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夏目漱石の「俳句と書画」(その七) [「子規と漱石」の世界]

その七 漱石の「第五高等学校」時代(その二(明治三十年)周辺)

熊本・第五高等学校.jpg

「熊本・第五高等学校」(「夏目漱石デジタルコレクション」)
https://www.kanabun.or.jp/souseki/list.html

熊本・第五高等学校二.gif

(「同上」解説文)

(追記) 夏目漱石俳句集(その四)<制作年順> 明治30年(1039~1326)

1039 生れ得てわれ御目出度顔の春(「子規へ送りたる句稿(二十二)二十二句。一月)
1040 五斗米を餅にして喰ふ春来たり
1041 臣老いぬ白髪を染めて君が春
1042 元日や蹣跚として吾思ひ

子規へ送りたる句稿二十二.jpg

(「子規へ送りたる句稿二十二」)(「夏目漱石デジタルコレクション」)
https://www.kanabun.or.jp/souseki/list.html

子規へ送りたる句稿二十二の二.gif

(「子規へ送りたる句稿二十二(読み下し文)」)(「夏目漱石デジタルコレクション」)
https://www.kanabun.or.jp/souseki/list.html

1043 馬に乗つて元朝の人勲二等
1044 詩を書かん君墨を磨れ今朝の春
1045 元日や吾新たなる願あり
1046 春寒し印陀羅といふ画工あり
1047 聾なる僕藁を打つ冬籠
1048 親子してことりともせず冬籠
1049 医はやらず歌など撰し冬籠
1050 力なや油なくなる冬籠
1051 仏焚て僧冬籠して居るよ
1052 燭つきつ墨絵の達磨寒気なる
1053 燭きつて暁ちかし大晦日
1054 餅を切る庖丁鈍し古暦
1055 冬籠弟は無口にて候
1056 桃の花民天子の姓を知らず
1057 松立てゝ空ほのぼのと明る門
1058 ふくれしよ今年の腹の粟餅に
1059 貧といへど酒飲みやすし君が春
1060 塔五重五階を残し霞けり    (1039~「同上」)

1061 酒苦く蒲団薄くて寐られぬ夜(「子規へ送りたる句稿(二十三)四十句。二月)
1062 ひたひたと藻草刈るなり春の水
1063 岩を廻る水に浅きを恨む春
1064 散るを急ぎ桜に着んと縫ふ小袖
1065 出代の夫婦別れて来りけり

1066 人に死し鶴に生れて冴返る
≪季=冴返る。(中略) この句はのちに雑誌「ほとゝぎす」(明治32・1に掲載された。≫(『漱石全集第十七巻・坪内稔典注解』)

1067 隻手此比良目生捕る汐干よな
1068 恐らくば東風に風ひくべき薄着
1069 寒山か拾得か蜂に螫されしは
1070 ふるひ寄せて白魚崩れん許りなり
1071 落ちさまに虻を伏せたる椿哉
1072 貪りて鶯続け様に鳴く
1073 のら猫の山寺に来て恋をしつ
1074 ぶつぶつと大な田螺の不平哉
1075 菜の花や城代二万五千石
1076 明天子上にある野の長閑なる
1077 大纛や霞の中を行く車
1078 烈士剣を磨して陽炎むらむらと立つ
1079 柳あり江あり南画に似たる吾
1080 或夜夢に雛娶りけり白い酒
1081 霞みけり物見の松に熊坂が
1082 酢熟して三聖顰す桃の花
1083 川を隔て散点す牛霞みけり
1084 薫ずるは大内といふ香や春
1085 姉様に参らす桃の押絵かな
1086 よき敵ぞ梅の指物するは誰
1087 朧夜や顔に似合ぬ恋もあらん
1088 住吉の絵巻を写し了る春
1089 春は物の句になり易し古短冊
1090 山の上に敵の赤旗霞みけり

1091 木瓜咲くや漱石拙を守るべく
≪季=木瓜の花(春)。※『草枕』「十二」に「世間には拙を守るという人がある。この人が来世に生れ変るときっと木瓜になる。余も木瓜になりたい」とある。「守拙」の語は陶淵明の詩「園田の居に帰る」の「拙を守って園田に帰る」に由来。(後略 )≫(『漱石全集第十七巻・坪内稔典注解』)

1092 滝に乙鳥突き当らんとしては返る
1093 なある程是は大きな涅槃像
1094 春の夜を兼好緇衣に恨みあり
1095 暖に乗じ一挙虱をみなごろしにす
1096 達磨傲然として風に嘯く鳳巾
1097 疝は御大事余寒烈しく候へば

1098 菫程な小さき人に生れたし
≪季=菫(春)。※小品『文鳥』に「菫程な小さな人が、黄金の槌で瑪瑙の碁盤でもつづけ様に敲いて居るような気がする」とある。(中略) ≫(『漱石全集第十七巻・坪内稔典注解』)

1099 前垂の赤きに包む土筆かな
1100  水に映る藤紫に鯉緋なり     (1061~「同上」)

1101 生き返り御覧ぜよ梅の咲く忌日(「黒木翁三周忌」)
1102 古瓦を得つ水仙のもとに硯彫む(新聞「日本」)
1103 狸化けぬ柳枯れぬと心得て(新聞「日本」)
1104 梓彫る春雨多し湖泊堂(「子規宛書簡」、「湖白堂」=「藤野古白」の別号)

1105 古往今来切つて血の出ぬ海鼠かな(「子規へ送りたる句稿(二十四)五十一句。四月)
1106 西函嶺を踰えて海鼠に眼鼻なし
1107 土筆物言はずすんすんとのびたり
1108 春寒し墓に懸けたる季子の剣
1109 抜くは長井兵助の太刀春の風
1110 剣寒し闥を排して樊かいが
1111 太刀佩て恋する雛ぞむつかしき
1112 浪人の刀錆びたり時鳥
1113 顔黒く鉢巻赤し泳ぐ人
1114 深うして渡れず余は泳がれず
1115 裸体なる先生胡坐す水泳所
1116 泳ぎ上がり河童驚く暑かな
1117 泥川に小児つどいて泳ぎけり
1118 亀なるが泳いできては背を曝す
1119 いの字よりはの字むつかし梅の花
1120 夏書する黄檗の僧名は即非
1121 客に賦あり墨磨り流す月の前
1122 巨燵にて一筆しめし参らせう
1123 金泥もて法華経写す日永哉
1124 春の夜を小謡はやる家中哉
1125 隣より謡ふて来たり夏の月
1126 肌寒み禄を離れし謡ひ声
1127 謡師の子は鼓うつ時雨かな
1128 謡ふものは誰ぞ桜に灯ともして
1129 八時の広き畑打つ一人かな
1130 角落ちて首傾けて奈良の鹿
1131 菜の花の中へ大きな入日かな
1132 木瓜咲くや筮竹の音算木の音
1133 若鮎の焦つてこそは上るらめ
1134 夥し窓春の風門春の水
1135 据風呂に傘さしかけて春の雨
1136 泥海の猶しづかなり春の暮
1137 石磴や曇る肥前の春の山
1138 松をもて囲ひし谷の桜かな
1139 雨に雲に桜濡れたり山の陰
1140 菜の花の遥かに黄なり筑後川
1141 花に濡るゝ傘なき人の雨を寒み
1142 人に逢はず雨ふる山の花盛
1143 筑後路や丸い山吹く春の風
1144 山高し動ともすれば春曇る
1145 濃かに弥生の雲の流れけり
1146 拝殿に花吹き込むや鈴の音
1147 金襴の軸懸け替て春の風
1148 留針や故郷の蝶余所の蝶
1149 しめ縄や春の水湧く水前寺
1150 上画津や青き水菜に白き蝶
1151 菜種咲く小島を抱いて浅き川
1152 棹さして舟押し出すや春の川
1153 柳ありて白き家鴨に枝垂たり
1154 就中高き桜をくるりくるり
1155 魚は皆上らんとして春の川  (1105~「同上」)

1156 青葉勝に見ゆる小村の幟かな(雑誌「めさまし草」)

1157 行く春を剃り落したる眉青し(「子規へ送りたる句稿(二十五)六十一句。五月) 
1158 行く春を沈香亭の牡丹哉
1159 春の夜や局をさがる衣の音
1160 春雨の夜すがら物を思はする
1161 埒もなく禅師肥たり更衣
1162 よき人のわざとがましや更衣
1163 更衣て弟の脛何ぞ太き
1164 埋もれて若葉の中や水の音
1165 影多き梧桐に据る床几かな
1166 郭公茶の間へまかる通夜の人
1167 蹴付たる讐の枕や子規
1168 辻君に袖牽れけり子規
1169 扛げ兼て妹が手細し鮓の石
1170 小賢しき犬吠付や更衣
1171 七筋を心利きたる鵜匠哉
1172 漢方や柑子花さく門構
1173 若葉して半簾の雨に臥したる
1174 妾宅や牡丹に会す琴の弟子
1175 世はいづれ棕櫚の花さへ穂に出でつ
1176 立て懸て蛍這ひけり草箒
1177 若葉して縁切榎切られたる
1178 でゞ虫の角ふり立てゝ井戸の端
1179 溜池に蛙闘ふ卯月かな
1180 虚無僧に犬吠えかゝる桐の花
1181 筍や思ひがけなき垣根より
1182 若竹や名も知らぬ人の墓の傍
1183 若竹の夕に入て動きけり
1184 鞭鳴す馬車の埃や麦の秋
1185 渡らんとして谷に橋なし閑古鳥
1186 折り添て文にも書かず杜若
1187 八重にして芥子の赤きぞ恨みなる
1188 傘さして後向なり杜若
1189 蘭湯に浴すと書て詩人なり
1190 すゝめたる鮓を皆迄参りたり
1191 鮓桶の乾かで臭し蝸牛
1192 生臭き鮓を食ふや佐野の人
1193 粽食ふ夜汽車や膳所の小商人
1194 蝙蝠や賊の酒呑む古館
1195 不出来なる粽と申しおこすなる
1196 五月雨や小袖をほどく酒のしみ
1197 五月雨の壁落しけり枕元
1198 五月雨や四つ手繕ふ旧士族
1199 目を病んで灯ともさぬ夜や五月雨
1200 馬の蠅牛の蠅来る宿屋かな
1201 逃がすまじき蚤の行衛や子規
1202 蚤を逸し赤き毛布に恨みあり
1203 蚊にあけて口許りなり蟇の面
1204 鳴きもせでぐさと刺す蚊や田原坂
1205 夏来ぬとまた長鋏を弾ずらく
1206 藪近し椽の下より筍が
1207 寐苦しき門を夜すがら水鶏かな
1208 若葉して手のひらほどの山の寺
1209 菜種打つ向ひ合せや夫婦同志
1210 菊地路や麦を刈るなる旧四月
1211 麦を刈るあとを頻りに燕かな
1212 文与可や筍を食ひ竹を画く
1213 五月雨の弓張らんとすればくるひたる
1214 立て見たり寐て見たり又酒を煮たり
1215 水攻の城落ちんとす五月雨
1216 大手より源氏寄せたり青嵐
1217 水涸れて城将降る雲の峰    (1157~「同上」)

1218 槽底に魚あり沈む心太 (七月四日~九月七日まで上京。子規句会。1250迄)
1219 蛭ありて黄なり水経註に曰く
1220 魚を網し蛭吸ふ足を忘れけり
1221 水打て床几を両つ并べける
1222 蚤をすてゝ虱を得たる木賃哉
1223 撫子に病閑あつて水くれぬ
1224 土用にして灸を据うべき頭痛あり
1225 楽に更けて短き夜なり公使館
1226 夕立や犇めく市の十万家
1227 音もせで水流れけり木下闇
1228 夕涼し起ち得ぬ和子を喞つらく
1229 落ちて来て露になるげな天の川
1230 来て見れば長谷は秋風ばかり也
1231 浜に住んで朝貌小さきうらみ哉
1232 冷かな鐘をつきけり円覚寺
1233 虫売の秋をさまざまに鳴かせけり
1234 案の如くこちら向いたる踊かな
1235 半月や松の間より光妙寺
1236 薬掘昔不老の願あり
1237 黄ばみたる杉葉に白き燈籠哉
1238 行燈や短かゝりし夜の影ならず
1239 徘徊す蓮あるをもて朝な夕な
1240 仏性は白き桔梗にこそあらめ
1241 山寺に湯ざめを悔る今朝の秋
1242 其許は案山子に似たる和尚かな
1243 漕ぎ入れん初汐寄する龍が窟
1244 初秋をふるひかへせしおこり哉
1245 北に向いて書院椽あり秋海棠
1246 砂山に薄許りの野分哉
1247 捨てもあへぬ団扇参れと残暑哉
1248 鳴き立てゝつくつく法師死ぬる日ぞ
1249 唐黍や兵を伏せたる気合あり
1250 夜をもれと小萩のもとに埋めけり   
1251 群雀粟の穂による乱れ哉
1252 刈り残す粟にさしたり三日の月
1253 山里や一斗の粟に貧ならず
1254 粟刈らうなれど案山子の淋しかろ
1255 船出ると罵る声す深き霧
1256 鉄砲に朝霧晴るゝ台場哉
1257 朝懸や霧の中より越後勢
1258 川霧に呼はんとして舟見えざる(1218~「同上」)

1259 南九州に入つて柿既に熟す   (九月十日熊本着。一句)
1260 今日ぞ知る秋をしきりに降りしきる(「子規宛書簡」)
1261 影二つうつる夜あらん星の井戸(新聞「日本」)

1262 樽柿の渋き昔しを忘るゝな(「子規へ送りたる句稿(二十六)三十九句。十月)
1263 渋柿やあかの他人であるからは
1264 萩に伏し薄にみだれ故里は
1265 粟折つて穂ながら呉るゝ籠の鳥
1266 蟷螂の何を以てか立腹す
1267 こおろぎのふと鳴き出しぬ鳴きやみぬ
1268 うつらうつら聞き初めしより秋の風
1269 秋風や棚に上げたる古かばん
1270 明月や無筆なれども酒は呑む
1271 明月や御楽に御座る殿御達
1272 明月に今年も旅で逢ひ申す
1273 真夜中は淋しからうに御月様
1274 明月や拙者も無事で此通り
1275 こおろぎよ秋ぢゃ鳴かうが鳴くまいが
1276 秋の暮一人旅とて嫌はるゝ
1277 梁上の君子と語る夜寒かな
1278 これ見よと云はぬ許りに月が出る
1279 朝寒の冷水浴を難んずる
1280 月に行く漱石妻を忘れたり
1281 朝寒の膳に向へば焦げし飯
1282 長き夜を平気な人と合宿す
1283 うそ寒み大めしを食ふ旅客あり
1284 吏と農と夜寒の汽車に語るらく
1285 月さして風呂場へ出たり平家蟹
1286 恐る恐る芭蕉に乗つて雨蛙
1287 某は案山子にて候雀どの
1288 鶏頭の陽気に秋を観ずらん
1289 明月に夜逃せうとて延ばしたる
1290 鳴子引くは只退窟で困る故
1291 芭蕉ならん思ひがけなく戸を打つば
1292 刺さずんば已まずと誓ふ秋の蚊や
1293 秋の蚊と夢油断ばしし給ふな
1294 嫁し去つてなれぬ砧に急がしき
1295 長き夜を煎餅につく鼠かな
1296 野分して蟷螂を窓に吹き入るゝ
1297 豆柿の小くとも数で勝つ気よな
1298 北側を稲妻焼くや黒き雲
1299 余念なくぶらさがるなり烏瓜
1300 蛛落ちて畳に音す秋の灯細し   (1262~「同上」)

1301 朝寒み夜寒みひとり行く旅ぞ(新聞「日本」)

1302 淋しくば鳴子をならし聞かせうか(「子規へ送りたる句稿(二十七)二十句。十二月)
1303 ある時は新酒に酔て悔多き
1304 菊の頃なれば帰りの急がれて
1305 傘を菊にさしたり新屋敷
1306 去りしとてはむしりもならず赤き菊
1307 一東の韻に時雨るゝ愚庵かな
1308 凩や鐘をつくなら踏む張つて
1309 二三片山茶花散りぬ床の上
1310 早鐘の恐ろしかりし木の葉哉
1311 片折戸菊押し倒し開きけり
1312 粟の後に刈り残されて菊孤也
1313 初時雨吾に持病の疝気あり
1314 柿落ちてうたゝ短かき日となりぬ
1315 提灯の根岸に帰る時雨かな
1316 暁の水仙に対し川手水
1317 蒲団着て踏張る夢の暖き
1318 塞を出てあられしたゝか降る事よ
1319 熊笹に兎飛び込む霰哉
1320 病あり二日を籠る置炬燵
1321 水仙の花鼻かぜの枕元   (1302~「同上」)

1322 寂として椽に鋏と牡丹哉    (「承露盤」より四句)
1323 白蓮にいやしからざる朱欄哉   (同上)
1324 来る秋のことわりもなく蚊帳の中 (同上)
1325 晴明の頭の上や星の恋      (同上)
1326 竿になれ鉤になれ此処へおろせ雁 (「子規」句会、上京中の句)


(参考) 「1098 菫程な小さき人に生れたし」周辺

≪ 「漱石の俳句(6)菫程な小さき人に生れたし」

http://chikata.net/?p=2883

 二〇一四年、漱石から子規へ送った手紙があらたに発見されたというニュースがありました。手紙の日付は明治三〇年八月二三日。その中に未発表の俳句が二句ありました。

禅寺や只秋立つと聞くからに
京に二日また鎌倉の秋を憶ふ

二句目は鎌倉で療養中だった妻への思いを詠んだ句です。この年の六月、漱石は実父が亡くなったため、鏡子と東京に戻ります。その長旅のせいで鏡子は流産します。鏡子はそのため鎌倉で療養しました。「また」というのは、漱石自身がその三年前である明治二七年、神経衰弱に苦しむ自身の療養のため鎌倉円覚寺に参禅しているからです。

明治二七年というと、五月に北村透谷が自殺、八月に子規も従軍した日清戦争が起った年です。西暦にすると一八九四年。この世紀末から新世紀に変わる数年間、漱石の人生はたいへんなスピードで動きます。句の背後を知る意味でも、子規との関係と一緒に少し年譜をたどってみます。

明治27年(1894年)
12月、鎌倉円覚寺に参禅。

明治28年(1895年)
 1月、根津の子規庵で句会に参加。
 4月、東京を去り、松山へ赴任。
 同月、子規の従弟で、漱石の教え子でもある藤野古白が自殺。
 同月、子規が近衛連隊の従軍記者として遼東半島を回る。
 5月、子規が帰国の船上で喀血し倒れる。神戸で入院。
 8月、子規が療養のため松山にもどり、漱石の下宿先(愚陀仏庵)に移り住む。
 10月、子規が東京に戻る。
 同月、子規へ句稿を送る(5句)
 同月、子規へ句稿を送る(46句)
 同月、子規へ句稿を送る(42句)
 11月、子規へ句稿を送る(50句)
 同月、子規へ句稿を送る(18句)
 同月、子規へ句稿を送る(47句)
 同月、子規へ句稿を送る(69句)
 12月、東京に戻り鏡子と見合い、婚約。
 同月、子規へ句稿を送る(41句)
 同月、子規へ句稿を送る(61句)

明治29年(1896年)
1月、子規へ句稿を送る(40句)
同月、子規へ句稿を送る(20句)
3月、子規へ句稿を送る(101句)
同月?、子規へ句稿を送る(27句)
同月、子規へ句稿を送る(40句)
4月、熊本に赴任。
6月、鏡子と結婚、式を挙げる。
7月、子規へ句稿を送る(40句)
8月、子規へ句稿を送る(30句)
9月、子規へ句稿を送る(40句)
10月、子規へ句稿を送る(16句)
同月、子規へ句稿を送る(15句)
11月、子規へ句稿を送る(28句)
12月、子規へ句稿を送る(62句)

明治30年(1897年)
1月、柳原極堂が松山で「ほとヽぎす」を創刊。
同月、子規へ句稿を送る(22句)
2月、子規へ句稿を送る(40句)
4月、子規へ句稿を送る(51句)
同月、子規『俳人蕪村』を発表。
5月、子規『古白遺稿』を刊行。
同月、子規へ句稿を送る(61句)
6月、実父(直克)逝去。鏡子流産。
8月、鏡子が療養する鎌倉別荘へ行く。
10月、子規へ句稿を送る(39句)
12月、子規へ句稿を送る(20句)
同月、正月まで小天温泉へ旅する。『草枕』の題材となる。

明治31年(1898年)
1月、子規へ句稿を送る(30句)
2月、子規『歌よみに与ふる書』を発表。
5月、子規へ句稿を送る(20句)
9月、子規へ句稿を送る(20句)
10月、子規へ句稿を送る(20句)
同月、熊本で漱石を主宰とした俳句結社「紫溟吟社」が興る。

明治32年(1899年)
1月、子規へ句稿を送る(75句)
1月、子規『俳諧大要』を発表。
2月、子規へ句稿を送る(105句)
5月、長女(筆子)誕生。
9月、子規へ句稿を送る(51句)
同月、阿蘇登山。
10月、子規へ句稿を送る(29句)

明治33年(1900年)
1月、子規「叙事文」にて、写生文を提唱。
7月、英国留学の準備のため帰京。
8月、子規を訪問する。
9月、子規「山会」を開催。
同月、英国へ出発。

愚陀仏庵を子規が去ってから、漱石はまるで俳句によって病を癒すかのような勢いで大量の句を作っては、子規へ送り続けています。むしろ、俳句という「病」にかかったかのようでもあります。ところが、明治三二年、長女・筆子の誕生以降、句作の量が激減し、子規への句稿もその年末でストップします。翌年は年間一九句しか遺していません。子どもの誕生が漱石の病を軽減したのか、まるで俳句を作りながら新しい命を求めていたかのようにすら思えます。

ところで明治三〇年の二月、子規へ送った句稿の中に不思議な句があります。

菫程な小さき人に生れたし

菫のような可愛さにあこがれる女性の句と思う人もいるようですが、まぎれもなく、夏目漱石の句です。

この句は有名なので、今更付け足すまでもなく、すでに解釈がなされています。やはり、熊本時代の句であるだけに、熊本を舞台にした小説『草枕』(明治三九年)の世界とつなげて、面倒な人の世を離れて、ひっそりと菫のように生きたいという気持ちと解されることが多いと思います。

また「菫程な小さき人」という表現は、明治四一年の作品『文鳥』に再び現れます。『文鳥』は小説とも随筆とも日記とも言えないような小品(写生文)です。漱石は、教え子の鈴木三重吉のすすめで、文鳥を飼います。その文鳥について、次のように書かれています。

《文鳥はつと嘴を餌壺の真中に落した。そうして二三度左右に振った。奇麗に平して入れてあった粟がはらはらと籠の底に零れた。文鳥は嘴を上げた。咽喉の所で微な音がする。また嘴を粟の真中に落す。また微な音がする。その音が面白い。静かに聴いていると、丸くて細やかで、しかも非常に速やかである。菫ほどな小さい人が、黄金の槌で瑪瑙の碁石でもつづけ様に敲いているような気がする。》(明治四一年『文鳥』)

この一節をもとに菫の句が解釈されることもあります。例えば、詩人の清水哲男はこう評しています。《人として生まれ、しかし人々の作る仕組みには入らず、ただ自分の好きな美的な行為に熱中していればよい。そんな風な人が、漱石の理想とした「菫程な小さき人」であったのだろう》。たしかに「累々と徳孤ならずの蜜柑かな」(明治二九年)の蜜柑しかり、「木瓜咲くや漱石拙を守るべく」(明治三〇年)の木瓜の花しかり、この句は菫に自己の理想を詠んでいることは、疑いようがありません。

いずれにしても、先ほどの『草枕』の隠遁詩人の世界からつながる解釈です。ただ、先ほどの年譜を見ると、この句を詠んだとき、漱石は結婚したばかりであることがわかります。このときの漱石の心を思うと、下五の「生れたし」は自分自身のことでもあると同時に、これから生まれてくるであろう誰か、つまり、未来の子どもに向かって自身の理想を投げかけているようにも聞こえてきます。

なぜなら「生れたし」と言って、生まれたいと思っているのは作者ですが、作者は既に生まれてしまっているわけです。もし、生まれるのが自分ではない他者である場合、この「生れたし」は「生まれてほしい」という意味にもなります。もちろん、もし生まれ変われるなら、という隠れた気持ちを読みとれば作者自身のことになるわけですが。五七五だけなら、どちらの読みも可能です。

もし明治三〇年に妻・鏡子が流産せずに子どもが生まれていたら、この菫の句は子どもに向かって詠んだ句として解釈されていたかもしれません。(関根千方) ≫

≪ 菫程な小さき人に生れたし(夏目漱石)

https://www.longtail.co.jp/~fmmitaka/cgi-bin/g_disp.cgi?ids=20060218,20060217,20060216&tit=20060218&today=20060218&tit2=2006%94N2%8C%8E18%93%FA%82%CC

季語は「菫(すみれ)」で春。大の男にしては、なんとまあ可憐な願望であることよ。そう読んでおいても一向に構わないのだけれど、私はもう少し深読みしておきたい。というのも、この句と前後して書かれていた小説が『草枕』だったからである。例の有名な書き出しを持つ作品だ。「山路を登りながら、こう考えた。/智に働けば角が立つ。情に棹(さお)させば流される。意地を通せば窮屈(きゅうくつ)だ。とかくに人の世は住みにくい」。この後につづく何行かを私なりに理解すれば、作者は人間というものは素晴らしいが、その人間が作る「世」、すなわち人間社会はわずらわしく鬱陶しいと言っている。だから、人間は止めたくないのだが、社会のしがらみには関わりたくない。そんな夢のような条件を満たすためには、掲句のような「小さき人」に生まれることくらいしかないだろうというわけだ。では、夢がかなって「菫程な」人に生まれたとすると、その人は何をするのだろうか。その答えが、小品『文鳥』にちらっと出てくる。鈴木三重吉に言われるままに文鳥を飼う話で、餌をついばむ場面にこうある。「咽喉の所で微(かすか)な音がする。また嘴を粟の真中に落す。また微な音がする。その音が面白い。静かに聴いていると、丸くて細やかで、しかも非常に速(すみや)かである。菫ほどな小さい人が、黄金の槌(つち)で瑪瑙(めのう)の碁石でもつづけ様に敲(たた)いているような気がする」。すなわち、人として生まれ、しかし人々の作る仕組みには入らず、ただ自分の好きな美的な行為に熱中していればよい。そんなふうな人が、漱石の理想とした「菫程な小さき人」であったのだろう。すると「菫」から連想される可憐さは容姿にではなくて、むしろこの人の行為に関わるとイメージすべきなのかもしれない。『漱石俳句集』(岩波文庫)所収。(清水哲男)≫
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夏目漱石の「俳句と書画」(その六) [「子規と漱石」の世界]

その六 漱石の「第五高等学校」時代(「松山から熊本へ」周辺)

夏目漱石年譜(「東北大学附属図書館 夏目漱石ライブラリ」) (抜粋)
https://www.library.tohoku.ac.jp/collection/collection/soseki/nenpu.html
【 明治29(1896)  4月 熊本県第五高等学校に赴任する。『フランスの革命』『ハムレット』『オセロ』を講義する。 6月 鏡との結婚式を挙げる。 
明治30(1897) 6月 父・直克死去。
明治31(1898) 7月頃 鏡 自殺を図る。
明治32(1899) 5月 長女・筆子誕生。
明治33(1900) 5月 文部省から英国留学を命じられる。 9月 横浜港出港。 10月 ロンドン着。クレイグ教授の個人授業を受ける。  】

熊本・第五高等学校卒業生、同僚らと一.jpg

「熊本・第五高等学校卒業生、同僚らと」(「夏目漱石デジタルコレクション」)
https://www.kanabun.or.jp/souseki/list.html
(中列、右から二番目「漱石」)

熊本・第五高等学校卒業生、同僚らと二.gif

(「同上・解説文」)

「明治二十九年(一八九六)・漱石(三十歳)」の「松山より熊本移住」の頃(周辺)

(再掲)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-08-19

    松山より熊本に行く時/虚子に託して霽月に贈る(一句)
787 逢はで散る花に涙を濺(そそ)げかし (漱石・30歳「明治29年(1896)」) 
≪村上霽月の漱石追悼文「漱石君を偲ぶ」(「渋柿」大6・2)では「散る」を「去る」とする。漱石は、四月十日に松山を離れた。≫(『漱石全集第十七巻・坪内稔典注解』)


(追記) 夏目漱石俳句集(その三)<制作年順> 明治29年(517~1038)

https://sosekihaikushu.seesaa.net/article/200911article_8.html

(松山時代、517~)

517 時鳥馬追ひ込むや梺川
518 暁の夢かとぞ思ふ朧かな
519 うかうかと我門過ぎる月夜かな
520 夕立の野末にかゝる入日かな
521 橋の霜継て渡れと書き残す
522 茶煙禅榻外は師走の日影哉
523 干網に立つ陽炎の腥き
524 うつむいて膝にだきつく寒哉
525 苟くも此蓬莱を食ふ勿れ
526 半鐘とならんで高き冬木哉
527 先生や屋根に書を読む煤払
528 雨に雪霰となつて寒念仏
529 雪洞の廊下をさがる寒さ哉
530 水かれて轍のあとや冬の川
531 東風や吹く待つとし聞かば今帰り来ん


532 此土手で追ひ剥がれしか初桜(子規へ送りたる句稿十・四十句・一月)
533 凩に早鐘つくや増上寺   (「同上」~571)
534 谷の家竹法螺の音に時雨けり
535 冴返る頃を御厭ひなさるべし
536 出代りや花と答へて跛なり
537 雪霽たり竹婆娑々々と跳返る
538 水青し土橋の上に積る雪
539 若菜摘む人とは如何に音をば泣く
540 花に暮れて由ある人にはぐれけり
541 見て行くやつばらつばらに寒の梅
542 静かさは竹折る雪に寐かねたり
543 武蔵野を横に降る也冬の雨
544 太箸を抛げて笠着る別れ哉
545 いざや我虎穴に入らん雪の朝
546 絶頂に敵の城あり玉霰
547 御天守の鯱いかめしき霰かな
548 一つ家のひそかに雪に埋れけり
549 春大震塔も擬宝珠もねぢれけり
550 疝気持雪にころんで哀れなり
551 天と地の打ち解けりな初霞
552 呉竹の垣の破目や梅の花
553 御車を返させ玉ふ桜かな
554 掃溜や錯落として梅の影
555 永き日や韋駄を講ずる博士あり
556 日は永し三十三間堂長し
557 素琴あり窓に横ふ梅の影
558 永き日を順礼渡る瀬田の橋
559 鶴獲たり月夜に梅を植ん哉
560 錦帯の擬宝珠の数や春の川
561 里の子の草鞋かけ行く梅の枝
562 紅梅に青葉の笛を画かばや
563 紅梅にあはれ琴ひく妹もがな
564 源蔵の徳利をかくす吹雪哉
565 したゝかに饅頭笠の霰哉
566 冬の雨柿の合羽のわびしさよ
567 下馬札の一つ立ちけり冬の雨
568 梅の花不肖なれども梅の花
569 まさなくも後ろを見する吹雪哉
570 氷る戸を得たりや応と明け放し
571 吾庵は氷柱も歳を迎へけり   (532~「同上」)

572 元日に生れぬ先の親恋し(子規へ送りたる句稿十一・二十句・一月)
573 あたら元日を餅も食はずに紙衣哉 (「同上」~591)
574 山里は割木でわるや鏡餅
575 砕けよや玉と答へて鏡餅
576 国分寺の瓦掘出す桜かな
577 断礎一片有明桜ちりかゝる
578 堆き茶殻わびしや春の宵
579 古寺に鰯焼くなり春の宵
580 配所には干網多し春の月
581 口惜しや男と生れ春の月
582 よく聞けば田螺なくなり鍋の中
583 山吹に里の子見えぬ田螺かな
584 白梅に千鳥啼くなり浜の寺
585 梅咲きて奈良の朝こそ恋しけれ
586 消にけりあわたゞしくも春の雪
587 春の雪朱盆に載せて惜しまるゝ
588 居風呂に風ひく夜や冴返る
589 頃しもや越路に病んで冴返る
590 霞む日や巡礼親子二人なり
591 旅人の台場見て行く霞かな  (572~「同上」)

592 春の夜の琵琶聞えけり天女の祠
593 路もなし綺楼傑閣梅の花
594 家の棟や春風鳴つて白羽の矢
595 蛤や折々見ゆる海の城
596 霞たつて朱塗の橋の消にけり
597 どこやらで我名よぶなり春の山
598 大空や霞の中の鯨波の声
599 行春や瓊觴山を流れ出る
600 神の住む春山白き雲を吐く
601 催馬楽や縹渺として島一つ
602 真倒しに久米仙降るや春の雲
603 春暮るゝ月の都に帰り行
604 羽団扇や朧に見ゆる神の輿
605 つゝじ咲く岩めり込んで笑ひ声
606 春の夜や独り汗かく神の馬
607 朦朧と霞に消ゆる巨人哉
608 鳴く雲雀帝座を目懸かけ上る
609 真夜中に蹄の音や神の梅
610 春の宵神木折れて静かなり
611 白桃や瑪瑙の梭で織る錦

子規へ送りたる句稿十二.jpg


子規へ送りたる句稿十二の二.gif

(「子規へ送りたる句稿十二」)(「夏目漱石デジタルコレクション」)
https://www.kanabun.or.jp/souseki/list.html

612 つくばいに散る山茶花の氷りけり(子規へ送りたる句稿十二・一〇一句・三月)
613 烏飛んで夕日に動く冬木かな
614 船火事や数をつくして鳴く千鳥
615 檀築て北斗祭るや剣の霜

(「子規へ送りたる句稿十二(読み下し文)」)(「夏目漱石デジタルコレクション」)
https://www.kanabun.or.jp/souseki/list.html

616 龍寒し絵筆抛つ古法眼   (612~「同上」)
617 つい立の龍蟠まる寒さかな
618 廻廊に吹きこむ海の吹雪かな
619 梁に画龍のにらむ日永かな
620 奈良の春十二神将剥げ尽せり
621 乱山の尽きて原なり春の風
622 都府楼の瓦硯洗ふや春の水
623 門柳五本並んで枝垂れけり
624 若草や水の滴たる蜆籠
625 月落ちて仏灯青し梅の花
626 春の夜を辻講釈にふかしける
627 蕭郎の腕環偸むや春の月
628 護摩壇に金鈴響く春の雨
629 春の夜の御悩平癒の祈祷哉
630 鳩の糞春の夕の絵馬白し
631 伽羅焚て君を留むる朧かな (原句 伽羅焚て君を留めて朧かな)
632 辻占のもし君ならば朧月
633 蘭燈に詩をかく春の恨み哉
634 恐ろしや経を血でかく朧月
635 着衣始め紫衣を給はる僧都あり
636 物草の太郎の上や揚雲雀
637 野を焼けば焼けるなり間の抜ける程
638 涅槃像鰒に死なざる本意なさよ
639 春恋し朝妻船に流さるゝ
640 潮風に若君黒し二日灸
641 枸杞の垣田楽焼くは此奥か
642 春もうし東楼西家何歌ふ
643 猫知らず寺に飼はれて恋わたる (原句 猫知らず寺に飼はれて恋をする)
644 芹洗ふ藁家の門や温泉の流
645 陽炎に蟹の泡ふく干潟かな
646 さらさらと筮竹もむや春の雨
647 日永哉豆に眠がる神の馬
648 古瓢柱に懸けて蜂巣くふ
649 ゆく春や振分髪も肩過ぎぬ
650 御館のつらつら椿咲にけり
651 二つかと見れば一つに飛ぶや蝶
652 唐人の飴売見えぬ柳かな
653 刀うつ槌の響や春の風
654 踏はづす蛙是へと田舟哉
655 初蝶や菜の花なくて淋しかろ
656 曳船やすり切つて行く蘆の角
657 勅なれば紅梅咲て女かな
658 紅梅に通ふ築地の崩哉
659 桔槹切れて梅ちる月夜哉
660 濡燕御休みあつて然るべし
661 雉子の声大竹原を鳴り渡る
662 雨がふる浄瑠璃坂の傀儡師
663 むくむくと砂の中より春の水
664 白き砂の吹ては沈む春の水
665 金屏を幾所かきさく猫の恋
666 春に入つて近頃青し鉄行
667 朧の夜五右衛門風呂にうなる客
668 永き日や徳山の棒趙州の払
669 飯食ふてねむがる男畠打つ
670 春風や永井兵助の人だかり
671 居合抜けば燕ひらりと身をかはす
672 物言はで腹ふくれたる河豚かな
673 戛々と鼓刀の肆に時雨けり
674 枯野原汽車に化けたる狸あり
675 其中に白木の宮や梅の花
676 章魚眠る春潮落ちて岩の間
677 山伏の並ぶ関所や梅の花
678 梅ちるや月夜に廻る水車
679 兵児殿の梅見に御ぢやる朱鞘哉
680 酒醒て梅白き夜の冴返る
681 飯蛸の頭に兵と吹矢かな
682 蟹に負けて飯蛸の足五本なり
683 梓弓岩を砕けば春の水
684 山路来て梅にすくまる馬上哉
685 若党や一歩さがりて梅の花
686 青石を取り巻く庭の菫かな
687 犬去つてむつくと起る蒲公英が
688 大和路や紀の路へつゞく菫草
689 川幅の五尺に足らで菫かな
690 三日雨四日梅咲く日誌かな
691 双六や姉妹向ふ春の宵
692 生海苔のこゝは品川東海寺
693 菜の花の中に糞ひる飛脚哉
694 菜の花や門前の小僧経を読む
695 菜の花を通り抜ければ城下かな
696 海見ゆれど中々長き菜畑哉
697 海見えて行けども行けども菜畑哉
698 麦二寸あるは又四五寸の旅路哉
699 莚帆の真上に鳴くや揚雲雀
700 風船にとまりて見たる雲雀哉
701 落つるなり天に向つて揚雲雀
702 雨晴れて南山春の雲を吐く
703 むづからせ給はぬ雛の育ち哉
704 去年今年大きうなりて帰る雁
705 一群や北能州へ帰る雁
706 爪下り海に入日の菜畑哉
707 里の子の猫加へけり涅槃像
708 鶯のほうと許りで失せにけり
709 鶯や雨少し降りて衣紋坂
710 鶯の去れども貧にやつれけり
711 鶯や田圃の中の赤鳥居
712 鶯をまた聞きまする昼餉哉  (612~「同上」)

子規へ送りたる句稿十三.jpg

(「子規へ送りたる句稿十三」)(「夏目漱石デジタルコレクション」)
https://www.kanabun.or.jp/souseki/list.html

713 三日月や野は穢多村へ焼て行く(子規へ送りたる句稿十三・二十七句・三月)
714 旧道や焼野の匂ひ笠の雨
715 春日野は牛の糞まで焼てけり
716 宵々の窓ほのあかし山焼く火

子規へ送りたる句稿十三の二.jpg

(「子規へ送りたる句稿十三(読み下し文)」)(「夏目漱石デジタルコレクション」)
https://www.kanabun.or.jp/souseki/list.html

717 野に山に焼き立てられて雉の声
718 野を焼くや道標焦る官有地
719 篠竹の垣を隔てゝ焼野哉
720 村と村河を隔てゝ焼野哉
721 蝶に思ふいつ振袖で嫁ぐべき
722 老ぬるを蝶に背いて繰る糸や
723 御簾揺れて蝶御覧ずらん人の影
724 蝶舐る朱硯の水澱みたり
725 蔵つきたり紅梅の枝黒い塀
726 山三里桜に足駄穿きながら
727 花を活けて京音の寡婦なまめかし
728 鶯や隣あり主人垣を覗く
729 連立て帰うと雁皆去りぬ
730 歯ぎしりの下婢恐ろしや春の宵
731 太刀佩くと夢みて春の晨哉
732 鳴く事を鶯思ひ立つ日哉
733 吾妹子に揺り起されつ春の雨
734 普化寺に犬逃げ込むや梅の花
735 紅梅は愛せず折て人に呉れぬ
736 花に来たり瑟を鼓するに意ある人
737 禿いふわしや煩ふて花の春
738 きぬぎぬの鐘につれなく冴え返る
739 虚無僧の敵這入ぬ梅の門     (713~「同上」)

740  春の雲峰をはなれて流れけり(「漱石・虚子・霽月」句会)
741 捲き上げし御簾斜也春の月  (同上)
742 紅梅や内侍玉はる司人    (同上)

743 先達の斗巾の上や落椿(子規へ送りたる句稿十四・四十句・三月)
744 御陵や七つ下りの落椿
745 金平のくるりくるりと鳳巾
746 舟軽し水皺よつて蘆の角
747 薺摘んで母なき子なり一つ家
748 種卸し種卸し婿と舅かな
749 鶯の鳴かんともせず枝移り
750 仰向て深編笠の花見哉
751 女らしき虚無僧見たり山桜
752 奈古寺や七重山吹八重桜
753 春の江の開いて遠し寺の塔
754 柳垂れて江は南に流れけり
755 川向ひ桜咲きけり今戸焼
756 頼もうと竹庵来たり梅の花
757 雨に濡れて鶯鳴かぬ処なし
758 居士一驚を喫し得たり江南の梅一時に開く
759 手習や天地玄黄梅の花
760 霞むのは高い松なり国境
761 奈良七重菜の花つゞき五形咲く
762 草山や南をけづり麦畑
763 御簾揺れて人ありや否や飛ぶ胡蝶
764 端然と恋をして居る雛かな
765 藤の花本妻尼になりすます
766 待つ宵の夢ともならず梨の花
767 春風や吉田通れば二階から
768 風が吹く幕の御紋は下り藤
769 花売は一軒置て隣りなり
770 登りたる凌雲閣の霞かな
771 思ひ出すは古白と申す春の人
772 山城や乾にあたり春の水
773 夫子暖かに無用の肱を曲げてねる
774 家あり一つ春風春水の真中に
775 模糊として竹動きけり春の山
776 限りなき春の風なり馬の上
777 乙鳥や赤い暖簾の松坂屋
778 古ぼけた江戸錦絵や春の雨
779 蹴爪づく富士の裾野や木瓜の花
780 朧故に行衛も知らぬ恋をする
781 春の海に橋を懸けたり五大堂
782 足弱を馬に乗せたり山桜   (743~「同上」)

783 君帰らず何処の花を見にいたか
784 宗匠となりすましたる頭巾かな
785 永き日やあくびうつして分れ行く
786 わかるゝや一鳥啼て雲に入る783


(松山時代から熊本時代へ)

    松山より熊本に行く時/虚子に託して霽月に贈る(一句)
787 逢はで散る花に涙を濺(そそ)げかし (漱石・30歳「明治29年(1896)」) 
≪村上霽月の漱石追悼文「漱石君を偲ぶ」(「渋柿」大6・2)では「散る」を「去る」とする。漱石は、四月十日に松山を離れた。≫(『漱石全集第十七巻・坪内稔典注解』)

788 花に寝ん夢になと来て遇ひたまへ
789 名乗りくる小さき春の夜舟かな
790 市中に君に飼はれて鳴く蛙
791 尾上より風かすみけり燧灘
792 窓低し菜の花明り夕曇り
793 駄馬つゞく阿蘇街道の若葉かな
794 山吹の淋しくも家の一つかな
795 月斜め筍竹にならんとす
796 ぬいで丸めて捨てゝ行くなり更衣
797 衣更へて京より嫁を貰ひけり788

798 海嘯去つて後すさまじや五月雨(子規へ送りたる句稿十五・四十句・七月)
799 かたまるや散るや蛍の川の上
800 一つすうと座敷を抜る蛍かな
801 竹四五竿をりをり光る蛍かな
802 うき世いかに坊主となりて昼寐する
803 さもあらばあれ時鳥啼て行く
804 禅定の僧を囲んで鳴く蚊かな
805 うき人の顔そむけたる蚊遣かな
806 筋違に芭蕉渡るや蝸牛
807 袖に手を入て反りたる袷かな
808 短夜の芭蕉は伸びて仕まひけり
809 もう寐ずばなるまいなそれも夏の月
810 短夜の夢思ひ出すひまもなし
811 仏壇に尻を向けたる団扇かな
812 ある画師の扇子捨てたる流かな
813 貧しさは紙帳ほどなる庵かな
814 午砲打つ地城の上や雲の峰 (原句 号砲や地城の上の雲の峰)
815 黒船の瀬戸に入りけり雲の峰
816 行軍の喇叭の音や雲の峰
817 二里下る麓の村や雲の峰
818 涼しさの闇を来るなり須磨の浦
819 涼しさの目に余りけり千松島
820 袖腕に威丈高なる暑かな
821 銭湯に客のいさかふ暑かな
822 かざすだに面はゆげなる扇子哉
823 涼しさや大釣鐘を抱て居る
824 夕立の湖に落ち込む勢かな
825 涼しさや山を登れば岩谷寺
826 吹井戸やぼこりぼこりと真桑瓜
827 涼しさや水干着たる白拍子
828 ゑいやつと蠅叩きけり書生部屋
829 吾老いぬとは申すまじ更衣
830 異人住む赤い煉瓦や棕櫚の花
831 敷石や一丁つゞく棕櫚の花
832 独居の帰ればむつと鳴く蚊哉
833 尻に敷て笠忘れたる清水哉
834 据風呂の中はしたなや柿の花
835 短夜を君と寐ようか二千石とらうか
836 祖母様の大振袖や土用干
837 玉章や袖裏返す土用干      (798~「同上」) 

https://sosekihaikushu.seesaa.net/article/201007article_261.html

(子規へ送りたる句稿十六・三十句・明治二十九年八月)

838 すゞしさや裏は鉦うつ光琳寺(季=涼し(夏)。「光琳寺」=漱石の家の裏手の寺)
839 涼しさや門にかけたる橋斜め(季=涼し(夏)。)
840 眠らじな蚊帳に月のさす時は(季=蚊帳(夏)。)
841 国の名を知つておぢやるか時鳥(季=時鳥(夏)。「おぢやる」=「居る」の尊敬語)
842 西の対(たい)へ渡らせ給ふ葵かな(季=葵(夏)。「西の対」=夫人の棲む建物)
843 淙々(そうそう)と筧の音のすゞしさよ(季=涼し(夏)。)
844 橘や通るは近衛大納言(季=橘の花(夏)。)
845 朝貌の黄なるが咲くと申し来ぬ(季=朝顔(秋)。)
846 紅白の蓮擂鉢に開きけり(季=蓮し(夏)。)
847 涼しさや奈良の大仏腹の中(季=涼し(夏)。)
848 淋しくもまた夕顔のさかりかな(季=夕顔(夏)。)
849 あつきものむかし大坂夏御陣(季=暑し(夏)。)
850 夕日さす裏は磧のあつさかな
851 午時の草もゆるがず照る日かな
852 琵琶の名は青山とこそ時鳥
853 就中大なるが支那の団扇にて
854 くらがりに団扇の音や古槐
855 夏痩せて日に焦けて雲水の果はいか
856 床に達磨芭蕉涼しく吹かせけり
857 百日紅浮世は熱きものと知りぬ
858 手をやらぬ朝貌のびて哀なり
859 絹団扇墨画の竹をかゝんかな
860 独身や髭を生して夏に籠る
861 夏書すとて一筆しめし参らする
862 なんのその南瓜の花も咲けばこそ
863 我も人も白きもの着る涼みかな
864 物や思ふと人の問ふまで夏痩せぬ
865 満潮や涼んで居れば月が出る
866 大慈寺の山門長き青田かな
867 唐茄子と名にうたはれて歪みけり  (838~「同上」)

(子規へ送りたる句稿十七・〔四十句・明治二十九年九月〕)

https://sosekihaikushu.seesaa.net/article/201007article_262.html

868 初秋の千本の松動きけり
869 鹹はゆき露にぬれたる鳥居哉
870 秋立つや千早古る世の杉ありて
871 見上げたる尾の上に秋の松高し
872 反橋の小さく見ゆる芙蓉哉
873 古りけりな道風の額秋の風
874 鴫立つや礎残る事五十
875 温泉の町や踊ると見えてさんざめく
876 碧巌を提唱す山内の夜ぞ長き
877 ひやひやと雲が来る也温泉の二階
878 玉か石か瓦かあるは秋風か
879 枕辺や星別れんとする晨
880 稲妻に行手の見えぬ広野かな
881 秋風や京の寺々鐘を撞く
882 明月や琵琶を抱へて弾きもやらず
883 廻廊の柱の影や海の月
884 明月や丸きは僧の影法師
885 酒なくて詩なくて月の静かさよ
886 明月や背戸で米搗く作右衛門
887 明月や浪華に住んで橋多し
888 引かで鳴る夜の鳴子の淋しさよ
889 無性なる案山子朽ちけり立ちながら
890 打てばひゞく百戸余りの砧哉
891 衣擣つて郎に贈らん小包で
892 鮎渋ぬ降り込められし山里に
893 鱸魚肥えたり楼に登れば風が吹く
894 白壁や北に向ひて桐一葉
895 柳ちりて長安は秋の都かな
896 垂れかゝる萩静かなり背戸の川
897 落ち延びて只一騎なり萩の原
898 蘭の香や聖教帖を習はんか (原句 蘭の香や聖教帖を習ふべし)
899 後に鳴き又先に鳴き鶉かな
900 窓をあけて君に見せうず菊の花
901 作らねど菊咲にけり折りにけり (原句 作らねど菊咲にけり活にけり)
902 世は貧し夕日破垣烏瓜
903 鶏頭や代官殿に御意得たし
904 長けれど何の糸瓜とさがりけり
905 禅寺や芭蕉葉上愁雨なし
906 無雑作に蔦這上る厠かな
907 仏には白菊をこそ参らせん  (868~「同上」)

(子規へ送りたる句稿十八・〔十六句・明治二十九年十月〕

https://sosekihaikushu.seesaa.net/article/201007article_263.html

910 行く秋をすうとほうけし薄哉
911 行く秋の犬の面こそけゞんなれ
912 てい袍を誰か贈ると秋暮れぬ
913 祭文や小春治兵衛に暮るゝ秋
914 僧堂で痩せたる我に秋暮れぬ
915 行秋や此頃参る京の瞽女
916 行秋を踏張て居る仁王哉
917 行秋や博多の帯の解け易き
918 機を織る孀二十で行く秋や
919 行く秋やふらりと長き草履の緒
920 日の入や五重の塔に残る秋
921 行く秋や椽にさし込む日は斜
922 山は残山水は剰水にして残る秋
923 原広し吾門前の星月夜
924 新らしき蕎麦打て食はん坊の雨
925 古白とは秋につけたる名なるべし   

(子規へ送りたる句稿十九・〔十五句・明治二十九年十月〕

https://sosekihaikushu.seesaa.net/article/201007article_264.html

926 今年より夏書せんとぞ思ひ立つ
927 独り顔を団扇でかくす不審なり
928 降る雪よ今宵ばかりは積れかし
929 思ひきや花にやせたる御姿
930 影法師月に並んで静かなり
931 きぬぎぬや裏の篠原露多し
932 見送るや春の潮のひたひたに
933 人に言へぬ願の糸の乱れかな
934 君が名や硯に書いては洗ひ消す
935 橋落ちて恋中絶えぬ五月雨
936 忘れしか知らぬ顔して畠打つ
937 行春を琴掻き鳴らし掻き乱す
938 五月雨や鏡曇りて恨めしき
939 生れ代るも物憂からましわすれ草
940 化石して強面なくならう朧月

(子規へ送りたる句稿に二十・〔二十八句・明治二十九年十一月〕

https://sosekihaikushu.seesaa.net/article/201007article_265.html

941 藻ある底に魚の影さす秋の水
942 秋の山松明かに入日かな
943 秋の日中山を越す山に松ばかり
944 一人出て粟刈る里や夕焼す
945 配達ののぞいて行くや秋の水
946 秋行くと山僮窓を排しいふ
947 秋の蠅握つて而して放したり
948 生憎や嫁瓶を破る秋の暮
949 摂待や御僧は柿をいくつ喰ふ
950 馬盥や水烟して朝寒し
951 菊咲て通る路なく逢はざりき
952 空に一片秋の雲行く見る一人
953 秋高し吾白雲に乗らんと思ふ
954 野分して一人障子を張る男
955 御名残の新酒とならば戴かん
956 菊活けて内君転た得意なり
957 見えざりき作りし菊の散るべくも
958 肌寒や膝を崩さず坐るべく
959 僧に対すうそ寒げなる払子の尾
960 善男子善女子に寺の菊黄なり
961 盛り崩す碁石の音の夜寒し
962 壁の穴風を引くべく鞘寒し
963 蟷螂のさりとては又推参な
964 此里や柿渋からず夫子住む
965 初冬や向上の一路未だ開かず
966 冬来たり袖手して書を傍観す
967 初冬を刻むや烈士喜剣の碑
968 初冬の琴面白の音じめ哉

(子規へ送りたる句稿二十一・〔六十二句・明治二十九年十二月〕

969 凩や海に夕日を吹き落す
970 吾栽し竹に時雨を聴く夜哉
971 ぱちぱちと枯葉焚くなり薬師堂
972 浪人の寒菊咲きぬ具足櫃
973 謡ふべき程は時雨つ羅生門
974 折り焚きて時雨に弾かん琵琶もなし
975 銀屏を後ろにしたり水仙花
976 水仙や主人唐めく秦の姓
977 水仙や根岸に住んで薄氷
978 村長の羽織短かき寒哉
979 革羽織古めかしたる寒かな
980 凩の松はねぢれつ岡の上
981 野を行けば寒がる吾を風が吹く
982 策つて凩の中に馬のり入るゝ
983 夕日逐ふ乗合馬車の寒かな
984 雪ながら書院あけたる牡丹哉
985 堅炭の形ちくづさぬ行衛哉
986 雑炊や古き茶碗に冬籠
987 鼓うつや能楽堂の秋の水
988 重なるは親子か雨に鳴く鶉
989 底見ゆる一枚岩や秋の水
990 行年を家賃上げたり麹町
991 行年を妻炊ぎけり粟の飯
992 器械湯の石炭臭しむら時雨
993 酔て叩く門や師走の月の影
994 貧にして住持去るなり石蕗の花
995 博徒市に闘ふあとや二更の冬の月
996 しぐれ候程の宿につきて候 (原句 しぐれ候程の宿につきて候程に)
997 累々と徳孤ならずの蜜柑哉
998 同化して黄色にならう蜜柑畠
999 日あたりや熟柿の如き心地あり
1000 大将は五枚しころの寒さかな
1001 勢の蜀につらなる小春かな
1002 かきならす灰の中より木の葉哉
1003 汽車を逐て煙這行枯野哉
1004 紡績の笛が鳴るなり冬の雨
1005 がさがさと紙衣振へば霰かな
1006 挨拶や髷の中より出る霰
1007 かたまつて野武士落行枯野哉
1008 星飛ぶや枯野に動く椎の影
1009 鳥一つ吹き返さるゝ枯野かな
1010 さらさらと栗の落葉や鶪の声
1011 空家やつくばひ氷る石蕗の花
1012 飛石に客すべる音す石蕗の花
1013 吉良殿のうたれぬ江戸は雪の中
1014 覚めて見れば客眠りけり炉のわきに
1015 面白し雪の中より出る蘇鉄
1016 寐る門を初雪ぢやとて叩きけり
1017 雪になつて用なきわれに合羽あり
1018 僧俗の差し向ひたる火桶哉
1019 六波羅へ召れて寒き火桶哉
1020 物語る手創や古りし桐火桶
1021 生垣の上より語る小春かな
1022 小春半時野川を隔て語りけり
1023 居眠るや黄雀堂に入る小春
1024 家富んで窓に小春の日陰かな
1025 白旗の源氏や木曾の冬木立
1026 立籠る上田の城や冬木立
1027 枯残るは尾花なるべし一つ家
1028 時雨るゝは平家につらし五家荘
1029 藁葺をまづ時雨けり下根岸
1030 堂下潭あり潭裏影あり冬の月   (969~「同上」)

1031 扶けられて驢背危し雪の客(雑誌「めざまし草」)
1032 戸を開けて驚く雪の晨かな(「新俳句」)
1033 薫風や銀杏三抱あまりなり(「承露版」より)
1034 茂りより二本出て来る筧哉(「承露版」より)
1035 亭寂寞薊鬼百合なんど咲く(「承露版」より)
1036 土手枯れて左右に長き筧哉(「承露版」より)
1037 はじめての鮒屋泊りをしぐれけり(この句の短冊あり・松山道後温泉)
1038 どつしりと尻を据えたる南瓜かな
≪ 季=南瓜(秋)。※『吾輩は猫である』中篇自序で、904の句とこの句を正岡子規の墓前に捧げている。(後略)≫(『漱石全集第十七巻・坪内稔典注解』)

(参考)『吾輩は猫である』中篇自序(周辺)

904  長けれど何の糸瓜とさがりけり
1038 どつしりと尻を据えたる南瓜かな

『吾輩は猫である』中篇自序

https://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/2671_6498.html

≪「猫」の稿を継(つ)ぐときには、大抵初篇と同じ程な枚数に筆を擱(おい)て、上下二冊の単行本にしようと思って居た。所が何かの都合で頁(ページ)が少し延びたので書肆(しょし)は上中下にしたいと申出た。其辺は営業上の関係で、著作者たる余には何等の影響もない事だから、それも善(よかろ)うと同意して、先(まず)是丈(これだけ)を中篇として発行する事にした。
 そこで序をかくときに不図(ふと)思い出した事がある。余が倫敦(ロンドン)に居るとき、忘友子規の病を慰める為め、当時彼地かのちの模様をかいて遙々(はるばる)と二三回長い消息をした。無聊(ぶりょう)に苦んで居た子規は余の書翰(しょかん)を見て大に面白かったと見えて、多忙の所を気の毒だが、もう一度何か書いてくれまいかとの依頼をよこした。此時子規は余程(よほど)の重体で、手紙の文句も頗(すこぶる)悲酸(ひさん)であったから、情誼(じょうぎ)上何か認(したた)めてやりたいとは思ったものの、こちらも遊んで居る身分ではなし、そう面白い種をあさってあるく様な閑日月もなかったから、つい其儘(そのまま)にして居るうちに子規は死んで仕舞しまった。
 筺底(きょうてい)から出して見ると、其手紙にはこうある。

 僕ハモーダメニナッテシマッタ、毎日訳モナク号泣シテ居ルヨウナ次第ダ、ソレダカラ新聞雑誌ヘモ少シモ書カヌ。手紙ハ一切廃止。ソレダカラ御無沙汰シテマス。今夜ハフト思イツイテ特別ニ手紙ヲカク。イツカヨコシテクレタ君ノ手紙ハ非常ニ面白カッタ。近来僕ヲ喜バセタ者ノ随一ダ。僕ガ昔カラ西洋ヲ見タガッテ居タノハ君モ知ッテルダロー。夫(それ)ガ病人ニナッテシマッタノダカラ残念デタマラナイノダガ、君ノ手紙ヲ見テ西洋ヘ往(いっ)タヨウナ気ニナッテ愉快デタマラヌ。若(もシ)書ケルナラ僕ノ目ノ明イテル内ニ今一便ヨコシテクレヌカ(無理ナ注文ダガ)
 画ハガキモ慥(たしか)ニ受取タ。倫敦(ロンドン)ノ焼芋(やきいも)ノ味ハドンナカ聞キタイ。
 不折ハ今巴里(パリ)ニ居テコーランノ処ヘ通ッテ居ルソウジャナイカ。君ニ逢(お)ウタラ鰹節一本贈ルナドトイウテ居タガ、モーソンナ者ハ食ウテシマッテアルマイ。
 虚子ハ男子ヲ挙ゲタ。僕ガ年尾トツケテヤッタ。
 錬郷死ニ非風死ニ皆僕ヨリ先ニ死ンデシマッタ。
 僕ハ迚(とて)モ君ニ再会スルコト、出来ヌト思ウ。万一出来タトシテモ其時ハ話モ出来ナクナッテルデアロー。実ハ僕ハ生キテイルノガ苦シイノダ。僕ノ日記ニハ「古白曰来」ノ四字ガ特書シテアル処ガアル。
 書キタイコトハ多イガ苦シイカラ許シテクレ玉エ。
  明治卅四年十一月六日灯下ニ書ス
東京 子規 拝

  倫敦(ロンドン)ニテ
   漱石 兄

 此手紙は美濃紙へ行書でかいてある。筆力は垂死の病人とは思えぬ程慥(たし)かである。余は此手紙を見る度(たび)に何だか故人に対して済まぬ事をしたような気がする。書きたいことは多いが苦しいから許してくれ玉えとある文句は露佯(つゆいつわり)のない所だが、書きたいことは書きたいが、忙がしいから許してくれ玉えと云う余の返事には少々の遁辞(とんじ)が這入(はいっ)て居る。憐(あわれな)る子規は余が通信を待ち暮らしつつ、待ち暮らした甲斐かいもなく呼吸(いき)を引き取ったのである。
 子規はにくい男である。嘗(かつ)て墨汁一滴か何かの中に、独乙(ドイツ)では姉崎や、藤代が独乙語で演説をして大喝采(だいかっさい)を博しているのに漱石は倫敦(ロンドン)の片田舎(かたいなか)の下宿に燻(くすぶ)って、婆さんからいじめられていると云う様な事をかいた。こんな事をかくときは、にくい男だが、書きたいことは多いが、苦しいから許してくれ玉え抔(など)と云われると気の毒で堪(たまら)ない。余は子規に対して此気の毒を晴らさないうちに、とうとう彼を殺して仕舞しまった。
 子規がいきて居たら「猫」を読んで何と云うか知らぬ。或(あるい)は倫敦消息は読みたいが「猫」は御免(ごめん)だと逃げるかも分らない。然し「猫」は余を有名にした第一の作物である。有名になった事が左程(さほど)の自慢にはならぬが、墨汁一滴のうちで暗(あん)に余を激励した故人に対しては、此作を地下に寄するのが或は恰好(かっこう)かも知れぬ。季子は剣を墓にかけて、故人の意に酬(むく)いたと云うから、余も亦また「猫」を碣頭(けっとう)に献じて、往日の気の毒を五年後の今日に晴そうと思う。
 子規は死ぬ時に糸瓜(へちま)の句を咏(よん)で死んだ男である。だから世人は子規の忌日を糸瓜忌と称え、子規自身の事を糸瓜仏となづけて居る。余が十余年前子規と共に俳句を作った時に
  長けれど何の糸瓜とさがりけり
という句をふらふらと得た事がある。糸瓜に縁があるから「猫」と共に併あわせて地下に捧げる。
  どつしりと尻を据すえたる南瓜かぼちゃかな
と云う句も其頃作ったようだ。同じく瓜と云う字のつく所を以て見ると南瓜も糸瓜も親類の間柄(あいだがら)だろう。親類付合のある南瓜の句を糸瓜仏に奉納するのに別段の不思議もない筈(はず)だ。そこで序(ついで)ながら此句も霊前に献上する事にした。子規は今どこにどうして居るか知らない。恐らくは据(すえ)るべき尻がないので落付をとる機械に窮しているだろう。余は未(いまだ)に尻を持って居る。どうせ持っているものだから、先(まず)どっしりと、おろして、そう人の思わく通り急には動かない積(つも)りである。然し子規は又例の如く尻持たぬわが身につまされて、遠くから余の事を心配するといけないから、亡友に安心をさせる為め一言断って置く。
  明治三十九年十月  ≫
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夏目漱石の「俳句と書画」(その五) [「子規と漱石」の世界]

その五 「愚陀仏庵」での漱石と子規(周辺)

松山中学第二回卒業生紀念写真.jpg

「松山中学第二回卒業生紀念写真」(愛媛県尋常中学校卒業生と/ 1896.4(明治29)/ (「夏目漱石デジタルコレクション」)
{https://www.kanabun.or.jp/souseki/list.html
前から三列目の左から二人目=夏目漱石(三十歳)

松山中・解説文.jpg

「同上・解説文」
最前列右から三人目(漱石の主治医となった「真鍋嘉一郎」)
同右から二人目(三菱商事会長・三菱本社理事長を歴任した「船田一雄」)
前から二列目の右から四人目(『坊ちゃん』の「赤シャツ」のモデルとされている校長の「横地石太郎」)


夏目漱石年譜(「東北大学附属図書館 夏目漱石ライブラリ」) (抜粋)

https://www.library.tohoku.ac.jp/collection/collection/soseki/nenpu.html

【明治28(1895)  4月 愛媛県尋常中学校嘱託教員に任命される。生徒には 真鍋嘉一郎 松根豊次郎(東洋城)ら
6月 転居し「愚陀仏庵」と名付ける
8月-10月 正岡子規が同宿しほぼ毎晩運座をおこなう
12月 中根鏡と見合いをし婚約が成立する

明治29(1896)  4月 熊本県第五高等学校に赴任する 『フランスの革命』 『ハムレット』 『オセロ』を講義する
6月 鏡との結婚式を挙げる 】

漱石の「愚陀仏庵」での句(明治二十八年・一八九五)

55 将軍の古塚あれて草の花(漱石・29歳「明治28年(1895)」)
≪ 季=草の花(秋)。※明治二十八年八月二十七日から約五十日間、子規は松山市二番町の漱石の下宿(愚陀仏庵)に仮寓した。子規の元には地元の俳句グループ松風会の会員などが訪れ、連夜にわたる句会が開かれることになり漱石もそれに加わった。そこで詠まれた句は、松風会のリーダー柳原極堂(当時は碌堂)のかかわる『海南新聞』(中略)に発表された。(中略) 漱石の句については、この句が九月三日に掲載されたのを皮切りに、翌年五月二十四日まで一〇二句が載った。◇『海南新聞』。 ≫(『漱石全集第十七巻・坪内稔典注解』)

56 鐘つけば銀杏ちるなり建長寺(漱石・29歳「明治28年(1895)」)
≪ 季=銀杏ちる(秋)。(中略) 子規の「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」の成立に影響した句と考えられる。(中略)  ◇『海南新聞』。 ≫(『同上』)

57 白露や芙蓉したたる音すなり(漱石・29歳「明治28年(1895)」)
≪ 季=白露(秋)。◇『海南新聞』。 ≫(『同上』)

58 長き夜を唯蝋燭の流れけり(漱石・29歳「明治28年(1895)」)
≪ 季=長き夜(秋)。◇『海南新聞』。 ≫(『同上』)

59 乗りながら馬の糞する野菊哉(漱石・29歳「明治28年(1895)」)
≪ 季=野菊(秋)。◇『海南新聞』。 ≫(『同上』)

60 馬に二人霧をいでたり鈴のおと(漱石・29歳「明治28年(1895)」)
≪ 季=霧(秋)。◇『海南新聞』。 ≫(『同上』)

(61~72=略 )

漱石の「子規へ送りたる句稿(一・三十二句)」

73 蘭の香や門を出づれば日の御旗(漱石・29歳「明治28年(1895)」)
≪ 季=蘭の香(秋)。(中略) この句稿を送った九月二十三日は、秋季皇霊祭(旧制の祭日)。この104までの三十二句を収める句稿は、漱石が子規に送った一連の句稿のうち、今日知られる最初のもの。子規は十月中旬に愚陀仏庵を出て東京へ戻ったが、漱石は東京の子規に続々と句稿を送り、その批評を求めた。その句稿は現在「三十五」までが知られている。(後略) ≫(『同上』)

(74~108=略)

愚陀仏庵.jpg

松山・愚陀仏庵(上野家の離れ)裏二階(「夏目漱石デジタルコレクション」)
https://www.kanabun.or.jp/souseki/list.html

愚陀仏庵・解説文.jpg

「同上・解説文」

「子規を送る 五句」

109 疾く帰れ母一人ます菊の庵(漱石・29歳「明治28年(1895)」)
≪ 季=菊(秋)。※「一人ます」は、一人がいらっしゃる。◇十月十二日、松山の花廼舎で開かれた子規の「留送別会」での子規送別の句。子規は上京すべく十九日に松山(三津港)を出港する。(後略) ≫(『漱石全集第十七巻・坪内稔典注解』)

110 秋の雲只むらむらと別れ哉(漱石・29歳「明治28年(1895)」)
≪ 季=秋の雲。(後略) ≫(「同上」)

111 見つつ行け旅に病むとも秋の不二(漱石・29歳「明治28年(1895)」)
≪ 季=秋(雑)。(後略) ≫(「同上」)

112 この夕べ野分に向て別れけり(漱石・29歳「明治28年(1895)」)
≪ 季=野分。(後略) ≫(「同上」)

113 お立ちやるかお立ちやれ新酒菊の花(漱石・29歳「明治28年(1895)」)
≪ 季=新酒・菊(秋)。※「お立ちやるかお立ちやれ」は、「出発なさるか、出発なさい」の意味の松山方言。 (後略) ≫(「同上」)

「漱石短冊」切手.jpg

「送子規/お立ちやるか/お立ちやれ新酒/菊の花/漱石」(「漱石短冊」切手)
https://ameblo.jp/hula-ranchan/image-11393051037-12263191894.html


(追記)夏目漱石俳句集(その二)<制作年順> 明治28年(53~516)

https://sosekihaikushu.seesaa.net/article/200911article_4.html

明治28年(1895年)

53 夜三更僧去つて梅の月夜かな
54 ゆく水の朝な夕なに忙しき
55 将軍の古塚あれて草の花
56 鐘つけば銀杏ちるなり建長寺
57 白露や芙蓉したたる音すなり
58 長き夜を唯蝋燭の流れけり
59 乗りながら馬の糞する野菊哉
60 馬に二人霧をいでたり鈴のおと
61 泥亀のながれ出でたり落し水
62 うてや砧これは都の詩人なり
63 明けやすき七日の夜を朝寝かな
64 秋の蝉死に度くもなき声音かな
65 柳ちるかたかは町や水のおと
66 風ふけば糸瓜をなぐるふくべ哉
67 爺と婆さびしき秋の彼岸かな
68 稲妻やをりをり見ゆる滝の底
69 親一人子一人盆のあはれなり
70 夕月や野川をわたる人はたれ
71 蓑虫のなくや長夜のあけかねて
72 便船や夜を行く雁のあとや先

73 蘭の香や門を出づれば日の御旗 (「子規へ送りたる句稿一・三十二句)
74 芭蕉破れて塀破れて旗翩々たり (同上)
75 朝寒に樒売り来る男かな    (同上)
76 朝貌や垣根に捨てし黍のから  (同上)
77 柳ちる紺屋の門の小川かな (同上)
78 見上ぐれば城屹として秋の空  (同上)
79 烏瓜塀に売家の札はりたり   (同上)
80 縄簾裏をのぞけば木槿かな   (同上)
81 崖下に紫苑咲きけり石の間   (同上)
82 独りわびて僧何占ふ秋の暮   (同上)
83 痩馬の尻こそはゆし秋の蠅   (同上)
84 鶏頭や秋田漠々家二三     (同上) 
85 秋の山南を向いて寺二つ    (同上)
86 汽車去つて稲の波うつ畑かな  (同上)
87 鶏頭の黄色は淋し常楽寺    (同上)
88 杉木立中に古りたり秋の寺   (同上)
89 尼二人梶の七葉に何を書く   (同上)
90 聨古りて山門閉ぢぬ芋の蔓   (同上)
91 渋柿や寺の後の芋畠      (同上)
92 肌寒や羅漢思ひ思ひに坐す   (同上)
93 秋の空名もなき山の愈高し   (同上)
94 曼珠沙花門前の秋風紅一点   (同上)
95 黄檗の僧今やなし千秋寺    (同上)
96 三方は竹緑なり秋の水     (同上)
97 藪影や魚も動かず秋の水    (同上)
98 山四方中を十里の稲莚<    (同上)
99 一里行けば一里吹くなり稲の風 (同上)
100 色鳥や天高くして山小なり  (同上)
101 大藪や数を尽して蜻蛉とぶ  (同上)
102 秋の山後ろは大海ならんかし (同上)
103 土佐で見ば猶近からん秋の山 (同上)
104 帰燕いづくにか帰る草茫々  (同上)
105 春三日よしのゝ桜一重なり  (同上)
106 驀地に凩ふくや鳰の湖    (同上)
107 わがやどの柿熟したり鳥来たり(同上)
108 掛稲やしぶがき垂るる門構  (同上)
109 疾く帰れ母一人ます菊の庵  (同上)
110 秋の雲只むらむらと別れ哉  (同上)
111 見つゝ行け旅に病むとも秋の不二(同上)
112 この夕野分に向て分れけり   (同上)
113 お立ちやるかお立ちやれ新酒菊の花(同上)

114 凩に裸で御はす仁王哉      (「子規へ送りたる句稿二・四十六句)
115 吹き上げて塔より上の落葉かな  (同上)
116 五重の塔吹き上げられて落葉かな (同上)
117 滝壺に寄りもつかれぬ落葉かな  (同上)
118 半途より滝吹き返す落葉かな   (同上)
119 男滝女滝上よ下よと木の葉かな  (同上)
120 時雨るゝや右手なる一の台場より (同上)
121 洞門に颯と舞ひ込む木の葉かな  (同上)
122 御手洗や去ればこゝにも石蕗の花 (同上)
123 寒菊やこゝをあるけと三俵    (同上)
124 冬の山人通ふとも見えざりき   (同上)
125 此枯野あはれ出よかし狐だに   (同上)
126 閼伽桶や水仙折れて薄氷     (同上)
127 凩に鯨潮吹く平戸かな      (同上)
128 勢ひひく逆櫓は五丁鯨舟     (同上)
129 枯柳芽ばるべしども見えぬ哉   (同上)
130 茶の花や白きが故に翁の像    (同上)
131 山茶花の折らねば折らで散りに鳧 (同上)
132 時雨るゝや泥猫眠る経の上    (同上)
133 凩や弦のきれたる弓のそり    (同上)
134 飲む事一斗白菊折つて舞はん哉  (同上)
135 憂ひあらば此酒に酔へ菊の主   (同上)
136 黄菊白菊酒中の天地貧ならず   (同上)
137 菊の香や晋の高士は酒が好き   (同上)
138 兵ものに酒ふるまはん菊の花   (同上)
139 紅葉散るちりゝちりゝとちゞくれて(同上)
140 簫吹くは大納言なり月の宴    (同上)
141 紅葉をば禁裏へ参る琵琶法師   (同上)
142 紅葉ちる竹縁ぬれて五六枚    (同上)
143 麓にも秋立ちにけり滝の音    (同上)
144 うそ寒や灯火ゆるぐ滝の音    (同上)
145 宿かりて宮司が庭の紅葉かな   (同上)
146 むら紅葉是より滝へ十五丁    (同上)
147 雲処々岩に喰ひ込む紅葉哉    (同上)
148 見ゆる限り月の下なり海と山   (同上)
149 時鳥あれに見ゆるが知恩院    (同上)
150 名は桜物の見事に散る事よ    (同上)
151 巡礼と野辺につれ立つ日永哉   (同上)
152 反橋に梅の花こそ畏しこけれ   (同上)
153 初夢や金も拾はず死にもせず   (同上)
154 柿売るや隣の家は紙を漉く    (同上)
155 蘆の花夫より川は曲りけり    (同上)
156 春の川故ある人を脊負ひけり   (同上)
157 草山の重なり合へる小春哉    (同上)
158 時雨るゝや聞としもなく寺の屋根 (同上)
159 憂き事を紙衣にかこつ一人哉   (同上)

160 日の入や秋風遠く鳴て来る   
161 はらはらとせう事なしに萩の露

子規へ送りたる句稿三.jpg

(「子規へ送りたる句稿三」)(「夏目漱石デジタルコレクション」)
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子規へ送りたる句稿三・読み下し文一.jpg
子規へ送りたる句稿三・読み下し文二.jpg

(「子規へ送りたる句稿三(読み下し文)」)(「夏目漱石デジタルコレクション」)
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162 煩悩は百八減つて今朝の春  (「子規へ送りたる句稿三・四十二句)
163 ちとやすめ張子の虎も春の雨 (同上)
164 恋猫や主人は心地例ならず  (同上)
165 見返れば又一ゆるぎ柳かな  (同上)
166 不立文字白梅一木咲きにけり (同上)
167 春風や女の馬子の何歌ふ   (同上)
168 春の夜の若衆にくしや伊達小袖(同上)
169 春の川橋を渡れば柳哉    (同上)
170 うねうねと心安さよ春の水  (同上)

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171 思ふ事只一筋に乙鳥かな   (同上)
172 鶯や隣の娘何故のぞく    (同上)
173 行く春を鉄牛ひとり堅いぞや (同上)
174 春の雨鶯も来よ夜着の中   (同上)
175 春の雨晴れんとしては烟る哉 (同上)
176 咲たりな花山続き水続き   (同上)
177 桜ちる南八男児死せんのみ  (同上)
178 鵜飼名を勘作と申し哀れ也  (同上)
179 時鳥たつた一声須磨明石   (同上)
180 五反帆の真上なり初時鳥   (同上)
181 裏河岸の杉の香ひや時鳥   (同上)
182 猫も聞け杓子も是へ時鳥   (同上)
183 湖や湯元へ三里時鳥     (同上)
184 時鳥折しも月のあらはるゝ  (同上)
185 五月雨ぞ何処まで行ても時鳥 (同上)
186 時鳥名乗れ彼山此峠     (同上)
187 夏痩の此頃蚊にもせゝられず (同上)
188 棚経や若い程猶哀れ也    (同上)
189 御死にたか今少ししたら蓮の花(同上)
190 百年目にも参うず程蓮の飯  (同上)
191 蜻蛉や杭を離るゝ事二寸   (同上)
192 轡虫すはやと絶ぬ笛の音   (同上)
193 谷深し出る時秋の空小し   (同上)
194 雁ぢやとて鳴ぬものかは妻ぢやもの(同上)
195 鶏頭に太鼓敲くや本門寺   (同上)
196 朝寒の鳥居をくゞる一人哉   (同上)
197 稲刈りてあないたはしの案山子かも(同上)
198 時雨るや裏山続き薬師堂    (同上)
199 時雨るや油揚烟る縄簾     (同上)
200 海鼠哉よも一つにては候まじ  (同上)
201 淋しいな妻ありてこそ冬籠   (同上)
202 弁慶に五条の月の寒さ哉    (同上)
203 行春や候二十続きけり     (同上)

子規へ送りたる句稿四.jpg

(「子規へ送りたる句稿四」)(「夏目漱石デジタルコレクション」)
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子規へ送りたる句稿四・読み下し文一三.jpg
子規へ送りたる句稿四・読み下し文二.jpg

(「子規へ送りたる句稿四(読み下し文)」)(「夏目漱石デジタルコレクション」)
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204 誰が家ぞ白菊ばかり乱るゝは (「子規へ送りたる句稿四・五十句)
205 渋柿の下に稲こく夫婦かな (同上)
206 茸狩や鳥居の赤き小松山  (同上)
207 秋風や坂を上れば山見ゆる (同上)
208 花芒小便すれば馬逸す   (同上)
209 鎌倉堂野分の中に傾けり  (同上)
210 山四方菊ちらほらの小村哉 (同上) 
211 二三本竹の中也櫨紅葉   (同上) 
212 秋の山静かに雲の通りけり (同上)
213 谷川の左右に細き刈田哉  (同上)
214 瀬の音や渋鮎淵を出で兼る (同上) 
215 赤い哉仁右衛門が脊戸の蕃椒(同上)
216 芋洗ふ女の白き山家かな  (同上)
217 鶏鳴くや小村小村の秋の雨 (同上)
218 掛稲や塀の白きは庄屋らし (同上)
219 四里あまり野分に吹かれ参りたり(同上)
220 新酒売る家ありて茸の名所哉  (同上)
221 秋雨に行燈暗き山家かな  (同上)
222 孀の家独り宿かる夜寒かな (同上)
223 客人を書院に寐かす夜寒哉 (同上)
224 乱菊の宿わびしくも小雨ふる(同上)
225 木枕の堅きに我は夜寒哉  (同上)
226 秋雨に明日思はるゝ旅寐哉 (同上)
227 世は秋となりしにやこの蓑と笠(同上)
228 山の雨案内の恨む紅葉かな (同上)
229 鎌さして案内の出たり滝紅葉(同上)
230 朝寒や雲消て行く少しづゝ (同上) 
231 絶壁や紅葉するべき蔦もなし (同上)
232 山紅葉雨の中行く瀑見かな (同上)
233 うそ寒し瀑は間近と覚えたり(同上)
234 山鳴るや瀑とうとうと秋の風(同上)
235 満山の雨を落すや秋の滝  (同上)
236 大岩や二つとなつて秋の滝 (同上)
237 水烟る瀑の底より嵐かな (同上)
238 白滝や黒き岩間の蔦紅葉 (同上)
239 瀑五段一段毎の紅葉かな (同上)
240 荒滝や野分を斫て捲き落す(同上)
241 秋の山いでや動けと瀑の音  (同上)
242 瀑暗し上を日の照るむら紅葉 (同上)
243 むら紅葉日脚もさゝぬ瀑の色 (同上)
244 雲来り雲去る瀑の紅葉かな  (同上)
245 瀑半分半分をかくす紅葉かな (同上)
246 霧晴るゝ瀑は次第に現はるゝ (同上)
247 大滝を北へ落すや秋の山   (同上)
248 秋風や真北へ瀑を吹き落す  (同上)
249 絶頂や余り尖りて秋の滝   (同上)
250 旅の旅宿に帰れば天長節   (同上)
251 君が代や夜を長々と瀑の夢  (同上)
252 長き夜を我のみ滝の噂さ哉  (同上)
253 唐黍を干すや谷間の一軒家  (同上)

254 いたづらに菊咲きつらん故郷は (「子規へ送りたる句稿五・十八句)
255 名月や故郷遠き影法師    (同上)
256 去ん候是は名もなき菊作り  (同上)
257 野分吹く瀑砕け散る脚下より (同上)
258 滝遠近谷も尾上も野分哉   (同上)
259 凩や滝に当つて引き返す   (同上)
260 炭売の後をこゝまで参りけり (同上)
261 去ればにや男心と秋の空   (同上)
262 春王の正月蟹の軍さ哉    (同上)
263 待て座頭風呂敷かさん霰ふる (同上)
264 一木二木はや紅葉るやこの鳥居(同上)
265 三十六峰我も我もと時雨けり (同上)
266 初時雨五山の交る交る哉   (同上)
267 菊提て乳母在所より参りけり (同上)
268 酒に女御意に召さずば花に月 (同上)
269 菊の香や故郷遠き国ながら  (同上)
270 秋の暮関所へかゝる虚無僧あり (同上)
271 八寸の菊作る僧あり山の寺   (同上)

子規へ送りたる句稿六.jpg

(「子規へ送りたる句稿六」)(「夏目漱石デジタルコレクション」)
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子規へ送りたる句稿六・読み下し文.jpg

(「子規へ送りたる句稿六(読み下し文)」)(「夏目漱石デジタルコレクション」)
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272 喰積やこゝを先途と悪太郎 (「子規へ送りたる句稿六・四十七句)
273 婆様の御寺へ一人桜かな(「同上」)
274 雛に似た夫婦もあらん初桜(「同上」)
275 裏返す縞のずぼんや春暮るゝ(「同上」)
276 普陀落や憐み給へ花の旅(「同上」)
277 土筆人なき舟の流れけり(「同上」)
278 白魚に己れ恥ぢずや川蒸気(「同上」)
279 白魚や美しき子の触れて見る(「同上」)
280 女郎共推参なるぞ梅の花(「同上」)

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281 朝桜誰ぞや絽鞘の落しざし(「同上」)
282 其夜又朧なりけり須磨の巻(「同上」)
283 亡き母の思はるゝ哉衣がへ(「同上」)
284 便なしや母なき人の衣がへ(「同上」)
285 卯の花に深編笠の隠れけり(「同上」)
286 卯の花や盆に奉捨をのせて出る(「同上」)
287 細き手の卯の花ごしや豆腐売(「同上」)
288 時鳥物其物には候はず(「同上」)
289 時鳥弓杖ついて源三位(「同上」)
290 罌粟の花左様に散るは慮外なり(「同上」)
291 願かけて観音様へ紅の花(「同上」)
292 塵埃り晏子の御者の暑哉(「同上」)
293 銀燭にから紅ひの牡丹哉(「同上」)
294 旅に病んで菊恵まるゝ夕哉(「同上」)
295 行秋や消えなんとして残る雪(「同上」)
296 二十九年骨に徹する秋や此風(「同上」)
297 我病めり山茶花活けよ枕元(「同上」)
298 号外の鈴ふり立る時雨哉(「同上」)
299 病む人に鳥鳴き立る小春哉(「同上」)
300 廓燃無聖達磨の像や水仙花(「同上」)
301 大雪や壮夫羆を護て帰る(「同上」)
302 星一つ見えて寐られぬ霜夜哉(「同上」)
303 霜の朝袂時計のとまりけり(「同上」)
304 木枯の今や吹くとも散る葉なし(「同上」)
305 塵も積れ払子ふらりと冬籠り(「同上」)
306 人か魚か黙然として冬籠り(「同上」)
307 四壁立つらんぷ許りの寒哉(「同上」)
308 疝気持臀安からぬ寒哉(「同上」)
309 凩の上に物なき月夜哉(「同上」)
310 緑竹の猗々たり霏々と雪が降る(「同上」)
311 凩や真赤になつて仁王尊(「同上」)
312 初雪や庫裏は真鴨をたゝく音(「同上」)
313 我を馬に乗せて悲しき枯野哉(「同上」)
314 土佐坊の生擒れけり冬の月(「同上」)
315 ほろ武者の影や白浜月の駒(「同上」)
316 月に射ん的は栴檀弦走り(「同上」)
317 市中は人様々の師走哉(「同上」)
318 何となく寒いと我は思ふのみ(「同上」)

319 我脊戸の蜜柑も今や神無月  (「子規へ送りたる句稿七・六十九句)
320 達磨忌や達磨に似たる顔は誰(「同上」)
321 芭蕉忌や茶の花折つて奉る(「同上」)
322 本堂へ橋をかけたり石蕗の花(「同上」)
323 乳兄弟名乗り合たる榾火哉(「同上」)
324 かくて世を我から古りし紙衣哉(「同上」)
325 我死なば紙衣を誰に譲るべき(「同上」)
326 橋立の一筋長き小春かな(「同上」)
327 武蔵下総山なき国の小春哉(「同上」)
328 初雪や小路へ入る納豆売(「同上」)
329 御手洗を敲いて砕く氷かな(「同上」)
330 寒き夜や馬は頻りに羽目を蹴る(「同上」)
331 来ぬ殿に寐覚物うけ火燵かな(「同上」)
332 酒菰の泥に氷るや石蕗の花(「同上」)
333 古綿衣虱の多き小春哉(「同上」)
334 すさましや釣鐘撲つて飛ぶ霰(「同上」)
335 昨日しぐれ今日又しぐれ行く木曾路(「同上」)
336 鷹狩や時雨にあひし鷹のつら(「同上」)
337 辻の月座頭を照らす寒さ哉(「同上」)
338 枯柳緑なる頃妹逝けり(「同上」)
339 枯蓮を被むつて浮きし小鴨哉(「同上」)
340 京や如何に里は雪積む峰もあり(「同上」)
341 女の子発句を習ふ小春哉(「同上」)
342 ほのめかすその上如何に帰花(「同上」)
343 恋をする猫もあるべし帰花(「同上」)
344 一輪は命短かし帰花(「同上」)
345 吾も亦衣更へて見ん帰花(「同上」)
346 太刀一つ屑屋に売らん年の暮(「同上」)
347 志はかくあらましを年の暮(「同上」)
348 長松は蕎麦が好きなり煤払(「同上」)
349 むつかしや何もなき家の煤払(「同上」)
350 煤払承塵の槍を拭ひけり(「同上」)
351 懇ろに雑炊たくや小夜時雨(「同上」)
352 里神楽寒さにふるふ馬鹿の面(「同上」)
353 夜や更ん庭燎に寒き古社(「同上」)
354 客僧の獅噛付たる火鉢哉(「同上」)
355 冬の日や茶色の裏は紺の山(「同上」)
356 冬枯や夕陽多き黄檗寺(「同上」)
357 あまた度馬の嘶く吹雪哉(「同上」)
358 嵐して鷹のそれたる枯野哉(「同上」)
359 あら鷹の鶴蹴落すや雪の原(「同上」)
360 竹藪に雉子鳴き立つる鷹野哉(「同上」)
361 なき母の忌日と知るや網代守(「同上」)
362 静かなる殺生なるらし網代守(「同上」)
363 くさめして風引きつらん網代守(「同上」)
364 焚火して居眠りけりな網代守(「同上」)
365 賭にせん命は五文河豚汁(「同上」)
366 河豚汁や死んだ夢見る夜もあり(「同上」)
367 夕日寒く紫の雲崩れけり(「同上」)
368 亡骸に冷え尽したる煖甫哉(「同上」)
369 あんかうや孕み女の釣るし斬り(「同上」)
370 あんかうは釣るす魚なり縄簾(「同上」)
371 此頃は女にもあり薬喰(「同上」)
372 薬喰夫より餅に取りかゝる(「同上」)
373 落付や疝気も一夜薬喰(「同上」)
374 乾鮭と並ぶや壁の棕櫚箒(「同上」)
375 魚河岸や乾鮭洗ふ水の音(「同上」)
376 本来の面目如何雪達磨(「同上」)
377 仲仙道夜汽車に上る寒さ哉(「同上」)
378 西行の白状したる寒さ哉(「同上」)
379 温泉をぬるみ出るに出られぬ寒さ哉(「同上」)
380 本堂は十八間の寒さ哉(「同上」)
381 愚陀仏は主人の名なり冬籠(「同上」)
382 情けにはごと味噌贈れ冬籠(「同上」)
383 冬籠り小猫も無事で罷りある(「同上」)
384 すべりよさに頭出るなり紙衾(「同上」)
385 両肩を襦袢につゝむ衾哉(「同上」)
386 合の宿御白い臭き衾哉(「同上」)
387 水仙に緞子は晴れの衾哉(「同上」)
388 土堤一里常盤木もなしに冬木立(「同上」)

389 定に入る僧まだ死なず冬の月 (「子規へ送りたる句稿八・四十一句)
390 幼帝の御運も今や冬の月  (「同上」)

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391 寒月やから堀端のうどん売 (「同上」)
392 寒月や薙刀かざす荒法師(「同上」)
393 寒垢離や王事もろきなしと聞きつれど(「同上」)
394 絵にかくや昔男の節季候 (「同上」)
395 水仙は屋根の上なり煤払 (「同上」)
396 寐て聞くやぺたりぺたりと餅の音(「同上」)
397 餅搗や小首かたげし鶏の面(「同上」)
398 衣脱だ帝もあるに火燵哉(「同上」)
399 君が代や年々に減る厄払(「同上」)
400 勢ひやひしめく江戸の年の市(「同上」)
401 是見よと松提げ帰る年の市(「同上」)
402 行年や刹那を急ぐ水の音(「同上」)
403 行年や実盛ならぬ白髪武者(「同上」)
404 春待つや云へらく無事は是貴人(「同上」)
405 年忘れ腹は中々切りにくき(「同上」)
406 屑買に此髭売らん大晦日(「同上」)
407 穢多寺へ嫁ぐ憐れや年の暮(「同上」)
408 白馬遅々たり冬の日薄き砂堤(「同上」)
409 山陰に熊笹寒し水の音(「同上」)
410 初冬や竹切る山の鉈の音(「同上」)
411 冬枯れて山の一角竹青し(「同上」)
412 炭焼の斧振り上ぐる嵐哉(「同上」)
413 冬木立寺に蛇骨を伝へけり(「同上」)
414 碧譚に木の葉の沈む寒哉(「同上」)
415 岩にたゞ果敢なき蠣の思ひ哉(「同上」)
416 炭竈に葛這ひ上る枯れながら(「同上」)
417 炭売の鷹括し来る城下哉(「同上」)
418 一時雨此山門に偈をかゝん(「同上」)
419 五六寸去年と今年の落葉哉(「同上」)
420 水仙白く古道顔色を照らしけり(「同上」)
421 冬籠り黄表紙あるは赤表紙(「同上」)
422 禅寺や丹田からき納豆汁(「同上」)
423 東西南北より吹雪哉(「同上」)
424 家も捨て世も捨てけるに吹雪哉(「同上」)
425 つめたくも南蛮鉄の具足哉(「同上」)
426 山寺に太刀を頂く時雨哉(「同上」)
427 塚一つ大根畠の広さ哉(「同上」)
428 応永の昔しなりけり塚の霜(「同上」)
429 蛇を斬つた岩と聞けば淵寒し(「同上」)

430 飯櫃を蒲団につゝむ孀哉 (「子規へ送りたる句稿九・六十一句)
431 焼芋を頭巾に受くる和尚哉 (「同上」)
432 盗人の眼ばかり光る頭巾哉 (「同上」)
433 辻番の捕へて見たる頭巾哉 (「同上」)
434 頭巾きてゆり落しけり竹の雪 (「同上」)
435 さめやらで追手のかゝる蒲団哉(「同上」)
436 毛蒲団に君は目出度寐顔かな (「同上」)
437 薄き事十年あはれ三布蒲団 (「同上」)
438 片々や犬盗みたるわらじ足袋 (「同上」)
439 羽二重の足袋めしますや嫁が君 (「同上」)
440 雪の日や火燵をすべる土佐日記 (「同上」)
441 応々と取次に出ぬ火燵哉 (「同上」)
442 埋火や南京茶碗塩煎餅  (「同上」)
443 埋火に鼠の糞の落ちにけり (「同上」)
444 暁の埋火消ゆる寒さ哉 (「同上」)
445 門閉ぢぬ客なき寺の冬構 (「同上」)
446 冬籠米搗く音の幽かなり (「同上」)
447 砂浜や心元なき冬構  (「同上」)
448 銅瓶に菊枯るゝ夜の寒哉(「同上」)
449 五つ紋それはいかめし桐火桶(「同上」)
450 冷たくてやがて恐ろし瀬戸火鉢(「同上」)
451 親展の状燃え上る火鉢哉(「同上」)
452 黙然と火鉢の灰をならしけり(「同上」)
453 なき母の湯婆やさめて十二年(「同上」)
454 湯婆とは倅のつけし名なるべし(「同上」)
455 風吹くや下京辺のわたぼうし(「同上」)
456 清水や石段上る綿帽子(「同上」)
457 綿帽子面は成程白からず(「同上」)
458 炉開きや仏間に隣る四畳半(「同上」)
459 炉開きに道也の釜を贈りけり(「同上」)
460 口切や南天の実の赤き頃(「同上」)
461 口切にこはけしからぬ放屁哉(「同上」)
462 吾妹子を客に口切る夕哉(「同上」)
463 花嫁の喰はぬといひし亥の子哉(「同上」)
464 到来の亥の子を見れば黄な粉なり(「同上」)
465 水臭し時雨に濡れし亥の子餅(「同上」)
466 枯ながら蔦の氷れる岩哉(「同上」)
467 湖は氷の上の焚火哉(「同上」)
468 痩馬に山路危き氷哉(「同上」)
469 筆の毛の水一滴を氷りけり(「同上」)
470 井戸縄の氷りて切れし朝哉(「同上」)
471 雁の拍子ぬけたる氷哉(「同上」)
472 枯蘆の廿日流れぬ氷哉(「同上」)
473 水仙の葉はつれなくも氷哉(「同上」)
474 凩に牛怒りたる縄手哉(「同上」)
475 冬ざれや青きもの只菜大根(「同上」)
476 山路来て馬やり過す小春哉(「同上」)
477 橋朽ちて冬川枯るゝ月夜哉(「同上」)
478 蒲殿の愈悲し枯尾花(「同上」)
479 凩や冠者の墓撲つ落松葉(「同上」)
480 山寺や冬の日残る海の上(「同上」)
481 古池や首塚ありて時雨ふる(「同上」)
482 穴蛇の穴を出でたる小春哉(「同上」)
483 空木の根あらはなり冬の川(「同上」)
484 納豆を檀家へ配る師走哉(「同上」)
485 親の名に納豆売る児の憐れさよ(「同上」)
486 からつくや風に吹かれし納豆売(「同上」)
487 榾の火や昨日碓氷を越え申した(「同上」)
488 梁山泊毛脛の多き榾火哉(「同上」)
489 裏表濡れた衣干す榾火哉(「同上」)
490 積雪や血痕絶えて虎の穴 (「同上」)

491 鶯の大木に来て初音かな
492 雛殿も語らせ給へ宵の雨
493 陽炎の落ちつきかねて草の上
494 馬の息山吹散つて馬士も無し
495 辻駕籠に朱鞘の出たる柳哉
496 春の雨あるは順礼古手買
497 尼寺や彼岸桜は散りやすき
498 叩かれて昼の蚊を吐く木魚哉
499 馬子歌や小夜の中山さみだるゝ
500 あら滝や満山の若葉皆震ふ
501 夕立や蟹はひ上る簀子椽
502 明け易き夜ぢやもの御前時鳥
503 尼寺や芥子ほろほろと普門品
504 影参差松三本の月夜哉
505 野分して朝鳥早く立ちけらし
506 曼珠沙花あつけらかんと道の端
507 史官啓す雀蛤とはなりにけり
508 行年や仏ももとは凡夫なり
509 大粒な霰にあひぬうつの山
510 十月のしぐれて文も参らせず
511 いそがしや霰ふる夜の鉢叩
512 十月の月ややうやう凄くなる
513 山茶花の垣一重なり法華寺
514 行く年や膝と膝とをつき合せ
515 雪深し出家を宿し参らする
    寄虚子
516 詩神とは朧夜に出る化ものか
≪ 季=朧夜(春)。※漱石は虚子の「松山的ならぬ淡泊なる処、のんきなる処、気の利かぬ処」などを愛した(子規宛書簡)。(後略)  ≫(『漱石全集第十七巻・坪内稔典注解』)
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夏目漱石の「俳句と書画」(その四) [「子規と漱石」の世界]

その四 「夏目漱石・子規宛書簡/明治24(1891.7.9)」周辺

夏目漱石・子規宛書簡一.jpg

「夏目漱石・子規宛書簡/明治24(1891.7.9)」(「夏目漱石デジタルコレクション」)
https://www.kanabun.or.jp/souseki/list.html

夏目漱石・子規宛書簡三.jpg

夏目漱石・子規宛書簡二.jpg


38 鳴くならば満月になけほととぎす (漱石・26歳「明治25年(1892)」)
≪ 季=時鳥(夏)。※落第した子規に、退学しようなどという気を起さず卒業することをすすめる句。◇書簡(正岡子規宛、明治25.7.19) ≫(『漱石全集第十七巻・坪内稔典注解』)

39 病む人の巨燵離れて雪見かな (漱石・26歳「明治25年(1892)」)
≪ 季=雪見(冬)。※巨燵は炬燵に同じ。子規からの書簡で、講師として出講している
東京専門学校での漱石の評判がよくないと知らされ、その返書に記した句。漱石は「生徒が生徒なれば辞職勧告を受けてもあながち小生の名誉に関するとは思はねど学校の委託を受けながら生徒を満足せしめ能はずと有ては責任の上又良心の上より云ふも心よからずと存候間此際断然と出講を断はる決心に御座候/(巨燵から追ひ出れたる)は御免蒙りたし」と書き、この句を記している。(中略) ◇書簡(正岡子規宛、明治25.12.14) ≫(同上)

夏目漱石短冊一.jpg

「夏目漱石短冊『君を苦しむるは詩魔か病魔かはた情魔か/花に酔ふ事を許さぬ物思ひ』」
(注記・寒川鼠骨函書:「明治廿四年子規居士病む漱石慰問の尺牘に此短冊を添へて贈れり」) (「夏目漱石デジタルコレクション」)
https://www.kanabun.or.jp/souseki/list.html

   君を苦しむるは詩魔か病魔かはた情魔か/寄子規
52 花に酔ふ事を許さぬ物思ひ (漱石・28歳「明治27年(1894)」)
≪ 季=花(春)。 ◇全集(大6)に明治二十七年頃として収める。(上記の「夏目漱石デジタルコレクション」では、寒川鼠骨函書により[1891(明治24).3-4]としている。)≫(『漱石全集第十七巻・坪内稔典注解』)


(追記)夏目漱石俳句集(その一)<制作年順> 明治22年~明治27年(1~52)

https://sosekihaikushu.seesaa.net/article/200911article_3.html

明治22年(1889年)

1 帰ろふと泣かずに笑へ時鳥
2 聞かふとて誰も待たぬに時鳥

明治23年(1890年)

3 西行も笠ぬいで見る富士の山
4 寐てくらす人もありけり夢の世に
5 峰の雲落ちて筧に水の音
6 東風吹くや山一ぱいの雲の影
7 白雲や山又山を這ひ回り

明治24年(1891年)

8 馬の背で船漕ぎ出すや春の旅
9 行燈にいろはかきけり秋の旅
10 親を持つ子のしたくなき秋の旅
11 さみだれに持ちあつかふや蛇目傘
12 見るうちは吾も仏の心かな
13 蛍狩われを小川に落しけり
14 藪陰に涼んで蚊にぞ喰はれける
15 世をすてゝ太古に似たり市の内
16 雀来て障子にうごく花の影
17 秋さびて霜に落けり柿一つ
18 吾恋は闇夜に似たる月夜かな
19 柿の葉や一つ一つに月の影
20 涼しさや昼寐の夢に蝉の声
21 あつ苦し昼寐の夢に蝉の声
22 とぶ蛍柳の枝で一休み
23 朝貌に好かれそうなる竹垣根
24 秋風と共に生へしか初白髪
25 朝貌や咲た許りの命哉
26 細眉を落す間もなく此世をば
27 人生を廿五年に縮めけり
28 君逝きて浮世に花はなかりけり
29 仮位牌焚く線香に黒む迄
30 こうろげの飛ぶや木魚の声の下
31 通夜僧の経の絶間やきりぎりす
32 骸骨や是も美人のなれの果
33 何事ぞ手向し花に狂ふ蝶
34 鏡台の主の行衛や塵埃
35 ますら男に染模様あるかたみかな
36 聖人の生れ代りか桐の花
37 今日よりは誰に見立ん秋の月

明治25年(1892年)

38 鳴くならば満月になけほとゝぎす
39 病む人の巨燵離れて雪見かな

明治27年(1894年)

40 何となう死に来た世の惜まるゝ
41 春雨や柳の中を濡れて行く
42 大弓やひらりひらりと梅の花
43 矢響の只聞ゆなり梅の中
44 弦音にほたりと落る椿かな
45 弦音になれて来て鳴く小鳥かな
46 春雨や寐ながら横に梅を見る
47 烏帽子着て渡る禰宜あり春の川
48 小柄杓や蝶を追ひ追ひ子順礼
49 菜の花の中に小川のうねりかな
50 風に乗って軽くのし行く燕かな
51 尼寺に有髪の僧を尋ね来よ
52 花に酔ふ事を許さぬ物思ひ
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夏目漱石の「俳句と書画」(その三) [「子規と漱石」の世界]

その三「英国留学中の夏目漱石の絵はがき」周辺

https://www.sankei.com/photo/story/news/180523/sty1805230006-n1.html

≪ 英国留学中の夏目漱石が、ドイツに留学した友人に宛てて書いたはがき3通が福井市内の古書店で見つかった。「僕ハ独リボツチデ淋イヨ」。異国での孤独な思いが細かな字でつづられており、鑑定した中島国彦・早稲田大名誉教授(日本近代文学)は「ロンドンでの生活ぶりが率直に書かれた貴重な資料」としている。福井県が23日、発表した。
 3通は、漱石がロンドンに渡った直後の1900年11月から翌年8月にかけて書かれた。寄託された県立こども歴史文化館によると、いずれも1917年から刊行された全集に掲載されているが、原本は所在不明となっていた。昨年9月、入手した古書店から同館に連絡があった。
 宛先はドイツ文学者藤代禎輔と福井県出身の国文学者芳賀矢一で、2人とも当時ドイツに留学していた。≫

英国留学中の絵葉書一.jpg

 英国留学中の夏目漱石が、ドイツに留学した友人に宛てて書いた絵はがき(福井県立こども歴史文化館提供)(その一)

英国留学中の絵葉書二.jpg

 英国留学中の夏目漱石が、ドイツに留学した友人に宛てて書いた絵はがき(福井県立こども歴史文化館提供)(その二)

英国留学中の漱石書簡.jpg

 英国留学中の夏目漱石が、ドイツに留学した友人に宛てて書いた絵はがき(福井県立こども歴史文化館提供)(その三)

    倫敦にて子規の訃を聞て(五句)
1824 筒袖や秋の棺にしたがはず (漱石・36歳「明治35年(1902)」) 
≪ 季=秋(雑)。※子規は九月十九日に他界した。虚子から要請のあった子規追悼文に代えてこれらの句を送った。その書簡では子規の死について、「かかる病苦になやみ候よりも早く往生致す方或は本人の幸福かと存候」と述べている。その後で、「子規追悼の句何かと案じ煩ひ候へども、かく筒袖にてピステキのみ食ひ居候者には容易に俳想なるもの出現仕らず、昨夜ストーブの傍にて左の駄句を得申候。得たると申すよりは寧ろ無理やりに得さしめたる次第に候へば、只申訳の為め御笑草として御覧に入候。近頃の如く半ば西洋人にて半日本人にては甚だ妙ちきりんなものに候」と言い、これらの句を記した。句のあとに「皆蕪雑句をなさず。叱正」とある。筒袖は洋服姿。◇書簡(高浜虚子宛、明治35.12.1)。雑誌「ホトトギス」(明治36.2)。 ≫(『漱石全集第十七巻・坪内稔典注解』)

1825 手向くべき線香もなくて暮の秋 (漱石・36歳「明治35年(1902)」)
≪ 季=暮の秋。◇1824。≫(「同上」)

1826 霜黄なる市に動くや影法師 (漱石・36歳「明治35年(1902)」)
≪ 季=霧(秋)。◇1824。(「同上」)≫

1827 きりぎりすの昔を忍び帰るべし (漱石・36歳「明治35年(1902)」)
≪ 季=きりぎりす(秋)。◇1824。≫(「同上」)

1626 招かざる薄に帰り来る人ぞ (漱石・36歳「明治35年(1902)」)
≪ 季=薄(秋)。◇1824。≫(「同上」)

https://plaza.rakuten.co.jp/akiradoinaka/diary/202010190000/

≪   筒袖や秋の柩にしたがはず    漱石(明治35)
   手向くべき線香もなくて暮の秋  漱石(明治35)
   霧黄なる市に動くや影法師    漱石(明治35)
   きりぎりすの昔を偲び帰るべし  漱石(明治35)
   招かざる簿に帰り来る人ぞ    漱石(明治35)
漱石のところに子規の死を知ったのは、高浜虚子と河東碧梧桐の手紙が届いた11月下旬のことでした。
 漱石は、高浜虚子への手紙に「倫敦にて子規の訃を聞きて」という詞書で読んだ5つの俳句を送っていますが、最後に「皆蕪雑句をなさず。叱正」 と描き、その悲しみを吐露しています。
 
 そして、この手紙を書いた4日後の12月5日、漱石は日本郵船会社の博多丸に乗り、印度洋を通って日本に帰ってきました。
 
 啓。子規病状は毎度御恵送のほととぎすにて承知致候処、終焉の模様逐一御報被下奉謝候。小生出発の当時より生きて面会致す事は到底叶い申間敷と存候。これは双方とも同じ様な心持にて別れ候事故今更驚きは不致、只々気の毒と申より外なく候。但しかかる病苦になやみ候よりも早く往生致す方、あるいは本人の幸福かと存候。倫敦通信の儀は子規存生中慰籍かたがたかき送り候。筆のすさび取るに足らぬ冗言と御覧被下度、その後も何かかき送り度とは存候いしかど、御存じの通りの無精ものにて、その上時間がないとか勉強をせねばならぬなどと生意気なことばかり申し、ついつい御無沙汰をしておる中に故人は白玉楼中の人と化し去り候様の次第、誠に大兄らに対しても申し訳なく、亡友に対しても慚愧の至に候。
 同人生前のことにつき何か書けとの仰せ承知は致し候えども、何をかきてよきや一向わからず、漠然として取り纏めつかぬに閉口致候。
 さて小生来五日いよいよ倫敦発にて帰国の途に上り候えば、着の上久々にて拝顔、種々御物語可仕万事はその節まで御預りと願いたく、この手紙は米国を経て小生よりも四五日さきに到着致すことと存候。子規追悼の句何かと案じ煩い候えども、かく筒袖姿にてビステキのみ食ひ居候者には容易に俳想なるもの出現仕らず、昨夜ストーヴの傍にて左の駄句を得申候。得たると申すよりはむしろ無理やりに得さしめたる次第に候えば、ただ申訳のため御笑草として御覧に入候。近頃の如く半ば西洋人にて半ば日本人にては甚だ妙ちきりんなものに候。
 文章などかき候ても日本語でかけば西洋語が無茶苦茶に出て参候。また西洋語にて認め候えば、くるしくなりて日本語にしたくなり、何とも始末におえぬ代物と相成候。日本に帰り候えば随分の高襟党に有之べく、胸に花を挿して自転車へ乗りて御目にかける位は何でもなく候。
     倫敦にて子規の訃を聞きて
   筒袖や秋の柩にしたがはず
   手向くべき線香もなくて暮の秋
   霧黄なる市に動くや影法師
   きりぎりすの昔を偲び帰るべし
   招かざる簿に帰り来る人ぞ
 皆蕪雑句をなさず。叱正。(高浜虚子宛書簡 明治35年12月1日) ≫

https://www.jstage.jst.go.jp/article/haibun1951/1967/32/1967_32_1/_pdf/-char/ja

「漱石の俳句(熊坂敦子稿)」

≪  1789 秋風の一人をふくや海の上   明治三十三年
  1790 阿呆鳥熱き国へそ参りける    同上
      倫敦にて子規の訃を聞ぎて
  1824 筒袖や秋の柩にしたがはず   明治三+五年   ≫
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夏目漱石の「俳句と書画」(その二) [「子規と漱石」の世界]

その二「東菊自画賛(子規)」周辺

 漱石の俳句は、明治二十二年(一八八九)に、東京大学(予備門)での、正岡子規との出会いによる、次の二句から始まる。

1  帰ろふと鳴かずに笑へ時鳥  (漱石・23歳「明治22年(1889)」)
2   聞かふとて誰も待たぬに時鳥 (漱石・23歳「明治22年(1889)」)

≪ 季語=時鳥(夏)。「時鳥」の異名「不如帰」(帰るに如かず)に託して喀血した正岡子規を激励した句。子規と時鳥とは同義。正岡子規は明治二十二年五月九日に喀血した。翌日、医者に肺病と診断され、「卯の花をめがけてきたか時鳥」「卯の花の散るまで鳴くか子規」
などの句を作った。卯の花を自分になぞらえ(子規は卯年生れ)、肺病(結核)を時鳥と表現俳句。(中略) 子規はこれらの俳句を作ったことから、自ら子規と号するようになった。この年の一月頃に急速に親しくなった漱石は、五月十三日に子規を見舞い、その帰途に子規のかかっていた医師を訪ねて病状や療養の仕方を聞いている。(後略 )≫(『漱石全集第十七巻・坪内稔典注解』)

東菊図自画賛(子規).jpg

「東菊図自画賛(子規・紙本淡彩・37.6×26.0㎝)
≪ 明治三十三年の作。漱石宛子規書翰に、近頃画を描いており、「一枚見本さしあげかとも存候へども」と記している。東菊が四月、五月頃咲くことなどを考えると、同年初夏に描かれて、六月中旬頃に漱石に送ったものかと思われる。本図の花瓶は叔父加藤拓川から贈られたもので「紫のほのかに匂ふガラスの一輪ざし」(「我家の長物」明治三十三年)で、フランス製である。
 寄漱石
コレハ萎ミカケタル処ト思ヒタマヘ 画ガマヅイノハ病人ダカラト思ヒタマヘ 嘘ダト思ハバ肱ツイテカヒテ見玉ヘ 規
 あづま菊いけて置きけり
  火の国に住みける
   君の帰りくるがね
と記したこの画について、漱石は「子規の画」(明治四十四年=一九一一)に、

 壁に懸けて眺めて見るといかにも淋しい感じがする。色は花と茎と葉と硝子ガラスの瓶とを合せてわずかに三色しか使ってない。花は開いたのが一輪に蕾が二つだけである。葉の数を勘定して見たら、すべてでやっと九枚あった。それに周囲が白いのと、表装の絹地が寒い藍なので、どう眺めても冷たい心持が襲って来てならない。
 子規はこの簡単な草花を描くために、非常な努力を惜しまなかったように見える。わずか三茎の花に、少くとも五六時間の手間をかけて、どこからどこまで丹念に塗り上げている。これほどの骨折は、ただに病中の根気仕事としてよほどの決心を要するのみならず、いかにも無雑作に俳句や歌を作り上げる彼の性情からいっても、明かな矛盾である。
 (中略)
 東菊によって代表された子規の画は、拙くてかつ真面目である。才を呵して直ちに章をなす彼の文筆が、絵の具皿に浸ると同時に、たちまち堅くなって、穂先の運行がねっとり竦んでしまったのかと思うと、余は微笑を禁じ得ないのである。虚子が来てこの幅を見た時、正岡の絵は旨いじゃありませんかといったことがある。余はその時、だってあれだけの単純な平凡な特色を出すのに、あのくらい時間と労力を費さなければならなかったかと思うと、何だか正岡の頭と手が、いらざる働きを余儀なくされた観があるところに、隠し切れない拙が溢れていると思うと答えた。
  (中略)
 子規は人間として、また文学者として、最も「拙」の欠乏した男であった。永年彼と交際をしたどの月にも、どの日にも、余はいまだかつて彼の拙を笑い得るの機会を捉え得た試がない。また彼の拙に惚れ込んだ瞬間の場合さえもたなかった。彼の歿後ほとんど十年になろうとする今日、彼のわざわざ余のために描いた一輪の東菊のうちに、確かにこの一拙字を認めることのできたのは、その結果が余をして失笑せしむると、感服せしむるとに論なく、余にとっては多大の興味がある。ただ画がいかにも淋しい。でき得るならば、子規にこの拙な所をもう少し雄大に発揮させて、淋しさの償いとしたかった。

と子規の画を漱石独特の観方で述べている。 ≫(『俳人の書画美術7 子規(集英社刊)』所収「作品解説13(和田茂樹)」)

 この子規の画中に記されている、子規の短歌の「あづま菊いけて置きけり/火の国に住みける/君の帰りくるがね」の、その「火の国」は、当時、漱石が赴任していた「第五高等学校」(明治二十九年から同三十三年の五年弱)の「熊本」を指し、「帰りくるがね」は、「帰って来るように」という意味の「万葉的」な用例ということになる。

    松山より熊本に行く時/虚子に託して霽月に贈る(一句)
787 逢はで散る花に涙を濺(そそ)げかし (漱石・30歳「明治29年(1896)」) 
≪村上霽月の漱石追悼文「漱石君を偲ぶ」(「渋柿」大6・2)では「散る」を「去る」とする。漱石は、四月十日に松山を離れた。≫(『漱石全集第十七巻・坪内稔典注解』)

http://urawa0328.babymilk.jp/siki/siki0.html

≪ 「正岡子規ゆかりの地」の抜粋
明治22年(1889年)5月9日、喀血。初めて「子規」と号す。
明治25年(1892年)11月14日、母と妹を神戸に出迎える。17日、帰京。正岡家は一家で東京に移る。
明治25年(1892年)12月1日、日本新聞社入社。
明治27年(1894年)2月1日、上根岸町82番地(羯南宅の東隣)に転居。
明治28年(1895年)4月7日、正岡子規は近衛師団司令部と共に海城丸に乗り、宇品を発する。その帰路に喀血。
明治28年(1895年)、病気療養のため帰省52日間にわたり愚陀佛庵で夏目漱石と共同生活を送る。
明治28年(1895年)10月12日、正岡子規送別会。
明治31年(1898年)3月14日、『新俳句』発行。
明治35年(1902年)9月19日未明、正岡子規歿す。21日、大龍寺に埋葬。≫

http://urawa0328.babymilk.jp/siki/sansakusyuu.html

≪ 正岡子規「散策集」抜粋 
 明治28年(1895年)9月20日、子規は漱石の愚陀佛庵で療養していたが、いつになく体調がよく、この日はじめて散歩に出た。柳原極堂が一緒だった。

明治二十八年九月二十日午後   子規子
 今日はいつになく心地よければ折柄來合せたる碌堂を催してはじめて散歩せんとて愚陀佛庵を立ち出づる程秋の風のそゞろに背を吹てあつからず。玉川町より郊外には出でける。見るもの皆心行くさまなり。

杖によりて町を出づれは稲の花
秋高し鳶舞ひしつむ城の上
大寺の施餓鬼過ぎたる芭蕉哉
秋晴れて見かくれぬベき山もなし
秋の山松鬱として常信寺
(以下「略」)

明治28年10月6日、快晴だし日曜日だったので、子規は同居の漱石と道後へ吟行。

明治廿年九月六     子規子
 今日は日曜なり 天氣は快晴なり 病氣は輕快なり 遊志勃然漱石と共に道後に遊ぶ 三層樓中天に聳えて來浴の旅人ひきもきらず

   温泉樓上眺望
柿の木にとりまかれたる温泉哉

松枝町を過ぎて寶嚴寺に謁づ こゝは一遍上人御誕生の靈地とかや 古往今來當地出身の第一の豪傑なり 妓廊門前の楊柳往來の人をも招かで一遍上人御誕生地の古碑にしだれかゝりたるもあはれに覺えて

古塚や戀のさめたる柳散る

   寶嚴寺の山門に腰うちかけて
色里や十歩はなれて秋の風

明治28年(1895年)10月7日、子規は人力車で今出(いまず)の村上霽月を訪ねた。

明治廿八年十月七日     子規子

今出の霽月一日我をおとづれて來れといふ。われ行かんと約す。期に至れば連日霖雨濛々 我亦褥(しとね)に臥す。爾後十餘日霽月書を以て頻りに我を招く。今日七日は天氣快晴心地ひろくすがすがしければ俄かに思ひ立ちて人車をやとひ今出へと出で立つ。道に一宿を正宗寺に訪ふ 同伴を欲する也。一宿故ありて行かず

朝寒やたのもとひゞく内玄関    ≫

http://urawa0328.babymilk.jp/arekore/murakami0.html

≪ 「村上霽月ゆかりの地」抜粋

明治28年(1895年)10月7日、正岡子規は人力車で霽月邸を訪ねる。
明治28年(1895年)11月、上京中に根岸の子規庵を訪ねる。
明治29年(1896年)1月3日、高浜虚子は子規庵の初句会で村上霽月を知る。この日、夏目漱石、森鴎外も出席。
明治29年(1896年)3月1日、漱石と虚子が霽月を訪ねる。
明治29年(1896年)4月、高浜虚子は夏目漱石の第五高等校赴任を送り、宮島に遊び紅葉谷公園に泊まる。漱石は霽月に贈る句を虚子に托している。

   松山より熊本に行く時
   虚子に托して霽月に贈る〔一句〕
逢はで散る花に涙を濺(そそ)げかし     ≫
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夏目漱石の「俳句と書画」(その一) [「子規と漱石」の世界]

その一「あかざと黒猫図(漱石)」周辺

あかざと黒猫図(漱石).jpg

「あかざと黒猫図」(夏目漱石画/墨,軸/1311×323/箱書き:漱石書「あかざと黒猫」「大正三年七月漱石自題」)(「夏目漱石デジタルコレクション」)

https://www.kanabun.or.jp/souseki/list.html

 その解説文は、次のとおり。

あかざと黒猫図(漱石)解説文.gif

「漱石『猫』句五句選

https://nekohon.jp/neko-wp/bunken-natsumesouseki/

里の子の猫加えけり涅槃像    (漱石・30歳「明治29年(1896)」)
行く年や猫うづくまる膝の上    (漱石・32歳「明治31年(1898)」)
朝がおの葉影に猫の目玉かな   (漱石・39歳「明治38年(1905)」)
恋猫の眼(まなこ)ばかりに痩せにけり (漱石・41歳「明治40年(1907)」)
この下に稲妻起こる宵あらん(漱石・42歳「明治41年(1908)」)=『吾輩は猫である』のモデルとなった猫の墓に書いた句)          

「漱石『『吾輩は猫である』追善五句選」

https://nekohon.jp/neko-wp/bunken-natsumesouseki/

センセイノネコガシニタルサムサカナ  (松根東洋城)
ワガハイノカイミヨウモナキススキカナ (高浜虚子)
猫の墓に手向けし水の(も)氷りけり  (鈴木三重吉)
蚯蚓(みみず)鳴くや冷たき石の枕元  (寺田寅彦)
土や寒きもぐらに夢や騒がしき     (同上)


「漱石『猫』句周辺」

(恋猫)=春

164 恋猫や主人は心地例ならず (漱石・29歳「明治28年(1895)」)
≪ 我を忘れた恋猫のふるまいにあおられた主人のさま。≫(『漱石全集第十七巻・坪内稔典注解』)

643  猫知らず寺に飼はれて恋わたる (漱石・30歳「明治29年(1896)」)
≪ 「恋わたる」=恋して出歩くさま。子規の添削句。原句は「猫知らず寺に飼はれて恋をする」。これは寺に飼われていることを知らない猫のさま。≫(『同上』)
1928 恋猫の眼(まなこ)ばかりに痩せにけり (漱石・41歳「明治40年(1897)」)
≪ 恋猫の眼ばかりが目立つさま。≫(『同上』)

(猫の恋)=春

665  金屏を幾所(いくしよ)かきさく猫の恋 (漱石・30歳「明治29年(1896)」)
≪ 金屏風を幾か所も引き掻く恋猫のさま。≫(『同上』)

1073 のら猫の山寺に来て恋をしつ (漱石・31歳「明治30年(1897)」)
≪ 「野良猫」と「山寺」と「猫の恋」との取り合せの句。≫(『同上』)

2436 真向に坐りて見れど猫の恋 (漱石・49歳「大正4年(1915)」)
≪ 画賛の句。真向いに坐っても恋に夢中の猫は見向きもしないさま。≫(『同上』)

(涅槃像)=春

707 里の子の猫加えけり涅槃像  (漱石・30歳「明治29年(1896)」)
≪「涅槃像」に、村(里)の子が「猫」を書き加えた。≫(『同上』)

(行く年)=冬・暮

1327 行く年や猫うづくまる膝の上 (漱石・32歳「明治31年(1898)」)
≪「子規へ送りたる句稿二十八」、三十句のトップの句。≫(『同上』)

(朝貌・朝顔)=秋

1872 朝がおの葉影に猫の目玉かな (漱石・39歳「明治38年(1905)」)
≪ 「鹿間涛楼宛「書簡」の句。 ≫(『同上』)

(稲妻)=秋

2085 此の下に稲妻起る宵あらん(漱石・42歳「明治41年(1908年)」)
≪ 九月十三日に『吾輩は猫である』になった猫が死んだ。その猫の墓標の裏に書いた句(夏目鏡子『漱石の思ひ出』)。≫(『同上』)

http://yahantei.blogspot.com/2006/05/blog-post.html


(再掲)

虚子の実像と虚像(その十)

○ 君と我うそにほればや秋の暮   (明治三十九年 虚子)
○ 釣鐘のうなるばかりの野分かな  (明治三十九年 漱石)
○ 寺大破炭割る音も聞えけり    (明治三十九年 碧梧桐)

 地方新聞(「下野新聞」)のコラムに、「ことしは『坊ちゃん』の誕生から百年。夏目漱石がこの痛快な読み物をホトトギスに発表したのは、明治三十九年四月だった」との記事を載せている。漱石は子規の学友で、子規と漱石と名乗る人物が、この世に出現したのは、明治二十二年、彼等は二十三歳の第一高等中学校の学生であった。漱石は子規の生れ故郷の伊予の松山中学校の英語教師として赴任する。その伊予の松山こそ、漱石の『坊ちゃん』の舞台である。と同時に、その漱石の下宿していた家に、子規が一時里帰りをしていて、その漱石の下宿家の子規の所に出入りしていたのが、後の子規門の面々で、そこには、子規よりも五歳前後年下の碧梧桐と虚子のお二人の顔もあった。漱石も英語教師の傍ら、親友子規の俳句のお相手もし、ここに、俳人漱石の誕生となった。これらのことについて、漱石は次のような回想録を残している(「正岡子規)・明治四一」)。
 「僕(注・漱石)は二階にいる、大将(注・子規)は下にいる。そのうち松山中の俳句を遣(や)る門下生が集まって来る(注・碧梧桐・虚子など)。僕が学校から帰って見ると、毎日のように多勢来ている。僕は本を読む事もどうすることも出来ん。尤も当時はあまり本を読む方でもなかったが、とにかく自分の時間というものがないのだから、やむをえず俳句を作った」。
 そして、この漱石の回想録に出て来る俳句の大将・正岡子規が亡くなるのは、明治三十五年、当時、漱石はロンドンに留学していた。そして、ロンドンの漱石宛てに子規の訃報を伝えるのは虚子であった。さらに、俳人漱石ではなく作家漱石を誕生させたのは、虚子その人で、その「ホトトギス」に、漱石の処女作「我輩は猫である」を連載させたのが、前にも触れたが、明治三十八年のことであった。そして、『坊ちゃん』の誕生は、その翌年の明治三十九年、それから、もう百年が経過したのである。そし、その百年前の『坊ちゃん』の世界が、子規を含めて、漱石・碧梧桐・虚子等の在りし日の舞台であったのだ。そのような舞台にあって、子規は、その漱石の俳句について、「漱石は明治二十八年始めて俳句を作る。始めて作る時より既に意匠において句法において特色を見(あら)はせり」とし、「斬新なる者、奇想天外より来りし者多し」・「漱石また滑稽思想を有す」と喝破するのである。
 さて、掲出の三句は、漱石の『坊ちゃん』が世に出た明治三十句年の、虚子・漱石・碧梧桐の一句である。
 この三句を並列して鑑賞するに、やはり、「滑稽性」ということにおいては、漱石のそれが頭抜けているし、次いで、虚子、三番手が碧梧桐ということになろう。碧梧桐の掲出句は、碧梧桐には珍しく、滑稽性を内包するものであるが、この「寺大破」というのは、大袈裟な意匠を凝らした句というよりも、リアリズムを基調とする碧梧桐の目にしていた実景に近いものなのであろう。この碧梧桐の句に比して、漱石・虚子の句は、いかにも余技的な題詠的な作という感じは拭えない。そして、当時は、こと俳句の実作においては、碧梧桐のそれが筆頭に上げられることは、この三句を並列して了知され得るところのものであろう。
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渡辺崋山の「俳画譜」(『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』) [渡辺崋山の世界]

(その十一) 『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』の「崋山(「序」の「深省(尾形乾山)」周辺

 その『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』の「序」(下記)に出てくる、「元禄のころ一蝶許六などあれども風韻は深省などまさり候」の、この「深省」は、「琳派」の大成者「尾形光琳」の実弟「尾形乾山」その人ということになる。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-07-26

≪ 俳諧絵は唯趣を第一義とといたし候。元禄のころ一蝶許六などあれども風韻は深省などまさり候。此風流の趣は古き所には無く、滝本坊、光悦など昉(はじま)りなるべし。はいかゐには立圃見事に候。近頃蕪村一流を昉(はじ)めおもしろく覚候。かれこれを思ひ合描くべし。すべておもしろかく気あしく、なるたけあしく描くべし,これを人にたとへ候に世事かしこくぬけめなく立板舞物のいひざまよきはあしく、世の事うとく訥弁に素朴なるが風流に見へ候通、この按排を御呑込あるべし。散人 ≫(『俳人の書画美術11 江戸の画人(鈴木進執筆・集英社))』所収「図版資料(森川昭稿)」に由っている。)

 この「深省(尾形乾山)」に関しては、下記のアドレスで触れてきた。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-07-04

(再掲)
乾山花鳥図屏風㈠.jpg

尾形乾山筆「四季花鳥図屏風」六曲一双  右隻 五島美術館(大東急記念文庫)蔵

乾山花鳥図屏風二.jpg

尾形乾山筆「四季花鳥図屏風」六曲一双 左隻 五島美術館(大東急記念文庫)蔵
(各隻とも、一四三・九×三二六・二㎝)


https://core.ac.uk/download/pdf/146899461.pdf


(メモ)

一 上記のアドレスは、「美術研究」(1957-03-13)所収「図版要項 尾形乾山筆四季花鳥図屏風(神奈川 川端康成氏蔵)」(山根有三稿)のものである。当時(1957=昭和32)は、ノーベル文学賞作家となる川端康成氏蔵のものであった。現在は、五島美術館(大東急記念文庫)蔵となっているが、昭和三十四年(一九五九)、五島美術館の前身の「大東急記念文庫」の創設者、五島慶太氏が亡くなる三カ月前に、川端康成氏より購入したとされている、尾形乾山作(絵画・陶器・書など)の中でも、その最右翼を飾る乾山の遺作にして大作の一作である。

二 上記に因ると、その「左隻」の第六扇(面)に「泉州逸民紫翠深省八十一写」の落款が施されており、そして、両隻共に「傳陸」の朱文円印と「霊海」の朱文方印が押印されているとのことである。

三 この「泉州逸民紫翠深省八十一写」の「泉州」とは、中国の「泉州」に因んでの、「京都・奈良・大阪」の「畿内」(山城・大和・摂津・河内・和泉)の「西国」を意味するものであろう。「逸民」は、その「西国(畿内)」からの「逸民・逸士」で、乾山終生の、乾山の全生涯を象徴するような二字である。「紫翠」は、その「西国(畿内)」の「京都」の、そして、そこで、勉学・修練・作家活動(その六十九年の前半生)をし続けた、そのエポックとなる「御室・鳴滝」の、その「紫翠」(山紫水明)な「紫翠」であり、その「深省」とは、その家兄たる「光琳」(光り輝く一代の「法橋」たる芸術家「日向の光琳」)に対する「深省(その「光琳」の背後の「光背」のような「日陰の深省」)という、その意識の表れの号であろう。そして、「八十一写」とは、亡くなる寛保三年(一七四三)六月二日以前の作ということなる。

四 さて両隻に押印されている「傳陸」については、上記(山根有三稿)の末尾に、「因みに印の『傳陸』は自筆書状に用いた署名の『扶陸』に通ずるものである」との記載があり、この「扶陸」とは、乾山の号の一つで、例えば、「扶陸泉州(日本国近畿(京都)」の「日本国」というような意味合いのものであろう。その上で、その「扶陸」に対する「傳陸」は、「中国大陸」、主として、その中国(明)の渡来僧・隠元の「禅宗」(黄檗宗)に関わり合いのあるものと解して置きたい。そして、もう一つの印章の「霊海」は、乾山の独照禅師(独照性円)から授かった禅号なのである。

五 乾山年譜(『東洋美術選書 乾山(佐藤雅彦著)』所収)の「元禄三(一六九〇)、二十八歳」の項に、「九月直指庵の独照性円と月潭道澄を習静堂に招き、詩偈を与えられる。独照より霊海の号を贈らる」とあり、爾来、乾山は、この「霊海」の禅号を終生用いて、亡くなるその没年の最期の、この大作にも、その禅号「霊海」の印章を用いているということになる。

六 ここで、あらためて、冒頭の「右隻」の第一扇(面)から第四扇(面)に描かれた「春柳」は、「京兆紫翠深省七十七歳写」の落款のある、次のものの延長線上にあるものなのであろう。

春柳図.jpg

乾山筆「春柳図」(大和文華館蔵) 紙本墨画 二四・三×四五・三㎝

http://www.kintetsu-g-hd.co.jp/culture/yamato/shuppan/binotayori/pdf/112/1995_112_3.pdf

ここに書かれている歌賛は、「露けさもありぬ 柳の朝ねがみ 人にもがなや 春のおもかげ」というもので、上記のアドレスの解説文によると、乾山の愛唱歌集の三条西実隆の『雪玉集』の「朝柳」の一首というのである。
 そして、これらのことから、冒頭の右隻の柳の「優美な枝葉とのびあがった太い幹」は、『源氏物語』(「宇治十帖」第七帖「浮舟」)の、「なよなよとしてしなだれかかる『浮舟の君』と、両手をひろげて抱きかかえようとする『匂宮』を思わせる」との鑑賞(小林太市郎)を紹介している。

七 それに続けて、この左隻の「蛇籠と秋の草花」は、下記のアドレスなどで紹介した乾山の「花籠図」を念頭に置いたものとする鑑賞(小林太市郎)を紹介している。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-06-13

 そして、それは、その「花籠図」の歌賛の、「花といへば千種ながらにあだならぬ色香にうつる野辺の露かな」(三条西実隆)から、『源氏物語』(第十帖「賢木(さかき)第二段(野の宮訪問と暁の別れ)」が、その背景にあるとする鑑賞(小林太市郎)なのである。そして、その鑑賞視点は、『源氏物語』(第十帖第二段第二節)の次のような光景のものなのであろう。
【 遥けき野辺を分け入りたまふより、いとものあはれなり。秋の花、みな衰へつつ、 浅茅が原も枯れ枯れなる虫の音に、 松風、すごく吹きあはせて、そのこととも聞き分かれぬ ほどに、物の音ども絶え絶え聞こえたる、いと 艶(えん)なり。】

乾山絵二.jpg


尾形乾山筆「花籠図」一幅 四九・二×一一二・五cm 重要文化財 福岡市美術館蔵(旧松永美術館蔵)

八 この乾山の「花籠図」について、上記のアドレスで、次のような鑑賞(山根有三)を紹介した。

【「花といへは千種なからにあたならぬ色香にうつる野辺の露かな」と記すところから、「『源氏物語』の「野分」の段より取材したと考え、三つの花籠は王朝女性の濃艶な姿を象徴すると見る説がある。それはともかく、この籠や草花の描写には艶冶なうちにも野趣があり、ひそやかになにごとかを語りかけてくるのは確かである。「京兆逸民」という落款からみても、乾山が江戸へ下った六十九歳以後の作品となる。】
(『原色日本美術14 宗達と光琳(山根有三著)』の「作品解説114」) 

 上記の文中の(『源氏物語』の「野分」の段より取材した)の「野分」は、『源氏物語』第五十四帖の「野分」と混同されやすいので、これは、「賢木」(第十帖)の「野宮」(第二段)とすべきなのであろう。

九 さて、冒頭の「四季花鳥図屏風」左隻の、第四・五扇(面)に描かれている「楓」は、下記のアドレスで紹介した、「楓図」が、これまた念頭にあるものと解したい。


https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-06-08

乾山楓一.jpg

尾形乾山筆「楓図」一幅 紙本着色 一〇九・八×四〇・四cm
「京兆七十八翁 紫翠深省写・『霊海』朱文方印」 MIHO MUSEUM蔵
「幾樹瓢零秋雨/裡千般爛熳夕/陽中」

【同じ紅葉でもこちらは、縦長の画面に大きく枝とともに色づいた楓が描かれています。秋雨に濡れて葉は赤みが増し、さらに夕陽に照り映えていっそう赤々と風情は弥増しに増す。そんな詩意を受けてこの絵は描かれたのでしょう。幹にはたらし込みの技法も見られ、これぞ琳派といった絵になっています。ただし、画面上方の着賛は漢詩で、ここには乾山の文人的な部分が色濃く出ています。今にも枝につかんばかりの勢いで所狭しと記された筆づかいは、雄渾で迷いがなく、どこまでも「書の人」であった兼山らしさが滲み出ています。落款から乾山晩年、七十八歳の作と知れます。 】『乾山 琳派からモダンまで(求龍堂刊)』

十 しかし、冒頭に掲げたアドレスの「美術研究」(1957-03-13)所収「図版要項 尾形乾山筆四季花鳥図屏風(神奈川 川端康成氏蔵)」(山根有三稿)では、この「楓図」は、『源氏物語』(第五十四帖「総角(あげまき)」)の「大君と中君の姉妹を詠んだ薫中納言の次の歌が背景にある」(「小林太市郎」解)を紹介しているのである。

 秋のけしきもしらづがほに あおき枝の
 かたえはいとこく紅葉したるを
  おなじえをわきてそめける山ひめに
      いづれかふかき色ととはゞや

十一 これらの、「美術研究」(1957-03-13)所収「図版要項 尾形乾山筆四季花鳥図屏風(神奈川 川端康成氏蔵)」(山根有三稿)で紹介されている「小林太市郎」の『源氏物語』が背景にあるという鑑賞は、すべからく、「乾山の象徴論―花籠図」「乾山の象徴論―楓柳芦屏風」(『小林太市郎著作集六・日本芸術論Ⅱ・光琳と乾山』)などに収載されている。

十二 ここで、冒頭の「四季花鳥図屏風」(乾山筆)について、「乾山の象徴論―楓柳芦屏風」(『小林太市郎著作集六・日本芸術論Ⅱ・光琳と乾山』)の要点を原文のままに引用して置きたい。

㈠ 宇治の姫君たちの哀愁、夏秋の木のほとりの木草の姿を描いたもので、右方にやさしく臥しなびく柳のなよなよとしてしなだれかかる弱さは、さながら浮舟の君をおもわせる。その下に両手をひろげてそれを抱きかかえるようとする太い幹は、すなわち匂宮でなくてなんであろうか。(p180-190) ≫

 ここで、次の「泉州逸民紫翠深省八十一写」の「逸民」ということに注目したい。

≪三 この「泉州逸民紫翠深省八十一写」の「泉州」とは、中国の「泉州」に因んでの、「京都・奈良・大阪」の「畿内」(山城・大和・摂津・河内・和泉)の「西国」を意味するものであろう。「逸民」は、その「西国(畿内)」からの「逸民・逸士」で、乾山終生の、乾山の全生涯を象徴するような二字である。「紫翠」は、その「西国(畿内)」の「京都」の、そして、そこで、勉学・修練・作家活動(その六十九年の前半生)をし続けた、そのエポックとなる「御室・鳴滝」の、その「紫翠」(山紫水明)な「紫翠」であり、その「深省」とは、その家兄たる「光琳」(光り輝く一代の「法橋」たる芸術家「日向の光琳」)に対する「深省(その「光琳」の背後の「光背」のような「日陰の深省」)という、その意識の表れの号であろう。そして、「八十一写」とは、亡くなる寛保三年(一七四三)六月二日以前の作ということなる。≫

ここで、この『崋山画譜』に登場する人物群像を、凡そ、時代史的に整理すると、次のとおりとなる。

(桃山時代~徳川時代前期)

「光悦」=「本阿弥 光悦(永禄元年(1558年)~ 寛永14年2月3日(1637年2月27日))」→ 京都上層町衆・寛永三筆の一人・琳派の創始者。
「滝本坊」=「松花堂昭乗(天正10年(1582年)~ 寛永16年9月18日(1639年10月14日))→京都僧侶・寛永三筆の一人。

(徳川時代前期~中期)

「立圃」=「雛屋立圃(文禄4年〈1595年〉~ 寛文9年9月30日〈1669年10月24日〉)→ 京都俳人(貞門系俳人、非談林誹諧)・画家(「俳画」の祖?=「崋山俳画譜」)。
「一蝶」=「英 一蝶(承応元年(1652年)~ 享保9年1月13日(1724年2月7日)→江戸町人・芸人、蕉門俳人(其角の知己=其角系俳人)・画家。
「許六」=「森川 許六(明暦2(1656)~正徳5年(1715))→ 武家(彦根藩)・蕉門俳人(芭蕉十哲の一人)・画家。
「深省」=「尾形 乾山( 寛文3年(1663年)~ 寛保3年6月2日(1743年7月22日)→京都・江戸・佐野の陶芸家(尾形光琳=琳派の大成者の実弟) → 号の一つに「京兆逸民」→「逸民(艶《やさ》隠者)の系譜者」の自称者?

(徳川時代中期)

「蕪村」=「与謝 蕪村(享保元年(1716年)~天明3年12月25日(1784年1月17日))→ 江戸時代中期の俳人(「蕉門中興俳諧指導者の一人)、文人画(南画)家の大成者の一人。
「俳画」(「俳諧ものの草画」の第一人者=自称)。同時代の文献に、「逸民」との評がある。→「逸民((艶《やさ》隠者)の系譜者」の「画(文人画)・俳(俳諧中興指導者)」二道の大成者?

「蕪村は父祖の家産を破敗(ははい)し、身を洒々落洛(しゃしゃらくらく)の域に置きて、神仏聖賢の教えに遠ざかり、名を沽(う)りて俗を引く逸民なり」(『嗚呼俟草(おこたりぐさ)・田宮仲宣著』)

(徳川時代後期)

「崋山」→≪ 1793.9.16~1841.10.11
 江戸後期の三河国田原藩家老・南画家・蘭学者。名は定静(さだやす)。字は子安。通称登(のぼる)。崋山は号。田原藩士渡辺定通の子。江戸生れ。家計を助けるため画を学び,谷文晁(ぶんちょう)にみいだされて入門。沈南蘋(しんなんぴん)の影響をうけた花鳥画を描いたが,30歳頃から西洋画に心酔,西洋画の陰影表現と描線を主とした伝統的な表現を調和させ,独自の肖像画の様式を確立。「鷹見泉石像」(国宝)「市河米庵像」(重文)などを描き,洋画への傾倒や藩の海岸掛に任じられたことから蘭学研究に入り,小関三英(こせきさんえい)・高野長英(ちょうえい)らと交流しながら海外事情など新知識を摂取。これが幕府儒官林述斎(じゅつさい)とその一門の反感をかい,捕らえられて在所蟄居を命じられ(蛮社の獄),2年後自刃。≫(「出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」)→「俳画」というジャンルの命名者。

 「渡辺崋山」その人は、いささかも、「逸民」という言葉を弄していないが、「蛮社の獄」の「田原藩(故郷)蟄居」の、その晩年の最期にあたっても、「退役願書」の「至仕(ちし))」=「逸民」(隠遁者=)は許されず、自刃することとなる。


 ここで、改めて、「崋山俳画譜」の「俳画譜」の道筋というのは、その基本的なルートというのは、「立圃→深省(乾山)→蕪村→崋山」という流れということになる。
そして、この「深省(乾山)」の「俳諧」(発句=俳句・連句)というのは目にしないが、その「逸民」的な「文人画」(「大雅・蕪村」=大成者)の先駆者として、その画賛ものに、崋山は注目したというように解したい。


(参考その一) 漱石の「吾輩は猫である」(第二話・第三話)の「太平の逸民」周辺

file:///C:/Users/user/Downloads/CV_20230813_The_Basis_11_11.pdf

夏目漱石『吾輩は猫である』における「逸民」表象(斉 金英稿)

(抜粋)

≪1. はじめに
 夏目漱石『吾輩は猫である』(1905 年 1 月­1906 年 8 月『ホトトギス』に連載)が読者に提示しているのは、非凡な猫である「吾輩」が面白おかしく語り描く「太平の逸民」の世界である。この作品は日露戦争の真っ最中、激戦で多くの将兵が命を落としているという情報に接していた読者に提供され、ひと時の「太平」な時空に読者を誘い、愛読され、長期連載された。作品の凡そ半分が日露戦争中に発表された。まさに血腥い殺戮の隣で都々逸を踊る効果を持つ小説である。では、殺伐とした戦争と昂揚する戦時ナショナリズムとかけ離れた、吞気で滑稽な、「太平の逸民」の会合は、なぜそこまで読者を引きつけたのであろうか。この問題を追究するために、この作品の「逸民」について検証することが重要である。
(以下略)

2. 「逸民」とは
 中国の隠遁者の最初の列伝は『後漢書』に収められた「逸民列伝」5)である。この「逸民列伝」によると、「逸民」とは「我が道を守りとおすためには宮仕えを拒否する人物」や、
「官界、政治社会から逸脱した人々」であり、「自分の主義主張を貫くために」、「主君に仕えない」で、「政治社会から逸脱」していく知識人である。中国古来の隠遁思想の背景に政
治的抑圧や政局の不安定及び戦乱があり、生命の危険を感じ、あるいは自己の倫理的な節操
を守り抜くために本来仕官できる知識階級が仕官から身を退き、山野や田園で質素または貧乏な生活に甘んじることを志す。また、「仕官を望みながら、自分の主義主張をとおすために仕官から遠ざかる」「逸民」は、「はじめから仕官を拒否する『隠者』」7)と区別される場合もある。
つまり、「逸民」とは、明君のもとでの仕官なら望むが、政治的な暗黒時代では、節操、保身や消極的な政治的抵抗のために、政治社会の中心から物理的にまたは精神的に離れていく知識エリート階層のことを指している。このような意味で、「隠者」に比して「逸民」のほうがより一層政治に対する関心が強いと言える。「逸民」になること自体が消極的な社会批判として受け止めることができる。従って、「逸民」はより濃厚な社会性を示している。ただ、「隠者」と「逸民」は重なる部分が多く、同じ意味で解釈されている場合がほとんどである故、本稿では特にこの二つを厳密に区別しない。なお、「逸民」の形態も、山野に隠遁する、仕官せずに市井に隠遁する、仕官しながら政治社会的働きを極力減らして暮らすなどの様々なケースがある。
(以下略)かっこ

3. 日露戦争と「逸民」
3.1. 緊迫した年末年始と「逸民」
 要するに主人も寒月も迷亭も太平の逸民で、彼等は糸瓜の如く風に吹かれて超然と澄し切つて居る様なものゝ、其実は矢張り娑婆気もあり慾気もある。競争の念、勝たう勝たうの心は彼等が日常の談笑中にもちらちらとほのめいて、一歩進めば彼等が平常罵倒して居る俗骨共と一つ穴の動物になるのは猫より見て気の毒の至りである。只其言語動作が普通の半可通の如く、文切り形の厭味を帯びてないのは聊かの取り得でもあらう。(81­82 頁)
(以下略)

3.2. 苦沙弥の日記と日露戦争 (以下略)
3.3. 「不相変」の「太平の逸民の会合」(以下略)
4. 「逸民」というスタンス
4.1. 「偏屈」・「天然」 (以下略)
4.2. 「大和魂」批判 (以下略)
4.3. 「偏屈」という「隠れ蓑」(以下略)
4.4. 「天稟の奇人」たち (以下略)
5. 「吾輩」は「逸民」である
5.1.  非凡な「吾輩」  (以下略)
5.2. 「進化」する「吾輩」(以下略)
5.3. 「吾輩」の「逸民」的傾向
(前略)
 世俗的な「働き」は往々にして利己的な打算の前提で行われることが多いので、他人に害
を及ぼすことが多く、国家という共同体の利益も損なうことになる。だから、「働きのない」
ことが他人と国家に及ぼす害がかえって少なくて済む、というのが「吾輩」の論理だと思わ
れる。そこに人間世界と宇宙との調和への観照と消極的な社会批判が込められている。猫は
「逸民」が「無用な長物」だと「誹謗」されることを拒否し、「逸民」こそが「上等」だと
主張する。これは、「吾輩」がすでに「逸民」の精神的な真髄を感得する境地にまで「進化」
したことを示している。
6. 真の「太平」
(前略)
結局、「吾輩」はビールを飲んで死ぬ。「竹林の七賢」をはじめ、陶淵明、李白など、中国
の歴史上の多くの「逸民」たちが酒に生き、酒に死んでいたことを考えると、この死に方も
いかにも「逸民」らしい。水甕に沈んで藻掻いていたときも、彼の精神は働いていた。苦し
いのは、「上がれないのは知れ切つて」いながら、「甕から上へあがりたい」(567 頁)から
だと。そして、藻掻くことをあきらめた途端に感じたのは「楽」である。それは、「日月を
切り落し、天地を粉韲して不可思議の太平に入る」(568 頁)境地である。「吾輩」は死ぬこ
とで究極の「太平の逸民」になる。こうして、「吾輩」は自身の「逸民」としての精神と猫
としての身体の引き裂かれたアポリアを乗り越えるのである。≫

(参考その二) 漱石の「拙」の世界(周辺)

http://chikata.net/?p=2813

(抜粋)

≪ 木瓜咲くや漱石拙を守るべく

この句は、陶淵明の詩「帰園田居」に出てくる「守拙帰園田」(拙を守って園田に帰る)が下敷きにされています。陶淵明と異なるのは、漱石の故郷は田園ではなく、東京という都市だったということです。子規は『墨汁一滴』でこう書いています。

《 漱石の内は牛込の喜久井町で田圃からは一丁か二丁しかへだたつてゐない処である。漱石は子供の時からそこに成長したのだ。余は漱石と二人田圃を散歩して早稲田から関口の方へ往たが大方六月頃の事であつたらう、そこらの水田に植ゑられたばかりの苗がそよいで居るのは誠に善い心持であつた。この時余が驚いた事は、漱石は、我々が平生喰ふ所の米はこの苗の実である事を知らなかつたといふ事である。》(正岡子規『墨汁一滴』)

 つまり、漱石はそもそも稲の苗を見て「これは何の草だろう」という人なのです。そういう人間が、東京の高等師範学校の教師を辞職し、松山に一年、そして熊本へ赴任した自分に「拙を守るべく」と言い聞かせているわけです。この二重性に、漱石独自なユーモアが隠れているように思えます。

 この句の鑑賞は『草枕』にある次の一節が、度々引き合いに出されます。

《 木瓜は面白い花である。枝は頑固で、かつて曲った事がない。そんなら真直かと云うと、けっして真直でもない。ただ真直な短かい枝に、真直な短かい枝が、ある角度で衝突して、斜に構えつつ全体が出来上っている。そこへ、紅だか白だか要領を得ぬ花が安閑と咲く。柔らかい葉さえちらちら着ける。評して見ると木瓜は花のうちで、愚かにして悟ったものであろう。世間には拙を守ると云う人がある。この人が来世に生れ変るときっと木瓜になる。余も木瓜になりたい。》(夏目漱石『草枕』)

(以下略)  ≫
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渡辺崋山の「俳画譜」(『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』) [渡辺崋山の世界]

(その十) 『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』の「渡辺崋山(「序」と鈴木三岳「跋」」)」周辺

俳画譜一.jpg

(左図:「俳画譜」(『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』の「序」=「游戯三昧 小舟題(渡辺崋山画・賛・跋)」の「跋」)
(右図): (『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』の「跋」)

 この(左図:「俳画譜」(『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』の「序」は、その原本の「(題籢)游戯三昧 小舟題(渡辺崋山画・賛・跋)」(「俳画譜(崋山作・紙本墨画淡彩 29.0×32.3㎝)」)の「跋文」(崋山自跋)で、その「跋文」(崋山自跋)を「序」にしている。
 そして、上記の(右図): (『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』の「跋」)は、この編者の「鈴木三岳」の「跋文」で、その「跋文」によると、田原蟄居中の崋山に俳画の指導を受けていた三岳に、その手本として恵与したものとしるされており、それらの原本を基にして、崋山没後の、嘉永二年(一八四九)に、鈴木三岳が版行したものということになる。
 この嘉永二年(一八四九)は、崋山が自刃した、天保十二年(一八四一)の、八年後のことなのだが、崋山は罪人としての自刃であり、崋山の墓の建立は許されず、幕府が崋山の名誉回復と墓の建立とを許可したのは、幕府滅亡直前の慶応四年(一八六八)と、この「崋山俳画譜」が版行されてからも、十九年の後ということになる。

俳画譜二.jpg

(左図:「俳画譜」(『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』)=「蕪村《遊舞図》」(蕪村写意/夜半翁画ハ古澗(こかん)/ノ意ヲ取ニ似タリ)
https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/bunko31/bunko31_a1175/index.html
https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko31/bunko31_a1175/bunko31_a1175_p0009.jpg
(右図): 「游戯三昧 小舟題(渡辺崋山画・賛・跋)」の「蕪村《相聞図》」(蕪村写意/夜半翁画ハ古澗(こかん)/ノ意ヲ取ニ似タリ) (『俳人の書画美術11 江戸の画人(鈴木進執筆・集英社))』所収「図版資料(森川昭稿)」など)

「游戯三昧 小舟題(渡辺崋山画・賛・跋)」(原本)と『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』(版本)との関係などについては、下記のアドレスで触れた。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-08-02

(再掲)

≪(補記その三) 「游戯三昧 小舟題(渡辺崋山画・賛・跋)」(原本)と『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』(版本)との関係

「游戯三昧 小舟題(渡辺崋山画・賛・跋)」(原本)の内容(『俳人の書画美術11 江戸の画人(鈴木進執筆・集英社))』所収「図版資料(森川昭稿)」)と『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』(版本)との相互関連

「游戯三昧 小舟題(渡辺崋山画・賛・跋)」(原本)の内容(順序)

(題籢) 游戯三昧 小舟題
(画一) 団扇と蛍図
(画二) 田草取図
(画三) 燈下読書図 立圃画意 →『崋山画譜』(版本)の(画二)
(画四) 朝顔図 →       『崋山画譜』(版本)の(画七)
(画五) 釣瓶と鶯図 一蝶画題 →『崋山画譜』(版本)の(画四)
(画六) 狩衣人物図
(画七) 狐面図
(画八) 籠に雀図
(画九) 祈祷図
(画十) 茄子図 松花堂画法 →『崋山画譜』(版本)の(画一)
(画十一)游舞図 →『崋山画譜』(版本)の(画六)に、(画十四)の賛(蕪村写意)を用いる。
(画十二)夕立図 →『崋山画譜』(版本)の(画八)
(画十三)枯木宿鳥図 許六写意 →『崋山画譜』(版本)の(画五)
(画十四)相聞図 蕪村写意→「賛」(蕪村写意と賛文)のみ『崋山画譜』(版本)の(画六)に。
(画十五)梅樹図 光悦写生→『崋山画譜』(版本)の(画三)
(跋)  →        『崋山画譜』(版本)の(序)

『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』(版本)の内容(順序)

『崋山画譜』(版本)の(序) →「游戯三昧 小舟題」(原本)の「跋」文
『同』(版本)の(画一)   →「同」(原本)の「画十」(茄子図 松花堂画法) 
『同』(版本)の(画二)   →「同」(原本)の「画三」(燈下読書図 立圃画意)
『同』(版本)の(画三)   →「同」(原本)の「画十五」(梅樹図 光悦写生)
『同』(版本)の(画四)   →「同」(原本)の「画五」(釣瓶と鶯図 一蝶画題)
『同』(版本)の(画五)   →「同」(原本)の「画十三」(枯木宿鳥図 許六写意)
『同』(版本)の(画六)→「同」(原本)の「画十一・游舞図」と「画十四・蕪村写意と賛文」
『同』(版本)の(画七)   →「同」(原本)の「画四」(朝顔図と崋山の句)
『同』(版本)の(画八)   →「同」(原本)の「画十二」(夕立図と崋山の句)
『同』(版本)の(跋=編者・鈴木三岳の「跋」文)    

『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』(版本)

https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/bunko31/bunko31_a1175/index.html

[出版地不明] : [出版者不明], 嘉永2[1849]跋
1帖 ; 29.0×15.5cm
書名は題簽による 扉題:崋山翁俳画/椎屋蔵板 色刷/折本   ≫

 ここで、≪「のぼり」と「のぼる」―俳句・雑俳・狂歌・軟文学の世界に遊ぶ崋山の使い分け―(「おもしろ日本美術3」No.9)≫と≪渡辺崋山の草体画(3)―背景に天下泰平、江戸後期の洒落本・軟文学流行の世情―(「おもしろ日本美術3」No.7)≫ちを、(参考)として、抜粋して置きたい。

(参考) 「のぼり」と「のぼる」―俳句・雑俳・狂歌・軟文学の世界に遊ぶ崋山の使い分け―(「おもしろ日本美術3」No.9)と「渡辺崋山の草体画(3)―背景に天下泰平、江戸後期の洒落本・軟文学流行の世情―(「おもしろ日本美術3」No.7

http://www.bios-japan.jp/omoshiro9.html

「のぼり」と「のぼる」―俳句・雑俳・狂歌・軟文学の世界に遊ぶ崋山の使い分け―(「おもしろ日本美術3」No.9)

(抜粋)

≪ 渡辺崋山は、「客坐掌記」と通称する手控冊をこまめに記しており、それが亡くなった時には背の高さまであったと言う。

用途から、自らの本画の小下絵を収録した小下絵冊、各地各所で寓目した書画を記録として写し留めた過眼録、さらに今でいう純粋な写生冊と、大きく三種類に分類できる。画家の貴重な制作記録となる小下絵冊としては、『辛己画稿』(一八二一)、『壬午図稿』(一八二二)、『辛卯稿』(一八三一)などが数点知られている。これらを除いた大半が、寓目・過眼の記録冊であり、千葉県の素封家浜口家所蔵の二十冊の『客坐縮写』もその一部である。冊中には草筆のクロッキーや俳画に通じる洒落た略筆画も数多く出てくる。浜口家の客坐掌記の内の一つに、松崎慊堂の誕生日の宴のスケッチがあるが、その経緯が『慊堂日暦』中にも記されていて、そのあまりの迫真さに驚いたとの慊堂のコメントもある。

『客参録』『全楽堂日録』は、過眼録の一種であるが、むしろ紀行画文冊(旅行記)というべきもので、片や崋山が藩主に随って国元田原まで赴いた時の、また片や日光奉行に任命された藩主に随行して日光を訪れた時の記録である。前者は、隊列の中に馬に乗った自分自身をも描き、「渡辺登」と注記している。どちらも洒脱な筆でのびのびと活写している。

さて、かつてコロタイプの複製も作られた『刀禰游記』なる紀行画巻がある。代表作『四州真景』を描かれた文政八年(一八二五)崋山三十三歳の同時期の作品で、世話になった銚子の大里桂丸に贈った一巻と自らの手元においた一巻の正副二本が知られている。前者は、崋山歿後百年祭記念の『錦心図譜』掲載の一本であり(作品番号七九)、大里家にそのまま伝えられていたが、戦災で焼失してしまったという。後者は、『藝苑叢書』中の一冊として二分の一大の複製が作られておりその詳細を窺い知ることができる。

両本とも、その書体が崋山らしくないということで、一部に否定する向きもあったが、そこで紐解くべきは、当時、文政八年の手控冊類であった。幸い浜口家の二十冊のまとまった『客坐縮写』中、その「第五」は、船の舳先の図から旅行の記録が展開され、ずばり、この『刀禰游記』はもとより、名宝『四州真景』の成立にもつながる貴重な房総旅行の紀行日誌である。

冊中、崋山が銚子の豪商豊後屋に逗留し、所蔵のコレクション等を模写する中、なんと三十九頁にも亘って情熱的に描きとめた一図に、宝井其角(一六六一~一七○七)の『一瞬行』(「舛屋源之丞持ち来たる」とある)の写しがある。これを見るかぎり、『刀禰游記』のその特徴的な書体は、「乱筆は神仏ののりうつりかきしとかヲ云」と崋山が評する其角の螺旋バネのような筆跡に似せたものと判明。しかも、後者の詞書中、「前橋風土記云刀根川出於士峯西越後界」との『翎毛虫魚冊』などの註記にも共通する崋山の見慣れた階書の註記四行が織り込まれ、正しく崋山真筆との自己アピールが添えられている。

なお、『一瞬行』そのものは、確かに其角の元禄十年秋の事蹟として『句空庵随筆』に記載があるものの、元禄十二年の江戸大火で日記・句稿が焼失し、その復元作業の中で、同十四年二月刊行された著作集『焦尾琴』(同年初版、寛保三年再版)の内に、これを再編成したものとして、「早舟の記」との名で収録されている。内容は、「一日琴風亭に遊んで二丁こぐ舟の」と、琴風亭を訪れた其角が、中国赤壁の故事にならって風雅な隅田川の舟遊びをした、その折の感興を綴った句文である。

そこで、改めて崋山の『刀禰游記』にスポットを当てると、巻末には「文政乙酉のとし仲秋、良夜たまたま雲はれて、すぎし遊びを思い出し、忘れぬうちに其あらましを記し、大里ぬしの一笑を博むといふ。わたなべのぼる」とあり、銚子逗留中の崋山は、ふとしたことから土地の富豪大里桂麿と近づきとなり、俳人蓬堂を加えた三人で利根川に舟を浮かべて十五夜の月を江上に同様な遊びを楽しんだものと判る。江戸に戻った崋山が九月十五日、仲秋の名月にこれを回想して画巻にまとめ、世話になった大里氏に旅の恩義の答礼として贈ったとの次第であろう。

カットの一は崋山が桂麿に所蔵の書画を見せてもらい美術談義に花を咲かすところ、二は崋山と桂麿が俳人蓬堂を誘い出すところ、三は利根川対岸の景色、四は小舟の中で盃片手に悦に入っているところの計四図である。 (文星芸術大学 上野 憲示)  ≫

http://www.bios-japan.jp/omoshiro7.html

渡辺崋山の草体画(3)―背景に天下泰平、江戸後期の洒落本・軟文学流行の世情―(「おもしろ日本美術3」No.7)

≪ 崋山は、残された書簡・記録類からは、生来のまじめ人間と知れるが、少々突っぱってまじめに「不まじめ」を行うという一面があった。もちろん、文人仲間のサロンや北関東、東海地方の数寄者との遊興の集いの中で、自然と身に備わったものであるが、気の置けない後輩や弟子たちに対しては、人生の先輩カゼを吹かせての偽悪的なポーズを見せることもあった。

『校書図』は、ひいきの芸妓お竹をモデルに少々スノビッシュに描いたもので、「飲啄、牝牡之欲ノ無キ者ハ人二非ラズ也・・・因リテ予ノ愛妓ヲ写シ、顕斎二寄ス。顕斎與予ハ同好也否」と気負った戯文を画中に添えて門人平井顕斎に与えている。

そもそも崋山は、師匠の桃隣が春本を書いていたこともあってか、若い頃から生活のため春画を描くことがあったようである。『寓画堂日記』に「模春画」「画春画」「描春画」の文字が散見し、後の手控えにも「合歓図」の模写などが認められる。

関東大震災で本画が焼失した「品川清遊図」(文晁、抱一、崋山の三人連れが品川の妓楼に遊んだ時の情景)なども、今となっては真贋を論じるすべもないが、文晁、抱一の逸話の数々と照らしても十分考え得る設定ではあり、残された写真カットに見る筆力も凡庸ではない。

当時、遊里は公認の歓楽街であり、宿場に飯盛女はつきものであり、そこで遊ぶことに対しては、男振りを上げはすれども決して後ろめたい行為ではなく、何人も大仰に構えずに気楽に現世を謳歌していたのである。

崋山は、売春行為に対しては、「何分御領分風俗悪敷相成、大ニ御政事御繁多ニて御行届無之・・とその弊害を認めつつ、「大国ニハナケレバナラヌ者と奉存候。又他の金銀ヲ引よせ候一術に候」と必要悪と考えていた。「織女ハ抱女故ニ夜私ニかせき候事ハ大目ニ見」、「織屋さへ多く出来候得ばウチ置ても如此相成とのよし」との便法も崋山ならではであろう(田原藩士宛書簡『崋山書簡集』36)。

なお、重要美術品の指定を受けながらも、先学菅沼貞三氏の否定論を受け所在不明となった幻の名品、『目黒詣』については再評価の時が来ていると信じたい。同作品は、文政十二年十月十四日、渡辺崋山が田原藩の同僚、鈴木修賢、鷹見定美、上田正平と、連れ添って目黒へ物見遊山に出かけた折の挿図入り戯文画巻である。落款は、漢字で“渡辺登”とある。

初冬のある日、崋山ら四人は、藩主から、たまにはゆっくり遊山でもして来いとばかり、一日の特別休暇を許された。忙しい藩務から久々に解放ざれ、「いのちありて小春に遊ぶ牡の蝶」の崋山の句のとおり、まさに命の洗濯といったものであった。酒肴を担いで目黒方面を散策し、酒亭「ひちりき」で酒宴を張り、最後は藩主へのおみやげを担いで千鳥足で家路へ向かうといった次第、挿入の狂歌は「みなひとの酔へば臥すともひちりきやねの高きにも驚かれぬる」「枝笛によい婦もあってひちりきや人目多うて笙琴もなし」と、管楽器の「ひちりき」に懸けて、料亭「ひちりき」が値の高さと、お互いの目があってはめを外せないさまを皮肉る。帰りの道すがら、貰った柿の実を、喉が乾いたから食べてしまおうかと軽口も出る。藩公へ土産として買ったものゆえまかりならぬと押し留めると、さらに一人が、しゃあ、しぶき、すなわちおしっこでも飲もうかと、おどける。こんな楽しい戯文の画巻である。が、忠孝の士と名高い崋山にあって、主君に関することで決してこんな下品な表現はあり得ないといった批判も当然出てくるが、俳聖芭蕉にも、「蚤虱 馬の尿する枕もと」の有名な句がある。

挿画は七図で、軽妙な草筆の飄々とした味わい深い戯画である。担ぎ棒の先に弁当、後ろに酒を満たしたふくべを吊して軽快に歩む上田の図。茅屋図。薄の茂る野で足を止め、遠慮無く呑めるぞとばかりふくべの酒をがぶ呑みする上田、独り呑ませてなるかとこれを制する鈴木、弁当に箸をつける崋山、酒なぞ呑み飽きたとばかり超然としている鷹見と四人四様の光景。酔いが回って小川の前で立ち往生する上田の図。迷い出たところの草庵の娘に道を尋ねる図。目黒の酒亭「ひちりき」での宴席の光景。藩主へのみやげを上田と鷹見で軽口を言い合いながら担ぎ、鈴木の持つ提燈が燃え出して崋山がこれを急ぎ消し止めようといった帰り道での酩酊状態の四人の図。

以上の展開であるが、天保三年の『客坐掌記』に見る勧進能の場の弁当売りや茶売りの速筆写生との共通点も十分に認められ、またその書も、草書はもちろん、巻末近くの七絶の漢詩の行書風の書はまさに崋山その人の執筆と頷かせるものである。

私としては、崋山真筆の可能性が高いものとみて、さらに地道な検討を続けることに努めたい。 (文星芸術大学 上野 憲示)

品川清遊図.jpg

「品川清遊図」

「目黒詣図」


目黒詣図一.jpg

http://www.bios-japan.jp/omoshiro7.html

http://www.bios-japan.jp/omoshiro9.html


目黒詣図二.jpg


『校書図』


校書図.jpg

http://www.bios-japan.jp/omoshiro7.html            ≫
http://blog2.hix05.com/2021/03/post-5723.html

≪「校書」とは芸者のこと。中国の故事に、芸妓は余暇に文書を校正するという話があることに基づく。崋山といえば、謹厳実直な印象が強く、芸者遊びをするようには、とても思えないが、この図には、崋山らしい皮肉が込められている。
 画面左上に付された賛には、概略次のような記載がある。「髪に玉櫛金笄を去り、面に粉黛を施さず、身に軽衣を纏うて、恰も雨後の蓮を見るようだ」と。これに加えて、近頃は世が豪奢を禁じたと言う指摘あがる。つまりこの絵は、世の中が窮屈になって、芸者も質素な身なりを強いられていることを、揶揄しているとも考えられるのである。
 いわゆる天保の改革が本格化するのは天保十二年のことで、日本中に倹約精神が求められた。この絵が描かれたのは天保九年のことだから、まだ改革は本格化してはいなかったが、一般庶民への強制に先だって、芸者や河原ものへの抑圧は高まっていたようだ。そうした社会的な抑圧は、社会の底辺部にいるものから始まって、次第に一般庶民を巻き込んでいくものだ。崋山は、そうしたいやな時代の流れを敏感に受け取っていたのであろう。≫(「続壺齋話」)
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渡辺崋山の「俳画譜」(『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』) [渡辺崋山の世界]

(その九) 『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』の「渡辺崋山(「夕立図」)」

渡辺崋山(「夕立図」.jpg

https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko31/bunko31_a1175/bunko31_a1175.html

https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko31/bunko31_a1175/bunko31_a1175_p0011.jpg

≪「鳶乃香もいふたつかたになまくさし」の意味は、天空を飛んでゆく鳶の香も、地上にある物の香りも、夕立が通っていく方向に、なま臭い感じをさせて移ってゆく、というような意味で、夏の夕立の湿気を感覚的に捉えたものであろう。 ≫(『渡辺崋山の神髄(平成30年度特別展・田原市博物館編)』所収「図版解説63」)

 この「夕立図」は、何とも、当時の、幽閉中の「渡辺崋山」その人を暗示しているような、そんな印象を深くさせる。これは、「夕立ち」の中の、馬上の武士(崋山その人)と、その従者の図と解してよかろう。そして、その「夕立図」に賛した、その自画賛の一句、「鳶乃香もいふた(だ)つかたになまく(ぐ)さし」の、「なまく(ぐ)さし」というのは、渡辺崋山が連座した、所謂、天保一〇年(一八三九)の、「蛮社の獄」(江戸幕府が洋学者のグループ尚歯会に加えた弾圧事件)などの、当時の江戸幕府の文教をつかさどる林家出身の目付・鳥居耀蔵などの暗躍を指しているようにも思われる。
 この「蛮社の獄」により、渡辺崋山は、「国許(田原藩)蟄居(ちつきよ)」を命ぜられ、その二年後の、天保十二年(一八四一)十月十一日、藩に迷惑が及ぶことを恐れた崋山は「不忠不孝渡辺登」の絶筆の書を遺して、池ノ原屋敷の納屋にて切腹し、その四十九年の生涯を閉じることとなる。

「渡辺崋山(略年譜)」(「公益財団法人崋山会」など)

https://www.kazankai.jp/kazan_history.php

寛政5年(1793)1歳 9月16日、江戸麹町田原藩上屋敷に生まれる。
寛政7年(1795)3歳 妹茂登生まれる。
寛政9年(1797)5歳 この年、軽い天然痘にかかる。
寛政12年(1800)8歳 若君亀吉のお伽役(おかやく)になる。妹まき生まれる。
享和元年(1801)9歳 最初の絵の師、平山文鏡(田原藩士)亡くなる。
享和3年(1803)11歳 弟熊次郎生まれる。
文化元年(1804)12歳 日本橋で備前侯行列に当り、乱暴を受け発奮する。
文化2年(1805)13歳 鷹見星皐に入門し、儒学を学ぶ。弟喜平次生まれる。
文化3年(1806)14歳 若君元吉(後の康和)のお伽役になる。
文化4年(1807)15歳 弟助右ヱ門生まれる。
文化5年(1808)16歳 絵師白川芝山に入門する。星皐より華山の号を受ける。藩主康友に従って田原に滞在する。
文化6年(1809)17歳 金子金陵に絵を学ぶ。金陵の紹介により谷文晁に絵を学ぶ。
文化7年(1810)18歳 田原に藩校「成章館」創立。妹つぎ生まれる。
文化8年(1811)19歳 佐藤一斎から儒学を学ぶ。
文化10年(1813)21歳 妹つぎ亡くなる。
文化11年(1814)22歳 納戸役になる。絵事甲乙会を結成し、画名が世に知られる。
文化13年(1816)24歳 弟五郎生まれる。
文化14年(1817)25歳 父定通、家老となる。
文政元年(1818)26歳 正月、藩政改革の意見を発表。長崎遊学を希望したが父の反対のため断念する。「一掃百態図」を描く。 藩主康友に従って田原に滞在する。
文政2年(1819)27歳 江戸日本橋百川楼で書画会を開く。
文政6年(1823)31歳 和田たかと結婚する。「心の掟」を定める。
文政7年(1824)32歳 7月、家督する。父定通亡くなる。
文政8年(1825)33歳 この年から松崎慊堂(まつざきこうどう)に儒学を学ぶ。
文政9年(1826)34歳 江戸宿舎にてオランダ使節ビュルゲルと対談。長女可津生まれる。この頃から画号「華山」を「崋山」と改める。
文政10年(1827)35歳 10月、三宅友信に従い田原に来る。
文政11年(1828)36歳 「日省課目」を定め修養に努める。側用人となり、友信の傅を兼ねる。
文政12年(1829)37歳 三宅家家譜編集を命ぜられる。弟喜平次亡くなる。
天保元年(1830)38歳 埼玉県尻に三宅氏遺跡を調査し、のちに「訪録」を書く。弟熊次郎亡くなる。
天保2年(1831)39歳 江戸藩邸文武稽古掛指南世話役となる。妹まき亡くなる。9月から門弟高木梧庵を伴い厚木を旅し「游相日記」を書き、10月、桐生、足利、尻地方に旅し「毛武游記」を書く。
天保3年(1832)40歳 家老となる。紀州藩破船流木掠取事件、助郷免除事件あり。長男立生まれる。
天保4年(1833)41歳 1月、家譜編集などのため田原に来て、「参海雑志」を書く。
天保5年(1834)42歳 幕命の新田干拓中止の願書を上申。農学者大蔵永常を田原藩に招く。
天保6年(1835)43歳 報民倉竣工。二男諧(後の小華)生まれる。
天保7年(1836)44歳 田原地方が大飢饉になる。
天保8年(1837)45歳 真木定前を田原に遣し、飢餓を救う。年末、無人島渡航を藩主に願うが許されず。「鷹見泉石像」を描く。弟五郎亡くなる。
天保9年(1838)46歳 年初、「退役願書稿」を書く。蔵書画幅を藩主に献上する。「鴃舌或問」、「慎機論」を著す。儒者の伊藤鳳山を田原藩に招く。
天保10年(1839)47歳 江戸湾測量で伊豆の代官江川坦庵に、人材器具を援助する。5月14日、蛮社の獄により北町奉行所揚屋入りとなる。12月18日、田原蟄居の申渡しを受ける。
天保11年(1840)48歳 1月20日、田原着。2月12日、池ノ原屋敷に蟄居。
天保12年(1841)49歳 10月11日自刃する。

 ちなみに、この「崋山俳画譜」を、嘉永二年(一八四九)に版行した、「鈴木三岳」(一七九二~一八四五)は、当時の吉田藩(現豊橋市)の御用達商人で、味噌溜の醸造業を営み、田原蟄居中の崋山に俳画の指導を受けていたという、崋山没後のものなのである。(『渡辺崋山の神髄―田原市博物館 平成30年度特別展』)

 また、こ「崋山俳画譜」中の、二枚の、崋山の自賛句入りの俳画の、「渡辺崋山(朝顔図)」(朝皃は下手のかくさへあはれなり)が、「朝顔図に朝顔の句」の、所謂、「べた付け」に対して、この「渡辺崋山(「夕立図」)」(鳶乃香もいふたつかたになまくさし)の、「夕立ち図に鳶の句」は、所謂、「匂い付け」のものということになる。

(参考)「べた付け」(「物付け」)と「匂い付け」(「心付け・余情付け」)周辺

http://www5a.biglobe.ne.jp/~RENKU/nmn17.htm

【歌仙・付けの種類】

二条良基の『僻連抄』(1345 ?)による最古文献による分類は15。平付の句(ひらつけのく)、四手(よつで)、景気(けいき)、心付(こころづけ)、詞付(ことばづけ)、埋句(うづみく)、余情(よせい)、相対(あいたい)、引違(ひきちがい)、隠題(かくしだい)、本歌(ほんか)、本説(ほんぜつ)、名所、異物、狂句(きょうく)。ただしこれは付けの態度、表現、題材による分類が混在したもの。その後宗祇(-1502)の分類を経て、宗牧(-1545)が『四道九品』(しどうくほん)で、付けの態度を中心に添(てん)、随(ずい)、放(ほう)、逆(ぎゃく)の4つに大別したのが画期的だったがあまり普及しませんでした。
 蕉風の付合(つけあい)に至った過程については、『去来抄』の説、「先師曰く、発句はむかしよりさまざま替り侍れど、付句は三変也。むかしは付物を専らとす。中頃は心付を専らとす。今は、移り、響、匂ひ、位を以て付くるをよしとす。」が革命的で、今日芭蕉を讃える源泉となっています。

 つまり貞門時代が物付(ものづけ)、談林時代が心付(こころづけ)、いまの蕉門時代が余情付(よじょうづけ)または匂い付けと奥行を広げたことになります。

<物付> 歌いづれ小町をどりや伊勢踊   貞徳  
   どこの盆にはおりやるつらゆき   同 

小町+伊勢→貫之、踊→盆、というように前句のことばや物によって付ける。

<心付> 子をいだきつつのり物のうち    宗因  
       度々の嫁入りするは恥知らず    同

前句のあらわす全体の意味や心持ちに応じて付ける、すなわち句意付けです。

<余情付> 移り(うつり)、響(ひびき)、匂ひ(におい)、位(くらい)の付けは、すべて広くいえば心付に含まれるが、談林風の心付が前句の意味内容に応じたものであったのに対して、蕉風のそれは前句の気分、余情、風韻を把握し、それに応え合い、響き合うものを付ける、これが余情付です。
 付句を付けるというのは、まず付合(付けの種類)を物付にするか、句意付にするか、余情付にするかを決め、次に付心(つけごころ、付けの手法・態度)を決め、付所(付けの狙いどころと手がかり)を探してから、瞬時考えて句を作るという感覚的で、時には禅に通ずる暝想的な作業であり、その結果が付味(付けの効果)になります。
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渡辺崋山の「俳画譜」(『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』) [渡辺崋山の世界]

(その八) 『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』の「渡辺崋山(朝顔図)」

渡辺崋山(朝顔図).jpg

https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko31/bunko31_a1175/bunko31_a1175.html
https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko31/bunko31_a1175/bunko31_a1175_p0010.jpg
≪「渡辺崋山(朝顔図)」(朝皃は下手のかくさへあはれなり)≫(『俳人の書画美術11 江戸の画人(鈴木進執筆・集英社))』所収「図版資料(森川昭稿)」に由っている。

https://www.taharamuseum.gr.jp/exhibition/2018/ex180908/index2.html

https://www.taharamuseum.gr.jp/exhibition/2006/ex060428/index2.html

≪●俳画冊 渡辺崋山
全24図で二帖からなり、俳句に俳画が添えられている。崋山は、二十代から俳諧師太白堂と親交があり、崋山自身も俳諧をよくした。弟子の鈴木三岳に与えた『俳画譜』の俳画論の中で、上手に描こうと思う心はかんばしくなく、なるべく下手に描くように指導している。精巧な表現で描くことより、省筆により単純な表現が趣や余韻を生むことが描く人の人格により見る者に訴えかけることを伝えたかったのであろう。崋山自身が日常に身の回りで眼にしたものを題材に自由奔放な精神が俳句に表現されている。落款もなく、年代を特定するのが困難だが、天保年間と考えたい。明復こと松崎慊堂(1771~1844)の題字「最楽」が添えられている。
●各図の俳句
飛込むで月日落つく花乃春
鳶乃輪の中に蠢く田打かな
青柳をしらぬ御顔や角大師
穂かきして浮世かなしや夕紅葉
板の間の釘もひかるや夜のさむみ
紙子着てねぎきる役にあたりけり
削掛重荷おろせしひとたばこ
五左衛門に明日の道問ふ董かな
夏の月駱駝の小屋のとれしあと
行秋や薪一把も庭ふさげ
襟さむしこんな夕にさへ雁ハ行
大雪や鼠ひと声ひるすぎる

鶯乃身はくれて居てなきにけり
留守とおもへばくさめする五月あめ
河鹿啼や木乃間ノ月ニ渉わたり
谷川も人は通らず渡る鷹
竹の根に水さらさらとしぐれけり
それは我師走乃句なりいそげ人
吸ものの上を渡るや春の鐘
草花やともすれば人の垣のぞき
有明や谷川渡る旅からす
枯柳乞食のくさめ聞へけり
霜乃月山樹のとげも見へに遣理(けり)
大井川に喧嘩もなくてしぐれけり    ≫(「田原市博物館」)

崋山俳画一.jpg

上図―右 飛込むで月日落つく花乃春
上図―左 留守とおもへばくさめする五月あめ
中図―右 鶯乃身はくれて居てなきにけり
中図―左 青柳をしらぬ御顔や角大師
下図―右 鳶乃輪の中に蠢く田打かな
下図―左 河鹿啼や木乃間ノ月ニ渉わたり
(『渡辺崋山の神髄(平成30年度特別展・田原市博物館編)』)

崋山俳画二.jpg

上図―右 穂かきして浮世かなしや夕紅葉
上図―左 竹の根に水さらさらとしぐれけり
中図―右 谷川も人は通らず渡る鷹
中図―左 紙子着てねぎきる役にあたりけり
下図―右 板の間の釘もひかるや夜のさむみ
下図―左 それは我師走乃句なりいそげ人
(『渡辺崋山の神髄(平成30年度特別展・田原市博物館編)』)

崋山俳画三.jpg

上図―右 削掛重荷おろせしひとたばこ
上図―左 草花やともすれば人の垣のぞき
中図―右 吸ものの上を渡るや春の鐘
中図―左 夏の月駱駝の小屋のとれしあと
下図―右 五左衛門に明日の道問ふ董かな
下図―左 有明や谷川渡る旅からす
(『渡辺崋山の神髄(平成30年度特別展・田原市博物館編)』)

崋山俳画四.jpg

上図―右 行秋や薪一把も庭ふさげ
上図―左 霜乃月山樹のとげも見へに遣理(けり)
中図―右 枯柳乞食のくさめ聞へけり
中図―左 大井川に喧嘩もなくてしぐれけり
下図―右 襟さむしこんな夕にさへ雁ハ行
下図―左 大雪や鼠ひと声ひるすぎる
(『渡辺崋山の神髄(平成30年度特別展・田原市博物館編)』)

 冒頭の、≪「渡辺崋山(朝顔図)」(朝皃は下手のかくさへあはれなり)≫の、「朝皃は下手のかくさへあはれなり」の、「下手」は、「画人」(「玄人絵師」)の「上手」(「画技」=「技」)に対する、「文人」(「素人絵師」)の「下手」(「技・巧」ではなく「心・拙」)こそ、それこそが「あはれ」(「もののあはれ」=「情趣」の世界)に通ずるというようなことを、崋山は、この一枚の「朝顔図」と「自賛句」に託しているように思われる。
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渡辺崋山の「俳画譜」(『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』) [渡辺崋山の世界]

(その七) 『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』の「野々口立圃(燈下読書)」

野々口立圃《燈下読書図.jpg

『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』の「野々口立圃《燈下読書図》」」(「早稲田大学図書館蔵」)
https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/bunko31/bunko31_a1175/index.html
https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko31/bunko31_a1175/bunko31_a1175_p0005.jpg

≪「燈下読書図」立圃画意 雛屋ハ松花堂ニ/辯香スルニ似タリ ≫(『俳人の書画美術11 江戸の画人(鈴木進執筆・集英社))』所収「図版資料(森川昭稿)」に由っている。)

≪ 立圃は俳諧をよくし、俳画としての作品もかなり世に遺っている。「松花堂ニ/辯香スルニ似タリ」と評されているが、既に松花堂の風韻は著しく、洒脱に、軽妙に転化されているのである。立圃の作品に「休息三十六歌仙」がある。歌仙を休息のていたらくに描き、俳諧をそえて歌仙画巻の形式をとった俳諧的気分にあふれている。 ≫(『俳人の書画美術11 江戸の画人(鈴木進執筆・集英社))』所収「図版資料(森川昭稿)」に由っている。)

野々口立圃筆兼好法師自画賛.jpg

「野々口立圃筆兼好法師自画賛」(作者:野々口(雛屋)立圃)( 「慶應義塾(センチュリー赤尾コレクション)」)
https://objecthub.keio.ac.jp/ja/object/1782
≪ 野々口立圃〈ののぐちりゅうほ・1595-1669〉は、江戸時代初期の俳諧師。名は親重(ちかしげ)、紅染めの名人としても知られ、紅屋庄右衛門という通称もある。松翁・松斎の別号がある。京都に出て雛人形の細工を業としたため、雛屋立圃(ひなやりゅうほ)の名で親しまれた。松永貞徳〈まつながていとく・1571-1654〉に俳諧を学び、貞門七俳仙に名を連ねる。中でも立圃と松江維舟〈まつえいしゅう・1602-1680〉はとくに傑出して貞門二客と称された。俳諧のほかに、連歌・和歌・書・画・和学などにも通暁、多才な人であった。和歌を烏丸光広〈からすまるみつひろ・1579-1638〉、画を狩野探幽〈かのうたんゆう・1602-1674〉に学んだ。書は青蓮院流(尊朝流)を学び、堂上公卿とも親交をもった。吉田兼好〈よしだけんこう・1283?-1350?〉はその著『徒然草』第13段に「ひとり灯のもとに書物をひろげて、見も知らぬ昔の人を友とすることこそ、この上なく心の慰むことである」と語る。
 この図は、その原文の部分に加えて、「その兼好法師自身でさえ、はるか遠い昔の人となってしまった。人の命は花のようにはいかないものよ」という立圃自詠の一句を添えて賛とし、灯火に読書する兼好法師の姿を描いたものである。俳画の先駆ともいうべき新境地を拓いた立圃の面目躍如たる自画賛である。軽妙洒脱な筆であらわされた兼好像は、あるいは、立圃の自画像であったのではなかろうか。

ひとりともし火のもとに文をひろげて見ぬ世の人を友とするなん、こよなうなぐさむわざなれ。といひし人も見ぬ世の人となれり。見る人も花よ見ぬ世のふる反古 ≫( 「慶應義塾(センチュリー赤尾コレクション)」)

https://www.wul.waseda.ac.jp/TENJI/virtual/juni/

(抜粋)

「野々口立圃撰並画 寛文6年(1666) 自筆」(1巻 25.2×342.5cm)(「早稲田図書館蔵」)

≪ 貞門の俳人、野々口立圃(1595-1669)の自筆句合画巻。十二支の動物に装束を着せて一対ずつ左右に向かわせ、立圃自作の発句を合わせたもの。動物の組み合わせは、辰と戌、巳と亥のように、7番目同士を合わせる「七ツ目」というめでたい組み方で配列されている。最初の辰と戌の組には、辰に「夕立の水上いづこたつの口」、戌に「犬山やふるもまだらの雪の色」とある。奥書に「七十二老」とあり、寛文6年(1666)の染筆とわかる。
 立圃は松江重頼と並び称された貞門の重鎮。のち貞徳のもとをはなれ一流派をひらいた。雛人形屋を業とし、若くして連歌・和歌・書を学んだ。絵は晩年の習事と伝えるが、「書画は習はずして自由自在に書ちらし」(『立圃追悼集』)とも見える。元禄以後の俳画の盛行は立圃に端を発するともいわれている。
 本画巻の、淡彩をほどこした動物たちの飄々たる姿は、立圃晩年の円熟の境地を伝え、数多い立圃自筆資料のうちでも秀作ということができる。横山重旧蔵。

(釈文) 省略

(左一・辰、右一・戌)

左一・辰、右一・戌.jpg

https://www.wul.waseda.ac.jp/TENJI/virtual/juni/juni03h.jpg
「左一・辰」=夕立の水口いつ(づ)こたつの口
「右一・戌」=犬山の雪もまた(だ)らの雪の色

(左二・己、右(二)・亥)

左二・己、右(二)・亥.jpg

https://www.wul.waseda.ac.jp/TENJI/virtual/juni/juni04h.jpg
「左二・己」=祓する己の日や魚の毒なか(が)し
「右(二)・亥」=白黒やゐの子にしろき砂糖餅

(左三・午、右(三)・子)

(左三・午、右(三)・子).jpg

https://www.wul.waseda.ac.jp/TENJI/virtual/juni/juni05h.jpg
「左三・午」=竹馬や杖に月毛のよるの道
「右(三)・子」=小松をやけふ引(き)あそへ(べ)初鼠

(左四・未、右(四)・丑)

(左四・未、右(四)・丑).jpg

https://www.wul.waseda.ac.jp/TENJI/virtual/juni/juni06h.jpg
「左四・未」=羊をや五月つくしの花車
「右(四)・丑」=ひかりそふ露や北野の年の玉

(左五・申、右(五)・寅)

(左五・申、右(五)・寅).jpg

https://www.wul.waseda.ac.jp/TENJI/virtual/juni/juni07h.jpg
「左五・申」=猿丸の歌の紅葉や顔の色
「右(五)・寅」=虎の尾ハちるともふむな桜花

(左六・酉、右(六)・卯)

(左六・酉、右(六)・卯).jpg

https://www.wul.waseda.ac.jp/TENJI/virtual/juni/juni08h.jpg
「左六・酉」=霜夜には鐘や一番二番鳥
「右(六)・卯」=短夜に月の兎の耳もかな
     七十二翁放将
     書之乎口之号
           立圃(朱方印)      ≫

立圃肖像並賛「かくとたに.jpg

「立圃肖像並賛「かくとたに」 / 生白 [画],立圃 [賛](「早稲田図書館蔵」)
https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko31/bunko31_d0153/bunko31_d0153_p0001.jpg

(野々口立圃の俳句)

あらはれて見えよ芭蕉の雪女(ゆきをんな) (『そらつぶて』)
≪季語=雪女(冬)。謡曲「芭蕉」の「芭蕉の精」と、「雪の精」の「雪女」とを背景にしている一句。≫(『俳句大観(明治書院))』所収「立圃(森川昭稿)」)

絵に似たる顔やヘマムシ夜半の月 (『そらつぶて』)
≪季語=月(秋)。「ヘマムシ」は、「へのへのもへじ」のような文字遊戯の一種。「へ」=頭と眉、「マ」=目、「ム」=鼻、「シ」=口。「ヘマムシヨ」の「ヨ」=耳。江戸時代には手習草子として山水天狗と共に戯書の双璧であった。≫ (『俳句大観(明治書院))』所収「立圃(森川昭稿)」)

霧の海の底なる月はくらげかな (『誹諧発句帳』)
≪季語=月(秋)。「霧」が一面にかかっているのを「霧の海」と見立て、その「月」を「海月(くらげ))と見立て、さらに、月の光が暗いという「暗気(くらげ)」を掛けている。≫(『俳句大観(明治書院))』所収「立圃(森川昭稿)」)

源氏ならで上下に祝ふ若菜かな (『犬子集』)
≪季語=若菜(春・新年)。『源氏物語』の「上・下」二部にわかれている「若菜(三十四帖)」 は「若菜上・下」にまたがっていることと、「身分」の「上・下」とを掛けている。立圃は、『十帖源氏』や『稚源氏』などの「源氏物語梗概書」を有する、名うての「源氏物語通」で知らりている。 ≫(『俳句大観(明治書院))』所収「立圃(森川昭稿)」)

声なくて花や梢の高笑ひ (『そらつぶて』)
≪季語=「花」(春)。「花の咲く」ことを「花の笑う」という意から、「梢に高く咲く花」は「高笑い」だという、「洒落」の一句。 ≫(『俳句大観(明治書院))』所収「立圃(森川昭稿)」)

月影をくみこぼしけり手水鉢 (『そらつぶて』)
≪季語=月(秋)。「手水鉢(ちょうずばち)の水とともに、千々にくだけ散る月の光を「汲みこぼす」表現したのが、この句の眼目。≫(『俳句大観(明治書院))』所収「立圃(森川昭稿)」)

天も花に酔へるか雲の乱れ足 (『犬子集』)
≪季語=「花」(春)。『和漢朗詠集』の「天酔于花 桃李盛也(天ノ花ニ酔ヘルハ、桃李ノ盛ナルナリ)を踏まえ、雲の動きを「雲脚」と、「天・雲」を擬人化した一句。 ≫(『俳句大観(明治書院))』所収「立圃(森川昭稿)」)

ほころぶや尻も結ばぬ糸桜 (『犬子集』)
≪季語=糸桜(春)。「尻も結ばぬ糸」(玉どめを作らないで縫う糸)のために、「花が『ほころぶ』(咲く)との見立ての妙味。その技巧が嫌味になっていないのが立圃調。≫(『俳句大観(明治書院))』所収「立圃(森川昭稿)」)

花ひとつたもとにすがる童かな (『句兄弟』)
≪季語=「花」(春)。貞門誹諧に普通みられる言葉の技巧はまったくない。実際の体験からでないと作れない。実感のある句。其角の『句兄弟』で取り上げられている。≫(『俳句大観(明治書院))』所収「立圃(森川昭稿)」)

https://yahantei.blogspot.com/search/label/%E5%85%B6%E8%A7%92%E3%81%AE%E3%80%8E%E5%8F%A5%E5%85%84%E5%BC%9F%E3%80%8F

(再掲)

十八番
   兄 立圃
 花ひとつたもとにすか(が)る童かな
   弟 (其角)
 花ひとつ袂に御乳の手出し哉

(兄句の句意)花一輪、その花一輪のごとき童が袂にすがっている。
(弟句の句意)花一輪、それを見ている乳母が袂に抱かれて寝ている童にそっと手をやる。
(判詞の要点)兄の句は「ひとつ(一つ)だも」と「たもと」の言い掛けの妙を狙っているが(大切な童への愛情を暗に暗示している)、弟句ではその童から「お乳」(乳母)への「至愛」というものに転回している。
(参考)一 其角の判詞(自注)には、「たもとゝいふ詞のやすらかなる所」に着眼して、「花ひとつたもと(袂)に」をそれをそのままにして、句またがりの「すか(が)る童かな」を「御乳の手出し哉」で、かくも一変させる、まさに、「誹番匠」其角の「反転の法」である。この「反転の法」は、後に、しばしば蕪村門で試みられたところのものであるという(『俳文学大辞典』)。

二 (謎解き・六十九)では、兄句の作者を其角としたが、ここは、立圃の句。野々口立圃。1595~1669。江戸前期の俳人、画家。京都の人。本名野々口親重。雛屋と称し、家業は雛人形細工。連歌を猪苗代兼与に、俳諧を貞徳に師事。『犬子集』編集に携わるが、その後貞徳から離反、一流を開く。『俳諧発句帳』『はなひ草』ほか多数著作あり。 ≫
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渡辺崋山の「俳画譜」(『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』) [渡辺崋山の世界]

(その六) 『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』の「森川許六(枯木宿鳥図)」

森川許六《枯木宿鳥図》.jpg

『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』の「森川許六《枯木宿鳥図》」」(「早稲田大学図書館蔵」)
https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/bunko31/bunko31_a1175/index.html
https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko31/bunko31_a1175/bunko31_a1175_p0008.jpg

≪「枯木宿鳥図》」 許六写意 五老井狩野時史/ノ風を不脱 ≫(『俳人の書画美術11 江戸の画人(鈴木進執筆・集英社))』所収「図版資料(森川昭稿)」に由っている。)

≪ 許六は「狩野時史ノ風ヲ不脱」とあり、許六は狩野派を学び、芭蕉は絵を以て許六を師としたというが、狩野派の減筆体で、結局は余技の域を脱したものではなかった、≫(『俳人の書画美術11 江戸の画人(鈴木進執筆・集英社))』所収「図版資料(森川昭稿)」に由っている。)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-07-15

(再掲)

許六肖像真蹟.jpg

「許六肖像真蹟 /渡辺崋山画, 1793-1841」( [和泉屋市兵衛, [出版年不明]/ 早稲田大学図書館)
https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/he05/he05_05706/index.html

 この「許六」の自筆色紙の句は、「今日限(ぎり)の春の行方や帆かけ船」のようである。この崋山が描いた「許六肖像」画に、漢文で「許六伝記」を記したのは「活斎道人=活斎是網」で、その冒頭に出てくる『風俗文選(本朝文選)』編んだのが「許六」その人である。
 その『『風俗文選(本朝文選)』の「巻之一」(「辞類」)の冒頭が、「芭蕉翁」の「柴門ノ辞」(許六離別の詞/元禄6年4月末・芭蕉50歳)である。

≪ 「柴門ノ辞」(許六離別の詞/元禄6年4月末・芭蕉50歳)
 去年の秋,かりそめに面をあはせ,今年五月の初め,深切に別れを惜しむ.その別れにのぞみて,一日草扉をたたいて,終日閑談をなす.その器,画を好む.風雅を愛す.予こころみに問ふことあり.「画は何のために好むや」,「風雅のために好む」と言へり.「風雅は何のために愛すや」,「画のために愛す」と言へり.その学ぶこと二つにして,用いること一なり.まことや,「君子は多能を恥づ」といへれば,品二つにして用一なること,感ずべきにや.※画はとって予が師とし,風雅は教へて予が弟子となす.されども,師が画は精神徹に入り,筆端妙をふるふ.その幽遠なるところ,予が見るところにあらず.※予が風雅は,夏炉冬扇のごとし.衆にさかひて,用ふるところなし.ただ,釈阿・西行の言葉のみ,かりそめに言ひ散らされしあだなるたはぶれごとも,あはれなるところ多し.後鳥羽上皇の書かせたまひしものにも,※「これらは歌にまことありて,しかも悲しびを添ふる」と,のたまひはべりしとかや.されば,この御言葉を力として,その細き一筋をたどり失ふことなかれ.なほ,※「古人の跡を求めず,古人の求めしところを求めよ」と,南山大師の筆の道にも見えたり.「風雅もまたこれに同じ」と言ひて,燈火をかかげて,柴門の外に送りて別るるのみ。 ≫ (「芭蕉DB」所収「許六離別の詞」)

※画(絵画)はとって予(芭蕉)が師とし,風雅(俳諧)は教へて予(芭蕉)が弟子となす=絵画は「許六」が「予(芭蕉)」の師で、「俳諧」は「予(芭蕉)」が「許六」の師とする。

※予(芭蕉)が風雅(俳諧)は,夏炉冬扇のごとし.衆にさかひて,用ふるところなし=予(芭蕉)の俳諧は、夏の囲炉裏や冬の団扇のように役に立たないもので、一般の民衆の求めに逆らっていて、何の役にも立たないものである。

※「これらは歌にまことありて,しかも悲しびを添ふる」と,のたまひはべりしとかや.されば,この御言葉を力として,その細き一筋をたどり失ふことなかれ=後鳥羽上皇の御口伝の「西行上人と釈阿=藤原俊成の歌には、実(まこと)の心があり、且つ、もののあわれ=生あるものの哀感のようなものを感じさせ」、この『実の心ともののあわれ』とを基本に据えて、その(風雅と絵画の)細い一筋の道をたどって、決して見失う事がないようにしよう。

※「古人の跡を求めず,古人の求めしところを求めよ」=「先人たちの、遺業の形骸(ぬけがら)を追い求めるのではなく、その古人の理想としたところを求めなさい」と解釈され、もともとは空海の『性霊集』にある「書亦古意ニ擬スルヲ以テ善シト為シ、古跡ニ似ルヲ以テ巧ト為サズ」に拠った言葉であるともいわれている。

≪ 森川許六(もりかわ きょりく)/(明暦2年(1656)8月14日~正徳5年(1715)8月26日)
本名森川百仲。別号五老井・菊阿佛など。「許六」は芭蕉が命名。一説には、許六は槍術・剣術・馬術・書道・絵画・俳諧の6芸に通じていたとして、芭蕉は「六」の字を与えたのだという。彦根藩重臣。桃隣の紹介で元禄5年8月9日に芭蕉の門を叩いて入門。画事に通じ、『柴門の辞』にあるとおり、絵画に関しては芭蕉も許六を師と仰いだ。 芭蕉最晩年の弟子でありながら、その持てる才能によって後世「蕉門十哲」の筆頭に数えられるほど芭蕉の文学を理解していた。師弟関係というよりよき芸術的理解者として相互に尊敬し合っていたのである。『韻塞<いんふさぎ>』・『篇突<へんつき>』・『風俗文選』、『俳諧問答』などの編著がある。
(許六の代表作)
寒菊の隣もあれや生け大根  (『笈日記』)
涼風や青田のうへの雲の影  (『韻塞』)
新麦や笋子時の草の庵    (『篇突』)
新藁の屋根の雫や初しぐれ  (『韻塞』)
うの花に芦毛の馬の夜明哉  (『炭俵』 『去来抄』)
麥跡の田植や遲き螢とき   (『炭俵』)
やまぶきも巴も出る田うへかな(『炭俵』)
在明となれば度々しぐれかな (『炭俵』)
はつ雪や先馬やから消そむる (『炭俵』)
禅門の革足袋おろす十夜哉  (『炭俵』)
出がはりやあはれ勸る奉加帳 (『續猿蓑』)
蚊遣火の烟にそるゝほたるかな(『續猿蓑』)
娵入の門も過けり鉢たゝき  (『續猿蓑』)
腸をさぐりて見れば納豆汁  (『續猿蓑』)
十團子も小つぶになりぬ秋の風(『續猿蓑』)
大名の寐間にもねたる夜寒哉 (『續猿蓑』)
御命講やあたまの青き新比丘尼(『去来抄』)
人先に医師の袷や衣更え   (『句兄弟』)
茶の花の香りや冬枯れの興聖寺(『草刈笛』)
夕がほや一丁残る夏豆腐   (『東華集』)
木っ端なき朝の大工の寒さ哉(『浮世の北』) ≫(「芭蕉DB」所収「森川許六」)

 もとより、抱一と許六とは直接的な関係はないが、「画俳二道」の先師として、抱一が許六を、陰に陽に私淑していたことは、これまた、想像するに難くない。

(再掲)

https://yahantei.blogspot.com/2023/03/4-614-62.html

4-61 あとからも旅僧は来(きた)り十団子 (抱一『屠龍之技』「) 第四 椎の木かげ」

十団子も小粒になりぬ秋の風  許六(『韻塞』)
≪「宇津の山を過」と前書きがある。
句意は「宇津谷峠の名物の十団子も小粒になったなあ。秋の風が一層しみじみと感じられることだ」
 季節の移ろいゆく淋しさを小さくなった十団子で表現している。十団子は駿河の国(静岡県)宇津谷峠の名物の団子で、十個ずつが紐や竹串に通されている。魔除けに使われるものは、元々かなり小さい。
 作者の森川許六は彦根藩の武士で芭蕉晩年の弟子。この句は許六が芭蕉に初めて会った時持参した句のうちの一句である。芭蕉はこれを見て「就中うつの山の句、大きニ出来たり(俳諧問答)」「此句しほり有(去来抄)」などと絶賛したという。ほめ上手の芭蕉のことであるから見込みありそうな人物を前に、多少大げさにほめた可能性も考えられる。俳諧について一家言あり、武芸や絵画など幅広い才能を持つ許六ではあるが、正直言って句についてはそんなにいいものがないように私は思う。ただ「十団子」の句は情感が素直に伝わってきて好きな句だ。芭蕉にも教えたという絵では、滋賀県彦根市の「龍潭寺」に許六作と伝えられる襖絵が残るがこれは一見の価値がある。(文)安居正浩 ≫

句意(その周辺)=蕉門随一の「画・俳二道」を究めた、近江国彦根藩士「森川許六」に、「十団子も小粒になりぬ秋の風」と、この「宇津谷峠の魔除けの名物の十団子」の句が喧伝されているが、「秋の風」ならず、「冬の風(木枯らし)」の中で、その蕉門の「洛の細道」を辿る、一介の「旅僧・等覚院文詮暉真」が、「小さくなって、鬼退治させられた、その化身の魔除けの『宇津谷峠の名物の十団子』を、退治するように、たいらげています。」

牡丹唐獅子図.jpg

伝・ 森川許六「牡丹唐獅子図」(部分)

https://yuagariart.com/uag/shiga04/

(抜粋)

≪ 江戸時代の早い時期に活躍した彦根の画人としては、search 森川許六(1656-1715)がいる。許六は彦根藩士の子として彦根城下に生まれ、若いころから漢詩を学び、画は江戸の中橋狩野家の狩野安信に学んだとされる。江戸詰の時に晩年の松尾芭蕉に入門し、蕉門十哲に数えられるほどになり、芭蕉に画を教え、芭蕉の肖像画も描いている。
 許六は、古代中国で士以上の者が学修すべきとされた、礼(礼節)、楽(音楽)、射(弓術)、御(馬術)、書(文学)、数(算数)の六芸に通じた多芸の才人で、師の芭蕉から「許六」の号が授けられた。許六が江戸での勤務を終えて彦根に帰る際には、それを惜しんだ芭蕉から「許六離別の詞」と俳諧の奥伝書を贈られたという。
 許六の書画は、彦根市平田町にある明照寺に伝えられ、古沢町にある井伊家の菩提寺・龍潭寺には、許六作と伝わっている牡丹唐獅子図をはじめとした56面に及ぶ襖絵があり、彦根市の文化財に指定されている。
 許六と同時期に彦根藩の御用をつとめていた絵師としては、大形藤兵衛(不明-1675)がいる。藤兵衛は、判明している最も古い彦根藩御用絵師で、幕府の御用をつとめ、狩野探幽と同じ所にいて活躍していたといい、徳川将軍家の上洛の絵図と屏風、彦根城鐘丸御守殿の笹の間の障壁画を描いた。
 藤兵衛の養子で二代を継いだ幽心は、禁裏絵所の狩野流弥に学び、幽心の養子で三代となった養川は木挽町の狩野常信に学んだとされる。二代幽心と三代養川は6年間江戸に滞在して国絵図の制作をした。四代は養川の実子の藤十郎が継いだが、延享4年に絵師としての活動をやめている。≫(「UAG美術家研究所」)
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渡辺崋山の「俳画譜」(『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』) [渡辺崋山の世界]

(その五) 『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』の「英一蝶」(釣瓶と鶯図))」

英一蝶《釣瓶と鶯図》.jpg

『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』の「英一蝶《釣瓶と鶯図》」」(「早稲田大学図書館蔵」)
https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/bunko31/bunko31_a1175/index.html
https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko31/bunko31_a1175/bunko31_a1175_p0007.jpg
≪「釣瓶と鶯図」 一蝶画趣/信香の画ハ安信ニ従ヒ新意ハ/菱川ヨリ脱化来ルニ似タリ
 ≫(『俳人の書画美術11 江戸の画人(鈴木進執筆・集英社))』所収「図版資料(森川昭稿)」に由っている。)

≪ 一蝶は「安信ニ従ヒ新意ハ/菱川ヨリ脱化来ルニ似タリ」とあり、一蝶が狩野派より出て、柔軟な画態にときほぐし、しかもその画趣には、なかなか洒脱な俳諧的要素が示されている。これは当代の風俗画に表現されている。市民的感情もあり、浮世絵の菱川より脱化したものであろうというのは、この間の事情を物語るものであろう。 ≫(『俳人の書画美術11 江戸の画人(鈴木進執筆・集英社))』所収「図版資料(森川昭稿)」に由っている。)

紙本著色布晒舞図〈英一蝶筆〉.jpg

「紙本著色布晒舞図〈英一蝶筆〉」(国宝・重要文化財(美術品)/ 公益財団法人遠山記念館蔵)
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/210286
≪英一蝶(1652~1724)は市井のありふれた庶民の都会風俗、健全明朗な生活を、親しみやすいが洗練された絵画表現に高めて表した点で近世絵画史上に重要な画家。本作品は若衆歌舞伎の役者と思われる舞手が、布を晒す仕草や波の様を布を用いて表したさらしの舞を披露する様子を描く。小画面に一蝶の人物表現の優れた特質を凝縮した作品。画面左上に藤牛麻呂の款記がある。≫(「文化遺産オンライン」)

≪ 英一蝶(はなぶさいっちょう)(1652―1724)

江戸前期の画家。英派の祖。医師多賀伯庵(はくあん)の子として京都に生まれる。幼名猪三郎、諱(いみな)は信香(のぶか)、字(あざな)は君受(くんじゅ)、剃髪(ていはつ)して朝湖(ちょうこ)と称した。翠蓑翁(すいさおう)、隣樵庵(りんしょうあん)、北窓翁などと号し、俳号に暁雲(ぎょううん)、夕寥(せきりょう)があった。1659年(万治2)ごろ江戸へ下り、絵を狩野安信(かのうやすのぶ)に学んだが、いたずらに粉本制作を繰り返し創造性を失った当時の狩野派に飽き足らず、岩佐又兵衛(いわさまたべえ)や菱川師宣(ひしかわもろのぶ)によって開かれた新興の都市風俗画の世界に新生面を切り開いた。
機知的な主題解釈と構図、洒脱(しゃだつ)な描写を特色とする異色の風俗画家として成功。かたわら芭蕉(ばしょう)に師事して俳諧(はいかい)もよくした。1698年(元禄11)幕府の怒りに触れ三宅(みやけ)島に流されたが、1709年(宝永6)将軍代替りの大赦により江戸へ帰り、画名を多賀朝湖から英一蝶と改名した。晩年はしだいに風俗画を離れ、狩野派風の花鳥画や山水画も描いたが、終生俳諧に培われた軽妙洒脱な機知性を失うことはなかった。
代表作に、いわゆる「島(しま)一蝶」として珍重される三宅島配流時代の作品『四季日待図巻』(東京・出光(いでみつ)美術館)や『吉原風俗図巻』(東京・サントリー美術館)、『布晒舞図(ぬのざらしまいず)』(埼玉・遠山記念館)などがある。[榊原 悟] 『小林忠著『日本美術絵画全集16 守景/一蝶』(1982・集英社)』 ≫(「日本大百科全書(ニッポニカ)」)

https://yahantei.blogspot.com/2023/05/5-345-39.html

(再掲)

    朝妻ぶねの賛
5-34 藤なみや紫さめぬ昔筆 (抱一句集『屠龍之儀』所収「第五 千づかのいね」)

 前書の「朝妻ぶね)」とは、「浅妻船・朝妻船(あさつまぶね)」の「滋賀県琵琶湖畔 朝妻(米原市朝妻筑摩)と大津と間での航行された渡船。東山道の一部」(「ウィキペディア」)のことであろう。

≪ 朝妻は『和名抄』に「安佐都末」とある。朝妻川の入江に位置する。船舶がしきりに出入りしたが、慶長(1596年 - 1615年)ころから航路の便利から米原に繁栄をうばわれ、おとろえた。寿永の乱(1180年 - 1185年)の平家の都落ちにより女房たちが浮かれ女として身をやつしたものが、朝妻にもその名残をとどめ、客をもとめて入江に船をながした。

 その情景を英一蝶(1652年 - 1715年)がえがいた絵『朝妻舟図』[1] が有名である。烏帽子、水干をつけた白拍子ふうの遊女が鼓を前に置き、船に乗っている絵は、五代将軍徳川綱吉と柳沢吉保の妻との情事を諷したものであるという。一説に英が島流しされたのはこの作品が原因であるという。英が絵に讃した小唄は、「仇しあだ浪、よせてはかへる浪、朝妻船のあさましや、ああまたの日は誰に契りをかはして色を、枕恥かし、いつはりがちなるわがとこの山、よしそれとても世の中」。「わがとこの山」は、犬上郡鳥籠山であるのを、床の山にかけたものである。長唄などもつくられた。≫(「ウィキペディア」)≫

朝妻舟(英一蝶).jpg

「朝妻舟図 」英一蝶/江戸時代/絹本著色/37.4cm×56.9cm/板橋区立美術館蔵
https://www.city.itabashi.tokyo.jp/artmuseum/4000333/4000537/4000540.html
https://matuyonosuke.hatenablog.com/entry/2018/12/12/174708

「英一蝶画譜」あさづまぶね(朝妻舟)

 柳の下に船を繋ぎ、烏帽子水干の白拍子が鼓を手にして座してゐる図で、元禄の頃英一蝶がこれを画いて忌諱に触れ罪を得て流罪になつたので有名であり、その由来は太田南畝の『一話一言』に精しい。

 「あさづまぶね 英一蝶作」

 隆達がやぶれ菅笠しめ緒のかつら長くつたはりぬ是から見れば近江のや。

「あだしあだ浪よせてはかへる浪、朝妻ぶねのあさましや、あゝ又の日はたれに契りをかはして色を、かはして色を。枕はづかし、偽がちなる我が床の山、よしそれとても世の中」。

 これ一蝶が小歌絵の上に書きて、あさづま舟とて世に賞翫す、一蝶其はじめ狩野古永真安信が門に入て画才絶倫一家をなす、ここにおいて師家に擯出せらる、剰事にあたりて江州に貶謫、多賀長湖といふ、元来好事のものなり、謫居のあひだくつれる小歌の中に、あだしあだ浪よせてはかへる浪、あさづま舟のあさましや云々、此絵白拍子やうの美女水干ゑぼうしを著てまへにつゞみあり、手に末広あり、江頭にうかべる船に乗りたり、浪の上に月あり、(此の月正筆にはなし、書たるもあり、数幅かきたるにや)。

 あさ妻舟といふは、近江にあさづまといふ所あるに付て、湖辺の舟を近江にはいにしへあそびものゝありしゆへ、遊女のあさあさしくあだなるを思ひよせて一蝶作れるにや、文意聞したるまゝなるを誰に契をかはして色を枕はづかしといふあり、色を枕はづかしとはつづかぬ語意なるをと、数年うたがへるに、後に正筆を見ればかはして色をかはして色をと打かへして書たり、しからばわが世わたりの浅ましきを嗟嘆するにて、句を切て枕恥かしといへるよく叶へり句を切て其次をいふ間だに、千々の思こもりておもしろきにや、又朝づま舟新造の詞にあらず、西行歌、題しらず

  おぼつかないぶきおろしの風さきに朝妻舟はあひやしぬらむ(山家集下)

 又地名を付て何舟といふ事、八雲御抄松浦船あり、もしほ草にいせ舟、つくし舟、なには舟、あはぢ舟、さほ舟あり、もろこし舟いふに不及。

(一話一言巻十四)

 一蝶の筆といふ朝妻船で有名なのは、松沢家伝来のもので、これには一蝶と親交のあつたといふ宗珉の干物の目貫、一乗作朝妻船の鍔一蝶作の如意、清乗作の小柄を添へ、更に一蝶の源氏若紫片袖切の幅と嵩谷の添状がある。浮世絵にもこれを画いたものがある。≫

(画像) → http://yahantei.blogspot.com/2023/05/5-345-39.html

「朝妻舟」(鈴木春信作)

(画像) → http://yahantei.blogspot.com/2023/05/5-345-39.html

「朝妻舟」(歌川広重作)

(画像) → http://yahantei.blogspot.com/2023/05/5-345-39.html

「近江名所図会 朝妻舟」
https://www.instagram.com/p/Bsrrf1lnxcd/

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渡辺崋山の「俳画譜」(『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』) [渡辺崋山の世界]

(その四) 『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』の「蕪村《遊舞図》」周辺

画像1.jpg

『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』の「蕪村《遊舞図》」」(「早稲田大学図書館蔵」)
https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/bunko31/bunko31_a1175/index.html
https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko31/bunko31_a1175/bunko31_a1175_p0009.jpg

≪ 「遊舞図」 蕪村写意/夜半翁画ハ古澗(こかん)/ノ意ヲ取ニ似タリ ≫(『俳人の書画美術11 江戸の画人(鈴木進執筆・集英社))』所収「図版資料(森川昭稿)」に由っている。)

(補記その一)

≪ 古澗慈稽(こかん-じけい)
 1544-1633 織豊-江戸時代前期の僧。
天文(てんぶん)13年生まれ。臨済(りんざい)宗。京都建仁寺(けんにんじ)大統院の奎文慈瑄の法をつぐ。博多の聖福寺(しょうふくじ)住持をへて,慶長10年建仁寺,13年京都南禅寺の住持。詩文,とくに聯句(れんく)にすぐれた。林羅山(らざん)も大統院で教えをうけた。寛永10年9月10日死去。90歳。信濃(しなの)(長野県)出身。俗姓は土田。≫(「デジタル版 日本人名大辞典+Plus」)

https://www.atpress.ne.jp/news/128535

大黒天図.jpg

「大黒天図」(画僧古澗研究会蔵)

(「補記その二」)

≪ 蕪村は「古澗(こかん)ノ意ヲ取ニ似タリ」とあり、蕪村の草画的技法に於ける先行的意義を画僧古澗に認めている。このような減筆的、草画的表現は、とくに人物描写に於いて見られる近世絵画史の特色的な一面ではなかろうか。足利期水墨画以降に、点景人物として一、二筆による端的な表現法を見るであろうが、これとは別に、柔らかい一種の洒脱な趣を含んだ描線による表現である。蕪村「俳諧三十六歌仙」などはこの種の典型的なタイプを示すものであろう。
 「近頃蕪村一流ヲ昉(はじ)めおもしろく覚候」とあり、崋山は、「一埽百態」の序文に於いては、風俗画家としての蕪村を非難しているが、俳画としては高く認めていたようである。≫(『俳人の書画美術11 江戸の画人(鈴木進執筆・集英社))』所収「作品解説(鈴木進稿)」。)

※蕪村「俳諧三十六歌仙」

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-07-18

『夜半翁俳僊帖(与謝蕪村筆・秋保鐡太郎 編輯)』(早稲田図書館蔵)
https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko31/bunko31_a1983/bunko31_a198

「俳諧三十六歌僊 / 夜半亭蕪村 [画・編]」(早稲田図書館蔵)
https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/he05/he05_06085/he05_06085_p0005.jp


(補記その三) 「游戯三昧 小舟題(渡辺崋山画・賛・跋)」(原本)と『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』(版本)との関係

「游戯三昧 小舟題(渡辺崋山画・賛・跋)」(原本)の内容(『俳人の書画美術11 江戸の画人(鈴木進執筆・集英社))』所収「図版資料(森川昭稿)」)と『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』(版本)との相互関連

「游戯三昧 小舟題(渡辺崋山画・賛・跋)」(原本)の内容(順序)

(題籢) 游戯三昧 小舟題
(画一) 団扇と蛍図
(画二) 田草取図
(画三) 燈下読書図 立圃画意 →『崋山画譜』(版本)の(画二)
(画四) 朝顔図 →       『崋山画譜』(版本)の(画七)
(画五) 釣瓶と鶯図 一蝶画題 →『崋山画譜』(版本)の(画四)
(画六) 狩衣人物図
(画七) 狐面図
(画八) 籠に雀図
(画九) 祈祷図
(画十) 茄子図 松花堂画法 →『崋山画譜』(版本)の(画一)
(画十一)游舞図 →『崋山画譜』(版本)の(画六)に、(画十四)の賛(蕪村写意)を用いる。
(画十二)夕立図 →『崋山画譜』(版本)の(画八)
(画十三)枯木宿鳥図 許六写意 →『崋山画譜』(版本)の(画五)
(画十四)相聞図 蕪村写意→「賛」(蕪村写意と賛文)のみ『崋山画譜』(版本)の(画六)に。
(画十五)梅樹図 光悦写生→『崋山画譜』(版本)の(画三)
(跋)  →        『崋山画譜』(版本)の(序)

『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』(版本)の内容(順序)

『崋山画譜』(版本)の(序) →「游戯三昧 小舟題」(原本)の「跋」文
『同』(版本)の(画一)   →「同」(原本)の「画十」(茄子図 松花堂画法) 
『同』(版本)の(画二)   →「同」(原本)の「画三」(燈下読書図 立圃画意)
『同』(版本)の(画三)   →「同」(原本)の「画十五」(梅樹図 光悦写生)
『同』(版本)の(画四)   →「同」(原本)の「画五」(釣瓶と鶯図 一蝶画題)
『同』(版本)の(画五)   →「同」(原本)の「画十三」(枯木宿鳥図 許六写意)
『同』(版本)の(画六)→「同」(原本)の「画十一・游舞図」と「画十四・蕪村写意と賛文」
『同』(版本)の(画七)   →「同」(原本)の「画四」(朝顔図と崋山の句)
『同』(版本)の(画八)   →「同」(原本)の「画十二」(夕立図と崋山の句)
『同』(版本)の(跋=編者・鈴木三岳の「跋」文)    

『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』(版本)

https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/bunko31/bunko31_a1175/index.html

[出版地不明] : [出版者不明], 嘉永2[1849]跋
1帖 ; 29.0×15.5cm
書名は題簽による 扉題:崋山翁俳画/椎屋蔵板 色刷/折本


(参考その四) 「俳画の流れ」(「蕪村」から「崋山」へ)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2017-06-21

≪ 蕪村は、この「はいかい物之草画」に関しては、「凡(およそ)海内に並ぶ者覚(おぼえ)無之候」(天下無双の日本一である)と、画・俳両道を極めている蕪村ならではの自負に満ちた書簡を今に残している(安永五年八月十一日付け几董宛て書簡)。
 「俳画」という名称自体は、蕪村後の渡辺崋山の『俳画譜』(嘉永二年=一八一九刊)以後に用いられているようで、一般的には「俳句や俳文の賛がある絵」などを指している。≫

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2017-12-14

≪「浮世絵」に比して、「町物」という言葉は未だ一般には通用しない、特殊な用語の部類なのかも知れない。意味するものは、「公家文化(公家時代の書画など)」=「公家物」、「武家文化(武家時代の書画など)」=「武家物」とすると、「町人文化(浮世絵師・町絵師時代の書画など)」=「町物」というようなことである。
 そして、この「町物」の代表的なものは、江戸時代の江戸(東京)で、今に、世界に通ずる日本文化の一翼を担っている「浮世絵」の世界ということになろう。
この「浮世絵」に携わった絵師などを「浮世絵師」とすると、「浮世絵師」というジャンルではなく、「町絵師」による「公家物」「武家物」(さらに「五山文化」=「僧侶物」)などに携わった世界が、これが、いわゆる、京都の円山応挙を祖とする「円山四条派」の世界と見做して大筋差し支えなかろう。
そして、「浮世絵」が大流行した江戸(東京・関東)においても、京都の応挙に匹敵する、
「酒井抱一・谷文晁・渡辺崋山など」の、狩野派の御用絵師ではなく、当時の一般人(町人など)に支持された、その出身を問うことなく、いわゆる「町絵師」が、「浮世絵師」に匹敵する、いや、それ以上の多種多様な世界を構築していたということなのである。
 これらを、「浮世絵」に伍して、江戸(関東)と京都(関西)に二分して、それぞれ「江戸町物」「京都町物」と二分して、「浮世絵」「江戸町物」「京都町物」の三区分で、その上に、京都の、「公家文化=御所」ではなく、その「武家文化=二条城」ではなく、その「僧侶文化=相国寺」ではなく、その「町人文化=洛東遺芳館」という観点で、この「洛東遺芳館」の、これまでの展示などをフォローしていきたいのである。≫

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-01-25

≪上記の、『江戸流行料理通大全』の、上記の挿絵の、その中心に位置する「亀田鵬斎」とは、「鵬斎・抱一・文晃」の、いわゆる、「江戸」(東京)の「下谷」(「吉原」界隈の下谷)の、その「下谷の三幅対」と云われ、その三幅対の真ん中に位置する、その中心的な最長老の人物が、亀田鵬斎なのである。
 そして、この三人(「下谷の三幅対」)は、それぞれ、「江戸の大儒者(学者)・亀田鵬斎」、「江戸南画の大成者・谷文晁」、そして、「江戸琳派の創始者・酒井抱一」と、その頭に「江戸」の二字が冠するのに、最も相応しい人物のように思われるのである。
 これらの、江戸の文人墨客を代表する「鵬斎・抱一・文晁」が活躍した時代というのは、それ以前の、ごく限られた階層(公家・武家など)の独占物であった「芸術」(詩・書・画など)を、四民(士農工商)が共用するようになった時代ということを意味しよう。
 それはまた、「詩・書・画など」を「生業(なりわい)」とする職業的文人・墨客が出現したということを意味しよう。さらに、それらは、流れ者が吹き溜まりのように集中して来る、当時の「江戸」(東京)にあっては、能力があれば、誰でもが温かく受け入れられ、その才能を伸ばし、そして、惜しみない援助の手が差し伸べられた、そのような環境下が助成されていたと言っても過言ではなかろう。
 さらに換言するならば、「士農工商」の身分に拘泥することもなく、いわゆる「農工商」の庶民層が、その時代の、それを象徴する「芸術・文化」の担い手として、その第一線に登場して来たということを意味しよう。
 すなわち、「江戸(東京)時代」以前の、綿々と続いていた、京都を中心とする、「公家の芸術・文化」、それに拮抗しての全国各地で芽生えた「武家の芸術・文化」が、得体の知れない「江戸(東京)」の、得体の知れない「庶民(市民)の芸術・文化」に様変わりして行ったということを意味しょう。

谷文晁(たに・ぶんちょう)
(宝暦十三年(1763)九月九日-天保十一年(1841)十二月十四日、江戸下谷ニ長町の自宅で歿、享年七十八歳。) 江戸時代後期の画家。父は田安家の家臣で漢詩人でもあった谷麓谷。画ははじめ狩野派の加藤文麗、長崎派の渡辺玄対に学び、鈴木芙蓉から山水画を学ぶ。古画の模写と写生を基礎に南宗画・北宗画・洋風画などを加えた独自の画風を生み出した。また、松平定信に認められ、「集古十種」の編纂に携わり、その挿絵を描くなどして社会的な地位を得、江戸における文人画壇の重鎮となった。その門下からは渡辺崋山、立原杏所などのすぐれた画家を輩出した。包一、鵬斎、文晃の三人は「下谷の三幅対」と云われ、生涯の遊び仲間であった。≫

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-01-28

≪ その文晁の、それまでの「交友録」というのは、まさに、「下谷の三幅対」の、「亀田鵬斎・酒井抱一・谷文晁」に、陰に陽に連なる「江戸(東京)」の、その後半期の「江戸」から「東京」への過度期の、その節目、節目に登場する、一大群像を目の当たりにするのである。

松平楽翁→木村蒹葭堂→亀田鵬斎→酒井抱一→市河寛斎→市河米庵→菅茶山→立原翠軒→古賀精里→香川景樹→加藤千蔭→梁川星巌→賀茂季鷹→一柳千古→広瀬蒙斎→太田錦城→山東京伝→曲亭馬琴→十返舎一九→狂歌堂真顔→大田南畝→林述斎→柴野栗山→尾藤二洲→頼春水→頼山陽→頼杏坪→屋代弘賢→熊阪台州→熊阪盤谷→川村寿庵→鷹見泉石→蹄斎北馬→土方稲嶺→沖一峨→池田定常→葛飾北斎→広瀬台山→浜田杏堂

 その一門も、綺羅星のごとくである。

(文晁門四哲) 渡辺崋山・立原杏所・椿椿山・高久靄厓
(文晁系一門)島田元旦・谷文一・谷文二・谷幹々・谷秋香・谷紅藍・田崎草雲・金子金陵・鈴木鵞湖・亜欧堂田善・春木南湖・林十江・大岡雲峰・星野文良・岡本茲奘・蒲生羅漢・遠坂文雍・高川文筌・大西椿年・大西圭斎・目賀田介庵・依田竹谷・岡田閑林・喜多武清・金井烏洲・鍬形蕙斎・枚田水石・雲室・白雲・菅井梅関・松本交山・佐竹永海・根本愚洲・江川坦庵・鏑木雲潭・大野文泉・浅野西湖・村松以弘・滝沢琴嶺・稲田文笠・平井顕斎・遠藤田一・安田田騏・歌川芳輝・感和亭鬼武・谷口藹山・増田九木・清水曲河・森東溟・横田汝圭・佐藤正持・金井毛山・加藤文琢・山形素真・川地柯亭・石丸石泉・野村文紹・大原文林・船津文淵・村松弘道・渡辺雲岳・後藤文林・赤萩丹崖・竹山南圭・相沢石湖・飯塚竹斎・田能村竹田・建部巣兆  ≫

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-07-01

渡辺崋山・ヒポクラテス像.jpg

≪「ヒポクラテス像」≪渡辺崋山筆≫ 江戸時代 天保11年(1840) 絹本墨画淡彩 縦110.3 横41.7
1幅 重要美術品 九州国立博物館蔵
【 江戸時代の文人画家・渡辺崋山筆。崋山と交流のあった浅井家伝来のもの。西洋医学の祖と仰がれたヒポクラテスの胸像を、要を得た陰影法によって写実的に描いている。崋山の洋学者としての一面を伝えている。江戸時代の学問、特に洋学の普及を象徴する作品として貴重である。  】

渡辺崋山新論(1)―克己の人渡辺崋山―(「おもしろ日本美術3」No.1)
http://www.bios-japan.jp/omoshiro1.html

衝撃的なその最期―杞憂を以て死した崋山先生―(「おもしろ日本美術3」No.2)
http://www.bios-japan.jp/omoshiro2.html

今なお多くの信奉者を惹きつける克己の人渡辺崋山―崋山研究の糸口としての珠玉の史料の数々― (「おもしろ日本美術3」No.3)
http://www.bios-japan.jp/omoshiro3.html

列強の脅威の中での日本の行く末を案じる開明派の苦悩―自叙伝の体をなす渡辺崋山の『退役願書稿』― (「おもしろ日本美術3」No.4)
http://www.bios-japan.jp/omoshiro4.html

渡辺崋山の草体画(1)―崋山渾身の当世風俗活写『一掃百態』―(「おもしろ日本美術3」No.5)
http://www.bios-japan.jp/omoshiro5.html

渡辺崋山の草体画(2)―崋山と洒脱なへたうま画の極み俳諧画―(「おもしろ日本美術3」No.6)
http://www.bios-japan.jp/omoshiro6.html

渡辺崋山の草体画(3)―背景に天下泰平、江戸後期の洒落本・軟文学流行の世情―(「おもしろ日本美術3」No.7)
http://www.bios-japan.jp/omoshiro7.html

渡辺崋山の草体画(4)―紀行画『刀禰游記』と手控冊『客坐縮写第五』―(「おもしろ日本美術3」No.8)

「のぼり」と「のぼる」―俳句・雑俳・狂歌・軟文学の世界に遊ぶ崋山の使い分け―(「おもしろ日本美術3」No.9)
http://www.bios-japan.jp/omoshiro9.html

渡辺崋山の写生観―写生は“自然界からの図取り”―(「おもしろ日本美術3」No.10)
http://www.bios-japan.jp/omoshiro10.html

≪ (抜粋)
 統的な東洋画は、画面作りにあたって頭の中で練りあげる「構成画」を基本としており、そのための手段として、先人の名蹟に倣う「図取り」を積極的に行なっている。「図取り」とは、画譜や舶載の中国画、日本の先人の名画等の構図や図柄などを、全体的に、あるいは部分的にと借用して自らの作品を作りあげる手だてとする行為であるが、渡辺崋山が道端の草花や小動物を愛情深く写した『翎毛虫魚冊』や『桐生付近見取図巻』等の、現代の感覚でいう写生(写真)も、正しくはこの姿勢の延長として考えるべきなのである。
 すなわち、言うならば“自然界からの「図取り」”なのであり、狩野派や住吉派などの作品に見られる「地取」(ぢどり)の語も、読んで字の如く眼前の自然景の一角を切り取り直模する行為を示している。
 江戸時代も後半期には、情報化社会の到来とともに、出版物の挿図や、絵地図、観光ガイドブック等に需用があったり、あるいは公命を受けて、各種の記録や、海防、城下の警備対策のための資料作り等と、専門画家たちが狩り出され、実景に即した実用の「真景図」を描く機会も多くなる。
 師の谷文晁は、松平定信公の沿岸巡視に同行して『公余探勝図』を描き、同胞立原杏所も公命を拝して『水府城真景図』『袋田瀑布図』を描いている。
 ただここで大切なのは、当時の習いとしては、あくまで、図取りや地取り、写真によってた素材を自らの回路を通過させる手順が前提であるということである。
 写真機の没個性的な映像ではなく、言うならば、画家の頭や心の中を経由する行程を重んじ、写意というか対象の視覚的イメージに留まらず、寒暖や香り、風といった大気のありようなど、目に見えないものや、存在そのものにまで肉迫することこそ、アーティストならではの本領として追い求めているのである。
 また、スケッチや画稿そのものは、いわば楽屋裏のノーカウントのもので、檜舞台で脚光を浴びる筋合のものでもなく、作家にとっては人目に触れるだけでも気恥かしいものなのである。
 崋山の「写生切近なれば俗套に陥り候… 乍去、風趣風韻を専に心得候得ば山水空疎の学に落」との主張は、西洋絵画の流入より受けたカルチャーショックを、自らの宿題である「写生」と「写意」、そして「気韻生動」の理念として、改めて問い直すものであり、アンチテーゼたる異質の美術概念を得て、伝統的な日本画をより高い極みに止場(アウフへーベン)しようといったその高邁な信念を示していると言える。(文星芸術大学 上野憲示稿)  ≫
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渡辺崋山の「俳画譜」(『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』) [渡辺崋山の世界]

(その三) 『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』の「本阿弥光悦《梅樹図》」周辺

本阿弥光悦《梅樹図》」.jpg

『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』の「本阿弥光悦《梅樹図》」」(「早稲田大学図書館蔵」)
https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/bunko31/bunko31_a1175/index.html
https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko31/bunko31_a1175/bunko31_a1175_p0006.jpg

≪「梅樹図」 光悦ハ写生にて/趣を取る/本阿弥全ク松花/堂ヨリ来る ≫(『俳人の書画美術11 江戸の画人(鈴木進執筆・集英社))』所収「図版資料(森川昭稿)」に由っている。)

≪ 「光悦ハ写生にて趣を取る」とあり、「全ク松花堂ヨリ来る」として、ここでも松花堂よりの影響を述べている。光悦の対象に即した、しかもその要約的な情趣的な表現が、俳画の要諦として注目せられていることは、俳画というものを単なる減筆的な、略画的俳画とは峻別されなくてはならない。「写生にて趣を取る」というところに、崋山画説の一面に触れることができようと思う。 ≫(『俳人の書画美術11 江戸の画人(鈴木進執筆・集英社))』所収「作品解説(鈴木進稿)」)

寛永の三筆.jpg

http://hiroshi-t.com/KOUETSU5.pdf

 「寛永の三筆」と呼ばれている、「本阿弥光悦・近衛信伊・松下堂照乗」の三人については、『本阿弥行状記・中巻(七二)』に、次のような一節がある。

≪ 青蓮院御門主の御弟子、近衛応山公、滝本坊、私三人に筆道の御伝を請候節、門主被仰候趣は、今日筆道の伝残らず済候上は、三人とも自分の流儀を立てられ可然候。(以下略) ≫(『本阿弥行状記・中巻(七二)』)

(補記)

「青蓮院流」=書道流派の一つ。青蓮院の門跡、尊円法親王のはじめたもの。小野道風・藤原行成の書法に宋の書風を取り入れた力強く豊満な書体。室町時代に起こり、江戸時代には朝廷、幕府、諸藩の公文書や制札などに用いられた。また、御家流(おいえりゅう)と呼ばれ、広く一般にも用いられた。尊円流。(「精選版 日本国語大辞典」)

「近衛応山公(近衛信伊)」=安土桃山・江戸初期の公卿。書家。近衛流(三藐院流(さんみゃくいんりゅう))の祖。前久の子。法号三藐院。左大臣、関白、氏の長者となり、准三后に任じられる。御家流の道澄流を学び、上代様を基にして一派を樹立。本阿彌光悦、松花堂昭乗とならんで、寛永の三筆と称される。画、和歌もよくした。永祿八~慶長一九年(一五六五‐一六一四)(「精選版 日本国語大辞典」)

「滝本坊(松花堂照乗)」=江戸初期の真言宗学僧。能筆家で寛永三筆のひとり。俗姓は中沼。名は式部。別号は惺々、空識。摂津国堺の人。石清水男山八幡の社僧となり、晩年は八幡宮の泉坊に松花堂を営んで移り住んだ。書道松花堂流の開祖。また、水墨画や彩色画にも長じ、茶人としても著名。天正一二~寛永一六年(一五八四‐一六三九))(「精選版 日本国語大辞典」)

「本阿弥光悦」=没年:寛永14.2.3(1637.2.27)/生年:永禄1(1558)
 桃山時代から江戸初期の能書家,工芸家。刀剣の鑑定,とぎ,浄拭を家職とする京都の本阿弥家に生まれた。父は光二,母は妙秀。光悦の書は,中国宋代の能書張即之の書風の影響を受けた筆力の強さが特徴であるが,慶長期(1596~1615)には弾力に富んだ,筆線の太細・潤渇を誇張した装飾的な書風になり,元和~寛永期(1615~44)には筆線のふるえがみられ,古淡味を持つ書風へと変遷していった。近衛信尹,松花堂昭乗 と共に「寛永の三筆」に数えられる。蒔絵や作陶にも非凡の才を発揮するほか,茶の湯もよくし,当代一流の文化人であった。
 元和1(1615)年,徳川家康から洛北鷹峰(京都市)の地を与えられ,一族,工匠と共に移住し,創作と風雅三昧の生活を送った。俵屋宗達の描いた金銀泥下絵の料紙や,木版の型文様を金銀泥ですりだした料紙に,詩歌集などを散らし書きした巻物をはじめ,多くの遺品を伝える。また典籍や謡本を,雲母ずりした料紙に光悦流の書を用いて印刷した嵯峨本の刊行なども知られ,光悦流は角倉素庵,烏丸光広など多くの追随者に受け継がれた。(島谷弘幸) (「朝日日本歴史人物事典」)

 この「寛永の三筆」の、「本阿弥光悦と松花堂(滝本坊)照乗」などについて、『本阿弥行状記・中巻(八三)』に、次のようなに記されている(その全文は下記のとおり)。

≪ 或時惺々翁予が新に建たる小室を見て、さてもあら壁に山水鳥獣あらゆる物あり。絵心なき所にてはかようの事も時々写度おもう時も遠慮せり。幸いに別魂のそこの宅中、願うてもなき事と、一宿をして終日いろいろの絵をしたため、予にも恵まれし。
 余も絵は少しはかく事を得たりといえども、中々其妙に至らざれば、あら壁の模様をよき絵の手本ともしらず。勿論古来よりあら壁に絵の姿ありと申事は聞伝うるといえども、目のあたり惺々翁のかきとられしにて疑いもはれ、何事も上達をせざれば其奥義をさとられぬ者と、今更のように思いぬ。
 しかし其道を得ぬことはおかしき物にて、陶器を作る事は余は惺々翁にまされり。然れども是を家業体にするにもあらず。只鷹が峰のよき土を見立て折々拵え侍る計りにて、強て名を陶器にてあぐる心露いささかなし。是につき惺々翁と談ぜしことあり。
 書画何芸にても天授という物ありて、いか程精を尽ても上達群を出る事凡出来ぬ物なり。けたいしては猶行ず。其外何芸にても、其法にからまされては却て成就せぬことも有ものとぞ。
 龍をとる術を習うて、取べきの龍なく、また龍の絵を至って好みし人に、まことの龍顕われ出ければ目をまわせしというが如く、軍学の七書を、宋名将岳飛は少しも用いず。
 七書の趣にさこうて毎度大軍に勝しがごとく、義経公の逆落しも、正行公の京都へ逆寄せを真似て、秀吉公の先陣となりて権現様と御取合のせつ、池田勢入父子に森武蔵守打死めされしにて考え知るべし。
 然れども軍学なくて軍は出来ねども、例えば七書は只其可勝、可負の利をせめて書し者にて、此後とても名将の胸中よりは奇代の軍慮七書より出べし。万芸みなかくのごとしとたがいに感じぬる。≫ (『本阿弥行状記・中巻(八三)』)

(補記) 「本阿弥光悦と松花堂(滝本坊)照乗」との関係

「余も絵は少しはかく事を得たりといえども、中々其妙に至らざれば、あら壁の模様をよき絵の手本ともしらず。勿論古来よりあら壁に絵の姿ありと申事は聞伝うるといえども、目のあたり惺々翁のかきとられしにて疑いもはれ、何事も上達をせざれば其奥義をさとられぬ者と、今更のように思いぬ。」

「絵画」の世界は、余(光悦)も少しはやるが、「惺々翁」(「松花堂(滝本坊)照乗」」)には及ばないし、それを一つの見本としている。

「陶器を作る事は余は惺々翁にまされり。然れども是を家業体にするにもあらず。只鷹が峰のよき土を見立て折々拵え侍る計りにて、強て名を陶器にてあぐる心露いささかなし。是につき惺々翁と談ぜしことあり。」

「陶器」の世界は、余(光悦)が、「惺々翁」(「松花堂(滝本坊)照乗」」)を上回っている。しかし、これを、家業化(集団化)することはない。

「書画何芸にても天授という物ありて、いか程精を尽ても上達群を出る事凡出来ぬ物なり。けたいしては猶行ず。其外何芸にても、其法にからまされては却て成就せぬことも有ものとぞ。」

「書・画・陶・蒔絵・茶・華・香・能・曲・舞」等々の世界で、その道の「スペシャリスト」(その「道」の「天授の才ある者」)は目にする。しかし、その「スペシャリスト」は、往々にして、その世界に、とじ込まれ、その殻を破れない者が多い。

「龍をとる術を習うて、取べきの龍なく、また龍の絵を至って好みし人に、まことの龍顕われ出ければ目をまわせしというが如く、軍学の七書を、宋名将岳飛は少しも用いず。」

この一節は、酒井抱一句集の『屠龍之技』などと深く関わっているように思われる。

「 然れども軍学なくて軍は出来ねども、例えば七書は只其可勝、可負の利をせめて書し者にて、此後とても名将の胸中よりは奇代の軍慮七書より出べし。万芸みなかくのごとしとたがいに感じぬる。」

具体的には、光悦は、「書」(「光悦様」)、「陶芸」(「光悦茶碗」)、「漆芸」(「光悦蒔絵」)、「能」(「光悦謡本」)、「書画和歌巻」(「光悦・宗達の合作」)等々の、その個の世界にあっても、「アーティスト」(一分野での芸術家)として一流であるが、それが多岐に亘っての「マルチアーテスト又はマルチクリエーター」(多岐分野に亙る芸術家・創作活動家)、それに加えて、「プロデューサー(制作責任者)兼ディレクター(指揮・監督者)」という名を冠することが、より相応しいような、「琳派の創始者」の一人の、「ゼネラル・アーテスト」(総合芸術家)ということになる。(『光悦―琳派の創始者(河野元昭編)』所収「光悦私論」など)

 ここで、「琳派の創始者」の一人の「本阿弥光悦」の「絵画」については、その『本阿弥行状記・中巻(八三)』で、「余も絵は少しはかく事を得たり」と記しているが、今に、遺されているのは、下記のアドレスで紹介した、「扇面月兎画賛(せんめんげっとがさん)」(畠山記念館蔵)程度なのである。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-03-15

光悦・月に兎図扇面.jpg

本阿弥光悦筆「扇面月兎画賛(せんめんげっとがさん)」紙本着色 一幅
一七・三×三六・八㎝ 畠山記念館蔵
【 黒文の「光悦」印を左下に捺し、実態のあまりわかからない光悦の絵画作品のなかで、書も画も唯一、真筆として支持されている作品である。このような黒文印を捺す扇面の例は、同じく「新古今集」から撰歌した十面のセットが知られている。本図のように曲線で画面分割するデザインのもあり、それらとの関係も気になるところである。 】(『もっと知りたい 本阿弥光悦(玉蟲敏子他著)』)

(再掲)

(追記一)光悦の絵画作品など

赤楽兎文香合.jpg

本阿弥光悦作「赤楽兎文香合(あからくうさぎもんこうごう)」出光美術館蔵
重要文化財 一合 口径八・五㎝
http://idemitsu-museum.or.jp/collection/ceramics/tea/02.php
【寛永三筆と讃えられる本阿弥光悦は、工芸にも優れた作品を残しました。徳川家康より京・鷹ヶ峯の地を拝領して陶芸を始め、楽家二代・常慶、三代・道入の助力を得て作られた楽茶碗がよく知られています。本作は蓋表に白泥と鉄絵で「兎に薄」の意匠が描かれ、文様が施された稀少な光悦作品です。光悦は古田織部から茶の湯の手ほどきを受けており、本作には織部好みといえる、自由な造形が感じられます。茶人大名の松平不昧が旧蔵し、原三渓も所蔵していました。 】

 上記の二点のみが、「光悦の絵」の絵画作品として取り上げられいる全てである(『もっと知りたい 本阿弥光悦(玉蟲敏子他著)』)。
 この他に、本阿弥宗家に伝来されていたとの光悦筆「三十六歌仙図帖」は、現在は所在不明で、これは、整版本の『三十六歌仙』(フリア美術館ほか所蔵)とは別な肉筆画との記述がある(『玉蟲・前掲書』)。

 本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)は、「永禄元年(1558年) - 寛永14年2月3日(1637年2月27日))、江戸時代初期の書家、陶芸家、芸術家。書は寛永の三筆の一人と称され、その書流は光悦流の祖と仰がれる」(『ウィキペディア(Wikipedia)』)と紹介されるが、本業は「刀剣の鑑定・研磨・浄拭(ぬぐい)」が家業で、「書家、陶芸家、芸術家」というよりも、「書・画・陶芸(茶碗)・漆芸(蒔絵)・能楽・茶道・築庭」などに長じた「マルチタレント=多種・多彩・多芸の才能の持ち主」の文化人で、その多種・多彩・多芸の人的ネットワークを駆使して、「マルチ・クリエーター」(多方面の創作活動家)から、さらに、「ゼネラル・アーテスト」(総合芸術家)の世界を切り拓いていった人物というのが、光悦の全体像をとらえる上で適切のように感じられる。
 そして、光悦の人的なネットワークというのは、「相互互恵的・相互研鑽的」な面が濃厚で、例えば、その書は、寛永の三筆(近衛信尹・松花堂昭乗・光悦)そして洛下の三筆(昭乗・光悦・角倉素庵)、その画は、俵屋宗達 陶芸は楽家(常慶・道入)、漆芸は五十嵐家(太兵衛・孫三)、能楽(観世黒雪)、茶道(古田織部・織田有楽斎・小堀遠州)、そして、築庭(小堀遠州)、さらに、和歌(烏丸光広)、古典(角倉素庵)、儒学(角倉素庵・林羅山)等々、際限がなく広がって行く。
 そして、これらの人的なネットワークが結実したものの一つとして、近世初期における出版事業の「嵯峨本」の刊行が挙げられるであろう。この嵯峨本は、当時の日本(京都だけでなく)の三大豪商の「後藤家・茶屋家・角倉家」の一つの「角倉家」の、その角倉素庵が中心になり、そこに、「光悦・宗達」が加わり、さらに、「謡本」の「観世黒雪」そして、公家の「烏丸光広・中院通勝」等々が加わるのであろう。
 ここに、もう一つ、いわゆる、「光悦書・宗達画」の「和歌巻」の世界が展開されて行く。この「和歌巻」の一つが『鶴下絵和歌巻』で、この作品は、単に「光悦書・宗達画」の二人のコラボレーション(協同作品・合作)ではなく、広く「光悦・宗達・素庵」のネットワーク上に結実した総合的なコラボレーション(協同作品・合作)の一つと解したい。

兎桔梗図.jpg

宗達筆・烏丸光広賛「兎桔梗図」一幅 98.5×43.9㎝ 東京国立博物館蔵
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0013569

 この宗達筆の「兎桔梗図」の画賛(和歌)は、烏丸光広が自作の歌を賛しているようである。烏丸光広の歌(『烏丸亜相光弘卿集』)は、下記のアドレスで見ることができる。

http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=XYU1-046-03

(中略)

慶長五年(一六〇〇)光悦(43)このころ嵯峨本「月の歌和歌巻」書くか。関が原戦い。
☆素庵(30)光悦との親交深まる(「角倉素庵年譜」)。
同六年(一六〇一)光悦(44)このころ「鹿下絵和歌巻」書くか。
同七年(一六〇二)宗達(35?)「平家納経」補修、見返し絵を描くか。
同八年(一六〇三)☆光広(24?)細川幽斎から古今伝授を受ける(『ウィキペディア(Wikipedia)』)。徳川家康征夷大将軍となる。
同九年(一六〇四)☆素庵(34)、林蘿山と出会い、惺窩に紹介する。嵯峨本の刊行始まる(「角倉素庵年譜」)。
同十年(一六〇五)宗達「隆達節小歌巻」描くか。黒雪(39?)後藤庄三郎に謡本を送る。
徳川秀忠将軍となる。
同十一年(一六〇六)光悦(49)「光悦色紙」(11月11日署名あり)。
同十三年(一六〇八)光悦(51)「嵯峨本・伊勢物語」刊行。
同十四年(一六〇九)光悦(52)「嵯峨本・伊勢物語肖聞抄」刊行。☆光広(30?)勅勘を蒙る(猪熊事件)(『ウィキペディア(Wikipedia)』)。
同十五年(一六一〇)光悦(53)「嵯峨本・方丈記」刊行。
同十七年(一六一二)光悦(55)☆光悦、軽い中風を患うか(「光悦略年譜」)。
同十九年(一六一四)近衛信尹没(50)、角倉了以没(61) 大阪冬の陣。
元和元年(一六一五)光悦(58)家康より洛北鷹が峰の地を与えられ以後に光悦町を営む。古田織部自刃(62)、海北友松没(83)。大阪夏の陣。

☆「光悦略年譜」=『光悦 琳派の創始者(河野元昭編)』。「角倉素庵年譜」=『角倉素庵(林屋辰三郎著)』。

 「光悦・宗達・素庵」らのコンビが中心になって取り組んだ「嵯峨本」の刊行や「和歌巻」の制作は、慶長五年(一六〇〇)の「関が原戦い」の頃スタートして、そして、元和元年(一六一五)の「大坂夏の陣」の頃に、そのゴールの状況を呈すると大雑把に見て置きたい。
 そして、この「光悦・宗達・素庵」の人的ネットワークの中に、「黒雪・光広」などもその名を列ね、元和元年(一六一五)の、光悦の「洛北鷹が峰(芸術の郷)」の経営のスタートと、元和五年(一六一九)の、素庵の「嵯峨への隠退」(元和七年=一六二一、病症=癩発病)の頃を境にして、「光悦・宗達・素庵」の時代は終わりを告げ、「宗達・光広」、「光悦→光甫」、そして「宗達→宗雪・相説」へと変遷していくと大雑把な時代の把握をして置きたい。
 それに加えて、烏丸光広は、堂上派(二条家の歌学派中、細川幽斎以来の古今伝授を受け継いだ公家歌人の系統)の歌人であるが、地下派(堂上派の公家に対して、武士や町人を中心にし、古今伝授や歌道伝授を継受する歌風で、細川幽斎門下の松永貞徳派の歌人が中心となっている)の貞徳(幽斎から事実上「古今伝授」を授かっているが「古今伝授」者とは名乗れない)とは昵懇の間柄で、光広自身、  
「連歌・狂歌・俳諧・紀行・古筆鑑定」などの多方面のジャンルに精通している。
 その書も寛永の三筆(信尹・昭乗・光悦)とならび称され、その書風は光悦流とされているが、「持明院流→ 定家流→ 光悦流→ 光広流」と変遷したとされている(『ウィキペディア(Wikipedia)』)。
 ここで、上記の「小倉山荘色紙形和歌」(百人一首)の、光広の筆跡は、光悦と切磋琢磨した頃の「光悦流」のもので、宗達筆の「兎桔梗図」の画賛(和歌)した光広の書は、晩年の「光広流」のものと解したい。
 と同時に、光悦の数少ない絵画作品として知られる「扇面月兎画賛」と「赤楽兎文香合」は、宗達と光広のコラボレーションの作品の「兎桔梗図」などに示唆を受けたもので、「宗達・光広」の時代の、晩年の光悦時代にも、「宗達・光広」などとの切磋琢磨は続いていたものと解したい。
 そして、「宗達・素庵・黒雪・光広」等々の、光悦の黄金時代の「嵯峨本・和歌巻」の制作に協同して当たった面々は、光悦よりも一回りも二回りも若い、光悦流の、刀剣で例えれば、「あら身(新身・新刀・新しく鍛えた刀)」(『本阿弥行状記・上巻・四八段』)で、それらを、それぞれに鍛え上げっていった、その人こそ、本阿弥光悦の、その「マルチ・クリエーター」(多方面の創作活動家)にして「ゼネラル・アーテスト」(総合芸術家)たる所以なのであろう。

(追記) 「寛永文化」と「上層町衆・本阿弥光悦」周辺

 「寛永文化」(かんえいぶんか)につては、下記アドレスのものが参考となる。

https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=863

≪ 後水尾・明正天皇の寛永年間(一六二四―四四)を中心とした近世初頭の文化をさし、桃山文化の残映と元禄文化への過渡的役割を果たした。ふつう元和偃武ののち、明暦―寛文のころまでを含めて考えられる。
 江戸幕府の封建的体制の強化される時にあたって、京都の宮廷と上層町衆を中心としては、これに反撥的な古典的文化が成立し、江戸の武家を中心としては主として体制的な儒教的文化が発展した。その特質はしばしば西の桂(離宮)に対して東の日光(東照宮)が考えられるが、両者は対蹠的に寛永文化の二つの側面を代表しているといってもよいであろう。 
 しかしこれらは東西に対比されながら相互に交渉もあって、京都における寛永文化としては、二焦点の楕円形の文化構造が考えられる。
 この事実は、西の宮廷をみても、後水尾院のもとに入内した東福門院は江戸の姫君(徳川秀忠の女和子)であって、東の武家をも含みこむことができた。女院は入内後江戸に帰ることなく、京都人になりきって戦乱に荒廃した文化財の復興に力を尽くした。
王朝寺院として知られた清水寺・仁和寺などはこの時に復興され、女院の外祖父浅井長政の菩提をとむらう養源院もこの時に創立された。
 仁和寺近くに住んで野々村仁清の作品を世に出した金森宗和、養源院に板戸絵をえがいた俵屋宗達、いずれも宮廷に出入した芸術家であった。
 それらの群像のなかで元和元年(一六一五)より鷹ヶ峰に居を構えた本阿弥光悦は、まさに代表格であって、古典的教養にささえられ、書蹟に作陶に寛永文化を代表する作品をとどめた。
 この光悦とともにはやく嵯峨本の刊行に力を尽くした角倉素庵は、清水寺にかかげる扁額が示すように、父了以いらい安南貿易に雄飛しかつ国内の河川疏通に活躍した実業家であるが、同時に儒学においても一家をなした。この光悦・素庵こそは寛永文化を創造した二つの焦点であったとみられる。
 その楕円形のなかには、近衛信尋・中院通勝・烏丸光広・俵屋宗達・灰屋紹益・千宗旦もおれば、板倉重宗・藤原惺窩・林羅山・堀正意・石川丈山・狩野探幽などもおり、ここに公武・和漢の文化の綜合が考えられるのである。
 しかし寛永文化の特徴は、やはり京都を舞台とした古典復興のなかに最も重点があり、そのにない手は上層町衆たちであった。そのあたりから京都島原の角屋の意匠なども、寛永文化にねざしたものということができるのである。なお寛永文化は江戸よりも加賀にゆかりが深く、光悦は先代いらい加賀前田家に仕えていたが、前田利常の女富姫は桂宮(八条宮)二代智忠親王のもとに輿入れし、利常の弟利政の女は角倉素庵の長男玄紀の後妻となっていて、加賀と京とを深く結びつけていた。
 また利常の生母寿命院ゆかりの能登妙成寺の伽藍は、すべて寛永文化の地方版をみるごとく新鮮である。近世初期京都への憧憬のなかで営まれた地方の文化遺産には、寛永文化の伝播の姿と見られるものは多い。
[参考文献]
林屋辰三郎『中世文化の基調』、同『寛永鎖国』(『国民の歴史』一四)、同『近世伝統文化論』
(林屋 辰三郎)≫(「ジャパンナレッジ」)

 これに、下記アドレスの、「学問(藤原惺窩・林羅山)」「建築(日光東照宮・桂離宮と修学院離宮)」「絵画(狩野派・装飾画)」「工芸(蒔絵・楽焼・有田焼)」「芸能(茶道・書道)」「文学(仮名草紙・俳諧)」の各分野毎のものが参考となる。(山川出版社版の高校日本史教科書『詳説日本史B』をベースにしている。)

http://www2.odn.ne.jp/nihonsinotobira/kanei.html

 さらに、「上層町衆・本阿弥光悦」周辺については、下記アドレスの「<論説>近世初頭における京都町衆 の法華信仰 (藤井学稿「特集 : 都市研究」)」が参考となる。

https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/249377/1/shirin_041_6_520.pdf

 これらの、「寛永文化」と「上層町衆・本阿弥光悦」周辺に関しては、下記のアドレスで紹介した、『光悦 琳派の創始者(河野元昭編・宮帯出版社・2015年)』が、上記のことなどを踏まえて、それぞれの専門家によってまとめられている。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-02-19

(再掲)

Ⅰ 序論  「光悦私論」(河野元昭稿)
Ⅱ 光悦とその時代  
  「光悦と日蓮宗」(河内将芳稿)
  「近世初頭の京都と光悦村」(河内将芳稿)
  「光悦と寛永の文化サロン」(谷端昭夫稿)
  「光悦と蒔絵師五十嵐家」(内田篤呉稿)
  「光悦と能-能役者との交流」(天野文雄稿)
  「光悦と朱屋田中勝介・宗因」(岡佳子稿)
  「光悦と茶の湯」(谷端昭夫稿)
Ⅲ 光悦の芸術  
  「書画の二重奏への道-光悦書・宗達画和歌巻の展開」(玉蟲敏子稿)
  「光悦の書」(根本知稿)
  「光悦蒔絵」(内田篤呉稿)
  「光悦の陶芸(岡佳子稿)
Ⅳ 光悦その後  
  「フリーアと光悦-光悦茶碗の蒐集」(ルイーズ・A・コート稿)

 そして、この書に関して、『嵯峨野明月記(辻邦生著・新潮社・1971)』の、「一の声(光悦)」「二の声(宗達)「三の声(素庵)」などを紹介し、「光悦と嵯峨本(光悦と素庵)」そして「「和歌・書・画の三重奏の道―光悦・宗達・素庵らの和歌巻の展開」などの項目も付加して欲しいことなどを記した。

(再掲)

「一の声(光悦)」=私が角倉与一(素庵)から私の書に対する賛辞でみちた手紙を受け取ったのもその頃のことだ。私は与一とはすでに十五年ほど前、角倉了以殿と会った折、一度会っているはずだが、むろんまだ、十二、三の少年だったわけで、直接な面識はほとんどないに等しかった。

「二の声(宗達)」=本阿弥(光悦)は角倉与一(素庵)からおのれ(宗達)の四季花木の料紙を贈られ、和歌集からえらんだ歌をそれに揮毫していて、それが公家や富裕の町衆のあいだで大そうな評判をとったことは、すでにおれのところに聞こえていた。

「三の声(素庵)」=わたしは史記を上梓したあと、観世黒雪(徳川家と親しい能役者・九世観世大夫)の校閲をたのんで、華麗な謡本に熱中していた。その頃は、本阿弥(光悦)がすでに装幀、体裁、版下を引きうけ、細心な指示をあたえていた。史記で用いた雲母摺りの唐草模様を、さらに華やかにするため、表紙の色を変え、題簽をあれこれと工夫した。

鶴下絵和歌巻・全体.jpg

「鶴下絵三十六歌仙和歌巻、別称『鶴図下絵和歌巻』」(絵・俵屋宗達筆 書・本阿弥光悦筆 紙本著色・34.0×1356.0cm・江戸時代(17世紀)・ 重要文化財・A甲364・京都国立博物館蔵)
https://www.kyohaku.go.jp/jp/syuzou/meihin/kinsei/item02.html

短冊帖・千羽鶴.jpg

参考A図「四季草花下絵和歌短冊帖(千羽鶴)」一帖(山種美術館蔵)
俵屋宗達(絵)・本阿弥光悦(書) 紙本・金銀泥絵・彩色・墨書・短冊・画帖(1冊18枚のうち1枚) 37.6×5.9㎝
https://bunka.nii.ac.jp/db/heritages/detail/248875
【93「短冊帖・本阿弥光悦」一帖(山種美術館蔵)
  もと6曲1双の屏風に20枚貼り交ぜであったもので、現在は18枚が短冊帖に改装され、残る2枚は散佚した。金銀泥で描く装飾下絵は、桔梗に薄・波に千羽鶴・団菊・藤・つつじ・萩・朝顔ほかさまざまあり、いずれも構図に工夫が凝らされている。中に、胡粉を引いたものや金銀の砂子を撒いたものも散見する。とくに銀泥で描いた部分は墨付きの都合で、肉眼でも判然としない箇所があるが、その下絵を縫って見え隠れする豊潤な筆致がかえって立体感を生み出している。慶長年間の筆。(『創立百年記念特別展 琳派(東京国立博物館編・1972年)』)の「モノクロ図版」の解説 】

群鶴蒔絵硯箱.jpg

参考B図「群鶴蒔絵硯箱」一合「蓋表」(東京国立博物館蔵)
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0048252
【258 「群鶴蒔絵硯箱」(東京国立博物館蔵)
 方形、削面、隅切の被蓋造で、身の左に水滴と硯を嵌め、右に筆置と刀子入を置いた形式は琳派特有のものである。総体を沃懸地に仕立て、蓋表から身の表にかけて、流水に5羽の鶴が飛翔する図を表している。水文は描割で簡単に表わし、その上に厚い鉛板を嵌めこんで鶴を配し、くちばしや脚には銅板を用いている。一見無造作で簡略化した表現のように見えるが、各材料の用法などには充分配慮がゆきとどいた優品の一つである。(『創立百年記念特別展 琳派(東京国立博物館編・1972年)』) )の「モノクロ図版」の解説 】
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渡辺崋山の「俳画譜」(『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』) [渡辺崋山の世界]

(その二) 『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』の「松花堂画法」周辺

「松花堂照乗《茄子図》」.jpg

『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』の「松花堂照乗《茄子図》」」(「早稲田大学図書館蔵」)
https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/bunko31/bunko31_a1175/index.html
https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko31/bunko31_a1175/bunko31_a1175_p0003.jpg

≪「茄子図」 松花堂画法 / 惺々翁ハ法ヲ遠ニ取リ/務テ時史ノ風ヲ脱ス (法ヲ縁古ニ取リテ、務テ時史ノ風ヲ脱ス) ≫(『俳人の書画美術11 江戸の画人(鈴木進執筆・集英社))』所収「図版資料(森川昭稿)」に由っている。)

(参考その一)「松花堂昭乗」周辺

https://www.asahi-net.or.jp/~uw8y-kym/hito4_syojou.html

≪ ■松花堂昭乗(しょうかどうしょうじょう)天正12年(1584)~寛永16年(1639)9月18日

●松花堂昭乗
 松花堂昭乗は、慶長5年(1600)石清水八幡宮の社僧となり、次いで瀧本坊の住職となりました。昭乗は、書道、絵画、茶道の奥義を極め、近衛信尹、本阿弥光悦とともに寛永の三筆と称せられました。

●昭乗の出生・素性は謎
 松花堂昭乗は摂津国堺で生まれ、幼名を辰之助と言いました。兄の喜多川与作が12歳の時、その聡明さを見込まれて興福寺別当一乗院門跡の坊官であった中沼家に迎えられ、この兄に従って奈良に移りました。しかし、その昭乗の出生、素性については、実ははっきりしていません。昭乗と親しかった佐川田昌俊が記した「不二山黙々寺記」によると天正12年(1584)に生まれたとしていますが、「中沼家譜」によれば天正10年(1582)に生まれたことになります。また、昭乗が父母について語ったことがないと伝えられ、昭乗の師であった実乗は、昭乗のことを「捨て子であったものを拾い上げて育てた」と言っています。このとき、すでに昭乗は9歳。少し疑問が残ります。このため、昭乗は豊臣秀次の子であったともいわれています。

●青年期の昭乗
 慶長5年(1600)、昭乗17歳の時、石清水八幡宮瀧本坊実乗のもとで剃髪をして社僧となり、このとき名を昭乗と改めました。特に青蓮院流を学びましたが、慶長7年(1602)、昭乗20歳のとき、四天王寺に参詣して弘法大師の巻物を拝観し、いたく感動、その後大師流を学び、空海を慕って唐風をを祖述したといわれます。そして昭乗は後に松花堂流とも言うべき書風を確立しました。

昭乗の作品「茄子」

「松花堂照乗《茄子図》」2.jpg

●昭乗の交友
 昭乗は、書道のほか、歌道、絵画にもすぐれ、茶道にもその才能を発揮しました。絵画では狩野山楽、山雪について大和絵を学びました。山楽が大坂落城後、昭乗を頼って八幡に来たとき、昭乗は「山楽は絵師で会って武士にあらず」と言い張って、徳川の追求から護ったと伝えられてます。また、茶道を通じて大徳寺の玉室・沢庵・江月などの禅僧や小堀遠州・金森宗和などの大名茶人と交友を深めました。また、昭乗の茶会記には、豪商淀屋个庵の名も見えます。このときの淀屋は2代目言當でした。
 寛永3年(1626)6月11日、前将軍秀忠並びに将軍家光が入洛のため江戸を出発したという状況のなかで、伏見城内で催された茶会では、先に入洛していた尾張中納言徳川義直を席主として、当時伏見奉行の任にあった小堀遠州とともに関白近衛信尋を招待し、義直と信尋の接近を図り、公家と武士の間の斡旋に尽力しています。
 昭乗は若い頃、近衛信尹に仕えて以来、近衛家とはきわめて深い関係にありました。信尹が嗣子がなかったため、妹前子が入内して後陽成天皇との間に生まれた皇子を近衛家に迎え、これが信尋でしたが、この信尋とも昭乗は親密な関係にありました。また、尾張徳川家の祖義直は、石清水八幡宮の社務田中家の分家にあたる志水宗清の娘である亀女が徳川家康に嫁ぎ、その間にもうけた子であったから、義直とも特別な関係にあったことから両者の斡旋にあたるにはもっともふさわしい位置にあったといえます。

●晩年の昭乗
 寛永4年(1627)に師実乗の遷化にともない、瀧本坊の住職となりました。このとき昭乗45歳。数年後、火災により、瀧本坊が焼失してからは、兄元知の子で弟子の乗淳に住職を譲り、自らは「惺々」と号して風雅の境地を築きました。
昭乗が人生の晩年に幽栖するために寛永14年(1637)に男山中腹の泉坊のそばに作った草堂が「松花堂」といわれるもので、たった二畳の広さの中に茶室と水屋、く土、持仏堂を備えた珍しい建物です。ここに詩仙堂の石川丈山や小堀遠州、木下長嘯子、江月、沢庵など、多くの文人墨客が訪れ、さながら文化サロンの風だったと伝えられています。
 松花堂の軒にかかる小さな扁額には「松花堂」と隷書で彫られ、「惺惺翁」の落款が見えます。「老いてなお、心は冴え冴え」というもので、昭乗の心が偲ばれます。

●昭乗の入寂
 寛永16年(1639)、このころから昭乗の背中に腫れ物ができ、昭乗は痛みをこらえる日々が続いたようです。実は昭乗の師であった実乗、また実乗の師の乗裕も背中にはれものができて、それが原因で亡くなっています。このことから、昭乗はこのとき自分の死期を悟ったようです。伏見奉行だった小堀遠州は、昭乗を伏見に呼び、名医による治療を受けさせましたが効果はありませんでした。近衛信尋も病気見舞いに訪れるなど、多くの人たちに愛されながら同年9月18日、55歳の生涯を閉じました。本阿弥光悦の80歳など「寛永の三筆」の中では短命でした。昭乗の墓は、八幡市八幡平谷にある泰勝寺にあります。また、昭乗が晩年に過ごした「松花堂」は今は八幡女郎花の松花堂庭園内に再現されています。≫

(参考その二)「松花堂画寄合賛絵」周辺

https://h29-shokadoshojo.amebaownd.com/posts/3320620/

「松花堂照乗《茄子図》」3.jpg

「茄子図 松花堂画寄合賛絵巻のうち」(個人蔵)
≪ 松花堂昭乗が花鳥や人物を描き、そこに様々な人物が着賛した「松花堂画寄合賛絵巻」。八幡名物としても知られるこの絵巻は、昭和期に分断されて掛軸装となり、諸方に所蔵されています。この「茄子図」もその一つです。
 ぷっくりとした茄子が枝になっている様子を描いたこちらの作品。墨の濃淡と一部に青墨を用いて描かれるこの茄子は、平面にもかかわらず、その重みや円味をありありと感じることができます。茄子からその周りに目を転じると、茄子がぶら下がっている葉には少しずつ濃淡の違いがみられ、それによって奥行きが感じられるようになっています。じーっと見ていると、まるで立体図のようにも見えてきます。
 昭乗の友人で親交の深かった佐川田昌俊という人物は、昭乗の絵を評して「梅花を画くに、匂いあるがごとく」と述べています。描かれているものから五感を刺激されるような…目の前に茄子があり、そのツヤを感じ、重みを感じることができる。昭乗の絵は、どこかそんな不思議な力を持っているようです。≫

(参考その三)「『松花堂画寄合賛絵の模写本』について(田中敏雄稿)」周辺

https://www.grad.osaka-geidai.ac.jp/app/graduation-work/bulletin-paper/geibun25_tanaka.pdf

雉子図.jpg

(図一)「雉子図」(墨画淡彩/五五、六㎝(図3)/かり人の入野のききす打忍ひはるを社ゑね妻やこふらむ行章/賛者今小路行)

「竹図」.jpg

(図二)「竹図」(墨画/五七、二㎝(図2)/虚心寫出両竿竹不滅不生霜節堅「印」/「印」/賛者不詳)

鶏図.jpg

(図三) 「鶏図」(墨画淡彩/五一、五㎝(図4)/大そらにとひ立かねてうち羽ふきかけそと啼か哀れなりけり景樹/賛者・香川影樹《一七六八~一八四三・京都の歌人》)

(図四) 「夢蝶図」→ この図は切り取られていて無し。

芙蓉図.jpg

(図五)「芙蓉図」(墨画/七二、一㎝(図5)/其葉葳蕤霜照夜此花爛慢炎焼秋山口正風「印」/賛者・山口正風)

葡萄図.jpg

(図六) 「葡萄図」(墨画六一、四㎝(図6)/西域誰傳紫玉枝秋季馬乳帯霜肥不憂酒渇相如苦一嚼清/冷味最奇橘山題「印」 「印」/賛者畑柳敬(一七五六~一八二七)・京都の医者・儒)

菊図.jpg

(図七)「菊図」(着色/四八、○㎝(図7)/いろことに〇〇〇菊のうつしゑハあきなき時もかれす見るへき彦澄/賛者・小川彦澄)

梅雀図・鹿図・蕣図.jpg

(図八)「梅雀図」(着色/三七、〇㎝(図8)/〇〇猶来細禽夢乎醒暁風吹彩後梅香凝〇腥鶴橋/柚木太淳「印」 「印」/賛者・柚木太淳(一七六二~一八〇三)/京都の眼科)

(図九)「鹿図」(墨画め六二、九㎝(図9)/色ふかくにほへるはきの花つまにむつれてあそふ野辺のさをしか道覚/賛者・知足院道覚

(図十) 「蕣図」(墨画/五五、八㎝(図10)/このあきのとはなはしらし夕くれをまたてうつろう花のあさかほ重榮/賛者・山下重榮)

山梔鶯図・竹雀図・鳩図など.jpg

(図十一) 雁図」(墨画/四九、○㎝(図11)/秋風を翅にかけつつうら枯のあしの入江に落るかりかね真應/賛者・金剛院真應)

(図十二)「山梔鶯図」(着色/四〇、二㎝(図12)/自経消臘雪林苑鎖煙霞芳意殊凡卉獨/開六出花 皆川愿/題「印」「印」/賛者・皆川淇園(一七三五~一八〇七)・京都の儒学者)

(図十三)「竹雀図」(墨画/五七、一㎝(図13)/ちからなき竹のさえたにあそぶめり起居かろけにみゆるすゝめは/蒿蹊「花押」/賛者・伴蒿蹊(一七三三~一八〇六)・京都の歌人、学者)

(図十四)「鳩図」(墨画/五七、二㎝(図14)/鳩栖桑樹枝凾婦婦何之欲呼無處所縮項空相思之熙 「印」「印」/賛者・京都の儒者・村瀬栲亭(一七四四~一八一九))

(図十五) 「竹眉鳥図」(着色/四七、九㎝(図15)/長喙華毛易誤躬待人苦々含彫籠憐汝獨来阿堵裏柔梢自在喙春蟲徳方拝題「印」/賛者・中嶋泰志(一七四七~一八一六)・京都の儒
者)

叭々鳥図・水仙図.jpg

(図十六) 「叭々鳥図」(墨画五八、 三㎝(図16)/江南春樹雨濛々鸜鵒多懐語暁風莫謂羽毛設文采嗟它鸚鵡鎖重籠橘州禎「印」 印」/賛者・畑柳泰(一七六五~一八三二)・京都の医者)

(図十七)「水仙図」(着色/四七、七㎝(図17)/百草花中第一名氷肌雪骨月魂清風惜獨有寒梅似曽結芳盟為弟兄釈志岸拝題「印」「印」/賛者・菩提院志岸)

茄子図・図18.jpg

(図十八)「茄子図」(墨画/六〇、〇㎝(図18)/二月のふりにはあらぬはつなすひ多か苑生にか折えたりけん保考賛/賛者・岡本保考(一七四九~一八一八)・京都の書家)

瓜図・舟図.jpg

(図十九)「瓜図」(墨画/五八、三㎝(図19)/鵝渓寫書一蒼毬知是春門處士疇不用灌培生意勤何開納履有人例 愛親/賛者・公卿 中山愛親(一七四一~一八一四)・正二位権大納言)

(図二十)「船図」(墨画/四八、三㎝(図20)/小朶知〇處洞庭水来波渡頭縦有待千古汲人過峩眉竜 潭謹題「印」「印」/賛者・天龍寺竜潭西)

船子図・水月図他.jpg

(図二十一図) 「船子図」(墨画/五二、一㎝(図21)/上無片尾蓋霜頭下有長江可擲鈎偶遇金鱗禹碧浪山遥水闊荻蘆 秋宗弼「印」「印」/賛者・南禅寺宗弼西堂)

(図二十二)「菊図」(墨画/五八、七㎝(図 22) 秋色菊形芨一枝絹上妍不霜瓊座砕長賞入詩篇元真賢題 「印」/ 賛者・坂元鈞閑斎)

(図二十三) 「栗図」(墨画/四七、四㎝(図23)/寫真故謝寫嬋娟一種秋容宛可眸想看寒厳幽谷莫葉間山蝟座疎烟規拝題「印」/賛者・中嶋棕隠(一七七九~一八五五)・京都の儒学者、漢詩)

(図二十四) 「水月図」(墨画/七〇、六㎝(図24)/賛なし)

(参考その四)「松花堂照乗データベース」周辺

http://shoukado-shojo.net/

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渡辺崋山の「俳画譜」(『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』) [渡辺崋山の世界]

(その一) 『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』の「崋山の序」周辺

『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』の「崋山の序」.jpg

『崋山俳画譜(鈴木三岳編)』の「崋山の序」(「早稲田大学図書館蔵」)
https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/bunko31/bunko31_a1175/index.html
https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko31/bunko31_a1175/bunko31_a1175_p0003.jpg

≪ 俳諧絵は唯趣を第一義とといたし候。元禄のころ一蝶許六などあれども風韻は深省などまさり候。此風流の趣は古き所には無く、滝本坊、光悦など昉(はじま)りなるべし。はいかゐには立圃見事に候。近頃蕪村一流を昉(はじ)めおもしろく覚候。かれこれを思ひ合描くべし。すべておもしろかく気あしく、なるたけあしく描くべし,これを人にたとへ候に世事かしこくぬけめなく立板舞物のいひざまよきはあしく、世の事うとく訥弁に素朴なるが風流に見へ候通、この按排を御呑込あるべし。散人 ≫(『俳人の書画美術11 江戸の画人(鈴木進執筆・集英社))』所収「図版資料(森川昭稿)」に由っている。)

(補記)

一 「俳諧絵」=「俳画」=「俳画(はいが)は、俳句を賛した簡略な絵(草画)のこと。一般には俳諧師の手によるものであり、自分の句への賛としたり(自画賛)、他人の句への賛として描かれるが、先に絵がありこれを賛するために句がつけられる場合や、絵と句が同時に成るような場合もある。さらに敷衍して、句はなくとも俳趣を表した草画全般をも指す言葉としても用いられる。『俳画』という呼称は渡辺崋山の『全楽堂俳諧画譜』にはじまるとされており、それ以前の与謝蕪村などは『俳諧物の草画』と称していた。」(「ウィキペディア」)

二 「一蝶」=「英 一蝶(はなぶさ いっちょう、承応元年(1652年) - 享保9年1月13日(1724年2月7日))は、日本の江戸時代中期(元禄期)の画家、芸人。本姓は藤原、多賀氏、諱を安雄(やすかつ?)、後に信香(のぶか)。字は君受(くんじゅ)。幼名は猪三郎(ゐさぶらう)、次右衛門(じゑもん)、助之進(すけのしん)(もしくは助之丞(すけのじょう))。剃髪後に多賀朝湖(たがちょうこ)と名乗るようになった。俳号は「暁雲(ぎょううん)」「狂雲堂(きょううんだう)」「夕寥(せきりょう)」。
 名を英一蝶、画号を北窓翁(ほくそうおう)に改めたのは晩年になってからであるが、本項では「一蝶」で統一する。尚、画号は他に翠蓑翁(すいさおう)、隣樵庵(りょうしょうあん)、牛麻呂、一峰、旧草堂、狩林斎、六巣閑雲などがある。」(「ウィキペディア」)

三 「許六」=「森川 許六(もりかわ きょりく)は、江戸時代前期から中期にかけての俳人、近江蕉門。蕉門十哲の一人。名は百仲、字は羽官、幼名を兵助または金平と言う。五老井・無々居士・琢々庵・碌々庵・如石庵・巴東楼・横斜庵・風狂堂など多くの別号がある。近江国彦根藩の藩士で、絵師でもあった。」(「ウィキペディア」)

四 「深省」=「尾形 乾山(おがた けんざん、 寛文3年(1663年) - 寛保3年6月2日(1743年7月22日)は、江戸時代の陶工、絵師。諱は惟充。通称は権平、新三郎。号は深省、乾山、霊海、扶陸・逃禅、紫翠、尚古斎、陶隠、京兆逸民、華洛散人、習静堂など。一般には窯名として用いた「乾山」の名で知られる。)(「ウィキペディア」)

五 「滝本坊」=「松花堂昭乗(しょうかどう しょうじょう、天正10年(1582年) - 寛永16年9月18日(1639年10月14日))は、江戸時代初期の真言宗の僧侶、文化人。姓は喜多川、幼名は辰之助、通称は滝本坊、別号に惺々翁・南山隠士など。俗名は中沼式部。堺の出身。書道、絵画、茶道に堪能で、特に能書家として高名であり、書を近衛前久に学び、大師流や定家流も学び,独自の松花堂流(滝本流ともいう)という書風を編み出し、近衛信尹、本阿弥光悦とともに『寛永の三筆』と称せられた。なお松花堂弁当については、日本料理・吉兆の創始者が見そめ工夫を重ね茶会の点心等に出すようになった「四つ切り箱」、それを好んだ昭乗に敬意を払って『松花堂弁当』と名付けられたとする説がある。」(「ウィキペディア」)

六 「光悦」=「本阿弥 光悦(ほんあみ こうえつ、永禄元年(1558年) - 寛永14年2月3日(1637年2月27日))は、江戸時代初期の書家、陶芸家、蒔絵師、芸術家、茶人。通称は次郎三郎。号は徳友斎、大虚庵など[1]。書は寛永の三筆の一人と称され、その書流は光悦流の祖と仰がれる。」(「ウィキペディア」)

七 「立圃」=「雛屋 立圃(ひなや りゅうほ、文禄4年〈1595年〉 - 寛文9年9月30日〈1669年10月24日〉)は、江戸時代初期の日本の京都で活動した絵師であり、俳人でもある。姓は野々口(ののぐち)、名は親重(ちかしげ)[1]。立圃、立甫、甫、松翁、日祐、風狂子と号している。野々口 立圃としても知られる。また、俗称として、紅屋庄衛門、市兵衛、次郎左衛門、宗左衛門など諸説がある。絵師としては狩野派に属する。」 (「ウィキペディア」)

八 蕪村=「与謝 蕪村(與謝 蕪村、よさ ぶそん、よさの ぶそん 享保元年(1716年) - 天明3年12月25日(1784年1月17日))は、江戸時代中期の日本の俳人、文人画(南画)家。本姓は谷口、あるいは谷。「蕪村」は号で、名は信章。通称寅。「蕪村」とは中国の詩人陶淵明の詩『帰去来辞』に由来すると考えられている。俳号は蕪村以外では「宰鳥」「夜半亭(二世)」があり、画号は「春星」「謝寅(しゃいん)」など複数ある。」(「ウィキペディア」)

(参考)「渡辺崋山の草体画(2)―崋山と洒脱なへたうま画の極み俳諧画―」(「おもしろ日本美術3」No.6)

http://www.bios-japan.jp/omoshiro6.html

≪ 崋山は俳句の宗匠太白堂の知己を得て、自ら俳句を詠み、俳句関係の版本『桃下春帖』『いわい茶』『華陰稿』『月下稿』等の表紙やカットの筆をとっていた(蛮社の獄後は椿山に委ねる)。また、俳画はもちろん戯画略画の洒脱でいきな味わいを好み、自ら描くことも多かった。俳画は俳句の師匠や俳句好きの旦那衆が戯れに描いたところの素人絵に発するが、稚拙ながらもほのぼのとした訥々たる味わいを持つ、今のニューペインティングにいうへたうま的なものが好まれた。
 それも、蕪村や呉春、抱一など本格的な絵師が参入するようになり、また大雅や寒葉斎らの軽いタッチのうちにシャレた雅味を封じ込める軽妙な筆が評判を得て、稚拙な持ち味そのままに高い洗練性を誇る優品が数多く生まれた。
 そもそも、崋山の俳句への関わりは一通りでなく、太白堂五世、六世それぞれと深い付き合いをしていた。太白堂一家とは父巴洲の知り合いであった五世太白堂加藤萊石(初め山口桃隣、崋山『寓絵堂日録』に肖像あり)のころから親しい間がらで、次の六世太白堂(江口孤月、崋山は「華陰兄」と呼ぶ)の代に跨って二十余年間、俳句の世界にも積極的に身を投じていた(俳号は桃三堂支石)。『桃下春帖』天保八年冊に「見に出たる事はわすれて柳かげ」との句を寄せ太白堂との交誼に関する識語を添えている。
 『桃下春帖』は各冊百丁余りで、ほぼ毎頁に崋山の絵を版下としたカットで埋め尽くされており、また、崋山が版下を任された太白堂の年始廻りの配り物の四角奉書色刷りの俳画も数多く知られている。
 崋山の俳画帖については、晩年の『俳画譜』が秀抜で、田原蟄居中に崋山の信奉者である鈴木與兵衛のために俳画の手本として描き与えたものである。崋山歿後與兵衛は、版に起こして世に公刊。明治にはコロタイプの複製も出ている。
 『俳画譜』の自序に、「俳諧絵は唯趣を第一義といたし候。・・・此風流の趣は古き所には無く、瀧本坊、光悦など昉りなるべし。はいかゐには立圃見事に候。近頃蕪村一流を昉めおもしろく覚え候。かれこれ思い合描くべし。すべておもしろくかく気あしく、なるたけあしく描くべし。これを人にたとへ候に世事かしこくぬけめなく立振舞物のいひざまよきはあしく、世の事うとく訥弁に素朴なるが風流は見え候通、この按排を御呑込あるべし。」とあり、自らの確固たる俳画論を披歴している。絵は野々口立圃、英一蝶、松下堂昭乗、森川許六、与謝蕪村、本阿弥光悦等々崋山が推挙する俳画の名手の法に従った倣画を連ねて適宜コメントを添えている。原本は尼崎のY家所蔵。(文星芸術大学 上野 憲示) ≫

(補記その一)  「近世俳人略系譜」と「太白堂(天野桃隣)俳諧系譜」
「近世俳人略系譜」→ https://www.town.kamisato.saitama.jp/1296.htm

太白堂(天野桃隣)俳諧系譜.jpg

太白堂系譜.jpg

「太白堂(天野桃隣)俳諧系譜」→ https://www.town.kamisato.saitama.jp/1295.htm

(補記その二)「 桃家春帖 / 太白堂孤月 [編] ; [渡辺崋山] [ほか画] 」周辺
著者/作者 Author: 孤月, 1789-1872・渡辺 崋山, 1793-1841
https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/bunko31/bunko31_a1111/index.html


「桃家春帖・ 太白堂孤月編・渡辺崋山].jpg

「桃家春帖 / 太白堂孤月 [編] ; [渡辺崋山] [ほか画]」所収「渡辺崋山(俳号=桃三堂支石「句=「見に出たる事はわすれて柳かげ」(118/131))(「早稲田大学図書館蔵」)
https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/bunko31/bunko31_a1111/index.html
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抱一再見」(続「忘れがたき風貌・画像」) [抱一再見]

(その二十)「抱一の『猫図(抱一画・鵬斎賛)」(その周辺)

猫図(酒井抱一画・亀田鵬斎賛).jpg

「猫図(酒井抱一画・亀田鵬斎賛)」(一幅・個人蔵))

≪ 図版解説119  
 一風変わったこの猫の絵には、「壬戌之春正月十四日」と年紀のある亀田鵬斎(一七五二~一八二六)の賛がある。「抱弌」の印のみが捺された新出作品。壬戌は享和二年(一八〇二)で、抱一画としても早期の、また鵬斎との交流の証としては最初期のものとなる。この年、抱一と鵬斎とは、文晁らとともに常州金龍寺に取材旅行に出かけている。≫(『酒井抱一と江戸琳派の全貌・求龍堂』所収「図版解説119 (松尾知子稿)」)

≪ 作品解説119  
 亀田鵬斎の賛は、ある美しい猫のさまを詠う。
  本是豪家玳瑁(たいまい)兒
  眞紅纏頸金鈴垂
  沈香火底座氈睡
  芍薬花辺趁蝶戯
  磨爪潜條鼠敖者
  拂眉常卜客来時
  平生為受王姫愛
  認得情人出翠愇
   壬戌之春正月十四日
      鵬斎閑人題
 猫の絵は、細い線で輪郭はとるが、ヒゲは白、目は黄色の色彩を少し加え、瞳孔は細く、ほとんど開いていない。
 この猫の姿に対し「寝ための猫」(あるいは寝ざめ)と題した箱は、池田孤邨によるもの。その蓋裏には、「孤邨三信題函」と署名した孤邨のほか、一門の松嶺、緑堂昌信、野沢堤雨が揃って、猫が蝶と戯れることにちなんだものか、蝶の絵の寄せ書きをしているのも珍しい。(挿図=p423、挿図119) 抱一の画譜のために丹念な描写をしている彼らにとっても、珍重な一図であったことであろう。≫(『酒井抱一と江戸琳派の全貌・求龍堂』所収「作品解説119 (松尾知子稿)」)

 この「享和二年(一八〇二)」は、抱一、四十二歳の時で、この「猫図」に関連した句が、『屠龍之技』(「千ずかのいね」)に収載されている。

5-23 から貓(猫)や蝶噛む時の獅子奮進 (『屠龍之技』(「千ずかのいね」)

https://yahantei.blogspot.com/2023/05/5-195-24.html

(再掲)

≪ 季語は「蝶」(三春)。しかし、この句の主題は、上五の「から貓(猫)や」の「唐猫」にある。そして、「猫の恋」は「初春」の季語となる。
  その「猫の恋」は、「恋に憂き身をやつす猫のこと。春の夜となく昼となく、ときには毛を逆立て、ときには奇声を発して、恋の狂態を演じる。雄猫は雌を求めて、二月ごろからそわそわし始め、雌をめぐってときに雄同士が喧嘩したりする。」(「きごさい歳時記」)

(例句)
猫の恋やむとき閨の朧月    芭蕉 「をのが光」
猫の妻竃の崩れより通ひけり 芭蕉 「江戸広小路」
まとふどな犬ふみつけて猫の恋 芭蕉 「茶のさうし」
羽二重の膝に飽きてや猫の恋 支考 「東華集」
おそろしや石垣崩す猫の恋   正岡子規 「子規句集」
恋猫の眼ばかりに痩せにけり 夏目漱石 「漱石全集」

 掲出の抱一の「から貓(猫)や蝶噛む時の獅子奮進」は、上記の「例句」の「まとふどな犬ふみつけて猫の恋(芭蕉)」の、その本句取りのような一句である。

 まとふどな犬ふみつけて猫の恋(芭蕉「茶のさうし」)

http://www.basho.jp/senjin/s1704-1/index.html

「句意は『恋に狂った猫が、ぼおっと横になっている犬を踏みつけて、やみくもに走って行ったよ。』
 私がこの句を知ったのは朝日新聞の天声人語(2017.2.22朝刊)に「猫の恋」の話の中で、「情熱的な躍動を詠んだ名句の一つ」として載っていたからである。「またうどな」と新聞では表記されていた上五の意味がわからないことで興味をもった。
「またうど」は『全人』でもとは正直、真面目、実直などの意であるが、愚直なことや馬鹿者の異称として用いられたこともあるという(『江戸時代語辞典』)。
 そこで私は上記のように解釈したのだが、確かに恋に夢中になった猫が普段怖がっている犬を踏みつけて走っていく状況は面白い。猫の気合とのんびりした犬の対比の面白さとして取り上げた評釈もあるが、私は猫の夢中さを描いた句ととりたい。
 この句の成立時期ははっきりしていないものの、芭蕉にしては即物的な珍しい句という感じがする。(文・ 安居正浩)」(「芭蕉会議」)

喜多川歌麿『青樓仁和嘉・通ひけり恋路の猫又』.jpg

喜多川歌麿『青樓仁和嘉・通ひけり恋路の猫又』(ColBase)/(https://colbase.nich.go.jp/
https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/193858/

 この抱一の句の「句意」は、この珍しい舶来の「唐猫」が、「蝶」を捕って、それを「噛(かじ)っている」、その「獅子奮進」(獅子が荒れ狂ったように、すばらしい勢いで奮闘する様子の)の姿は、これぞ、まさしく、「万国共通」の、歌麿の描く「通ひけり恋路の猫又」の世界のものであろう。(補記) この句もまた、抱一好みの「浄瑠璃」の「大経師昔暦(1715)」上「から猫が牡猫(おねこ)よぶとてうすげしゃうするはしをらしや」とを背景にしている一句なのかも知れない。 ≫

(追記)

「下谷の三幅対(三人組):『鵬斎・抱一・文晁』」と「建部巣兆」(「千住連」宗匠)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-03-09

「太田南畝・四方赤良・蜀山人」(その周辺)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-04-10

「亀田鵬斎」(その周辺)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-04-13

「谷文晁」(その周辺)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-04-21

「すごろく的 亀田鵬斎と仲間たち」

http://sugoroku.kir.jp/suisen-gakuya/suisen-soukanzu.htm

『抜粋』

*酒井抱一(さかい ほういつ)
宝暦11年7月1日(1761年8月1日)~文政11年11月29日(1829年1月4日)
江戸時代後期の絵師、俳人。 権大僧都(ごんのだいそうず)。本名は忠因(ただなお)

*亀田 鵬斎(かめだ ほうさい)
宝暦2年9月15日(1752年10月21日)~文政9年3月9日(1826年4月15日)
江戸時代の化政文化期の書家、儒学者、文人。

*谷文晁(たに ぶんちょう)
宝暦13年9月9日(1763年10月15日)~天保11年12月14日(1841年1月6日)
江戸時代後期の日本の画家。江戸下谷根岸生まれ。松平定信に認められ、定信が隠居するまで定信に仕えた。

*大田南畝(おおた なんぽ)
寛延2年3月3日(1749年4月19日)~文政6年4月6日(1823年5月16日)
天明期を代表する文人・狂歌師であり、御家人。蜀山人。

*7代目・市川團十郎(いちかわ だんじゅうろう)(1791年~1859年)
歌舞伎役者の名跡。屋号は成田屋。五代目の孫で六代目の養子。

*佐原鞠塢(さはら きくう)
仙台出身の骨董商。向島百花園を開園する。百花園に360本もの梅の木を植えたことから当時亀戸(現・江東区)に あった「梅屋敷」に倣って「新梅屋敷」とも、「花屋敷」とも呼ばれていたが、1809年(文化6 年)頃より「百花園」と呼ばれるようになった。江戸時代には文人墨客のサロンとして利用され、 著名な利用者には「百花園」の命名者である絵師酒井抱一や門の額を書いた狂歌師大田南畝らがいた。

*駐春亭宇左衛門(しゅうしゅんてい うざえもん)
江戸時代後期の遊女屋,料理店の主人。伯母の家をついで江戸深川新地に茶屋をひらき,のち新吉原に遊女屋をひらく。下谷竜泉寺町にもとめた別荘地から清水がでたため、田川屋という風呂付きの料理店をはじめた。

*八百屋善四郎(やおや ぜんしろうょ) 1768~1839年
江戸浅草山谷(さんや)で八百屋兼仕出屋をいとなんだ八百善(やおぜん) の4代目。
文政の始め頃には馬鹿げたほど高価な料理屋として大評判となる。
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「抱一再見」(続「忘れがたき風貌・画像」) [抱一再見]

(その十九)「芭蕉・蕉門十哲像」(その周辺)

 「崋山先生図画」(色刷/表装:仮綴/[佐野屋喜兵衛], [出版年不明]/6枚 ; 38×26cm/早稲田大学図書館蔵)は、「支考肖像真蹟. 嵐雪肖像真蹟. 芭蕉肖像真蹟. 其角肖像真蹟. 龝色肖像真蹟. 許六肖像真蹟」の六枚ものである。

https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/nu05/nu05_04916/index.html

 これまでに、「其角肖像真蹟・嵐雪肖像真蹟」と「龝(秋)色肖像真蹟・ 許六肖像真蹟・支考肖像真蹟」とを見てきたが、それらは、「[和泉屋市兵衛, [出版年不明]]もので、これらの原画を描いたのが「崋山先生図画 / [渡辺崋山] [画]」ということになる。
 もう一枚の「芭蕉肖像真蹟」は、次のものである。

芭蕉肖像真蹟.jpg

「芭蕉肖像真蹟 /渡辺崋山画, 1793-1841」( [和泉屋市兵衛, [出版年不明]/ 早稲田大学図書館)
https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/he05/he05_05703/index.html

≪     神前
 この松のみばへせし代や神の秋  桃青

 貞享四年(一六八七)、芭蕉、四十四歳時の「鹿島詣」の一句である。この前書の「神前」は、「鹿島神宮の神前」、上五の「この松」は、鹿島七不思議の一つに数えられる境内の名物「根あがりの松」、中七の「みばへ」は「実生え」のことである。句意は、「鹿島神宮の松の下に立つと、この松が実生から目を出した頃の神代の秋の気が感じられる。」 ≫(「芭蕉DB」所収「鹿島詣(鹿島紀行/かしま紀行)」   

 渡辺崋山には、俳画風の「蕉門十哲像(渡辺崋山筆)」もある。

蕉門十哲像(渡辺崋山筆).jpg

「蕉門十哲像(渡辺崋山筆)」(「早稲田大学図書館蔵」)
https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/chi03/chi03_03816_0025/index.html

 この「蕉門十哲像」は、上から「桃隣・杉風・園女・丈草・許六・支考・正秀・嵐雪・去来・其角」の十人である。この「蕉門十哲像」は、『鮫洲抄(さめずしゅう)』(春秋楼編)所収「左右十哲肖像額・ 讃」と同じで、崋山は、この書によって、この、俳画風の「蕉門十哲像」を描いたように思われる。
 『芭蕉の門人(堀切実著・岩波新書)』では、次の十人を、『夜半翁俳僊帖(与謝蕪村筆・秋保鐡太郎 編輯)』などの画像入りで、紹介している。

一 東西の俳諧奉行

去来(慶安4年(1651)~宝永元年(1704.9.10)
去来.jpg
『夜半翁俳僊帖(与謝蕪村筆・秋保鐡太郎 編輯)』(早稲田図書館蔵)
https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko31/bunko31_a1983/bunko31_a1983_p0018.jpg
湖の水まさりけり五月雨 (『あら野』)

杉風(1647~1732)
杉風.jpg
『夜半翁俳僊帖(与謝蕪村筆・秋保鐡太郎 編輯)』(早稲田図書館蔵)
https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko31/bunko31_a1983/bunko31_a1983_p0003.jpg
あさがほや其日その日の花の出来  (「杉風句集」)

二 武門の出…二筋の道

許六(明暦2年(1656)8月14日~正徳5年(1715)8月26日)
許六.jpg
『夜半翁俳僊帖(与謝蕪村筆・秋保鐡太郎 編輯)』(早稲田図書館蔵)
https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko31/bunko31_a1983/bunko31_a1983_p0002.jpg
十團子も小つぶになりぬ秋の風   (『續猿蓑』)

丈草(寛文2年(1662)~元禄17年(1704.2.24))
丈草.jpg
『夜半翁俳僊帖(与謝蕪村筆・秋保鐡太郎 編輯)』(早稲田図書館蔵)
https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko31/bunko31_a1983/bunko31_a1983_p0019.jpg
ほとゝぎす啼や湖水のさゝ濁    (『續猿蓑』)

三 江戸蕉門のリーダー

其角(寛文元年(1661)7月17日~宝永2年(1705)2月29日)
其角.jpg
「俳諧三十六歌僊 / 夜半亭蕪村 [画・編]」(早稲田図書館蔵)
https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/he05/he05_06085/he05_06085_p0005.jpg
鶯の身を逆にはつね哉    (『去来抄』)

嵐雪(承応3(1654)~宝永4年(1707.10.13))
嵐雪.jpg
「俳諧三十六歌僊 / 夜半亭蕪村 [画・編]」(早稲田図書館蔵)
https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/he05/he05_06085/he05_06085_p0005.jpg
布団着て寝たる姿や東山    (『枕屏風』)

四 行脚俳諧師

支考(寛文5年~享保16年(1731.2.7))
支考.jpg
『夜半翁俳僊帖(与謝蕪村筆・秋保鐡太郎 編輯)』(早稲田図書館蔵)
https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko31/bunko31_a1983/bunko31_a1983_p0017.jpg
野に咲て野に名を得たり梅の花  (『蓮二吟集』)

野坡(寛文2年(1662.1.3)~元文5年(1740.1.3))
野坡.jpg
『夜半翁俳僊帖(与謝蕪村筆・秋保鐡太郎 編輯)』(早稲田図書館蔵)
https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko31/bunko31_a1983/bunko31_a1983_p0020.jpg
ほのぼのと鴉くろむや窓の春  (『野波吟草』)

五 個性の作者

凡兆(1640?~正徳4年(1714)春)
凡兆.jpg
『夜半翁俳僊帖(与謝蕪村筆・秋保鐡太郎 編輯)』(早稲田図書館蔵)
https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko31/bunko31_a1983/bunko31_a1983_p0016.jpg
市中のものゝにほひや夏の月  (『猿蓑』)

惟然(~正徳1年(1711)2月9日、60余歳)
惟然.jpg
『夜半翁俳僊帖(与謝蕪村筆・秋保鐡太郎 編輯)』(早稲田図書館蔵)
https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko31/bunko31_a1983/bunko31_a1983_p0010.jpg
世の中を這入りかねてや蛇の穴  (『惟然坊句集』)

 ここで、芭蕉から夏目漱石までの「俳諧『猫』句十選」などを下記に掲げたい。

「俳諧『猫』句十選」

猫の恋やむとき閨の朧月      芭蕉「をのが光」
京町の猫通ひけり揚屋町      其角「焦尾琴」
なれも恋猫に伽羅焼いてうかれけり 嵐雪「虚栗」
竹原や二匹あれ込む猫の恋     去来「喪の名残」
羽二重の膝に飽きてや猫の恋  支考「東華集」
順礼の宿とる軒や猫の恋      蕪村「夜半叟句集」
うかれ猫奇妙に焦げて参りけり   一茶「七番日記」
から猫や蝶嚙む時の獅子奮迅    抱一「屠龍之技」
おそろしや石垣崩す猫の恋     子規「子規句集」
恋猫の眼ばかりに痩せにけり   漱石「漱石全集」

「漱石『猫』句五句選

https://nekohon.jp/neko-wp/bunken-natsumesouseki/

里の子の猫加えけり涅槃象    (漱石「明治29年(1896年)」)
行く年や猫うづくまる膝の上    (漱石「明治31年(1898年)」)
朝がおの葉影に猫の目玉かな (漱石「明治38年(1905年)」)
恋猫の眼(まなこ)ばかりに痩せにけり (漱石「明治40年(1907年)」)
この下に稲妻起こる宵あらん(漱石「明治41年(1908年)」)=『吾輩は猫である』のモデルとなった猫の墓に書いた句)          

「漱石『『吾輩は猫である』追善五句選」

https://nekohon.jp/neko-wp/bunken-natsumesouseki/

センセイノネコガシニタルサムサカナ  (松根東洋城)
ワガハイノカイミヨウモナキススキカナ (高浜虚子)
猫の墓に手向けし水の(も)氷りけり  (鈴木三重吉)
蚯蚓(みみず)鳴くや冷たき石の枕元  (寺田寅彦)
土や寒きもぐらに夢や騒がしき     (同上)


(追記)

 渡辺崋山の「猫図」と夏目漱石の「猫図」を下記に掲げて置きたい。

猫図(渡辺崋山画.jpg

「猫図(渡辺崋山画・部分図)」(「出光美術館蔵」)
https://kumareon.wordpress.com/2007/03/27/%E7%B7%8A%E8%BF%AB%E3%81%AE%E7%9E%AC%E9%96%93%E3%80%80%E7%8C%AB%E5%9B%B3%E3%80%80%E6%B8%A1%E8%BE%BA%E5%B4%8B%E5%B1%B1/

あかざと黒猫図.jpg

「あかざと黒猫図(夏目漱石画・部分図)」(「夏目漱石デジタルコレクション」)
https://www.kanabun.or.jp/souseki/list.html



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「抱一再見」(続「忘れがたき風貌・画像」) [抱一再見]

(その十八)「秋色・許六・支考」(その周辺)

秋色肖像真蹟.jpg

「秋色(穐色)肖像真蹟 /渡辺崋山画, 1793-1841」( [和泉屋市兵衛, [出版年不明]/ 早稲田大学図書館)
https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/he05/he05_05709/index.html

 「秋色」の自筆短冊の句は、「武士(もののふ)の紅葉にこりず女とは」で、その意は、下記のアドレスによると、「冠里公の屋敷で酒宴となり家来たちがからかったのに対して詠んだと記録にある。『紅葉にこりず』は謡曲『紅葉狩』の鬼女を踏んでいて、また酔って赤い顔の侍を諷してもいるのであろう」ということである。

https://enokidoblog.net/talk/2015/12/14881

 上記のアドレスで紹介されている「冠里公」は、其角門の大名俳人「安藤信友(俳号=冠里)」(備中国松山藩二代藩主)を指している。
《 安藤 信友(あんどう のぶとも)は、江戸時代前期から中期にかけての大名。備中国松山藩2代藩主、美濃国加納藩初代藩主。官位は従四そして、位下・対馬守、侍従。対馬守系安藤家4代。6万5000石。享保7年(1722年)徳川吉宗の治世で老中に任ぜられる。文化人としても名高く、特に俳諧では冠里(かんり)の号で知られ、茶道では御家流の創始者となった。俳諧よくし、宝井其角の門下、号は冠里。》(「ウイキペディア」)
 そして、この「秋色」は、「其角の没後、点印を継承し、遺稿集『類柑子』を共編し、七回忌集『石などり』を刊行した」、其角の後継者の一人である「秋色女(しゅうしきじょ)」その人である。

≪ 秋色女(しゅうしきじょ、寛文9年(1669年)[要出典] - 享保10年4月19日(1725年5月30日)は江戸時代の俳人。通称おあき]、号は菊后亭。氏は小川氏か。江戸小網町の菓子屋に生まれる(現在東京都港区にある秋色庵大坂家という和菓子店である)。  
 五世市川團十郎の大叔母にあたる。夫の寒玉とともに宝井其角に師事して俳諧を学ぶ[1]。1690年(元禄3年)初入集[1]。其角の没後、点印を継承し、遺稿集『類柑子』を共編し、七回忌集『石などり』を刊行した。
 13歳の時、上野寛永寺で「井戸端の桜あぶなし酒の酔」の句を詠んだという秋色桜伝説]や、武家の酒宴に召されて「武士の紅葉にこりず女とは」と詠んだという女丈夫伝説[1]など、川柳・錦絵・講談・歌舞伎の題材として扱われた。≫《「ウイキペディア」》

 抱一にとって、「秋色女」に連なる「「五世市川團十郎」とは昵懇の間柄である。「其角好き」の抱一が、「秋色女贔屓」については、想像するに難くない。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-03-23

許六肖像真蹟.jpg

「許六肖像真蹟 /渡辺崋山画, 1793-1841」( [和泉屋市兵衛, [出版年不明]/ 早稲田大学図書館)
https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/he05/he05_05706/index.html

 この「許六」の自筆色紙の句は、「今日限(ぎり)の春の行方や帆かけ船」のようである。この崋山が描いた「許六肖像」画に、漢文で「許六伝記」を記したのは「活斎道人=活斎是網」で、その冒頭に出てくる『風俗文選(本朝文選)』編んだのが「許六」その人である。
 その『『風俗文選(本朝文選)』の「巻之一」(「辞類」)の冒頭が、「芭蕉翁」の「柴門ノ辞」(許六離別の詞/元禄6年4月末・芭蕉50歳)である。

≪ 「柴門ノ辞」(許六離別の詞/元禄6年4月末・芭蕉50歳)
 去年の秋,かりそめに面をあはせ,今年五月の初め,深切に別れを惜しむ.その別れにのぞみて,一日草扉をたたいて,終日閑談をなす.その器,画を好む.風雅を愛す.予こころみに問ふことあり.「画は何のために好むや」,「風雅のために好む」と言へり.「風雅は何のために愛すや」,「画のために愛す」と言へり.その学ぶこと二つにして,用いること一なり.まことや,「君子は多能を恥づ」といへれば,品二つにして用一なること,感ずべきにや.※画はとって予が師とし,風雅は教へて予が弟子となす.されども,師が画は精神徹に入り,筆端妙をふるふ.その幽遠なるところ,予が見るところにあらず.※予が風雅は,夏炉冬扇のごとし.衆にさかひて,用ふるところなし.ただ,釈阿・西行の言葉のみ,かりそめに言ひ散らされしあだなるたはぶれごとも,あはれなるところ多し.後鳥羽上皇の書かせたまひしものにも,※「これらは歌にまことありて,しかも悲しびを添ふる」と,のたまひはべりしとかや.されば,この御言葉を力として,その細き一筋をたどり失ふことなかれ.なほ,※「古人の跡を求めず,古人の求めしところを求めよ」と,南山大師の筆の道にも見えたり.「風雅もまたこれに同じ」と言ひて,燈火をかかげて,柴門の外に送りて別るるのみ。 ≫ (「芭蕉DB」所収「許六離別の詞」)

※画(絵画)はとって予(芭蕉)が師とし,風雅(俳諧)は教へて予(芭蕉)が弟子となす=絵画は「許六」が「予(芭蕉)」の師で、「俳諧」は「予(芭蕉)」が「許六」の師とする。

※予(芭蕉)が風雅(俳諧)は,夏炉冬扇のごとし.衆にさかひて,用ふるところなし=予(芭蕉)の俳諧は、夏の囲炉裏や冬の団扇のように役に立たないもので、一般の民衆の求めに逆らっていて、何の役にも立たないものである。

※「これらは歌にまことありて,しかも悲しびを添ふる」と,のたまひはべりしとかや.されば,この御言葉を力として,その細き一筋をたどり失ふことなかれ=後鳥羽上皇の御口伝の「西行上人と釈阿=藤原俊成の歌には、実(まこと)の心があり、且つ、もののあわれ=生あるものの哀感のようなものを感じさせ」、この『実の心ともののあわれ』とを基本に据えて、その(風雅と絵画の)細い一筋の道をたどって、決して見失う事がないようにしよう。

※「古人の跡を求めず,古人の求めしところを求めよ」=「先人たちの、遺業の形骸(ぬけがら)を追い求めるのではなく、その古人の理想としたところを求めなさい」と解釈され、もともとは空海の『性霊集』にある「書亦古意ニ擬スルヲ以テ善シト為シ、古跡ニ似ルヲ以テ巧ト為サズ」に拠った言葉であるともいわれている。

≪ 森川許六(もりかわ きょりく)/(明暦2年(1656)8月14日~正徳5年(1715)8月26日)
本名森川百仲。別号五老井・菊阿佛など。「許六」は芭蕉が命名。一説には、許六は槍術・剣術・馬術・書道・絵画・俳諧の6芸に通じていたとして、芭蕉は「六」の字を与えたのだという。彦根藩重臣。桃隣の紹介で元禄5年8月9日に芭蕉の門を叩いて入門。画事に通じ、『柴門の辞』にあるとおり、絵画に関しては芭蕉も許六を師と仰いだ。 芭蕉最晩年の弟子でありながら、その持てる才能によって後世「蕉門十哲」の筆頭に数えられるほど芭蕉の文学を理解していた。師弟関係というよりよき芸術的理解者として相互に尊敬し合っていたのである。『韻塞<いんふさぎ>』・『篇突<へんつき>』・『風俗文選』、『俳諧問答』などの編著がある。
(許六の代表作)
寒菊の隣もあれや生け大根  (『笈日記』)
涼風や青田のうへの雲の影  (『韻塞』)
新麦や笋子時の草の庵    (『篇突』)
新藁の屋根の雫や初しぐれ  (『韻塞』)
うの花に芦毛の馬の夜明哉  (『炭俵』 『去来抄』)
麥跡の田植や遲き螢とき   (『炭俵』)
やまぶきも巴も出る田うへかな(『炭俵』)
在明となれば度々しぐれかな (『炭俵』)
はつ雪や先馬やから消そむる (『炭俵』)
禅門の革足袋おろす十夜哉  (『炭俵』)
出がはりやあはれ勸る奉加帳 (『續猿蓑』)
蚊遣火の烟にそるゝほたるかな(『續猿蓑』)
娵入の門も過けり鉢たゝき  (『續猿蓑』)
腸をさぐりて見れば納豆汁  (『續猿蓑』)
十團子も小つぶになりぬ秋の風(『續猿蓑』)
大名の寐間にもねたる夜寒哉 (『續猿蓑』)
御命講やあたまの青き新比丘尼(『去来抄』)
人先に医師の袷や衣更え   (『句兄弟』)
茶の花の香りや冬枯れの興聖寺(『草刈笛』)
夕がほや一丁残る夏豆腐   (『東華集』)
木っ端なき朝の大工の寒さ哉(『浮世の北』) ≫(「芭蕉DB」所収「森川許六」)

 もとより、抱一と許六とは直接的な関係はないが、「画俳二道」の先師として、抱一が許六を、陰に陽に私淑していたことは、これまた、想像するに難くない。

(再掲)

https://yahantei.blogspot.com/2023/03/4-614-62.html

4-61 あとからも旅僧は来(きた)り十団子 (『屠龍之技』「) 第四 椎の木かげ」

十団子も小粒になりぬ秋の風  許六(『韻塞』)
≪「宇津の山を過」と前書きがある。
句意は「宇津谷峠の名物の十団子も小粒になったなあ。秋の風が一層しみじみと感じられることだ」
 季節の移ろいゆく淋しさを小さくなった十団子で表現している。十団子は駿河の国(静岡県)宇津谷峠の名物の団子で、十個ずつが紐や竹串に通されている。魔除けに使われるものは、元々かなり小さい。
 作者の森川許六は彦根藩の武士で芭蕉晩年の弟子。この句は許六が芭蕉に初めて会った時持参した句のうちの一句である。芭蕉はこれを見て「就中うつの山の句、大きニ出来たり(俳諧問答)」「此句しほり有(去来抄)」などと絶賛したという。ほめ上手の芭蕉のことであるから見込みありそうな人物を前に、多少大げさにほめた可能性も考えられる。俳諧について一家言あり、武芸や絵画など幅広い才能を持つ許六ではあるが、正直言って句についてはそんなにいいものがないように私は思う。ただ「十団子」の句は情感が素直に伝わってきて好きな句だ。芭蕉にも教えたという絵では、滋賀県彦根市の「龍潭寺」に許六作と伝えられる襖絵が残るがこれは一見の価値がある。(文)安居正浩 ≫

句意(その周辺)=蕉門随一の「画・俳二道」を究めた、近江国彦根藩士「森川許六」に、「十団子も小粒になりぬ秋の風」と、この「宇津谷峠の魔除けの名物の十団子」の句が喧伝されているが、「秋の風」ならず、「冬の風(木枯らし)」の中で、その蕉門の「洛の細道」を辿る、一介の「旅僧・等覚院文詮暉真」が、「小さくなって、鬼退治させられた、その化身の魔除けの『宇津谷峠の名物の十団子』を、退治するように、たいらげています。」

支考肖像真蹟.jpg

「支考肖像真蹟 /渡辺崋山画, 1793-1841」( [和泉屋市兵衛, [出版年不明]/ 早稲田大学図書館)
https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/he05/he05_05707/index.html

 支考の自筆短冊の句は、「線香に眠るも猫のふとん哉」のようである。しかし、その前書
が不分明で、「愛猫との分かれ」の句のように解して置きたい。
その上で、この句は、『風俗文選(許六編)』所収の「祭猫文(「猫ヲ祭ルの文」)」(『風俗文選・巻七』・「歌類=挽歌・鄙歌、文類=発願文・剃頭文・祭文」)の「祭文(さいもん・さいぶん)=祭りの時、神の霊に告げる文。また、神式葬儀の時、死者の霊に告げる文」と、どことなく、イメージが連なっているような感じがする。

≪  祭猫文 小序   支考

(漢文→省略)

※A(俳文=俳諧文)

李四が草庵に、ひとつの猫児(めうじ)ありて、これをいつくしみ思ふ事、人の子をそだつるに殊ならず。ことし長月廿日ばかり、隣家の井にまとひ入て身まかりぬ。其墓を庵のほとりに作りて、釈ノ自圓とぞ改名しける。彼レをまつる事、人をまつるに殊ならぬは。此たび爪牙(そうげ)の罪をまぬがれて、変成男子の人果にいたらむとなり。其文曰。

※B(俳詩=俳諧詩=仮名詩+真名詩)

秋の蝉の露に忘れては。鳥部山を四時に噪(さは)ぎ。
秋の花の霜にほこるも。馬嵬(かい)が原の一夜に衰(をとろ)ふ。
 きのふは錦茵(きんいん)に千金の娘たりしも(之毛)。
 けふは墨染(すみぞめ)の一重の尼となれり(連梨)。
されば  柏木衛門の夢。
     虚堂和尚の詩。
恋にはまよ(迷)う。欄干に水流れて。梅花の朧(をぼろ)なる夜。
貧にはぬす(盗)む。障子に雨そゝひで。燈火の幽(かすか)なる時。
 鼠は可捕(とら)とつく(作)りて。褒美は杜工部。
 蛙は無用といまし(誠)めて。異見は白蔵司
昔は女三の宮の中、牡丹簾(すだれ)にかゞ(輝)きて。花はまさ(正)にはや(速)く。。
今は李四が庵の辺、天蓼(またたび)垣あれ(荒)て。実(み)はすで(已)におそ(遅)し
前世は誰が膝枕にちぎり(契)りてか。さらに傾城の身仕舞。
後世はかならず音楽にあそ(遊)ばむ。ともに菩薩の物数奇。
玉の林の鳥も啼らむ(良無)。
蓮の臺(うてな)の花も降らし(良之)。
 涅槃の鐘の声冴(さえ)て。囲炉裏の眠(ねむり)たちま(忽)ちにおどろ(驚)き。
 菩提の月の影晴(はれ)て。卒塔婆の心(こころ)なに(なに)ゝかうたが(疑)う。
    如 是 畜 生  
    南 無 阿 弥
    弔 古 戦 場 文 ≫((『風俗文選・巻七』・「歌類=挽歌・鄙歌、文類=発願文・剃頭文・祭文」・「佐々醒雪解題・国民文庫刊行会刊・『俳諧俳文集(全)』)

 『俳聖芭蕉と俳魔支考(堀切実著・角川選書)』では、「俳文・俳詩の創造―江戸の詩文改革」の一章を設け、「俳詩の創始者支考―仮名詩と真名詩」の中で、『風俗文選(本朝文選)・許六編』に続く、『風俗文鑑(本朝文鑑)・支考編』と『和漢文藻・支考編』の三部作で、所謂、「俳詩=俳文+仮名詩+真名詩=本朝(日本)自由詩」を体系化、そして、その実践化して行くこの一旦を紹介している。
 ここでは、これらの「俳詩=俳文+仮名詩+真名詩=本朝(日本)自由詩」には立ち入らないで、この「祭猫文(「猫ヲ祭ルの文」)」の「祭文」(「俳詩=俳文+仮名詩+真名詩=本朝(日本)自由詩」)と、支考の「猫」の句の関係について見ていきたい。

うき恋にたえてや猫の盗喰 (支考(『續猿蓑』))
(句意=恋の季節の猫は食事などにかまってはいられない。さりながら、食わなくては死んでしまうので時ならぬ時刻に盗み食いをしているのであろう。我が家のおいしい食べ物を盗んだ奴がいるが、そういう事情と思って許してやろう。=「芭蕉DB」)

 この支考の『続猿蓑』所収の句は、上記の「祭猫文(「猫ヲ祭ルの文」)」の、次の「二行詩」と大きく関係しているであろう。

≪ 恋にはまよ(迷)う。欄干に水流れて。梅花の朧(をぼろ)なる夜。
貧にはぬす(盗)む。障子に雨そゝひで。燈火の幽(かすか)なる時。  ≫

羽二重(はぶたえ)の膝に飽きてや猫の恋 (各務支考)
https://suzielily.exblog.jp/22758128/

 この支考の句もまた、上記の「祭猫文(「猫ヲ祭ルの文」)」の、次の「二行詩」と大きく関係しているように思われる。

≪  きのふは錦茵(きんいん)に千金の娘たりしも(之毛)。
   けふは墨染(すみぞめ)の一重の尼となれり(連梨)。  
   前世は誰が膝枕にちぎり(契)りてか。さらに傾城の身仕舞。
後世はかならず音楽にあそ(遊)ばむ。ともに菩薩の物数奇。  ≫
   
 ここまで来ると、冒頭の、渡辺崋山が描いた「支考肖像画」に付せられている、支考の句の「線香に眠るも猫のふとん哉」の一句が、上記の「祭猫文(「猫ヲ祭ルの文」)」の「四行詩」と一体化してくる。

≪ きのふは錦茵(きんいん)に千金の娘たりしも(之毛)。
  けふは墨染(すみぞめ)の一重の尼となれり(連梨)。  
  前世は誰が膝枕にちぎり(契)りてか。さらに傾城の身仕舞。
  後世はかならず音楽にあそ(遊)ばむ。ともに菩薩の物数奇。
  線香に眠るも猫のふとん哉  (東花坊=支考)         ≫

 ここに、抱一の一句を添えたいのである。

https://jozetsukancho.blogspot.com/2017/11/blog-post_18.html

≪ きのふは錦茵(きんいん)に千金の娘たりしも(之毛)。
  けふは墨染(すみぞめ)の一重の尼となれり(連梨)。  
  前世は誰が膝枕にちぎり(契)りてか。さらに傾城の身仕舞。
  後世はかならず音楽にあそ(遊)ばむ。ともに菩薩の物数奇。
  線香に眠るも猫のふとん哉  (東花坊=支考) 
  から猫や蝶噛む時の獅子奮迅 (屠龍=抱一)        ≫

 この「屠龍=抱一」の「から(唐)猫」の一句は、「都市蕉門」の「江戸座」の一角を占める「東風派俳諧」を自負している「屠龍=抱一」の、「田舎蕉門」の「美濃派の総帥」の、「盤子・野盤子・見龍・東華坊・西華坊・蓮二・蓮二坊・十一庵・獅子庵・獅子房・獅子老人・渡辺ノ狂・白狂・羚羊子・是仏房・瑟々庵・万寸・饅丁・華表人・羶乙子・表蝶子・博望士・烏有仙・黄山老人・坊主仁平・佐渡入道・霊乙・橘尼子・桃花仙・松尊者竹羅漢・卉名連」の号(又は変名)を有する、「蕉門十哲」の一人に数えられる「支考」への、痛切な揶揄とも激励とも思われるものと解したい。

≪ 各務支考(かがみ・しこう)(寛文5年~享保16年(1731.2.7)
美濃の国山県郡北野村(現岐阜市)出身。各務は、姉の婚家の姓でここに入籍したため。はじめ、僧侶を志すが禅にあきたらず下山して、乞食僧となって諸国を行脚する。この間に神学や儒学を修めたといわれている。後に伊勢山田 からはじめて美濃に蕉門俳諧を広めて蕉門美濃派を創始するなど政治的手腕も並々ならぬものがあったようである。
 芭蕉との出会いは元禄3年、芭蕉が幻住庵に入った頃と、蕉門では許六と並んで遅い入門であったが、芭蕉の臨終を看取るなど、密度の濃い付き合いがあった。
 蕉門随一の理論家といわれる反面、正徳1年(1711)8月15日には、自分の葬儀を主催するなど風狂の風があり、毀誉褒貶もまた激しい。芭蕉も、其角や去来のような信頼を支考に寄せることはなかったが、気の置けない弟子として許していたようであることは、書簡などに見える。 死の床における支考の活躍は獅子奮迅のそれであって、芭蕉の遺書を代筆するなど、その師弟関係は見事に有終の美を飾ったのである。 上の図のように、生涯坊主姿でとおした。 盤子<ばんし>、隠桂<いんけい>は支考の別号。
(支考の代表作)
野に死なば野を見て思へ草の花  『越の名残』)
鶯の肝つぶしたる寒さかな
腹立てる人にぬめくるなまこ哉
気みじかし夜ながし老いの物狂ひ
賭にして降出されけりさくら狩 (『続猿蓑』)
むめが香の筋に立よるはつ日哉 (『炭俵』)
鳥のねも絶ず家陰の赤椿    (『炭俵』)
卯の花に扣ありくやかづらかけ (『炭俵』)
夕貌の汁は秋しる夜寒かな   (『炭俵』)
杉のはの雪朧なり夜の鶴    (『炭俵』)
うき恋にたえてや猫の盗喰   (『續猿蓑』)
春雨や枕くづるゝうたひ本   (『續猿蓑』)
朧夜を白酒賣の名殘かな    (『續猿蓑』)
蜀魄啼ぬ夜しろし朝熊山    (『續猿蓑』)
しら雲やかきねを渡る百合花  (『續猿蓑』)
里の子が燕握る早苗かな    (『續猿蓑』)
凉しさや縁より足をぶらさげる (『續猿蓑』)
帷子のねがひはやすし錢五百  (『續猿蓑』)
二見まで庵地たづぬる月見哉  (『續猿蓑』)
粟の穂を見あぐる時や啼鶉   (『續猿蓑』)
何なりとからめかし行秋の風  (『續猿蓑』)
居りよさに河原鶸來る小菜畠  (『續猿蓑』)
一霜の寒や芋のずんど刈    (『續猿蓑』)
煮木綿の雫に寒し菊の花    (『續猿蓑』)
ひとつばや一葉一葉の今朝の霜 (『續猿蓑』)
野は枯てのばす物なし鶴の首  (『續猿蓑』)
水仙や門を出れば江の月夜   (『續猿蓑』
ふたつ子も草鞋を出すやけふの雪(『續猿蓑』)
余所に寐てどんすの夜着のとし忘(『續猿蓑』)
その親をしりぬその子は秋の風 (『續猿蓑』)
食堂に雀啼なり夕時雨     (『續猿蓑』)
縁に寐る情や梅に小豆粥    (『續猿蓑』)
はつ瓜や道にわづらふ枕もと  (『續猿蓑』)
馬の耳すぼめて寒し梨子の花  (『 去来抄』)
花書よりも軍書にかなし吉野山 (『俳諧古今抄』)
いま一俵買おうか春の雪    (『烏の道』)
馬の耳すぼめて寒し梨の花   (『葛の松原』)
出女の口紅をしむ西瓜哉    (『東華集』)
船頭の耳の遠さよ桃の花    (『夜話狂』)  ≫(「芭蕉DB」所収「各務支考」)
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「抱一再見」(続「忘れがたき風貌・画像」) [抱一再見]

(その十七)「服部嵐雪」(その周辺)

嵐雪肖像一.jpg

「服部嵐雪/小栗寛令筆」(『國文学名家肖像集』)(「ウィキペディア」)
『国文学名家肖像集(48/101)』(書誌情報:著者・永井如雲 編/出版者・博美社/出版年月日・昭14)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1120068/1/48
https://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/whoswho/ransetu.htm
≪ 生年月日不詳。下級武士服部喜太夫高治の長男として江戸湯島に生まれる。新左衛門。下級武士として一時は禄を食んだが貞亨3年仕官の道を諦めて俳諧師に転身。貞亨4年春宗匠として立机。若いころは相当な不良青年で悪所通いは日常茶飯事であったようである。
 蕉門入門は古く、嵐雪21歳頃、蕉門では最古参の一人。芭蕉は、嵐雪の才能を高く評価し元禄5年3月3日の桃の節句に「草庵に桃桜あり。門人に其角嵐雪あり」と称え、「両の手に桃と桜や草の餅」と詠んだりした程であった。しかし、それより以前から師弟間には軋みが発生していたらしく、芭蕉の奥州行脚にも嵐雪は送別吟を贈っていないなど風波は激しかったようである。
 元禄7年10月22日、嵐雪は江戸にあってはじめて師の訃報を聞いた。その日のうちに一門を参集して芭蕉追悼句会を開いたばかりでなく、桃隣と一緒に膳所の義仲寺に向かった。義仲寺で嵐雪が詠んだ句は、「この下にかくねむるらん雪仏」であった。いずれ才能ある人々の師弟関係であったために、暗闘や角逐もあったのだが、相互に強い信頼関係もまたあったのである。
(嵐雪の代表作)
布団着て寝たる姿や東山 (『枕屏風』)
梅一輪いちりんほどの暖かさ (『遠のく』)
名月や煙はひ行く水の上 (『萩の露』)
庵の夜もみじかくなりぬすこしづゝ (『あら野』)
かくれ家やよめ菜の中に残る菊 (『あら野』)
我もらじ新酒は人の醒やすき (『あら野』)
濡縁や薺こぼるる土ながら (『続虚栗』)
木枯らしの吹き行くうしろすがた哉 (『続虚栗』)
我や来ぬひと夜よし原天の川 (『虚栗』)
雪は申さず先ず紫の筑波かな (『猿蓑』)
狗背の塵に選らるる蕨かな (『猿蓑』)
出替りや稚ごころに物哀れ (『猿蓑』)
下闇や地虫ながらの蝉の聲 (『猿蓑』)
花すゝき大名衆をまつり哉 (『猿蓑』)
裾折て菜をつみしらん草枕 (『猿蓑』)
出替や幼ごゝろに物あはれ (『猿蓑』)
狗脊の塵にゑらるゝわらびかな (『猿蓑』)
兼好も莚織けり花ざかり (『炭俵』)
うぐひすにほうと息する朝哉 (『炭俵』)
鋸にからきめみせて花つばき (『炭俵』)
花はよも毛虫にならじ家櫻 (『炭俵』)
塩うをの裏ほす日也衣がへ (『炭俵』)
行燈を月の夜にせんほとゝぎす (『炭俵』)
文もなく口上もなし粽五把 (『炭俵』)
早乙女にかへてとりたる菜飯哉 (『炭俵』)
竹の子や兒の歯ぐきのうつくしき (『炭俵』)
七夕やふりかへりたるあまの川 (『炭俵』)
相撲取ならぶや秋のからにしき (『炭俵』)
山臥の見事に出立師走哉  (『炭俵』)
濡縁や薺こぼるゝ土ながら  (『續猿蓑』)
楪の世阿彌まつりや靑かづら (『續猿蓑』)
喰物もみな水くさし魂まつり (『續猿蓑』)
魂まつりここがねがひのみやこなり (『杜撰集』)
一葉散る咄ひとはちる風の上 (辞世句) ≫(「芭蕉DB」所収「服部嵐雪」)

嵐雪肖像二.jpg

「嵐雪肖像真蹟 / 渡辺崋山画, 1793-1841」([佐野屋喜兵衛], [出版年不明]/ 早稲田大学図書館)
https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko31/bunko31_d0165/bunko31_d0165_p0001.jpg

 上記の渡辺崋山の「嵐雪肖像真蹟」画に付せられている、嵐雪自筆短冊の句は、「今少
とし寄見たしはちたたき」「今少し年より見たし鉢叩(『玄峰集(冬)・旨原編』)のようである。
 『玄峰集(冬)・旨原編』では、この句に「鉢たゝき」との前書を付している。そして、『名家俳句集(全・藤井紫影校訂・有朋堂文庫)』では、この句の上五の「今」の脇に、「嵯峨落柿舎での作なり」との頭注を施している。
 この頭注の「嵯峨落柿舎での作なり」の、嵐雪が「嵯峨落柿舎」に行ったのは、上記の
「芭蕉DB」所収「服部嵐雪」に記されている「元禄7年10月22日、嵐雪は江戸にあってはじめて師の訃報を聞いた。その日のうちに一門を参集して芭蕉追悼句会を開いたばかりでなく、桃隣と一緒に膳所の義仲寺に向かった。義仲寺で嵐雪が詠んだ句は、『この下にかくねむるらん雪仏』」であった」との、元禄七年(一六九四)の「芭蕉の没と嵐雪・桃隣との芭蕉追善の京阪旅路」での一句ということになる。
 この時、嵐雪、四十歳の頃で、当時の「嵐雪実像」が、この崋山の「嵐雪肖像真蹟」画の「嵐雪像」のようにも思われる。
 と同時に、この嵐雪の「今少し年より見たし鉢叩」というのは、嵐雪の、「この下にかくねむるらん雪仏」(嵐雪の「義仲寺」での「芭蕉追悼吟」)と並ぶ、嵐雪の「落柿舎」での「芭蕉追悼吟」ということになる。
 ともすると、其角俳諧と嵐雪俳諧とを総括的に「其角の瑰奇放逸(「奇抜奇警・自在放埓」)と嵐雪の平弱温雅(「平淡柔弱・篤実渋味」)などと評するが(『名家俳句集(全・藤井紫影校訂・有朋堂文庫)』)、嵐雪の、この句なども、其角の句などと同様、「趣向の多重化」などが施されていることには、いささかの変りもない。
 この句の上五の、「今少し」は、「今少し、芭蕉翁をには生き長らえて欲しかった」の意と、「いま少し、芭蕉翁を追善するため鉢叩きには、年寄りの僧にして欲しかった」との、両義性などが挙げられよう。
 同時に、この嵐雪の句は、次の、芭蕉や其角の「鉢叩き」の句の「唱和」と、その「反転化」の一句であることを如実に物語っているとも解せられる。

長嘯の墓もめぐるか鉢叩き    (芭蕉『いつを昔』)
鉢叩き暁(あかつき)方の一声(こゑ)は冬の夜さへも鳴く郭公 (長嘯子「鉢叩の辞」)

ことごとく寝覚めはやらじ鉢叩き (其角『五元集』・前書「去来家にて」)
千鳥なく鴨川こえて鉢叩き    (其角『五元集』・前書「去来家にて」)

 鉢たゝきの歌 (其角『五元集拾遺』)
鉢たゝき鉢たゝき   暁がたの一声に
初音きかれて     はつがつを
花はしら魚      紅葉のはぜ
雪にや鰒(ふぐ)を  ねざむらん
おもしろや此(この) 樽たゝき
ねざめねざめて    つねならぬ
世の驚けば      年のくれ
気のふるう成(なる) ばかり也
七十古来       まれなりと
やつこ道心      捨(すて)ころも
酒にかへてん     鉢たゝき
 あらなまぐさの鉢叩やな
凍(コゴエ)死ぬ身の暁や鉢たゝき  

(再掲)

http://yahantei.blogspot.com/2007/08/blog-post_21.html

「其角の『句兄弟・上』(二十六)」

二十六番
   兄 蟻道
 弥兵衛とハしれど哀や鉢叩
   弟 (其角)
 伊勢島を似せぬぞ誠(まこと)鉢たゝき

(兄句の句意)弥兵衛が鳴らしているものとは知っていても、誠に鉢叩きの音はもの寂しい音であることか。
(弟句の句意)伊勢縞を来て歌舞伎役者のような恰好をしている鉢叩きだが、その伊達風の華やかな音色ではなく、そこのところが、誠の鉢叩きのように思われる。
(判詞の要点)兄句は鉢叩きにふさわしい古風な鉢叩きの句であるが、弟句はそれを伊達風の新奇な句として反転させている。

(参考)
一 この兄の句の作者、蟻道とは、『俳文学大辞典』などでも目にすることができない。しかし、『去来抄』の「先師評(十六)」で、「伊丹(いたみ)の句に、弥兵衛(やへゑ)とハしれど憐(あはれ)や鉢扣(はちたたき)云有(いふあり)」との文言があり、「伊丹の俳人」であることが分かる。

二 この『去来抄』に記述したもののほかに、去来は、別文の「鉢扣ノ辞」(『風俗文選』所収)を今に遺しているのである。
○師走も二十四日(元禄二年十月二十四日)、冬もかぎりなれば、鉢たゝき聞かむと、例の翁(芭蕉翁)のわたりましける(落柿舎においでになった)。(以下略。関連の句のみ「校注」などにより抜粋。)
 箒(ほうき)こせ真似ても見せむ鉢叩   (去来)
 米やらぬわが家はづかし鉢敲き (季吟の長子・湖春)
おもしろやたゝかぬ時のはちたゝき (曲翠)
鉢叩月雪に名は甚之丞 (越人・ここではこの句形で収載されている)
ことごとく寝覚めはやらじ鉢たゝき (其角・「去年の冬」の作)
長嘯の墓もめぐるか鉢叩き (芭蕉)

三『去来抄』(「先師評」十六)はこの時のものであり、そして、『句兄弟』(「句合せ」二十五番)は、これに関連したものであった。さらに、この「鉢叩き」関連のものは、芭蕉没(元禄七年十月十二日)後の、霜月(十一月)十三日、嵐雪・桃隣が落柿舎に訪れたときの句が『となみ山』(浪化撰)に今に遺されているのである。
千鳥なく鴨川こえて鉢たゝき (其角)
今少(すこし)年寄見たし鉢たゝき (嵐雪)
ひやうたんは手作なるべし鉢たゝき (桃隣)
旅人の馳走に嬉しはちたゝき (去来)
これらのことに思いを馳せた時、其角・嵐雪・去来を始め蕉門の面々にとっては、「鉢叩き」関連のものは、師の芭蕉につながる因縁の深い忘れ得ざるものということになろう。

四『五元集拾遺』に「鉢たたきの歌」と前書きして、次のような歌と句が収載されている。
    鉢たゝきの歌
 鉢たゝき鉢たゝき   暁がたの一声に
 初音きかれて     はつがつを
 花はしら魚      紅葉のはぜ
 雪にや鰒(ふぐ)を  ねざむらん
 おもしろや此(この) 樽たゝき
 ねざめねざめて    つねならぬ
 世の驚けば      年のくれ
 気のふるう成(なる) ばかり也
 七十古来       まれなりと
 やつこ道心      捨(すて)ころも
 酒にかへてん     鉢たゝき
   あらなまぐさの鉢叩やな
凍(コゴエ)死ぬ身の暁や鉢たゝき  其角

(再掲)
http://yahantei.blogspot.com/search/label/%E7%AC%AC%E4%BA%94%E3%80%80%E5%8D%83%E3%81%A5%E3%81%8B%E3%81%AE%E7%A8%B2?updated-max=2023-05-02T15:16:00%2B09:00&max-results=20&start=9&by-date=false

5-4  其夜降(ふる)山の雪見よ鉢たゝき (抱一『屠龍之技』「第五 千づかのいね」)

(「句意」周辺)
 この句の前に、「水無月なかば鉢扣百之丞得道して空阿弥と改、吾嬬に下けるに発句遣しける」との前書がある。
 この「鉢扣百之丞」は、「鉢叩(き)・百之丞(人名)」で、「鉢叩(き)」=「時宗に属する空也念仏の集団が空也上人の遺風と称して、鉄鉢をたたきながら勧進すること。また、その人々。これは各地に存したが、京都市中京区蛸薬師通油小路西入亀屋町にある空也堂(光勝寺)が時宗鉢叩念仏弘通(ぐづ)派の本山(天台宗に改宗)として有名。十一月十三日の空也忌から大晦日までの四八日間、鉦(かね)をならし、あるいは鉢にかえて瓢(ふくべ)を竹の枝でたたきながら、念仏、和讚を唱えて洛中を勧進し、また洛外の墓所葬場をめぐった。また、常は茶筅(ちゃせん)を製し、歳末にこれを市販した。《季・冬》」(「精選版 日本国語大辞典」)

鉢たたき.jpg

「鉢叩・鉢敲(はちたたき)」(「精選版 日本国語大辞典」)

(再掲)

http://yahantei.blogspot.com/2023/05/5-405-45.html

 辛酉春興
 今や誹諧峰の如くに起り、
 麻のごとくにみだれ、
 その糸口を知らず。
5-40 貞徳も出(いで)よ長閑き酉の年 

 前書の「辛酉春興」は、「寛政十三年・享和元年(一八〇一)」、抱一、四十一歳時の「春興(新春句会)」での一句ということになる。

季語は、「酉の年」(「酉年」の「新年・今年・初春・新春・初春・初句会・等々)、前書の「春興」(三春)、「長閑」(三春)の季語である。そして、この句は、松永貞徳の次の句の「本句取り」の一句なのである。

鳳凰も出(いで)よのどけきとりの年 (貞徳『犬子集』)
貞徳も出(いで)よ長閑き酉の年   (抱一『屠龍之技』「第五千づかの稲」)

 この二句を並列して、何とも、抱一の、この句は、貞徳の「鳳凰」の二字を、その作者の「貞徳」の二字に置き換えただけの一句ということになる。これぞ、まさしく、「本句取り」の典型的な「句作り」ということになる。
 「鳳凰」は、「聖徳をそなえた天子の兆しとして現れるとされた、孔雀(くじゃく)に似た想像上の瑞鳥(ずいちょう)」(「ウィキペディア」)で、「貞徳」は「貞門派俳諧の祖」(「ウィキペディア」)で、この「鳳凰」と「貞徳」と、この句の前書の「今や誹諧峰の如くに起り、/麻のごとくにみだれ、/その糸口を知らず。」とを結びつけると、この句の「句意」は明瞭となってくる。
「句意」は、「今や誹諧峰の如くに起り、/麻のごとくにみだれ、/その糸口を知らず。」の、この「辛酉春興」(「寛政十三年・享和元年(一八〇一)」、抱一、四十一歳時の「春興(新春句会)」)に際して、「俳諧の祖」の「貞徳翁」の「酉年」の一句、「鳳凰も出(いで)よのどけきとりの年」に唱和して、「貞徳も出(いで)よ長閑き酉の年」の一句を呈したい。この未曾有の俳諧混乱期の、この混乱期の道筋は、「貞徳翁」俳諧こそ、その道標になるものであろうか。

(再掲)

https://yahantei.blogspot.com/2023/05/5-165-18.html

「前田春来(紫隠)」の『東風流(あずまふり)』俳諧の世界のもので、それは、「西土の蕉門」(上方の蕉門、殊に、各務支考の「美濃派蕉門」(田舎蕉門)」を排斥して、「其(其角)・嵐(嵐雪)の根本の向上躰(精髄の発展形)」(「江戸蕉門=都市派蕉門=江戸座」俳諧)を強調するものであった。
 と同時に、その「春来(二世青蛾)・米仲・存義」らの『東風流(あずまふり)』俳諧は、当時、勃興しつつあった「五色墨」運動(「江戸座俳諧への反駁運動)に一石を投ずるものでもでもあった。
 この「五色墨」運動は、享保十六年(一七三一)の俳諧撰集『五色墨』(宗瑞=白兎園=風葉=中川氏=杉風門、蓮之=珪林=松木氏=杉風門、咫尺(しせき)=大場氏=嵐雪門、素丸=馬光=其日庵二世=葛飾風=長谷川氏=素堂門、長水=麦阿=柳居=佐久間氏=沾徳門・伊勢麦林(乙由)門)の「四吟歌仙(四人)+判者(一人)」の「四吟歌仙五巻」を興行したことを、そのスタートとして勃発した俳諧革新運動である。

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「抱一再見」(続「忘れがたき風貌・画像」) [抱一再見]

(その十六)「宝井其角」(その周辺)

其角肖像一.jpg
宝井其角(『國文学名家肖像集』)(「ウィキペディア」)
『国文学名家肖像集(47/101)』(書誌情報:著者・永井如雲 編/出版者・博美社/出版年月日・昭14)
https://dl.ndl.go.jp/pid/1120068/1/47
≪寛文元年7月17日(1661年8月11日) - 宝永4年2月30日(1707年4月2日。一説には2月29日(4月1日)[1])は、江戸時代前期の俳諧師。本名は竹下 侃憲(たけした ただのり)。別号は「螺舎(らしゃ)」「狂雷堂(きょうらいだう)」「晋子(しんし)」「宝晋斎(ほうしんさい)」など。≫(「ウィキペディア」)

其角肖像二.jpg
「其角肖像真蹟 / 渡辺崋山画, 1793-1841」([和泉屋市兵衛], [出版年不明]/ 早稲田大学図書館)
https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/he05/he05_05704/index.html

 渡辺崋山が描いた「其角肖像真蹟」に付せられている、其角の色紙の句「饅頭で人をたつねよ山桜」(其角自筆色紙)は、其角の「聞句」(謎句)として、『去来抄(同門評)』で取り上げられている。

https://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/reference/kyoraisyou/dohmonhyo/d30_manjuude.htm

《  まんぢうで人を尋ねよ山ざくら        其角
 許六曰 、是ハなぞといふ句也*。去來曰、是ハなぞにもせよ、謂不應と云ふ句也*。たとへバ灯燈で人を尋よといへるハ直に灯燈もてたづねよ也*。是ハ饅頭をとらせんほどに、人をたづねてこよと謂へる事を、我一人合點したる句也*。むかし聞句といふ物あり。それハ句の切様、或ハてにはのあやを以て聞ゆる句也。此句ハ其類にもあらず*。 
(注記)
※許六曰 、是ハなぞといふ句也:許六が、この句は謎の多い句だね、と言った。
※去來曰、是ハなぞにもせよ、謂不應と云ふ句也:私は、謎かもしれないが、言いおおせずという句だろうね、と答えた。
※たとへバ灯燈で人を尋よといへるハ直に灯燈もてたづねよ也:たとえば、「灯篭で人を訪ねろ」と言ったらそれは「灯篭を持って人を訪ねろ」ということだ。
※是ハ饅頭をとらせんほどに、人をたづねてこよと謂へる事を、我一人合點したる句也:これは、饅頭をほうびにやるから、訪ねて来いと、作者一人が勝手に喜んでいる句だよ。去来の解釈は、「山桜が咲いた。それを一緒に見たいから、なんなら饅頭持って拙宅に遊びに来てくれないか」だが、これで十分と言えないところにこの句の「謎」がある。
※むかし聞句といふ物あり。それハ句の切様、或ハてにはのあやを以て聞ゆる句也。此句ハ其類にもあらず :昔、「聞き句」と言うものがあって、句の切り方、「て、に、は」の微妙な使い方などを学ぶ句なのだが、この其角の句はそれでもなさそうだね。 》(「芭蕉DB」所収「去来抄」)

去来(『去来抄』)の句意=饅頭をほうびにやるから、訪ねて来い。
桃隣(『陸奥衛』・前書=「餞別」)の句意=芭蕉翁の旅姿の如くまんじゅう頭の法体で行脚して来たらよかろう。
旨原・其角(『五元集』・前書=「花中尋友」)の句意=尋ねる友は花より団子の下戸ゆえ、お花見の浮かれた雑踏の中でも、饅頭を食っている男を目当てに尋ねたら見つかるだろう。

 そもそも、其角自身、この句を最初に作句した時(元禄九年=『韻塞』・『桃舐集』、元禄十年=『末若葉』)には、前書が無く、そして、この元禄十年(一六九六)の『陸奥衛』に掲載された時に、「餞別」という前書が付せられて、上記の『陸奥衛』のような句意の取り方が一般的だったようである。
 それが、『五元集』(其角自選、小栗旨原編。延享四年(一七四七)刊)で、「「花中尋友」の前書が付せられ、晩年の其角(宝永四年=一七〇七没)は、上記の『五元集』の句意のように、其角自身で、転換していると解せられるのである。
 これらのことに関して、下記アドレスの「『五元集』に於ける前書について(二上貴夫稿)」
では、次のような示唆に富んだ指摘をしている。

https://www.jstage.jst.go.jp/article/haibun1951/2008/114/2008_114_48/_pdf/-char/ja

≪ 連句の付け合いでは、付句が付くことによって、前句にあった意味内容が変わってしまう事がしばしばある。これは「連句的作意」というものだが、其角最晩年の自選発句集『五元集』をみると、意図的に前書を付け替えることで(或いは新たに前書を付す事で)発句の意味する内容を変えるという試みが幾つかの句でなされているのに気づく。
 『五元集』千四句中、「前書あり」の発句が五百十八句。その内、当初の前書を新しく書き直した句、当初は前書のなかった発句に新しく付けた句、また『五元集』に初めて出て来
る未発表の句で前書のある句、これらの跡をたどることで其角晩年の思想をうかがう事が出来、また、其角が前書を付すという方法で「本説取」を考えていた事が分かるだろう。 ≫「『五元集』に於ける前書について(二上貴夫稿)」

 この「連句的作意」(「前句」と「付句」との句意の転換)と「前書と発句の『本説取』」(「前書」を「本説取」とする句意の多重化)などが、「其角俳諧(洒落風俳諧)」の特徴であり、この其角の「連句的作意」と「前書と発句の『本説取』」を、「抱一俳諧(「東風流俳諧」)」
の基本に据えていることが察知されるのである。
 そして、その「連句的作意」と「前書と発句の『本説取』」の底流には、「唱和と反転」(「前句・前書」に「唱和」して、それに、新しい世界を付与する「反転」化する)との、この二つの原理が大きく作用しているということが明らかになってくる。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-09-30

(再掲)
抱一・其角肖像二.jpg
酒井抱一筆「晋子肖像(夜光る画賛)」一幅 紙本墨画 六五・〇×二六・〇

「晋子とは其角のこと。抱一が文化三年の其角百回忌に描いた百幅のうちの一幅。新出作品。『夜光るうめのつぼみや貝の玉』(『類柑子』『五元集』)という其角の句に、略画体で其角の肖像を記した。左下には『晋子肖像百幅之弐』という印章が捺されている。書風はこの時期の抱一の書風と比較すると若干異なり、『光』など其角の奔放な書風に似せた気味がある。其角は先行する俳人肖像集で十徳という羽織や如意とともに表現されてきたが、本作はそれに倣いつつ、ユーモアを漂わせる。」(『別冊太陽 酒井抱一 江戸琳派の粋人』所収「抱一の俳諧(井田太郎稿)」)

 この著者(井田太郎)が、『酒井抱一---俳諧と絵画の織りなす抒情』(岩波新書一七九八)を刊行した(以下、『井田・岩波新書』)。
 この『井田・岩波新書』では、この「其角肖像百幅」について、現在知られている四幅について紹介している。

一 「仏とはさくらの花の月夜かな」が書かれたもの(伊藤松宇旧蔵。所在不明)
二 「お汁粉を還城楽(げんじょうらく)のたもとかな」同上(所在不明)
三 「夜光るうめのつぼみや貝の玉」同上(上記の図)
四 「乙鳥の塵をうごかす柳かな」同上(『井田・岩波新書』執筆中の新出)

 この四について、『井田・岩波新書』では、次のように記述している。

【 ここで書かれた「乙鳥の塵をうごかす柳かな」には、二つの意味がある。第一に、燕が素早い動きで、「柳」の「塵」、すなわち「柳絮(りゅうじょ)」(綿毛に包まれた柳の種子)を動かすという意味。第二、柳がそのしなやかで長い枝で、「乙鳥の塵」、すなわち燕が巣材に使う羽毛類を動かすという意味。 】『井田・岩波新書』

 この「燕が柳の塵を動かす」のか、「柳が燕の塵を動かす」のか、今回の『井田・岩波新書』では、それを「聞句(きくく)」(『去来抄』)として、その「むかし、聞句といふ物あり。それは句の切様、或はてにはのあやを以て聞ゆる句也」とし、この「聞句」(別称、「謎句」仕立て)を「其角・抱一俳諧(連句・俳句・狂句・川柳)」を読み解く「補助線」(「幾何学」の補助線)とし、その「補助線」を補強するための「唱和と反転」(これも「聞句」以上に古来喧しく論議されている)を引いたところに、この『井田・岩波新書』が、これからの「井田・抱一マニュアル(教科書)」としての一翼を担うことであろう。
 そして、次のように続ける。

【 これに対応する抱一句が、第一章で触れた「花びらの山を動かす桜哉」(『句藻』「梶の音」)である。早くに詠まれたこの句は『屠龍之技』「こがねのこま」にも採録され、『江戸続八百韻』では百韻の立句にされており、抱一自身もどうやら気に入っていたとおぼしい。句意は、大きな動きとして、桜の花びらが散れば、桜花爛漫たる山が動くようにみえるというのが第一。微細な動きとして、桜がさらに花弁を落とし、すでにうず高く積もった花弁の山を動かすというのが第二。
 燕の速度ある動きと柳の悠然たる動き、桜の大きな動きと微細な動き、両句ともに、こういった極度に相反する二重の意味をもつ「聞句」である。また、有名な和歌「見わたせば柳桜をこきまぜて都ぞ春の錦なりける」(『古今和歌集』巻第一)をはじめとし、柳と桜は対にされてきたから、柳を詠む其角に対し、意図的に抱一が桜を選んだと考えられる。抱一句は全く関係のないモティーフを扱いながら、其角句と見事に趣向を重ねているわけで、これは唱和のなかでも反転にほかならないと確認される。 】『井田・岩波新書』

  乙鳥の塵をうごかす柳かな  其角 (『五元集』)
  花びらの山を動かす桜哉   抱一 (『屠龍之技』)

 この両句は、其角の『句兄弟』(其角著・沾徳跋)をマニュアル(教科書)とすると、「其角句=兄句/抱一句=弟句」の「兄弟句」で、其角句の「乙鳥」が抱一句の「花びら」、その「塵」が「山」、そして「柳」が「桜」に「反転」(置き換えている)というのである。
 そして、其角句は「乙鳥が柳の塵を動かすのか/柳が乙鳥の塵を動かすのか」(句意が曖昧=両義的な解釈を許す)、いわゆる「聞句=謎句仕立て」だとし、同様に、抱一句も「花びらが桜の山を動かすのか/桜が花びらの山を動かすのか」(句意が曖昧=両義的な解釈を許す)、いわゆる「聞句=謎句仕立て」というのである。
 さらに、この両句は、「其角句=前句=問い掛け句」、そして「抱一句=後句=付句=答え句」の「唱和」(二句唱和)の関係にあり、抱一は、これらの「其角体験」(其角百回忌に其角肖像百幅制作=これらの其角体験・唱和をとおして抱一俳諧を構築する)を実践しながら、「抱一俳諧」を築き上げていったとする。
 そして、その「抱一俳諧」(抱一の「文事」)が、江戸琳派を構築していった「抱一絵画」(抱一の「絵事」)との、その絶妙な「協奏曲」(「俳諧と絵画の織りなす抒情」)の世界こそ、「『いき』の構造」(哲学者九鬼周三著)の「いき」(「イエスかノーかははっきりせず、どちらにも解釈が揺らぐ状態)の、「いき(粋)の世界」としている。
 さらに、そこに「太平の『もののあわれ』」=本居宣長の「もののあわれ」)を重奏させて、それこそが、「抱一の世界(「画・俳二道の世界」)」と喝破しているのが、今回の『井田・岩波新書』の最終章(まとめ)のようである。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-01-22

(再掲)

  ここで、さらに、抱一の「俳」(俳諧)の世界を注視すると、実に、抱一の句日記は、自筆稿本十冊二十巻に及ぶ『軽挙館句藻』(静嘉堂文庫)として、天明三年(一七八三)から、その死(一八二八)の寸前までの、実に、その四十五年分の発句(俳句)が現存されているのである。
 それだけではなく、抱一は自撰句集として『屠龍之技(とりゅうのぎ)』を、文化九年(一八一二)に刊行し、己の「俳諧」(「俳諧(連句)」のうちの「発句(一番目の句)」=「俳句」)の全容を世に問うっているのである(その全容の一端は、補記一の「西鶴抱一句集」で伺い知れる)。
 抱一の「俳」(俳諧)の世界は、これだけではなく、抱一の無二の朋友、蕪村(「安永・天明俳諧)の次の一茶の時代(「化政・文化の俳諧)に、「江戸の蕪村」と称せられた「建部巣兆(たけべそうちょう)」との、その切磋琢磨の、その俳諧活動を通して、その全貌の一端が明らかになって来る。
 巣兆は、文化十一年(一八一四)に没するが、没後、文化十四年(一八一しち)に、門人の国村が、『曾波可理』(巣兆句集)を刊行する。ここに、巣兆より九歳年長の、義兄に当たる亀田鵬斎と、巣兆と同年齢の酒井抱一とが、「序」を寄せている。
 抱一は、その「序」で、「巣兆とは『俳諧の旧友』で、句を詠みあったり着賛したり、『かれ盃を挙れハ、われ餅を喰ふ』と、その親交振りを記し、故人を偲んでいる。」(『酒井抱一と江戸琳派の全貌』所収「四章 江戸文化の中の抱一・俳諧人ネットワーク」)
 この「序」に出て来る、「かれ(巣兆)盃を挙れハ、われ(抱一)餅を喰ふ」というのは、
巣兆は、「大酒飲みで、酒が足りなくなると羽織を脱いで妻に質に入れさせた」との逸話があるのに比して、抱一は下戸で、「餅を喰ふ」との、抱一の自嘲気味の言なのであろう。
 この巣兆と抱一との関係からして、抱一が、馬場存義門の兄弟子にも当たる、京都を中心として画・俳の二道で活躍した蕪村に、当然のことながら関心はあったであろうが、その関心事は、「江戸の蕪村」と称せられる、朋友の巣兆に呈したとしても、あながち不当の言ではなかろう。
 いずれにしろ、蕪村の回想録の『新花摘』(其角の『花摘』に倣っている)に出て来る、其角逸話の例を出すまでもなく、蕪村の「其角好き」と、文化三年(一八〇六)の「其角百回忌」に因んで、「其角肖像」を百幅を描いたという、抱一の「其角好き」とは、両者の、陰に陽にの、その気質の共通性を感ずるのである。

補記一 西鶴抱一句集(国立国会図書館デジタルコレクション)

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/875058/1

補記二 抱一の俳句

http://haiku575tanka57577.blogspot.jp/2012/10/blog-post_6.html

1  よの中は團十郎や今朝の春
2  いく度も清少納言はつがすみ
3  田から田に降ゆく雨の蛙哉
4  錢突(ぜについ)て花に別るゝ出茶屋かな
5  ゆきとのみいろはに櫻ちりぬるを
6  新蕎麥のかけ札早し呼子鳥
7  一幅の春掛ものやまどの富士
8  膝抱いて誰もう月の空ながめ
9  解脱して魔界崩るゝ芥子の花
10 紫陽花や田の字づくしの濡ゆかた
11 すげ笠の紐ゆふぐれや夏祓
12 素麺にわたせる箸や銀河あまのがは
13 星一ッ殘して落る花火かな
14 水田返す初いなづまや鍬の先
15 黒樂の茶碗の缺かけやいなびかり
16 魚一ッ花野の中の水溜り
17 名月や曇ながらも無提灯
18 先一葉秋に捨たるうちは哉
19 新蕎麥や一とふね秋の湊入り
20 沙魚(はぜ)釣りや蒼海原の田うへ笠
21 もみぢ折る人や車の醉さまし
22 又もみぢ赤き木間の宮居かな
23 紅葉見やこの頃人もふところ手
24 あゝ欠(あく)び唐土迄も秋の暮
25 燕(つばくろ)の殘りて一羽九月盡くぐわつじん
26 山川のいわなやまめや散もみぢ
27 河豚喰た日はふぐくうた心かな
28 寒菊の葉や山川の魚の鰭
29 此年も狐舞せて越えにけり


(再掲)

http://yahantei.blogspot.com/search/label/%E5%85%B6%E8%A7%92?updated-max=2007-03-23T10:43:00%2B09:00&max-results=20&start=11&by-date=false

其角とその周辺・一(一~九)
其角とその周辺・二(十~二十)

http://yahantei.blogspot.com/search/label/%E5%85%B6%E8%A7%92?updated-max=2007-04-24T08:59:00%2B09:00&max-results=20&start=6&by-date=false

其角とその周辺・三(二十一~三十二)
其角とその周辺・四(三十三~四十五)
其角とその周辺・五(四十六~五十五)
其角とその周辺・六(五十六~六十五)
其角とその周辺その七(六十六~七十一)

http://yahantei.blogspot.com/search/label/%E5%85%B6%E8%A7%92

其角とその周辺(その八・七十二~八十)
其角とその周辺(その九・八十一~九十)
其角の『句兄弟・上』一(一~十一)
其角の『句兄弟・上』二(その十一~二十五)


其角肖像三.jpg
(其角肖像)
其角の『句兄弟・上』三(二十六~三十四)
其角の『句兄弟・上』四(三十五~三十九)
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「抱一再見」(続「忘れがたき風貌・画像」) [抱一再見]

(その十五)「烏丸光廣」(その周辺)

烏丸光広像.jpg
「烏丸光広像(法雲院蔵)・部分図」(「ウィキペディア」)
≪生誕 天正7年(1579年)
死没 寛永15年7月13日(1638年8月22日)
別名 烏有子、腐木(号)
戒名 法雲院泰翁宗山
墓所 法雲院(京都市右京区)
官位 正二位、権大納言
主君 正親町天皇→後陽成天皇→後水尾天皇→明正天皇
氏族 藤原北家真夏流日野家支流烏丸家
父母 父:烏丸光宣
妻 正室:結城鶴子(江戸鶴子) [前結城秀康 正室] 継室:村上頼勝娘
子 光賢、勘解由小路資忠、六角広賢ほか ≫(「ウィキペディア」)

https://www.blogger.com/blog/post/edit/17972871/1433282636558540923

4-68 (江尻)置炬燵浪の関もり寝て語れ (酒井抱一『屠龍之技』「第四 椎の木かげ」)

歌川広重「東海道五十三次・江尻」.jpg
歌川広重『東海道五十三次・江尻』(「ウィキペディア」)
≪江尻宿は、東海道五十三次の18番目の宿場である。現在の静岡県静岡市清水区(旧清水市)の中心部にあたる。≫(「ウィキペディア」)

(句意「その周辺」)
 この句には、「江尻の駅寺尾与右衛門が許にて」の「前書」と、「光廣卿の倭哥によりてなり」の「後書」とが付してある。

 「軽挙館句藻」では、「江尻の宿寺尾与右衛門が許に泊る/光廣卿の御歌を染筆せられたる屏風あり/歌烏丸との/
 霧はれにむかひにたてる三穂の松これや清見のなみの関守
それは松これは亭主
 置炬燵浪の関もり寝て語れ 」と、「烏丸光廣」の「霧はれにむかひにたてる三穂の松これや清見のなみの関守」の一首が記されており、その「本歌取り」の一句ということになる。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-07-22

(再掲)

(その七)俵屋宗達派「蔦の細道図屏風」(「伊年」印)

蔦の細道一.jpg
俵屋宗達派「蔦の細道図屏風」(「伊年」印) 右隻 十七世紀後半 六曲一双
各一五八・〇×三五八・四㎝ 萬野美術館蔵 紙本金地着色 重要文化財

蔦の細道二.jpg
俵屋宗達派「蔦の細道図屏風」(「伊年」印) 左隻 十七世紀後半 六曲一双
各一五八・〇×三五八・四㎝ 萬野美術館蔵 紙本金地着色 重要文化財

【 金地に緑青(ろくしょう)の濃淡たけで表された、山の細道と蔦の葉。上部の賛をあらかじめ計算に入れた横長の画面構成には、宗達画・光悦書の和歌巻を思わせるところがある。そしてさらにこの屏風には心憎い仕掛けがある。右隻と左隻を入れ替えても、このように画面がつながって、また別な構図が現れるのだ。空のように見えていた右隻の右上部分は、山の斜面に変貌する。どこまで行っても終わることのない迷路のようだ。自由に立て回すことのできた屏風という形式ならではの発想だが、それを実に巧みに利用している。 】(『日本の美をめぐる 奇跡の出会い 宗達と光悦(小学館)』)

(参考)烏丸光広(からすやまみつひろ) 

没年:寛永15.7.13(1638.8.22) 生年:天正7(1579)
 安土桃山・江戸時代の公卿,歌人。烏丸光宣の子。蔵人頭を経て慶長11(1606)年参議、同14年に左大弁となる。同年,宮廷女房5人と公卿7人の姦淫事件(猪熊事件)に連座して後陽成天皇の勅勘を蒙るが、運よく無罪となり、同16年に後水尾天皇に勅免されて還任。同17年権中納言、元和2(1616)年権大納言となる。細川幽斎に和歌を学び古今を伝授されて二条家流歌学を究め、歌集に『黄葉和歌集』があるほか、俵屋宗達、本阿弥光悦などの文化人や徳川家康、家光と交流があり、江戸往復時の紀行文に『あづまの道の記』『日光山紀行』などがある。西賀茂霊源寺に葬られ、のちに洛西法雲寺に移された。<参考文献>小松茂美『烏丸光広』 (伊東正子)出典 「朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について」)

(句意)

 江尻宿(静岡市清水区)の本陣「寺尾与右衛門」宅に一泊した。そこに、烏丸光廣卿が「霧はれにむかひにたてる三穂の松これや清見のなみの関守」の和歌を染筆した屏風を見て深い感銘を覚えた。その光廣卿の一首は、歌枕の「三保の松原」の「松」が、これも、歌枕の「清見潟」の「関守」というもので、その一首に唱和して、この「清見潟」の「関守」は、「三保の松原」の「松」に匹敵する、この「江尻宿の本陣」の主人「寺尾与右衛門」その人だと、「置き炬燵」を共にして、その「寝物語り」を、もっともっと聞きたいという、挨拶句を呈することにした。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-06-19

(「三藐院ファンタジー」その十五)

光広・詠草.jpg
「烏丸光広筆二条城行幸和歌懐紙」 慶應義塾ミュージアム・コモンズ(センチュリー赤尾コレクション)

https://objecthub.keio.ac.jp/object/803

【 後水尾天皇〈ごみずのおてんのう・1596-1680〉の二条城行幸は、寛永3年〈1626〉9月6日より5日間、執り行なわれた。その華麗な行粧と、舞楽・和歌・管弦・能楽などの盛大な催しの様子は、『寛永行幸記』『徳川実紀』などに詳述されている。この懐紙は、二条城行幸の時の徳川秀忠〈とくがわひでただ・1579-1632〉・家光〈いえみつ・1604-51〉・後水尾天皇の詠歌を、烏丸光広〈からすまるみつひろ・1579-1638〉が書き留めたもの。光広はこのとき48歳、和歌会の講師を務めた。「「竹、遐年を契る」ということを詠める和歌/左大臣源秀忠/呉竹のよろづ代までとちぎるかなあふぐにあかぬ君がみゆきを/右大臣源家光/御幸するわが大きみは千代ふべきちひろの竹をためしとぞおもふ/御製/もろこしの鳥もすむべき呉竹のすぐなる代こそかぎり知られね」

(釈文)

詠竹契遐年和歌/左大臣源秀忠/呉竹のよろづ代までとちぎるかなあふぐにあかぬ君がみゆきを/右大臣源家光御幸/するわが大きみは千代ふべきちひろの竹をためしとぞおもふ/御製/もろこしの鳥もすむべき呉竹のすぐなる代こそかぎり知られね   】

 この寛永三年(一六二六)の「二条城行幸」の全記録は、下記のアドレスで、その全容を見ることができる。

https://www.imes.boj.or.jp/cm/research/komonjo/001005/016/910170_1/html/

 その「一連の儀式のクライマックスとなった、天皇以下、宮廷の構成員を総動員する形で上演された『青海波』」の舞」の全容は、下記のアドレスのものが参考となり、これは、『源氏物語画帖』の「詞書」の執筆者などを探る上で、極めて重要なデータとなってくる。

https://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=&cad=rja&uact=8&ved=2ahUKEwiBw_ux9obxAhVSFogKHaIqBFsQFjAAegQIAxAD&url=https%3A%2F%2Fglim-re.repo.nii.ac.jp%2F%3Faction%3Drepository_uri%26item_id%3D795%26file_id%3D22%26file_no%3D1&usg=AOvVaw1LejrASRSFdRxGu9Y6EYoe

【 「王権と恋、その物語と絵画―〈源氏将軍〉徳川家と『源氏物語』をめぐる政治」(松島仁稿)(抜粋)

 秀忠は寛永三年(一六二六)、息子である三代将軍・家光とともに大軍を率いて上洛し、〈天皇の庭〉神泉苑を大幅に切り取ったうえ、壮麗に改築された二條城に後水尾天皇を迎る。足利義満や豊臣秀吉、そして光源氏の故事を踏まえたこの行幸の模様は、一代の盛儀として屏風絵や絵巻、古活字版・整版として板行された絵入りの行幸記などにも記録されるが、ここで一連の儀式のクライマックスとなったのが、天皇以下、宮廷の構成員を総動員する形で上演された「青海波」の舞だった。
(註22)
 「この日兼てより舞御覧の事仰出されしかば。未刻に至て主上(後水尾天皇)の玉座を階間御簾際に設け。あらかじめ上畳御菌をしく、西間を中宮(東福門院和子・徳川氏)。女院(中和門院前子・近衛氏)の御座とし。畳菌を設く。姫宮方には畳なし。東間を爾御所(徳川秀忠・家光)御座とし。屏風をへだてて二間を親王。門跡。大臣の座とし。關白はじめ公卿。殿上人は縁より孕張に至るまでの間圓座を設く。(中略)
 青海波序(輪台)。中院侍從通純。飛鳥井侍從雅章。左京大夫忠勝。治部大輔宗朝。破は(青海波)四辻侍從公理。西洞院侍從時良。いつれも麹塵閾腋。紅葉の下襲。表袴も同じ。巻纓。蒔絵野太刀。紅緂の平緒。絲鞋。青海波の二侍從は菊花を挿頭す。垣代は堀川中將康胤を始め。殿上人十四人。皆弓。壺胡簶。伶人十二人。染装束。御随身八人。襲装束なり。箏は内(後水尾天皇)の御所作。琵琶は伏見兵部卿貞清親王。箏は高松弾正罪好仁親王。琵琶は伏見の若宮。みな簾中にての所作なり。簀子には關白(近衛信尋・後水尾天皇弟)井に一條右大臣昭良公。九條前関白兼孝公。ともに箏。二條内大臣康道公笙。鷹司左大將教平卿。九條右大將幸家卿は共に笛。四辻中納言季継卿は箏。西園寺宰相中將實晴卿は琵琶。西洞院右衛門督時直卿は篳篥。其座下に打板敷。円座を設。殿上人の座とす。山科少將言総は笙。櫛笥侍從隆朝は笛。清水谷侍從忠定。久世少將通式は共に箏。小倉侍從公根は琵琶。花園侍從
公久は笙。唐橋民部少輔在村は篳篥。同所砌下に板敷をかまへ伶人の座とす。(中略)垣代の輩次第に中門にいり。舞人斜に庭上を巡り大輪をなし。御座の前東西に小輪をなせば。序破の舞人両輪の中にいり。次に一行平立。次に舞人打すちかへめぐりて前行す。(後略)」(『大猷院殿御實紀』寛永三年(一六二六)九月七日條く黒板勝美・國史大系編修會編『徳川實紀第二篇〈新訂増捕國史大系三十九巻〉』、吉川弘文館、一九三〇年〉。括弧内は筆者) 】

光広・富士山.jpg
「烏丸光広筆富嶽自画賛」(慶應義塾ミュージアム・コモンズ(センチュリー赤尾コレクション)
https://objecthub.keio.ac.jp/object/1844

【烏丸光広〈からすまるみつひろ・1579-1638〉は、江戸時代初期の公卿。多芸多才の文化人として知られ、和歌・連歌はもとより、書画・茶道も能くした。とりわけ和歌は、細川幽斎〈ほそかわゆうさい・1534-1610〉に学び古今伝授を受けている。一方、能書家としても声価が高い。当初は、当時の公卿に共通の手習書法であった持明院流を習う。が、のちに光悦流に強い影響を受け、また同時に藤原定家〈ふじわらのさだいえ・1162-1241〉の書風にも私淑して、定家流も掌中にしている。しだいに不羈奔放の光広の性格を投影した光広流ともいうべき書風を確立、わが書道史上、近衛信尹〈このえのぶただ・1565-1614〉・本阿弥光悦〈ほんあみこうえつ・1558-1637〉・松花堂昭乗〈しょうかどうしょうじょう・1584-1639〉ら「寛永の三筆」と並び称される評価を得ている。本図は、富士山を一筆書きに描き、その余白に富士山を詠み込んだ1首の和歌を書き添えたもの。光広は、徳川家康〈とくがわいえやす・1542-1616〉の厚遇を受け、朝廷と江戸幕府との斡旋役として、生涯幾度となく関東へ下向。そのたびたび京から江戸・駿府に下向している。東海道往来の折に、仰いだ富士の霊峰を詠んだ和歌は数知れず、家集『黄葉和歌集』(巻第七・羈旅部)には20首が収められている。この和歌はその中には見あたらないが、かれの自詠にちがいない。のびのびと淡墨を駆った書画一体の妙は、光広の真骨頂を示すものである。

(釈文)

おもかげの
山なる
気かな
朝夕に
ふじの
高根が
はれぬ
くもゐの         】


https://yahan.blog.ss-blog.jp/2023-01-12

その五 「西行法師行状絵詞(西行物語絵巻)」(俵屋宗達画・烏丸光広書)周辺

西行絵物語一.jpg
「西行法師行状絵詞」(俵屋宗達画・烏丸光広書)第三巻 紙本著色 7幅
第一段断簡 32.8cm×98.0cm 第四段断簡 詞 32.4cm×47.8cm 絵 32.7cm×48.9cm 
第六段断簡 詞32.8cm×48.5cm 絵32.9cm×98.0cm 第一四段断簡 詞 33.1cm×48.5cm 絵 33.1cm×96.5cm 国(文化庁)
文化庁分室 東京都台東区上野公園13-9 平成17・21年度 文化庁購入文化財
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/145397

(再掲)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-03-31

【 本作品は、烏丸光広(1579~1638)が禁裏御本を俵屋宗達に写させ、寛永七年(1630)に成立した紙本著色西行法師行状絵詞のうち第三巻の断簡である。
 全一七段で構成される第三巻のうち、本作は第一段、第四段、第六段、第一四段の絵と詞、七幅から成る(第一段は絵と詞併せて一幅)。巻第三は、西行が西国への歌行脚の末に、戻った都で娘に再会するまでを描いた巻であり、第一段は、草深い伏見の里を訪れる旅姿の西行、第四段は、北白川にて秋を詠むところ、第六段は、天王寺に参詣にむかう西行が交野の天の川にいたり、業平の歌を思い出して涙が袖に落ちかかったと詠んだ場面、第一四段は、猿沢の池に映る月に昔を偲ぶところを描く。
 絵は、美しい色彩を賦した景物をゆったりと布置して、詩情漂う名所をあらわしている。宗達らしいおおらかな雰囲気を保持しており、また現在知られている宗達作品中、製作時期の確実な唯一の遺品として貴重である。 】

西行絵物語二.jpg
「西行物語絵巻」(出光美術館蔵)第一巻・第二巻・第四巻
http://idemitsu-museum.or.jp/collection/painting/rimpa/01.php

https://www.tobunken.go.jp/materials/nenki/814581.html

(「西行物語絵巻」第一巻・部分図)(出光美術館蔵)
画/俵屋宗達(生没年不詳) 詞書/烏丸光広(1579 - 1638)
江戸時代 寛永7年(1630)第一巻 第二巻 第四巻 紙本着色
第一巻 33.4×1785.0cm
第二巻 33.5×1855.7cm
第四巻 33.6×1821.0cm
【 宗達作品のなかで、年紀が明らかな唯一の作品です。能書家の公家・烏丸光広の奥書によれば、本多伊豆守富正の命を受けた光広が、「禁裏御本」を「宗達法橋」に模写させ、詞は光広自身が書いたこと、また「寛永第七季秋上澣」という年紀が判明します。宗達が写した禁裏御本は失われていますが、時代の異なる同じ系統の模写類本がいくつか存在し、宗達が古絵巻をどのように写し、創意を加えているかを間接的ながら考察することができます。"たらし込み"をもちいた軽快な筆致や、鮮麗な色彩は宗達ならではのものです。 】
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「抱一再見」(続「忘れがたき風貌・画像」) [抱一再見]

(その十四)「松永貞徳」(その周辺)

松永貞徳像.jpg

「松永貞徳肖像」(「ウィキペディア」)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%B0%B8%E8%B2%9E%E5%BE%B3#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Matsunaga_Teitoku.jpg
≪「松永貞徳(まつながていとく)
[生]元亀2(1571).京都
[没]承応2(1653).11.15. 京都
 江戸時代前期の俳人,歌人,歌学者。名,勝熊。別号,逍遊軒,長頭丸,延陀丸,花咲の翁など。連歌師の子として生れ,九条稙通 (たねみち) ,細川幽斎らから和歌,歌学などを,里村紹巴から連歌を学び,一時豊臣秀吉の祐筆となった。貞門俳諧の指導者として,俳諧を全国的に普及させた功績は大きく,松江重頼,野々口立圃,安原貞室,山本西武 (さいむ) ,鶏冠井 (かえでい) 令徳,高瀬梅盛,北村季吟のいわゆる七俳仙をはじめ多数の門人を全国に擁した。
 歌人としては木下長嘯子とともに地下 (じげ) 歌壇の双璧をなし,門下に北村季吟,加藤磐斎,和田以悦,望月長好,深草元政,山本春正らがいる。狂歌作者としても一流であった。俳書に『新増犬筑波集』 (1643) ,『御傘 (ごさん) 』,『紅梅千句』 (55) ,歌集に『逍遊愚抄』 (77) ,歌学書に『九六古新注』 (70) ,『堀川百首肝要抄』 (84) ,狂歌書に『貞徳百首狂歌』 (36成立) などがある。≫(「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典」)

https://yahantei.blogspot.com/2023/05/5-405-45.html

辛酉春興
 今や誹諧峰の如くに起り、
 麻のごとくにみだれ、
 その糸口を知らず。
5-40 貞徳も出(いで)よ長閑き酉の年(抱一『屠龍之技』「第五千づかの稲」)  

 前書の「辛酉春興」は、「寛政十三年・享和元年(一八〇一)」、抱一、四十一歳時の「春興(新春句会)」での一句ということになる。
 季語は、「酉の年」(「酉年」の「新年・今年・初春・新春・初春・初句会・等々)、前書の「春興」(三春)、「長閑」(三春)の季語である。そして、この句は、松永貞徳の次の句の「本句取り」の一句なのである。
 
鳳凰も出(いで)よのどけきとりの年 (貞徳『犬子集』)
貞徳も出(いで)よ長閑き酉の年   (抱一『屠龍之技』「第五千づかの稲」)

 この二句を並列して、何とも、抱一の、この句は、貞徳の「鳳凰」の二字を、その作者の「貞徳」の二字に置き換えただけの一句ということになる。これぞ、まさしく、「本句取り」の典型的な「句作り」ということになる。
 「鳳凰」は、「聖徳をそなえた天子の兆しとして現れるとされた、孔雀(くじゃく)に似た想像上の瑞鳥(ずいちょう)」(「ウィキペディア」)で、「貞徳」は「貞門派俳諧の祖」(「ウィキペディア」)で、この「鳳凰」と「貞徳」と、この句の前書の「今や誹諧峰の如くに起り、/麻のごとくにみだれ、/その糸口を知らず。」とを結びつけると、この句の「句意」は明瞭となってくる。
 「句意」は、「今や誹諧峰の如くに起り、/麻のごとくにみだれ、/その糸口を知らず。」の、この「辛酉春興」(「寛政十三年・享和元年(一八〇一)」、抱一、四十一歳時の「春興(新春句会)」)に際して、「俳諧の祖」の「貞徳翁」の「酉年」の一句、「鳳凰も出(いで)よのどけきとりの年」に唱和して、「貞徳も出(いで)よ長閑き酉の年」の一句を呈したい。この未曾有の俳諧混乱期の、この混乱期の道筋は、「貞徳翁」俳諧こそ、その道標になるものであろうか。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-11-20

「木下長嘯子と松永貞徳」周辺

木下長嘯子.jpg

抱一筆『集外三十六歌仙図画帖』所収「十八 木下長嘯子」(姫路市立美術館蔵)
https://jmapps.ne.jp/hmgsbj/det.html?data_id=1486
≪木下長嘯子(きのしたちょうしょうし)永禄十二~慶安二(1569~1649) 号:挙白堂・天哉翁・夢翁
 本名、勝俊。木下家定の嫡男(養子)。豊臣秀吉夫人高台院(北政所ねね)の甥。小早川秀秋の兄。秀吉の愛妾松の丸と先夫武田元明の間の子とする伝もある。歌人木下利玄は次弟利房の末裔。幼少より秀吉に仕え、天正五年(1587)龍野城主に、文禄三年(1594)若狭小浜城主となる。秀吉没後の慶長五年(1600)、石田三成が挙兵した際には伏見城を守ったが、弟の小早川秀秋らが指揮する西軍に攻められて城を脱出。
 戦後、徳川家康に封地を没収され、剃髪して京都東山の霊山(りょうぜん)に隠居した。本居を挙白堂と名づけ、高台院の庇護のもと風雅を尽くした暮らしを送る。高台院没後は経済的な苦境に陥ったようで、寛永十六年(1639)頃には東山を去り、洛西小塩山の勝持寺の傍に移る。この寺は西行出家の寺である。慶安二年六月十五日、八十一歳で没。
 歌は細川幽斎を師としたが、冷泉流を学び、京極為兼・正徹などに私淑した。寛永以後の地下歌壇では松永貞徳と並称される。中院通勝・冷泉為景・藤原惺窩らと親交があった。門弟に山本春正・打它公軌(うつだきんのり)・岡本宗好などがいる。また下河辺長流ら長嘯子に私淑した歌人は少なくなく、芭蕉ら俳諧師に与えた影響も大きい。他撰の家集『若狭少将勝俊朝臣集』(『長嘯子集』とも)、山本春正ら編の歌文集『挙白集』(校註国歌大系十四・新編国歌大観九などに所収)がある。≫
松永貞徳.jpg

抱一筆『集外三十六歌仙図画帖』所収「三十六 松永貞徳」(姫路市立美術館蔵)
https://jmapps.ne.jp/hmgsbj/det.html?data_id=1506
≪松永貞徳(まつながていとく) [生]元亀2(1571).京都 [没]承応2(1653).11.15. 京都
 江戸時代前期の俳人,歌人,歌学者。名,勝熊。別号,逍遊軒,長頭丸,延陀丸,花咲の翁など。連歌師の子として生れ,九条稙通 (たねみち) ,細川幽斎らから和歌,歌学などを,里村紹巴から連歌を学び,一時豊臣秀吉の祐筆となった。貞門俳諧の指導者として,俳諧を全国的に普及させた功績は大きく,松江重頼,野々口立圃,安原貞室,山本西武 (さいむ) ,鶏冠井 (かえでい) 令徳,高瀬梅盛,北村季吟のいわゆる七俳仙をはじめ多数の門人を全国に擁した。
 歌人としては木下長嘯子とともに地下 (じげ) 歌壇の双璧をなし,門下に北村季吟,加藤磐斎,和田以悦,望月長好,深草元政,山本春正らがいる。狂歌作者としても一流であった。俳書に『新増犬筑波集』 (1643) ,『御傘 (ごさん) 』,『紅梅千句』 (55) ,歌集に『逍遊愚抄』 (77) ,歌学書に『九六古新注』 (70) ,『堀川百首肝要抄』 (84) ,狂歌書に『貞徳百首狂歌』 (36成立) などがある ≫(「ブリタニカ国際大百科事典」)

https://www.buson-an.co.jp/f/haikai30

【蕪村菴俳諧帖30】貞門俳諧

≪ ◆江戸俳諧の開花

 江戸初期の俳諧流派を貞門俳諧(ていもんはいかい)と呼びます。貞徳(ていとく)の門流という意味で、芭蕉の蕉門に相当するもの。宗鑑、守武ら室町俳諧のあと100年ほど停滞していた俳諧を復活させ、 江戸期最初の大輪の花を咲かせたのが、博覧強記の文人 松永貞徳(1571-1653)でした。
貞徳は京都の生まれ。12歳で高名な学者から『源氏物語』の秘伝を授けられ、 20歳の頃からは豊臣秀吉の右筆(ゆうひつ=書記)となります。
 「貞徳の先生は50人いた」と伝えられるほど多くの師に学んだ貞徳は その豊かな知識と教養を活かすべく30歳にして私塾をひらき、 庶民の子弟を指導するようになります。
 本職は学者、教育者というべきかもしれませんが、 里村紹巴(じょうは)から連歌を学んだのがきっかけで 俳諧の世界に足を踏み入れ、やがてその改革者となっていきます。
 貞徳は日常語や漢語に詩的な価値を与え、 雅語のみを使う和歌、連歌と俳諧とのちがいを明確にしました。また宗鑑などの室町俳諧の悪ふざけ、詠み捨てを否定し、 座興にすぎなかった俳諧の質を高めることに熱心でした。新時代の俳諧理論を書物に著したのも大きな功績でしょう。
 わかりやすい理論に裏打ちされた貞徳の俳諧は人気を博し、 70歳の頃には門弟300名に及ぶ一大勢力となって、 貞徳はまさに俳壇の指導者、支配者として君臨します。同時代には貞徳と直接の関係がない俳家もいたのですが、 かれらまでまとめて貞門と呼ばれてしまうほどでした。

◆蕪村に注ぐ流れ

 貞徳らしさの表れた発句を見てみましょう。

〇花よりも団子やありて 帰る雁

 花の季節だというのに、それを楽しもうとせず帰っていく雁の群。故郷には団子でもあるのではないか、というわけです。「花より団子」を踏まえているのはすぐわかりますが、 じつは『古今和歌集』の次の歌が本歌になっています。

春霞たつを見すてゝ行く鴈は 花なき里に住みやならへる(古今集 春 伊勢)

春霞が立ったのに(花を見ずに)帰ってしまう鴈(=雁)は 花のない里に住みなれているんじゃないかと。帰雁(きがん)を花を解せずとみなすのは和歌の伝統です。
歌詠みでもあった貞徳は、それを俳諧に採り入れたのです。

〇雪月花 一度に見するうつぎかな

これは漢語を用いた例。うつぎ(空木/卯木)は梅雨入り前後に清楚な白い花をつけますが、 その美しさを四季の風物(雪月花)を同時に見るようだと称えています。
蕪村とその一派が漢語を多用していたことを思うと、 貞徳はその大先輩だったことになります。≫

https://objecthub.keio.ac.jp/ja/object/729

松永貞徳筆和歌懐紙.jpg

「松永貞徳筆和歌懐紙」(「慶應義塾(センチュリー赤尾コレクション)」)
≪ 松永貞徳〈まつながていとく・1571-1653〉は、江戸時代初期の俳人・歌人・歌学者。京都に生まれ、名は勝熊。長頭丸・延陀丸をはじめ、数多くの号を用いた。晩年は京都五条稲荷町の「花咲の宿」と称す家に住み、五条の翁・花咲の翁とも呼ばれた。自著『戴恩記』には「師の数五十余人」と記す。連歌師であった父永種〈ながたね・1538-98〉の縁もあって、九条稙通・里村紹巴・細川幽斎・飛鳥井雅春といった良師に恵まれ、和歌・歌学をはじめ、儒学・連歌・神道・有職故実など一流の教養を身につけた。木下長嘯子と並び称される当代の代表歌人である。また、俳諧の上手としても知られ、俳壇の中心的存在となり貞門派を創始した。この懐紙は自詠の和歌一首を書いたもの。貞徳は一時、豊臣秀吉の右筆をつとめたという能書。和歌の師であった細川幽斎の書を連想させる、細身で重心の高い字形は、知的ですがすがしい。気品にあふれる落ち着いた書きぶりは、充実した壮年期のものであろうか。家集『逍遊集』に所収される一首。「「山花を待つ」ということを詠める和歌/長頭丸/山里は知る人もなし花咲かばなれよ夢にも黄楊(つげ)の小枕」

詠待山花和歌/長頭丸/やまざとはしる人/もなしはなさかばなれ/よゆめにもつげのを/まくら   ≫

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「抱一再見」(続「忘れがたき風貌・画像」) [抱一再見]

(その十三)「鈴木春卓・蠣潭・其一-守一」(その周辺)

蠣潭・藤図扇面.jpg

鈴木蠣潭筆「藤図扇面」 酒井抱一賛 紙本淡彩 一幅 一七・一×四五・七㎝ 個人蔵 
【 蠣潭が藤を描き、師の抱一が俳句を寄せる師弟合作。藤の花は輪郭線を用いず、筆の側面を用いた付立てという技法を活かして伸びやかに描かれる。賛は「ゆふぐれのおほつかなしや藤の茶屋」。淡彩を滲ませた微妙な色彩の変化を、暮れなずむ藤棚の下の茶店になぞらえている。】(『別冊太陽 江戸琳派の美』)
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-08-24

(再掲)

 蠣潭は抱一の最初の弟子。酒井家家臣で抱一の付き人を務めた鈴木春卓の養子。幼少より抱一のもとに出入りし、文化六年(一八〇九)、十八歳の時、養父の跡を継いで十三人扶持、中小姓として正式に抱一に仕える。抱一の画業を支え、時には代作も依頼されたことが知られる。
 抱一から強く頼りにされていた蠣潭だが、文化十四年(一八一七)、犬毒(狂犬病)で二十六歳の若さで急死、鈴木家を継ぐべき蠣潭の姉(一説に妹)と縁組みしたのが弟弟子の、其一である。

 上記の「藤図扇図」は、蠣潭=画、抱一=賛(俳句)の、師弟の合作である。抱一の句の「ゆふぐれのおほつかなしや藤の茶屋」、そして、その流麗な筆致が絶妙である。ここには、師弟一体の絶妙な世界が現出されている。

鈴木蠣潭(すずきれいたん)

1782-1817 江戸時代後期の武士,画家。
 天明2年生まれ。播磨(はりま)(兵庫県)姫路藩士。藩主酒井忠以(ただざね)の弟酒井抱一(ほういつ)の付き人となる。抱一に画をまなび、人物草花を得意とした。文化14年6月25日死去。36歳。名は規民。通称は藤兵衛、藤之進。(出典:講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plus)

白薔薇図扇面.jpg

鈴木蠣潭 「白薔薇図扇面」江戸時代後期/個人蔵
http://salonofvertigo.blogspot.com/2016/09/

鈴木其一(すずききいつ)/(「ウィキペディア」)

 寛政7年(1795年) - 安政5年9月10日(1858年10月16日))は、江戸時代後期の絵師。江戸琳派の祖・酒井抱一の弟子で、その最も著名な事実上の後継者である。もと氏は西村、一説には山本。諱は元長、字は子淵。其一は号で、のちに通称にも使用した。別号に噲々、菁々、必庵、鋤雲、祝琳斎、為三堂、鶯巣など。近代に通じる都会的洗練化と理知的な装飾性が際立ち、近代日本画の先駆的な絵師とみなされている。
(生い立ち)
其一の生い立ちは不確かなことが多い。中野其明『尾形流略印譜』や『東洋美術大鑑』など近代以降、弟子の談話などの資料を根拠とした説では中橋(現在のブリヂストン美術館周辺)で、近江出身の紫染めを創始したと言われる紺屋の息子として寛政8年4月に誕生し、兄弟子鈴木蠣潭(れいたん、通称・藤之進、のち藤兵衛)の病死後、蠣潭の姉りよを妻として鈴木家の婿養子になったとされる。一方、『姫陽秘鑑』に収録される文化14年(1817年)7月付の養父蠣潭の名跡養子願には幕臣水野勝之助の家来、飯田藤右衛門厄介の甥で蠣潭母方の遠縁、西村為三郎として武士階級であるように登場し、年齢も23歳、結婚相手も妹になっている。このうち、年齢は其一自身の作品、「牡丹図」の落款と「菊慈童図」の箱書きから文化14年時点で23歳、寛政7年の誕生であることは確かとみられ、結婚相手も論理・法律上の観点から妹である可能性が高いとみられている(姉と結婚すると義兄になるため、名跡を継ぐためとは言え弟の養子にはなれない)。其一は子供のころから抱一に弟子入りし、文化10年(1813年)に内弟子になったとされている。文化14年には前述のとおり兄弟子であった蠣潭の急病死のあと、婿養子として鈴木家の家督を継いだ。『東洋美術大鑑』は其一の俸禄を150人扶持であったと記述するが、これには早くから疑問が呈せられ、松下高徐『摘古採要五編』にみえる酒井家士時代の9人扶持、養父蠣潭の13人扶持と比較しても再考が必要と指摘されている。
(画風準備期・草体落款時代)
年記がある其一の作品は少ないが、落款の変遷から画風展開を追うのが普通である。抱一在世中は、抱一から譲られた号である「庭拍子」、または「其一筆」とだけ記す草書落款が多い。この時期は、抱一の住居「雨華庵」の筋向いに住み、身の回りの世話をしながら彼に学び、個性を顕わにしていく画風準備期とされる。ミシガン大学所蔵の「抱一書状巻」によると、其一はしばしば師の代筆を担当したらしく、抱一作品の中には其一筆と酷似した物も見られる。抱一からは、茶道や俳諧も学び、「鴬巣」の俳号をもち、亀田鵬斎や大田南畝らと交わり、彼らの讃をもつ初期作品も少なくない。文政8年(1825年)西村貌庵が著し、抱一が序を寄せた『花街漫録』の挿絵を描いており、他にも10点ほどの版本挿絵が知られる。
(画風高揚期・噲々(かいかい)落款時代)
 其一は抱一の四十九日を過ぎてすぐ、文政12(1829年)2月に願い出て、それまでの家禄を返上する代わりに一代画師となった。普通なら姫路藩士として通常の勤務に戻るのが通例であるが、一代画師を選択したのに其一の特異性をみる意見もある。5人扶持・絵具料5両を受け、同時に剃髪し、天保3年(1832年)11月には絵具料を改定されて、9人扶持となる。翌年京都土佐家への絵画修業を名目に50日の休暇を申し出て、2月13日から11月にかけて西遊する。この時の日記『癸巳西遊日記』が、京都大学附属図書館谷村文庫に残されている。其一は、古い社寺を訪ね回り古書画の学習に励むなかで師の影響を脱し、独自の先鋭で近代的な画風へ転換していく。落款も「噲々其一筆」などと記す、いわゆる噲々落款に改め、この後10年程用いた。「噲々」とは『詩経』小雅が出典で、「寛く明らかなさま」「快いさま」を意味する。天保12年(1841年)から弘化3年(1846年)にかけて、抱一が出版した『光琳百図』の版木が焼けてしまったため、其一が複製して再出版している。その制作過程における、宗達や光琳作品の図様や構成法の再学習は、この後の画風に影響を与えたと見られる。天保13年(1842年)の『広益諸家人名録』には其一ではなく、息子守一の名が記されていて、その頃既に家督を譲っていたのではないかと推定されているが、当時の人名録には当主だけではなく隠居、兄弟、子女も掲載される例は多数あり、別の事情により其一は選外になったとみる向きもある。
(画風円熟期・菁々(せいせい)落款時代)
 弘化元年(1844年)頃からは、「菁々其一」と号を改めた菁々落款に変わる。「菁々」も『詩経』小雅にあり、「盛んなさま」「茂盛なさま」を指し、転じて人材を育成することを意味する。明らかに光琳の号「青々」も踏まえており、この改号には、師抱一を飛び越えて光琳を射程としつつ、次なる段階に進み、自ら後進を育てようと目論む其一の意欲が窺える。  
 その作風は再び琳派の伝統に回帰する一方で、其一の個性的造形性が更に純化する傾向が混在したまま完成度を高め、ある種の幻想的な画趣を帯びるようになった。ただし、晩年には工房作とおぼしき其一らしからぬ凡庸な作品が少なからず残り、師・抱一と同様、其一も弟子に代作させたと見られる。また、酒井忠学に嫁いだ徳川家斉の娘喜代姫の厚遇により、酒井家の医師格、つまり御用絵師となり別に30人扶持を賜ったとする説があるが[6]、信頼できる一次資料にはない。安政5年、64歳で没する。死因は当時流行したコレラともいわれる。法名は菁々院元譽其一居士。浄土宗の浅草松葉町正法寺に葬られたが、同寺は関東大震災で中野区沼袋に移転し、其一の墓もそこに現存している。

(再掲)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-08-28

其一・文読む遊女図.jpg

鈴木其一筆「文読む遊女図」酒井抱一賛/紙本淡彩/一幅 94・2×26・2㎝/細見美術館蔵
【 若き日の其一は、師の抱一に連れられて吉原遊郭に親しんだのだろうか。馴染み客からの文を読む遊女のしどけない姿に、「無有三都 一尺楊枝 只北廓女 朝々玩之」「長房の よふし涼しや 合歓花」と抱一が賛を寄せている。 】(『別冊太陽 江戸琳派の美』所収「江戸琳派における師弟の合作(久保佐知恵稿)」)
【 其一の遊女図に、抱一が漢詩と俳句を寄せた師弟の合作。其一は早くから『花街漫録』に、肉筆浮世絵写しの遊女図を掲載したり、「吉原大門図」を描くなど、吉原風俗にも優れた筆を振るう。淡彩による本図は朝方客を見送り、一息ついた風情の遊女を優しいまなざしで的確に捉えている。淡墨、淡彩で略筆に描くが、遊女の視線は手にした文にしっかりと注がれており、大切な人からの手紙であったことを示している。賛は房楊枝(歯ブラシ)を、先の広がっているその形から合歓の花になぞらえている。合歓は夜、眠るように房状の花を閉じることから古来仲の良い恋人、夫婦に例えられた。朝帰りの客を見送った後の遊女のしっとりとした心情をとらえた作品である。草書体の「其一筆」の署名と「必菴」(朱文長方印)がある。
(賛)
無有三都/一尺楊枝/只北廓女/朝々玩之/長房の/よふし涼しや/合歓花
抱一題「文詮」(朱文瓢印) 】(『鈴木其一 江戸琳派の旗手』所収「作品解説(岡野智子稿))」

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-07-16

其一・雪中竹梅図.jpg

鈴木其一筆「雪中竹梅小禽図」双幅・絹本着色 細見美術館蔵 111・9×52・0cm
【 雪竹に雀を右幅、雪の紅白に雀を左幅に描いた双幅。いずれも枝葉、花にこんもりと雪が積もり、なお画面には雪が舞っている。降り積もった雪を薄い水墨の外隈で表し、降る雪、舞う雪はさらに胡粉を吹き付けて雪らしい感じに仕上げている。雪深い中にも早春の気配を感じさせる図である。
 右幅では雪の重みでしなる二本の竹の枝が大きく弧を描き、雀が当たって勢いよく落ちる雪のさまが雪塊とともに長く滝のように表される。墨を交えた緑の竹と、それを覆うかのような雪が鮮やかなコントラストを見せている。同様な表現は、竹に替わり檜ではあるが、其一「檜図」や「四季図」(四幅対)にも見出され、其一が得意とした画題であった。
 これに対し左幅は、一羽の雀が寒さに耐えて羽を休め、静寂な画面である。ほころび始めた紅梅の花にも蕾にも雪が積もり、複雑な余白の表出を其一は楽しんでいるかのようである。
 雪と雀を左右共通のモチーフとしながら、静と動、緑と紅などを対比させ、雪のさまざまな形の面白さをも追及した意欲的な作品である。師の抱一が情趣の表現を追求したのに対し、其一は造形的な効果にも多く関心を払った。 】(『鈴木其一 江戸琳派の旗手(読売新聞社)』所収「作品解説(岡野智子稿)」)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-07-23

其一・朝顔図屏風一.jpg

鈴木其一筆「朝顔図屏風」六曲一双 紙本金地著色 各一七八・〇×三七九・八㎝
メトロポリタン美術館蔵(再掲)→ (其一・金地・「綺麗さび」の「綺麗」)→ (図一)

宗達・雲龍図屏風一.jpg

俵屋宗達筆「雲龍図屏風」六曲一双 紙本墨画淡彩 各一五〇・六×三五三・六㎝
フリア美術館蔵 (宗達・墨画・「綺麗さび」の「さび」)→(図二)

宗達・風神雷神図一.jpg

俵屋宗達筆「風神雷神図屏風」二曲一双 紙本金地淡彩 各一五四・五×一六九・八㎝
建仁寺蔵 → (図三)

其一・風神雷神図襖一.jpg

鈴木其一筆「風神雷神図襖」四面裏表 絹本著色 各一六九・〇×一一六・〇cm
東京冨士美術館蔵→ (図四)

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-04-18

 其一の「朝顔図屏風」(図一)、宗達の「雲龍図屏風」(図二)・「風神雷神図屏風」(図三)は、いわゆる、移動性の「屏風絵(画)」に比して、其一の「風神雷神図襖」は、建物に付属している「襖絵」という違いがある。
 本来は、これらの障壁画(襖絵、杉戸絵、壁貼付絵、天井画、屏風絵、衝立絵などの総称)は、建物の空間と密接不可分のもので、それらを抜きにして鑑賞することは十全ではないのかも知れないが、逆に、それらの本来の空間がどういうものであったかを想像しながら、これの大画面の絵画を観賞する面白さもあるように思われる。
 例えば、この宗達の「雲龍図屏風」(図二)は、「落款が両隻を並べた場合内側となる部分にあることから、並置するのではなく、向かい合わせに置くことを意図していたと推測される」(『琳派四 風月・鳥獣(紫紅社刊)』)と、そもそもは、其一の「風神雷神図襖」(図四)と同じような意図で制作されたものなのかも知れない。
 さらに、この其一の「風神雷神図襖」(図四)も、襖四面の「裏と表」に描かれていると、上記のように、並置しての、右隻の「風神図」と左隻の「雷神図」との対比が希薄化される恐れがあるように思われる。

 ここで、改めて、上記の四図を見ていくと、この其一の「朝顔図屏風」(図一)は、宗達の「雲龍図屏風」(図二)、そして、其一の「風神雷神図襖」(図四)は、宗達の「風神雷神図」(図三)を、それぞれ念頭に置いて制作したのではないかという思いを深くする。
 と同時に、其一は、宗達の「黒と白」との「水墨画」の極致の「雲龍図屏風」(図二)を、「金地に群青と緑青等の装飾画」の極致の「朝顔図屏風」(図一)に反転させ、そして、宗達の「金地に緑青等の装飾画」の極致の「風神雷神図屏風」(図三)を、「黒と白と淡彩の水墨画」の極致の「風神雷神図襖」(図四)に、これまた、反転させているということを実感する。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-04-25

其一・白椿.jpg

Camellias (one of a pair with F1974.35) → 白椿(フリーア美術館蔵)
Type Screen (two-panel) → 二曲一双
Maker(s) Artist: Suzuki Kiitsu 鈴木其一 (1796-1858)
Historical period(s) Edo period, 19th century
School Rinpa School
Medium Ink, color, and gold on paper → 金地着色画
Dimension(s) H x W: 152 x 167.6 cm (59 13/16 x 66 in)

 上記の作品が、屏風の「表」の「金」(ゴールド)の世界とすると、その屏風の「裏」の「銀」(シルバー)の世界が、次のものである。

其一・芒野.jpg

Autumn Grass → 芒野(フリーア美術館蔵)
Type Screen (two-panel) → 二曲一双
Maker(s) Artist: Suzuki Kiitsu 鈴木其一 (1796-1858) → 鈴木其一
Historical period(s) Edo period, 19th century
Medium Ink and silver on paper → 銀地墨画 
Dimension(s) H x W: 152 x 167.6 cm (59 13/16 x 66 in)

其一・芒野二.jpg

鈴木其一「芒野図屏風」 二曲一隻 紙本銀地墨画 一四四・二×一六五cm
千葉市美術館蔵

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-08-03

守一・東下り.jpg


鈴木守一筆「不二山図」 一幅 絹本著色 一〇四・五×三九・五㎝ 個人蔵
(「『描表装(かきびょうそう)』」は省略)
出典(『琳派―版と型の展開(町田市立国際版画美術館編)』)

 これは、江戸琳派の創始者・酒井抱一(宝暦十一年・一七六一~文政十一年・一八二八)でも、その継承者・鈴木其一(寛政八年・一七九六~安政五年)の作でもない。その其一の子・鈴木守一(文政六年・一八二三~明治二十三・一八八九)の作である。
 守一は、琳派の継承者だが、江戸時代の画家というよりも、幕末・明治時代の画家ということになる。しかし、この絵もまた、次の其一の作品の「型」を踏襲し、景物(富士山など)の配置や人物(主人公と従者)の向きなどに変化をもたらしているということになろう。

鈴木守一(すずきしゅういつ)

https://jmapps.ne.jp/spmoa/sakka_det.html?list_count=10&person_id=725

 19世紀半ばから後半に活躍した江戸琳派の画家。鈴木其一の子として江戸に生まれる。名は元重、字は子英。通称は重五郎。静々、庭柏子、露青などと号す。
 父・其一に画を学び、その模作を数多く残す。天保13(1842)年頃に其一の跡を継ぐ。明治6(1873)年のウィーン万国博覧会に《紅葉鴛鴦》を出品するなど、酒井抱一の孫世代として、幕末から明治にかけて活躍。其一の鮮やかな彩色、明快な構図などを継承しつつ、抱一の情趣を重んじる表現を受け継ぎ、多岐にわたる画題を描いた。
明治期において江戸琳派様式を展開させた点で重要な画家と言える。

鈴木春卓(すずきしゅんたく)

 鈴木春卓は、「蠣潭の養父(?)→其一の義父・養父(?)→守一の祖父(?)」の「鈴木家」の祖ということになる。この「鈴木藤兵衛春卓」の名の初出は、「鈴木藤兵衛春卓/寛政二年九月等覚院様御付」(『摘古採要』所収「等覚院殿御一代記」)のようである。(「抱一上人年譜稿(相見香雨稿)」)
 この寛政二年(一七九〇)、抱一、三十歳時の、その七月に、抱一の実兄の「忠以」が急逝し、その実子の「忠道」が十二歳の若さで、その三代目姫路藩を継承したのである。この時に、抱一は、「酒井家」の第一線から姿を消し、その七年後の寛政九年(一七九七)十月に出家して、「等覚院文詮暉真」を名乗ることになる。
 この抱一の出家関連については、同年十月十七日と十九日付けの「等覚院殿御一代記」に、次のような記述が見られる。

https://www.blogger.com/blog/post/edit/17972871/3724470630003625244

一 同月十七日(寛政九年十月十八日の「得度式」の前日)御得度被為済/京都御住居被成候ニ付/御合力・千石/五十人扶持・御蔵前ニテ/被進候事ニ被仰出
(文意=抱一の出家後は、酒井家より、「千石・五十人扶持=付人(つきびと)三人の合計扶持)で、抱一の俸禄は「知行地」でなく「蔵米で一千石」待遇となる。その前段の「京都御住居被成候ニ付」は、出家後は、京都の西本願寺の末寺に住する」ということであろう。)

 この「付人(つきびと)」三人に関して、「御一代記」に、次のとおり記述されている。(『相見香雨集一』所収「抱一上人年譜考」)

 此君大手にいませし頃は左右に伺候する諸士もあまたありしか御隠栖の後は僅に三人のみ召仕われける    

 (中略)

同月十九日等覚院様ニテ左の如く被仰付
御家老相勤候被仰付拾六人扶持被下置  福岡新三郎 (給人格)
御用人相勤候被仰付拾五人扶持被下置  村井又助 (御中小姓)
拾五人扶持被下置           鈴木春卓 (御伽席)

 かくの如く夫々被仰付京都御住居なれば御合力も姫路より京都回りにて右三人の御宛行も御合力の内より給はる事なりされは三人の面々御家の御分限に除れて他の御家来の如くなりし其内にも鈴木春卓は御貯ひの事に預りて医師にては御用弁もあしければ還俗被仰付名も藤兵衛と改しなり後々は新三郎も死亡し又助も退散して藤兵衛のみ昵近申せし也
(文意・注=「此君大手にいませし」(抱一が「酒井家」の上屋敷に居た頃)、「給人」(給人を名乗る格式の藩士は一般に「上の下」とされる家柄の者)、「中小姓」(小姓組と徒士(かち)衆の中間の身分の者、近侍役)、「御伽席」(特殊な経験、知識の所有者などで、主人の側近役)、この「鈴木春卓(藤兵衛)」は、「医師にては御用弁あ(り)し」(「医事」の知識・経験を有している意か?)、そして、この「鈴木家」が、「(鈴木春卓)→鈴木蠣潭(1782-1817)→鈴木其一(1795-1858)」と、画人「酒井抱一」をサポートすることになる。)

(参考)「抱一の出家後は、酒井家より、「千石・五十人扶持=付人(つきびと)三人の合計扶持)で、抱一の俸禄は「知行地」でなく「蔵米で一千石」待遇となる。」周辺

https://www.viva-edo.com/houroku.html

蔵米取り(くらまいとり)

支給方法 年3回に分けて支給されたため「切り米」と言った。
100俵の場合 春 2月:4分の1=25俵 (借り米)俸禄米の先渡しの意味から
夏 5月:4分の1=25俵 (借り米)
冬 10月:2分の1=50俵(大切米)

扶持米(ふちまい)

下級の侍に支給される一種の手当。戦国時代からの名残。
一人一日五合の計算で支給 一人扶持=一年=360日=一石八斗 を月割りで毎月支給。
 年収に直すとおおまかに、一人扶持=5俵と考えてよい。例:30俵2人扶持の場合 40俵

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%97%E6%9C%AC

(旗本) (「ウィキペディア」)

1000石級
 1000石取りの軍役は侍5人、立弓1人、鉄砲1人、槍持2人、甲冑持2人、草履取2人、長刀1人、挟箱持2人、馬の口取2人、押足軽1人、沓箱持1人、小荷駄2人の計21人である。馬は主人の乗用と乗換用2頭に小荷駄用2頭を用意しておくことになっていたが、大半はせいぜい乗馬2頭だけ用意した。
 拝領する屋敷はおおむね三十間四方九百坪ぐらいで門は門番所付長屋門である。家臣の侍のうちから用人が選ばれて主人出勤中の屋敷の表を取り仕切り、奥には女中が奥様付きの老女を筆頭に5、6人いた。
 1000石取りは四公六民とすれば400石の収入であり、使用人を三十人ぐらいとして、それらへの食料を53石程度と見積もると347石が残り、使用人への給料や諸経費を賄っても生活は比較的安定していた階級だったといえる。
 またこの階級は幕府要職に就くことも多く、目付や使番などが適当な勤め場所だった。
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「抱一再見」(続「忘れがたき風貌・画像」) [抱一再見]

(その十二) 抱一の二人の甥(「忠道=銀鷺」と「忠実=鷺山・玉助・松柏堂・春来窓」)」(その周辺)

酒井忠道.jpg

酒井忠道(さかい ただひろ / ただみち)は、江戸時代中期から後期の大名。播磨姫路藩第3代藩主。雅楽頭系酒井家16代。

「酒井忠道」(「ウィキペディア」)
生誕 安永6年9月10日(1777年10月10日)
死没 天保8年7月23日(1837年8月23日)
別名 坂井得三郎?
墓所 群馬県前橋市紅雲町の龍海院
官位 従五位下・雅楽頭、従四位下・主計頭、備前守
幕府 江戸幕府
藩 播磨姫路藩主
氏族 雅楽頭酒井家
父母 父:酒井忠以、母:嘉代姫(松平頼恭の娘)
兄弟 忠道、忠実、以寧
妻 正室:磐(井伊直幸の娘)
子 英(松平斉恒継室)、妙(小笠原長貴正室)、夬(内藤頼寧正室)、寿久(京極高朗継室)、忠親(長男)、忠学
養子:忠実
(生涯)
 第2代藩主酒井忠以の長男。寛政2年(1790年)、12歳の時に父の死により家督を継ぐ。この頃、姫路藩では財政窮乏のため、藩政改革の必要性に迫られており、文化5年(1808年)には藩の借金累積が73万両に及んでいた。父・忠以も河合道臣(寸翁)を登用して藩政改革に臨んだが、藩内の反対派によって改革は失敗し、道臣は失脚した。しかし忠道は再度、道臣を登用して藩政改革に臨んだ。
 文化7年(1810年)には「在町被仰渡之覚」を発表して藩政改革の基本方針を定め、領民はもちろん、藩内の藩士全てに改革の重要性を知らしめた。まず、道臣は飢饉に備えて百姓に対し、社倉という食料保管制度を定めた。町民に対しては冥加銀講という貯蓄制度を定めた。さらに養蚕所や織物所を藩直轄とすることで専売制とし、サトウキビなど希少で高価な物産の栽培も奨励した。
 道臣は特に木綿の栽培を奨励していた。木綿は江戸時代、庶民にとって衣服として普及し、その存在は大変重要となっていた。幸いにして姫路は温暖な天候から木綿の特産地として最適だったが、当時は木綿の売買の大半が大坂商人に牛耳られていた。道臣ははじめ、木綿の売買権を商人から取り戻し藩直轄するのに苦慮したが、幸運にも忠道の八男・忠学の正室が第11代将軍・徳川家斉の娘・喜代姫であったため、道臣は家斉の後ろ盾を得て、売買権を藩直轄とすることができた。この木綿の専売により、姫路藩では24万両もの蓄えができ、借金を全て弁済するばかりか、新たな蓄えを築くに至った。
 文化11年(1814年)、38歳で弟の忠実に家督を譲って隠居し、天保8年(1837年)に61歳で死去した。  

酒井忠実(さかい ただみつ)は、江戸時代後期の大名。播磨国姫路藩酒井家の第4代藩主。雅楽頭系酒井家17代。
生誕 安永8年10月13日(1779年11月20日)
死没 嘉永元年5月27日(1848年6月27日)
改名 直之助(幼名)、忠実
別名 徳太郎、玉助(通称)、以翼、春来窓(号)
戒名 祗徳院殿鷺山源桓大居士
墓所 群馬県前橋市紅雲町の龍海院
官位 従五位下河内守、従四位下雅楽頭、侍従、左近衛少将
幕府 江戸幕府
主君 徳川家斉
藩 播磨姫路藩主
氏族 酒井氏(雅楽頭家)
父母 父:酒井忠以、母:松平頼恭の娘・嘉代姫
養父: 酒井忠道
兄弟 忠道、忠実、以寧
妻 正室:西尾忠移の娘・隆姫
側室: 於満寿
子: 采、松平忠固、西尾忠受、東、忠讜、三宅康直、酒井忠嗣正室、桃、九条尚忠室ら
養子:忠学、万代
(生涯)
 第2代藩主・酒井忠以の次男。 文化11年(1814年)、兄・忠道の隠居後に家督を継ぎ、20年以上にわたって藩政をとった。 天保6年(1835年)、57歳で隠居する。 家督は先代忠道の八男・忠学(忠実の甥)に継がせた。 隠居後、鷺山と号した。
 叔父の酒井抱一と交流が深かった。 抱一の句集『軽挙館句藻』には、しばしば「玉助」の名で登場し、抱一の部屋住み時代の堂号「春来窓」を継承し、抱一が忠実の養嗣子就任の際に贈った号「松柏堂」を名乗っている。 正室の隆姫も抱一から「濤花」の俳号を贈られている。正室の隆姫は、戦国期の播磨姫路城主・黒田孝高や酒井重忠の血筋を引いている。

「抱一」と二人の甥(「忠道=銀鷺」と「忠実=春来窓・六花」)周辺

 文化十一年(一八一四)、抱一、五十四歳時の『軽挙館句藻』の二月の項に、次のような記述がある。

  きさらぎ廿七日、初鰹を九皐子のもとより送る
  銀鷺・六花両君に呈す
 花をまつ松のさし枝(え)や七五三
 時有(あり)て居替(いがは)る鶴や松の春

≪ 九皐子(きうかうし)は抱一の孫弟子野沢堤雨(一八三七~一九一七)の父とされ、光琳百回忌の展覧会にも一点出品している。忠道(銀鷺)・忠実に異様に早い貴重な初鰹を進呈し、藩主代替わりを暗示する祝儀句をそれぞれに贈っているから、抱一は叔父として、それなりに兄の遺児である両者に神経を遣っていたようにも感じられる。
忠実の方は抱一から春来窓の号を譲られたほか、合作の俳諧摺物を数点制作している。『句藻』をみれば、忠実にあてた句・和歌、季節の品の贈答記事や祝儀句など言及は多い。両者は同じ次男であり、兄忠道が藩主を辞めなければ、忠実は藩主にはなれなかった。抱一は出家したが、似た境遇のせいか、ことさら可愛がったようである。 ≫(『酒井抱一・井田太郎著』) 

 この前年の文化十年(一八一三)に刊行された『屠龍之技』(鵬斎序・春来窓跋・南畝跋)の、その「春来窓(忠実)跋」は、次のとおりである。

≪ 抱一上人、春秋の発句有り。草稿、五車に積(つむ)べし。其(その)十が一を挙(あげ)て一冊とす。上人、居を移(うつす)事数々也。其部(そのぶ)を別(わか)つに其処(そのところ)を以(もつて)す。これ皆、丹青図絵(たんせいづえ)のいとまなり。此(この)冊子(さつし)の跋文を予に投ず。尤(もつとも)、他に譲(ゆづる)べきにもあらず、唯、「寛文・延宝の調(しらべ)を今の世にも弄(もてあそぶ)もの有らば、其(その)判(はん)を乞(こは)ん」と。「是(これ)、上人の望(のぞみ)給(たま)ふところ也」と。春来窓、三叉江のほとりに筆を採(とり) 畢(をはんぬ)。≫(『酒井抱一・井田太郎著』) 

 ここで、「忠道=銀鷺」が、その実弟の「忠実=春来窓・六花」に、文化十一年(一八一四)九月に、三十八歳の若さで藩主の座を、二歳下の弟の忠実に譲って隠居し、忠道が亡くなったのは、天保八年(一八三七)の六十一歳の時である。
 この忠道の生存中の天保六年(一八三五)に、忠道から家督を継承した忠実は、忠道の実子の「忠学(ただのり)」に家督を譲って、これまた、五十七歳で隠居している。
 この「(忠以)→忠道→忠実→忠学」 の、播磨国姫路藩酒井家(第三代→第六代)の四代の藩主に仕え、五十年余にわたって、姫路藩の財政再建に貢献した家老が、「河合道臣」(号=寸翁)である。

河合寸翁像.jpg

姫路神社境内の河合寸翁像(「ウィキペディア」)

河合道臣(かわい ひろおみ/みちおみ)
生誕 明和4年5月24日(1767年6月20日)
死没 天保12年6月24日(1841年8月10日)
改名 道臣→寸翁(号)
別名 隼之介(通称)
墓所 兵庫県姫路市奥山仁寿山梅ケ岡の河合家墓所
主君 酒井忠以→忠道→忠実→忠学
藩 播磨国姫路藩家老
氏族 河合氏
父母 父:川合宗見、母:林田藩士長野直通の娘
妻 正室:泰子(林田藩士長野親雄の娘)
子 良臣
養子:良翰(松下高知次男)
≪ 姫路城内侍屋敷で誕生。幼少より利発で知られ、11歳の時から藩主酒井忠以の命で出仕しはじめた。天明7年(1787年)に父の宗見が病死したため家督1000石を相続、21歳で家老に就任する。茶道をたしなむなど、文人肌であった。
 江戸時代後期の諸藩の例に漏れず、姫路藩も歳入の4倍強に及ぶ73万両もの累積債務を抱えていた。酒井氏は譜代筆頭たる名家であったが、その酒井氏にして日常生活にさえ支障を来すほどの困窮振りであった。このような危機的状況のなか、道臣は忠以の信任のもと、財政改革に取りかかる。寛政2年(1790年)に忠以が急死すると反対派の巻き返しに遭い一旦失脚するが、忠以の後を継いだ忠道は文化5年(1808年)に道臣を諸方勝手向に任じ、本格的改革に当たらせた。
 道臣は質素倹約令を布いて出費を抑制させる一方、文化6年(1809年)頃から領内各地に固寧倉(義倉)を設けて農民を救済し、藩治に努めた。従来の農政では農民に倹約を説きつつ、それで浮いた米を藩が搾取していたが、道臣は領民に生活資金を低利で融資したり、米を無利息で貸すなど画期的な政策を打ち出した。この政策は藩内で反対も多かったが、疲弊した領民を再起させ、固寧倉の設置で飢饉をしのげるようになるなど、藩内の安定につながった。更に朝鮮人参やサトウキビなどの高付加価値な商品作物も栽培させることで、藩の収入増が図られた。
 姫路藩では新田開発は従来から行われていたが、道臣の時期には主に播磨灘沿岸で推進され、新田での年貢減免策もとった。海岸部では飾磨港をはじめとする港湾の整備に努め、米や特産品などの流通に備えた。加えて城下では小麦粉、菜種油、砂糖など諸国からの物産を集積させ、商業を奨励した。
 道臣の業績として特筆されるのは、特産品販売に関する改革である。藩内を流れる市川・加古川流域は木綿の産地だったが、従来は大坂商人を介して販売していたため販売値が高くなっていた。道臣は木綿を藩の専売とし、大坂商人を通さず直接江戸へ売り込むことを計画した。これは先例が無かったため事前に入念な市場調査をし、幕府役人や江戸の問屋と折衝を重ねた上、文政6年(1823年)から江戸での木綿専売に成功する。色が白く薄地で柔らかい姫路木綿は「姫玉」「玉川晒」として、江戸で好評を博した。また、木綿と同様に塩・皮革・竜山石・鉄製品なども専売とした。これによって藩は莫大な利益を得、道臣は27年かけて藩の負債完済を成し遂げた。
 天保6年(1835年)、69歳で隠居し、天保12年に没した。享年75。仁寿山校近くの河合家墓所に葬られた。≫(「ウィキペディア」)

 河合道臣は、抱一より六歳年下、道忠より十歳年上である。忠以が亡くなった寛政二年(一七九〇)には、「反対派の巻き返しに遭い一旦失脚するが、忠以の後を継いだ忠道は文化五年(一八〇八)に道臣を諸方勝手向に任じ、本格的改革に当たらせた」という。
 この記述からすると、「酒井家における嫡流体制の確立と、それによる傍流の排除(抱一の出家)」関連については、道臣は深く関わってはいない。そして、この忠以の急逝時には、「姫路藩も歳入の4倍強に及ぶ73万両もの累積債務を抱えていた。酒井氏は譜代筆頭たる名家であったが、その酒井氏にして日常生活にさえ支障を来すほどの困窮振りであった。このような危機的状況のなか、道臣は忠以の信任のもと、財政改革に取りかかる。」と、当時の酒井家の財政状況というのは、危機的状況下にあり、これらのことと、忠以の急逝時の「酒井家における嫡流体制の確立と、それによる傍流の排除(抱一の出家)」とは、深い関わりのあることは、想像する難くない。
 そして、忠以の家督を、若干十二歳にして継いだ忠道が、失脚していた河合道臣を再登用し、酒井家の財政再建の道筋を示し、自らは、三十八歳の若さで隠居し、その家督を、傍流の実弟。忠実に継がせて、文字とおり、「忠道(隠居・前藩主))・忠実(藩主)・寸翁(「忠以・忠道・忠実」の家老)」との、この「三鼎(みつがなえ)」の尽力により、「文政六年(一八二三)に、道臣は二十七年けて藩の負債完済を成し遂げた。」と、その後の「酒井家」の再興が結実することになる。
 そして、この「忠道(隠居・前藩主))・忠実(藩主)・寸翁(「忠以・忠道・忠実」の家老)」の、この「三鼎(みつがなえ)」を、陰に陽に支え続けた、その人こそ、「酒井抱一(本名=忠因、字名=暉真、ほかに、屠牛、狗禅、鶯村、雨華庵、軽挙道人、庭柏子、溟々居、楓窓とも号し、俳号=白鳧・濤花、後に杜陵(綾)。狂歌名=尻焼猿人、屠龍(とりょう)の号は俳諧・狂歌、さらに浮世絵美人画でも用いている)」の、今に、「江戸琳派の祖」として仰がれている」、その「酒井抱一」にほかならない。

(補記) 「無心帰大道」(無心なれば大道に帰す)

https://hatunekai.com/?seasonwords=%E7%84%A1%E5%BF%83%E5%B8%B0%E5%A4%A7%E9%81%93

≪ 無心とは・・・無事や平常心と同じような意味があり
あれこれと作為したり取捨分別する心を捨てる事、
欲のない澄んだ心の事だそうです。
あれこれと思い悩まずに、
ただ只管(ひたすら)に努力をしていれば
進むべき道、正しい道が見えてくるのだと。 ≫
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「抱一再見」(続「忘れがたき風貌・画像」) [抱一再見]

(その十一)抱一の兄「酒井忠以(宗雅・銀鵝)」(その周辺)

酒井宗雅公像.jpg

酒井宗雅公像(姫路神社)(「ウィキペディア」)
≪ 酒井忠以(さかい ただざね)」は、江戸時代中期から後期の播磨姫路藩第2代藩主。雅楽頭系酒井家15代。
 姫路藩世嗣・酒井忠仰の長男として江戸に生まれる。父が病弱だったため、祖父・忠恭の養嗣子となり、18歳で姫路藩の家督を継いだ。
 絵画、茶道、能に非凡な才能を示し、安永8年(1779年)、25歳の時、ともに日光東照宮修復を命じられた縁がきっかけで出雲松江藩主の松平治郷と親交を深め、江戸で、あるいは姫路藩と松江藩の参勤行列が行き交う際、治郷から石州流茶道の手ほどきを受け、のちには石州流茶道皆伝を受け将来は流派を担うとまでいわれた。大和郡山藩主の柳沢保光も茶道仲間であった。弟に江戸琳派の絵師となった忠因(酒井抱一)がいるが、忠以自身も絵に親しみ、伺候していた宋紫石・紫山親子から南蘋派を学び、『兎図』(掛軸 絹本著色、兵庫県立歴史博物館蔵)や『富士山図』(掛軸 絹本著色、姫路市立城郭研究室蔵)等、単なる殿様芸を超えた作品を残している。
 天明元年には将軍の名代として光格天皇の即位式に参賀している。一方で藩政は、天明3年(1783年)から天明7年(1787年)までの4年間における天明の大飢饉で領内が大被害を受け、藩財政は逼迫した。このため、忠以は河合道臣を家老として登用し、財政改革に当たらせようとした。だが、忠以は寛政2年(1790年)に36歳の壮年で江戸の姫路藩邸上屋敷にて死去し、保守派からの猛反発もあって、道臣は失脚、改革は頓挫した。家督は長男の忠道が継いだ。
 筆まめで、趣味、日々の出来事・天候を『玄武日記』(22歳の正月から)『逾好日記』(33歳の正月から)に書き遺している。忠以の大成した茶懐石は『逾好日記』を基に2000年9月に、和食研究家の道場六三郎が「逾好懐石」という形で再現している。
(年譜)
1755年(宝暦5年) - 生まれ
1766年(明和3年) - 名を忠以と改名
1772年(安永元年)- 酒井家相続(8月27日)
1781年 (天明元年)- 光格天皇即位式のため上洛
1785年(天明5年) - 溜間詰
1790年(寛政2年) - 死去(7月17日)、享年36 ≫ (「ウィキペディア」)

 この「姫路神社」の「酒井宗雅公像」に彫られている「松風伝古今」こそ、「酒井宗雅(茶号)」その人の一面を、見事にとらえている。

≪ 松風(しょうふう)、古今(ここん)に伝える
 松がなびいている風の音は、今も昔も変わらないように、大切な教えはいつも心に響くのです。今も、弟子入りした時も、師が茶を志した時も、利休が秀吉に茶を点てた時も、茶室の松風は変わっていないのです。

https://www.instagram.com/p/CH6RbnYggjQ/

「松がなびいている風の音」=松籟(しょうらい)
「茶室の松風」=釜の湯の煮え立つ音             ≫

https://blog.goo.ne.jp/1945ys4092/e/187d966e1297be5a1320476b422458be

「酒井忠以=ただざね(宗雅)」と「酒井忠因=ただなお(抱一)」

「酒井忠以=ただざね(宗雅)」
○若くして幕府の重責(将軍名代・溜詰)を担うー将軍補佐役として 重要な地位ー
・第10代将軍 家治の日光東照宮社参に跡乗を務める 安永5年(1776) 22歳
・将軍家治の名代として、光格天皇即位式に参賀   安永10年)1781) 27歳
・将軍家治より 「溜詰」を命じられる        天明5年(1785) 31歳
・将軍家斉の名代として 日光東照宮社参       天明7年(1787) 33歳
○松江藩主 松平不昧(治郷)との交流 -茶人酒井宗雅ー
・酒井雅楽頭は 代々大名茶道・石州流
・松江藩主 松平治郷と姫路藩主 酒井忠以が 日光諸社堂修復の助役を命じられる
・松平不昧に師事し 茶道を伝授される。「弌得庵」の号を受ける
・酒井家江戸上屋敷に 茶室「逾好庵」(ゆこうあん)を設ける。
○風流大名として 様々な分野で 才能を発揮
・絵画:素人の余技に留まらぬ画才(「富士山図」、「兎図」、「山水図」など)
・俳諧:「銀鵞」(ぎんが)と号し、旅中、日常の出来事、四季折々を多くの句稿に残す。
・和歌:初就封の途に詠んだ「大比叡や小比叡の山に立つ雲は志賀辛崎の雨となるらん」
○「玄武日記」62冊の編纂
・忠以(宗雅)の公用日記(安永5年(1776)正月~寛政2年(1790)6月)

「酒井忠因=ただなお(抱一)」
○兄(忠以)の庇護のもと恵まれた青年期を過ごす
-若くして「吉原」に通い、奔放な生活を謳歌、江戸の市井文化に参加ー
・17歳のころから 馬場存儀(ぞんぎ)に入門し 俳諧を始める
・「尻焼猿人」の狂号で 狂歌を数多く発表
・20代は 浮世絵美人画を中心に描く(歌川豊春に倣う肉筆浮世絵)
○出家-武士の身分を捨てるー (寛政9年(1797) 37歳)
・西本願寺第18世 文如上人の弟子になり、得度。
「権大僧都等覚院文栓暉真」の法名を名乗る
(出家の前年、姫路藩主 酒井忠道が 弟忠実を養子にと幕府に願い出)
○江戸・新吉原の遊女を落籍。 大塚村へ転居(文化6年(1809) 49歳)
・新吉原・大文字楼の遊女香川を落籍
・内妻とするとともに、下谷金杉 大塚村へ転居
(後に、「雨華(うげ)庵」の扁額(姫路藩主 酒井忠実直筆)を掲げる(文化14年))
○尾形光琳に私淑 -琳派の美術に傾倒ー
・江戸で尾形光琳100回忌法要と光琳遺墨展を開催(文化12年(1815) 55歳)
・『光琳百図』を刊行。文化年間の60歳前後から、より洗練された花鳥図、四季の移ろい、自然の風趣を描く。-後に「江戸琳派」と言われるー 

「二人の師」(「松平不味」と「柳澤米翁」)

「松平不味(ふまい)」(「松平治郷(はるさと)」)(「ウィキペディア」)
 松平治郷(まつだいら はるさと)は、江戸時代後期の大名。出雲松江藩10代藩主。官位は従四位下・侍従、出羽守、左近衛権少将。雲州松平家7代。江戸時代の代表的茶人の一人で、号の不昧(ふまい)で知られる。その茶風は不昧流として現代まで続いている。その収集した道具の目録帳は「雲州蔵帳」とよばれる。
生誕 寛延4年2月14日(1751年3月11日)[1]
死没 文政元年4月24日(1818年5月28日)
改名 鶴太郎(幼名)、治郷、不昧(法号)
戒名 大円庵不昧宗納大居士
墓所 東京都文京区大塚の護国寺、京都府京都市北区紫野の大徳寺塔頭孤篷庵、島根県松江市外中原町の月照寺
官位 従四位下侍従、佐渡守、出羽守、左近衛権少将
幕府 江戸幕府
主君 徳川家治、家斉
藩 出雲松江藩主
氏族 雲州松平家
父母 松平宗衍、歌木
兄弟 治郷、衍親、蒔田定静、五百、幾百ら
妻 伊達宗村九女方子、武井氏
子 斉恒、男子、富、幾千、岡田善功

松平不眛像.jpg

松平不眛像(松江観光パンフレットより)

「柳澤米翁(ぺいおう)」(「柳沢信鴻(のぶとき)」) (「ウィキペディア」)
柳沢信鴻(やなぎさわ のぶとき)は、江戸時代中期の大名。大和国郡山藩第2代藩主。郡山藩柳沢家3代。初代藩主柳沢吉里の四男。
生誕 享保9年10月29日(1724年12月14日)
死没 寛政4年3月3日(1792年4月23日)
別名 久菊、義稠、信卿、伊信
諡号 米翁、春来、香山、月村、蘇明山、紫子庵、伯鸞
戒名 即仏心院無誉祐阿香山大居士
墓所 東京都新宿区 正覚山月桂寺
幕府 江戸幕府
藩 郡山藩主
氏族 柳沢氏
父母 父:柳沢吉里、母:森氏
兄弟 信睦、時英、信鴻、信昌、伊奈忠敬、坪内定規
妻 正室:伊達村年の娘
継室:真田信弘の娘
子 保光、信復(次男)、武田信明、六角広寿(四男)、里之、娘(米倉昌賢正室)、娘(阿部正倫正室)

六義園.jpg

水木家旧蔵六義園図 柳沢文庫所蔵『六義園 Rikugien Gardens』より
https://fujimizaka.wordpress.com/2014/05/25/hanamidera4/

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-01-19

歌麿・抱一.jpg

「画本虫撰(えほんむしえらみ)」宿屋飯盛撰 喜多川歌麿画 版元・蔦屋重三郎 天明八年(一七八八)刊

 抱一の、初期の頃の号、「杜綾・杜陵」そして「屠龍(とりょう)」は、主として、「黄表紙」などの戯作や俳諧書などに用いられているが、狂歌作者としては、上記の「画本虫撰」に登場する「尻焼猿人(しりやけのさるんど)」の号が用いられている。
 『画本虫撰』は、天明狂歌の主要な作者三十人を網羅し、美人画の大家として活躍する歌麿の出生作として名高い狂歌絵本である。植物と二種の虫の歌合(うたあわせ)の形式をとり、抱一は最初の蜂と毛虫の歌合に、四方赤良(大田南畝・蜀山人)と競う狂歌人として登場する。
 その「尻焼猿人」こと、抱一の狂歌は、「こはごはに とる蜂のすの あなにえや うましをとめを みつのあぢはひ」というものである。この種の狂歌本などで、「杜綾・尻焼猿人」の号で登場するもりに、次のようなものがある。

天明三年(一七八三) 『狂歌三十六人撰』 四方赤良編 丹丘画
天明四年(一七八四) 『手拭合(たなぐひあはせ)』 山東京伝画 版元・白凰堂
天明六年(一七八六) 『吾妻曲狂歌文庫』 宿屋飯盛編 山東京伝画 版元・蔦重
「御簾ほとに なかば霞のかゝる時 さくらや 花の王と 見ゆらん」(御簾越しに、「尻焼猿人」の画像が描かれている。高貴な出なので、御簾越しに描かれている。)
天明七年(一七八七) 『古今狂歌袋』 宿屋飯盛撰 山東京伝画 版元・蔦重

 天明三年(一七八三)、抱一、二十三歳、そして、天明七年(一七八七)、二十七歳、この若き日の抱一は、「俳諧・狂歌・戯作・浮世絵」などのグループ、そして、それは、「四方赤良(大田南畝・蜀山人)・宿屋飯盛(石川雅望)・蔦屋重三郎(蔦唐丸)・喜多川歌麿(綾丸・柴屋・石要・木燕)・山東京伝(北尾政演・身軽折輔・山東窟・山東軒・臍下逸人・菊花亭)」の、いわゆる、江戸の「狂歌・浮世絵・戯作」などの文化人グループの一人だったのである。
 そして、この文化人グループは、「亀田鵬斎・谷文晁・加藤千蔭・川上不白・大窪詩仏・鋤形蕙斎・菊池五山・市川寛斎・佐藤晋斎・渡辺南岳・宋紫丘・恋川春町・原羊遊斎」等々と、多種多彩に、その輪は拡大を遂げることになる。
 これらの、抱一を巡る、当時の江戸の文化サークル・グループの背後には、いわゆる、「吉原文化・遊郭文化」と深い関係にあり、抱一は、その青年期から没年まで、この「吉原」(台東区千束)とは陰に陽に繋がっている。その吉原の中でも、大文字楼主人村田市兵衛二世(文楼、狂歌名=加保茶元成)や五明楼主人扇屋宇右衛門などとはとりわけ昵懇の仲にあった。
抱一が、文化六年(一八〇九)に見受けした遊女香川は、大文字楼の出身であったという。その遊女香川が、抱一の傍らにあって晩年の抱一を支えていく小鸞女子で、文化十一年(一八二八)の抱一没後、出家して「妙華」(抱一の庵号「雨華」に呼応する「天雨妙華」)と称している。
 抱一(雨華庵一世)の「江戸琳派」は、酒井鶯蒲(雨華庵二世)、酒井鶯一(雨華庵三世)、酒井道一(雨華庵四世)、酒井唯一(雨華庵五世)と引き継がれ、その一門も、鈴木其一、池田孤邨、山本素道、山田抱玉、石垣抱真等々と、その水脈は引き継がれいる。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-09-07

尻焼猿人一.jpg

『吾妻曲狂歌文庫』(宿屋飯盛撰・山東京伝画)/版元・蔦屋重三郎/版本(多色摺)/
一冊 二㈦・一×一八・〇㎝/「国文学研究資料館」蔵
【 大田南畝率いる四方側狂歌連、あたかも紳士録のような肖像集。色刷りの刊本で、狂歌師五十名の肖像を北尾政演(山東京伝)が担当したが、その巻頭に、貴人として脇息に倚る御簾越しの抱一像を載せる。芸文世界における抱一の深い馴染みぶりと、グループ内での配慮のなされ方とがわかる良い例である。「御簾ほどになかば霞のかゝる時さくらや花の主とみゆらん」。 】
(「別冊太陽 酒井抱一 江戸琳派の粋人(仲町啓子監修)」所収「大名家に生まれて 浮世絵・俳諧にのめりこむ風狂(内藤正人稿)」)

 上記の画中の「尻焼猿人(しりやけのさるんど)」は、抱一の「狂歌」で使う号である。「尻が焼かれて赤く腫れあがった猿のような人」と、何とも、二十歳代の抱一その人を顕す号であろう。

 御簾(みす)ほどに
  なかば
   霞のかゝる時
  さくらや
   花の主(ぬし)と見ゆらん

 その「尻焼猿人」(抱一)は、尊いお方なので拝顔するのも「御簾」越しだというのである。そのお方は、「花の吉原」では、その「花(よしわら)の主(ぬし)」だというのである。これが、二十歳代の抱一その人ということになろう。
 俳諧の号は、「杜陵(綾)」を変じての「屠龍(とりょう)」、すなわち「屍(しかばね)の龍」(「荘子」に由来する「実在しない龍」)と、これまた、二十歳代の抱一その人を象徴するものであろう。この俳号の「屠龍」は、抱一の終生の号の一つなのである。
 ここに、「大名家に生まれて、浮世絵・俳諧にのめりこむ風狂人」、酒井抱一の原点がある。
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「抱一再見」(続「忘れがたき風貌・画像」) [抱一再見]

(その十)「建部巣兆」(その周辺)

建部巣兆像.jpg

鯉隠筆「建部巣兆像・(東京国立博物館蔵)」(「ウィキペディア」)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-03-16

(再掲)
 建部巣兆は、加舎白雄に俳諧を学び、その八大弟子の一人とされ、夏目成美・鈴木道彦と共に江戸の三大家に数えられ、俳人としては、名実共に、抱一を上回るとして差し支えなかろう。
 抱一は、姫路城十五万石の上流武家の生まれ、巣兆の父は、書家として知られている山本龍斎(山本家江戸本石町の名主)、その生まれた環境は違うが、その生家や俗世間から身を退き(隠者)、共に、傑出した「画・俳」両道の「艶(優艶)」の世界に生きた「艶(さや)隠者」という面では、その生き方は、驚くほど共通するものがある。
 鵬斎は、上記の巣兆句集『曽波可理』の「叙」の中で、巣兆を「厭世之煩囂」(世の煩囂(はんきょう)を厭ひて)「隠干関屋之里」(関谷の里に隠る)と叙している。抱一は、三十七際の若さで「非僧非俗」の本願寺僧の身分を取得し、以後、「艶隠者」としての生涯を全うする。
 この同じ年齢の、共に、この艶隠者としての、この二人は、上記の抱一の「序」のとおり、その俳諧の世界にあって、共に、「花晨月夕に句作して我(抱一)に問ふ。我も又句作して彼(巣兆)に問ふ。彼に問へば彼譏(そし)り、我にとへば我笑ふ。我畫(かか)ばかれ題し、かれ畫ば我讃す。かれ盃を挙げれば、、われ餅を喰ふ」と、相互に肝胆相照らし、そして、相互に切磋琢磨する、真の同朋の世界を手に入れたのであろう。
 これは、相互の絵画の世界においても、巣兆が江戸の「蕪村」を標榜すれば、抱一は江戸の「光琳」を標榜することとなる。巣兆は谷文晁に画技を学び、文晁系画人の一人ともされているが、そんな狭い世界のものではない。また、抱一は、光琳・乾山へ思慕が厚く、「江戸琳派」の創始者という面で見られがちであるが、それは、上方の「蕪村・応挙」などの多方面の世界を摂取して、いわば、独自の世界を樹立したと解しても差し支えなかろう。
 ここで、特記して置きたいことは、享和二年(一八〇二)に、上方の中村芳中が江戸に出て来て『光琳画譜』(加藤千蔭「序」、川上不白「跋」)を出版出来た背後には、上方の木村蒹葭堂を始めとする俳諧グループと巣兆を始めとする江戸の俳諧グループとの、そのネットワークの結実に因るところが多かったであろうということである。

曽波可理一.jpg

『曽波可理 / 巣兆 [著] ; 国むら [編]』「鵬斎・叙」(早稲田大学図書館蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/he05/he05_06665/he05_06665.html

曽波可理二.jpg

『曽波可理 / 巣兆 [著] ; 国むら [編]』「抱一・巣兆句集序一」(早稲田大学図書館蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/he05/he05_06665/he05_06665_p0004.jpg

曽波可理三.jpg

『曽波可理 / 巣兆 [著] ; 国むら [編]』「抱一・巣兆句集序二」(早稲田大学図書館蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/he05/he05_06665/he05_06665_p0005.jpg

 『江戸文芸之部第27巻日本名著全集俳文俳句集』所収「曽波可理(そばかり)」から、上記の抱一の「巣兆句集序」の翻刻文を掲載して置きたい。

【 巣兆句集序
秋香庵巣兆は、もと俳諧のともたり。花晨月夕に句作して我に問ふ。我も又句作して彼に問ふ。彼に問へば彼譏(そし)り、我にとへば我笑ふ。我畫(かか)ばかれ題し、かれ畫ば我讃す。かれ盃を挙げれば、、われ餅を喰ふ。其草稿五車に及ぶ。兆身まかりて後、国村師を重ずるの志厚し。一冊の草紙となし梓にのぼす。其はし書きせよと言ふ。いなむべきにあらず。頓(とみ)に筆を採て、只兆に譏(そし)られざる事をなげくのみなり
文化丁丑五日上澣日        抱一道人屠龍記 (文詮印)   】

 上記の「巣兆発句集 自撰全集」の冒頭の句も掲載して置きたい。

【 巣兆発句集 自撰全集
   歳旦
 大あたま御慶と来けり初日影
  俊成卿
   玉箒はつ子の松にとりそへて
      君をそ祝う賤か小家まで
 けふとてぞ猫のひたひに玉はゝき
 竈獅子が頤(あご)ではらひぬ門の松
此句「一茶発句集」に見えたり       】

【 我庵はよし原霞む師走哉 (巣兆『曽波加里』)

 巣兆没後に刊行された巣兆句集『曽波加里』の最後を飾る一句である。この句は、「よし原」の「よし」が、「良し」「葦(よし)・原」「吉(よし)・原」の掛詞となっている。句意は、「我が関屋の里の秋香園は良いところで、隅田川の葦原が続き、その先は吉原で、今日は、霞が掛かっているようにぼんやりと見える。もう一年を締めくくる師走なのだ」というようなことであろう。
 そして、さらに付け加えるならば、「その吉原の先は、根岸の里で、そこには、雨華庵(抱一・蠣潭・其一)、義兄の鵬斎宅、そして、写山楼(文晁・文一)と、懐かしい面々が薄ぼんやりと脳裏を駆け巡る」などを加えても良かろう。
 これは、巣兆の最晩年の作であろう。この巣兆句集『曽波加里』の前半(春・夏)の部は巣兆の自撰であるが、その中途で巣兆は没し、後半(秋・冬)の部は巣兆高弟の加茂国村が撰し、そして、国村が出版したのである。
 巣兆俳諧の後継者・国村が師の巣兆句集『曽波加里』の、その軸句に、この句を据えたということは、巣兆の絶句に近いものという意識があったように思われる。巣兆は、文化十一年(一八一四)十一月十四日、その五十四年の生涯を閉じた。

(追記)『徳萬歳(巣兆著)』・『品さだめ(巣兆撰・燕市編)』の挿絵「徳萬歳」(中村芳中画)

「徳萬歳(中村芳中画)」.gif

『品さだめ(巣兆撰・燕市編)』中「徳萬歳(中村芳中画)」(早稲田大学図書館蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/he05/he05_06709/he05_06709.html

一 『徳萬歳(巣兆著)』と『品さだめ(巣兆撰・燕市編)』とは、書名は異なるが、内容は全く同じものである。上記のアドレスの書名の『俳諧万花』は「旧蔵者(阿部氏)による墨書」で為されたものである。

二 『徳萬歳(巣兆著)』は、『日本俳書大系(第13巻)』に収載されているが、その解題でも、この『品さだめ』との関連などは触れられていない。

三 燕市(燕士・えんし)は、「享保六年(一七二一)~寛政八年(一七九六)、七十六歳。
石井氏。俗称、塩屋平右衛門。別号に、燕士、二月庵。豊後国竹田村の商人。美濃派五竹坊・以哉(いさい)坊門。編著『みくま川』『雪の跡』」とある(『俳文学大辞典』)。  】

建部巣兆画「盆踊り図」一.jpg

建部巣兆画「盆踊り図」(絹本着色/下記の「蛍狩り図」と対/足立区立郷土博物館蔵)
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/230488

建部巣兆画「盆踊り図」二.jpg

建部巣兆画「蛍狩り図」(絹本着色/上記の「盆狩り図」と対/足立区立郷土博物館蔵)
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/285719

千住の文人 建部巣兆.jpg

「千住の文人 建部巣兆 / TAKEBE Socho」
https://speakerdeck.com/adachicitymuseum/takebe-socho?slide=4

千住の文人 建部巣兆二.jpg

千住の文人 建部巣兆 / TAKEBE Socho
https://speakerdeck.com/adachicitymuseum/takebe-socho?slide=8

「建部巣兆の俳句」

http://urawa0328.babymilk.jp/haijin/souchou-ku.html

霜の聲閑屋の槌をうらみ哉   『潮来集』(一艸編) 
かへるさに松風きゝぬ花の山  『衣更着集』(倉田葛三編)
関の戸にほのほの見ゆる糸瓜かな『春秋稿』(第六編)(倉田葛三編)
我宿ハさくら紅葉のひと木哉  『春秋稿』(第六編)(倉田葛三編)
しはしとて袴おしぬくこたつ哉 『はなのつと』(鹿古編)
芹生にてせり田持ちたし春の雨 『春秋稿』(編次外)(倉田葛三編) 
あたら菊をつますは花に笑れん 『春秋稿』(編次外)(倉田葛三編)
晨明の月より春ハまたれけり  『黒祢宜』(常世田長翠編)
芹生にて芹田もちたし春の雨  『波羅都々美』(五明編)
夏の菊皆露かげに咲にけり   『ななしどり』(可都里編)
ひたひたと田にはしりこむ清水かな『つきよほとけ』(可都里編)
いくとせも花に風ふく桜かな  『風やらい』
鶯の屋根から下る畠哉     『享和句帖』(享和3年5月)
柞原薪こるなり秋の暮     『鶴芝』(士朗・道彦編)
帆かけ舟朝から見えてはなの山 『鶴芝』(士朗・道彦編)
とくとくの水より青き若葉哉  『むぐらのおく』
いくとせも花に風吹櫻かな   『寢覺の雉子』(遠藤雉啄編)
さお姫の野道にたてる小はたかな『有磯蓑』
馬かりて伊香保へゆかんあやめかな 『頓写のあと』(倉田葛三編)
煤竹もたわめば雪の雀かな   『続雪まろげ』(藤森素檗編)
みかさと申宮城野に遊て    『おくの海集』(巣居編)
木の下やいかさまこゝは蝉ところ『おくの海集』(巣居編)
高ミから見ればはたらく案山子哉『曽良句碑建立句集』(藤森素檗編)
稲かけし老木の数や帰花    『萍日記』(多賀庵玄蛙編)
花桶もいたゝきなれし清水哉  『苔むしろ』
あし鴨の寝るより外はなかるべし『繋橋』
大竹に珠数ひつかけし時雨かな 『しぐれ会』(文化5年刊)
啼け聞ふ木曽の檜笠で時鳥   『玉の春』(巣兆編)
湯車の米にもなれて今朝の秋  『古今綾嚢』(黒岩鷺白編)
冬枯のなつかしき名や蓮台野  『しぐれ会』(文化6年刊)
時雨るゝや火鉢の灰も山の形り 『遠ほととぎす』(五柏園丈水編)
涼むなりかねつき坊が青むしろ 『菫草』(一茶編)
爺婆ゝの有がたくなる木葉哉  『物の名』(武曰編)
こそこそと夜舟にほどく粽かな 『続草枕』
はせを忌や笑ひあふたる破れ傘 『しぐれ会』(文化7年刊)
曲りこむ藪の綾瀬や行螢    『物見塚記』(一瓢編)
古郷やとうふ屋出来て春雨   『随斎筆記』(夏目成美編)
時鳥まだ見に来ずや角田川   『随斎筆記』(夏目成美編)
舟曳や五人見事に梅を嗅    『俳諧道中双六』(閑斎編)
遠くから見てもおかれぬ桜かな 『名なし草紙』(苅部竹里編)
二年子の大根の原やなく雲雀  『名なし草紙』(苅部竹里編)
はつ河豚や無尽取たるもどり足 『なにぶくろ』
ほし葉(ママ)釣壁をたゝけはかさかさと『栞集』(成蹊編)
手拭で狐つらふ(う)ぞ花の山 『株番』(一茶編)
蓮の根の穴から寒し彼岸過   『信濃札』(素檗編)
うそ鳴や花の霞の山中に    『木槿集』(一茶編)
梵論の行ふもとしづかに落葉哉 『世美冢』(白老編)
名月や小嶋の海人の菜つミ舟  『青かげ』(石井雨考編)
谷へはく箒の先やほとゝぎす  『三韓人』(一茶編)
見し人の鍋かいて居る清水哉  『的申集』(洞々撰)
御寝ならば裾になりなん嶺の月 『さらしな記行』(小蓑庵碓嶺編)
訪るゝも訪ふも狭筵月一夜   『さらしな記行』(小蓑庵碓嶺編)
朝露や鶴のふみこむ藤ばかま  『小夜の月』(渭虹編)
春は猶曙に来る片鶉      『阿夫利雲』(淇渓編)
菜の花や染て見たひは不二の山 『雪のかつら』(里丸編)
萩咲て夫婦のこことかくれけり 『しをに集』(亀丸編)
芦鴨の寝るより外はなかるへし 『わすれす山』(きよ女編)
時鳥まだ見に来ずやすみだ川  『墨多川集』(一茶編)
酒のみをみしるや雪の都鳥   『墨多川集』(一茶編)
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「抱一再見」(続「忘れがたき風貌・画像」) [抱一再見]

(その九)「谷文晁」(その周辺)

谷文晁肖像.jpg

「谷文晁肖像」(「近世名家肖像図巻(谷文晁筆)」東京国立博物館蔵)
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0024606

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-01-28

 「下谷の三幅対」と称された、年齢順にして「亀田鵬斎・酒井抱一・谷文晁」の、「鵬斎」は文政九年(一八二六)に没、そして、「抱一」も文政十一年(一八二九)に没と、上記の作品を仕上げた天保元年(一八三〇)、六十八歳の文晁は、その前年に御絵師の待遇を得て剃髪し、江戸画壇というよりも、全国を席捲する日本画壇の第一人者に祀り上げられていた。

 その文晁の、それまでの「交友録」というのは、まさに、「下谷の三幅対」の、「亀田鵬斎・酒井抱一・谷文晁」に、陰に陽に連なる「江戸(東京)」の、その後半期の「江戸」から「東京」への過度期の、その節目、節目に登場する、一大群像を目の当たりにするのである。

松平楽翁→木村蒹葭堂→亀田鵬斎→酒井抱一→市河寛斎→市河米庵→菅茶山→立原翠軒→古賀精里→香川景樹→加藤千蔭→梁川星巌→賀茂季鷹→一柳千古→広瀬蒙斎→太田錦城→山東京伝→曲亭馬琴→十返舎一九→狂歌堂真顔→大田南畝→林述斎→柴野栗山→尾藤二洲→頼春水→頼山陽→頼杏坪→屋代弘賢→熊阪台州→熊阪盤谷→川村寿庵→鷹見泉石→蹄斎北馬→土方稲嶺→沖一峨→池田定常→葛飾北斎→広瀬台山→浜田杏堂

 その一門も、綺羅星のごとくである。

(文晁門四哲) 渡辺崋山・立原杏所・椿椿山・高久靄厓
(文晁系一門)島田元旦・谷文一・谷文二・谷幹々・谷秋香・谷紅藍・田崎草雲・金子金陵・鈴木鵞湖・亜欧堂田善・春木南湖・林十江・大岡雲峰・星野文良・岡本茲奘・蒲生羅漢・遠坂文雍・高川文筌・大西椿年・大西圭斎・目賀田介庵・依田竹谷・岡田閑林・喜多武清・金井烏洲・鍬形蕙斎・枚田水石・雲室・白雲・菅井梅関・松本交山・佐竹永海・根本愚洲・江川坦庵・鏑木雲潭・大野文泉・浅野西湖・村松以弘・滝沢琴嶺・稲田文笠・平井顕斎・遠藤田一・安田田騏・歌川芳輝・感和亭鬼武・谷口藹山・増田九木・清水曲河・森東溟・横田汝圭・佐藤正持・金井毛山・加藤文琢・山形素真・川地柯亭・石丸石泉・野村文紹・大原文林・船津文淵・村松弘道・渡辺雲岳・後藤文林・赤萩丹崖・竹山南圭・相沢石湖・飯塚竹斎・田能村竹田・建部巣兆

 その画域は、「山水画、花鳥画、人物画、仏画」と幅も広く、「八宗兼学」とまでいわれる独自の画風(南北合体の画風)を目途としていた。
 ここで、しからば、谷文晁の傑作画となると、「公余探勝図 寛政5年(1793年)重要文化財・東京国立博物館」位しか浮かんで来ない。
 しかし、これは、いわゆる、「真景図・写生画・スケッチ画」の類いのもので、「松平定信の海岸防備の視察の、その巡視に従って写生を担当し、その八十箇所を浄写した」に過ぎない。その「公余探勝」というのは、文晁が考えたものではなく、松平定信の、「蛮図は現にくはし。天文地理又は兵器あるいは内外科の治療、ことに益少なからず」(『字下人言』)の、この貞信の「洋画実用主義理論」ともいうべきものを、方法として用いたということ以外の何物でもない。
 そして、寛政八年(一七九六)に、これまた、定信に『集古十種』の編纂を命ぜられ、京都諸社寺を中心にして古美術の調査することになり、ここで、上記の「八宗兼学」という「南北合体の画風」と結びついて来ることになる(『日本の美術№257 谷文晁(河野元昭和著)。
 この寛政八年(一七九六)、文晁、三十四歳の時の、上記の門弟の一人、喜田武清を連れての関西巡遊は、大きな収穫があった。この時に、文晁は、京都で、呉春、大阪で、木村蒹葭堂などとの出会いがある(文晁筆の著名な「木村蒹葭堂肖像」は補記一のとおり)。

太田南畝肖像.jpg

「太田南畝肖像」(「近世名家肖像図巻(谷文晁筆)」東京国立博物館蔵)
https://image.tnm.jp/image/1024/C0024608.jpg

円山応挙肖像.jpg

「円山応挙肖像」(「近世名家肖像図巻(谷文晁筆)」東京国立博物館蔵)
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0024597

呉春挙肖像.jpg

「呉春肖像」(「近世名家肖像図巻(谷文晁筆)」東京国立博物館蔵)
https://image.tnm.jp/image/1024/C0024598.jpg

文晁・蕪村模写.jpg

谷文晁筆「与謝蕪村肖像」(呉春筆「蕪村を模写した作品。画面上部に文晁が門生に示した八ケ条の画論が一緒に表装されている」=『日本の美術№257 谷文晁(p23)』)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-01-28

蕪村肖像・月渓写.jpg

 この「於夜半亭 月渓拝写」と落款のある「蕪村肖像」が、何時描かれたのかは、「呉春略年表」(『呉春 財団逸翁美術館』)には記載されていない。
 しかし、『蕪村全集一 発句(校注者 尾形仂・森田蘭)』の、冒頭の口絵(写真)を飾ったもので、その口絵(写真)には、「蕪村像 月渓筆」の写真の上部に「蕪村自筆詠草(同右上上部貼り交ぜ)」として、次のとおりの「蕪村自筆詠草」のものが、紹介されている。

  兼題かへり花

 こゝろなき花屋か桶に帰花
 ひとつ枝に飛花落葉やかえり花
        右 蕪村

 この「兼題かへり花」の、蕪村の二句は、天明三年(一七八三)十月十日の「月並句会」でのものというははっきりとしている。そして、この年の、十二月二十五日に、蕪村は、その六十八年の生涯を閉じたのである。
 その蕪村が亡くなる時に、蕪村の臨終吟を書きとったのも、当時、池田に在住していた呉春(月渓)が、蕪村の枕頭に馳せ参じて看病し、そして、その臨終吟(「冬鶯むかし王維が垣根かな」「うぐひすや何ごそつかす藪の霜」「しら梅に明(あく)る夜ばかりとなりにけ」)を書きとったのである。

抱一上人像.jpg
鈴木其一筆「抱一上人像」 一幅 絹本着色 八九・五×三一・六cm 個人蔵

鈴木其一筆「抱一上人像」 一幅 絹本着色 八九・五×三一・六cm 個人蔵
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-01-30
「抱一は文政十一年(一八二八)十一月二十九日に亡くなった。その尊像は、翌年四月に鶯蒲が二幅を描いたことや、孤邨も手掛けていたこと(『抱一上人真蹟鏡』所収)が知られている。また抱一の孫弟子野崎真一による肖像画もある。円窓の中に師の面影を描く。鶯蒲作は面長で痩せたイメージに描かれるが、其一本は全体に丸味を帯びた容姿である。其一はこの時期「亀田鵬斎像」(個人蔵)などを手掛けおり、肖像画には強いこだわりをもっていたことと思われる。「噲々其一謹写」と書かれた署名からも、師への崇敬の念が伝わってくる。角ばった頭の形や衣服の描写は、抱一の「其角像」(個人蔵)に通じるものがあり、あるいは抱一が敬愛した其角のイメージも重ねられているのかも知れない。」
(『鈴木其一 江戸琳派の旗手』所収「作品解説(岡野智子稿)」)

鵬斎像.jpg

亀田鵬斎像」(鈴木其一筆か?)
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-01-30

抱一上人像(?).jpg

谷文晁筆(?)・谷文一筆(?)「抱一上人像(?)」(中央の僧体の人物、抱一の向かって左の人物=太田南畝?、右の人物=亀田鵬斎?、そして、「文一筆?」なら、鵬斎の右の人物(ここには、省略されている)=文晁?)
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-01-30

補記一 亀田鵬斎について

http://sawarabi.a.la9.jp/040725isasaramai/kamedabousai.htm

補記二 酒合戦 →  ミュージアム巡り 江戸のレシピ 街談文々集要

http://blog.goo.ne.jp/shiotetsu_2011/e/d8038e593ad23653fc66cc14623c4b37

補記三 酒合戦 → 千住宿

http://www.wikiwand.com/ja/千住宿

(抜粋)
千住酒合戦
 千住酒合戦とは、文化12年(1815年)10月21日、千住宿の飛脚問屋の中屋六衛門の六十の祝いとして催された。現在の千住一丁目にあった飛脚宿であり、会場を中屋とした。 審査員として、下谷の三福対である江戸琳派の祖の酒井抱一、絵師の谷文晁、儒学者・書家の亀田鵬斎の他、絵師谷文一、戯作者の太田南畝など、著名人が招かれた。酒合戦の時には、看板に「不許悪客下戸理窟入菴門」と掲げられた。この酒合戦は競飲会であり、厳島杯(5合)、鎌倉杯(7合)、江島杯(1升)、万寿無量杯(1升5合)、緑毛亀杯(2升5合)、丹頂鶴杯(3升)などの大杯を用いた。亀田鵬斎の序文(『高陽闘飲序』)によれば、参加者は100余名、左右に分かれた二人が相対するように呑み比べが行われた、1人ずつ左右から出て杯をあけ、記録係がこれを記録した。
 千住酒合戦に関する記録は多数あり、『高陽闘飲図巻』:『高陽闘飲序』亀田鵬斎、『後水鳥記』 谷文一・大田南畝、『擁書漫筆』三 小山田与清(高田與清)、『酒合戦番付』、『千住酒合戦』(木版)、そして『街談文々集要』(万延元年(1860年)序)石塚重兵衛(号:豊芥子)などがある。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-08-19

補記一 『画本虫撰』(国立国会図書館デジタルコレクション)

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1288345

補記二 『狂歌三十六人撰』

http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000007282688-00

http://digitalmuseum.rekibun.or.jp/app/collection/detail?id=0191211331&sr=%90%EF

補記三 『手拭合』(国文学研究資料館)

https://www.nijl.ac.jp/pages/articles/200611/

補記四 『吾妻曲狂歌文庫』(国文学研究資料館) 

https://www.nijl.ac.jp/pages/articles/200512/

補記五  浮世絵(喜多川歌麿作「画本虫ゑらみ」)

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日本名山図会. 天,地,人.jpg

「日本名山図会. 天,地,人 / 谷文晁 画」中の「日本名山図会・人」p10「浅間山」≪早稲田大学図書館 (Waseda University Library)≫
https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko30/bunko30_e0235/bunko30_e0235_0001/bunko30_e0235_0001.html

≪ 谷文晁(1763―1840)
 江戸後期の南画家。名は正安。通称は文五郎。字(あざな)、号ともに文晁といい、別に写山楼(しゃざんろう)、画学斎(ががくさい)などと号した。田安家の家臣で詩人としても著名な麓谷(ろっこく)を父として江戸に生まれた。画(え)は初め狩野(かのう)派の加藤文麗(ぶんれい)に、ついで長崎派の渡辺玄対(げんたい)に学び、鈴木芙蓉(ふよう)にも就いた。
 大坂で釧雲泉(くしろうんせん)より南画の法を教授され、さらに北宗画に洋風画を加味した北山寒巌(きたやまかんがん)や円山(まるやま)派の渡辺南岳(なんがく)の影響も受けるなど、卓抜した技術で諸派を融合させた画風により一家をなした。なかでも『山水図』(東京国立博物館)のように北宗画を主に南宗画を折衷した山水に特色があり、また各地を旅行した際の写生を基に『彦山(ひこさん)真景図』や『鴻台(こうのだい)真景図』などの真景図や『名山図譜』を制作、『木村蒹葭堂(けんかどう)像』のような異色の肖像画も残している。
 1788年(天明8)画をもって田安家に仕官し、92年(寛政4)には松平定信(さだのぶ)に認められてその近習(きんじゅ)となり、定信の伊豆・相模(さがみ)の海岸防備の視察に随行して、西洋画の陰影法、遠近法を用いた『公余探勝(こうよたんしょう)図巻』を描き、また『集古十種』の編纂(へんさん)にも従って挿図を描いている。弟の島田元旦(げんたん)も画をもって鳥取藩に仕え、妻の幹々(かんかん)や妹秋香(しゅうこう)も画家として知られている。
 門人も渡辺崋山(かざん)、立原杏所(たちはらきょうしょ)、高久靄崖(たかくあいがい)らの俊才に恵まれ、当時の江戸画壇の大御所として君臨した。文晁を中心とする画派は関西以西の南画とは画風を異にし、通常、関東南画として区別されている。著書に『文晁画談』『本朝画纂(ほんちょうがさん)』などがある。[星野鈴稿](出典「小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)」
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