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醍醐寺などでの宗達(その二十・「風神雷神図屏風 (宗達筆) 」周辺) [宗達と光広]

その二十「醍醐寺」というバーチャル(架空)空間での「風神雷神図屏風 (宗達筆)」(その三)

合成図二.jpg

(上段) 俵屋宗達筆「風神雷神図屏風」(国宝 紙本金地着色 二曲一双 各157.0×173・0cm 建仁寺蔵)→A図
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-04-11
(下段・左図) 京都博物館蔵 「蓮池水禽図」「伊年」印 国宝→B図
(下段・中央図)畠山記念館蔵 「同上」  無印     → C図
(下段・右図) 山種美術館蔵 「同上」  「伊年」印   → D図
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-01-19
【《宗達について大事なことは、法橋叙位以前の作品と考えられる「蓮池水禽図」(下段・左図))において、完璧に牧谿といわしめるほどに、奥深い空間表現を実現していたという事実である。また養源院障壁画(※)においてすでに独自のスタイルを見せている。ということも重要であろう。したがって、この時期、すでに宗達は相当に高いレベルで表現の自由を獲得していたと見てよい。
 私は、山川氏(山川武説)のように「若さ」を強調するのではなく、「蓮池水禽図」と養源院の「白象図」「唐獅子図」を描けた時点で、十分に「風神雷神図屏風」を描くだけの技量は成熟していたと思っている。「たらし込み」をたくみに使って「蓮池水禽図」を描いた画家が、同時期に「風神雷神図屏風」の「たらし込み」を描いたとしても不思議ではない。豊かな空間表現への進化を基準とするならば、水墨画において「蓮池水禽図」から「牛図」(※※)、「白鷺図」(※※※)という、より平面性の勝った空間表現へという逆転現象をどのように解釈すべきであろうか。後述べするが、空間表現の問題に関して、ひろがりや奥行きの追求から平面的、装飾的な画面構成へという展開は、芳崖以降の二十世紀の近代画家たちにはごく当たり前のことなのである。》(p129~p130))
《「白鷺図」(※※※)には妙心寺第百二十八世楊屋宗販の賛があり、「前(さき)」とあることから、着賛は早くても一六三三年(寛永十)頃と推定されている。宗達の制作時期もこの頃とすれば、「関屋澪標図屏風」後の最晩年作となる。
 「白鷺図」を水墨画の最晩年として見た時、屏風画のような枠の意識はさほど感じないが、そのかわり白鷺を描く速く均質に伸びる線、たらし込みをほとんどもちいない画面処理、構図の単純化、動きのない白鷺のポーズ、それらが、水墨画における宗達の絵画の純粋化を示しているように思われる。》(p145)
※養源院障壁画 → 下記のアドレスなどを参照。
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-04-07
※※「牛図」(頂妙寺蔵) → 下記のアドレスなどを参照。
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-12-19
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-03-09
※※※「白鷺図」→「白鷺図」(宗達画・楊屋宗販賛)→下段の(参考三)を参照。  】
(『平凡社新書518俵屋宗達(古田亮著)』所収「新たな宗達像―制作年代推定から」)

(「宗達ファンタジー」その三)

一 宗達作品の「制作年代の推定」について、「俵屋宗達略年譜および各説時代区分」(『平凡社新書518俵屋宗達(古田亮著)』所収)では、次のように推定している。

①「蓮池水禽図」(上記B図) → 1614(慶長19= 47?)~1615(元和元=48?)
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-01-08
②「風神雷神図」(上記A図) → 1616(元和2= 49?)~1617(元和3= 50?)
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-04-11
③「雲龍図屏風」      → 1619(元和5= 52?)~1621(元和7= 54?)       
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-04-04
④「松島図屏風」      → 1619(元和5= 52?)~1621(元和7= 54?) 
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-03-30
➄「養源院障壁画」     → 1622(元和8= 55?)~1625(寛永元= 57?)  
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-04-07
⑥「関屋澪標図屏風」    → 1631(寛永8=64?)
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-03-20
⑦「舞樂図屏風」      → 1632(寛永9= 65?)~1625(寛永18= 74?) 
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-02-11

二 この①「蓮池水禽図」(上記B図)に関連しての、「法橋叙位以前の作品と考えられる『蓮池水禽図』)において、完璧に牧谿といわしめるほどに、奥深い空間表現を実現していたという事実である」並びに「『蓮池水禽図』を描いた画家が、同時期に『風神雷神図屏風』の『たらし込み』を描いたとしても不思議ではない」という指摘は、冒頭に掲げた「宗達モデル図」(A図とB図+C図+D図の合成図)からして、その感を大にする。

三 と同時に、宗達が①「蓮池水禽図」を制作したと推定される「1614(慶長19= 47?)~1615(元和元=48?)」と「法橋授位」の時期は、同時期の頃で、その時期は「1615(元和元=48?)~1616(元和2= 49?)」と推定し、②「風神雷神図」は、「法橋授位」後の「1616(元和2= 49?)~1617(元和3= 50?)」の頃と推定したい。

四 ③「雲龍図屏風」から⑦「舞樂図屏風」までの制作推定時期は、下記の(参考一「宗達作品の『制作年代の推定』など」) の「※古田亮説」(「標準的」な見解)に近いものと推定し、同時に、「※※林進説」(「異説的」な見解)らの「何故、それらの異説が展開されるのか」ということに関連して、常に先入観にとらわれず、下記の(参考二「宗達に関する『文献史料』)などにより、その一つ一つを随時検証することとなる。

五 その「※古田亮説」(「標準的」な見解)の、「『「白鷺図」を水墨画の最晩年として見た時、屏風画のような枠の意識はさほど感じないが、そのかわり白鷺を描く速く均質に伸びる線、たらし込みをほとんどもちいない画面処理、構図の単純化、動きのない白鷺のポーズ、それらが、水墨画における宗達の絵画の純粋化を示しているように思われる。」(『平凡社新書518俵屋宗達(古田亮著)』所収「新たな宗達像―制作年代推定から」p145)に関連しては、
その「異説的」な見解を、(参考三)「宗達の水墨画「白鷺図」関連について」で付記して置きたい。

(参考一)  宗達作品の「制作年代の推定」など

【②「風神雷神図屏風」の制作時期
山根有三説 → 寛永一五(一六三八)~寛永一七(一六四〇) → 晩年(七一歳?以降)
水尾比呂志説→ 寛永一二(一六三五)~寛永一八(一六四一) → 晩年(六八歳?以降)
山川武説  → 元和七(一六二一) ~元和九(一六二三) → 壮年(五四~五六歳?)
源豊宗・橋本綾子説→元和五(一六一九)~元和七年(一六二一)→壮年(五二~五四歳?)
※古田亮説  → 元和二(一六一六)~元和三(一六一七)  →壮年(四九~五〇歳?)
 
  「法橋授位」の時期
山根有三説 →   寛永元(一六二四)           →五七歳?
水尾比呂志説→  慶長一九(一六一四)~元和二年(一六一六)→四七~四九歳?
山川武説  →   元和八(一六二二)           →五五歳?
源豊宗・橋本綾子説→元和七(一六二一)           →五四歳?
※古田亮説  → 元和元(一六一五)~元和四(一六一八)  →四八~五一歳?

③「雲龍図屏風」の制作時期
山根有三説 → 寛永四(一六二七)~寛永五(一六二八) →  六〇~六一歳?
水尾比呂志説→ 寛永二(一六二五)~寛永六(一六二九) →  五八~六二歳?
山川武説  → 寛永元(一六二四)~寛永四(一六二五) →  五七~六〇歳?
源豊宗・橋本綾子説→元和九(一六二三)~寛永二(一六二四)→ 五六~五八歳?
※古田亮説  → 元和五(一六一九)~元和七(一六二一) → 五二~五四歳?  

④「松島図屏風」の制作時期
山根有三説 →寛永二(一六二五)~寛永四(一六二七) →   五八~六〇歳?
水尾比呂志説→ 寛永元(一六二四)~寛永五(一六二八) →  五七~六一歳?
山川武説  → 寛永元(一六二四)~寛永四(一六二七) →  五七~六〇歳?
源豊宗・橋本綾子説→元和七(一六二一)~元和九(一六二三)→ 五四~五六歳?
※古田亮説  → 元和五(一六一九)~元和七(一六二一)  →五二~五四歳?

⑥「関屋澪標図屏風」の制作時期(寛永八(一六三一) →六四歳? )
山根有三説 → 寛永一三(一六三六)~寛永一五(一六三八) →六九~七一歳?
水尾比呂志説→ 寛永八(一六三一)~寛永一二(一六三五) → 六四~六八歳?
山川武説 →  寛永八(一六三一)~寛永一一(一六三四) → 六四~六七歳?
源豊宗・橋本綾子説→寛永四(一六二七)~寛永六(一六二九)→ 六〇~六二歳?
※古田亮説  → 寛永八(一六三一)          → 六四歳?

⑦「舞樂図屏風」の制作時期
山根有三説 → 寛永六(一六二九)~寛永八(一六三一) → 六二~六四歳?
水尾比呂志説→ 元和六(一六二〇)~元和八(一六二二)→五三~五五歳?
山川武説 → 寛永一二(一六三五)~寛永一八(一六四一) →六八~七四歳?
源豊宗・橋本綾子説→寛永四(一六二七)~寛永六(一六二九)→六八~六二歳?
※古田亮説  → 寛永九(一六三二)~寛永一八(一六四一) →六五~七四歳?  】
(『平凡社新書518俵屋宗達(古田亮著)』所収「俵屋宗達略年譜および各説時代区分」)

制作時期・林説.jpg

http://atelierrusses.jugem.jp/?cid=22
「アトリエ・リュス」(連続講座「宗達を検証する」第9回 講師:林進)=※※林進説→『宗達絵画の解釈学―日本文化私の最新講義(林進著)』

(参考二)  宗達に関する「文献史料」など

①『中院通村日記』(元和二年=一六一六・三月十三日の条、後水尾天皇の「俵屋絵」関連)
※中院通村=権中・大納言から内大臣=細川幽斎より「古今伝授」継受
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-01-29

②一条兼遐書状
※一条兼遐=一条昭良=後陽成院の第九皇子=明正天皇・後光明天皇の摂政
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-01-29

③西行物語絵巻の烏丸光広筆奥書(寛永七年=一六三〇)
※※烏丸光広=権大納言=細川幽斎より「古今伝授」継受
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-12-27
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-03-31

④宗達自筆書状(快庵=醍醐寺和尚?宛=「むし茸」御礼)

➄光悦書状(宗徳老宛=茶会関連)

⑥千少庵書状(千少庵=千利休の次男、妙持老宛、茶会関連)

⑦仮名草子『竹斎』の一節(五条の「俵屋」関連)

⑧菅原氏松田本阿弥家図(光悦と宗達とは姻戚?)

⑨『寛永日々記』(覚定の日記) → 寛永八年(一六三一)九月十三日条
※源氏御屏風壱双<宗達筆 判金一枚也>今日出来、結構成事也、→ 「源氏御屏風」 → 「関屋澪標図屏風」(静嘉堂文庫美術館蔵)
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-01-11

(参考三) 宗達の水墨画「白鷺図」関連について

白鷺図・光広賛.jpg

「雪中鷺図(俵屋宗達筆、烏丸光広賛)  MIHO MUSEUM蔵 → E図
http://www.miho.or.jp/booth/html/artcon/00000024.htm
【 ?~1640頃。桃山~江戸初期の画家。琳派の様式の創始者。富裕な町衆の出身で、屋号を俵屋といった。日本の伝統的な絵巻物などの技法を消化して大胆な装飾化を加える一方、水墨画にも新生面を開き、その柔軟な筆致や明るい墨調などによって日本的な水墨画の一つの頂点をなしている。「風神雷神図」(京都・建仁寺蔵)、「蓮池水禽図」(京都国立博物館蔵)などが代表作である。】

 この「白鷺図」は、『創立百年記念特別展 琳派』所収「作品解説35」などに紹介されている「楊屋宗販賛」のものではなく、「烏丸光広賛」のものである。「楊屋宗販賛」のものは、次のものである。

白鷺・宗販賛.jpg

「白鷺図」(俵屋宗達筆、楊屋宗販賛)紙本墨画、個人蔵、一〇四・〇×四六・五㎝、落款(宗達法橋)、印章(朱文円「対青軒) → F図
「芦を背景に横向きに立つ白鷺。芦はやや濃い墨を粗く使って、冬枯れの感じを出し、鷺は淡墨の柔かい描線で、巧みに表わされている。図上の賛の筆者は、妙心寺の僧・楊屋宗販(ようおくそうはん)。寛永八年(一六三一)に同寺第128世住職となり、宗達と同時代の人。」
(『創立百年記念特別展 琳派』所収「作品解説35」)

 このF図の落款は「宗達法橋」で、印章は「対青軒」である。一方のE図の落款は下記(G図)のとおり「法橋宗達」で、印章も「対青」と、E図とF図とでは、その落款と印章とを異にしている。この相違は何を意味しているのであろうか?
 「芦を背景に横向きに立つ白鷺」像は、一見して同じものという印象を受けるのだが、仔細に見て行くと、微妙に異にしている。このE図もF図も、晩年の宗達の傑作水墨画として、どのような関係にあり、どのように鑑賞すべきなのか?
 これまた、「宗達ファンタジー」の世界ということになる。

白鷺図・法橋印.jpg

「雪中鷺図」の部分図(落款・印章) → G図

 これらの「宗達ファンタジー」に関連する基本的な考え方は、下記のアドレスの「再掲」
のものと同じで、それらを、それ以降に得た新しいデータを基にして、その細部を「精度を高めるための整序・修正」を施すことになる。
 そして、それは、宗達の水墨画「白鷺図」に関連しても、F図を中心としての「※古田亮説」とは異なり、E図とF図との、この両図との検証を経てのもので、それは、丁度、その水墨画「蓮池水禽図」の「B図(国宝・「伊年」印)とC図(無印)とD図(「伊年」印)との、その比較検証を得てのものと同じような世界のものとなってくる。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-12-27

(再掲)

【 ここで、宗達の落款の「署名」と「印章」について触れたい。宗達の落款における署名は、次の二種類のみである(『日本美術絵画全集第一四巻 俵屋宗達(源豊宗・橋本綾子著)』所収「俵屋宗達(源豊宗稿))。

A 法橋宗達
B 宗達法橋

 宗達の法橋叙位は、元和七年(一六二一)、京都養源院再建に伴う、その障壁画(松図襖十二面、杉戸絵四面・八図)を制作した頃とされており(『源・橋本前掲書』所収「俵屋宗達年表」)、上記の二種類の署名は、それ以降のものということになる。
 その款印は、次の三種類のものである。

a 対青  (朱文円印 直径六・四㎝)
b 対青軒 (朱文円印 直径七・六㎝)
c 伊年  (朱文円印 直径四・九㎝)

 このcの「伊年」印は、宗達の法橋叙位以前の慶長時代にも使われており、これは、「俵屋工房(画房)」を表象する「工房(画房)」印と理解されており、その「工房(画房)」主(リーダー)たる宗達が、集団で制作した作品と、さらには、宗達個人が制作した作品とを峻別せずに、押印したものと一般的に理解されている(『源・橋本前掲書』)。
 そして、宗達が没して、その後継者の、法橋位を受け継いだ「宗雪」は、このcの「伊年」印を承継し、寛永十四年(一六三七)前後に製作した堺の養寿寺の杉戸絵の「楓に鹿」「竹に虎」図に、このcの「伊年」印が使われているという。また、宗達没後、宗雪以外の「宗達工房(画房)」の画人の何人かは、cの「伊年」印以外の「伊年」印を使用することが許容され、その種の使用例も見られるという(『源・橋本前掲書』)。
 ここで、その「伊年」印は除外しての、落款形式別の作例は、次のとおりとなる(『源・橋本前掲書』に※『宗達の水墨画(徳川義恭著)』口絵図を加える)。

一 A・a形式(法橋宗達・「対青」印)
作例「松島図屏風」(フーリア美術館蔵)
  「舞樂図屏風」(醍醐寺三宝院蔵)
  「槇図屏風」(山川美術財団旧蔵・現石川県立美術館蔵)
http://www.ishibi.pref.ishikawa.jp/collection/index.php?app=shiryo&mode=detail&data_id=1278
  「雙竜図屏風(雲龍図屏風)」(フーリア美術館蔵)  

二 A・b形式(法橋宗達・「対青軒」印)
作例「源氏物語澪標関屋図屏風」(静嘉堂文庫美術館蔵) 
http://www.seikado.or.jp/collection/painting/002.html
※「鴛鴦図一」(その四・個人蔵)

三 B・b形式(宗達法橋・「対青軒」印)
作例「関屋図屏風」(烏丸光広賛 現東京国立博物館蔵)
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/459227
  「牛図」(頂妙寺蔵・烏丸光広賛)
  「鳥窠和尚像」()クリーヴランド美術館蔵 
※「牡丹図」(その三・東京国立博物館蔵)
※「鴛鴦図二」(その五・個人蔵)
※「兎」図(その六・現東京国立博物館蔵)
※「狗子」図(その七)
※「鴨」図(その九)

 ここで落款の署名の「法橋宗達」(「鴛鴦図一=その四・個人蔵」)と「宗達法橋」(「鴛鴦図二=その五・個人蔵」)との、この「法橋宗達」(肩書の一人「法橋」の用例)と「宗達法橋」(三人称的「法橋」の用例)との、その用例の使い分けなどについて触れたい。
 嘗て、下記のアドレスなどで、次のように記した。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-12-19


《 この宗達の落款は「宗達法橋」(三人称の「法橋」)で、この「宗達法橋」の「牛図」に、権大納言の公家中の公家の「光広」が、花押入りの「和歌」(狂歌)と漢詩(「謎句」仕立ての「狂詩」)の賛をしていることに鑑み、「法橋宗達」(一人称)と「宗達法橋」(三人称)との区別に何らかの示唆があるようにも思えてくる。例えば、この「宗達法橋」(三人称)の落款は「宮廷画家・宗達法橋」、「法橋宗達」(一人称)は「町絵師・法橋宗達」との使い分けなどである。 》

 この「法橋宗達」(一人称的「法橋」の用例)と「宗達法橋」(三人称的「法橋」の用例)関連については、宗達の「西行法師行状絵詞」の、次の烏丸光広の「奥書」に記されている「宗達法橋」を基準にして考察したい。

《 右西行法師行状之絵
  詞四巻本多氏伊豆守
  富正朝臣依所望申出
  禁裏御本命于宗達法橋
  令模写焉於詞書予染
  禿筆了 招胡盧者乎
  寛永第七季秋上澣
   特進光広 (花押)

 右西行法師行状の絵詞四巻、本多氏伊豆守富正朝臣の所望に依り、禁裏御本を申し出だし、宗達法橋に命じて、焉(こ)れを模写せしむ。詞書に於ては予禿筆を染め了んぬ。胡盧(コロ、瓢箪の別称で「人に笑われること。物笑い」の意)を招くものか。
  寛永第七季秋上澣(上旬) 特進光広 (花押)   》(漢文=『烏丸光広と俵屋宗達(板橋区立美術館編)』、読み下し文=『源・橋本前掲書』)

 この奥書を書いた「特進(正二位)光広」は、烏丸光広で、寛永七年(一六三〇)九月上旬には、光広、五十二歳の時である。
 この寛永七年(一六三〇)の「烏丸光広と俵屋宗達・関係略年譜」(『烏丸光広と俵屋宗達(板橋区立美術館編)』所収)に、「十二月、上皇、女院、新仙洞御所に移られる」とあり、この「上皇」は「後水尾上皇」で、「女院」は「中宮の『徳川和子=女院号・東福門院』か?」と思われる。
 この徳川和子(徳川家康の内孫、秀忠の五女)が入内したのは、元和六年(一六二〇)六月のことで、その翌年の元和七年(一六二一)に、東福門院(徳川和子)の実母の徳川秀忠夫人(お江・崇源院)が、焼失していた「養源院」(創建=文禄三年、焼失=元和五年、再興=元和七年)を再興した年で、「俵屋宗達年表」(『源・橋本前掲書』所収)には、「京都養源院再建、宗達障壁に画く、この頃、法橋を得る」とある。
 この養源院再建時に関連するものが、先に触れた「松図襖(松岩図襖)十二面」と「杉戸絵(霊獣図杉戸)四面八図」で、この養源院関連については、下記のアドレスで詳細に触れているので、この稿の最後に再掲をして置きたい。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-04-07

 ここで、先の宗達の「西行法師行状絵詞」に関する光広の「奥書」に戻って、その「奥書」で、光広は宗達のことについて、「宗達法橋に命じて、焉(こ)れを模写せしむ」と、「宗達法橋」と、謂わば、「西行」を「西行法師」と記す用例と同じように、「敬称的用例」の「宗達法橋」と記している。
 これらのことに関して、「(宗達の水墨画の)、多くは宗達法橋としるしている。いわば、自称の敬称である。しかしそれは長幼の差のある親しい者同士の間によくある事例である。宗達がすでに老境に及んで、人からは宗達法橋と呼びならされている自分を、自らもまた人の言うにまかせて、必ずしも自負的意識をおびないで、宗達法橋と称したのは非常に自然なことといってよい。それはまたある意味では、老境に入った者の自意識超越の姿といってもよい。彼の水墨画にこの形式の落款が多いということは、逆にいえば、それらの水墨画が多くは老境の作であり、自己を芸術的緊張から解放した、自由安楽の、いわゆる自娯の芸術であったからであるといえるのではないか」(『源・橋本前掲書』) という指摘は、肯定的に解したい。
 これを一歩進めて、「法橋宗達」の署名は、「晴(ハレ)=晴れ着=贈答的作品に冠する」用例、そして、「宗達法橋」は、「褻(ケ)=普段着=相互交流の私的作品に冠する」用例と、使い分けをしているような感じに取れ無くもない。
 例えば、前回(その四)の「法橋宗達」署名の「鴛鴦一」は、黒白の水墨画に淡彩を施しての、贈答的な「誂え品」的な作品と理解すると、今回(その五)の「宗達法橋」署名の「鴛鴦二」は、知己の者に描いた「絵手本」(画譜などの見本を示した作品)的作品との、その使い分けである。
 次に、印章の「対青」と「対青軒」については、その署名の「法橋宗達」と「宗達法橋」との使い分け以上に、難問題であろう。
これらについては、『源・橋本前掲書(p109)』では、「aの『対青』印は『対青軒』印の以前に用いたものと思われる。『対青軒』印はほとんど常に宗達法橋の署名の下に捺されている。『対青』とは、恐らく『青山に相対する』の意と思われるが、或いは彼の住居の風情を意味するのかも知れない」としている。
 また、「宗達は別号を対青(たいせい)といい、その典拠は中国元時代の李衎(りかん)著『竹譜詳録』巻第六『竹品譜四』に収載されている『対青竹』だ。『対青竹出西蜀、今處處之、其竹節間青紫各半二色相映甚可愛(略)』とあり、その図様も載せる(知不足叢書本『竹譜詳録』)。宗達は中国の書籍を読んでいた読書人であった」(『日本文化私の最新講義 宗達絵画の解釈学(林進著)』p282~p283)という見方もある。
 ここで、「対青軒」(「対青」はその略字)というのは、宗達の「庵号(「工房・画房」号)」と解したい。そして、この「青軒ニ対スル」の「青軒」とは、「青楼」(貴人の住む家。また、美人の住む高楼)の意に解したい。
即ち、宗達の「法橋の叙位を得て、朝廷の御用を勤める宮廷画人」の意を込めての、「青軒」とは、「寛永七年(一六三〇) 十二月、上皇、女院、新仙洞御所に移られる」(『烏丸光広と俵屋宗達(板橋区立美術館編)』所収「烏丸光広と俵屋宗達・関係略年譜」)の、その「上皇(後水尾院)と女院(東福門院)」の、その「青軒」(青楼)の意に解したい。 】
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yahantei

 「風神雷神図幻想」から「宗達ファンタジー」、そして、しばらく間をおいて「琳派ファンタジー」と回顧していきたい。
 しばらくは、やり残しの「源氏物語画帖」の全貌を、周辺データそのままにアップしていきたい。
by yahantei (2021-04-19 17:16) 

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