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「抱一再見」(続「忘れがたき風貌・画像」) [抱一再見]

(その十二) 抱一の二人の甥(「忠道=銀鷺」と「忠実=鷺山・玉助・松柏堂・春来窓」)」(その周辺)

酒井忠道.jpg

酒井忠道(さかい ただひろ / ただみち)は、江戸時代中期から後期の大名。播磨姫路藩第3代藩主。雅楽頭系酒井家16代。

「酒井忠道」(「ウィキペディア」)
生誕 安永6年9月10日(1777年10月10日)
死没 天保8年7月23日(1837年8月23日)
別名 坂井得三郎?
墓所 群馬県前橋市紅雲町の龍海院
官位 従五位下・雅楽頭、従四位下・主計頭、備前守
幕府 江戸幕府
藩 播磨姫路藩主
氏族 雅楽頭酒井家
父母 父:酒井忠以、母:嘉代姫(松平頼恭の娘)
兄弟 忠道、忠実、以寧
妻 正室:磐(井伊直幸の娘)
子 英(松平斉恒継室)、妙(小笠原長貴正室)、夬(内藤頼寧正室)、寿久(京極高朗継室)、忠親(長男)、忠学
養子:忠実
(生涯)
 第2代藩主酒井忠以の長男。寛政2年(1790年)、12歳の時に父の死により家督を継ぐ。この頃、姫路藩では財政窮乏のため、藩政改革の必要性に迫られており、文化5年(1808年)には藩の借金累積が73万両に及んでいた。父・忠以も河合道臣(寸翁)を登用して藩政改革に臨んだが、藩内の反対派によって改革は失敗し、道臣は失脚した。しかし忠道は再度、道臣を登用して藩政改革に臨んだ。
 文化7年(1810年)には「在町被仰渡之覚」を発表して藩政改革の基本方針を定め、領民はもちろん、藩内の藩士全てに改革の重要性を知らしめた。まず、道臣は飢饉に備えて百姓に対し、社倉という食料保管制度を定めた。町民に対しては冥加銀講という貯蓄制度を定めた。さらに養蚕所や織物所を藩直轄とすることで専売制とし、サトウキビなど希少で高価な物産の栽培も奨励した。
 道臣は特に木綿の栽培を奨励していた。木綿は江戸時代、庶民にとって衣服として普及し、その存在は大変重要となっていた。幸いにして姫路は温暖な天候から木綿の特産地として最適だったが、当時は木綿の売買の大半が大坂商人に牛耳られていた。道臣ははじめ、木綿の売買権を商人から取り戻し藩直轄するのに苦慮したが、幸運にも忠道の八男・忠学の正室が第11代将軍・徳川家斉の娘・喜代姫であったため、道臣は家斉の後ろ盾を得て、売買権を藩直轄とすることができた。この木綿の専売により、姫路藩では24万両もの蓄えができ、借金を全て弁済するばかりか、新たな蓄えを築くに至った。
 文化11年(1814年)、38歳で弟の忠実に家督を譲って隠居し、天保8年(1837年)に61歳で死去した。  

酒井忠実(さかい ただみつ)は、江戸時代後期の大名。播磨国姫路藩酒井家の第4代藩主。雅楽頭系酒井家17代。
生誕 安永8年10月13日(1779年11月20日)
死没 嘉永元年5月27日(1848年6月27日)
改名 直之助(幼名)、忠実
別名 徳太郎、玉助(通称)、以翼、春来窓(号)
戒名 祗徳院殿鷺山源桓大居士
墓所 群馬県前橋市紅雲町の龍海院
官位 従五位下河内守、従四位下雅楽頭、侍従、左近衛少将
幕府 江戸幕府
主君 徳川家斉
藩 播磨姫路藩主
氏族 酒井氏(雅楽頭家)
父母 父:酒井忠以、母:松平頼恭の娘・嘉代姫
養父: 酒井忠道
兄弟 忠道、忠実、以寧
妻 正室:西尾忠移の娘・隆姫
側室: 於満寿
子: 采、松平忠固、西尾忠受、東、忠讜、三宅康直、酒井忠嗣正室、桃、九条尚忠室ら
養子:忠学、万代
(生涯)
 第2代藩主・酒井忠以の次男。 文化11年(1814年)、兄・忠道の隠居後に家督を継ぎ、20年以上にわたって藩政をとった。 天保6年(1835年)、57歳で隠居する。 家督は先代忠道の八男・忠学(忠実の甥)に継がせた。 隠居後、鷺山と号した。
 叔父の酒井抱一と交流が深かった。 抱一の句集『軽挙館句藻』には、しばしば「玉助」の名で登場し、抱一の部屋住み時代の堂号「春来窓」を継承し、抱一が忠実の養嗣子就任の際に贈った号「松柏堂」を名乗っている。 正室の隆姫も抱一から「濤花」の俳号を贈られている。正室の隆姫は、戦国期の播磨姫路城主・黒田孝高や酒井重忠の血筋を引いている。

「抱一」と二人の甥(「忠道=銀鷺」と「忠実=春来窓・六花」)周辺

 文化十一年(一八一四)、抱一、五十四歳時の『軽挙館句藻』の二月の項に、次のような記述がある。

  きさらぎ廿七日、初鰹を九皐子のもとより送る
  銀鷺・六花両君に呈す
 花をまつ松のさし枝(え)や七五三
 時有(あり)て居替(いがは)る鶴や松の春

≪ 九皐子(きうかうし)は抱一の孫弟子野沢堤雨(一八三七~一九一七)の父とされ、光琳百回忌の展覧会にも一点出品している。忠道(銀鷺)・忠実に異様に早い貴重な初鰹を進呈し、藩主代替わりを暗示する祝儀句をそれぞれに贈っているから、抱一は叔父として、それなりに兄の遺児である両者に神経を遣っていたようにも感じられる。
忠実の方は抱一から春来窓の号を譲られたほか、合作の俳諧摺物を数点制作している。『句藻』をみれば、忠実にあてた句・和歌、季節の品の贈答記事や祝儀句など言及は多い。両者は同じ次男であり、兄忠道が藩主を辞めなければ、忠実は藩主にはなれなかった。抱一は出家したが、似た境遇のせいか、ことさら可愛がったようである。 ≫(『酒井抱一・井田太郎著』) 

 この前年の文化十年(一八一三)に刊行された『屠龍之技』(鵬斎序・春来窓跋・南畝跋)の、その「春来窓(忠実)跋」は、次のとおりである。

≪ 抱一上人、春秋の発句有り。草稿、五車に積(つむ)べし。其(その)十が一を挙(あげ)て一冊とす。上人、居を移(うつす)事数々也。其部(そのぶ)を別(わか)つに其処(そのところ)を以(もつて)す。これ皆、丹青図絵(たんせいづえ)のいとまなり。此(この)冊子(さつし)の跋文を予に投ず。尤(もつとも)、他に譲(ゆづる)べきにもあらず、唯、「寛文・延宝の調(しらべ)を今の世にも弄(もてあそぶ)もの有らば、其(その)判(はん)を乞(こは)ん」と。「是(これ)、上人の望(のぞみ)給(たま)ふところ也」と。春来窓、三叉江のほとりに筆を採(とり) 畢(をはんぬ)。≫(『酒井抱一・井田太郎著』) 

 ここで、「忠道=銀鷺」が、その実弟の「忠実=春来窓・六花」に、文化十一年(一八一四)九月に、三十八歳の若さで藩主の座を、二歳下の弟の忠実に譲って隠居し、忠道が亡くなったのは、天保八年(一八三七)の六十一歳の時である。
 この忠道の生存中の天保六年(一八三五)に、忠道から家督を継承した忠実は、忠道の実子の「忠学(ただのり)」に家督を譲って、これまた、五十七歳で隠居している。
 この「(忠以)→忠道→忠実→忠学」 の、播磨国姫路藩酒井家(第三代→第六代)の四代の藩主に仕え、五十年余にわたって、姫路藩の財政再建に貢献した家老が、「河合道臣」(号=寸翁)である。

河合寸翁像.jpg

姫路神社境内の河合寸翁像(「ウィキペディア」)

河合道臣(かわい ひろおみ/みちおみ)
生誕 明和4年5月24日(1767年6月20日)
死没 天保12年6月24日(1841年8月10日)
改名 道臣→寸翁(号)
別名 隼之介(通称)
墓所 兵庫県姫路市奥山仁寿山梅ケ岡の河合家墓所
主君 酒井忠以→忠道→忠実→忠学
藩 播磨国姫路藩家老
氏族 河合氏
父母 父:川合宗見、母:林田藩士長野直通の娘
妻 正室:泰子(林田藩士長野親雄の娘)
子 良臣
養子:良翰(松下高知次男)
≪ 姫路城内侍屋敷で誕生。幼少より利発で知られ、11歳の時から藩主酒井忠以の命で出仕しはじめた。天明7年(1787年)に父の宗見が病死したため家督1000石を相続、21歳で家老に就任する。茶道をたしなむなど、文人肌であった。
 江戸時代後期の諸藩の例に漏れず、姫路藩も歳入の4倍強に及ぶ73万両もの累積債務を抱えていた。酒井氏は譜代筆頭たる名家であったが、その酒井氏にして日常生活にさえ支障を来すほどの困窮振りであった。このような危機的状況のなか、道臣は忠以の信任のもと、財政改革に取りかかる。寛政2年(1790年)に忠以が急死すると反対派の巻き返しに遭い一旦失脚するが、忠以の後を継いだ忠道は文化5年(1808年)に道臣を諸方勝手向に任じ、本格的改革に当たらせた。
 道臣は質素倹約令を布いて出費を抑制させる一方、文化6年(1809年)頃から領内各地に固寧倉(義倉)を設けて農民を救済し、藩治に努めた。従来の農政では農民に倹約を説きつつ、それで浮いた米を藩が搾取していたが、道臣は領民に生活資金を低利で融資したり、米を無利息で貸すなど画期的な政策を打ち出した。この政策は藩内で反対も多かったが、疲弊した領民を再起させ、固寧倉の設置で飢饉をしのげるようになるなど、藩内の安定につながった。更に朝鮮人参やサトウキビなどの高付加価値な商品作物も栽培させることで、藩の収入増が図られた。
 姫路藩では新田開発は従来から行われていたが、道臣の時期には主に播磨灘沿岸で推進され、新田での年貢減免策もとった。海岸部では飾磨港をはじめとする港湾の整備に努め、米や特産品などの流通に備えた。加えて城下では小麦粉、菜種油、砂糖など諸国からの物産を集積させ、商業を奨励した。
 道臣の業績として特筆されるのは、特産品販売に関する改革である。藩内を流れる市川・加古川流域は木綿の産地だったが、従来は大坂商人を介して販売していたため販売値が高くなっていた。道臣は木綿を藩の専売とし、大坂商人を通さず直接江戸へ売り込むことを計画した。これは先例が無かったため事前に入念な市場調査をし、幕府役人や江戸の問屋と折衝を重ねた上、文政6年(1823年)から江戸での木綿専売に成功する。色が白く薄地で柔らかい姫路木綿は「姫玉」「玉川晒」として、江戸で好評を博した。また、木綿と同様に塩・皮革・竜山石・鉄製品なども専売とした。これによって藩は莫大な利益を得、道臣は27年かけて藩の負債完済を成し遂げた。
 天保6年(1835年)、69歳で隠居し、天保12年に没した。享年75。仁寿山校近くの河合家墓所に葬られた。≫(「ウィキペディア」)

 河合道臣は、抱一より六歳年下、道忠より十歳年上である。忠以が亡くなった寛政二年(一七九〇)には、「反対派の巻き返しに遭い一旦失脚するが、忠以の後を継いだ忠道は文化五年(一八〇八)に道臣を諸方勝手向に任じ、本格的改革に当たらせた」という。
 この記述からすると、「酒井家における嫡流体制の確立と、それによる傍流の排除(抱一の出家)」関連については、道臣は深く関わってはいない。そして、この忠以の急逝時には、「姫路藩も歳入の4倍強に及ぶ73万両もの累積債務を抱えていた。酒井氏は譜代筆頭たる名家であったが、その酒井氏にして日常生活にさえ支障を来すほどの困窮振りであった。このような危機的状況のなか、道臣は忠以の信任のもと、財政改革に取りかかる。」と、当時の酒井家の財政状況というのは、危機的状況下にあり、これらのことと、忠以の急逝時の「酒井家における嫡流体制の確立と、それによる傍流の排除(抱一の出家)」とは、深い関わりのあることは、想像する難くない。
 そして、忠以の家督を、若干十二歳にして継いだ忠道が、失脚していた河合道臣を再登用し、酒井家の財政再建の道筋を示し、自らは、三十八歳の若さで隠居し、その家督を、傍流の実弟。忠実に継がせて、文字とおり、「忠道(隠居・前藩主))・忠実(藩主)・寸翁(「忠以・忠道・忠実」の家老)」との、この「三鼎(みつがなえ)」の尽力により、「文政六年(一八二三)に、道臣は二十七年けて藩の負債完済を成し遂げた。」と、その後の「酒井家」の再興が結実することになる。
 そして、この「忠道(隠居・前藩主))・忠実(藩主)・寸翁(「忠以・忠道・忠実」の家老)」の、この「三鼎(みつがなえ)」を、陰に陽に支え続けた、その人こそ、「酒井抱一(本名=忠因、字名=暉真、ほかに、屠牛、狗禅、鶯村、雨華庵、軽挙道人、庭柏子、溟々居、楓窓とも号し、俳号=白鳧・濤花、後に杜陵(綾)。狂歌名=尻焼猿人、屠龍(とりょう)の号は俳諧・狂歌、さらに浮世絵美人画でも用いている)」の、今に、「江戸琳派の祖」として仰がれている」、その「酒井抱一」にほかならない。

(補記) 「無心帰大道」(無心なれば大道に帰す)

https://hatunekai.com/?seasonwords=%E7%84%A1%E5%BF%83%E5%B8%B0%E5%A4%A7%E9%81%93

≪ 無心とは・・・無事や平常心と同じような意味があり
あれこれと作為したり取捨分別する心を捨てる事、
欲のない澄んだ心の事だそうです。
あれこれと思い悩まずに、
ただ只管(ひたすら)に努力をしていれば
進むべき道、正しい道が見えてくるのだと。 ≫
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「抱一再見」(続「忘れがたき風貌・画像」) [抱一再見]

(その十一)抱一の兄「酒井忠以(宗雅・銀鵝)」(その周辺)

酒井宗雅公像.jpg

酒井宗雅公像(姫路神社)(「ウィキペディア」)
≪ 酒井忠以(さかい ただざね)」は、江戸時代中期から後期の播磨姫路藩第2代藩主。雅楽頭系酒井家15代。
 姫路藩世嗣・酒井忠仰の長男として江戸に生まれる。父が病弱だったため、祖父・忠恭の養嗣子となり、18歳で姫路藩の家督を継いだ。
 絵画、茶道、能に非凡な才能を示し、安永8年(1779年)、25歳の時、ともに日光東照宮修復を命じられた縁がきっかけで出雲松江藩主の松平治郷と親交を深め、江戸で、あるいは姫路藩と松江藩の参勤行列が行き交う際、治郷から石州流茶道の手ほどきを受け、のちには石州流茶道皆伝を受け将来は流派を担うとまでいわれた。大和郡山藩主の柳沢保光も茶道仲間であった。弟に江戸琳派の絵師となった忠因(酒井抱一)がいるが、忠以自身も絵に親しみ、伺候していた宋紫石・紫山親子から南蘋派を学び、『兎図』(掛軸 絹本著色、兵庫県立歴史博物館蔵)や『富士山図』(掛軸 絹本著色、姫路市立城郭研究室蔵)等、単なる殿様芸を超えた作品を残している。
 天明元年には将軍の名代として光格天皇の即位式に参賀している。一方で藩政は、天明3年(1783年)から天明7年(1787年)までの4年間における天明の大飢饉で領内が大被害を受け、藩財政は逼迫した。このため、忠以は河合道臣を家老として登用し、財政改革に当たらせようとした。だが、忠以は寛政2年(1790年)に36歳の壮年で江戸の姫路藩邸上屋敷にて死去し、保守派からの猛反発もあって、道臣は失脚、改革は頓挫した。家督は長男の忠道が継いだ。
 筆まめで、趣味、日々の出来事・天候を『玄武日記』(22歳の正月から)『逾好日記』(33歳の正月から)に書き遺している。忠以の大成した茶懐石は『逾好日記』を基に2000年9月に、和食研究家の道場六三郎が「逾好懐石」という形で再現している。
(年譜)
1755年(宝暦5年) - 生まれ
1766年(明和3年) - 名を忠以と改名
1772年(安永元年)- 酒井家相続(8月27日)
1781年 (天明元年)- 光格天皇即位式のため上洛
1785年(天明5年) - 溜間詰
1790年(寛政2年) - 死去(7月17日)、享年36 ≫ (「ウィキペディア」)

 この「姫路神社」の「酒井宗雅公像」に彫られている「松風伝古今」こそ、「酒井宗雅(茶号)」その人の一面を、見事にとらえている。

≪ 松風(しょうふう)、古今(ここん)に伝える
 松がなびいている風の音は、今も昔も変わらないように、大切な教えはいつも心に響くのです。今も、弟子入りした時も、師が茶を志した時も、利休が秀吉に茶を点てた時も、茶室の松風は変わっていないのです。

https://www.instagram.com/p/CH6RbnYggjQ/

「松がなびいている風の音」=松籟(しょうらい)
「茶室の松風」=釜の湯の煮え立つ音             ≫

https://blog.goo.ne.jp/1945ys4092/e/187d966e1297be5a1320476b422458be

「酒井忠以=ただざね(宗雅)」と「酒井忠因=ただなお(抱一)」

「酒井忠以=ただざね(宗雅)」
○若くして幕府の重責(将軍名代・溜詰)を担うー将軍補佐役として 重要な地位ー
・第10代将軍 家治の日光東照宮社参に跡乗を務める 安永5年(1776) 22歳
・将軍家治の名代として、光格天皇即位式に参賀   安永10年)1781) 27歳
・将軍家治より 「溜詰」を命じられる        天明5年(1785) 31歳
・将軍家斉の名代として 日光東照宮社参       天明7年(1787) 33歳
○松江藩主 松平不昧(治郷)との交流 -茶人酒井宗雅ー
・酒井雅楽頭は 代々大名茶道・石州流
・松江藩主 松平治郷と姫路藩主 酒井忠以が 日光諸社堂修復の助役を命じられる
・松平不昧に師事し 茶道を伝授される。「弌得庵」の号を受ける
・酒井家江戸上屋敷に 茶室「逾好庵」(ゆこうあん)を設ける。
○風流大名として 様々な分野で 才能を発揮
・絵画:素人の余技に留まらぬ画才(「富士山図」、「兎図」、「山水図」など)
・俳諧:「銀鵞」(ぎんが)と号し、旅中、日常の出来事、四季折々を多くの句稿に残す。
・和歌:初就封の途に詠んだ「大比叡や小比叡の山に立つ雲は志賀辛崎の雨となるらん」
○「玄武日記」62冊の編纂
・忠以(宗雅)の公用日記(安永5年(1776)正月~寛政2年(1790)6月)

「酒井忠因=ただなお(抱一)」
○兄(忠以)の庇護のもと恵まれた青年期を過ごす
-若くして「吉原」に通い、奔放な生活を謳歌、江戸の市井文化に参加ー
・17歳のころから 馬場存儀(ぞんぎ)に入門し 俳諧を始める
・「尻焼猿人」の狂号で 狂歌を数多く発表
・20代は 浮世絵美人画を中心に描く(歌川豊春に倣う肉筆浮世絵)
○出家-武士の身分を捨てるー (寛政9年(1797) 37歳)
・西本願寺第18世 文如上人の弟子になり、得度。
「権大僧都等覚院文栓暉真」の法名を名乗る
(出家の前年、姫路藩主 酒井忠道が 弟忠実を養子にと幕府に願い出)
○江戸・新吉原の遊女を落籍。 大塚村へ転居(文化6年(1809) 49歳)
・新吉原・大文字楼の遊女香川を落籍
・内妻とするとともに、下谷金杉 大塚村へ転居
(後に、「雨華(うげ)庵」の扁額(姫路藩主 酒井忠実直筆)を掲げる(文化14年))
○尾形光琳に私淑 -琳派の美術に傾倒ー
・江戸で尾形光琳100回忌法要と光琳遺墨展を開催(文化12年(1815) 55歳)
・『光琳百図』を刊行。文化年間の60歳前後から、より洗練された花鳥図、四季の移ろい、自然の風趣を描く。-後に「江戸琳派」と言われるー 

「二人の師」(「松平不味」と「柳澤米翁」)

「松平不味(ふまい)」(「松平治郷(はるさと)」)(「ウィキペディア」)
 松平治郷(まつだいら はるさと)は、江戸時代後期の大名。出雲松江藩10代藩主。官位は従四位下・侍従、出羽守、左近衛権少将。雲州松平家7代。江戸時代の代表的茶人の一人で、号の不昧(ふまい)で知られる。その茶風は不昧流として現代まで続いている。その収集した道具の目録帳は「雲州蔵帳」とよばれる。
生誕 寛延4年2月14日(1751年3月11日)[1]
死没 文政元年4月24日(1818年5月28日)
改名 鶴太郎(幼名)、治郷、不昧(法号)
戒名 大円庵不昧宗納大居士
墓所 東京都文京区大塚の護国寺、京都府京都市北区紫野の大徳寺塔頭孤篷庵、島根県松江市外中原町の月照寺
官位 従四位下侍従、佐渡守、出羽守、左近衛権少将
幕府 江戸幕府
主君 徳川家治、家斉
藩 出雲松江藩主
氏族 雲州松平家
父母 松平宗衍、歌木
兄弟 治郷、衍親、蒔田定静、五百、幾百ら
妻 伊達宗村九女方子、武井氏
子 斉恒、男子、富、幾千、岡田善功

松平不眛像.jpg

松平不眛像(松江観光パンフレットより)

「柳澤米翁(ぺいおう)」(「柳沢信鴻(のぶとき)」) (「ウィキペディア」)
柳沢信鴻(やなぎさわ のぶとき)は、江戸時代中期の大名。大和国郡山藩第2代藩主。郡山藩柳沢家3代。初代藩主柳沢吉里の四男。
生誕 享保9年10月29日(1724年12月14日)
死没 寛政4年3月3日(1792年4月23日)
別名 久菊、義稠、信卿、伊信
諡号 米翁、春来、香山、月村、蘇明山、紫子庵、伯鸞
戒名 即仏心院無誉祐阿香山大居士
墓所 東京都新宿区 正覚山月桂寺
幕府 江戸幕府
藩 郡山藩主
氏族 柳沢氏
父母 父:柳沢吉里、母:森氏
兄弟 信睦、時英、信鴻、信昌、伊奈忠敬、坪内定規
妻 正室:伊達村年の娘
継室:真田信弘の娘
子 保光、信復(次男)、武田信明、六角広寿(四男)、里之、娘(米倉昌賢正室)、娘(阿部正倫正室)

六義園.jpg

水木家旧蔵六義園図 柳沢文庫所蔵『六義園 Rikugien Gardens』より
https://fujimizaka.wordpress.com/2014/05/25/hanamidera4/

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-01-19

歌麿・抱一.jpg

「画本虫撰(えほんむしえらみ)」宿屋飯盛撰 喜多川歌麿画 版元・蔦屋重三郎 天明八年(一七八八)刊

 抱一の、初期の頃の号、「杜綾・杜陵」そして「屠龍(とりょう)」は、主として、「黄表紙」などの戯作や俳諧書などに用いられているが、狂歌作者としては、上記の「画本虫撰」に登場する「尻焼猿人(しりやけのさるんど)」の号が用いられている。
 『画本虫撰』は、天明狂歌の主要な作者三十人を網羅し、美人画の大家として活躍する歌麿の出生作として名高い狂歌絵本である。植物と二種の虫の歌合(うたあわせ)の形式をとり、抱一は最初の蜂と毛虫の歌合に、四方赤良(大田南畝・蜀山人)と競う狂歌人として登場する。
 その「尻焼猿人」こと、抱一の狂歌は、「こはごはに とる蜂のすの あなにえや うましをとめを みつのあぢはひ」というものである。この種の狂歌本などで、「杜綾・尻焼猿人」の号で登場するもりに、次のようなものがある。

天明三年(一七八三) 『狂歌三十六人撰』 四方赤良編 丹丘画
天明四年(一七八四) 『手拭合(たなぐひあはせ)』 山東京伝画 版元・白凰堂
天明六年(一七八六) 『吾妻曲狂歌文庫』 宿屋飯盛編 山東京伝画 版元・蔦重
「御簾ほとに なかば霞のかゝる時 さくらや 花の王と 見ゆらん」(御簾越しに、「尻焼猿人」の画像が描かれている。高貴な出なので、御簾越しに描かれている。)
天明七年(一七八七) 『古今狂歌袋』 宿屋飯盛撰 山東京伝画 版元・蔦重

 天明三年(一七八三)、抱一、二十三歳、そして、天明七年(一七八七)、二十七歳、この若き日の抱一は、「俳諧・狂歌・戯作・浮世絵」などのグループ、そして、それは、「四方赤良(大田南畝・蜀山人)・宿屋飯盛(石川雅望)・蔦屋重三郎(蔦唐丸)・喜多川歌麿(綾丸・柴屋・石要・木燕)・山東京伝(北尾政演・身軽折輔・山東窟・山東軒・臍下逸人・菊花亭)」の、いわゆる、江戸の「狂歌・浮世絵・戯作」などの文化人グループの一人だったのである。
 そして、この文化人グループは、「亀田鵬斎・谷文晁・加藤千蔭・川上不白・大窪詩仏・鋤形蕙斎・菊池五山・市川寛斎・佐藤晋斎・渡辺南岳・宋紫丘・恋川春町・原羊遊斎」等々と、多種多彩に、その輪は拡大を遂げることになる。
 これらの、抱一を巡る、当時の江戸の文化サークル・グループの背後には、いわゆる、「吉原文化・遊郭文化」と深い関係にあり、抱一は、その青年期から没年まで、この「吉原」(台東区千束)とは陰に陽に繋がっている。その吉原の中でも、大文字楼主人村田市兵衛二世(文楼、狂歌名=加保茶元成)や五明楼主人扇屋宇右衛門などとはとりわけ昵懇の仲にあった。
抱一が、文化六年(一八〇九)に見受けした遊女香川は、大文字楼の出身であったという。その遊女香川が、抱一の傍らにあって晩年の抱一を支えていく小鸞女子で、文化十一年(一八二八)の抱一没後、出家して「妙華」(抱一の庵号「雨華」に呼応する「天雨妙華」)と称している。
 抱一(雨華庵一世)の「江戸琳派」は、酒井鶯蒲(雨華庵二世)、酒井鶯一(雨華庵三世)、酒井道一(雨華庵四世)、酒井唯一(雨華庵五世)と引き継がれ、その一門も、鈴木其一、池田孤邨、山本素道、山田抱玉、石垣抱真等々と、その水脈は引き継がれいる。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-09-07

尻焼猿人一.jpg

『吾妻曲狂歌文庫』(宿屋飯盛撰・山東京伝画)/版元・蔦屋重三郎/版本(多色摺)/
一冊 二㈦・一×一八・〇㎝/「国文学研究資料館」蔵
【 大田南畝率いる四方側狂歌連、あたかも紳士録のような肖像集。色刷りの刊本で、狂歌師五十名の肖像を北尾政演(山東京伝)が担当したが、その巻頭に、貴人として脇息に倚る御簾越しの抱一像を載せる。芸文世界における抱一の深い馴染みぶりと、グループ内での配慮のなされ方とがわかる良い例である。「御簾ほどになかば霞のかゝる時さくらや花の主とみゆらん」。 】
(「別冊太陽 酒井抱一 江戸琳派の粋人(仲町啓子監修)」所収「大名家に生まれて 浮世絵・俳諧にのめりこむ風狂(内藤正人稿)」)

 上記の画中の「尻焼猿人(しりやけのさるんど)」は、抱一の「狂歌」で使う号である。「尻が焼かれて赤く腫れあがった猿のような人」と、何とも、二十歳代の抱一その人を顕す号であろう。

 御簾(みす)ほどに
  なかば
   霞のかゝる時
  さくらや
   花の主(ぬし)と見ゆらん

 その「尻焼猿人」(抱一)は、尊いお方なので拝顔するのも「御簾」越しだというのである。そのお方は、「花の吉原」では、その「花(よしわら)の主(ぬし)」だというのである。これが、二十歳代の抱一その人ということになろう。
 俳諧の号は、「杜陵(綾)」を変じての「屠龍(とりょう)」、すなわち「屍(しかばね)の龍」(「荘子」に由来する「実在しない龍」)と、これまた、二十歳代の抱一その人を象徴するものであろう。この俳号の「屠龍」は、抱一の終生の号の一つなのである。
 ここに、「大名家に生まれて、浮世絵・俳諧にのめりこむ風狂人」、酒井抱一の原点がある。
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「抱一再見」(続「忘れがたき風貌・画像」) [抱一再見]

(その十)「建部巣兆」(その周辺)

建部巣兆像.jpg

鯉隠筆「建部巣兆像・(東京国立博物館蔵)」(「ウィキペディア」)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-03-16

(再掲)
 建部巣兆は、加舎白雄に俳諧を学び、その八大弟子の一人とされ、夏目成美・鈴木道彦と共に江戸の三大家に数えられ、俳人としては、名実共に、抱一を上回るとして差し支えなかろう。
 抱一は、姫路城十五万石の上流武家の生まれ、巣兆の父は、書家として知られている山本龍斎(山本家江戸本石町の名主)、その生まれた環境は違うが、その生家や俗世間から身を退き(隠者)、共に、傑出した「画・俳」両道の「艶(優艶)」の世界に生きた「艶(さや)隠者」という面では、その生き方は、驚くほど共通するものがある。
 鵬斎は、上記の巣兆句集『曽波可理』の「叙」の中で、巣兆を「厭世之煩囂」(世の煩囂(はんきょう)を厭ひて)「隠干関屋之里」(関谷の里に隠る)と叙している。抱一は、三十七際の若さで「非僧非俗」の本願寺僧の身分を取得し、以後、「艶隠者」としての生涯を全うする。
 この同じ年齢の、共に、この艶隠者としての、この二人は、上記の抱一の「序」のとおり、その俳諧の世界にあって、共に、「花晨月夕に句作して我(抱一)に問ふ。我も又句作して彼(巣兆)に問ふ。彼に問へば彼譏(そし)り、我にとへば我笑ふ。我畫(かか)ばかれ題し、かれ畫ば我讃す。かれ盃を挙げれば、、われ餅を喰ふ」と、相互に肝胆相照らし、そして、相互に切磋琢磨する、真の同朋の世界を手に入れたのであろう。
 これは、相互の絵画の世界においても、巣兆が江戸の「蕪村」を標榜すれば、抱一は江戸の「光琳」を標榜することとなる。巣兆は谷文晁に画技を学び、文晁系画人の一人ともされているが、そんな狭い世界のものではない。また、抱一は、光琳・乾山へ思慕が厚く、「江戸琳派」の創始者という面で見られがちであるが、それは、上方の「蕪村・応挙」などの多方面の世界を摂取して、いわば、独自の世界を樹立したと解しても差し支えなかろう。
 ここで、特記して置きたいことは、享和二年(一八〇二)に、上方の中村芳中が江戸に出て来て『光琳画譜』(加藤千蔭「序」、川上不白「跋」)を出版出来た背後には、上方の木村蒹葭堂を始めとする俳諧グループと巣兆を始めとする江戸の俳諧グループとの、そのネットワークの結実に因るところが多かったであろうということである。

曽波可理一.jpg

『曽波可理 / 巣兆 [著] ; 国むら [編]』「鵬斎・叙」(早稲田大学図書館蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/he05/he05_06665/he05_06665.html

曽波可理二.jpg

『曽波可理 / 巣兆 [著] ; 国むら [編]』「抱一・巣兆句集序一」(早稲田大学図書館蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/he05/he05_06665/he05_06665_p0004.jpg

曽波可理三.jpg

『曽波可理 / 巣兆 [著] ; 国むら [編]』「抱一・巣兆句集序二」(早稲田大学図書館蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/he05/he05_06665/he05_06665_p0005.jpg

 『江戸文芸之部第27巻日本名著全集俳文俳句集』所収「曽波可理(そばかり)」から、上記の抱一の「巣兆句集序」の翻刻文を掲載して置きたい。

【 巣兆句集序
秋香庵巣兆は、もと俳諧のともたり。花晨月夕に句作して我に問ふ。我も又句作して彼に問ふ。彼に問へば彼譏(そし)り、我にとへば我笑ふ。我畫(かか)ばかれ題し、かれ畫ば我讃す。かれ盃を挙げれば、、われ餅を喰ふ。其草稿五車に及ぶ。兆身まかりて後、国村師を重ずるの志厚し。一冊の草紙となし梓にのぼす。其はし書きせよと言ふ。いなむべきにあらず。頓(とみ)に筆を採て、只兆に譏(そし)られざる事をなげくのみなり
文化丁丑五日上澣日        抱一道人屠龍記 (文詮印)   】

 上記の「巣兆発句集 自撰全集」の冒頭の句も掲載して置きたい。

【 巣兆発句集 自撰全集
   歳旦
 大あたま御慶と来けり初日影
  俊成卿
   玉箒はつ子の松にとりそへて
      君をそ祝う賤か小家まで
 けふとてぞ猫のひたひに玉はゝき
 竈獅子が頤(あご)ではらひぬ門の松
此句「一茶発句集」に見えたり       】

【 我庵はよし原霞む師走哉 (巣兆『曽波加里』)

 巣兆没後に刊行された巣兆句集『曽波加里』の最後を飾る一句である。この句は、「よし原」の「よし」が、「良し」「葦(よし)・原」「吉(よし)・原」の掛詞となっている。句意は、「我が関屋の里の秋香園は良いところで、隅田川の葦原が続き、その先は吉原で、今日は、霞が掛かっているようにぼんやりと見える。もう一年を締めくくる師走なのだ」というようなことであろう。
 そして、さらに付け加えるならば、「その吉原の先は、根岸の里で、そこには、雨華庵(抱一・蠣潭・其一)、義兄の鵬斎宅、そして、写山楼(文晁・文一)と、懐かしい面々が薄ぼんやりと脳裏を駆け巡る」などを加えても良かろう。
 これは、巣兆の最晩年の作であろう。この巣兆句集『曽波加里』の前半(春・夏)の部は巣兆の自撰であるが、その中途で巣兆は没し、後半(秋・冬)の部は巣兆高弟の加茂国村が撰し、そして、国村が出版したのである。
 巣兆俳諧の後継者・国村が師の巣兆句集『曽波加里』の、その軸句に、この句を据えたということは、巣兆の絶句に近いものという意識があったように思われる。巣兆は、文化十一年(一八一四)十一月十四日、その五十四年の生涯を閉じた。

(追記)『徳萬歳(巣兆著)』・『品さだめ(巣兆撰・燕市編)』の挿絵「徳萬歳」(中村芳中画)

「徳萬歳(中村芳中画)」.gif

『品さだめ(巣兆撰・燕市編)』中「徳萬歳(中村芳中画)」(早稲田大学図書館蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/he05/he05_06709/he05_06709.html

一 『徳萬歳(巣兆著)』と『品さだめ(巣兆撰・燕市編)』とは、書名は異なるが、内容は全く同じものである。上記のアドレスの書名の『俳諧万花』は「旧蔵者(阿部氏)による墨書」で為されたものである。

二 『徳萬歳(巣兆著)』は、『日本俳書大系(第13巻)』に収載されているが、その解題でも、この『品さだめ』との関連などは触れられていない。

三 燕市(燕士・えんし)は、「享保六年(一七二一)~寛政八年(一七九六)、七十六歳。
石井氏。俗称、塩屋平右衛門。別号に、燕士、二月庵。豊後国竹田村の商人。美濃派五竹坊・以哉(いさい)坊門。編著『みくま川』『雪の跡』」とある(『俳文学大辞典』)。  】

建部巣兆画「盆踊り図」一.jpg

建部巣兆画「盆踊り図」(絹本着色/下記の「蛍狩り図」と対/足立区立郷土博物館蔵)
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/230488

建部巣兆画「盆踊り図」二.jpg

建部巣兆画「蛍狩り図」(絹本着色/上記の「盆狩り図」と対/足立区立郷土博物館蔵)
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/285719

千住の文人 建部巣兆.jpg

「千住の文人 建部巣兆 / TAKEBE Socho」
https://speakerdeck.com/adachicitymuseum/takebe-socho?slide=4

千住の文人 建部巣兆二.jpg

千住の文人 建部巣兆 / TAKEBE Socho
https://speakerdeck.com/adachicitymuseum/takebe-socho?slide=8

「建部巣兆の俳句」

http://urawa0328.babymilk.jp/haijin/souchou-ku.html

霜の聲閑屋の槌をうらみ哉   『潮来集』(一艸編) 
かへるさに松風きゝぬ花の山  『衣更着集』(倉田葛三編)
関の戸にほのほの見ゆる糸瓜かな『春秋稿』(第六編)(倉田葛三編)
我宿ハさくら紅葉のひと木哉  『春秋稿』(第六編)(倉田葛三編)
しはしとて袴おしぬくこたつ哉 『はなのつと』(鹿古編)
芹生にてせり田持ちたし春の雨 『春秋稿』(編次外)(倉田葛三編) 
あたら菊をつますは花に笑れん 『春秋稿』(編次外)(倉田葛三編)
晨明の月より春ハまたれけり  『黒祢宜』(常世田長翠編)
芹生にて芹田もちたし春の雨  『波羅都々美』(五明編)
夏の菊皆露かげに咲にけり   『ななしどり』(可都里編)
ひたひたと田にはしりこむ清水かな『つきよほとけ』(可都里編)
いくとせも花に風ふく桜かな  『風やらい』
鶯の屋根から下る畠哉     『享和句帖』(享和3年5月)
柞原薪こるなり秋の暮     『鶴芝』(士朗・道彦編)
帆かけ舟朝から見えてはなの山 『鶴芝』(士朗・道彦編)
とくとくの水より青き若葉哉  『むぐらのおく』
いくとせも花に風吹櫻かな   『寢覺の雉子』(遠藤雉啄編)
さお姫の野道にたてる小はたかな『有磯蓑』
馬かりて伊香保へゆかんあやめかな 『頓写のあと』(倉田葛三編)
煤竹もたわめば雪の雀かな   『続雪まろげ』(藤森素檗編)
みかさと申宮城野に遊て    『おくの海集』(巣居編)
木の下やいかさまこゝは蝉ところ『おくの海集』(巣居編)
高ミから見ればはたらく案山子哉『曽良句碑建立句集』(藤森素檗編)
稲かけし老木の数や帰花    『萍日記』(多賀庵玄蛙編)
花桶もいたゝきなれし清水哉  『苔むしろ』
あし鴨の寝るより外はなかるべし『繋橋』
大竹に珠数ひつかけし時雨かな 『しぐれ会』(文化5年刊)
啼け聞ふ木曽の檜笠で時鳥   『玉の春』(巣兆編)
湯車の米にもなれて今朝の秋  『古今綾嚢』(黒岩鷺白編)
冬枯のなつかしき名や蓮台野  『しぐれ会』(文化6年刊)
時雨るゝや火鉢の灰も山の形り 『遠ほととぎす』(五柏園丈水編)
涼むなりかねつき坊が青むしろ 『菫草』(一茶編)
爺婆ゝの有がたくなる木葉哉  『物の名』(武曰編)
こそこそと夜舟にほどく粽かな 『続草枕』
はせを忌や笑ひあふたる破れ傘 『しぐれ会』(文化7年刊)
曲りこむ藪の綾瀬や行螢    『物見塚記』(一瓢編)
古郷やとうふ屋出来て春雨   『随斎筆記』(夏目成美編)
時鳥まだ見に来ずや角田川   『随斎筆記』(夏目成美編)
舟曳や五人見事に梅を嗅    『俳諧道中双六』(閑斎編)
遠くから見てもおかれぬ桜かな 『名なし草紙』(苅部竹里編)
二年子の大根の原やなく雲雀  『名なし草紙』(苅部竹里編)
はつ河豚や無尽取たるもどり足 『なにぶくろ』
ほし葉(ママ)釣壁をたゝけはかさかさと『栞集』(成蹊編)
手拭で狐つらふ(う)ぞ花の山 『株番』(一茶編)
蓮の根の穴から寒し彼岸過   『信濃札』(素檗編)
うそ鳴や花の霞の山中に    『木槿集』(一茶編)
梵論の行ふもとしづかに落葉哉 『世美冢』(白老編)
名月や小嶋の海人の菜つミ舟  『青かげ』(石井雨考編)
谷へはく箒の先やほとゝぎす  『三韓人』(一茶編)
見し人の鍋かいて居る清水哉  『的申集』(洞々撰)
御寝ならば裾になりなん嶺の月 『さらしな記行』(小蓑庵碓嶺編)
訪るゝも訪ふも狭筵月一夜   『さらしな記行』(小蓑庵碓嶺編)
朝露や鶴のふみこむ藤ばかま  『小夜の月』(渭虹編)
春は猶曙に来る片鶉      『阿夫利雲』(淇渓編)
菜の花や染て見たひは不二の山 『雪のかつら』(里丸編)
萩咲て夫婦のこことかくれけり 『しをに集』(亀丸編)
芦鴨の寝るより外はなかるへし 『わすれす山』(きよ女編)
時鳥まだ見に来ずやすみだ川  『墨多川集』(一茶編)
酒のみをみしるや雪の都鳥   『墨多川集』(一茶編)
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「抱一再見」(続「忘れがたき風貌・画像」) [抱一再見]

(その九)「谷文晁」(その周辺)

谷文晁肖像.jpg

「谷文晁肖像」(「近世名家肖像図巻(谷文晁筆)」東京国立博物館蔵)
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0024606

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-01-28

 「下谷の三幅対」と称された、年齢順にして「亀田鵬斎・酒井抱一・谷文晁」の、「鵬斎」は文政九年(一八二六)に没、そして、「抱一」も文政十一年(一八二九)に没と、上記の作品を仕上げた天保元年(一八三〇)、六十八歳の文晁は、その前年に御絵師の待遇を得て剃髪し、江戸画壇というよりも、全国を席捲する日本画壇の第一人者に祀り上げられていた。

 その文晁の、それまでの「交友録」というのは、まさに、「下谷の三幅対」の、「亀田鵬斎・酒井抱一・谷文晁」に、陰に陽に連なる「江戸(東京)」の、その後半期の「江戸」から「東京」への過度期の、その節目、節目に登場する、一大群像を目の当たりにするのである。

松平楽翁→木村蒹葭堂→亀田鵬斎→酒井抱一→市河寛斎→市河米庵→菅茶山→立原翠軒→古賀精里→香川景樹→加藤千蔭→梁川星巌→賀茂季鷹→一柳千古→広瀬蒙斎→太田錦城→山東京伝→曲亭馬琴→十返舎一九→狂歌堂真顔→大田南畝→林述斎→柴野栗山→尾藤二洲→頼春水→頼山陽→頼杏坪→屋代弘賢→熊阪台州→熊阪盤谷→川村寿庵→鷹見泉石→蹄斎北馬→土方稲嶺→沖一峨→池田定常→葛飾北斎→広瀬台山→浜田杏堂

 その一門も、綺羅星のごとくである。

(文晁門四哲) 渡辺崋山・立原杏所・椿椿山・高久靄厓
(文晁系一門)島田元旦・谷文一・谷文二・谷幹々・谷秋香・谷紅藍・田崎草雲・金子金陵・鈴木鵞湖・亜欧堂田善・春木南湖・林十江・大岡雲峰・星野文良・岡本茲奘・蒲生羅漢・遠坂文雍・高川文筌・大西椿年・大西圭斎・目賀田介庵・依田竹谷・岡田閑林・喜多武清・金井烏洲・鍬形蕙斎・枚田水石・雲室・白雲・菅井梅関・松本交山・佐竹永海・根本愚洲・江川坦庵・鏑木雲潭・大野文泉・浅野西湖・村松以弘・滝沢琴嶺・稲田文笠・平井顕斎・遠藤田一・安田田騏・歌川芳輝・感和亭鬼武・谷口藹山・増田九木・清水曲河・森東溟・横田汝圭・佐藤正持・金井毛山・加藤文琢・山形素真・川地柯亭・石丸石泉・野村文紹・大原文林・船津文淵・村松弘道・渡辺雲岳・後藤文林・赤萩丹崖・竹山南圭・相沢石湖・飯塚竹斎・田能村竹田・建部巣兆

 その画域は、「山水画、花鳥画、人物画、仏画」と幅も広く、「八宗兼学」とまでいわれる独自の画風(南北合体の画風)を目途としていた。
 ここで、しからば、谷文晁の傑作画となると、「公余探勝図 寛政5年(1793年)重要文化財・東京国立博物館」位しか浮かんで来ない。
 しかし、これは、いわゆる、「真景図・写生画・スケッチ画」の類いのもので、「松平定信の海岸防備の視察の、その巡視に従って写生を担当し、その八十箇所を浄写した」に過ぎない。その「公余探勝」というのは、文晁が考えたものではなく、松平定信の、「蛮図は現にくはし。天文地理又は兵器あるいは内外科の治療、ことに益少なからず」(『字下人言』)の、この貞信の「洋画実用主義理論」ともいうべきものを、方法として用いたということ以外の何物でもない。
 そして、寛政八年(一七九六)に、これまた、定信に『集古十種』の編纂を命ぜられ、京都諸社寺を中心にして古美術の調査することになり、ここで、上記の「八宗兼学」という「南北合体の画風」と結びついて来ることになる(『日本の美術№257 谷文晁(河野元昭和著)。
 この寛政八年(一七九六)、文晁、三十四歳の時の、上記の門弟の一人、喜田武清を連れての関西巡遊は、大きな収穫があった。この時に、文晁は、京都で、呉春、大阪で、木村蒹葭堂などとの出会いがある(文晁筆の著名な「木村蒹葭堂肖像」は補記一のとおり)。

太田南畝肖像.jpg

「太田南畝肖像」(「近世名家肖像図巻(谷文晁筆)」東京国立博物館蔵)
https://image.tnm.jp/image/1024/C0024608.jpg

円山応挙肖像.jpg

「円山応挙肖像」(「近世名家肖像図巻(谷文晁筆)」東京国立博物館蔵)
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0024597

呉春挙肖像.jpg

「呉春肖像」(「近世名家肖像図巻(谷文晁筆)」東京国立博物館蔵)
https://image.tnm.jp/image/1024/C0024598.jpg

文晁・蕪村模写.jpg

谷文晁筆「与謝蕪村肖像」(呉春筆「蕪村を模写した作品。画面上部に文晁が門生に示した八ケ条の画論が一緒に表装されている」=『日本の美術№257 谷文晁(p23)』)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-01-28

蕪村肖像・月渓写.jpg

 この「於夜半亭 月渓拝写」と落款のある「蕪村肖像」が、何時描かれたのかは、「呉春略年表」(『呉春 財団逸翁美術館』)には記載されていない。
 しかし、『蕪村全集一 発句(校注者 尾形仂・森田蘭)』の、冒頭の口絵(写真)を飾ったもので、その口絵(写真)には、「蕪村像 月渓筆」の写真の上部に「蕪村自筆詠草(同右上上部貼り交ぜ)」として、次のとおりの「蕪村自筆詠草」のものが、紹介されている。

  兼題かへり花

 こゝろなき花屋か桶に帰花
 ひとつ枝に飛花落葉やかえり花
        右 蕪村

 この「兼題かへり花」の、蕪村の二句は、天明三年(一七八三)十月十日の「月並句会」でのものというははっきりとしている。そして、この年の、十二月二十五日に、蕪村は、その六十八年の生涯を閉じたのである。
 その蕪村が亡くなる時に、蕪村の臨終吟を書きとったのも、当時、池田に在住していた呉春(月渓)が、蕪村の枕頭に馳せ参じて看病し、そして、その臨終吟(「冬鶯むかし王維が垣根かな」「うぐひすや何ごそつかす藪の霜」「しら梅に明(あく)る夜ばかりとなりにけ」)を書きとったのである。

抱一上人像.jpg
鈴木其一筆「抱一上人像」 一幅 絹本着色 八九・五×三一・六cm 個人蔵

鈴木其一筆「抱一上人像」 一幅 絹本着色 八九・五×三一・六cm 個人蔵
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-01-30
「抱一は文政十一年(一八二八)十一月二十九日に亡くなった。その尊像は、翌年四月に鶯蒲が二幅を描いたことや、孤邨も手掛けていたこと(『抱一上人真蹟鏡』所収)が知られている。また抱一の孫弟子野崎真一による肖像画もある。円窓の中に師の面影を描く。鶯蒲作は面長で痩せたイメージに描かれるが、其一本は全体に丸味を帯びた容姿である。其一はこの時期「亀田鵬斎像」(個人蔵)などを手掛けおり、肖像画には強いこだわりをもっていたことと思われる。「噲々其一謹写」と書かれた署名からも、師への崇敬の念が伝わってくる。角ばった頭の形や衣服の描写は、抱一の「其角像」(個人蔵)に通じるものがあり、あるいは抱一が敬愛した其角のイメージも重ねられているのかも知れない。」
(『鈴木其一 江戸琳派の旗手』所収「作品解説(岡野智子稿)」)

鵬斎像.jpg

亀田鵬斎像」(鈴木其一筆か?)
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-01-30

抱一上人像(?).jpg

谷文晁筆(?)・谷文一筆(?)「抱一上人像(?)」(中央の僧体の人物、抱一の向かって左の人物=太田南畝?、右の人物=亀田鵬斎?、そして、「文一筆?」なら、鵬斎の右の人物(ここには、省略されている)=文晁?)
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-01-30

補記一 亀田鵬斎について

http://sawarabi.a.la9.jp/040725isasaramai/kamedabousai.htm

補記二 酒合戦 →  ミュージアム巡り 江戸のレシピ 街談文々集要

http://blog.goo.ne.jp/shiotetsu_2011/e/d8038e593ad23653fc66cc14623c4b37

補記三 酒合戦 → 千住宿

http://www.wikiwand.com/ja/千住宿

(抜粋)
千住酒合戦
 千住酒合戦とは、文化12年(1815年)10月21日、千住宿の飛脚問屋の中屋六衛門の六十の祝いとして催された。現在の千住一丁目にあった飛脚宿であり、会場を中屋とした。 審査員として、下谷の三福対である江戸琳派の祖の酒井抱一、絵師の谷文晁、儒学者・書家の亀田鵬斎の他、絵師谷文一、戯作者の太田南畝など、著名人が招かれた。酒合戦の時には、看板に「不許悪客下戸理窟入菴門」と掲げられた。この酒合戦は競飲会であり、厳島杯(5合)、鎌倉杯(7合)、江島杯(1升)、万寿無量杯(1升5合)、緑毛亀杯(2升5合)、丹頂鶴杯(3升)などの大杯を用いた。亀田鵬斎の序文(『高陽闘飲序』)によれば、参加者は100余名、左右に分かれた二人が相対するように呑み比べが行われた、1人ずつ左右から出て杯をあけ、記録係がこれを記録した。
 千住酒合戦に関する記録は多数あり、『高陽闘飲図巻』:『高陽闘飲序』亀田鵬斎、『後水鳥記』 谷文一・大田南畝、『擁書漫筆』三 小山田与清(高田與清)、『酒合戦番付』、『千住酒合戦』(木版)、そして『街談文々集要』(万延元年(1860年)序)石塚重兵衛(号:豊芥子)などがある。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-08-19

補記一 『画本虫撰』(国立国会図書館デジタルコレクション)

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1288345

補記二 『狂歌三十六人撰』

http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000007282688-00

http://digitalmuseum.rekibun.or.jp/app/collection/detail?id=0191211331&sr=%90%EF

補記三 『手拭合』(国文学研究資料館)

https://www.nijl.ac.jp/pages/articles/200611/

補記四 『吾妻曲狂歌文庫』(国文学研究資料館) 

https://www.nijl.ac.jp/pages/articles/200512/

補記五  浮世絵(喜多川歌麿作「画本虫ゑらみ」)

http://yahan.blog.so-net.ne.jp/2017-12-27

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-06-17

日本名山図会. 天,地,人.jpg

「日本名山図会. 天,地,人 / 谷文晁 画」中の「日本名山図会・人」p10「浅間山」≪早稲田大学図書館 (Waseda University Library)≫
https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko30/bunko30_e0235/bunko30_e0235_0001/bunko30_e0235_0001.html

≪ 谷文晁(1763―1840)
 江戸後期の南画家。名は正安。通称は文五郎。字(あざな)、号ともに文晁といい、別に写山楼(しゃざんろう)、画学斎(ががくさい)などと号した。田安家の家臣で詩人としても著名な麓谷(ろっこく)を父として江戸に生まれた。画(え)は初め狩野(かのう)派の加藤文麗(ぶんれい)に、ついで長崎派の渡辺玄対(げんたい)に学び、鈴木芙蓉(ふよう)にも就いた。
 大坂で釧雲泉(くしろうんせん)より南画の法を教授され、さらに北宗画に洋風画を加味した北山寒巌(きたやまかんがん)や円山(まるやま)派の渡辺南岳(なんがく)の影響も受けるなど、卓抜した技術で諸派を融合させた画風により一家をなした。なかでも『山水図』(東京国立博物館)のように北宗画を主に南宗画を折衷した山水に特色があり、また各地を旅行した際の写生を基に『彦山(ひこさん)真景図』や『鴻台(こうのだい)真景図』などの真景図や『名山図譜』を制作、『木村蒹葭堂(けんかどう)像』のような異色の肖像画も残している。
 1788年(天明8)画をもって田安家に仕官し、92年(寛政4)には松平定信(さだのぶ)に認められてその近習(きんじゅ)となり、定信の伊豆・相模(さがみ)の海岸防備の視察に随行して、西洋画の陰影法、遠近法を用いた『公余探勝(こうよたんしょう)図巻』を描き、また『集古十種』の編纂(へんさん)にも従って挿図を描いている。弟の島田元旦(げんたん)も画をもって鳥取藩に仕え、妻の幹々(かんかん)や妹秋香(しゅうこう)も画家として知られている。
 門人も渡辺崋山(かざん)、立原杏所(たちはらきょうしょ)、高久靄崖(たかくあいがい)らの俊才に恵まれ、当時の江戸画壇の大御所として君臨した。文晁を中心とする画派は関西以西の南画とは画風を異にし、通常、関東南画として区別されている。著書に『文晁画談』『本朝画纂(ほんちょうがさん)』などがある。[星野鈴稿](出典「小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)」
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「抱一再見」(続「忘れがたき風貌・画像」) [抱一再見]

(その八)「亀田鵬斎」(その周辺)

鵬斎像.jpg

谷文晁筆・亀田鵬斎賛「亀田鵬斎像」(北村探僊宿模)個人蔵 文化九年(一八一二)作
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-03-20

 この「亀田鵬斎像」は、文化九年(一八一二)四月六日、鵬斎還暦の賀宴が開かれ、越後北蒲原郡十二村の門人曽我左京次がかねてから師の像を文晁に依頼して出来たものであるという。そして、その文晁画に、鵬斎は自ら自分自身についての賛を施したのである。
 その賛文と訳文とを、『亀田鵬斎と江戸化政期の文人達(渥美国泰著)』から抜粋して置きたい。

 這老子  其頸則倭 其服則倭  この老人  頭は日本  服も日本だ
 爾為何人 爾為誰氏 仔細看来  どんな人で 誰かと見れば 鵬斎だ
 鵬斎便是 非商非工 非農非士  商でなく 工でなく 農でなく 士でもない
 非道非佛 儒非儒類       道者でなく 仏者でなく 儒類でもない
 一生飲酒 終身不仕       一生酒を飲んで過ごし 仕官もしない
 癡耶點耶 自視迂矣       ばかか わるか 気の利かぬ薄のろさ
  壬申歳四月六十一弧辰月題
   関東亀田興 麹部尚書印

鵬斎像・文晁筆.jpg

「亀田鵬斎像」谷文晁画 北村探僊縮模(「ウィキペディア」=上記図の部分拡大図)
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-01-25

 この「鵬斎」像と、冒頭に掲げた「食卓を囲む文人たち」(次図)の中央に位置する「鵬斎」像とを交互に見て行くと、江戸後期の、当時の並み居る「文人・墨客」の中で、まさに、鵬斎というのは、常に中央に居した、その人物像が彷彿として来る。
 ちなみに、冒頭の「食卓を囲む文人たち」の、右端の大田南畝(蜀山人・四方赤良)は、左端の、大窪詩仏(詩聖堂・既酔亭)について、「詩は詩仏(大窪詩仏)、書は米庵(市川米庵)に狂歌俺(大田南畝)、芸者小万(山谷堀の花形芸者)に料理八百善(山谷堀の名店)」という狂歌を残している。
 この狂歌は、料亭・八百善で、当時の山谷堀の花形芸者であった小万に、その三味線の胴裏に、この狂歌の賛を書いたとも言われている。
 そして、もう一人の、鵬斎の前面に座っている、抱一と間違われている坊主頭の鍬形蕙斎は、一介の浮世絵師から異例の抜擢で美作津山藩の御用絵師となった画人で、山東京伝(北尾政演)とは、同門(北尾重正門)、同年齢(宝暦十一年=一七六一)の間柄である。

料理通.jpg

『江戸流行料理通大全』p29 「食卓を囲む文人たち」

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-01-25

 上記は、文政五年(一八二二)に刊行された『江戸流行料理通大全』(栗山善四郎編著)の中からの抜粋である。ここに出てくる人物は、右から、「大田南畝(蜀山人)・亀田鵬斎・酒井抱一(?)か鍬形蕙斎(?)・大窪詩仏」で、中央手前の坊主頭は、酒井抱一ともいわれていたが、その羽織の紋所(立三橘)から、この挿絵の作者の「鍬形蕙斎(くわがたけいさい)」のようである(『別冊太陽 酒井抱一 江戸琳派の粋人』所収「江戸の文人交友録(武田庸二郎稿))。
 (中略)
 上記の、『江戸流行料理通大全』の、上記の挿絵の、その中心に位置する「亀田鵬斎」とは、「鵬斎・抱一・文晃」の、いわゆる、「江戸」(東京)の「下谷」(「吉原」界隈の下谷)の、その「下谷の三幅対」と云われ、その三幅対の真ん中に位置する、その中心的な最長老の人物が、亀田鵬斎なのである。
 そして、この三人(「下谷の三幅対」)は、それぞれ、「江戸の大儒者(学者)・亀田鵬斎」、「江戸南画の大成者・谷文晁」、そして、「江戸琳派の創始者・酒井抱一」と、その頭に「江戸」の二字が冠するのに、最も相応しい人物のように思われるのである。
 これらの、江戸の文人墨客を代表する「鵬斎・抱一・文晁」が活躍した時代というのは、それ以前の、ごく限られた階層(公家・武家など)の独占物であった「芸術」(詩・書・画など)を、四民(士農工商)が共用するようになった時代ということを意味しよう。
 それはまた、「詩・書・画など」を「生業(なりわい)」とする職業的文人・墨客が出現したということを意味しよう。さらに、それらは、流れ者が吹き溜まりのように集中して来る、当時の「江戸」(東京)にあっては、能力があれば、誰でもが温かく受け入れられ、その才能を伸ばし、そして、惜しみない援助の手が差し伸べられた、そのような環境下が助成されていたと言っても過言ではなかろう。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-03-06

写山楼.jpg

「江戸・足立 谷家関係地図」(谷文晁関係・部分抜粋図)
https://blog.goo.ne.jp/87hanana/e/5009c26242c14f72aff5e7645a2696a9

 上記は、谷文晁関係の「江戸・足立 谷家関係地図」のものであるが、ここに、「下谷三幅対」と言われた、「酒井抱一(宅)」(雨華庵)と「谷文晁(宅)」(写山楼)と「亀田鵬斎(宅)」の、それぞれの住居の位置関係が明瞭になって来る。
 その他に、「鵬斎・抱一・文晁」と密接な関係にある「大田南畝」や「市河米庵」などとの、それぞれの住居の位置関係も明瞭になって来る。その記事の中に、「文晁の画塾・写山楼と酒井抱一邸は、3キロくらい。お隣は、亀田鵬斎(渥美国泰著『亀田鵬斎と江戸化政期の文人達』には、現在の台東区根岸3丁目13付近)」とある。
 この「酒井抱一宅・亀田鵬斎宅」は、旧「金杉村」で、正岡子規の「根岸庵」は、旧「谷中村」であるが、この地図の一角に表示することが出来るのかも知れない。また、当時の江戸化政期文化のメッカである「新吉原」も表示することが出来るのかも知れない。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-03-09

高陽闘飲図二.jpg

「高陽闘飲図巻」(大田南畝記・歌川季勝画)(早稲田大学図書館蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/wo06/wo06_01594/wo06_01594_p0014.jp

 この「高陽闘飲図巻」中の、桟敷席で酒合戦を観覧しているのは、右から、「文晁・鵬斎・抱一」の下谷の三幅対(三人組)の面々であろう。そして、鵬斎と抱一との間の人物は、大田南畝、抱一の後ろ側の女性と話をしている人物は、文晁の嗣子・谷文一なのかも知れない。
 そして、この抱一像は、法衣をまとった「権大僧都等覚院文詮暉真(ぶんせんきしん)・抱一上人」の風姿で、鵬斎も文晁も、共に、羽織り・袴の正装であるが、この酒合戦の桟敷の主賓席では一際異彩を放ったことであろう(その上に、抱一は「下戸」で酒は飲めないのである)。
 この時の、抱一像について、別種の「文晁(又は文一)作」とされているものを、下記のアドレスで紹介している(しかし、当日の写生図は、この図巻の「文晁・文一合作」のものが基本で、それを模写しての数種の模本のものなのかも知れない)。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-01-30

 ここで、文化十二年(一八一五)の、この海外にまで名を馳せている(ニューヨーク公共図書館スペンサーコレクション蔵本)、この「千住酒合戦」(「高陽闘飲」イベント)は、
「酒飲みで、酒が足りなくなると羽織を脱いで妻に質に入れさせ、酒に変えたという」(増田昌三郎稿「江戸の画俳人建部巣兆とその歴史的背景」・ウィキペディア)の、「千住連」の俳諧宗匠・「秋香庵巣兆」(建部巣兆)の、その一周忌などに関連するイベントのような、そんな思いもして来る。
 さらに、続けて、この「高陽闘飲図巻」の、次の「太平餘化」の「題字」は、谷文晁の書のようである。

高陽闘飲図三.jpg

「高陽闘飲図巻」(大田南畝記・歌川季勝画)(早稲田大学図書館蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/wo06/wo06_01594/wo06_01594_p0002.jp

 この文晁書の「太平餘化」が何を意味するのかは不明であるが、建部巣兆の義兄の、そして「下谷三幅対(鵬斎・抱一・文晁)」の長兄たる亀田鵬斎の雅号の一つの「太平酔民」などが背景にあるもののように思われる。

高陽闘飲図四.jpg

「高陽闘飲図巻」(大田南畝記・歌川季勝画)(早稲田大学図書館蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/wo06/wo06_01594/wo06_01594_p0003.jp

 これは、文晁の題字「太平餘化」の後に続く、鵬斎の「高陽闘飲序」(序文)である。ここには、巣兆に関する記述は見当たらない。「千寿(住)駅中六亭主人(注・「中六」こと飛脚問屋「中屋」の隠居・六右衛門)」の「還暦を祝う酒の飲み比べの遊宴」ということが紹介されている。
 この「高陽闘飲」の「高陽」は『史記』に出典があって、「われは高陽の酒徒、儒者にあらず」に因るものらしく、「千住宿の酒徒」のような意味なのであろうが、この「序」を書いた鵬斎自身を述べている感じでなくもない。
 この鵬斎の「序」に、前述の抱一の会場入り口の看板「不許悪客下戸理窟入菴門(下戸・理屈ノ悪客菴門ニ入ルコトヲ許サズ)」の図があって、次に、南畝の「後水鳥記」が続く。
 この「後水鳥記」の「水鳥」は、「酒」(サンズイ=水+鳥=酉)の洒落で、この「後」は、延喜年間や慶安年間の「酒合戦記」があり、それらの「後水鳥記」という意味のようである。
 そして、この南畝の「後水鳥記」と併せ、「酒合戦写生図」(谷文晁・文一合作)が描かれている。
 この「酒合戦写生図」(谷文晁・文一合作)の後に、大窪詩仏の「題酒戦図」の詩(漢詩)、狩野素川筆の「大盃(十一器)」、そして、最後に、市河寛斎の「跋」(漢文)が、この図巻を締め括っている。
 この図巻に出てくる「抱一・鵬斎・文晁・文一・南畝・詩仏・素川・寛斎」と、さながら、江戸化政期のスーパータレントが、当時の幕藩体制の封建社会の身分制度(男女別・士農工商別)に挑戦するように、この一大イベントに参加し、その「高陽闘飲図巻」を合作しているのは何とも興味がつきないものがある(これらに関して、下記アドレスのものを再掲して置きたい)。
 なお、この「高陽闘飲図巻」については、全文翻刻はしていないが、『亀田鵬斎(杉村英治著・三樹書房)』が詳しい。

(追記)「後水鳥記」(大田南畝記)

http://www.j-texts.com/kinsei/shokuskah.html#chap03

 後水鳥記
  文化十二のとし乙亥霜月廿一日、江戸の北郊千住のほとり、中六といへるものの隠家にて酒合戦の事あり。門にひとつの聯をかけて、
不許悪客〔下戸理窟〕入庵門 南山道人書
としるせり。玄関ともいふべき処に、袴きたるもの五人、来れるものにおのおのの酒量をとひ、切手をわたして休所にいらしめ、案内して酒戦の席につかしむ。白木の台に大盃をのせて出す。其盃は、江島杯五合入。鎌倉杯七合入。宮島杯一升入。万寿無彊盃一升五合入。緑毛亀杯二升五合入。丹頂鶴盃三升入。をの/\その杯の蒔絵なるべし。
干肴は台にからすみ、花塩、さゝれ梅等なり。又一の台に蟹と鶉の焼鳥をもれり。羹の鯉のきりめ正しきに、はたその子をそへたり。これを見る賓客の席は紅氈をしき、青竹を以て界をむすべり。所謂屠龍公、写山、鵬斎の二先生、その外名家の諸君子なり。うたひめ四人酌とりて酒を行ふ。玄慶といへる翁はよはひ六十二なりとかや。酒三升五合あまりをのみほして座より退き、通新町のわたり秋葉の堂にいこひ、一睡して家にかへれり。大長ときこえしは四升あまりをつくして、近きわたりに酔ひふしたるが、次の朝辰の時ばかりに起きて、又ひとり一升五合をかたぶけて酲をとき、きのふの人々に一礼して家にかへりしとなん。掃部宿にすめる農夫市兵衛は一升五合もれるといふ万寿無彊の杯を三つばかりかさねてのみしが、肴には焼ける蕃椒みつのみなりき。つとめて、叔母なるもの案じわづらひてたづねゆきしに、人より贈れる牡丹餅といふものを、囲炉裏にくべてめしけるもおかし。これも同じほとりに米ひさぐ松勘といへるは、江の島の盃よりのみはじめて、鎌倉宮島の盃をつくし萬寿無彊の杯にいたりしが、いさゝかも酔ひしれたるけしきなし。此の日大長と酒量をたゝかはしめて、けふの角力のほてこうてをあらそひしかば、明年葉月の再会まであづかりなだめ置きけるとかや。その証人は一賀、新甫、鯉隠居の三人なり。小山といふ駅路にすめる佐兵衛ときこえしは、二升五合入といふ緑毛亀の盃にて三たびかたぶけしとぞ。北のさと中の町にすめる大熊老人は盃のの数つもりて後、つゐに萬寿の杯を傾け、その夜は小塚原といふ所にて傀儡をめしてあそびしときく。浅草みくら町の正太といひしは此の会におもむかんとて、森田屋何がしのもとにて一升五合をくみ、雷神の門前まで来りしを、其の妻おひ来て袖ひきてとゞむ。其辺にすめる侠客の長とよばるゝ者来りなだめて夫婦のものをかへせしが、あくる日正太千住に来りて、きのふの残り多きよしをかたり、三升の酒を升のみにせしとなん。石市ときこえしは万寿の杯をのみほして酔心地に、大尽舞のうたをうたひまひしもいさましかりき。大門長次と名だゝるをのこは、酒一升酢一升醤油一升水一升とを、さみせんのひゞきにあはせ、をの/\かたぶけ尽せしも興あり。かの肝を鱠にせしといひしごとく、これは腸を三杯漬とかやいふものにせしにやといぶかし。ばくろう町の茂三は緑毛亀をかたぶけ、千住にすめる鮒与といへるも同じ盃をかたぶけ、終日客をもてなして小杯の数かぎりなし。天五といへるものは五人とともに酒のみて、のみがたきはみなたふれふしたるに、おのれひとり恙なし。うたひめおいくお文は終日酌とりて江の島鎌倉の盃にて酒のみけり。その外女かたには天満屋の美代女、万寿の盃をくみ酔人を扶け行きて、みづから酔へる色なし。菊屋のおすみは緑毛亀にてのみ。おつたといひしは、鎌倉の盃にてのみ、近きわたりに酔ひふしけるとなん。此外酒をのむといへども其量一升にもみたざるははぶきていはず。写山、鵬斎の二先生はともに江の島鎌倉の盃を傾け、小杯のめぐる数をしらず。帰るさに会主より竹輿をもて送らんといひおきてしが、今日の賀筵に此わたりの駅夫ども、樽の鏡をうちぬき瓢もてくみしかば、駅夫のわづらひならん事をおそれしが、果してみな酔ひふしてこしかくものなし。この日調味のことをつかさどれる太助といへるは、朝より酒のみてつゐに丹頂の鶴の盃を傾けしとなん。一筵の酒たけなはにして、盃盤すでに狼籍たり。門の外面に案内して来るものあり。たぞととへば会津の旅人河田何がし、此の会の事をきゝて、旅のやどりのあるじをともなひ推参せしといふ。すなはち席にのぞみて江の島鎌倉よりはじめて、宮島万寿をつくし、緑毛の亀にて五盃をのみほし、なほ丹頂の鶴の盃のいたらざるをなげく。ありあふ一座の人々汗を流してこれをとゞむ。かの人のいふ。さりがたき所用ありてあすは故郷に帰らんとすれば力及ばす。あはれあすの用なくば今一杯つくさんものをと一礼して帰りぬ。人々をして之をきかしむるに、次の日辰の刻に出立せしとなん。この日文台にのぞみて酒量を記せしものは、二世平秩東作なりしとか。
むかし慶安このとし、大師河原池上太郎左衛門底深がもとに、大塚にすめる地黄坊樽次といへるもの、むねとの上戸を引ぐしおしよせて酒の戦をしき。犬居目礼古仏座といふ事水鳥記に見えたり。ことし鯉隠居のぬし来てふたゝびこのたゝかひを催すとつぐるまゝに、犬居目礼古仏座、礼失求諸千寿野といふ事を書贈りしかば、其の日の掛物とはせしときこへし。かゝる長鯨の百川を吸ふごときはかりなき酒のともがら、終日しづかにして乱に及ばず、礼儀を失はざりしは上代にもありがたく、末代にまれなるべし。これ会主中六が六十の寿賀をいはひて、かゝる希代のたはむれをなせしとなん。かの延喜の御時亭子院に酒たまはりし記を見るに、その筵に応ずるものわづかに八人、満座酩酊して起居静ならず。あるは門外に偃臥し、あるは殿上にえもいはぬものつきちらし、わづかにみだれざるものは藤原伊衡一人にして、騎馬をたまはりて賞せられしとなん。かれは朝廷の美事にして、これは草野の奇談なり。今やすみだ川のながれつきせず、筑波山のしげきみかげをあふぐ武蔵野のひろき御めぐみは、延喜のひじりの御代にたちまさりぬべき事、此一巻をみてしるべきかも。
               六十七翁蜀山人
               緇林楼上にしるす

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-05-10

(追記二)「抱一・鵬斎・文晁と七世・市川団十郎」関連メモ

【酒井抱一の『軽挙館句藻』の文化十三年のところに、  
正月九日節分に市川団十郎来たりければ、扇取り出し発句を乞ふに、「今こゝに団十郎や鬼は外」といふ其角の句の懸物所持したる事を前書して、
  私ではござりませんそ鬼は外   七代目三升
折ふし亀田鵬斎先生来りその扇に
  追儺の翌に団十郎来りければ
  七代目なを鬼は外団十郎     鵬斎
谷文晁又その席に有て、其扇子に福牡丹を描く、又予に一句を乞ふ
  御江戸に名高き団十郎有り
  儒者に又団十郎有り
  畫に又団十郎有り
  その尻尾にすがりて
 咲たりな三幅対や江戸の花     抱一    】
(『亀田鵬斎と江戸化政期の文人達・渥美国泰著』)


https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-06-23

【「一六四 酒井抱一筆 亀田綾瀬賛 桜に小禽図」「一六五 酒井抱一筆 亀田綾瀬賛 菊に小禽図」「一六五 酒井抱一筆 亀田綾瀬賛 枯芦に白鷺図」 
 十二ヶ月花鳥図の中でも最晩年の作。三図はもと同じ十二ヶ月花鳥図屏風を成していた。他に同屏風より「牡丹に蝶図」(フリア美術館蔵)「柿に目白図」(ファインバーグコレクション)が知られる。掛軸に改装する際、画面の一部を裁ち落としている図もあり、本来はもう少し大きい画面であったようだ。
 これらには抱一の親友の亀田鵬斎の子、綾瀬(りょうらん)(一七七八~一八五三)が七言絶句の賛を寄せる。綾は抱一より十七歳年下だが、文政九(一八二六)年に鵬斎は亡くなるので、その前後に抱一が綾瀬と親密に関わった可能性は高いと思われる。
 このセットは細い枝や茎を対角線状に配し、画面の上から下にゆったりとモチーフが下降する構図を特徴とする。最後の数年の抱一作品には花鳥画が少ないが、ここでは余白の中で鳥が要のような役割を果たし、抱一花鳥画の到達点を示している。
 「一六四 酒井抱一筆 亀田綾瀬賛 桜に小禽図(賛)略」
 「一六五 酒井抱一筆 亀田綾瀬賛 菊に小禽図(賛)略」
 「一六五 酒井抱一筆 亀田綾瀬賛 枯芦に白鷺図(賛)」
      西風吹冷至漁家片雪
      飛来泊水涯独立斜陽
      如有待擬邀名月伴戸
      花    綾瀬老漁               】 
(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(求龍社)』所収「作品解説(岡野智子稿)」)

芦に白鷺三.jpg

酒井抱一筆 亀田綾瀬賛 「枯芦に白鷺図」 一幅 山種美術館蔵
一四二・〇×五〇・二cm
【 もと図一六四(桜に小禽図)、図一六五(菊に小禽図)と同じく十二ヶ月花鳥図のセットの内の一図で、十一月の図とみられる。枯芦に鷺図は室町以来の水墨画でよく描かれ、江戸狩野や京琳派にも作例は多い。『光琳百図』前編の下には、「紙本六枚折屏風墨画鷺之図」としてさまざまな姿の白鷺図が紹介されており、抱一はそうした先行図様を組み合わせたのだろう。さらに雪の降りかかる枯芦を大きく斜めに配して季節感の表出に工夫を加えた。 】
(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(求龍社)』所収「図版解説(岡野智子稿)」)
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「抱一再見」(続「忘れがたき風貌・画像」) [抱一再見]

(その七)「太田南畝・四方赤良・蜀山人」(その周辺)

四方赤良.jpg

『古今狂歌袋(後編)』所収「四方赤良」(北尾政演(山東京伝)画/宿屋飯盛(石川雅望)撰/天明七年(1787年)/跡見学園女子大学図書館所蔵/百人一首コレクション)
http://ezoushi.g2.xrea.com/kokonkyoukafukuro2.html
「絵双紙屋」
http://ezoushi.g2.xrea.com/index.html
≪かくばかり目出度く見ゆる世の中を/うらやましくやのぞく月影
 (歌意)このように目出度く見える世の中を、月までが羨ましがってのぞいているじゃないか。(目出度いって。そんなことあるわけないじゃないか。)(一見現実肯定論だが逆説的比喩で世を皮肉る。)
〇本歌
かくばかり経(へ)がたく見ゆる世の中に/うらやましくもすめる月かな/藤原高光・拾遺集
*上の歌のパロディ。≫

尻焼猿人.jpg

『古今狂歌袋(前編)』所収「尻焼猿人」(北尾政演(山東京伝)画/宿屋飯盛(石川雅望)撰/天明七年(1787年)/跡見学園女子大学図書館所蔵/百人一首コレクション)
http://ezoushi.g2.xrea.com/kokonkyoukafukuro.html
≪長月の夜も長文の封じ目を/開くればかよふ神無月なり
(歌意)長月(九月)の夜に長文の封じ目を開けたら読んでいるうちに、とうとう月が変わって神無月(十月)になってしまった。
*尻焼猿人は姫路城主の連枝なので長柄の透かしの唐団扇〔とううちわ〕ごしの肖像画。
*長月(ながつき) 陰暦九月の異称。
*神無月 (かんなづき)陰暦十月の異称。
*長月・長文・(神)無月・なり/「な」音のくり返し。
*封 開 対句。
*尻焼猿人 酒井抱一(ほういつ)/江戸後期の画家。抱一派の祖。名は忠因(ただなお)。鶯村・雨華庵と号した。姫路城主酒井忠以(たださね)の弟。西本願寺で出家し権大僧都となったが、江戸に隠棲。絵画・俳諧に秀で、特に尾形光琳に私淑してその画風に一層の洒脱さを加え一家の風をなした。(1761~1828) ≫

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-04-03

(再掲)

四方赤良.jpg

宿屋飯盛撰・北尾政演(山東京伝)画『吾妻曲狂歌文庫』所収「四方赤良(大田南畝)」
http://www.dh-jac.net/db1/books/results-thum.php?f1=Atomi-000900&f12=1&-sortField1=f8&-max=40&enter=portal

 大田南畝は、寛延二年(一七四九)、牛込御徒組屋敷(新宿区中町三七番地)で生まれた。御徒組とは歩兵隊であり、江戸城内の要所や将軍の外出の警護を任とする下級武士の集団で、組屋敷にはその与力や同心が住んでいた。
 十五歳の頃、牛込加賀町の国学者内山賀邸に学んだ。この賀邸の門から、後に江戸狂歌三大家と呼ばれる、「大田南畝(おおたなんぼ)・唐衣橘洲(からごろもきっしゅう)・朱楽菅江(あっけらかんこう)」が輩出した。
 明和四年(一七六七)南畝一代の傑作、狂詩集『寝惚先生文集』が刊行された。その「序」は、「本草学者・地質学者・蘭学者・医者・殖産事業家・戯作者・浄瑠璃作者・俳人・蘭画家・発明家」として名高い「平賀源内」(画号・鳩渓=きゅうけい、俳号・李山=りざん、戯作者・風来山人=ふうらいさんじん、浄瑠璃作者・福内鬼外=ふくうちきがい、殖産事業家・天竺浪人=てんじくろうにん)が書いている。
 この狂詩集は当時の知識階級だった武士たちの共感を得て大ヒットする。時に、南畝は、弱冠十九歳にして、一躍、時代のスターダムにのし上がって来る。
 上記の『吾妻曲(あづまぶり)狂歌文庫』(宿屋飯盛撰・北尾政演(山東京伝)画)は、天明六年(一七八六)に刊行された。南畝が三十七歳の頃で油の乗り切った意気盛んな時代である。その頃の南畝の風姿を、北尾政演(山東京伝)は見事に描いている。
 この「四方赤良」(南畝の狂歌号)の賛は次のとおりである。

  あな うなぎ いづくの 山のいもと背を さかれて後に 身をこがすとは

 この赤良(南畝)の狂歌は、なかなかの凝った一首である。「あな=穴+ああの感嘆詞」「うなぎ=山芋変じて鰻となる故事を踏まえる」「いも=芋+妹(恋人)」「せ=瀬+背」「わかれ=分かれ(割かれ)+別れ」「こがす=焦がす(焼かれる)+(恋焦がれる)」などの掛詞のオンパレードなのである。
 「鰻」の歌とすると、「穴の鰻よ、いずこの山の芋なのか、その瀬で捕まり、背を割かれ、身をば焼かれて、ああ蒲焼となる」というようなことであろうか。そして、「恋の歌」とすると、「ああ、白きうなじの吾が妹よ、いずこの山家の出か知らず、恋しき君との、その仲を、引き裂かれたる、ああ、この焦がれる思いをいかんせん」とでもなるのであろうか。
 事実、この当時、大田南畝(四方赤良)は、吉原の遊女(三穂崎)と、それこそ一生一大の大恋愛に陥っているのである。その「南畝の大恋愛」を、『江戸諷詠散歩 文人たちの小さな旅(秋山忠彌著)』から、以下に抜粋をして置きたい。

【 狂歌といえば、その第一人者はやはり蜀山人こと大田南畝である。その狂歌の縁で、南畝は吉原の遊女を妾とした。松葉屋抱えの三穂崎である。天明期(一七八一~八九)に入って、狂歌が盛んとなり、吉原でも妓楼の主人らが吉原連なる一派をつくり、遊郭内でしばしば狂歌の会を催した。その会に南畝がよく招かれていたのである。吉原連の中心人物は、大江丸が想いをよせた遊女ひともとの主人、大文字屋の加保茶元成だった。南畝が三穂崎とはじめて会ったのは、天明五年(一七八五)の十一月十八日、松葉屋へ赴いた折であった。どうも南畝は一目惚れしたらしい。その日にさっそく狂歌を詠んでいる。
   香爐峰の雪のはたへをから紙のすだれかゝげてたれかまつばや
 三穂崎の雪のように白い肌に、まず魅かれたのだろうか。年が明けて正月二日には、
   一富士にまさる巫山の初夢はあまつ乙女を三保の松葉や
と詠み、三穂崎を三保の松原の天女に見立てるほどの惚れようである。三穂崎と三保の松原と松葉屋、この掛詞がよほど気に入ったとみえ、
   きてかへるにしきはみほの松ばやの孔雀しぼりのあまの羽ごろ裳
とも詠んでいる。そしてその七月、南畝はついに三穂崎を身請けした。ときに南畝は三十八歳(三十七歳?)、三穂崎は二十余歳だという。妾としてからは、おしづと詠んだ。当時の手狭な自宅に同居させるわけにもいかず、しばらくの間、加保茶元成の別荘に住まわせていた。いまもよく上演される清元の名曲「北州」は、この元成ら吉原連の求めに応じて、南畝が作詞したと伝えられている。 】

尻焼猿人一.jpg

宿屋飯盛撰・北尾政演(山東京伝)画『吾妻曲狂歌文庫』所収「尻焼猿人(酒井抱一)」
http://www.dh-jac.net/db1/books/results-thum.php?f1=Atomi-000900&f12=1&-sortField1=f8&-max=40&enter=portal

【 大田南畝率いる四方(よも)側狂歌連の、あたかも紳士録のような肖像集。色摺の刊本で、狂歌師五十名の肖像を北尾政演(山東京伝)が担当したが、その巻頭に、貴人として脇息に倚る御簾(みす)越しの抱一像を載せる。芸文世界における抱一の深い馴染みぶりと、グループ内での配慮のなされ方とがわかる良い例である。「御簾ほどになかば霞のかゝる時さくらや花の王とみゆらん」。】(『別冊太陽 江戸琳派の粋人 酒井抱一』所収「作品解説・内藤正人稿」)

【 抱一の二十代は、一般に放蕩時代とも言われる。それはおそらく、松平雪川(大名茶人松平不昧の弟)・松前頼完といった大名子弟の悪友たちとともに、吉原遊郭や料亭、あるいは 互いの屋敷に入り浸り、戯作者や浮世絵たちと派手に遊びくらした、というイメージが大きく影響しているようなだ。だが、この時代、部屋住みの身であった彼は、ただただ酒色に溺れて奔放に暮らしていたわけではない。一七七七(安永六)年、兄の子でのちに藩主を継ぐ甥の忠道(ただひろ)が誕生したことで、数え年十七歳の抱一が酒井家から離脱を余儀なくされ、急激に軟派の芸文世界に接近していったことは確かである。だが、その後の彼の美術や文学の傾注の仕方は尋常ではない。その証拠に、たとえば後世に天明狂歌といわれる狂歌連の全盛時代に刊行された狂歌本には、若き日の抱一の肖像が収められ、並行して多くのフィクション、戯作小説のなかに彼の号や変名が少なからず登場する。さらにまた、喜多川歌麿が下絵を描いた、美しき多色刷りの狂歌集である『画本虫撰(えほんむしえらみ)』(天明八年刊)にもその狂歌が入集するなど、「屠龍(とりゅう)」「尻焼猿人(しりやけのさるんど)」の両号で知られる抱一の俗文芸における存在感は大きかった。このうちの狂歌については、俳諧のそれほど高い文学的境地に達し切れなかったとはいえ、同時代資料における抱一の扱われ方は、二十代の彼の文化サロンにおける立ち位置を教えてくれる。 】(『別冊太陽 江戸琳派の粋人 酒井抱一』所収「大名家に生まれて・内藤正人稿」)

 御簾ほどに なかば 霞のかゝる時 さくらや 花の王と見ゆらん (尻焼猿人)

 これは、尻焼猿人(抱一)が、この己の肖像画(山東京伝「画」)を見て、即興的に作った一首なのであろうか。とすると、この狂歌の歌意は、次のとおりとなる。

「京都の公家さんの御簾ならず、江戸前のすだれが掛かると、ここ吉原の霞の掛かった桜が、『花の王』のような風情を醸し出すが、そのすだれ越しの人物も、どこやらの正体不明の『花の王』のように見えるわい」というようなことであろうか。
 
 これが、「宿屋飯盛撰」の、「宿屋飯盛」(石川雅望 )作とするならば、歌意は明瞭となってくる。

「この『尻焼猿人』さんは、尊いお方で、御簾越しに拝顔すると、半ば霞が掛かった、その桜花が『百花の王』のように見えるように、なんと『江戸狂歌界の王』のように見えるわい」というようなことであろう。
 
 ほれもせず ほれられもせず よし原に 酔うて くるわの 花の下かげ(尻焼猿人)

 この狂歌は、『絵本詞の花』(宿屋飯盛撰・喜多川歌麿画、天明七年=一七八七)での尻焼猿人(抱一)の一首である。この時、抱一、二十七歳、その年譜(『酒井抱一と江戸琳派全貌(求龍堂)』所収)に、「十月十三日、忠以、徳川家斉の将軍宣下のため、幕府日光社参の名代を命じられ出立。抱一も随行。十六日に日光着。二十日まで。このとき、号「屠龍」。(玄武日記別冊)」とある。
 この頃は、兄の藩主忠以の最側近として、常に、酒井家を支える枢要な地位にあったことであろう。そして、上記の、「『屠龍(とりゅう)』『尻焼猿人(しりやけのさるんど)』の両号で知られる抱一の俗文芸における存在感は大きく」、且つ、「二十代の彼の文化サロンにおける立ち位置」は、極めて高く、謂わば、それらの俗文芸(狂歌・俳諧・浮世絵など)の箔をつけるために、その名を実態以上に喧伝されたという面も多かろう。
 そして、それらのことが、この「俗文芸」と密接不可分の関係にあった「吉原文化」と結びつき、上記の、「抱一の二十代は、一般に放蕩時代とも言われる。それはおそらく、松平雪川(大名茶人松平不昧の弟)・松前頼完といった大名子弟の悪友たちとともに、吉原遊郭や料亭、あるいは 互いの屋敷に入り浸り、戯作者や浮世絵たちと派手に遊びくらした、というイメージが大きく影響している」というようなことが増幅されることになるのであろう。
 しかし、その実態は、この、「ほれもせず ほれられもせず よし原に 酔うて くるわの 花の下かげ」のとおり、「この時代、部屋住みの身であった彼は、ただただ酒色に溺れて奔放に暮らしていたわけではない」ということと、後に、抱一は、吉原出身の「小鶯女史」を伴侶とするが、この当時は、吉原の花柳界の憧れのスターの一人であったが、抱一側としては、常に、酒井家における立つ位置ということを念頭に、分を弁えた身の処し方をしていたように思われる。
 これらのことについては、この『絵本詞の花』の画像と共に、下記のアドレスで触れている。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2019-03-06

(再掲)

吉原の抱一.jpg

国立国会図書館デジタルコレクション『絵本詞の花』(版元・蔦屋重三郎編)
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2533129

 上記は、吉原引手茶屋の二階の花見席を描いた喜多川歌麿の挿絵である。この花見席の、左端の後ろ向きになって顔を見せていないのが、「尻焼猿人=酒井抱一」のようである(『酒井抱一と江戸琳派の全貌(求龍堂刊)』)。

 酒井抱一は、ともすると、上記の『本朝画人伝巻一(村松削風著)』のように、「吉原遊興の申し子」のように伝聞されているが、その実態は、この狂歌の、「ほれもせずほれられもせずよし原に 酔うてくるわの花の下蔭」の、この「花の下蔭」(姫路城主酒井雅樂頭家の「次男坊」)という、「日陰者」(「日陰者」として酒井家を支える)としての、そして、上記の、「よし原へ泊り給ふ事ハ一夜もなく」、そして、「與助壱人駕籠へ乗せ、御自身ハ歩行ミて帰り給ふ」ような、常に、激情に溺れず、細やかな周囲の目配りを欠かさない、これぞ、「江戸の粋人(人情の機微に通じたマルチタレント)」というのが、その実像のように思われて来る。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-01-25

料理通.jpg

『江戸流行料理通大全』p29 「食卓を囲む文人たち」

 上記は、文政五年(一八二二)に刊行された『江戸流行料理通大全』(栗山善四郎編著)の中からの抜粋である。ここに出てくる人物は、右から、「大田南畝(蜀山人)・亀田鵬斎・酒井抱一(?)か鍬形蕙斎(?)・大窪詩仏」で、中央手前の坊主頭は、酒井抱一ともいわれていたが、その羽織の紋所(立三橘)から、この挿絵の作者の「鍬形蕙斎(くわがたけいさい)」のようである(『別冊太陽 酒井抱一 江戸琳派の粋人』所収「江戸の文人交友録(武田庸二郎稿))。
 この「グルメ紹介本」は、当時、山谷にあった高級料亭「八百善」の主人・栗山善四郎が刊行したものである。酒井抱一は、表紙見返し頁(P2)に「蛤図」と「茸・山葵図」(P45)などを描いている。「序」(p2・3・4・5)は、亀田鵬斎の漢文のもので、さらに、谷文晁が、「白菜図」(P5)などを描いている(補記一のとおり)。
 ここに登場する「下谷の三幅対」と称された、年齢順にして、「亀田鵬斎・酒井抱一・谷文晁」とは、これは、まさしく、「江戸の三幅対」の言葉を呈したい位の、まさしく、切っても切れない、「江戸時代(三百年)」の、その「江戸(東京)」を代表する、「三幅対」の、それを象徴する「交友関係」であったという思いを深くする。
 その「江戸の三幅対」の、「江戸(江戸時代・江戸=東京)」の、その「江戸」に焦点を当てると、その中心に位置するのが、上記に掲げた「食卓を囲む文人たち」の、その長老格の「亀田鵬斎」ということに思い知るのである。
 しかも、この「鵬斎」は、抱一にとっては、無二の「画・俳」友である、「建部巣兆」の義理の兄にも当たるのである。

 上記の、『江戸流行料理通大全』の、上記の挿絵の、その中心に位置する「亀田鵬斎」とは、「鵬斎・抱一・文晃」の、いわゆる、「江戸」(東京)の「下谷」(「吉原」界隈の下谷)の、その「下谷の三幅対」と云われ、その三幅対の真ん中に位置する、その中心的な最長老の人物が、亀田鵬斎なのである。
 そして、この三人(「下谷の三幅対」)は、それぞれ、「江戸の大儒者(学者)・亀田鵬斎」、「江戸南画の大成者・谷文晁」、そして、「江戸琳派の創始者・酒井抱一」と、その頭に「江戸」の二字が冠するのに、最も相応しい人物のように思われるのである。
 これらの、江戸の文人墨客を代表する「鵬斎・抱一・文晁」が活躍した時代というのは、それ以前の、ごく限られた階層(公家・武家など)の独占物であった「芸術」(詩・書・画など)を、四民(士農工商)が共用するようになった時代ということを意味しよう。
 それはまた、「詩・書・画など」を「生業(なりわい)」とする職業的文人・墨客が出現したということを意味しよう。さらに、それらは、流れ者が吹き溜まりのように集中して来る、当時の「江戸」(東京)にあっては、能力があれば、誰でもが温かく受け入れられ、その才能を伸ばし、そして、惜しみない援助の手が差し伸べられた、そのような環境下が助成されていたと言っても過言ではなかろう。
 さらに換言するならば、「士農工商」の身分に拘泥することもなく、いわゆる「農工商」の庶民層が、その時代の、それを象徴する「芸術・文化」の担い手として、その第一線に登場して来たということを意味しよう。
 すなわち、「江戸(東京)時代」以前の、綿々と続いていた、京都を中心とする、「公家の芸術・文化」、それに拮抗しての全国各地で芽生えた「武家の芸術・文化」が、得体の知れない「江戸(東京)」の、得体の知れない「庶民(市民)の芸術・文化」に様変わりして行ったということを意味しょう。

 抱一の「略年譜」(『別冊太陽 酒井抱一 江戸琳派の粋人』所収)の「享和二年(一八〇二)四十二歳」に、「亀田鵬斎、谷文晁とともに、常陸の若芝金龍寺に出かけ、蘇東坡像を見る」とある。
 この年譜の背後には大きな時代の変革の嵐が押し寄せていた。それは、遡って、天明七年(一七八七)、徳川家斉が第十一代将軍となり、松平定信が老中に就任し、いわゆる、「寛政の大改革」が始まり、幕府大名旗本に三年の倹約令が発せられると、大きな変革の流れであったのである。
 寛政三年(一七九一)、抱一と同年齢の朋友、戯作者・山東京伝(浮世絵師・北尾政演)は、洒落本三作が禁令を犯したという理由で筆禍を受け、手鎖五十日の処分を受ける。この時に、山東京伝らの黄表紙・洒落本、喜多川歌麿や東洲斎写楽の浮世絵などの出版で知られる。「蔦重」こと蔦屋重三郎も過料に処せられ、財産半分が没収され、寛政九年(一七九七)には、その四十八年の生涯を閉じている。
 この蔦屋重三郎が没した寛政九年(一七九七)、抱一、三十七最の時が、抱一に取って、大きな節目の年であった。その十月十八日、西本願寺第十八世文如の弟子となり、出家し、「等覚院文詮暉真」の法名を名乗り、以後、「抱一上人」と仰がれることになる。
 しかし、この抱一の出家の背後には、抱一の甥の姫路藩主、酒井忠道が弟の忠光を養嗣子に迎えるという幕府の許可とセットになっており、抱一は、酒井家を実質的に切り捨てられるという、その「酒井家」離脱を意味するものなのであろう。
 この時に、抱一は、柿本人麻呂の和歌「世の中をうしといひてもいづこにか身をばかくさん山なしの花」を踏まえての、「遯入(のがれい)る山ありの実の天窓(あたま)かな」(句稿『椎の木陰』)との、その出家を受け入れる諦めにも似た一句を詠んでいる。そして、この句は、抱一の自撰句集『屠龍之技』では、「遯(のが)るべき山ありの実の天窓(あたま)かな」と、自らの意思で出家をしたように、断定的な句形で所収され、それが最終稿となっている。これらのことを踏まえると、抱一の出家というのは、抱一に取っては、不本意な、鬱積した諸事情があったことを、この一句に託していねかのように思われる。
 これらのことと、いわゆる、時の老中・松平定信の「寛政の改革」とを直接的に結びつけることは極めて危険なことであるが、亀田鵬斎の場合は、幕府正学となった朱子学以外の学問を排斥するところの、いわゆる「寛政異学の禁」の発布により、「異学の五鬼」(亀田鵬斎・山本北山・冢田大峯・豊島豊洲・市川鶴鳴)の一人として目され、その門下生が殆ど離散するという、その現実的な一面を見逃すことも出来ないであろう。
 この亀田鵬斎、そして、その義弟の建部巣兆と酒井抱一との交友関係は、この三人の生涯にわたって密なるものがあった。抱一の「画」に、漢詩・漢文の「書」の賛は、鵬斎のものが圧倒的に多い。そして、抱一の「画」に、和歌・和文の「書」は、抱一が見出した、橘千蔭と、この二人の「賛」は、抱一の「画」の一つの特色ともなっている。
 そして、この橘千蔭も、鵬斎と同じように、寛政の改革により、その賀茂真淵の国学との関係からか、不運な立場に追い込まれていて、抱一は、鵬斎と千蔭とを、自己の「画」の「賛」者としていることは、やはり、その根っ子には、「寛政の改革」への、反権力、反権威への、抱一ならでは、一つのメッセージが込められているようにも思われる。
 しかし、抱一は、出家して酒井家を離脱しても、徳川家三河恩顧の重臣の譜代大名の酒井雅樂頭家に連なる一員であることは、いささかの変わりもない。その酒井雅樂頭家が、時の権力・権威の象徴である、老中首座に就いた松平定信の、いわゆる厳しい風俗統制の「寛政の改革」に、面と向かって異を唱えることは、決して許されることではなかったであろう。

 さて、「下谷の三幅対(抱一・鵬斎・文晁)」の、鵬斎・抱一に並ぶ、もう一人の谷文晁は、鵬斎・抱一が反「松平定信(楽翁)」とすると、親「松平定信(楽翁)ということになる。
文晁は、寛政四年(一七九に)に、寛政の改革の中心人物・松平定信に認められて、その近習となり、定信の伊豆・相模の海岸防備の視察に随行して、西洋画の陰影法、遠近法を用いた『公余探勝(こうよたんしょう)図巻』を描き、また『集古十種』の編纂にも従って挿図を描いている。
 その画塾写山楼には多くの弟子が参集し、渡辺崋山・立原杏所など後の大家を輩出した。写山楼の名の由来は、下谷二長町に位置し楼上からの富士山の眺望が良かったことによる。門弟に対して常に写生と古画の模写の大切さを説き、沈南蘋の模写を中心に講義が行われ、、狩野派のような粉本主義・形式主義に陥ることなく、弟子の個性や主体性を尊重する教育姿勢だったと言う。弟子思いの師としても夙に知られているが、権威主義的であるとの批判も伝えられている。それは、鵬斎・抱一が反「松平定信(楽翁)」なのに比して、親「松平定信(楽翁)」であったことなどに由来しているのかも知れない。
 しかし、この「鵬斎・抱一・文晁」の三人の交友関係は、その「下谷の三幅対」の命名のとおり、「長兄・鵬斎、次兄・抱一、末弟・文晁」の、真ん中に「鵬斎」、右に「抱一」、左に「文晁」の、その「三幅対」という関係で、そして、その関係は、それぞれの生涯にわたって、いささかの微動すらしていないという思いを深くする。

(追記)「芭蕉涅槃図(鈴木芙蓉画・太田南畝賛)」周辺

芭蕉涅槃図.jpg

「芭蕉涅槃図(鈴木芙蓉画・太田南畝賛)」(部分図)「早稲田大学會津八一記念博物館」蔵
≪大田南畝賛「椎樹芭蕉木笠 琵琶湖水跋提河 一自正風開活眼 俳諧不復擬連歌 庚午仲冬 蜀山人題」≫
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%88%B4%E6%9C%A8%E8%8A%99%E8%93%89

 この「太田南畝(四方赤良・蜀山人)賛」の、「椎樹芭蕉木笠 琵琶湖水跋提河」は、芭蕉の「幻住庵記」の末尾に記されている、「先(ま)づたのむ椎の木も有(あり)夏木立」に由来している。

https://intweb.co.jp/miura/myhaiku/basyou_genjyu/genjyuan01.htm

≪「幻住庵記」全文
石山の奥、岩間のうしろに山有り。国分山といふ。そのかみ国分寺の名を伝ふなるべし。… 日ごろは人の詣(もうで)ざりければ、いとど神さび、もの静かなるかたはらに、住み捨てし草の戸有り。蓬(よもぎ)・根笹軒(ねざさのき)をかこみ、屋根もり壁おちて、狐狸(こり)ふしどを得たり。幻住庵(げんじゅうあん)といふ。…
 予また市中を去ること十年ばかりにして、五十年(いそじ)やや近き身は、蓑虫(みのむし)の蓑を失ひ、蝸牛(かたつむり)家を離れて、奥羽象潟の暑き日に面(おもて)をこがし、高砂子(たかすなご)歩み苦しき北海の荒磯(あらいそ)にきびすを破りて、今歳(ことし)湖水の波にただよふ。鳰(にお)の浮巣の流れとどまるべき蘆(あし)の一本のかげたのもしく、軒端ふきあらため、垣根ゆひそへなどして、卯月(うげつ)の初めいとかりそめに入りし山の、やがて出でじとさへ思ひそみぬ。…  かく言へばとて、ひたぶるに閑寂(かんじゃく)を好み、山野に跡を隠さんとにはあらず。やや病身、人に倦(う)んで、世をいとひし人に似たり。つらつら年月の移り来し拙(つたな)き身の科(とが)を思ふに、ある時は仕官懸命の地をうらやみ、一(ひと)たびは佛離祖室の扉(とばそ)に入らむとせしも、たどりなき風雲に身をせめ、花鳥に情を労じて、しばらく生涯のはかりごととさへなれば、つひに無能無才にしてこの一筋につながる。楽天は五臓の神を破り、老杜は痩(やせ)せたり。賢愚文質(けんごうぶんひつ)の等しからざるも、いづれか幻の栖(すみか)ならずやと、思ひ捨ててふしぬ。
 先づたのむ椎の木も有夏木立  ≫(『猿蓑』所収「抜粋」)

 そして、太田南畝の「壬戌紀行」(「享和2年(1802年)3月21日、 大田南畝 が大坂銅座詰の任を終え大坂を立ち、木曾路を経由して4月7日に江戸に着くまでの紀行」)は、
「3月22日(東福寺・西本願寺・金閣寺)→3月23日(膳所城・石山寺・草津宿)→3月24日(高宮宿・醒ヶ井宿・柏原宿)→3月25日(不破の関屋の跡・垂井宿・赤坂宿)→3月26日(岐阜城・犬山城・鵜沼宿)→3月27日(細久手宿・大湫宿・大井宿)→3月28日(立場茶屋・上松宿・福島関所)→4月1日(下諏訪宿)→4月2日(和田宿・望月宿)→4月3日(八幡宿・塩名田宿・追分宿・坂本宿)→4月4日(碓氷関所跡・板鼻宿・高崎宿)→4月5日(本庄宿・深谷宿・熊谷宿)→4月6日(鴻巣宿・浦和宿・蕨宿)→4月7日(戸田の渡し・板橋宿)という行程である。

 抱一の「花洛の細道」は、寛政九年(一七九七)、そして、太田南畝の「壬戌紀行」は、享和二年(一八〇二)のことで、抱一の方が先行するが、抱一と南畝の交遊は、天明八年(一七八八、「一月、太田南畝との交流初見」=『酒井抱一・井田太郎著・岩波新書』)、さらには、天明四年(一七八四、『たなぐひあわせ』に杜綾公で入集)の頃まで遡ることが出来るのかも知れない。
 とにもかくにも、抱一(狂歌名=尻焼猿人)と太田南畝(狂歌名=四方赤良)との関係というのは、謂わば、「狂歌・俳諧・戯作・漢詩・浮世絵・吉原」等々の、抱一の兄事すべき師匠格の一人であったということは、抱一の自撰句集『屠龍之技』の「跋」を太田南畝が起草していることからも、窺い知れるところのものであろう。 
 そして、その太田南畝が、上記の「壬戌紀行」で、「西本願寺」そして「石山寺」、さらに、
「芭蕉涅槃図(鈴木芙蓉画・太田南畝賛)」で、「椎樹芭蕉木笠 琵琶湖水跋提河 一自正風開活眼 俳諧不復擬連歌」との賛書きをしているということは、この幻住庵で、抱一一行の一人の「其爪」が剃髪して、次の前書のある一句を、抱一が、その『軽挙館句藻』に遺していることは、やはり、特記をして置く必要があろう。

   みなみな翁の旧跡おたづぬるに、キ爪が幻住庵の清水に
かしら剃(そり)こぼちけるをうらやみて
(石山寺・幻住庵:其爪の剃髪) 椎の霜個ゝの庵主の三代目(『軽挙館句藻』所収「椎の木蔭」)

 さらに、これらの句が入集されている句集名が「椎の木陰・椎の木かげ」で、その句集名の由来は、本所番場の屋敷(酒井家の下屋敷関連?)近くの「平戸藩主松浦家の上屋敷(隅田川を往来する猪牙舟がランドマークした)椎の木」に因るとされているが(『酒井抱一・玉蟲敏子著・日本史リーフレット』)、芭蕉が生前自らの意思で公表した唯一の俳文とされている「幻住庵記」(『猿蓑』所収)の「先づたのむ椎の木も有(あり)夏木立」の、その「椎の木」も、その背景の一つに横たわっているようにも解せられる。

先づ頼む椎の木も有り夏木立(芭蕉「幻住庵の記」)
(これからどうしようというほどの計画があるわけではない。とりあえず旅路の果てに幻住庵にやってきた。見れば、庵の傍には大きな椎木がある。先ずはこの木の下で心と身体を休めてみようではないか。西行の歌「ならび居て友を離れぬ子がらめの塒<ねぐら>に頼む椎の下枝」(『山家集 下 雑の部』)に呼応していることは明らか。ここに子がらめとは、小雀のこと。)
https://www2.yamanashi-ken.ac.jp/~itoyo/basho/genjuan/genjuan5.htm#ku

 この「幻住庵記」は、「A最初期草案断簡・B初期草案・C初稿(元禄三夷則下)・D再稿草案断簡・E再稿一・再稿二(元禄三初秋日)・F定稿一(元禄三秋)・定稿二(元禄三仲秋日)・定稿三(猿蓑)」と、その諸本は、六類型、合計九種類のものが伝来している(『芭蕉七部集(新日本古典文学大系)』所収「幻住庵記の諸本(白石悌三稿))。
 その「A最初期草案断簡」(京都国立博物館真蹟)に、「ともにこもれる人ひとり心さしひとしうして水雲の狂僧なり、薪をひろひ水をくみて(以下欠)」とあり、この「水雲の狂僧」は、『笈日記』を著わした「各務支考」(寛文5年(1665年) - 享保16年)その人だとしている見方がある(『俳聖芭蕉と俳魔支考(堀切実著)』)。
 もとより、支考は、江戸時代中期の人で、南畝・抱一は、それに続く後期の人と、時代を異にするが、「其角らを祖とする都会派江戸座の蕉門」の「抱一」らと、「支考らを祖とする田舎蕉門(「支(支考)麦(麦林=乙由)の徒」と揶揄された「美濃派・伊勢派」など)」とは、相互に相対立する流派と考えられがちだが、少なくとも、南畝・抱一らは、支考らの『葛の松原』・『笈日記』・『梟日記』・『続五論』・『本朝文鑑』・『俳諧十論』・『俳諧古今抄』・『十論為弁抄』・『芭蕉翁廿五箇条』・『古今集俳諧歌解』などとは、直接・間接とを問わず大きな影響を受けたであろうことは、想像するに難くない。
 この支考に連なる俳人で、蕪村と親交の深い俳人に、「雲裡坊杉夫(さんぷ)」(1692~1761)が、「幻住庵再興のため各地を行脚して句を請い、宝暦二年に『蕉門名録集』を刊行した」ことは、下記のアドレスで紹介されている。

https://www.bunka.pref.mie.lg.jp/haiku/42260035075.htm

≪雲裡坊杉夫(うんりぼうさんぷ)1692~1761
渡辺氏。尾張の人。俳諧を支考に学び、鳥巣仁の号を授けられ、三四庵・杉夫・有椎翁五世とも号した。延享四年琵琶湖畔の無名庵に入って五世の主となり、境内に幻住庵を再興し、且つ幻住庵の椎の木を無名庵に移植して有椎老人と号した。交友が多く、四方を行脚した。宝暦五年橋立に停留中の蕪村を訪ねて歌仙を巻き、その帰るに当って蕪村は宮津から橋立まで送って来て、「短夜や六里の松に更けたらず 蕪村」と別れを惜しんでいる。のち、雲裡追悼集『桐の影』には、雲裡が江戸の中橋にいた昔をなつかしんだ蕪村の句があって、蕪村東遊時代からの友人である事が知られる。宝暦十年秋、無名庵を出て京都鎌倉の夜長庵に移り、晩秋には筑紫の旅に出た。この行庵が出来た記念に『柱かくし』、寛保三年『桑名万句』があり、無名庵に入って後、幻住庵再興のため各地を行脚して句を請い、宝暦二年に『蕉門名録集』を刊行した。宝暦十一年四月二十七日に没した。年六十九。追福集に明和二年『鳥帽子塚』、安永三年に『向芝園廻文』、同六年に『桐の影』、七年に『蕉門花伝授』などがある。『鳥帽子塚』には宝暦十一年盛夏浮巣庵文素の序があり、 他の文献に徴しても誤りはないと思われるが、『向芝園廻文』には、雲裡の像の上に「宝暦十二年壬午歳四月甘七日卒、葬於義仲寺、時年六十六」とある。≫
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「抱一再見」(続「忘れがたき風貌・画像」) [抱一再見]

(その六)「橘(加藤)千蔭と抱一」(その周辺)

加藤千蔭.jpg

「加藤千蔭『國文学名家肖像集』より」(「ウィキペディア」)

https://sakai-houitsu.blog.ss-blog.jp/2023-03-30

(再掲)

鵜飼舟下す戸無瀬の水馴(みなれ)棹さしも程なく明るよは哉(藤原良経「秋篠月清集」)
となせ河玉ちる瀬々の月をみて心ぞ秋にうつりはてぬる(藤原定家「続千載集」)
あらし山花よりおくに月は入りて戸無瀬の水に春のみのこれり(橘千蔭「うけらが花」)
築山の戸奈瀬にをつる柳哉 (抱一「屠龍之技・第一こがねのこま」)

 戸奈瀬の雪を
山の名はあらしに六の花見哉(抱一「屠龍之技・第四椎の木かげ」)

 「藤原(九条)良経」は、抱一の出家に際し、その猶子となった「九条家二代当主」、そして、「藤原定家」は、その「藤原(九条)良経」に仕えた「九条家・家司」で、「藤原俊成」の「御子左家」を不動にした「日本の代表的な歌道の宗匠」の一人である(「ウィキペディア)。

 続く、「橘(加藤)千蔭」は、抱一の「酒井家」と深いかかわりのある「国学者・歌人・書家」で、抱一は、千蔭が亡くなった文化五年(一八〇八)に、次の前書を付して追悼句(五句)を、その「屠龍之技・第七かみきぬた」に遺している。

 橘千蔭身まかりける。断琴の友なりければ
から錦やまとにも見ぬ鳥の跡
吾畫(かけ)る菊に讃なしかた月見
山茶花や根岸尋(たづね)る革文筥(ふばこ)
しぐるゝ鷲の羽影や冬の海
きぬぎぬのふくら雀や袖頭巾

(参考)  橘千蔭(たちばなのちかげ)/享保二十~文化五(1735-1808)/号:芳宜園(はぎぞの)・朮園(うけらぞの)

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/tikage.html

江戸八丁堀の生まれ。父は幕府与力にして歌人であった加藤枝直。橘は本姓。俗称常太郎・要人(かなめ)、のち又左衛門。少年期より賀茂真淵に入門し国学を学ぶ。父の後を継いで江戸町奉行の与力となり、三十歳にして吟味役を勤める。天明八年(1788)五十四歳で致仕し、以後は学芸に専念した。寛政十二年(1800)、『万葉集略解』を十年がかりで完成。書簡で本居宣長に疑問点を問い質し、その意見を多く取り入れた、万葉全首の注釈書である。文化九年(1812)に全巻刊行が成った同書は万葉入門書として広く読まれ、万葉享受史・研究史上に重きをなす(例えば良寛は同書によって万葉集に親しんだらしい)。
 歌人としては真淵門のいわゆる「江戸派」に属し、流麗な古今調を基盤としつつ、万葉風の大らかさを尊び、かつ新古今風の洗練・優婉も志向する歌風である。同派では村田春海と並び称され、多くの門弟を抱えた。享和二年(1802)、自撰家集『うけらが花』を刊行。橘八衢(やちまた)の名で狂歌も作る。書家としても一家をなしたが、特に仮名書にすぐれ、手本帖などを数多く出版した。絵も能くし、浮世絵師東洲斎写楽の正体を千蔭とする説もある程である。文化五年九月二日、死去。七十四歳。墓は東京都墨田区両国の回向院にある。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2018-08-17

(再掲)

抱一・住吉太鼓橋夜景図.jpg

酒井抱一(庭拍手)画「住吉太鼓橋夜景図」一幅 紙本墨画 八〇・七×三二・二㎝
個人蔵 寛政十二年(一八〇〇)作
【 簡略な太鼓橋、シルエットで表される松林、雲間から顔を覗かせた月、いずれもが水墨のモノトーンで描写されるなかで、「冥々居」印の鮮やかな朱色が画面を引き締めている。「寛政庚申林鐘甲子」の落款は、一八〇〇(寛政十二)年六月十三日の制作であることを語る。橘千蔭の賛は、「あきのよのそらゆく月もすみの江の あらゝまつはらさやににみえけり」。古歌には見当たらず、千蔭自身の作か。 】
(『別冊太陽 江戸琳派の粋人 酒井抱一』所収「抱一と橘千蔭(仲町啓子稿)」)

 この抱一と関係の深い、先に、下記のアドレスで紹介した「加藤千蔭」こそ、この「橘千蔭」その人であり、その千蔭が、大阪から江戸出て来た芳中の、『光琳画譜』に、その「序」を草している。その「跋」を草した、川上不白もまた、抱一とは深い関係にある一人なのである。
 これらの、加藤(橘)千蔭、そして、川上不白の関係からして、同じ、私淑する尾形光琳を介して、相互に、何らかの啓発し合う、何らかの関係し合う文化人ネットワークの二人であったという思いを深くする。

https://yahan.blog.so-net.ne.jp/2018-08-14

(再掲)

(参考二)加藤千蔭(かとうちかげ)
没年:文化5.9.2(1808.10.21)
生年:享保20.2.9(1735.3.3)
江戸中・後期の歌人、国学者。本姓橘、初名佐芳。通称常太郎、又左衛門。朮園、芳宜園、耳梨山人等と号した。狂号橘八衢。幕府の与力で歌人の加藤枝直の子。幼時より才能を発揮し、父枝直の手ほどきを受ける。当時枝直の地所の一角に家を構えていた賀茂真淵に入門する。町奉行組与力勤方見習、奉行所吟味役与力などの公務につき、田沼意次の側用人まで務めたのち、天明8(1788)年に致仕している。官職としては下級幕臣に終始した。 千蔭の文人生活は致仕後に大きく結実した。在職中も歌人としての生活は順調であったが,晩年に至って江戸歌壇における名声はいよいよ高まった。真淵を師としたが、その万葉調にはなじまず、伝統的な歌風に江戸の繁華な風俗を織り込んだ独自の作風を樹立、折しも江戸文芸界空前の活況を呈した安永・天明期(1772~89)の雰囲気に似つかわしい都会派の和歌は大いにもてはやされた。親交を結んだ村田春海と並び称され、彼らおよびその門下を「江戸派」と呼ぶほどの勢力を持つ。幕臣仲間で天明狂歌の立役者だった四方赤良こと大田南畝の初の狂歌選集『万載狂歌集』に橘八衢の名で跋を寄せた点に、天明期の雅俗文芸の融合の様をみることができる。 晩年はまた国学者として『万葉集略解』を完成させた。これは今に至るまで万葉集の主要注釈のひとつとされている。また歌人としては、江戸のみならず京坂の文人とも交渉を持った。富小路貞直や賀茂季鷹との関係は特筆に価する。また、香川景樹の和歌に対しては強烈な対抗心を燃やしていた。『筆のさが』に千蔭の見解が率直に語られ興味深い。ほかに著作として歌文集『うけらが花』、歌論『答小野勝義書』などがあるが、歌壇の大家のわりにまとまった著作は乏しい。<参考文献>森銑三「加藤千蔭遺事」(『森銑三著作集』7巻),内野吾郎『江戸派国学論考』 (久保田啓一)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について

桐図屏風.jpg

酒井抱一筆・橘千蔭「桐図屏風」(個人蔵)/六曲一双/105.6×278.6/紙本墨画淡彩
https://www.kyotodeasobo.com/art/uploads/houitsu2012-2.jpg
≪墨に緑青などを混ぜた「たらし込み」技法が見所の一つで、比較的保存状態の良い右上の樹幹部分では、幹の質感まで描写している。画面下端から覗く桐の先端部と、上端から覗く樹幹下部とを対比して遠近感を出す構図も、宗理など琳派の先例を発展させたものである。「関西蜚遯人」の落款は珍しい。「抱一」は1798(寛政10)年の初め、38歳の頃から使い始めたもので、制作もそれに近い頃30歳代末から40歳代初めと推定される。橘千蔭の賛は、「夫木和歌抄」より桐を詠んだ三首が選ばれている。もと酒井雅楽頭家に仕えた永田家に伝来した。≫(『別冊太陽 江戸琳派の粋人 酒井抱一』所収「抱一と橘千蔭(仲町啓子稿)」)

「夫木和歌抄」より桐を詠んだ三首(『酒井抱一・井田太郎著・岩波新書』)

百(もも)しきやきりの梢に住(すむ)とりの千(ち)とせは竹のいろもかはらず(寂蓮法師)
古郷(ふるさと)のきりのこずゑをながめてもすむらむ鳥もおもひこそやれ(藤原家隆)
そともなるきりの広葉にあめおちて朝げすずしき風の音かな(藤原為家)

(メモ) 「酒井雅楽頭家に仕えた永田家に伝来した」=「姫路藩家老であった祇国(永田成美)の末裔永田家に伝来した。」
「関西蜚遯人」=「関西の蜚(と)んで遯(のが)れる人」とはいわくありげで、出家間もない号にふさわしい。」(『酒井抱一・井田太郎著・岩波新書』)

https://www.yg-artfoundation.or.jp/sys/art.php?id=98

来燕帰雁図.jpg

葛飾北斎「来燕帰雁図」絹本・着色/82.7×26.0 cm/(吉野石膏コレクション すみだ北斎美術館寄託)/加藤千陰による着賛「はる秋の契り たかへす(とりどり)に 来るも帰るも こゝろ有けり 千蔭」

https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_download_md/4741910/006_p194.pdf

九州大学学術情報リポジトリ「加藤千蔭の画歴(鈴木淳稿)」
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「抱一再見」(続「忘れがたき風貌・画像」) [抱一再見]

(その五)「藤原定家」(「戸奈瀬」周辺)

住吉の名月.jpg

『住吉の名月』(月岡芳年『月百姿』)住吉明神の神託を受ける藤原定家(「ウィキペディア」)

となせ河玉ちる瀬々の月をみて心ぞ秋にうつりはてぬる(藤原定家「続千載集」)
鵜飼舟下す戸無瀬の水馴棹さしも程なく明るよは哉(藤原良経「秋篠月清集」)
あらし山花よりおくに月は入りて戸無瀬の水に春のみのこれり(橘千蔭「)
築山の戸奈瀬にをつる柳哉 (抱一「屠龍之技・第一こがねのこま」)
 戸奈瀬の雪を
山の名はあらしに六の花見哉(抱一「屠龍之技・第四椎の木かげ」)

(再掲)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-10-18

夕顔に扇図.jpg

酒井抱一挿絵『俳諧拾二歌僊行』所収「夕顔に扇図」 → A図

https://www2.dhii.jp/nijl/kanzo/iiif/200015438/images/200015438_00034.jpg

 この抱一の挿絵(「夕顔に扇図」)は、『酒井抱一---俳諧と絵画の織りなす抒情(井田太郎著・岩波新書一七九八)』(以下、『井田・岩波新書』)所収「酒井抱一略年譜」で、抱一が亡くなる「文政十一年(一八二八)六十八歳」に「三月、『俳諧拾二歌僊行』に挿絵提供(抱一)、十一月、抱一没、築地本願寺に葬られる(等覚院文詮)」に出てくる、抱一の「最後の作品」(「第四章太平の『もののあわれ』「絶筆四句」)で紹介されているものである。
 この挿絵が収載されている『俳諧拾二歌僊行(はいかいじゅうにかせんこう)』については、上記のアドレスで、その全容を閲覧することが出来る。これは、大名茶人として名高い出雲国松江藩第七代藩主松平不昧(ふまい)の世嗣(第八代藩主)松平斉恒(なりつね・俳号=月潭)の七回忌追善の俳書である。
 大名俳人月潭(げったん)が亡くなったのは、文政五年(一八二二)、三十二歳の若さであった。この年、抱一、六十二歳で、抱一と月潭との年齢の開きは、三十歳も抱一が年長なのである。
 抱一の兄・忠以(ただざね、茶号=宗雅、俳号=銀鵞)は、抱一(忠因=ただなお)より六歳年長で、この忠以(宗雅)が、四歳年長の月潭の父・治郷(はるさと、茶号=不昧)と昵懇の間柄で、宗雅の茶道の師に当たり、この「不昧・宗雅」が、当時の代表的な茶人大名ということになる。
 この不昧の弟・桁親(のぶちか、俳号=雪川)は、宗雅より一歳年長だが、抱一は、この雪川と昵懇の間柄で、雪川と杜陵(抱一)は、米翁(べいおう、大和郡山藩隠居、柳沢信鴻=のぶとき)の俳諧ネットワークの有力メンバーなのである。
 さらに、抱一の兄・忠以(宗雅)亡き後を継いだ忠道(ただひろ・播磨姫路藩第三代藩主)の息女が、月潭(出雲国松江藩第八代藩主)の継室となっており、酒井家(宗雅・抱一・忠道)と松平家(不昧・雪川・月潭)とは二重にも三重にも深い関係にある間柄である。
 そして、実に、その月潭が亡くなった文政五年(一八二二)は、抱一の兄・忠以(宗雅)の、三十三回忌に当たるのである。さらに、この月潭の七回忌の追善俳書(上記の『俳諧拾二歌僊行』)に、抱一が、上記の「夕顔と扇面図」の挿絵を載せた(三月)、その文政十一年(一八二八)の十一月に、抱一は、その六十八年の生涯を閉じるのである(『井田・岩波新書』)所収「酒井抱一略年譜」)。
 その意味でも、上記の「夕顔と扇面図」(『俳諧拾二歌僊行』の抱一挿絵)は、「画・俳二道を究めた『酒井抱一』の生涯」の、その最期を燈明する極めて貴重なキィーポイントともいえるものであろう。
 さらに、ここに付記して置きたいことは、「画(絵画)と俳(俳諧)」の両道の世界だけではなく、それを「不昧・宗雅」の「茶道」の世界まで視点を広げると、「利休(侘び茶)→織部(武家茶)→遠州(「綺麗さび茶」)」に連なる「酒井家(宗雅・抱一・忠道・忠実)・松平家(不昧・雪川・月潭)・柳澤家(米翁・保光)の、その徳川譜代大名家の、それぞれの「徳川の平和(パクス・トクガワーナ)=平和=太平」の一端を形成している、その「綺麗さび」の世界の一端が垣間見えてくる。
 それは、戦乱もなく一見すると「太平」の世であるが、その太平下にあって、それぞれの格式に応じ「家」を安穏を守旧するための壮絶なドラマが展開されており、その陰に陽にの人間模様の「もののあはれ」(『石上私淑言(本居宣長)』の、「見る物聞く事なすわざにふれて情(ココロ)の深く感ずる事」)こそ、抱一の「綺麗さび」の世界の究極に在るもののように思われる。
 抱一の若き日の、太平の世の一つの象徴的な江戸の遊郭街・吉原で「粋人・道楽子弟の三公子」として名を馳せていた頃のことなどについては、下記のアドレスで紹介している。 

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-03-25

  御供してあらぶる神も御国入(いり)  抱一(『句藻』「春鶯囀」)

 この句には、「九月三日、雲州候月潭君へまかり、「翌(あす)は国に帰(かへる)首途(かどで)なり」として、そぞめきあへりける時」との前書きがある(『井田・岩波新書』「第四章太平の『もののあはれ』」)。
 この句が収載されているのは、文化十四年(一八一七)、抱一、五十七歳の時で、この年は、抱一にとって大きな節目の年であった。その年の二月、『鶯邨画譜』を刊行、五月、巣兆の『曽波可理』に「序」を寄せ、その六月に鈴木蠣潭が亡くなる(二十六歳の夭逝である)。その鈴木家を、其一が継ぎ、また、小鶯女史が剃髪し、妙華尼を称したのも、この頃である。
 そして、その十月に「雨華庵」の額(第四姫路酒井家藩主)を掲げ、これより、抱一の「雨華庵」時代がスタートする。掲出の句は、その一カ月前の作ということになる。
 句意は、「出雲では陰暦十月を神無月(かんなづき)と呼ばず、八百万(やおよろず)の神が蝟集することから神有月(かみありづき)と唱える。神有月近いころ、『あらぶる神』が出雲の藩主月潭の国入りの『御供』をするという一句である」(『井田・岩波新書』「第四章太平の『もののあはれ』」)。
 この年、出雲の藩主月潭は、二十七歳の颯爽としたる姿であったことであろう。そして、それから十一年後の、冒頭の抱一の「夕顔に扇面図」の挿絵が掲載された『俳諧拾二歌僊行』は、その月潭の七回忌の追善俳書の中に於いてなのである。
 とすれば、抱一の、この「夕顔に扇面図」の、この「夕顔」は、『源氏物語』第四条の佳人薄命の代名詞にもなっている「夕顔」に由来し、そこに三十ニ歳の若さで夭逝した出雲の藩主月潭を重ね合わせ、その「太平の『もののあはれ』」の、 そのファクターの一つの「はかなさ」を背景に託したものと解すべきなのであろう。

  見渡せば花も紅葉もなかりけり浦のとまやの秋の夕暮  藤原定家 

  I looked beyond; / Fiowers are not, / Nor tinted leaves./
On the sea beach / A solitary cottage stands /
In the waving light / Of an autumn eve. (岡倉天心・英訳)

 見渡したが / 花はない、/ 紅葉もない。/
   渚には / 淋しい小舎が一つ立っている、/ 
 秋の夕べの / あせゆく光の中に。        (浅野晃・和訳)

 『茶の本 Ter Book of Tea (岡倉天心著 浅野晃訳 千宗室<序と跋>)』 で紹介されている藤原定家の一首(『新古今』)で、千利休の「侘び茶」の基本的な精神(和敬静寂)が込められているとされている。
 それに続いて、小堀遠州の「綺麗さび」の茶の精神を伝えているものとされている、次の一句が紹介されている。

   夕月夜海すこしある木の間かな (宗長作とも宗碩作とも伝えられている)

A cluster of summer trees,/
A bit of the sea,/
A pale evening moon. (岡倉天心・英訳)

  ひとむらの夏木立、
  いささかの海、
  蒼い夕月。 (浅野晃・和訳)

 抱一にも、次の一句がある。

 としせわし鶯動く木の間かな   抱一(『句藻』「春鶯囀」)


https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-12-09

(再掲)

定家.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(左方十・前中納言定家」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009403

左方十・前中納言定家
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010694000.html

 しら玉の緒絶のはしの名もつらし/くだけておつる袖のなみだぞ

右方十・従二位家隆
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010695000.html

 かぎりあれば明なむとするかねの音に/猶ながき夜の月ぞのこれる

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-01-31

(再掲)

藤原定家.jpg

狩野永納筆「新三十六歌仙画帖(前中納言定家)」(東京国立博物館蔵)各22.4×19.0
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0056409

周辺メモ)

 『小説 後鳥羽院―― 新島守よ、隠岐の海の(綱田紀美子著)』の中での、「定家家隆両卿歌合」(定家・家隆詠、後鳥羽院撰)などに関する叙述は、次のようなものである。

(第五 「無始の悪行のぞきがたく候」)

 家隆と定家はほぼ同じ年齢で、ともに俊成(定家の父)にそだてられた歌人であり、また、ともに後鳥羽の寵を得て新古今集の撰にあたった者である。家隆は、後鳥羽が隠岐に流されてからもずっと、この二十二歳年下のもと帝王を忘れることができなかった。そうすることが自分の身にとってひどく不利になるということをいささかもかえりみず、後鳥羽との手紙のやりとりを欠かさなかった。歌を通じて、いちずに後鳥羽をささえたのが家隆である。
  (中略)
 定家は後鳥羽より十八歳年長であった。ともに俊成に学んだのであるから、相弟子または兄弟子であり、かつ主君と臣下という複雑な間がらだった。
  
(第六 来ぬ人を待つほの浦の)

寛喜三年(一二三一)土佐から阿波に遷っていた第一皇子土御門院は、病いが重くなり十月六日に出家、同十二日に没した。三十七歳であった。(中略)
貞永一年(一二三二)藤原定家は七十一歳で権中納言にすすみ、また新勅撰集撰進の命を受けた。
文歴一年(一二三四)順徳院の皇子懐成親王は十七歳で亡くなった。承久三年四月から七十日間だけの皇位であり、乱の終わりとともに廃帝にされていたのである。
  (中略)
(「定家家隆両卿歌合」一番)
左 里のあまの汐焼き衣たち別れ なれしも知らぬ春の雁がね(定家)
(里の海人の塩焼きが衣になじむように馴れ親しんだのも知らずに、立ち別れていく春の帰る雁よ)
右 春もいまだ色にはいでず武蔵野や若紫の雪の下草(家隆)
(春とはいえまだそれらしき様子があらわれていない武蔵野では雪の下で紫草の芽が眠っている)
(「同」十五番)
左 ながめつつ思いし事のかずかずは空しきそらの秋の夜の月(定家)
(月をながめながら思った多くのことが、一つ一つみなむだなこととなった。空にはむなしく秋の夜の月が照らしている)
右 暮れぬまに山のは遠くなりにけり 空より出づる秋の夜の月(家隆)
(まだ日の暮れないうちに山の端が遠くなってしまったよ。空には秋の夜を遠くまで照らす月が出たので)
(「同」四十番)
左 心をばつらきものとて別れにし世々のおもかげなに慕ふらむ(定家)
(心とは無情なものだと言って別れたのであったが、幾年経ても消えることのないおもかげを、私の心はなぜ慕うのだろう)
右 せめて思ふ いまひとたびの逢ふことは渡らん川や契りなるべき(家隆)
(せめてもう一度逢う瀬を切に思うのは、三途の川の渡しを渡ることが二人の深い定めだからなのでしょうか)
(「同」四十八番)
左 明くる夜のゆふつけ鳥に立ち別れ浦波遠く出づる舟人(定家)
(夜明けを告げる鶏の声にたち別れて、岸辺の波を遠くはなれはるか沖へと出て行く舟人よ) 
右 沖つ波よする磯辺のうき枕 遠ざかるなり潮や満つらん(家隆)
(沖の波が寄せてくる磯辺に停泊していた旅の舟が遠ざかっていくようだ。潮が満ちてきたのだろう)

「定家家隆両卿歌合」については、下記のアドレスなど。

https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/bunko30/bunko30_d0089/index.html


https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-05-06

(再掲)

鹿下絵和歌巻・藤原定家.jpg

「鹿下絵新古今集和歌巻断簡(藤原定家)」(画)俵屋宗達(書)本阿弥光悦(個人蔵)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-04-13



(追記)「光悦書宗達下絵和歌巻」周辺(「メモ」その五)(再掲)

(「藤原定家」周辺メモ)

   西行法師すすめて、百首歌よませ侍りけるに
2 見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮(新古363)
(釈文)西行法師須々めて百首哥よま世侍介る尓
見王多世盤華も紅葉もな可利け里浦濃とまや乃阿支乃遊ふ久連

【通釈】あたりを見渡してみると、花も紅葉もないのだった。海辺の苫屋があるばかりの秋の夕暮よ。
【語釈】◇花も紅葉も 美しい色彩の代表として列挙する。◇苫屋(とまや) 菅や萱などの草で編んだ薦で葺いた小屋。ここは漁師小屋。
【補記】文治二年(1186)、西行勧進の「二見浦百首」。今ここには現前しないもの(花と紅葉)を言うことで、今ここにあるもの(浦の苫屋の秋の夕暮)の趣意を深めるといった作歌法はしばしば定家の試みたところで、同じ頃の作では「み吉野も花見し春のけしきかは時雨るる秋の夕暮の空」(閑居百首)などがある。新古今集秋に「秋の夕暮」の結句が共通する寂蓮の「さびしさはその色としも…」、西行の「心なき身にもあはれは…」と並べられ、合せて「三夕の歌」と称する。

(「鹿下絵新古今集和歌巻」周辺メモ )

【「闇を暗示する銀泥」 「鶴下絵和歌巻」において雲や霞はもっぱら金泥で表されていたが、この和歌巻では銀泥が主要な役割を果たすようになっている。これは夕闇を暗示するものなるべく、中間の明るく金泥のみの部分を月光と解えるならば、夕暮から夜の景と見なすとも充分可能であろう。なぜなら、有名な崗本天皇の一首「夕されば小倉の山に鳴く鹿は今宵は鳴かずいねにけらしも」(『万葉集』巻八)に象徴されるように、鹿は夕暮から夜に妻を求めて鳴くものとされていたからである。朝から夕暮までの一日の情景とみることも可能だが、私は鹿の伝統的なシンボリズムを尊重したいのだ。 】(『日本の美術№460 光悦と本阿弥流の人々(河野元昭著)』)

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/jomei.html

   崗本天皇の御製歌一首
夕されば小倉の山に鳴く鹿はこよひは鳴かず寝(い)ねにけらしも(万8-1511)

【通釈】夕方になると、いつも小倉山で鳴く鹿が、今夜は鳴かないぞ。もう寝てしまったらしいなあ。
【語釈】◇小倉の山 不詳。奈良県桜井市あたりの山かと言う。平安期以後の歌枕小倉山(京都市右京区)とは別。雄略御製とする巻九巻頭歌では原文「小椋山」。◇寝(い)ねにけらしも 原文は「寐宿家良思母」。「寐(い)」は睡眠を意味する名詞。これに下二段動詞「寝」をつけたのが「いね」である。
【補記】「崗本天皇」は飛鳥の崗本宮に即位した天皇を意味し、舒明天皇(高市崗本天皇)・斉明天皇(後崗本天皇)いずれかを指す。万葉集巻九に小異歌が載り、題詞は「泊瀬朝倉宮御宇大泊瀬幼武天皇御製歌一首」すなわち雄略天皇の作とし、第三句「臥鹿之(ふすしかは)」とある。
【他出】古今和歌六帖、五代集歌枕、古来風躰抄、雲葉集、続古今集、夫木和歌抄
【参考歌】雄略天皇「万葉集」巻九
夕されば小椋の山に臥す鹿は今夜は鳴かず寝ねにけらしも
【主な派生歌】
夕づく夜をぐらの山に鳴く鹿のこゑの内にや秋は暮るらむ(*紀貫之[古今])
鹿のねは近くすれども山田守おどろかさぬはいねにけらしも(藤原行家)

「鹿下絵新古今集和歌巻」逍遥メモ(その二)

https://japanese.hix05.com/Saigyo/saigyo3/saigyo306.miyakawa.html

「宮河歌合」(九番)

左:勝(玉津嶋海人)
 世中を思へばなべて散る花の我身をさてもいづちかもせん
右:(三輪山老翁)
 花さへに世をうき草に成りにけり散るを惜しめばさそふ山水
判詞(定家)
 右歌、心詞にあらはれて、姿もをかしう見え侍れば、山水の花の色、心もさそはれ侍れど、左歌、世中を思へばなべてといへるより終りの区の末まで、句ごとに思ひ入て、作者の心深く悩ませる所侍れば、いかにも勝侍らん。
参考:「この御判の中にとりて、九番の左の、わが身をさてもといふ歌の判の御詞に、作者の心深くなやませる所侍ればと書かれ候。かへすがへすもおもしろく候かな。なやませるといふ御詞に、よろづ皆こもりめでたく覚え候。これ新しく出でき候ぬる判の御詞にてこそ候らめ。古はいと覚え候はねば、歌の姿に似て云ひくだされたるやうに覚え候。一々に申しあげて見参に承らまほしく候ものかな」。こう書いた上で西行は、「若し命生きて候はば、必ずわざと急ぎ参り候べし」と付け加えている。西行の感激がいかに大きかったか、よく伺われるところである。


「定家の歌一首 ―「踏迷ふ山なしの花」の歌の解釈をめぐって(赤羽淑「清心語文」)」
周辺

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/utaawase/minase15_7.html

水無瀬恋十五首歌合 ―羇中の恋―

踏迷ふ山なしの花道たえて行さきふかきやへのしら雲 藤原定家『定家卿百番自歌合』
あしびきの山なしの花ちりしきて身をかくすべき道やたえぬる 藤原定家(拾遺愚草員外・一句百首・春三十首・一二七)
よの中をうしといひてもいづくにかみをばかくさむ山なしの花 (近江御息所歌合・一五、古今和歌六帖・山なし・四二六八)

うつのやまうつつかなしきみちたえてゆめにみやこの人はわすれず 九条良経『秋篠月集・一四一一』『水無瀬殿恋十五首歌合・轟中恋・四八七』

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「抱一再見」(続「忘れがたき風貌・画像」) [抱一再見]

(その四)「藤原(九条)良経」(後京極摂政前太政大臣(藤原良経))

九条良経.jpg

≪小倉百人一首(91) 歌人/九条良経(後京極摂政前太政大臣・藤原良経)
〈上の句〉きりぎりす 鳴くや霜夜の さむしろに 〈下の句〉衣片敷き ひとりかも寝む   きりぎりすなくやしもよのさむしろに ころもかたしきひとりかもねむ定まり字(決まり字):歌を特定する字(音)/きり九条良経(後京極摂政前太政大臣・藤原良経)菱川師宣画[他]『小倉百人一首』 1680年(延宝8)国立国会図書館所蔵≫(「日本大百科全書(ニッポニカ)」

https://yahantei.blogspot.com/2023/03/4-514-53.html

(再掲「抱一の一句」)

4-51 月の鹿ともしの弓や遁(れ)来て 

季語=月の鹿=鹿(しか)/三秋
https://kigosai.sub.jp/001/archives/2217
【子季語】すずか、すがる、しし、かのしし、紅葉鳥、小鹿、牡鹿、小牡鹿、鹿鳴く、鹿の声
【関連季語】春の鹿、鹿の子、鹿の袋角、鹿の角切、鹿垣
【解説】鹿は秋、妻を求めて鳴く声が哀愁を帯びているので、秋の季語になった。公園などでも飼われるが、野生の鹿は、畑を荒らすので、わなを仕掛けたり、鹿垣を設えたりして、人里に近づけないようにする。
【例句】
ぴいと啼く尻声悲し夜の鹿       芭蕉「笈日記」
女をと鹿や毛に毛がそろうて毛むつかし 芭蕉「貝おほひ」
武蔵野や一寸ほどな鹿の声       芭蕉「俳諧当世男」
ひれふりてめじかもよるや男鹿島    芭蕉「五十四郡」
(参考)「月」(三秋)、そして、「ともし(照射)」(三夏)も季語だが、ここは、この句の前書の「秋にはたへぬと良経公の御うたにも」で、この句の主題(狙い)と季語(主たる季語)は「鹿」ということになる。そして、この「秋にはたへぬと良経公の御うたにも」は、「九条良経(藤原良経)」の「たぐへくる松の嵐やたゆむらん峯(を)のへにかへるさを鹿の声(新古444)」などを指しているように思われる。

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/0yositune_t.html#SM

句意(その周辺)=この句を前書抜きにして、字面だけで句意を探ると、「夏の『ともし(照射))の矢(仕掛け罠)を『遁(れ)来て』、今や、『月の秋の雌鹿を求めて鳴く牡鹿の声が谺(こだま)する季節』となったよ。」ということになる。

 ここに、前書の「良経公の御うたにも」の、「たぐへくる松の嵐やたゆむらん峯(を)のへにかへるさを鹿の声(新古444)」を加味すると、「たぐへくる」(「連れ添ってくる」)、「たゆむらん」(弱まっている)の用例で、「秋にはたへぬ」の「たへぬ」(「耐へぬ」と「絶へぬ」の両義がある)の用例ではない。

 しかし、これらの「たぐへくる」・「たゆむらん」・「たへぬ」という用例は、相互に親近感のある用例で、その底流には「哀感・哀愁・悲哀」」などを漂わせているような雰囲気を有している。

 すなわち、この前書の「秋にはたへぬと良経公の御うたにも」は、具体的に、特定の一首を指しているのではなく、例えば、次のように、数首から成る「多重性」のある前書のようにも思えるのである。

「鹿」
たぐへくる松の嵐やたゆむらん峯(を)のへにかへるさを鹿の声(良経「新古444」)
ぴいと啼く尻声悲し夜の鹿       芭蕉「笈日記」

「月」
ゆくすゑは空もひとつの武蔵野に草の原よりいづる月かげ(良経「新古422」)
武蔵野や一寸ほどな鹿の声       芭蕉「俳諧当世男」

「たへぬ」
のちも憂ししのぶにたへぬ身とならばそのけぶりをも雲にかすめよ(良経「月清集」)
俤や姨ひとりなく月の友        芭蕉「更科紀行」

 これらの作業を通して、抱一の掲出句の句意を探ると次のようになる。

句意=「良経公の御うた」にも、数々の「秋にはたへぬ」、その「月の鹿」を詠んでいるものがあるが、「月の友」を求めて、かぼそく鳴いている「鹿」の声を聴いていると、あの「鹿」は、「ともしの弓を遁れ来て」、武蔵野の奥へ奥へと、唯々、「こころの友」を求めて、「月」に向かって泣いているように聞こえてくる。

(再掲)
(その六)後京極摂政前太政大臣(藤原良経)と前大僧正慈鎮(慈円)

九条良経.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(左方六・後京極摂政前太政大臣」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009399

(画像) → https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-12-02

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(右方六・前大僧正滋鎮」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009417

左方六・後京極摂政前太政大臣(藤原良経)
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010686000.html

 空はなをかすみもやらず風さえて/雪げにくもるはるの夜の月

右方六・前大僧正滋鎮(慈円)
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010687000.html

 身にとまるおもひを萩のうは葉にて/このころかなし夕ぐれのそら

判詞(宗偽) → https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-12-02

(『後鳥羽院御口伝』余話=宗偽)→ 抜粋

「近き世になりては、大炊御門前斎院(式子)、故中御門の摂政(良経)、吉水前大僧正(慈円)、これら殊勝なり(特に優れている)。斎院(式子)は、殊に『もみもみ(※)』とあるやうに詠まれき。故摂政(良経)は、『たけ(※※)』をむねとして、諸方を兼ねたりき。いかにぞや見ゆる詞のなさ、哥ごとに由ある(由緒ある)さま、不可思議なりき。百首などのあまりに地哥(平凡な歌)もなく見えしこそ、かへりては難ともいひつべかりしか。秀歌のあまり多くて、両三首などは書きのせがたし。大僧正(慈円)は、おほやう『西行がふり※※※』なり。」(『後鳥羽院御口伝』)。

九一 きりぎりす鳴くや/霜夜のさむしろに/衣片敷きひとりかも寝む(藤原良経)

「故摂政(良経)は、『たけ(※※)』をむねとし」と、「長(たけ)を旨とし=風格を旨とし」の代表的な歌人と後鳥羽院は指摘している。これは、この「きりぎりす(五)・鳴くや/霜夜の(七)・さむしろに(五)」の、この破調のような上の句が、実に流暢に、「もみもみと」せずに詠まれているところに、これまた、後鳥羽院の「『たけ(※※)』をむねとし」の一端が詠み取れる。

(藤原義経=九条義経の一首)
https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/0yositune_t.html

https://open.mixi.jp/user/17423779/diary/1959884598

    家に百首歌合に、余寒の心を
空はなほかすみもやらず風さえて雪げにくもる春の夜の月(新古23)

【通釈】「空は春というのにまだ霞みきらずに風は寒く、雪げの雲がかかってそのため朧な春の夜の月よ。」『新日本古典文学大系 11』p.26
【語釈】余寒=立春後の寒さ。「なほさえて」は余寒を表わす常套句。雪げにくもる=雪催いに曇る意。 
【補記】建久三年(1192)、自ら企画・主催した六百番歌合、十二番左勝。
【他出】六百番歌合、自歌合、三十六番相撲立詩歌、三百六十番歌合、定家八代抄、新三十六人撰、三五記、愚見抄、桐火桶、題林愚抄

後京極摂政前太政大臣(藤原良経)=九条良経(くじょうよしつね) 嘉応元~建永元(1169-1206)

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/0yositune_t.html

 法性寺摂政太政大臣忠通の孫。後法性寺関白兼実の二男。母は従三位中宮亮藤原季行の娘。慈円は叔父。妹任子は後鳥羽院后宜秋門院。兄に良通(内大臣)、弟に良輔(左大臣)・良平(太政大臣)がいる。一条能保(源頼朝の妹婿)の息女、松殿基房(兼実の兄)の息女などを妻とした。子には藤原道家(摂政)・教家(大納言)・基家(内大臣)・東一条院立子(順徳院后)ほかがいる。
 治承三年(1179)、十一歳で元服し、禁色昇殿。侍従・右少将・左中将を経て、元暦二年(1185)、従三位に叙され公卿に列す。その後も急速に昇進し、文治四年(1188)、正二位。この年、兄良通が死去し、九条家の跡取りとなる。同五年七月、権大納言となり、十二月、左大将を兼ねる。建久六年(1195)十一月、二十七歳にして内大臣(兼左大将)となるが、翌年父兼実が土御門通親の策謀により関白を辞し、良経も籠居を余儀なくされた。同九年正月、左大将罷免。しかし同十年六月には左大臣に昇進し、建仁二年(1202)以後は後鳥羽院の信任を得て、同年十二月、摂政に任ぜられる。同四年、従一位摂政太政大臣。元久二年(1205)四月、大臣を辞す。同三年三月、中御門京極の自邸で久しく絶えていた曲水の宴を再興する計画を立て、準備を進めていた最中の同月七日、急死した。三十八歳。
 幼少期から学才をあらわし、漢詩文にすぐれたが、和歌の創作も早熟で、千載集には十代の作が七首収められた。藤原俊成を師とし、従者の定家からも大きな影響を受ける。叔父慈円の後援のもと、建久初年頃から歌壇を統率、建久元年(1190)の『花月百首』、同二年の『十題百首』、同四年の『六百番歌合』などを主催した。やがて歌壇の中心は後鳥羽院に移るが、良経はそこでも御子左家の歌人らと共に中核的な位置を占めた。建仁元年(1201)七月、和歌所設置に際しては寄人筆頭となり、『新古今和歌集』撰進に深く関与、仮名序を執筆するなどした。建仁元年の『老若五十首』、同二年の『水無瀬殿恋十五首歌合』、元久元年の『春日社歌合』『北野宮歌合』など院主催の和歌行事に参加し、『千五百番歌合』では判者もつとめた。
 後京極摂政・中御門殿と称され、式部史生・秋篠月清・南海漁夫・西洞隠士などと号した。自撰の家集『式部史生秋篠月清集』があり(以下「秋篠月清集」あるいは「月清集」と略)、歌合形式の自撰歌集『後京極摂政御自歌合』がある(以下「自歌合」と略)。千載集初出。新古今集では西行・慈円に次ぎ第三位の収録歌数七十九首。勅撰入集計三百二十首。漢文の日記『殿記』は若干の遺文が存する。書も能くし、後世後京極様の名で伝わる。

前大僧正滋鎮(慈円)=慈円(じえん) 久寿二~嘉禄一(1155~1225) 諡号:慈鎮和尚 通称:吉水僧正

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-01-21-1

(再掲)

その六 後京極摂政前太政大臣と前大僧正慈鎮

藤原義経.jpg

狩野永納筆「新三十六歌仙画帖(後京極摂政前太政大臣)」(東京国立博物館蔵)各22.4×19.0
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0056401

(画像) → https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-01-21-1

狩野永納筆「新三十六歌仙画帖(前大僧正慈鎮)」(東京国立博物館蔵)各22.4×19.0
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0056402

左方六・後京極摂政前太政大臣(藤原良経)
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010686000.html

 空はなをかすみもやらず風さえて/雪げにくもるはるの夜の月

右方六・前大僧正滋鎮(慈円)
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010687000.html

 身にとまるおもひを萩のうは葉にて/このころかなし夕ぐれのそら

(狩野探幽本)

(画像) → https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-01-21-

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(左方六・後京極摂政前太政大臣」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009399

(画像) → https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-01-21-

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(右方六・前大僧正滋鎮」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009417

フェリス女学院大学蔵『新三十六歌仙画帖』

(画像) → https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-01-21-

(参考)

https://blog.goo.ne.jp/usaken_2/e/e434372ddc09e9456ac1cde27516a770

【 藤原良経のこと(その一)
このところ一カ月ばかり佐竹本「三十六歌仙絵巻」詞書・和歌の執筆者、藤原良経についてなぜかこだわり続けている。小倉百人一首の一人、後京極摂政前太政大臣(1169~1206・37歳で没)のことである。
 関心を持ち始めたのは昨年、秋田市建都四百年事業の一環として佐竹本「三十六歌仙絵巻」についての講演や絵巻の展示が開催されたことである。
 確か20数年前NHKで絵巻が切断されたエピソードが放映され、それを見た記憶がある。しかし大正時代のことであり、秋田にあまり関係がないこととしていつの間にか忘れていたのだ。
 それが身近に感じられたのは明治・大正時代活躍した秋田の画人土屋秀禾(1867~1929・62歳で没)が制作した模写の版画絵巻を秋田市在住の斉藤真造氏が所有されていてそれを見る機会があったことである。
 本物は鎌倉時代の制作とされ美術価値は高いとされるが色はかすれ当時の色彩ではなくなっている。秀禾の作品では制作当時を再現、八百年前の鮮やかな世界に誘ってくれて、しばし感動の時間を過ごしたことだった。
 その絵巻を眺めているうち、何ゆえ制作されたのだろう。誰が何の為に、と次第、次第に疑問が自分の心にこびりついて離れないようになってきたのである。
 まず当時の時代背景を知りたいと思った。学校時代での記憶だけでは覚束無い。図書館より「日本の歴史」網野善彦他編集シリーズより(頼朝と天下草創)(道長と宮廷社会)(武士の成長と院政)、「日本の時代史」シリーズ(京・鎌倉の王権)を借受し読破した。
 また、巻末にある鎌倉時代の年表をコピーし継ぎ張りにして分かりやすく一枚ものにしたり、手持ちの最新国語便覧(浜島書店出版)から藤原氏の系図、律令官制など関係する箇所をコピーするなど史実の基本情報を集めたりした。
 折りからNHK大河ドラマ「源義経」が放映されている。これらの史実と組み合わすと概略、次のようなことが分る。
 6月5日第22週で平家は西国へ都落ちするのが決まった。やがて平家(鶴見辰吾の宗盛等)は義経(滝沢秀明)によって追討されるがそのとき義経は27歳。良経はその時17歳で従三位となり公卿に列したとある。この時代、二人の「よしつね」がいたのだ。
 また、この年、良経の父兼実は頼朝(中井貴一)の力を背景に義経追討の宣旨後、義経与党の公卿を解官、翌年摂政の地位を獲得したこと。
 ちなみに義経は平家を壇ノ浦で攻め滅ぼしてから自分が追討されることになるのはわずか八カ月後のことである。三年後の30歳で泰衝(渡辺いっけい)に討たれることになる。この時、良経は20歳。
 良経21歳の時、頼朝の姪、京都守護一条能保の女を娶ったこと。また後年、この血縁関係から鎌倉三代将軍実朝が暗殺された後、将軍となった藤原頼経は良経の孫にあたること。また、良経24歳の時、後白河法皇(平幹二朗)崩御。これに合わせたように頼朝は将軍となった。
 良経28歳の時、頼朝は良経の父兼実の政敵、土御門通親と通じ合うようになり皇子(後の土御門帝)誕生を機会に兼実は関白の座を追われることに、一門も同様の処遇となる。などなど、めまぐるしい。
 大河ドラマ「源義経」の別の側面のドラマを知り、史実と重なり合い立体的につながって、さらに興味深くなってくる。

https://blog.goo.ne.jp/usaken_2/e/04432d5f6de5fc99653292ebd36ca6a7?fm=entry_awp_sleep

 藤原良経のこと(二) 
 良経37歳の死に様は衝撃的なものだった。それは現代の詞華集というべき講談社学術文庫「現代の短歌」(1992/6/10発行)に載っている歌人の一人、塚本邦雄氏(1922~)の評論「藤原良経」(昭和50年6月20日初出)の一節を読んでいた時だった。
 次にその一文を記す。氏の名文と共にその衝撃を味わって頂きたい。
 「良経は序(新古今集の)完成の翌日相国(摂政太政大臣)を辞していた。そうして中御門京極に壮美を極めた邸宅を造り営む。絶えて久しい曲水の宴を廷内で催すのも新築の目的の一つであった。実現を見たなら百年振りの絢爛たる晴儀となっていたことだろう。元久三年二月上旬彼はこの宴のための評定を開く。寛治の代、大江匡房の行った方式に則り、鸚鵡盃を用いること、南庭にさらに水溝を穿つことを定めた。数度評定の後当日の歌題が「羽觴随波」に決まったのは二月尽であった。
 弥生三日の予定は熊野本宮二月二十八日炎上のため十二日に延期となった。良経が死者として発見されたのは七日未明のことである。禍事を告げる家臣女房の声が廷内に飛び交い、急変言上の使いの馬車が走ったのは午の刻であったと伝える。
 尊卑分脈良経公伝の終りには「建仁二年二月二十七日内覧氏長者 同年十二月二十五日摂政元久元年正月五日従一位 同年十一月十六日辞左大臣 同年十二月十四日太政大臣 同二年四月二十七日辞太政大臣 建永元年三月七日薨 頓死但於寝所自天井被刺殺云云」と記されている。
 天井から矛で突き刺したのは誰か。その疑問に応えるものはついにいない。下手人の名は菅原為長、頼実と卿二位兼子、定家、後鳥羽院と囁き交される。否夭折の家系、頓死怪しからずとの声もある。
 良経を殺したのは誰か。神以外に知るものはいない。あるいは神であったかも知れぬ。良経は天井の孔から、春夜桃の花を挿頭に眠る今一人の良経の胸を刺した。生ける死者は死せる生者をこの暁に弑した。その時王朝は名実共に崩れ去ったのだ。」
  *()内及び段落は筆者。塚本邦雄全集第14集586頁より
 この文を読んで良経の死に様の衝撃さもさることながら、この曲水の宴に「三十六歌仙絵巻」を披露するはずではなかったか、そんな想像を膨らます。
 当時は和歌・絵巻などの文化は政治権力、権威の象徴でもあったから、政敵にとって暗殺するにたる十分な要因になると思うのである。
(*申し訳ありませんが以下追加します)
 良経の死は九条流藤原家にとって大きな痛手であった。
 良経の父、兼実の嘆きはいかばかりであったか。長男を22歳で失っているから尚更であったろう。兼実は良経の死から翌年、58歳で亡くなっている。
 その時、良経の長男道家は13歳、摂関の地位についたのは15年後のことであった。 この間、いかに摂関の地位を望んでいたか道家の日記「玉蘂(ぎょくずい)」にのこされているそうだ。
 ある女房が道家が摂関の地位につく吉夢を二度(建歴二年二月七日と承久二年五月二十三日)見たので喜び、念誦し八幡・春日・北野ならびに三宝に祈りを捧げたとある。 道家が摂関(摂政)の地位についたのは翌年、承久三年のことである。しかし間もなく退き(承久の変)、再び摂関(関白)になったのは七年後のことであった。
 これらの時期のどこかで、絵巻は下鴨神社に奉納されたのではあるまいか。

https://blog.goo.ne.jp/usaken_2/e/b02beda70188fefa63d92726744ae279

藤原良経のこと(三)

良経はどういう作品を残しているだろうか。

 小倉百人一首にある
  
  きりぎりす鳴くや霜夜のさむしろに
    衣かたしきひとりかも寝む

 は一般には知られているだろう。 

 しかし、余程の良経通でなければほかの歌は知られていないのではとの思い込みで前掲の塚本邦雄氏の著書「雪月花」雪の巻、良経百首の中から筆者好みの数首を選び作歌年齢と若干の註釈を氏の文章を参考にして付けてみた。

① 散る花も世を浮雲となりにけり
    むなしき空をうつす池水(「花月百首」花五十首22歳)

*「むなしき空」は「虚空」
 「世を浮雲」の「浮」は「憂き」の懸詞・「浮世」の倒置

② 明け方の深山の春の風さびて
    心くだけと散る櫻かな(「花月百首」花五十首22歳)

*「心くだけ」はさまざまに思ひ煩ふの意
 「さびて」は「寂びて」
       
③ ただ今ぞか(帰)へると告げてゆく雁を
    こころにおくる春の曙(「二夜百首」「帰雁」五首22歳)

④ 夢の世に月日はかなく明け暮れて
    または得がたき身をいかにせむ(「十題百首」「釈教」十首「人」23歳)

⑤ 見ぬ世まで思ひ残さぬながめより
    昔に霞む春の曙(「六百番歌合」春曙25歳)

*「見ぬ世」とは前世、未生以前の時間、「昔」とは生まれてから現在までの舊い日月、曙の春霞はこの昏い、不可視の空間にたなびき渡る。

⑥ 帰る雁今はの心有明に
    月と花との名こそ惜しけれ(「院初度百首」春二十首 新古今・春上32歳)
*今は限り、いざ帰る時と消えて行く雁、下には名残の桜、上には細り傾く晩春の月、見棄てられては花月の名にかかはろう。

⑦ おしなべて思ひしことのかずかずに
    なお色まさる秋の夕暮れ(「院初度百首」春二十首 新古今・秋上32歳)

*筆者寸評
 ①②③④⑤は二十歳前半での作である。それにしてはなんと憂いに充ちた歌なのであろう。すでに人生の無常観を知っている。

 ⑥⑦は三十歳前半の作である。すでに熟成の感あり。何度も口ずさみたくなる歌である。

 良経の家集「秋篠月清集」の作歌年齢をみるとは33歳までである。それ以降は摂政として政治に勤しんでいたのかもしれない。

 この原稿を書いていた日(6月10日)、朝刊を見ていたら度々引用させて頂いた塚本邦雄氏の訃報の記事が掲載されていた。
 氏と筆者の面識などは全くないのであるが藤原良経公を介して歴史の時空間での不思議な縁しを感じている。
 そこで良経公の歌一首と塚本氏の解説の一文を両者へ畏敬を込めて次に記して追悼の意を表したいと思う。

  のちの世をこの世に見るぞあはれなる
    おのが火串(ほぐし)を待つにつけても(「二夜百首」「照射(ともし)」五首)

*標題の「照射」歌中の「火串」共に夏の歌に頻出する狩猟風景である。山深く鹿を誘き寄せるために燃やす篝火や松明が「照射」であり、「火串」は松明をつけるための篝、長い柄を狩人が腰に差す。多くは五月闇の頃行はれる。鷹狩は厳冬、桜狩、紅葉狩の原義である猟は春と秋、照射を併せて四季の猟遊となる。火串待ちは出猟時の準備儀式、居並ぶ面面が順次火種を渡される光景であらう。闇の中にぼうつと浮かび上がる人の姿に、後の世すなはち黄泉の国の死者を連想するのか。煉国の景色を現世で垣間見るとならば、何と凄まじい著想だらう。しかもうつし身の人人が次に繰展げるのは殺戮である。命に関わる沈思を誘ふのも当然ではあらう。由来この題は少数の例外を除いて鹿によせる憐憫の情、あるいは単に季節感に寄せる感懐ばかり歌はれているが、この一首はそれを踏まへた上で本質的な問題に肉薄している。古歌の「照射」すべての中においても一、二を争ふ秀作だらう。 】
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「抱一再見」(続「忘れがたき風貌・画像」) [抱一再見]

(その三)「紫式部」(「空蝉と竹河」・「石山寺」など)

紫式部.jpg

紫式部(菊池容斎・画、明治時代)『前賢故実(菊池容斎著)』「国立国会図書館デジタルコレクション」
https://dl.ndl.go.jp/pid/778219/1/58

「たけがはもうつ蝉も碁や五月雨」(「抱一句集(「屠龍之技」)・第四/椎の木かげ」4-48)

https://yahantei.blogspot.com/

季語=五月雨=五月雨(さみだれ)/仲夏

https://kigosai.sub.jp/001/archives/2042

【子季語】さつき雨、さみだる、五月雨雲
【解説】陰暦五月に降る雨。梅雨期に降り続く雨のこと。梅雨は時候を表し、五月雨は雨を表す。「さつきあめ」または「さみだるる」と詠まれる。農作物の生育には大事な雨も、長雨は続くと交通を遮断させたり水害を起こすこともある。  
【例句】
五月雨をあつめて早し最上川 芭蕉「奥のほそ道」
五月雨の降残してや光堂 芭蕉「奥のほそ道」
さみだれの空吹おとせ大井川 芭蕉「真蹟懐紙」
五月雨に御物遠や月の顔 芭蕉「続山の井」
五月雨も瀬ぶみ尋ぬ見馴河 芭蕉「大和巡礼」
五月の雨岩ひばの緑いつまでぞ 芭蕉「向之岡」
五月雨や龍頭揚る番太郎 芭蕉「江戸新道」
五月雨に鶴の足みじかくなれり 芭蕉「東日記」
髪はえて容顔蒼し五月雨   芭蕉「続虚栗」
五月雨や桶の輪切る夜の声   芭蕉「一字幽蘭集」
五月雨にかくれぬものや瀬田の橋 芭蕉「曠野」
五月雨は滝降うづむみかさ哉 芭蕉「荵摺」
五月雨や色紙へぎたる壁の跡 芭蕉「嵯峨日記」
日の道や葵傾くさ月あめ   芭蕉「猿蓑」
五月雨や蠶(かいこ)煩ふ桑の畑 芭蕉「続猿蓑」

(参考)

「空蝉」(下記「源氏物語図・巻3)」)

源氏物語図・空蝉).jpg

源氏物語図 空蝉(巻3)/部分図/狩野派/桃山時代/17世紀/紙本金地着色/縦32.3×57.6㎝/1面/大分市歴史資料館蔵
≪源氏は心を許さない空蝉に業をにやして紀伊守邸を訪れる。部屋を覗きみると、空蝉と義理の娘で紀伊守の妹、軒端荻が碁を打っていた。≫

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/46118

「たけがは・竹河」(下記「源氏物語図・巻44)」)

源氏物語図・竹河.jpg

源氏物語図 竹河(巻44)/部分図/狩野派/桃山時代/17世紀/紙本金地着色/縦48.8×横57.9㎝/1面/大分市歴史資料館蔵
≪夕霧の子息蔵人少将は、玉鬘邸に忍び込み、庭の桜を賭けて碁を打つ二人の姫君の姿を垣間見て、大君への思いをつのらせる。≫

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/86586

句意(その周辺)=この句の上五の「たけがはも」の「たけがは」は、『源氏物語』の「第四十四帖 :竹河」の「竹河」、そして、中七の「うつ蝉も・碁や」の「うつ蝉」は、「第三帖:空蝉」の「空蝉」を指していて、その「碁や」は、その「竹河(第七段:「蔵人少将、姫君たちを垣間見る」)」と「空蝉(「第三段:空蝉と軒端荻、碁を打つ」)」との「囲碁」の場面を指している。

 句意は、「この五月雨で、『源氏物語』を紐解いていたら、「第四十四帖 :竹河」と「第三帖:空蝉」で、「姫君たちが囲碁に夢中になっている」場面が出てきましたよ。」ということになる。すなわち、この句の「からくり」(仕掛け)は、上記の、「源氏物語図巻」の「絵解き」の一句ということになる。(蛇足=抱一の「からくり(仕掛け)」は、「源氏物語図巻」の「絵解き」の一句ということだけではなく、上記の芭蕉の「五月雨」の例句、十一句の全てが、「さみだれ・さつきあめ」で、「さみだるる」の「用言止め」の句は一句もない。この句の、下五の「五月雨」は、「さつきあめ」の体言止めの詠みではなく、「さみだるる」の用言止めの詠みで、この句の眼中には、「姫君たちが囲碁に夢中になっているが、まさに、五月雨(さみだれ)のように、さみだれて、混戦中の形相を呈している」ということになる。この蛇足が正解に近いのかも? )

https://sakai-houitsu.blog.ss-blog.jp/2020-01-21

名月や硯のうみも外ならず (第二 かぢのおと) 

紫式部一.jpg

抱一画集『鶯邨画譜』所収「紫式部図」(「早稲田大学図書館」蔵)
http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/chi04/chi04_00954/chi04_00954.html

 この「紫式部図」は、『光琳百図』(上巻)と同じ図柄のものである。

紫式部二.jpg

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/850491

 光琳百回忌を記念して、抱一が『光琳百図』を刊行したのは、文化十二年(一八一五)、五十五の時、『鶯邨画譜』を刊行したのは、二年後の文化十四年(一八一七)、五十七歳の時で、両者は、同じ年代に制作されたものと解して差し支えない。
 両者の差異は、前者は、尾形光琳の作品を模写しての縮図を一冊の画集にまとめたという「光琳縮図集」に対して、後者は、抱一自身の作品を一冊の絵手本の形でまとめだ「抱一画集」ということで、決定的に異なるものなのだが、この「紫式部図」のように、その原形は、全く同じというのが随所に見られ、抱一が、常に、光琳を基本に据えていたということの一つの証しにもなろう。

紫式部三.png

尾形光琳画「紫式部図」一幅 MOA 美術館蔵

 落款は「法橋光琳」、印章は「道崇」(白文方印)。この印章の「道崇」の号は宝永元年(一七〇四)より使用されているもので、光琳の四十七歳時以降の、江戸下向後に制作したものの一つであろう。
 この掛幅ものの「紫式部図」の面白さは、上部に「寺院(石山寺)」、中央に「花頭窓の内の女性像(紫式部)」、そして、下部に「湖水に映る月」と、絵物語(横)の「石山寺参籠中の紫式部」が掛幅(縦)の絵物語に描かれていることであろう。
 この光琳の「紫式部図」は、延宝九年(一六八一)剃髪して常昭と号し、法橋に叙せられた土佐派中興の祖・土佐光起の、次の「石山寺観月の図」(MIHO MUSEUM蔵)などが背景にあるものであろう。

石山寺観月図(土佐光起筆).jpg

石山寺観月図(土佐光起筆)/江戸時代/絹本著色/H-122.3 W-55.6/(MIHO MUSEUM蔵)
http://www.miho.or.jp/booth/html/artcon/00001352.htm
≪土佐光起(1617~1691)は江戸時代前期の画家で、堺の生まれ。のちに京都に移り住み、承応3年(1654)、永禄12年(1569)以来失われていた宮廷の絵所預(えどころあずかり)となって土佐家を再興した。延宝9年(1681)剃髪して常昭と号し、法橋に叙せられている。滋賀県大津市にある石山寺には、源氏物語の筆者・紫式部が一室でその構想を練ったという伝承がある。また「石山の秋月」と近江八景のひとつに挙げられているように、古くから石山寺あたりの秋月の眺めは格別であることがよく知られている。光起は、そうした画材をもとにこの絵を描いたようである。夜空に浮かぶ秋の名月、その月が石山寺の眼下を流れる瀬田川の川面に映えている。源氏物語の構想に思いを巡らす紫式部とともに、内裏造営に参加した光起らしい雅な筆致で描かれている。≫

 名月や硯のうみも外(そと)ならず  

 「かぢのおと(梶の音)」編の、「紫式部の畫の賛に」の前書きのある一句である。この句は、上記の『鶯邨画譜』の「紫式部図」だけで読み解くのではなく、光琳の「紫式部図」や土佐光起の「石山寺観月の図」などを背景にして鑑賞すると、この句の作者、「尻焼猿人・
屠龍・軽挙道人・雨華庵・鶯村」こと「抱一」の、その洒落が正体を出して来る。
 この句の「外ならず」も、先の「たけがはもうつ蝉も碁や五月雨」(「第四 椎の木かげ」)の「五月雨(さつきあめ)」と「五月雨(さみだるる)」との、二様の視点があるように、外(ほか)ならず」と「外(そと)ならず」との、二様の視点がある。
そして、この句もまた、一般的な詠み方の「外(ほか)ならず」ではなく、「外(そと)ならず」の、「詠みと意味」とで鑑賞したい。
 句意は、「『石山寺に名月』がかかっている。この『名月』は、『外(そと)ではあらず』、さりとて、『外(ほか)ではあらず』、この『内(うち)』なる『石山寺』の、この『花頭窓の『内』の女性像(紫式部)=『石山寺参籠中の紫式部』=『源氏物語構想中の紫式部』の、その傍らの、『硯のうみ』=『硯海』(『硯の墨汁を溜める所』=『書画に優れた人』=「紫式部」=『源氏物語』)の、その『硯のうみ』に宿りしている(映っている)』。
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「抱一再見」(続「忘れがたき風貌・画像」) [抱一再見]

(その二)「清少納言」

清少納言.jpg

清少納言(菊池容斎・画、明治時代)(「ウィキペディア」)
「夜をこめて鳥のそら音ははかるともよに逢坂の関はゆるさじ(「百人一首62」「後拾遺集」)
『前賢故実(菊池容斎著)』「国立国会図書館デジタルコレクション」
https://dl.ndl.go.jp/pid/778219/1/59

「いくたびも清少納言はつがすみ」(「抱一句集(「屠龍之技」)・第四/椎の木かげ」4-33)

http://yahantei.blogspot.com/2023/03/4-334-42.html

季語=はつがすみ=初霞(新年)

「丁巳春興」(前書)=「丁巳(ていみ)」(丁巳=寛政九年=一七九七)の「春興」(三春の季語の『春興(春ののどかさを楽しむ心)』の他に、新年句会の一門の『春興』と題する刷物の意もある。」

「清少納言」=平安時代中期の女流歌人。『枕草子』の作者。ここは、『枕草子』の、「春はあけぼの」(夜明け)、「夏は夜」、「秋は夕暮れ」そして「冬はつとめて、雪の降りたる」などの、「春はあけぼの」(夜明け)の一句。

句意(その周辺)=「丁巳春興」の前書がある九句のうちの一番目の句である。抱一、三十九歳の時で、その前年の秋頃から、「第四 椎の木かげ」がスタートとする。
句意=「四十にして惑わず」の、その前年の「新年の夜明け」である。この「新年の夜明け」は、まさに、「いくたびも、清少納言(「春はあけぼの」)」の、その新春の夜明けを、いくたびも経て、そのたびに、感慨を新たにするが、それもそれ、今日の初霞のように、だんだんと、その一つひとつがおぼろになっていく。 

(参考その一)「枕草子」(一段)と(一三九段)

https://origamijapan.net/origami/2018/01/19/makurano-sousi/

(一段)

春は曙(あけぼの)。やうやう白くなりゆく山際(やまぎわ)、すこしあかりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる。

夏は夜。月の頃はさらなり、闇もなほ、螢(ほたる)飛びちがひたる。雨など降るも、をかし。

秋は夕暮(ゆうぐれ)。夕日のさして山端(やまぎわ)いと近くなりたるに、烏(からす)の寝所(ねどころ)へ行くとて、三つ四つ二つなど、飛び行くさへあはれなり。まして雁(かり)などのつらねたるが、いと小さく見ゆる、いとをかし。日入(ひい)りはてて、風の音(おと)、蟲の音(ね)など。(いとあはれなり。)

冬はつとめて。雪の降りたるは、いふべきにもあらず。霜などのいと白きも、またさらでも いと寒きに、火など急ぎおこして、炭(すみ)持てわたるも、いとつきづきし。昼になりて、ぬるくゆるびもていけば、炭櫃(すびつ)・火桶(ひおけ)の火も、白き灰がちになりぬるは わろし。

https://origamijapan.net/origami/2019/06/20/makurano-sousi-2/

(一三九段)

頭辨の職にまゐり給ひて、物語などし給ふに、夜いと更けぬ。「明日御物忌なるにこもるべければ、丑になりなば惡しかりなん」とてまゐり給ひぬ。

つとめて、藏人所の紙屋紙ひきかさねて、「後のあしたは殘り多かる心地なんする。夜を通して昔物語も聞え明さんとせしを、鷄の聲に催されて」と、いといみじう清げに、裏表に事多く書き給へる、いとめでたし。御返に、「いと夜深く侍りける鷄のこゑは、孟嘗君のにや」ときこえたれば、たちかへり、「孟嘗君の鷄は、函谷關を開きて、三千の客僅にされりといふは、逢阪の關の事なり」とあれば、

夜をこめて鳥のそらねははかるとも世にあふ阪の關はゆるさじ

心かしこき關守侍るめりと聞ゆ。立ちかへり、

逢阪は人こえやすき關なればとりも鳴かねどあけてまつとか

とありし文どもを、はじめのは、僧都の君の額をさへつきて取り給ひてき。後々のは御前にて、

「さて逢阪の歌はよみへされて、返しもせずなりにたる、いとわろし」と笑はせ給ふ。「さてその文は、殿上人皆見てしは」との給へば、實に覺しけりとは、これにてこそ知りぬれ。「めでたき事など人のいひ傳へぬは、かひなき業ぞかし。また見苦しければ、御文はいみじく隱して、人につゆ見せ侍らぬ志のほどをくらぶるに、ひとしうこそは」といへば、「かう物思ひしりていふこそ、なほ人々には似ず思へど、思ひ隈なくあしうしたりなど、例の女のやうにいはんとこそ思ひつるに」とて、いみじう笑ひ給ふ。「こはなぞ、よろこびをこそ聞えめ」などいふ。「まろが文をかくし給ひける、又猶うれしきことなりいかに心憂くつらからまし。今よりもなほ頼み聞えん」などの給ひて、後に經房の中將「頭辨はいみじう譽め給ふとは知りたりや。一日の文のついでに、ありし事など語り給ふ。思ふ人々の譽めらるるは、いみじく嬉しく」など、まめやかにの給ふもをかし。「うれしきことも二つにてこそ。かの譽めたまふなるに、また思ふ人の中に侍りけるを」などいへば、「それはめづらしう、今の事のやうにもよろこび給ふかな」との給ふ。

(参考その二) 菊池容斎 -『前賢故実』を著した超大器晩成型絵師と逸話-

http://artistian.net/yosai/#container
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「抱一再見」(続「忘れがたき風貌・画像」) [抱一再見]

(その一)「釈阿」(「藤原俊成」卿)

藤原俊成.jpg

藤原俊成(菊池容斎・画、明治時代)(「ウィキペディア」)

「おもふ事言はでたゞにや桐火桶」(「抱一句集(「屠龍之技」)・第四/椎の木かげ」4-26)

https://yahantei.blogspot.com/2023/02/4-264-28.html

句意(その周辺)=この句には、「俊成卿の畫(画)に」との前書があり、「藤原俊成(釈阿)が桐火桶を抱えている肖像画」を見ての一句なのであろう。
句意=俊成卿は、歌を作るときに、「「おもふ事」(心にあること)を、何一つ、「言はで」(言葉には出さず)、「たゞにや」(ただ、ひたすらに、「ウーン・ウーン」と苦吟しながら)、「桐火桶」(桐火鉢)を、抱え込んでいたんだと、そんなことを、この俊成卿の肖像画を見て、実感したわい。

(参考) 藤原俊成(「桐火桶」)(「ウィキペディア」)
 定家は為家をいさめて、「そのように衣服や夜具を取り巻き、火を明るく灯し、酒や食事・果物等を食い散らかしている様では良い歌は生まれない。亡父卿(俊成)が歌を作られた様子こそ誠に秀逸な歌も生まれて当然だと思われる。深夜、細くあるかないかの灯火に向かい、煤けた直衣をさっと掛けて古い烏帽子を耳まで引き入れ、脇息に寄りかかって桐火桶をいだき声忍びやかに詠吟され、夜が更け人が寝静まるにつれ少し首を傾け夜毎泣かれていたという。誠に思慮深く打ち込まれる姿は伝え聞くだけでもその情緒に心が動かされ涙が出るのをおさえ難い」と言った。(心敬『ささめごと』)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-01-05

釋阿.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(左方十八・皇太后宮大夫俊成」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009411
左方十八・皇太后宮大夫俊成
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010710000.html
 又や見むかた野のみのゝ桜がり/はなのゆきちるはるのあけぼの

右方十八・西行法師
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010711000.html
 をしなべて花のさかりになりにけり/やまのはごとにかゝるしらくも
狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(左方十八・西行法師」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009429


https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-02-17

釋阿.jpg

狩野永納筆「新三十六歌仙画帖(入道三品釈阿)」(東京国立博物館蔵)各22.4×19.0
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0056425
左方十八・皇太后宮大夫俊成
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010710000.html
 又や見むかた野のみのゝ桜がり/はなのゆきちるはるのあけぼの

西行.jpg

狩野永納筆「新三十六歌仙画帖(西行法師)」(東京国立博物館蔵)各22.4×19.0
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0056426
右方十八・西行法師
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010711000.html
 をしなべて花のさかりになりにけり/やまのはごとにかゝるしらくも

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-10-10

和歌巻4.jpg

「光悦筆 四季草花宗達下絵和歌巻」(日本古典文学会・貴重本刊行会・日野原家蔵一巻)
      十首歌人によませ侍ける時、花のうたとてよめる
76 み吉野の花のさかりけふ見れば越(こし)の白根に春風ぞ吹く(皇太后大夫俊成)
(吉野山の花盛りを今日眺めると、白雲を頂いた越の白山に春風が吹いているようだよ。)
https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/syunzei2.html
タグ:抱一再見
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「忘れがたき風貌・画像」逍遥(その十三) [忘れがたき風貌・画像]

その十三「数奇なる二人『伊丹(有岡)城主・荒木村重(父)と岩佐又兵衛(子)』周辺

荒儀摂津守村重.jpg

「太平記英雄伝 廿七 荒儀摂津守村重」歌川国芳筆 嘉永元年-2年(1848-49年)頃(「ウィキペディア」)

【時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕  天文4年(1535年)
死没  天正14年5月4日(1586年6月20日)
改名  十二郎、弥介(弥助)、村重、道糞、道薫(号)
戒名  秋英宗薫居士、心英道薫禅定門
墓所   大阪府堺市堺区南宗寺、兵庫県伊丹市荒村寺
官位   従五位下・摂津守、信濃守(受領名)
主君  池田勝正→池田知正→織田信長→豊臣秀吉
父母   父:荒木高村
兄弟   村重、野村丹後守室、吹田村氏
妻   池田長正娘、北河原三河守娘、川那部氏娘・だし
子   村次、村基、岩佐又兵衛ほか      】(「ウィキペディア」)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-01-24

【(「参考その一」)「荒木村重・岩佐又兵衛と結城秀康・松平忠直」周辺略年譜

荒木村重略年譜    https://www.touken-world.jp/tips/65407/
※高山右近略年譜   https://www.touken-world.jp/tips/65545/
※※黒田如水略年譜  https://www.touken-world.jp/tips/63241/
※※※結城秀康略年譜 https://www.touken-world.jp/tips/65778/
〇松平忠直略年譜 
https://meitou.info/index.php/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%BF%A0%E7%9B%B4
〇〇岩佐又兵衛略年譜
https://plaza.rakuten.co.jp/rvt55/diary/200906150000/
△千利休略年譜
https://www.youce.co.jp/personal/Japan/arts/rikyu-sen.html
●狩野内膳略年譜
https://www.tulips.tsukuba.ac.jp/jart/nenpu/2knnz001.html

△1522年(大永2年)千利休1歳 和泉国・堺の商家に生まれる。
1535年(天文4年)荒木村重1歳 摂津国の池田家に仕えていた荒木義村の嫡男として生まれる。幼名は十二郎(後に[弥介]へ変更)。
△1539(天文8年)千利休18歳 北向道陳、武野紹鴎に師事。
※※1546年(天文15年)黒田如水1歳 御着城(兵庫県姫路市)の城主・小寺政職の重臣・黒田職隆の嫡男として生まれる。
※1552年(天文21年)高山右近1歳 摂津国(現在の大阪府北中部、及び兵庫県南東部)にて、高山友照の嫡男として生まれる。高山氏は、59代天皇・宇多天皇を父に持つ敦実親王の子孫。また高山氏は、摂津国・高山(大阪府豊能町)の地頭を務めていた。
※1564年(永禄7年)高山右近13歳 父・高山友照が開いた、イエズス会のロレンソ了斎と、仏僧の討論会を契機に入信。妻子や高山氏の家臣、計53名が洗礼を受け、高山一族はキリシタンとなる。高山右近の洗礼名ドン・ジュストは、正義の人を意味する。父はダリヨ、母はマリアという洗礼名を授かる。
※※1567年(永禄10年)黒田如水22歳 黒田家の家督と家老職を継ぎ、志方城(兵庫県加古川市)の城主・櫛橋伊定の娘であった光姫を正室として迎え、姫路城(兵庫県姫路市)の城代となる。
※※1568年(永禄11年)黒田如水23歳 嫡男・黒田長政が生まれる。
●1570年(元亀元年)狩野内膳1歳  荒木村重の家臣(一説に池永重光)の子として生まれる。
1571年(元亀2年)荒木村重37歳 白井河原の戦いで勝利。織田信長から気に入られ、織田家の家臣になることを許される。
※1571年(元亀2年)高山右近20歳 白井河原の戦いにおいて和田惟政が、池田氏の重臣・荒木村重に討たれる。高山右近は和田惟政の跡を継いだ嫡男・和田惟長による高山親子の暗殺計画を知る。
1573年(元亀4年/天正元年)荒木村重39歳 荒木城(兵庫県丹波篠山市)の城主となる。現在の大阪府東大阪市で起こった若江城の戦いで武功を挙げる。
※1573年(元亀4年/天正元年)高山右近22歳 荒木村重の助言を受け、主君・和田惟長への返り討ちを決行。高槻城で開かれた会議の最中に、和田惟長を襲撃し致命傷を負わせた。その際、高山右近も深い傷を負う。高山親子は荒木村重の配下となり、高槻城主の地位を高山右近が譲り受ける。
1574年(天正2年)荒木村重40歳 伊丹城(有岡城)を陥落させ、同城の城主として摂津国を任される。
※※※1574年(天正2年)結城秀康1歳 徳川家康の次男として誕生。母親は徳川家康の正室・築山殿の世話係であった於万の方で、当時忌み嫌われた双子として生まれる。徳川家康とは、3歳になるまで1度も対面せず、徳川家の重臣・本多重次と交流のあった、中村家の屋敷で養育された。
1575年(天正3年)荒木村重41歳 摂津有馬氏を滅ぼし、摂津国を平定。
1576年(天正4年)荒木村重42歳 石山合戦における一連の戦いのひとつ、天王寺の戦いに参戦。
1577年(天正5年)荒木村重43歳  紀州征伐に従軍。
1578年(天正6年)荒木村重44歳  織田信長に対して謀反を起こし、三木合戦のあと伊丹城(有岡城)に籠城。織田軍と1年間交戦する。
※1578年(天正6年)高山右近27歳 主君・荒木村重が織田家から離反。高山右近が再考を促すも荒木村重の意志は固く、やむなく助力を決断。荒木村重は居城・有岡城(兵庫県伊丹市)での籠城を決め、有岡城の戦いへと発展。
※※1578年(天正6年)黒田如水33歳 三木合戦で兵糧攻めを提案し、三木城(兵庫県三木市)を攻略した。織田信長に対して謀反を起こした荒木村重を説得するために、有岡城(兵庫県伊丹市)に向かうが、幽閉される。
〇〇1578年(天正6年)岩佐又兵衛1歳 摂津伊丹城で荒木村重の末子として誕生。父荒木村重が織田信長に叛く。
1579年(天正7年)荒木村重45歳 妻子や兵を置いて、突如単身で伊丹城(有岡城)を脱出。嫡男の荒木村次が城主を務めていた尼崎城へ移る。そのあと、織田信長からの交渉にも応じず出奔。自身の妻子を含む人質が処刑される。
※1579年(天正7年)高山右近28歳 有岡城にて織田軍と対峙。織田信長から、「開城しなければ、修道士達を磔にする」という苛烈な脅しを受ける。これにより高山右近は領地や家族を捨て頭を丸め紙衣一枚で、単身織田信長のもとへ投降。その潔さに感じ入った織田信長は、再び高槻城主の地位を高山右近に安堵。摂津国・芥川郡を拝領した高山右近は、2万石から4万石に加増され、以降織田信長に仕えることとなる。
※※1579年(天正7年)黒田如水34歳 有岡城が陥落し、救出される。
〇〇1579年(天正7年)岩佐又兵衛2歳 伊丹城落城。乳母に救い出され奇跡的に逃げ延びる。母ら一族、京の六条河原で処刑。
△1579年(天正7年)千利休58歳 織田信長に茶頭として雇われる。 
●1579年(天正7年)狩野内膳10歳 主家(荒木村重)が滅亡し父池永重光は諸国を流浪。重郷(内膳)は画を好み狩野松栄門人となる。
1581年(天正9年)荒木村重47歳 花隈城(神戸市中央区)に移り、花隈城の戦いが勃発。その後、毛利家へ亡命。
※1581年(天正9年)高山右近30歳 織田信長の使者として、鳥取城(鳥取県鳥取市)を侵攻中の羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)のもとへ参陣。織田信長秘蔵の名馬3頭を羽柴秀吉に授与し、織田信長へ戦況を報告する。ローマから派遣された巡察師、アレッサンドロ・ヴァリニャーノを迎え盛大な復活祭を開催する。
1582年(天正10年)荒木村重48歳 本能寺の変で織田信長が亡くなると、大坂の堺(現在の大阪府堺市)に移る。大坂では茶人として復帰し、千利休とも親交があったとされる。豊臣秀吉を中傷していたことが露呈し、処罰を恐れ荒木道薫と号して出家する。
※1582年(天正10年)高山右近31歳 甲州征伐において、織田信長が諏訪に布陣。西国諸将のひとりとしてこれに帯同する。山崎の戦いでは先鋒を務め、明智光秀軍を破る。
△1582年(天正10年)千利休58歳 本能寺の変、以降・豊臣秀吉に仕える。
※1583年(天正11年)高山右近32歳 柴田勝家との賤ヶ岳の戦いで、豊臣家の勝利に貢献する。
※※1583年(天正11年)黒田如水38歳 大坂城(大阪市中央区)の設計を担当し、豊臣政権下で普請奉行となる。キリスト教の洗礼を受けて、洗礼名「ドン=シメオン」を与えられる。
※※※1584年(天正12年)結城秀康11歳  3月、豊臣秀吉軍と徳川家康・織田信雄連合軍による小牧・長久手の戦いが勃発。講和の条件として、戦後、結城秀康は豊臣家の養子として差し出される。このとき結城秀康は、徳川家康からの餞別として名刀「童子切安綱」を授かっている。12月、元服を迎える。
※1585年(天正13年)高山右近34歳 歴戦の戦功が認められ、播磨国・明石(現在の兵庫県明石市)の船上城を豊臣秀吉から拝領。6万石の大名となる。
※※1585年(天正13年)黒田如水40歳 四国攻めで軍監として加わって長宗我部元親の策略を破り、諸城を陥落。
△1585年(天正13年)千利休64歳 正親町天皇から「利休」の居士号を与えられる。
1586年(天正14年 )荒木村重52歳 5月4日、堺にて死去。
※※1586年(天正14年)黒田如水41歳 従五位下・勘解由次官に叙任。九州征伐でも軍監を担当し、豊前国(現在の福岡県東部)の諸城を落とす。
△1586年(天正14年)千利休65歳 黄金の茶室の設計、聚楽第の築庭に関わる。
※1587年(天正15年)高山右近36歳 6月、筑前国(現在の福岡県西部)でバテレン追放令が施行される。豊臣秀吉に棄教を迫られ、領土の返上を申し出る。かつて同じく豊臣秀吉の家臣を務めていた小西行長にかくまわれ、肥後国(現在の熊本県)や小豆島(現在の香川県小豆郡)で暮らす。最終的には、加賀国(現在の石川県南部)の前田利家に預けられ、密かに布教活動を続けながら禄高1万5,000石を受け、政治面や軍事面の相談役となる。
※※※1587年(天正15年)結城秀康14歳  九州征伐にて初陣を飾る。豊前国(現在の福岡県東部)の岩石城(福岡県田川郡)攻めで先鋒を務め、日向国(現在の宮崎県)の平定戦でも戦功を遂げる。
△1587年(天正15年)千利休66歳 北野大茶会を主管。
〇〇1587年(天正15年) 岩佐又兵衛10歳 秀吉主催の北野の茶会に出席?
●1587年(天正15年) 狩野内膳18歳 狩野松栄から狩野姓を名乗ることを許される。
※※1589年(天正17年)黒田如水44歳 広島城(広島市中区)の設計を担当する。黒田家の家督を黒田長政に譲る。
※※1590年(天正18年)黒田如水45歳 小田原征伐において、小田原城(神奈川県小田原市)を無血開城させる。
※※※1590年(天正18年)結城秀康17歳  北条氏掃討のため、小田原征伐へ参陣。前年、豊臣秀吉に実子・鶴松が生まれ、豊臣家の後継者に指名されたことから、結城秀康は同家を出る。結城家を継ぎ、11万1,000石の地方大名となる。
●1590年(天正18年)狩野内膳21歳 内膳こと狩野久蔵筆「平敦盛像」。この頃小出播磨守新築に「嬰児遊技図」を描き豊臣秀吉に認められる(画工便覧)。
△1591年(天正19年)千利休70歳 秀吉の逆鱗に触れ、堺に蟄居を命じられ、利休七哲の前田利家らの奔走・助命適わず、京都に呼び戻され、聚楽屋敷内で賜死(切腹?)。
※※1592年(天正20年/文禄元年)黒田如水47歳  文禄の役、及び慶長の役において築城総奉行となり、朝鮮出兵の拠点となる名護屋城(佐賀県唐津市)の設計を担当する。
〇〇1592年(天正20年/文禄元年)岩佐又兵衛 15歳 この頃、織田信雄に仕える。狩野派、土佐派の画法を学ぶ。絵の師匠は狩野内膳の説があるが不明。
●1592年(天正20年/文禄元年)狩野内膳 23歳 狩野松栄没。永徳(松栄の嫡男)の嫡男・光信(探幽は甥)、文禄元年(一五九二)から二年にかけて肥前名護屋に下向、門人の狩野内膳ほか狩野派の画家同行か?(『南蛮屏風(高見沢忠雄著)』)
※※1593年(文禄2年)黒田如水48歳 剃髪して出家。如水軒円清の号を名乗る。
〇1595年(文禄4年)松平忠直1歳 結城秀康の長男として摂津東成郡生魂にて生まれる。
生母は秀康の側室、中川一元の娘(清涼院、岡山)。幼名は仙千代。
※1600年(慶長5年)高山右近49歳 関ヶ原の戦いの前哨戦である浅井畷の戦いでは東軍に属し、丹羽長重を撃退する。
※※1600年(慶長5年)黒田如水55歳 関ヶ原の戦いが起こる。石垣原の戦いで、大友義統軍を破る。
※※※1600年(慶長5年)結城秀康27歳 関ヶ原の戦いの直前、徳川家康と共に会津藩(現在の福島県)の上杉景勝の討伐へ出陣。道中、石田三成挙兵を知り、徳川家康は西へ引き返す。一方で結城秀康は宇都宮城に留まり、上杉景勝からの防戦に努めた。関ヶ原の戦い後に徳川家康より、越前・北の庄城(福井県福井市)68万石に加増される。
〇1603年(慶長8年)松平忠直7歳 江戸参勤のおりに江戸幕府2代将軍・徳川秀忠に初対面している。秀忠は大いに気に入り、三河守と呼んで自らの脇に置いたという。
※※1604年(慶長9年)黒田如水59歳 京都の伏見藩邸で死去する。
※※※1604年(慶長9年)結城秀康31歳 結城晴朝から家督を相続し、松平に改姓。
〇〇1604年(慶長9年)岩佐又兵衛 27歳 秀吉の七回忌、京で豊国祭礼。
●1604年(慶長9年)狩野内膳36歳 秀吉七回忌の豊国明神臨時祭礼の「豊国祭礼図」を描く。
〇1605年(慶長10年)松平忠直 9歳 従四位下・侍従に叙任され、三河守を兼任する。
※※※1606年(慶長11年)結城秀康33歳  徳川家から伏見城(京都府京都市伏見区)の居留守役を命じられて入城するも、病に罹り重篤化する。
●1606年(慶長11年)狩野内膳37歳 1606年、片桐且元、内膳の「豊国祭礼図」を神社に奉納(梵舜日記)。弟子に荒木村重の子岩佐又兵衛との説(追考浮世絵類考/山東京伝)もある。
※※※1607年(慶長12年)結城秀康34歳  越前国へ帰国し、のちに病没。
〇1607年(慶長12年)松平忠直 13歳 結城秀康の死に伴って越前75万石を相続する。
〇1611年(慶長16年)松平忠直 17歳 左近衛権少将に遷任(従四位上)、三河守如元。
この春、家康の上京に伴い、義利(義直)・頼政(頼宣)と同じ日に忠直も叙任された。9月には、秀忠の娘・勝姫(天崇院)を正室に迎える。
〇1612年(慶長17年)松平忠直 18歳 重臣たちの確執が高じて武力鎮圧の大騒動となり、越前家中の者よりこれを直訴に及ぶに至る。徳川家康・秀忠の両御所による直裁によって重臣の今村守次(掃部、盛次)・清水方正(丹後)は配流となる一方、同じ重臣の本多富正(伊豆守)は逆に越前家の国政を補佐することを命じられた。
〇1613年(慶長18年)松平忠直 19歳 家中騒動で再び直訴のことがあり、ついに本多富正が越前の国政を執ることとされ、加えて本多富正の一族・本多成重(丹下)を越前家に付属させた。これは、騒動が重なるのは、忠直がまだ若く力量が至らぬと両御所が判断したためである。
〇〇1613年(慶長18年) 岩佐又兵衛 37歳 この頃、舟木本「洛中洛外図屏風」。
※1614年(慶長19年)高山右近63歳 キリシタンへの弾圧が過酷さを増し、徳川家康がキリスト教の禁教令を発布。国外追放の命令が下され、妻・高山ジュスタを始めとする一族を引き連れ、長崎経由でスペイン領ルソン島のマニラ(現在のフィリピン)へ旅立つ。スペイン国王の名において国賓待遇で歓待された。
〇1614年(慶長19年)松平忠直 20歳 大坂冬の陣では、用兵の失敗を祖父・家康から責められたものの、夏の陣では真田信繁(幸村)らを討ち取り、大坂城へ真っ先に攻め入るなどの戦功を挙げている。家康は孫の活躍を喜び、「初花肩衝」(大名物)を与えている。また秀忠も「貞宗の御差添」を与えている。
※1615年(慶長20年/元和元年)高山右近64歳 前年の上陸からわずか40日後、熱病に冒され息を引き取る。葬儀は聖アンナ教会で10日間に亘って執り行われ、マニラ全市を挙げて祈りが捧げられた。
〇1615年(慶長20年/元和元年)松平忠直 21歳 従三位に昇叙し、参議に補任。左近衛権中将・越前守を兼帯。
〇〇1616年(元和2年)岩佐又兵衛39歳 この頃、京から北之庄に移住。徳川家康没。狩野内膳没。
●1616年(元和2年)狩野内膳47歳 京都で没。
〇〇1617年(元和3年)岩佐又兵衛40歳 狩野探幽が江戸に赴任。この間、「金谷屏風」・「山中常盤」など制作か。
〇1621年(元和7年)松平忠直 27歳 病を理由に江戸への参勤を怠り、また翌元和8年(1622年)には勝姫の殺害を企て、また、軍勢を差し向けて家臣を討つなどの乱行が目立つようになった。
〇1623年(元和9年)松平忠直 29歳 将軍・秀忠は忠直に隠居を命じた。忠直は生母清涼院の説得もあって隠居に応じ、敦賀で出家して「一伯」と名乗った。5月12日に竹中重義が藩主を務める豊後府内藩(現在の大分県大分市)へ配流の上、謹慎となった。豊後府内藩では領内の5,000石を与えられ、はじめ海沿いの萩原に住まい、3年後の寛永3年(1626年)に内陸の津守に移った。津守に移ったのは、海に近い萩原からの海路での逃走を恐れたためとも言う。竹中重義が別件で誅罰されると代わって府内藩主となった日根野吉明の預かり人となったという。
〇〇1623年(元和9年)岩佐又兵衛46歳 松平忠直、豊後に配流。
〇〇1624(寛永元年)岩佐又兵衛 47歳 忠直を引き継ぐ松平忠昌が福井に改称。この間、「浄瑠璃物語絵巻」なと。
〇〇1637年(寛永14年)岩佐又兵衛 60歳 福井より、京都、東海道を経て江戸に赴く。
〇〇1638年(寛永15年)岩佐又兵衛61歳 川越仙波東照宮焼失。
〇〇1639年(寛永16年)岩佐又兵衛 62歳 家光の娘の千代姫、尾張徳川家に嫁ぐ
〇〇1640年(寛永17年)岩佐又兵衛 63歳 仙波東照宮に「三十六歌仙額」奉納。
〇〇1645年(正保2年)岩佐又兵衛 68歳 ・松平忠昌没。
〇1650年(慶安3年) 松平忠直死去、享年56。
〇〇1650年(慶安3年)岩佐又兵衛 江戸にて没す。享年73。   】

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-01-19

【 ここで、後に、「高山右近」は「利休七哲」の一人として、「前田利長・蒲生氏郷・細川忠興(三斎)・古田織部・牧村兵部・芝山監物」と共に「高山南坊(右近)」の名で、その名を連ねるが(「ウィキペディア」所収『『茶道四祖伝書』)、この当時は、「千利休」の前号の「千宗易」と親しかった「荒木村重」の部下の一人としての「千利休」とに連なる一人ということになる(織田信長の没後、荒木村重は豊臣秀吉の下で茶人として復帰し、「利休十哲」の一人として名をとどめている。)
 そして、この「高山右近」は、当時、ポルトガル語で「正義の人、義の人」を意味する「ジュスト(ユストとも)」を洗礼名とするキリシタン武将の一人である。とすれば、その主家筋に当たる「荒木村重」も、いわゆる「キリシタン大名(武将)」の一人であったかというと、「一族郎党を見殺しにした」という汚名を拭い去ることも出来ずに、時代に翻弄され続けた敗残の武将の五十二年の生涯であったといえる。
 しかし、下記のアドレスのように、「荒木村重もクリスチャンであったから、有岡城籠城の際、説得に来た黒田如水を殺さずに入牢にした」のであろうと、その「自死」をしない一生と共に、己の信念を貫いた「クリスチャン」的な生涯であったという見方もあり得るであろう。

https://www.ncbank.co.jp/corporate/chiiki_shakaikoken/furusato_rekishi/hakata/005/01.html

 この荒木村重の、たった一人の遺児である「岩佐又兵衛」は、生前に、この茶人としての「道薫」(自己卑下的な「道糞」から秀吉が改名したとされる「道薫」の茶号)と、一度だけ対面したといわれているが、このときの二人は、下記のアドレスなどでは、終始ほぼ無言だったと伝えられている。

https://www.touken-world.jp/tips/46496/

 そして、この荒木村重は、天正十四年(一五八六)に堺で没し、千利休が修行したとされる「南宗寺」(臨済宗大徳寺派の寺院)に葬られたと伝えられているが、その「南宗寺」には村重の墓は現存せず、その位牌は、村重が籠城した「有岡城」のあった伊丹市の「荒村寺」にある。
 この荒木村重に関しては、次のアドレスの「荒木村重」が参考となる。

http://bunkazai.hustle.ne.jp/jinbutu/jinbutu_photo/arakimurashige.pdf

 この荒木村重が没した翌年の、天正十五年(一五八七)の「北野大茶湯(きたのおおちゃのゆ)」(京都北野天満宮境内において豊臣秀吉が催し、千利休が主管した大規模な茶会)が開催され、当時十歳であった岩佐又兵衛も誰(実父の茶人「道薫」に連なる茶人?)かの供をして出席したことが、又兵衛の回想録の『廻国道之記』に、「わらわべの時なれば夢のやうにあれど、少しおぼえ侍る」と記されている。 】

月見西行図(全体図).jpg

岩佐又兵衛筆「月見西行図(全体図)」群馬県立近代美術館蔵(戸方庵井上コレクション)
紙本墨画淡彩 一幅 101.3× 33.0 

月見西行図(部分図).jpg

岩佐又兵衛筆「月見西行図(部分図)」群馬県立近代美術館蔵(戸方庵井上コレクション)

【 手に笠と杖、背には笈を背負った西行法師が、旅の途中で月を見上げる姿を描く。上部には「月見はと 契りていてし ふる郷の 人もやこよひ 袖ぬらすらん」と西行の歌が書き込まれている。「布袋図」と同じ篆文二重円印が捺されているが外郭は狭く、制作は寛永十四(一六三七)年の江戸出府後と考えられている。一人たたずむ西行の姿が、妻子を残し江戸へ向かう又兵衛と重ね合わされ鑑賞されてきた。 】(『別冊太陽247 岩佐又兵衛』所収「作品解説・戸田浩之)」

 この「月見西行図」の全体図は、下記のとおりだが、この上部に書き込まれていたる、「月見はと 契りていてし ふる郷の 人もやこよひ 袖ぬらすらん」(西行)の歌は、『新古今和歌集』の「巻第十 羇旅歌」に、次のとおり収載されている。

939 月見ばと 契りおきてしふるさとの 人もや今宵袖ぬらすらむ

【 月を見たら思おう約束しておいた故郷の人も、ひょっとしたら、今夜は わたしと同じように月を見て、涙で袖を濡らしていることであろか。 】(『日本古典文学全集26 新古今和歌集(校注・訳 峯村文人)』)

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「忘れがたき風貌・画像」逍遥(その十二) [忘れがたき風貌・画像]

その十二「数奇なる二人『越前福井藩主・結城(松平)秀康(父)と松平忠直(子)』周辺

結城秀康像.jpg

「結城秀康像」(原本は舜国洞授賛、子孫所蔵。写真はそれを東京大学史料編纂所が模写したもの)(「ウィキペディア」)

【時代 安土桃山時代 - 江戸時代初期
生誕  天正2年2月8日(1574年3月1日)
死没  慶長12年閏4月8日(1607年6月2日)
改名  松平於義伊(於義丸/義伊丸/義伊松)(幼名)→羽柴秀康(初名)→結城秀康→秀朝→秀康→松平秀康
別名  越前卿、越前黄門、越前宰相、結城少将、徳川三河侍従(通称)
戒名  孝顕院殿三品黄門吹毛月珊大居士、浄光院殿森岩(巌)道誉運正大居士
墓所  東京都品川区南品川の海晏寺、福井県福井市田ノ谷町の大安寺、和歌山県伊都郡高野町高野山の高野山奥の院
官位  従五位下・侍従、三河守、従四位下・左近衛権少将、従三位・権中納言、正三位、贈正二位
幕府  江戸幕府
主君  豊臣秀吉→秀頼→徳川家康→秀忠
藩  下総結城藩主、越前北荘藩主
氏族  徳川氏→羽柴氏→結城氏→越前松平宗家
父母  父:徳川家康、母:於古茶(長勝院) 養父:豊臣秀吉→結城晴朝
兄弟  松平信康、亀姫、督姫、秀康、永見貞愛、徳川秀忠、松平忠吉、正清院、武田信吉、
松平忠輝、松平松千代、松平仙千代、徳川義直、徳川頼宣、徳川頼房、市姫ら
妻  結城晴朝養女鶴子(江戸鶴子 )、岡山、駒、奈和、品量院、月照院
子 治枝、松姫(早逝)、忠直、忠昌、喜佐姫、直政、吉松、直基、直良、呑栄ら 】(「ウィキペディア」)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-08-24

馬藺指物の母衣武者.jpg

「傘鉾・三人の母衣武者の先頭の武者」(左隻第二扇上部) → A-1図

【 この巨大な「指物」(鎧の受筒に立てたり部下に持たせたりした小旗や飾りの作り物。旗指物。背旗)の「馬藺」(あやめの一種である馬藺の葉をかたどった檜製の薄板を放射状に挿している飾り物)の母衣武者(A-1図)は、「二条城の前を行く母衣武者を見守っている五人の武将」(E図)の「馬藺」の指物を背にした総大将「徳川家康」の見立てと解すると、「徳川家康」という見立ても許されるであろう。

 同様に、この「軍配」(武将が自軍を指揮するのに用いた指揮用具。軍配団扇 の略。)の指物を背にした母衣武者(A-2図)は、「二条城の前を行く母衣武者を見守っている五人の武将」(E図)の」軍配」を手にしている武将が「徳川秀忠」の見立てとすると、これまた、「徳川家忠」と見立てることは、決して、無理筋ではなかろう。 

軍配指物の母衣武者.jpg

「傘鉾・三人の母衣武者の二番目の武者」(左隻第二扇上部) → A-2図

羽指物の母衣武者.jpg

「傘鉾・三人の母衣武者の三番目の武者」(左隻第二扇上部) → A-3図

 問題は、この三番目の母衣武者なのである。この背にある指物は、「二条城の前を行く母衣武者を見守っている五人の武将」(E図)には出て来ない。そこ(E図)での三番目の武者は、この羽色をした母衣を背にした武将で、その武将は、この(A-3図)のような、甲冑の「胴」に「日の丸」印のものは着用していない。
 そして、この「日の丸」印は、上記の「A-1図」では、「徳川家康」と見立てた母衣武者の左脇に、「日の丸」印の「陣笠」(戦陣所用の笠の称)に、「金色」のものが記されている。
 その「A-2図」では、「徳川秀忠」と見立てた母衣武者の右側で、今度は「団扇」に「日の丸」印が入っている。
 さらに、「B図」を仔細に見て行くと、「A-1図」の「徳川家康」と「A-2図」では、「徳川秀忠」周囲の「陣笠」は、「赤い日の丸」印と、「金色の日の丸」印とが、仲良く混在しているのに比して、この「A-3図」の母衣武者周囲の「陣笠」には、次の図(「A-4図」)のように、「無印」か「日の丸印」ではないもので、さらに、その左端の上部の男性の手には、「日の丸印」の「扇子」が描かれている。

日の丸胴母衣武者周囲.jpg

「三番目の母衣武者周辺」(左隻第二扇上部) → A-4図

 この「A-4図」の母衣武者(「A-3図」)集団と、「A-1図」(「徳川家康」の見立て)と「A-2図」(「徳川秀忠」の見立て)集団とは、別集団という雰囲気なのである。
 そして、この「A-3・4図」の母衣武者の甲冑の胴の「日の丸」と、「A-4図」の左端上部の「祭礼関係者?」の持つ扇子の「日の丸」は、「徳川幕府の天下統一」の「江戸幕府の公用旗」(「ウィキペディア」)に類するもののような印象なのである。
 その上で、この「A-3・4図」の母衣武者は、例えば、「徳川四天王」(酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政)の家臣団ではなく、「徳川親藩大名」(「徳川家康の男系男子の子孫が始祖となっている藩」)の、下記の藩主の一人という雰囲気を有している。

尾張徳川家(尾張藩)
紀州徳川家(和歌山藩)
水戸徳川家(水戸藩)
越前松平家(福井藩|松江藩|津山藩|明石藩|前橋藩 → 川越藩 → 前橋藩)
会津松平家(会津若松藩)
越智松平家(館林藩 → 棚倉藩 → 館林藩 → 浜田藩)

 このうちで、この岩佐又兵衛の「洛中洛外図屏風・舟木本」が作成された、「大阪冬の陣」(慶長十九年=一六一四)・「大阪夏の陣」(元和元年=一六一五)に、「徳川家康・同秀忠」と共に参戦した藩主は、十三歳にして越前六十七万石を継承した、越前福井藩主・松平忠直が挙げられるであろう。

(参考)「松平忠直」周辺

https://www.saizou.net/rekisi/tadanao3.htm

「忠直をめぐる動き」

1595(文禄4)
 結城秀康の長男、長吉丸(忠直)誕生
1601(慶長6)
 秀康、越前入国。北庄城の改築始まる
1607 秀康、北庄で死去
忠直、越前国を相続
1611 勝姫と婚姻
1612 家臣間の争論、久世騒動起きる
1615(元和元)
 大坂夏の陣で戦功、徳川家康から初花の茶入れたまわる。
 長男仙千代(光長)北庄に誕生
1616 家康、駿府で死去
1618 鯖江・鳥羽野開発を命じる
1621 参勤のため北庄を出発も、今庄で病気となり北庄に帰る。
仙千代、忠直の名代として江戸へ
1622 参勤のため北庄たつも関ケ原で病気再発、北庄に帰る。
永見右衛門を成敗
1623 母清涼院通し豊後国へ隠居の上命受ける。3月北庄を出発、
5月豊後萩原に到着
1624(寛永元)
 仙千代、越後高田に転封。弟忠昌が高田より越前家相続。
 北庄を福井と改める
1626 忠直、豊後萩原から同国津守に移る
1650(慶安3)
 9月10日、津守で死去。56歳。10月10日、浄土寺で葬儀   】

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-12-04

後妻打ち.jpg

「二条城堀角の『後妻(うわなり)打ち』」(「舟木本」左隻第三・四扇)→「舟木本中心軸その四図(左隻・中心軸視野外)」

【 後妻打ち(p179-182)
 慶長末~元和年間ころを中心とする江戸時代初頭の、暴力的な気風が感じられる場面は、刀や槍を取ってのチャンバラ的な乱闘シーン以外にもある。「舟木本」の左隻第三~四扇の下部、二条城の堀の角あたりでは、鬼のような形相をした女が、赤い服の女の髪を左手に巻き付けて、右手で振り上げた擂り粉木のような棒で打ちすえ、双方から止めに入ろうとする男女と老婆が駆けついてつけている(「舟木本中心軸その四図(左隻・中心軸視野外)」)。
  (中略)
 では「舟木本」で、なぜよりによって二条城のそばにこんな暴力的場面を描くのだろうか。二条城は言うまでもなく徳川家の象徴であり、それは徳川家の内部事情に由来していると考えられないだろうか。というのは、松平忠直の父で、福井藩=越前松平家の初代となった結城秀康は、秀忠の兄でありながら、妾であった母が正妻築山殿の迫害を受け冷遇されたという背景があるからである。そのような将軍家に対する複雑な感情が、先妻が後妻を打擲(ちょうちゃく)するという、後妻打ちにやつした場面として描かれているのではないだろうか。松平忠直は、大阪の陣でも活躍しながら恩賞に不満を抱いていたと伝えられ、徳川方でありながら、京都の統治者である将軍家に対しては必ずしも好意的でない。
 そのような立場と感情が、大仏近くの乱闘場面と対になる暴力場面という形でここに表現されていると考えられないであろうか。
 そのように考えたもう一つの理由は、先述のように、四条河原で興行されている舞台の一つに人形操りの「山中常盤」が描かれていることである。源義経の母である常盤が、義経を訪ねる旅の途中で強盗に惨殺され、義経が復讐する物語であり、画中の隠れた暴力場面でもある。岩佐又兵衛は、その絵巻物(凄惨な場面で有名)も後に福井で制作しているが、荒木村重の子供であった岩佐又兵衛(岩佐は母方)は、村重が信長に背いた際に母は殺されていため、「舟木本」にこの題目が描かれていることには、その思いが反映していることは疑いない。そのような画家の感情があらわれているのなら、より重要な発注者の思いが描き込まれていてもおかしくない。岩佐又兵衛を招いた松平忠直は、お互いにの境遇に相通ずるものを感じていたのではなかろうか。 】(『洛中洛外図屏風 つくられた〈京都〉を読み解く(小島道裕著)・ 歴史文化ライブラリー422 (p172-182)』の要点抜粋。一部、記述箇所の
表記と省略部分を修正・アドレスなど付記している。)
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「忘れがたき風貌・画像」逍遥(その十一) [忘れがたき風貌・画像]

その十一「『越前・福井での遭遇』(藩主・松平忠直と絵師・岩佐又兵衛)」周辺

岩瀬又兵衛.jpg

「伝岩佐又兵衛(自画像)・MOA美術館蔵」(ウィキペディア)
(「又兵衛の子孫に伝わった自画像。原本ではなく写し、あるいは弟子の筆と見る意見もあ
る。岩佐家では又兵衛の命日にこれを掛けて供養したという」―『別冊太陽247 岩佐又兵
衛』 所収「岩佐又兵衛の生涯(畠山浩一)」)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-11-25

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-08-29

「山中常盤(山中常盤物語絵巻)」(重要文化財 全十二巻 各34.1×1239.0~1263.0 MOA
美術館蔵)の「 美濃の国、山中の宿にたどり着いた常盤は、盗賊に襲われて刀で胸を突き
刺される。侍従は常盤を抱き、さめざめと泣く(第四巻)」 → B図
http://www.moaart.or.jp/?event=matabe-2019-0831-0924

山中常盤四.jpg

「山中常盤(山中常盤物語絵巻)」(重要文化財 全十二巻 各34.1×1239.0~1263.0 MOA
美術館蔵)の「常盤は宿の主人夫妻に自らの身分を明かし、牛若への形見を託す」(第五巻)
→ C図

宿の老夫婦に看取られて常盤の死.jpg

【 この場面は夙に知られている。『岩佐又兵衛(辻惟雄・山下裕二著)・とんぼの本・新潮
社』の表紙を飾り、その副題は「血と笑いとエロスの絵師」である。その内容は、次の二篇
から構成されている(一部、要点記述)。

第一篇(人生篇)― その画家卑俗にして高貴なり (辻惟雄解説)
その一    乱世に生まれて 
その二    北の新天地で花ひらく
その三    江戸に死す
第二篇(作品篇)― 対談(辻惟雄+山下裕二 )
 その一 笑う又兵衛 ― 古典を茶化せ! 合戦も笑い飛ばせ!
 その二 妖しの又兵衛 ― 淫靡にして奇っ怪、流麗にしてデロリ、底知れぬカオス
 その三 秘密の又兵衛 ―「浮世又兵衛」(吃又兵衛=『傾城反魂香』)
 その四 その後の又兵衛― 又兵衛研究の総決算ここにあり!→『岩佐又兵衛―浮世絵
をつくった男の謎』(辻惟雄著・文春新書)→ 表紙=C図)

 これらに出てくる、「血と笑いとエロス」「淫靡にして奇っ怪、流麗にしてデロリ、底知れ
ぬカオス」というネーミングを有する、これらの「岩佐又兵衛風古浄瑠璃絵巻群』(辻惟雄
の命名)は、その作風を、次のように評されることになる(『岩佐又兵衛と松平忠直―パト
ロンから迫る又兵衛絵巻の謎(黒田日出男著)』P25-27「『又兵衛風絵巻群』についての辻仮
説」要点記述)。

一 「荒々しいサディズムが横溢している。」
二 田中喜作によって「気うとい物凄さ」と評された一種の「妖気」も、「又兵衛風絵巻群」の「モノマニアックな表出性」にそのままつながる。
三 「又兵衛風絵巻群」の「派手な原色の濫用、表出的要素の誇張、人物の怪異な表情、非
古典的な卑俗味といった要素」は、主として外的な諸要因によるものであり、それと又兵衛
自身の特異な内的素質の相乗作用によって出来上がったものである。
 
 また、「又兵衛風絵巻群」の共通点として、次の七点が列挙される(『黒田・前掲書』P25-
27「二冊の『岩佐又兵衛』」要点記述)

一 長大であること。
二 金銀泥や多様性の顔料を使った原色的色調による華やかな装飾性。
三 同じ場面の執拗な反復。
四 詞書の内容の細部にわたる忠実な絵画化。
五 劇的場面に見られる詞書の内容を越えたリアルでなまなましい表現性。
六 残虐場面の強調。
七 元和・寛永期の風俗画に共通する卑俗性。】

画像2.jpg

松平忠直像(浄土寺蔵)(「ウィキペディア」)

【時代 江戸時代前期
生誕  文禄4年6月10日(1595年7月16日)
死没  慶安3年9月10日(1650年10月5日)
改名  仙千代(幼名)→忠直→一伯(号)
別名  幼名:長吉丸(国若丸とも)
戒名  西巌院殿前越前太守源三位相公相誉蓮友大居士、西巌院殿相誉蓮友一泊大居士
墓所  大分県大分市の浄土寺、大分県大分市の朝日寺、和歌山県伊都郡高野町の金剛峯寺
東京都文京区の浄土寺、福井県鯖江市の長久寺、東京都品川区の海晏寺
官位  従四位下・侍従、三河守、右近衛権少将、従四位上・左近衛権少将、従三位・参議、
左近衛権中将、越前守
幕府  江戸幕府
主君  徳川秀忠
藩  越前北荘藩主
氏族  越前松平宗家
父母  父:結城秀康 母:清涼院(中川一元娘)
兄弟  忠直、忠昌、喜佐姫、直政、吉松、直基、直良、呑栄
妻 正室:勝姫(徳川秀忠三女) 側室:蕙林院ほか
子 光長、寧子、鶴子、女子、永見長頼、永見長良、勘子  】(「ウィキペディア」)
参内する松平忠直.jpg

「家康と共に参内する松平忠直」(左隻第四扇上部) → B図
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-08-26

【この図(B図)は、「(A図)」の上部に描かれているものである。この「(B図)」の、『洛
中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』の記述は、次のものである。

≪これで行列は終わらない(註・「(A図)」の行列)。金雲の上には、二騎の騎馬を中心にし
て、二十人近い白丁(註・下級武士)が駆け出している。かれらは、おそらく牛車の後に付
き従っている白丁なのだ。≫

ここで、「(A図)」(「徳川家康・義直・頼宣」麾下の「白丁」の「静」なるに対し、この騎
馬の若武者の「白丁」は、前回の「(A-4)図」(「三番目の母衣武者周辺」)の「取り巻き」
と同じように「動」なる姿態で、そして、その太鼓の上部の「日の丸」の扇子を持った男
性と同じように、この「(B図)」でも「扇子」を持った、「白丁」よりも身分の高いような
男性が描かれている。
 これらのことからして、その「(A-4)図」(「三番目の母衣武者周辺」)の「母衣武者」を
「松平忠直」と見立てたことと同じように、この騎馬の貴公子は、「松平忠直」その人と見
立てることは、極めて自然であろう。

日の丸胴母衣武者周囲.jpg

「三番目の母衣武者周辺」(左隻第二扇上部) → A-4図

 ここまでのことを整理すると、『洛中洛外図・舟木本を読む(黒田日出男著・角川選書564)』
では、慶長十六年(一六一一)八月(これは三月が正しいか?)に、徳川家康は、「五郎太
丸(七歳、後の尾張の徳川義直)と長福丸(五歳、後の紀伊の徳川義宣)」を元服させて、その
二人を伴って叙任の参内をしている。」
 この時に、「(A図)」(「牛車の参内行列(家康・義直・頼宣)」)の「牛車」に「徳川家康」、
そして、二挺の「手輿(たごし)」に、「五郎太丸(七歳、後の尾張の徳川義直)と長福丸(五歳、
後の紀伊の徳川義宣)」が乗っている。
 さらに、『岩佐又兵衛と松平忠直―パトロンから迫る又兵衛絵巻の謎(黒田日出男著)』に
おいて、この参内の時には、十七歳の「松平忠直」(越前藩主)も、「祖父家康に連れられて
参内」しており、これは、「忠直の人生にとって最初で最後の晴れやかな出来事であった。
家康の孫、秀康の子であることを強烈に意識したことであろう。清和源氏新田氏の門葉
(子孫)であることを自覚した機会でもあったに違いない」ということになる(この書で
は、上記の抜粋の通り、慶長十六年(一六一一)三月になっており、それは、『大日本史
料』第十二巻之七の記述が「三月」で、前書の「八月」は『大日本史料』第十二巻之四に
因っており、その違いのようである)。
 そして、この時には、「(B図)」(「家康と共に参内する松平忠直」))の通り、松平忠直は
「従四位上左近衛少将」の騎馬の英姿で描かれているということになる。 】

 これが、岩佐又兵衛が、越前藩主・松平忠直の招聘により、越前北ノ庄の真言寺院、興宗
寺(本願寺派)の僧「心願」を介して、それまで住み慣れた京から越前へと移住し、その松
平忠直から依頼された、所謂、「又兵衛絵巻群」の、その絵巻の中で、次のように変貌して
結実してくることになる。

山中常盤物語絵巻.jpg

「山中常盤(山中常盤物語絵巻)」(重要文化財 全十二巻 各34.1×1239.0~1263.0 MOA
美術館蔵 )の「山中常盤物語絵巻・第11巻(佐藤の館に戻った牛若は、三年三月の後、十
万余騎をひきいて都へ上がる)」→ C図
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「忘れがたき風貌・画像」逍遥(その十) [忘れがたき風貌・画像]

その十 「二人のキリシタン大名(勝者の将・黒田如水と敗者の将・木下長嘯子)」周辺

如水居士画像.jpg

如水居士画像(崇福寺蔵) (「ウィキベテア」)

【時代 戦国時代 - 江戸時代初期
生誕  天文15年(1546)
死没  慶長9年3月20日(1604年4月19日)
改名   小寺万吉(幼名)、祐隆、孝隆、黒田孝高[注釈 1]、如水円清(法名)
別名   官兵衛(通称)、小官、黒官(略称)、如水軒(号)
神号   水鏡権現
戒名   龍光院殿如水円清大居士
霊名   シメオン
墓所  福岡市博多区千代の崇福寺、京都市北区の大徳寺塔頭龍光院、和歌山県伊都郡高野町の高野山奥の院
官位  従五位下、勘解由次官、贈従三位
主君   小寺政職→織田信長→豊臣秀吉→秀頼→徳川家康
藩   豊前中津藩主
氏族   小寺氏、黒田氏(自称宇多源氏)
父母  父:黒田職隆
母:  小寺政職養女
兄弟  孝高、利高、香山妙春、妙円尼、利則、直之、心誉春勢、浦上清宗室
妻   正室:櫛橋光
子   長政、熊之助、一成、松寿丸   】(「ウィキベテア」)

木下長嘯子像.jpg

木下長嘯子像(模写)(「ウィキベテア」)

【時代 安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕  永禄12年(1569年)
死没   慶安2年6月15日(1649年7月24日)
改名  大蔵(幼名)、勝俊、木下長嘯子
別名  龍野侍従、式部大輔、若狭少将、若狭宰相(通称)、長嘯、長嘯子、挙白、天哉、
    夢翁、西山樵夫、西山樵翁(俳号)
戒名   大成院殿前四品羽林天哉長嘯居士
霊名  ペテロ
墓所   京都府京都市東山区の高台寺
官位  従五位下侍従、従四位下式部大夫、参議、左近衛権少将
主君  豊臣秀吉
藩   備中足守藩主
氏族   木下氏(杉原氏)、羽柴氏(豊臣氏)、木下氏
父母  木下家定、某氏
兄弟   勝俊、利房、延俊、俊定、小早川秀秋、俊忠、秀規、周南紹叔
妻   正室:うめ(宝泉院)(森可成の娘、 側室:複数
子   天祥院(武田信吉室)、智光院(山崎家治室)、女[3](阿野公業室)、春光院万花紹
    三、勝信(橋本勝信) 】(「ウィキベテア」)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2021-09-26

両脇を支えられた酔っ払い.jpg

「五条大橋で踊る貴女(老後家尼)一行のしんがり・へべれけ野郎」(右隻第四・五扇中部) → A-1図

【 この「五条大橋で踊る貴女(老後家尼)一行のしんがり・へべれけ野郎」の正体は何者なのか? この男は、次の「祇園林の乱痴気騒ぎ」(右隻第三扇)にも登場して来る。】

【 現在の八坂神社は、明治元年(一八六八)の神仏分離に際して改められた名称で、それ以前は「祇園神社」「祇園社」「祇園感神院」などと呼ばれていた。この「感神院」の扁額を掲げた鳥居は、「祇園感神院」(「祇園社」・「祇園神社」・「八坂神社」)の鳥居で、その松林(祇園林)のそこかしこで宴会(「乱痴気騒ぎの酒宴」)が行われている。
 その「感神院」の扁額の左上に、両脇を支えられた「へべれけ野郎」(A-2図)は、「五条大橋で踊る貴女(老後家尼)一行のしんがり・へべれけ野郎」(A-1図)であることは間違い無かろう。】

祇園社.jpg

「祇園林の乱痴気騒ぎ・へべれけ野郎」(右隻第三扇上部) → A-2図

祇園社の北政所.jpg

「祇園感神院」の鳥居(扁額)の下を潜る一行(「高台院(北政所、秀吉の妻おね=ねね一行?)」)(右隻第三扇中部) → A-3図

【 そして、この「感神院」の扁額の鳥居の下に、何やら、ここにも、「高台院(北政所、秀吉の妻おね=ねね)」一行の姿らしきものが描かれている。】

【 「高台院(北政所、秀吉の妻おね=ねね)」は、実子がいなかったせいもあり、一族の子女を可愛がり、特に兄・木下家定の子供(上記B-2図の「勝俊(長嘯子)・利房・延利・俊定・秀秋(小早川)」)らには溺愛と言っていいほどの愛情を注いでいる。
 家定没後、その所領を木下利房と木下勝俊(長嘯子)に分割相続させようとした家康の意向に反し、勝俊が単独相続できるように浅野長政を通じて徳川秀忠に願い出る画策をしたため、家康の逆鱗に触れ結局所領没収の事態を引き起こしている。
 これらは、高台院と家康とが、必ずしも一般的に伝えられているような相互に親密な関係ではなかったことを証明することの一端なのかも知れない。
 それに引き換え、高台院と徳川秀忠との関係は、「平姓杉原氏御系図附言纂」によると、秀忠が十二歳の時に家康から秀吉に人質として送られた際、身柄を預かった「高台院と孝蔵主」が秀忠を手厚くもてなし(原文では「誠にご実子の如く慈しみ給う」)など、その恩義からか、高台院を手厚く保護しており、上洛するたびに高台院を訪ねているなど、家康との関係以上に、相互に親しい間柄であったことが伺える。 】

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-11-20

木下長嘯子.jpg

抱一筆『集外三十六歌仙図画帖』所収「十八 木下長嘯子」(姫路市立美術館蔵)
https://jmapps.ne.jp/hmgsbj/det.html?data_id=1486

【 http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/tyousyou.html

木下長嘯子(きのしたちょうしょうし) 永禄十二~慶安二(1569~1649) 号:挙白堂・天哉翁・夢翁

 本名、勝俊。木下家定の嫡男(養子)。豊臣秀吉夫人高台院(北政所ねね)の甥。小早川秀秋の兄。秀吉の愛妾松の丸と先夫武田元明の間の子とする伝もある。歌人木下利玄は次弟利房の末裔。幼少より秀吉に仕え、天正五年(1587)龍野城主に、文禄三年(1594)若狭小浜城主となる。秀吉没後の慶長五年(1600)、石田三成が挙兵した際には伏見城を守ったが、弟の小早川秀秋らが指揮する西軍に攻められて城を脱出。
 戦後、徳川家康に封地を没収され、剃髪して京都東山の霊山(りょうぜん)に隠居した。本居を挙白堂と名づけ、高台院の庇護のもと風雅を尽くした暮らしを送る。高台院没後は経済的な苦境に陥ったようで、寛永十六年(1639)頃には東山を去り、洛西小塩山の勝持寺の傍に移る。この寺は西行出家の寺である。慶安二年六月十五日、八十一歳で没。
 歌は細川幽斎を師としたが、冷泉流を学び、京極為兼・正徹などに私淑した。寛永以後の地下歌壇では松永貞徳と並称される。中院通勝・冷泉為景・藤原惺窩らと親交があった。門弟に山本春正・打它公軌(うつだきんのり)・岡本宗好などがいる。また下河辺長流ら長嘯子に私淑した歌人は少なくなく、芭蕉ら俳諧師に与えた影響も大きい。他撰の家集『若狭少将勝俊朝臣集』(『長嘯子集』とも)、山本春正ら編の歌文集『挙白集』(校註国歌大系十四・新編国歌大観九などに所収)がある。 】

 この木下長嘯子の「辞世の歌」は、次のものであった。

【 http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/tyousyou.html#LV

 辞世

王公といへども、あさましく人間の煩をばまぬがれず何の益なし。すべて身の生まれ出でざらんには如かじ。まして卑しく貧しからんは言ふに足らず。されば死はめでたきものなり。
ふたたびかの古郷にたちかへりて、はじめもなく、をはりもなき楽しびを得る。この楽しみをふかく悟らざる輩、かへりて痛み歎く。をろかならずや。

露の身の消えてもきえぬ置き所草葉のほかにまたもありけり(挙白集)

あとまくらも知らず病み臥せりて、口に出るをふと書きつくる。人わらふべきことなりかし。

《通釈》(文)王や大臣と言えども、浅ましくも人間の煩わしさを免れず、地位などは何の益もない。大体、生まれて来ないのに越したことはあるまい。まして私のように身分卑しく貧しい者は言うまでもない。だから死はめでたいものである。生まれ出た原郷に再び帰って、始まりもなく終りもない楽しみを得る。この楽しみを深く悟らないやからは、かえって嘆き悲しむ。愚かではないだろうか。

(歌)露のようにはかない身が消えても、消えずに残る置き所。草葉のほかにもまたあるのだった。我が袖に置いた涙の露よ。

(文)前後もなく病み臥せって、口をついて出たのをふと書き付けておく。お笑い種にちがいない。

《補記》『挙白集』最終巻(巻十)の巻末に収められた歌文。長嘯子はその後まもなく死去し、遺言に基づき一本の松のもとに葬られたという。

《本歌》 殷富門院大輔「時代不同歌合」「続古今集」
きえぬべき露の憂き身のおき所いづれの野辺の草葉なるらん       】

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-01-14


黒田藤.jpg

「筑前国福岡藩祖」の「黒田孝高」の「紋所」の一つ

【 この「筑前国福岡藩祖」の「黒田孝高」の「紋所」の一つが、「ふじどもえ」(「藤・巴」)で、この「ふじどもえ」の紋所は、信長に叛旗をひるがえして毛利方についた孝高と親交のある「荒木村重」を説得しに行き、そのまま「有岡城」の奥牢に幽閉された時の裏窓の「藤の花」に由来があることが、次のアドレスの「筑前52万石始祖の黒田如水と藩祖の長政」で紹介されている。

https://www.ncbank.co.jp/corporate/chiiki_shakaikoken/furusato_rekishi/hakata/ 】

黒餅紋.jpg

https://kisetsumimiyori.com/kurodanagamasa/

【 黒餅紋:黒田長政の家紋その1
 
 黒田家の家紋で有名なのが、この「黒餅」という家紋。白地に黒で丸を描いた、とてもシンプルな家紋です。ちなみに、黒地に白抜きで丸を描いたものを「白餅紋」と呼んでいます。
 この黒餅紋は、豊臣秀吉のもとで共に「両兵衛」と呼ばれた竹中半兵衛から譲り受けたもの。官兵衛が大層大切に使用していた家紋として知られています。

 長政は幼少期に織田家の人質だった

 実は、長政は幼いころに織田家の人質となっていた時期があります。ある時、父の官兵衛が敵軍を説得するために赴いたところ、逆に捉えられ幽閉されてしまいました。これを、信長は勘違いから「官兵衛の裏切り」と思い込んでしまい、嫡子である長政を殺そうとします。
 しかし、ここで半兵衛が素早く長政をかくまい、信長をうまくごまかしてくれたことから、長政は命をとられずに済みました。半兵衛は、官兵衛と長政を心配する手紙を遺し、若くして肺病でこの世を去ります。

 長政を信長から守り抜いた竹中半兵衛

 その後に助け出された官兵衛は、竹中半兵衛が長政を守り抜いてくれたことを知って感激し、半兵衛が使っていた家紋を使用するようになりました。その後も両家の絆は継続しており、関ヶ原の戦いでは長政と半兵衛の子・竹中重門が隣同士の陣地で闘っています。互いに偉大な父を持つ二人は、父同士が互いを思いやる姿を見て多くのことを学んだのでしょう。

藤巴紋:黒田長政の家紋その2

 そして、もう一つが「藤巴紋」です。官兵衛はこの家紋を替紋として使用しており、表門
は「黒餅」であったことが解っていますが、黒田家の家紋というとこちらの印象が強い様で
す。
 こちらの紋は、黒田家が使えていた「小寺家」から下賜されたもの。ただ、黒田家は「家
臣でありながら主君とおなじ家紋を使うのは気が引ける」という気持ちがあったようで、小
寺家よりもデザインがシンプルなものを使用しています。 】

左、黒田長政像 江月宗玩賛.jpg

左、黒田長政像 江月宗玩賛 一幅 江戸時代 寛永2年(1625) /右、黒田孝高像 黒田利則請
春屋宗園賛 一幅 江戸時代 慶長9年(1609)/ 福岡・崇福寺蔵
http://www.arthajime.com/writers/?p=12937

【京都洛北、紫野にある臨済宗の古刹、大徳寺は、茶の湯の寺としても有名です。「龍光院」は、その大徳寺の塔頭の一つです。慶長11年(1606)九州福岡藩主の黒田長政が父黒田孝高(如水・官兵衛)の菩提を弔うために春屋宗園(しゅんおくそうえん)を開祖として建てられました。(※NHK大河ドラマ「黒田官兵衛」で岡田君が演じていたのが父黒田官兵衛、桃李君が演じていたのが長男黒田長政です)春屋宗園は、ほどなく江月宗玩に代を譲り、二世江月宗玩が実質的な開祖となりました。】
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「忘れがたき風貌・画像」逍遥(その九) [忘れがたき風貌・画像]

その九 「二人のキリシタン大名(陸将・高山右近と海将・小西行長)」周辺

小西行長の銅像.jpg

「宇土城の本丸にある小西行長の銅像」
https://senjp.com/konishi/

【 小西行長は、1558年、和泉・堺の商人である小西隆佐(小西立佐、洗礼名ジョウチン)の次男として京都で生まれた。母の名は、小西ワクサと呼ばれる女性で、洗礼名はマグダレーナ。 
父・小西隆佐(小西立佐)は薬種商で、1562年前後に、ルイス・フロイスの師事を受けてキリシタンとなり、宣教師の使者として織田信長に拝謁もした人物であった。
小西家の出自は薬種商ではなく、父・小西隆佐(小西立佐)と小西行長は、元々宇喜多家の家臣とする説や、羽柴秀吉が宇喜多家調略の為、小西行長を送り込んだとする説が近年は有力視されている。
 1572年、18歳の小西行長は、岡山にある商家・魚屋九郎衛門の養子として入ると、商売で宇喜多直家の元を何度か訪ねており、その際に才能を見出されて、宇喜多家の家臣に御船組員として加わり武士となった。正室の名は菊姫。同様に熱心なキリシタンで洗礼名はジュスタ。
 織田信長の家臣・羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)が、別所長治の三木城攻めを行った際には、宇喜多直家の使者として羽柴秀吉に降伏したと言われている。織田家に人質として出された宇喜多直家の嫡男・八郎(宇喜多秀家)に付き添い、羽柴秀吉からその才知を気に入られ、1580年より父・小西隆佐(小西立佐)と共に羽柴家で重用されるようになり、父は1585年頃から河内・和泉両国の蔵入分代官となり、1581年には石田三成とともに堺政所に任じらた。
 小西行長は、豊臣政権において当初、播磨(兵庫県)の網干に近い室津で所領を与えられ、やがて、瀬戸内海の塩飽(香川県丸亀市)から堺にかけての船舶を監督する水軍の大将である「舟奉行」に任命され水軍を率いた。また、羽柴秀吉と諸大名との「取次役」としての働きも見受けられ、1584年に高山右近の後押しもあって洗礼を受けてキリシタンとなったとされるが、父親がもっと古くからキリシタンである為、以前からキリシタンであった可能性もある。
1585年には摂津守に任ぜられ、豊臣姓を名乗ることを許されているが、この頃、母・小西ワクサは豊臣秀吉の正室・おねの侍女として大阪城に上がった。
1585年の紀州征伐では、水軍を率いて参戦したが、雑賀衆の抵抗を受けて敗退したと言われている。太田城の水攻めでは、安宅船や大砲も運用して攻撃し、開城のきっかけを作ったともいわれている。
 それらの功で、1585年には小豆島10000石となり、小豆島ではセスペデス司祭を招いてキリスト教の布教を行い、島の田畑の開発を積極的に行った。
1586年の九州攻め準備の為、赤間関(山口県)までの兵糧を輸送した後、平戸(長崎県)に向かって松浦氏の警固船出動を監督した。
 1587年の九州征伐では、薩摩・平佐城攻略の搦手口の大将として参加。父・小西隆佐(小西立佐)は兵糧を担当したようで、他にも豊臣秀吉の代理人として南蛮船が輸入した生糸の優先買い付けのため、長崎に赴いている。
 1587年、豊臣秀吉がバテレン追放令を出し、改易となった高山右近や、オルガンティーノ宣教師を一時、小豆島に隠した。
 1588年、一揆制圧に失敗した佐々成政の肥後国人一揆討伐で功をあげ、改易された佐々成政の肥後南半国の宇土、益城、八代の約20万石と大出世し、宇土古城に入った。
豊臣秀吉は熊本城を中心に北半分は武功派の加藤清正に、南半分を頭脳派の小西行長に与えたのだ。肥後で小西行長は新たに宇土城を築城開始して本拠を移した。
 しかし、その際に宇土城普請に従わなかった天草五人衆が蜂起(天草国人一揆)。天草五人衆は豊臣秀吉から直接領地安堵されており、小西行長とは対等な立場と考えていたようだ。  
 キリシタンの多い天草衆に対して、同じキリシタンの小西行長は事態を穏便に済ませようとしたが、加藤清正が強固に軍勢を派遣した為、小西行長は加藤清正らとともに平定し、天草10000石も加増された。
宇土城は水城として優れた能力を持った城で、豊臣秀吉は、のちに計画していた朝鮮出兵を考えて、水軍統率に長けた小西行長を肥後に封じたと考えられる。また、豊臣秀吉は八代に麦島城を築城し、小西家三家老の一人で古麓城代ある小西行重(小西美作守行重)に麦島城代を命じた。天草はご承知の通り、70%以上の人々が熱心なキリシタンの地であり、イエズス会の活動を小西行長は支援し、領内に多くの宣教師を招いて教会や聖学校を建て、パイプオルガンや時計も作った。
隈庄城、木山城、矢部城、愛藤寺城を支城として、隈庄城に弟・小西主殿介、愛籐寺城には結城弥平次ら一族重臣を城代に任じ、バテレン討伐令で失脚した高山右近の旧臣を多数家臣に取り立てている。しかし、残りの肥後北半国を領していた加藤清正とは境界線をめぐって次第に確執を深めて行った。
小西行長の名が広く知られるようになったのは明の沈惟敬(しんいけい)との講和交渉を小西行長が日本代表として交渉を進めたからである。しかし、朝鮮攻めが決定すると、1592年からの文禄の役では、娘・妙の婿でもある対馬領主の宗義智と共に第一軍として6000を率いて朝鮮へ渡航。小西行長と加藤清正の両名が先鋒となることを希望していたが、豊臣秀吉は小西行長に大黒の馬を贈って先鋒として、加藤清正を2番手とした。
 小西行長らは漢城(現ソウル)を陥落させるなど進撃したが、その後はこう着状態となり、小西行長・石田三成らが中心となって和平交渉を進めた。この時、父・小西隆佐(小西立佐)は、兵糧の後方支援を担当していたようだが、肥前国名護屋で発病すると帰国したが、1592年京都で亡くなっている。
 小西行長は、1597年の慶長の役でも加藤清正と共に先鋒を任命されて、南原城攻略などで活躍したが、1598年8月、豊臣秀吉が亡くなり戦いは終結し、島津義弘らの救援も受けて殿軍(しんがり)を務め、12月に無事帰国した。その後は、徳川家康の指示で動くようになり、1599年に薩摩で起こった島津家の内紛では、徳川家康から派遣されている。
1600年、上杉景勝の会津征伐では、徳川家康より上方残留を命じられ、関ヶ原の戦いでは、石田三成に協力して西軍として布陣した。徳川家康寄りだったにも拘わらず、小西行長が西軍に与したのには、朝鮮出兵で強く結びついていた石田三成や、以前仕えた宇喜多家への義理、東軍の加藤清正との対立などが考えられる。小西行長の兵力は、朝鮮出兵での消耗からまだ立ち直っておらず、意外なほど小規模だったようで、4000と言う布陣は石田三成らが貸した兵が多かったとされる。
 小西行長は天満山に布陣して東軍の田中吉政、筒井定次らの部隊と交戦したが、小早川秀秋らの裏切りで大谷吉継が壊滅すると、続いて小西行長・宇喜多秀家も崩れ、小西行長は伊吹山中に逃亡した。9月19日、関ヶ原の庄屋・林蔵主に匿われていたが、観念した小西行長は自らを捕縛して褒美をもらうように林蔵主に薦めたと言う。(キリシタンだった為、自害はしなかったとされる。)
 しかし、林蔵主はこれを受けず、竹中重門の家臣・伊藤源左衛門と山田杢之丞の両名に事情を説明して、共々小西行長を護衛して草津にあった村越直吉の陣まで連れて行ったと言う。その2日後には石田三成が捕まり、その翌日には安国寺恵瓊が捕縛された。
 3人は9月29日に大坂と堺で引き廻されて、10月1日、京都の六条河原にて処刑された。その後、首は三条河原で晒されたと言う。享年46。 】

カトリック高槻教会にある右近像.jpg

カトリック高槻教会にある右近像(イタリア人の彫刻家ニコラ・アルギイニの作)
http://www.catholic-takatsuki.jp/ukon_takayama/


https://www.touken-world.jp/tips/65545/

【 西暦(和暦)  年齢 出来事
1552年(天文21年)1歳  摂津国(現在の大阪府北中部、及び兵庫県南東部)にて、高山友照(たかやまともてる)の嫡男として生まれる。高山氏は、59代天皇・宇多天皇(うだてんのう)を父に持つ敦実親王(あつみしんのう)の子孫。また高山氏は、摂津国・高山(大阪府豊能町)の地頭を務めていた。
1564年(永禄7年)13歳  父・高山友照が開いた、イエズス会のロレンソ了斎(ろれんそりょうさい)と、仏僧の討論会を契機に入信。妻子や高山氏の家臣、計53名が洗礼を受け、高山一族はキリシタンとなる。高山右近の洗礼名ドン・ジュストは、正義の人を意味する。父はダリヨ、母はマリアという洗礼名を授かる。
1568年(永禄11年)17歳 織田信長の強力な軍事力による庇護のもと、室町幕府15代将軍となった足利義昭(あしかがよしあき)の命により、高槻城(たかつきじょう:大阪府高槻市)に和田惟政(わだこれまさ)が派遣される。これに伴い、高山友照・高山右近親子は、和田氏に仕えることとなる。
1571年(元亀2年)20歳  白井河原の戦い(しらいかわらのたたかい)において和田惟政が、池田氏の重臣・荒木村重(あらきむらしげ)に討たれる。高山右近は和田惟政の跡を継いだ嫡男・和田惟長(わだこれなが)による高山親子の暗殺計画を知る。
1573年(元亀4年/天正元年)22歳 荒木村重の助言を受け、主君・和田惟長への返り討ちを決行。高槻城で開かれた会議の最中に、和田惟長を襲撃し致命傷を負わせた。その際、高山右近も深い傷を負う。高山親子は荒木村重の配下となり、高槻城主の地位を高山右近が譲り受ける。
1578年(天正6年)27歳  主君・荒木村重が織田家から離反。高山右近が再考を促すも荒木村重の意志は固く、やむなく助力を決断。荒木村重は居城・有岡城(ありおかじょう:兵庫県伊丹市)での籠城を決め、有岡城の戦い(ありおかじょうのたたかい)へと発展。
1579年(天正7年)28歳  有岡城にて織田軍と対峙。織田信長から、「開城しなければ、修道士達を磔(はりつけ)にする」という苛烈な脅しを受ける。これにより高山右近は領地や家族を捨て頭を丸め紙衣(かみこ)一枚で、単身織田信長のもとへ投降。その潔さに感じ入った織田信長は、再び高槻城主の地位を高山右近に安堵。摂津国・芥川郡(あくたがわぐん)を拝領した高山右近は、2万石から4万石に加増され、以降織田信長に仕えることとなる。
1580年(天正8年)29歳  織田信長が、安土城城下に諸将のための邸宅を建築。高山右近にも授与される。
1581年(天正9年)30歳  織田信長の使者として、鳥取城(鳥取県鳥取市)を侵攻中の羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)のもとへ参陣。織田信長秘蔵の名馬3頭を羽柴秀吉に授与し、織田信長へ戦況を報告する。ローマから派遣された巡察師、アレッサンドロ・ヴァリニャーノを迎え盛大な復活祭を開催する。
1582年(天正10年)31歳 甲州征伐において、織田信長が諏訪に布陣。西国諸将のひとりとしてこれに帯同する。山崎の戦いでは先鋒(せんぽう)を務め、明智光秀軍を破る。
1583年(天正11年)32歳 柴田勝家との賤ヶ岳の戦い(しずがたけのたたかい)で、豊臣家の勝利に貢献する。
1584年(天正12年)33歳 徳川家康・織田信雄(おだのぶかつ)連合軍と、豊臣軍が対峙した小牧・長久手の戦い(こまき・ながくてのたたかい)に参戦。
1585年(天正13年)34歳 歴戦の戦功が認められ、播磨国・明石(現在の兵庫県明石市)の船上城(ふなげじょう)を豊臣秀吉から拝領。6万石の大名となる。
1587年(天正15年)36歳 6月、筑前国(現在の福岡県西部)でバテレン追放令が施行される。豊臣秀吉に棄教を迫られ、領土の返上を申し出る。かつて同じく豊臣秀吉の家臣を務めていた小西行長(こにしゆきなが)にかくまわれ、肥後国(現在の熊本県)や小豆島(現在の香川県小豆郡)で暮らす。最終的には、加賀国(現在の石川県南部)の前田利家(まえだとしいえ)に預けられ、密かに布教活動を続けながら禄高1万5,000石を受け、政治面や軍事面の相談役となる。
1600年(慶長5年)49歳  関ヶ原の戦いの前哨戦である浅井畷の戦い(あさいなわてのたたかい)では東軍に属し、丹羽長重(にわながしげ)を撃退する。
1609年(慶長14年)58歳 高岡城(現在の富山県高岡市)の縄張設計を担当。
1614年(慶長19年)63歳 キリシタンへの弾圧が過酷さを増し、徳川家康がキリスト教の禁教令を発布。国外追放の命令が下され、妻・高山ジュスタを始めとする一族を引き連れ、長崎経由でスペイン領ルソン島のマニラ(現在のフィリピン)へ旅立つ。スペイン国王の名において国賓待遇で歓待された。
1615年(慶長20年/元和元年)64歳 前年の上陸からわずか40日後、熱病に冒され息を引き取る。葬儀は聖アンナ教会で10日間に亘って執り行われ、マニラ全市を挙げて祈りが捧げられた。
2016年(平成28年) バチカン市国にあるローマ教皇庁から、福者(ふくしゃ:没後、その聖性と徳を認められた信者に与えられる称号)に認定される。 】

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-03-13

【(「高台院」周辺(侍女)のキリシタン関係者)

小西行長(洗礼名=アウグスティヌス(アゴスチノ、アグスチノ)/ドム・オーギュスタン・ジヤクラン)
↑↓
父:小西隆佐(洗礼名:ジョウチン)、※母:ワクサ(洗礼名:マグダレーナ)=侍女
兄弟:如清(洗礼名:ベント)、行景(洗礼名:ジョアン)、小西主殿介(洗礼名:ペドロ)、小西与七郎(洗礼名:ルイス)、伊丹屋宗付の妻(洗礼名:ルシア)
妻:正室:菊姫(洗礼名:ジュスタ)
側室:立野殿(洗礼名:カタリナ)
※娘:小西弥左衛門の妻 - 菊姫との間の子。霊名カタリナ

高山右近(洗礼名=ジュスト・ユスト)
↑↓
父母:父:高山友照、母:高山(洗礼名=マリア)
妻:正室・高山(洗礼名=ジュスタ)
子:洗礼名・ルチヤ(横山康玄室)

内藤如安(洗礼名=洗名ジョアン)
↑↓
父母:父・松永長頼、母:・藤国貞の娘 妹・内藤ジュリア=女子修道会ベアタス会を京都に設立=豪姫の洗礼者?

不干斎ハビアン(1565-1621)の母ジョアンナ=北政所(おね、高台院)の侍女→佐久間信栄(1556-1632)=不干斎との関係は? 】

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-04-19

小西行長文鞍.jpg

「梅花皮写象牙鞍(かいらぎうつしぞうげくら) 伝小西行長所用」(安土桃山時代・16世紀 個人蔵)
https://www.kyuhaku.jp/exhibition/exhibition_s39.html

【 梅花皮を模した象牙をふんだんに散りばめた美麗な鞍。小西行長が息女・マリアを対馬の大名・宗義智に嫁がせた際に持たせたものといいます。関ヶ原合戦で行長は斬罪に処されてしまい、徳川政権下での生き残りを図る義智は、マリアを離縁しました。行長の栄光と悲劇を伝える名品です。  】

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-03-07

【≪ もし、宗教を大きく、父の宗教と母の宗教とにわけて考えると、日本の風土には母の宗教-つまり、裁き、罰する宗教ではなく、許す宗教しか、育たない傾向がある。多くの日本人は基督教の神をきびしい秩序の中心であり、父のように裁き、罰し怒る超越者だと考えている。だから、超越者に母のイメージを好んで与えてきた日本人には、基督教は、ただ、厳格で近寄り難いものとしか見えなかったのではないかというのを私は序論にした。≫
(遠藤周作『小さな町にて』)

 この遠藤周作の「父の宗教と母の宗教」とに関連して、その遠藤周作の「小西行長伝」の副題がある『鉄の首枷』の、当時の「キリシタン大名」としての「高山右近と小西行長」との、その対蹠的な「キリシタン受容」の仕方が交差して来る。
 この二人は、豊臣秀吉の配下にあって、共に、イエズス会士として、高山右近が「陸の司令長官」とすると、小西行長は「海の司令官」ともいうべき、当時のキリシタン大名の中で将来の嘱望を託された若手の屹立した位置にあった二人と言える。
 そして、天正十四年(一五八七)の豊臣秀吉の「禁教令」(バテレン追放令=伴天連追放令)により、その翌年に高山右近は棄教を迫られるが、右近は信仰を守るために、播磨国(兵庫県)明石領(六万石)の全ての領地と財産を秀吉に返上し、明石領からの追放処分を受ける。
 この時に、その最終の棄教を促す使者として、右近の茶道の師匠である「千利休」に対し、右近は「『宗門は師君の命を重んずる、師君の命というとも改めぬ事こそ武士の本意ではないか』と答えた。利休はその志に感じて異見を述べなかった(『混見摘写』)」と言われている(「ウィキペディア」)。
 この高山右近が明石領から追放処分を受けた天正十五年(一五八七)の「小西行長年譜」(『鉄の首枷(遠藤周作)』所収)には、次のとおり記されている。

≪天正十五年(一五八七)丁亥 (小西行長)三十歳
一月 秀吉自ら島津氏を討つことを決し、諸臣に布告、先鋒を送る。
三月 秀吉、大阪を発して西下する。
四月二十八日 小西行長、加藤嘉明、脇坂安治、九鬼嘉隆の率いる水軍は、秀吉の命で薩摩平佐城を攻撃する。
五月 秀吉は薩摩川内に入り、島津義久は降伏する。(略)
六月七日 秀吉は筑前宮崎に帰り、九州諸大名の封城を定める。(略)
同十九日 秀吉は日本副管区長コエリョを呼びつけてキリスト教の禁止、二十日以内を期して国外追放を布告する。高山右近は棄教を肯んぜず、明石の所領を棄てる。
六月下旬~七月上旬 この頃オルガンティーノ師は動揺した小西行長と室津で会う。信仰と権力の板挟みになった行長は、面従腹背に生きる。
八月~九月 (略)
十月 秀吉は北野大茶湯を催す。 ≫(「小西行長年譜」(『鉄の首枷(遠藤周作)』p271所収)

この「小西行長年譜」に出てくる、小西行長の「面従腹背の生き方」について、『鉄の首枷』では、次のように綴っている。

≪ 右近が永遠の神以外には仕えぬと室津で語った時、行長は友人とはちがった「生き方」をしようと決心した。それは堺商人がそれまで権力者にとってきたあの面従腹背(めんじゅうふくはい)の生き方である。表では従うとみせ、その裏ではおのれの心はゆずらぬという商人の生き方である。(中略)
室津で行長がオルガンティーノの決意の前に泣いたことは彼の生涯の転機となった。その正確な日付は我々にはわからぬが天正十五年(一五八七)の陰暦六月下旬から七月上旬であったことは確かである。ながい間、彼は神をあまり問題にはしていなかった。彼の受洗は幼少の時であり、その動機も功利的なものだったからだ。にもかかわらず彼はこの日から、真剣に神のことを考えはじめるようになる。そのためには高山右近という存在とその犠牲が必要だったのである。≫(『鉄の首枷』p95-98)

 ここで、「高山右近」(行長より六歳上とすると三十六歳)の、「永遠の神(Deus)以外には仕えぬ」とする、その「キリシタン受容」を、「父の宗教」とすると、上記の「小西行長」の「面従(面=棄教=永遠の神(Deus)を棄てる)、腹背(心=永遠の神(Deus)に従う)」の「キリシタン受容」の仕方も、これまた、壮絶な「父の宗教(Deus)=キリスト信仰」であるという思いと同時に、ここに、「母なる宗教(Mariae)=マリア信仰」の、その萌芽の全てが宿っているように解したい。
 グレコには、上記の「 ペテロは、外に出て、激しく泣いた。」( ルカの福音書 22章62節 )を主題とした「聖ペテロの涙」の作品もあるが、そこには、「小さくマグダラのマリア」が描かれている。この「マグダラのマリア」とは、「聖母マリア」が「キリストの生母たるマリア」とするならば、「キリストの最期をみとった使徒たるマリア」ということになる。

ペドロの涙.jpg

聖ペテロの涙 エル・グレコ フィリップス・コレクション蔵
https://www.marinopage.jp/%e3%80%8c%e8%81%96%e3%83%9a%e3%83%86%e3%83%ad%e3%81%ae%e6%b6%99%e3%80%8d/

≪ 遠く雷鳴が聞こえてきそうな空の下、ペテロはキリストを裏切り、三度否認したことを悔いて、天を仰ぎ涙を流しています。
 グレコ独特の、白眼の部分のウルウルした光がペテロの心情をよく表していて、彼をこの上なく高貴な存在として輝かせています。ペテロの背後には、蔦がからまる洞窟が描かれていますが、蔦は「不滅の愛」のシンボルとされていますから、すでにキリストが悔い悩むペテロを赦し、愛をもって包もうとしているのが感じられます。
 当時、カトリック教会は「悔悛」をテーマとした作品を称揚していましたから、宗教画家だったグレコはマグダラのマリアの悔悛とともに、この聖ペテロをテーマとして礼拝用にいくつも描いています。その中で、この作品はごく初期のもので、グレコ特有のデフォルメもまだ自然な段階にあり、非常に親しみ易い作品の一つと言えると思います。それでも、どこか地上的要素が姿を消し、超自然的な雰囲気が漂ってしまうところは、やはりグレコ・・・と思ってしまうのです。
 できれば自分もゆらゆら揺れて天に昇ってしまいたい、と願うように両手を組むペテロの左手奥には、見えにくいのですが、小さくマグダラのマリアが描かれています。これは、磔刑の三日後、マグダラのマリアが香油を持ってイエスの棺を訪れたことを暗示しています。すでにその時、主は復活した後で、石棺に白い天使が座っていました。これをペテロに知らせようとするマグダラのマリアの姿が描き込まれているのです。
 流れるようなタッチの中に劇的な雰囲気が漂い始めた時期の、グレコらしい作品です。≫  】

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「忘れがたき風貌・画像」逍遥(その八) [忘れがたき風貌・画像]

その八 「二人の能登・堺の等伯」(「長谷川信春=等白=等伯」と「高山右近=南坊等伯」)周辺

大徳寺三門天井画(等伯).jpg

「大徳寺三門天井画・『蟠龍図』(長谷川等白(等伯)筆)」 天正十七年(一五八九) 京都・大徳寺
https://media.thisisgallery.com/20229664

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-05-31

【 「蟠龍(ばんりゅう)」図とは、「とぐろを巻いた龍のこと。地面にうずくまって、まだ天に昇らない龍」図で、長谷川等白(等伯)筆に成る「大徳寺三門天井画」には、この他に、その北側に「雲龍」図(「蟠龍」図の北側)、それら続けて「昇龍」図(西側天井図)と「降龍」図(東側天井図)、それらの脇に、「天人像」「迦陵頗伽像」(東側天井図)と「天人像」「迦陵頗伽像」(西側天井図)とが描かれている。
 それらに付け加えて、「降龍」図(東側天井図)と「天人像」「迦陵頗伽像」(東側天井図)との間の「柱」に「阿形仁王像」、そして、「昇龍」図(西側天井図)と「天人像」「迦陵頗伽像」(西側天井図)との間の「柱」に「吽形仁王像」とが描かれている。
 これらの全容は、『没後400年 特別展「長谷川等伯」展図録(「毎日新聞社・NHK・NHKプロモーション刊」)』 の、「参考図版解説 大徳寺三門壁画」の解説に詳しい。これらの大徳寺三門壁画」周辺と「長谷川等伯・年表」を、「ウィキペディア」で抜粋すると、次のとおりとなる。 】

【  大徳寺三門天井画・柱絵(京都・大徳寺)
 天正17年(1589年)板絵著色。内訳は、中央に「雲龍図」と「蟠竜図」、その外側にそれぞれ「昇竜図」と「降竜図」、柱に阿吽の「仁王像」、さらに両サイドに「天人像」と「迦 陵頻伽像」を一体ずつ描く。等伯が大絵師への道を辿る契機となった記念碑的作品。この絵でのみ「等白」と署名しており、等伯と名乗る前の画号とみなされている。なおこれらの絵画は、温湿度の影響を非常に受けやすいため、作品保護の観点から一切の拝観が禁止されている。 

   中央画壇での活躍
 天正17年(1589年)、利休を施主として増築、寄進され、後に利休切腹の一因ともなる大徳寺山門の天井画と柱絵の制作を依頼され、同寺の塔頭三玄院の水墨障壁画を描き、有名絵師の仲間入りを果たす。「等伯」の号を使い始めるのは、これから間もなくのことである。 
 天正18年(1590年)、前田玄以と山口宗永に働きかけて、秀吉が造営した仙洞御所対屋障壁画の注文を獲得しようとするが、これを知った狩野永徳が狩野光信と勧修寺晴豊に申し出たことで取り消された。この対屋事件は、当時の等伯と永徳の力関係を明確に物語る事例であるが、一方で長谷川派の台頭を予感させる事件でもあり、永徳の強い警戒心が窺える。この1か月後に永徳が急死すると、その危惧は現実のものとなり、天正19年(1591年)に秀吉の嫡子・鶴松の菩提寺である祥雲寺(現智積院)の障壁画制作を長谷川派が引き受けることに成功した。
 この豪華絢爛な金碧障壁画は秀吉にも気に入られて知行200石を授けられ、長谷川派も狩野派と並ぶ存在となった。しかし、この年に利休が切腹し、文禄2年(1593年)には画才に恵まれ跡継ぎと見込んでいた久蔵に先立たれるという不幸に見舞われた。この不幸を乗り越えて、文禄2年から4年(1593年 - 1595年)頃に代表作である『松林図屏風』(東京国立博物館蔵)が描かれた。

   年表
天文8年(1539年) - 能登国七尾に生まれる。
永禄6年(1563年) -『日乗上人像』(羽咋・妙成寺蔵)を描く。
永禄11年(1568年  - 長男・久蔵生まれる。
元亀2年(1571年) - 養父・宗清、養母・妙相没。この年に上洛か。
天正7年(1579年) - 妻・妙浄没。
天正17年(1589年) -『大徳寺山門天井画・柱絵』『山水図襖』(大徳寺蔵)を描く。妙清を後妻に迎える。
文禄2年(1593年) - 『祥雲寺障壁画』(智積院蔵)を完成する。長男・久蔵没。
慶長4年(1599年) -『仏涅槃図』(本法寺蔵)を描く。この頃「自雪舟五代」を自称する。
慶長9年(1604年) - 法橋に叙せられる。後妻・妙清没。
慶長10年(1605年) - 法眼に叙せられる。
慶長11年(1606年) - 『龍虎図屏風』(アメリカ・ボストン美術館蔵)を描く。
慶長15年(1610年) - 江戸下向到着後、没。享年72。  】

【 長谷川等伯が、この「大徳寺三門天井画・柱絵」を制作した「天正十七(一五八九)」は、等伯、五十一歳の時で、この年は、大きな節目の年であった。等伯の生涯は、大きく、次の五期に区分することが出来る。

https://www.nanao-cci.or.jp/tohaku/life.htm

能登の時代(33歳頃まで) →  能登の絵仏師「信春」の時代
京都・堺の時代(33歳~50歳頃)→ 上洛・雌伏・転機「信春から等白」の時代  
京都の時代(50歳代)→「狩野派」と二分する「長谷川派」誕生「等白から等伯」の時代
京都の時代(60歳代)→「桃山謳歌」の「等伯・法橋」の時代
京都の時代(70歳~72歳)→「江戸狩野派・探幽の時代」の「等伯・晩年」の時代

「天正17年(1589年)、利休を施主として増築、寄進され、後に利休切腹の一因ともなる大徳寺山(三)門の天井画と柱絵の制作を依頼され、同寺の塔頭三玄院の水墨障壁画を描き、有名絵師の仲間入りを果たす。「等伯」の号を使い始めるのは、これから間もなくのことである」(「ウィキペディア」)のとおり、「能登の絵仏師・長谷川信春」が、後の「天下の大絵師・長谷川等伯」に脱皮するのは、「京都・堺」を本拠とする「天下の大茶人・千利休」が大きく介在していることが、これらの「長谷川等伯年表」などから浮かび上がってくる。】

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-05-31

高山右近自筆書状(石川県立美術館蔵).jpg

「高山右近自筆書状(石川県立美術館蔵)」 金沢市有形文化財
https://www4.city.kanazawa.lg.jp/soshikikarasagasu/bunkazaihogoka/gyomuannai/3

【 キリシタン大名高山長房(通称右近)は、茶人で利休七哲の一人としても知られ、南坊・等伯などと号しました。豊臣秀吉の伴天連追放令により領地を失いましたが、前田利家の招きで天正16年(1588年)秋頃金沢に移り住んでいます。
 利家没後、利長に仕え、築城技術の経験をかわれて、金沢城の修築さらに高岡築城に采配を振るい、大聖寺城(山口玄蕃)攻略にも参加しました。その間、娘を前田家重臣横山長知の子康玄に嫁がせましたが、老母と長男を失ってからは、徳川家康のキリシタン禁教で、慶長19年(1614年)正月17日に金沢を去るまでの間、信仰と茶湯三昧の生活を送ったと伝えられています。
 本書状は右近の金沢滞在中の足跡を示すもので、姪の嫁ぎ先でもある特権商人片岡孫兵衛(休庵)に、茶の湯に用いる鶴の羽ほうきが出来たので招待したいと申し入れたものです。

(釈文)
一両日不縣御目
御床布候、仍先日之
鶴之羽はうき御ゆ
い候はゝ、少見申度候
ゆわせ候者今晩参候間
ほんに見せ申度候
かしく
十一月廿六日 等伯(花押)
(封紙ウワ書)
「休庵公御床下 南坊」       】(「金沢市文化財保護課」)

【 この「高山右近自筆書状(石川県立美術館蔵)」の解説のとおり、「豊臣秀吉の伴天連追放令により領地を失いましたが、前田利家の招きで天正16年(1588年)秋頃金沢に移り住んでいます」と、「茶人で利休七哲の一人・キリシタン大名高山長房(通称右近)」は、この当時、「長谷川等伯」の生まれ故郷の「金沢・能登」に移住していて、「南坊(みなみのぽう)等伯(とうはく)」の、「金沢・能登」出身の、「長谷川等白」ではなく、「等伯(「天下の大絵師・長谷川等伯」)の、その「等伯」を名乗っている。
 ということは、「高山右近」が「南坊・等伯」を名乗るのは、天正十七年(一五八九)後の、「等白」から「等伯」へと移行した、その翌年(天正十八年=一五九〇)の「狩野永徳」が没した(九月十四日没)年以降の当たりが、一つの目安になるのかも知れない。
 その翌年(天正十九年=一五九一)の二月二十八日に、「千利休」≪大永2年(1522年) - 天正19年2月28日(1591年4月21日)≫は、豊臣秀吉の命により自刃させられている。
 これらに関連して、天正十七年(一五八九)に、長谷川等伯は、「千利休・高山右近・小西行長」らに関係の深い「堺」出身の「妙清」を後妻に迎えている(先妻の妙浄は、天正七年=一五七九、等伯四十一歳の時に没している)ことなどから、等伯の「京都・堺の時代(33歳~50歳頃)」に、「千利休」(「高山右近」の「利休七哲」と関連の「キリシタン大名」など)との親交が深くなっていったのかも知れない。 】

等伯像.jpg

「本法寺境内に建つ等伯の銅像」(メモ:後方の松は「本阿弥光悦手植えの松」か?)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-12-11

【 長谷川等伯は1571(元亀2)年頃、故郷の七尾の菩提寺の本山だった本法寺を頼り、京都に出てきました。七尾ですでに画業で名を挙げていましたが、京都で絵の腕にさらに磨きをかけようとしたのでしょうか。現在も本法寺に隣接する塔頭の教行院(きょうぎょういん)に生活の拠点を得て、当時の最先端都市だった京や堺で絵を学びます。並行して千利休ら有力者とのパイプを築いていったと考えられています。

https://media.thisisgallery.com/works/hasegawatohaku_06      】

仏涅槃図.jpg

仏涅槃図(長谷川等伯筆)・本法寺蔵(メモ:光悦の寄進した「法華題目抄: 三九・七㎝×一四八八㎝」と「如説修行抄: 三九・七㎝×一四七二㎝」とも、長大な一巻である。)

【作品解説 
 東福寺、大徳寺所蔵のものと並び、京都の三大涅槃図に数えられる作品です。縦約10メートル、横約6メートルという巨大な作品で、首を上下左右に動かさなければ全体を見ることができません。この作品は完成後に宮中に披露された後、等伯が深く信頼を寄せていた本法寺に寄進されました。釈迦の入滅と、その死を嘆く弟子や動物たちが集まっている様子が、鮮やかな色合いで表情豊かに描かれています。裏面には、等伯が信仰していた日蓮宗の祖師たちの名、本法寺の歴代住職、等伯の親族、そして長谷川一門を担う存在として期待を寄せていた長男・久蔵たちの供養名が記されています。等伯の信仰の深さと、一族への祈りが込められた作品といえるでしょう。】

(本法寺の重要文化財) 『ウィキペディア(Wikipedia)』

重要文化財(国指定)
長谷川等伯関係資料
絹本著色日堯像(長谷川信春(等伯)筆)
絹本著色日通像(長谷川等伯筆)
紙本墨画妙法尼像(長谷川等伯筆)
紙本著色仏涅槃図(長谷川等伯筆)
等伯画説(日通筆)
附:日通書状
附:法華論要文(日蓮筆)
附:本尊曼荼羅(日親筆)
絹本著色日親像 伝狩野正信筆 - 2017年度指定[4][5]。
紙本金地著色唐獅子図 四曲屏風一隻[6][7]
金銅宝塔 応安三年(1370年)銘
紙本墨画文殊寒山拾得像[8] 3幅(文殊:啓牧筆、寒山拾得:啓孫筆)
絹本著色蓮花図(伝・銭舜挙筆)
絹本著色群介図
紫紙金字法華経(開結共)10巻
附:花唐草文螺鈿経箱
附:正月十三日本阿弥光悦寄進状
※法華題目抄(本阿弥光悦筆)
※如説修行抄(本阿弥光悦筆)

(周辺メモ)

※法華題目抄(本阿弥光悦筆)→『書道芸術第十八巻 本阿弥光悦』作品解説138
 紙本 一巻 三九・七㎝×一四八八㎝ 

※如説修行抄(本阿弥光悦筆)→『書道芸術第十八巻 本阿弥光悦』作品解説139
紙本 一巻 三九・七㎝×一四七二㎝ 

カトリック高槻教会にある右近像.jpg

カトリック高槻教会にある右近像(イタリア人の彫刻家ニコラ・アルギイニの作)
http://www.catholic-takatsuki.jp/ukon_takayama/

【 高山右近は、1552年、摂津の国高山(現在の大阪府豊能郡)に生まれました。6歳から大和の国 沢城(現在の奈良県宇陀郡榛原町)に住み、12歳のときに父飛騨守(洗礼名ダリオ)の影響で洗礼を受け(洗礼名ユスト)、その後高山親子は芥川城を経て、1570年頃高槻城に入り、1573年父飛騨守が城主となり、同年続いて右近が21歳で高槻城主となりました。
 「高山右近の領内におけるキリシタン宗門は、かってなきほど盛況を呈し、十字架や教会が、それまでにはなかった場所に次々と建立された・・・五畿内では最大の収容力を持つ教会が造られた」(フロイス「日本史」)。1576年、オルガンティーノ神父を招いて、荘厳、盛大に復活祭が祝われ、1577年には一年間に4,000人の領民が洗礼を受け、1581年には巡察師ヴァリニャーノを高槻に迎え、盛大に復活祭が行なわれた。同年、高槻の領民25,000人のうち、18,000人(72%)がキリシタンでした。
 ところが、1578年に右近の主君である荒木村重が信長に謀反、右近は荒木への忠誠を示すために妹と長男を人質に出してこれを翻意させようとするが失敗、一方信長は右近が自分に降らなければ、宣教師とキリシタンを皆殺しにして教会を破却すると脅した。右近は城内にあった聖堂にこもり、祈り、ついに武士を捨てる決心をし、着物の下に着込んでいた紙の衣一枚で信長のところへ向かった。結果的には右近の家臣によって高槻城は無血開城、信長に投降したので、信長は右近に再び高槻城主として仕えるように命じ、人質も解放され、この難局はぎりぎりのところで解決したのでした。】(「カトリック 高槻教会」)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-05-12

主なキリシタン大名.jpg

「主なキリシタン大名」((「世界の歴史まっぷ」)
https://sekainorekisi.com/japanese_history/%e5%8d%97%e8%9b%ae%e8%b2%bf%e6%98%93%e3%81%a8%e3%82%ad%e3%83%aa%e3%82%b9%e3%83%88%e6%95%99/#toc_index-3

【 ポルトガル船は、布教を認めた大名領の港に入港したため、大名は貿易を望んで宣教師を保護するとともに、布教に協力し、なかには洗礼を受ける大名もあった。彼らをキリシタン大名と呼ぶが、そのうち、大友義鎮(おおともよししげ)(宗麟、洗礼名フランシスコ)・有馬晴信(洗礼名プロタジオのちジョアン、1567-1612)・大村純忠(ドン゠バルトロメオ、1533〜87)の3大名は、イエズス会宣教師ヴァリニャーニ(1539〜1606)の勧めにより、1582(天正10)年、伊東マンショ(1569?〜1612)・千々石ミゲル(ちぢわみげる)(1570〜?)・中浦ジュリアン(1570?〜1633)・原マルチノ(1568?〜1629)ら4人の少年使節をロ一マ教皇のもとに派遣した(天正遣欧使節)。彼らはゴア・リスボンを経てロ一マに到着し、グレゴリウス13世(ローマ教皇)に会い、1590(天正18)年に帰国している。また大友義鎖や黒田孝高(くろだよしたか)(如水=じょすい、ドン゠シメオン、1546〜1604)·黒田長政(1568〜1623)父子のように、ロ一マ字印章を用いた大名もいるほか、明智光秀の娘で細川忠興(ほそかわただおき)(1563〜1645)夫人の細川ガラシャ(1563〜1600)も熱心な信者として知られている。 】(「世界の歴史まっぷ」所収「南蛮貿易とキリスト教」)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-04-25

茨城キリシタン遺物史料館地図.jpg

「千提寺・下音羽、高山、能勢の位置関係-高槻の山間部-」(「大阪府茨木市千提寺・下音羽地区のキリシタン遺物」p27)

【 千提寺・下音羽のキリシタン遺物を「点」で見るのではなく、「面」で見ることが必要です。現在の北摂の山間部は、能勢町・豊能町・箕面市・茨木市・高槻市と分かれていますが、右近の時代を考える時には、これらの山間部を一体的に捉える必要があるのです。
 1563年父ダリオが受洗後、高山周辺で最初の布教が行われました。その後、右近の戦の功績に対し、信長・秀吉は、父ダリオの出身地高山の周辺の山間部を、右近に与えていきます。
 この山間部では、1580年頃から集中的に布教が行われた結果、多くの僧侶を含む集団改宗が行われました。宣教師の記録で「高槻の山間部」という名前で度々登場してきます。改宗した元僧侶の強い指導のもとに団結し、農民主体の強力な信仰共同体が生まれ、江戸時代の厳しい禁教令のなかでも信仰が維持されました。このような歴史を持つ北摂の山間部から、多くの貴重なキリシタン遺物が大正時代発見されたのです。これらの遺物によって右近の時代の信仰を知ることができます。 】(「大阪府茨木市千提寺・下音羽地区のキリシタン遺物」)

原田家本・追記.jpg

「マリア十五玄義図(原田家本)」(「大阪府茨木市千提寺・下音羽地区のキリシタン遺物」p10)

【 (上段の聖母子像)

・中央の上段には右手で幼いイエス(地球儀を右手で持つ)を抱き、左手で白いバラ(椿)の花をつまんでいる聖母マリア様の絵が描かれています。このバラの聖母子像は、もともとの原型があるそうで、幼いイエスが手にするのはロザリオだそうです。この15玄義図では、十字架が付いている地球儀を持った幼きイエスとして描かれています。これは、同じ千提寺で発見された「救世主像」の形に似ていると言われています。16世紀後半、公式にロザリオの祈りが認められ、教会歴で10月7日にロザリオの聖母の日と定めてから以降、ロザリオの祈りが広く普及しはじめ、よく描かれるようになった画題だそうです。  

  (下段の聖体讃美の図)

「いとも尊き秘跡、讃仰せられよ」ポルトガル語: LOVVADO SEIA
O SANCTISS (IMM)SACRAMENTO ( ) は新村氏の追補、新村氏訳

・左に聖イグナチオ・ロヨラ、右に聖フランシスコ・ザビエルが描かれ、名前の前には、いずれも、S.P(聖父)が付いているので、これらの作品は両聖人が列聖されてから制作されたと考えられている。(ザビエルの列聖式は1622年行われたが、大勅書の発布が遅れ、日本に知らされたのは1623年です。)
・12人使徒に加えられえた聖マチアス(5月14日)と、目をえぐり取られても、純潔を守った聖ルチア(12月13日)、何れも古代の殉教者ですが、両聖人が描き加えられた意味については諸説あります。この聖人を霊名とした日本の殉教者は数多くいます。

 ラテン語、左側:S.P.IGNATIVS SOCIETATISIESVS(イエズス会士聖イグナチウス S.P は 聖人の敬称
右側:S.P.FRANCISCVSXAVERIUS (聖フランシスコ ザビエル) 】(「大阪府茨木市千提寺・下音羽地区のキリシタン遺物」p10)
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「忘れがたき風貌・画像」逍遥(その七) [忘れがたき風貌・画像]

その七 「豊臣秀吉・千利休(聖家族)」周辺の人物群像

高台寺の聖母子像.jpg

高台寺所蔵の「聖母子像に花鳥文様刺繍壁掛」
https://www.kyotodeasobo.com/art/exhibitions/hideyoshi-woman/

(再掲)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-03-13

 このポスターの「戦国と秀吉をめぐる女性」(高台寺「掌美術館」)は、二〇一一年秋の特別展のものであるが、この絵図は、高台寺所蔵の「聖母子像に花鳥文様刺繍壁掛」で、この「聖母子像」関連については、下記のアドレスで、「秀吉に導かれて宝物殿に出会う……社寺調査の思い出……(河上繁樹稿)p108-110」を簡単に紹介した。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-02-12

【この屏風の実質的な注文主の「京都高台寺の『高台院)」側(「高台院側近の『親キリシタン・親千利休』(「秀吉が殉教させた二十六聖人そして賜死させた親キリシタン茶人の千利休)系の面々」)の人物というのは、「高台院(北政所・お寧・寧々)の侍女、マグダレナ(洗礼名)とカタリナ(洗礼名)」(「バジェニスの『切支丹宗門史』には、彼女(北政所)はアウグスチノ(小西行長)の母マグダレナ、同じく同大名の姉妹カタリナを右筆として使っていた。此の二人の婦人は、偉大なる道徳の鏡となってゐた。妃后(北政所)は、この婦人達に感心し、自由に外出して宗教上の儀礼を果たすことを赦してゐた」と記されている)

https://www.kyohaku.go.jp/jp/pdf/gaiyou/gakusou/31/031_zuisou_a.pdf

「秀吉に導かれて宝物殿に出会う……社寺調査の思い出……(河上繁樹稿))p108-110」

小西行長(洗礼名=アウグスティヌス(アゴスチノ、アグスチノ)/ドム・オーギュスタン・ジヤクラン)
※母:ワクサ(洗礼名:マグダレーナ)=高台院の侍女
※娘:小西弥左衛門の妻 - 菊姫との間の子、霊名カタリナ=高台院の右筆?  】

 その「秀吉に導かれて宝物殿に出会う……社寺調査の思い出……(河上繁樹稿))p110」
では、「『梵舜日記』によれば、マグダレナは慶長十五年(一五一〇)六月頃まで高台寺にいて北政所の世話を続けていたが、その後記録には出てこない。実子行長が慶長五年(一六〇〇) に四十三歳に斬首されているので、年齢からするとこのころに世を去ったのであろうか。その折、親しくしていた北政所に聖母子像を託したのではないだろうか」と記している(「ウィキペディア」では、「慶長3年(1598年)の秀吉の死後、マグダレーナは再び北政所に召されて侍女となったが、関ヶ原の戦いの敗報と行長の死を知り、悲痛の余りほどなく亡くなった」とあるが、この『梵舜日記』の「慶長十五年(一五一〇)六月頃まで高台寺にいて北政所の世話を続けていた」と解したい)。

 ここで、この高台院の侍女をしていたといわれる小西行長の母(洗礼名・マグダレーナ)などに関して、「ハーバード大学発!『レディサムライ』」の造語を副題とする『日本史を動かした女性たち(北川智子著・ポプラ新書)』の、「レディサムライ」の元祖のような「高台院・北政所・ねね(おね)」、そして「侍女マグダレナ」と「秀吉とねねの養女・豪姫(マリア)」との関連の箇所を紹介して置きたい。

【『日本史を動かした女性たち(北川智子著・ポプラ新書)』

第一部 ねねと豊臣家の女性たち
 第一講 ねねが武力の代わりに使ったもの
 第二講 安定した暮らしを守るために

(宣教師たちが伝えたねね)
P46- そう伝える宣教師の報告書には、まぐだれな、からら、るしゃ、…… ねねの侍女なのに、日本人の名前でない者がいます。かららとはClaraのこと。るしゃはLuciaのこと。そのほかにも、Monica(もにか)、Julia(じゅりあ)、Maria(まりあ)、Catarina(かてれいな)、Vrsula(うるすら)、Martha(まるた)、Paula(はうら)に、Ana(あんあ)……。日本に来ていたイエズス会士ルイス・フロイスの記録によると、大阪城にいた貴婦人や女官の中には、五、六人のキリシタンがおり、その既婚婦人のうちの一人がマグダレナだといいます。

(侍女マグダレナから情報収集を行っていた)
P46- 彼女はねねの侍女で、とても信心深い女性でした。キリスト教の祝日になると、大阪城を出て大阪の教会のミサに行っていました。彼女のおかげで普段は城の外に出ないねねでも、キリスト教関連の情報を聞き、城下町の様子を知ることができたといいます。それだけではありません。マグダレナは秀吉をも交えて、イエズス会宣教師のことや、彼らが信じる宗教について語り合っていました。大阪城にいた侍女は、秀吉とねねの生活の補助のためだけにそばにいたのではないようです。城の中にとどまらず城外で何が起こっているのかもねねに伝えていて、城にいながら外の状況を把握するために、侍女たちの場外での活動は貴重な情報源になっていました。(以下略)

第三講 苦難の時を乗り越える
第四講 変化に対応し、何度でもやり直す
第二部 世界に広がっていった日本のレディサムライ
 第五講 女性が手紙を書くということ
 第六講 女性たちは武器を手に戦ったのか
 第七講 日本の「大阪」のイメージを屏風で伝える―ドバイにて―
 第八講 レディサムライはゲイシャ? スパイ?
 第九講 当時の日本と世界の繋がりをどう捉えるか―アフリカにて―
 第十講 クイーンとレディサムライ―イギリスにて―
 第十一講 宗教の話を抜きには語れないレディサムライへの目録
(キリスト教の日本伝来)
(信仰を貫いたガラシャ)
(キリスト教徒として生きることを選んだねねの娘)
P181- ……(高山)ジュスト(右近)の母(マリア)は、太閤様の夫人で称号で(北)政所様と呼ばれている婦人(ねね)を訪問するために赴いた。そこで他の貴婦人たちがいる中で、(ねねに)非常に寵愛されていた二人のキリシタンの婦人たちの面前で、話題が福音のことに及んだとき、(北)政所様は次のように言った。「それで私には、キリシタンのの掟は道理に基づいているから、すべての(宗教)の中で、もっとも優れており、またすべての日本国の諸宗派よりも立派であるように思われる」と。そして(ねね)は、デウスはただお一方であるが、神(カミ)や仏(ホトケ)はデウスではなく人間であったことを明らかに示した。そして(ねねは)、先のキリシタンの婦人の一人であるジョアナの方に向いて、「ジョアナよ、そうでしょう」と言った。(ジョアナは)「仰せのとおりです。神(カミ)は日本人が根拠なしに勝手に、人間たちに神的な栄誉を与えたのですから、人間とは何ら異なるものではありません」と答えた。それから(北)政所様は同じ話題を続けて次のように付言した。「私の判断では、すべてのキリシタンが何らの異論なしに同一のことを主張しているということは、それが真実であることにほかならない。(その一方、)日本の諸宗派についてはそういうことが言えない」と。これらの言葉に刺激されて、別な婦人すなわち(前田)筑前(利家)の夫人は、称賛をもって種々話し始め、あるいはむしろ我らの聖なる掟に対して始めた称賛を続けて、すべての話を次のように結んだ。「私は私の夫がキリシタンとなり、わたしが(夫の)手本にただちに倣うようになることを熱望しています」と。
 (『十六・七世紀イエズス会日本報告集』第一部第二期、83-84頁) 】

 ここに出てくる人物は、「(高山)ジュスト(右近)の母(マリア)、太閤様の夫人=(北)政所=高台院=おね=ねね=秀頼正母・豪姫養母、前田)筑前(利家)の夫人=芳春院=おまつ=秀頼乳母・豪姫生母、ジョアナ=内藤ジュリアか?=豪姫の洗礼者? もう一人のキリシタン婦人=高台院侍女マグダレナか?=小西行長の母(ワクサ)」の四人と解すると、この四人は、『日本史を動かした女性たち(北川智子著・ポプラ新書)』の、その「レディサムライ」の名に相応しい。
 なお、小西行長の母(ワクサ)=マグダレナについては、『小西行長(森本繁著・学研M文庫)』では、「行長が刑死したとき、父の寿徳(隆佐)は、文禄二年(一五九三)に死亡していたので、この世になく、母のマグダレナは夫の死亡のあと間もなく病死して、次男のこの哀れな最期のことは知らなかったと思える。しかし『切支丹大名記』には『悲傷の極、行長刑死後幾何もなく、その後を追えり』とある。レオン・パジェスの『日本切支丹宗門史』では彼女の没年を慶長五年としている」(p297)と記述している。
 しかし、この「慶長五年(一六〇〇)死亡(説)」は、先の『『梵舜日記』の「慶長十五年(一五一〇)六月頃まで高台寺にいて北政所の世話を続けていた」との記述により、「慶長十五年(一五一〇)六月頃」まで、「高台寺にいて北政所の世話を続けていた」と解したい。
 また、『小西行長(森本繁著・学研M文庫)』の「宇津落城秘話」で、「内藤(小西)如安は、その妻子とともに加藤清正に降伏し、領内のキリシタンを統御するために方便として利用されたが、(略) 後に棄教を迫られ、嫡男好次のいる加賀金沢へ行くのである」との記述があり、「(前田)筑前(利家)」の客将となっている「高山右近」(一万五千石)と共にその客将(四千石)として仕え、慶長十八年(一六一三)、徳川家康のキリシタン追放令が出されると、慶長十九年(一六一四)九月二十四日に、高山右近・如安・その妹ジュリアらは呂宋(今のフィリピン)のマニラへ追放されることになる。

 こうして見てくると、「高台院(北政所・おね・ねね)・芳春院(おまつ)・マグダレナ(小西行長の母・高台院の侍女)・マリア(高山右近の母)・ジュリア(内藤如安の妹)・マリア(豪姫・高台院の養女・芳春院の四女)」、そして、「千宗恩(千利休の後妻・千少庵の生母・千宗旦の祖母)」などは、唯一無二の「「レディサムライ」の元祖にも喩えられる「高台院(北政所・おね・ねね)」の「文化サークル」圏内のメンバーと解しても、いささかの違和感を湧いてこない。
 そして、この「狩野内膳筆『南蛮屏風』」(神戸市立博物館蔵)の、その注文主も、この「高台院(北政所・おね・ねね)の『文化サークル』圏内のメンバー」より為されたものと解して置きたい。
 そして、そのことは、その「文化サークル』圏内のメンバーの、「高山右近の母・マリア、小西行長の娘・マリア(宗義智正室のマリア)、高台院と芳春院の娘・マリア(宇喜多秀家正室=豪姫)」等々の、「キリシタン・レディサムライ」の「洗礼名・マリア」を有する女性群像と、「東日本大震災」のあった「二〇一一」年に、初公開ともいえる「「聖母子像に花鳥文様刺繍壁掛」 (高台寺所蔵)の、その「聖母子像」の「マリア」像と、見事に一致してくる。
 ここで、この「狩野内膳筆『南蛮屏風』」(神戸市立博物館蔵)は、何時頃に制作されたのであろうか?
 このことに関しては、「内膳南蛮屏風の宗教性(小林千草稿)」(『文教大学国際学部紀要』第二号掲載)に、その引用書きのような感じて出てくる「狩野源助平渡路(ペドロ)」の、その「南蛮屏風」(リスボン古美術館蔵)との関連の考察が必要となって来るが、ここでは、下記アドレスで指摘をして置いたことを、そのまま踏襲して置きたい。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-02-12

【 四 ここで、何故、≪「お亀」が昇天した日(慶長11年10月29日《1606年11月29日≫》に拘るのかというと、それは、この「お亀」と見立てられる、この右端に描かれている女性の「足首が描かれていない」という、その特異性に起因するに他ならない。
 そして、この慶長十一年(一六〇六)というのは、「周辺略年譜(抜粋「一六〇六)」)では、下記のとおり、この「南蛮屏風(紙本金地著色・六曲一双・神戸市立博物館蔵)」を描いた「狩野内膳」が、もう一つの代表作とされている「豊国祭礼図屏風」(紙本著色・六曲一双・豊国神社蔵)を神社に奉納(梵舜日記)した年なのである。

(中略)

 ここまで来ると、「お亀」が昇天した日(慶長11年10月29日《1606年11月29日≫)に、その年に豊国神社に奉納された、先(慶長9《1604》年秀吉の7回忌臨時大祭)の公式記録ともいうべき、狩野内膳筆の「豊国祭礼図屏風」は、その豊国大明神臨時祭礼に臨席できなかった「淀殿と秀頼」よりの一方的な意向を反映しているもので、それに反駁しての、「京都高台寺の『高台院)」側(「高台院側近の『親キリシタン・親千利休』(「秀吉が殉教させた二十六聖人そして賜死させた親キリシタン茶人の千利休)系の面々」)が、同じ、狩野内膳をして描かせたのが、下記の「狩野内膳筆・南蛮屏風(六曲一双・神戸市立博物館蔵)」と解したいのである。 】

(追記)

`寧々家系図.jpg

「関ケ原の戦いと『木下家』と『浅野家』・『前田家』の動向」

高台院  → 中立?
父・木下家定(播磨姫路城主)→ 中立(高台院の警護)→備中足守藩主(後継→?)
長男・勝俊(長嘯子・若狭小浜藩主・洗礼名=ペテロ)→任務放棄(東軍→中立)→《家定後継×?》
次男・利房(若狭小浜城主)→ 西軍→《後に家定後継〇?》
三男・延俊(播磨国城主) → 東軍→豊後日出領主(義兄細川忠興)
四男・俊定 →西軍(丹波国城主)→ (秀秋の庇護・備前国城主、後病死)
五男・(小早川)秀秋(備前岡山藩主)→途中寝返り(西軍→東軍)→無嗣断絶(病死)

(浅野家)
浅野長政(常陸真壁藩主・豊臣政権の五奉行) → 東軍
浅野幸長(紀伊和歌山藩主) → 東軍
浅野長晟(安芸国広島藩初代藩主) → 東軍

(前田家)
前田利家(加賀藩主・豊臣政権の五奉行) → 慶長四年(一五九九)没
前田利長(加賀前田家二代藩主・豊臣政権の五奉行・豊臣秀頼の傅役) →中立?(徳川家康に帰順)  慶長十九(一六一四)没
前田利常(加賀前田家三代藩主・利家四男・利長養子) → 大阪の陣(東軍)・ 正室:珠姫(徳川秀忠の娘)

木下家略系図.jpg


(別記) 「豊臣秀吉・千利休(聖家族)」周辺の人物群像

豊臣秀吉(1537-1598)    ⇄ 千利休(1522-1591)
豊臣秀頼(1593-1615)    ⇄ 千宗旦(1578-1658)
淀君(秀頼生母(1569?-1615)⇄ お亀(宗旦生母、?―1606)
高台院(秀吉正室、?―1624)⇄千少庵(宗旦の父、お亀の夫、1546-1614)
↓↑
(利休七哲)
前田利長(肥前)1562-1614→ 父(利家)=利休門(キリシタン大名高山右近を庇護)
蒲生氏郷(飛騨)1556-1595→キリシタン大名(洗礼名=レオン・レオ・レアン)
細川忠興(越中/三斎)1563-1646→正室(玉=キリシタン=洗礼名・ガラシャ)
古田重然(織部)1544-1615→(キリシタン大名高山右近と親交=書状)
牧村利貞(兵部)1546-1593→キリシタン大名(フロイス書簡)
高山長房(右近/南坊)1552-1615→キリシタン大名(洗礼名=ジュスト・ユスト)
芝山宗綱(監物)?―?→(キリシタン大名高山右近と親交=同じ「荒木村重」門=離反)
(瀬田正忠・掃部)1548-1595(キリシタン大名高山右近と親交=右近の推挙で秀吉武将)
↓↑
(キリシタン大名など)
明石全登(ジョアン、ヨハネ、ジョパンニ・ジュスト)?―1618→ 宇喜多家の客将
織田秀信(ペトロ)1580-1605→ 織田信忠の嫡男、信長の嫡孫
織田秀則(パウロ)1581 ―1625 → 織田信忠の次男、信長の孫
木下勝俊(ペテロ)1569-1649→ 若狭小浜城主。北政所(ねね)の甥
京極高吉1504-1581→ 晩年に受洗するも急死、妻は浅井久政の娘(京極マリア)
京極高次1563-1609→ 秀吉、家康に仕えて近江大津・若狭小浜藩主、正室=初姫(常高院)
京極高知1572-1622→ 秀吉、家康に仕えて信州伊奈・丹後宮津藩主、継室=毛利秀頼の娘
黒田長政(ダミアン)1568-1623→ 棄教後、迫害者に転じる。
黒田孝高(シメオン)1546-1604→ 官兵衛の通称と如水の号で知られる
小西行長(アウグスティノ)1558-1600→ 関ヶ原敗戦後、切腹を拒み刑死
小西隆佐(ジョウチン)?―1592→ 小西行長の父、堺の豪商・奉行
高山友照(ダリオ)?―1595→ 飛騨守、高山右近の父
高山右近(ドン・ジュスト)1552-1615→明石城主、追放先のマニラで客死
細川興元1566-1619→- 細川幽斎の次男、細川忠興の弟
毛利秀包(シマオ)1567-1601 → 毛利元就の子、小早川隆景の養子
↑↓
(豊臣秀吉と高台院の「養子・養女・猶子」など)
(養子)
羽柴秀勝(織田信長の四男・於次)1569-1586→墓所=秀吉建立の大徳寺・総見院など
豊臣秀勝(姉・とも(日秀)と三好吉房の次男)1569-1592→正室=江(浅井長政の三女)
豊臣秀次(姉・とも(日秀)と三好吉房の長男)1568-1595→豊臣氏の第二代関白
池田輝政(池田恒興の次男)1565-1613→継室=継室:徳川家康の娘・督姫
池田長吉(池田恒興の三男)1570-1614→因幡鳥取藩初代藩主
結城秀康(徳川家康の二男)1574-1607→下総結城藩主、越前松平家宗家初代
小早川秀秋(木下家定の五男。高台院の甥)1582-1602→備前岡山藩主
(養女)
豪姫(前田利家の娘。宇喜多秀家正室)1574-1634→洗礼名=マリア
摩阿姫(前田利家の娘。豊臣秀吉側室)1572-1605→秀吉の死後万里小路充房の側室
菊姫(前田利家の庶女。早世)1578-1584→七歳で夭逝
小姫(織田信雄の娘。徳川秀忠正室。早世)1585-1591→秀忠(十二歳)と小姫(六歳)
竹林院(大谷吉継の娘。真田信繁正室)?―1649→真田信繁=幸村の正室
大善院(豊臣秀長の娘。毛利秀元正室)?―1609→毛利秀元の正室
茶々(浅井長政の娘。豊臣秀吉側室)1569?―1615→豊臣秀頼生母
初(浅井長政の娘。京極高次正室)1570-1633→常高院、高次・初=キリシタン?
江(浅井長政の娘。佐治一成正室→豊臣秀勝正室→徳川秀忠継室)1573-1626→崇源院
糸姫(蜂須賀正勝の娘。黒田長政正室)1571―1645→黒田長政(キリシタン後に棄教)
宇喜多直家の娘(吉川広家正室)?―1591→容光院、弟に宇喜多秀家(正室=豪姫)
(猶子)
宇喜多秀家(宇喜多直家の嫡子、養女の婿で婿養子でもある)1572-1655(正室=豪姫)
智仁親王(誠仁親王第6皇子。後に八条宮を創設)1579-1629→同母兄=後陽成天皇
伊達秀宗(伊達政宗の庶子)1591-1658→伊予国宇和島藩初代藩主
近衛前子(近衛前久の娘。後陽成天皇女御)1575-1630→後水尾天皇生母、父は近衛前久
(秀吉が「偏諱(いみな)」を与えた者)
徳川秀忠(徳川家康三男)1579-1632→江戸幕府第二代征夷大将軍(在職:1605 - 1623)
結城秀康(徳川家康二男)→前掲(養子)  など
↑↓
(「高台院」周辺(侍女)のキリシタン関係者)

小西行長(洗礼名=アウグスティヌス(アゴスチノ、アグスチノ)/ドム・オーギュスタン・ジヤクラン)
↑↓
父:小西隆佐(洗礼名:ジョウチン)、※母:ワクサ(洗礼名:マグダレーナ)=侍女
兄弟:如清(洗礼名:ベント)、行景(洗礼名:ジョアン)、小西主殿介(洗礼名:ペドロ)、小西与七郎(洗礼名:ルイス)、伊丹屋宗付の妻(洗礼名:ルシア)
妻:正室:菊姫(洗礼名:ジュスタ)
側室:立野殿(洗礼名:カタリナ)
※娘:小西弥左衛門の妻 - 菊姫との間の子。霊名カタリナ

高山右近(洗礼名=ジュスト・ユスト)
↑↓
父母:父:高山友照、母:高山(洗礼名=マリア)
妻:正室・高山(洗礼名=ジュスタ)
子:洗礼名・ルチヤ(横山康玄室)

内藤如安(洗礼名=洗名ジョアン)
↑↓
父母:父・松永長頼、母:・藤国貞の娘 妹・内藤ジュリア=女子修道会ベアタス会を京都に設立=豪姫の洗礼者?

不干斎ハビアン(1565-1621)の母ジョアンナ=北政所(おね、高台院)の侍女→佐久間信栄(1556-1632)=不干斎との関係は?
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「忘れがたき風貌・画像」逍遥(その六) [忘れがたき風貌・画像]

その六 利休・「狩野内膳筆・南蛮屏風」」周辺

「千利休(せんのりきゅう、1522-91)」.jpg

千利休(せんのりきゅう、1522-91)(早稲田大学図書館/WEB展覧会第32回)
https://www.wul.waseda.ac.jp/TENJI/virtual/shozo/16-01.jpg
≪「利休宗易居士肖像」 春屋宗園賛 藤原惟友摸 東海大徹書 1軸 ヌ6-5123
堺の会合衆(えごうしゅう)の家に生まれる。武野紹鴎に茶を学び、大徳寺に参禅、信長、ついで秀吉の茶頭(さどう)となる。63歳のとき秀吉の北野大茶会を主宰、天下一の茶匠の地位を確立した。秀吉の側近として政治に深く関わり、石田三成と確執、切腹に至る。≫
(「早稲田大学図書館」)

狩野内膳・ロレンソ了斎.jpg

「狩野内膳筆『右隻』・カピタンを出迎える修道者たち」(第一・二扇拡大図の二)
https://www.kobecitymuseum.jp/collection/large_image?heritage=365028&apiHeritage=399808&digital=2

(再掲)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-01-24

 上記の「南蛮屏風・狩野内膳が描いた屏風について―イルマン・ロレンソの事(長崎26聖人記念館館長・結城了悟稿)」は、「狩野内膳筆『南蛮屏風』を読み解くための貴重な情報を提供してくれる。
 まず、その「この屏風に描かれているナウ(ポルトガル船の船型)は以下のことより考えて1591年7月の初め長崎に入港してきたロケ・デ・メル(ロケ・デ・メロ・ペレイア)の船である」ということは、この一年後の、文禄元年(一五九二)二月に、「ロレンソ了斎」
は亡くなっている。
 すなわち、この「右手には杖を持ち、左手にはコンタスを握っている」老人(老修道士)は、亡くなる一年前の「ロレンソ了斎」(六十五歳)ということになる。

【1592 年(文禄元)(ロレンソ 66 歳) 2 月 3 日 ロレンソの死去 長崎の修道院で死去した。66 歳。

『毎週必ず修道院の小聖堂へ椅子にすわったまま運ばれて御聖体拝領する習慣があったが、この日、食事の後、あるイルマンとひとりの信者が話している時,用があるからちょっと部屋からでるようにと彼らに言い、いつも彼に仕えているひとりの小者を呼び、起き上がるのを手伝うように頼んだ。ベットにすわり小者が腕をかかえた時には、ロレンソは「イエズス」の聖なる名を呼んで、一瞬の間に静かに亡くなったので、小者さえ、彼がこの世を去ったとは気が付かなかった。その後しばらくして、ロレンソが死んでいることに気がつき、外で待っていたイルマンを呼んだ。イルマンは部屋に入ると、そのまますわって小者にかかえられて死んでいるロレンソを見つけた。亡くなったのは 1592 年 2 月 3 日のことであった。家の人もよその人もみんな非常に悲しんで彼を偲んだ。』
*Luis Frois S.I.,“Apparatos para a Histpria Ecclesiastica do Bispado de Japam”
Biblioteca de Ajuda, Lisboa Codex 49, IV, 57, cap. 35    】
(ロレンソ了斎の豊後府内滞在の記録  ロレンソ了斎の生涯に沿って)
http://takayama-ukon.sakura.ne.jp/pdf/booklet/pdf-takata/2017-08-17-04.pdf

 この「ロレンソ了斎」が亡くなる一年前の、この「ロケ・デ・メロ・ペレイア」のポルトガル船が長崎に入港した、その天正十九年(一五九一)は、豊臣秀吉が天下の茶頭「千利休」を賜死(切腹?)させた年なのである。

【天正19年(1591年)2月13日 利休は突然、京都を追放され堺の自宅に蟄居させられる。
同年2月25日 京都一条戻橋に、大徳寺山門にあった問題の利休木像が磔にされる。
同年2月28日 木像の下に利休の首がさらされる。 】
(豊臣秀吉が命じた『茶人千利休切腹事件』の真相はこれ!ホント?)
https://rekishizuki.com/archives/1538

 これらを前回(その三十五「参考その一「荒木村重・岩佐又兵衛と結城秀康・松平忠直」周辺略年譜」追加「狩野内膳」)の、その「天正十九年(一五九一)」前後の「年譜(略年譜)」は、次のとおりとなる。

【※※1590年(天正18年)黒田如水45歳 小田原征伐において、小田原城(神奈川県小田原市)を無血開城させる。
※※※1590年(天正18年)結城秀康17歳  北条氏掃討のため、小田原征伐へ参陣。前年、豊臣秀吉に実子・鶴松が生まれ、豊臣家の後継者に指名されたことから、結城秀康は同家を出る。結城家を継ぎ、11万1,000石の地方大名となる。
●1590年(天正18年)狩野内膳21歳 内膳こと狩野久蔵筆「平敦盛像」。この頃小出播磨守新築に「嬰児遊技図」を描き豊臣秀吉に認められる(画工便覧)。

△1591年(天正19年)千利休70歳 秀吉の逆鱗に触れ、堺に蟄居を命じられ、利休七哲の前田利家らの奔走・助命適わず、京都に呼び戻され、聚楽屋敷内で賜死(切腹?)。

※※1592年(天正20年/文禄元年)黒田如水47歳  文禄の役、及び慶長の役において築城総奉行となり、朝鮮出兵の拠点となる名護屋城(佐賀県唐津市)の設計を担当する。
〇〇1592年(天正20年/文禄元年)岩佐又兵衛 15歳 この頃、織田信雄に仕える。狩野派、土佐派の画法を学ぶ。絵の師匠は狩野内膳の説があるが不明。
●1592年(天正20年/文禄元年)狩野内膳 23歳 狩野松栄没。永徳(松栄の嫡男)の嫡男・光信(探幽は甥)、文禄元年(一五九二)から二年にかけて肥前名護屋に下向、門人の狩野内膳ほか狩野派の画家同行か?(『南蛮屏風(高見沢忠雄著)』)   】(下記の「参考一」から抜粋)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-01-19

 この天正十八年(一五九〇)の「小田原征伐」とは、豊臣秀吉が頂点に上り詰めた「天下統一」の、その上り坂を象徴するものであろう。そして、天正二十年(一五九二)の「朝鮮出兵の拠点となる名護屋城(佐賀県唐津市)の築城」は、豊臣秀吉の野望とその後の豊臣家の滅亡を予兆する、その下り坂を象徴するものということになる。
 そして、その分岐点に位置するのが、天正十九年(一五九一)の「千利休の賜死(切腹?)」事件ということになる。そして、この真相は、上記のアドレスの「豊臣秀吉が命じた『茶人千利休切腹事件』の真相はこれ!ホント?」では、下記の八点を紹介しているが、この「六 利休キリシタン説」も、上記の「ロケ・デ・メロ・ペレイアのポルトガル船長崎入港、そしてその一年後の『ロレンソ了斎』の死」に関連させると、その「七 利休芸術至上主義の抵抗説」などと併せ、無下にすることは出来ないであろう。

https://rekishizuki.com/archives/1538

「千利休の賜死(切腹?)」の真相を巡る見解のあれこれ

一 売僧行為(茶道具不当売買)説
二 大徳寺木像不敬説
三 利休の娘説
四 秀吉毒殺説
五 利休専横の疑い説
六 利休キリシタン説
七 利休芸術至上主義の抵抗説
八 利休所持茶道具の献上拒否説

(「六 利休キリシタン説」に関連して)

【 大徳寺の説に云、諸長老を聚楽の城へ被召寄、家康公、幽斎公を以て被仰出候者、大徳寺山門の下は、上様も御通被成候に、利休が木像を山門の上に作置るゝ事、曲事に被思召候。
申分有之候はヾ可申上と有、古渓承て山門の普請外、木像置候事、我等相談仕候。一山の長老の被存儀ニ無御座候。いか様にも私壱人曲事可被仰付候と被申上候。太閤重而、利休が木像を置る、いわれを可申上由、被仰出、
古渓何共御返答無御座候と被申候。家康公、常々古渓に御懇故、夫ニ而者、埒不明候。何とぞ御機嫌直り候様ニ申上度と被仰候。其時、古渓懐中より、長谷部の小釼を抜出し、御返事ハ是ニ而、自害可仕覚悟ニ候と被申候。
家康公一段埒明候と被仰、則、其段被仰上候へハ、太閤早速御機嫌直り、古渓ハ左様ニて有と思召候。諸事御赦免被成候間、一山の諸長老も可罷歸由、被仰出候。
扨、利休か木像ハ堀川戻り橋の下にくゝりさせ、往来の人に御踏せ候。此木像二条獄所の二階に、今に有之とかやと云々。
(引用:小松茂美 『利休の手紙 310頁「細川家記」』1985年 小学館)

大意、”大徳寺の話では、長老らが聚楽第に召喚され、徳川家康、細川幽斎から尋問を受けた。それは、『大徳寺の山門は関白殿下も通られるのに、利休の像を山門の上に作り置くとは何事か。申し開きの弁があるなら申してみよ。』とあった。
 それに対して古渓和尚が受けて言うには、『山門の普請ほか木像安置の件なども相談してみましたが、一山の長老たちは知らぬことです。これはわたしひとりの罪として仰せ付け下さい。』と。
 対して、『関白殿下も重く見ておられるので、利休の木像が山門に安置してある理由を答えてください』と重ねて尋問すると。
 古渓和尚言うには、『どうとも答えようがありません。』と。
家康公は常日頃古渓和尚と親しくしているので、『それでは埒があきませんね、どうか関白殿下の機嫌が直るように申し上げたいとお話ください。』
 その時、古渓和尚は懐中より小刀の名刀長谷部を抜き出されて、『返事はこれです。自害する覚悟です。』と申し上げます。
 すると、家康公は『これで埒が明きましたよ。』と言われ、すぐに関白殿下にその事を報告になり、「古渓はそうであったか」と関白殿下の機嫌は忽ち直り、すべて御赦免になりました。大徳寺の他の長老らも帰山することが出来ました。
 さて一方、利休と木像はと言うと、一条戻橋に括り付けられ、往来に人々に踏みつけられまして、今木像は二条の獄舎の二階にあると言います。”  】

(「参考その一」)

 「荒木村重・岩佐又兵衛と結城秀康・松平忠直」周辺略年譜

荒木村重略年譜    https://www.touken-world.jp/tips/65407/
※高山右近略年譜   https://www.touken-world.jp/tips/65545/
※※黒田如水略年譜  https://www.touken-world.jp/tips/63241/
※※※結城秀康略年譜 https://www.touken-world.jp/tips/65778/
〇松平忠直略年譜   
https://meitou.info/index.php/%E6%9D%BE%E5%B9%B3%E5%BF%A0%E7%9B%B4
〇〇岩佐又兵衛略年譜
https://plaza.rakuten.co.jp/rvt55/diary/200906150000/
△千利休略年譜
https://www.youce.co.jp/personal/Japan/arts/rikyu-sen.html
●狩野内膳略年譜
https://www.tulips.tsukuba.ac.jp/jart/nenpu/2knnz001.html

△1522年(大永2年)千利休1歳 和泉国・堺の商家に生まれる。
1535年(天文4年)荒木村重1歳 摂津国の池田家に仕えていた荒木義村の嫡男として生まれる。幼名は十二郎(後に[弥介]へ変更)。
△1539(天文8年)千利休18歳 北向道陳、武野紹鴎に師事。
※※1546年(天文15年)黒田如水1歳 御着城(兵庫県姫路市)の城主・小寺政職の重臣・黒田職隆の嫡男として生まれる。
※1552年(天文21年)高山右近1歳 摂津国(現在の大阪府北中部、及び兵庫県南東部)にて、高山友照の嫡男として生まれる。高山氏は、59代天皇・宇多天皇を父に持つ敦実親王の子孫。また高山氏は、摂津国・高山(大阪府豊能町)の地頭を務めていた。
※1564年(永禄7年)高山右近13歳 父・高山友照が開いた、イエズス会のロレンソ了斎と、仏僧の討論会を契機に入信。妻子や高山氏の家臣、計53名が洗礼を受け、高山一族はキリシタンとなる。高山右近の洗礼名ドン・ジュストは、正義の人を意味する。父はダリヨ、母はマリアという洗礼名を授かる。
※※1567年(永禄10年)黒田如水22歳 黒田家の家督と家老職を継ぎ、志方城(兵庫県加古川市)の城主・櫛橋伊定の娘であった光姫を正室として迎え、姫路城(兵庫県姫路市)の城代となる。
※※1568年(永禄11年)黒田如水23歳 嫡男・黒田長政が生まれる。
●1570年(元亀元年)狩野内膳1歳  荒木村重の家臣(一説に池永重光)の子として生まれる。
1571年(元亀2年)荒木村重37歳 白井河原の戦いで勝利。織田信長から気に入られ、織田家の家臣になることを許される。
※1571年(元亀2年)高山右近20歳 白井河原の戦いにおいて和田惟政が、池田氏の重臣・荒木村重に討たれる。高山右近は和田惟政の跡を継いだ嫡男・和田惟長による高山親子の暗殺計画を知る。
1573年(元亀4年/天正元年)荒木村重39歳 荒木城(兵庫県丹波篠山市)の城主となる。現在の大阪府東大阪市で起こった若江城の戦いで武功を挙げる。
※1573年(元亀4年/天正元年)高山右近22歳 荒木村重の助言を受け、主君・和田惟長への返り討ちを決行。高槻城で開かれた会議の最中に、和田惟長を襲撃し致命傷を負わせた。その際、高山右近も深い傷を負う。高山親子は荒木村重の配下となり、高槻城主の地位を高山右近が譲り受ける。
1574年(天正2年)荒木村重40歳 伊丹城(有岡城)を陥落させ、同城の城主として摂津国を任される。
※※※1574年(天正2年)結城秀康1歳 徳川家康の次男として誕生。母親は徳川家康の正室・築山殿の世話係であった於万の方で、当時忌み嫌われた双子として生まれる。徳川家康とは、3歳になるまで1度も対面せず、徳川家の重臣・本多重次と交流のあった、中村家の屋敷で養育された。
1575年(天正3年)荒木村重41歳 摂津有馬氏を滅ぼし、摂津国を平定。
1576年(天正4年)荒木村重42歳 石山合戦における一連の戦いのひとつ、天王寺の戦いに参戦。
1577年(天正5年)荒木村重43歳  紀州征伐に従軍。
1578年(天正6年)荒木村重44歳  織田信長に対して謀反を起こし、三木合戦のあと伊丹城(有岡城)に籠城。織田軍と1年間交戦する。
※1578年(天正6年)高山右近27歳 主君・荒木村重が織田家から離反。高山右近が再考を促すも荒木村重の意志は固く、やむなく助力を決断。荒木村重は居城・有岡城(兵庫県伊丹市)での籠城を決め、有岡城の戦いへと発展。
※※1578年(天正6年)黒田如水33歳 三木合戦で兵糧攻めを提案し、三木城(兵庫県三木市)を攻略した。織田信長に対して謀反を起こした荒木村重を説得するために、有岡城(兵庫県伊丹市)に向かうが、幽閉される。
〇〇1578年(天正6年)岩佐又兵衛1歳 摂津伊丹城で荒木村重の末子として誕生。父荒木村重が織田信長に叛く
1579年(天正7年)荒木村重45歳 妻子や兵を置いて、突如単身で伊丹城(有岡城)を脱出。嫡男の荒木村次が城主を務めていた尼崎城へ移る。そのあと、織田信長からの交渉にも応じず出奔。自身の妻子を含む人質が処刑される。
※1579年(天正7年)高山右近28歳 有岡城にて織田軍と対峙。織田信長から、「開城しなければ、修道士達を磔にする」という苛烈な脅しを受ける。これにより高山右近は領地や家族を捨て頭を丸め紙衣一枚で、単身織田信長のもとへ投降。その潔さに感じ入った織田信長は、再び高槻城主の地位を高山右近に安堵。摂津国・芥川郡を拝領した高山右近は、2万石から4万石に加増され、以降織田信長に仕えることとなる。
※※1579年(天正7年)黒田如水34歳 有岡城が陥落し、救出される。
〇〇1579年(天正7年)岩佐又兵衛2歳 伊丹城落城。乳母に救い出され奇跡的に逃げ延びる。母ら一族、京の六条河原で処刑。
△1579年(天正7年)千利休58歳 織田信長に茶頭として雇われる。 
●1579年(天正7年)狩野内膳10歳 主家(荒木村重)が滅亡し父池永重光は諸国を流浪。重郷(内膳)は画を好み狩野松栄門人となる。
1581年(天正9年)荒木村重47歳 花隈城(神戸市中央区)に移り、花隈城の戦いが勃発。その後、毛利家へ亡命。
※1581年(天正9年)高山右近30歳 織田信長の使者として、鳥取城(鳥取県鳥取市)を侵攻中の羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)のもとへ参陣。織田信長秘蔵の名馬3頭を羽柴秀吉に授与し、織田信長へ戦況を報告する。ローマから派遣された巡察師、アレッサンドロ・ヴァリニャーノを迎え盛大な復活祭を開催する。
1582年(天正10年)荒木村重48歳 本能寺の変で織田信長が亡くなると、大坂の堺(現在の大阪府堺市)に移る。大坂では茶人として復帰し、千利休とも親交があったとされる。豊臣秀吉を中傷していたことが露呈し、処罰を恐れ荒木道薫と号して出家する。
※1582年(天正10年)高山右近31歳 甲州征伐において、織田信長が諏訪に布陣。西国諸将のひとりとしてこれに帯同する。山崎の戦いでは先鋒を務め、明智光秀軍を破る。
△1582年(天正10年)千利休58歳 本能寺の変、以降・豊臣秀吉に仕える。
※1583年(天正11年)高山右近32歳 柴田勝家との賤ヶ岳の戦いで、豊臣家の勝利に貢献する。
※※1583年(天正11年)黒田如水38歳 大坂城(大阪市中央区)の設計を担当し、豊臣政権下で普請奉行となる。キリスト教の洗礼を受けて、洗礼名「ドン=シメオン」を与えられる。
※※※1584年(天正12年)結城秀康11歳  3月、豊臣秀吉軍と徳川家康・織田信雄連合軍による小牧・長久手の戦いが勃発。講和の条件として、戦後、結城秀康は豊臣家の養子として差し出される。このとき結城秀康は、徳川家康からの餞別として名刀「童子切安綱」を授かっている。12月、元服を迎える。
※1585年(天正13年)高山右近34歳 歴戦の戦功が認められ、播磨国・明石(現在の兵庫県明石市)の船上城を豊臣秀吉から拝領。6万石の大名となる。
※※1585年(天正13年)黒田如水40歳 四国攻めで軍監として加わって長宗我部元親の策略を破り、諸城を陥落。
△1585年(天正13年)千利休64歳 正親町天皇から「利休」の居士号を与えられる。
1586年(天正14年 )荒木村重52歳 5月4日、堺にて死去。
※※1586年(天正14年)黒田如水41歳 従五位下・勘解由次官に叙任。九州征伐でも軍監を担当し、豊前国(現在の福岡県東部)の諸城を落とす。
△1586年(天正14年)千利休65歳 黄金の茶室の設計、聚楽第の築庭に関わる。
※1587年(天正15年)高山右近36歳 6月、筑前国(現在の福岡県西部)でバテレン追放令が施行される。豊臣秀吉に棄教を迫られ、領土の返上を申し出る。かつて同じく豊臣秀吉の家臣を務めていた小西行長にかくまわれ、肥後国(現在の熊本県)や小豆島(現在の香川県小豆郡)で暮らす。最終的には、加賀国(現在の石川県南部)の前田利家に預けられ、密かに布教活動を続けながら禄高1万5,000石を受け、政治面や軍事面の相談役となる。
※※※1587年(天正15年)結城秀康14歳  九州征伐にて初陣を飾る。豊前国(現在の福岡県東部)の岩石城(福岡県田川郡)攻めで先鋒を務め、日向国(現在の宮崎県)の平定戦でも戦功を遂げる。
△1587年(天正15年)千利休66歳 北野大茶会を主管。
〇〇1587年(天正15年) 岩佐又兵衛10歳 秀吉主催の北野の茶会に出席?
●1587年(天正15年) 狩野内膳18歳 狩野松栄から狩野姓を名乗ることを許される。
※※1589年(天正17年)黒田如水44歳 広島城(広島市中区)の設計を担当する。黒田家の家督を黒田長政に譲る。
※※1590年(天正18年)黒田如水45歳 小田原征伐において、小田原城(神奈川県小田原市)を無血開城させる。
※※※1590年(天正18年)結城秀康17歳  北条氏掃討のため、小田原征伐へ参陣。前年、豊臣秀吉に実子・鶴松が生まれ、豊臣家の後継者に指名されたことから、結城秀康は同家を出る。結城家を継ぎ、11万1,000石の地方大名となる。
●1590年(天正18年)狩野内膳21歳 内膳こと狩野久蔵筆「平敦盛像」。この頃小出播磨守新築に「嬰児遊技図」を描き豊臣秀吉に認められる(画工便覧)。
△1591年(天正19年)千利休70歳 秀吉の逆鱗に触れ、堺に蟄居を命じられ、利休七哲の前田利家らの奔走・助命適わず、京都に呼び戻され、聚楽屋敷内で賜死(切腹?)。
※※1592年(天正20年/文禄元年)黒田如水47歳  文禄の役、及び慶長の役において築城総奉行となり、朝鮮出兵の拠点となる名護屋城(佐賀県唐津市)の設計を担当する。
〇〇1592年(天正20年/文禄元年)岩佐又兵衛 15歳 この頃、織田信雄に仕える。狩野派、土佐派の画法を学ぶ。絵の師匠は狩野内膳の説があるが不明。
●1592年(天正20年/文禄元年)狩野内膳 23歳 狩野松栄没。永徳(松栄の嫡男)の嫡男・光信(探幽は甥)、文禄元年(一五九二)から二年にかけて肥前名護屋に下向、門人の狩野内膳ほか狩野派の画家同行か?(『南蛮屏風(高見沢忠雄著)』)
※※1593年(文禄2年)黒田如水48歳 剃髪して出家。如水軒円清の号を名乗る。
〇1595年(文禄4年)松平忠直1歳 結城秀康の長男として摂津東成郡生魂にて生まれる。生母は秀康の側室、中川一元の娘(清涼院、岡山)。幼名は仙千代。
※1600年(慶長5年)高山右近49歳 関ヶ原の戦いの前哨戦である浅井畷の戦いでは東軍に属し、丹羽長重を撃退する。
※※1600年(慶長5年)黒田如水55歳 関ヶ原の戦いが起こる。石垣原の戦いで、大友義統軍を破る。
※※※1600年(慶長5年)結城秀康27歳 関ヶ原の戦いの直前、徳川家康と共に会津藩(現在の福島県)の上杉景勝の討伐へ出陣。道中、石田三成挙兵を知り、徳川家康は西へ引き返す。一方で結城秀康は宇都宮城に留まり、上杉景勝からの防戦に努めた。関ヶ原の戦い後に徳川家康より、越前・北の庄城(福井県福井市)68万石に加増される。
〇1603年(慶長8年)松平忠直7歳 江戸参勤のおりに江戸幕府2代将軍・徳川秀忠に初対面している。秀忠は大いに気に入り、三河守と呼んで自らの脇に置いたという。
※※1604年(慶長9年)黒田如水59歳 京都の伏見藩邸で死去する。
※※※1604年(慶長9年)結城秀康31歳 結城晴朝から家督を相続し、松平に改姓。
〇〇1604年(慶長9年)岩佐又兵衛 27歳 秀吉の七回忌、京で豊国祭礼
●1604年(慶長9年)狩野内膳36歳 秀吉七回忌の豊国明神臨時祭礼の「豊国祭礼図」を描く。
〇1605年(慶長10年)松平忠直 9歳 従四位下・侍従に叙任され、三河守を兼任する。
※※※1606年(慶長11年)結城秀康33歳  徳川家から伏見城(京都府京都市伏見区)の居留守役を命じられて入城するも、病に罹り重篤化する。
●1606年(慶長11年)狩野内膳37歳 1606年、片桐且元、内膳の「豊国祭礼図」を神社に奉納(梵舜日記)。弟子に荒木村重の子岩佐又兵衛との説(追考浮世絵類考/山東京伝)もある。
※※※1607年(慶長12年)結城秀康34歳  越前国へ帰国し、のちに病没。
〇1607年(慶長12年)松平忠直 13歳 結城秀康の死に伴って越前75万石を相続する。
〇1611年(慶長16年)松平忠直 17歳 左近衛権少将に遷任(従四位上)、三河守如元。この春、家康の上京に伴い、義利(義直)・頼政(頼宣)と同じ日に忠直も叙任された。9月には、秀忠の娘・勝姫(天崇院)を正室に迎える。
〇1612年(慶長17年)松平忠直 18歳 重臣たちの確執が高じて武力鎮圧の大騒動となり、越前家中の者よりこれを直訴に及ぶに至る。徳川家康・秀忠の両御所による直裁によって重臣の今村守次(掃部、盛次)・清水方正(丹後)は配流となる一方、同じ重臣の本多富正(伊豆守)は逆に越前家の国政を補佐することを命じられた。
〇1613年(慶長18年)松平忠直 19歳 家中騒動で再び直訴のことがあり、ついに本多富正が越前の国政を執ることとされ、加えて本多富正の一族・本多成重(丹下)を越前家に付属させた。これは、騒動が重なるのは、忠直がまだ若く力量が至らぬと両御所が判断したためである。
〇〇1613年(慶長18年) 岩佐又兵衛 37歳 この頃、舟木本「洛中洛外図屏風」
※1614年(慶長19年)高山右近63歳 キリシタンへの弾圧が過酷さを増し、徳川家康がキリスト教の禁教令を発布。国外追放の命令が下され、妻・高山ジュスタを始めとする一族を引き連れ、長崎経由でスペイン領ルソン島のマニラ(現在のフィリピン)へ旅立つ。スペイン国王の名において国賓待遇で歓待された。
〇1614年(慶長19年)松平忠直 20歳 大坂冬の陣では、用兵の失敗を祖父・家康から責められたものの、夏の陣では真田信繁(幸村)らを討ち取り、大坂城へ真っ先に攻め入るなどの戦功を挙げている。家康は孫の活躍を喜び、「初花肩衝」(大名物)を与えている。また秀忠も「貞宗の御差添」を与えている。
※1615年(慶長20年/元和元年)高山右近64歳 前年の上陸からわずか40日後、熱病に冒され息を引き取る。葬儀は聖アンナ教会で10日間に亘って執り行われ、マニラ全市を挙げて祈りが捧げられた。
〇1615年(慶長20年/元和元年)松平忠直 21歳 従三位に昇叙し、参議に補任。左近衛権中将・越前守を兼帯。
〇〇1616年(元和2年)岩佐又兵衛39歳 この頃、京から北之庄に移住。徳川家康没。狩野内膳没。
●1616年(元和2年)狩野内膳47歳 京都で没。
〇〇1617年(元和3年)岩佐又兵衛40歳 狩野探幽が江戸に赴任。この間、「金谷屏風」・「山中常盤」など制作か。
〇1621年(元和7年)松平忠直 27歳 病を理由に江戸への参勤を怠り、また翌元和8年(1622年)には勝姫の殺害を企て、また、軍勢を差し向けて家臣を討つなどの乱行が目立つようになった。
〇1623年(元和9年)松平忠直 29歳 将軍・秀忠は忠直に隠居を命じた。忠直は生母清涼院の説得もあって隠居に応じ、敦賀で出家して「一伯」と名乗った。5月12日に竹中重義が藩主を務める豊後府内藩(現在の大分県大分市)へ配流の上、謹慎となった。豊後府内藩では領内の5,000石を与えられ、はじめ海沿いの萩原に住まい、3年後の寛永3年(1626年)に内陸の津守に移った。津守に移ったのは、海に近い萩原からの海路での逃走を恐れたためとも言う。竹中重義が別件で誅罰されると代わって府内藩主となった日根野吉明の預かり人となったという。
〇〇1623年(元和9年)岩佐又兵衛46歳 松平忠直、豊後に配流。
〇〇1624(寛永元年)岩佐又兵衛 47歳 忠直を引き継ぐ松平忠昌が福井に改称。この間、「浄瑠璃物語絵巻」なと。
〇〇1637年(寛永14年)岩佐又兵衛 60歳 福井より、京都、東海道を経て江戸に赴く。
〇〇1638年(寛永15年)岩佐又兵衛61歳 川越仙波東照宮焼失。
〇〇1639年(寛永16年)岩佐又兵衛 62歳 家光の娘の千代姫、尾張徳川家に嫁ぐ
〇〇1640年(寛永17年)岩佐又兵衛 63歳 仙波東照宮に「三十六歌仙額」奉納。
〇〇1645年(正保2年)岩佐又兵衛 68歳 ・松平忠昌没。
〇1650年(慶安3年) 松平忠直死去、享年56。
〇〇1650年(慶安3年)岩佐又兵衛 江戸にて没す。享年73。

千利休の娘・亀?.jpg

「狩野内膳筆『南蛮屏風』(「千利休・南蛮唐物屋の女性=千利休の娘の亀?・フランシスコ会員・イエズス会員」)
https://www.kobecitymuseum.jp/collection/large_image?heritage=365028&apiHeritage=399808&digital=2

(再掲)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-02-12

 こ の右端の「足首のない女性」は、「赤紐で旅装用の模様の付いた革足袋」を履いている。
 この女性は、『南蛮屏風の女と岩佐又兵衛(千草子著)』では、「足袋のもとである単皮(注・たんぴ=鹿などの動物の一枚革の足袋)を、冬でもないのに、なぜはいているのか。これは、遠出 ― 旅支度である。この女 ― 藤の暖簾がかかっているから、藤屋の女としておこう」(『南蛮屏風の女と岩佐又兵衛(千草子著)』所収「あとがき」)と、その二部作(「第一部 南蛮屏風の女」「第二部 ささやき竹―あるいは、洞の聖母子」)の、フィクション(小説)もので、「狩野内膳の妻・岩佐又兵衛の執心(注・思い慕った)の女性」として見立てられている。
 この『南蛮屏風の女と岩佐又兵衛(千草子著)』は、フィクション(小説)もので、その「あとがき」を見ると、別名(小林千草稿)の「内膳南蛮屏風の宗教性」(『文教大学国際学部紀要』第二号掲載)が、このフィクション(小説)ものの、その背景となっている論稿のようなのである。
 そして、その論稿の「内膳南蛮屏風の宗教性」(小林千草稿)が、下記のアドレスで、その全容を知ることが出来る。

https://ci.nii.ac.jp/naid/110001149737

 さらに、この「内膳南蛮屏風の宗教性」(小林千草稿)を主要な参考文献としている次のアドレスの「長崎ディープ ブログ」(「南蛮屏風」を読む9)では、この「足首のない、革足袋を履いた女性」と「黒いマントの神父(ヴァリニャーノ神父)の横にいる、小綺麗な着物姿の少年(先に「天正少年使節団」の「伊東マンショ(主席正使)」と見立てた)」とは「親子なのではなかろうか」との見方をしている。

http://blog.nadeg.jp/?eid=25

南蛮屏風右隻の革足袋の二人.jpg

「狩野内膳筆・南蛮屏風・右隻(神戸市立博物館蔵)」→ 「狩野内膳筆『右隻』・カピタンを出迎える修道者たち」(第一・二扇拡大図)
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-01-07
「狩野内膳筆『南蛮屏風』(「イエズス会(修道士)」と「フランシスコ会(修道士)」)
https://www.kobecitymuseum.jp/collection/large_image?heritage=365028&apiHeritage=399808&digital=2

 この右端の女性(足首が無く、旅装用の革足袋を履いている)と、左端の正装した少年(右端の女性と同じ模様の革足袋を履いている)とを「親子関係」と見立てると、中央の老人(左手に数珠を持ち、右手で杖をついている)は、「ロレンソ了斎」のイメージがから、敢然として「千利休」のイメージと豹変してくる。そして、それは、即、「千家(千利休家)の聖家族(ファミリー)」のイメージと重なってくる。

中央の老人→千利休(千家一世)・千少庵(千家二世、利休後妻の連れ子、利休娘・亀の夫)
左端の少年→千宗旦(千家三世、三千家の祖、少庵と亀の子、千家中興の祖、乞食宗旦)
右端の女性→(お)亀(利休の娘、少庵の妻、宗旦の母)

千家系図(千利休→千少庵→千宗旦)

千利休家系図.jpg

「千利休と女たち」
https://ameblo.jp/morikawa1113/entry-12258588885.html

 ここで、これまでの「宗達ファンタジー・三藐院ファンタジー・又兵衛ファンタジー」に続く「内膳ファンタジー(その一)」として、次の「内膳南蛮屏風の唯一の女性は何故『足首が描かれていないのか?』」周辺について、未整理のままにメモ的に記して置きたい。

(「内膳ファンタジー」その一)「内膳南蛮屏風の唯一の女性は何故『足首が描かれていないのか?』」

中央の老人→千利休(千家一世)・千少庵(千家二世、利休後妻の連れ子、利休娘・亀の夫)
左端の少年→千宗旦(千家三世、三千家の祖、少庵と亀の子、千家中興の祖、乞食宗旦)
右端の女性→(お)亀(利休の娘、少庵の妻)

千利休(千家一世)→大永2年(1522年) - 天正19年2月28日(1591年4月21日)
千少庵(千家二世、利休後妻の連れ子、利休娘・亀の夫)→天文15年(1546年)- 慶長19年9月7日(1614年10月10日)
千宗旦(千家三世、三千家の祖、少庵と亀の子、千家中興の祖、乞食宗旦)→天正6年1月1日(1578年2月7日)- 万治元年11月19日(1658年12月19日)
(お)亀(利休の娘、少庵の妻)→生年不詳 - 慶長11年10月29日(1606年11月29日)

 千利休の死とその死因などについては、今に至るまで、全くの謎のままである。その死の原因などについて、下記のアドレスでは、次のとおり紹介した(さらに「ウィキペディア」などにより補注・追加などを施した)。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/

「千利休の賜死(切腹?)」の真相を巡る見解のあれこれ

一 売僧行為(茶道具不当売買)説→『多聞院日記』巻三十七、天正19年2月28日条(1591年4月21日)
二 大徳寺木像不敬説→勧修寺晴豊『晴豊公記』第七巻、天正19年2月26日条(1591年4月19日)、吉田兼見『兼見卿記』巻十六、天正19年2月26日条(1591年4月19日)
三 利休の娘説→『南方録』第七巻・滅後、『秀頼公御小姓古田九郎八直談、十市縫殿助物語』承応2年(1653年)
四 秀吉毒殺説→ 岡倉天心薯『茶の本』国立国会図書館、千利休薯『利休百会記』岡山大学付属図書館
五 利休専横の疑い説→平直方『夏山雑談』巻之五、寛保元年(1741年)
六 利休キリシタン説→小松茂美『利休の手紙 310頁「細川家記」』1985年・小学館
七 利休芸術至上主義の抵抗説→芳賀幸四郎『千利休』(吉川弘文館、1963年)、米原正義『天下一名人千利休』(淡交社、1993年)、児島孝『数寄の革命―利休と織部の死―』(思文閣出版、2006年)
八 利休所持茶道具の献上拒否説→竹中重門『豐鑑』国立国会図書館デジタルコレクション
(「ウィキペディア」などにより下記を追加)
九 秀吉の朝鮮出兵を批判したという説→杉本捷雄『千利休とその周辺』淡交社、1970年
十 交易を独占しようとした秀吉に対し、堺の権益を守ろうとしたために疎まれたという説→会田雄次・山崎正和対談「利休が目指し、挫折したもの」(『プレジデント』27(9) 《特集》千利休、1989年9月)
十一 秀吉は「わび茶」を陰気なものとして嫌っており、黄金の茶室にて華やかで伸びやかな茶を点てさせた事に不満を持っていた利休が信楽焼の茶碗を作成し、これを知った秀吉からその茶碗を処分するよう命じられるも、拒否したという説→笠原一男編集『学習漫画 人物日本の歴史〈12〉織田信長・豊臣秀吉・千利休―安土・桃山時代』集英社
十二 豊臣秀長死後の豊臣政権内の不安定さからくる政治闘争に巻き込まれたという説→田孫四郎雄翟 編『武功夜話』巻十七、寛永15年(1638年)
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「忘れがたき風貌・画像」逍遥(その五) [忘れがたき風貌・画像]

その五 「西行法師行状絵詞(西行物語絵巻)」(俵屋宗達画・烏丸光広書)周辺

西行絵物語一.jpg

「西行法師行状絵詞」(俵屋宗達画・烏丸光広書)第三巻 紙本著色 7幅
第一段断簡 32.8cm×98.0cm 第四段断簡 詞 32.4cm×47.8cm 絵 32.7cm×48.9cm 
第六段断簡 詞32.8cm×48.5cm 絵32.9cm×98.0cm 第一四段断簡 詞 33.1cm×48.5cm 絵 33.1cm×96.5cm 国(文化庁)
文化庁分室 東京都台東区上野公園13-9 平成17・21年度 文化庁購入文化財
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/145397

(再掲)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-03-31

【 本作品は、烏丸光広(1579~1638)が禁裏御本を俵屋宗達に写させ、寛永七年(1630)に成立した紙本著色西行法師行状絵詞のうち第三巻の断簡である。
 全一七段で構成される第三巻のうち、本作は第一段、第四段、第六段、第一四段の絵と詞、七幅から成る(第一段は絵と詞併せて一幅)。巻第三は、西行が西国への歌行脚の末に、戻った都で娘に再会するまでを描いた巻であり、第一段は、草深い伏見の里を訪れる旅姿の西行、第四段は、北白川にて秋を詠むところ、第六段は、天王寺に参詣にむかう西行が交野の天の川にいたり、業平の歌を思い出して涙が袖に落ちかかったと詠んだ場面、第一四段は、猿沢の池に映る月に昔を偲ぶところを描く。
 絵は、美しい色彩を賦した景物をゆったりと布置して、詩情漂う名所をあらわしている。宗達らしいおおらかな雰囲気を保持しており、また現在知られている宗達作品中、製作時期の確実な唯一の遺品として貴重である。 】

西行絵物語二.jpg

「西行物語絵巻」(出光美術館蔵)第一巻・第二巻・第四巻
http://idemitsu-museum.or.jp/collection/painting/rimpa/01.php

https://www.tobunken.go.jp/materials/nenki/814581.html

(「西行物語絵巻」第一巻・部分図)(出光美術館蔵)
画/俵屋宗達(生没年不詳) 詞書/烏丸光広(1579 - 1638)
江戸時代 寛永7年(1630)第一巻 第二巻 第四巻 紙本着色
第一巻 33.4×1785.0cm
第二巻 33.5×1855.7cm
第四巻 33.6×1821.0cm
【 宗達作品のなかで、年紀が明らかな唯一の作品です。能書家の公家・烏丸光広の奥書によれば、本多伊豆守富正の命を受けた光広が、「禁裏御本」を「宗達法橋」に模写させ、詞は光広自身が書いたこと、また「寛永第七季秋上澣」という年紀が判明します。宗達が写した禁裏御本は失われていますが、時代の異なる同じ系統の模写類本がいくつか存在し、宗達が古絵巻をどのように写し、創意を加えているかを間接的ながら考察することができます。"たらし込み"をもちいた軽快な筆致や、鮮麗な色彩は宗達ならではのものです。 】

西行絵物語三.jpg

(「第四巻」の『奥書き』)
  右西行法師行状之絵
  詞四巻 本多氏伊豆守
  富正朝臣依所望 申出
  禁裏御本 命于宗達法橋
  令模写焉 於詞書予染
  禿筆了 招胡盧者乎
   寛永第七季秋上澣
           特進光広(花押)
[右、西行法師行状乃絵詞四巻は、本多伊豆守富正朝臣、
所望に依って、禁裏御本を申し出で、宗達法橋に命じて模写せしむ。
詞書に於いては、予(光広)禿筆を染め了(おわ)んぬ。
胡慮(嘲笑)を招くか。
寛永第七(一六三〇)季秋上幹(九月上旬)。
特進(正二位の唐名) 光広(花押)]
(『日本の美術№31 宗達(千沢楨治著)』など)

一 作画年代→「寛永第七(一六三〇)季秋上幹(九月上旬)」光広(52)、宗達(63?)
二 原本は「禁裏御本」→「後水尾上皇」の依頼により「揚梅図」を描く(宗達)
三 烏丸光広との交友関係→「特進 光広」(元和6年・一六二〇、正二位)、光悦(73)
四 法橋叙位(宗達)→「宗達法橋」(このとき既に「法橋」の地位にある)
五 古典的題材→宗達の模写したものは「室町時代の海田采女(うねめ)本」
六 模写の態度→大和絵系列の宗達好みの模写の姿勢が顕著である。
七 技法上の特色→「没骨法」「たらし込み法」「ほりぬり(彫り塗り)=最初にひいた描線を塗りつぶさずにこれを生かして彩色する技法」の線の上に墨の「くゝり」の線を加える技法などが随所に見られる。
八 部分転写活用→個々の「人物・樹木・土坡・下草」などを部分的に借用して創作する姿勢が顕著である。
(『日本の美術№31 宗達(千沢楨治著)』など)


https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-08-11


最晩年の光悦書画巻(その九)

(その九)草木摺絵新古集和歌巻(その九・西行)

花卉四の二.jpg

花卉摺下絵新古今集和歌巻(部分) 本阿弥光悦筆 (4-2) (源正清朝臣)
MOA美術館蔵 紙本墨画 金銀泥摺絵 一巻 縦34.1㎝ 長907.0㎝

花卉四-三.jpg

花卉摺下絵新古今集和歌巻(部分図) 本阿弥光悦筆 (4-3) (西行)

 上記の上の図(4-2)の左側の三行が西行の歌である。それを拡大して、西行の歌の全体が見られるものが、上記の下の図(4-3)である。

 逢ふまでの命もがなと思ひしはくやしかりけるわが心かな(西行『新古今1155』)

(釈文)あふま天濃い乃知も可なとおも日しハ久やし可利介る我心可那(『書道芸術第十八巻 本阿弥光悦』)

『新古今和歌集』では、次の詞書のある一首である。

  題知らず
逢ふまでの命もがなと思ひしはくやしかりけるわが心かな(西行法師『新古今1155』)
(逢うまでの命がほしいものだと思ったのは、まことにくやしかったわたしの心であることよ。)

 この西行の一首は、『山家集』・「恋歌」の部の「恋歌百十首」に、「あふまでの命もがな
と思ひしは悔しかりける我がこころかな」の歌形で収載されている。この『山家集』には西行の連歌は収載されていない。
 西行の数少ない連歌が収載されているのは、「聞書集」と「聞書残集」(『岩波文庫山家集』収載「聞書集」「残集」)とである。
 その「聞書集」に、「藤原俊成」宅に「西行・西住・寂然(藤原頼業)」等が集い、次のような「俊成と西行」との連歌(付け合い)を遺している。

【    五条の三位入道、そのかみ大宮の家に住まれける折、
     寂然・西住なんどまかりあひて、後世の物語申しける
     ついでに、向花念浄世と申すことを詠みけるに
心をぞやがてはちすに咲かせつる今見る花の散るにたぐへて (西行)
     かくて物語中しつつ連歌しけるに、扇に桜をおきて、
     さしやりたりけるを見て         家主 顕広(俊成)
梓弓はるのまとゐに花ぞ見る              (俊成)
     とりわき附くべき由ありければ
やさししことに猶ひかれつつ              (西行)      】
                       (「聞書集」(『岩波文庫山家集』)

 上記の記述中の「五条の三位入道」は、「藤原俊成のこと。五条は五条東京極に住んでいたことに因る。三位は最終の官位を指している」。「家主 顕広」も俊成のことで、「仁安二年(一一六七)十二月二十四日に顕広という名を俊成と改めているので(時に俊成五十四歳、西行五十歳、それ以前の作)ということになる。
 この仁安二年(一一六七)というのは、西行にとって大きな節目の年で、「平清盛が太政大臣となった」年である。その三年前に、西行の『山家集』にしばしば登場する「新院」こと「崇徳上皇」が讃岐で崩御し、西行は、その慰霊のため、仁安三年(一一六八)に、「中国・四国への旅、崇徳院慰霊、善通寺庵居」を決行する。
 すなわち、釈阿(俊成)と西行(円位)とは、保元元年(一一五六)の「保元の乱」(崇徳上皇讃岐に配流)、そして、「平治の乱」(京都に勃発した内乱。後白河上皇の近臣間の暗闘が源平武士団の対立に結びつき、藤原信頼・源義朝による上皇幽閉、藤原通憲(信西)殺害という事件に発展した。しかし、平清盛の計略によって上皇は脱出し、激しい合戦のすえ源氏方は敗北した。以後、平氏の政権が成立した。)という、大動乱時代に、その絆を深め合った「真の同志」(歌友)だったのである。

 ここで、これらの「聞書残集」(『岩波文庫山家集』の連歌)を理解するためには、次の
アドレスの、「西行の連歌(窪田章一郎稿)」が、その足掛かりとなってくれる。

file:///C:/Users/yahan/Downloads/KokubungakuKenkyu_9-10_Kubota%20(6).pdf

 そこで、「顕広(俊成)の句(「梓弓はるのまとゐに花ぞ見る」)は眼前に即して作った、唱和をもとめる短連歌で、それを西行に名ざしで求めたのである。長連歌の発句にもなりうるもので、穏やかな、明るい、整った句である。寂然、西住たちも同座している楽しげな席であったから、二句のみに終らずに長く連らねられたことも想像されるが、これも何ともいえない」としている。
 さらに、「西行の附句は、『やさししこと』は、矢を挿して負う意で、前句の『梓弓』『まと』と縁を持ち、また『ひかれつつ』は弓を可く意で縁を持っているのは、連歌の常道である。もう一つ『やさししこと』」、語として無理であるが、優しいことの意をもっていると採っていいだろう。この方が一句の意としては表立っている。諸友とともに春のたのしい集いに花を見て、出家の身ではあるが在俗のころとかわらずに風雅の境地に猶心ひかれているという意になろう」と続けている。
 また、「俊成と西行との交際は御裳濯川歌合に俊成によって記されたように『天承の頃ほひ西行(十四歳)より同じ道にたづさはり、仙洞の花下、雲井の月に見なれし友)であったので、西行の附句は俊成の胸にひびいてゆくものをもっていた筈で、二人のみに交流する個人的な感情のあったことがわかる」と記している。

大原三寂・御子左家系図.jpg

「大原三寂・御子左家系図」(『岩波新書西行(高橋貞夫著)』)

 『古今著聞集(巻十五、宿執第二十三)』に、「西行法師、出家よりさきは、徳大寺左大臣の家人にて侍る」と記されている。西行の出家は、保延六年(一一四一)、二十三歳のときであるが、それ以前は「徳大寺家の家人」で、鳥羽院の北面武士として奉仕していたことも記録に遺されている。
 この徳大寺家と俊成の「御子左家は、上記の系図のように近い姻族関係にあり、そして、この御子左家と「常盤三寂(大原三寂)」(「寂念・寂然・寂超」の三兄弟)で知られている「常盤家」と、寂超(藤原為経)の出家で離縁した妻の「美福門院加賀」が俊成の後妻に入り、「藤原定家」の生母となっているという、これまた、両家は因縁浅からぬ関係にある。
 さらに、この美福門院加賀と寂超の子が「藤原隆信」(歌人で「肖像画=「似せ絵」の名手)なのである。この美福門院加賀は、天才歌人・藤原定家と天才画人・藤原隆信の生母で、御子左家の継嗣・定家は、隆信の異父弟ということになる。
 上記の「大原三寂・御子左家系図」の左端の「徳大寺家」の「実能(さねよし)」に、西行は、佐藤義清時代は仕え、この実能の同母妹が「待賢門院璋子(しょうし)」(鳥羽天皇の皇后(中宮)、崇徳・後白河両天皇の母)なのである。
 この待賢門院は、幼女の頃から白河上皇の鍾愛の下に育てられ、鳥羽天皇の中宮になって生まれた子の「崇徳天皇」は、鳥羽天皇に「叔父子(祖父の白河上皇の子)として忌避されていた。大治四年(一一二九)に、「治天の君」として院政を敷いた白河上皇が崩御すると、待賢門院は立場は弱くなり、鳥羽天皇は、長承二年(一一三三)に、藤原長実(六条藤家の顕季の長子)の女「美福門院得子(とくし)」を後宮に迎え入れ、西行が出家した翌々年(永治二年=一一四二)に、待賢門院は出家する。
 待賢門院は、西行より十七歳も年長であり、西行の出家の一つの「悲恋(高貴なる女人)」
説の相手方と目する見方もあるが、それは「西行伝説」の域内に留めるべきものなのかも知れない。しかし、西行が、「美福門院派、近衛天皇(美福門院の子・夭折)・後白河院(待賢門院)派」ではなく、「待賢門院派、崇徳院派」であることは、それは動かし難い事実に属することであろう。
 そして、上記の系図の右端の「常盤家」の為忠は、白河院の側近の一人であり、その子の「常盤(大原)三寂」の「寂念・寂然=唯心房・寂超」の三兄弟も、西行と同じく、「待賢門院派、崇徳院派」と解するのが自然であろう。
 同様に、上記の「御子左家」の俊成も、「六条藤家」出の「美福門院」派よりも「待賢門院」派と解するのが、これまた自然であろう。
 ここで、先の「聞書残集」(『岩波文庫山家集』)の「俊成と西行」との連歌(付け合い)に戻って、「寂然・西住なんどまかりあひて」の「西住(さいじゅう)法師」は、俗名は「
源季正(すえまさ)」という武士で、これまた、西行の出家前からの友人なのである。西行は、その『山家集』では「同行(どうぎょう)に侍りける上人」と「同行」(いっしょに修行する人)という詞書を呈している。この西住については、次のアドレスに詳しい。

http://www.eonet.ne.jp/~yammu/saiju.html

【 為忠が常磐に為業侍りけるに、西住・寂然侍りて、
  太秦に籠りたりけるに、かくと申したりければ、
  罷りたりけり。有明と申す題を詠みけるに
今宵こそ心の隈は知られぬれ入らで明けぬる月を眺めて (西行)

  かくて静空・寂昭なんど侍りければ、物語り申しつつ、
  連歌しけり。秋のことにて肌寒かりければ、
  寂然まで来て背中を合せてゐて連歌しにけり。
思ふにも後合せになりにけり             (寂然)                  
  この連歌異人つくべからずと申しければ
裏返りたる人の心は                 (西行)

  後の世の物語おのおの申しけるに、人なみなみに
  その道には入りながら、思ふやうならぬ由申して
人まねの熊野詣でのわが身かな             静空

  と申しけるに
そりといはるる名ばかりはして            (西行)

  雨の降りければ、檜笠、蓑を着てまで来たりけるを、
  高欄に掛けたりけるを見て                
檜笠着る身のありさまぞあはれなる           西住

  むごに人つけざりければ、興なく覚えて
雨しづくとも泣きぬばかりに             (西行)        
   
  さて明けにければ各々山寺へ帰りけるに、
  後会いつとしらずと申す題、寂然いだして詠みけるに
帰りゆくもとどまる人も思ふらむ又逢ふことのさだめなの世や(西行)  】
 (「聞書残集」(『岩波文庫山家集』)

 この「西行・西住・寂然らの連句」は、『聞書残集』に収載されているものである。この「為忠が常磐に為業侍りけるに」の「為忠が常盤に」は、「藤原為忠の太秦の常盤邸に」の意で、「為業侍りけるに」の「為業」は「常盤(大原)三寂」の「二男・為業=寂念」で、まだ、出家前のことを意味するのであろう。そして、「西住・寂然」の「西住・寂然(四男・頼業)」は、「西行の刎頸の親友」ということになる。
 この「静空」については、「静空は誰れともわからぬが、尾山氏(尾山篤二郎氏)は為忠の長男為盛かといっている。出家後の西行の文学のグループのおもだった人々がこの日は集っている」と、「西行の連歌」(窪田章一郎稿)では、記述されている。
 また、そこで、この「西行・西住・寂然らの連句」について、「この日の西行は心の深さよりはユーモラスな軽妙な味わいを中心として居る。『そり』は剃りで剃髪した僧形のことをいっていると思われ、言葉そのものに無理のあることが興趣を呼んでいるといえよう。西住の句は『身の』に蓑を詠みこんで居り、勾欄にかけられている檜笠と蓑からしたたる雨の雫を、人間化して泣く涙としているところにューモアがある。『あはれなる』を『泣きぬばかり』と受けとめて人間の姿にしたのは、超俗の人がこの一時だけ俗界にかえって心を遊ばせていることが思いあわされて、ユーモアも軽くないものとして味わわれる。夜が明けて別れぎわに『帰りゆくもとどまる人も』と詠んだ時は、ふたたび山寺の生活気分にたちもどっていたのである」との、この評の一端を示されている。

(追記メモ一) 『菟玖波集』における「西行の連歌」関連

「西行の連歌」(窪田章一郎稿)では、「西行の連歌は菟玖波集にも一句も採りいれられず、従来の連歌研究もいまだ扱っていない」というのである。

file:///C:/Users/yahan/Downloads/KokubungakuKenkyu_9-10_Kubota%20(6).pdf
 ↓
 しかし、これは、戦前の昭和五年(一九三〇)の「校本つくば集新釈上巻」(福井久蔵著・早稲田大学出版)当時に基づく論孜なのかも知れない。
 戦後の昭和二十六年(一九五一)に刊行された『日本古典全集 筑波集(上・下)・校注福井久蔵・朝日新聞刊』の、その下巻の「巻十二」と「巻十九」に、次のような、西行の連歌が収載されている。

   空にぞ冬の月は澄みける
    と侍るに
1187 舎(やど)るぺき水は氷にとぢらへて  西行法師 (『菟玖波集・下・巻十二』)
(月が映えるべき水は氷ってしまったので、冬月は空に澄わたっていると前後して見る句)
   (『日本古典全集 筑波集(下)・校注福井久蔵・朝日新聞刊』所収「巻十二」)

  ひろき空にすばる星かな
1948 深き海にかがまる蝦(えび)の有るからに 西行法師 (『菟玖波集・下・巻十九』)
(深い海に身体を十分伸ばしてよいのに、海老はなぜあのように腰をかがめるかと禅の問答のような付けである。参考: 「すばる星」=昴(すばる)=統(す)ばる=集まって一つになる。すまる=すぼまる=窄まる=すぼむ→すばる星。 「深き海」と「広い空」、「すばる星」と「すぼむ蝦」との対比。)
    (『日本古典全集 筑波集(下)・校注福井久蔵・朝日新聞刊』所収「巻十九」)


https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/he05/he05_02110/he05_02110_0007/he05_02110_0007_p0027.jpg

     修行し侍るりけるに、奈良路をゆくとて、
     尾もなき山のまろきを見て
   世の中にまんまろにこそ見えにけれ  西住法師
     と侍るとて
1956 あそこもここもすみもつかねば    西行法師 (『菟玖波集・下・巻十九』)
(奈良路の山の形がまんまるなのを見て、円に対して四角のものはないということを利かせようとして設けた付合。参考: 「まんまろ」→まんまろ頭→坊主頭→僧=西住法師と西行法師。西行の別号の「円位法師」を掛けているか。「まんまろ」と「四角の四隅」→融通無碍と四角四面との対比。 )
    (『日本古典全集 筑波集(下)・校注福井久蔵・朝日新聞刊』所収「巻十九」)


(追記メモ二)『千載和歌集』の「西住・寂然」の歌(『新日本古典文学大系10 千載集』)

(西住法師)

    行路ノ雪といへる心をよめる
463 駒のあとはかつふる雪にうづもれてをくるヽ人やみちまどふらん
(駒の足跡は次から次へと降る雪に埋もれて、後から遅れて来る人は、道に迷うのではなかろうか。)

     夏のころ越の国へまかりける人の、秋はかならず
     上りなん、待てといひけれど、冬になるまで上り
     まうでこざりければ、つかはしける
493 待てといひて頼めし秋もすぎぬればかへる山路の名ぞかひもなき
(待っていて下さいと、私をあてにさせた約束の秋も過ぎてしまったので、帰って来る山路という帰山の名もそのかいがありませんよ。)

     乍臥無実恋といへる心をよめる
753 手枕のうゑに乱るゝ朝寝髪したに解けずと人は知らじな
(私の手枕の上に乱れている恋人の朝寝髪、それなのに実は打ち解けていないということを他人は知らないだろうな。参考: 乍臥無実恋=臥シ乍ラ実ノ無キ恋=共に臥しながら男女の関係に至らなかった恋。)

1140 まどろみてさてもやみなばいかゞせむ寝覚めぞあらぬ命なりける
(睡眠中にそのまま死を迎えたらどうしたらよかろう。寝覚めというものにこそ無いはずの命なのであったよ。)

(寂然法師)

230 秋はきぬ年もなかばにすぎぬとや荻吹く風のおどろかすらむ
(秋が来た。一年も半ばまで過ぎたと言ってであろうか。荻に吹く風が目を覚まさせるようだ。)

     西住法師みまかりける時、終り正念なりけるよしを聞きて、
     円位(西行)法師のもとへつかはしける
604 乱れずと終りを聞くこそうれしけれさても別れはなぐさまねども
(乱れるところがなかった、とその臨終の様を聞けるのは嬉しいことです。そうとはいっても、死別の悲しみは慰められないのですが。)

664 みちのくの信夫もぢずり忍びつヽ色には出でじ乱れもぞする。
(みちのくの信夫もじずりではないが、忍び忍びしてわが恋心を表にあらわすまい。)

      世を背(そむ)きて又の年の春、花を見てよめる
1068  この春ぞ思ひはかへすさくら花空(むな)しき色に染めし心を
(この春にこそ、桜花の空しい色に染めて執着していた心を翻して、色即是空と悟ることだ。参考: 思ひかへす悟りや今日はなからまし花にそめおく色なかりせば/西行)

      題不知
1069  世の中を常なきものと思はずはいかでか花の散るに堪へまし
(この世を無常と思わなかったら、どうして花の散ることに堪えられるだろうか。無常の認識に立つからこそ散華のあわれに堪えられるのだ。)

      火盛久不燃
1251  煙(けぶり)だにしばしたなびけ鳥辺山たち別れにし形見とも見ん
(荼毘の煙だけでもしばらくの間たなびいていて欲しい。鳥辺山よ、せめてそれを死別したあの人の形見と見ようと思うから。参考: 「火盛久不燃」=罪業応報経の偈の一節。栄枯盛衰の無常をいう。)

(追記メモ三) 「美福門院加賀と待賢門院加賀」・「待賢門院とその女房たち」そして「上西門院と堀川の局・兵衛の局」

(美福門院加賀)

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/kaga_b.html

1232 よしさらばのちの世とだにたのめおけつらさにたへぬ身ともこそなれ(『新古今・藤原俊成』)
       返し
1233 たのめおかむたださばかりを契りにて憂き世の中を夢になしてよ(『新古今・藤原定家朝臣母=美福門院加賀)

(待賢門院加賀)→ 大宮の女房加賀

https://sakuramitih31.blog.fc2.com/blog-entry-4412.html?sp

799 かねてより思ひし事ぞ伏柴のこるばかりなる歎きせむとは(『千載集・待賢門院加賀)

(待賢門院とそのの女房たち)

http://sanka11.sakura.ne.jp/sankasyu3/42.html

〇中納言の局
〇堀川の局
〇兵衛の局
堀川の局の妹。待賢門院のあとに上西門院に仕えています。西行との贈答歌が山家集の中に三首あります。
〇帥の局
〇加賀の局→大宮の加賀 
西行より13歳の年長ということです。母は新肥前と言うことですが、詳しくは不明です。千載集に一首採録されています。この人は待賢門院の後に近衛院の皇后だった藤原多子に仕えて、大宮の女房加賀となります。有馬温泉での贈答歌が135Pに二首あります。ただし、  西行の歌は他の人の代作としてのものです。寂超長門入道の妻、藤原俊成の妻、藤原隆信や藤原定家の母も加賀の局と言いますが、年齢的にみて、この美福門院加賀とは別人とみられています。 ○紀伊の局
〇安芸の局
〇尾張の局
〇新少将
源俊頼の娘。新古今集・新拾遺集に作品があります。

(上西門院と堀川の局・兵衛の局)

http://sanka11.sakura.ne.jp/sankasyu3/42.html

〇上西門院
〇堀川の局・兵衛の局
二人ともに生没年不詳です。村上源氏の流れをくむ神祇伯、源顕仲の娘といわれています。姉が堀河、妹が兵衛です。二人の年齢差は不明ですが、ともに待賢門院璋子(鳥羽天皇皇后)に仕えました。堀川はそれ以前に、白河天皇の令子内親王に仕えて、前斎院六条と称していました。1145年に待賢門院が死亡すると、堀川は落飾出家、一年間の喪に服したあとに、仁和寺などで過ごしていた事が山家集からも分かります。兵衛は待賢門院のあとに上西門院に仕えてました。1160年、上西門院の落飾に伴い出家したという説があります。それから20年以上は生存していたと考えられています。上西門院は1189年の死亡ですが、兵衛はそれより数年早く亡くなったようです。
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「忘れがたき風貌・画像」逍遥(その四) [忘れがたき風貌・画像]

その四 西行・「釈阿(藤原俊成)・藤原定家」周辺

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(左方十八・西行法師」.jpg

狩野探幽筆「新三十六歌仙画帖(左方十八・西行法師」(東京国立博物館蔵)各33.5×26.1
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0009429


(再掲)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-05-05

「鹿下絵新古今和歌巻」逍遥(その一)
その一 西行法師

鹿下絵一.JPG

「鹿下絵新古今和歌巻(全体図の一「西行・定家」)」(『書道芸術第十八巻本阿弥光悦(中田勇次郎責任編集)』)
鹿下絵和歌巻・西行.jpg

「鹿下絵新古今集和歌巻断簡(西行法師)」(画)俵屋宗達(書)本阿弥光悦(山種美術館蔵)
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/215347

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-04-12

(「西行法師」周辺メモ)

1 西行法師:こころなき身にもあはしられけりしぎたつ沢の秋の夕ぐれ(山種美術館蔵)

(釈文)
西行法師
こ々路那幾身尓も哀盤しら禮介利
鴫多徒澤濃秋乃夕暮

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/saigyo.html

   秋 ものへまかりける道にて
心なき身にもあはれは知られけり鴫(しぎ)たつ沢の秋の夕暮(山家集470)[新古362]

【通釈】心なき我が身にも、哀れ深い趣は知られるのだった。鴫が飛び立つ沢の秋の夕暮――。
【語釈】◇心なき身 種々の解釈があるが、「物の情趣を解さない身」「煩悩を去った無心の身」の二通りの解釈に大別できよう。前者と解すれば出家の身にかかわりなく謙辞の意が強くなる。下に掲げた【鑑賞】は、後者の解に立った中世歌学者による評釈である。◇鴫たつ沢 鴫が飛び立つ沢。鴫はチドリ目シギ科に分類される鳥。多種あるが、多くは秋に渡来し、沼沢や海浜などに棲む。非繁殖期には単独で行動することが多く、掲出歌の「鴫」も唯一羽である。飛び立つ時にあげる鳴き声や羽音は趣深いものとされた。例、「暁になりにけらしな我が門のかり田の鴫も鳴きて立つなり」(堀河百首、隆源)、「をしねほす伏見のくろにたつ鴫の羽音さびしき朝霜の空」(後鳥羽院)
【補記】秋の夕暮の沢、その静寂を一瞬破って飛び立つ鴫。『西行物語』では東国旅行の際、相模国で詠まれた歌としているが、制作年も精しい制作事情なども不明である。『御裳濯河歌合』で前掲の「おほかたの露にはなにの」と合わされ、判者俊成は「鴫立つ沢のといへる、心幽玄にすがたおよびがたし」と賞賛しつつも負を付けた。また俊成は千載集にこの歌を採らず、そのことを人づてに聞いた西行はいたく失望したという(『今物語』)。『西行法師家集』は題「鴫」、新古今集は「題しらず」。

(「鹿下絵新古今集和歌巻」周辺メモ )

【「鹿下絵新古今集和歌巻」は戦後小刀を入れて諸家に分藏されることになったが、もちろん本来は一巻の巻物であった。しかも全長二〇mを超える大巻であったらしい。この下絵も鹿という単一のモチーフで構成されている。鹿はたたずみ、群れる。雌雄でじゃれ合い、戯れる。跳びはね、走る。そして山の端に姿を消していく。鹿の視線や動きのベクトルは、画面内でさまざまに変化する。先に指摘した「鶴下絵和歌巻」の特異な構成は、この和歌巻と比較することによって一層はっきりするであろう。】(『日本の美術№460 光悦と本阿弥流の人々(河野元昭著)』)

【「西行への傾倒」 光悦が選んだのは『新古今和歌集』巻四「秋歌 上」、岩波文庫版でいえば三六二番から三八九番までにあたる。つまり西行法師の「こころなき身にもあはしられけりしぎたつ沢の秋の夕ぐれ」から藤原家隆の「鳰のうみや月のひかりにうつろへば浪の花にも秋は見えけり」まで連続する二八首である。西行法師の前後には、寂連法師の「さびしさはその色としもなかりけりまき立つ山の秋の夕暮」と藤原定家の「見わたせば花も紅葉もなかりけり浦のとまやの秋の夕ぐれ」がある。有名な三夕の和歌、これをもって秋歌の和歌巻を始めようとするのはだれでも思いつく着想であろう。
 しかし光悦は寂連をカットし、いきなり西行から書きだした。それは光悦が西行を高く評価し、西行に対する特別の感情をもっていたからである。『本阿弥行状記』には西行に関することが数条見出されるが、とくに「心なき」の一首は一七二条に取り上げられている。この一首にならって、飛鳥井雅章は「あはれさは秋ならねどもしられけり鴫立沢のあとを尋ねて」と詠んだ。ところがこの鴫立沢というのは、西行の和歌によって後人が作り出した名所であったので、このような詠吟は不埒であると勅勘を蒙ったという話である。雅章の恥となるような逸話を持ち出しつつ、西行の素晴らしさを際立たせたわけである。それにしても、並の書家であれば三夕の和歌の一つをカットすることなど、絶対にしなかったであろう。 】(『日本の美術№460 光悦と本阿弥流の人々(河野元昭著)』)

【『本阿弥行状記』一七二段
  心なき身にも哀れは知られけり鴫立沢の秋の夕暮 西行法師
 これを秀吟は西行東国行脚の時なり。その旧跡、相模国に鴫立沢と申て庵なども有之候由。然るに飛鳥井雅章卿
  あはれさは秋ならねともしられけり鴫立沢のあとを尋ねて
と申歌を詠給ふ事、右鴫立沢と申は後人の拵へし所なるを、かく詠吟の事不埒也と勅勘を蒙り給ひしとぞ。道を大切になし給ふ事難有御事也。 】(『本阿弥行状記と光悦(正木篤三著)』)


「鹿下絵新古今集和歌巻」逍遥メモ(その一)

http://sakurasayori.web.fc2.com/hyaku88.html

「御裳濯河歌合」(十八番)

左:勝(山家客人)
大かたの霧にはなにの成るならん袂(たもと)に置くは涙なりけり(千載集)                           
右:(野径亭主)
心なき身にもあはれは知られけり鴫(しぎ)たつ沢の秋の夕暮(新古今集)
判詞(俊成)
右歌の「鴫立つ沢の」と詠んでいるのは、心が幽玄で姿は及び難いものがある。ただし左の歌で「霧はなにの」と云っているのは、言葉は浅いようだが心はまことに深い。勝ると申すべきであろう。
参考: 右歌は西行の代表作の一つで、いわゆる「三夕(さんせき)の歌」でもある。俊成はこの寂寥感溢れる歌を「心幽玄」として認めているが、左歌の「霧にはなにの」というのを心の深さとして高く評価している。わが袂に置く涙なのだが、あたり一面に置く一粒一粒の露はいったい何がなったのか。この世に存在する、そのものの悲傷であろうか、余情の深い歌である。右の歌は、上句が説明的で下句はその材となっている、というように俊成は見たのであろうか。左歌は「千載集」に採り、右歌は外している。

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その十八 入道三品釈阿と西行法師
釋阿.jpg

狩野永納筆「新三十六歌仙画帖(入道三品釈阿)」(東京国立博物館蔵)各22.4×19.0
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0056425

西行.jpg

狩野永納筆「新三十六歌仙画帖(西行法師)」(東京国立博物館蔵)各22.4×19.0
https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0056426

左方十八・皇太后宮大夫俊成
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010710000.html

 又や見むかた野のみのゝ桜がり/はなのゆきちるはるのあけぼの

右方十八・西行法師
http://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/001/0010711000.html

 をしなべて花のさかりになりにけり/やまのはごとにかゝるしらくも

(周辺メモ)西行(さいぎょう) 元永元~建久元(1118~1190) 俗名:佐藤義清 法号:円位

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 藤原北家魚名流と伝わる俵藤太(たわらのとうた)秀郷(ひでさと)の末裔。紀伊国那賀郡に広大な荘園を有し、都では代々左衛門尉(さえもんのじょう)・検非違使(けびいし)を勤めた佐藤一族の出。父は左衛門尉佐藤康清、母は源清経女。俗名は佐藤義清(のりきよ)。弟に仲清がいる。年少にして徳大寺家の家人となり、実能(公実の子。待賢門院璋子の兄)とその子公能に仕える。保延元年(1135)、十八歳で兵衛尉に任ぜられ、その後、鳥羽院北面の武士として安楽寿院御幸に随うなどするが、保延六年、二十三歳で出家した。法名は円位。鞍馬・嵯峨など京周辺に庵を結ぶ。出家以前から親しんでいた和歌に一層打ち込み、陸奥・出羽を旅して各地の歌枕を訪ねた。久安五年(1149)、真言宗の総本山高野山に入り、以後三十年にわたり同山を本拠とする。

「岩間とぢし氷も今朝はとけそめて苔の下水みちもとむらん」(新古7)
【通釈】岩と岩の間を閉ざしていた氷も、立春の今朝は解け始めて、苔の生えた下を流れる水が通り道を探し求めていることだろう。

「ふりつみし高嶺のみ雪とけにけり清滝川の水の白波」(新古27)
【通釈】冬の間に降り積もった高嶺の雪が解けたのであるよ。清滝川の水嵩が増して白波が立っている。

「吉野山さくらが枝に雪ちりて花おそげなる年にもあるかな」(新古79)
【通釈】吉野山では桜の枝に雪が舞い散って、今年は花が遅れそうな年であるよ。

「吉野山こぞのしをりの道かへてまだ見ぬかたの花をたづねむ」(新古86)
【通釈】吉野山――ここで去年枝折(しおり)をして目印をつけておいた道とは道を変えて、まだ見ない方面の花をたずね入ろう。

「ながむとて花にもいたくなれぬれば散る別れこそ悲しかりけれ」(新古126)
【通釈】じっと見つめては物思いに耽るとて、花にもひどく馴染んでしまったので、散る時の別れが一層悲しいのだった。

「聞かずともここをせにせむほととぎす山田の原の杉のむら立」(新古217)
【通釈】たとえ聞こえなくとも、ここを時鳥の声を待つ場所としよう。山田の原の杉林を。

「ほととぎす深き峰より出でにけり外山のすそに声のおちくる」(新古218)
【通釈】時鳥は深い峰から今出たのだな。私が歩いている外山の山裾に、その声が落ちて来る。

「道の辺に清水ながるる柳蔭しばしとてこそ立ちとまりつれ」(新古262)
【通釈】道のほとりに清水が流れる柳の木蔭――ほんのしばらくのつもりで立ち止まったのだった。

「よられつる野もせの草のかげろひて涼しくくもる夕立の空」(新古263)
【通釈】もつれ合った野一面の草がふと陰って、見れば涼しげに曇っている夕立の空よ。

「あはれいかに草葉の露のこぼるらむ秋風立ちぬ宮城野の原」(新古300)
【通釈】ああ、どれほど草葉の露がこぼれているだろうか。秋風が吹き始めた。宮城野の原では今頃――。

「雲かかる遠山畑(とほやまばた)の秋されば思ひやるだにかなしきものを」(新古1562)
【通釈】雲がかかっている、遠くの山の畑を眺めると、そこに暮らしている人の心が思いやられるが、ましてや秋になれば、いかばかり寂しいことだろう――思いを馳せるだけでも切なくてならないよ。

「月を見て心浮かれしいにしへの秋にもさらにめぐり逢ひぬる」(新古1532)
【通釈】月を見て心が浮かれた昔の秋に、再び巡り逢ってしまったことよ。

「夜もすがら月こそ袖にやどりけれ昔の秋を思ひ出づれば」(351)[新古1533]
【通釈】一晩中、月ばかりが涙に濡れた袖に宿っていた。昔の秋を思い出していたので。

「白雲をつばさにかけてゆく雁の門田のおもの友したふなり」(新古502)
【通釈】白雲を翼に触れ合わせて飛んでゆく雁が鳴いているのは、門田に残る友を慕っているのだ。

心なき身にもあはれは知られけり鴫(しぎ)たつ沢の秋の夕暮(新古362)
【通釈】心なき我が身にも、哀れ深い趣は知られるのだった。鴫が飛び立つ沢の秋の夕暮――。

「きりぎりす夜寒に秋のなるままに弱るか声の遠ざかりゆく」(新古472)
【通釈】蟋蟀は秋が深まり夜寒になるにつれて衰弱するのか、鳴き声が遠ざかってゆく。

「秋篠や外山の里やしぐるらむ伊駒(いこま)の岳(たけ)に雲のかかれる」(新古585)
【通釈】秋篠の外山の里では時雨が降っているのだろうか。生駒の山に雲がかかっている。

「津の国の難波の春は夢なれや葦の枯葉に風わたるなり」(新古625)
【通釈】古歌にも詠まれた津の国の難波の春は夢であったのだろうか。今や葦の枯葉に風がわたる、その荒涼とした音が聞こえるばかりである。

「さびしさに堪(た)へたる人のまたもあれな庵ならべむ冬の山里(新古627)
【通釈】寂しさに耐えている人が私のほかにもいればよいな。庵を並べて住もう――「寂しさ増さる」と言われる冬の山里で。

「おのづから言はぬを慕ふ人やあるとやすらふほどに年の暮れぬる」(新古691)
【通釈】言葉をかけない私を、ひょっとして、慕ってくれる人もあるかと、ためらっているうちに、年が暮れてしまいました。

「面影の忘らるまじき別れかな名残を人の月にとどめて」(新古1185)
【通釈】いつまでも面影の忘れられそうにない別れであるよ。別れたあとも、あの人がなごりを月の光のうちに留めていて…。

「くまもなき折しも人を思ひ出でて心と月をやつしつるかな」(新古1268)
【通釈】隈もなく照っている折しも、恋しい人を思い出して、自分の心からせっかくの明月をみすぼらしくしてしまったよ。

「はるかなる岩のはざまに独り居て人目思はで物思はばや」(新古1099)
【通釈】人里を遥かに離れた岩の狭間に独り居て、他人の目を気にせず物思いに耽りたいものだ。

「数ならぬ心のとがになし果てじ知らせてこそは身をも恨みめ」(新古1100)
【通釈】身分不相応の恋をしたことを、賤しい身である自分の拙い心のあやまちとして諦めはすまい。あの人にこの思いを知らせて、拒まれた上で初めて我が身を恨もうではないか。

「なにとなくさすがに惜しき命かなありへば人や思ひ知るとて」(新古1147)
【通釈】なんとはなしに、やはり惜しい命であるよ。生き永らえていたならば、あの人が私の思いを悟ってくれるかもしれないと。

「今ぞ知る思ひ出でよとちぎりしは忘れむとての情けなりけり」(新古1298)
【通釈】今になって分かった。思い出してと約束を交わしたのは、私を忘れようと思っての、せめてもの情けだったのだ。

「逢ふまでの命もがなと思ひしはくやしかりける我が心かな」(新古1155)
【通釈】あの人と逢うまでは命を永らえたいと思ったのは、今にしてみれば浅はかで、悔やまれる我が心であったよ。

「人は来(こ)で風のけしきの更けぬるにあはれに雁のおとづれて行く」(新古1200)
【通釈】待つ人は来ないまま、風もすっかり夜が更けた気色になったところへ、しみじみと哀れな声で雁が鳴いてゆく。

「待たれつる入相の鐘のおとすなり明日もやあらば聞かむとすらむ」(新古1808)
【通釈】待たれた入相の鐘の音が聞こえる。明日も生きていたならば、またこうして聞こうというのだろうか。

「古畑のそはの立つ木にゐる鳩の友よぶ声のすごき夕暮」(新古1676)
【通釈】焼き捨てられた古畑の斜面の立木に止まっている鳩が、友を呼ぶ声――その響きが物寂しく聞こえる夕暮よ。

「吉野山やがて出でじと思ふ身を花ちりなばと人や待つらむ」(新古1619)
【通釈】吉野山に入って、そのまますぐには下山しまいと思う我が身であるのに、花が散ったなら帰って来るだろうと都の人々は待っているのだろうか。

「山里にうき世いとはむ友もがな悔しく過ぎし昔かたらむ」(新古1659)
【通釈】この山里に、現世の生活を捨てた友がいたなら。虚しく過ぎた、悔やまれる昔の日々を語り合おう。

「世の中を思へばなべて散る花の我が身をさてもいづちかもせむ」(新古1471)
【通釈】世の中というものを思えば、すべては散る花のように滅んでゆく――そのような我が身をさてまあ、どうすればよいのやら。

「世をいとふ名をだにもさはとどめおきて数ならぬ身の思ひ出(い)でにせむ」(新古1828)
【通釈】世を厭い捨てたという評判だけでも、そのままこの世に残しておいて、数にも入らないような我が身の思い出としよう。

「都にて月をあはれと思ひしは数よりほかのすさびなりけり」(新古937)
【通釈】都にあって月を哀れ深いと思ったのは、物の数にも入らないお慰みなのであった。

神路山月さやかなる誓ひありて天(あめ)の下をば照らすなりけり(新古1878)
【通釈】神路山の月がさやかに照るように、明らかな誓いがあって、慈悲の光はこの地上をあまねく照らしているのであった。

「さやかなる鷲の高嶺の雲ゐより影やはらぐる月よみの森」(新古1879)
【通釈】霊鷲山にかかる雲から現れた月は、さやかな光をやわらげて、この国に月読の神として出現し、月読の杜に祀られている。

「年たけてまた越ゆべしと思ひきや命なりけりさやの中山」(新古987)
【通釈】年も盛りを過ぎて、再び越えることになろうと思っただろうか。命があってのことである。小夜の中山よ。

「風になびく富士の煙の空に消えてゆくへも知らぬ我が心かな」(新古1613)
【通釈】風になびく富士山の煙が空に消えて、そのように行方も知れないわが心であるよ。


(周辺メモ)藤原俊成(ふじわらのとしなり(-しゅんぜい)) 永久二年~元久元年(1114-1204) 法号:釈阿 通称:五条三位

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 藤原道長の系譜を引く御子左(みこひだり)家の出。権中納言俊忠の子。母は藤原敦家女。藤原親忠女(美福門院加賀)との間に成家・定家を、為忠女との間に後白河院京極局を、六条院宣旨との間に八条院坊門局をもうけた。歌人の寂蓮(実の甥)・俊成女(実の孫)は養子である。

「俊頼が後には、釈阿・西行なり。釈阿は、やさしく艶に、心も深く、あはれなるところもありき。殊に愚意に庶幾する姿なり」(後鳥羽院「後鳥羽院御口伝」)。

「聞く人ぞ涙はおつる帰る雁なきて行くなる曙の空」(新古59)
【通釈】聞いている人の方こそ涙はこぼれ落ちるのだ。北へ帰る雁が鳴いて飛んでゆく曙の空よ。

「いくとせの春に心をつくし来ぬあはれと思へみ吉野の花」(新古100)
【通釈】幾年の春に心を尽くして来たのだろう。憐れと思ってくれ、吉野の桜の花よ。

「またや見む交野(かたの)の御野(みの)の桜がり花の雪ちる春の曙」(新古114)
【通釈】再び見ることができるだろうか、こんな光景を。交野の禁野に桜を求めて逍遙していたところ、雪さながら花の散る春の曙に出遭った。

「駒とめてなほ水かはむ山吹の花の露そふ井手の玉川」(新古159)

【通釈】馬を駐めて、さらに水を飲ませよう。山吹の花の露が落ち添う井手の玉川を見るために。

「昔思ふ草の庵(いほり)の夜の雨に涙な添へそ山ほととぎす(新古201)
【通釈】昔を思い出して過ごす草庵の夜――悲しげな鳴き声で、降る雨に涙を添えてくれるな、山時鳥よ。

「雨そそく花橘に風過ぎて山ほととぎす雲に鳴くなり」(新古202)
【通釈】雨の降りそそぐ橘の花に、風が吹いて過ぎる――すると、ほととぎすが雨雲の中で鳴いている。

「我が心いかにせよとて時鳥雲間の月の影に鳴くらむ」(新古210)
【通釈】私の心をどうせよというので、ほととぎすは雲間から漏れ出た月――それだけでも十分あわれ深い月影のもとで鳴くのだろう。

「誰かまた花橘に思ひ出でむ我も昔の人となりなば」(新古238)
【通釈】橘の花の香をかげば、亡き人を懐かしく思い出す――私も死んで過去の人となったならば、誰がまた橘の花に私を思い出してくれることだろうか。

「伏見山松の蔭より見わたせば明くる田の面(も)に秋風ぞ吹く」(新古291)
【通釈】伏見山の松の蔭から見渡すと、明けてゆく田の面に秋風が吹いている。

「水渋(みしぶ)つき植ゑし山田に引板(ひた)はへてまた袖ぬらす秋は来にけり」(新古301)
【通釈】夏、袖に水渋をつけて苗を植えた山田に、今や引板を張り渡して見張りをし、さらに袖を濡らす秋はやって来たのだ。

「たなばたのとわたる舟の梶の葉にいく秋書きつ露の玉づさ」(新古320)
【通釈】七夕の天の川の川門を渡る舟の梶――その梶の葉に、秋が来るたび何度書いたことだろう、葉に置いた露のように果敢ない願い文(ぶみ)を。

「いとかくや袖はしをれし野辺に出でて昔も秋の花は見しかど」(新古341)
【通釈】これほどひどく袖は涙に濡れ萎れたことがあったろうか。野辺に出て、昔も今のように秋の花々を眺めたことはあったけれど。

「心とや紅葉はすらむ立田山松は時雨にぬれぬものかは」(新古527)
【通釈】木々は自分の心から紅葉するのだろうか。立田山――その山の紅葉にまじる松はどうか、時雨に濡れなかっただろうか。そんなはずはないのだ。

「かつ氷りかつはくだくる山川の岩間にむせぶ暁の声」(新古631)
【通釈】氷っては砕け、砕けては氷る山川の水が、岩間に咽ぶような暁の声よ。

「ひとり見る池の氷にすむ月のやがて袖にもうつりぬるかな」(新古640)
【通釈】独り見ていた池の氷にくっきりと照っていた月が、そのまま、涙に濡れた袖にも映ったのであるよ。

「今日はもし君もや訪(と)ふと眺むれどまだ跡もなき庭の雪かな」(新古664)
【通釈】今日はもしやあなたが訪ねて来るかと眺めるけれど、まだ足跡もない庭の雪であるよ。

「雪ふれば嶺の真榊(まさかき)うづもれて月にみがける天の香久山」(新古677)
【通釈】雪が降ると、峰の榊の木々は埋もれてしまって、月光で以て磨いているかのように澄み切った天の香具山よ。

「夏刈りの芦のかり寝もあはれなり玉江の月の明けがたの空」(新古932)
【通釈】夏刈りの芦を刈り敷いての仮寝も興趣の深いものである。玉江に月が残る明け方の空よ。

「立ちかへり又も来てみむ松島や雄島(をじま)の苫屋波に荒らすな」(新古933)
【通釈】再び戻って来て見よう。それまで松島の雄島の苫屋を波に荒れるままにしないでくれ。

「難波人あし火たく屋に宿かりてすずろに袖のしほたるるかな」(新古973)
【通釈】難波人が蘆火を焚く小屋に宿を借りて、わけもなく袖がぐっしょり濡れてしまうことよ。

世の中は憂きふししげし篠原(しのはら)や旅にしあれば妹夢に見ゆ(新古976)
【通釈】篠竹に節が多いように、人生は辛い折節が多い。篠原で旅寝していれば、妻が夢に見えて、また辛くなる。

「うき世には今はあらしの山風にこれや馴れ行くはじめなるらむ」(新古795)
【通釈】辛い現世にはもう留まるまいと思って籠る嵐山の山風に、これが馴れてゆく始めなのだろうか。

「稀にくる夜半も悲しき松風をたえずや苔の下に聞くらむ」(新古796)
【通釈】稀に訪れる夜でも悲しく聴こえる松風を、亡き妻は絶えず墓の下で聞くのだろうか。

「山人の折る袖にほふ菊の露うちはらふにも千代は経ぬべし」(新古719)
【通釈】仙人が花を折り取る、その袖を濡らして香る菊の露――それを打ち払う一瞬にも、千年が経ってしまうだろう。

「君が代は千世ともささじ天(あま)の戸や出づる月日のかぎりなければ」(新古738)
【通釈】大君の御代は、千年とも限って言うまい。天の戸を開いて昇る太陽と月は限りなく在り続けるのだから。

「近江(あふみ)のや坂田の稲をかけ積みて道ある御代の始めにぞ舂(つ)く」(新古753)
【通釈】近江の坂田の稲を積み重ねて掛け、正しい道理の通る御代の最初に舂くのである。

「思ひあまりそなたの空をながむれば霞を分けて春雨ぞふる」(新古1107)
【通釈】思い悩むあまり、あなたの住む方の空を眺めると、霞を分けて春雨が降っている。

逢ふことはかた野の里の笹の庵(いほ)しのに露ちる夜半の床かな(新古1110)
【通釈】あの人に逢うことは難く、交野の里の笹葺きの庵の篠に散る露ではないが、しきりと涙がこぼれる夜の寝床であるよ。

「憂き身をば我だに厭ふいとへただそをだに同じ心と思はむ」(新古1143)
【通釈】辛い境遇のこの身を、自分自身さえ厭うています。あなたもひたすら厭うて下さい、せめてそれだけはあなたと心が一つだと思いましょう。

「よしさらば後の世とだに頼めおけつらさに堪へぬ身ともこそなれ」(新古1232)
【通釈】仕方ない、それなら、せめて来世だけでも約束して下さい。我が身は貴女のつらい仕打ちに堪えられず死んでしまいますから。

「あはれなりうたた寝にのみ見し夢の長き思ひに結ぼほれなむ」(新古1389)
【通釈】はかないことである。転た寝に見ただけの短い夢のような逢瀬が、長い恋となって私は鬱屈した思いを抱き続けるのだろう。

「思ひわび見し面影はさておきて恋せざりけむ折ぞ恋しき」(新古1394)
【通釈】歎き悲しむ今は、逢瀬の時に見た面影はさておいて、あの人をまだ恋していなかった頃のことが慕わしく思われるのである。

「五月雨は真屋の軒端の雨(あま)そそぎあまりなるまでぬるる袖かな」(新古1492)
【通釈】五月雨は、真屋の軒端から落ちる雨垂れが余りひどいように、ひどく涙に濡れる袖であるよ。

「嵐吹く峯の紅葉の日にそへてもろくなりゆく我が涙かな」(新古1803)
【通釈】嵐が吹き荒れる峰の紅葉が日に日に脆くなってゆくように、感じやすくなり、こぼれやすくなってゆく我が涙であるよ。

「杣山(そまやま)や梢におもる雪折れにたへぬ歎きの身をくだくらむ」(新古1582)
【通釈】杣山の木々の梢に雪が重く積もって枝が折れる――そのように、耐えられない嘆きが積もって我が身を砕くのであろう。

「暁とつげの枕をそばだてて聞くも悲しき鐘の音かな」(新古1809)
【通釈】暁であると告げるのを、黄楊の枕をそばだてて聞いていると、何とも悲しい鐘の音であるよ。

「いかにせむ賤(しづ)が園生(そのふ)の奧の竹かきこもるとも世の中ぞかし」(新古1673)
【通釈】どうしよう。賤しい我が園の奧の竹垣ではないが、深く引き籠って生きようとも、世間から逃れることはできないのだ。

「忘れじよ忘るなとだにいひてまし雲居の月の心ありせば」(新古1509)
【通釈】私も忘れまい。おまえも忘れるなとだけは言っておきたいものだ。殿上から眺める月に心があったならば。

「世の中を思ひつらねてながむればむなしき空に消ゆる白雲」(新古1846)
【通釈】世の中のことを次から次へ思い続けて、外を眺めていると、虚空にはなかく消えてゆく白雲よ。

「思ひきや別れし秋にめぐりあひて又もこの世の月を見むとは」(新古1531)
【通釈】思いもしなかった。この世と訣別した秋に巡り逢って、再び生きて月を眺めようとは。

「年暮れし涙のつららとけにけり苔の袖にも春や立つらむ」(新古1436)
【通釈】年が暮れたのを惜しんで流した涙のつららも解けてしまった。苔の袖にも春が来たのであろうか。

「今はわれ吉野の山の花をこそ宿の物とも見るべかりけれ」(新古1466)
【通釈】出家した今、私は吉野山の桜を我が家のものとして眺めることができるのだ。

「照る月も雲のよそにぞ行きめぐる花ぞこの世の光なりける」(新古1468)
【通釈】美しく輝く月も、雲の彼方という遥か遠い世界を行き巡っている。それに対して桜の花こそはこの世界を照らす光なのだ。

「老いぬとも又も逢はむと行く年に涙の玉を手向けつるかな」(新古1586)
【通釈】老いてしまったけれども、再び春に巡り逢おうと、去り行く年に涙の玉を捧げたのであった。

「春来ればなほこの世こそ偲ばるれいつかはかかる花を見るべき」(新古1467)
【通釈】春が来ると、やはりこの現世こそが素晴らしいと心惹かれるのである。来世ではいつこのような花を見ることができようか。そんなことは分かりはしないのだから。

「今日とてや磯菜つむらん伊勢島や一志(いちし)の浦のあまの乙女子」(新古1612)
【通釈】今日は正月七日というので、若菜の代りに磯菜を摘んでいるのだろうか。伊勢島の一志の浦の海人の少女は。

「昔だに昔と思ひしたらちねのなほ恋しきぞはかなかりける」(新古1815)
【通釈】まだ若かった昔でさえ、亡くなったのは昔のことだと思っていた親――その親が今もなお恋しく思われるとは、はかないことである。

「しめおきて今やと思ふ秋山の蓬がもとにまつ虫のなく」(新古1560)
【通釈】自身の墓と定めて置いて、今はもうその時かと思う秋山の、蓬(よもぎ)の繁る下で、私を待つ松虫が鳴いている。

「荒れわたる秋の庭こそ哀れなれまして消えなむ露の夕暮」(新古1561)
【通釈】一面に荒れている秋の庭は哀れなものだ。まして、今にも消えそうな露が庭の草木に置いている夕暮時は、いっそう哀れ深い。

「今はとてつま木こるべき宿の松千世をば君となほ祈るかな」(新古1637)
【通釈】今となっては、薪を伐って暮らすような隠棲の住まいにあって、その庭先に生える松に寄せて、千歳の齢を大君に実現せよと、なおも祈るのである。

「神風や五十鈴の川の宮柱いく千世すめとたてはじめけむ」(新古1882)
【通釈】五十鈴川のほとりの内宮(ないくう)の宮柱は、川の水が幾千年も澄んでいるように幾千年神が鎮座されよと思って建て始めたのであろうか。

「月さゆるみたらし川に影見えて氷にすれる山藍の袖」(新古1889)
【通釈】澄み切った月が輝く御手洗川に、小忌衣(おみごろも)を着た人の影が映っていて、その氷で摺り付けたかのような山藍の袖よ。

「春日野のおどろの道の埋れ水すゑだに神のしるしあらはせ」(新古1898)
【通釈】春日野の茨の繁る道にひっそり流れる水――そのように世間に埋もれている私ですが、せめて子孫にだけでも春日の神の霊験をあらわして下さい。

「今ぞこれ入日を見ても思ひこし弥陀(みだ)の御国(みくに)の夕暮の空」(新古1967)
【通釈】今目の当りにしているのがそれなのだ、入日を眺めては思い憧れてきた、阿弥陀如来の御国、極楽浄土の夕暮の空よ。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-05-06

「鹿下絵新古今和歌巻」逍遥(その二

鹿下絵一.JPG

「鹿下絵新古今和歌巻(全体図の一「西行・定家」)」(『書道芸術第十八巻本阿弥光悦(中田勇次郎責任編集)』)

鹿下絵和歌巻・藤原定家.jpg

「鹿下絵新古今集和歌巻断簡(藤原定家)」(画)俵屋宗達(書)本阿弥光悦(個人蔵)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2020-04-13

「光悦書宗達下絵和歌巻」周辺(「メモ」その五)(再掲)

(「藤原定家」周辺メモ)

   西行法師すすめて、百首歌よませ侍りけるに
2 見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮(新古363)
(釈文)西行法師須々めて百首哥よま世侍介る尓
見王多世盤華も紅葉もな可利け里浦濃とまや乃阿支乃遊ふ久連

【通釈】あたりを見渡してみると、花も紅葉もないのだった。海辺の苫屋があるばかりの秋の夕暮よ。
【通釈】あたりを見渡してみると、花も紅葉もないのだった。海辺の苫屋があるばかりの秋の夕暮よ。
【語釈】◇花も紅葉も 美しい色彩の代表として列挙する。◇苫屋(とまや) 菅や萱などの草で編んだ薦で葺いた小屋。ここは漁師小屋。
【補記】文治二年(1186)、西行勧進の「二見浦百首」。今ここには現前しないもの(花と紅葉)を言うことで、今ここにあるもの(浦の苫屋の秋の夕暮)の趣意を深めるといった作歌法はしばしば定家の試みたところで、同じ頃の作では「み吉野も花見し春のけしきかは時雨るる秋の夕暮の空」(閑居百首)などがある。新古今集秋に「秋の夕暮」の結句が共通する寂蓮の「さびしさはその色としも…」、西行の「心なき身にもあはれは…」と並べられ、合せて「三夕の歌」と称する。

(「鹿下絵新古今集和歌巻」周辺メモ )

【「闇を暗示する銀泥」 「鶴下絵和歌巻」において雲や霞はもっぱら金泥で表されていたが、この和歌巻では銀泥が主要な役割を果たすようになっている。これは夕闇を暗示するものなるべく、中間の明るく金泥のみの部分を月光と解えるならば、夕暮から夜の景と見なすとも充分可能であろう。なぜなら、有名な崗本天皇の一首「夕されば小倉の山に鳴く鹿は今宵は鳴かずいねにけらしも」(『万葉集』巻八)に象徴されるように、鹿は夕暮から夜に妻を求めて鳴くものとされていたからである。朝から夕暮までの一日の情景とみることも可能だが、私は鹿の伝統的なシンボリズムを尊重したいのだ。 】(『日本の美術№460 光悦と本阿弥流の人々(河野元昭著)』)

https://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/jomei.html

   崗本天皇の御製歌一首
夕されば小倉の山に鳴く鹿はこよひは鳴かず寝(い)ねにけらしも(万8-1511)

【通釈】夕方になると、いつも小倉山で鳴く鹿が、今夜は鳴かないぞ。もう寝てしまったらしいなあ。
【語釈】◇小倉の山 不詳。奈良県桜井市あたりの山かと言う。平安期以後の歌枕小倉山(京都市右京区)とは別。雄略御製とする巻九巻頭歌では原文「小椋山」。◇寝(い)ねにけらしも 原文は「寐宿家良思母」。「寐(い)」は睡眠を意味する名詞。これに下二段動詞「寝」をつけたのが「いね」である。
【補記】「崗本天皇」は飛鳥の崗本宮に即位した天皇を意味し、舒明天皇(高市崗本天皇)・斉明天皇(後崗本天皇)いずれかを指す。万葉集巻九に小異歌が載り、題詞は「泊瀬朝倉宮御宇大泊瀬幼武天皇御製歌一首」すなわち雄略天皇の作とし、第三句「臥鹿之(ふすしかは)」とある。
【他出】古今和歌六帖、五代集歌枕、古来風躰抄、雲葉集、続古今集、夫木和歌抄
【参考歌】雄略天皇「万葉集」巻九
夕されば小椋の山に臥す鹿は今夜は鳴かず寝ねにけらしも
【主な派生歌】
夕づく夜をぐらの山に鳴く鹿のこゑの内にや秋は暮るらむ(*紀貫之[古今])
鹿のねは近くすれども山田守おどろかさぬはいねにけらしも(藤原行家)

「鹿下絵新古今集和歌巻」逍遥メモ(その二)

https://japanese.hix05.com/Saigyo/saigyo3/saigyo306.miyakawa.html

「宮河歌合」(九番)

左:勝(玉津嶋海人)
 世中を思へばなべて散る花の我身をさてもいづちかもせん
右:(三輪山老翁)
 花さへに世をうき草に成りにけり散るを惜しめばさそふ山水
判詞(定家)
 右歌、心詞にあらはれて、姿もをかしう見え侍れば、山水の花の色、心もさそはれ侍れど、左歌、世中を思へばなべてといへるより終りの区の末まで、句ごとに思ひ入て、作者の心深く悩ませる所侍れば、いかにも勝侍らん。
参考:「この御判の中にとりて、九番の左の、わが身をさてもといふ歌の判の御詞に、作者の心深くなやませる所侍ればと書かれ候。かへすがへすもおもしろく候かな。なやませるといふ御詞に、よろづ皆こもりめでたく覚え候。これ新しく出でき候ぬる判の御詞にてこそ候らめ。古はいと覚え候はねば、歌の姿に似て云ひくだされたるやうに覚え候。一々に申しあげて見参に承らまほしく候ものかな」。こう書いた上で西行は、「若し命生きて候はば、必ずわざと急ぎ参り候べし」と付け加えている。西行の感激がいかに大きかったか、よく伺われるところである。

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「忘れがたき風貌・画像」逍遥(その三) [忘れがたき風貌・画像]

その三 宗祇・宗長・肖柏

宗祇(そうぎ、1421-1502).jpg

宗祇(そうぎ、1421-1502)(早稲田大学図書館/WEB展覧会第32回)
https://www.wul.waseda.ac.jp/TENJI/virtual/shozo/14-01.jpg
≪「宗祇法師肖像」 摸本 三条西実隆賛
 連歌の大成者として名高いが、生国は近江とも紀伊ともいわれはっきりしない。仏道修行の後、30歳で連歌に志す。応仁の乱以降、古典復興の機運に乗って連歌が流行すると、古典 風雅を尊ぶ作風で第一人者となり、牡丹花肖柏(ぼたんかしょうはく)・三条西実隆らにそれを伝えた。≫(「早稲田大学図書館」)

(再掲)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-10-28

水無瀬三吟何人百韻
   長享二年(一四八八)正月二十二日

〔初折りの表〕(初表=八句)         (式目=句材分析など)
一  雪ながら山もと霞む夕べかな    宗祇  春・降物・山類(体)
二    行く水遠く梅匂う里      肖柏  春・水辺(用)・木・居所(体)
三  川風にひとむら柳春見えて     宗長  春・水辺(体)・木
四    船さす音もしるき明け方    宗祇  雑・水辺(体用外)・夜分
五  月やなほ霧渡る夜に残るらん    肖柏  秋・光物・夜分・聳物
六    霜置く野原秋は暮れけり    宗長  秋・降物
七  鳴く虫の心ともなく草枯れて    宗祇  秋・虫・草
八    垣根をとへばあらはなる道   肖柏  雑・居所(体)

〔初折りの裏〕(初裏=十四句)
九  山深き里や嵐におくるらん     宗長  雑・山類(体)・居所(体) 
一〇   馴れぬ住まひぞ寂しさも憂き  宗祇  雑
一一 いまさらに一人ある身を思ふなよ  肖柏  雑・人倫・述懐
一二   移ろはむとはかねて知らずや  宗長  雑・述懐
一三 置きわぶる露こそ花にあはれなれ  宗祇  春・降物・植物・無常
一四   まだ残る日のうち霞むかげ   肖柏  春・光物
一五 暮れぬとや鳴きつつ鳥の帰るらん  宗長  春・鳥
一六   深山を行けばわく空もなし   宗祇  雑・山類(体)・旅
一七 晴るる間も袖は時雨の旅衣     肖柏  冬・降物・衣類・旅
一八   わが草枕月ややつさむ     宗長  秋・光物・夜分・旅
一九 いたずらに明かす夜多く秋更けて  宗祇  秋・夜分・恋
二〇   夢に恨むる荻の上風      肖柏  秋・夜分・草・恋 
二一 見しはみな故郷人の跡もなし    宗長  雑・人倫 
二二   老いの行方よ何に掛からむ   宗祇  雑・述懐

〔二の折りの表〕(二表=十四句)
二三 色もなき言の葉にだにあはれ知れ  肖柏  雑・述懐
二四   それも伴なる夕暮れの空    宗祇  雑
二五 雲にけふ花散り果つる嶺こえて   宗長  春・聳物・山類(体)
二六   きけばいまはの春のかりがね  肖柏  春・鳥
二七 おぼろげの月かは人も待てしばし  宗祇  春・光物・夜分・人倫
二八   かりねの露の秋のあけぼの   宗長  秋・降物・夜分
二九 末野のなる里ははるかに霧たちて  肖柏  秋・居所(体)・聳物
三〇   吹きくる風はころもうつこゑ  宗祇  秋・衣類
三一 冱ゆる日も身は袖うすき暮ごとに  宗長  秋・人倫・衣類
三二   頼むもはかなつま木とる山   肖柏  雑・山類(体)・述懐
三三 さりともの此世のみちは尽き果てて 宗祇  雑・述懐
三四   心細しやいづち行かまし    宗長  雑
三五 命のみ待つことにするきぬぎぬに  肖柏  雑・夜分・恋
三六   猶なになれや人の恋しき    宗祇  雑・人倫・恋

〔二の折りの裏〕(二裏=十四句)
三七 君を置きてあかずも誰を思ふらむ  宗長  雑・人倫・恋
三八   その俤に似たるだになし    肖柏  雑・恋
三九 草木さへふるき都の恨みにて    宗祇  雑・植物・述懐
四〇   身の憂きやども名残こそあれ  宗長  雑・人倫・居所(体)・述懐
四一 たらちねの遠からぬ跡に慰めよ   肖柏  雑・人倫・述懐
四二   月日の末や夢にめぐらむ    宗祇  雑
四三 この岸をもろこし舟の限りにて   宗長  雑・水辺(体)・旅
四四   又むまれこぬ法を聞かばや   肖柏  雑・釈教
四五 逢ふまでと思ひの露の消えかへり  宗祇  秋・降物
四六   身をあき風も人だのめなり   宗長  秋・人倫・恋
四七 松虫のなく音かひなき蓬生に    肖柏  秋・虫・草・恋
四八   しめゆふ山は月のみぞ住む   宗祇  秋・山類(体)・光物・夜分
四九 鐘に我ただあらましの寝覚めして  宗長  雑・夜分・述懐
五〇   戴きけりな夜な夜なの霜    肖柏  冬・夜分・降物・述懐

〔三の折りの表〕(三表=十四句)
五一 冬枯れの芦たづわびて立てる江に  宗祇  冬・鳥・水辺(体)
五ニ   夕汐かぜの沖つふ舟人     肖柏  雑・水辺(体)・人倫
五三 行方なき霞やいづく果てならむ   宗長  春・聳物 
五四   来るかた見えぬ山里の春    宗祇  春・山類(体)・居所(体)
五五 茂みよりたえだえ残る花落ちて   肖柏  春・植物
五六   木の下わくる路の露けさ    宗長  秋・木
五七 秋はなど漏らぬ岩屋も時雨るらん  宗祇   秋
五八   苔の袂に月は馴れけり     肖柏  秋・光物・夜分・衣類・釈教
五九 心ある限りぞしるき世捨人     宗長  雑・人倫・釈教
六〇   をさまる浪に舟いづる見ゆ   宗祇   雑・水辺(用)・旅
六一 朝なぎの空に跡なき夜の雲     肖柏 雑・聳物
六二   雪にさやけきよもの遠山    宗長  冬・降物・山類(体)
六三 嶺の庵木の葉の後も住みあかで   宗祇  冬・山類(体)・居所(体)・木 
六四   寂しさならふ松風の声     肖柏  雑・木

〔三の折りの裏〕(三表=十四句)        
六五 誰かこの暁起きを重ねまし     宗長  雑・人倫・夜分・釈教
六六   月は知るやの旅ぞ悲しき    宗祇  秋・光物・夜分・旅
六七 露深み霜さへしほる秋の袖     肖柏  秋・降物・衣類
六八   うす花薄散らまくもをし    宗長  秋・草
六九 鶉なくかた山くれて寒き日に    宗祇  秋・鳥・山類(体)
七〇   野となる里もわびつつぞ住む  肖柏  雑・居所(体)・述懐
七一 帰り来ば待ちし思ひを人や見ん   宗長  雑・人倫・恋
七二   疎きも誰が心なるべき     宗祇  雑・人倫・恋
七三 昔より唯あやにくの恋の道     肖柏  雑・恋
七四   忘れがたき世さへ恨めし    宗長  雑・恋
七五 山がつになど春秋の知らるらん   宗祇  雑・人倫
七六   植ゑぬ草葉のしげき柴の戸   肖柏  雑・草・居所(体)
七七 かたはらに垣ほの荒田かへし捨て  宗長  春・居所(体)
七八   行く人霞む雨の暮れ方     宗祇  春・人倫・降物

〔名残りの表〕(名表=十四句)
七九 宿りせむ野を鴬やいとふらむ    宗長  春・鳥
八〇   小夜もしづかに桜さく蔭    肖柏  春・夜分・鳥
八一 灯火をそむくる花に明けそめて   宗祇  春・夜分・植物
八二   誰が手枕に夢は見えけん    宗長  春・人倫・恋
八三 契りはや思ひ絶えつつ年も経ぬ   肖柏  雑・恋
八四   いまはのよはひ山も尋ねじ   宗祇  雑・山類(体)・述懐
八五 隠す身を人は亡きにもなしつらん  宗長  雑・人倫・述懐
八六   さても憂き世に掛かる玉のを  肖柏  雑・述懐
八七 松の葉をただ朝夕のけぶりにて   宗祇  雑・木・聳物
八八   浦わの里はいかに住むらん   宗長  雑・水辺(体)・居所(体)
八九 秋風の荒磯まくら臥しわびぬ    肖柏  秋・水辺(体)・旅
九〇   雁なく山の月ふ更くる空    宗祇  秋・鳥・山類(体)・光物・夜分
九一 小萩原うつろふ露も明日や見む   宗長  秋・草・降物
九二   阿太の大野を心なる人     肖柏  雑・人倫

〔名残りの裏〕(名裏=八句)
九三 忘るなよ限りや変る夢うつつ    宗祇  雑・述懐
九四   思へばいつを古にせむ     宗長  雑・述懐
九五 仏たち隠れては又いづる世に    肖柏  雑・釈教
九六   枯れし林も春風ぞ吹く     宗祇  春・植物・釈教
九七 山はけさ幾霜夜にか霞むらん    宗長  春・山類・降物
九八   けぶりのどかに見ゆる仮庵   肖柏  春・聳物・居所(体)
九九 卑しきも身をを修むるは有つべし  宗祇  雑・人倫
一〇〇  人をおしなべ道ぞ正しき    宗長  雑・人倫

(補注)

一 宗祇=三十四句、時に六十八歳。肖柏=四十六歳。宗長=三十三句、時に四十一歳。 

二 宗祇の発句「雪ながら山もと霞む夕べかな」は、後鳥羽院の「見渡せば山もと霞む水無瀬川夕べは秋となに思ひけむ」(『新古今集』春上)を踏まえている(後鳥羽院二五〇回忌に詠まれた後鳥羽院の鎮魂の奉納連歌とも解せられている)。

三 「連歌式目」(「式目・句材分析)の要点など

句数=続けてもよい句の数、または続けなければいけない句の数。→連続の制限
去嫌=同じ季や類似の事柄が重ならないように一定の間隔を設けた句の数。→間隔の制限

句材の分類(句材と去嫌・句数など)

(一) 季(春・夏・秋・冬)
春秋    同季五句去り、句数三句から五句まで。
夏冬    同季二句去り、句数一句から三句まで。

(二の一)事物一(句意全体に関わりのあるもの) 

恋(妹背など) 三句去り、句数二句から五句まで。
旅(草枕など) 二句去り、句数一句から三句まで。
神祇(斎垣など)・釈教(寺など) 二句去り、句数一句から三句まで。
述懐(昔など)・無常(鳥辺野など)三句去り、句数一句から三句まで。

(二の二)事物二(句意全体には関わりを持たないもの)

山類(峯など)・水辺(海など) 三句去り、句数一句から三句まで。
居所(里・庵など) 三句去り、句数一句から三句まで。異居所は打越を嫌わない。
降物(雨など)・聳物(雲など) 二句去り、句数一句から二句まで。
人倫(誰など) 原則二句去り、句数は自由。打越を嫌わない。
光物(日など)・夜分(暁など) 二句去り、句数一句から三句まで。打越を嫌わない。
植物(木類・草類) 二句去り、句数一句から二句まで。木と草は打越を嫌わない。
動物(虫・鳥など)二句去り、句数一句から二句まで。異生類は打越を嫌わない。    
衣類(衣・袖など)二句去り、句数一句から二句まで。
国名・名所(音羽山など) 二句去り、句数一句から二句まで。
※「山類・水辺・居所」については、「体」(固定的なもの=峯など)と「用」(可動的なもの=滝など)と「体用の外(例外規定=富士・浅間など)の特殊な区分がある。
※※連歌(百韻)では、各折りに「花」の句、表(面)には「月」の句を詠み、「四花八月」の決まりがある。
※※※連歌の「可隔何句物(なんくをへだつべきもの)」は、上記の「去嫌(さりきらい)」と同じ意である。

(三)一座何句物(何回以上用いてはいけないもの) → 重複の制限

一座一句物 「鶯」「鈴虫」「龍」「鬼」など「月・花(定座)」に匹敵する句材
一座二句物 「旅」「命」「老」「雁」「鶴」など「一句物」に次ぐ句材
一座三句物 「桜」「藤」「紅葉」「鹿」「都」などの「二句物」に次ぐ句材
一座四句物 「空」「天」「在明」「雪」「氷」などの「三句物」に次ぐ句材
一座五句物 「世」「梅」「橋」などの「四句物」に次ぐ句材
『源氏物語』を本説とする句は「一座三句物」と同じ。
「感動の助詞」の「かな」は、「発句」の「かな」だけ。

(その他)
(一)「たとへば歌仙は三十六歩也。一歩も後に帰る心なし」(三冊子)→俳諧はすべて前に進む事をもって一巻を成就する。同じ場所や状況に停滞したり、後へ戻ったりすることは許されない。ために類似した詞や縁の深い物が続いたり、近づいたりすることを嫌う。それを避けるために生まれたのが句数と去嫌である。
(二)「差合の事は時宜にもよるべし。まづは大かたにして宜し」(三冊子)→蕉門では外的な形式よりも、内的な余情や匂いを重んじる故に、式目上の句数や去嫌については、季、花、月を除いては余りこだわってはいない。     
四 上記のことを念頭において、この「水無瀬三吟」の百句をじっくりと見ていくと、まさしく、この「水無瀬三吟」は、「連歌」「俳諧(連句)」の、最も枢要なことを教示してくれる聖典(バイブル)のような思いがしてくる。

(参考) 水無瀬三吟 → 『日本詩人選一六 宗祇(小西甚一著)』など

宗長.jpg

抱一筆『集外三十六歌仙図画帖』所収「四 柴屋宗長」(姫路市立美術館蔵)
https://jmapps.ne.jp/hmgsbj/det.html?data_id=1508

肖柏.jpg

抱一筆『集外三十六歌仙図画帖』所収「二二 肖柏」(姫路市立美術館蔵)
https://jmapps.ne.jp/hmgsbj/det.html?data_id=1491

(歌合)

歌人(左方四) 柴屋宗長
歌題 春祝言
和歌 青柳のなびくを人のこゝろにて みちある御代のはるぞのどけき
歌人概要  室町中期~戦国期の連歌師

歌人(右方二二) 肖柏
歌題 月前述懐
和歌 おもふらし桜かざししみや人の かつらををらぬ月のうらみは
歌人概要  室町中期~戦国期の歌人・連歌師(公家出身)

(歌人周辺)

宗長(そうちょう) 生年:文安5(1448) 没年:天文1.3.6(1532.4.11)

 室町時代の連歌師。初名,宗歓,号,柴屋軒。駿河国(静岡県)島田の鍛冶,五条義助の子。若くから守護今川義忠に仕えたが,文明8(1476)年義忠戦没後離郷。京都に出て一休宗純に参禅,また飯尾宗祇に連歌を学んだ。宗祇の越後や筑紫への旅行に随伴し,『水無瀬三吟』『湯山三吟』をはじめ多くの連歌に加わった。明応5(1496)年49歳のころ駿河に帰り,今川氏親の庇護を受けるようになり,以後今川氏のために連歌や古典を指導,ときには講和の使者に立つなど政治的な面にも関与した。駿河帰住後も京駿間を中心に頻繁に旅を重ねたが,その見聞を記した『宗長手記』は,戦乱の世相,地方武士の動静,また自身の俳諧や小歌に興じる洒脱な生活などが活写されており興味深い。ほかに句集『壁草』『那智籠』,連歌論に『永文』『三河下り』などがある。(沢井耐三稿・出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について)

肖柏(しょうはく) 生年:嘉吉3(1443)  没年:大永7.4.4(1527.5.4)

 室町時代の連歌師。号は夢庵,弄花老人。初めは肖柏と名乗るが,永正7(1510)年に牡丹花(読みは「ぼたんげ」とも)と改名。中院通淳 の子であったが若くして遁世し,摂津国池田に庵を結び,晩年は堺に住んだ。連歌を飯尾宗祇に学び,宗祇やその弟子宗長 と共に『水無瀬三吟百韻』『湯山三吟百韻』などのすぐれた連歌作品を残した。また宗祇,猪苗代兼載の『新撰菟玖波集』選集作業を助け,『連歌新式』を改訂増補するなどその学識で連歌界に重きをなし,古今伝授(『古今和歌集』の和歌の解釈などの学説を授けること)を堺の人々に伝えてもいる。花と香と酒を愛し(『三愛記』),風流華麗な生活をし,句風もまた艶麗であった。
(伊藤伸江稿・出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について)

(参考)→(集外三十六歌仙 / 後水尾の上皇 [編]) → 早稲田図書館蔵(雲英文庫)

http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/bunko31/bunko31_e0028/index.html
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「忘れがたき風貌・画像」逍遥(その二) [忘れがたき風貌・画像]

その二 芭蕉・蕪村・抱一・利休・宗祇

蕪村像.jpg
「窓辺の蕪村(像)」(呉春=月渓筆・上記の書簡=蕪村の芭蕉の時雨忌などに関する書簡)=『蕪村全集五 書簡』所収「口絵・書簡三五一」

「窓辺の蕪村(像)」(呉春=月渓筆・上記の書簡=蕪村の芭蕉の時雨忌などに関する書簡)=『蕪村全集五 書簡』所収「口絵・書簡三五一」

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2017-06-23


(再掲)

 上記の「窓辺の蕪村(像)」の軸物は、上段が蕪村の書簡で、その書簡の下に、月渓(呉春)が「窓辺の宗匠頭巾の人物」を描いて、それを合作の軸物仕立てにしたものである。  
 この下段の月渓(呉春)の画の左下に、「なかばやぶれたれども夜半翁消そこ(消息=せうそこ)うたがひなし。むかしがほなるひとを写して真蹟の証とする 月渓 印 印 」と、月渓(呉春)の証文が記されている。

 上段の蕪村の書簡(天明元年か二年十月十三日、無宛名)は、次のとおりである。

   早速相達申度候(さっそくあひたっしまうしたくさうらふ)
 昨十二日は、湖柳会主にて洛東ばせを(芭蕉)菴にてはいかい(俳諧)有之候。扨
 もばせを庵山中の事故(ゆゑ)、百年も経(ふ)りたるごとく寂(さ)びまさり、殊勝な
 る事に候。どふ(う)ぞ御上京、御らん(覧)可被成(なさるべく)候。
  其日(そのひ)の句
 窓の人のむかし(昔)がほ(顔)なる時雨哉
  探題
  初雪 納豆汁 びわ(は)の花
 雪やけさ(今朝)小野の里人腰かけよ
  納豆、びは(枇杷)はわすれ(忘れ)候
 明日は真如堂丹楓(紅葉したカエデ)、佳棠、金篁など同携いたし候。又いかなる催(も
 よほし)二(に)や、無覚束(おぼつかなく)候。金篁只今にて平九が一旦那と相見え
 候。平九も甚(はなはだ)よろこび申(まうす)事に候。平九も毎々貴子をなつかしが
 り申候。いとま(暇)もあらば、ちよと立帰りニ(に)御安否御尋(たづね)申度(ま
 うしたく)候。しほらしき男にて。かしく かしく かしく

 この蕪村書簡に出てくる「湖柳・佳棠・金篁・平九」は蕪村門あるいは蕪村と親しい俳人達である。また、この書簡の冒頭の「昨十二日は」の「十二日」は、芭蕉の命日の、「十月(陰暦)十二日」を指しており、この芭蕉の命日は、「芭蕉忌・時雨忌・翁忌・桃青忌」と呼ばれ、俳諧興行では神聖なる初冬の季題(季語)となっている。

 この書簡は、蕪村の「窓の人のむかしがほなる時雨哉」を発句として、「はいかい(俳諧)有之候」と歌仙が巻かれたのであろう。この発句の「むかしがほ(昔顔)」は、当然のことながら、俳聖芭蕉その人の面影を宿しているということになる。

 世にふるは苦しきものを槙の屋にやすくも過ぐる初時雨 二条院讃岐 『新古今・冬』
 世にふるもさらに時雨のやどり哉           宗祇     連歌発句
 世にふるもさらに宗祇のやどり哉           芭蕉    『虚栗』

 この芭蕉の句は、天和三年(一六八三)、三十九歳の時のものである。この芭蕉の句には、宗祇の句の「時雨」が抜け落ちている。この談林俳諧の技法の「抜け」が、この句の俳諧化である。その換骨奪胎の知的操作の中に、新古今以来の「時雨の宿りの無常観」を詠出している。

 旅人と我が名呼ばれん初時雨   芭蕉 『笈の小文』

 貞享四年(一六八七)、芭蕉、四十四歳の句である。「笈の小文」の出立吟。時雨に濡れるとは詩的伝統の洗礼を受けることであり、そして、それは漂泊の詩人の系譜に自らを繋ぎとめる所作以外の何ものでもない。

 初時雨猿も小蓑を欲しげなり   芭蕉 『猿蓑』

 元禄二年(一六八九)、芭蕉、四十六歳の句。「蕉風の古今集」と称せられる、俳諧七部集の第五集『猿蓑』の巻頭の句である。この句を筆頭に、その『猿蓑』巻一の「冬」は十三句の蕉門の面々の句が続く。まさに、「猿蓑は新風の始め、時雨はこの集の眉目(美目)」なのである(『去来抄』)。

 芭蕉の「時雨」の発句は、生涯に十八句と決して多いものでないが、その殆どが芭蕉のエポック的な句であり、それが故に、「時雨忌」は「芭蕉忌」の別称の位置を占めることになる。

 楠の根を静(しづか)にぬらすしぐれ哉     蕪村 (明和五年・『蕪村句集』)
 時雨(しぐる)るや蓑買(かふ)人のまことより 蕪村 (明和七年・『蕪村句集』)
 時雨(しぐる)るや我も古人の夜に似たる    蕪村 (安永二年・『蕪村句集』)
 老(おい)が恋わすれんとすればしぐれかな   蕪村 (安永三年・大魯宛て書簡)
 半江(はんこう)の斜日片雲の時雨哉      蕪村 (天明二年・青似宛て書簡)

 蕪村の「時雨」の句は、六十七句が『蕪村全集一 発句』に収載されている。そして、それらの句の多くは、芭蕉の句に由来するものと解して差し支えなかろう。
 蕪村は、典型的な芭蕉崇拝者であり、安永三年(一七七四)八月に執筆した『芭蕉翁付合集』(序)で、「三日翁(芭蕉)の句を唱(とな)へざれば、口むばら(茨)を生ずべし」と、そのひたむきな芭蕉崇拝の念を記している。
 この蕪村の芭蕉崇拝の念は、安永五年(一七七六)、蕪村、六十一歳の時に、洛東金福寺内に芭蕉庵の再興という形で結実して来る。
 この冒頭の「「窓辺の蕪村(像)」(呉春=月渓筆・上記の書簡=蕪村の芭蕉の時雨忌などに関する書簡)ですると、上段の『蕪村の書簡』の「窓の人のむかし(昔)がほ(顔)なる時雨哉」の「昔顔」は芭蕉の面影なのだが、下段の月渓(呉春)が描く「窓の人」は、芭蕉を偲んでいる蕪村その人なのである。
 そして、その「芭蕉を偲んでいる蕪村」は窓辺にあって、外を眺めている。その眺めているのは、「時雨」なのである。この「時雨」を、芭蕉の無季の句の「世にふるもさらに宗祇のやどり哉」の「抜け」(省略する・書かない・描かない)としているところに、「芭蕉→蕪村→月渓(呉春)」の、「漂泊の詩人」の系譜に連なる詩的伝統が息づいているのである。
 蕪村の俳画の大作にして傑作画は、「画・俳・書」の三位一体を見事に結実した『奥の細道屏風図』(「山形県立美術館」蔵など)・『奥の細道画巻』(「京都国立博物館」蔵など)を今に目にすることが出来るが、その蕪村俳画の伝統は、下記の「月渓筆 芭蕉幻住庵記画賛」(双幅 紙本墨画 各一二六×五二・七cm 逸翁美術館蔵 天明六年=一七九四作)で、その一端を見ることが出来る。

幻住庵記.jpg

「月渓筆 芭蕉幻住庵記画賛」(双幅 紙本墨画 各一二六×五二・七cm 逸翁美術館蔵 天明六年=一七九四作)=(『呉春(逸翁美術館・昭和五七刊)』所収)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-08-11

(再掲)

酒井抱一の「綺麗さび」の世界(一)→ その一 風神雷神図扇(抱一筆)

風神雷神図扇.jpg

酒井抱一画「風神雷神図扇」紙本着色 各縦三四・〇cm 横五一・〇cm
(太田美術館蔵)
【 光琳画をもとにして扇に風神雷神を描いた。画面は雲の一部濃い墨を置く以外に、淡い線描で二神の体を形作り、浅い色調で爽快に表現されている。風神がのる雲は、疾走感をもたらすように筆はらって墨の処理がなされている。ここには重苦しく重厚な光琳の鬼神の姿はない。涼をもたらす道具としてこれほどふさわしい画題はないだろう。  】
(『尾形光琳生誕三五〇周年記念 大琳派展 継承と変奏(読売新聞社刊)』所収「作品解説(松嶋正人稿)」)

 この作品解説の、「ここには重苦しく重厚な光琳の鬼神の姿はない。涼をもたらす道具としてこれほどふさわしい画題はないだろう」というのは、抱一の「綺麗さび」の世界を探索する上での、一つの貴重な道標となろう。
 ここで、「綺麗さび」ということについては、下記のアドレスの「Japan Knowledge ことばjapan! 2015年11月21日 (土) きれいさび」を基本に据えたい。

https://japanknowledge.com/articles/kotobajapan/entry.html?entryid=3231

 そこでは、「『原色茶道大辞典』(淡交社刊)では、『華やかなうちにも寂びのある風情。また寂びの理念の華麗な局面をいう』としている。『建築大辞典』(彰国社刊)を紐解いてみると、もう少し具体的でわかりやすい。『きれいさび』と『ひめさび』という用語を関連づけたうえで、その意味を、『茶道において尊重された美しさの一。普通の寂びと異なり、古色を帯びて趣はあるけれど、それよりも幾らか綺麗で華やかな美しさ』と説明している」を紹介している。

 ここからすると、「俳諧と美術」の世界よりも、「茶道・建築作庭(小堀遠州流)」の世界で、やや馴染みが薄い世界(用語)なのかも知れない。しかし、上記の抱一筆の「風神雷神図扇」ほど、この「綺麗さび」(小堀遠州流)から(酒井抱一流)」の、「綺麗さび」への「俳諧そして美術」との接点を示す、その象徴的な作品と見立てて、そのトップを飾るに相応しいものはなかろう。
 その理由などは概略次のとおりである。

一 「綺麗さび」というのは、例えば、何も描かれていない白紙の扇子よりも、「涼をもたらす道具」としての「扇子」に、「風神雷神図」を描いたら、そこに、白紙のときよりも、さらに、涼感が増すのではなかろうかという、極めて、人間の本性に根ざした、実用的な欲求から芽生えてくるものであろう。

二 そして、この「扇子」に限定すると、そこに装飾性を施して瀟洒な「扇面画」の世界を創出したのが宗達であり、その宗達の「扇面画」から更に華麗な「団扇画」という新生面を切り拓いて行ったのが光琳ということになる。この二人は、当時の京都の町衆の出身(「俵屋」=宗達、「雁金屋」=光琳)で、それは共に宮廷(公家)文化に根ざす「雅び(宮び)」の世界のものということになる。

三 この京都の「雅(みや)び」の町衆文化(雅=「不易」の美)に対し、江戸の武家文化に根ざす「俚(さと)び」の町人文化(俗=「流行」の美)は、大都市江戸の「吉原文化」と結びつき、京都の「雅び」の文化を圧倒することとなる。

四 これらを、近世(江戸時代初期=十七世紀、中期=十八世紀、後期=十九世紀)の三区分で大雑把に括ると、「宗達(江戸時代初期)→光琳(同中期)→抱一(同後期)」ということになる。

五 これを、「芭蕉→其角→抱一」という俳諧史の流れですると、「芭蕉・其角・蕪村(江戸時代中期)=光琳・乾山」→「抱一・一茶(同後期)=抱一・其一」という図式化になる。

六 ここに、「千利休(「利休」流)→古田織部(「織部」流」)→小堀遠州(遠州流))」の茶人の流れを加味すると、「利休・織部」(桃山時代=十六世紀)、遠州(江戸時代前期=十七世紀)となり、この織部門に、遠州と本阿弥光悦(光悦・宗達→光琳・乾山)が居り、光悦(町衆茶)と遠州(武家茶)の「遠州・光悦(江戸時代前期)」が加味されることになる。

七 そして、茶人「利休・織部・遠州・光悦」を紹介しながら、「日常生活の中にアート(作法=芸術)がある」(生活の『芸術化』)を唱えたのが、日本絵画の「近世」(江戸時代)から「近代」(明治時代)へと転回させた岡倉天心の『茶の本』(ボストン美術館での講演本)である。

八 ここで、振り出しに戻って、冒頭に掲出した「風神雷神図扇(抱一筆)」は、岡倉天心の『茶の本』に出てくる「日常生活の中にアート(作法=芸術)がある」(生活の『芸術化』)を物語る格好な一つの見本となり得るものであろう。

九 と同時に、ここに、「光悦・宗達→光琳・乾山→抱一・其一」の「琳派の流れ」、更に、「西行・宗祇・(利休)→芭蕉・其角・巴人→蕪村・抱一」の「連歌・俳諧の流れ」、そして、「利休→織部→遠州・光悦→宗達・光琳・乾山・不昧・宗雅(抱一の兄)・抱一→岡倉天心」の「茶道・茶人の流れ」の、その一端を語るものはなかろう。

https://japanknowledge.com/articles/kotobajapan/entry.html?entryid=3231

【「Japan Knowledge ことばJapan! 2015年11月21日 (土) きれいさび」(全文)

「きれい(綺麗)さび」とは、江戸初期の武家で、遠州流茶道の開祖である小堀遠州が形づくった、美的概念を示すことばである。小堀遠州は、日本の茶道の大成者である千利休の死後、利休の弟子として名人になった古田織部(おりべ)に師事した。そして、利休と織部のそれぞれの流儀を取捨選択しながら、自分らしい「遠州ごのみ=きれいさび」をつくりだしていった。今日において「きれいさび」は、遠州流茶道の神髄を表す名称になっている。

 では、「きれいさび」とはどのような美なのだろう。『原色茶道大辞典』(淡交社刊)では、「華やかなうちにも寂びのある風情。また寂びの理念の華麗な局面をいう」としている。『建築大辞典』(彰国社刊)を紐解いてみると、もう少し具体的でわかりやすい。「きれいさび」と「ひめさび」という用語を関連づけたうえで、その意味を、「茶道において尊重された美しさの一。普通の寂びと異なり、古色を帯びて趣はあるけれど、それよりも幾らか綺麗で華やかな美しさ」と説明している。

 「さび」ということばは「わび(侘び)」とともに、日本で生まれた和語である。「寂しい」の意味に象徴されるように、本来は、なにかが足りないという意味を含んでいる。それが日本の古い文学の世界において、不完全な状態に価値を見いだそうとする美意識へと変化した。そして、このことばは茶の湯というかたちをとり、「わび茶」として完成されたのである。小堀遠州の求めた「きれいさび」の世界は、織部の「わび」よりも、明るく研ぎ澄まされた感じのする、落ち着いた美しさであり、現代人にとっても理解しやすいものではないだろうか。

 このことば、驚くことに大正期以降に「遠州ごのみ」の代わりとして使われるようになった、比較的新しいことばである。一般に知られるようになるには、大正から昭和にかけたモダニズム全盛期に活躍した、そうそうたる顔ぶれの芸術家が筆をふるったという。茶室設計の第一人者・江守奈比古(えもり・なひこ)や茶道・華道研究家の西堀一三(いちぞう)、建築史家の藤島亥治郎(がいじろう)、作庭家の重森三玲(しげもり・みれい)などが尽力し、小堀遠州の世界を表すことばとなったのである。 】

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2019-10-21

宗祇.jpg

抱一筆『集外三十六歌仙図画帖』所収「一九 宗祇」(姫路市立美術館蔵)

https://jmapps.ne.jp/hmgsbj/det.html?data_id=1488
歌人(右方一九)宗祇
歌題 関月
和歌 清見がたまだ明けやらぬ関の戸を 誰がゆるせばか月のこゆらん
歌人概要  室町中期~戦国期の歌人・連歌作者

(再掲)

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/sougi.html

宗祇(そうぎ) 応永二十八~文亀二(1421-1502) 別号:自然斎・種玉庵・見外斎

 出自未詳。姓は飯尾(いのお/いいお)とされ(一説に母の筋)、父は猿楽師であったとの伝がある。生国は紀伊と伝わるが、近年、近江説も提出された。
 前半生の事蹟はほとんど不明。一時京都五山の一つ相国寺で修行し、三十余歳にして連歌の道に進んだらしい。宗砌(そうぜい)・専順・心敬らに師事し、寛正六年(1465)頃から連歌界に頭角を表わす。文明三年(1471)、東常縁より古今聞書の証明を授かる(「古今伝授」の初例とされる)。同四年には奈良で一条兼良の連歌会に参席し、同八年(1476)には足利幕府恒例の連歌初めに参席するなど、連歌師として確乎たる地歩を占めた。
 同年、宗砌・専順・心敬らの句を集めて『竹林抄』を編集する。同十九年(1487)四月、三条西実隆に古今集を伝授する。長享二年(1488)正月二十二日、肖柏・宗長と『水無瀬三吟百韻』を巻く。同年三月には足利義尚の命により北野連歌会所奉行に就く栄誉を得たが、翌年の延徳元年(1489)にはこの任を辞した。明応二年(1493)、兼載と共に准勅撰連歌集『新撰菟玖波集』を撰進、有心連歌を大成した。
 この間、連歌指導・古典講釈のため全国各地を歴遊し、地方への文化普及に果たした役割も注目される。文亀二年(1502)七月三十日、箱根湯本の旅宿で客死。八十二歳。桃園(静岡県裾野市)の定輪寺に葬られた。
 飛鳥井雅親・一条兼良・三条西実隆らと親交。弟子には肖柏・宗長・宗碩・大内政弘ほかがいる。著書には上記のほかに源氏物語研究書『種玉編次抄』、歌学書『古今和歌集両度聞書』『百人一首抄』、連歌学書『老のすさみ』『吾妻問答』、紀行『筑紫道記』などがある。家集には延徳三年(1491)以後の自撰と推測される『宗祇法師集』があり、自撰句集には『萱草(わすれぐさ)』『老葉(わくらば)』『下草』『宇良葉(うらば)』がある。
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「忘れがたき風貌・画像」逍遥(その一) [忘れがたき風貌・画像]

その一 松尾芭蕉

松尾芭蕉像.jpg

「松尾芭蕉(まつおばしょう、1644-94)」(早稲田大学図書館/WEB展覧会第32回)
https://www.wul.waseda.ac.jp/TENJI/virtual/shozo/index2.html
≪「松尾芭蕉肖像」 小川破笠画  1軸 
俳聖と呼ばれる芭蕉の肖像画はいくつかあるが、この肖像を描いたのは、漆細工師小川破笠(はりつ、1663-1747)。伊勢に生まれ、のち江戸に出て芭蕉に俳諧を学んだ。生前の芭蕉を知る人の描いた貴重な伝記資料である。≫(「早稲田大学図書館」)

(再掲)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2017-07-25

(その一) 蕪村が描いた芭蕉翁像

 さまざまな俳人あるいは画人が芭蕉像を描いている。代表的なものは、芭蕉と面識のある門人の杉山杉風と森川許六、面識はないが芭蕉門に連なる彭城百川(各務支考門)、そして、画俳二道を究めた与謝蕪村(宝井其角・早野巴人門)などの作が上げられる。

 杉風の描いた芭蕉像は、①端座の像(褥に端座・左向き) ②脇息の像(左向き) ③火桶にあたる像(左向き) ④竹をえがく像(左向き) ⑤馬上の像(笠をかぶり右方へ進行)などで、この①のものは「すべての芭蕉像の基盤」になっており、杉風筆像は、温雅で「おもながのおだやかな面相である」と評されている(『岡田利兵衛著作集1芭蕉の書と画』所収「画かれた芭蕉」)。

 蕪村の描いた芭蕉像は、『蕪村全集六絵画・遺墨(佐々木承平他編)』には十一点が収録されている。

① 座像(正面向き、褥なし、安永八年=一七七九作。上段に十六句、中段に前書きを付して四句、その四句目=「人の短を言事なかれ/おのれか長をとくことなかれ/もの云へは唇寒し秋の風」 江東区立芭蕉記念館蔵)
② 半身像(左向き、杖、笠を背に、安永八年作=一七七九作。『蕪村(創元選書)』)
③ 座像(左向き、頭陀袋、褥なし、安永八年作=一七七九9作。金福寺蔵)
④ 座像(左向き、褥なし。『蕪村遺芳』)
⑤ 半身像(左向き、杖、頭陀袋を背に。個人蔵)
⑥ 全身蔵(左向き、杖。左上部に「人の短をいふことなかれ/己が長をとくことなかれ/もの云へは唇寒し秋の風」 逸翁美術館蔵)
⑦ 全身像(右向き、杖なし。右上部に人の短を言事なかれ/おのれか長をとくことなかれ/もの云へは唇寒し秋の風)」『蕪村遺芳』)
⑧ 座像(正面向き、褥なし、天明二年=一七八二作。『俳人真蹟全集蕪村』)
⑨ 座像(正面向き、褥なし。『上方俳星遺芳』)
⑩ 座像(左向き、褥なし、款「倣睲々翁墨意 謝寅」。逸翁美術館蔵)
⑪ 座像(左向き、褥なし。『大阪市青木嵩山堂入札』)

 しかし、これらは、いわゆる「画賛形式」(画と賛が一体となっている条幅・色紙等)のもののうち、芭蕉単身像の条幅もので(上記の十一点のうち、⑦は一幅半切(紙本墨画)で、他は長さに異同はあるが一幅もので、①②⑤⑥は絹本淡彩、③と⑩は紙本淡彩、④は紙本墨画である。
 これらの芭蕉単身像では無帽のものはなく、宗匠頭巾のようなものを被っているが、それぞれ制作時に関係するのか、それぞれに特徴がある。上記の①②は、円筒型(丸頭巾型)の白帽子、③④⑥が長方形型(角頭巾型)の白帽子、⑤は長方形型(角頭巾型)の黒帽子、⑥は長方形型(角頭巾型)の黒(薄墨)帽子の感じのものである。

 これらの芭蕉単身像のものではなく、「俳仙群会図」などの芭蕉像を加えると次のとおりとなる。

⑫ 座像(「俳仙群会図」=十四俳仙図、絹本着色、款「朝滄」、上・中・下の三段に刷り込んだ一幅。上段に「此俳仙群会の図ハ元文のむかし余弱冠の時写したるもの」とあり、元文元年(一七三五)から同五年(一七四〇)の頃の作とされているが、「その落款・印章によれば、やはりこの丹後時代の作」(『続芭蕉・蕪村(尾形仂著)』)と、宝暦四年(一七五四)から同七年(一七五七)の頃の作ともいわれている。とにもかくにも、蕪村最古の芭蕉像、無帽で右向き、蕪村の師の早野巴人が、芭蕉の左側の園女の次に宗匠頭巾を被り左向きで描かれている。柿衛文庫蔵)
⑬ 座像(「八俳仙」画賛、淡彩、一幅。宗匠頭巾、笠を持ち正面像。「物云へは唇寒し秋の風」。印は「長庚」「春星」。『山王荘蔵品展覧図録』)
⑭ 座像(「十一俳仙」)画賛、紙本墨画、一幅。宗匠頭巾、笠・頭陀袋の正面像。「名月や池をめくりて終夜」。印は「三菓居士」。個人蔵)
⑮ 座像(版本『其雪影』挿図、明和九年(一七七二)刊、宗匠頭巾、正面像。「古いけや蛙とひ込水の音」。)
⑯ 座像(版本『時鳥』挿図、安永二年(一七七三刊)、宗匠頭巾、正面像。「旅に病て夢は枯野をかけ廻る」。)
⑰ 七分身像(版本『安永三年(一七四四)春帖)』挿図、宗匠頭巾、杖、頭陀袋、笠、正面像。)

 さらに、「奥の細道」画巻(安永七年=一七七八作、京都国立博物館蔵)、「奥の細道」屏風(安永八年=一七七九)作、山形美術館蔵)、「奥の細道」画巻(安永八年=一七七九作、逸翁美術館蔵)、「奥の細道」画巻(安永七年=一七七八作、「蕪村遺芳」)、「野ざらし紀行」屏風(安永七年=一七七八作、個人蔵)などに、それぞれ特徴のある芭蕉像が描かれている。

 上記のうちで、唯一、百川筆「芭蕉翁像」と類似しているのは、「⑪ 座像(左向き、褥なし。『大阪市青木嵩山堂入札』)」である。

 『蕪村全集六絵画・遺墨(佐々木承平他編)』の作品解説は次のとおりである。

104 「芭蕉像」画賛  一幅  一二二・一×四〇・九cm
款 「応湖南松写庵巨州需 蕪村拝写」
印 「長庚」「春星」(朱白文連印)
賛 「はつしぐれ猿も小みのをほしけ也 はせを」(色紙貼付)
『大阪市青木嵩山堂入札』(昭和四・三)

蕪村・芭蕉像一.jpg


https://yahan.blog.ss-blog.jp/2017-07-26

その二 蕪村と百川、そして、蕪村渇望の百川筆「芭蕉翁像」

 蕪村は、宝暦元年(一七五一)、三十六歳のときに、関東遊歴の生活を打ち切って、生まれ故郷とされている摂津(大阪市毛馬)ではなく、その隣の京都に移住して来る。以後、丹後時代と讃岐時代の数年間を除いて、死没(天明三年=一七八三=六十八歳)までの約三十年間を京都で過ごすことになる。
 この京都に移住してからの讃岐時代というのは、宝暦四年(一七五四)から同七年(一七五七)九月頃までの足掛け四年間の頃を指す(『人物叢書与謝蕪村(田中善信著)』)。この丹後時代の蕪村についての百川に関する書簡が今に遺されている(『蕪村の手紙(村松友次著)』)。

[ 被仰候八僊観の翁像(オオセラレソウロウ ハッセンカンノオキナゾウ)
 少之内御見せ可被下候(スコシノウチ オミセクダサルベクソウロウ)
 其儘わすれ候得共(ソノママ ワスレソウラヘドモ)
 御払可被成思召候もの(オハライナサルベク オボシメサレソウロウモノ)
 此のものへ御見せ可被下候(コノモノヘ オミセクダサルベクソウロウ)
 他見は不仕候(タケンハ ツカマツラズソウロウ)
 おりしも吐出候発句に(オリシモハキイダシソウロウ ホックニ)
  萩の月うすきはものゝあわ(は)れなる
某(一字破損)屋嘉右衛門 様        蕪村               ]

 この八僊観こと彭城百川の描いた芭蕉像を「少しの間見せてください」と渇望した、その幻の百川筆「芭蕉像」の真蹟が、蕪村が滞在していた丹後の宮津(京都府宮津市)で、蕪村生誕三百年(平成二十八年=二〇一六)の今に引き継がれて現存している(『宮津市史通史編下巻』所収「彭城百川の芭蕉像と宮津俳壇(横谷賢一郎稿)」)。

 この経過をたどると、平成六年(一九九四)に京都府立丹後郷土資料館で特別展「与謝蕪村と丹後」が開催され、それが契機となって、宮津市在住の方から百川筆「芭蕉像」の調査依頼があり、佐々木承平京大教授らによって真筆と鑑定されたとのことである(『蕪村全集第六巻』所収「月報六・平成十年三月」)。
 これらに関して、平成九年(一九九七・九・七「朝日新聞」)に下記のような「芭蕉『幻の肖像』発見」の記事で紹介されているようである(未見)。

[ 江戸期の南画(文人画)の創始者の一人、彭城百川(さかき・ひゃくせん)(1698-1753)が描いた松尾芭蕉の肖像画の掛け軸が京都府宮津市の俳壇指導者宅に保存されていたことがわかった。この絵は、与謝蕪村(1716-1783)が「ぜひ見たい」と懇願した手紙だけが後世に伝わり、絵そのものは所在がわかっていなかった。
 掛け軸は、芭蕉の座像が水墨画で描かれ、「ものいへは 唇寒し 秋の風」の芭蕉の代表句が書き込まれている。佐々木丞平・京大教授(美術史)らが百川の真筆と鑑定した。
 百川は名古屋に生まれ、京都を拠点に活躍した。延享4年(1747年)に天橋立を詠んだ句と絵「俳画押絵貼屏風(おしえはりびようぶ)」(名古屋市立博物館蔵)があり、今度見つかったものも同時期に丹後に滞在中、描いたらしい。
 蕪村は、宝暦4年(1754年)春から3年余り宮津に滞在した間にこの掛け軸を見ることができたとみられるが、はっきりしていない。
 肖像画は宮津俳壇の宗匠(指導者)に約250年間、引き継がれてきたらしい。芭蕉の流れをくむ宗匠で同市内のはきもの商、撫松堂水波(ぶしようどう・すいは、本名・花谷光次)さん(1993年死去)の遺族から、京都府立丹後郷土資料館に問い合わせがあって存在が分かった。 ]

 この蕪村が渇望した百川筆「芭蕉翁像」が、平成九年(一九九七)十月十日から十一月十三日に茨城県立歴史館で開催された特別展「蕪村展」で初公開された。
 その図録に、「七〇 参考 芭蕉翁像 彭城百川筆 紙本墨画 一幅 八五・一×二五・一」と収載されている。その「作品解説」(京都府立丹後郷土資料館 伊藤太稿)は次のとおりである。

[ 賛  人の短をいふことなかれ
     己か長を説(とく)事なかれ
  ものいへは(ば)
      唇寒し
        秋の風
 款記  芭蕉翁肖像 倣杉風図  八僊真人写
 印章  「八僊逸人」(白文方印) 「字余白百川」(手文方印)

 彭(さか)城(き)百川(ひゃくせん)(一六九八~一七五二)は、名古屋に生まれ、後に京都を拠点として活躍した日本南画の創始者の一人と目される画家である。はじめ俳諧の道に入って各務支考の門にあり、俳画にも数々の傑作を残し、俳書をも手がけたその画俳両道にわたる活躍は、まさしく蕪村のプトロタイプと言えよう。蕪村が、この百川に私淑していたことは、「天(てん)橋図(きょうず)賛(さん)」はじめ丹後時代以降のいくつかの作品中に明記されており、注目されてきた。しかしながら、従来は、丹後における百川の実作が未確認のままで、両者の関係を具体的に跡づけることはできなかった。ところが最近になって、二点のきわめて興味深い作品の存在が明らかになった。一つは「天(あまの)橋立図(はしだてず)」を含む延享四年(一七四七)作の「十二ヶ月俳画押絵貼屏風」(名古屋市立博物館)であり、もう一つは初公開の本図である。本図は、宮津俳壇の守り本尊として代々の宗匠に伝えられてきたのであるが、添付された代々の譲状の写しは、百川が当地に来遊の折、真照寺で描いたという鷺(ろ)十(じゅう)の文に始まる。「三俳僧図」に描かれた鷺十は蕪村とともに歌仙を巻き、「天橋図賛」は真照寺で書されたことを想起したい。現在所在不明であるが、蕪村が本図を見せてほしいと懇望する某屋嘉右衛門宛ての書簡の存在も知られている。なお、本図と同じ構図の芭蕉翁像(名古屋市博「百川」展図録⑱)は延享三年の作と明記され、百川の来丹がその前後であることも確実となった(注=原文に「ルビ」「濁点」を付した)。  ]

幻の芭蕉像.jpg

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その三 百川周辺と百川が描いた芭蕉像 → 略

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その四 若冲周辺と若冲の「松尾芭蕉図」 → 一部抜粋

2015年3月18日(水)~5月10日(日)まで、サントリー美術館で、「生誕三百年 同い年の天才絵師 若冲と蕪村」展が開催された。その出品作の一つに、若冲の「松尾芭蕉図」がある。その図と解説記事などを掲載して置きたい。

「102 松尾芭蕉図」(石田佳也「作品解説」)
伊藤若冲筆 三宅嘯山賛 紙本墨画 一幅 江戸時代 寛政十二年(一八〇〇)筆 寛政十一年(一七九九)賛 一〇九・〇×二八・〇
 若冲が描いた芭蕉像の上方に、三宅嘯山(一七一八~一八〇一)が、芭蕉の発句二句を書く。三宅嘯山は漢詩文に長じた儒学者であったが、俳人としても活躍し宝暦初年には京都で活躍していた蕪村とも交流を重ねた。彼の和漢にわたる教養は、蕪村らが推進する蕉風復興運動に影響を与え、京都俳壇革新の先駆者の一人として位置づけられている。
 なお、嘯山の賛は八十二歳の時、寛政十一年(一七九九)にあたるが、一方、若冲の署名は、芭蕉の背中側に「米斗翁八十五歳画」とあり「藤汝鈞印」(白文方印)、「若冲居士」(朱文円印)を捺す。この署名通りに、若冲八十五歳、寛政十二年(一八〇〇)の作とみなせば、「蒲庵浄英像」(作品166)と同様に、嘯山が先に賛を記し、その後に若冲が芭蕉像を描き添えたことになる。しかし改元一歳加算説に従えば、嘯山が賛をする前年の若冲八十三歳、寛政十年に描かれたことになり、若冲の落款を考察する上では重要な作例となっている。
  「爽吾」(白文長方印)    芭蕉
    春もやゝけしき調ふ月と梅
    初時雨猿も小蓑をほしけなり
                八十二叟
                 嘯山書
  「芳隆之印」(朱文方印) 「之元」(白文円印)

若冲・芭蕉像3.jpg
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その五 呉春(月渓)の描いた芭蕉像(四画像) → 一部抜粋

『呉春(財団法人逸翁美術館)』には、四点ほど「芭蕉像」が紹介されている。

52 呉春筆 芭蕉像 蝶夢賛 絹本墨画 37.5×22
(賛) 禅法ハ仏頂和尚に 参して三国相承 験記につらなり 風雅は西行上人を 
   慕うて続扶桑隠逸 伝に載せぬ
蝶夢阿弥陀仏謹書
(解説) 呉春が芭蕉翁の正面像をクローズアップしてえがき、その上に蝶夢法師が上の賛を記している。呉春は筆意謹厳でしたため、翁の容貌はいつも彼がえがく翁の顔である。蝶夢は僧侶であるが後半は誹諧に執心し、芭蕉顕賞に多くの業績をのこした。寛政七年(一七九五)没。

53 月渓筆 芭蕉像 紙本墨画 82×41

54 月渓筆 芭蕉像 嘯山賛 紙本墨画 127×29
(賛) 海島圓浦長汀唫 
あつみ山吹浦かけて夕すゞみ 汐こしや鶴脛ぬれて海すゞし あらうみや佐渡によこたふあまの河 早稲の香や分入右は磯海
明石夜泊
蛸壺やはかなき夢を夏の月
 このつかい這わたるほどといへば
蝸牛角ふり分よ須磨明石
 右芭蕉翁作           嘯山

55 呉春筆 芭蕉像 紙本墨画 98×28

呉春の芭蕉像.jpg

右上(52 呉春筆 芭蕉像 蝶夢賛 絹本墨画 37.5×22)
右下(53 月渓筆 芭蕉像 紙本墨画 82×41)
中央(54 月渓筆 芭蕉像 嘯山賛 紙本墨画 127×29)
左上(55 呉春筆 芭蕉像 紙本墨画 98×28)

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その六 金福寺の「洛東芭蕉庵再興記」(蕪村書)と「芭蕉翁自画賛」(蕪村筆) →一部抜粋

金福寺芭蕉像.jpg

金福寺「芭蕉翁自画賛」(蕪村筆)

 この金福寺の「芭蕉翁自画賛」(蕪村筆)の下部には、「安永巳亥十月写於夜半亭 蕪村拝」との落款が記されている。この「安永巳亥」は、安永八年(一七七九)に当たる。この時に、蕪村は、同時に、芭蕉像を他に二点ほど描き、その二点には、芭蕉の発句が二十句加賛されているという(『図説日本の古典14芭蕉・蕪村』所収「芭蕉から蕪村へ(白石悌三稿)」)。
 この安永八年(一七七九)は、蕪村が没する四年前の、六十四歳の時で、晩年の蕪村の円熟した筆さばきで、崇拝して止まない、晩年の芭蕉の柔和な風姿を見事にとらえている。
 先に紹介した、月渓の「芭蕉像」(53 月渓筆 芭蕉像 紙本墨画 82×41)は、この蕪村の「芭蕉翁自画賛」をモデルとして描いたものであろう。そして、この両者を比べた時に、蕪村と月渓とでは、その芭蕉に対する理解の程度において、月渓は蕪村の足元にも及ばないということを実感する。
 さて、金福寺の芭蕉庵は、天明元年(一七六一)に改築再建され、この改築再建に際して、蕪村は、先に紹介した安永五年(一七七六)の『写経社集(道立編)』に収載した「洛東芭蕉庵再興記」を自筆で認めて、金福寺に奉納する。
 これらの、上記の「芭蕉翁自画賛」(蕪村筆)と「洛東芭蕉庵再興記」(蕪村書)とが、今に、金福寺に所蔵されている。

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(その七)江東区立芭蕉記念館の「芭蕉翁像」(蕪村筆) → 略

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(その八)『蕪村(潁原退蔵著・創元選書)』口絵で紹介された「芭蕉翁像」(蕪村筆)→略

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(その九)許六に倣った全身像の「芭蕉翁図」(蕪村筆)→一部抜粋

許六倣芭蕉像.jpg

『蕪村展(茨城県立歴史館 1997)』)所収「44芭蕉翁図」(蕪村筆)

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(その十)逸翁美術館蔵の「芭蕉翁立像図」(蕪村筆)→略

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(その十一)西岸寺任口上人を訪いての半身像の「芭蕉翁図」(蕪村筆)→略

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(その十二) 暒々翁に倣った「芭蕉翁像」(蕪村筆)→略

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(その十三) 天明二年(一七八二)の同一時作の「芭蕉翁像」(蕪村筆)→ 略

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(その十四)眼を閉じている「芭蕉翁像」(蕪村筆)→ 略

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その十五 「俳仙群会図」(蕪村筆)上の「芭蕉像」 → 一部抜粋

俳仙群会図・芭蕉像.jpg
(蕪村筆)「俳仙群会図」(柿衛文庫蔵)「部分図」(芭蕉像)

(蕪村筆)「俳仙群会図」(柿衛文庫蔵)「部分図」(芭蕉像)

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その十三  鈴木其一筆「朝顔図屏風」と芭蕉の「朝顔」の句周辺 →一部抜粋

俳仙群会図・拡大.jpg

「俳仙群会図」(蕪村筆)部分図(柿衛文庫蔵)
右端・芭蕉、右手前・やちよ、中央手前・其角、中央後・園女
左端手前・任口上人、左端後・宋阿(夜半亭一世、蕪村は夜半亭二世)
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川原慶賀の世界(その三十) [川原慶賀の世界]

(その三十)川原慶賀の「屏風画・衝立画・巻物画・掛幅画など」そして「真景図(画)・記録図(画)・映像図(画)など」周辺

(川原慶賀の「屏風画」)

「長崎湾の出島の風景」(川原慶賀).jpg
https://nordot.app/830971286696869888?c=174761113988793844

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(再掲)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-06-22

【 オランダのライデン国立民族学博物館(ウェイン・モデスト館長)は、江戸後期の長崎の絵師・川原慶賀の大作びょうぶ絵「長崎湾の出島の風景」について、2年以上に及ぶ修復作業が完了したと発表した。
 同作は八曲一隻で、縦約1.7メートル、横約4メートル。慶賀が1836年ごろ制作したとされ、長崎港を俯瞰(ふかん)して出島や新地、大浦などの風景が緻密に描かれている。現存する慶賀のびょうぶ絵としては同作が唯一という。
 オランダ国内で長年個人所有されていたものを、同館が2018年に購入。特に絵の周囲を縁取る部分などの損傷が激しく、京都の宇佐見修徳堂など日本の専門家も協力して修復を続けていた。
 修復過程では、絵の下地に貼られた古紙の調査なども実施。同館東アジアコレクションのダン・コック学芸員によると、中国船主の依頼書が目立ち、当時の船主の名前や印と共に、長崎の崇福寺へ団体で参拝に行く予定が書かれていた
 慶賀とその工房の独特な「裏彩色」の技法が同作でも確認されたという。絵の本紙の裏に色を塗る技法で、「こんなに大きな面積でも裏彩色を塗ったことは驚きだった」としている。
 修復したびょうぶ絵は9月末から同館で公開している。日本での公開の予定はまだないが、同館はウェブで同作を鑑賞できるサービス「出島エクスペリエンス」を開発。日本からもスマホやパソコンなどで無料で見られる。コック学芸員は「これからも研究を進めながら、新しい発見があれば出島エクスペリエンスに追加したりして、世界中にいる興味をお持ちの方に広くシェアしたい」と述べている。

 出島エクスペリエンスのアドレスは、https://deshima.volkenkunde.nl/     】

(川原慶賀の「衝立画」)

川原慶賀「長崎港ずブロンホフ家族図」.jpg

「長崎港図・ブロンホフ家族図」≪川原慶賀筆 (1786-?)≫ 江戸時代、文政元年以降/1818年以降 絹本著色 69.0×85.5 1基2図 神戸市立博物館蔵
題記「De Opregte Aftekening van het opper hoofd f:cock BIomhoff, Zyn vrouw en kind, die in Ao1818 al hier aan gekomen Zyn,」
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/455049

(再掲)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-07-07

【 衝立の両面に、19世紀に長崎の鳥瞰図と、オランダ商館長コック・ブロンホフとその家族の肖像が描かれています。この衝立は、作者の川原慶賀(1786-?)がシーボルトに贈呈したものの、文政11年(1828)のシーボルト事件に際して長崎奉行所によって没収されたという伝承があります。その後長崎奉行の侍医・北川家に伝来した。昭和6年(1931)に池長孟が購入しました。
現在のJR長崎駅付近の上空に視座を設定して、19世紀の長崎とその港の景観を俯瞰しています。画面左中央あたりに当時の長崎の中心部、唐人屋敷・出島・長崎奉行所が描かれ、それをとりまく市街地の様子も克明に描かれています。

 この衝立の片面に描かれているブロンホフ家族図には、慶賀の款印(欧文印「Toyoskij」と帽子形の印「慶賀」)が見られる。コック・ブロンホフは文化6年(1809)に荷倉役として来日。文化10年のイギリスによる出島奪還計画に際し、その折衝にバタビアへ赴き、捕らえられイギリスへ送られたました。英蘭講和後、ドゥーフ後任の商館長に任命され、文化14年に妻子らを伴って再来日。家族同伴の在留は長崎奉行から許可されず、前商館長のヘンドリック・ドゥーフに託して妻子らはオランダ本国に送還されることになりました。この話は長崎の人々の関心を呼び、本図をはじめとする多くの絵画や版画として描かれました。
来歴:(シーボルト→長崎奉行所?)→北川某→1931池長孟→1951市立神戸美術館→1965市立南蛮美術館→1982神戸市立博物館
参考文献:
・神戸市立博物館『まじわる文化 つなぐ歴史 むすぶ美―神戸市立博物館名品撰―』図録 2019/・神戸市立博物館特別展『日本絵画のひみつ』図録 2011/・神戸市立博物館特別展『コレクションの精華』図録 2008/・勝盛典子「プルシアンブルーの江戸時代における需要の実態について-特別展「西洋の青-プルシアンブルーをめぐって-」関係資料調査報告」(『神戸市立博物館研究紀要』第24号) 2008/神戸市立博物館特別展『絵図と風景』図録 2000 】(「文化遺産オンライン」)

(川原慶賀の「巻物画」)

川原慶賀「阿蘭陀芝居巻」(全).png

「文政三年のオランダ芝居 : 川原慶賀筆『阿蘭陀芝居巻』」(「合成図」)

(再掲)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-08-12

【 この「川原慶賀筆『阿蘭陀芝居巻』は、「巻子(巻き軸で巻いたもの)仕立ての絵(27.5㎝×36.3㎝)が七枚描かれている」。「慶賀がこの絵巻をつくった年代は定かでないが、おそらく江戸後期?芝居が上演された文政三年庚辰年(一八二○年)のことであろう。時に、慶賀は三十五歳であった。その三年後の文政六年(一八二三年)にシーボルトが来日し、かれはそのお抱え絵師となるのである」。
 「オランダ芝居を描いたこの絵巻は、アムステルダムの公文書館やネーデルラント演劇研究所にもあることから考えて、複数模写されたものであろう」。(「文政三年のオランダ芝居 : 川原慶賀筆「阿蘭陀芝居巻」について(宮永孝稿)」(「法政大学学術機関リポジトリ」)】

(川原慶賀の「掛幅画」)

花鳥図.jpg

●作品名:花鳥図 ●Title:Flowers and Birds
●分類/classification:花鳥画/Still Lifes
●形状・形態/form:紙本彩色、軸/painting on paper,hanging scroll
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden

(再掲)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-11-12

【 これらの川原慶賀の「花鳥画」は、いわゆる、「南蘋派」そして「洋風画にも通じた唐絵目利・石崎融思と長崎派」の系統に属する世界のものであろう。
 なかでも、石崎融思と慶賀と関係というのは、そのスタートの時点(文化八年(1811年)頃)、当時の長崎で絵師の第一人者として活躍していた石崎融思に師事し、爾来、弘化三年(一八四六)、融思(七十九歳、慶賀より十八歳年長)の、融思が亡くなる年の、その遺作ともいうべき、「観音寺天井画」(野母崎町観音寺)の、石崎一族の総力を挙げてのプロジェクト(一五〇枚の花卉図、うち四枚が慶賀画)にも、慶賀の名を遺している。

「花鳥図」石崎融思.jpg

「花鳥図」石崎融思筆/ 絹本着色(「ウィキペディア」)

≪ 洋風画にも通じた唐絵目利・石崎融思と長崎の洋風画家

https://yuagariart.com/uag/nagasaki12/

 長崎に入ってきた絵画の制作年代や真贋などを判定、さらにその画法を修得することを主な職務とした唐絵目利は、渡辺家、石崎家、広渡家の3家が世襲制でその職務についていた。享保19年には荒木家が加わり4家となったが、その頃には、長崎でも洋風画に対する関心が高まっており、荒木家は唐絵のほかに洋風画にも関係したようで、荒木家から洋風画の先駆的役割を果たした荒木如元と、西洋画のほか南画や浮世絵にも通じて長崎画壇の大御所的存在となる石崎融思が出た。融思の門人は300余人といわれ、のちに幕末の長崎三筆と称された鉄翁祖門、木下逸雲、三浦梧門も融思のもとで学んでいる。ほかの洋風画家としては、原南嶺斎、西苦楽、城義隣、梅香堂可敬、玉木鶴亭、川原香山、川原慶賀らがいる。

石崎融思(1768-1846)
 明和5年生まれ。唐絵目利。幼名は慶太郎、通称は融思、字は士斉。凰嶺と号し、のちに放齢と改めた。居号に鶴鳴堂・薛蘿館・梅竹園などがある。西洋絵画輸入に関係して増員 されたと思われる唐絵目利荒木家の二代目荒木元融の子であるが、唐絵の師・石崎元徳の跡を継いで石崎を名乗った。父元融から西洋画も学んでおり、南蘋画、文人画、浮世絵にも通じ長崎画壇の大御所的存在だった。その門人300余人と伝えている。川原慶賀やその父香山とも親しかったが、荒木家を継いだ如元との関係はあまりよくなかったようである。弘化3年、79歳で死去した。≫(「UAG美術家研究所」)  】


(石崎融思門絵師・川原慶賀が到達した世界=「山水画と風景画のあいだ-真景図の近代」=「真景図(画)の世界」)

川原慶賀「長崎港図」広島県立歴史博物館蔵.jpg

川原慶賀「長崎港図」 19世紀前半/広島県立歴史博物館蔵

(抜粋)

https://www.mainichi.co.jp/event/culture/20220726.html

【 「山水画と風景画のあいだ-真景図の近代」
 誰もがきれいな風景画を見ると心が和みます。しかし、私たちが思い浮かべるような風景画が描かれるのは近代になってからであり、長らく中国からもたらされた山水画が美術の主流でした。本展では、18世紀末から20世紀初頭の日本の風景表現の移り変わりを通して、日本人の風景を見る眼がいかに確立してきたかをたどります。
  山水画、文人画、洋風画、浮世絵、日本画、洋画などジャンル・流派を越えた約100点を三部構成で展覧。高島北海ほか、下関のゆかりのある画家の作品や下関の特徴的な景観を捉えた作品なども展示します。 】(「毎日新聞社」)

https://www.city.shimonoseki.lg.jp/site/art/71899.html#:~:text=%E7%9C%9F%E6%99%AF%E5%9B%B3%E3%81%A8%E3%81%AF,%E3%81%9F%E5%B1%B1%E6%B0%B4%E7%94%BB%E3%81%AE%E3%81%93%E3%81%A8%E3%81%A7%E3%81%99%E3%80%82

【「第1章 真景図のはじまり」
 第1章では、江戸時代後期、下関にも来遊した頼山陽や田能村竹田、蘭学者で洋風画を描いた司馬江漢、また浮世絵師として人気を博した歌川広重など、誰もが知る大家・名匠の面々が並びます。 
 中世から江戸時代まで日本で主流であった山水画は、中国の水墨の山水画を手本としていたため、中国の風景を描いたものが主流でした。一方、江戸時代になると、経験主義的・実証主義的なものの見方が広まり、自然主義への志向が高まります。
 浦上玉堂や谷文晁といった文人画(南画)には、日本の自然を独自の様式に昇華したり、自然をそのまま描こうとしたりしたものがありました。その中から真景図が登場します。真景図とは、日本の特定の場所の写生に基づいた山水画のことです。このような実景表現が風景表現への新たな関心と展開を促すことになりました。
 長崎では、中国清朝の写実的な花鳥画を伝えた沈南蘋(しん・なんぴん)の画風が伝わり、蘭学の影響によって西洋画の技法も注目を集めました。江戸の司馬江漢や亜欧堂田善らは西洋の遠近法に基づいて奥行きのある空間を描きます。また、江戸時代に旅行がブームになると、日本の名所を表現した風景版画が流行し、歌川広重の「東海道五十三次」のような名作が生まれました。
 このように、文人画が描いた真景図を契機として江戸時代にはさまざまな風景表現が生まれ、近代以降の日本では山水画から風景画へ移行することになります。

「第3章 近代風景画の成立」
 第3章では、明治以降の風景表現をたどります。新しい日本画の創出を目指した横山大観や菱田春草は、線を用いずに面によって空間を表現する朦朧体(もうろうたい)を試み、一方、川合玉堂や竹内栖鳳は、朦朧体のように筆線を否定することなく、西洋の写実表現を取り入れます。 
 近代洋画の開拓者、高橋由一は日本人としてはじめて本格的に油彩画の風景を描きますが、その構図やモチーフは、名所絵の伝統を引き継ぐものでした。1900年頃、西洋人からあるいは西洋で学んだ画家たちにより、「あるがままの自然」を描くことが意識されるようになり、それが日本における山水画から風景画への転機となりました。大正時代になると、岸田劉生のように、高橋由一同様、土着性が感じられる風景画を描く画家も登場します。
 浮世絵の流れを引く版画は、庶民の芸術としてずっとさかんでした。明治時代に活躍した小林清親は、明暗法を導入した「光線画」を生み出します。大正時代には吉田博や川瀬巴水の新版画による風景画が描かれます。
 日本画・洋画・版画とそれぞれの風景表現の変遷をたどると、風景画はかつての文人画以上に日本社会に広く定着していることがわかります。ここにおいて、山水画に始まり、真景図を経て風景画にいたる流れが完結したといえるでしょう。

小林清親《今戸橋月夜茶亭》.jpg

小林清親《今戸橋月夜茶亭》明治10年(1877)頃 兵庫県立美術館

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高橋由一《琴平山遠望図》明治14年(1881)金刀比羅宮    】(「下関市立美術館)

(シーボルトの眼となった「長崎出島絵師・川原慶賀」の目指した世界=「記録図(画)・映像図(画)」の世界)

(川原慶賀の「記録図(画)」)

草木花實寫真圖譜 .jpg

●作品名:草木花實寫真圖譜 三 キリ
●Title:Empress Tree, Princess Tree
●学名/Scientific name:Paulownia tomentosa
●学名(シーボルト命名)/Scientific name(by von Siebold):Paulowia imperialis
●分類/classification:植物/Plants>ゴマノハグサ科/Scrophulariaceae
●形状・形態/form:紙本彩色、木版、冊子/painting on paper,wood engraving,book
●所蔵館:長崎歴史文化博物館 Nagasaki Museum of History and Culture
http://www.nmhc.jp/keiga01/kawaharasite/target/kgdetail.php?id=3784&cfcid=125&search_div=kglist

(再掲)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-11-26

【 (抜粋)

http://www.city.nagasaki.lg.jp/nagazine/hakken0611/index1.html

◆シーボルトが見た日本画家・慶賀

 シーボルトは渡来当初から将来『日本植物誌』の出版する際に、慶賀の植物画を中心に活用しようと膨大な量の絵を描かせていたという。文政9年(1826)の2月から7月にかけての江戸参府においても慶賀はシーボルトの従者のひとりとして参加し、旅先の各地での風景や風物を写生した。慶賀はシーボルトの目に映るものを直ちに紙に写し取り、いわばカメラの役割を果たした。当時の文化、風俗、習慣、自然。特に慶賀の描写した植物画は彩色も巧妙でシーボルトを満足させていたという。実際にシーボルトは慶賀に対する評価を『江戸参府紀行』に次のように記している。
《……彼は長崎出身の非常にすぐれた芸術家で、とくに植物の写生に特異な腕をもち、人物画や風景画にもすでにヨーロッパの手法をとり入れはじめていた。彼が描いたたくさんの絵は、私の著作の中で、彼の功績が真実であることを物語っている……》

◆シーボルトが慶賀に与えた目覚め

 慶賀が残した膨大な量の作品は、その内容、作品に熱意からして、単に雇われ絵師が義務的にこなした仕事とは思えないものだという。そこまで、自然物の写生を徹底した科学的態度によっておこなうことになったのは、やはりシーボルトという偉大な存在と出逢ったためだろう。なかでも、シーボルトに同行した江戸参府の経験は大きい。おそらく、道中においてシーボルトの精力的な研究ぶり、また江戸滞在中にシーボルトを訪れた日本人学者達のシーボルトに対する尊敬ぶりと貪欲なまでの知識欲などを目の当たりにして、慶賀の眼ももっと広い世界へと開かれたものと思われている。シーボルトへの尊敬の念が慶賀に新たな意欲をかきたたせ、自分の使命はシーボルトに与えられた自然物をいかにその通りに描くか、ということにあると自覚し、しかも単に外観をそのまま写すのではなく、そのものの学問上の価値を知って描くことが自分に課せられた任務だと気づいたのだろう。『シーボルトと日本動物誌』においてはじめて公刊された慶賀の甲殻類の図53枚は、大部分が原寸で描かれているという。そして、そのほとんどの図版に種名やその他の書き込みが慶賀によってなされているというのだ。彼が単に図を描くだけでなく、日本名の調査や記入にもあたっていたということは、慶賀自身がシーボルト同様に西洋的科学研究に参加しているという意識を持って仕事をしていたということなのだ。やはりシーボルトとの出逢いと指導が慶賀を大きく成長させたということだろう。

◆慶賀とシーボルトの信頼関係

 慶賀は江戸参府の際に長崎奉行所から命じられていた“シーボルトの監視不十分”の罪で入牢している。慶賀は、シーボルトを密かに監視するようなことをしなかったのだ。シーボルトへの尊敬の念、また、シーボルトから自分に向けられた役割と期待。シーボルトと慶賀の間には、雇い主と雇われ絵師という関係以上の感情がいつしか芽生え、心の交流がなされていたのだろう。シーボルトは帰国後も日本に残った助手ビュルゲルと連絡をとり、標本、図版類を送らせていた。ビュルゲルによって送られた図版は、慶賀によるもの。慶賀は、シーボルト帰国後から長崎払いの処罰を受けるまでの約10年間、出島出入絵師として働いていたと考えられているが、ビュルゲルはシーボルト帰国後3年間、日本にとどまっていることから、慶賀は少なくともその期間はシーボルトの仕事をしていたと思われる。その際、慶賀が描いた甲殻類の図(『シーボルトと日本動物誌』に掲載)から、実物通りの写生能力に関して、シーボルトは慶賀に絶対の信頼を置いていて、また、慶賀もその信頼を裏切るようなことをしなかったということがうかがえるのだ。】(「長崎Webマガジン」所収「長崎の町絵師・川原慶賀」)

(川原慶賀の「映像図(画)」)

(再掲)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-12-07


魯西亜整儀写真鑑(合成図).png

【 魯西亜整儀写真鑑 /川原慶賀=版下絵、大和屋版/安政元年頃/巻子7図、紙本木版色摺/各26.0×38.6-39.0
 七図からなる一連の錦絵、「魯西亜整儀写真鑑」と袋に題されている。磯野文斎(渓斎英泉の門弟)が入婿した後の長崎、大和屋から版行された。嘉永六年(一八五三)七月十八日、ロシア海軍の将官プチャーチンは、修交通商と北方の領海問題を解決するため国書を携え、軍艦四艘を率いて長崎港に入ってきた。この時、幕府は国書を受けず、十月、艦隊は長崎に再来、再び退去し、安政元年(一八五四)三月、三度長崎に入港してきた。本図は、国書を携えて西役所におもむくロシア使節の行進を活写したもの、プーチャチン像の右下に「GeteKent Door Tojosky」とあり、トヨスキィこれを描く、の意味。
 江戸後期の長崎における最もすぐれた絵師のひとり川原慶賀が下絵を描いている。トヨスキィという西洋人風の筆記は、慶賀の通称「登与助」のこと。慶賀は、シーボルトの専属画家のような形で写実性の高い記録絵を残したが、「シーボルト事件」の十四年後、天保三年(一八四二)に長崎払いとなり、弘化三年(一八四六)ごろに再び戻って磯野文斎の依頼でこの記録絵の制作にたずさわったのである。素朴な土産絵であった長崎版画が生み出した、歌川貞秀などの末期の江戸絵に拮抗し得る完成度の高い作品。(岡泰正稿) 】(『神戸市立博物館所蔵名品展 南蛮美術と洋風画』所収「作品解説87」)

 「映像図(画)」という言葉は、未だ一般には定着していない言葉なのかも知れないが、上記の解説中の「慶賀は、シーボルトの専属画家のような形で写実性の高い記録絵を残したが、『シーボルト事件』の十四年後、天保三年(一八四二)に長崎払いとなり、弘化三年(一八四六)ごろに再び戻って磯野文斎の依頼でこの記録絵の制作にたずさわったのである」の、「時事・世相記録図(画・絵)」のようなニュアンスのものである。

黒船来航瓦版.gif

「黒船来航瓦版」(「石川県立歴史博物館」蔵)

https://www.ishikawa-rekihaku.jp/collection/detail.php?cd=GI00379

【 (抜粋)

「黒船来航瓦版」

 ペリーの1853(嘉永6)年6月来航、翌年の再来航によって、江戸幕府は開国を余儀なくされ、その来航に際しおびただしい数の瓦版がつくられた。江戸時代に「読売」「一枚摺」「摺物」と呼ばれた「瓦版」は、明治時代以降に定着したといわれる。
 この黒船来航瓦版は画面中央に船体を大きく配し、3本の大きいマストやアメリカ国旗、推進用の外輪、煙突などを描き、船上には船員が小さく描かれ、船体の大きさが強調されている。上部の1本目と2本目マストの間に「蒸気船」と書かれ、2本目マストの上辺りに黒船の長さ、巾、帆柱数、石火矢(大砲)の数、煙出(煙突)長さ、外輪の径、乗員数(360人)が書かれ、その左右に幕府の旗本や大名などの名が記される。 】(「石川県立歴史博物館」)

【 (瓦版)

 江戸時代に、ニュース速報のため、木版一枚摺(ずり)(ときには2、3枚の冊子)にして発行された出版物。瓦版という名称は幕末に使われ始め、それ以前は、読売(よみうり)、絵草紙(えぞうし)、一枚摺などとよばれた。土版に文章と絵を彫り、焼いて原版とした例もあったという説もあるが不明確である。最古の瓦版は大坂夏の陣を報じたもの(1615)といわれるが明確ではない。天和(てんな)年間(1681~1684)に、江戸の大火、八百屋(やおや)お七事件の読売が大流行したと文献にみえ、貞享(じょうきょう)・元禄(げんろく)年間(1684~1704)には上方(かみがた)で心中事件の絵草紙が続出したと伝えられる。これが瓦版流行の始まりである。
  江戸幕府は、情報流通の活発化を警戒してこれらを禁圧し、心中や放火事件などの瓦版は出せなくなった。江戸時代中期には、1772年(明和9)の江戸大火、1783年(天明3)の浅間山大噴火など災害瓦版が多く現れ、打毀(うちこわし)を報じたものもあったが、寛政(かんせい)の改革(1787~1793)以後、取締りがいっそう厳しくなった。しかし、文政(ぶんせい)年間(1818~1830)以後になると、大火、地震、仇討(あだうち)などの瓦版が、禁令に抗して幾種類も売られ、また、米相場一覧、祭礼行列図、琉球(りゅうきゅう)使節行列図なども刊行された。安政(あんせい)の地震(1855)の瓦版は300種以上も出回り、その後、明治維新に至る政治的事件の報道、社会風刺の瓦版が続出した。瓦版の値段は、半紙一枚摺で3~6文、冊子型は16~30文ほどであった。作者、発行者は絵草紙屋、板木屋、香具師(やし)などであろう。安政の地震の際には、仮名垣魯文(かながきろぶん)、笠亭仙果(りゅうていせんか)などの作者や錦絵(にしきえ)板元が製作販売にあたってもいる。
 明治に入って瓦版は近代新聞にとってかわられるが、その先駆的役割を果たしたといえよう。[今田洋三]
『小野秀雄著『かわら版物語』(1960・雄山閣出版)』▽『今田洋三著『江戸の災害情報』(西山松之助編『江戸町人の研究 第5巻』所収・1978・吉川弘文館)』 】(「日本大百科全書(ニッポニカ)」)

 「映像図(画)」(木版色摺)の「魯西亜整儀写真鑑 /川原慶賀=版下絵、大和屋版」は、
「時事・世相記録図(画・絵)」という「報道性」を帯び、いわゆる、「鎖国から開国」の、その狭間に横行した「瓦版」(「読売(よみうり)の一枚摺り」」)の一種とも解され、これが、次の時代の「横浜絵・黒船瓦版」などに連動してくるように思われる。

亜米利加人上陸ノ図 嘉永七年二月.jpg

「亜米利加人上陸ノ図 嘉永七年二月」 (「横浜市」)

使節ペリー横浜応接の図.jpg

「使節ペリー横浜応接の図」 (「横浜市」)

(参考)『横浜の歴史』(平成15年度版・中学生用)「開国」関連部分(横浜市教育委員会、2003年4月1日発行)

【 (抜粋)

https://www.city.yokohama.lg.jp/kurashi/kyodo-manabi/library/shiru/sakoku/kaei/yokohamabook/yokoreki.html

『横浜の歴史』

第一節 黒船の渡来
(1)ペリーの来航
 四隻の黒船
 アメリカのアジア進出
 幕府の態度
 国書の受理
(2)国内の動揺
 広がる不安
 人々の苦しみ
(3)日米和親条約
 ペリー再来
 白ペンキのいたずら書き
 応接地、横浜
 交渉の開始
 条約の内容
 アメリカからの贈呈品

(一) ペリーの来航

四隻の黒船
 1853年7月8日(嘉永六年六月三日)、浦賀沖に、アメリカ東インド艦隊司令長官のペリーが率いる4隻の軍艦が現れた。浦賀奉行の早馬は「黒船現わる」の知らせをもって江戸に走った。急ぎ駆けつけた武士によって、海岸線は警備され、夜にはかがり火をたいて、黒船の動きを監視した。今までにも、外国船は姿を見せたことはあったが、今回のように艦隊を組み、砲門を開き、いつでも戦える状態で現われたことはなかった。それに加え、黒々とした蒸気船の巨体は、見る人々を圧倒してしまった。


アメリカのアジア進出
 アメリカでは19世紀にはいって工業が発達し、機械による生産が増大した。アメリカにおける産業の発達は、海外市場を求めてアジア大陸への進出を促した。しかし、アジアの中心、中国へ進出するためには、大西洋を横断し、アフリカの南端を回り、インド洋を経由しなければならず、イギリスなどと対抗するには地理的にも不利な条件であった。当時、アメリカの太平洋岸は捕鯨漁場として開かれていたこともあって、太平洋を直接横断する航路が考えられるようになった。だが、当時の船では途中で、どうしても石炭や水などの補給をしなければならなかった。太平洋岸の中継地として、日本が最良の場所であった。使節ペリーの任務は鎖国政策をとっている日本の政治を変えさせ、港を開かせることにあった。

幕府の態度
 ペリーの来航について幕府は長崎のオランダ商館長から知らされていたが鎖国政策を変えることはしなかった。実際にペリーが浦賀沖に来航しても、交渉地である長崎へ回航することを求めた。しかし、ペリーは強い態度を示し、交渉中も江戸湾の測量を行い、金沢の小柴沖まで船を進め、交渉が進展しないとみればいつでも艦隊を江戸へ直航させる構えを示して幕府の決断を迫った。
 一方、幕府も戦争に備えて、急いで諸大名に対して江戸湾周辺の警備を命じた。本牧周辺を熊本藩、神奈川を平戸藩、金沢を地元の大名米倉昌寿の六浦(金沢)藩、横浜村を小倉、松代両藩がそれぞれ守りを固め、さらにその後、本牧御備場を鳥取藩、生麦・鶴見周辺を明石藩が警備することになった。このように諸大名を動員し、大規模な警備に当たったことは今までになかったことであった。

国書の受理
 大統領の国書を受理させようとするペリーの強い態度に押された幕府は、ついに浦賀の久里浜でそれを受けることを認めた。
 1853年7月14日(嘉永六年六月九日)、急いで設けられた応接所で、アメリカ大統領フィルモアの国書が、幕府の浦賀奉行に渡された。国書の内容はアメリカとの友好、貿易、石炭、食糧の補給と遭難者の保護を求めるものであった。幕府はあくまでも正式交渉地は長崎であり、浦賀は臨時の場であることを述べて、国書に関する回答はできないという態度をとった。ペリーも国書の受理が行われたことで初期の目的を達したと判断し、来年その回答を受け取りに来航することを伝えて日本を離れた。

(二)国内の動揺(略)

(三)日米和親条約

ペリー再来

 幕府が開国か鎖国かの判断が下せず苦しんでいた1854年2月13日(安政元年一月一六日)、再び七隻の艦隊を率いてペリーは来航し、江戸湾深く進み、金沢の小柴沖に停泊した。
 浦賀奉行は、前回の交渉地であった浦賀沖まで回航するよう要求したが、ペリーは波が荒く、船を停泊させるには適さないことなどを理由にこれを断わった。幕府はできるだけ江戸から離れた場所で交渉しようとして浦賀、鎌倉などを提案したが、ペリーは江戸に近い場所を要求して、話し合いはまとまらなかった。ペリーは艦隊をさらに進ませ、神奈川沖や羽田沖まで移動させた。江戸の近くから黒船が見えるほど接近させたことに幕府は驚き、急いで神奈川宿の対岸、横浜村の地を提案し、妥協を図った。  
 ペリーも、江戸に近く、陸地も広く、安全で便利な場所であることなど、満足できるところであることを認めて、この地を承認し艦隊を神奈川沖に移した。

白ペンキのいたずら書き

北亜墨利加人本牧鼻ニ切附タル文字ヲ写.jpg

「北亜墨利加人本牧鼻ニ切附タル文字ヲ写」

 交渉場所の話し合いが行われているときでも艦隊は神奈川沖を中心に測量を行い、海図の作成の仕事を進めていた。測量を行うボートの一隻が、本牧八王子海岸の崖(本牧市民プール付近)に接近し、白ペンキで文字を書きつけていった。このことがのちに江戸の「かわら版」に大事件として図解入りで報道された。そのため、横浜に多数の見物人が押しかけてきた。奉行は見物の禁止とともに、そのいたずら書きを消してしまった。外国人の一つ一つの行動がすべて興味と好奇心で見られていたのである。

応接地、横浜
 当時の横浜は戸部、野毛浦と入り海をはさんで向かい合い、外海に面した地形で景色のすぐれた所であった。
 応接地として決定された2月25日、アダムズ参謀長ほか三十名のアメリカ人がこの地を調査するために上陸した。畑地や海岸の様子を検分し、奉行の立ち合いの上で横浜村の北端、駒形という地(県庁付近)を応接地とし、確認のための杭を打ち込んだ。横浜の地に外国人が上陸した最初でもあった。
 外国人の上陸を知った人々の驚きは大きかった。外国との戦争は横浜からだ、といううわさが流れた。それに加え、応接地決定の3日前がアメリカのワシントン記念日に当たっていたため、七隻の軍艦から100発以上の祝砲が撃たれた。そのごう音は江戸湾にこだまし、遠く房総の村々にまで聞こえ、事前に奉行から触書が回されていたけれども、人々に恐怖心を与えた。
 応接地が決定されると、日本側も、アメリカ側も、その準備や調査のために横浜に上陸して活動を始めた。奉行も外国人との摩擦を避けるために外出禁止令を出したが、村人の生活は畑仕事や貝類の採取、漁業であったため、自然に外に出ることが多くなった。村人に対して奉行所からは外国人から物をもらってはならないという命令が出され、巡回する役人はアメリカ側が村人と仲良くするために菓子などを入れたかごを置いてあるのを見つけては焼き捨てたりしていた。やがて、外国人が危害を加えないことがわかると少しずつ恐ろしさが消え、珍しいもの見たさに人々が押しかけてくるようになった。増徳院という横浜村の寺で外国人の葬儀が行われたときは、見物人で道の両側に人垣ができたほどであった。

交渉の開始
 横浜応接所は久里浜に設けられた設備を解体し、横浜に運んで4日間で完成させたもので5棟からなるこの応接所をアメリカ側は条約館と呼んだ。
 1854年3月4日(安政元年二月六日)、ペリーが再来した日から21日目に第1回の会見が行われた。日本側の全権は神奈川宿から船で到着し、アメリカ使節ペリーと兵士500名は祝砲のとどろく中を音楽隊を先頭に上陸した。会談は前回の国書の回答から始められ、4回の会談で条約の交渉は妥結し、3月31日(三月三日)に調印が行われた。これが横浜で結ばれた日米和親条約であり、一般には神奈川条約ともいわれた。

条約の内容
 幕府は、国書に示されていた石炭、薪、水、食糧の補給、避難港の開港、遭難民の救助と人道的な取扱いについては認めたが通商に関しては認めなかった。それに関してはペリーも強く要求はしなかったが、代わりにアメリカの代表として総領事を置くことを認めさせた。条約交渉の最大の問題はどこを開港するかにあった。幕府は長崎一港を主張し、アメリカ側は長崎以外の港を要求した。交渉の結果、北海道の函館、伊豆半島の南端にある下田の2港を開くことで妥結した。幕府は、江戸から遠く離れ、しかも管理しやすい場所で日本人との接触が少ない所を選んだのである。
 これで日本が長い間続けてきた鎖国政策はくずれ、世界の中に組み入れられ、新しい時代を迎えるようになったのである。

アメリカからの贈呈品

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嘉永七年二月献上〔蒸気車〕

 条約交渉が行われている際、ペリーはアメリカからの贈呈品としてたくさんの品を幕府側に贈った。武器、電信機、望遠鏡、柱時計、蒸気車模型一式、書籍、地図類であった。なかでも電信機と蒸気車は応接所付近に準備され、それぞれ実験をし、動かし方の指導が行われた。特に蒸気車は模型とはいいながら精巧に作られており、6歳程度の子どもを乗せて走るほどのものであった。蒸気車、炭水車、客車の3両は円形に敷かれたレールの上を人を乗せて蒸気の力で走った。この近代科学の成果は日本人にどれほどの驚きを与えたか、想像以上のものであった。
 日本側はそれに対して力士を呼んで、外国人に負けないくらいの力の強い大男がいることを示し、幕府からはアメリカ大統領らに日本の伝統を誇る絹織物、陶器、塗り物などを贈った。
 使節としての責任を果たしたペリーは、仕事を離れて数名の部下を連れて横浜村周辺を散策した。横浜村の名主、石川徳右衛門宅を訪れて家族の暖かい接待を受けたり、村人とも親しく交わり帰船した。 
 4月15日(三月一八日)、およそ3か月の滞在を終えてペリーは神奈川沖を出帆して、開港される下田に向かった。 】(「横浜市」)

この「条約交渉が行われている際、ペリーはアメリカからの贈呈品の『蒸気車、炭水車、客車』の返礼として、「力士を呼んで、外国人に負けないくらいの力の強い大男がいることを示し」たという記事に接して、全く異次元(慶賀=長崎、シーボルトそして露西亜のプーチャチン、黒船来航=横浜、亜米利加のペリー)の世界のものが、次の「相撲取り(力士)」(川原慶賀筆)などを通してドッキングして来ることに、妙な感慨すら湧いてくる。

相撲取り(力士).jpg

「相撲取り(力士)」(川原慶賀筆)(『「江戸時代 人物画帳( 小林淳一・編著: 朝日新聞出版 )』)

 安政五年(一八五八)、日米修交通商条約が締結され、続いて、「阿蘭陀(オランダ)・露西亜(ロシア)・英吉利(イギリス)・仏蘭西(フランス)」と、いわゆる「安政の五カ国条約」が締結され、事実上、鎖国から開国へと方向転換をすることになる。
 その翌年の安政六年(一八五九)に、シーボルトは、長男アレクサンダーを連れて再来日するが、この再来日時に、シーボルトと川原慶賀とが再会したかどうかは、杳として知られていない。
 川原慶賀が亡くなったのは文久元年(一八六一)の頃で、この年には、シーボルトは幕府の招きで横浜に向かい、幕府顧問として外交の助言やら学術教授などの役目を担っている。また、息子のアレクサンダーも英国公使館の通訳となっている。そして、シーボルトが帰国したのは、その翌年の文久二年(一八六二年)のことである。(『生誕二百年記念 シーボルト父子が見た日本(ドイツ-日本研究所刊)』『よみがえれ! シーボルトの日本博物館(監修:国立歴史博物館)』『神戸市立博物館所蔵名品展 南蛮美術と洋風画(茨城県立歴史館刊)』)


(参考) 「シーボルト再来日から死亡まで」周辺

(シーボルト再来日から死亡まで) ※=川原慶賀関係(「ウィキペディア」『生誕二百年記念 シーボルト父子が見た日本(ドイツ-日本研究所刊)』など)

1858年(安政五年) - 日蘭修好通商条約が結ばれ、シーボルトに対する追放令も解除
1859年(安政六年) - オランダ貿易会社顧問として再来日
※1860年(万延元年)- 川原慶賀没か?(没年齢=76歳)(『神戸市立博物館所蔵名品展 南蛮美術と洋風画(茨城県立歴史館刊)』))
1861年(文久元年) - 対外交渉のための幕府顧問に
1862年5月(文久二年) - 多数の収集品とともに長崎から帰国する。
1863年(文久三年) - オランダ領インド陸軍の参謀部付名誉少将に昇進
1863年(同上) - オランダ政府に対日外交代表部への任命を要求するが拒否される
1863年(同上) - 日本で集めた約2500点のコレクションをアムステルダムの産業振興会で展示
1864年(文久四年) - オランダの官職も辞して故郷のヴュルツブルクに帰る。
1864年5月(同上) - パリに来ていた遣欧使節正使・外国奉行の池田長発の対仏交渉に協力
1864年(同上) - ヴュルツブルクの高校でコレクションを展示し「日本博物館」を開催
※川原慶賀=一説には80歳まで生きていたといわれている(そうなると慶応元年(1865年)没となる)(『シーボルトと町絵師慶賀(兼重護著)』「ウィキペディア」)
1866年(慶応二年) - ミュンヘンで「日本博物館」を開催
1866年10月18日(同上) - ミュンヘンで風邪をこじらせ敗血症を併発して死去

≪ (再来日とその後)  
 1858年には日蘭修好通商条約が結ばれ、シーボルトに対する追放令も解除される。1859年、オランダ貿易会社顧問として再来日し、1861年には対外交渉のための幕府顧問となる。 
 貿易会社との契約が切れたため、幕府からの手当で収入を得る一方で、プロイセン遠征隊が長崎に寄港すると、息子アレクサンダーに日本の地図を持たせて、ロシア海軍極東遠征隊司令官リハチョフを訪問させ、その後自らプロイセン使節や司令官、全権公使らと会見し、司令官リハチョフとはその後も密に連絡を取り合い、その他フランス公使やオランダ植民大臣らなどの要請に応じて頻繁に日本の情勢についての情報を提供する[8]。並行して博物収集や自然観察なども続行し、風俗習慣や政治など日本関連のあらゆる記述を残す。
江戸・横浜にも滞在したが、幕府より江戸退去を命じられ、幕府外交顧問・学術教授の職も解任される。また、イギリス公使オールコックを通じて息子アレクサンダーをイギリス公使館の職員に就職させる[8]。1862年5月、多数の収集品とともに長崎から帰国する。
 1863年、オランダ領インド陸軍の参謀部付名誉少将に昇進、オランダ政府に対日外交代表部への任命を要求するが拒否される[9]。日本で集めた約2500点のコレクションをアムステルダムの産業振興会で展示し、コレクションの購入をオランダ政府に持ちかけるが高額を理由に拒否される[9]。オランダ政府には日本追放における損失についても補償を求めたが拒否される。
 1864年にはオランダの官職も辞して故郷のヴュルツブルクに帰った。同年5月、パリに来ていた遣欧使節正使・外国奉行の池田長発の対仏交渉に協力する一方、同行の三宅秀から父・三宅艮斉が貸した「鉱物標本」20-30箱の返却を求められ、これを渋った。その渋りようは相当なもので、僅か3箱だけを数年後にようやく返したほどだった。
 バイエルン国王のルートヴィヒ2世にコレクションの売却を提案するも叶わず。ヴュルツブルクの高校でコレクションを展示し「日本博物館」を開催、1866年にはミュンヘンでも開く。再度、日本訪問を計画していたが、10月18日、ミュンヘンで風邪をこじらせ敗血症を併発して死去した。70歳没。墓は石造りの仏塔の形で、旧ミュンヘン南墓地 (Alter Munchner Sudfriedhof) にある。≫(「ウィキペディア」)

 この、シーボルトの再来日の際の、「プロイセン遠征隊が長崎に寄港すると、息子アレクサンダーに日本の地図を持たせて、ロシア海軍極東遠征隊司令官リハチョフを訪問させ、その後自らプロイセン使節や司令官、全権公使らと会見し、司令官リハチョフとはその後も密に連絡を取り合い」(「ウィキペディア」)などに接すると、これまた、この「シーボルトの再来日」の前の、川原慶賀の版下絵による大和屋版の「魯西亜整儀写真鑑」とドッキングしてくる。
 そして、この時に、晩年の「川原慶賀とシーボルトの再会」があったかどうかは定かではないが、少なくとも、シーボルト父子が、この再来日の折に、この、川原慶賀の版下絵による大和屋版の「魯西亜整儀写真鑑」を目にしていることは、この「ロシア海軍極東遠征隊司令官リハチョフ」に面会していることに関連して、事実に近いものと解したい。

フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト像.gif

フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト像/1861(文久元)年 スケッチ画 個人蔵/横浜開港資料館 平成27 年度第4 回企画展示「日独修好150年の歴史 幕末・明治のプロイセンと日本・横浜」/横浜開港資料館、国立歴史民俗博物館
≪「絵入りロンドン・ニュース」の特派員であったイギリス人画家チャールズ・ワーグマン(Charles Wirgman,1832-91)が描いた肖像画。当時、シーボルトは、1861(文久元)年10 月に幕府外交顧問を解任され、江戸を退去して横浜に滞在中であった。第二次日本滞在中のシーボルトを描いた唯一の肖像画である。シーボルトの子孫の家に伝わった資料。≫(「横浜開港資料館・国立歴史民俗博物館」)

伊藤圭介.gif

(右)シーボルト(Siebold, Philipp Franz von, 1796-1866)
(左)伊藤圭介(1803年2月18日 ? 1901年1月20日)
https://www.wul.waseda.ac.jp/TENJI/virtual/shozo/index3.html
≪「伊藤圭介・シーボルト画像」 伊藤篤太郎摸 1軸 
文久2年、来日していたシーボルトの肖像を「イラストレイテッド・ロンドン・ニューズ」の特派員でイギリス人の画家チャールズ・ワーグマンがスケッチし、その摸本をさらに後年、植物学者伊藤圭介の子息篤太郎が圭介の肖像とともに模写したもの。≫(早稲田大学図書館
WEB展覧会第33回 「館蔵『肖像画』展 忘れがたき風貌」)

http://kousin242.sakura.ne.jp/nakamata/eee/%E5%8D%9A%E7%89%A9%E9%A4%A8/%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%83%9C%E3%83%AB%E3%83%88/

■シーボルトの日本博物館(国立民族博物館) → (略)
■シーボボルトの博物館構想(山田仁史(東北大学大学院) → (略)
■シーボルト・コレクションのデジタルアーカイブ活用(原田泰(公立はこだて未来大学)

シーボルト・コレクションのデータベース化.jpg

[>]?シーボルト・コレクションのデータベース化(一部抜粋)

<シーボルトコレクション収蔵機関>
・ナチュラリス生物多様性センターhttps://www.naturalis.nl/nl/
・シーボルトハウスhttp://www.sieboldhuis.org/en/
・国立民俗学博物館https://volkenkunde.nl/en
・シーボルト博物館ビュルツブルクhttps://siebold-museum.byseum.de/de/home
・ミュンヘン州立植物標本館http://www.botanischestaatssammlung.de

[>]?デジタル目録としてのデータベース(略)

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川原慶賀の世界(その二十九) [川原慶賀の世界]

(その二十)九「川原慶賀の魯西亜整儀写真鑑」周辺

魯西亜整儀写真鑑.png

左図:魯西亜整儀写真鑑(袋) 右図: プチャーチン肖像
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/412235

軍艦2隻.jpg

左図:軍艦2隻 右図:軍艦2隻

椅子・靴持兵隊.jpg

左図:椅子・靴持兵隊 右図: 軍旗持兵隊

鉄砲持兵隊.jpg

左図:鉄砲持兵隊 右図: 軍楽隊
【魯西亜整儀写真鑑(ろしあせいぎしゃしんかん) 木版画 / 江戸/神戸市立博物館蔵
川原慶賀下絵/大和屋版/長崎版画/江戸時代、嘉永6年/1853年/木版色摺/ 39.0×25.8 他/ 1帖(7図・袋)
「Tojosky」のサインあり 軍楽隊/鉄砲持兵隊/軍旗持兵隊/椅子・靴持兵隊/軍艦2隻/軍艦2隻/プチャーチン肖像/袋
来歴:池長孟→1951市立神戸美術館→1965市立南蛮美術館→1982神戸市立博物館 】
(「文化遺産オンライン」)

【 魯西亜整儀写真鑑 /川原慶賀=版下絵、大和屋版/安政元年頃/巻子7図、紙本木版色摺/各26.0×38.6-39.0
七図からなる一連の錦絵、「魯西亜整儀写真鑑」と袋に題されている。磯野文斎(渓斎英泉の門弟)が入婿した後の長崎、大和屋から版行された。嘉永六年(一八五三)七月十八日、ロシア海軍の将官プチャーチンは、修交通商と北方の領海問題を解決するため国書を携え、軍艦四艘を率いて長崎港に入ってきた。この時、幕府は国書を受けず、十月、艦隊は長崎に再来、再び退去し、安政元年(一八五四)三月、三度長崎に入港してきた。本図は、国書を携えて西役所におもむくロシア使節の行進を活写したもの、プーチャチン像の右下に「GeteKent Door Tojosky」とあり、トヨスキィこれを描く、の意味。江戸後期の長崎における最もすぐれた絵師のひとり川原慶賀が下絵を描いている。トヨスキィという西洋人風の筆記は、慶賀の通称「登与助」のこと。慶賀は、シーボルトの専属画家のような形で写実性の高い記録絵を残したが、「シーボルト事件」の十四年後、天保三年(一八四二)に長崎払いとなり、弘化三年(一八四六)ごろに再び戻って磯野文斎の依頼でこの記録絵の制作にたずさわったのである。素朴な土産絵であった長崎版画が生み出した、歌川貞秀などの末期の江戸絵に拮抗し得る完成度の高い作品。(岡泰正稿) 】(『神戸市立博物館所蔵名品展 南蛮美術と洋風画』所収「作品解説87」)

阿蘭陀舩入津ノ図.jpg

阿蘭陀舩入津ノ図(画者不詳:大和屋版/版下絵=磯野文斎?)
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/378777
【 阿蘭陀舩入津ノ図(おらんだせんにゅうしんのず)/ 木版画 / 江戸/画者不詳 大和屋版/長崎版画/江戸時代/19世紀前期/紙本木版色摺/36.3×25.0/1枚
来歴:池長孟→1951市立神戸美術館→1965市立南蛮美術館→1982神戸市立博物館
参考文献:・板橋区立美術館『長崎版画と異国の面影』図録 2017 】(「文化遺産オンライン」)

【 阿蘭陀船入津(にゅうしん)ノ図/大和屋版(版下絵:磯野文斎?)/江戸時代後期/1枚、紙本木版色摺/36.3×25.0
満艦飾に飾りたてた華麗な姿で長崎港内に停泊するオランダ帆船。号砲をはなちながら港内に「入津(入港)」してくる帆船を取材したこの図は、江戸時代後期の長崎版画を代表する版元、大和屋より版行された。版下絵は、大和屋の磯野文斎の筆になるものと推測され、オランダ船が舶載した文物が流入する長崎という海港の晴れやかでエキゾチックな空気を、磯野文斎独特の江戸仕込みの洗練された錦絵(多色摺木版画)のスタイルで封じ込めている。満艦飾にするのは入出港時と考えられるが、停泊中に行うのは、出島の祝祭日に限られるであろう。つまり、本図は、入津の情景と投錨(びょう)とを一画面に同時進行させる形で描いたものと思われる。曳船の描写などは省略されているが写実性と拭きぼかしを多用した装飾性が美しく混和している。(岡泰正稿) 】(『神戸市立博物館所蔵名品展 南蛮美術と洋風画』所収「作品解説87」)

「魯西亜整儀写真鑑」(川原慶賀=版下絵、大和屋版)は、安政元年(一八五四)の頃の作とすると、この版下絵を描いた「川原慶賀」(天明六年(一七八六)~万延元年(一八六〇?)頃)の、六十八歳前後の頃の作で、その晩年の頃の作品の一つと解して差し支えなかろう。
 そして、これは、木版画の版下絵で、これまで見てきた、肉筆画、あるいは、シーボルトの依頼に描いた、石版画(『Nippon(日本)』など)の下絵(元絵・原画)ではなく、いわゆる、江戸の「浮世絵(錦絵)」(江戸の版元による「多色摺り木版画」)と同じく、長崎の「長崎版画」(長崎の版元による「多色摺り木版画」)の世界(版下絵師の世界)のものということになろう。
 これらの「長崎版画と版下絵師」関連については、下記のアドレスで触れてきた。そこで、その「版元」の一つの「大和屋(文彩堂)」の婿養子で、江戸後期の浮世絵師。渓斎英泉の門人の一人の「版下絵師」でもある「磯野文斎」(不明-1857)についても紹介してきた。
 上記の「魯西亜整儀写真鑑」(川原慶賀=版下絵、大和屋版)と、「阿蘭陀舩入津ノ図」(画者不詳:大和屋版/版下絵=磯野文斎?)とは、共に、磯野文斎の版元の「大和屋版」のもので、晩年の川原慶賀(田口登与助=種美)は、この版元「大和屋」所属の版下絵師の一人とも解せられる。
 そして、この「大和屋」の「磯野文斎」も歴とした「版下絵師」の一人で、上記の「阿蘭陀舩入津ノ図」(画者不詳:大和屋版/版下絵=磯野文斎?)は、上記の『神戸市立博物館所蔵名品展 南蛮美術と洋風画』所収「作品解説87」では、「大和屋の磯野文斎の筆になるものと推測され」と、それを一歩進めて、「磯野文斎=版下絵」と解したい。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-06-22

【  長崎版画と版下絵師
 長崎版画とは、江戸時代に長崎で制作された異国情緒あふれる版画のことで、主に旅人相手に土産物として売られた。長崎絵、長崎浮世絵などとも呼ばれている。同じころ江戸で盛んだった浮世絵が、役者、遊女、名所などを題材にしていたのに対し、当時外国への唯一の窓口だった長崎では、その特殊な土地柄を生かし、オランダ人、中国人、オランダ船、唐船など、異国情緒あふれる風物を主題とした。広義には、長崎や九州の地図も長崎版画に含まれる。
 現存する初期の長崎版画は、輪郭の部分を版木で黒摺りしてから筆で彩色したもので、その後、合羽摺といわれる型紙を用いた色彩法が用いられるようになった。長崎市内には、針屋、竹寿軒、豊嶋屋(のちに富嶋屋)、文錦堂、大和屋(文彩堂)、梅香堂など複数の版元があり、制作から販売までを一貫して手掛けていた。版画作品の多くに署名はなく、作者は定かではないものが多いが、洋風画の先駆者である荒木如元、出島を自由に出入りしていた町絵師・川原慶賀や、唐絵目利らが関わっていたと推測される。
 天保の初めころ、江戸の浮世絵師だった磯野文斎(不明-1857)が版元・大和屋に婿入りすると、長崎版画の世界は一変した。文斎は、当時の合羽摺を主とした長崎版画に、江戸錦絵風の多色摺の技術と洗練された画風をもたらし、長崎でも錦絵風の技術的にすぐれた版画が刊行されるようになった。大和屋は繁栄をみせるが、大和屋一家と文斎が連れてきた摺師の石上松五郎が幕末に相次いで死去し、大和屋は廃業に追い込まれた。
 江戸風の多色摺が流行するなか、文錦堂はそれ以降も主に合羽摺を用いて、最も多くの長崎版画を刊行した。文錦堂初代の松尾齢右衛門(不明-1809)は、ロシアのレザノフ来航の事件を題材に「ロシア船」を制作し、これは初めての報道性の高い版画と称されている。二代目の松尾俊平(1789-1859)が20歳前で文錦堂を継ぎ、父と同じ谷鵬、紫溟、紫雲、虎渓と号して自ら版下絵を手掛け、文錦堂の全盛期をつくった。三代目松尾林平(1821-1871)も早くから俊平を手伝ったが、時代の波に逆らえず、幕末に廃業したとみられる。
 幕末になって、文錦堂、大和屋が相次いで廃業に追い込まれるなか、唯一盛んに活動したのが梅香堂である。梅香堂の版元と版下絵師を兼任していた中村可敬(不明-不明)は、わずか10年ほどの活動期に約60点刊行したとされる。中村可敬は、同時代の南画家・中村陸舟(1820-1873)と同一人物ではないかという説もあるが、特定はされていない。

磯野文斎(不明-1857)〔版元・大和屋(文彩堂)〕
 江戸後期の浮世絵師。渓斎英泉の門人。江戸・長崎出身の両説がある。名は信春、通称は由平。文彩、文斎、文彩堂と号した。享和元年頃に創業した版元・大和屋の娘貞の婿養子となり、文政10年頃から安政4年まで大和屋の版下絵師兼版元としてつとめた。当時の合羽摺を主とした長崎版画の世界に、江戸錦絵風の多色摺りの技術と、洗練された画風をもたらした。また、江戸の浮世絵の画題である名所八景の長崎版である「長崎八景」を刊行した。過剰な異国情緒をおさえ、長崎の名所を情感豊かに表現し、判型も江戸の浮世絵を意識したものだった。安政4年死去した。

松尾齢右衛門(不明-1809)〔版元・文錦堂〕
 文錦堂初代版元。先祖は結城氏で、のちに松尾氏となった。寛政12年頃に文錦堂を創業し、北虎、谷鵬と号して自ら版下絵を描いた。唐蘭露船図や文化元年レザノフ使節渡来の際物絵、珍獣絵、長崎絵地図などユニークな合羽摺約130種を刊行した。文化6年、50歳くらいで死去した。

中村可敬(不明-不明)〔版元・梅香堂〕
 梅香堂の版元と版下絵師を兼務した。本名は利雄。陸舟とも号したという。梅香堂は、幕末に文錦堂、大和屋が相次いで廃業するなか、唯一盛んに活動し、わずか10年ほどの活動期に約60点刊行したとされる。中村可敬の詳細は明らかではないが、同時代の南画家・中村陸舟(1820-1873)は、諱が利雄であり、梅香の別号があることから、同一人物とする説もあるが、特定はされていない。 】(「UAG美術家研究所」)

長崎八景.png

上図(左から)「長崎八景○市瀬晴嵐」「長崎八景○神崎帰帆」「長崎八景○安禅(あんぜん)晩鐘」「長崎八景○笠頭(かざがしら)夜雨」
下図(左から)「長崎八景○大浦落雁」「長崎八景○愛宕暮雪」「長崎八景○立山(たてやま)秋月」「長崎八景○稲佐(いなせ)夕照」
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/401618
【「長崎八景○市瀬晴嵐」→画者不詳(磯野文斎?)/ 文彩堂版/長崎版画/江戸時代/19世紀前期/紙本木版色摺/13.2×19.5/1枚/文彩堂上梓
「長崎八景○神崎帰帆」→画者不詳(磯野文斎?)/ 文彩堂/長崎版画/江戸時代/19世紀前期/紙本木版色摺/13.2×19.6/1枚
「長崎八景○安禅(あんぜん)晩鐘」→画者不詳(磯野文斎?)/文斎版/長崎版画/江戸時代/19世紀前期/紙本木版色摺/13.3×19.5/1枚/長崎文斎発販
「長崎八景○笠頭(かざがしら)夜雨」→画者不詳(磯野文斎?)/大和屋由平版/長崎版画/江戸時代/19世紀前期/紙本木版色摺/13.3×19.4/1枚/長崎今鍛治ヤ町(○に大)大和屋由平板
「長崎八景○大浦落雁」→画者不詳 大和屋由平版/長崎版画(磯野文斎?)/大和屋由平版長崎版画/江戸時代/19世紀前期/紙本木版色摺/13.2×19.6/1枚/長サキ今カジヤ町(○に大)大和屋由平板
「長崎八景○愛宕暮雪」→画者不詳(磯野文斎?)/大和屋由平版/長崎版画/江戸時代/19世紀前期/紙本木版色摺/13.2×19.6/1枚/長サキ今カチヤ丁(○に大)大和屋由平板
「長崎八景○立山(たてやま)秋月」→画者不詳(磯野文斎?)/大和屋由平版/長崎版画/江戸時代/19世紀前期/紙本木版色摺/13.3×19.5/1枚/長サキ今カジヤ町(○に大)大和屋由平板/「長崎八景○稲佐(いなせ)夕照」→画者不詳(磯野文斎?)/ 文彩堂/長崎版画/江戸時代/19世紀前期/紙本木版色摺/13.1×19.4/1枚
来歴:池長孟→1951市立神戸美術館→1965市立南蛮美術館→1982神戸市立博物館
参考文献:
・板橋区立美術館『長崎版画と異国の面影』図録 2017
所蔵館: 神戸市立博物館 】(「文化遺産オンライン」)

 上記図は、文彩堂(磯野文斎?)版の「長崎八景」で、磯野文斎は、上記の「長崎版画と版下絵師」で紹介されているとおり、「文政十年(一八二七)頃から安政四年(一八五七)まで大和屋の版下絵師兼版元としてつとめ」、「当時の合羽摺を主とした長崎版画の世界に、江戸錦絵風の多色摺りの技術と、洗練された画風をもたらした」。そして、「江戸の浮世絵の画題である名所八景の長崎版である『長崎八景』を刊行し」、そこでは、「過剰な異国情緒をおさえ、長崎の名所を情感豊かに表現し、判型も江戸の浮世絵」を踏襲している。
 川原慶賀(天明六年=一七八六-万延元年=一八六〇?)と磯野文斎(?―安政四年=一八五七)とは、全く同時代の人で、磯野文斎が江戸から長崎に来た文政十年(一八二七)の翌年の文政十一年(一八二八)に「シーボルト事件」が勃発して、川原慶賀は連座しお咎めを受けている。
 さらに、天保十三年(一八四二)に、オランダ商館員の依頼で描いた長崎港図の船に当時長崎警備に当たっていた鍋島氏(佐賀藩)と細川氏(熊本藩)の家紋を描き入れたということで、これが国家機密漏洩と見做されて再び捕えられ、江戸及び長崎所払いの処分を受け、その後の動静というのは、ほとんど不明というのが、その真相である。
 こういう、その真相は藪の中という川原慶賀の、その後半生の生涯において、冒頭の、安政元年(一八五四)の頃の「魯西亜整儀写真鑑」(「Tojosky」のサインあり)は、万延元年(一八六〇)記の「賛」(中島広足の賛)がある「永島キク刀自絵図」(「長崎歴史文化博物館蔵」)と共に、貴重な絵図となってくる。

(参考その一) (その二十一)「川原慶賀の肖像画」周辺

「永島キク刀自絵像」(川原慶賀筆)長崎歴史文化博物館蔵

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-10-31

(参考その二) (その五)「ドゥーフ像」と「プロムホフ家族図」周辺

「長崎港図・ブロンホフ家族図」(川原慶賀筆)
「阿蘭陀加比丹並妻子之図・ブロンホフ家族図」(川原慶賀筆)
「ブロンホフ家族図」石崎融思筆
「ブロンホフ家族図」(川原慶賀筆?)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-09-07

蘭陀婦人の図.jpg

https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/403021
【「蘭陀婦人の図」→画者不詳(川原慶賀?)/大和屋版/長崎版画/江戸時代/19世紀前期/紙本木版色摺/36.3×24.8/1枚/文化14年(1817)に来日したコック・ブロンホフの妻子と乳母を描く。
来歴:池長孟→1951市立神戸美術館→1965市立南蛮美術館→1982神戸市立博物館
参考文献:
・板橋区立美術館『長崎版画と異国の面影』図録 2017
所蔵館: 神戸市立博物館             】(「文化遺産オンライン」)

(参考その三)『長崎土産』(磯野信春(文斎)著・画/長崎(今鍛冶屋町) : 大和屋由平/弘化4 刊[1847])周辺

https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00011733#?c=0&m=0&s=0&cv=1&r=0&xywh=-3786%2C77%2C13187%2C3744

「長崎土産― 京都大学貴重資料デジタルアーカイブ」(京都大学附属図書館 Main Library, Kyoto University)

https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/ru04/ru04_01476/index.html

「長崎土産 / 礒野信春 著併画」(「早稲田大学図書館 (Waseda University Library)」)

長崎土産.gif

「長崎土産 / 礒野信春 著併画」(「早稲田大学図書館 (Waseda University Library)」)
(11/43)

若き日のシーボルト先生とその従僕図.jpg

●作品名:若き日のシーボルト先生とその従僕図(川原慶賀筆)
●所蔵館:長崎歴史文化博物館 Nagasaki Museum of History and Culture
http://www.nmhc.jp/keiga01/kawaharasite/target/kgdetail.php?id=3731&cfcid=164&search_div=kglist

阿蘭陀人黒坊戯弄犬図.jpg

阿蘭陀人黒坊戯弄犬図(おらんだじんくろぼうぎろうけんず)(磯野文斎画?)
画者不詳/大和屋版/長崎版画/江戸時代/19世紀前期/紙本木版色摺/35.6×24.2/1枚/神戸市立博物館蔵(「文化遺産オンライン」)
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/378807

(参考その四)「長崎の合羽摺」周辺

【 合羽摺(かっぱずり)とは、浮世絵版画での彩色法である。
≪合羽摺前史≫
 木版画は単色摺が基本である。だが、上客からの要望もあり、彩色化が図られるようになる。最初は、摺った後に筆で着彩する方法が取られた。
 安房国の縫箔屋出身で、17世紀後半の江戸で活動した、菱川師宣の場合、版本や、「揃い物」に、着彩されている墨摺絵が現存する。その後、1741-42年(寛保元-2年)に、色版を用いた紅摺絵が、そして、1765年(明和2年)には、鈴木春信による多色摺、錦絵が登場する。
 一方、師宣以前の上方、つまり大坂と京は、「洛中洛外図屏風」や「寛文美人図」等、「近世風俗画」が盛んに描かれたが、これらが「上がりもの」として江戸に持ち込まれることによって、師宣の歌舞伎絵・美人画・春画を生むきっかけとなった。上方でも、版本から一枚摺が生まれ、墨摺絵に筆彩色する過程は同じだが、その次に登場したのが「合羽摺」であったのが、江戸との違いである。
≪合羽摺の手法と長短所≫
 「主版」(おもはん)、つまり最初に摺る輪郭線は版木を用いるが、色版は、防水加工した紙を刳り抜いて型紙とし、墨摺りした紙の上に置き、顔料をつけた刷毛を擦って彩色した。
 色数と同じだけの型紙を必要とする。防水紙を使用することから、「合羽」と呼ばれる。合羽摺の利点は、加工が容易であり、コストが安く、納期が早い、馬連を用いないので、錦絵より薄く安価な紙が使用できる点である。
 逆に欠点は、版木摺ほど細密な表現が出来ない、色むらが出やすい、重ね摺りすると、下の色は埋もれてしまう(版木の場合は、下の色を透かすことが可能。)、切り抜き箇所の縁に顔料が溜まりやすい、型紙が浮き上がり、顔料が外にはみ出すことがある、型紙を刳り抜くため、その内部に色を入れたくない部分がある場合は、「吊り」と呼ばれる、色を入れる箇所の一部を切り残す必要がある、安価な紙を用いた為、大切にされず、現存数が少なくなっただろう点である。
≪上方の合羽摺≫ (略)
≪長崎の合羽摺≫
 長崎絵でも、合羽摺が用いられた。唐人は新年を祝う為、唐寺で摺られた「年画」を家屋に貼る風習があり、それが周辺に住む日本人にも受け入れられ、江戸や上方とは異なり、版本から一枚絵に展開する過程を必要としなかった。
 現存する「長崎絵」最古のものは、寛保から寛延年間(1741-1751年)とされ、そのころから墨摺絵に手彩色することが始まり、天明年間(1781-1801年)頃に合羽摺が行われるようになる。天保年間(1830-44年)初頭、渓斎英泉の門人である、磯野文斎が版元「大和屋」に婿入りし、後に彫師・摺師を江戸から招くことにより、錦絵が齎された。但し他の版元では、合羽摺版行が続いた。
 画題は、江戸や上方と異なり、オランダ人や唐人の風貌や装束、彼らの風習、帆船や蒸気船、珍しい動物、出島図や唐人屋敷、唐寺など、長崎特有の異国情緒を催すものが描かれた。
 1858年(安政5年)の日米修好通商条約締結後、外国人居留地の中心が横浜に移ることにより、1860年(安政7・万延元年)には横浜絵が隆盛、文久年間(1861-64年)頃に、長崎絵の版行は終わったとされる。 】(「ウィキペディア」)

魯西亜船之図.jpg

「魯西亜船之図」(ろしあせんのず)/木版画 / 江戸/画者不詳 文錦堂版/長崎版画/江戸時代、文化2年/1805年/紙本木版に合羽摺/30.2×42.0/1枚/「文化元甲子年九月七日ヲロシヤ船長崎ニ初テ入津同二年三月十九日出船 其間ヲロシヤ人梅が崎ニ仮居ス」と上部にあり/
来歴:池長孟→1951市立神戸美術館→1965市立南蛮美術館→1982神戸市立博物館/参考文献:板橋区立美術館『長崎版画と異国の面影』図録 2017(「文化遺産オンライン」)

 これは、「文錦堂版」の「紙本木版に合羽摺」の作品で、「文化元甲子年九月七日ヲロシヤ船長崎ニ初テ入津同二年三月十九日出船 其間ヲロシヤ人梅が崎ニ仮居ス」との、文化元年(一八〇四)、ロシアのレザノフ使節渡来の際物絵(一時の流行・人気をあてこんで作った作品)の一つである。
 この作品の「版下絵師」は、文錦堂初代版元の「松尾齢右衛門(不明-1809/号=北虎・谷鵬)なのかも知れない。この「魯西亜船之図」が制作された頃は、川原慶賀がまだ二十歳前の、石崎融思門の絵師見習いの頃で、おそらく、磯野文斎も、江戸の渓斎英泉の門にあって、川原慶賀と同じような環境下にあったもののように思われる・
 この文錦堂の松尾齢右衛門が亡くなったのは文化六年(一八〇九)、その二代目が「松尾俊平」(1789-1859/号=谷鵬・紫溟・紫雲・虎渓)で、文錦堂の全盛期をつくった「版元兼版下絵師」である。

唐蘭風俗図屏風.jpg

「唐蘭風俗図屏風」谷鵬紫溟画/19世紀(江戸時代)/各 w270.1 x h121 cm/福岡市博物館蔵
https://artsandculture.google.com/asset/genre-screen-of-china-and-dutch-kokuho-shimei/FwGm1aFL3T4n9Q?hl=ja
≪ 赤、青、黄色の派手な色使いや、描かれた人物の素朴でキッチュな表現が強烈な輝きを放つ作品。向かって右隻は、成人の男女が見守るなか、獅子舞や凧あげなど正月の風俗を思わせる唐子遊びを中心にした中国風景が描かれる。対して左隻は、オランダの風俗を洋風表現を交えて描き出す。館の内部ではグラスを持つ女性を男性が抱き寄せているが、食卓に出されたヤギの頭まるごとの料理が見るものの度肝を抜く。屋外では音楽にあわせて子供たちが腕を広げて踊り、大人たちも気ままにたたずんでいる。両隻とも、男女のぺアと子供たちが主人公のようで、何かの祝祭を意味しているのかもしれない。
右端に描かれた虎図の衝立(ついたて)にこの屏風の作者である谷鵬紫溟(こくほうしめい)の落款がある。谷鵬紫溟の詳しい伝記は不明で、文化年間に版画を制作し、肖像画を得意とした長崎の洋風画家だったらしい。ところで、この屏風は、大縁(おおべり)、小縁(こべり)から各扇(せん)のつなぎ目まで全てが画家によって筆で描かれたいわゆる描き表装(かきひょうそう)で、そんな点にも江戸や秋田の洋風画とは異なった、谷鵬紫溟の強烈な個性が発揮されている。
【ID Number1989B00908】参考文献:『福岡市博物館名品図録』 ≫(「福岡市博物館」)

http://museum.city.fukuoka.jp/archives/leaflet/295/index02.html

≪唐蘭風俗図屏風(とうらんふうぞくずびょうぶ) 六曲一双 /谷鵬紫溟(こくほうしめい)筆/ 江戸時代/紙本着色/各132.6×271.0㎝
 人を驚かせる奇妙さと、どことなくまがいものめいたキッチュさでは当館随一の作品です。どこの国かというと、作品名にあるとおり、向かって右隻は中国、左はオランダです。  
 特に奇妙なのはオランダの風景。遠景はそれなりに西洋風ですが、手前の建物は瓦葺(かわらぶき)で日本的ですし、屋内の男女はヤギの頭まるごとの料理を前にしてグラス片手によりそい、なんだか訳がわかりません。作品全体は、お正月のお祝いのような祝祭をテーマに描かれているのかもしれません。作者の谷鵬紫溟は江戸後期に活躍した長崎派の画家です。想像力豊かに見たことのない異国の風俗を描いたのでしょう。描き方も陰影をつけた洋風表現です。普通は布地が貼られる屏風の縁や、なにも描かない蝶番の内側まで筆で文様を描いているところにも注目してください。≫(「福岡市博物館」)


(参考その五)「魯西亜人初テ来朝登城之図」周辺

第一 魯西亜人道中.jpg

第一 魯西亜人道中備大波戸より西御役所江罷出候図

第二 於書院魯西亜人.jpg

第二 於書院魯西亜人初度対話之図 

第三 於書院御料理.jpg

第三 於書院御料理被下之図

第四 於書院御料理被下候後応接之図.jpg

第四 於書院御料理被下候後応接之図

第五 於書院拝領物被下候図.jpg

第五 於書院拝領物被下候図

第七 内題.jpg

第七 内題(安政二乙卯年四月江戸御城江登城之節御老中若年寄御目付役立合応接之図)
(「神戸市立博物館蔵」)
≪「魯西亜人初テ来朝登城之図」(ろしあじんはじめてらいちょうとじょうのず)/文書・書籍 / 江戸/ 未詳/ 江戸時代後期/1855年/ 紙本著色/ 30.0×423.8/ 1巻/内題に「安政二乙卯年四月江戸御城江登城之節御老中若年寄御目付役立合応接之図」とあるが、この記載は誤り。
参考文献:・神戸市立博物館『神戸開港150年記念特別展 開国への潮流―開港前夜の兵庫と神戸―』図録、2017 ≫
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/379297
【(解説)
 本図巻は、嘉永6年(1853)に長崎に来航したロシア海軍中将プチャーチン一行の応接と交渉の様子を描いたものです。同年8月19日の国書手交から、12月14日以降の日本側全権筒井政憲・川路聖謨らとの会食や会談の様子を描きます。描かれる内容が、プチャーチンの長崎来航時の応接の様子を描いた早稲田大学図書館所蔵「魯西亜使節応接之図」にほぼ一致します。またプチャーチンは安政2年3月に日本を離れていることから、内題にある「安政二乙卯年四月江戸御城江登城之節御老中若年寄御目付役立合応接之図」との記載は誤りです。

第一 魯西亜人道中備大波戸より西御役所江罷出候図
 嘉永6年(1953)8月19日に、大波戸から長崎奉行所西御役所に向かうロシア隊の行列の様子。鼓笛隊、銃隊、海軍旗に続いてプチャーチン一行が現れます。海軍旗や兵士らが被る帽子には双頭の鷲のエンブレムがあしらわれています。この日、長崎奉行大澤定宅はプチャーチンと会見し、国書を受け取っています。

第二 於書院魯西亜人初度対話之図 
 同年12月14日、長崎奉行所西御役所書院において、日本側全権として派遣された大目付筒井政憲・勘定奉行川路聖謨らと、プチャーチン一行が初めて対面した様子。同様の図が描かれる早稲田大学図書館所蔵「魯西亜使節応接之図」と比較すると、画面中央奥に立つ2 人は恐らく長崎奉行の水野忠徳と大澤定宅で、その前に座る人物は恐らくオランダ語通詞の森山栄之助、ロシア側と対面する4人が奥から筒井・川路・目付荒尾成允・儒者古賀謹一郎、手前の後ろ向きの人物が左から御勘定組頭中村為弥、勘定評定所留役菊池大助、徒目付衆となります。

第三 於書院御料理被下之図
 同日、ロシア使節との会食の様子。筒井・川路のみが会食をともにしています。

第四 於書院御料理被下候後応接之図 
 同日、会食後に行われた応接の様子。奥に長崎奉行水野・大澤が座し、ロシア使節に対面する形で筒井・川路・荒尾・古賀の順に着座します。

第五 於書院拝領物被下候図
 同月18日、ロシア側へ贈呈品として、真綿と紅白の綸子(りんず)と呼ばれる滑らかで光沢のある絹織物が贈られました。  】(「文化遺産オンライン」)

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川原慶賀の世界(その二十八) [川原慶賀の世界]

(その二十八)「シーボルトと川原慶賀の江戸参府」周辺

「外国人の旅(シーボルト)」.jpg

「外国人の旅(シーボルト)」
https://www.hyogo-c.ed.jp/~rekihaku-bo/historystation/trip/html/diary/diary-edo.html

「江戸参府行程図」.gif

「江戸参府行程図」(「FLOS, 花, BLUME, FLOWER, 華,FLEUR, FLOR, ЦBETOK, FIORE」d)所収)
http://hanamoriyashiki.blogspot.com/2019/05/20-2-14ch-de-villeneuve.html

 上記の「江戸参府行程図」が紹介されているアドレスで、「オランダ商館長の江戸参府と鞆の浦」(矢田純子稿・比較日本学教育研究センター研究年報第6号)が、「シーボルトと川原慶賀の江戸参府」周辺に関して、次のように記述している。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-07-11
(再掲)

【「オランダ商館長の江戸参府と鞆の浦」(矢田純子稿・比較日本学教育研究センター研究年報第6号)

≪ 江戸参府は、オランダ商館長が江戸へ行き将軍に拝謁し、献上品を送ることで、寛永十年(1633)以来恒例となる。寛文元年(1661)以降、旧暦正月に長崎を出発し、三月朔日前後に拝謁するよう改められ、寛政二年(1790)からは4年に1回となり、嘉永三年(1850)が最後の参府となる。
 参府の経路を述べると、当初は長崎から平戸を経由し海路下関に向かっていたが、万治二年(1659)以降、長崎から小倉までは陸路となり、小倉から下関、下関から兵庫は海路で、兵庫-大坂から陸路で江戸へ向かっていた。下関から兵庫は順風であると約8日間を要した(【第1図】=上記図の原図)。
 なお経路はその年により多少の変動がある。参府旅行全体には平均90日前後を要し、江戸には2、3週間滞在していた。旅行の最長記録は以下で取り上げる文政九年(1826)の事例で、商館長スチュルレル一行が143日間をかけて参府旅行を行った。
 また、小倉では大坂屋善五郎、下関では伊藤杢之丞、佐甲三郎右衛門(隔年交代)、大坂では長崎屋五郎兵衛、京都で海老屋余右衛門、江戸においては長崎屋源右衛門というように、5つの都市には定宿が存在していた。≫

 上記の論稿の「商館長スチュルレル一行が143日間をかけて参府旅行」の、この紀行が、「シーボルド・川原慶賀」らが参加した「文政九年(1826)」の江戸参府紀行で、その「使節(公使)」の「オランダ商館長」は「スチュルレル(大佐)」(シュトューラー)、その随行員の「医師(外科)、生物学・民俗学・地理学に造詣の深い博物学者」が「シーボルト(大尉)」(ジ~ボルド)、もう一人の「書記」が「ビュルガル(薬剤師)」(ビュルガー)で、生物学・鉱物学・化学などに造詣が深く、シーボルドの片腕として同道している(もう一人、画家の「フィルヌーヴ」(フィレネーフェ)をシーボルドは同道させようとしたが、「西洋人」枠は三人で実現せず、その代役が、出島出入りを許可されている「町絵師・川原慶賀」ということになる)。 】

 そして、この「商館長スチュルレル一行(シーボルト・川原慶賀ら)が143日間をかけて参府旅行」に関連しては、下記のアドレスで、その全行程のあらましについて見てきた。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-07-10

(その一)「シーボルト江戸参府紀行日程」(「1826年(文政9年)」)周辺

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-07-10

(その十三)「大阪から長崎への帰路」周辺
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-07-28

 ここで、これまでの、この(その一)から(その十三)までを踏まえて、下記の(別記)に、「シーボルトと川原慶賀」に焦点を当てて、その「全行程」などを、新しい、川原慶賀の絵図などを入れて、再掲(再現)をして置きたい。

(別記その一)「シーボルト江戸参府紀行日程(1826年(文政9年)」周辺(一部要約抜粋)
≪参考文献:「江戸参府紀行 ジーボルト著 斎藤信訳(平凡社)」「シーボルト 板沢武雄著(吉川弘文館)」≫
http://www5e.biglobe.ne.jp/~masaji/lolietravel/capitan/index.html

日数 西暦  和暦 天候  行程       日誌

(その一)「シーボルト江戸参府紀行日程」(「1826年(文政9年)」)周辺
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-07-10

(その四)「長崎・出島」」―「小倉・下関」周辺
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-07-15

1  2/15   1/9  晴 出島-諫早     威福寺での別れの宴など
2  2/16  1/10 晴 諫早-大村-彼杵  大村の真珠・天然痘の隔離など

江戸参府紀行一.jpg

●作品名:大村(千綿)付近 ●Title:A view of Omura, Chiwada
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館  National Museum of Ethnology, Leiden

3  2/17  1/11    彼杵-嬉野-塚崎(武雄)嬉野と塚崎の温泉など 
4  2/18  1/12 晴  塚崎-小田-佐賀-神崎 小田の馬頭観音・佐賀など
5  2/19  1/13 晴  神崎-山家 筑後川流域の農業・筑前藩主別荘など
6   2/20  1/14 雨 山家-木屋瀬 内陸部高地の住民など
7  2/21  1/15 雨 木屋瀬-小倉   渡り鳥の捕獲

小倉引島.jpg

●作品名:小倉引島 ●Title:Hikeshima, Kokura
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館  National Museum of Ethnology, Leiden

8  2/22  1/16 晴 小倉-下関    小倉の市場・与次兵衛瀬記念碑など

(その五)「下関」周辺
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-07-17

9  2/23  1/17 晴 下関滞在     門人の来訪・カニの眼
10  2/24  1/18  晴 下関 早鞆岬と阿弥陀寺・安德天皇廟など
11  2/25  1/19  晴 下関 萩の富豪熊谷五右衛門義比など
12  2/26   1/20 晴 下関 門人・知友来訪・病人診療と手術など
13  2/27  1/21 晴 下関 近郊の散策・六連島・捕鯨について
14  2/28   1/22 晴 下関 薬品応手録・コーヒーの輸入など
15  3/1    1/23 晴 下関 正午過ぎ乗船 ブロムホフの詩・下関の市街など
16  3/2    1/24 晴 下関出帆  


(その六)「下関から室津上陸」周辺
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-07-20

下関(竹崎付近).jpg

●作品名:下関(竹崎付近) ●Title:A view of Shimonoseki, Takesaki
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden

17  3/3   1/25  晴  船中 夜風強まり屋代島の近くに舟をつなぐ
18  3/4   1/26  晴  屋代島の東南牛首崎に上陸・象の臼歯化石発見・三原沖に停泊
19  3/5   1/27  晴  船中 水島灘・阿伏兎観音・琴平山・内海の景観・日比に停泊
20  3/6   1/28  晴  早朝上陸 日比の塩田と製塩法
21  3/7   1/29  晴  日比-室津上陸  室のホテル(建築様式・家具など)
22  3/8   1/30  晴  室滞在 室の付近について・娼家・室明神・室の産物

室津長風図.jpg

作品名:室津長風図 ●Title:A view of Murotu
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden

23  3/9   2/1 晴  夜雪  室-姫路 肥料・穢多・非人・大名の献上品など
24  3/10   2/2 雪 姫路-加古川 高砂の角力者の招待

雪景色一.jpg

●作品名:雪景色一 ●Title:Snowscape
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden

雪景色二.jpg

●作品名:雪景色二 ●Title:Snowscape
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden

25  3/11   2/3 晴   加古川-兵庫 敦盛そば・兵庫の侍医某来訪
26  3/12   2/4 晴  兵庫-西宮 楠正成の墓・生田明神
27  3/13   2/5 吹雪  西宮-大坂  

(その七)「大阪・京都の滞在」周辺
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-07-21

28  3/14   2/6 快晴  大坂滞在 多数の医師来訪・薬品応手録印刷できる

大阪城).gif

≪フォート大阪(※Fort Osaka=大阪城)/ 製造年:1669/ 製造場所:アムステルダム/
源/388 A 6 コニンクリケ図書館/著作権:情報: Koninklijke Bibliotheek          
https://geheugen.delpher.nl/nl/geheugen/view/fort-osaka?facets%5BcollectionStringNL%5D%5B%5D=Nederland+-+Japan&page=2&maxperpage=36&coll=ngvn&identifier=KONB11%3A388A6-NA-P-272-GRAV  ≫

29  3/15   2/7 晴   大坂 二、三の手術を行なう・動脈瘤
30  3/16   2/8 晴   大坂 鹿の畸形・飛脚便について
31  3/17   2/9 晴  大坂-伏見 淀川の灌漑など
32  3/18   2/10 晴 伏見-京都 小森玄良、新宮涼庭らと会う
33  3/19   2/11 晴 京都滞在 小森玄良、小倉中納言来訪

京都の全景.gif

≪「京都の全景」(『日本 : 日本とその隣国、保護国-蝦夷・南千島列島・樺太・朝鮮・琉球諸島-の記録集。日本とヨーロッパの文書および自己の観察による。』(雄松堂書店, 1977-1979)「図113」)
http://hdl.handle.net/2324/1000295399
復刻版『Nippon : Archiv zur Beschreibung von Japan』(講談社, 1975)
http://hdl.handle.net/2324/1000951631     ≫

34  3/20   2/12 晴 京都 多数の医師が病人を伴って来る
35  3/21   2/13 晴 京都 来訪者多数・名所見物を帰路に延ばす
36  3/22   2/14 晴 京都 二条城・京都は美術工芸の中心地
37  3/23   2/15 晴 京都 天文台・京都の人口
38  3/24   2/16 晴 京都 明日の出発準備

(その八)「京都より江戸への旅行」周辺
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-07-22

39  3/25   2/17 晴 京都-草津 日付はないが琵琶湖付近の風景の記述

琵琶湖の景.gif

『日本』に掲載されている「琵琶湖の景」(Nippon Atlas. 5-p30)
https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_detail_md/?lang=0&amode=MD820&bibid=1906469#?c=0&m=0&s=0&cv=29&r=0&xywh=-428%2C0%2C4682%2C5229

瀬田川と瀬田橋の景.gif

『日本』に掲載されている「瀬田川と瀬田橋の景」(Nippon Atlas. 5-p29)
https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_detail_md/?lang=0&amode=MD820&bibid=1906469#?c=0&m=0&s=0&cv=28&r=0&xywh=288%2C799%2C3251%2C3631

40  3/26   2/18 晴  草津-土山 梅木の売薬・植物採集の依頼・三宝荒神
41  3/27   2/19 晴  土山-四日市 鈴鹿山のサンショウウオ
42  3/28   2/20    四日市-佐屋(原文 Yazu)二度の収穫・桑名の鋳物

桑名城 .jpg

●作品名:桑名城  ●Title:A view of the Kuwana Castle
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden

43  3/29   2/21 晴  佐屋-宮-池鯉鮒 水谷助六・伊藤圭介・大河内存真同行
44  3/30   2/22 晴  池鯉鮒-吉田 矢矧橋

矢矧橋.jpg

●作品名:矢矧橋 ●Title:Yabiki bridge
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden

45  3/31  2/23 曇・雨空  吉田-浜松 雲母の採集・白魚
46  4/1   2/24 晴   浜松-掛川 秋葉山・商館長ヘンミーの墓
47  4/2   2/25 晴・寒  掛川-大井川-藤枝 大井川の渡河・川人足
48  4/3   2/26 強雨 藤枝-府中 軟骨魚類の加工・駿府の木細工と編細工
49  4/4   2/27 晴 府中-沖津 沖津川増水・上席検使に化学実験を見せる
50  4/5   2/28 快晴 沖津-蒲原 製紙・急造の橋
51  4/6   2/29 快晴 蒲原-沼津 富士川の舟・富士山高度・原の植松氏の庭園

原の植松氏庭園.jpg

●作品名:原の植松氏庭園 ●Title:A view of Uematu's garden
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden

52  4/7   3/1 晴 沼津-箱根-小田原 中津侯家臣神谷源内一行の出迎え

箱根の湖水(上図)・富士山と富士川(下図).gif

『日本』に掲載されている「箱根の湖水(上図)・富士山と富士川(下図)」(Nippon Atlas. 5-p32)
https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_detail_md/?lang=0&amode=MD820&bibid=1906469#?c=0&m=0&s=0&cv=31&r=0&xywh=564%2C895%2C2709%2C3026

53  4/8   3/2 雨  小田原-藤原 旅館満員で娼家に泊まる
54  4/9   3/3 晴  藤沢-川崎 長崎屋源右衛門出迎え
55  4/10   3/4 晴  川崎-江戸 薩摩中津両侯大森で、桂川甫賢ら品川で出迎え

(その九)「江戸滞在」周辺
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-07-23

56  4/11 3/5 江戸滞在 面会ゆるされず、桂川甫賢・神谷源内・大槻玄沢ら来訪

江戸の全景.gif

≪「江戸の全景」(『日本 : 日本とその隣国、保護国-蝦夷・南千島列島・樺太・朝鮮・琉球諸島-の記録集。日本とヨーロッパの文書および自己の観察による。』(雄松堂書店, 1977-1979)「図123」)
http://hdl.handle.net/2324/1000295399
復刻版『Nippon : Archiv zur Beschreibung von Japan』(講談社, 1975)
http://hdl.handle.net/2324/1000951631    ≫

永代橋より江戸の港と町を望む.gif

『日本』に掲載されている「永代橋より江戸の港と町を望む」(Nippon Atlas. 5-p33)
https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_detail_md/?reqCode=frombib&lang=0&amode=MD820&opkey=&bibid=1906469&start=&bbinfo_disp=0#?c=0&m=0&s=0&cv=34&r=0&xywh=-428%2C0%2C4682%2C5229

57  4/12 3/6 江戸 終日荷解き・薩摩侯より贈物・夜中津侯来訪
58  4/13 3/7 江戸 桂川甫賢、宇田川榕庵から乾腊植物をもらう
59  4/14 3/8 江戸 将軍、その世子への献上品を発送
60  4/15 3/9 江戸 中津島津両侯の正式訪問・日本の貴族
61  4/16 3/10 江戸 最上德内来訪、エゾ、カラフトの地図を借りる 

最上徳内肖像画(比較図).gif

「最上徳内肖像画(合成図)」
左図: 「最上徳内」(シーボルト『日本』図版第1冊46)(「福岡県立図書館」蔵)
https://trc-adeac.trc.co.jp/Html/home/4000115100/topg/theme/siebold/nippon.html
右図:「最上徳内肖像」(SAB→「フォン・ブランデンシュタイン=ツェッペリン家」蔵)
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-08-29

62  4/17  3/11  江戸 桂川甫賢・大槻玄沢来訪
63  4/18  3/12  江戸 高橋作左衛門来訪
64  4/19  3/13  江戸 桂川甫賢来訪し、シーボルトの長期滞在の見通しを伝える
65  4/20  3/14  江戸 豚の眼の解剖など手術の講義・地震など
66  4/21  3/15  江戸 最上德内とエゾ語を研究・謁見延期となる
67  4/22  3/16  江戸 付添いの検使、研究に対して好意を示す
68  4/23  3/17  江戸 幕府の医師に種痘を説明
69  4/24  3/18  江戸 天文方の人びと来訪
70  4/25  3/19  江戸 将軍家侍医にベラドンナで瞳孔を開く実験をみせる
71  4/26  3/20  江戸 兎唇の手術・種痘の方法を教える
72  4/27  3/21  江戸 再び二人の子供に種痘
73  4/28  3/22  江戸 ラッコの毛皮を売りにくる
74  4/29  3/23  江戸 天文方来訪
75  4/30  3/24  江戸 幕府の侍医らジーボルトの長期江戸滞在の幕府申請など
76  5/1  3/25  江戸 登城し将軍に拝謁・拝礼の予行と本番など
77  5/2  3/26  江戸 町奉行・寺社奉行を訪問
78  5/3  3/27  江戸 庶民階級の日本人との交際
79  5/4  3/28  江戸 将軍および世子に暇乞いのため謁見・江戸府中の巡察など
80  5/5  3/29  江戸 使節の公式の行列
81  5/6  3/30  江戸 官医来訪
82  5/7  4/1   江戸 中津侯、グロビウス(高橋作左衛門)来訪
83  5/8  4/2   江戸 漢方医がジーボルトの江戸滞在延期に反対するという
84  5/9  4/3   江戸 知友多数来訪〔10以後記事を欠く〕

「渡辺崋山の戯画に描かれたビュルゲル」.gif

「渡辺崋山の戯画に描かれたビュルゲル」抜粋(「ウィキペディア」)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%

85  5/10  4/4 江戸  
86  5/11  4/5 江戸  
87  5/12  4/6 江戸  
88  5/13  4/7 江戸  
89  5/14  4/8 江戸  
90  5/15  4/9 江戸 高橋作左衛門が日本地図を示し、後日これを贈ることを約す
91  5/16  4/10 江戸 滞在延期の望みなくなる
92  5/17  4/11 江戸 明日江戸出発と決まる

(その十)「江戸より京都への帰路」周辺
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-07-24

93  5/18  4/12 晴 江戸-川崎 江戸の富士
94  5/19  4/13 晴 川崎-藤沢 鶴見付近のナシの棚
95  5/20  4/14 晴 藤沢-小田原  
96  5/21  4/15 曇 小田原-三島 山崎で江戸から同行した最上德内と別れる
97  5/22  4/16 曇 三島-蒲原 再び植松氏の庭園をみる 

吉原付近.jpg

●作品名:吉原付近 ●Title:A view of Yoshiwara
●分類/classification:旅・江戸参府/Travering to Edo
●形状・形態/form:紙本彩色、めくり/painting on paper, sheet
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館  National Museum of Ethnology, Leiden

98   5/23 4/17 晴   蒲原-府中 牛車について
99  5/24 4/18 晴   府中-日坂 薬用植物のこと
100  5/25 4/19 曇  日坂-浜松 高良斎の兄弟来る
101  5/26 4/20 晴  浜松-赤坂 植物採集とその整理
102  5/27 4/21 豪雨 赤坂-宮 宮で水谷・伊藤らと会う
103  5/28 4/22 晴 宮-桑名-四日市 宮の渡し舟のこと
104  5/29 4/23 晴 四日市-関  
105  5/30 4/24 強雨 関-石部 夏目村の噴泉
106  5/31 4/25 晴 石部-大津 川辺の善性寺の庭・タケの杖・瓦の製法
107  6/1 4/26 曇 大津-京都  

(その十一)「京都滞在と大阪への帰路」周辺
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-07-25

108  6/2 4/27 晴 京都滞在 友人門人、小森、新宮ら来訪・京都特に宮廷など
109  6/3 4/28 晴 京都 宮廷に関する記事
110  6/4 4/29 晴 京都 小森玄良から宮廷の衣裳の話
111  6/5 4/30 晴 京都 小森の家族と過ごす
112  6/6 5/1 晴 京都 所司代・町奉行を訪問
113  6/7 5/2 晴 京都-伏見-大坂 知恩院・祗園社・清水寺・三十三間堂など

京都祇園社.jpg

●作品名:京都祇園社 ●Title:Gionshya shrine, Kyoto
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden

北野天満宮.jpg

●作品名:北野天満宮 ●Title:A view of the Kitano Shrine
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden

石清水八幡.jpg

●作品名:石清水八幡 ●Title:A view of the Iwashimizuhachiman Shrine
●分類/classification:旅・江戸参府/Traveling to Edo
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden

(その十二)「大阪滞在」周辺
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-07-27

114  6/8 5/3 晴 大坂滞在 大坂についての記述
115  6/9 5/4 晴 大坂 研究用品の購入と注文
116  6/10 5/5 晴 大坂 心斎橋・天下茶屋・住吉明神・天王寺など
117  6/11 5/6 晴 大坂 町奉行および製銅家を訪問
118  6/12 5/7 晴 大坂 芝居見物・日本の劇場・妹背山の芝居
シイボルト觀劇圖并シイボルト自筆人參圖.jpg

シイボルト觀劇圖并シイボルト自筆人參圖」(「国立国会図書館デジタルコレクション)
[江戸後期] [写] 1軸(「左側の黒い服を着た人物がシーボルト」「中央の人物(足首を捻挫している)がスチュルレル」「右側の人物がビュルガー(ビュルゲル)」
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-08-24

119  6/13 5/8 晴 大坂 来訪者多数・明日は出発

(その十三)「大阪から長崎への帰路」周辺
https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-07-28

120  6/14 5/9 晴  大坂-西宮 肥料船のこと
121  6/15 5/10 晴  西宮-兵庫  
122  6/16 5/11 兵庫 向い風のため出帆延期
123  6/17 5/12 兵庫 向い風のため出帆延期
124  6/18 5/13 兵庫 向い風のため出帆延期
125  6/19 5/14 夜兵庫を出帆
126  6/20 5/15 船中 朝 室の沖合で経度観測
127  6/21 5/16 船中 朝に室の沖合-正午与島にゆく・造船所など
128  6/22 5/17 船中 夜備後の海岸に向かって進み、陸地近くに停泊
129  6/23 5/18 船中 引き船で鞆に入港・正午上陸・夜半に港外へ
130  6/24 5/19 船中 島から島へ進み、夕方御手洗沖・夜半停泊
131  6/25 5/20 船中 御手洗より患者が来て診察をもとむ・家室島の近くに停泊
132  6/26 5/21 船中 風雨強く午後出帆し、上関瀬戸を経て夜上関入港

瀬戸内海(上関・沖の家室).gif

●作品名:瀬戸内海(上関・沖の家室) ●Title:A view of Setonaikai, The Inland Sea
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館 National Museum of Ethnology, Leiden

133  6/27 5/22 上陸し上関見物・室津へゆく・夜出港
134  6/28 5/23 船中 午後二時過ぎ下関入港
135  6/29 5/24 下関滞在 海峡の図を受け取る・友人来訪

下関 竹崎付近の景.gif

『日本』に掲載されている「下関 竹崎付近の景」(Nippon Atlas. 5-p15)
https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_detail_md/?lang=0&amode=MD820&bibid=1906469#?c=0&m=0&s=0&cv=14&r=0&xywh=-428%2C0%2C4682%2C5229

136  6/30 5/25 下関-小倉  
137  7/1 5 /26  小倉-飯塚  
138  7/2 5/27  飯塚-田代  
139  7/3 5/28  田代-牛津   
140  7/4 5/29  牛津- 嬉野  
141  7/5 6/1   嬉野-大村 出島の友人みな元気との知らせを受ける
142  7/6 6/2  大村-矢上 出迎えの人その数を増す
143  7/7 6/3   矢上-出島 正、同郷人に迎えられ出島につく

(別記その二)「出島商館長江戸参府行列図」周辺

江戸参府行列図.gif

「江戸参府行列図(医師=シーボルトが乗っている駕籠)」
http://blog.livedoor.jp/toyonut/archives/1475250.html

(再掲)

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-07-12

【 この「江戸参府行列図」(第31図)などは、「シーボルト『日本』の研究と解説(講談社)」所収の「1826年の『江戸参府紀行』(斎藤信稿)」などを参考にすると、次のようである。

 この図(第31図)の、前方の「駕籠」には、「小通詞・岩崎弥十郎」が乗っている。「駕籠かき(人)」は二人、「従僕」(「公設」「私設」かは不明?)は一人である。その後ろの「両掛」(旅行用の行李の一種。また、それを担ぐこと)は、「小通詞・岩崎弥十郎」の「荷物」と「荷物を担ぐ人」(人夫?)ということになる。
 そして、その後ろの「駕籠」には、「公式使節団の一員の『医師』のシーボルト」が乗っている。その「駕籠かき(人)」は四人、「従僕」(「公設」か「私設」かは不明?)は二人、その「「両掛」(旅行用の行李の一種。また、それを担ぐこと)」は、次の図(第32図)に描かれている。)

ここで、「出島商館長江戸参府行列図」の、その「行列」順序は、凡そ次のとおりとなる・

一 「献上品」(「献上品」を担ぐ「馬」と「人夫」)
二 「宰領」(「付添検使」下の「世話人」の一人、乗馬している。「第4図」)
三 「小通詞と医師の図」(上記の「第31図」)
四 「書記の図」(第32図)
五 「使節(商館長)の図」(第33図)
六 「付添検使=」(第37図)
(他に、「総数、四十五図」から成る。) 

(別記)「一八二六年(文政9年)の江戸参府紀行の序」(抜粋)

「シーボルト 江戸参府紀行(1)」

https://plaza.rakuten.co.jp/miharasi/diary/202203280000/

≪ 一八二六年(文政9年)の江戸参府紀行の序

概要

……旅行の準備
……江戸滞在の延長計画
……蘭印政庁の後援
……※日本人との深い理解・公使の不機嫌
……※和蘭使節の一行
……※日本の通詞およびその他の従者の描写
……使用人
……旅行具ならびに他の機具類の装備
……和蘭使節の特権
……ヨーロッパの使節に対する日本的格式の不適当な応用
……旅行進捗の方途・駕寵・挿箱・荷馬・荷牛・駕寵かき
……荷物運搬入についての記述
……郵便制度・運搬人および馬に対する価格の公定
……郵便および飛脚便
……狼煙打上げ式信号
……旅館および宿舎
……浴場
……茶屋など
……国境の警備
……橋
……航海および航海術・造船・造船所・港
……河の舟行
……運河
……堤防   

……※日本人との深い理解・公使の不機嫌(抜粋)
 私が公使ドゥ・スチュルレル大佐から期待したものは、そんなものではなかった。
私は悲しい思いでそのことを告白せざるをえないのであるが、この男はジャワにおいては私の使命に対してたいへん同情をよせ、非常な熱の入れ方で援助を借しまなかったのに、今この日本に来てしまってからは、みずから私の企てに関連していたすべてのことに対して、ただ無関心であったり冷淡であったばかりでなく、無遠慮にも妨害を続けて頓挫させ、困難におとしいれようとさえしたのである。このような不機嫌の原因は何にあったのか。
 政庁の指示によって私の活動範囲が拡大され、私の学問研究にこれまで以上の自主性が重んじられたことによって、よしんぱ彼自身の計画に齟齬(そご)を来たさなかったにせよ、おそらく彼の利害関係を損ったことに、その原因があったのか。
あるいは貿易改善のために彼が行なった提案に対して、政庁があまり都合のよくない決定を下し、それがもとで不満もつのり、それに病弱も加わって、こうした変化をひき起こしたのかどうか、私には判断を下すことができない。しかしいずれにせよ、彼が最初に日本研究のための私の使命と準備とに対して寄せていた功績は、何といっても忘れることができないのである。そして、私は感謝の念をこめてそれを認めるのにやぶさかではない。
(『江戸参府紀行(シーボルト著・斎藤信訳、東洋文庫87:平凡社)』p7)

……※和蘭使節の一行(抜粋)
 先例によると、江戸旅行のわれわれ側の人員は、公使となる商館長と書記と医師のわずか3人ということがわかっていた。私はできることならビュルガー氏とドウ・フィレネーフエ氏を同伴したかったのであるが、今度はとても無理であった。そこでいろいろ面倒な手だてを重ねて、やっとピュルガー氏を書記の肩書で連れていくことが許されるようになった。日本人随員の身分についてはなお若干の所見を加えさせていただきたい。
(『江戸参府紀行(シーボルト著・斎藤信訳、東洋文庫87:平凡社)』p8)

……※日本の通詞およびその他の従者の描写(抜粋)

 (大通詞)
 本来の日本人は外国人との交渉もなく、自国の風習に応じてしつけられ教育されているので……出島でわれわれと交際しているこのような日本人と通詞とが話題にのぼる場合には、こういう相違にいつも留意しなければならない。
 この旅行で重要な役割を演じ、現金の出納を担当し、給人と連帯して政治・外交の業務を行なう大通詞として末永甚左衛門がわれわれに同行した。60歳に近く、立派な教養といくらかの学問的知識をもっていた。彼はオランダ人との貿易には経験も多く、さらに貿易にかこつけて巧みにそれを利用した。
日本流の事務処理にすぐれた能力があり、賢明で悪知恵もあった。また同時に追従に近いほど頭も低く、洗練された外貌をもち非常に親切でもあった。そのうえ物惜しみはしないが倹約家で、不遜という程ではないが自信家であった。甚左衛門は、出島にいる大部分の同僚と同じように、少年時代に通詞の生活にはいり、オランダの習慣に馴れていて、通詞式のオランダ語を上手に話したり書いたりした。フォン・レザノフおよびフォン・クルーゼンシュテルンの率いるロシアの使節が来た時(1804~05年)に、特にペリュー卿の事件(1890年)の際に、彼は幕府のためにたいん役に立ったので、長崎奉行の信望もあつく、恵まれた家庭的な境遇のうちに暮らしていた。
彼は小柄で痩せていたし、少し曲がった鼻と異状な大きさの眼をし、顎(あご)は尖っていた。非常に真面目な話をする時に、彼の口は歪んで微笑しているような表情となり、普段はそういう微笑でわざとらしい親愛の情をあらわすので、鋭い輪郭をした彼の顔は、なおいっそう人目をひき、目立つのである。彼の顔色は黄色い上に土色をおびていた。剃った頭のてっぺんは禿げて光り、うえに上を向いた薄い髷(まげ)がかたく油でかためて乗っていた。

(小通詞)
 小通詞は岩瀬弥十郎といった。彼は60歳を少々越していて、体格やら身のこなし方など多くの点でわれわれの甚左衛門に似ていた。ひどいわし鼻で、両その方の眼瞼(まぶた)はたるみ顎は長く、口は左の笑筋が麻痺していたので、いつもゆがんで笑っているように見えた。大きな耳と喉頭の肥大は彼の顔つきを特徴づけていた。彼は自分の職務に通じていて精励し、旧いしきたりを固くまもった。彼は卑屈なくらい礼儀正しく、同時に賢明だったが、ずるささえ感じられた。しかしそれを彼は正直な外貌でつつんでいたし、また非常にていねいなお辞儀をし、親切で愛想もよく、駆け足と言ってよいぐらいに速く歩いた。
 彼の息子の岩瀬弥七郎はたいそう父親似であった。ただ父は病気と年齢のせいで弱かったのに対し、息子の方は気力に欠けた若者だった点が違っていた。そうはいうものの噂では彼は善良な人間で、お辞儀をすることにかけてはほとんど父に劣らず、何事によらず「ヘイヘイ」と答えた。彼は世情に通じていたし、女性を軽視しなかった。女性だちといっしょにいるとき、彼はいつでもおもしろい思いつきをもっていた。またわれわれに対してはたいへん親切で日常生活では重宝がられた。彼は今度は父の仕事を手伝うために、父の費用で旅行した。

 (公使=商館長の「私設通詞」)
 公使の私的な通訳として、野村八太郎とあるが、NAMURA(名村)の誤り〕とかいう人がわれわれに随行した。当時われわれと接していた日本人のうちで、もっとも才能に恵まれ練達した人のひとりであったことは確かである。彼は母国語のみならず支那語やオランダ語に造詣が深く、日本とその制度・風俗習慣にも明るく、たいへん話好きで、そのうえ朗らかだった。彼の父は大通詞だったが、退職していた。だから、父が存命していて国から給料をもらっている間は、息子の方は無給で勤めなければならなかったし、そのうえ息子八太郎は相当な道楽者だったから、少しでも多くの収入が必要だったのに、実際にはわずかしかなかった。信用は少なく、借金は多かった。二、三のオランダの役人と組んで投機をやり、いくばくかの生計の資を得ていた。彼自身はお金の値打ちを知らなかったが、お金のためにはなんでもやった。われわれの間で彼を雇ってやると、たいそう満足したし、それで利益があると思えば、いつもどんな仕事でもやってのけた。彼は痩せていて大きな体格をしていた。幅の広い円い顔にはアバタがいっぱいあったし、鼻はつぶれたような格好をしていたし、顎は病的に短く、大きな口の上唇はそり返り、そこから出歯が飛び出して、彼の顔の醜さには非の打ちどころがなかった。

 (付添検使=御番上使=給人)
 日本人の同伴者のうちで最も身分の高い人物は給人で、御番上使とも呼ばれ、出島ではオッペルバンジョーストという名で知られていた。彼の支配下に三人の下級武士がいて、そのうちのひとりはオランダ船が長崎湾に停泊している時には見張りに当たるので、船番と呼ばれていた。それからふたりの町使で、これは元来わが方の警察官の業務を行なう。船番の方は出島では、普通オンデルバンジョーストは「下級」の意〕と呼ばれ、町使の方は出島の住人にはバンジョーストという名でと名づている。長崎奉行の下には通常一〇名の給人がいる。大部分は江戸から来ている警察官〔役人のこと〕で、公務を執行している。彼らは国から給料を受けていない。彼らが役所からもらっている給金はごくわずかだが、彼らが……合法と非合法とによって受けとる副収入はなおいっそう多かった。貿易の期間中、彼らは出島で交替に役目についた。彼らは重要な業務において奉行の代理をつとめるから、貿易並びにわれわれ個人の自由に対し多大の影響を与えた。輸出入に関しては彼らはわれわれの国の税関吏と同様に全権を委ねられ、従って密貿易の鍵を手中におさめていた。そういうわけだから、彼らは奉行所の書記や町年寄の了解のもとで、密輸に少なからず手加減を加えた。
長崎奉行のこういう役人のひとりが例の給人で、今度の旅行でわれわれに随行することになっていた。役所は彼に厳命を下し、その実行に責任をもたせ、彼に日記をつけさせ、旅行が終わったとき提出させた。われわれに同行するそのほかの武士や通詞たちも、互いに監視し合う目的で日記帳を用意しておく責任があった。
それゆえ彼らは手本として、また旧習を重んずる意味で以前の参府旅行の日記を携えてゆき、疑わしい場合にはそれを参考にして解明していくのである。我々は我々と行をともにする給人一名をカワサキ・ゲンソウ(Kawasaki GenzO)といった……を賢明で勇気ある男として知り合っていた。
 彼の部下たちは彼を手本として行動した。上述の通詞や武士たちのほかに、四人の筆者と二人の宰領・荷物運搬人夫の監督一人・役所の小使7人・われわれのための料理人2人・日本の役人の仕事をする小者31人と料理人1人、従って随員は日本人合計57名であった。

 (従者)
 われわれの従者は誠実で信用のおける人々であった。彼らは若いころから出島に出仕していた。彼らのうちで年輩のものは、かつて上司の指揮のもとでこういう旅行に加わった経験があって、旅行中すばらしく気転がきき、職務上や礼儀作法にかかわるいっさいに通じていた。また彼らは、わかりやすいオランダ語を話したり書いたりした。

 (シーボルトの「私設従者」など)
 私の研究調査を援助してもらうために、私はなお2、3の人物を遮れて行った。彼らのうち一番初めには高良斎(注・阿波出身の医師、「鳴滝塾」出身)をあげるが、彼はこの2年来私のもっとも熱心な門人に数えられていたひとで、四国の阿波出身の若い医師であり、特に眼科の研究に熱心であった。けれども私か彼をえらぶ決心をしたのは、日本の植物学に対するかれの深くかつ広範な知識と、漢学に造詣が深くオランダ語が巧みであったこと、さらにまた彼が信頼に値し誠実であったからである。彼は私によく仕えた。私が多くの重要なレポートを得たのは、彼のおかげであるといわざるをえない。
画家としては登与助(注・「川原慶賀」)か私に随行した。彼は長崎出身の非常にすぐれた芸術家で、とくに植物の写生に特異な腕をもち、人物画や風景画にもすでにヨーロッパの手法をとり入れはじめていた。彼が描いたたくさんの絵は私の著作の中で彼の功績が真実であることを物っている。
 乾譜標本や獣皮の作製などの仕事は弁之助とコマキ〔これは熊吉の誤り〕にやらせた。私の召使のうちのふたりで、こういう仕事をよく教えこんでおいたのである。
これらの人々のほかにひとりの園丁と三人の私の門人が供に加わった。それは医師の敬作(注・「二宮敬作」=宇和島の医師、「鳴滝塾」出身)・ショウゲン(注・宗氏の家臣の古川将監?・「鳴滝塾」出身?)・ケイタロウ(通詞の西慶太郎?・「鳴滝塾」出身?=後に長崎医学校の教官)の三人で、彼らは助手として私に同行する許可がえられなかったので、上に述べた通訳たちの従者という名目で旅行に加わった。彼らは貧乏だったので、私は彼らの勤めぶりに応じて援助してやった。私は2、3人の猟師を長綺の近郊でひそかに使っていたので、できれば連れて行きたかったのだが、狩猟はわれわれの旅行中かたく禁じられていた。≫(『江戸参府紀行(シーボルト著・斎藤信訳、東洋文庫87:平凡社)』p12)  】
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川原慶賀の世界(その二十七) [川原慶賀の世界]

(その二十七)「シーボルトの三部作/『日本』/『日本動物史』/『日本植物史』」と「川原慶賀の『人物・道具・植物・動物』図譜」周辺

シーボルト『日本』.png

SIEBOLD, P. F. von Nippon 3 Bde. Leyden, 1852.
シーボルト『日本』
https://www.kufs.ac.jp/toshokan/gallery/ger31.htm

『ドイツの医者・博物学者として有名なフィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(Philipp Franz von Siebold, 1796-1866)は、バイエルンのヴュルツブルクに生まれ、1820年に同地の大学を卒業して博士の称号を得た。 1822年、オランダ東インド会社の衛生官となり、翌1823(文政6)年に長崎出島商館の医師として来日。 到着後、日本の医学と博物学の研究を始めると共に日本人の診察もおこない、有名な鳴滝塾を設けて多くの日本人を教えた。
 1826(文政9)年、商館長に従って江戸に参府したが、その道中多くの医者や本草(薬学)学者に会い知見を広めた。 1828(文政11)年の帰国にあたり、我が国の国禁を犯して高橋景保より受け取った地図などを携行しようとしたことが発覚し(所謂シーボルト事件)、翌年日本を追放されて本国に帰った。 しかし、1859(安政6)年に再び来日して、1861(文久元)年には徳川幕府の外交顧問となったが、翌年ドイツに戻りミュンヒェンで没した。
 本書は1852年に出版されたドイツ語版の初版本で、テキスト1冊、図版集2冊よりなっている。 テキストの内容は7編に分けられ、1編には日本の数理及び自然地理、2編には国民と国家、3編には神話・歴史、4編には芸術と学問、5編には宗教、6編には農業・工業及び商業、7編には日本の隣国及び保護領に関しての記述がなされている。
 なお、高橋景保が寄贈した精密な日本図(伊能忠敬実測)や北海道図を折込み、地形断面図や江戸・京都のパノラマ式スケッチを掲載しているなど、当時としては優れた地誌的著作ということができる。』(「京都外国語大学・図書館」)

シーボルト編 『日本動物史』 全5巻.png

SIEBOLD, Philipp Franz von  Fauna Japonica 5 vols. Leiden, 1833-1850.
シーボルト編 『日本動物史』 全5巻
https://www.kufs.ac.jp/toshokan/gallery/france17.htm

『本書の副題にもあるように、シーボルトがバタビア総督の命令を受けて在日期間中に動物を対象とした資料を収集し、ラテン語とフランス語による注記とスケッチで著したものである。全五巻からなり、「哺乳動物」、「鳥類」、「爬虫類」、「魚類」、「甲殻類」の五篇に別れ、各巻共に大型の図版を伴っている。それぞれの巻を作るにあたって、シーボルトの指揮のもとライデン博物館のコンラート・ヤコブ・テミンク他二名の専門家が分類と編纂にあたった。』(「京都外国語大学・図書館」)

シーボルト編 『日本植物史』 全2巻.png

SIEBOLD, Philipp Franz von  Flora Japonica 2 vols. Leiden, 1835-1870.
シーボルト編 『日本植物史』 全2巻
https://www.kufs.ac.jp/toshokan/gallery/france18.htm

『本書もシーボルトが日本で採集し、スケッチした植物を図版化しラテン語とフランス語で解説を加えた大著である。全二冊からなり、ミュンヘン大学教授のヨーゼフ・ツッカリーニが編纂に加わっている。第一巻は観葉植物と有用植物からなり、第二巻は花木や常緑樹や針葉樹が収められ、この二つの巻を通して百五十の図版が収められている。なお、シーボルトが編纂の途中で死去したことから、ライデン国立植物園長のフリードリッヒ・ミクエルという人物が事業を引き継ぐなど、刊行計画が変更された。』(「京都外国語大学・図書館」)

 ここで、上記の「シーボルト『日本』」の周辺に関しては、下記のアドレスなどで触れてきた。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-08-01

 そして、その「シーボルト『日本植物史』/『日本動物史』」の周辺に関連しては、下記のアドレスで、次の図などを紹介してきた。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-09-14

(再掲)

【 (その八)「川原慶賀の動植物画」(シーボルト・フイッセル:コレクション)周辺

川原慶賀の植物画.png

上図(左から「ムクゲ」「クチナシ」「ナノハナ」「カキツバタ」「スイカ」)
下図(左から「タンポポ」「フクジュソウ」「ケシ」「キリ」「サツキ」)
川原慶賀筆 ライデン国立民族学博物館

http://www.nmhc.jp/keiga01/kawaharasite/target/kgdetail.php?id=762&cfcid=115&search_div=kglist

●作品名:ムクゲ ●学名/Scientific name:Hibiscus syriacus
●分類/classification:植物/Plants>アオイ科/Malvaceae

●作品名:クチナシ ●Title:Common Gardenia
●学名/Scientific name:Gardenia augusta
●分類/classification:植物/Plants>アカネ科/Rubiaceae

●作品名:ナノハナ ●Title:Rapeseed
●学名/Scientific name:B.rapa var.nippo-oleifera
●分類/classification:植物/Plants>アブラナ科/Brassicaceae

●作品名:カキツバタ ●学名/Scientific name:Iris laevigata
●分類/classification:植物/Plants>アヤメ科/Iridaceae

●作品名:スイカ ●Title:Water melon
●学名/Scientific name:Citrullus lanatu
●分類/classification:植物/Plants>ウリ科/Cucurbitaceae

●作品名:タンポポ ●Title:Dandelion
●学名/Scientific name:Taraxacum
●分類/classification:植物/Plants>キク科/Asteraceae

●作品名:フクジュソウ ●Title:Far East Amur adonis
●学名/Scientific name:Adonis amurensis
●分類/classification:植物/Plants>キンポウゲ科/Ranunculaceae

●作品名:ケシ ●Title:Opium poppy
●学名/Scientific name:Papaver somniferum
●分類/classification:植物/Plants>ケシ科/Papaveraceae

●作品名:キリ ●Title:Empress Tree, Princess Tree, Foxglove Tree
●学名/Scientific name:Paulownia tomentosa
●分類/classification:植物/Plants>ゴマノハグサ科/Scrophulariaceae

●作品名:サツキ ●学名/Scientific name:Rhododendron indicum
●分類/classification:植物/Plants>ツツジ科/Ericaceae

 これらの「植物図譜」に関して、『鎖国の窓を開く:出島絵師 川原慶賀展(西武美術館)』では、次のように解説している。
≪ 慶賀の植物図は5冊のアルバムに収められ、全部で340種を数えることができる。直接的には『日本植物誌』に用いられていないが、シーボルトを満足させた慶賀の植物観察図の力量をうかがうことができる。≫(『同書(主要作品解説)』)

川原慶賀の動物画.png

上図(魚介)(左から「クジラ」「ニホンアシカ」「サケ」「ギンサメ」)
中図(魚介・鳥類)(左から「モクズガニ」「カメ」「ライチョウ」「ミヤコドリ」)
下図(動物)「左から「ウマ」「ウシ」「イヌ」「ネコ」「サル」)

●作品名:クジラ ●Title:Whale
●分類/classification:ほ乳類/Animals, Mammals>クジラ目/Cetacea

●作品名:ニホンアシカ●Title:Japanese Sea Lion
●学名/Scientific name:Zalophus californianus japonicus
●分類/classification:ほ乳類/Animals, Mammals>アシカ科/Otariidae

●作品名:サケ ●Title:Impossibe to identify species or genus
●分類/classification:魚類/Animals, Fishes>サケ目/Cetacea

●作品名:モクズガニ ●学名/Scientific name:Eriocheir japonicus
●学名(シーボルト命名)/Scientific name(by von Siebold):Grapsus (Eriocheir)
●分類/classification:節足動物/Animals, Arthropods>エビ目/Decapoda

●作品名:カメ(イシガメ)、クサガメ ●学名/Scientific name:Chinemys reevesii
●分類/classification:は虫類/Animals, Reptiles>イシガメ科/Geoemydidae

●作品名:ライチョウ ●Title:Ptarmigan
●学名/Scientific name:Lagopus mutus
●分類/classification:鳥類/Animal,Birds>キジ目/Galliformes

●作品名:阿州産 ミヤコドリ ●Title:Eurasian Oystercatcher
●学名/Scientific name:Haematopus ostralegus
●分類/classification:鳥類/Animal,Birds>チドリ目/Charadriiformes

●作品名:オウマ ●Title:Horse
●分類/classification:ほ乳類/Animals, Mammals>ウマ科/Equidae

●作品名:オウシ ●Title:Bull
●分類/classification:ほ乳類/Animals, Mammals>ウシ科/Bovidae

●作品名:オイヌ ●Title:Male dog
●分類/classification:ほ乳類/Animals, Mammals>イヌ科/Canidae

●作品名:オネコ ●Title:Male cat
●分類/classification:ほ乳類/Animals, Mammals>ネコ科/Felidae

●作品名:サル ●Title:Monkey
●分類/classification:動物、ほ乳類/Animals, Mammals>オナガザル科/Cercopithecidae

≪ 「魚介」
 魚の図は、2冊のアルバムと1枚の紙片に四種類に描かれたものが23枚所蔵されている。このような魚図の大部分は同じライデンの国立自然科学博物館の所蔵に帰しており、これらの図の一部はすでに『シーボルトと日本動物誌』(L.B.Holthuis ・酒井恒共著、1970年、学術出版刊)で紹介されている。これらの図がいかなる事情でしかも慶賀の手で描かれたかについては、シーボルトが日本を去るにあたって、彼の助手ビュルガー(ビュルゲル)に与えた指示(『前掲書301頁)によって分かる。その手紙の文面はシーボルトが慶賀の写実力をいかに高く評価していたかを証しするものであり、本展出品の諸図(上記が一例))もその一端を示すものである。なお、魚名を墨で仮名書きした和紙が各図に貼付されているが、これも慶賀自身の手になるものと推定されている。(兼重護) ≫(『鎖国の窓を開く:出島絵師 川原慶賀展(西武美術館)』所収「主要作品解説」)

≪ 「鳥」
 鳥の図はすべてフイッセル・コレクションに属している。絹(紙? 27.5t×42㎝)に描かれ、慶賀の朱印が押されている。鳥類は、鑑賞的傾向が強く、いわゆる花鳥画的趣を呈している。鳥籠の中の鳥図が5点含まれているが、これらは細かい線と入念な彩色により、写実的に写しており、これらが実物の観察に基づいて描かれたであろうことを示している。≫(『鎖国の窓を開く:出島絵師 川原慶賀展(西武美術館)』所収「主要作品解説」)

≪ 「動物図譜」
 C&I Honicの透かしのあるオランダ製(ホーニック社製)の紙に著色したもの、横約110㎝、縦約64㎝ の大きな紙も二つ折にして両面(すなわち4頁分)に各頁6頭の動物を描いている(総頭48頭)、日本語めの獣名は貼りこんでものと書きこんだものと両用あるが、ローマ字は全て書きこみで、Oeso(ウソ)、Moesina(ムジナ)など表記されている。≫
(『川原慶賀展―幕末の『日本』を伝えるシーボルトの絵師(「主要作品解説」)』) 】

 ここで、「シーボルト・川原慶賀」関連年表も、下記に再掲をして置きたい。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-09-11

(再掲)

≪「シーボルト・川原慶賀」関連年表 

https://www.city.nagasaki.lg.jp/kanko/820000/828000/p009222.html
(「川原慶賀」関連=「ウィキペディア」)

※1786年(天明6)川原慶賀生まれる(長崎の今下町=現・長崎市築町)。
1796年(寛政8)2月17日、シーボルト、ドイツのヴュルツブルクに生まれる
※1811年(文化8)川原慶賀当時の長崎で絵師の第一人者として活躍していた石崎融思に師事し、頭角を現す。
1820年(文政3)シーボルト、ヴュルツブ、ルク大学を卒業(24歳)
1822年(文政5)シーボルト、オランダの陸軍外科少佐になる(26歳)

1823年(文政6)シーボルト、長崎に来る(27歳)
※慶賀は日本の動植物等を蒐集し始めたシーボルトの注文に応じ、『日本』という本の挿絵のために精細な動植物の写生図を描く。
1824年(文政7)シーボルト、「鳴滝塾」をひらく(28歳)
1826年(文政9)シーボルト、江戸参府(30歳)
※慶賀はオランダ商館長の江戸参府にシーボルトに同行し道中の風景画、風俗画、人物画等も描く。
1827年(文政10)シーボルト、娘いね生まれる(31歳)
1828年(文政11)「シーボルト事件」おこる(32歳)
※シーボルト事件に際しては多数の絵図を提供した慶賀も長崎奉行所で取り調べられ、叱責される。
1829年(文政12)シーボルト国外追放になる(33歳)
※シーボルトの後任のハインリヒ・ビュルゲルの指示を受け、同様の動植物画、写生図を描く。

1832年(天保3)シーボルト、「日本」刊行はじまる(36歳)
1833年(天保4)シーボルト、「日本動物誌」刊行はじまる(37歳)
1835年(天保6)シーボルト、「日本植物誌」刊行はじまる(39歳)
※1836(天保7)『慶賀写真草』という植物図譜を著す。
※1842(天保13)オランダ商館員の依頼で描いた長崎港図の船に当時長崎警備に当たっていた鍋島氏(佐賀藩)と細川氏(熊本藩)の家紋を描き入れた。これが国家機密漏洩と見做されて再び捕えられ、江戸及び長崎所払いの処分を受ける。
※1846(弘化3)長崎を追放されていた慶賀は、長崎半島南端・野母崎地区の集落の1つである脇岬(現・長崎市脇岬町)に向かい、脇岬観音寺に残る天井絵150枚のうち5枚に慶賀の落款があり、50枚ほどは慶賀の作品ともいわれる。また、この頃から別姓「田口」を使い始める。その後の消息はほとんど不明で、正確な没年や墓も判っていない。ただし嘉永6年(1853年)に来航したプチャーチンの肖像画が残っていること、出島の日常風景を描いた唐蘭館図(出島蘭館絵巻とも)は開国後に描かれていること、慶賀の落款がある万延元年(1860年)作と推定される絵が残っていることなどから少なくとも75歳までは生きたとされている。一説には80歳まで生きていたといわれている(そうなると慶応元年(1865年)没となる)。
1859年(安政6)シーボルト再び長崎に来る(63歳)
1861年(文久元)シーボルト、幕府から江戸に招かれる(65歳)
1862年(文久2)シーボルト、日本をはなれる(66歳)
1866年(慶応2)10月18日、シーボルト、ドイツのミュンヘンで亡くなる(70歳≫

 この「シーボルト・川原慶賀」関連年表から、「1823年(文政6)シーボルト、長崎に来る(27歳) ※慶賀(37歳?)は日本の動植物等を蒐集し始めたシーボルトの注文に応じ、『日本』という本の挿絵のために精細な動植物の写生図を描く」のとおり、この二人の出会いは、「1823年(文政6)」に遡る。そして、そのスタートは、「精細な動植物の写生図」、特に、「植物画の写生図」を、シーボルトが、一介の、長崎の町絵師「川原(別姓・田口)登与助(通称)」に描かせたことに始まる。
 これらのことに関連して、下記のアドレスでは、この二人の関係を、次のように指摘している。

http://www.city.nagasaki.lg.jp/nagazine/hakken0611/index1.html

【 (抜粋)

◆シーボルトが見た日本画家・慶賀
 シーボルトは渡来当初から将来『日本植物誌』の出版する際に、慶賀の植物画を中心に活用しようと膨大な量の絵を描かせていたという。文政9年(1826)の2月から7月にかけての江戸参府においても慶賀はシーボルトの従者のひとりとして参加し、旅先の各地での風景や風物を写生した。慶賀はシーボルトの目に映るものを直ちに紙に写し取り、いわばカメラの役割を果たした。当時の文化、風俗、習慣、自然。特に慶賀の描写した植物画は彩色も巧妙でシーボルトを満足させていたという。実際にシーボルトは慶賀に対する評価を『江戸参府紀行』に次のように記している。
《……彼は長崎出身の非常にすぐれた芸術家で、とくに植物の写生に特異な腕をもち、人物画や風景画にもすでにヨーロッパの手法をとり入れはじめていた。彼が描いたたくさんの絵は、私の著作の中で、彼の功績が真実であることを物語っている……》

◆シーボルトが慶賀に与えた目覚め
 慶賀が残した膨大な量の作品は、その内容、作品に熱意からして、単に雇われ絵師が義務的にこなした仕事とは思えないものだという。そこまで、自然物の写生を徹底した科学的態度によっておこなうことになったのは、やはりシーボルトという偉大な存在と出逢ったためだろう。なかでも、シーボルトに同行した江戸参府の経験は大きい。おそらく、道中においてシーボルトの精力的な研究ぶり、また江戸滞在中にシーボルトを訪れた日本人学者達のシーボルトに対する尊敬ぶりと貪欲なまでの知識欲などを目の当たりにして、慶賀の眼ももっと広い世界へと開かれたものと思われている。シーボルトへの尊敬の念が慶賀に新たな意欲をかきたたせ、自分の使命はシーボルトに与えられた自然物をいかにその通りに描くか、ということにあると自覚し、しかも単に外観をそのまま写すのではなく、そのものの学問上の価値を知って描くことが自分に課せられた任務だと気づいたのだろう。『シーボルトと日本動物誌』においてはじめて公刊された慶賀の甲殻類の図53枚は、大部分が原寸で描かれているという。そして、そのほとんどの図版に種名やその他の書き込みが慶賀によってなされているというのだ。彼が単に図を描くだけでなく、日本名の調査や記入にもあたっていたということは、慶賀自身がシーボルト同様に西洋的科学研究に参加しているという意識を持って仕事をしていたということなのだ。やはりシーボルトとの出逢いと指導が慶賀を大きく成長させたということだろう。

◆慶賀とシーボルトの信頼関係
 (前ページで紹介したように)、慶賀は江戸参府の際に長崎奉行所から命じられていた“シーボルトの監視不十分”の罪で入牢している。慶賀は、シーボルトを密かに監視するようなことをしなかったのだ。シーボルトへの尊敬の念、また、シーボルトから自分に向けられた役割と期待。シーボルトと慶賀の間には、雇い主と雇われ絵師という関係以上の感情がいつしか芽生え、心の交流がなされていたのだろう。シーボルトは帰国後も日本に残った助手ビュルゲルと連絡をとり、標本、図版類を送らせていた。ビュルゲルによって送られた図版は、慶賀によるもの。慶賀は、シーボルト帰国後から長崎払いの処罰を受けるまでの約10年間、出島出入絵師として働いていたと考えられているが、ビュルゲルはシーボルト帰国後3年間、日本にとどまっていることから、慶賀は少なくともその期間はシーボルトの仕事をしていたと思われる。その際、慶賀が描いた甲殻類の図(『シーボルトと日本動物誌』に掲載)から、実物通りの写生能力に関して、シーボルトは慶賀に絶対の信頼を置いていて、また、慶賀もその信頼を裏切るようなことをしなかったということがうかがえるのだ。 】(「長崎Webマガジン」所収「長崎の町絵師・川原慶賀」)

川原慶賀が、「一介の、長崎の町絵師『川原(別姓・田口)登与助(通称)』」から、「江戸時代末期の、長崎派の一角を占める『出島和蘭商館医・シーボルトのお抱え絵師』として、その「眼(まなこ)の絵師」に徹するのは、上記の「シーボルト・川原慶賀」関連年表の、「1826年(文政9)シーボルト、江戸参府(30歳) ※慶賀(40歳疑問)はオランダ商館長の江戸参府にシーボルトに同行し道中の風景画、風俗画、人物画等も描く」の、「シーボルトと川原慶賀」の、その「江戸参府」が、決定的な「節目の年」であったということになろう。
 そして、その「江戸時代末期の、長崎派の一角を占める『出島和蘭商館医・シーボルトのお抱え絵師』として、その「眼(まなこ)の絵師」に徹する」ということは、同時に、「川原慶賀の世界」というのは、「◆個性がない個性こそ慶賀の武器(「世界」)」(「長崎Webマガジン」所収「長崎の町絵師・川原慶賀」)ということになる。

(「人物画」)

作品名:皇后.jpg

●作品名:皇后 ●Title:Empress
●分類/classification:人物/Portraits

http://www.nmhc.jp/keiga01/kawaharasite/list/kglist.php?listNo=151

(「武器・武具図)

武器・武具.jpg

●作品名:武器・武具-13  ●Title:Arms
●分類/classification:道具・武器・武具/Tools

http://www.nmhc.jp/keiga01/kawaharasite/list/kglist.php?listNo=152

(「生業・道具図)

百姓の道具.jpg

●作品名:百姓の道具-1 ●Title:Farmer's tools
●分類/classification:生業と道具/Agriculture and Fishery, their tools

http://www.nmhc.jp/keiga01/kawaharasite/list/kglist.php?listNo=143

(「諸職・道具図)

大工道具.jpg

●作品名:大工道具-1 ●Title:Carpenter's tools
●分類/classification:諸職と道具/Craftsmen and tools

http://www.nmhc.jp/keiga01/kawaharasite/list/kglist.php?listNo=144

(絵師の道具)

絵師の道具.jpg

●作品名:絵師の道具 ●Title:Artist's tools
●分類/classification:諸職と道具/Craftsmen and tools

http://www.nmhc.jp/keiga01/kawaharasite/target/kgdetail.php?id=1224&cfcid=144&search_div=kglist

(寺の道具)

寺の道具.jpg

●作品名:寺の道具 ●Title:Buddhist altar fittings
●分類/classification:道具/Tools 

http://www.nmhc.jp/keiga01/kawaharasite/target/kgdetail.php?id=90&cfcid=152&search_div=kglist




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川原慶賀の世界(その二十六) [川原慶賀の世界]

(その二十六)「川原慶賀のアイヌ・朝鮮風俗図」周辺

「蝦夷(宗谷岬)アイヌとその住居」.jpg

NIPPON Ⅶ 第16図 「蝦夷(宗谷岬)アイヌとその住居」(下記の〔352〕)
≪「The Study of Comparing Color Prints in Siebold'NIPPON'」(宮崎克則/九州大学総合研究博物館/九州大学学術情報リポジトリ: Kyushu University Institutional Repository)≫

「蝦夷風俗図巻」.jpg

「蝦夷風俗図巻」(「ライデン国立民族学博物館」蔵)
≪「The Study of Comparing Color Prints in Siebold'NIPPON'」(宮崎克則/九州大学総合研究博物館/九州大学学術情報リポジトリ: Kyushu University Institutional Repository)≫

「ライデン民族学博物館所蔵のパノラマ(巻物)の複製」.jpg

「ライデン民族学博物館所蔵のパノラマ(巻物)の複製」(松前春里,※蝦夷風俗絵巻.1.妻を連れて熊狩りに行くアイヌ.2.二人のアイヌの男性と熊の穴の前で吠える犬)/(PL.VIII. Copiy of a panorama in the Ethn. Museum, Leiden.) ≪「日文研データベース」≫

https://sekiei.nichibun.ac.jp/GAI/en/detail/?gid=GP008028&hid=3896&thumbp=

アイヌ人物図.jpg

左図:「※※アイヌ人物図(男)」川原慶賀画(「ライデン国立民族学博物館」蔵)
右図:「※※アイヌ人物図(男女)」川原慶賀画(「ライデン国立民族学博物館」蔵)
≪「The Study of Comparing Color Prints in Siebold'NIPPON'」(宮崎克則/九州大学総合研究博物館/九州大学学術情報リポジトリ: Kyushu University Institutional Repository)≫

【〔352〕「蝦夷(宗谷 岬) アイヌとその住居」は、宗谷岬のアイヌとその住居を描く。ライデン国立民族学博物館のシーボルト・コレクションに長さ16m・幅30㎝の『※蝦夷風俗図巻』の絵巻があり、後景の人物図が部分的に利用されている。『蝦夷風俗図巻』の作者は、蝦夷地松前在住の春里こと伊藤与昌。落款に「松前 春里画」とあり、「松前」は姓でなく、「松前の住人」という意味である。彼は「藤原」「与昌」「伊藤与昌」「鳳鳴与昌」などの印を用い、ときに「鳳鳴」と署名する。生没年を含め画歴など未詳である(4)。他に川原慶賀が模写したアイヌ人物図(※※)も組み込まれている。『NIPPON』の彩色については、細かい部分での違いはあるが、大きな違いはない。】≪「The Study of Comparing Color Prints in Siebold'NIPPON'」(宮崎克則/九州大学総合研究博物館/九州大学学術情報リポジトリ: Kyushu University Institutional Repository)≫

「蝦夷(松前)アイヌのオムシャ祭り」.jpg

[※353] NIPPON Ⅶ 第17図「蝦夷(松前)アイヌのオムシャ祭り」≪「The Study of Comparing Color Prints in Siebold'NIPPON'」(宮崎克則/九州大学総合研究博物館/九州大学学術情報リポジトリ: Kyushu University Institutional Repository)≫

アイヌの能まつり.jpg

●作品名:アイヌの能まつり ●Title:Aine worshipping a deified bear, Ainu
●分類/classification:蝦夷/Ezo, Hokkaidou
●形状・形態/form:絹本彩色、めくり/painting on silk, sheet
●所蔵館:ライデン国立民族学博物館  National Museum of Ethnology, Leiden
http://www.nmhc.jp/keiga01/kawaharasite/target/kgdetail.php?id=420&cfcid=156&search_div=kglist

【〔353〕「蝦夷(松前)アイヌのオムシャ祭り」は、祭壇に生贄(いけにえ)の熊を飾り、演舞している図であり、「イオマンテ」(熊祭り)である。タイトルに「オムシャ OMSIA」とあるが、誤りである。「オムシャ」は蝦夷地各場所で出先役人に対する拝謁礼のこと、松前藩主への謁見礼は「ウイマム」という。この原画はライデン国立民族学博物館にあり、「千嶋春里」の署名と「藤原」「与昌」の印があり、『蝦夷風俗図巻』と同一人物の作である。シーボルトは『NIPPON』の注記で、原画の入手経路について記している。

 松前の一日本人が描いたオムシャ祭りの絵を、われわれの友人ソシュロから手に入れ、Ⅶ第17図([※353])に模写した。蝦夷のアイヌ人はふつう、秋のある日にこの祭りをする。

「ソシュロ」とはオランダ通詞の馬場佐十郎であり、彼が文化9年(1812)に松前へ出向した際に入手したものである。同じ作者の『蝦夷風俗図巻』も馬場佐十郎を経由してシーボルトの手に渡ったと考えられる。シーボルトはこの画を川原慶賀に描き直させている。それはライデン国立民族学博物館に残っており、下部にあるタイトルにシーボルトの筆跡で「Omsia」と記されている。この時点で間違ったようである。彩色については、慶賀の画に比べて、ゴザの色合いが違うが、かなり忠実に彩色されていることがわかる。他所の『NIPPON』の彩色もほぼ同じである。】≪「The Study of Comparing Color Prints in Siebold'NIPPON'」(宮崎克則/九州大学総合研究博物館/九州大学学術情報リポジトリ: Kyushu University Institutional Repository)≫

「蝦夷(松前)アイヌが貢物や商品を運ぶ」.jpg

[354] NIPPON Ⅶ 第18図「蝦夷(松前)アイヌが貢物や商品を運ぶ」(宮崎克則/九州大学総合研究博物館/九州大学学術情報リポジトリ: Kyushu University Institutional Repository)

【〔354〕「蝦夷(松前)アイヌが貢物や商品を運ぶ」は、「ウイマム」のために松前へやってきたアイヌが、後景にある船から仮設小屋に品物を運び込む図であり、原画は『蝦夷風俗図巻』のなかの一場面である。『NIPPON』の彩色は、小屋のなかの子供のイヤリングを赤色で塗る長崎歴史文化博物館本・慶応大学本と、そうないグループに分けられるが、大きな差はない。】(宮崎克則/九州大学総合研究博物館/九州大学学術情報リポジトリ: Kyushu University Institutional Repository)

「樺太 オロッコとスメレンクル」.jpg

[356] NIPPON Ⅶ 第20図「樺太 オロッコとスメレンクル」(宮崎克則/九州大学総合研究博物館/九州大学学術情報リポジトリ: Kyushu University Institutional Repository)

【〔356〕「樺太 オロッコとスメレンクル」は、北カラフトに住むオロッコとスメレンクル(ギリヤーク)の風俗を、間宮林蔵の『北夷分界余話』の挿絵にもとづいて描いている。『NIPPON』によると、彼らはアイヌと異なり、言語も違うという。定住せずに群れをなして移動する彼らの習俗を描いたこの画の注記として、シーボルトは間宮林蔵のスケッチによったものだと明記している。前景のトナカイを引く2人がオロッコ人。トナカイは干した鮭と穀物、魚の皮製の覆いあるいは敷物を運んでいるという。後景の魚をもった男・揺り板に子供を乗せた婦人・獲物をもった漁師などはスメレンクル人であり、樺太のアイヌが建てるような夏の住居を遠景に描いているという。『北夷分界余話』全10巻を見ると、7・8巻にあるいくつかの挿絵を合体させていることがわかる。川原慶賀が描き直した画があったと思われるが、未だライデンでは見出していない。ただし、シーボルトが長崎奉行に提出した『樺太風俗図』のなかに、慶賀が描いた原画と見られるものが数点あるが、トナカイが描かれていなかったりしており、シーボルトは別の画を入手していたと考えられる。彩色についてはどの『NIPPON』もほぼ均質である。】(宮崎克則/九州大学総合研究博物館/九州大学学術情報リポジトリ: Kyushu University Institutional Repository)

「朝鮮 漁夫の一家」.jpg

「朝鮮 漁夫の一家」(「シーボルト『NIPPON』 図版編(「339・第2冊」)
https://trc-adeac.trc.co.jp/Html/UniversalViewer/4000115100/4000115100100010/NIPPON_02#?cv=126&c=0&m=0&s=0&r=0&xywh=-449%2C-42%2C1896%2C838

シーボルトの未完の大著『NIPPON(日本)』の出版(第一分冊の出版)が開始されたのは、シーボルトがオランダに帰国してから七年後の1832年(天保三)、爾来、その十九年後の1851年(嘉永四)までに第二十分冊を刊行して中断し、1859年(安政六)、シーボルトは再来日したが、その完成を見ずに、1866年(慶応二)に、シーボルトは、その七十年の生涯を閉じることになる。
 そのシーボルトの没後も、その未完の草稿は、シーボルトの遺子(長男:アレクサンダー、次男:ハインリッヒ)が引き継ぎ、その共編で、その『NIPPON(日本)』の第二版の刊行を見たのは、1897年(明治三十)のことで、それは、次の雄松堂刊行の『日本』(全6巻・図録3巻の十巻構成)に引き継がれている。その各巻の構成のとおりとなる。

https://yahan.blog.ss-blog.jp/2022-08-14

https://trc-adeac.trc.co.jp/Html/home/4000115100/topg/theme/siebold/nippon.html

第1巻 第1編 日本の地理とその発見史
    第2編 日本への旅
第2巻 第3編 日本民族と国家
    第4編 1826年の江戸参府紀行⑴
第3巻 第4編 1826年の江戸参府紀行⑵
    第5編 日本の神話と歴史
第4巻 第6編 勾玉
    第7編 日本の度量衡と貨幣
    第8編 日本の宗教
    第9編 茶の栽培と製法
    第10編 日本の貿易と経済
第5巻 第11編 朝鮮
第6巻 第12編 蝦夷・千島・樺太および黒竜江地方
    第13編 琉球諸島
    付録
図録第1巻
図録第2巻
図録第3巻

 上記のとおり、そもそも、シーポルトが意図していた『NIPPON(日本)』というのは、その副題の、「日本とヨーロッパの文書および自己の観察による日本とその隣国、保護国―蝦夷・南千島列島・樺太・朝鮮・琉球諸島―に関する記録集」で、この「第5巻・第11編 朝鮮」そして「第6巻・ 第12編・蝦夷・千島・樺太および黒竜江地方: 第13編・ 琉球諸島」というのは、今に続く、「朝鮮(竹島など)・露西亜(北方四島など)・中国(琉球諸島など)と、これらの、シーボルトの洞察した、「日本とヨーロッパの文書および自己の観察による日本とその隣国、保護国―蝦夷・南千島列島・樺太・朝鮮・琉球諸島―に関する記録集」とは、その根っ子では、深く結ばれているということになる。

(参考一)シーボルト「日本」を読んでみた

http://www.city.nagasaki.lg.jp/nagazine/hakken/hakken1903/index.html


(参考二)「シーボルド事件」(「事件の発端」「事件の露見」「関係者の取り調べと処分」「事件後」)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%83%9C%E3%83%AB%E3%83%88%E4%BA%8B%E4%BB%B6

(参考三)間宮林蔵―「間宮海峡」の発見者で、シーボルト事件の摘発者

(抜粋)「間宮林蔵 日本人としては2番目に樺太が島であることを確認した。樺太地図を作成するが、測量知識が乏しく稚拙。 間宮林蔵の密告がきっかけでシーボルト事件が起こる。隠密。」

http://nippon.nation.jp/Naiyou/MAMIYA/index.htm

【 間宮林蔵による樺太最狭部の検分記録 夷分界余話巻之二 間宮林蔵/述 村上貞助/編 
 シラヌシを去る事凡百六、七十里なる西海岸にウヤクトウ(ワンライとノテトの中間)と称する処あり。是よりして奥地は海岸総て沙地にして、地図中に載するごとく、沼湖の多き事かぞへ得べきにあらず。 此辺より奥地は河水悉く急流のものなく、総て遅流にして濁水なり。其水悉く落葉の気味を存して、水味殊に悪し。 此辺よりして奥地海面総て平にして激浪なし。然れども其地、東韃の地方を隔る事其間僅に十里、七、八里、近き処に至ては二、三里なる迫処なれば、中流潮路ありて河水の鳴流するが如し。 迫処の内何れの処も減潮する事甚しく、其時に至ては海面凡一里の余陸地となり、其眺望の光景実に日本地の見ざる処にして、其色青黄なる水草一面に地上にしき、蒼箔として海水を見ず、其奇景図写すること難し。・・・ ・・・ シラヌシを去る事凡七十里許、西海岸にウショロと称する処あり、此処にして初て東縫地方の山を遠望す。其直径凡廿五、六里許、是より奥地漸々近く是を望み、ワゲー(ラヅカの北三里二五丁〈「里程記」による〉)よりボコベー〔地名〕(ワゲーの北三里二丁〈「里程記」〉)の間に至て、其間僅に一里半許を隔て是を望むと云。島夷東韃に趣く渡口七処あり。シラヌシを去る事凡百七十里許なる処にノテトと称する崎あり〔スメレングル夷称してテツカといふ〕、此処よりして東韃地方カムガタと称する処に渡海す。其問凡九里余を隔つといへども、海上穏にして大抵難事ある事なし。此処よりナッコに至る海路は潮候を熟察して舟を出ざれば至る事難し。前に云ごとく此辺減潮の時に至ては海上一里の余陸地となり、其陸地ならざる処も亦浅瀬多して舟をやるべからず。故に満潮の時といへども海岸に添ふて行事あたわず、能々潮時を考得て岸を去る事一里許にして舟をやると云。
 ノテトの次なる者をナッコといふ〔スメレソクル夷ラッカと称す〕。其間相去る事凡五里許、此処よりして東 カムガタに至るの海路僅に四里許を隔つ。其間大抵穏なりといへども、出崎なれば浪うけあらく、殊に減潮の候、上文のごとくにして、其時を得ざれば舟を出す事あたわず。魚類また無数にして糧を得るに乏しく、事々不便の地なれば、島夷大抵ノテトを以て渡海の処となす。然れども風順あしく又は秋末より海上怒濤多き時は、其海路の近きを便として、此崎より渡海すといふ。ナッコの次なる者をワゲーと称す。其相去る事凡六里許、通船の事亦ノテトよりナッコに至るが如く、能潮候を考得ざれば至る事あたわず。此処よりして東韃ヲッタカパーハと称する処に渡る。其海路稍に一里余許にして、海上穏なりといへども、迫処なれば中流潮路有て急河のごとく、風候に依りて逆浪舟を没する事ありと云。
 ワゲーの次なる者をボコベーと称す。此処よりして東韃ワシブニといふ処に渡海す。其海路亦僅に一里半許を隔て、中流潮路もまたワゲーの如し。ボコベーの次なる処をビロワカセイと称す。ボコベーを去る事凡四里許、此処よりして東鍵の地方に傍ひたる小興に添ふてワルゲーと称する処に渡る事ありといへども、海路凡十里許を隔、且潮時の候又波濾の激起ありて船路穏ならず。ワカセイの次なる処をイシラヲーといふ。其間相去る事凡十五、六里許、是よりして東韃地方ブイロに渡海す。船路凡四里余、中流の潮路殊に急激なるに、此処よりしては漸々北洋に向ひ、此島、韃地の間、里を追ふて相ひらく故に、波濤も激起する事多く、渡海類難なりと云。イシラヲーの次なる処をタムラヲーと云、イシラヲーを去ること凡五里許なるべし〔此処は林蔵が不至処なれば、其詳をしらず〕。此処より東韃地方ラガタなる処に渡る。海路凡八里余ありて、北海の波濤又激入すれば、猶イシラヲーよりブイロに至るが如く難事多しと云。是スメレンクル夷の演話する処なり。凡地勢を概論したらんには前の数条にしてつきぬ。他海底の浅深、泊湾の難易、詳載せずんばあるべからずといへども、共事の錯雑するが為に、此巻只其概論を出してやみぬ。後日沿海図説てふ者を編て其委曲を陳載すべしと云爾。(『東韃地方紀行』東洋文庫484(1988/5)平凡社 P18,P22~P25)  】
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