆としてはいかにも下手だし、落款もやや異なるようだ。しかし、「職人風俗絵巻」は、住吉具慶の代表作として知られる「洛中洛外図巻」(東京国立博物館蔵)や「都鄙図巻(とひずかん)」(興福院(こんぶいん)<奈良市>蔵)と似た構成を取っているとも言えるし、歴博F本も、画面は基本的に横方向の金雲で区切られ、つまり絵巻を縦に並べたような画面になっている。住吉具慶と何らかの関係があるか影響を受けた工房で、具慶をブランドとして用いていたのかもしれない。
●シェアと購買層
いずれにしても、現存の洛中洛外図屏風で言えば、この工房が最も「シェア」が高く、この種の都市風俗図をかなり量産していたことは間違いない。ということは、一方に安定した需要があったはずだが、いったいどのような人々がそれを購入していたのだろうか。この「職人風俗絵巻」も、実物はかなり美麗で、けっして安価なものだったとは思われない。上級の武家や公家・寺社、有力町人などが、その享受者だったと一応想定できよう。「職人風俗屏風」は、書き込まれた文字がほとんど平仮名なので、女性向きに作られたものと思われる。洛中洛外図屏風は嫁入り道具として好まれたことが知られており、これもそうだったのかもしれない。 】

この「洛中洛外図」(歴博F本)」は、「嫁入り道具として好まれた」、謂わば、誰にでも分かりやすい、「洛中洛外図」の「住吉具慶ブランド」の屏風物として、恰好のものである。そして、下京の代表的な風物詩として、この「山鉾巡行」は、主要なテ-マで、その屏風の主要な部分を占めてしまうことになる。
「舟木本」では、大胆に、この「山鉾巡行」を、何と、「一つの傘鉾と三人の母衣武者」で見立て替えして、しかも、今から、下京入りする「神輿」の、その前座の場面として描くという、これは、確かに、「奇想派の元祖」の「岩佐又兵衛」の面目躍如たるものがある。
 それにしても、この三人の母衣武者の「母衣」(鎧の背にかけて流れ矢を防ぎ,あるいは装飾にした袋状の布)の、周囲の建物の以上の大きさで、何とも目を惹くように描かれていることか。この「三人の母衣武者」を描くのに参考にしたような「二条城の前を行く母衣武者」の図がある。

二条城の前を行く母衣武者.jpg

「二条城の前を行く母衣武者」(「洛中洛外図(歴博D本)」左隻第二・三扇・中部)→D図
https://www.rekihaku.ac.jp/education_research/gallery/webgallery/rakuchu_d/rakuchu_d_l.html

 この「洛中洛外図(歴博D本)」は、「大仏の前での乱闘場面や六条三筋町の遊郭が描かれている」など「舟木本」との共通点が多く、恐らく、「舟木本」と同時代の、そして、「舟木本」の先行的な作品で、「舟木本」は、ここから多くの示唆を受けているというような雰囲気なのである。

歴博D本の山鉾巡行.jpg

「三条橋・四条橋・五条橋と山鉾巡行」(「洛中洛外図(歴博D本)」右隻第二・三・四扇・中部)→E図)
https://www.rekihaku.ac.jp/education_research/gallery/webgallery/rakuchu_d/rakuchu_d_r.html

 これは、「洛中洛外図(歴博D本)」の、「三条橋・四条橋・五条橋と山鉾巡行」の図である。上記の鴨川に架かる橋、右から「五条(大)橋・四条橋・三条(大)橋」と、下京の中心街を行く「山鉾巡行」の図である。
 この「E図」は、上記の「C図」(「祇園会の山鉾巡行(「寺町通り」と「四条通り」の交差点)」(「洛中洛外図」(歴博F本・右隻・拡大図))と、ほぼ、同じ方向の場面(その大小の差はあれ)と解して差し支えなかろう。 
 「舟木本」の「右隻」では、これらの「山鉾巡行」は全てカットして、その代わりに、
「洛中洛外図(歴博D本)」の「二条城の前を行く母衣武者」(D図)を換骨奪胎して、「傘鉾・三人の母衣武者」(A図)を仕上げたのではないかという印象を深くする。
 さらに、細かく指摘すると、「二条城の前を行く母衣武者」(D図)の、その「二条城の前で母衣武者一行を見守っている二条城の武将たち」の三人の武将(五人のうちの三人)、この冒頭の「傘鉾・三人の母衣武者」(A図)の、その「三人の母衣武者」のモデルなのではないかという見方である。

二条城前の徳川五人衆.jpg

「二条城の前を行く母衣武者を見守っている五人の武将」(「洛中洛外図(歴博D本)」左隻第二・三扇・中部)→E図
https://www.rekihaku.ac.jp/education_research/gallery/webgallery/rakuchu_d/rakuchu_d_l.html

 この二条城の前で、座って、祇園祭礼の仮装した「母衣武者行列」一行を見守っている、
Bの五人の武将たちの、左端の「馬藺(ばりん)」の「光背(こうはい)指物」を背にしている武将は、二条城の総大将の「徳川家康」の見立てということになる。
 そして、次の「軍配」を持っている武者は、家康の跡を継いで二代目将軍となる「徳川秀忠」ということになる。 

馬藺指物の母衣武者.jpg

「傘鉾・三人の母衣武者の先頭の武者」(左隻第二扇上部) → A-1図

この巨大な「指物」(鎧の受筒に立てたり部下に持たせたりした小旗や飾りの作り物。旗指物。背旗)の「馬藺」(あやめの一種である馬藺の葉をかたどった檜製の薄板を放射状に挿している飾り物)の母衣武者(A-1図)は、「二条城の前を行く母衣武者を見守っている五人の武将」(E図)の「馬藺」の指物を背にした総大将「徳川家康」の見立てと解すると、「徳川家康」という見立ても許されるであろう。

軍配指物の母衣武者.jpg
「傘鉾・三人の母衣武者の二番目の武者」(左隻第二扇上部) → A-2図

 同様に、この「軍配」(武将が自軍を指揮するのに用いた指揮用具。軍配団扇 の略。)の指物を背にした母衣武者(A-2図)は、「二条城の前を行く母衣武者を見守っている五人の武将」(E図)の」軍配」を手にしている武将が「徳川秀忠」の見立てとすると、これまた、「徳川家忠」と見立てることは、決して、無理筋ではなかろう。

羽指物の母衣武者.jpg
「傘鉾・三人の母衣武者の三番目の武者」(左隻第二扇上部) → A-3図

 問題は、この三番目の母衣武者なのである。この背にある指物は、「二条城の前を行く母衣武者を見守っている五人の武将」(E図)には出て来ない。そこ(E図)での三番目の武者は、この羽色をした母衣を背にした武将で、その武将は、この(A-3図)のような、甲冑の「胴」に「日の丸」印のものは着用していない。
 そして、この「日の丸」印は、上記の「A-1図」では、「徳川家康」と見立てた母衣武者の左脇に、「日の丸」印の「陣笠」(戦陣所用の笠の称)に、「金色」のものが記されている。
 その「A-2図」では、「徳川秀忠」と見立てた母衣武者の右側で、今度は「団扇」に「日の丸」印が入っている。
 さらに、「B図」を仔細に見て行くと、「A-1図」の「徳川家康」と「A-2図」では、「徳川秀忠」周囲の「陣笠」は、「赤い日の丸」印と、「金色の日の丸」印とが、仲良く混在しているのに比して、この「A-3図」の母衣武者周囲の「陣笠」には、次の図(「A-4図」)のように、「無印」か「日の丸印」ではないもので、さらに、その左端の上部の男性の手には、「日の丸印」の「扇子」が描かれている。

日の丸胴母衣武者周囲.jpg
「三番目の母衣武者周辺」(左隻第二扇上部) → A-4図

 この「A-4図」の母衣武者(「A-3図」)集団と、「A-1図」(「徳川家康」の見立て)と「A-2図」(「徳川秀忠」の見立て)集団とは、別集団という雰囲気なのである。
 そして、この「A-3・4図」の母衣武者の甲冑の胴の「日の丸」と、「A-4図」の左端上部の「祭礼関係者?」の持つ扇子の「日の丸」は、「徳川幕府の天下統一」の「江戸幕府の公用旗」(「ウィキペディア」)に類するもののような印象なのである。
 その上で、この「A-3・4図」の母衣武者は、例えば、「徳川四天王」(酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政)の家臣団ではなく、「徳川親藩大名」(「徳川家康の男系男子の子孫が始祖となっている藩」)の、下記の藩主の一人という雰囲気を有している。

尾張徳川家(尾張藩)
紀州徳川家(和歌山藩)
水戸徳川家(水戸藩)
越前松平家(福井藩|松江藩|津山藩|明石藩|前橋藩 → 川越藩 → 前橋藩)
会津松平家(会津若松藩)
越智松平家(館林藩 → 棚倉藩 → 館林藩 → 浜田藩)

 このうちで、この岩佐又兵衛の「洛中洛外図屏風・舟木本」が作成された、「大阪冬の陣」(慶長十九年=一六一四)・「大阪夏の陣」(元和元年=一六一五)に、「徳川家康・同秀忠」と共に参戦した藩主は、十三歳にして越前六十七万石を継承した、越前福井藩主・松平忠直
が挙げられるであろう。
 その「大阪の陣の殊勲」関連について、『岩佐又兵衛と松平忠直―パトロンから迫る又兵衛絵巻の謎(黒田日出男著)』から要約して抜粋して置こう。

【 慶長十九年十月に大阪冬の陣が起こった。十月四日に出陣の命令があり、同十六日、忠直は、越前からの軍勢と近江坂本と合流した。十一月十五日、徳川軍は大阪へ向かい、越前勢は前田・井伊・藤堂軍と共に大阪城の東南方に陣した。大阪城の東南部端には出城(真田丸)が築かれ、真田信繁が守っていた。(略)十二月四日、真田丸の挑発で前田軍が攻めかかったが、真田丸の猛烈な発砲によって死傷者が続出し、その援軍の井伊勢と越前勢は、先を争って進撃するが、こちらも真田丸や総構(そうがまえ)からの射撃で多数の戦死者を出し、忠直にとっては惨めな結果であった。
翌二十年(元和元)年四月に再び緊張が高まり、五月三日には徳川方が大阪城を包囲した。夏の陣である。そして五月七日の城攻めにおいて、天王寺表の先鋒を命じられた越前軍は「掛レカヽレノ越前衆、タンダ掛レノ越前衆、命シラズノ爪クロノ旗」と当時流行の小唄に謡われたような勇猛果敢さを発揮して一番乗りし、真田信繁を含む三千七百五十の首をとるなどの大殊勲をあげたのであった。
(当時、血気盛んな二十歳代の青年大名・松平忠直の英姿である。) 】(『岩佐又兵衛と松平忠直―パトロンから迫る又兵衛絵巻の謎(黒田日出男著)』p124-127)

ここで紹介されている小唄の「爪クロノ旗」は、「真田勢=赤甲冑・赤旗」に対する「越前勢=黒甲冑・黒旗」のイメージだが、それは、丁度、「A-4図」の「三番目の母衣武者周辺」の、この「黒い陣笠」の集団が、「大阪夏の陣」の「命シラズノ爪クロノ旗」集団を見立てているものと理解をしたい(下記の「参考」を参照)。
 そして、その理解の上に、もう一つ、次の「飛躍した理解」を積み重ねたい。

「三人の母衣武者の三番目の武者」(A-3図・A-4図)の、この「母衣武者」は、「大阪冬の陣・夏の陣」の頃の、「徳川家康」(一番手の母衣武者=大御所・家康)と「徳川秀忠」(二番手の母衣武者=徳川二代目将軍・秀忠)に続く、三番手の徳川親藩・越前福井藩主「松平忠直」(「徳川家康」の孫、「秀忠」の「兄・結城秀康の嫡子、娘・勝姫の婿)の「見立て」(あるものを他になぞらえてイメージすること)と解したい。

 さらに、もう一つ、その「砂上の楼閣」を重ねるように、この「越前松平家の当主・松平忠直こそ、岩佐又兵衛の、この『洛中洛外図屏風・舟木本』の、その背後に蠢いている中核に居座る「注文主」のその人である」ということを、様々な、この『洛中洛外図屏風・舟木本』の「見立て」の「謎解き」をして、その実像に迫りたいということなのである。

 ここでは、その「謎解き」の、そのスタートに相応しいものを記して置きたい。

【 忠直は、元和元年前後には岩佐又兵衛とその作品を知っており、翌二年に越前に呼び寄せた。そして、又兵衛を中心とした画工集団に、自分の選んだ『堀江物語』以下の物語を次々に絵巻に作らせたのであった。したがって、「又兵衛風絵巻群」の絵巻としての諸特徴には、忠直の好みがよく現れており、忠直が進んで絵巻化した五つの物語には、彼の倫理や願望が色濃く映しだされている。「又兵衛風絵巻群」は、越前藩主松平忠直の斑紋と彼の趣味が生み出した稀有の作品群であり、「忠直絵巻群」だったのだ。】(『岩佐又兵衛と松平忠直―パトロンから迫る又兵衛絵巻の謎(黒田日出男著)』p242-243)

ここに、簡略な「松平忠直のプロフィール」も併記して置きたい。

【 松平忠直(まつだいらただなお) (1595―1650)
江戸前期の大名。2代将軍徳川秀忠(ひでただ)の兄結城秀康(ゆうきひでやす)の長男。母は中川一茂(かずしげ)の娘。1607年(慶長12)父秀康の領地越前(えちぜん)国福井城(67万石といわれる)を相続し、11年将軍秀忠の三女を娶(めと)る。
15年(元和1)の大坂夏の陣では真田幸村(さなだゆきむら)らを討ち取り大功をたてた。その結果同年参議従三位(じゅさんみ)に進むが領地の加増はなく、恩賞の少なさに不満を抱き、その後酒色にふけり、領内で残忍な行為があるとの評判がたった。
また江戸へ参勤する途中、無断で国へ帰ったりして江戸へ出府しないことが数年続いたりしたので、藩政の乱れを理由に23年豊後萩原(ぶんごはぎわら)(大分市)に流され、幕府の豊後目付(めつけ)の監視下に置かれた(越前騒動)。
豊後では5000石を生活のために支給され、当地で死んだ。いわば将軍秀忠の兄の子という優越した家の抑圧の結果とみられる。なお処罰前の乱行について菊池寛が小説『忠直卿(きょう)行状記』を著したので有名となるが、かならずしも史実ではない。[上野秀治]
『金井圓著「松平忠直」(『大名列伝 3』所収・1967・人物往来社)』 】(出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ))

(参考)「松平忠直」周辺

https://www.saizou.net/rekisi/tadanao3.htm

「忠直をめぐる動き」

1595(文禄4)
 結城秀康の長男、長吉丸(忠直)誕生
1601(慶長6)
 秀康、越前入国。北庄城の改築始まる
1607 秀康、北庄で死去
忠直、越前国を相続
1611 勝姫と婚姻
1612 家臣間の争論、久世騒動起きる
1615(元和元)
 大坂夏の陣で戦功、徳川家康から初花の茶入れたまわる。
 長男仙千代(光長)北庄に誕生
1616 家康、駿府で死去
1618 鯖江・鳥羽野開発を命じる
1621 参勤のため北庄を出発も、今庄で病気となり北庄に帰る。
仙千代、忠直の名代として江戸へ
1622 参勤のため北庄たつも関ケ原で病気再発、北庄に帰る。
永見右衛門を成敗
1623 母清涼院通し豊後国へ隠居の上命受ける。3月北庄を出発、
5月豊後萩原に到着
1624(寛永元)
 仙千代、越後高田に転封。弟忠昌が高田より越前家相続。
 北庄を福井と改める
1626 忠直、豊後萩原から同国津守に移る
1650(慶安3)
 9月10日、津守で死去。56歳。10月10日、浄土寺で葬儀

https://www.saizou.net/rekisi/tadanao7.htm

「大阪夏の陣の松平忠直」

夏の陣の松平忠直.jpg

「大阪夏の陣の松平忠直」(「大坂夏の陣図屏風(大阪城天守閣蔵)」右隻・部分拡大図)→F-1図

 この図は、上記の「本田忠朝」(「本田忠勝」の次男)は、この大阪夏の陣で戦死を遂げる。
その下が「松平忠直」の「越前勢」で、「赤備え」の「真田勢」との合戦の場面である。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/1/18/The_Siege_of_Osaka_Castle.jpg

夏の陣松平忠直・爪黒の旗.jpg

「大阪夏の陣の松平忠直」(「大坂夏の陣図屏風(大阪城天守閣蔵)」右隻・部分拡大図)→F-2図

この図(F-2図)は、F-1図の拡大したもので、この中央に黒馬に跨っている若き武将が、「越前勢」の総大将「松平忠直」の英姿であろう。その上に林立する「吹流し」が、小唄に謡われた「掛レカヽレノ越前衆、タンダ掛レノ越前衆、命シラズノ爪クロノ旗」の「爪クロノ旗」なのかも知れない。

https://www.saizou.net/rekisi/tadanao8.htm

「恩賞にもらった初花の茶入れ」

https://www.saizou.net/rekisi/hideyasu.htm

「結城秀康は松平本家を継いだ?」

https://www.saizou.net/rekisi/etizen/matudaira.htm

「将軍は本家、越前は嫡家」

https://www.saizou.net/rekisi/tadanao1.htm

「松平忠直の謎」
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「洛中洛外図・舟木本(岩佐又兵衛作)」周辺探索(その二) [岩佐又兵衛]

(その二) 「舟木本)」の「祇園会で神輿を担いでいる男は誰か?」

 「2021年4月14日(水)[NHK・BSプレミアム]前10:45~11:15」に、「洛中洛外図屏風 舟木本(国宝)」が放送されていた。その時の、ネット記事が、下記のアドレスで次のとおり紹介されている。

https://www6.nhk.or.jp/nhkpr/post/original.html?i=28261

【京都のパノラマを描いた洛中洛外図屏風。現存する100を超える洛中洛外図屏風の中で、異彩を放つのが江戸時代のはじめに描かれた国宝「舟木本」。この屏風には、権力者である武士のみならず、庶民や商人まで2700人を超える人物が所せましと描かれ、当時の風俗を知る一級資料として注目されています。日本の中心が江戸に移ったころの京都にはどんな暮らしがあったのか? 450インチのスクリーンに屏風を投影し、ゲームコントローラーで拡大すると、現代にはない商売人の姿や意外な女性像などが次々と発見できます。さらに、現代の京都地図と比較しながら深掘りすると、隠された政治的メッセージが見えてくる!?  400年前の知られざる京都の姿に迫ります。】

 そして、次の図がアップされていた。

舟木本・神輿を担ぐ男.jpg

「洛中洛外図・舟木本」の「神輿を担ぐ男」(「2021年4月14日(水)[NHK・BSプレミアム]図)

 この「神輿を担ぐ男」を、「洛中洛外図・舟木本」右隻(C図)と「洛中洛外図・舟木本」左隻(D図)から、「権力者である武士のみならず、庶民や商人まで2700人を超える人物」の中から、探し出すのは容易ではない)。

舟木本・神輿を担ぐ男(板倉勝重?).jpg

「洛中洛外図・舟木本(A・B図)」の「神輿を担ぐ男」(左隻=B図・第三扇上部)

 確かに、この「神輿を担ぐ男」は、「洛中洛外図・舟木本」の「左隻=D図・第三扇上部」に、上図のとおり出てくる。
 この図の左端の、神輿を担いでいる、愛嬌のある、ふっくら顔の「おっさん」風情の男が、上記の、アップして放映されていた男性である。この男性は、「町人なのか? 武士なのか?」……、周りの男性は、町人というよりも武士という雰囲気である。右隣りの日の丸の扇子をかざしている男は、どう見ても武士という恰好であろう。
 この図は、祇園会の神輿を担いでいる図である。この「舟木本」の祇園会は、この「神輿渡御」(八坂神社主宰の「官祭」)関連のみで、「山鉾巡行」(八坂神社氏子主宰の「町衆祭」 )関連のものは、出て来ない。
 ここで、上記の放映記事の、「現代の京都地図と比較しながら深掘りすると、隠された政治的メッセージが見えてくる!?  400年前の知られざる京都の姿」が、この「舟木本」の六曲一双に、巧妙に配置されていることに思い知る。
 これらのことを、冒頭に掲げた、「舟木本」の解説記事(「東京国立博物館」)を、下記に再掲し、その「隠された政治的メッセージ」などの一端を記して置きたい。
 
【 (再掲)
右端には豊臣氏の象徴ともいうべき方広寺大仏殿の偉容を大きく描き、左端には徳川氏の二条城を置いて対峙させ、
《隠された政治的メッセージ》豊臣時代の「桃山文化」を右端に、そして、徳川時代の「パックス・トクガワ-ノ(徳川の平和)」の到来を象徴する「二条城」を左端に、その両者を対峙させる。
その間に洛中、洛東の町並が広がる。右隻を斜めによこ切る鴨川の流れが左隻に及び、2隻の図様を密に連繋させている。建物や風俗をとらえる視点は一段と対象に近づき、随所に繰り広げられる市民の生活の有様を生き生きと描出する。
《隠された政治的メッセージ》応仁の乱以降、戦乱の中を逞しく、そして、「公家・武家文化」から「町衆文化」を生み出していく、京の人々の生き様を描出する。

右隻の上方には桜の満開する豊国廟をはじめ、清水寺、祇園などの洛東の名刹が連なり、鴨川の岸、四条河原には歌舞伎や操り浄瑠璃などが演じられ、歓楽街の盛況ぶりが手にとるように眺められる。
《隠された政治的メッセージ》右隻の上方に、「豊国廟」(豊臣秀吉の眠る廟)・「清水寺・祇園」(古都京都を代表する「清水寺」そして、京の人々の「産土」の「祇園さん・八坂さん」)などを背景にして、鴨川の岸、四条河原には「歌舞伎・浄瑠璃・能」の小屋が建ち並び、それに続く「遊楽歓楽街」の盛況ぶりが活写される。

左隻では祇園会の神輿(みこし)と風流が町を進行し、南蛮人の姿も認められる。右下の三筋町の遊廊では路傍で遊女と客が狂態を演じ、街には各種の階層の人々がうごめき、その数はおよそ2500人に及ぶ。
《隠された政治的メッセージ》五条の橋を渡り、左隻では、祇園会の「神輿」(八坂神社主催の「神輿渡御」)が出発し、その前座の「山鉾」(祇園社氏子の「町衆」主催)に代わり、母衣を背にした鎧武者と仮装した町衆の「風流」衆が、練り歩いている。その「三条通・四条通・五条通」の下方に、二条城の整備に関連して移住してきた「六条三筋町」の遊郭街が現出する。この「下京」(商業街区の「町衆」の町)と「上京」(御所のある「公家・武家・上層町衆」の町)との、各種・各層の2500人とも2700人と言われている人々が生き生きと描かれている。

その活趣あふれる人物の諸態を見事に描き表した画家の名は不明であるが、岩佐又兵衛が候補にあげられている。
《隠された政治的メッセージ》この「活趣あふれる人物の諸態を見事に描き表した画家の名」は、「岩佐又兵衛」、あるいは、その一派(岩佐又兵衛工房)の手によると伝えられている。この「岩佐又兵衛」は、近松門左衛門による人形浄瑠璃の演目の一つ『傾城反魂香(けいせい はんごんこう)』の中に登場する大津絵師・「吃又平(どものまたへい)」とか、在世中から「浮世又兵衛」のあだ名で呼ばれている「又兵衛浮世絵開祖説」有する、その人物像は伝説化している。 】

 さて、冒頭の「神輿を担ぐ男」に戻って、祇園会の「山鉾」は、祇園社氏子の「町衆」(町人)が主催するのに対し、「神輿」は、八坂神社主催の「神事」で、その担ぎ手は「輿丁(よちょう)といい、同じ法被姿(白装束など)で、この「神輿を担ぐ男」も町人風情であるが、隣りの裃姿で日の丸扇子を煽っている武士風情の男性などと関係からすると、何やら、武士階級の「輿丁」の一人という雰囲気で無くもない。

左六下・板倉勝重の九曜紋.jpg

(「九曜紋の板倉勝重」(左隻第六扇下部)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-08-11

 上記のアドレスに出てくる、この京都所司代の「九曜紋の板倉勝重」(1545-1624)は、幼少時に出家して浄土真宗の永安寺の僧であったが、三十七歳の時、徳川家康の命で還俗して武士となり、家督を相続したという、家康配下の十六武将の一人だが、他の武将と違った経歴の持ち主なのである。
 板倉勝重が、京都所司代になったのは、関ヶ原の戦い後の慶長六年(一六〇一)のことで、
その職務は、「朝廷や公家の監察、畿内の天領の訴訟処理、さらには豊臣家や西国大名の監視」という、単に、京都という区域内に関するものではなかった。
 元和六年(一六二〇)に、長男・重宗に京都所司代の職を譲るまで、その名所司代として、下記のアドレスでは、その業績として、次の三点を挙げている。

https://tikugo.com/osaka/busho/itakura/b-itakura-sige.html

一 朝廷にメスを入れる → 慶長十四年(一六〇九)の「猪熊事件」(女官・公家の密通事件)に際し、後陽成天皇と家康の意見調整を図って処分を決め、朝廷統制を強化した。

二 大坂冬の陣・夏の陣の功労者 → 慶長十九年(一六一四)からの大坂の陣の発端となった「方広寺鐘銘事件」、続く、「大阪冬の陣」「大阪夏の陣」の、和議交渉と、豊臣家滅亡後の一連の終戦処理に主導的役割を果たした。

三 公家諸法度の制定の立役者 → 慶長十九年、改元して、元和元年(一六一四)に発効した「公家諸法度」の制定の立役者であると同時に、朝廷がその実施を怠りなく行うよう指導と監視に怠りがなかった。

 ここで、この京都所司代・板倉勝重の、これらの業績のことごとくが、何やら、この「洛中洛外図屏風・舟木本(岩佐又兵衛作)」の「右隻」「左隻」の六曲一双の屏風の中に、それとなく描かれているようなのである(『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男男)著』)。

 として、この「九曜紋の板倉勝重」に似通っている人物が、「権力者である武士のみならず、庶民や商人まで2700人を超える人物」([NHK・BSプレミアム]、「東京国立博物館」では2500人)から、「あれかこれか」していたら、どことなく、何と、冒頭の「神輿を担ぐ男」と交差してきたのである。

板倉勝重と神輿男.jpg

(「神輿を担ぐ男」=左隻第三扇上部と「九曜紋の板倉勝重」=左隻第六扇下部)

 もとより、「他人の空似」(まったく血のつながりがない者同士なのに、肉親であるかのように顔つきがよく似ていること)の世界のものなのかも知れないが、そうとも取れない、次のような情報がある。

「天下で切支丹御法度となった事」→ 「稲荷の神輿」に関する「板倉勝重」の「板倉政要」の一つ(?)

【 天下で切支丹が御法度となった事について、それは板倉伊賀守(勝重)が京都所司代に成った頃のこと、五条松原通を稲荷の神輿が渡っていた所、柳の馬場の辻において、神輿に半弓が射掛けられた。これにより神輿の渡りは出来なくなってしまい、この事は板倉伊賀守に報告された。
 ↓
伊賀守は早速配下を数多遣わしてこれを捜査した所、犯人が切支丹宗旨の者だと判明した。
そしてこの事件以降、切支丹が御法度と成ったのである。
 ↓
三条五条の橋に、切支丹の者たちを竹のす巻きにして欄干にもたせ掛けて置き、宗旨変えを誓う者は赦された。宗旨を変えない者たちは、その後七条河原にて70人が火炙りを仰せ付けられた。以降、切支丹は厳重に禁止された。  (長澤聞書)  】

 もう一つある。

「彼らは勅封蔵に忍び入り」→ 両替商の亭主の妻女の訴え

【 この頃、南都東大寺の衆徒三人が搦め捕られ、この他一人同宿の者、以上四人が搦め捕られた。
何故かといえば、六、七年前、彼らは勅封蔵(正倉院)に忍び入り、敷板を切り抜き、宝物の内金作の鶏、同じく盂を捜し取って、折々京都へ持って上がり、金として両替し私用に使った。
 今年、かの盂をそのままにて両替することを両替商に相談した所、その亭主はこの盂を見ると、
「これは尋常の物ではない、殊に昔の年号が有り、きっとこれは勅物、もしくは御物では無いだろうか」
と不審に思い、この旨をかの僧に申した。

僧は難儀に及び、往々この事が亭主の口より漏れてしまうと思い、別宿にて亭主に振る舞いをし、そこで鴆毒を摂取させ、亭主はたちまち死に果てた。

この亭主の妻女は、すぐに板倉伊賀守(勝重)の所へ行この旨を言上した。伊賀守は奈良代官に届けたため、かの僧三人、并びに同宿一人が搦め捕られ京都に上らされた。伊賀守はの彼らに対し事の内容を直接に尋問したところ、ありのままに白状した。

そして彼らの身柄は南都へ下し置かれ、またこの事件については東国(駿府、江戸)に報告された。捕縛された者たちは、来年二月、薪の能見物に集まる貴賤にその姿を晒した上で成敗される、などと風聞されている。また猿澤の池傍に牢が構えられ、彼らはそこに入れられ、これを貴賤が見物している という。『当代記』  】

 この、板倉勝重に訴える「(毒殺された)両替商の亭主の妻女」の図、舟木本に、下記の図により描かれている。

 これに関連する二図を下記に掲げて置きたい。下記の図の、左上が、この裁判での女性の訴えを聞いている板倉勝重である。この中央(下方)の女性が、板倉勝重に必死に何かを訴えかけている女性である。

民事裁判する市倉勝重.jpg

「裁判で女性の訴えを傾聴している板倉勝重」(左隻第六扇下部)

板倉勝重に訴える女.jpg

(「裁判で板倉勝重に訴えている女性」(左隻第六扇下部「上記の図」の部分拡大)

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「洛中洛外図・舟木本(岩佐又兵衛作)」周辺探索(その一) [岩佐又兵衛]

(その一) 「洛中洛外図・舟木本(岩佐又兵衛作)」読解のための二つの「洛中洛外図」(歴博D本と歴博F本)との比較など

岩佐又兵衛の「洛中洛外図・舟木本」(国宝・東京国立博物館蔵・六曲一双)の全体図は、下記のものである。

右一・二・三・四・五・六.jpg

「洛中洛外図・舟木本」右隻(上部=豊国廟・妙法院・清水寺・祇園社・知恩院・四条河原
/中部=大仏堂(方広寺)・伏見街道・六波羅密寺・五条通・建仁寺・五条大橋・五条寺町
 /下部=三十三間堂・七条河原・鴨川・六条三筋町)→ A図

左一・二・三・四・五・六.jpg

「洛中洛外図・舟木本」左隻(上部=鴨川・三条大橋・寺町通・三条通・六角堂・紫宸殿・中長者町通・清涼殿・東洞院通 /中部=室町通・四条通・五条通・新町通・下立売通・二条通・堀川通・二条城 /下部=東本願寺・東寺・西本願寺)→ B図

https://emuseum.nich.go.jp/detail?content_base_id=100318&content_part_id=001&content_pict_id=044&langId=ja&webView=null

 上記のアドレスの、「東京国立博物館(e国宝)」の解説は、次のとおりである。

【京都の市中とその周辺を描く、洛中洛外図の1つで、もと滋賀の舟木家に伝来したため、舟木本の名で親しまれている。初期の町田本や上杉が示す洛中洛外図の一定型
――上京(かみきょう)と下京(しもぎょう)をそれぞれ東と西から別々に眺望して2図に描き分ける形式――
を破り、1つの視点からとらえた景観を左右の隻に連続的に展開させるものである。
右端には豊臣氏の象徴ともいうべき方広寺大仏殿の偉容を大きく描き、左端には徳川氏の二条城を置いて対峙させ、その間に洛中、洛東の町並が広がる。右隻を斜めによこ切る鴨川の流れが左隻に及び、2隻の図様を密に連繋させている。建物や風俗をとらえる視点は一段と対象に近づき、随所に繰り広げられる市民の生活の有様を生き生きと描出する。
右隻の上方には桜の満開する豊国廟をはじめ、清水寺、祇園などの洛東の名刹が連なり、鴨川の岸、四条河原には歌舞伎や操り浄瑠璃などが演じられ、歓楽街の盛況ぶりが手にとるように眺められる。左隻では祇園会の神輿(みこし)と風流が町を進行し、南蛮人の姿も認められる。右下の三筋町の遊廊では路傍で遊女と客が狂態を演じ、街々には各種の階層の人々がうごめき、その数はおよそ2500人に及ぶ。その活趣あふれる人物の諸態を見事に描き表した画家の名は不明であるが、岩佐又兵衛が候補にあげられている。景観の情況から元和初年(1615)頃の作とされている。】

 この「舟木本」に似通っているものに、次の「歴博D本」がある。

歴博D本右.jpg

「洛中洛外図」(歴博D本)右隻(上部=豊国廟・清水寺・八坂の塔=法観寺・祇園社・知恩院・粟田口・南禅寺・永観堂・吉田社・糺森・下鴨社 /中部・下部=三十三間堂・耳塚・大仏堂(方広寺)・五条橋・四条橋・芝居小屋・三条橋・誓願寺・妙養寺・内裏 ) →C図

歴博D本左.jpg

「洛中洛外図」(歴博D本)左隻(上部=鞍馬寺・貴船者・大徳寺・寺=鹿苑寺・北野社・北野経堂・嵯峨釈迦堂=清水寺・天龍寺・虚空蔵=法輪寺・桂川・松尾社 /中部=賀茂競馬・京都所司代・堀河通・二条城・神泉院・東寺・壬生寺・西本願寺 /下部=相国寺・六条三筋町・東本願寺) →D図
https://www.rekihaku.ac.jp/education_research/gallery/webgallery/rakuchu_d/rakuchu_d_l.html

 この「歴博D本」は、大仏堂(方広寺)」での乱闘場面や六条三筋町の遊郭が描かれているなど「舟木本」との共通点が多い。しかし、「町並みは簡略化され、現実の京都というよりも、抽象化された町になっている。」(『都市を描く―京都と江戸―(人間文化研究機構連携展示・国立歴史民俗博物館/国文学研究資料館編/大学共同利用機関法人 人間文化研究機構刊)』

歴博本F本・右隻.jpg

「洛中洛外図」(歴博F本)右隻(上部=伏見稲荷・豊国廟・三十三間堂・大仏堂(方広寺)・清水寺・八坂の塔=法観寺・建仁寺・祇園社・芝居小屋・知恩院・南禅寺・永観堂・黒谷=金戒光明寺・銀閣寺=慈照寺・吉田社・比叡・山鞍馬山 /中部=鴨川・五条橋・四条橋・三条橋・下賀茂社・上賀茂社・賀茂の競馬 /下部=東本願寺) → E図

歴博本F本・左隻.jpg

「洛中洛外図」(歴博F本)左隻(上部=金閣寺・北野社・栂尾=高山寺・平野社・影向の松・高雄=神護寺・嵯峨釈迦堂=清水寺・御室(仁和寺)・妙心寺・二尊院・野の宮・天龍寺・虚空蔵=法輪寺・梅宮社・松尾社・尼寺=大通寺・山崎・西芳寺 中部=京都
所司代・二条城・神泉院・東寺・西本願寺 /下部=堀河通) → F図
https://www.rekihaku.ac.jp/education_research/gallery/webgallery/rakuchu_f_ex/rakuchu_f_ex_l.html

 この「歴博F本」は、上記の「舟木本」と「歴博D本」を読み解くには、極めて参考になる。何よりも、下記のアドレスの、「職人風俗絵巻」(「歴博F本」と「同じ絵師・工房の作品」と思われる)と連動されると、興味が倍増してくる。

https://www.rekihaku.ac.jp/education_research/gallery/webgallery/shokunin_f/shokunin_f.pdf

「舟木本」に関連しては、上記に掲げた、「東京国立博物館(e国宝)」(アドレスは、下記に再掲)の「右隻・左隻」を「あれかこれか」していると、その全貌が見えてくる。

https://emuseum.nich.go.jp/detail?content_base_id=100318&content_part_id=001&content_pict_id=044&langId=ja&webView=null

(参考)

https://www.rekihaku.ac.jp/education_research/gallery/webgallery/webgallery_fo.html#b

「国立歴史民俗博物館」の「WEBギャラリー」での、「洛中洛外図屏風」は、次のものが紹介されている(※印の記述は、『都市を描く―京都と江戸―』(人間文化研究機構連携展示・国立歴史民俗博物館/国文学研究資料館編/大学共同利用機関法人 人間文化研究機構刊)などを参考としている。●印=「舟木本」読解のための二つの「比較本」)

一 洛中洛外図屏風(歴博甲本) 【重要文化財】 [16世紀前期](室町時代後期)
※現存最古の洛中洛外図屏風。狩野元信(1476-1559)作が有力。右隻に「内裏」、左隻に「幕府(花の御所)」の第一定型。
二 洛中洛外図屏風(歴博乙本) 【重要文化財】 [16世紀後期](桃山時代)
※初期洛中洛外図屏風のひとつ。狩野元信の子の松栄(1519-1592)周辺の作。第一定型。
三 洛中洛外図屏風(歴博C本) [江戸時代前期]
※寛永二条城行幸を描く片隻のみ。二条城が中心。遊興図要素は少ない。
●四 洛中洛外図屏風(歴博D本) [江戸時代前期]
※祇園会の祭礼行列や遊楽の場面が特色。第二定型(右隻=内裏、左隻=二条城)の構図だが、二条城は比較的小さい。統治者の視点で描かれていない。大仏の前での乱闘場面や六条三筋町の遊郭が描かれているなど「舟木本」との共通点が多い。町並みは簡略化され、現実の京都というよりも、抽象化された町になっている。
五 洛中洛外図屏風(歴博E本) [江戸時代中期]
※名所案内記『京童』の挿絵を使った異色作。第二定型の構図だが、二条城は名所の一つ(左隻)、「傾城町」(島原遊郭)が描かれるなど遊興的な色彩が強い。
●六 洛中洛外図屏風(歴博F本) [江戸時代中期]
※装飾的な絵画となった洛中洛外図屏風。「法眼具慶筆」落款あり。住吉具慶(1631-1705)
と関係の深い工房が量産していることも考えられる。第二定型(内裏=右隻、二条城=左隻)
※「職人風俗絵巻」と連動している(同じ絵師・工房の作品と思われる)。
https://www.rekihaku.ac.jp/education_research/gallery/webgallery/shokunin_f/shokunin_f.pdf
【「職人風俗絵巻」 31.7×750 ㎝ 江戸時代中期 本館蔵 H-10
洛中洛外図屏風の市中の一部を切り取ったような、道に面した町屋にいろいろな職人を
配した巻物。描かれた職人は、ひとつずつの店として描かれており、職人名が記されてい
るのは、次の 24 種類である。
弓屋 くミや(組屋〔組紐〕) うちわや(団扇屋) つかまきや(柄巻屋) へにや
(紅屋) せと物や(瀬戸物屋) ことや(琴屋) やはき(矢作) かさはり(傘貼り)
かゝミや(鏡屋) まき物や(巻物屋) くつや(沓屋) そうめん屋(素麺屋) やり
屋(槍屋) えほしや(烏帽子屋) ひものや(檜物屋) ぬいものや(縫い物屋) 筆
屋 じゅずや(珠数屋) あふきや(扇屋) まりや(鞠屋) うつほや(靫屋) 太刀
や たはこや(煙草屋)
この他にも、路上に多くの人物が描かれており、名前は記されていないが、次のような
生業や芸能が見られる。
鉦叩(かねたたき)、獅子舞、琵琶法師、柴売り、山伏、草履(ぞうり)売り、傀儡師
(くぐつ=人形遣い)、虚無僧(こむそう)、八丁鉦(はっちょうがね=歌念仏の一種)、
猿曳(さるひき)、綿売り、高野聖(こうやひじり)、油売、竹売。
絵は洛中洛外図屏風「歴博F本」に似ており、同一の工房と思われる。この工房作の洛
中洛外図屏風などは他にも多く、嫁入り道具のような需要に応えていたと思われる。】
七 東山名所図屏風 [16世紀後期](桃山時代)
※清水寺を中心に東山と市街の一部を描いたもの。京都の名所を題材とした装飾的な絵画傾向が強くなってくる。
八 京都名所図屏風 [江戸時代後期]
※四条派の絵師・松川龍椿(1818-1830)の作。京都の東西の名所だけを描いたもの。内裏・二条城・祇園会などは登場しない。金雲の合間に名所を散りばめた構成は、名所への関心に回帰した洛中洛外図屏風の一つの終着点とも言える。
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